連載・やさしい仏教経済学(41・完)
安原和雄
仏教経済学(思想)は政治・経済・社会さらに人間自身の生き方の変革をめざしている。なぜなら現世は地獄さながらの様相を呈しているからである。そういう現世の変革を意図しない社会科学とりわけ経済学は存在理由がないといっても過言ではないだろう。だからこそ現世の変革を説くところに仏教経済学の存在価値があるといえるが、難問は、変革によって現世の生老病死などの「四苦八苦」を克服できるのか、である。
その答えは、変革は克服への必要条件ではあっても、十分条件とはいえない、つまりそこには自ずから人智の及ばぬ限界がある。とはいえ、それを読み取ったうえでなお変革への道を志すのが仏教経済学の眼目である。(2011年4月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 仏教が説く「思いのままにならない四苦八苦」とは
仏教の開祖、釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では通常「四苦八苦」を指しており、『岩波 仏教辞典第二版』(岩波書店)はつぎのように解説している。
四苦とは、生(生まれること)、老、病、死で、これにつぎの四苦を加えて八苦となる。
・怨憎会苦(おんぞうえく)=憎い者と会う苦
・愛別離苦(あいべつりく)=愛する者と別れる苦
・求不得苦(ぐふとくく)=不老や不死を求めても得られない苦、あるいは物質的な欲望が満たされない苦
・五取蘊苦(ごしゅうんく)=五陰盛苦(ごおんじょうく)ともいう。現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は、苦であるということ。
現実を構成する「五つの要素」とは、「色」(しき=感覚器官を備えた身体)、「受」(じゅ=苦、楽、不苦不楽の三種の感覚あるいは感受)、「想」(そう=認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用)、「行」(ぎょう=能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求)、「識」(しき=認識あるいは判断)― を指している。いいかえれば人間を「身心」すなわち肉体(色)とそれを拠り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、この五つによって個人の存在全体を表し尽くしていると考える。
四苦八苦の仏教的解説は以上のようであるが、ここで念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。四苦の生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は地球上で誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは別にして、必ずわが身に迫ってくる。いくら頭脳が冴えていて、身体が頑健であっても
老病死を避けることは出来ない。思い通りにはならないからこそ人生はおもしろい、ともいえるのだ。そこに「自由、挑戦、創造」をめざす生き方も選択できる。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(1) ― 脱・新自由主義路線へ
さて問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦八苦とどのようにかかわってくるのか、四苦八苦の克服、解決にどの程度貢献できるのかである。
具体的な事例で考えてみたい。まず脱・新自由主義路線と四苦八苦との関連について ― 。
1980年代以降の主流派経済思想として市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させる新自由主義(=新保守主義)を挙げることができる。この新自由主義登場の背景には経済のグローバル化(地球規模化)がある。多国籍企業など大企業が地球規模での生き残り競争に打ち勝つためのイデオロギーであった。
その具体例はサッチャリズム(イギリスのサッチャー首相は1979年就任と同時に鉄道、電話、ガス、水道など国有企業の民営化、法人税減税、金融や労働法制の自由化など)、レーガノミックス(1981年発足した米国のレーガン政権の軍事力増強、規制の緩和・廃止、民営化推進など)、さらに中曽根ミックス(1982年発足した日本の中曽根政権にみる軍備拡張、日米同盟路線の強化、規制の緩和・廃止、民営化推進=電電公社、国鉄の民営化など)から始まった。
日本の場合、新自由主義路線の土台になっているのが日米安保体制=日米同盟(軍事同盟と経済同盟)である。特に指摘する必要があるのは、新自由主義路線には一つは日米軍事同盟の強化、もう一つは日米経済同盟の強化、という二つの側面が表裏一体の関係で構造化している点である。後者の日米経済同盟の強化がもたらしたのは、グローバル化の名の下に利益、効率追求第一主義に立って強行されてきた弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、貧困層増大などである。自殺者は「小泉政権の構造改革」のころから増え始め、今日、12年連続で毎年3万人を超えており、孤独死も目立っている。
2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生とともにこの新自由主義路線の悪しき貪欲(=強欲)の構造は行き詰まっているが、消滅したわけではない。執拗に復活をねらう勢力も残存しており、その策動は民主党政権への交代以降も続いている。.
以上のように日米安保を土台とする新自由主義路線は大きな災厄を日本列島上にもたらし、四苦八苦を深めた。この計り知れない「負の効果」から免れるためには日米安保体制を破棄し、日米平和友好体制へと質的転換を図り、新自由主義路線の告別式を執行する必要がある。この質的転換はこれまでの格差拡大から縮小へ、貧困層増大から減少へ、自殺者や孤独死の削減へ ― と流れの変化を可能にし、四苦八苦の緩和にもつながるだろう。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(2) ― 「原発マフィア」、「原子力村」の解体を
大惨事をもたらした原子力発電の今後のあり方に関する世論調査(2011年4月16、17日実施)結果を紹介する。朝日新聞(4月18日付)によると、「増やす方がよい」5%、「現状程度にとどめる」51%、「減らす方がよい」30%、「やめるべきだ」11%で、「減らす」、「やめる」の合計は約4割。一方、日本は電力の3割を原発でまかなっていると説明したうえで、同様の質問をした2007年の調査では「減らす」21%、「やめる」7%で、原発疑問派が28%となっていた。
原発大惨事を受けて原発疑問派が増えるのは、当然のことで、ここではむしろ4年前の前回調査で疑問派がすでに3割近くも存在していた、その事実に注目したい。3割は決して小さい数字ではない。このことは安全神話で粉飾された原発推進はこれまで国民の合意を得て行われたのではなかったことを示唆している。
原発推進をごり押しした組織的勢力は何か。私(安原)は米日の戦争勢力、軍産複合体になぞらえて「原発推進複合体」(政産官学のほか、大手メディアも含む)と名づけているが、このほか多様な捉え方がある。
その一つは、「原発マフィア」と呼ばれる利権集団(中村敦夫著『簡素なる国』講談社・参照)である。
構成メンバーは、経済産業省や電力会社のOBで造る原子力安全・保安院、資源エネルギー庁原子力立地・核燃料サイクル産業課、原子力発電環境整備機構、元「動燃」(動力炉・核燃料開発事業団)の核燃料サイクル開発機構、電力10社、原発ゼネコン(原発工事一切を請け負う大手の総合建設業者)、日本原子力学会。これらの頂点の機関として内閣府に原子力安全委員会が置かれているが、単なる飾り物で、原発をよく知らない素人集団といえる。
もう一つは、小出裕章・京都大学助教が唱える「原子力村」の存在で、原子力利権に群がる産官学の存在(東京新聞4月9日付「こちら特報部」欄・参照)を指している。小出氏は次のような趣旨を指摘している。
・電力会社からみて、原発は造れば造るほどもうかる装置だった。経費を電気料金に上乗せでき、かつ市場がほぼ独占状態だったからだ。さらに大手電機メーカー、土建業者なども原発建設に群がった。
・大学研究者らがこれにお墨付きを与えた。研究ポストと研究資金欲しさからだ。原子力分野の研究にはお金がいる。
・カネと同時に「原発推進は国の方針」という力も大きかった。だが、日本は唯一の被曝国で核アレルギーも強い。なぜ推進されるのか。核兵器の製造能力を維持するため、としか考えられない。原発を推進すれば、核兵器の材料であるプルトニウムが手に入るからだ。
以上のような原発推進組織体に共通しているのは、原発をめぐる利権集団であることだ。脱・原発へと進むためにはこの利権集団を解体することが不可欠である。
各紙の報道(4月19日付)によると、石田徹東京電力顧問が2011年4月末で辞任する。同氏は旧通商産業省(現経済産業省)に入省、2010年資源エネルギー庁長官を退官後、東電顧問に就任、2011年6月に副社長に就任の予定で、実現すれば5人目の経産省出身副社長になるはずだった。これが「官」から「民」への天下りで、世に言う「政官産学癒着体制」の具体例である。この相互なれ合いのため原発の安全対策がおろそかになったことはいうまでもない。
今回の辞任劇は「癒着体制」の一角が崩れ始めたことを意味するが、これが原発推進組織体そのものの解体にまで進むかどうか。遠くない日に解体できれば、脱・原発も夢物語ではなくなり、現実の選択肢となる。
ドイツのメルケル政権は、今回の福島原発大惨事をきっかけに脱・原発(2020年に完全撤退)の姿勢に転換し、新たなエネルギー政策として風力、太陽光・熱、地熱、バイオマス(生物資源)などの再生可能なエネルギー重視を打ち出している。ドイツにできることが日本では不可能という言い逃れは通用しない。脱・原発は新たな原発大惨事に伴う底知れぬ「苦」からの解放につながる。
▽ 変革は「四苦八苦」克服の十分条件ではないけれど
私が唱える変革構想の実現とは、大まかに言えば、仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。それがそのまま実現したとしても、四苦八苦が全面的に解決できるという性質のものではない。脱・新自由主義路線、脱・日米安保体制さらに脱・原発に成功したとしても、人間にとっての四苦八苦が完全消滅するわけではない。要するに変革によって八つのキーワードが実現し、多様な災厄を克服できたとしても、それは四苦八苦の克服にとって必要条件ではあるが、十分条件とはいえない。
四苦の生老病死の中の老病死は、この現世ではどこまでも思い通りにはなりにくい。八苦の中の残りの四苦はどうか。怨憎会苦は、変革によって世情が改善され、憎しみ怨む度合いが少なくなれば、軽減されるだろう。愛別離苦も、生きるに値する現世に変革できれば、時の流れが癒やしてくれるだろうという考え方はあり得る。求不得苦はどうか。物質的な欲望では「もうこれで十分」という知足の精神が身について簡素を求めるようになれば、不満は消失できる。しかし不老や不死への願望は、人智では手が届かない。
五取蘊苦はどうか。迷いによる一切皆苦を指しており、その背後に煩悩が居座っている。煩悩の代表的なものは三毒といわれる貪(とん=貪欲、むさぼり)、瞋(じん=怒り、憎しみ)、痴(ち=愚痴、無知)のこと。これが人間を苦しみに満ちた迷いの世界につなぎとめておく原因となっている。この煩悩をどこまで断つことができるか。大乗仏教では「煩悩即菩提」ともいう。すなわち煩悩を断つのではなく、煩悩と共に悟りへ精進、修行していくという考え方である。
いずれにしても政治、経済、社会の変革によって四苦八苦が完全に解消できるわけではない。四苦八苦を軽減し、和らげることは期待できても、一人ひとりの人間にとって消滅させることはむずかしいだろう。なぜならすべての人が悟りの境地に達することは不可能だからである。それを承知のうえで、やはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しており、その悲惨な現実が変革を求めているからである。変革に精進を重ねる努力こそが、大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど=人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への大きな一歩にほかならない。変革への意志は今日も明日も持続させていくことが期待されている。
<参考資料>
・安原和雄<「平成の再生」モデルを提唱する ― 大惨事の廃墟から立ち上がるとき>=ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2011年4月5日掲載
・同「二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年)
・同「同(下) ― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同研究所、平成二十一年)
<御礼>「連載・やさしい仏教経済学」は2010年4月から掲載を始め、今回の2011年4月22日付41回目でお開きとします。1年余にわたるご愛読に感謝申し上げます:仏教経済塾主宰者・安原和雄
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教経済学(思想)は政治・経済・社会さらに人間自身の生き方の変革をめざしている。なぜなら現世は地獄さながらの様相を呈しているからである。そういう現世の変革を意図しない社会科学とりわけ経済学は存在理由がないといっても過言ではないだろう。だからこそ現世の変革を説くところに仏教経済学の存在価値があるといえるが、難問は、変革によって現世の生老病死などの「四苦八苦」を克服できるのか、である。
その答えは、変革は克服への必要条件ではあっても、十分条件とはいえない、つまりそこには自ずから人智の及ばぬ限界がある。とはいえ、それを読み取ったうえでなお変革への道を志すのが仏教経済学の眼目である。(2011年4月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 仏教が説く「思いのままにならない四苦八苦」とは
仏教の開祖、釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では通常「四苦八苦」を指しており、『岩波 仏教辞典第二版』(岩波書店)はつぎのように解説している。
四苦とは、生(生まれること)、老、病、死で、これにつぎの四苦を加えて八苦となる。
・怨憎会苦(おんぞうえく)=憎い者と会う苦
・愛別離苦(あいべつりく)=愛する者と別れる苦
・求不得苦(ぐふとくく)=不老や不死を求めても得られない苦、あるいは物質的な欲望が満たされない苦
・五取蘊苦(ごしゅうんく)=五陰盛苦(ごおんじょうく)ともいう。現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は、苦であるということ。
現実を構成する「五つの要素」とは、「色」(しき=感覚器官を備えた身体)、「受」(じゅ=苦、楽、不苦不楽の三種の感覚あるいは感受)、「想」(そう=認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用)、「行」(ぎょう=能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求)、「識」(しき=認識あるいは判断)― を指している。いいかえれば人間を「身心」すなわち肉体(色)とそれを拠り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、この五つによって個人の存在全体を表し尽くしていると考える。
四苦八苦の仏教的解説は以上のようであるが、ここで念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。四苦の生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は地球上で誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは別にして、必ずわが身に迫ってくる。いくら頭脳が冴えていて、身体が頑健であっても
老病死を避けることは出来ない。思い通りにはならないからこそ人生はおもしろい、ともいえるのだ。そこに「自由、挑戦、創造」をめざす生き方も選択できる。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(1) ― 脱・新自由主義路線へ
さて問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦八苦とどのようにかかわってくるのか、四苦八苦の克服、解決にどの程度貢献できるのかである。
具体的な事例で考えてみたい。まず脱・新自由主義路線と四苦八苦との関連について ― 。
1980年代以降の主流派経済思想として市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させる新自由主義(=新保守主義)を挙げることができる。この新自由主義登場の背景には経済のグローバル化(地球規模化)がある。多国籍企業など大企業が地球規模での生き残り競争に打ち勝つためのイデオロギーであった。
その具体例はサッチャリズム(イギリスのサッチャー首相は1979年就任と同時に鉄道、電話、ガス、水道など国有企業の民営化、法人税減税、金融や労働法制の自由化など)、レーガノミックス(1981年発足した米国のレーガン政権の軍事力増強、規制の緩和・廃止、民営化推進など)、さらに中曽根ミックス(1982年発足した日本の中曽根政権にみる軍備拡張、日米同盟路線の強化、規制の緩和・廃止、民営化推進=電電公社、国鉄の民営化など)から始まった。
日本の場合、新自由主義路線の土台になっているのが日米安保体制=日米同盟(軍事同盟と経済同盟)である。特に指摘する必要があるのは、新自由主義路線には一つは日米軍事同盟の強化、もう一つは日米経済同盟の強化、という二つの側面が表裏一体の関係で構造化している点である。後者の日米経済同盟の強化がもたらしたのは、グローバル化の名の下に利益、効率追求第一主義に立って強行されてきた弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、貧困層増大などである。自殺者は「小泉政権の構造改革」のころから増え始め、今日、12年連続で毎年3万人を超えており、孤独死も目立っている。
2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生とともにこの新自由主義路線の悪しき貪欲(=強欲)の構造は行き詰まっているが、消滅したわけではない。執拗に復活をねらう勢力も残存しており、その策動は民主党政権への交代以降も続いている。.
以上のように日米安保を土台とする新自由主義路線は大きな災厄を日本列島上にもたらし、四苦八苦を深めた。この計り知れない「負の効果」から免れるためには日米安保体制を破棄し、日米平和友好体制へと質的転換を図り、新自由主義路線の告別式を執行する必要がある。この質的転換はこれまでの格差拡大から縮小へ、貧困層増大から減少へ、自殺者や孤独死の削減へ ― と流れの変化を可能にし、四苦八苦の緩和にもつながるだろう。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(2) ― 「原発マフィア」、「原子力村」の解体を
大惨事をもたらした原子力発電の今後のあり方に関する世論調査(2011年4月16、17日実施)結果を紹介する。朝日新聞(4月18日付)によると、「増やす方がよい」5%、「現状程度にとどめる」51%、「減らす方がよい」30%、「やめるべきだ」11%で、「減らす」、「やめる」の合計は約4割。一方、日本は電力の3割を原発でまかなっていると説明したうえで、同様の質問をした2007年の調査では「減らす」21%、「やめる」7%で、原発疑問派が28%となっていた。
原発大惨事を受けて原発疑問派が増えるのは、当然のことで、ここではむしろ4年前の前回調査で疑問派がすでに3割近くも存在していた、その事実に注目したい。3割は決して小さい数字ではない。このことは安全神話で粉飾された原発推進はこれまで国民の合意を得て行われたのではなかったことを示唆している。
原発推進をごり押しした組織的勢力は何か。私(安原)は米日の戦争勢力、軍産複合体になぞらえて「原発推進複合体」(政産官学のほか、大手メディアも含む)と名づけているが、このほか多様な捉え方がある。
その一つは、「原発マフィア」と呼ばれる利権集団(中村敦夫著『簡素なる国』講談社・参照)である。
構成メンバーは、経済産業省や電力会社のOBで造る原子力安全・保安院、資源エネルギー庁原子力立地・核燃料サイクル産業課、原子力発電環境整備機構、元「動燃」(動力炉・核燃料開発事業団)の核燃料サイクル開発機構、電力10社、原発ゼネコン(原発工事一切を請け負う大手の総合建設業者)、日本原子力学会。これらの頂点の機関として内閣府に原子力安全委員会が置かれているが、単なる飾り物で、原発をよく知らない素人集団といえる。
もう一つは、小出裕章・京都大学助教が唱える「原子力村」の存在で、原子力利権に群がる産官学の存在(東京新聞4月9日付「こちら特報部」欄・参照)を指している。小出氏は次のような趣旨を指摘している。
・電力会社からみて、原発は造れば造るほどもうかる装置だった。経費を電気料金に上乗せでき、かつ市場がほぼ独占状態だったからだ。さらに大手電機メーカー、土建業者なども原発建設に群がった。
・大学研究者らがこれにお墨付きを与えた。研究ポストと研究資金欲しさからだ。原子力分野の研究にはお金がいる。
・カネと同時に「原発推進は国の方針」という力も大きかった。だが、日本は唯一の被曝国で核アレルギーも強い。なぜ推進されるのか。核兵器の製造能力を維持するため、としか考えられない。原発を推進すれば、核兵器の材料であるプルトニウムが手に入るからだ。
以上のような原発推進組織体に共通しているのは、原発をめぐる利権集団であることだ。脱・原発へと進むためにはこの利権集団を解体することが不可欠である。
各紙の報道(4月19日付)によると、石田徹東京電力顧問が2011年4月末で辞任する。同氏は旧通商産業省(現経済産業省)に入省、2010年資源エネルギー庁長官を退官後、東電顧問に就任、2011年6月に副社長に就任の予定で、実現すれば5人目の経産省出身副社長になるはずだった。これが「官」から「民」への天下りで、世に言う「政官産学癒着体制」の具体例である。この相互なれ合いのため原発の安全対策がおろそかになったことはいうまでもない。
今回の辞任劇は「癒着体制」の一角が崩れ始めたことを意味するが、これが原発推進組織体そのものの解体にまで進むかどうか。遠くない日に解体できれば、脱・原発も夢物語ではなくなり、現実の選択肢となる。
ドイツのメルケル政権は、今回の福島原発大惨事をきっかけに脱・原発(2020年に完全撤退)の姿勢に転換し、新たなエネルギー政策として風力、太陽光・熱、地熱、バイオマス(生物資源)などの再生可能なエネルギー重視を打ち出している。ドイツにできることが日本では不可能という言い逃れは通用しない。脱・原発は新たな原発大惨事に伴う底知れぬ「苦」からの解放につながる。
▽ 変革は「四苦八苦」克服の十分条件ではないけれど
私が唱える変革構想の実現とは、大まかに言えば、仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。それがそのまま実現したとしても、四苦八苦が全面的に解決できるという性質のものではない。脱・新自由主義路線、脱・日米安保体制さらに脱・原発に成功したとしても、人間にとっての四苦八苦が完全消滅するわけではない。要するに変革によって八つのキーワードが実現し、多様な災厄を克服できたとしても、それは四苦八苦の克服にとって必要条件ではあるが、十分条件とはいえない。
四苦の生老病死の中の老病死は、この現世ではどこまでも思い通りにはなりにくい。八苦の中の残りの四苦はどうか。怨憎会苦は、変革によって世情が改善され、憎しみ怨む度合いが少なくなれば、軽減されるだろう。愛別離苦も、生きるに値する現世に変革できれば、時の流れが癒やしてくれるだろうという考え方はあり得る。求不得苦はどうか。物質的な欲望では「もうこれで十分」という知足の精神が身について簡素を求めるようになれば、不満は消失できる。しかし不老や不死への願望は、人智では手が届かない。
五取蘊苦はどうか。迷いによる一切皆苦を指しており、その背後に煩悩が居座っている。煩悩の代表的なものは三毒といわれる貪(とん=貪欲、むさぼり)、瞋(じん=怒り、憎しみ)、痴(ち=愚痴、無知)のこと。これが人間を苦しみに満ちた迷いの世界につなぎとめておく原因となっている。この煩悩をどこまで断つことができるか。大乗仏教では「煩悩即菩提」ともいう。すなわち煩悩を断つのではなく、煩悩と共に悟りへ精進、修行していくという考え方である。
いずれにしても政治、経済、社会の変革によって四苦八苦が完全に解消できるわけではない。四苦八苦を軽減し、和らげることは期待できても、一人ひとりの人間にとって消滅させることはむずかしいだろう。なぜならすべての人が悟りの境地に達することは不可能だからである。それを承知のうえで、やはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しており、その悲惨な現実が変革を求めているからである。変革に精進を重ねる努力こそが、大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど=人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への大きな一歩にほかならない。変革への意志は今日も明日も持続させていくことが期待されている。
<参考資料>
・安原和雄<「平成の再生」モデルを提唱する ― 大惨事の廃墟から立ち上がるとき>=ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2011年4月5日掲載
・同「二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年)
・同「同(下) ― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同研究所、平成二十一年)
<御礼>「連載・やさしい仏教経済学」は2010年4月から掲載を始め、今回の2011年4月22日付41回目でお開きとします。1年余にわたるご愛読に感謝申し上げます:仏教経済塾主宰者・安原和雄
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
連載・やさしい仏教経済学(40)
安原和雄
仏教経済学(思想)は愛国心をどう考えるのか、と聞かれれば、「愛国心は大切」と答えたい。ただし新しい愛国心は、かつて無謀な戦争に協力して国を亡ぼし、今また保守勢力が折に触れ、復活を策している古い愛国心とは異質である。亡国へ誘う愛国心の復活を許容するわけにはいかない。
むしろ地球規模で反戦=平和を念願する世界の民族、市民から日本国や日本人が高く評価されるに値する愛国心でなければ、21世紀の愛国心としてふさわしいとはいえない。だから新しい愛国心は、地球を愛する「愛球心」でもなければならない。同時に反グローバリズムの立場から地域重視のローカリズムと脱・原発の旗を押し立てる。新時代の21世紀は新しい愛国心を求めている。(2011年4月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 〈愛国心=愛球心〉を育むとき(1) ― 平和憲法9条を誇りに
かつての亡国の愛国心へのイメージが残っているため、愛国心といえば、背を向ける姿勢が少なくないが、愛国心に否定的な姿勢から抜け出せないようでは愛国心に燃えている海外の人々から問われるだろう。「日本人であるあなたは、日本という国を誇りに思っていないのか」と。
21世紀の地球環境保全優先と非軍事力の時代にふさわしく誇りとするに足る日本人の〈愛国心=愛球心〉をどう育むかが大きな課題となってきた。その骨格としてつぎの3本柱を挙げたい。
*平和憲法9条(戦争の放棄、軍備・交戦権の否認)の理念を世界に向けて誇りとすること
*地球市民(Planetary Citizenship)として「愛球心」すなわち地球大の視野で地球を愛し、慈しむ責任ある行動に努めること
*多国籍企業の利益を主眼とするグローバリズムを拒否し、地域主導のローカリズムを推進すること
もう少しイメージを描くと、つぎのような市民、民衆の生き方、信条と心情を指している。
・国家権力には批判的に参画していくこと
・自由・民主・人権の尊重、法の支配、市場経済(注1)を軸に据えた住みよいしなやかな政治、経済、社会をつくること
(注1)ここでの市場経済は、計画経済の対極にある市場経済という含意である。多国籍型企業のような大企業が猛威を振るい、弱小企業や労働者を食い物にする自由放任型の新自由主主義的な市場経済のイメージとは異質である。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
・地球環境保全などに努め、地球上のいのちを慈しむこと
・日本国平和憲法前文の平和生存権、9条(非武装)、25条(生存権)など憲法が理念としてうたっている非武装、生存権の実現をめざすこと
・脱「日米安保体制=軍事同盟と経済同盟」への転換をめざすこと
・軍事分野の資金・資源の平和的有効活用策として、自衛隊の全面改組による非武装・地球救援隊の創設をめざすこと
特に地球救援隊の創設は、日本が率先して実行すれば、世界史に輝ける功績として記録されるに違いない。地球救援隊に衣替えした自衛隊(非武装化された状態)がノーベル平和賞の対象になることも夢ではないだろう。
▽〈愛国心=愛球心〉を育むとき(2) ― 地球市民として
新しい〈愛国心=愛球心〉は、いうまでもなく国家権力によって強要される性質のものではない。以下にみるように、むしろすでに市民や宗教家たちの自発的な努力によって育ちつつある。注目すべきは「地球市民」という言葉で、すでに1974年に登場している。地球市民とは何を含意しているのか。二つの地球規模の国際会議「宣言」を紹介する。
・世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace、注2)第二回大会宣言(1974年)から
(注2)世界宗教者平和会議は仏教、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、神道など世界の諸宗教の連合体で、世界平和実現をめざす担い手となっている。5年おきの開催で、第一回大会(1970年、39カ国から約300人参加)、第八回大会(2006年、100カ国から約2000人参加。私もその一人として参加)は京都であった。
「食糧、エネルギー、その他、生存の物質的必需品を公正に分かち合うという人間の連帯感を鼓舞すること」、言い換えれば知足と簡素の日常的な実践者であること。その実践が平和につながる。こういう「地球市民」としての自覚なしには人類はもはや生き残ることは不可能だということ。逆に言えば、人類が地球上で生き残るためには「生き残るに足るほど謙虚であるか」という問いかけでもある、と。
・「9条世界宣言」(注3、08年5月)の中の〈9条と地球市民社会〉から
(注3)「日本国憲法9条を世界に広めよう」を合い言葉に08年日本で開かれた「9条世界会議」が採択した「9条世界宣言」は「地球規模の市民社会」、「地球市民社会」などの表現で地球市民に言及している。
「歴史的には、国家のみが国際関係の主体であると考えられてきた。しかし市民の運動が重要な役割を果たしてきたこともまた事実である。1990年代より地球規模の市民社会が、草の根レベルで国境をこえて団結し、人類の将来の決定に参加するようになってきた。平和、人権、民主主義、ジェンダーおよび人種の平等、環境保護、文化的な多様性などの課題について主要な役割を果たすようになってきた」
さらにつぎのようにも指摘している。
「2003年のイラク戦争に対する空前の世界的反戦運動は、地球市民社会が変革の主体としての力を明確に示したものだった。さらに今、クラスター爆弾の禁止や小型武器の管理を求める運動、核兵器の非合法化を求める運動、また地球規模の平和と経済的・社会的正義を求める運動が広がっている。いまこそ地球市民社会は、9条とその精神に着目し、その主要な原則を強化し、地球規模の平和のために生かしていこう」と。
▽ 『簡素なる国』は訴える ― ローカリズムと脱・原発の旗を立てて
上述の新しい愛国心の多様なイメージの中に次の諸点を挙げている。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
21世紀版の新しい愛国心として地球規模の視点が欠かせないことはいうまでもないが、愛国心である以上、生まれ育ち、生涯を営む基盤である日本の国土、地域や自然環境を守り育てることも不可欠の課題である。地域や自然環境を誇りに思えないような日本では愛国心も萎(しぼ)むほかないだろう。国土、地域、自然環境をどのようにして守り育てるか。
示唆に富む手引き書として中村敦夫著『簡素なる国』の提案を紹介したい。以下の三点を訴えている。その実現の成否は、大震災と原発惨事から日本を再生できるかどうかを左右するだろう。
*ローカリズム=画一的なグローバリズムではなく、多様な文化を育むローカリズムへ
*食糧の自給自足=食糧の自給自足こそ、戦争を回避し、生活安定と健康を護る条件
*自然エネルギー=文化的生活の維持は、共同体の自然エネルギー開発で十分可能
*ローカリズムについて
都会、特に大都会は、経済至上主義という病気が産み落とした巨大な動脈瘤か、がん細胞のようなもので、そこには「幸せ」はない。幸せで心地よい環境とはどんなものか。答えは、「環境共同体」だ。
まず小都市であること。学校、病院など一応の公的機能のほかに、周囲に有機農業の田園があり、新鮮で安全な食糧が供給されること。さらに山や川があり、自然界に触れたり、景観を楽しめること。そこに住む人々が協力して自然と伝統を守ることによって、信頼と友情が生まれること。
こんな場所があるなら、人々はここで暮らし、ここで死にたいと思うはずだ。現代人の不幸は、そのようなマイタウン、ふるさと、地域共同体を失ったことにある。なぜか? それはグローバリズムという化け物が経済至上主義の旗を掲げ、一律のルールを世界中に押しつけ、地の果てからも利益を吸収し、富を独占しようとするからだ。
自然環境が破壊され、地元の中小企業や商店が潰され、農業が自立できなくなるのは、グローバリズムの看板の裏側に隠れている、あのハゲタカのような投機家たちのドス黒い強欲のためである。彼らの節操なき侵入を食い止めなければならない。グローバリズムに対抗して、ローカリズム、つまり地域主権の旗を掲げる必要がある。
*食糧の自給自足について
人類史の大きな流れからみても、工業文明の無原則な暴走の抑制、健全な農林水産業の復権が必要だ。労働者の雇用も、その分野で広げるべきだ。地域の人々が安定した生活を維持するには、食糧の自給自足、すなわち地産地消(その地域で取れたものをその地域で消費すること)が原則で、食糧さえ保証されれば、他国と戦争する必然性もなくなる。
日本のような食糧自給率40%(カロリーべース)という低水準はもってのほかで、地方自治体や地域共同体が食糧の安全確保に乗り出す必要がある。
1970年代以降、アメリカ人の健康が悪化し、肥満が5人に1人と増え、労働者の生産性にも悪影響が出てきている。これは塩、砂糖、脂肪のとりすぎによる。理想の食事として日本食が注目され、米国に和食ブームが広がるが、日本では逆に米国人並みの不健全な食事スタイルになっている。私たち日本人は米飯(和食中心)復帰に努めるべきで、そのためにはまず全国小中学校(2010年現在、約3万2000校、合計約1060万人)の給食をすべて米飯に変えていけば、日本人の食文化も回復するだろう。
*自然エネルギーについて
今注目されているのは、「再生可能」つまり無限の自然エネルギー。その御三家は風力発電、太陽光発電、バイオマス(生物資源)で、環境に負荷を与えない理想のエネルギーだ。「再生不能エネルギー」つまり資源として有限の石油、石炭、天然ガスとは異なる。
東京電力の福島原発事故が証明しているように原子力発電の管理は不可能といえる。「経済成長のためには仕方がない」は、本末転倒の論理だ。しかも膨大な予算をむさぼる「原発マフィア」と呼ばれる利権集団が、鉄の結束を固めている。費用がかかりすぎ、運用が危険なうえ、廃棄物も処理できぬ原発は放棄せざるを得ないし、その決断は早いほうがいい。
世界は「自然エネルギー」開発に向かわざるを得ない。自然エネルギーへの転換努力は、二酸化炭素(CO2)削減の必要性、「ピークオイル」(掘削石油量が減り始める分岐点)に伴う石油価格の上昇 ― などを背景に必然である。ただ自然エネルギーは地域ごとに特性が異なる資源で、それぞれの資源は巨大ではなく、国土の全域に分散し、小さいスケールで存在している。だから小さい発電所を地域の人々が設置、運営してゆくことになる。つまりこれらの事業の主役は地域住民、NPO(非営利組織)、自治体、中小企業であるべきだ。
<安原のコメント> ― 簡素、知足、共生と脱・原発と
仏教経済学のキーワードは、いのち尊重、非暴力(平和)、簡素、知足、共生、利他、多様性、持続性の八つである。大惨事をもたらした「3.11」後の日本にとって大切なキーワードは何か。あえて三つだけ選べば、簡素、知足、共生ではないか。そこから導き出される路線選択は、脱・原発である。言い直せば、簡素、知足、共生に反する貪欲と浪費と破壊の路線を突っ走る原発を拒否することである。この一点を視野の外におく日本の再生策は、画竜点睛を欠く、というほかないだろう。
<参考資料>
・中村敦夫著『簡素なる国』(講談社、2011年4月第一刷)
・安原和雄「憲法九条を<世界の宝>にしよう ― 脱<日米安保体制>をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第二十八号、平成二十一年)
・同「世界宗教者平和会議にみる平和観 ― <平和すなわち非暴力>の視点」(駒澤大学仏教経済研究所『仏教経済研究』第三十六号、平成十九年)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教経済学(思想)は愛国心をどう考えるのか、と聞かれれば、「愛国心は大切」と答えたい。ただし新しい愛国心は、かつて無謀な戦争に協力して国を亡ぼし、今また保守勢力が折に触れ、復活を策している古い愛国心とは異質である。亡国へ誘う愛国心の復活を許容するわけにはいかない。
むしろ地球規模で反戦=平和を念願する世界の民族、市民から日本国や日本人が高く評価されるに値する愛国心でなければ、21世紀の愛国心としてふさわしいとはいえない。だから新しい愛国心は、地球を愛する「愛球心」でもなければならない。同時に反グローバリズムの立場から地域重視のローカリズムと脱・原発の旗を押し立てる。新時代の21世紀は新しい愛国心を求めている。(2011年4月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 〈愛国心=愛球心〉を育むとき(1) ― 平和憲法9条を誇りに
かつての亡国の愛国心へのイメージが残っているため、愛国心といえば、背を向ける姿勢が少なくないが、愛国心に否定的な姿勢から抜け出せないようでは愛国心に燃えている海外の人々から問われるだろう。「日本人であるあなたは、日本という国を誇りに思っていないのか」と。
21世紀の地球環境保全優先と非軍事力の時代にふさわしく誇りとするに足る日本人の〈愛国心=愛球心〉をどう育むかが大きな課題となってきた。その骨格としてつぎの3本柱を挙げたい。
*平和憲法9条(戦争の放棄、軍備・交戦権の否認)の理念を世界に向けて誇りとすること
*地球市民(Planetary Citizenship)として「愛球心」すなわち地球大の視野で地球を愛し、慈しむ責任ある行動に努めること
*多国籍企業の利益を主眼とするグローバリズムを拒否し、地域主導のローカリズムを推進すること
もう少しイメージを描くと、つぎのような市民、民衆の生き方、信条と心情を指している。
・国家権力には批判的に参画していくこと
・自由・民主・人権の尊重、法の支配、市場経済(注1)を軸に据えた住みよいしなやかな政治、経済、社会をつくること
(注1)ここでの市場経済は、計画経済の対極にある市場経済という含意である。多国籍型企業のような大企業が猛威を振るい、弱小企業や労働者を食い物にする自由放任型の新自由主主義的な市場経済のイメージとは異質である。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
・地球環境保全などに努め、地球上のいのちを慈しむこと
・日本国平和憲法前文の平和生存権、9条(非武装)、25条(生存権)など憲法が理念としてうたっている非武装、生存権の実現をめざすこと
・脱「日米安保体制=軍事同盟と経済同盟」への転換をめざすこと
・軍事分野の資金・資源の平和的有効活用策として、自衛隊の全面改組による非武装・地球救援隊の創設をめざすこと
特に地球救援隊の創設は、日本が率先して実行すれば、世界史に輝ける功績として記録されるに違いない。地球救援隊に衣替えした自衛隊(非武装化された状態)がノーベル平和賞の対象になることも夢ではないだろう。
▽〈愛国心=愛球心〉を育むとき(2) ― 地球市民として
新しい〈愛国心=愛球心〉は、いうまでもなく国家権力によって強要される性質のものではない。以下にみるように、むしろすでに市民や宗教家たちの自発的な努力によって育ちつつある。注目すべきは「地球市民」という言葉で、すでに1974年に登場している。地球市民とは何を含意しているのか。二つの地球規模の国際会議「宣言」を紹介する。
・世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace、注2)第二回大会宣言(1974年)から
(注2)世界宗教者平和会議は仏教、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、神道など世界の諸宗教の連合体で、世界平和実現をめざす担い手となっている。5年おきの開催で、第一回大会(1970年、39カ国から約300人参加)、第八回大会(2006年、100カ国から約2000人参加。私もその一人として参加)は京都であった。
「食糧、エネルギー、その他、生存の物質的必需品を公正に分かち合うという人間の連帯感を鼓舞すること」、言い換えれば知足と簡素の日常的な実践者であること。その実践が平和につながる。こういう「地球市民」としての自覚なしには人類はもはや生き残ることは不可能だということ。逆に言えば、人類が地球上で生き残るためには「生き残るに足るほど謙虚であるか」という問いかけでもある、と。
・「9条世界宣言」(注3、08年5月)の中の〈9条と地球市民社会〉から
(注3)「日本国憲法9条を世界に広めよう」を合い言葉に08年日本で開かれた「9条世界会議」が採択した「9条世界宣言」は「地球規模の市民社会」、「地球市民社会」などの表現で地球市民に言及している。
「歴史的には、国家のみが国際関係の主体であると考えられてきた。しかし市民の運動が重要な役割を果たしてきたこともまた事実である。1990年代より地球規模の市民社会が、草の根レベルで国境をこえて団結し、人類の将来の決定に参加するようになってきた。平和、人権、民主主義、ジェンダーおよび人種の平等、環境保護、文化的な多様性などの課題について主要な役割を果たすようになってきた」
さらにつぎのようにも指摘している。
「2003年のイラク戦争に対する空前の世界的反戦運動は、地球市民社会が変革の主体としての力を明確に示したものだった。さらに今、クラスター爆弾の禁止や小型武器の管理を求める運動、核兵器の非合法化を求める運動、また地球規模の平和と経済的・社会的正義を求める運動が広がっている。いまこそ地球市民社会は、9条とその精神に着目し、その主要な原則を強化し、地球規模の平和のために生かしていこう」と。
▽ 『簡素なる国』は訴える ― ローカリズムと脱・原発の旗を立てて
上述の新しい愛国心の多様なイメージの中に次の諸点を挙げている。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
21世紀版の新しい愛国心として地球規模の視点が欠かせないことはいうまでもないが、愛国心である以上、生まれ育ち、生涯を営む基盤である日本の国土、地域や自然環境を守り育てることも不可欠の課題である。地域や自然環境を誇りに思えないような日本では愛国心も萎(しぼ)むほかないだろう。国土、地域、自然環境をどのようにして守り育てるか。
示唆に富む手引き書として中村敦夫著『簡素なる国』の提案を紹介したい。以下の三点を訴えている。その実現の成否は、大震災と原発惨事から日本を再生できるかどうかを左右するだろう。
*ローカリズム=画一的なグローバリズムではなく、多様な文化を育むローカリズムへ
*食糧の自給自足=食糧の自給自足こそ、戦争を回避し、生活安定と健康を護る条件
*自然エネルギー=文化的生活の維持は、共同体の自然エネルギー開発で十分可能
*ローカリズムについて
都会、特に大都会は、経済至上主義という病気が産み落とした巨大な動脈瘤か、がん細胞のようなもので、そこには「幸せ」はない。幸せで心地よい環境とはどんなものか。答えは、「環境共同体」だ。
まず小都市であること。学校、病院など一応の公的機能のほかに、周囲に有機農業の田園があり、新鮮で安全な食糧が供給されること。さらに山や川があり、自然界に触れたり、景観を楽しめること。そこに住む人々が協力して自然と伝統を守ることによって、信頼と友情が生まれること。
こんな場所があるなら、人々はここで暮らし、ここで死にたいと思うはずだ。現代人の不幸は、そのようなマイタウン、ふるさと、地域共同体を失ったことにある。なぜか? それはグローバリズムという化け物が経済至上主義の旗を掲げ、一律のルールを世界中に押しつけ、地の果てからも利益を吸収し、富を独占しようとするからだ。
自然環境が破壊され、地元の中小企業や商店が潰され、農業が自立できなくなるのは、グローバリズムの看板の裏側に隠れている、あのハゲタカのような投機家たちのドス黒い強欲のためである。彼らの節操なき侵入を食い止めなければならない。グローバリズムに対抗して、ローカリズム、つまり地域主権の旗を掲げる必要がある。
*食糧の自給自足について
人類史の大きな流れからみても、工業文明の無原則な暴走の抑制、健全な農林水産業の復権が必要だ。労働者の雇用も、その分野で広げるべきだ。地域の人々が安定した生活を維持するには、食糧の自給自足、すなわち地産地消(その地域で取れたものをその地域で消費すること)が原則で、食糧さえ保証されれば、他国と戦争する必然性もなくなる。
日本のような食糧自給率40%(カロリーべース)という低水準はもってのほかで、地方自治体や地域共同体が食糧の安全確保に乗り出す必要がある。
1970年代以降、アメリカ人の健康が悪化し、肥満が5人に1人と増え、労働者の生産性にも悪影響が出てきている。これは塩、砂糖、脂肪のとりすぎによる。理想の食事として日本食が注目され、米国に和食ブームが広がるが、日本では逆に米国人並みの不健全な食事スタイルになっている。私たち日本人は米飯(和食中心)復帰に努めるべきで、そのためにはまず全国小中学校(2010年現在、約3万2000校、合計約1060万人)の給食をすべて米飯に変えていけば、日本人の食文化も回復するだろう。
*自然エネルギーについて
今注目されているのは、「再生可能」つまり無限の自然エネルギー。その御三家は風力発電、太陽光発電、バイオマス(生物資源)で、環境に負荷を与えない理想のエネルギーだ。「再生不能エネルギー」つまり資源として有限の石油、石炭、天然ガスとは異なる。
東京電力の福島原発事故が証明しているように原子力発電の管理は不可能といえる。「経済成長のためには仕方がない」は、本末転倒の論理だ。しかも膨大な予算をむさぼる「原発マフィア」と呼ばれる利権集団が、鉄の結束を固めている。費用がかかりすぎ、運用が危険なうえ、廃棄物も処理できぬ原発は放棄せざるを得ないし、その決断は早いほうがいい。
世界は「自然エネルギー」開発に向かわざるを得ない。自然エネルギーへの転換努力は、二酸化炭素(CO2)削減の必要性、「ピークオイル」(掘削石油量が減り始める分岐点)に伴う石油価格の上昇 ― などを背景に必然である。ただ自然エネルギーは地域ごとに特性が異なる資源で、それぞれの資源は巨大ではなく、国土の全域に分散し、小さいスケールで存在している。だから小さい発電所を地域の人々が設置、運営してゆくことになる。つまりこれらの事業の主役は地域住民、NPO(非営利組織)、自治体、中小企業であるべきだ。
<安原のコメント> ― 簡素、知足、共生と脱・原発と
仏教経済学のキーワードは、いのち尊重、非暴力(平和)、簡素、知足、共生、利他、多様性、持続性の八つである。大惨事をもたらした「3.11」後の日本にとって大切なキーワードは何か。あえて三つだけ選べば、簡素、知足、共生ではないか。そこから導き出される路線選択は、脱・原発である。言い直せば、簡素、知足、共生に反する貪欲と浪費と破壊の路線を突っ走る原発を拒否することである。この一点を視野の外におく日本の再生策は、画竜点睛を欠く、というほかないだろう。
<参考資料>
・中村敦夫著『簡素なる国』(講談社、2011年4月第一刷)
・安原和雄「憲法九条を<世界の宝>にしよう ― 脱<日米安保体制>をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第二十八号、平成二十一年)
・同「世界宗教者平和会議にみる平和観 ― <平和すなわち非暴力>の視点」(駒澤大学仏教経済研究所『仏教経済研究』第三十六号、平成十九年)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
連載・やさしい仏教経済学(39)
安原和雄
「安保(あんぽ)」と聞いて、どういうイメージを思い浮かべるだろうか。「トモダチ作戦」、すなわち在日米軍と自衛隊による大災害復旧協力作戦としか認識できないのでは安保(=日米安保体制)の素顔は見えてこない。日米安保体制は、軍事同盟と経済同盟からなる日米同盟であり、日本国平和憲法本来の戦争放棄・非武装や生存権・幸福権確保の理念と正面から矛盾している。
だから 平和憲法本来の理念を生かし、実現していくためには日米安保=日米同盟の解体を視野に入れる必要がある。日米安保条約は「条約の一方的破棄」が可能であることを明記している。日米同盟の呪縛を解いて、自由を獲得する日はいつか。それをしっかり視野に収めるときである。(2011年4月11日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 「トモダチ作戦」という名の在日米軍の復旧協力
毎日新聞(4月5日付)によると、北沢俊美防衛相は4月4日、東日本大震災の被災地支援活動「トモダチ作戦」の海上拠点となっている米原子力空母ロナルド・レーガンを米軍機で訪れた。約2000人の乗員を前に北沢氏は「今回ほど米国を友に持つことを心強く思ったことはない。半世紀にわたる日米同盟のきずなの証しだ」と菅直人首相の謝辞を代読した。
同行したルース駐日米大使は「日本を再建する上で、いかなる時でも米国は力になる」と表明、ウオルシュ米太平洋艦隊司令官は、米兵の家族の寄せ書きを北沢氏に渡し、「世界中にトモダチがいる証しだ」と述べた。
米軍が沖縄県の米空軍嘉手納基地から投入(大震災発生から5日後の3月16日早朝)した353特殊部隊を指揮するドウエイン・ロット大佐は言い切る。「22年間の軍人生活でも、ベストな連携を図れた作戦の一つ」と。
空軍特殊部隊の任務は敵地に乗り込んで迅速な拠点整備をすること。アフガニスタンやイラクなど戦闘地で作戦のほか、04年のスマトラ沖大地震によるインド洋大津波でインドネシアにも出動した。
一方、自衛隊の役割分担はどう行われたのか。現地で調整に当たる陸上自衛隊の笠松誠・一佐(46)は、「自衛隊は被災者の近くに行くべきだと、役割を分担した。大きな連携がうまくできた。ミラクルです。日米安保を絵に描いたような作戦」と説明した。
在日米軍司令部のニール・フィッシャー海兵隊少佐(39)も「ハイチ大地震(2010年)では準備に4日かかった。今回はすぐにリクエスト(要請)に応えられる態勢が整った」と米軍が日本に駐留する意義を強調する。(以上の趣旨は、毎日新聞から)
以上の「トモダチ作戦」という名の在日米軍と自衛隊との大災害復旧協力作戦から見えてくるものは何か。
まず現地の地方自治体や被災者達にとっては感謝に値する協力作戦であることは間違いない。ただ念のため指摘すれば、自衛隊法は自衛隊の任務として防衛出動、治安出動に限らず、災害派遣(同法83条)も行うことを定めている。自衛隊はこの自衛隊法の定めに従って当然の任務として行動しているのであり、特別のサービス精神によって、本来の任務外の災害対策に当たっているわけではない。
むしろ私(安原)の関心を引くのは軍人達の次の認識である。いずれも日米安保体制の存在価値を強調している。
「日米安保を絵に描いたような作戦」(陸上自衛隊の笠松誠・一佐)
「(日米安保によって)米軍が日本に駐留する意義を強調」(在日米軍司令部のニール・フィッシャー海兵隊少佐)
日米安保是認派の読売新聞社説(4月10日付)は、「トモダチ作戦」について「日米同盟深化の重要な一歩だ」(社説の見出し)と論じている。
▽ 「軍事同盟」、「経済同盟」としての日米安保体制
さて通称「安保(あんぽ)」すなわち日米安保体制とは、どのような素性なのか。まず日米安保体制は、日米間の軍事同盟と経済同盟の二つの同盟の土台となっていることを強調したい。
軍事同盟は日米安保条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」=1960年6月発効)3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。
特に3条の「自衛力の維持発展」を日本政府は忠実に守り、いまや米国に次いで世界有数の強力な軍事力を保有している。これが憲法9条の「戦力不保持」を骨抜きにしている元凶である。
しかも1960年、旧安保から現在の新安保に改定された当初は対象区域が「極東」に限定されていたが、今では変質し、「世界の中の安保」をめざすに至った。その節目となったのが1996年4月の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言 ― 二十一世紀に向けての同盟」で、「地球規模の日米協力」をうたった。
これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。この再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。米国の覇権主義にもとづくイラク攻撃になりふり構わず同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。
こうして軍事同盟としての安保体制は、米国の軍事力による覇権主義を行使するために「日米の軍事一体化」、すなわち沖縄をはじめとする広大な在日米軍基地網を足場に日本が対米協力に精出す巨大な軍事的暴力装置となっている。
「経済同盟」は、安保条約2条の「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを土台としている。「自由な諸制度の強化」とは新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。
だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、人権無視、疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。
これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を蔑(ないがし)ろにしている元凶といえる。
▽ 日米安保条約は一方的破棄が可能
日本政府は機会あるごとに「日米同盟堅持」あるいは「日米同盟深化」を強調するが、これは、以上のような特質をもつ軍事・経済同盟の堅持、深化を意味する。
重要なことは、最高法規である平和憲法体制と条約にすぎない日米安保体制が根本的に矛盾しているにもかかわらず日米安保が優先され、憲法の平和・生活理念が空洞化している現実である。つまり日本の国としてのありかたの土台、根本原理が蝕まれているわけで、ここに日本の政治、経済、社会の腐朽、不正、偽装の根因がある。だから日米安保体制の素顔は、上述の「トモダチ作戦」のイメージとは異質のものである。あるいは素顔が「暴力装置」であるからこそ、「トモダチ作戦」のような融和策が必要ともいえるのではないか。
こういう暴力装置としての日米同盟、すなわち日米安保体制が諸悪の根源となっている以上、その解体を長期的視野に入れて、日本列島上にいのちの尊重、非暴力、共生を実現していくことが不可欠である。その有力な手だてとして、互恵平等を原則とする非軍事の「日米平和友好条約」へ切り替えていくことを展望する必要がある。この平和友好条約への転換を土台にしてこそ、初めて非軍人による真の意味の「トモダチ作戦」が可能となる。
日米安保体制といえども、決して聖域ではない。不都合であれば、国民の意思によって終了させる以外に妙策はない。日米安保条約10条(有効期限)に「条約は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後一年で終了する」と一方的破棄が可能な規定となっていることを忘れないようにしたい。
この歴史的変革によって、軍事・経済同盟の呪縛を清算し、自らを解放し、自由を獲得しなければならない。その日が実現すれば、その時こそ日本の針路を自主的に選択できる余地が開けてくるだろう。
▽ 自主的な選択肢 ― 非武装・ニッポンをめざして
自主的な選択肢として何を展望できるだろうか。それは「非武装・ニッポン」以外の選択肢はあり得ないだろう。
非武装モデルとして日本とコスタリカを挙げることができる。ただし日本の非武装は平和憲法(1947年施行)上の理念にとどまっており、現実には強大な軍事力保有によって空洞化しているが、コスタリカは憲法改正(1949年)によって軍隊を廃止したままであり、しかも中立平和外交(1983年に中立宣言)に熱心で、憲法条項の実践国として世界の最先端を歩んでいる。
*日本国憲法の前文(平和生存権)と9条
前文=われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
9条=戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認
*コスタリカ憲法の常備軍禁止規定
コスタリカ憲法12条(常備軍の禁止)=常設の組織としての軍隊はこれを禁止する。公の秩序の監視と維持に必要な警察力はこれを保有する。大陸内の協定または国内防衛のためにのみ軍事力を組織することができる。
コスタリカ憲法は必要に応じて軍隊を持てる規定になっているが、日本国憲法は軍備及び交戦権まで否認している。しかし民主党政権を含む保守政権は解釈改憲の手法によって強大な軍備の保有を是認している。非武装・ニッポンをめざすことは、憲法本来の非武装、交戦権否認の理念を実現させることを意味する。その時、憲法9条は世界における輝ける存在となるだろう。この時こそ武装した自衛隊を全面改組して非武装の地球救援隊が世界に登場する日である。これは現行自衛隊法に定める「災害派遣」の精神を継承して、地球規模で非軍事の分野に限定して平和憲法の本来の理念を実践していく時である。21世紀における新しい時代の夜明けを告げる時でもある。
以上は暴力(=戦争)に結びつく貪欲思想に立つ現代経済学には無縁の構想であり、これに反し、いのち・自然からなる生命共同体を畏敬の念とともに尊重し、非暴力(=平和)、知足、簡素、共生、利他、多様性、持続性などを志向する仏教経済学(思想)ならではの提言であることを強調したい。
<参考資料>
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年)
・同「同(下) ― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同研究所、平成二十一年)
・安原和雄「宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想 ― 連載・やさしい仏教経済学(38)」(仏教経済塾に2011年4月1日掲載)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「安保(あんぽ)」と聞いて、どういうイメージを思い浮かべるだろうか。「トモダチ作戦」、すなわち在日米軍と自衛隊による大災害復旧協力作戦としか認識できないのでは安保(=日米安保体制)の素顔は見えてこない。日米安保体制は、軍事同盟と経済同盟からなる日米同盟であり、日本国平和憲法本来の戦争放棄・非武装や生存権・幸福権確保の理念と正面から矛盾している。
だから 平和憲法本来の理念を生かし、実現していくためには日米安保=日米同盟の解体を視野に入れる必要がある。日米安保条約は「条約の一方的破棄」が可能であることを明記している。日米同盟の呪縛を解いて、自由を獲得する日はいつか。それをしっかり視野に収めるときである。(2011年4月11日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 「トモダチ作戦」という名の在日米軍の復旧協力
毎日新聞(4月5日付)によると、北沢俊美防衛相は4月4日、東日本大震災の被災地支援活動「トモダチ作戦」の海上拠点となっている米原子力空母ロナルド・レーガンを米軍機で訪れた。約2000人の乗員を前に北沢氏は「今回ほど米国を友に持つことを心強く思ったことはない。半世紀にわたる日米同盟のきずなの証しだ」と菅直人首相の謝辞を代読した。
同行したルース駐日米大使は「日本を再建する上で、いかなる時でも米国は力になる」と表明、ウオルシュ米太平洋艦隊司令官は、米兵の家族の寄せ書きを北沢氏に渡し、「世界中にトモダチがいる証しだ」と述べた。
米軍が沖縄県の米空軍嘉手納基地から投入(大震災発生から5日後の3月16日早朝)した353特殊部隊を指揮するドウエイン・ロット大佐は言い切る。「22年間の軍人生活でも、ベストな連携を図れた作戦の一つ」と。
空軍特殊部隊の任務は敵地に乗り込んで迅速な拠点整備をすること。アフガニスタンやイラクなど戦闘地で作戦のほか、04年のスマトラ沖大地震によるインド洋大津波でインドネシアにも出動した。
一方、自衛隊の役割分担はどう行われたのか。現地で調整に当たる陸上自衛隊の笠松誠・一佐(46)は、「自衛隊は被災者の近くに行くべきだと、役割を分担した。大きな連携がうまくできた。ミラクルです。日米安保を絵に描いたような作戦」と説明した。
在日米軍司令部のニール・フィッシャー海兵隊少佐(39)も「ハイチ大地震(2010年)では準備に4日かかった。今回はすぐにリクエスト(要請)に応えられる態勢が整った」と米軍が日本に駐留する意義を強調する。(以上の趣旨は、毎日新聞から)
以上の「トモダチ作戦」という名の在日米軍と自衛隊との大災害復旧協力作戦から見えてくるものは何か。
まず現地の地方自治体や被災者達にとっては感謝に値する協力作戦であることは間違いない。ただ念のため指摘すれば、自衛隊法は自衛隊の任務として防衛出動、治安出動に限らず、災害派遣(同法83条)も行うことを定めている。自衛隊はこの自衛隊法の定めに従って当然の任務として行動しているのであり、特別のサービス精神によって、本来の任務外の災害対策に当たっているわけではない。
むしろ私(安原)の関心を引くのは軍人達の次の認識である。いずれも日米安保体制の存在価値を強調している。
「日米安保を絵に描いたような作戦」(陸上自衛隊の笠松誠・一佐)
「(日米安保によって)米軍が日本に駐留する意義を強調」(在日米軍司令部のニール・フィッシャー海兵隊少佐)
日米安保是認派の読売新聞社説(4月10日付)は、「トモダチ作戦」について「日米同盟深化の重要な一歩だ」(社説の見出し)と論じている。
▽ 「軍事同盟」、「経済同盟」としての日米安保体制
さて通称「安保(あんぽ)」すなわち日米安保体制とは、どのような素性なのか。まず日米安保体制は、日米間の軍事同盟と経済同盟の二つの同盟の土台となっていることを強調したい。
軍事同盟は日米安保条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」=1960年6月発効)3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。
特に3条の「自衛力の維持発展」を日本政府は忠実に守り、いまや米国に次いで世界有数の強力な軍事力を保有している。これが憲法9条の「戦力不保持」を骨抜きにしている元凶である。
しかも1960年、旧安保から現在の新安保に改定された当初は対象区域が「極東」に限定されていたが、今では変質し、「世界の中の安保」をめざすに至った。その節目となったのが1996年4月の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言 ― 二十一世紀に向けての同盟」で、「地球規模の日米協力」をうたった。
これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。この再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。米国の覇権主義にもとづくイラク攻撃になりふり構わず同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。
こうして軍事同盟としての安保体制は、米国の軍事力による覇権主義を行使するために「日米の軍事一体化」、すなわち沖縄をはじめとする広大な在日米軍基地網を足場に日本が対米協力に精出す巨大な軍事的暴力装置となっている。
「経済同盟」は、安保条約2条の「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを土台としている。「自由な諸制度の強化」とは新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。
だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、人権無視、疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。
これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を蔑(ないがし)ろにしている元凶といえる。
▽ 日米安保条約は一方的破棄が可能
日本政府は機会あるごとに「日米同盟堅持」あるいは「日米同盟深化」を強調するが、これは、以上のような特質をもつ軍事・経済同盟の堅持、深化を意味する。
重要なことは、最高法規である平和憲法体制と条約にすぎない日米安保体制が根本的に矛盾しているにもかかわらず日米安保が優先され、憲法の平和・生活理念が空洞化している現実である。つまり日本の国としてのありかたの土台、根本原理が蝕まれているわけで、ここに日本の政治、経済、社会の腐朽、不正、偽装の根因がある。だから日米安保体制の素顔は、上述の「トモダチ作戦」のイメージとは異質のものである。あるいは素顔が「暴力装置」であるからこそ、「トモダチ作戦」のような融和策が必要ともいえるのではないか。
こういう暴力装置としての日米同盟、すなわち日米安保体制が諸悪の根源となっている以上、その解体を長期的視野に入れて、日本列島上にいのちの尊重、非暴力、共生を実現していくことが不可欠である。その有力な手だてとして、互恵平等を原則とする非軍事の「日米平和友好条約」へ切り替えていくことを展望する必要がある。この平和友好条約への転換を土台にしてこそ、初めて非軍人による真の意味の「トモダチ作戦」が可能となる。
日米安保体制といえども、決して聖域ではない。不都合であれば、国民の意思によって終了させる以外に妙策はない。日米安保条約10条(有効期限)に「条約は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後一年で終了する」と一方的破棄が可能な規定となっていることを忘れないようにしたい。
この歴史的変革によって、軍事・経済同盟の呪縛を清算し、自らを解放し、自由を獲得しなければならない。その日が実現すれば、その時こそ日本の針路を自主的に選択できる余地が開けてくるだろう。
▽ 自主的な選択肢 ― 非武装・ニッポンをめざして
自主的な選択肢として何を展望できるだろうか。それは「非武装・ニッポン」以外の選択肢はあり得ないだろう。
非武装モデルとして日本とコスタリカを挙げることができる。ただし日本の非武装は平和憲法(1947年施行)上の理念にとどまっており、現実には強大な軍事力保有によって空洞化しているが、コスタリカは憲法改正(1949年)によって軍隊を廃止したままであり、しかも中立平和外交(1983年に中立宣言)に熱心で、憲法条項の実践国として世界の最先端を歩んでいる。
*日本国憲法の前文(平和生存権)と9条
前文=われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
9条=戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認
*コスタリカ憲法の常備軍禁止規定
コスタリカ憲法12条(常備軍の禁止)=常設の組織としての軍隊はこれを禁止する。公の秩序の監視と維持に必要な警察力はこれを保有する。大陸内の協定または国内防衛のためにのみ軍事力を組織することができる。
コスタリカ憲法は必要に応じて軍隊を持てる規定になっているが、日本国憲法は軍備及び交戦権まで否認している。しかし民主党政権を含む保守政権は解釈改憲の手法によって強大な軍備の保有を是認している。非武装・ニッポンをめざすことは、憲法本来の非武装、交戦権否認の理念を実現させることを意味する。その時、憲法9条は世界における輝ける存在となるだろう。この時こそ武装した自衛隊を全面改組して非武装の地球救援隊が世界に登場する日である。これは現行自衛隊法に定める「災害派遣」の精神を継承して、地球規模で非軍事の分野に限定して平和憲法の本来の理念を実践していく時である。21世紀における新しい時代の夜明けを告げる時でもある。
以上は暴力(=戦争)に結びつく貪欲思想に立つ現代経済学には無縁の構想であり、これに反し、いのち・自然からなる生命共同体を畏敬の念とともに尊重し、非暴力(=平和)、知足、簡素、共生、利他、多様性、持続性などを志向する仏教経済学(思想)ならではの提言であることを強調したい。
<参考資料>
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年)
・同「同(下) ― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同研究所、平成二十一年)
・安原和雄「宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想 ― 連載・やさしい仏教経済学(38)」(仏教経済塾に2011年4月1日掲載)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
大惨事の廃墟から立ち上がるとき
安原和雄
天災(地震と大津波)と人災(原発大事故と放射能汚染)による複合的大惨事とその廃墟から立ち上がり、閉塞状況を打破するにはどうしたらよいだろうか。目先の対応策ももちろん重要であるが、もう少し長期的視野から日本の行く末を考え直すときではないだろうか。それを「平成の再生」モデルとして提唱したい。日本の近現代史上に位置づければ、明治維新、昭和の戦後改革に次ぐ第三の平成の変革事業となる。
明治維新、戦後改革はともに既存秩序の継承ではなく、質的変革、つまり国のあり方そのものの変革を意味した。同様に今日本が直面しているのは、政治、経済、社会、文化の新しい姿を模索していくことにほかならない。廃墟の中から立ち上がるのだから、あえて「再生」と呼びたい。その鍵になるのはいうまでもなく「脱・原発」への模索である。(2011年4月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
菅直人首相は2011年1月の施政方針演説で訴えた。「私が掲げる国づくりの理念は、<平成の開国」>だ。日本はこの150年間に<明治の開国>と<戦後の開国>を成し遂げたが、私はこれらに続く<第三の開国>に挑む」と。巨大震災が訴えているのは<開国>ではなく、<平成の再生>である。首相の演説はもともと的外れであったが、日本列島が未曾有の激震に見舞われたため、3か月程度で完全に陳腐化した。
▽ 「平成の再生」モデルの概要
「平成の再生」モデルの概要を述べる。その主要な柱は以下の6項目からなっている。
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
原発(注1)の安全神話が根底から崩壊した今、「脱・原発」への道を模索することが不可避であるだけではない。根拠なき安全神話を捏(ねつ)造しながら原発をごり押しして、いのち、自然を汚染・破壊してきた元凶は「原発推進複合体」とも名づけるべき存在である。その解体こそが急務であり、その成否が「平成の再生」の鍵を握っている。
(注1)世界の原子力発電の現状=国際原子力機関(IAEA)によると、世界で稼働中の原子炉は437基(2010年1月現在)で、国別にみると、最多が米国の104基、フランス59基、日本54基(ほかに計画12基、建設中2基)の順で、日本は世界3位の多さである。世界の総電力量のうち約14%(09年)が原発でまかなわれている。
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
「脱・原発」といえば、エネルギー供給は大丈夫か、という不安もあるに違いない。当面は原発の新増設の中止であり、既存の原発は中期的視野で漸減させていくが、東海地震に備えて中部電力浜岡原発(静岡県)は運転停止する。その一方、再生可能な自然エネルギー(太陽光、風力など)の利用・普及の促進と自然環境重視の循環型社会の構築が急務である。
(3)脱・経済成長主義へ転換を
環境を破壊しつつ、経済の量的拡大しか意味しない経済成長主義に執着するのは時代感覚がずれすぎている。私はここ十数年来「脱・成長」を唱えてきた。「脱・原発」のためにも貪欲な経済成長ではなく、簡素にして持続可能な経済の質的発展こそが日本経済の目指すべき課題である。質的発展には仏教を含む宗教、精神文化の重視も含まれる。質的発展の重要性を改めて自覚するときである。
(4)ローカリゼーションのすすめ
グローバリズムよ、さようなら! ローカリズムよ、今日は! が時代の合い言葉である。地球規模で企業利益を荒稼ぎする多国籍型大企業が主役の時代は過去の物語となりつつある。地域住民が主役のローカリズムを重視しなければ、巨大震災と原発大事故による廃墟から立ち上がり、再生を図ることは困難である。
(5)クルマ依存症から脱却しよう
全国の交通のあり方としてクルマ社会(マイカー中心)から徒歩、自転車、公共交通(バス、路面電車、鉄道)重視への転換を急がねばならない。巨大震災では自転車や公共交通に比べ輸送効率の劣るマイカーは十分に機能するとはいいにくい。人間の原点ともいうべき2本足で歩くことの価値をこの際、改めて認識し直したい。
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
日米安保の特質は日米軍事同盟という名の「暴力装置」である。大手メディアに「安保は安心・安定装置」などという認識があるが、大いなる錯覚というべきである。日米安保を破棄し、自衛隊を非武装の「地球救援隊」へと全面改組する必要がある。これこそが平和憲法本来の理念、非武装ニッポンを実現させていく道である。
以上の6本柱のうち、(2)から(5)までの柱は、ここ数年来欧米では地方自治体、市民レベルを中心に動き出しており、世界の新潮流となりつつある。(6)の地球救援隊構想は平和憲法の理念を実行するアイデアで、私はここ数年来唱えてきた。実現すれば、世界の先駆けとなる。
以下では<(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>を中心に考えたい。特に「原発推進複合体」解体は「再生ニッポン」のあり方を考える上で重要な新しい視点である。
なお(1)の「脱・原発」と(2)から(6)までの柱は、日本変革の望ましい姿としてブログ「安原和雄の仏教経済塾」でしばしば論じてきた。その骨格は「平成の再生」モデルに生かすことができると考えている。その記事のタイトルと掲載日を<参考資料>として末尾に紹介する。
<「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>は次の二点を取り上げる。
*大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
*原発推進複合体の解体が急務
▽ 大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
20年も昔のこと、まだ現役記者だった頃、ある電力会社社長との懇談の席で私(安原)は、その社長に向かってこう言った。「あなた方は原発は安全だと言い張っているが、大事故が起こってから謝罪の遺書を残してあの世へ旅立ったとしても、それで責任をとれるわけではないでしょう。どうですか」と。その社長は、ただ黙ってうつむいていたのを鮮明に覚えている。痛いところを指摘されたと思ったのか、それとも予想外の質問に唖然としたのか、そこは分からない。
世界を驚かせた米スリーマイル島原発事故(1979年)、さらに旧ソ連領のチェルノブイリ原発事故(1986年)が発生しており、私にとってはごく当然の質問である。しかし原発推進派は安全神話への疑問に誠意ある対応を拒否し続けてきた。その無責任振りの成れの果てが今回の東電福島原発の大惨事である。安全神話への異常な執着が今回の悲劇をもたらし、安全神話そのものを内部から自壊させたといえる。
安全神話が根拠のない虚構であることについてはこれまで多くの指摘があった。その一つに原発技術者、平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい ― 優しい地球 残そう子どもたちに」という内容の遺書(注2)がある。
(注2)東電福島原発の事故以来、インターネット・メールで毎日大量の原発惨事関連の情報が送られてくるが、この遺書もその一つである。平井氏は1級プラント配管技能士として原子力発電所で働き、放射能を体内に浴びる内部被曝を100回以上も受けて、癌になり、1997年死去。原発事故調査団国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、東電福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人などとして反原発の立場から尽力した。
その遺書は、「原発がある限り、安心できないし、平和も来ない。原発が地震で壊れる心配もある」と力説している。要点を以下に紹介する。
2011年「3.11」以降の日本の現実は、一人の原発技術者の「心配」が単なる杞憂ではなく、現実の悲劇として進行中である。遺書に盛り込まれている「安全神話に疑問を投げかける良心の叫び」を電力会社だけでなく、歴代自民党政権、現民主党政権も共に無視した、その罪は計り知れないほど大きい。
<原発技術者の遺書は訴える>
原発は確かに電気を作っている。しかし私がこの目で見たり、この身体で体験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということ。原発を造る時から地域の人たちは賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たらできたで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいる。
みなさんは原発が事故を起こしたら、怖いのは知っている。だったら事故さえ起こさなければいいのか、平和利用なのか。そうじゃない。働く人が被曝して死んだり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではない。原発がある限り、安心できないのだから。
それに今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油が要る。今作っている以上のエネルギーが必要になることは間違いない。しかもその核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのだ。そんな原発がどうして平和利用といえるか。だから私は何度でも言うが、原発は絶対に核の平和利用ではない。
私はお願いしたい。このまま原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまう、と。
だからこれ以上原発を増やしてはいけない。原発の増設は絶対に反対だという信念でやっている。稼働している原発も、着実に止めなければならない。原発がある限り、世界に本当の平和は来ないのだから。(以上、遺書から)
▽ 原発推進複合体の解体が急務(1)― 複合体の特色は
「原発推進複合体」という名の妖怪が地震大国日本の弱点を無視したまま、列島上を徘徊(はいかい)してきた。この複合体は政府(首相官邸、内閣府原子力安全委員会、経済産業省と原子力安全・保安院など)、商工族議員、電力会社を軸とする経済界、原発推進の御用学者・専門家、大手の新聞・テレビなどの面々を構成メンバーとしている。「複合体」という名称は、あの有名な「軍産複合体」(注3)にヒントを得て私(安原)が名づけたもので、軍産複合体に劣らぬパワー(政治・経済権力)を備えている。
(注3)軍産複合体といえば、「アイクの警告」を思い出すほかない。半世紀も昔のこと、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るとき、全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは<軍産複合体>とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
軍部と産業との結合体である軍産複合体の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体となっている。これが特にブッシュ政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といえる。オバマ大統領の時代になってからも、この軍産複合体のパワーは変わっていない。
日本にも日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携し、日米軍事同盟を存続させる担い手として機能している。存続の必要条件が「敵からの脅威」であり、必要に応じてあえて脅威論を演出することも厭(いと)わない。時折、メディアがはやす「中国や北朝鮮からの脅威」がその具体例である。
さて原発推進複合体の特色は何か。軍産複合体との対比で考える。以下の三点を挙げることができる。
*安全神話と抑止力神話=危険な原子力発電だからこそ安全神話で支える必要があったが、その神話が崩壊した。軍産複合体は抑止力神話(敵の侵略攻撃を防ぐ抑止力)を掲げているが、実態は米国の覇権主義に基づく対外侵略攻撃力である。沖縄などの在日米軍基地はその出撃基地として機能している。
*原発ビジネスと兵器ビジネス=双方ともに巨額のビジネスとして潤っている。ビジネスとは別に電源立地地域対策交付金という名の「アメ」が用意されている。原発を受け入れる地域に対し、交付金として国から100億単位のカネが支給されることもあり、文化教育施設を含む公共施設の整備などに注ぎ込まれる。
*「想定外の無責任」と廃墟=放射能汚染の拡大、軍事力攻撃のいずれも廃墟を造り出すことでは同じだが、原発では「想定外の無責任」という特殊な思考様式がある。今回の原発大事故は「想定外」と当事者は言い訳に苦心したが、「想定外」は怠慢の故であり、免責されるわけではない。
余談だが、2月京都大学受験生がケータイでカンニングして逮捕される事件が発生した。受験生にとっては想定外の問題だからカンニングしたのだろう。受験生が逮捕され、一方、原発大災害の責任者が「想定外」を理由に免責されるとしたら、これほどの不公平はないとはいえないか。公平な審判員ならどうみるか?
あえて付言すれば、この原発推進複合体の解体を促さない限り、今後も廃墟が日本列島上のあちこちに拡大するほかないだろう。
▽ 原発推進複合体の解体が急務(2)― 大手メディアの責任
軍産複合体同様に、原発推進複合体にもその一員として組み込まれている大手メディアの役割とその責任は軽視できない。
朝日新聞のコラムニスト、若宮啓文氏は「ザ・コラム」(4月3日付朝日新聞)で「3・11の衝撃」と題して、次のように指摘している。
原発の安全神話が崩壊したのだが、ことの深刻さはそれにとどまらない。地球温暖化の原因であるCO2の削減が人類の避けられない課題となる中、クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発に代わるものが、すぐにはないからだ。(中略)「日本の原発は世界で一番安全だ」と公言してきた国でもある。広島・長崎という悲惨な原爆体験があればこその自負だったが、その原発が大津波の対策を甘く見て墓穴を掘った。何とも大きな歴史の皮肉に違いないが、それは日本に対して真っ先にエネルギーの本格的な発想転換を促したとも言えよう、と。
一言感想を述べたい。文中の「クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発」という指摘は原発推進派の言い分で、大手メディアもその一役を担ってきたのであり、原発に疑問を抱いてきた人々の発想ではない。もう一つ、「エネルギーの本格的な発想転換を」という主張は、その通りで、緊急のテーマである。しかしどう転換するのか、その具体策には触れていない。全体として他人事のような解説という印象が残る。
大手メディアがいつになったら自己批判を込めて社説(社論)で「原発見直し」の主張を展開するのかと注視してきた。やっと朝日新聞社説(4月4日付)が大手紙の先陣を切って「岐路に立つ電力文明 持続可能な暮らしを求めて」と題して論じた。
その趣旨は、「原子力は優等生に見えた」と言い訳をしながらも、「原発の神話の克服はこれからである。(中略)二酸化炭素(CO2)を出す化石燃料依存へと、単純な先祖返りはできない。ならば太陽光、風力、地熱など再生可能な自然エネルギーを総動員する必要がある」と化石燃料依存から自然エネルギーへの転換を促している。
主張としては正しい。賛成したい。しかし苦言を呈したい。それは原発推進派であったはずだが、そのことへの自己批判が欠落していることである。それだけではない。相変わらず「権力追随型」から脱却し切れていない印象がある。というのは菅首相が3月末、記者会見で原発の新増設計画の見直しを検討する旨を発言しており、時間の経過からいえば、それを受ける形で社説が書かれているからである。
今となっては原発の新増設の見直し、中止は当然のことであり、焦点は「脱・原発」路線にどこまで踏み込むかである。そこに切り込むのがジャーナリズムの仕事とはいえないか。ジャーナリズムの原点は権力批判である。この原点をあやふやにするようでは、メディアは政府の宣伝機関へと堕すほかない。最近の大手メディアの社説は概して権力批判の姿勢から遠いことを惜しむ。
批判精神が光っているのは毎日新聞「仲畑流万能川柳」(4月3日付)である。川柳に託す市民、生活者の心意気のいくつかを紹介すると ― 。カッコ内は私(安原)のコメント。
*私等は電力会社選べぬし(競争のない電力会社だから無責任な思考がはびこる)
*問題ないけれど避けろと放射能(専門家も正直言ってよく分からないというお話)
*下請けが原発管理?そりゃないわ(肝心な管理を下請けに出す東京電力への怒り)
*想定外 ただ考えていないだけ(自分の怠慢を言いつくろうためのずるい発想)
*安全といってた人はいまどこに(調子のいい言動の輩ほど雲隠れが得意ということ)
*浮き草のように流れる高級車(クルマは便利と思いこんでいる人々への自然からの戒め)
<参考資料>
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
・原子力発電は「人類の生存に脅威」― 連載・やさしい仏教経済学(6)=2010年7月8日/・仏教小説『暴風地帯』を読んで ― 風力発電派と原発派の抗争の果てに=10年4月2日/・市民組織「みどりの未来」が目指す変革 ― 自然と共生、脱原発、持続可能な社会=10年1月8日/・今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに=08年1月25日/・日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない=07年8月28日
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
・地産地消型自然エネルギーへ転換を ― 連載・やさしい仏教経済学(33)=2011年2月17日/・循環型社会づくりは平和と共に ― 環境先進国・コスタリカに学ぶ=09年5月15日
(3)脱・経済成長主義へ転換を
・シューマッハーの脱「経済成長」論 ― 連載・やさしい仏教経済学(8)=2010年7月23日/・経済成長至上主義よ、さようなら ― 連載・やさしい仏教経済学(27)=2011年1月8日ほか多数
(4)ローカリゼーションのすすめ
・簡素とローカリゼーションのすすめ ― 連載・やさしい仏教経済学(19)=2010年10月22日/・台頭するローカリゼーション ― 経済のグローバル化への果たし状=07年12月20日
(5)クルマ依存症から脱却しよう
・破壊型くるま社会から脱出する道 ― 連載・やさしい仏教経済学(35)=2011年3月8日/・「鞆の浦」の景観は「国民の財産」 ― 歴史的景勝地に車社会は似合わない=09年10月7日/・芭蕉の「歩く文化の旅」に学ぶ ― クルマ依存型文明をどう超えるか=09年4月28日
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
・宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想 ― 連載・やさしい仏教経済学(38)=2011年4月1日/・「日米安保」への執着を捨てるとき ― 沖縄知事選結果が示唆すること=2010年11月30日ほか日米安保関連の批判記事は多数
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
天災(地震と大津波)と人災(原発大事故と放射能汚染)による複合的大惨事とその廃墟から立ち上がり、閉塞状況を打破するにはどうしたらよいだろうか。目先の対応策ももちろん重要であるが、もう少し長期的視野から日本の行く末を考え直すときではないだろうか。それを「平成の再生」モデルとして提唱したい。日本の近現代史上に位置づければ、明治維新、昭和の戦後改革に次ぐ第三の平成の変革事業となる。
明治維新、戦後改革はともに既存秩序の継承ではなく、質的変革、つまり国のあり方そのものの変革を意味した。同様に今日本が直面しているのは、政治、経済、社会、文化の新しい姿を模索していくことにほかならない。廃墟の中から立ち上がるのだから、あえて「再生」と呼びたい。その鍵になるのはいうまでもなく「脱・原発」への模索である。(2011年4月5日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
菅直人首相は2011年1月の施政方針演説で訴えた。「私が掲げる国づくりの理念は、<平成の開国」>だ。日本はこの150年間に<明治の開国>と<戦後の開国>を成し遂げたが、私はこれらに続く<第三の開国>に挑む」と。巨大震災が訴えているのは<開国>ではなく、<平成の再生>である。首相の演説はもともと的外れであったが、日本列島が未曾有の激震に見舞われたため、3か月程度で完全に陳腐化した。
▽ 「平成の再生」モデルの概要
「平成の再生」モデルの概要を述べる。その主要な柱は以下の6項目からなっている。
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
原発(注1)の安全神話が根底から崩壊した今、「脱・原発」への道を模索することが不可避であるだけではない。根拠なき安全神話を捏(ねつ)造しながら原発をごり押しして、いのち、自然を汚染・破壊してきた元凶は「原発推進複合体」とも名づけるべき存在である。その解体こそが急務であり、その成否が「平成の再生」の鍵を握っている。
(注1)世界の原子力発電の現状=国際原子力機関(IAEA)によると、世界で稼働中の原子炉は437基(2010年1月現在)で、国別にみると、最多が米国の104基、フランス59基、日本54基(ほかに計画12基、建設中2基)の順で、日本は世界3位の多さである。世界の総電力量のうち約14%(09年)が原発でまかなわれている。
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
「脱・原発」といえば、エネルギー供給は大丈夫か、という不安もあるに違いない。当面は原発の新増設の中止であり、既存の原発は中期的視野で漸減させていくが、東海地震に備えて中部電力浜岡原発(静岡県)は運転停止する。その一方、再生可能な自然エネルギー(太陽光、風力など)の利用・普及の促進と自然環境重視の循環型社会の構築が急務である。
(3)脱・経済成長主義へ転換を
環境を破壊しつつ、経済の量的拡大しか意味しない経済成長主義に執着するのは時代感覚がずれすぎている。私はここ十数年来「脱・成長」を唱えてきた。「脱・原発」のためにも貪欲な経済成長ではなく、簡素にして持続可能な経済の質的発展こそが日本経済の目指すべき課題である。質的発展には仏教を含む宗教、精神文化の重視も含まれる。質的発展の重要性を改めて自覚するときである。
(4)ローカリゼーションのすすめ
グローバリズムよ、さようなら! ローカリズムよ、今日は! が時代の合い言葉である。地球規模で企業利益を荒稼ぎする多国籍型大企業が主役の時代は過去の物語となりつつある。地域住民が主役のローカリズムを重視しなければ、巨大震災と原発大事故による廃墟から立ち上がり、再生を図ることは困難である。
(5)クルマ依存症から脱却しよう
全国の交通のあり方としてクルマ社会(マイカー中心)から徒歩、自転車、公共交通(バス、路面電車、鉄道)重視への転換を急がねばならない。巨大震災では自転車や公共交通に比べ輸送効率の劣るマイカーは十分に機能するとはいいにくい。人間の原点ともいうべき2本足で歩くことの価値をこの際、改めて認識し直したい。
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
日米安保の特質は日米軍事同盟という名の「暴力装置」である。大手メディアに「安保は安心・安定装置」などという認識があるが、大いなる錯覚というべきである。日米安保を破棄し、自衛隊を非武装の「地球救援隊」へと全面改組する必要がある。これこそが平和憲法本来の理念、非武装ニッポンを実現させていく道である。
以上の6本柱のうち、(2)から(5)までの柱は、ここ数年来欧米では地方自治体、市民レベルを中心に動き出しており、世界の新潮流となりつつある。(6)の地球救援隊構想は平和憲法の理念を実行するアイデアで、私はここ数年来唱えてきた。実現すれば、世界の先駆けとなる。
以下では<(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>を中心に考えたい。特に「原発推進複合体」解体は「再生ニッポン」のあり方を考える上で重要な新しい視点である。
なお(1)の「脱・原発」と(2)から(6)までの柱は、日本変革の望ましい姿としてブログ「安原和雄の仏教経済塾」でしばしば論じてきた。その骨格は「平成の再生」モデルに生かすことができると考えている。その記事のタイトルと掲載日を<参考資料>として末尾に紹介する。
<「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>は次の二点を取り上げる。
*大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
*原発推進複合体の解体が急務
▽ 大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
20年も昔のこと、まだ現役記者だった頃、ある電力会社社長との懇談の席で私(安原)は、その社長に向かってこう言った。「あなた方は原発は安全だと言い張っているが、大事故が起こってから謝罪の遺書を残してあの世へ旅立ったとしても、それで責任をとれるわけではないでしょう。どうですか」と。その社長は、ただ黙ってうつむいていたのを鮮明に覚えている。痛いところを指摘されたと思ったのか、それとも予想外の質問に唖然としたのか、そこは分からない。
世界を驚かせた米スリーマイル島原発事故(1979年)、さらに旧ソ連領のチェルノブイリ原発事故(1986年)が発生しており、私にとってはごく当然の質問である。しかし原発推進派は安全神話への疑問に誠意ある対応を拒否し続けてきた。その無責任振りの成れの果てが今回の東電福島原発の大惨事である。安全神話への異常な執着が今回の悲劇をもたらし、安全神話そのものを内部から自壊させたといえる。
安全神話が根拠のない虚構であることについてはこれまで多くの指摘があった。その一つに原発技術者、平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい ― 優しい地球 残そう子どもたちに」という内容の遺書(注2)がある。
(注2)東電福島原発の事故以来、インターネット・メールで毎日大量の原発惨事関連の情報が送られてくるが、この遺書もその一つである。平井氏は1級プラント配管技能士として原子力発電所で働き、放射能を体内に浴びる内部被曝を100回以上も受けて、癌になり、1997年死去。原発事故調査団国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、東電福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人などとして反原発の立場から尽力した。
その遺書は、「原発がある限り、安心できないし、平和も来ない。原発が地震で壊れる心配もある」と力説している。要点を以下に紹介する。
2011年「3.11」以降の日本の現実は、一人の原発技術者の「心配」が単なる杞憂ではなく、現実の悲劇として進行中である。遺書に盛り込まれている「安全神話に疑問を投げかける良心の叫び」を電力会社だけでなく、歴代自民党政権、現民主党政権も共に無視した、その罪は計り知れないほど大きい。
<原発技術者の遺書は訴える>
原発は確かに電気を作っている。しかし私がこの目で見たり、この身体で体験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということ。原発を造る時から地域の人たちは賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たらできたで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいる。
みなさんは原発が事故を起こしたら、怖いのは知っている。だったら事故さえ起こさなければいいのか、平和利用なのか。そうじゃない。働く人が被曝して死んだり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではない。原発がある限り、安心できないのだから。
それに今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油が要る。今作っている以上のエネルギーが必要になることは間違いない。しかもその核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのだ。そんな原発がどうして平和利用といえるか。だから私は何度でも言うが、原発は絶対に核の平和利用ではない。
私はお願いしたい。このまま原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまう、と。
だからこれ以上原発を増やしてはいけない。原発の増設は絶対に反対だという信念でやっている。稼働している原発も、着実に止めなければならない。原発がある限り、世界に本当の平和は来ないのだから。(以上、遺書から)
▽ 原発推進複合体の解体が急務(1)― 複合体の特色は
「原発推進複合体」という名の妖怪が地震大国日本の弱点を無視したまま、列島上を徘徊(はいかい)してきた。この複合体は政府(首相官邸、内閣府原子力安全委員会、経済産業省と原子力安全・保安院など)、商工族議員、電力会社を軸とする経済界、原発推進の御用学者・専門家、大手の新聞・テレビなどの面々を構成メンバーとしている。「複合体」という名称は、あの有名な「軍産複合体」(注3)にヒントを得て私(安原)が名づけたもので、軍産複合体に劣らぬパワー(政治・経済権力)を備えている。
(注3)軍産複合体といえば、「アイクの警告」を思い出すほかない。半世紀も昔のこと、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るとき、全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは<軍産複合体>とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
軍部と産業との結合体である軍産複合体の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体となっている。これが特にブッシュ政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といえる。オバマ大統領の時代になってからも、この軍産複合体のパワーは変わっていない。
日本にも日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携し、日米軍事同盟を存続させる担い手として機能している。存続の必要条件が「敵からの脅威」であり、必要に応じてあえて脅威論を演出することも厭(いと)わない。時折、メディアがはやす「中国や北朝鮮からの脅威」がその具体例である。
さて原発推進複合体の特色は何か。軍産複合体との対比で考える。以下の三点を挙げることができる。
*安全神話と抑止力神話=危険な原子力発電だからこそ安全神話で支える必要があったが、その神話が崩壊した。軍産複合体は抑止力神話(敵の侵略攻撃を防ぐ抑止力)を掲げているが、実態は米国の覇権主義に基づく対外侵略攻撃力である。沖縄などの在日米軍基地はその出撃基地として機能している。
*原発ビジネスと兵器ビジネス=双方ともに巨額のビジネスとして潤っている。ビジネスとは別に電源立地地域対策交付金という名の「アメ」が用意されている。原発を受け入れる地域に対し、交付金として国から100億単位のカネが支給されることもあり、文化教育施設を含む公共施設の整備などに注ぎ込まれる。
*「想定外の無責任」と廃墟=放射能汚染の拡大、軍事力攻撃のいずれも廃墟を造り出すことでは同じだが、原発では「想定外の無責任」という特殊な思考様式がある。今回の原発大事故は「想定外」と当事者は言い訳に苦心したが、「想定外」は怠慢の故であり、免責されるわけではない。
余談だが、2月京都大学受験生がケータイでカンニングして逮捕される事件が発生した。受験生にとっては想定外の問題だからカンニングしたのだろう。受験生が逮捕され、一方、原発大災害の責任者が「想定外」を理由に免責されるとしたら、これほどの不公平はないとはいえないか。公平な審判員ならどうみるか?
あえて付言すれば、この原発推進複合体の解体を促さない限り、今後も廃墟が日本列島上のあちこちに拡大するほかないだろう。
▽ 原発推進複合体の解体が急務(2)― 大手メディアの責任
軍産複合体同様に、原発推進複合体にもその一員として組み込まれている大手メディアの役割とその責任は軽視できない。
朝日新聞のコラムニスト、若宮啓文氏は「ザ・コラム」(4月3日付朝日新聞)で「3・11の衝撃」と題して、次のように指摘している。
原発の安全神話が崩壊したのだが、ことの深刻さはそれにとどまらない。地球温暖化の原因であるCO2の削減が人類の避けられない課題となる中、クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発に代わるものが、すぐにはないからだ。(中略)「日本の原発は世界で一番安全だ」と公言してきた国でもある。広島・長崎という悲惨な原爆体験があればこその自負だったが、その原発が大津波の対策を甘く見て墓穴を掘った。何とも大きな歴史の皮肉に違いないが、それは日本に対して真っ先にエネルギーの本格的な発想転換を促したとも言えよう、と。
一言感想を述べたい。文中の「クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発」という指摘は原発推進派の言い分で、大手メディアもその一役を担ってきたのであり、原発に疑問を抱いてきた人々の発想ではない。もう一つ、「エネルギーの本格的な発想転換を」という主張は、その通りで、緊急のテーマである。しかしどう転換するのか、その具体策には触れていない。全体として他人事のような解説という印象が残る。
大手メディアがいつになったら自己批判を込めて社説(社論)で「原発見直し」の主張を展開するのかと注視してきた。やっと朝日新聞社説(4月4日付)が大手紙の先陣を切って「岐路に立つ電力文明 持続可能な暮らしを求めて」と題して論じた。
その趣旨は、「原子力は優等生に見えた」と言い訳をしながらも、「原発の神話の克服はこれからである。(中略)二酸化炭素(CO2)を出す化石燃料依存へと、単純な先祖返りはできない。ならば太陽光、風力、地熱など再生可能な自然エネルギーを総動員する必要がある」と化石燃料依存から自然エネルギーへの転換を促している。
主張としては正しい。賛成したい。しかし苦言を呈したい。それは原発推進派であったはずだが、そのことへの自己批判が欠落していることである。それだけではない。相変わらず「権力追随型」から脱却し切れていない印象がある。というのは菅首相が3月末、記者会見で原発の新増設計画の見直しを検討する旨を発言しており、時間の経過からいえば、それを受ける形で社説が書かれているからである。
今となっては原発の新増設の見直し、中止は当然のことであり、焦点は「脱・原発」路線にどこまで踏み込むかである。そこに切り込むのがジャーナリズムの仕事とはいえないか。ジャーナリズムの原点は権力批判である。この原点をあやふやにするようでは、メディアは政府の宣伝機関へと堕すほかない。最近の大手メディアの社説は概して権力批判の姿勢から遠いことを惜しむ。
批判精神が光っているのは毎日新聞「仲畑流万能川柳」(4月3日付)である。川柳に託す市民、生活者の心意気のいくつかを紹介すると ― 。カッコ内は私(安原)のコメント。
*私等は電力会社選べぬし(競争のない電力会社だから無責任な思考がはびこる)
*問題ないけれど避けろと放射能(専門家も正直言ってよく分からないというお話)
*下請けが原発管理?そりゃないわ(肝心な管理を下請けに出す東京電力への怒り)
*想定外 ただ考えていないだけ(自分の怠慢を言いつくろうためのずるい発想)
*安全といってた人はいまどこに(調子のいい言動の輩ほど雲隠れが得意ということ)
*浮き草のように流れる高級車(クルマは便利と思いこんでいる人々への自然からの戒め)
<参考資料>
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
・原子力発電は「人類の生存に脅威」― 連載・やさしい仏教経済学(6)=2010年7月8日/・仏教小説『暴風地帯』を読んで ― 風力発電派と原発派の抗争の果てに=10年4月2日/・市民組織「みどりの未来」が目指す変革 ― 自然と共生、脱原発、持続可能な社会=10年1月8日/・今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに=08年1月25日/・日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない=07年8月28日
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
・地産地消型自然エネルギーへ転換を ― 連載・やさしい仏教経済学(33)=2011年2月17日/・循環型社会づくりは平和と共に ― 環境先進国・コスタリカに学ぶ=09年5月15日
(3)脱・経済成長主義へ転換を
・シューマッハーの脱「経済成長」論 ― 連載・やさしい仏教経済学(8)=2010年7月23日/・経済成長至上主義よ、さようなら ― 連載・やさしい仏教経済学(27)=2011年1月8日ほか多数
(4)ローカリゼーションのすすめ
・簡素とローカリゼーションのすすめ ― 連載・やさしい仏教経済学(19)=2010年10月22日/・台頭するローカリゼーション ― 経済のグローバル化への果たし状=07年12月20日
(5)クルマ依存症から脱却しよう
・破壊型くるま社会から脱出する道 ― 連載・やさしい仏教経済学(35)=2011年3月8日/・「鞆の浦」の景観は「国民の財産」 ― 歴史的景勝地に車社会は似合わない=09年10月7日/・芭蕉の「歩く文化の旅」に学ぶ ― クルマ依存型文明をどう超えるか=09年4月28日
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
・宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想 ― 連載・やさしい仏教経済学(38)=2011年4月1日/・「日米安保」への執着を捨てるとき ― 沖縄知事選結果が示唆すること=2010年11月30日ほか日米安保関連の批判記事は多数
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
連載・やさしい仏教経済学(38)
安原和雄
東日本大震災(2011年3月11日発生)は天災(地震・大津波)と人災(原子力発電事故・大量放射性物質の飛散)による戦後未曾有の複合的な大惨事をもたらしている。大規模な救援・復興活動のなかで地味ながら貢献しているのが自衛隊である。大地震に限らず、地球温暖化に伴う異常気象のほか、疾病、飢餓など地球規模の支援策を求められる脅威が今後強まることは避けられない。
この多様な脅威には軍事力は無力であるだけではなく、有害でさえある。この機会に自衛隊を全面改組して、「地球救援隊」(仮称)創設へと進むことを提唱したい。これはわが国の平和憲法本来の「平和と非武装」理念を具体的に実践していくことにほかならない。同時に宮沢賢治の「雨にも負けず」に込められている詩情を地球規模で生かすことにもつながるだろう。(2011年4月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 自衛隊を非武装「地球救援隊」に全面改組へ
(1)なぜ今、地球救援隊なのか
日米安保体制=軍事同盟は、憲法前文の平和共存権と9条の「戦争の放棄、非武装、交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の新たな進路選択が非武装の「地球救援隊」創設である。なぜいま地球救援隊なのか。
第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、飢餓、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威を戦闘機やミサイルによっては防ぐことはできない。
第二は世界の軍事費(2009年)は総計1兆5310億ドル(ストックホルム国際平和研究所=SIPRI調べ。1ドル=85円で換算すると約130兆円。実態は総額2兆ドル近いという試算もある)の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。
第三は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、これらテロの背景にアメリカの世界戦略、外交・軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子(てこ)とする覇権主義が、むしろ世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。アメリカの国家権力こそ世界最大のテロリスト(暴力)集団という見方も成り立つ。
以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを21世紀という時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
中米のコスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を放棄し、今日に至っている。日本が
自衛隊の全面改組によって地球救援隊の創設に踏み切れば、コスタリカとの連携を深めつつ、世界の平和(=非暴力)を創っていく上で先導的な貢献を果たすことにもなるだろう。
(2)地球救援隊構想の概要
地球救援隊構想の概要(目的、達成手段)は次の諸点からなっている。
*地球救援隊の目的は、非軍事的な脅威(大地震などの大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人々との間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の全面改組であること。従って地球救援隊と縮小した武装自衛隊とが併存するものではないこと。
*自衛隊の全面改組の具体案
・装備は兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在実員約23万人)を大幅に削減し、訓練は従来の戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
・特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。
▽「雨にも負けず」の詩情を地球規模で生かす
(1)込められている慈悲と利他の心
地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨にも負けず」の慈悲と利他の心が込められている。その詩情を地球規模で生かしていくのが地球救援隊である。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は東日本大震災の直撃に見舞われた岩手県の生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
よく知られている「雨にも負けず」の大要を紹介したい。
雨にも負けず、風にも負けず、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
(中略)
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
旱(ひでり)の時は涙を流し、
(中略)
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういう者にわたしはなりたい
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨にも負けず」として読み替えれば、以下のように解釈し直すこともできるのではないか。宮沢賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。
(2)21世紀風に読み解くと・・・
(以下の<>内が読み替え)
*雨にも負けず、風にも負けず、いつも静かに笑っている
<日本は2011年春に巨大震災と原発事故による複合的大惨事に襲われ、死者・行方不明者は総計約2万8000人(内訳は死者1万1532人、行方不明者1万6441人=3月31日午後9時現在・警察庁まとめ)にのぼった。自衛隊ヘリコプターなどの活躍がテレビを通じて放映された。備えが十分で、いつでも地球救援隊が駆けつけてくれるという期待があれば、苦痛の中にもささやかな安堵感を抱くこともできよう>
*東に病気の子どもあれば、行って看病してやり
<開発途上国では生まれてから1歳までに亡くなる赤ちゃんが年間約700万人、5歳の誕生日を迎えられずに命を失ってしまう子供は年間1100万人にものぼる。その過半数は栄養不良による。どのように看病すれば、いいのか。世界中で自然環境を汚染・破壊し、いのちを奪うために浪費されている巨額の軍事費のうちほんの一部を回せば、子ども達の目も生き生きと輝いてくるだろう>
*西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
<世界中で安全な飲料水を入手できない人は11億人(地球総人口は2010年10月現在の国連推計で69億人)で、コンピュータ利用者の約2倍に及んでいる。また基礎的な衛生施設を利用できない人は24億人もいる。人口増加を考慮に入れると、2015年には予測される世界人口の40%に相当する約30億人が「水不足国」に住むであろう。水をめぐる局地的な紛争や武力衝突は増加する可能性が高い。アフリカや西アジアでは水瓶(みずがめ)を頭の上に乗せて何キロも離れた距離を運ぶ女性の姿は珍しくない。これでは女性、母たちもたしかに疲れるだろう!>
*南に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいと言い
<世界で南の発展途上国を中心に8億人が飢えている。地球上の住民のうち8人に1人が飢えている勘定だ。南の国々でマラリアの患者は3億人超ともいわれる。スマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生)による死者・行方不明者約30万人、避難民約150万人。毎年50万人超の女性が妊娠と出産のために死んでいる。「怖(こわ)がらなくてもいい」と言われても、死に直面する恐怖から自由になるのは容易ではない。地球救援隊が素早く駆けつけて、救援の手を差し伸べることができれば、少しは恐怖が軽減されるかも知れない>
*北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
<「北に喧嘩」の北とはアメリカであり、喧嘩とは、アフガニスタン攻撃に続くアメリカ主導のイラク攻撃とイラク占領を指している。正当な理由もなく、正義に反し、世界中の非難を浴びているのだから、性懲りもなく続けるのは止めなさい、という声は地球上を覆っている>
*旱(ひでり)のときは涙を流し
<欧州西部(フランス、スペイン、ポルトガル)で2005年水不足が深刻になり、庭の水まきやくるまの洗車を禁止する自治体が増えた。国境をまたいで流れる河川の水の奪い合い、広域の山火事も発生。03年夏は35度を超す酷暑となり、フランスでは高齢者を中心に1万5000人が死んだ。異常気象がもたらす悲劇にはたしかに涙を流さずにはいられない!>
*みんなに「でくの坊」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず
<日本がイラクへ自衛隊を派兵しなければ、アメリカは日本を「でくの坊」、つまり 「役立たず」と非難し、褒めてはくれないだろう。しかし自衛隊の派兵を日本が拒否し ていたら、イラクをはじめ、多くの国や人々からは「苦にもされず」つまり「結構では ないか」と評価されただろう>
*そういう者にわたしはなりたい
<そういう国に日本はなりたい。そういう思いやりがあり、「世のため人のため」に働く人間に私はなりたい>
もし宮沢賢治が今健在なら、日本や世界の現状をみてどういう感想を洩らすだろうか。もはやそれを聴く術(すべ)はないが、想像すれば、日本を含めて世界の激変、悪化に驚き、天を仰いで歎き、涙を流すに違いない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
東日本大震災(2011年3月11日発生)は天災(地震・大津波)と人災(原子力発電事故・大量放射性物質の飛散)による戦後未曾有の複合的な大惨事をもたらしている。大規模な救援・復興活動のなかで地味ながら貢献しているのが自衛隊である。大地震に限らず、地球温暖化に伴う異常気象のほか、疾病、飢餓など地球規模の支援策を求められる脅威が今後強まることは避けられない。
この多様な脅威には軍事力は無力であるだけではなく、有害でさえある。この機会に自衛隊を全面改組して、「地球救援隊」(仮称)創設へと進むことを提唱したい。これはわが国の平和憲法本来の「平和と非武装」理念を具体的に実践していくことにほかならない。同時に宮沢賢治の「雨にも負けず」に込められている詩情を地球規模で生かすことにもつながるだろう。(2011年4月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 自衛隊を非武装「地球救援隊」に全面改組へ
(1)なぜ今、地球救援隊なのか
日米安保体制=軍事同盟は、憲法前文の平和共存権と9条の「戦争の放棄、非武装、交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の新たな進路選択が非武装の「地球救援隊」創設である。なぜいま地球救援隊なのか。
第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、飢餓、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威を戦闘機やミサイルによっては防ぐことはできない。
第二は世界の軍事費(2009年)は総計1兆5310億ドル(ストックホルム国際平和研究所=SIPRI調べ。1ドル=85円で換算すると約130兆円。実態は総額2兆ドル近いという試算もある)の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。
第三は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、これらテロの背景にアメリカの世界戦略、外交・軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子(てこ)とする覇権主義が、むしろ世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。アメリカの国家権力こそ世界最大のテロリスト(暴力)集団という見方も成り立つ。
以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを21世紀という時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
中米のコスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を放棄し、今日に至っている。日本が
自衛隊の全面改組によって地球救援隊の創設に踏み切れば、コスタリカとの連携を深めつつ、世界の平和(=非暴力)を創っていく上で先導的な貢献を果たすことにもなるだろう。
(2)地球救援隊構想の概要
地球救援隊構想の概要(目的、達成手段)は次の諸点からなっている。
*地球救援隊の目的は、非軍事的な脅威(大地震などの大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人々との間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の全面改組であること。従って地球救援隊と縮小した武装自衛隊とが併存するものではないこと。
*自衛隊の全面改組の具体案
・装備は兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在実員約23万人)を大幅に削減し、訓練は従来の戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
・特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。
▽「雨にも負けず」の詩情を地球規模で生かす
(1)込められている慈悲と利他の心
地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨にも負けず」の慈悲と利他の心が込められている。その詩情を地球規模で生かしていくのが地球救援隊である。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は東日本大震災の直撃に見舞われた岩手県の生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
よく知られている「雨にも負けず」の大要を紹介したい。
雨にも負けず、風にも負けず、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
(中略)
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
旱(ひでり)の時は涙を流し、
(中略)
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういう者にわたしはなりたい
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨にも負けず」として読み替えれば、以下のように解釈し直すこともできるのではないか。宮沢賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。
(2)21世紀風に読み解くと・・・
(以下の<>内が読み替え)
*雨にも負けず、風にも負けず、いつも静かに笑っている
<日本は2011年春に巨大震災と原発事故による複合的大惨事に襲われ、死者・行方不明者は総計約2万8000人(内訳は死者1万1532人、行方不明者1万6441人=3月31日午後9時現在・警察庁まとめ)にのぼった。自衛隊ヘリコプターなどの活躍がテレビを通じて放映された。備えが十分で、いつでも地球救援隊が駆けつけてくれるという期待があれば、苦痛の中にもささやかな安堵感を抱くこともできよう>
*東に病気の子どもあれば、行って看病してやり
<開発途上国では生まれてから1歳までに亡くなる赤ちゃんが年間約700万人、5歳の誕生日を迎えられずに命を失ってしまう子供は年間1100万人にものぼる。その過半数は栄養不良による。どのように看病すれば、いいのか。世界中で自然環境を汚染・破壊し、いのちを奪うために浪費されている巨額の軍事費のうちほんの一部を回せば、子ども達の目も生き生きと輝いてくるだろう>
*西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
<世界中で安全な飲料水を入手できない人は11億人(地球総人口は2010年10月現在の国連推計で69億人)で、コンピュータ利用者の約2倍に及んでいる。また基礎的な衛生施設を利用できない人は24億人もいる。人口増加を考慮に入れると、2015年には予測される世界人口の40%に相当する約30億人が「水不足国」に住むであろう。水をめぐる局地的な紛争や武力衝突は増加する可能性が高い。アフリカや西アジアでは水瓶(みずがめ)を頭の上に乗せて何キロも離れた距離を運ぶ女性の姿は珍しくない。これでは女性、母たちもたしかに疲れるだろう!>
*南に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいと言い
<世界で南の発展途上国を中心に8億人が飢えている。地球上の住民のうち8人に1人が飢えている勘定だ。南の国々でマラリアの患者は3億人超ともいわれる。スマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生)による死者・行方不明者約30万人、避難民約150万人。毎年50万人超の女性が妊娠と出産のために死んでいる。「怖(こわ)がらなくてもいい」と言われても、死に直面する恐怖から自由になるのは容易ではない。地球救援隊が素早く駆けつけて、救援の手を差し伸べることができれば、少しは恐怖が軽減されるかも知れない>
*北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
<「北に喧嘩」の北とはアメリカであり、喧嘩とは、アフガニスタン攻撃に続くアメリカ主導のイラク攻撃とイラク占領を指している。正当な理由もなく、正義に反し、世界中の非難を浴びているのだから、性懲りもなく続けるのは止めなさい、という声は地球上を覆っている>
*旱(ひでり)のときは涙を流し
<欧州西部(フランス、スペイン、ポルトガル)で2005年水不足が深刻になり、庭の水まきやくるまの洗車を禁止する自治体が増えた。国境をまたいで流れる河川の水の奪い合い、広域の山火事も発生。03年夏は35度を超す酷暑となり、フランスでは高齢者を中心に1万5000人が死んだ。異常気象がもたらす悲劇にはたしかに涙を流さずにはいられない!>
*みんなに「でくの坊」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず
<日本がイラクへ自衛隊を派兵しなければ、アメリカは日本を「でくの坊」、つまり 「役立たず」と非難し、褒めてはくれないだろう。しかし自衛隊の派兵を日本が拒否し ていたら、イラクをはじめ、多くの国や人々からは「苦にもされず」つまり「結構では ないか」と評価されただろう>
*そういう者にわたしはなりたい
<そういう国に日本はなりたい。そういう思いやりがあり、「世のため人のため」に働く人間に私はなりたい>
もし宮沢賢治が今健在なら、日本や世界の現状をみてどういう感想を洩らすだろうか。もはやそれを聴く術(すべ)はないが、想像すれば、日本を含めて世界の激変、悪化に驚き、天を仰いで歎き、涙を流すに違いない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
| ホーム |