久世家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 03:10 UTC 版)
久世家 | |
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本姓 | 村上源氏 |
家祖 | 久世通式 |
種別 | 公家(羽林家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国平安京 |
主な根拠地 | 山城国平安京 岡山県御津郡 |
著名な人物 | 久世通煕 久世通章 |
支流、分家 | 東久世家(羽林家・子爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
久世家(くぜけ)は、村上源氏久我家庶流の公家、華族の家。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位は子爵[1]。
家の歴史
久我家19代当主の久我敦通(権大納言)の次男通式(右少将)に発する[2][3]。通式が一家を立てて久世と号するようになった[3]。公家としての家格は羽林家、新家、外様[2]。江戸時代の家禄は200石[2][注釈 1]。家業は有職故実[4]。
代々近衛府の役に任じられ、5代通夏以後はいずれも権大納言に昇進した[4]。幕末の通煕は公武合体派として活動して議奏を務めた[4]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生する久世家もに旧公家として華族に列し[5][6]、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として通煕の子通章に子爵位が授爵された[8]。
通章は貴族院の子爵互選議員に2回当選して務め、日露戦争の功で勲四等に叙せられた。また内匠寮殿掌を務めた[3]。その子で爵位を継いだ章業は神官だった[3]。
久世子爵家の邸宅は昭和前期に岡山県御津郡一宮村にあった[3]。
系譜
※ 縦実線は実子、縦点線は養子。
久我敦通 | |||||||||||||||||
久世通式 | |||||||||||||||||
通俊 | |||||||||||||||||
通音 | |||||||||||||||||
経式 | |||||||||||||||||
通夏[9] | |||||||||||||||||
通晃 | 中院通枝 | ||||||||||||||||
栄通[10] | |||||||||||||||||
通根 | 中院通古 | ||||||||||||||||
孝通 | 通理 | 六条有言 | |||||||||||||||
通煕 | |||||||||||||||||
通章 | 琴陵光煕 | ||||||||||||||||
通志 | 章業 | ||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
参考文献
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 久我 コガ クガ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2065頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 倉本一宏『公家源氏―王権を支えた名族』中央公論新社〈中公新書2573〉、2019年12月。ISBN 978-4121025739。
- 橋本政宣 編『公家事典』 吉川弘文館、2010年
- 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成』上巻 霞会館・吉川弘文館、1996年
- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』 東京堂出版、1994年
久世家
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久世 優花(くぜ ゆうか) 声 - 南川のりこ 幸花の姉。久世家の"送り手"だったが、フェイズDに煽られた人間に負傷し死亡した後、自らもフェイズDとなり、妹のそばに付き添っている。 久世 遥(くぜ はるか) 声 - 中澤まさとも 優花の兄だが、"送り手"としての能力は持っていない。優花の死とその後の経緯を機に、家業についての疑問を抱くようになった。 久世 玄果(くぜ げんか) 声 - 上別府仁資 久世家当主で三兄妹の父。"送り手"としては有能だが、現在は一線を退いている。
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