「北条義時」(その2)
岩田慎平「北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権」の2回目。
昨日は、権門体制論と東国独立論について、おそらく頼朝までは権門体制論で解釈できるのだろうという感想を書いた。
今日は、その後、本書の本来の中心テーマである義時の時代から。
まず北条義時は今まで影が薄かった。
私の記憶では、小学校の社会科では、北条氏で名前が教科書に載っていたのは、時政、泰時、時宗で、義時のことは触れられていなかったと思う。まさに「二代目は影が薄い」わけだ。
本書ではその義時が権力を握る過程が、義時が首謀者ではない場合も含めて説明されている。
まず、比企一族の殲滅は、カリスマ鎌倉殿・頼朝を失ったことが原因とする。
この頼朝が考えていたであろう、比企・北条体制が、頼朝の死により実現せず、これに勝ち残った北条が、鎌倉を動かす権力の中心になるわけだ。武門の唯一者たろうとした頼朝が、平氏や同族を滅ぼしたことが、鎌倉政権において、北条氏によって繰り返されたということになる。頼朝のマネをしたのか。
この後、畠山、和田を滅ぼし、北条氏が鎌倉の実権を盤石のものにすることになる。
次の権力闘争は、もはや北条対他の御家人という構図ではなく、北条氏の中で起こることになる。
それがはっきり表れるのが義時の死後ということになる。
義時が死んだとき、まだ政子が存命で、その一声が重かった。やはり政子は、実質的な鎌倉殿だったということになるようだ。
その鎌倉殿だが、鎌倉殿は将軍である必要はない。
意識したことはなかったが、将軍空位という時代が大半ということだ。将軍という地位は、実際に征夷の行動を行うわけではないから、実力者が箔をつけるものというわけだ。
そして、この構造は執権よりも実力を持つ得宗という存在が出てきて、さらに下方に展開される(執権=得宗というのも多いが)。ただし得宗は位階ではないから、序列に入れることにはならないが。
さらに得宗の下の御内人・内管領が実力者という構図は、「太平記」(1991年)の長崎円喜(フランキー堺)である。
日本国では、トップの下の実力者という構造が、タマネギの皮のようにできるようだ。
こうなると一番権力を持っているのは、内管領の妻かもしれない。
昨日は、権門体制論と東国独立論について、おそらく頼朝までは権門体制論で解釈できるのだろうという感想を書いた。
今日は、その後、本書の本来の中心テーマである義時の時代から。
まず北条義時は今まで影が薄かった。
はじめに
源頼家、足利義詮、徳川秀忠。
近年にはそれぞれ研究が進展したものの、いわゆる武家政権において、二代目は影が薄い。
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そして本書では、北条義時の生涯を、彼が生まれる前の京都政界の動向から説き起こし、さらに貴族社会の特徴やそれとの関わりにも適宜触れていくこととする。
武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうして貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは、鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。
源頼家、足利義詮、徳川秀忠。
近年にはそれぞれ研究が進展したものの、いわゆる武家政権において、二代目は影が薄い。
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そして本書では、北条義時の生涯を、彼が生まれる前の京都政界の動向から説き起こし、さらに貴族社会の特徴やそれとの関わりにも適宜触れていくこととする。
武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうして貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは、鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。
はじめに | |
序 章 伊豆国と北条氏 | |
時政以前の北条氏/保元の乱と東国武士/信西の躍進/河内源氏の凋落 | |
第一章 流人源頼朝と北条氏 | |
流人源頼朝/軍事権門化する平家/後白河院と平家/平家政権の成立/内乱の勃発と関東 | |
第二章 平家追討戰 | |
頼朝挙兵/石橋山の敗北/頼朝の関東制圧/「御隔心なきの輩」/内乱の展開/平家追討戦と北条氏 | |
第三章 幕府草創 | |
平家滅亡後の対立/義経追跡と北条氏/奥州合戦と頼朝の上洛/征夷大将軍源頼朝/頼朝の晩年 | |
第四章 鎌倉殿源頼家と北条義時 | |
後継者頼家/鎌倉殿の十三人/梶原景時失脚/小御所合戦と比企氏滅亡/頼家の失脚 | |
第五章 実朝・政子・義時 | |
実朝の将軍就任/平賀朝雅と牧の方/畠山重忠の滅亡/牧氏事件/幕府の再編 | |
第六章 後鳥羽院政期の鎌倉幕府 | |
後鳥羽院政と実朝/実朝将軍期の幕府運営/和田合戦/合戦の勝者たち | |
第七章 承久の乱 | |
実朝の後継をめぐって/実朝暗殺/摂家将軍の下向/北条義時追討/幕府の勝利 | |
終 章 新たな公武関係 | |
新たな皇統と幕府/義時の晩年/伊賀氏事件/義時後の幕府 | |
あとがき |
本書ではその義時が権力を握る過程が、義時が首謀者ではない場合も含めて説明されている。
まず、比企一族の殲滅は、カリスマ鎌倉殿・頼朝を失ったことが原因とする。
頼朝から厚い信頼を置かれ、頼家を支えることを期待された比企氏と北条氏であったが、頼朝の死後、両氏は鋭く対立するに至った。頼朝の生前は、頼朝という存在が彼らの相互対立を抑止していたのである。そもそも、地縁・結縁などが近接し合う武士は、往々にして対立し合うものなのだ。頼朝を推戴して共存する東国武士たちというイメージは、頼朝の死によって霧消する儚い幻想に過ぎない。北条氏と比企氏が協同して頼家の治世を支えようとした頼朝の構想は、ここに頼家の失脚と比企氏の滅亡という形で破綻したのである。
この頼朝が考えていたであろう、比企・北条体制が、頼朝の死により実現せず、これに勝ち残った北条が、鎌倉を動かす権力の中心になるわけだ。武門の唯一者たろうとした頼朝が、平氏や同族を滅ぼしたことが、鎌倉政権において、北条氏によって繰り返されたということになる。頼朝のマネをしたのか。
この後、畠山、和田を滅ぼし、北条氏が鎌倉の実権を盤石のものにすることになる。
次の権力闘争は、もはや北条対他の御家人という構図ではなく、北条氏の中で起こることになる。
それがはっきり表れるのが義時の死後ということになる。
伊賀氏事件
北条義時には泰時の母、比企朝宗の娘(朝時・重時の母)、伊賀の方(政村・実泰の母)、伊佐朝政の娘(有時の母)などの妻がいたことが知られる。素性のわからない泰時の母、比企氏事件後に離別したとされる比企朝宗の娘ではなく、伊賀の方が義時の正室であったことが知られ、政村も、六郎を称した異母兄の有時より年少でありながら四郎を称している(泰時は太郎を称した)。北条氏は嫡男に四郎という輩行名(出生順を示す通称)を与えるとされていることに照らせば、正妻である伊賀の方の長男である政村は、義時の嫡男であったと見ることもできる。
だが、源氏将軍家の後家としてこれまで御家人たちを束ねてきた政子が、ここでも強力なリーダーシップを発揮し、あらためて三寅を鎌倉殿、泰時を義時の後継者に指名したのである。この政子の意向に表立って反対できる者はいなかった。
また、義時の後継ということについていえば、母の身分や輩行名はともかく、それまでの実績に鑑みて、やはり泰時が優位であった。
北条義時には泰時の母、比企朝宗の娘(朝時・重時の母)、伊賀の方(政村・実泰の母)、伊佐朝政の娘(有時の母)などの妻がいたことが知られる。素性のわからない泰時の母、比企氏事件後に離別したとされる比企朝宗の娘ではなく、伊賀の方が義時の正室であったことが知られ、政村も、六郎を称した異母兄の有時より年少でありながら四郎を称している(泰時は太郎を称した)。北条氏は嫡男に四郎という輩行名(出生順を示す通称)を与えるとされていることに照らせば、正妻である伊賀の方の長男である政村は、義時の嫡男であったと見ることもできる。
だが、源氏将軍家の後家としてこれまで御家人たちを束ねてきた政子が、ここでも強力なリーダーシップを発揮し、あらためて三寅を鎌倉殿、泰時を義時の後継者に指名したのである。この政子の意向に表立って反対できる者はいなかった。
また、義時の後継ということについていえば、母の身分や輩行名はともかく、それまでの実績に鑑みて、やはり泰時が優位であった。
義時が死んだとき、まだ政子が存命で、その一声が重かった。やはり政子は、実質的な鎌倉殿だったということになるようだ。
その鎌倉殿だが、鎌倉殿は将軍である必要はない。
頼朝は、治承四年(一一八〇)に挙兵してから建久三年(一一九二)までは征夷大将軍ではなかったし、それも建久七年頃には辞任したと見られる。すなわち、頼朝の時代に鎌倉殿が将軍であったのは、この間の四年ほどだったことになる。
頼家は建久十年(一一九九)正月に頼朝の跡を継いだが、征夷大将軍就任は建仁二年(一二〇二)だった。先述したように、その翌年の建仁三年九月には出家して征夷大将軍も辞任することになるから、頼家の時代の四年ほどのうち、鎌倉殿が将軍であったのは僅か一年ほどであった。
その次の実朝は、建仁三年(一二〇三)に頼家の跡を継ぐと同時に征夷大将軍に就任し、建保七年(一二一九)正月に亡くなるまで一六年ほどこれを務めた。
実朝の死後は、その母政子が実質的な幕府の棟梁(鎌倉殿)であったと見られるが、政子は征夷大将軍に就任していないから、実朝没後の建保七年正月から嘉禄元年(一二二五)七月に政子が亡くなり翌年正月に九条頼経が将軍に任じられるまでの間、将軍は不在であった。
つまり、頼朝の挙兵から政子が亡くなるまでの四五年間のうち、鎌倉殿が将軍だった期間は合計して二〇年ほどであり、その大部分は実朝の時代であった。
頼家は建久十年(一一九九)正月に頼朝の跡を継いだが、征夷大将軍就任は建仁二年(一二〇二)だった。先述したように、その翌年の建仁三年九月には出家して征夷大将軍も辞任することになるから、頼家の時代の四年ほどのうち、鎌倉殿が将軍であったのは僅か一年ほどであった。
その次の実朝は、建仁三年(一二〇三)に頼家の跡を継ぐと同時に征夷大将軍に就任し、建保七年(一二一九)正月に亡くなるまで一六年ほどこれを務めた。
実朝の死後は、その母政子が実質的な幕府の棟梁(鎌倉殿)であったと見られるが、政子は征夷大将軍に就任していないから、実朝没後の建保七年正月から嘉禄元年(一二二五)七月に政子が亡くなり翌年正月に九条頼経が将軍に任じられるまでの間、将軍は不在であった。
つまり、頼朝の挙兵から政子が亡くなるまでの四五年間のうち、鎌倉殿が将軍だった期間は合計して二〇年ほどであり、その大部分は実朝の時代であった。
意識したことはなかったが、将軍空位という時代が大半ということだ。将軍という地位は、実際に征夷の行動を行うわけではないから、実力者が箔をつけるものというわけだ。
実朝は相対的に弱い鎌倉殿だったから、その箔付けが大事だったのかもしれない。
ところで、「鎌倉殿の13人」では、実朝が、自分は鎌倉殿を引退して、京からしかるべき養子を迎えて鎌倉殿とし、自分が後見するという話になっていたが、この台詞は成立しないだろう。鎌倉殿は実権を握っている人をさす言葉である。
そして、この構造は執権よりも実力を持つ得宗という存在が出てきて、さらに下方に展開される(執権=得宗というのも多いが)。ただし得宗は位階ではないから、序列に入れることにはならないが。
さらに得宗の下の御内人・内管領が実力者という構図は、「太平記」(1991年)の長崎円喜(フランキー堺)である。
このドラマでは執権北条高時は片岡鶴太郎。そして将軍は? 出てなかったんじゃないだろうか。
日本国では、トップの下の実力者という構造が、タマネギの皮のようにできるようだ。
こうなると一番権力を持っているのは、内管領の妻かもしれない。