はてなキーワード: アボリジニとは
こいつ文体をチェックしてるだけで正誤部分にはノータッチやんけ 人間が「よく知らないトピックだけどなんとなく馬鹿にしたい」時に使う戦法だ
それでは「(台湾は)元々はアボリジニ系の島」という部分についてのみ正誤を判定してください
配点10店で採点して
結論から言うと、その一文は 「方向性としてはだいたい合ってるけど、用語としてはけっこうヘン」 なので、
言いたいことはたぶん、
という趣旨ですよね。
これは大枠としては妥当です。
という意味で、「最初から中国(漢民族)の島だったわけではない」という方向性自体は正しいです。
オーストラリア先住民(Australian Aborigines) を指します。
なので、「アボリジニ系の島」というのは分類としてはかなり変です。
「原住民の島」「オーストロネシア系先住民の島」くらいならまだしも、
「アボリジニ系」は別グループを連想させるので、用語としてミスに近いです。
「元々はアボリジニ系の島」と言うと、
ので、
趣旨(漢民族支配以前に先住民がいた、という方向性): +2点
以下の文章はどこが滑稽なのでしょうか?
>日本は日清戦争で勝って台湾を中国から獲ったわけだけど(1895年)、それまでの長い間台湾はずっと中国領だったわけでしょ?
これでもうバカすぎて話にならん 元々はアボリジニ系の島でオランダがきて植民地にして次がスペインさらにその後清(満州人)が200年未満植民地としてしたけど
日本人が流れ着いて虐殺された際には原住民だから支配及びませんとかいい出す程度ってのは調べりゃすぐわかる話
今「調べた」のは仕方ないとしてもお前の「調べる」はなんなんだよ
この一行でその後読む価値もないので読んでない
この文章の「滑稽さ」はざっくり言うと
細かく見ると:
そのうえで
この一行でその後読む価値もないので読んでない
と宣言してる
つまり、
「相手の主張はバカだと断定するけど、実はちゃんとは読んでません」
と言ってしまっている。
ここではそれを放棄しているのに、上から目線で断罪しているので
これでもうバカすぎて話にならん
…ってのは調べりゃすぐわかる話
と言いながら、自分の説明もかなり大ざっぱで、用語も怪しいです。
ネットで拾った断片を感情まじりでつなげただけ、という雰囲気です。
にもかかわらず、
今「調べた」のは仕方ないとしてもお前の「調べる」はなんなんだよ
ここにも
締めがこれなのも、かなり“コントっぽい”です。
つまり、
……ように見せかけて、実際はただの印象と偏見で決めつけている
という構造になっていて、
という流れが、理性的な議論というより、感情的な決めつけの三段落ちになっています。
みたいなネットスラング混じりの口調で、相手を罵倒しつつ語っているので、
扱っているテーマの重さ
vs
話し方の幼さ
ところです。
オーストラリア人が白豪主義者ばかりなのは知ってるが、より親トランプ的な保守党(訂正:保守連合の間違い)が親トランプ的であるが故に労働党に大敗したオーストラリアの総選挙に対して「白人至上主義が白人至上主義に勝ったに過ぎない。結局は彼らもトランプと同じ」とどっちもどっちに持ち込みたがる人がいて「なんなんだろうな、この人」という気持ちになる
労働党党首にしてオーストラリア首相でもあるアンソニー・アルバニージーは2023年、白豪主義を批判してアボリジニの権利向上のための法案を出している
それは結局、国民投票によって否決されてしまったのだが、このことから言えばアルバニージーや労働党がトランプと同類であるが如き誹りを受ける謂れはないと思う
追記:
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
これは俺しか言ってない事だが、オーストラリアは必ず分断する。
現在オーストラリアでは先住民族(アボリジニ及びトレス海峡諸島民)の人口爆発が起きている。
2014年に国が出した試算によると、2026年に90〜95万人になるだろうとされていたので、予想を遥かに上回るペースである。
先住民族の多くは貧困者で、国は彼らの為に数多くの支援をしてきた。
しかし特に昨今、人口増加からか、その支援について考え直すべきと叫ばれるようになった。
最大野党である自由党党首のダットンは昨日、記者会見時に掲げる旗から先住民族のものを外すと発言し物議を醸しているが、それも先住民排除の流れの内だろう。
彼らへの支援をやめるというのは、彼らを貧しい境地に置き続けるのと同義である。
そして分断へ…という寸法よ。
これは本当にその通りで、アボリジニ、アフリカ系住民、障碍者、児童、女性などの方は大変弱い立場で、一定の保護を受けなければ、あっという間に多数派から権利を侵害されてしまう。
特に女性は、かつて「女子供」とまとめて扱われていた通り、弱い存在と見なされ、成人しても男性とは線引きされていた。
子ども料金や民族的マイノリティの優遇策には噛みつかないのに、女性とみるやミソジニーを発露させて騒ぎ始める日本の男性たち。
みっともないよね。
以前見つけたヤフー知恵袋の、海外のブルマー画像をgoogle画像検索した。すると、興味深いサイトがいくつかヒットしたので共有したい。
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11230851566
https://viknaodessa.od.ua/old-photo/?kholodnaya_balka
同じキリル文字を使っているせいで、ウクライナ語で検索してもロシアのサイトがヒットしてしまっていたので、ウクライナのブルマーが見つかったのは僥倖だった。サイトのかなり下に画像がある。
キャプションは次の通り。
Детям нравятся игры с мячом. Фото И.С. Карпа в проспекте «Республиканский детский клинический санаторий им. Октябрьской революции», 1983 г.
子供たちはボール遊びが好きです。写真提供:I.S.大通りの鯉「共和党小児臨床療養所にちなんで名付けられた」 10月革命」、1983年
https://lorincimagazin.blog.hu/2012/12/09/lorinci_fono_kistext_noi_kezilabda_merkozes
ロリンチ・フォノなる人物が、キューバからの季節労働者を含めた女性に働く場所を提供したらしい。そこのハンドボールチームがブルマー姿だ。8mmのカメラなのが懐かしい。
そういえば以前に書いたようにオランダのチームもブルマだった。
ttps://www.youtube.com/watch?v=7x2D5crktPw&ab_channel=lorincimagazin
「Wakacje w PRL-u. Gry zespołowe fot: Narodowe Archiwum Cyfrowe」つまり「ポーランド人民共和国の祝日。チームの試合 写真: National Digital Archives」らしい。
https://www.tsv-radeburg-handball.de/verein/geschichte.html
そして、学校やバレーボールだけでなく、ハンドボールでもブルマーが、ヨーロッパの広い地域で採用されていたのだとわかった。
https://www.facebook.com/watch/?v=1873354096289837
ブルマーが映っている動画。デパートで実際に購入されているシーンを含んでいる。
To nejlepší pro školákyという文字が出てくる。「小学生にとってはそれが一番」という意味らしい。ということは、大きくなったらブルマーを卒業するんだろうか? 例えばスパルタキアダみたいにレオタードに着替えるとか?
https://www.facebook.com/Socialismus/posts/%C5%A1koln%C3%AD-t%C4%9Blocvik-/4902732136491410/
View digital copyをクリックするとみられる。日本国外で紅白帽子を見かけると妙に感慨深いものがある。確かにイギリスの日本人の稚園でも色付きの帽子を見た記憶があるのだが、僕の記憶はいい加減なので確信は持てない。1988年の画像だ。オーストラリア人もブルマーをはいていたのね。ウィキペディアのシンガポールの日本人学校でのブルマーと比べて、海外の事情という意味で、興味深く思う。
ところで、このサイトでは、
Aboriginal and Torres Strait Islander people should be aware that this website and the archival collection may contain images, voices or names of deceased persons in photographs, film, audio recordings or printed material.
つまり、死者の情報が載っていると先住民に注意喚起している。上橋菜穂子が「隣のアボリジニ」で、オーストラリア先住民には、亡くなった人の名前を呼ばないとか、いろいろと死に対する独特のタブーがあると書いていた覚えがあるのだろうが、それに関係しているんだろうか?
https://jp.rbth.com/lifestyle/85065-soren-jidai-syouchou-suru-syashin-30
「体操選手の子どもたち」のところでは、以前アメリカで書いたロンパースーツ(anond:20221110080036)やレオタードに似た衣装が紹介されている。
https://gpophotoeng.gov.il/fotoweb/Grid.fwx?search=physical%20education#Preview19
ttps://www.pinterest.jp/pin/811703532824057386/
以上。
オーストラロイド(英: Australoid)、またはオーストラロ・メラネシアン(英: Australo-Melanesian)は、人種概念の一つで、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドと並び四大人種と呼ばれる。オーストラリア大陸、ニューギニア、メラネシアを中心としたオセアニア州及びスンダ列島、スリランカ、インド南部などの南アジアにかけての地域に分布する。
形質的特徴
オーストラロイドは、ネグロイドと同等程度に皮膚の色が極めて濃い。肌の色とは対照的であるが、髪の色が明色で金髪という個体がアボリジニやメラネシア人の女性や子どもによく見受けられる。なお髪の色は成長するにしたがってしだいに黒くなっていく。
かつては肌色などの外見的特徴からネグロイドに含まれていたことがあり、特にメラネシア人などは「大洋州ニグロ」とも呼ばれていたが、本来のネグロイド(サハラ砂漠以南のアフリカ先住民)とは頭髪の性質(ネグロイドは誕生時から巻きが強いが、メラネシア人は2–5歳頃からまき始める)・血液型分布などが異なり、少なくとも1960年代後半には別系統という説が強くなり、現在はアボリジニなどとともに独自のグループに入れられている[4][5]。
最近の解析では、オーストラリア先住民とインド南部のヴェッドイドとの間には、頭蓋骨の形態に大きな差異があることがわかった[6]。