「北条義時」
岩田慎平「北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権」について。
例年、大河ドラマそのものや、関連書籍のことを書いてきたけれど、今年の「鎌倉殿の13人」ほどいろんな本をとりあげたことはなかったし、NHKはもとより民放でも「鎌倉殿の13人」にちなんだ番組がたくさん放送された。
これは北条義時という人物の魅力ではなくて、時代の魅力だろう。ドラマでも、頼朝は誰が演る、政子は、義経は、というように、時代のビッグネームへの関心が強かったのではないだろうか。それだけ描けるドラマがたくさんあったというわけだ。
種本になるのも、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」と並び、さまざまなエピソードが知られている。
さて、この本は2021年12月出版だから、まさに「鎌倉殿の13人」に便乗した企画なのかもしれない。といって内容が薄いわけでは全然ない。このタイミングでさっと本を出せることは凄いことだと感心する。
そんなことを考えながら読んでいたら、あとがきに正直に書かれていた。
この時代、京都の朝廷に対し、東国の鎌倉政権は独立した権力であるという見方と、そうではなく鎌倉も権門体制の一翼であったという見方があるらしい。
ただ私が思うには、この議論は、頼朝以前は鎌倉政権はないわけだから独立した権力はあるはずがなく、そして鎌倉が実質的に天皇の継承者を決めるようになる承久の乱以後でなければ、東国権力という東西分離という見方はできない。頼朝はこのはざまにあって、頼朝自身はむしろ朝廷を支える武力の一翼、というか唯一の武力を掌握しようとしたものという見方が有力なようだ。
本書は、少なくとも承久の乱までの鎌倉政権は、権門体制の一翼という認識に基づいていると思われる。
こうした歴史観は、後白河院と頼朝の関係を次のように見ることで補強されていると思う。
その頼朝が、後白河の知行国である奥州に攻め入ることは次のように説明されている。
(というか、陸奥国が後白河院の知行国だったこと、それが頼朝の奥州侵攻に影響したとは知らなかった)
頼朝は、朝廷を支える武力の独占を狙い、平氏、競争相手の諸国源氏、そして最後に残った平泉藤原氏をつぎつぎに打ち破ったと総括する説をよく聞くようになった。
そしてそれが成った時、朝廷を支える第一人者となろうとしたのか、それとも東国独立政権を盤石のものにしようとしたのか。
それは北条義時を待つことになる。
例年、大河ドラマそのものや、関連書籍のことを書いてきたけれど、今年の「鎌倉殿の13人」ほどいろんな本をとりあげたことはなかったし、NHKはもとより民放でも「鎌倉殿の13人」にちなんだ番組がたくさん放送された。
これは北条義時という人物の魅力ではなくて、時代の魅力だろう。ドラマでも、頼朝は誰が演る、政子は、義経は、というように、時代のビッグネームへの関心が強かったのではないだろうか。それだけ描けるドラマがたくさんあったというわけだ。
種本になるのも、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」と並び、さまざまなエピソードが知られている。
さて、この本は2021年12月出版だから、まさに「鎌倉殿の13人」に便乗した企画なのかもしれない。といって内容が薄いわけでは全然ない。このタイミングでさっと本を出せることは凄いことだと感心する。
そんなことを考えながら読んでいたら、あとがきに正直に書かれていた。
はじめに | |
序 章 伊豆国と北条氏 | |
時政以前の北条氏/保元の乱と東国武士/信西の躍進/河内源氏の凋落 | |
第一章 流人源頼朝と北条氏 | |
流人源頼朝/軍事権門化する平家/後白河院と平家/平家政権の成立/内乱の勃発と関東 | |
第二章 平家追討戰 | |
頼朝挙兵/石橋山の敗北/頼朝の関東制圧/「御隔心なきの輩」/内乱の展開/平家追討戦と北条氏 | |
第三章 幕府草創 | |
平家滅亡後の対立/義経追跡と北条氏/奥州合戦と頼朝の上洛/征夷大将軍源頼朝/頼朝の晩年 | |
第四章 鎌倉殿源頼家と北条義時 | |
後継者頼家/鎌倉殿の十三人/梶原景時失脚/小御所合戦と比企氏滅亡/頼家の失脚 | |
第五章 実朝・政子・義時 | |
実朝の将軍就任/平賀朝雅と牧の方/畠山重忠の滅亡/牧氏事件/幕府の再編 | |
第六章 後鳥羽院政期の鎌倉幕府 | |
後鳥羽院政と実朝/実朝将軍期の幕府運営/和田合戦/合戦の勝者たち | |
第七章 承久の乱 | |
実朝の後継をめぐって/実朝暗殺/摂家将軍の下向/北条義時追討/幕府の勝利 | |
終 章 新たな公武関係 | |
新たな皇統と幕府/義時の晩年/伊賀氏事件/義時後の幕府 | |
あとがき |
二〇二二年のNHK大河ドラマが、北条義時を主人公とするものに決まったというので、勤務先で開催する古文書講座の題材に『吾妻鏡』を選んでみるなど、私もささやかな便乗を目論んでいた。地元のタウン誌が広報にご協力下さったこともあって、『吾妻鏡』の講座はそれなりの好評を博した。
だがまさか、義時の評伝を依頼されるとまでは思いもしなかった。そういったものは、もっと偉い先生がお書きになるだろう、と思っていたからだ。
だがまさか、義時の評伝を依頼されるとまでは思いもしなかった。そういったものは、もっと偉い先生がお書きになるだろう、と思っていたからだ。
この時代、京都の朝廷に対し、東国の鎌倉政権は独立した権力であるという見方と、そうではなく鎌倉も権門体制の一翼であったという見方があるらしい。
ただ私が思うには、この議論は、頼朝以前は鎌倉政権はないわけだから独立した権力はあるはずがなく、そして鎌倉が実質的に天皇の継承者を決めるようになる承久の乱以後でなければ、東国権力という東西分離という見方はできない。頼朝はこのはざまにあって、頼朝自身はむしろ朝廷を支える武力の一翼、というか唯一の武力を掌握しようとしたものという見方が有力なようだ。
本書は、少なくとも承久の乱までの鎌倉政権は、権門体制の一翼という認識に基づいていると思われる。
そして本書では、北条義時の生涯を、彼が生まれる前の京都政界の動向から説き起こし、さらに貴族社会の特徴やそれとの関わりにも適宜触れていくこととする。
武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうて貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。
武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうて貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。
こうした歴史観は、後白河院と頼朝の関係を次のように見ることで補強されていると思う。
なお、後白河院と頼朝との関係は、対立が強調される傾向があるものの、両者が対立したと見られるのは、義経の処遇をめぐるこのときくらいのものである。基本的に、頼朝は後白河院近臣としての立場を維持し、むしろそれを利用していた。
その頼朝が、後白河の知行国である奥州に攻め入ることは次のように説明されている。
(というか、陸奥国が後白河院の知行国だったこと、それが頼朝の奥州侵攻に影響したとは知らなかった)
義経の逃亡先が平泉であることがはっきりすると、頼朝は平泉藤原氏に対して義経の身柄を差し出すよう圧力を加えた。
平泉藤原氏は内乱初期から頼朝の脅威であり続けてきたのだが、陸奥国は後白河院の知行国であり、平泉藤原氏はそこを現地で管理する在庁官人という関係にあった。つまり頼朝も平泉藤原氏も、後白河院に集約される人脈に組み込まれていたのだ。それに配慮していたのか、頼朝も平泉をただちに攻撃するような素振りは示していない。あるいは、平泉藤原氏の当主である秀衡の後継をめぐって対立の種があることを察知していたのか、これまでも麾下の武士団や地域権力を従属させるときにはまずその内部対立を煽ったように、今後起きるであろう平泉藤原氏の内紛を利用すべく、まずは静観していたのかもしれない。
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実際には奥羽(陸奥・出羽)に隣接する御家人が攻撃の主力を担ったようだが、このとき頼朝は祖先の源頼義の故事を持ち出し、その前九年合戦(一〇五一~六二年)の先例をなぞるようにして平泉藤原氏に戦いを挑んだとされる。頼義の時代に河内源氏の家人となった平泉藤原氏を、私的に処罰するという理屈で、後白河院の制止を振り切ったのだ。
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実際には奥羽(陸奥・出羽)に隣接する御家人が攻撃の主力を担ったようだが、このとき頼朝は祖先の源頼義の故事を持ち出し、その前九年合戦(一〇五一~六二年)の先例をなぞるようにして平泉藤原氏に戦いを挑んだとされる。頼義の時代に河内源氏の家人となった平泉藤原氏を、私的に処罰するという理屈で、後白河院の制止を振り切ったのだ。
頼朝は、朝廷を支える武力の独占を狙い、平氏、競争相手の諸国源氏、そして最後に残った平泉藤原氏をつぎつぎに打ち破ったと総括する説をよく聞くようになった。
そしてそれが成った時、朝廷を支える第一人者となろうとしたのか、それとも東国独立政権を盤石のものにしようとしたのか。
それは北条義時を待つことになる。