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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
群れることができない日本人
<折々のつぶやき>11

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>11回目。(06年3月19日掲載)

 少し長めですが、「群れることができない日本人」というテーマのエッセイ(一部)を紹介しましょう。

 日本に長く住んでいて一番感じるのは、日本人は芸能人や花火大会などでは「群れる」のに、政治や社会問題に対してはポジティブに「群れることを恐れる」ということです。「群れる」ことは「遅れたアジア」の象徴だと思っている人もいるでしょう。しかしロンドンではイラク戦争反対のために数万人がトラファルガー広場に集まり、アメリカでもイラク戦争で息子を亡くした母親の行動に多くの人が呼応し結局、全米の世論を動かしました。これら市民の行動力はソフトパワーの源泉になっています。

 日本でも戦争に反対し、世の中の不条理に対して憤りを覚える人は多いでしょう。しかし、なぜかそれが群れをなしてピープルズパワーとして結集することができません。「義侠心」なんて言葉は日本では死語になりつつあります。このままサイレントマジョリティーを決め込んでいると、外からは日本は顔の見えない社会としてみられ、国家権力や資本にはいいように弄ばれます。

 日本国民は政府から軽くみられていると思います。公約違反の大増税路線にさほど反発もせず、日本やアジアの命運を決することになる憲法改正にも異議を唱えず、近隣外交がうまくいかなくても、選挙で圧勝させてくれます。(中略)これでは政府・与党のやりたい放題です。あらゆる権力や権威・不条理に対して異議申し立てを行うことは、若者の特権であり、義務だと思います。
(一橋大学広報誌『HQ』=Hitotsubashi Quarterly=2006年1月・冬号掲載の特集「世界を解く<群れる>」から)

 筆者は韓国の人で、一橋大学大学院法学研究科専任講師のコン・ヨンソクさんです。これまで<折々のつぶやき>で2回世間論を取り上げましたが、この「市民パワーの結集を」と呼びかける一文も世間論―もっとも筆者本人が世間論を意識しているかどうかは分かりませんが―に通底しているように思います。
 日本人の世間論は多くの場合、「世間の故に自己主張ができない」という視点でとらえるのに、コン・ヨンソクさんの提案は日本的世間に風穴をあけようとするなら、「市民パワーとして群れて、権力、権威、不条理に対して異議申し立てを行うこと」という積極的な行動が必要だと呼びかけているところに特色があります。

 エッセイの中で無視できないのは「サイレントマジョリティ(物言わぬ大衆)を決め込んでいると、外からは日本は顔の見えない社会としてみられ、国家権力や資本にはいいように弄(もてあそ)ばれる」という指摘です。日本に長く住んでいながら日本的世間に拘束されずに、距離をおいて観察できる立場からの有益な助言と受け止めたいですね。
 この指摘通りのままに、あたかも従順な羊の群れとして「弄ばれる」ことに我々日本人が甘んじていると、日本人そして日本は国際社会の中で存在感があり、尊敬される地位を獲得することはとてもできないように思います。

 群れには2つのタイプがあります。意見を言わぬ「従順な羊」として群れるのか、それとも「異議申し立ての市民パワー」として群れるのか―、日本人よ、どうするのか? と迫られているように私は読みました。あなたならどうしますか。


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「世間」という名の呪縛(つづき)
<折々のつぶやき>10

 安原和雄
 <折々のつぶやき>8で<「世間」という名の呪縛>を書いたところ、多様なコメント、そして貴重な示唆をいただき、感謝しています。この10回目ではコメントを読みながら私なりに考えたことをつぶやいて? みます。(06年3月12日掲載)

▽寄せられたコメントを私なりのコメントつきでを紹介すると―、
*「思わずきてしまいました」(紗江さん)で、そのままお帰りになっ たようですが、今度はぜひ台所の方までどんとお入り下さい。お待ちしています。

*夏目漱石の小説『草枕』は、「世間との折り合いが悪く、不満だらけの主人公である<余>を借りて、いかに世の中を住みやすくするか、の提言」(h.y.さん)ということですと、漱石は世間に風穴をあけようと苦心した先駆者といえますね。

*「思い切って風穴をあけてみれば、その風の心地よさに共感する人は意外にたくさんいるものだ」(marujunさん)は、その心情において漱石につながるのではないでしょうか。

*「阿部謹也氏の世間論は、日本人の嫌がるところを鋭く衝いたのが先駆的すぎる」(KHさん)。たしかにそうですが、だれかが先駆者にならなければ、ことは動かないのも事実で、むずかしいテーマです。ねこの首にどのねずみが鈴をつけるか、に似ています。

*「文化として根づいた<世間の呪縛>だから、解消には1000年かかる」(S.O.さん)とすれば、まず日本人のせっかち根性からたたき直さねばなりません。

*「世間にloyalになろうとしなかったことが僕がサラリーマン出世街道から放り出された原因」(T.T.さん)で、今は「田舎で隠遁生活を送っている」との由。折角ですから、その体験を活かして「田舎生活」という名の新しい世間をつくることはできませんか?

▽「空気」としての世間は変えられないか?
 やはり世間への関心がいかに大きいか、ということでしょうか。これだけの関心が寄せられたということは、「空気」としての世間をそのまま是認するのではなく、できることならそれを変えたい、変えるためにはどうするか―に多くの人々が思案をめぐらせているためなのでしょう。
 果たして変えることができるのか、それとも変えるのにやはり1000年もかかる日本文化なので、変革は事実上不可能なのか、そこが問題、ですね。

 私は「空気」と思われている、この「世間」を改革することが、真の構造改革だと考えています。この変革事業は根気がいくらあっても足りないテーマですが、おもしろい事業でもあります。小銭稼ぎを念頭においた昨今流行の起業などはしょせん「たかが起業」(好ましい起業が少なくないことは承知のうえです)の話とはいえないでしょうか。そこには利はあっても、義が前面に出てくることはあまりありません。反論があれば、どうぞ!

▽君子と小人の違い―利から義へ
 こういう風に書いてくると、つい孔子様の論語の次のことばを思い浮かべます。
 「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」

 これは明治、大正時代の財界の大御所、渋沢栄一が座右の銘としましたが、その大意は「君子、つまり立派な人物は、なにが正しいか、道義に合っているかを基準に行動するが、小人、つまりつまらない人間は損得を基準にして行動する」というものです。なにも君子面する必要はありませんが、かといって小人がウヨウヨ、ウロウロの日本社会は褒めた話ではありません。
 しかし残念ながら小人がわが世間を動かしているのも否定できない現実なのでしょう。

 なぜ世間の改革はそれほどむずかしいのでしょうか。世間論の問題提起者、阿部謹也氏は次のように述べています。
 「戦後一応個人が解放されたといわれる。しかし実際には日本の個人はまだ<世間>の前で自己を主張できない存在である」と。

 最高法規である日本国憲法は「個人の尊重」、「思想および良心の自由」、そしてなによりも「表現の自由」を保障しています。にもかかわらず世間の前で自己主張ができないとなると、世間の方が憲法よりも上位に鎮座していることになります。戦力不保持の憲法9条にかぎらず、ここにも憲法の空洞化がみられます。多くのものが世間という怪しき集団的呪縛のなかに埋没しているわけです。

▽誇り高き少数派の持続力を
 たしかに多数派の世間とは異質の少数派による自己主張のないところに世間を突き破ることは期待できないですね。どうするか。なにが突破口になるのか。この多数派対少数派の構図の中で少数派であり続けることに「誇り」をもてるかどうかがカギになるような気がします。必要なのは誇り高き少数派の持続力でしょうか。

 ところが我々日本人にはどうも誇りという感覚が日常化しにくいように思います。それは一個人として毅然と生きる生き方を身につけるよう教育されていないし、それに目先の利を追うことに忙しいからではないでしょうか。

 私はそこに「GDP(国内総生産)の量的拡大こそ望ましい」という第2次世界大戦後の日本経済を支配してきたGDP信仰の巨大な負の側面をみてとりたいと思います。GDPという経済学の概念は、市場価値=貨幣価値のみを対象にしています。いいかえれば、誇りはマーケットでは買うことができない非市場価値=非貨幣価値ですが、その価値を認めないという風潮が根強いのは、まさにGDP信仰のマイナス効果です。
 小泉改革のスローガンは「改革なくして成長なし」です。この経済成長主義はGDP信仰そのもので、改革を唱えながら、実際には改革への道筋はうかがえません。

▽GDP信仰を捨てて、シンプルライフへ!
 最近、景気上昇(=GDPの量的拡大)しているのかどうかが、一つの焦点になっています。今日のような地球環境時代、すなわち地球環境の汚染・破壊によって人類のみならず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちの存続が危機に瀕しているときに、汚染・破壊を招く経済成長主義に執着するのは時代感覚が大きくずれています。
 
 ところが相変わらずの懲りない面々による成長待望論です。生産・消費の拡大、株価の上昇、つまり貨幣価値=市場価値の増大待望論であり、その過大評価と拝金主義の横行です。小泉改革がもたらす「勝ち組」、「負け組」の区分けも要はカネ(ゼニ)をどれだけ多く稼ぐかが価値基準になっています。論語風にいえば、小人たちの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)、平たくいえば、のさばることを、折にふれしかめっ面をみせながらも、大勢としては歓迎するわけです。

 そういう空気の中で、それでもなお少数派としての誇りをもって毅然としてGDP信仰を捨てること、いいかえればシンプルライフ(簡素にして「もったいない」のこころで生きる生き方)を新しい豊かさとして実践し、実感すること―これができるかどうかが世間に風穴をあけるカギになるような気がします。いかがでしょうか。
これから後、5年もすれば、シンプルライフという名の新しい世間が新たな呪縛として自由を奪うことになるかもしれませんよ! いや、これは蛇足です。

 どうも長めになってしまいました。これも私なりのつぶやき方です。ここまで読んで下さった方々には腰を90度に曲げて(最近テレビでよく見かけるお偉いさんたちの陳謝の光景ですが、私の場合は・・・)感謝し、御礼申し上げます。


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仏教は世界平和にどう貢献するか
仏教の平和貢献

安原和雄
 2006年3月4日駒澤大学(東京・世田谷区)で同大学仏教経済研究所(吉津宜英所長)主催、仏教経済フォーラム(寺下英明会長)共催の公開シンポジウム「いまの仏教、これからの仏教―世界平和にどう貢献するか」が行われた。奈良康明駒澤大学総長の「草の根対話の呼びかけ」と題する基調講演の後、コーディネーター、工藤豊氏(仏教経済研究所員)の司会で、パネリストとして参加した末木文美士氏(東大大学院教授)、萩野茂雄氏(仏教伝道協会「仏教聖典を経営に活かす会」会長)さらに私(安原)の3人がそれぞれ意見を述べ合った。
 私は「仏教の社会的責任として今こそ平和=非暴力の実現に積極的に貢献しなければならない」と強調した。私の発言趣旨は以下の通りである。

▽仏教の社会的責任と平和貢献

 現実の日本の仏教界は葬式仏教に偏している。しかもその葬式仏教は―宗派にもよるだろうが―お布施の金額を一方的に示して強制するなどお寺の金集めとなっている。
企業のビジネス活動はお客様の意向を無視しては成り立たないが、葬式仏教の場合、お布施の強制取り立てが可能なのは死者を事実上の人質にとっているからだろう。これでは仏教の存在価値はあってないに等しい。
 仏教の社会的責任が厳しく問われていることを自覚しなければならない。どうするか。本日のテーマである「世界平和にどう貢献するか」を実践することに尽きる。

 さて「平和」とは、何を指しているのか。従来の「平和を守る」という考え方は平和=非戦(戦争がない状態)ととらえる。これは狭い平和観である。戦争さえなければ、果たして平和だろうか。
 例えば最近幼い子どもたちが次々と犠牲になっている。これは許し難い暴力の横行である。我が子を殺された親は、「日本は日本列島上で戦争していないから平和だ」と思うだろうか。そうではないだろう。

 平和をもっと広くとらえたい。すなわち平和=非暴力(戦争・軍備・テロはもちろん、殺生・収奪・浪費・不平等・不公正・人権抑圧・貧困・飢餓など多様な暴力を克服した状態を指す)ととらえたい。

 以上のような広い平和観に立てば、平和とは多様な暴力をなくすことを意味するから、「守る」という受身ではなく、「新たにつくっていく」という積極的な行動が求められる。平和は守るものではなく、つくるものとして認識することが大事で、そういう平和に仏教がどう貢献するか、そこがカギである。

▽「仏教の平和貢献」を仏教のキーワードから考える

 以下の不殺生戒、不偸盗戒、知足と共生など仏教のキーワードを社会的に実践していくことが「仏教の平和貢献」につながると考える。

*不殺生戒
 人を殺すことはもちろん、地球上の生きとし生けるものすべての無益な殺生を戒めている。いいかえれば、 不殺生戒は「いのちの尊重」の実践を意味する。
<不殺生戒に反する具体例>
・国家権力による戦争=人間や自然・環境に対する殺生の典型例
・地球環境の破壊=多様ないのちの営みを続ける自然・環境の破壊

*不偸盗戒
 盗む行為を戒めているわけだが、ここでは盗む行為を浪費、収奪、さらに不公正、不平等を押しつけることも含めて広く理解したい。いいかえれば、不偸盗戒は簡素・節約・公正・平等の実現に努力することを意味する。
<不偸盗戒に反する具体例>
・大量生産―大量消費―大量廃棄という今日の経済構造下での資源エネルギーの浪費は、自然からの必要以上の無用な収奪である。つまり貪欲に経済成長を求め、大量の廃棄物を排出することは不偸盗戒に反する。
・現在日本では失業者が300万人もいるが、失業は、人から仕事の機会を奪うのだから、盗んではならないという不偸盗戒に反する。無造作にリストラをやる企業は「泥棒会社」と呼ぶこともできるだろう。

*知足と共生
 知足(足るを知ること)、「もったいない」のこころで貪欲、浪費、無駄をなくすこと、また共生(ともいき)は世界の万物(=人間、動植物も含めて)のいのちを尊重し、活かすことに通じる。こういう知足と共生のすすめは、シンプルライフ(簡素な暮らし)、シンプルエコノミー(簡素な経済)へつながる。
 
▽現代の平和をつくる3つの具体策―仏教経済学の視点から

イ)「簡素な暮らし」、「簡素な経済」への転換が不可欠
ロ)日米安保体制(=日米軍事同盟)の解体
ハ)自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

 これら3つは仏教経済学から導き出せる平和をつくるうえで必要不可欠な具体策である。ここで仏教経済学について若干説明しておきたい。
 仏教経済学は、新しい時代を切りひらく世直しのための経済思想である。仏教の開祖・釈尊の教えを土台にすえて、21世紀という時代が求める多様な課題―地球環境問題から平和、さらに一人ひとりの生き方まで―に応えることをめざしている。その切り口が、いのち・平和(=非暴力)・簡素・知足(=足るを知る)・共生・利他・持続性 ―の7つで、これらの視点は主流派の現代経済学には欠落している。だから仏教経済学は現代経済学の批判から出発している。

 いいかえれば仏教経済学は「非暴力と簡素な経済」をめざすが、一方、ケインズなどの現代経済学(注)は「暴力と浪費の経済」につながる。
 (注)イギリスの経済学者、ケインズ(1883~1946年)はその主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で「地震も、戦争でさえ、富の増進に役立ちうる」と述べて、暴力と戦争のすすめを説いている。また論文「わが孫たちの経済的可能性」で「貪欲(avarice)はいましばらくなお我々の神でなければならない。なぜならそのようなものだけが経済的窮乏というトンネルから、我々を陽光のなかへと導いてくれることができるからである」と貪欲をすすめている。

イ)「簡素な暮らし」、「簡素な経済」への転換が不可欠

 平和すなわち非暴力の基礎は「簡素な暮らし」(シンプルライフ)、「簡素な経済」(シンプルエコノミー)である。したがって平和をつくるためには、脱「石油浪費」経済(=石油浪費の否定)への転換、すなわち脱「成長経済」(=経済成長至上主義の否定)路線への転換が求められる。
 私は「石油浪費は戦争を誘発するが、脱・石油浪費は平和をもたらす」と言いたい。なぜそういえるのか。

 ドイツの経済思想家、E・F・シューマッハーは仏教経済学を論じた著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)の中で次のように述べている。
 「簡素と非暴力は深く関連している。(中略)物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これを大量に使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である」と。
 さらに「石炭、石油、天然ガスといった再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」と。

 たしかに簡素な経済構造であれば、暴力(=軍事力)は不要である。しかし貪欲な経済成長主義の追求(=石油の浪費)は暴力を不可避とする。アメリカがその典型で、産油国・イラクへの攻撃のねらいの一つは石油確保にある。

ロ)日米安保体制(=日米軍事同盟)の解体

軍事力という暴力を盾にした日米安保=軍事同盟は、いのちを奪い、世界に混乱と破壊の脅威を与えている。アメリカのイラク攻撃とそれを支える日米軍事同盟は世界の平和=非暴力にとって大きな脅威となっている。だから平和をつくっていくためには、その解体が不可欠である。

ハ)自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

 なぜ非武装「地球救援隊」なのか。
 これは非暴力=平和を志向する仏教経済学から必然的に導き出される構想で、地球規模の非軍事的脅威(大規模災害、感染症などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援をめざす。
 また「平和憲法第9条(=戦力不保持、交戦権の否認)は宝」と海外で高く評価する人々がいることを見逃してはならない。その9条の理念の今日的具体化が非武装「地球救援隊」構想である。
 (安保解体と地球救援隊について詳しくは「安原和雄の仏教経済塾」のホームページに掲載の「小日本主義のすすめ」(1)(2)、「平和をつくる4つの構造変革」などを参照)

 このように仏教を今日に生かし、平和=非暴力をつくっていく。それが「仏教の平和貢献」と考える。

以上
葬式仏教と拝金僧侶たち
<折々のつぶやき>9

 安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。<折々のつぶやき>9回目。(06年3月5日掲載)

〈折々のつぶやき〉4回目で「BSRのすすめ」を書いた。
BSR(Buddhist Social Responsibilityの略語)とは、仏教の社会的責任を意味する新語で、私の造語である。なぜBSRのすすめなのか。その背景には次のような事情がある。

最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか。もっと顧客、取引先、地域、従業員などに企業活動の成果を還元してはどうか」という声が高まってきた。名門企業を含む日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日常用語になった観がある。
 仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきである。「お寺のお布施もカネ次第になっている。仏教はどこまで有効なのか」という疑問、批判の声が高まっており、この声をもはや軽視することはできなくなってきた。

宗派にもよるのだろうが、葬式を体験した人々の話によると、坊さんがお布施を横柄な態度で具体的な金額を突きつけて要求する。末木文美士著『仏教vs.倫理』(ちくま新書)でも次のように書いている。
 「葬式仏教は評判がよくない。戒名料をはじめ、ちょっとお経を読んでもらうだけで、お布施を包まなければならない。(中略)『お志でけっこうです』といいながら、額が少ないと、露骨にいやな顔をして、『信心が足りない』などと嫌みをいう。それも尊大ぶって偉そうにふんぞり返って、まったく感じが悪い、等々、どこに行ってもおかしいほど同じようなお寺の悪口が聞かれる」(p79)と。

 これでは葬式仏教とともに堕落した拝金僧侶たちの群れというほかないだろう。なぜこのような醜態をさらすようになったのか。
 今日のような賭博場と化した「カジノ資本主義」下では多くの人が「カネ、カネ」と目の色を変えてうろついているのだから、坊さんといえども、いまや聖職ではなく、煩悩にまみれた世俗の凡人の一員でしかない。といってしまえば、それまでだが、それほどの煩悩にとりつかれた坊さんにわざわざお経を読んでもらう価値はない。葬式仏教そのものに意味がないことにはならないだろうか。

 悪評の背景として、私の唱えるBSR(仏教の社会的責任)感覚が欠落していることを指摘できる。
 お布施には法施(法=真理の施し)、財施(モノ、カネの施し)、無畏施(不安や恐怖を取り除く施し)の3つがある。ところが現在、寺への財施が中心になっている。坊さんによる法施、無畏施への精進が不足している。人助けをめざす仏教の衆生済度の精神はどこへいったのか。

 それに寺の建築物などを簡素にしてはどうか。豪勢さを維持しようとしたらカネもかかる。それを誇示して権威を保つことを考える時代はとっくに終わっている。簡素こそ美しく、価値も無限に高いのである。

 もう一つ、競争の導入が必要な時代になっていることを考えてみるときである。江戸時代の檀家制度にいまなお依存した無競争のシステムだからこそ、お布施を強要できるのである。そういう悪しき仕組みは改革しなければならない。そのためには小泉首相流の表現を借りれば、「檀家制度をぶっ壊す」ことが求められる。事実、崩壊がすでに始まっている。

 お寺さんの間でお客様へのサービスのあり方をめぐって競争を繰り広げざるを得ない時代の新しい波はすぐそこまで押し寄せてきている。寺の生き残り競争時代の始まりである。それを自覚しなければ、寺そのものが「無用の長物」視されるだろう。その昔、織田信長が命じた比叡山焼き討ちも、その引き金となったのは腐敗堕落した僧侶たちであった。そういう歴史に無知で、仏教界全体が変革の波に洗われようとしていることに気づかないようでは修行不足の怠惰な坊さんたちというほかない。 
 時代の新しい足音に鈍感なる者たちよ、去れ!


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