「鎌倉幕府抗争史」
何度も書いているが、大河ドラマの功は、とりあげられた人物や事件に関するちゃんとした本(ただし一般向け)が出版あるいは再版されることである。
ドラマそのものを解説する本も出るけれど、それはこの範疇には含めない。
「鎌倉殿の13人」は今までは大したビッグネームでもなかった北条義時が主人公である。それがかえって幸いしたのだろうか、大物武将では山ほどある関連書籍だが、義時についてはそれらに比べて少なかったのではないだろうか。一般向けに義時をとりあげた本を出しても売れないと出版社は考えているのだろう。
それが「鎌倉殿の13人」のおかげだろう、これにあやかった本がいろいろ出た。
私はあやかり出版を批判しているのではない。上に書いたとおり大歓迎である。そして知名度が低い人物が大河にとりあげられるほうが出版活動を豊かにしてくれるのではないだろうか。NHKにはこれからもそういう人物を取り上げてもらったらと思う。
このブログも、おかげで北条義時関連書籍を今までに4冊もとりあげている。本書は5冊目というわけだ。
今までも大河ドラマ関連書籍はとりあげているが、こんなに多くとりあげたことはなかった。
序 殺し合いの時代 | ||
第一章 十三人合議制の成立と抗争の開始 | ||
一 頼家の鎌倉殿継承 | ||
頼朝の子と孫 /頼家の鎌倉殿継承と朝廷の後押し | ||
二 十三人合議制の成立 | ||
頼家、政務を開始 /十三人合議制 /「聴断」の意味 /十三人合議制のメンバー構成 /頼家の反発 | ||
三 安達景盛討伐未遂事件と抗争の幕開け | ||
愛妾を奪われた安達景盛 /政子の一喝 /武門の主従関係 /殺す気はなかったのか | ||
第二章 梶原景時事件と広域武士団 | ||
一 梶原景時事件 | ||
頼朝時代の梶原景時 /陥れる讒言か、冷静な報告か /結城朝光への讒言 /景時弾劾 /景時追放 | ||
二 梶原景時の滅亡 | ||
景時、京を目指す /高橋合戦 /黒幕は北条時政だったのか /頼家の「フカク」 | ||
三 梶原景時の挙兵計画 | ||
戦後处置 /未遂に終わった計画 /その後の梶原氏 | ||
四 後鳥羽院への疑惑 | ||
梶原景時事件の余波 | ||
五 北条時政の遠江守任官 | ||
時政、受領となる /小野田盛長の死 | ||
六 越後城氏の乱 | ||
城長茂、京で兵を挙げる /梶原景時と城氏の関係 /城資盛の挙兵 /鳥坂城攻防戰 /城氏反乱の背景 | ||
七 広域武士団の成立 | ||
御家人の派閥が生まれる | ||
コラム① 私的武力集団としての武士団 | ||
第三章 比企の乱と北条時政の独裁 | ||
一 鎌倉殿源頼家の執政 | ||
頼家の将軍任官 /頼家の治世期間 /頼家の「失政」 /大豪族抑圧策 /頼朝の心遣い | ||
二 阿野全成殺害事件 | ||
頼朝の弟、阿野全成 /全成の「謀反」 /「謀反」への疑問 /頼家の狙い /時政の危機感 | ||
三 比企の乱 | ||
比企尼と比企掃部允 /比企氏一族 /比企氏についての仮説 /比企朝宗・能員の軍事活動 /比企氏と北条氏の比較 | ||
四 北条時政のキャラクター | ||
伊豆時代の北条氏と伊豆武士団 /時政のサバイバル戦略 /優れた交渉能力 /時政の性格 | ||
五 頼家発病と後継をめぐる駆け引き | ||
頼家発病と日本六十六ヶ国惣地頭職の分割 /一幡の弱点 /後鳥羽院政を利用した時政 /時政の主張 /折衷案としての日本国惣地頭職分割 /比企の乱の発端 | ||
六 小御所合戦 | ||
比企氏滅亡 /一幡と若狭局の最期 /その後の比企氏 /比企の乱の余波 | ||
七 源頼家暗殺 | ||
クーデターとしての比企の乱 /比企氏の敗因 /義時にとっての比企の乱 /賴家惨殺 /頼家の遺児たちと政子 | ||
八 後鳥羽院と比企の乱 | ||
第三代鎌倉殿源実朝 /後鳥羽院の厚遇 /後鳥羽院暗躍の可能性 | ||
九 時政独裁と十三人合議制の崩壊 | ||
時政の文書発給状況 /時政の地位 /恐怖の独裁者 | ||
コラム② 武家政権 | ||
第四章 北条義時の台頭と和田合戦 | ||
一 三日平氏の乱 | ||
平賀朝雅の活躍 | ||
二 畠山事件 | ||
義時と政範の任官・叙爵 /北条政範の頓死 /牧方の讒言 /時政の妻、牧方 /二俣川合戦 /父の暴走を咎める義時 | ||
三 牧氏の変 | ||
時政の失脚 /平賀朝雅追討 /時政の動機 /晩年の時政、その後の牧方 /執権に就かなかった義時 | ||
四 宇都宮頼綱討伐未遂事件 | ||
政子の命令を拒絶した小山朝政 /頼綱の出家 | ||
五 大豪族抑圧策と義時の政所別当就任 | ||
義時、政所別当に | ||
六 泉親平反乱未遂事件 | ||
義時の挑発 /幼女の死 /全面対決へ | ||
七 和田合戦 | ||
和田氏について /三浦兄弟の裏切り /義盛、兵を挙げる /実朝邸襲撃 /朝夷名義秀の武勇 /和田方の勝算 /横山党の加勢 /日和る軍勢 /和田方敗退 /執権職の成立 | ||
八 和田合戦後の事件 | ||
重慶殺害 /また一人殺される頼朝の子孫 | ||
第五章 源実朝暗殺と承久の乱への道程 | ||
一 政子の熊野詣 | ||
皇子下向の提案 | ||
二 同床異夢の後鳥羽院と実朝 | ||
実朝のスピード昇進 /同床異夢 | ||
三 鎌倉殿暗殺 | ||
右大臣任官 /頼家の忘れ形見 /事件の前兆 /血に染まる鶴岡八幡宮 /黒幕はいたのか | ||
四 敷かれたレール | ||
後鳥羽院皇子の下向願 /頼朝の甥、殺される /二階堂行光、禅暁を連れ去る /後鳥羽院の対決姿勢 /九条三寅の鎌倉下向 /危険視された源氏嫡流の血筋 | ||
コラム③ 中世国家論について | ||
第六章 承久の乱 | ||
開戦早々の官軍の勝利 /後鳥羽院の目論見 /北条泰時の出陣 /幕府方の大勝利 | ||
第七章 伊賀氏の変と御家人間抗争の終焉 | ||
承久の乱後の義時 /義時の死 /泰時の執権就任と抗争の予兆 /政子の詰問 /伊賀一族の処断 /政子、逝く | ||
結 兵の道の虚実 | ||
あとがき |
鎌倉時代というのは、殺し合いの時代だが、本書は、頼朝死後から、北条泰時が執権となってしばしの安定を見るまでの二十七年を区切って取り上げている。
この後、内部抗争がなくなったわけでは全然なく、泰時死後には争いがちょくちょく発生する。鎌倉末期に近づくと安達一族が滅ぼされた霜月騒動のような大騒動もある。
著者は泰時に肩入れしているのか、泰時の地位を脅かした伊賀の乱の関係者も、地位が安定するとすぐに赦したことなどを評価する。「鎌倉殿の13人」でも登場した北条正村も長じて執権に就くが得宗家を無視したりはしていない。
本記事では、この期間の抗争について、ことこまかくとりあげることはしない。それらの事実経過などを吟味することは歴史家でないとできようはずもない。
それよりも「コラム」という形で書かれている、武士、武家政権についての著者のまとめに注目してみよう。
まず武士の定義について、著者は次のように書く。
武士は平安時代、九〇〇年代(十世紀末から明治時代初期、一八〇〇年代(十九世紀)末まで、九百年ほど日本に存在した。人間界で九百年変わらないものなどあり得ない。 同じ武士でも平安時代・鎌倉時代の武士と江戸時代の武士は、同じく武士であっても、まったく違う。
この点を踏まえて、あえて武士を定義しておく。
英語では武士はウォリアー (warrior 戦士)・ソルジャー (soldier 兵士) と訳される。今一つ違和感があるものの、武士の本質を言い当ててはいる。
つまり、武士とは「戦う人」である。 「誰と戦うか?」と言えば、「人間」である。「戦い」の究極は「殺す」である。武士は「人間と戦って人間を殺す人間」なのである。「殺人者」、「人殺し」である。これが武士の本質である。
だが、 快楽殺人者・強盗殺人犯などなど、殺人者にもいろいろなタイプがあるので、これでは定義にならない。
そこで、日本に九百年間存在した武士の、どの時代にも共通した定義を示す。
まず、武士の組織である「武士団」を定義する。
・武士団=血縁及び私的主従関係を根幹とする戦闘組織 わかりやすく言い替えると「血のつながりと個人的な主人と従者(家来、家臣)の関茶によって作られている戦うための組織」である。
次に、武士を定義する。
・武士=武士団の構成員である戦闘員
英訳なら「warrior (戦士)」が一番近い。
この武士団と武士の定義は、私の定義である。よって、歴史学界の共通見解ではない。だが、この定義であれば、平安時代から明治時代までのすべての武士に当てはまると考えている。
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武士の定義に関しては、よくその形成過程と関連して(ごっちゃになって)語られることが多いように思うけれど、著者のこの構造的な定義はなるほどと思う。武士団に着目して武士を定義するのはなかなかの着眼だと思う。
数学で、たとえば位相空間を定義するときに、かくかくの性質を持つ(開)集合族が存在する、というやりかたがとられるのに似ている。
武士の形成というような歴史的な意義は捨象した定義である。そしてこの定義であれば、やくざの集団もまた武士団であり、やくざは武士である。
(著者はたびたびマフィアのファミリーに類似と書いている)
あわせて武士と貴族について次のとおり注意している。
次に、貴族と武士の関係について記す。
未だに、たとえば、「源頼朝は武士か? それとも貴族か?」というような質問を耳にすることがあるが、これはそもそも問題の設定自体がおかしい。
貴族と武士は、二者択一の対象ではない。 源頼朝は「武士であり、かつ貴族」なのである。
貴族の定義は「位階を持っている人」であり、武士の定義は「武士団の構成員である戦闘員」である。
源頼朝の家は諸大夫層に属し、貴族社会では中の下程度であるが、それでも貴族の家柄である。実際、頼朝も十三歳で叙爵し、右兵衛権佐という官職に任官している。よって、頼朝は当然のことながら、貴族である。
そして、頼朝の家は清和源氏の中の河内源氏系の武士団の棟梁(大ボス。大親分)の家であり、よって頼朝は当然のことながら武士である。
こういうことなので、源頼朝は「武士であり、かつ貴族」なのである。
つまり、「ふだんどのような仕事をしているか?」、わかりやすく言えば「何で喰っているか?」とか、「社会的身分が、どのようなものか?」とか、「貴族であるのか? ないのか?」などは、武士たる資格にとって無関係なのである。
武士は、「血縁及び私的主従関係を根幹とする戦闘組織」であるところの「武士団の構成員である戦闘員」だから、武士なのである。
これもまた明解である。これは武士を構造的に定義したことで明解になったのだと思う。
こういう論理運びに対しては、それで歴史の何を解明したのかという批判もあると思うけれど、宗教論争に陥らず、史実を正しくとらえるには、こういうアプローチは有効だと思う。
前述の位相空間の定義もそれだけでよしあしを議論するのではなく、それによってどれだけの数学的成果が展開されるのかによって、定義の意義が評価される。(というか、発展した理論を整理できる定義として生まれたのだと思うけど)
このような論理運びは、中世国家論でも明解である。
現在、 「中世日本がいかなる国であったか」という中世国家論については、①黒田俊雄氏「権門体制論」、②佐藤進一氏「東国国家論」、③五味文彦氏「二つの王権論」の三学説がある。
各学説を簡単に紹介すれば、次のようになる。
①権門体制論
日本中世の国家支配機構は公家(天皇家・摂関家以下)・寺家(+社家 延暦寺・興福寺をはじめとする大寺社)・武家(幕府)など複数の「権門的勢力」の相互補完と競合の上に成り立っていたとする。
この学説では、天皇は、天皇家という権門の主要な一員であるとともに、諸権門の頂点に立つ国王であるとされる(黒田氏一九七五など)
また、この学説の基本である「権門」について、黒田氏は「政治・社会的に権勢を持ち、荘園支配など家産的経済を基礎とし、[中略]家政機関と家司を持ち、下文、奉書など基本的に同一様式の文書を発給し、多少とも私的武力を備えた門閥集団」(黒田俊雄「権門体制」『日本史大事典』2、平凡社)と定義している。
つまり、中世の日本では、国王である天皇の下に権門が結集し、時には相互に対立しつつも、それぞれの役割を果たし、総体として支配層を形成していたとするのである。この学説は、権力だけでなく権威をも含めた形式をも重視した考えである。
②東国国家論(東国政権論)
中世の朝廷を律令国家の変質形態「王朝国家」とし、その成立を「十二世紀初中期」とする。これに対し、鎌倉幕府は「東国に誕生」した「新興の領主層武士集団を支配者とする政権」とされ、これを「中世国家の第二の形」とする(佐藤氏一九八五)。 この学説は、権力の所在を追究した実質重視の考えである。
これが「東国国家論」「東国政権論」と呼ばれる佐藤氏の学説である。ただし、佐藤氏は鎌倉幕府を「中世国家の第二の形」とは記しているが、鎌倉幕府については「政権」と記し、直接的に「国家」とは記していない。
③二つの王権論
朝廷と鎌倉幕府を同じく「王権」とし、朝廷と鎌倉幕府を「京・鎌倉の王権」、鎌倉幕府を「東国の王権」、源頼朝を「東国の王」とするのが、五味氏の学説(同氏二〇〇三) である。
鎌倉幕府を朝廷と同じ「王権」とするので、東国国家論の学説であるが、鎌倉幕府を「王権」、鎌倉殿を「王」とする明快な考えである。
権門体制論については、たとえば伊藤正敏「寺社勢力の中世」の記事でもとりあげた。
それに対し、本郷和人「乱と変の日本史」では、「源平の争乱の本質は源氏vs.平氏ではなく、武士の存在を問う戦い、すなわち東国国家論vs.権門体制論だったからです。当時の武士たちの「オレたちの政権を作りたい」という願いを理解・実行した頼朝が勝利するのは当然でしょう。」とあるように、「オレたち」の国をつくりたいというところに注目し、それを東国国家としたものだと思う。
本書の著者は①権門体制論を支持している。それは国家というものの定義(国民・領土・統治権)に沿って考えれば、鎌倉幕府には、支配の及ぶ場所はあっても、国の範囲として東国とは考えていない、つまり領土という感覚はなかったとしているのが理由のようだ。
そして、この古代・中世日本の「王」・「皇帝」、君主=統治権者が天皇であると考えられていたことも、同じく解説編で述べた。
日本国の領土は「東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島、南は紀伊熊野山、北は越後の荒海」であり、その君主=統治権者は天皇であるということは、古代・中世日本に生きた人々にとっては常識であって、疑問の余地はなかった。つまり鎌倉幕府自身が自分たちを「国家」と認識していなかったのである。
「国家」自身に「国家」の自覚がなく、その「国家」の構成員もその「国家」の「国民」という自覚が存在しない 「国家」というものを想定することは出来ない。
「東国国家」は存在しなかったのである。
なるほど著者の定義、そして国家の定義からすれば、東国「国家」はない。
というか、そもそも幕府や領主たちには、国民という感覚があったのだろうか。撫民政策というのは北条時頼あたりからのものという。
民のことを考えるということでは平安貴族もアヤシイかもしれない。
天皇はといえば、仁徳天皇は民のことを考えたと伝えられるし、現代の天皇も毎日全国の平安を祈っている。
つまり東国・西国と分けて考えたふしは、朝廷にも幕府にもない。だから領土意識が付着した国家意識というのは、朝廷にも幕府にもなかっただろう。
日本で東国国家ができるとしたら、戦後、ソ連にも本土進攻され、東西日本として、ドイツのように分割されてたらだろう。
ではあるけれど、「オレたちの東国」という意識もまたあったに違いない。
一方、朝廷の権威や律令の枠組みに、東国もまた位置づけられたことも間違いない。
私は権門体制論と東国国家論を対立するものと考える必要もないように思う。