『民主集中制』の党規約の意味するもの』
>『共産党については、とある住民運動に最初は熱心に参加していた党員が、ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまったことを覚えています。』
ブログ読者氏が実体験された>『ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまった』<
の話とは、多分いわゆる共産党規約の『民主集中制』の一番悪い側面が出たのではないでしょうか。?
何かの上からの『決定』(判断)が出された場合には『何かが可笑しい』、たぶん『間違っているかも知れない』と思っても、決定を覆して『自分の判断に従う』との行動が出来ないのですよ。
上の決定と自分の判断とが真正面から対立した場合に、最悪離党とか除名覚悟で無いと自己の信念を貫けない悪しき数々の前例があるのですから、普通は間違いなく決定(判断)は実行されます。
それが『民主集中制』の弊害なのですが逆の見方からすれば、これほど幹部に都合が良い(やりやすい)制度も無いのですよ。
だから本来の意味が完全に無くなったにもかかわらず今でも堅持されているのです。
『本当の政党の意味 民主集中制の意味』
今の日本国では『政党』の意味は政治団体以上の意味を持っていませんが、実は昔はそうではなかったのですし、今でも外国ではそうでは無いところの方が多いのです。
何故日本共産党が民主集中制を綱領(規約)に残しているかの理由が、実は誰も今の党幹部は正しく理解していないのです。
共産党は民主集中制の説明で、『みんなで民主的に決めたことはみんなで守る必要があり、党で一たん決めた決定を守るのだ』と説明していますが、そんな説明で誰が納得しますか。?
馬鹿馬鹿しい。
それは単なる民主主義の原則ですよ。
何故わざわざ民主集中制の原則などと小難しく理解不能な別な言葉で言う必要があるのか。
理由が何処にも無いのですよ。
実は今の日本共産党には『民主主義』の部分はあるが、何処を探しても『民主集中制』の部分は残っていないのです。
実体は何も無いが、大昔の死んでしまった実体の無い言葉だけが今も残っているのです。
この『言葉』は残っている方が、今のように大失敗を繰り返しても簡単には責任問題にはなりにくいので、多少は幹部の利益にはなるのですね。
では本当の民主集中制の意味とは何か。?
実はクラウゼヴィッツが戦争論で『戦争(軍事)とは政治の延長である』(政治=戦争)と名言を残しているのですが、それなら必然的に政治組織の政党とは、そもそも軍事組織でもあるのです。
議会制民主主義(代議制度)が進化している西欧や日本では軍事組織としての政党は何処にも残っていないのですが、その代わりが文民統制の原理であるのです。
しかし、世界では民主主義の発展段階のレベルにより今でも軍事組織と一体である政党はいくらでもあるのです。
例えばレバノンの左派イスラム教ドルーズ派進歩社会党や、右派キリスト教マロン派ファランヘ党や、有名なイスラム教シーア派原理主義のヒズボラ(神の子党)などは政党の性格よりも軍事組織の性格のほうが強いのです。
戦争を行っているイラクやアフガン何か、まるっきり政党と軍事組織は一体で不可分です。
勿論欧州でも昔は事情は全く同じで、共産党は社会民主党左派として誕生したが准軍事組織としての性格が昔には必ずあったのです。
ドイツのスパルタカス団やフランスやイタリアの共産党のレジスタンス組織、ファシストのフランコ軍と戦ったスペイン共産党やドイツ軍と戦ったユーゴのパルチザンなどは政治組織としてよりも軍事組織としての性格の方が強かったし、中国共産党と国民党との二度にわたる国共合作や国共内戦を思い出してください。
政党とは、『政治組織である』と同時に『軍事組織でもあった』との歴史的な事実が思いだされるはずです。
政治結社は組織原則は基本的に民主主義なのですが、軍事組織は組織原則が違い何処の軍隊でも中央集権なのですね。
だから1世紀近い長い歴史がある日本共産党の綱領には、大昔の化石的な言葉である民主集中制が残っている。
『民主集中性』の言葉の意味とは、尻尾が無い人類にも自分自身のご先祖様(猿)の尻尾の名残の尾骶骨があるのと、まったく同じ意味であるのです。
これは言うまでも無く当たり前ですが、今では『言葉』の持つ本来の『実体』(軍事的意味)は全く無いのです。
しかし、それにしても共産党という組織は天皇独裁の帝国主義時代に翻訳された『プロレタリア独裁』の用語を敗戦後の民主主義全盛の時代に変わった後でも、何十年も使い続けて自分自身(共産党)に大打撃を与えたように、一度決めた用語はいくら問題があっても使うことを決して止めないのですよ。
『88年前の自縛』
今の共産党組織の問題点を簡潔に言うと『民主集中制』の問題に集約されるのではないでしょうか。?
何故現在の日本共産党は民主集中制にこだわるのか。?
なぜ用語として誰にでも判りやすい『民主主義』だけではいけないのか。?
>『集団的に検討、その決定に参加した人々は決定を全面実践する責任がありますよね。』<
などと苦しい言い訳をするが、それは民主主義の基本的原則です。
民主集中制などでは決してありません。
検討段階で反対であっても実践段階では決定に従がうのは民主主義の基本原則であって、あらためて民主集中制などと言う必要性はまったくありません。
ではなぜ共産党幹部は民主集中制にこだわるのか。?この言葉は前半の民主主義ではなく、本音は後半の集中制にこそ其の本当の重要性があるのではないか。?
民主主義は一般党員の利益に、集中制は党幹部の利益になります。
1980年代以降党勢が伸び悩んでいる原因は、集中制の不足ではなく民主主義の不足が原因しています。
それで結果的には自民党などの保守政党に利益を与えています。
(資料)「民主集中制」第20回共産党大会(94.7)抜粋
「民主集中制」という用語は、従来から党大会や中央委員会の決定をはじめ党の文献で正式に使用されていた。
それは、党内部で構成員による民主的な討議をおこなって総意を反映すべきこと、同時に、民主的討議をおこなったうえで党内の総意を集約することが必要であり、それは最終的にしかるべき機関での多数によることを明らかにした。
組織において、「民主」と「集中」とは矛盾しているかのようにいう議論があるが、国民に責任を負う大衆的な政党において、党員の総意を結集し党の意思を決定する大会等の機関やそれを日常的に実行していく民主集中制をただしく運用するためのは、組織的には、自由分散主義と官僚主義の双方を排することが必要であり、党員も党機関も、不断の教育・学習によって政治的自覚、党員が党に参加した自発的意思を強化向上させ、思想的、理論的、政治的水準を高めることが重要である。
それによって、民主的討議も充実し、決定を我流でなく正しく理解して実行する真の集中も保障される。
>『共産党については、とある住民運動に最初は熱心に参加していた党員が、ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまったことを覚えています。』
ブログ読者氏が実体験された>『ある日突然手のひらをかえすように引き上げてしまった』<
の話とは、多分いわゆる共産党規約の『民主集中制』の一番悪い側面が出たのではないでしょうか。?
何かの上からの『決定』(判断)が出された場合には『何かが可笑しい』、たぶん『間違っているかも知れない』と思っても、決定を覆して『自分の判断に従う』との行動が出来ないのですよ。
上の決定と自分の判断とが真正面から対立した場合に、最悪離党とか除名覚悟で無いと自己の信念を貫けない悪しき数々の前例があるのですから、普通は間違いなく決定(判断)は実行されます。
それが『民主集中制』の弊害なのですが逆の見方からすれば、これほど幹部に都合が良い(やりやすい)制度も無いのですよ。
だから本来の意味が完全に無くなったにもかかわらず今でも堅持されているのです。
『本当の政党の意味 民主集中制の意味』
今の日本国では『政党』の意味は政治団体以上の意味を持っていませんが、実は昔はそうではなかったのですし、今でも外国ではそうでは無いところの方が多いのです。
何故日本共産党が民主集中制を綱領(規約)に残しているかの理由が、実は誰も今の党幹部は正しく理解していないのです。
共産党は民主集中制の説明で、『みんなで民主的に決めたことはみんなで守る必要があり、党で一たん決めた決定を守るのだ』と説明していますが、そんな説明で誰が納得しますか。?
馬鹿馬鹿しい。
それは単なる民主主義の原則ですよ。
何故わざわざ民主集中制の原則などと小難しく理解不能な別な言葉で言う必要があるのか。
理由が何処にも無いのですよ。
実は今の日本共産党には『民主主義』の部分はあるが、何処を探しても『民主集中制』の部分は残っていないのです。
実体は何も無いが、大昔の死んでしまった実体の無い言葉だけが今も残っているのです。
この『言葉』は残っている方が、今のように大失敗を繰り返しても簡単には責任問題にはなりにくいので、多少は幹部の利益にはなるのですね。
では本当の民主集中制の意味とは何か。?
実はクラウゼヴィッツが戦争論で『戦争(軍事)とは政治の延長である』(政治=戦争)と名言を残しているのですが、それなら必然的に政治組織の政党とは、そもそも軍事組織でもあるのです。
議会制民主主義(代議制度)が進化している西欧や日本では軍事組織としての政党は何処にも残っていないのですが、その代わりが文民統制の原理であるのです。
しかし、世界では民主主義の発展段階のレベルにより今でも軍事組織と一体である政党はいくらでもあるのです。
例えばレバノンの左派イスラム教ドルーズ派進歩社会党や、右派キリスト教マロン派ファランヘ党や、有名なイスラム教シーア派原理主義のヒズボラ(神の子党)などは政党の性格よりも軍事組織の性格のほうが強いのです。
戦争を行っているイラクやアフガン何か、まるっきり政党と軍事組織は一体で不可分です。
勿論欧州でも昔は事情は全く同じで、共産党は社会民主党左派として誕生したが准軍事組織としての性格が昔には必ずあったのです。
ドイツのスパルタカス団やフランスやイタリアの共産党のレジスタンス組織、ファシストのフランコ軍と戦ったスペイン共産党やドイツ軍と戦ったユーゴのパルチザンなどは政治組織としてよりも軍事組織としての性格の方が強かったし、中国共産党と国民党との二度にわたる国共合作や国共内戦を思い出してください。
政党とは、『政治組織である』と同時に『軍事組織でもあった』との歴史的な事実が思いだされるはずです。
政治結社は組織原則は基本的に民主主義なのですが、軍事組織は組織原則が違い何処の軍隊でも中央集権なのですね。
だから1世紀近い長い歴史がある日本共産党の綱領には、大昔の化石的な言葉である民主集中制が残っている。
『民主集中性』の言葉の意味とは、尻尾が無い人類にも自分自身のご先祖様(猿)の尻尾の名残の尾骶骨があるのと、まったく同じ意味であるのです。
これは言うまでも無く当たり前ですが、今では『言葉』の持つ本来の『実体』(軍事的意味)は全く無いのです。
しかし、それにしても共産党という組織は天皇独裁の帝国主義時代に翻訳された『プロレタリア独裁』の用語を敗戦後の民主主義全盛の時代に変わった後でも、何十年も使い続けて自分自身(共産党)に大打撃を与えたように、一度決めた用語はいくら問題があっても使うことを決して止めないのですよ。
『88年前の自縛』
今の共産党組織の問題点を簡潔に言うと『民主集中制』の問題に集約されるのではないでしょうか。?
何故現在の日本共産党は民主集中制にこだわるのか。?
なぜ用語として誰にでも判りやすい『民主主義』だけではいけないのか。?
>『集団的に検討、その決定に参加した人々は決定を全面実践する責任がありますよね。』<
などと苦しい言い訳をするが、それは民主主義の基本的原則です。
民主集中制などでは決してありません。
検討段階で反対であっても実践段階では決定に従がうのは民主主義の基本原則であって、あらためて民主集中制などと言う必要性はまったくありません。
ではなぜ共産党幹部は民主集中制にこだわるのか。?この言葉は前半の民主主義ではなく、本音は後半の集中制にこそ其の本当の重要性があるのではないか。?
民主主義は一般党員の利益に、集中制は党幹部の利益になります。
1980年代以降党勢が伸び悩んでいる原因は、集中制の不足ではなく民主主義の不足が原因しています。
それで結果的には自民党などの保守政党に利益を与えています。
(資料)「民主集中制」第20回共産党大会(94.7)抜粋
「民主集中制」という用語は、従来から党大会や中央委員会の決定をはじめ党の文献で正式に使用されていた。
それは、党内部で構成員による民主的な討議をおこなって総意を反映すべきこと、同時に、民主的討議をおこなったうえで党内の総意を集約することが必要であり、それは最終的にしかるべき機関での多数によることを明らかにした。
組織において、「民主」と「集中」とは矛盾しているかのようにいう議論があるが、国民に責任を負う大衆的な政党において、党員の総意を結集し党の意思を決定する大会等の機関やそれを日常的に実行していく民主集中制をただしく運用するためのは、組織的には、自由分散主義と官僚主義の双方を排することが必要であり、党員も党機関も、不断の教育・学習によって政治的自覚、党員が党に参加した自発的意思を強化向上させ、思想的、理論的、政治的水準を高めることが重要である。
それによって、民主的討議も充実し、決定を我流でなく正しく理解して実行する真の集中も保障される。
私がわざわざ指摘するまでもなく『この言葉はイメージ的に連想される印象が悪すぎる』と、小学生では無理でも、中学生程度の社会性があれば自分で気が付いて当たり前であると思うのですよ。
『何故気が付かないのか』と、不思議で不思議でならないのですよ。
共産党に対する、一般市民が持つ普通の常識的な判断に対して、えらく感情的な反発が返ってくるのが、もっと不思議ですね。
普通の市民層の支持が無ければ選挙では勝てないのですし、そのためには出来る限り平易な誰にでも理解できる言葉を使うべきなのは常識以前の話ですよ。
民主主義の選挙とは人気投票的な意味があり、イメージが何よりも重視されるのだとの事実が判らないのです。
今回のこの記事の趣旨ですが、
何も共産党の今までの活動や組織原則が悪いとか修正しろとか一言もいっていないのですよ。
主張していることは唯一点で、
この言葉は『共産党』と言う言葉と同じで、『民主集中性』との言葉は、88年前の訳語が時代に合わなくなり今では『差別語』に近いマイナスイメージになっているので時代に合わせて正しく正確な言葉使いをするべきだと主張しているのですよ。
特に問題であるのが今回取り上げた共産党の業界用語である『民主集中制』であるのです。
これは敗戦までの日本の『天皇の統帥権の干犯』と同じで言及すること自体が恐れ多いのですね。
民主集中制に対しては、それ以外以上の感情的な反発が返ってくるのですから全く理論的でない不思議な話です。
今回も早速南北さんから、現在の共産党を中傷しているとの思い込みのコメントが寄せられていますが、コメント内容が『共産党の悪宣伝』になるので、仕方無しに削除して南北劇場に移してあります。
一休宗純氏のいう『上の決定と自分の判断とが真正面から対立した場合に、最悪離党とか除名覚悟で無いと自己の信念を貫けない悪しき数々の前例があるのですから、普通は間違いなく決定(判断)は実行されます。
それが『民主集中制』の弊害なのですが逆の見方からすれば、これほど幹部に都合が良い(やりやすい)制度も無いのですよ。』
全くその通りです。この点に関して、一休宗純氏の意見に異存はありません。民主集中制に対して敗戦後から同党に多くの批判が寄せられてきました。また、現在もそうです。宮城健一氏の「共産党問題、社会主義問題を考える
(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm)」にも多くが記録されています。批判者の視点は様々ですが、中には同党にとっても積極的な意義を持つ考えがありました。しかし、同党は建設的な意見であっても取り入れることはなく、益々かたくなになり、防衛的対峙しているのが現状と思います。批判者の意見を取り入れてより優れた組織になっていく、という生産的、建設的な関係にはなってはいません。そのような歴史を見ると、同党の弱点を集中して批判するのは建設的なのか、と考えてしまいます。
一方、かりに同党が批判者の意見を積極的に取り入れて改革に取り組んだとしたら、どのような末来が待っているのか、と思うと悲観的にならざるを得ません。私の念頭にあるのは西欧最大の組織を誇ったイタリア共産党の経過があります。(イタリア共産党は、左翼民主党→左翼民主主義者になり、さらに他党と合併し、民主党になっていた)そして、(民主党中心のヴェルトローニ連合は、ベルルスコーニ率いる中道右派連合による政権奪還を許した。ただ、民主党は、上下両院とも、33%前後の得票率を獲得し、かつて、イタリア共産党最盛期の得票率に匹敵する前進をした)
(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/italy08.htm)。
組織的に前進したイタリア民主党が、イタリア国民の積極的な生活防衛、再建しているとは思えません。逆にイタリアの労働者階級の武装解除に力を貸したと。
問題はどこにあるのか、資本主義勃興から今日までの人類の歩みを総括すること、私が思うには資本主義発展の歴史の中で、人類が経験した二度の世界大戦、第二次世界大戦以後の米ソ冷戦、そして現在行われているアメリカが主導するテロ戦争、これら人類を突き動かしてきた要因は何なのかを、突き止め国民を動員していく中でしか解決しないのではないのか。私が考えるのは「国境を越えて活動し、国家をも巻き込み国家を超えて活動する、戦争でも何でもありという国際金融資本の規制」が人類にとっても死活的な課題ではないのかと。その課題の実現に同党にも積極的に活動してもらう、その中で積極的な同党の改革が必要ではないのかと、あまりのも漠然としていますが以上が私の考えです。
将来の心配もあるでしょうが現在の様に護憲左派の政党が一桁台の弱小政党に成り果てている現状では如何しようもありません。
毎回毎回定期的に確実に減り続ける社民党は消滅寸前で、
右傾化する日本社会の影響で縮小する護憲左翼陣営の中にあって、
唯一440万票の最後の防衛ラインを死守していた共産党までが今回の参議院選挙で大きく負け越す異常事態なのですから、何らかの抜本的な対策を行う時期に来ているのです。
共産党の敗北原因ですが、一言でいえば『イメージが悪すぎる』のですよ。
今回の選挙結果で判った事実は右翼的な一般市民では無くて元々共産党支持者までが、
『今は良いことを言っている(行っている)が、将来は中央集権的な政治になるかも知れない』と心配しているのですよ。
これでは勝てない。
そしてその原因ですが、これが単なる外部要因(反共宣伝)が関係しているだけではなくて、
共産党=独裁との反共宣伝に手を貸すような内部要因(例えばプロレタリア独裁の用語の使用)を共産党幹部が関係しているのですよ。
今の民主主義全盛の時代に、中央集権を臭わせれば嫌われて当然であるとの感覚が無いのです。
イタリア共産党の教訓ですが、
これ、日本共産党は『民主集中制』の大事さの手本として宣伝しているのですから意図的で巧妙で可也悪質なすり替えですね。
決定段階で意見の相違がでるのは自然なことであり何ら問題ではないし、また多数決で決定された後には、反対意見は保留して全員で決定事項を守るのも民主主義の基本原則です。
党名を変え『民主集中制』を放棄したからイタリア共産党が変質したとの説は為にするこじ付けですよ。
『民主集中制がなくなったから』云々ではなくて、本当は『民主主義を疎かにしたから』が正しいでしょう。
『集中』の不足ではなく『民主』の不足です。
民主主知が疎かにされ一般党員の意見が党の政策に反映されていないのです、
イタリア市民ですが何時の時代でも戦争に賛成する市民層はそれ程多くは無いのですよ。
もっと民主主義を徹底しさえすればNATOのユーゴ空爆に賛成するなどの裏切りは起こらなかったのです。
スターリンや毛沢東、金日成、ポルポトなど世界の共産党の大失敗の教訓でも、数々の問題も全て『民主集中制』が正しく行わなかったからだとの説明であるのです。
話を逆さまに描くにも程が有る。
共産党内部にある『中央主権的』(集中)な体質がこれ等の悪事を止めれなかった最大原因であることは誰にでも判ります。
これ等の共産党の組織原則が『民主集中制』ではなくて『民主主義』であったならば、これ等の数々の悲劇的な巨大な間違いは起きなかったのですよ。
それどころか科学的社会主義(共産党)とそれ以外の社会民主主義政党との違いは、この『民主集中制』の有る無しであるとの説まで唱える連中まで大勢いるのですよ。
それでは、それ程素晴らしい組織原則の『民主集中制』の中身ですが、
日本共産党の文献をどれ程読んでも『民主主義』以外の内容は少しも無いのです。
内容的に全く『民主主義だけ』であるものを日本共産党は『民主集中制』であると殊更に特殊な別の業界用語にして、有権者にまで不信に思われても死守しているのでから困ったもんです。
日本共産党幹部連中ですが、
この特殊な業界用語の『民主集中制』の中身には今では『民主主義』の部分以外の内容が無いことは、良く知っているのですよ。
何しろ高学歴の高偏差値の智的エリートですから、その程度の理解力が無いはずが無いのです。
普通に言語学的に考えれば、
この『民主集中制』とは、民主主義的中央主権制の省略形(略語)であるのですが、実はそうではないのです。
日本共産党にとっては、この民主集中制は、あくまで『民主集中制』であって決して『民主主義的中央集権制』では無いのですよ。
なんとも不思議な話だとは思いませんか。
多分、本当の『民主集中制』だった大日本帝国の時代では共産党の組織原則は『民主的中央集権制』であった可能性があるのですが、残念ながら言葉を見つけることが出来ません。
そして、民主主義全盛の敗戦後には当然のように、不都合な用語である非民主的なイメージのある『民主主義的中央主権性』の言葉は使われなくなるのです。
ですから、党の文献ではどれ程調べても全く無くて『民主集中制』だけなのですね。
これは考えてみれば当たり前で、今では共産党の組織原則では『民主主義』しか残っていないのですよ。
ところが言葉としての『民主集中制』は化石として規約の中にはっきりと残っている。
ですから一部の愚かな党員や幹部達は今でも『民主集中制』が民主主義の意味ではなくて、民主的中央集権制の短縮形(略語)であると誤解している人が出てくる仕組みなのです。
そしてそのために色々な悪しき現象生まれるし、選挙では思わぬ大敗も起きるのです。
考えてみれば何とも馬鹿馬鹿しすぎる話だとは思いませんか。?
プロレタリアートは独裁される側ですね。
単に、党としての意思決定システム、指令命令系統の遵守ということなら、確かに、軍隊と同様ですが、共産党の場合はそれだけではないですからね。
そもそも多様な意見を認めていないのです。
ちょうど、森田進さんがイタリアの話を出してくれたので便乗しますと、実は日本共産党にもユーロコミュニズム派はいるのです。
故上田耕一郎さんなんかがそうなのです。
ところが、これは一部の政治通の間でのみ知られているようなことでして、普通の共産党員は知らないのです。
幹部内で意見の違いは当然あるのですが、党員にはどんな路線論争が行われているのか知らされないし、それに参加することすらできないのです。
なぜ、党員にすら隠そうとするのか。
おそらく、単に幹部の利権ということだけでなく、組織防衛という感覚がこびりついているのでしょう。
つまり、「多様性は力」という思想がまったくなく、路線論争を公開すると分派ができて組織として弱体化すると強く信じているのでしょう。
しかし、その程度が普通の人から見るともはや常軌を逸しており、「どうしてこんなことまで意思統一するの?」と滑稽さを感じられてしまうほどで、おおよそ、政治課題とされる事柄はなんでもかんでも意思統一しなければいけないと考えているのでしょうね。
それなら、いっそのこと、「プロ野球に対しては全員アンチ巨人です」と徹底してくれればよいのに、それはしてくれない。
実は昔、まだ共産党議員の数が多かった頃、全ての国会議員に対して、「プロ野球はどこのファンですか?」というアンケートが行われたことがあったのですが、この時は共産党もなぜか一括回答せず、各議員が個別にちゃんと答えていました。
おそらく、「これは政治課題ではない」と判断したのでしょうね。しかし、私に言わせればこれこそまさに共産党精神、左翼精神が問われる命題なんですが。
で、アンケートの結果ですが、なんと、比率こそ違えど、やっぱり共産党も巨人ファンが一番多かったんですよ。
「今の民主主義全盛の時代に、中央集権を臭わせれば嫌われて当然であるとの感覚が無いのです。」
『民主主義全盛の時代に』ここに括弧をつければ、まったく異存はありません。
「唯一440万票の最後の防衛ラインを死守していた共産党までが今回の参議院選挙で大きく負け越す異常事態なのですから、何らかの抜本的な対策を行う時期に来ているのです。」
はい、その通りです。
「イタリア共産党の教訓ですが、
これ、日本共産党は『民主集中制』の大事さの手本として宣伝しているのですから意図的で巧妙で可也悪質なすり替えですね。」
「党名を変え『民主集中制』を放棄したからイタリア共産党が変質したとの説は為にするこじ付けですよ。」
はい、全くその通りで、異存はありません。
「もっと民主主義を徹底しさえすればNATOのユーゴ空爆に賛成するなどの裏切りは起こらなかったのです。」
一休宗純氏の意見の中で、この点が納得できません。イタリア共産党の後継政党が「NATOのユーゴ空爆に賛成」したことも、日本共産党が哨戒艦天安沈没で見せた不可解な対応も、さらに言えば、世界に存在する共産党・労働者党が立ちいかなくなってきたのも、ひとえにマルクス以後の世界の巨大な変化に対応できなかったからではないのか、何よりも巨大化した国際金融資本に対しどう向き合っていくのか、が問われているのではないのか、と考えます。
今回の民主党代表選での感想ですが、検察権力と結託したマスコミのプロパガンダに対し、いかに私たちが無力であったか。また、先に行われた参議院選挙でも同じようにマスコミのプロパガンダに対しいかに私たちが無力であったか、と。ゆえに、それに対する効果的な対応策が国民の側に求められているのではないのか、と思うのです。
いずれにしろ、民主集中制について、日本共産党への批判ですが、やればやるほど依怙地になるだけで、本当に困りましたね。
そして気をつけないとイタリア共産党のたどった道に誘導されると。
だから望まれるのは『国家をも巻き込み国家を超えて活動する、戦争でも何でもありという国際金融資本の規制」が人類にとっても死活的な課題ではないのかと。その課題の実現に同党にも積極的に活動してもらう、その中で積極的な同党の改革が必要ではないのか』と思うのですが。
哨戒艦天安の事件で、日本共産党の不可解な対応についての一休宗純氏の批判は最も効果的でした。今後もあのような批判を期待しています。
何か、溜め息が出る話ですね。
奇人変人ぞろいの我が友人達ですが巨人ファンなんか一人もいませんでしたよ。
巨人どころかセントラルリーグ優先のマスコミ姿勢に反発してパリーグの球団と応援する念の入れようです。
ソ連崩壊ですが、一番劇的に崩壊したルーマニアはそれ以外の東欧諸国よりも4人に一人ぐらいに共産党員の比率が一番多かったのですよ。
西欧とは大きく違う東欧の劇的な政変ですが、その原因は均質社会だったからでは無いでしょうか。?
均質で無い西欧では政変が起きても劇的では無いが、組織防衛を考えて徹底的に均質化を計ったのですが、これが災いして一気に崩壊したのですよ。
生命の多様化の必要性が今盛んに叫ばれていますが、何も無い平穏な時代では問題ではないが6000万年前の恐竜絶滅の巨大隕石の衝突のような何かの生命の危機の時代には、多様性こそが生残る鍵らしいですね。
金属でも同じ現象があり綺麗に正しく並んだ普通の結晶体ではなくて、不規則なアモルファス金属は強度がとんでもなく大きいのですよ。その逆で結晶体には弱点が必ずあり、その弱点を突けば北斗の拳ではないが一撃でバラバラになるのですね。
そして東欧の弱点とは『個人の民主主義』の少なさと均質な社会構造だったのですよ。
そして、その原因を作ったのは共産党の組織原則の『民主集中制』であったのです。
今の日本共産党の規約やその他の文章の中での『民主集中制』の説明のなかには民主主義の原則以外のの違う原理原則は一言も無いのですよ。
ですから『民主集中制』の意味は、民主主義的中央集権制では決して無いのですが、ところがこの事実を知っている党員は案外少ないのです。
以前の記事のコメントで『共産党の上から目線』の話で盛り上がったのですが、何かの話が衝突した場合にこの『上から目線』と言うか相手を一段下に見下した態度と言うのはネット空間における共産党員全体に言える悪しき特長なのですね。
この上から目線の正体ですが、『自分は真理を知っている』と思っているからなのですよ。
しかも『自分は真理を知っている』程度なら可愛いがこれが進化した『自分だけが真理を知っている』にまで巨大化した連中がネット世界では大勢いるのですからネットウヨの相似形なのですね。
ネット空間では何故こんな不思議なことが起きるのかと思案しているのですが、ネットウヨの場合には苦しく厳しい生活からの現実逃避で自分の持つ劣等感の代償行為なのでしょう。
本当に優越感を持っている人はあのような恥ずかしいことは行いません。
ネットゴロのコミュニストもどきですが、ネットウヨと同じ弱点を持っているのですが、それに加えて共産党独自の弱点も加味されているので余分に異様に見えるのです。
『民主集中制』だと如何しても民主主義の大原則である下からの意見を上に上げるボトムアップではなくて上からの上意下達のトップダウン方式を優先しても誰も疑わないのですよ。
党中央と党員が平等ではないと『上から目線』の考えに日頃から慣れ親しんでいるので、関係ない一般市民に対しても何時もの癖で『上から目線』になるのではないでしょうか。?
党中央と一個人である自分との比較で『常に上が正しい』との思い込みですね。まさに『化石的な言葉である民主集中制』の間接被害ですね。
そしてこれが一番肝心なところですが、この考え方であったとしても『上』が間違わなければ正しく正常に問題なく物事は進みます。
それどころか、この方法が一番高率がよいのですよ。
問題は全て、『上が間違わない』にすべてが収斂するのですが、どうも此の頃は『上が間違っている』らしいのです。
だから20年間も停滞しているし大敗北も起きる。
ひとことで言えば指導者の力量不足ですが、それを行ったのではお仕舞いで、無いものねだりです。
全ての解決方法は民主主義に立ち返り出来る限り大勢の知恵を集める方法しかないのです。
イタリアの問題点も解決方法も、同じでは無いでしょうか。?
ただし、そのような民主主義的な社会には、自由の乱用というべき問題が存在します。 民主集中制のような強制が無い代わりに、自己責任による自由の乱用(馬鹿なこと・社会にとって余り好ましくないことを行う自由、怠惰、強欲、傲慢、等)が起こるというという問題です。
『共産党的な上から目線』の制度では上がまともなら「自由の乱用」の問題が少なくなって良い、ということになりますが、それは封建制に戻れと言っているのと同じなので無理です。 それに、そんな非民主的な社会ではまともな指導者など生まれるはずがありません。 どんな政治制度であっても、指導者や政治家の資質や力量が劣るのは社会(民度や教育)の水準が低いからです。 結局は、教育や啓蒙によって社会の底上げを行う他に手段はありません。