慈光寺家とは? わかりやすく解説

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慈光寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/20 08:58 UTC 版)

慈光寺家
笹竜胆ささりんどう
本姓 宇多源氏五辻庶流
家祖 慈光寺仲清
種別 公家半家
華族子爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
京都市上京区
支流、分家 中川家(地下家
凡例 / Category:日本の氏族

慈光寺家(じこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む公家華族だった家。公家としての家格半家、華族としての家格は子爵家。

歴史

鎌倉時代前期の左衛門尉五辻遠兼の次男である宮内権大輔・慈光寺仲清を祖とする。戦国時代の数代は三木を称して伏見宮家に仕えるが[1]、戦国時代末の刑部大輔・慈光寺善仲にて断絶。江戸時代前期に中務権大輔・慈光寺冬仲が再興し、六位蔵人を経て昇殿を許されて堂上家半家)に列せられる[2]。慈光寺澄仲(1713年 - 1795年)が従二位左馬権頭に叙任されて以降、従二位非参議極官となる。江戸時代の家禄は30

明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると慈光寺家も公家として華族に列した[3][4]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 1]として有仲が子爵に叙された[6]

その孫の恭仲は宮内省主殿寮京都出張所殿掌[7]。その子愛仲の代に慈光寺子爵家の邸宅は京都市上京区小山北上総町にあった[7]

系図

脚注

注釈

  1. ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[5]

出典

  1. ^ 『日本人名大辞典』
  2. ^ 『系図纂要』
  3. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  4. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  5. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  6. ^ 小田部雄次 2006, p. 329.
  7. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 328.
  8. ^ 吉野執行の子。
  9. ^ 大原栄敦の子。
  10. ^ 三条西実教の子。

文献

関連項目





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