しょうちゅう‐の‐へん〔シヤウチユウ‐〕【正中の変】
正中の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/23 04:51 UTC 版)
正中の変(しょうちゅうのへん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月19日(1324年10月7日)に、後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件。通説では「後醍醐天皇が首謀者であることは幕府側の誰にも明らかであったが、幕府は天皇との対立を避けてうやむやにしてしまった」とされるが、異説も存在する(後述)。4か月に及ぶ幕府の調査の結果、後醍醐と俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けた。しかし、資朝は有罪ともいえないが疑惑が完全には晴れないので無罪ともいえない、として曖昧な理由のまま佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となった。この事件の7年後に元弘の乱が勃発し、9年後に幕府が滅亡することになる。
注釈
- ^ 再構成ではなく、事件の記録者である花園上皇のもとに届いた情報の順序によって説明すると、以下のようになる。元亨4年9月19日(1324年10月7日)朝、幕府への「謀反人」が討たれたという事件が発生した(『花園天皇日記』同日条および裏書)[11]。事件を記録した花園上皇への情報は錯綜しており、謀反人は初め土岐頼貞と思われていたが、次に張本人は「土岐十郎」(土岐頼兼)なる人物で、数人が討ち取られたという続報が届いた[11]。最終的に、頼貞は誤報であり、討ち取られたのは「土岐十郎五郎頼有」(頼兼の子)と「田地味某国長」(多治見国長)の2人であったということが判明した[11]。
- ^ 花園上皇は、万里小路宣房は時顕を恐れて卑屈な態度を取ったので、諸人から嘲弄されたと主張している(『花園天皇日記』10月30日条)[17]。ただし記録者の花園は後醍醐の対立皇統であることに注意する必要がある。
- ^ 元徳元年(1329年)末の幕府の重鎮金沢貞顕の書状には後醍醐の祈祷が「言語道断」とあり、幕府側に幕府調伏の祈祷だと誤解されてしまったのだとする説もある[6]。一方、日本文学研究者の兵藤裕己によれば、当時の語の用法に照らし合わせると、この「言語道断」は、(今回は中宮が本当に懐妊したようであるから祈祷はさぞや)「言い尽くせないほど盛大なのだろう」という意味で、貞顕からの祝意なのではないかという[28]。
- ^ ただし、思想史的には、宋学=朱子学=大義名分論という理解は短絡的である。
- ^ 実際には後醍醐との間に懽子内親王という皇女をもうけている。
- ^ 史実としては阿野廉子が准三后となったのは建武2年(1335年)4月であり、禧子の崩御後である。
- ^ 岡見正雄校注『太平記(1)』(角川文庫、1975年)や百瀬今朝雄の研究[41]によれば、実際の御産御祈は、正中元年事件の後の、嘉暦元年(1326年)以後である[42]。安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする説は、2010年代後半時点でほぼ完全に否定されている(西園寺禧子#『太平記』を参照)。
- ^ 『太平記』流布本ママ。実際は元亨4年(1324年)9月19日である(『花園天皇日記』同日条)。
- ^ 実際は、資朝・俊基は六波羅探題の出頭要請にすぐ応じ、事件発生の9月19日夜に六波羅に出頭している(『花園天皇日記』同日条)[13]。
- ^ 実際に斎藤俊幸(利行)が死去したのは、事件後の嘉暦元年(1326年)5月(『常楽記』)[52]。
- ^ このように『太平記』では事件の決着が付いたのは正中2年(1325年)7月7日以降だが、実際は正中2年(1325年)2月9日までに決着が付いている(『花園天皇日記』同日条)[24]。
出典
- ^ 河内 2007, pp. 304–347.
- ^ 河内 2007, p. 296.
- ^ 河内 2007, p. 291.
- ^ a b 河内 2007, pp. 337, 347.
- ^ a b 河内 2007, pp. 292–293.
- ^ a b c d e f g h 河内 2007, p. 336.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 330–333.
- ^ a b 河内 2007, pp. 334–337.
- ^ a b c d 呉座 2018, § 4.1.3 後醍醐天皇は黒幕でなく被害者だった!?.
- ^ 河内 2007, p. 313.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 307–308, 338.
- ^ a b c d e f g h i j k l 河内 2007, pp. 307–309, 338–339.
- ^ a b c d e f 河内 2007, p. 312.
- ^ a b c d e 河内 2007, pp. 308, 339.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 河内 2007, pp. 310–312, 339–341.
- ^ a b 河内 2007, pp. 311, 339.
- ^ 河内 2007, p. 339.
- ^ 河内 2007, p. 341.
- ^ a b c d e f g h 河内 2007, pp. 312–314, 341–342.
- ^ a b c d 河内 2007, pp. 313–314.
- ^ a b c d e 河内 2007, p. 315.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 318, 342.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 315–316, 342.
- ^ a b c d 河内 2007, p. 316.
- ^ 河内 2007, p. 317.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 315–317, 342.
- ^ 亀田 2017, pp. 19–20.
- ^ a b 兵藤 2018, pp. 83–88.
- ^ a b c d e 亀田 2017, pp. 21–23.
- ^ a b 河内 2007, pp. 336–337.
- ^ 博文館編輯局 1913, pp. 1–3.
- ^ 佐藤 2005, p. 29.
- ^ 佐藤 2005, pp. 114–118.
- ^ 佐藤 2005, pp. 85–87.
- ^ a b c 佐藤 2005, pp. 21–22.
- ^ a b c d e f 博文館編輯局 1913, pp. 4–5.
- ^ a b c 森 2000, § 2.2.4 践祚・即位.
- ^ a b 森 2000, § 3.1.2 後宇多院政の停止と東宮邦良の死去.
- ^ 森 2000, § 3.1.1 「一代の主」と討幕志向の萌芽.
- ^ a b c d e 博文館編輯局 1913, pp. 6–8.
- ^ a b 百瀬 1985.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 306, 338.
- ^ a b c d 網野 1993, pp. 200–202.
- ^ a b c d e 網野 1993, pp. 202–208.
- ^ a b 網野 1993, pp. 208–218.
- ^ a b c d e f 博文館編輯局 1913, pp. 8–10.
- ^ a b 佐藤 1981.
- ^ a b 村井 1997.
- ^ 河内 2007, pp. 319–326, 343–344.
- ^ a b c d e f g 博文館編輯局 1913, pp. 10–15.
- ^ a b c d e f g h i j 博文館編輯局 1913, pp. 15–18.
- ^ a b 河内 2007, p. 338.
- ^ a b c d e 河内 2007, pp. 305–306.
- ^ 河内 2007, pp. 305–306, 338.
- ^ a b 呉座 2018, p. 134.
- ^ 河内 2007, p. 309.
- ^ a b c d e f g 呉座 2018, § 4.1.2 通説には数々の疑問符がつく.
- ^ a b 河内 2007, pp. 305, 307.
- ^ a b c 呉座 2018, § 4.1.4 後醍醐の討幕計画は二回ではなく一回.
- ^ 亀田 2017, pp. 18–19.
- ^ a b c d e f g h i j 河内 2007, pp. 317–319.
- ^ a b c d e f g h i j 河内 2007, pp. 319–321.
- ^ 河内 2007, pp. 319–326.
- ^ 河内 2007, pp. 342–343.
- ^ a b 河内 2007, p. 344.
- ^ a b c 河内 2007, pp. 321–323, 343.
- ^ a b c d e f 河内 2007, pp. 323–325.
- ^ a b c d 河内 2007, pp. 325–326.
- ^ a b c d 呉座 2018, § 4.1.5 打倒鎌倉幕府の陰謀反証文書「吉田定房奏状」への疑問.
- ^ 網野 1993, pp. 202–205.
- ^ a b 網野 1993, pp. 206–208.
- ^ a b c d e f g h 内田 2006, pp. 214–218.
正中の変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「正中の変」も参照 正中元年(1324年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題が天皇の側近日野資朝を処分する正中の変が起こる。公式判決では、後醍醐は無罪として釈放された。 その後、嘉暦元年(1326年)6月からおよそ3年半余り、中宮である西園寺禧子への御産祈祷が行われた。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である西園寺家所生の親王が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている(河内祥輔説)。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている(西園寺禧子#『太平記』)。 邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の尊良親王ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの光厳天皇)だったため、譲位の圧力は強まった。 元徳2年(1330年)には、「法曹一途の碩儒」と呼ばれ、「もし倒幕計画が失敗すれば朝儀は再び塗炭に堕ちるだろう」と関東征伐に反対していた中原章房を、瀬尾兵衛太郎に命じて清水寺参詣の際に暗殺させた。
※この「正中の変」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「正中の変」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。
正中の変と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 正中の変のページへのリンク