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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
和尚の春夏秋冬・説法
〈折々のつぶやき〉24

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉24回目。(06年10月30日掲載)

 山積みの本を整理していたら、その中から古いカレンダーが出てきた。「和尚の春夏秋冬」と題して、月ごとに気の利いた説法の文言が記してある。「なるほど」と感じ入るところが多いので、紹介したい。かっこ内は安原のコメントである。

1月=明日がわからないから 希望と祈りがある
(たしかにそうですね。すべてがわかっていたら、人間、夢を抱くこともなければ、謙虚にもなり得ません)

2月=日本ノ神髄ハ簡素ニアリ
(この言葉には神道的雰囲気がありますが、それはともかく日本の伝統的精神はやはり「簡素」というべきです)

3月=裸で生まれて来たに なに不足?
(裸でこの世へ来て、裸であの世へ旅立ちます。これは誰一人避けることのできない運命ですが、その途中にいろいろと飾り立てようとして、あれが足りない、これをもっと欲しい、と執着するのが、これまた人間の悲しき性=さが=なのでしょうか。座禅では息を吸うよりも吐くことを重視する。つまりあれもこれもと欲張らないで、捨てることを重視するということ。裸の精神でもあります)

4月=握っているかぎり 新しいものはつかめない
(手に何も握っていない者のみが新たなモノをつかむことができるのは確かな真理です。新しい未来をつくろうとする者は、まずは自らを無にしなさい、という教えでしょう。これも座禅の「捨てる精神」の実践ともいえます)

5月=とにかく女房だけは 怒らせるな
(身近なところに敵がいては、なすべきことも自由にはできませんからね。大事を果たそうとする者の心得です)

6月=いざこざが無かったら この世はボケてしまう
(無用ないざこざにも感謝しよう、という忠告か、あるいはつまらぬいざこざでも受け止めて自分を鍛えよ、という助言でしょうか)

7月=人にはその人なりの 響きがある
(「人それぞれ」と言いますが、個性の価値、人間の尊厳がその底にあるように感じます)

8月=戦後日本が失った言葉
   そんなことすると 罰(ばち)があたる 
   お天道(てんとう)さまに 申し訳ない
(大自然を軽視し、貪欲に走る人間中心主義の自由、人権、民主主義だけにこだわっているかぎり、失った言葉はよみがえらないかもしれません)

9月=悲しみが人間を 強くする
(たしかに楽しみだけでは、人間を浮き浮きとしたひ弱な存在におとしめます)

10月=ぜいたくにも貧乏にも 平然としている人が カッコイイ
(そういえば何事にも平然としている人物は最近、お目にかかることがなくなりました。皆さん、お忙しいですからね。「泰然として腰を抜かす」という言葉が昔ありました)

11月=言ってはならぬ嘘(うそ)がある 言わねばならぬ嘘もある                (言わねばならぬ嘘は、大事をなすべき時に、しかもその大事を事前にしゃべるわけにはいかない時にのみ許されることでしょう。例えば映画でみる赤穂浪士討ち入り前夜のリーダー、大石内蔵助のように)

12月=孤独(こどく)と孤立はチガウ
    頑固(がんこ)と偏屈(へんくつ)はチガウ
(孤立主義という言葉はあるが、孤独主義はないように思います。つまり孤立は選択できるが、孤独は自ら選ぶべきものではないのでしょう。同様に偏屈は生き方の一つとして選択できても、頑固を選ぶ者はいないはずです。頑固者に限って、自分を頑固とは思っていませんから。この解釈は間違っているかもしれませんが、偏屈にすぎると、孤立することは避けられないけれど、まあ、そういう生き方も自覚して徹すれば、また一興でしょうか。これは「世間様」などどうでもよい、というおもろい生き方ともいえます)


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子供を悪く育てたい14ヶ条
逆説的教育再生論 

安原和雄
 近隣の評判高い寿司屋さんからお土産として貰った一枚の紙片に「子供を悪く育てたい14ヶ条―和尚のひとりごと」と題して、以下のような条件が記してある。読んでみて、思わず笑ってしまったが、実はまじめなお話である。
 この逆を実践すれば、それがたちまち「子供を立派に育てたい14ヶ条」に早変わりする。これは逆説的教育再生論ともいえるのではないか。今回はお土産話第3話「ボケ学の奥義を伝授します」(06年10月8日掲載)につづく第4話。(06年10月23日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 子供を悪く育てたい14ヶ条―和尚のひとりごと
       (かっこ内は安原のコメント)

1、子供に対して、仏様など本当はないものだと教えなさい。どんな宗教教育もしてはいけません。(日本人の多くは無宗教で、欧米人には奇妙な日本人と映ることも)

2、子供に道徳的なしつけをしてはいけません。お金さえあれば、良いと思い込ませなさい。(すでに「カネ、カネ」の世の中になっている)

3、子供の前で、父母はいつも言い争いをしなさい。(父母のような人間にはなりたくないと思わせる反面教師になれ、ということか)

4、子供の前でおじいさん、おばあさんの悪口を思いきり言いなさい。(自分がおじいさん、おばあさんになったときに悪口を言われるのは確実だろう)

5、子供の前で学校や警察などの悪口を言いなさい。(最近の学校や警察をみていると、悪口を言いたくなる気持ちは分かるが、子供の前で、それをやったらおしまいよ)

6、子供のしつけもしてはいけません。家庭でもかまってはいけません。(しつけは大切だが、しつけができない親がふえている)

7、子供に命令したり、叱ったりして、そのわけを話してはいけません。子供がいうことをきかないと、たたいてもかまいません。(自由、人権、民主主義というものを家庭で教えることを禁じるということ)

8、良いことをしても絶対にほめてはいけません。(つまらないことでほめるよりはいいかもしれない)

9、子供の相談にのってはいけません。(どの株を買ったら儲かるか、というような子供の相談などにのる必要はない)

10、子供が遊びに来ても、家で遊ばせてはいけません。(友人などつくるな!ということなのか?)

11、友達には絶対に負けてはいけない、と常に言いきかせなさい。(連帯、助け合いなどどうでもよい。いまから負け組を足蹴にする勝ち組をめざせ、といいたいのか)

12、子供に好きなものばかり食べさせなさい。(欲望のままに生きるわがままな餓鬼になるのは、請け合いだろう)

13、子供に何でも一人でさせてはいけません。必ず手をかしてやることです。(自律、自立のこころが育たないことは間違いのないところ)

14、少しでも冒険的な遊びをさせてはいけません。鉄棒はあぶない、自転車もあぶない。家の中で遊ぶくらいにしておくことが必要です。(一人で家の中で、となると、いま流行のゲームしかないのでは? これでは元気で挑戦的な生き方とはおよそ無縁な青少年像を描くしかない)

ここで次の第15条を新たにつけ加えたい。
15、子供が学校から帰ってきたら、「きょうは何人いじめたか」と聞きなさい。「一人だけだよ」と答えたら、「少ない。もっとやれ」と叱りつけなさい。
(最近いじめによる自殺が改めて話題を呼んでいるが、そういう自殺をなくす方法は何か。いじめはこの世からなくならない。大人の世界でのいじめは日常茶飯事だ。だから子供の頃からいじめに立ち向かうことを両親、教師が教え、子供は子供なりに学ぶ必要がある。そのためにはいじめられたか、いじめた経験のある教師の採用を増やすことが肝腎であろう。体験にもとづく「いじめ撃退法」という講座を設けたらどうか)

さて、この和尚のひとりごとの心は?
「とんでもない親だと子供に気づいて貰いたい。こういう親になってはいけないと気づいたら、将来どれほど立派な人物に成長するか、楽しみである。いくら教えても本人が自分で気づかなければ、教育の意味はない」―これは教育基本法を改悪しないで実施できる「気づき」をキーワードとする教育再生論でした。


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なぜ核廃絶を主張しないのか
北朝鮮の核実験と異常なメディア

安原和雄
 世界の関心は北朝鮮の核実験、それに対する制裁に集まっている。それは当然としても、危惧の念を覚えるのは、メディアの異常ともいえる報道ぶりである。北朝鮮が世界で初めて核実験に踏み切ったかのような印象さえ与えている。核の脅威を本気で考えるのであれば、メディアはなぜ世界の核廃絶を主張しないのか、不思議である。
 メディアの多くはいつのまにか核大国に都合のよい情報操作に対する抵抗力を失っているのではないのか。(06年10月15日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽北朝鮮の核実験は世界で2058回目

 まず示唆深いデータから紹介したい。「北朝鮮が核実験してなぜ悪い」というタイトルの以下のような趣旨の記事(10月10日付インターネット新聞「日刊ベリタ」に掲載)が目についた。

 1945年7月16日、アラモゴードの砂漠で米国が行った第1回核実験より地球上でなんと多くの核実験が行われてきたことか。米国は地上・地下あわせて1000回を超え、さらに旧ソ連、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン等の現在の核保有国が行った核実験をあわせると2057回! もちろん軍事機密に属することだから実際はもっと多くなるだろう。そのたびに死の灰を撒き散らすなど地球に深刻な核汚染をもたらしてきた。(中略)そして北朝鮮は2058回目の核実験をやってしまった。 

 以上のような事実を指摘する一般メディアは残念ながらまだない。米国が広島、長崎に原爆を投下したのが、1945年8月で、その前月に世界で最初の核実験が行われ、今回の北朝鮮の核実験はなんと2058回目だというのである。

▽「北の脅威」を煽るメディア

 さて大手メディアの北朝鮮の核実験(10月9日)に対する最初の反応はどうであったか。以下に社説(あるいは主張・10月11日付)の見出しを紹介する。

朝日新聞=暴挙に強く抗議する―北朝鮮の核実験
毎日新聞=世界を敵に回した北朝鮮―安保理は協調し圧力強化を
読売新聞=北朝鮮核実験―『危険な新たな核の時代』だ
日経新聞=厳しい制裁で北朝鮮に核廃棄を迫れ
産経新聞=身勝手許す時期過ぎた―中韓露も政策転換のときだ
東京新聞=平和・安定への挑発だ―北朝鮮が地下核実験

 以上のような各紙社説の見出しを一見しただけでも、その内容は推察できよう。「北朝鮮の核の脅威」をかき立て、その一方で米英仏露中という核保有大国の核の脅威には一言も触れていないのが特徴である。まして世界から核の脅威を取り除く究極の政策手段である核廃絶の長期展望はどこにもうかがえない。

 聞くところによると、安倍首相はマスメディアの中では特に朝日新聞を嫌っているらしい。しかしその朝日新聞社説(同上)は次のように論じた。「北朝鮮に国際社会はどう対応すべきなのか。日本や韓国の安全を守るのは米国との同盟関係であり、それを基礎に外交的に事態の収拾にあたる。この原則を3国でしっかり確認することだ」と。

 安倍首相は、日米安保=軍事同盟の容認論に立つ朝日新聞の主張のどこが不満なのだろうか。推察するに首相は最近の朝日新聞をしっかりと読む努力を怠っているのではないのか。それとも憲法で保障されている言論、思想の自由が十分に理解できていないのか。あるいは一国のリーダーとしての器量が狭量にすぎるのだろうか。

 日頃、見識をうかがわせる東京新聞社説にも寸評を試みたい。次のように書いた。「北朝鮮の暴走は止まらない。(中略)世界、とりわけ北東アジア地域の安全保障に重大な脅威になるのは間違いない」と。珍しく冷静さを欠いた社説とはいえないか。

 たしかに暴走である。しかし脅威論を強調するからには、ブッシュ米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」(2002年の一般教書)という認識に立つ先制攻撃戦略、そういう戦略の実戦機能を果たすための日米安保=軍事同盟が実は大量の核を含む世界最強の軍事力で武装し、北朝鮮を睨んでいる事実から目をそらすべきではないだろう。これは相手に対する巨大な脅威ではないのだろうか。

▽早くも登場した「北、自滅」の戦争シナリオ

 ここで「北、自滅のシナリオ」(10月14日付毎日新聞)と題する軍事アナリストの描く戦争シナリオを紹介したい。北朝鮮に対する国連憲章第7章にもとづく制裁の重要な柱が船舶検査で、それがきっかけで戦争に発展する可能性があるというシナリオである。

 北朝鮮側の抵抗で、銃撃戦にでもなれば、米国は「待ってました」とばかりに「反撃」に出る。米国はまず北朝鮮の核施設などに対する「外科手術的攻撃」(サージカル・ストライク)から始め、さらに本格的な航空攻撃に移行する。攻撃のために韓国にはすでにF117攻撃機、グアムにはB2爆撃機が展開している。長期化、泥沼化のシナリオもあるが、最短の場合、数日で北朝鮮の体制は崩壊する―これが米国のシナリオだということらしい。

 この戦争シナリオは、多くの人命、日常の暮らし、さらに自然環境の破壊をもたらす現実の戦争をインターネット上のゲームと勘違いしているのではないのか。1945(昭和20)年8月、あの大戦が敗戦で終結したとき、私は小学校5年生であった。敗戦に至るまで「鬼畜米英」、「ちゃんころ(中国人の蔑称)をやっつけろ」と叫ぶ日々がつづいたように記憶している。

 その挙げ句の果てが日本人だけで310万人にものぼる戦争犠牲者を生み出した。昨今の「北朝鮮の脅威」の大合唱の陰から60年以上も昔の「〇×をやっつけろ」という偏狭にして排外主義的な合唱がよみがえってくる。この道はやがてわが身に取り返しのつかない悲劇として降りかかってくる恐れが十分あることを忘れないようにしたい。

▽世界平和アピール七人委員会と「核兵器廃絶」の訴え

 核の脅威にどう対応したらよいのか。その根源的な解決策は何か。それは核廃絶をどう実現させていくか、その成否にかかっている。
 ここでは世界平和アピール七人委員会(委員は伏見康治 武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 井上ひさし 池田香代子 小沼通二の各氏)の「朝鮮民主主義人民共和国の核実験発表にたいするアピール」(06年10月11日)は、一般紙ではほとんど報道されていないので、その全文を紹介する。アピールの眼目は「核兵器の廃絶」である。

 私たち世界平和アピール七人委員会は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府が発表した10月9日の核兵器実験実施について、いかなる条件の下であれ、朝鮮半島と日本を含めた周辺、ひいては世界の平和と人間の安全保障の立場から、反対を表明する。核兵器によって、国の安全が保証されると考えるのは幻想に過ぎない。1945年以来、世界各地で発生している被爆の実態を思い起こせば、人類が核兵器と共に存続していくことができないのは明らかである。

 私たちは、日本はじめ関係各国が、北朝鮮がこのようなかたちで自国の安全を保障しようと結論した遠因を冷静に分析すること、そして、国連において同国をいっそう孤立させて東北アジアにおける平和の実現を困難にしないことを、切に希望する。

 私たちは、10月3日の北朝鮮外務省の声明第3項目に注目する。そこには、北朝鮮の最終目標が、朝鮮半島とその周辺から核の脅威を根源的に取り除く非核化である、と明言されている。北朝鮮政府は、6か国協議の場で、この最終目標に向けて共に努力すべきである。

▽東北アジア非核兵器地帯構想の実現を

 この目標は、かねてから日本でも民間から提案されている東北アジア非核兵器地帯構想そのものである。私たちは、今年9月8日に調印された中央アジア非核兵器地帯の実現に向けて、日本政府が大いに協力してきたことを評価する。いまや非核兵器地帯は、南極を含む南半球から北半球に広がりつつあり、大気圏外の宇宙、海底もすでに非核兵器地帯になっている。日本政府は、核兵器廃絶に向けて重要な一歩を進めることになる日本を含む非核兵器地帯の実現に向けても、最大限の努力をするべきである。

 関係諸国は、国連において国連憲章第7章に訴える措置を講じ、あるいは進める前に、韓国が進めてきた朝鮮半島の南北会談を支え、米朝、日朝の話し合いをすすめていくべきである。国際紛争は、いかなる場合であっても、戦争以外の話し合いで解決を図るべきである。武力によって安定した繁栄をもたらすことはできない。武力行使につながる動きは決してとるべきではない。

 さらに根本的には 核兵器保有国が核兵器に依存する政策を続ける限り、核兵器を保有したいという誤った幻想を持つ国が続くことは確実である。核兵器保有国は、今回の北朝鮮による核兵器実験が、核拡散防止の国際的な枠組みを弱体化させ、それに拍車をかける動きであることを直視して、核兵器の不拡散に関する条約(NPT)第6条の精神に立ち戻り、核兵器廃絶に向けて速やかに真摯な行動を起こさなければならない。世界がいつまでも現状のまま続くと考えるのは間違っている。

 私たちは、朝鮮民主主義人民共和国政府に対し、初心に帰って、同国声明が言うとおり、朝鮮半島とその周辺の非核化に向けての建設的な話し合いを速やかに開始することを求めるとともに、日本政府をはじめ、関係各国政府が世界の平和と人類の生存をかけて、朝鮮民主主義人民共和国政府と、前提条件をつけることなく真剣な話し合いを始めるよう求めるものである。

▽核不拡散条約第6条の「核大国の核軍縮交渉」に注目

 以上のアピールに大筋では賛成したい。大事な点は核大国こそが自らの核軍縮に取り組み、最終的は核廃絶を実現するためのプログラムをつくることである。
 世界の核弾頭は総計約3万発あるといわれる。その内訳は次の通り(朝日新聞10月11日付・参照)。
 ロシア=16000以下
 米国=10300以下
 中国=410
 フランス=350
 英国=200
 イスラエル=100~170
 インド=75~110
 パキスタン=50~110

注意を喚起したいのは、核兵器不拡散条約(NPT)第6条が、「核軍縮交渉」について次のように定めていることである。
 「各締約国は、核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について誠実に交渉を行うことを約束する」と。

 このように核不拡散条約は「核大国の核軍縮の誠実な実行」を定めていることに着目する必要がある。核の脅威の根源は、米英仏露中という5大核保有国が大量の核保有に固執するエゴにあり、その核覇権主義にある。だから人類が核の脅威から解放されるためには核保有大国の核軍縮と核廃絶への意志とその実践が先決である。

▽メディアが歴史的責任を問われる日

 ところが米国をはじめとする核保有大国は自国以外の非保有国への核拡散のみを阻止することに重点を置いている。「北朝鮮の核の脅威」もそういう核拡散阻止の意図に沿って喧伝されているが、その一方で米国はいわゆる「二重基準」によってイスラエルなどの核保有には寛容すぎる身勝手さをみせている。これでは核不拡散も説得力をもちえない。

 多くのメディアは、なぜ核大国の核軍縮、核廃絶を棚上げするための情報操作とでもいうべき罠から自由になれないのか。核大国のエゴに対する批判力を衰微させて、現実の悪しき流れに乗せられているというほかない。「北朝鮮の核」を批判するのは当然だが、同時に「核大国の核」への批判の手をゆるめてはならない。

 ジャーナリズムにいま求められていることは、特定の国の「脅威」の大合唱ではなく、核保有国すべてに対する「核批判」、そして「核廃絶」の大合唱である。この視点を忘れて、脅威を煽ることにとらわれていると、遠からずジャーナリズムの歴史的責任を問われる日が来るだろう。


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ボケ学の奥義を伝授します
〈折々のつぶやき〉23

安原和雄
 このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。〈折々のつぶやき〉23回目。(06年10月8日掲載)

 近隣のお寿司屋さんで貰ったおみやげ話を紹介しよう。一枚の紙片に「ボケ学の奥義伝授します」と題した以下のような文章が記してある。読んでみて「なるほど、なるほど」としばしうなった。
 これは、第1話=「おかげさまで」と暮らしたい(06年9月1日掲載)、第2話=おっかさんのお尻の世話で一人前(9月8日掲載)につづく第3話である。

 こんな御仁はお近くにいませんか
 ボケ学の奥義伝授します―和尚のひとりごと

(1)ボケない人
1.常に感謝し、心にゆとりのある人 
2.手足をよく使う人
(草取り、散歩などを毎日する人)
3.本や新聞をよく読み、日記を毎日つける人
4.人の世話をよくする人
(クラス会、老人会などのお世話を率先してする人)
5.ハイカラさん(服装やお化粧に気を使う人)
6.酒をたしなみ、歌を歌うなど陽気な人
(大酒を呑めというのではない。週に2回は休飲日にしたい)
7.趣味が多く、スポーツを好みつづける人
8.友人が多く、つきあいの良い人
9.奉仕の精神旺盛な人
10.異性に関心を持ち続ける人
(色気狂になれというのではない。念のため)

 以上にもう一つ、つけ加えたい。それは「いま流行の自分流ブログで常に発信している人」というのはいかがですか。ただしいささか手前ミソですね。すみません。

(2)早くボケる人
1.オーイ、オーイと何でも奥さん、子供さんそして人に頼る人
2.頑固一徹で融通のきかない人
3.無口無表情でムッツリ屋さん
4.無趣味で、趣味は仕事という気のきかない人
5.真っ正直すぎる人で無気力の人
6.怠け者、不精者、ものぐさな人
7.無信仰で神棚、仏壇なく神社仏閣、寺に参らない人
8.孤独の人で友達がなく、交際をしない人
9.無神経でわがままな人
10.チャランポランで食っちゃ寝、食っちゃ寝の人

 ここでもさらに一つ、つけ加えてみる。「国家のためにいのちを捨てる愛国心を国民に強制する人」はどうでしょうか。東アジア某国の首相という肩書きの人が「教育の再生」のためとかで、号令をかけていますよ。感覚がいかにも古すぎます。唖然とするほどの時代錯誤です。
 この首相、お国はどちらですかねー。まさか「歴史と伝統と文化」に輝く「自由・民主」の国、ニッポンではないでしょう。こういう頑固一徹で、融通のきかない人はたしかに早くボケますね。
 たしかお年は52歳と聞いています。いささか早すぎるような印象があります。

 最後のところで、茶化しているときではないだろう、という印象をお持ちの方は、このブログ「安原和雄の仏教経済塾」に最近掲載した次の3つの記事をぜひお読み下さい。いずれもインターネット新聞「日刊ベリタ」に転載されています。

*ふたたび日本を滅ぼすのか―針路誤る安倍自民党丸の船出(9月21日掲載)
*「安倍劇場」演出にも加担するのか―メディアは批判精神を取り戻そう(9月27日掲載)
*首相の「美しい国」を批判する―その時代錯誤にして危うい方向(10月2日掲載)


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首相の「美しい国」を批判する
その時代錯誤にして危うい方向

  安原和雄
 「美しい国創(づく)り内閣」を組織した安倍首相は臨時国会冒頭の所信表明演説で「美しい国」という言葉を8回も使った。相当なご執心ぶりといえるが、「美しい国」の意味するものは何か。
 一読した限りでは相変わらず抽象的な印象を受ける。しかし批判的な目で読み解けば、「美しい国」というイメージとはおよそ異質の時代錯誤にして危うい方向がみえてくる。(06年10月2日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

●「美しい国」とは、どんな「かたち」、「姿」なのか

 まず首相の所信表明演説の中から「美しい国」に関する説明を紹介しよう。
*「美しい国」のかたち
 「私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、<美しい国、日本>である」

*「美しい国」の4つの姿
 「美しい国」の姿として次の4点を挙げている。
1)文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
2)自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国
3)未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国

*自信と誇りの持てる「美しい国」へ
 「日本を、世界の人々が憧(あこが)れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる<美しい国、日本>とするため、先頭に立って、全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟である」

 以上のような「美しい国」に関する所信表明を読んで、「きれいごとにすぎない」と片づけてはならない。たしかに美辞麗句が多いが、そこに秘められた意図を軽視してはならない。ここでは主として、上述の「美しい国」の4つの姿を中心に、そこに込められている意図や方向を考えてみたい。

1)「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」とは

 首相は所信表明で次のようにも述べている。
 「日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統をもつ国である。その静かな誇りを胸に、今、新たな国創りに向けて、歩み出すときがやってきた」と。
 なぜ歴史や伝統を強調しているのか。結論からいえば、天皇制を賛美し、それを軸に日本という国のあり方を考えているからである。

 首相の著書『美しい国へ』は次のような認識を示している。
 「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリー(つづれ織り)だ。日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。(中略)天皇は象徴天皇になる前から日本国の象徴だったのだ」(p101~104)と。

 この認識には首をかしげざるを得ない。
 「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制」という認識はいかがなものか。なるほど明治憲法下ではそうであった。なぜなら天皇は絶対的権力者(注)の地位にあったからである。しかし現行憲法下では天皇はそういう地位にはない。
(注)明治憲法は次のように定めていた。
第1条=大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。第3条=天皇は神聖にして侵すべからず。第4条=天皇は国の元首にして統治権を総覧し・・・。第11条=天皇は陸海軍を統帥す。

 安倍首相は、日本という国は、現行の平和憲法下で主権在民となり、一方、天皇は「主権の存する国民の総意に基づいて」日本国の象徴として存在しているという事実をしっかりと理解しているのだろうか。

2)「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国」とは

 ここでのキーワードは「自由な社会」よりもむしろ後段の「規律」であり、「凛とした国」であろう。「自由な社会」はつけ足しのような印象がある。むろん社会生活を営む以上、規律は必要である。また「りりしいさま」を表す「凛とした」という日本語は今では廃(すた)れたも同然であり、だからこそ「りりしいさま」を再生して、個人、社会、国にも備わるようにできれば、それに越したことはない。
 問題は首相が規律や凛とした国に何をイメージしているのかである。その答えは首相の次の所信表明の中に見出すことができる。

 「<美しい国、日本>を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠である。教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組む。まず教育基本法案の早期成立を期する}と。
 要するに教育の再生であり、今臨時国会で成立をめざしている教育基本法の改定である。

 「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」というのは、首相の持論である。その建前には大賛成である。しかし日本社会はなぜ志も品格も捨ててしまったのか。その背景究明から着手しなければならない。なによりもまず「カネ、カネ」の世の中で右往左往している政治家や企業人が、国民にお説教を垂れる前に、自らに志と品格が果たして備わっているかどうかを問うて反省し、出直すことが先決であろう

●「いのちは大切」なのか、「国家のために死ぬ愛国心が大切」なのか
また「家族、地域、国、そして命を大切にする人間の育成」も教育の目的として掲げている。いのちの尊重は当然のことである。しかし危惧の念を覚えるのは、著書『美しい国へ』で次のように述べている点である。

 「今日の豊かな日本は、彼ら(敵艦にむかって散っていった特攻隊の若者たち)がささげた尊い命のうえに成り立っている。だが戦後生まれのわたしたちは、彼らにどう向き合ってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。
 たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。わたしたちは、いま自由で平和な国に暮らしている。しかしこの自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない」(p107~108)と。

 「いのちは大切」と言いながら、他方では「国家のためにいのちを捨てる愛国心」という「死の美学」を力説している。後者に力点があることはいうまでもなく、そのための教育の再生であり、教育基本法の改悪である。いかにも時代錯誤にすぎるのではないか。自由と民主主義は生きるために価値があるのであり、死ぬためにあるのではない。

3)「未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国」とは

 首相は所信表明で「安定した経済成長が不可欠」と次のように述べた。
 「わが国が21世紀において<美しい国>として繁栄を続けていくためには、安定した経済成長が続くことが不可欠である。人口減少の局面でも、経済成長は可能である。イノベーションの力とオープンな姿勢により、日本経済に新たな活力を取り入れる」と。

 さらに「再チャレンジが可能な社会をめざす」と以下のように指摘した。
 「新たな日本が目指すべきは、努力した人が報われ、勝ち組と負け組が固定化せず、働き方、学び方、暮らし方が多様で複線化している社会、すなわちチャンスにあふれ、誰でも再チャレンジが可能な社会である。格差を感じる人がいれば、その人に光を当てるのが政治の役割である。内閣の重要課題として、<再チャレンジ支援策>を推進する」と。

 小泉政権のスローガンは「改革なくして成長なし」であった。安倍政権は「成長なくして日本の未来なし」である。このように安倍政権が経済成長路線の追求を重要な政策目標として掲げたのは小泉路線の継承である。「経済成長は当然ではないか」と受け止める人も多いと推察するが、私はここにひそむ危険な方向を指摘したい。

●経済成長が招くもの(1)―格差の拡大
 まず「弱肉強食のすすめ」である自由市場原理主義のもとで経済成長を追求すれば、格差拡大を招き、勝ち組と負け組を固定化させる傾向があることは常識といってもよい。
 自由市場原理主義の本場、米国で今や所得格差が深刻化し、貧困層(4人家族の場合、家族の年収が約230万円以下)が米国民8人に1人(2005年のデータ・米商務省発表)の割合となっている。かつての世界一の「富裕国」も今では格差拡大の結果、「貧困国」同然の地位に転落している。

 外交・軍事面での対米追随ぶりが目に余る小泉―安倍路線は、所得格差拡大面でも米国の後追い路線を走り続けようとしている。首相の「勝ち組と負け組を固定化させない」というセリフは、一握りの勝ち組の側の言い訳にすぎない。

●経済成長が招くもの(2)―石油の確保、そして参戦への道
 もう一つ強調すべきことは、経済成長の追求は、成長に必要な石油などエネルギー資源の確保が不可欠となるという点である。首相は所信表明で次の指摘を行った。

 「原油など資源価格の高騰が続く中、安定的なエネルギー資源の確保に努める」と。
 ごく当然の所信表明にみえるが、首相著『美しい国へ』の中の次の認識と重ね合わせて読むと、その真意が読み取れる。同書は、イラクへの自衛隊派遣の大義について人道・復興支援のほかに石油資源の確保を挙げて、次のように指摘している。

 「日本はエネルギー資源である原油の85%を中東地域に依存、しかもイラクの原油埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第2位。この地域の平和と安定を回復することは日本の国益にかなうことなのである」(p135)と。

 日本はイラクから陸上自衛隊を撤退させたが、現実には今なお米国のイラク攻撃に参戦している。一つは航空自衛隊は依然として居残っており、活動範囲をイラク全土に広げている。もう一つは海上自衛隊がアラビア湾に常時2隻の自衛艦を配置し、米軍などのイラク攻撃に不可欠の石油を国民の血税を浪費して供給している。
 これはどちらも補給や輸送など、いわゆる後方支援に相当するが、この日本の後方支援と米国などの前線での戦闘とは表裏一体であり、後方支援なしには戦闘は不可能である。これは欧米の軍事作戦上の常識である。だからいまなお日本はイラク攻撃に参戦しているのであり、この事実を米国は高く評価している。

 以上のような参戦は日本にとって大義であり、国益に合致する、というのが安倍首相の認識である。この一点を見逃しては、「美しい国、日本」という美名のもとに首相が意図している危険な方向が霞の彼方にぼんやりして、みえなくなるだろう。 

4)「世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国」とは

 抽象的な表現が並んでいるが、ここでのテーマは改憲である。所信表明をもう少し丹念に追跡してみよう。次のように述べた。

 「<美しい国、日本>の魅力を世界にアピールすることも重要である。(中略)国の理想、かたちを物語るのは、憲法である。現行憲法は、日本が占領されている時代に制定され、すでに60年近くが経った。新しい時代にふさわしい憲法のあり方についての議論が積極的に行われている。与野党が議論を深め、方向性がしっかりと出てくることを願っている。まずは日本国憲法の改正手続きに関する法律案の早期成立を期待する」と。

 首相の頭の中では「美しい国、日本」と「改憲」とが重なり合っている。では現行憲法のどこをどのように改憲するのか。すでに「5年をメドに」改憲したい意向を明らかにしている。問題はどういう手順で、どこを改憲するかである。

●「集団的自衛権の行使」のタブーを捨て去る意図
手順では改憲手続きに関する法案の早期成立であり 、改憲の内容は集団的自衛権の行使(日米軍事同盟下で米軍が攻撃された場合、日本は攻撃されていないにもかかわらず、武力を行使して米軍への攻撃を阻止すること)に重点が置かれている。所信表明で以下のように述べた。

 「日米同盟がより効果的に機能し、平和が維持されるようにするため、いかなる場合が憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するか、個別具体的な例に即し、よく研究してまいる」と。

 「研究」だからといって、軽視してはならない。これは従来の政府見解ではタブー視されてきた「集団的自衛権の行使」ができるかできないかではなく、いかにすれば行使できるようになるかに知恵を出し合おうという試みである。
 有り体にいえば、いかにして「悪知恵」を絞り出すか、それに、首相のお好みの表現を使えば、チャレンジしようという魂胆である。しかも明文改憲の前にも解釈改憲、つまり解釈の改革(?)によってタブーを投げ捨てようというハラであろう。その先にあるのは「日米ともに戦う」という、世界の中で孤立してゆくほかない危険そのものの道である。

 以上、「美しい国、日本」の4つの姿を中心に、安倍政権が意図している危うい方向を探った。すでに多くの人が指摘しているように、所信表明演説にはたしかにカタカナ言葉が多すぎる。戦後生まれの初の首相という感覚のゆえかもしれない。しかし強調したいことは、それは枝葉末節の話であり、そこに幻惑されてはならない。
 「美辞麗句にすぎる」、「内容が乏しい」という批評も目立つ。それは安倍政権の危険な方向を察知できないお人好しの表面的な感想にすぎない。彼の背後には現在の日米安保条約成立の立役者、祖父の岸信介・元首相が控えていることを忘れないようにしたい。、


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