過去最少のメダル獲得の背景
安原和雄
毎日新聞は特集ワイド欄(08年8月25日夕刊・東京版)で「五輪と日本柔道」と題するテーマを取り上げている。
北京五輪で、男女合わせて過去最少のメダル獲得数7個(金4、銀1、銅2)に終わった日本柔道。一本柔道は消え、「JUDO」に席巻されてしまうのか ― という危機感から組まれた特集である。日本柔道から「道」の精神が失われてきたと指摘されており、共感するところが多い。これは現世をどう生きるかという人生論でもあるので紹介したい。(08年8月26日掲載、同月27日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
日本柔道の今後と課題について山口香さん(筑波大大学院准教授)と藤岡弘さん(俳優、武道家)に聞いている。聞き手は中山祐司記者。
▽極限でも平常心を保つために柔道はある
山口さんは1964年、東京都生まれ。88年ソウル五輪で銅メダルを獲得した。
要旨、以下のように語っている。
今回の結果が日本柔道の実力だろう。選手は柔道が格闘技だということを忘れ、指導者もベテラン選手の調整は選手任せで1日に5試合戦う体力も不足していた。十分な練習や準備があれば自信を持って畳に上がることができる。多くの選手は試合前から自信なさげに見えた。
最近の男子選手は恰好を気にしすぎだ。試合前にヘッドホンで音楽を聴きながらのウオーミングアップ。ヘッドホンをしないと雑音が入って集中できない選手は、畳の上でも集中できるはずがない。
男子100㌔超級の石井慧選手の決勝を除く4試合での一本勝ちは評価する。しかし「勝利にこだわる」という言葉に対して、多くの人は「石井選手には日本柔道の歴史や意義、価値を否定するほどの積み重ねがあるのか」と疑問を持つ。
先達が築き上げてきた日本柔道の伝統の上に石井選手の金メダルはあり、昨日や今日の歴史の上にないことを石井選手には自覚してほしい。今後の人間的な成長に期待する。
このままでは講道館の創始者・嘉納治五郎が広げた日本柔道は尻すぼみだ。勝利は結果にすぎず、武道としての柔道に「勝利にこだわる」精神はない。礼に始まり、礼に終わる。極限でも平常心を保つために柔道があり、その精神は人生にも生かされる。
科学や合理を重視する時代の流れもあるが、日本柔道も武道から離れて競技化した揚げ句、競技でも勝てなくなった。柔道に取り組む姿勢や態度、さらには柔道をする動機や目的など原点から改めて考えるべきでしょう。
〈安原の感想〉
試合前にヘッドホンで音楽を聴きながらウオーミングアップするとは驚いた。これではたしかに畳の上の本番で集中力を発揮できるとは思えない。金メダルの石井慧選手にも手厳しい。「勝利にこだわる」という彼の姿勢に対しての批判である。
山口さんはこう指摘している。
「勝利は結果に過ぎず、武道としての柔道に勝利にこだわる精神はない。礼に始まり、礼に終わる。極限でも平常心を保つために柔道があり、その精神は人生にも生かされる」と。さらに私が興味深く読んだのは「日本柔道も武道から離れて競技化した揚げ句、競技でも勝てなくなった」という指摘である。
勝ちにこだわる結果、かえって勝機を逸する、と理解したい。私は素人囲碁を多少嗜(たしな)むが、「勝とうとして負けを招く」ことを実戦でしばしば経験する。実力のせいでもあるが、「道」の精神を忘れ、「平常心」を失っているからである。ただ「勝敗を超えて勝つ」 ― は「言うは易く行うは難し」である。
▽日本柔道には「日本の心」を再確認してほしい
藤岡弘さんは1946年、愛媛県生まれ。空手、柔道など武道の段位は合計20段の武道家である。要旨、以下のように語っている。
五輪を見ていて悲しくなりました。柔道、剣道、弓道、茶道、華道のように「道」がつくものは、かつては勝利のみを求めるものではありませんでした。己の心の修行、つまり人間力や尊い人格を磨き、自分自身を高めるものでした。相手に謙虚になることで、その人格を示しました。勝利よりも品性、尊い人間性の理想像を見せることで周囲に感動を与えました。
日本のお家芸である日本柔道はその伝統を失ったのではないでしょうか。柔道ではなく「柔(じゅう)スポーツ」ですね。
今の日本柔道は、「勝利の栄光」を己のものだけにしている印象を受けます。「私」を誇り、「俺(おれ)」を誇る。
敗者の振る舞いにも違和感を覚えます。かつては勝者も敗者も互いにおごらず、敬意を表し、感謝する気持ちがありました。今は負けてふてくされる姿をよく見かけます。
「武士道」の著者、新渡戸稲造さんによると、武士道は理想的な人間になるためにあり、倫理観や道徳観をもって「道」としました。人間とはなんぞや、との世界に通じる心です。他人をねたみ、嫉妬(しっと)し、憤怒する心を静めよの精神です。
五輪の精神も、平和を願い、互いの人間を尊重する姿勢とともにあるはずです。勝つために、何をやってもいいとなると、もはや五輪ではない。そこには国家のエゴ、民族のエゴ、人間のエゴが見えます。特に今回の五輪からは、いろいろなエゴが鮮明に見え、ある種の醜さを感じました。私はもっと多くの「真善美」を見たかった。
日本の柔道には「日本の心」を再確認してほしい。「日本の心」とは、伝統や文化、歴史の継承を大事にしながら、品格を持って、国境や民族の壁を超え、世界に貢献することです。
〈安原の感想〉
藤岡さんの「日本の心」論には共感を覚える。特に後段の「品格を持って、国境や民族の壁を超え、世界に貢献すること」である。これは彼の「五輪の精神も、平和を願い、互いの人間を尊重する姿勢とともにある」という指摘と重なってくる。そうでなければならないだろう。
こうも指摘している。「勝利よりも品性、尊い人間性の理想像を見せることで周囲に感動を与える」と。その通りである。これが広く行き渡れば、現世はもっと平穏で平和になるに違いない。こういう感覚はむしろ昨今の政治家や企業人に期待したい。「勝利」、いいかえれば「私利私欲」にこだわり、世は乱れているからである。
さてここでも「謙虚」、「品性」、「理想」、「真善美」、いいかえれば「道」に徹すれば、柔道の世界でどのような道筋で勝利をつかむことができるのか、その極意のほんの一端でも武道家としての藤岡20段にうかがいたい。そこがどうも見えてこないように感じている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
毎日新聞は特集ワイド欄(08年8月25日夕刊・東京版)で「五輪と日本柔道」と題するテーマを取り上げている。
北京五輪で、男女合わせて過去最少のメダル獲得数7個(金4、銀1、銅2)に終わった日本柔道。一本柔道は消え、「JUDO」に席巻されてしまうのか ― という危機感から組まれた特集である。日本柔道から「道」の精神が失われてきたと指摘されており、共感するところが多い。これは現世をどう生きるかという人生論でもあるので紹介したい。(08年8月26日掲載、同月27日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
日本柔道の今後と課題について山口香さん(筑波大大学院准教授)と藤岡弘さん(俳優、武道家)に聞いている。聞き手は中山祐司記者。
▽極限でも平常心を保つために柔道はある
山口さんは1964年、東京都生まれ。88年ソウル五輪で銅メダルを獲得した。
要旨、以下のように語っている。
今回の結果が日本柔道の実力だろう。選手は柔道が格闘技だということを忘れ、指導者もベテラン選手の調整は選手任せで1日に5試合戦う体力も不足していた。十分な練習や準備があれば自信を持って畳に上がることができる。多くの選手は試合前から自信なさげに見えた。
最近の男子選手は恰好を気にしすぎだ。試合前にヘッドホンで音楽を聴きながらのウオーミングアップ。ヘッドホンをしないと雑音が入って集中できない選手は、畳の上でも集中できるはずがない。
男子100㌔超級の石井慧選手の決勝を除く4試合での一本勝ちは評価する。しかし「勝利にこだわる」という言葉に対して、多くの人は「石井選手には日本柔道の歴史や意義、価値を否定するほどの積み重ねがあるのか」と疑問を持つ。
先達が築き上げてきた日本柔道の伝統の上に石井選手の金メダルはあり、昨日や今日の歴史の上にないことを石井選手には自覚してほしい。今後の人間的な成長に期待する。
このままでは講道館の創始者・嘉納治五郎が広げた日本柔道は尻すぼみだ。勝利は結果にすぎず、武道としての柔道に「勝利にこだわる」精神はない。礼に始まり、礼に終わる。極限でも平常心を保つために柔道があり、その精神は人生にも生かされる。
科学や合理を重視する時代の流れもあるが、日本柔道も武道から離れて競技化した揚げ句、競技でも勝てなくなった。柔道に取り組む姿勢や態度、さらには柔道をする動機や目的など原点から改めて考えるべきでしょう。
〈安原の感想〉
試合前にヘッドホンで音楽を聴きながらウオーミングアップするとは驚いた。これではたしかに畳の上の本番で集中力を発揮できるとは思えない。金メダルの石井慧選手にも手厳しい。「勝利にこだわる」という彼の姿勢に対しての批判である。
山口さんはこう指摘している。
「勝利は結果に過ぎず、武道としての柔道に勝利にこだわる精神はない。礼に始まり、礼に終わる。極限でも平常心を保つために柔道があり、その精神は人生にも生かされる」と。さらに私が興味深く読んだのは「日本柔道も武道から離れて競技化した揚げ句、競技でも勝てなくなった」という指摘である。
勝ちにこだわる結果、かえって勝機を逸する、と理解したい。私は素人囲碁を多少嗜(たしな)むが、「勝とうとして負けを招く」ことを実戦でしばしば経験する。実力のせいでもあるが、「道」の精神を忘れ、「平常心」を失っているからである。ただ「勝敗を超えて勝つ」 ― は「言うは易く行うは難し」である。
▽日本柔道には「日本の心」を再確認してほしい
藤岡弘さんは1946年、愛媛県生まれ。空手、柔道など武道の段位は合計20段の武道家である。要旨、以下のように語っている。
五輪を見ていて悲しくなりました。柔道、剣道、弓道、茶道、華道のように「道」がつくものは、かつては勝利のみを求めるものではありませんでした。己の心の修行、つまり人間力や尊い人格を磨き、自分自身を高めるものでした。相手に謙虚になることで、その人格を示しました。勝利よりも品性、尊い人間性の理想像を見せることで周囲に感動を与えました。
日本のお家芸である日本柔道はその伝統を失ったのではないでしょうか。柔道ではなく「柔(じゅう)スポーツ」ですね。
今の日本柔道は、「勝利の栄光」を己のものだけにしている印象を受けます。「私」を誇り、「俺(おれ)」を誇る。
敗者の振る舞いにも違和感を覚えます。かつては勝者も敗者も互いにおごらず、敬意を表し、感謝する気持ちがありました。今は負けてふてくされる姿をよく見かけます。
「武士道」の著者、新渡戸稲造さんによると、武士道は理想的な人間になるためにあり、倫理観や道徳観をもって「道」としました。人間とはなんぞや、との世界に通じる心です。他人をねたみ、嫉妬(しっと)し、憤怒する心を静めよの精神です。
五輪の精神も、平和を願い、互いの人間を尊重する姿勢とともにあるはずです。勝つために、何をやってもいいとなると、もはや五輪ではない。そこには国家のエゴ、民族のエゴ、人間のエゴが見えます。特に今回の五輪からは、いろいろなエゴが鮮明に見え、ある種の醜さを感じました。私はもっと多くの「真善美」を見たかった。
日本の柔道には「日本の心」を再確認してほしい。「日本の心」とは、伝統や文化、歴史の継承を大事にしながら、品格を持って、国境や民族の壁を超え、世界に貢献することです。
〈安原の感想〉
藤岡さんの「日本の心」論には共感を覚える。特に後段の「品格を持って、国境や民族の壁を超え、世界に貢献すること」である。これは彼の「五輪の精神も、平和を願い、互いの人間を尊重する姿勢とともにある」という指摘と重なってくる。そうでなければならないだろう。
こうも指摘している。「勝利よりも品性、尊い人間性の理想像を見せることで周囲に感動を与える」と。その通りである。これが広く行き渡れば、現世はもっと平穏で平和になるに違いない。こういう感覚はむしろ昨今の政治家や企業人に期待したい。「勝利」、いいかえれば「私利私欲」にこだわり、世は乱れているからである。
さてここでも「謙虚」、「品性」、「理想」、「真善美」、いいかえれば「道」に徹すれば、柔道の世界でどのような道筋で勝利をつかむことができるのか、その極意のほんの一端でも武道家としての藤岡20段にうかがいたい。そこがどうも見えてこないように感じている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
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