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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「義」を期待できるか08年
「偽」に明け、暮れる07年

安原和雄
 波乱に満ちた2007年は「偽」に明け、「偽」に暮れようとしている。この「偽」にまつわる感想を多くの人からいただいた。友人の清水秀男さんから定期便(月1回)のメッセージ(07年12月分)が届いた。「一年の世相を表す〈今年の漢字〉に選ばれた〈偽〉の問題を私自身の反省もこめて取り上げた」と書いてある。もう一つは、日本経営道協会代表 市川覚峯さんからの「覚峯メッセージ」で、「今年を表す言葉、"いつわり〟は、日本として恥ずかしい。残念な事」とある。
 どちらも「偽」にかかわる示唆に富んだ一文なので、以下に紹介する。来年08年は「偽」ならぬ「義」を取り戻すことはできないだろうか。そういう期待を込めて一年を振り返る。(07年12月28日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「偽り列島 冬景色」の日本

 まず清水さんのメッセージ(大要)を紹介したい。

 今年を振り返ると、1月の不二家の期限切れ原料使用から始まり、“食”に関する企業(石屋製菓、赤福、船場吉兆、ミートホープ、比内鶏、マクドナルド)を中心とする、産地偽装・期限改ざん等の偽装表示、ニチアスと東洋ゴムの建材の耐火性能偽装、栗本鉄工所の橋材強度偽装・試験データ改ざん、あげくの果ては原子力発電所の報告データの改ざんや隠蔽等まさに「偽り」のオンパレードの年であった。逮捕された防衛省守屋前事務次官の問題も「偽り」の部類に入る。

 まさに「偽り列島 冬景色」の様相である。恒例の一年の世相を表す「今年の漢字」に「偽」が選ばれたのもむべなるかなである。

 老舗と言われる「赤福」や「船場吉兆」が不祥事を起こしたことに思いを巡らしてみたい。老舗には本来いくつかの良き共通点があり、長寿を保ってきたのではないだろうか。

 船橋晴雄一橋大学客員教授は「経営理念 長寿企業に学べ」(日経06/9/20朝刊)で次の3点を挙げている。
① 法令順守への強いこだわりがあること
 社会的非難を受ける可能性のある商いに臆病なくらい慎重である。
② 経営者の多くは企業を自分のものと思っていないこと
 マイカンパニーではなくユアカンパニーの意識を持つ。
③ 企業を社会的存在ととらえること
 企業を支えるステークホルダー(客、従業員、取引先、地域)との関係を重視する。

 私は老舗企業の特徴に次の2点を追加したい。
④ あくまで本業を重視すること
 いたずらに多角化・拡大路線を進むのではなく、進むにしても本業の延長線上の事業に特化する。
⑤ 創業者の強い倫理観に根差した家訓があり、順守していること

 これら5点をベースにして両社の現状をみると、今や完全に老舗失格である。
 法令順守軽視、マイカンパニー意識、企業の社会的存在としての意識の欠如は共通であるし、本業重視の観点からは「船場吉兆」は高級日本料理の本業から離れて明太子、カレー、プリンの販売にまで手を出し、事業の多角化・拡大路線を進み、ほころびが出ている。
 「赤福」は、鮮度が自慢で「製造したその日限りの販売」をうたい文句にして名を成した地方の銘菓から、消費期限を偽装してまで、全国展開拡大路線を歩んだ“つけ”が現われている。

 さらに両社には創業者の立派な企業倫理があるにもかかわらず、利益追求に走り、それら倫理は全く踏みにじられている。老舗にあぐらをかいた驕りが招いた結果である。
 ちなみに、その倫理観とは、次のような内容である。
①「吉兆」の場合、創業者湯木貞一氏は茶道に造詣が深く、その「もてなしの心」で料理への魅力を生涯かけて探求したという。常日頃言っていた言葉がある。「料理屋とできものは大きいなったらつぶれる」、「料理と屏風は広げすぎたら倒れる」
②「赤福」の場合、真心を尽くすことで素直に他人の幸せを喜ぶことが出来るという思想を表した「赤心慶福」という社是がある。赤福という名もそこから由来している。

 創業者精神に立ち返り、「正直であること」「隠蔽しないこと」「責任転嫁をしないこと」という当り前の精神規範があらためて問い直される事例である。

▽「偽」シリーズから学ぶべきこと― 釈迦の教えも

 清水さんからのメッセージを以下にもう少し紹介する。

 今年の「偽」シリーズを通じての事象から、あらためて学ぶべき点が多々ある。
第一に老子の言葉「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず」(天道は厳正で悪事には早晩必ず悪報がある)にもあるように、「悪事は必ず露見する」という真実である。

第二に利益至上主義のみの経営は破綻するということである。
 明治中期に住友財閥の第二代総理事の要職を務め、禅にも参じた伊庭貞剛(1847~1926年)の座右銘は、「君子、財を愛す。これを取るに道あり」《東嶺禅師(白隠禅師の高弟)『宗門無尽燈論』》である。
 お金を儲けるのは決して悪いことではない。しかし、儲け方には道があり、人の道に反した儲け方をしてはならないという戒めである。
 伊庭氏の高潔な生きざまからして、儲け方のみでなく儲けた金は道にかなった使い方をしなければならないということも含んでいると思う。
 ライブドア事件をはじめ不祥事が続出し、「資本主義の規範」の欠落が問われている昨今、あらためて企業人が噛みしめなければならない根本精神である。

第三に今年の不祥事の発覚はほとんど関係者(特に従業員)によるマスコミ等への内部告発だと思われる。
 サラリーマン川柳の「不祥事は増えたのではなくバレタのよ」は、笑いごとで済まされない事実である。
 06年4月「公益通報者保護法」が施行され、上場企業に関してはかなり窓口が設置されたが、まだ非上場企業、中小企業では設置されていないようである。
 経営トップは、企業は社会的公器であることに思いを致し、社内の風通しを良くし、不正がすぐ見つかるようにすると共に、「マイナス情報は宝物」の感覚を持ち、隠蔽しないで内外に正直に公表する。

 最後に「悪」に関して戒めている釈迦のつぎの言葉を噛みしめながら、「偽り」の年の締めくくりとしたい。
 「その報いはわたしに来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる―と。
(『法句経』121番 中村元著『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫)

▽日本的経営の真髄 ― 先達経営者の語録から

 以下では日本的経営の真髄ともいうべき優れた企業経営者たちの語録を中心に「覚峯メッセージ」(要旨)を紹介する。

私たちは先達、先哲、経営者が大事にしてきた言葉を守り、
「日本的経営の真髄」をつかみ、それを実践しなければ、
真の日本企業の発展、経済の繁栄はないと考える。
近頃、「黄金の奴隷」になり、利益ばかりを求め、
企業は金儲けが目的だと勘違いしている。
経営者たちに「国利民福」「公利公益」を心に
企業の繁栄を考えた先達経営者の言葉を
蘇らせていただきたいものである。
 以下に私の好きな先達経営者の語録を紹介する。

日本経営道協会
代表 市川 覚峯

1 人に喜びを与え一緒に幸せになろう (東京コカコーラ 高梨仁三郎)
2 最も社会に奉仕する企業が最も利潤を上げる (オムロン創業者 立石一真)
3 世の中に喜びの種をまいてゆけ (ダスキン創業者 鈴木清一)
4「先義後利」理を見ては義を思え (大丸創業者 下村彦左衛門)
5 うそをつかなければならない経営は心から慎め (豊年製油中興の祖 杉山金太郎)
6 智に走らず奇略に走らず堂々と正規軍の戦いをせよ (武田薬品工業・元会長 武田長兵衛)
7 儲ける経営より「儲かる経営」 (リコー・三愛グループ創業者 市村清)
8 金のために働かず天のために働くべし (片倉製糸創業者 片倉兼太郎)
9 利益が出ないと嘆く前にお客様へのお役立ちの至らなさを反省せよ (一燈園 西田天香)
10 金などは必要な時集まってくる「国利民福」を心掛けよ (カルピス創業者 三島海運)
11 黄金の奴隷になるな (出光興産創業者 出光佐三)
12 損して“徳”とれ 理は努力の結果なり (船場の商法 和田哲創業者 和田哲)
13 大きな仕事に取り組め 小さな仕事は己を小さくする (電通中興の祖 吉田秀雄)
14 人のやらないこと、困難なことに勇敢に取り組め (ソニー創業者 井深大)
15 成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセントだ (本田技研工業創業者 本田宗一郎)
16 困難を乗り切れば愉快になる (安田生命 安田善次郎)
17 艱難こそが普段の人間成長を促す (東芝中興の祖 土光敏夫)
18 企業は人間を磨く道場である (TDK中興の祖 素野福次郎)

参考:日本経営道協会 http://www.keieido.jp/

▽日本資本主義の父、渋沢栄一の座右銘は「義」

「偽」が氾濫し、企業経営の羅針盤を見失ったとき、先達の智恵に聴いてみるのも有力である。ここでは日本資本主義の父ともうたわれた明治・大正時代の財界リーダー、渋沢栄一(1840~1931年)の座右銘を紹介したい。それは渋沢著『論語講義』(講談社学術文庫)で取り上げている論語のつぎの言葉である。キーワードは「偽」ならぬ「義」である。

  「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」

 渋沢はつぎのように解説を加えている。
 君子(人格の優れた人)と小人(人格の劣った人)はその心術同じではない。君子は平生つねに善をなすことに志し、何事に臨んでも、それが義(正しい道理)に適するや、あるいは適せざるやを考え、その後進退取捨を決する。すなわち義のよろしきに従うを主義とする。
 これに反して小人は平生つねに私利を謀(はか)ることに志し、万事につけて利害を目安に進退取捨を決する。すなわち利にさえなれば、たとえそれが義に背くことであろうとも、そんなところには一切頓着せず、利益本位に打算するのが小人の常である ― と。

 渋沢は日本で初めて株式組織の商事会社を設立したのをはじめ、日本最初の銀行「第一国立銀行」創設にも参画し、頭取に就任したほか、生涯500余の企業設立に関係した。だから株を所有する機会も多かった。その渋沢は企業観、株式観についてつぎのように述べている。

 事業に対するときには、まず道義上より起こすべき事業か、盛んにすべき事業かどうかを考え、利損は第二位に考えることにしている。(中略)そう考えて事業を起こし、これに関与し、株を所有する。ただし株が騰貴するだろうと考えて、株をもったことはない ― と。

 このように渋沢は「義第一」に徹していた。そういう渋沢の目から見れば、昨今の日本列島は小人の群れに占拠されたというほかないだろう。
 清水さんのメッセージに明治時代の住友財閥リーダー、伊庭貞剛の座右銘「君子、財を愛す。これを取るに道あり」が紹介されている。同時代を生きた渋沢と伊庭は「東の渋沢 西の伊庭」とも評され、東(東京)西(大阪)財界を代表する巨峰のような存在であった。
 21世紀初頭の今からみれば、いささか今昔の感が深い。とはいえ特に渋沢の行動理念は経済に限らない。政治、社会のあらゆる分野で今こそ実践されるべきものである。
 さて来年08年は果たして「偽」から「義」への転換点を印すことができるだろうか。


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MD「成功」こそ最大の「偽」
国民に大重税を強要する計略

安原和雄
 一年の世相を表す恒例の「今年の漢字」に「偽」が選ばれた。今年ほど政府、企業によるごまかし、偽装、悪質な手抜きが氾濫した一年がかつてあっただろうか。その最後に登場した今年最大の「偽」として日本の海上自衛隊による初のMD(ミサイル防衛)実験の「成功」を挙げたい。
 防衛省は「成功」をはやしているが、技術的に仕組まれた「成功」ではないかという疑問が残る。その上、この「成功」に浮かれていると、気づいたときは、時すでに遅し、で国民は大重税にあえいでいるという偽計に陥っている懸念がある。しかも集団的自衛権の行使という憲法違反の問題が浮上してくる。これら三重の「偽」にご用心、と言っておきたい。今後この「偽」がどこまで肥大化していくのか、その展開に目が離せない。(07年12月24日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽疑問を投げかけた毎日新聞社説

 MD(正確にはBMD=中距離の弾道ミサイル防衛)実験の成功を社説(または主張)で取り上げたのは大手6紙のうちつぎの3紙のみである。まず見出しを紹介する。
*毎日新聞(07年12月19日付)=「MD実験 まだ夢のシステムではない」
*産経新聞(同上)=「ミサイル迎撃成功 日米同盟緊密化の契機に」
*読売新聞(12月21日付)=「ミサイル防衛 効果的運用へ日米連携が重要だ」

 産経、読売はMD推進の立場であり、批判的視点が欠落している。これに対し、毎日はいくつかの疑問点を投げかけているので、その要旨を紹介する。

 海上自衛隊のイージス艦(注・安原)「こんごう」が米ハワイ沖で海上配備型の迎撃ミサイルSM3の発射実験を初めて行い、迎撃に成功した。
 防衛省によると、米軍が陸上施設から模擬ミサイルを発射した後、数百キロ離れた海上の「こんごう」はレーダーでミサイルを探知、SM3を発射し、高度100キロ以上の大気圏外で標的に命中させたという。

 標的は、北朝鮮の中距離弾道ミサイルを想定していた。(中略)今回の実験成功によってMDシステムをめぐる数々の問題が解決されたと考えるのは、あまりに早計だ。
 まず技術的な問題がある。ハワイでの実験は、天気の良い条件で行われた。しかも、海自はあらかじめ米軍から模擬ミサイルの発射時間を知らされていた。このため、予期できない状況での有効性が証明されたわけではない。

 次に費用面の問題が依然として不透明だ。防衛省は2012年度までに開発・整備費として8000億円から1兆円を見込んでいるが、新技術の開発や米側との交渉次第では倍増する可能性もあるという。
 そもそもMDシステムの開発は、米国の軍需産業に大きなビジネスチャンスを与えたとすら言われるだけに、野放図に費用が膨らむことがないよう、国会は財政面からも厳しく点検していく必要がある。

 日本以外の地域に向かいそうな弾道ミサイルへの対処も、灰色領域として残っている。政府は従来、米国を狙ったミサイルを日本が迎撃するのは、集団的自衛権の行使にあたる可能性が高いと説明してきたため、安倍前内閣は解釈の変更に傾いていた。福田内閣がこの問題をどうするのか明らかになっていない。
 日本のMD構想は北朝鮮による98年のテポドン発射が直接のきっかけだった。政府はMDシステムが専守防衛にかなうと強調しているが、日米共同での運用は中国を含む東アジアを刺激し、新たな軍事技術の開発競争を誘発しかねないことにも注意を払わなければならない。(以上、毎日社説の紹介)

(注)イージス艦とは
 目標の捜索、探知、分類識別、攻撃までの一連の動作を高性能コンピューターによって自動的に処理するイージス(Aegis=盾)防空システムを備えた最新鋭の艦艇。レーダー、ミサイルと組み合わせて一体的に運用される。海上自衛隊は現在4隻のイージス艦を保有している。
 費用も巨額である。例えば07年度防衛予算をみると、1隻のイージス・システム搭載艦の能力向上等(SMー3ミサイルの取得等を含む)の費用総額は約309億円、うち07年度予算に計上されたのは6億円で、残りの303億円は08年度以降の後年度負担となっている(07年版防衛白書から)。いったんイージス防空システムを搭載すると、兵器の技術革新による能力向上がいかに巨費を要するかが理解できるだろう。

▽注視を怠ってはならない3つの「偽」

 上記の毎日新聞社説は、つぎの3つの問題点をうかがわせている。いずれも「偽」につながる問題点であり、注視を怠るわけにはいかない。
①技術上の問題として、実験「成功」はあらかじめ仕組まれていた。
②開発・整備費として1兆円を見込んでいるが、今後野放図に費用が脹らむ恐れがある。
③日米共同でのMD運用は、平和憲法違反の集団的自衛権行使を意味する。

①技術上の問題について
 毎日新聞社説はつぎのように指摘した。
 ハワイでの実験は、天気の良い条件で行われた。しかも、海自はあらかじめ米軍から模擬ミサイルの発射時間を知らされていた。このため、予期できない状況での有効性が証明されたわけではない ― と。

 これはいいかえれば天候やミサイル発射時間など実験成功に必要な条件をあらかじめ整えておいて行われた実験であったことをうかがわせる。海上自衛隊にとって初の実験であり、これに失敗すれば、MD導入・配備が頓挫する可能性もあり、是が非でも実験を成功させなければならないという配慮を優先させただろうことは想像に難くない。

 朝日新聞(12月19日付)は現地ハワイ発の記事「BMD成功、課題は山積」でつぎのように報じた。
 今回の実験は発射の場所と時刻を明示し、「かなり初歩的(米軍関係者)」― と。

②開発・整備費について
上記の朝日新聞は必要費用についてつぎのように書いている。
 BMD最大の問題点は膨大なコスト。今回の実験の費用は標的のミサイルを含めて総額約60億円。米国が80年代からこれまでにBMDに投じた予算は1000億ドル(約11兆円)を超す。防衛省幹部は「米国に言われるままにBMD整備を進めていたら、将来いくら費用がかかるか分からない」と懸念する ― と。

現在すでに開発を進めている次世代の迎撃システムを導入すれば、総額6兆円にも、という数字も飛び交っている。いったいどこから誰からこの巨費を調達するのか。ズバリ指摘すれば、大衆課税を意味する消費税の増税、つまり大衆負担の大重税である。兵器メーカーを含む財界の総本山、日本経団連はすでに将来、消費税を17%にまで引き上げることを求めている。消費税率1%引き上げは約2.5兆円の増税に相当するから、17%の消費税が実現すれば、現行5%からみて総額約30兆円(2.5兆円の12倍)の大増税となる。

 軍事費そのものが本来巨大な浪費である。それに数兆円規模のMDという新たな血税の浪費が加われば、笑いが止まらないのは、防衛利権を食い物にする軍産複合体(兵器メーカー、防衛省、自衛隊、国防族議員などで構成)であろう。「消費税の社会保障財源化」(07年11月20日の政府税調の答申)、つまり「社会保障財源としての消費税の引き上げ」というもっともらしい口実による増税で、MD推進の負担を大衆に転嫁する結果となるのは手の込んだ「偽」ではないのか。

③憲法違反の集団的自衛権行使について
 毎日新聞(07年12月17付)は、記事「ミサイル防衛本格稼働 課題残し見切り発射」でつぎのように指摘した。

 日本の周辺国が中距離弾道ミサイルを発射した直後は、標的が日本か、米国など第三国なのか分からない可能性がある。しかしミサイルは10分で首都圏に到達する。他国を狙ったミサイルを日本のMDで迎撃することは、憲法9条で禁じられている集団的自衛権行使(注)に当たるとされ、安倍前政権が憲法解釈見直しを検討したが、結論は出ていない ― と。
 政府は憲法違反を承知で集団的自衛権の行使に踏み込もうとしているのか。これほどあからさまな「偽」はないだろう。

(注)集団的自衛権とは
 自国が直接攻撃されていない場合でも、密接な同盟関係にある外国への武力攻撃がなされた場合、それを実力で阻止する国家の権利のこと。国連憲章や日米安全保障条約など国際法上は認められている。
 しかし日本政府の従来の憲法解釈(その元締めは内閣法制局)によると、つぎのようである。「憲法9条が許容している自衛権の行使は、わが国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるもので、憲法上許されない」と。
 なお現行の日米安保条約(1960年6月発効)は「日米両国が国連憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、日米安保条約を締結する」とうたっている。

▽MDの実験強行への抗議声明

 「みどりのテーブル」(環境政党をめざす組織で、先の参院選(07年7月)東京選挙区で当選した川田龍平氏を支持した)会員の杉原浩司氏(核とミサイル防衛にNO!キャンペーン)が12月18日会員向けの情報メールで流した〈【抗議声明】こんごうのSM3実験強行に抗議する!〉の内容を以下に紹介する。つぎの3点を強調している。

・MDの本質は、米軍が核をも含めた先制攻撃(予防戦争)を行うための「先制攻撃促進装置」にほかならない。
・日本列島と住民は、米軍による「先制攻撃のための盾」として反撃の矢面に立たされることになる。
・MDは日米の「軍産学複合体」を一体化させている。日米の軍需産業や国防族に半永久的に利権を提供する悪質なプロジェクトである。

【抗議声明】
 07年12月18日午前7時(日本時間)すぎ、海上自衛隊イージス艦「こんごう」が米ハワイ・カウアイ島沖で迎撃ミサイルSM3による模擬弾道ミサイルの迎撃実験を強行した。防衛省は実験の「成功」を発表した。11月6日に標的を追尾・捕捉する実験を行うなど入念な準備を積み重ねた末の「成功」は、模擬弾頭の飛行コースなどが予め計算された、実戦とは程遠い「出来レース」にほかならない。

 今回の迎撃実験はまず何よりも、ハワイの海と空と大地を侵すものであり、到底許すことはできない。こんごうが使ったハワイにおける「ミサイル防衛(MD)」実験施設(太平洋ミサイル射場)は、先住民族が崇めてきた土地や海を侵略したうえに構築されている。
 さらに、「防衛」を前面に掲げるMDの本質は、米軍が反撃を恐れることなく核をも含めた先制攻撃(予防戦争)を行うための「先制攻撃促進装置」にほかならない。日本が配備を開始したSM3(海上配備型)やPAC3(陸上配備型)などのMDシステムは、米軍のMDシステムを補完する。日本列島と住民は、米軍による「先制攻撃のための盾」として反撃の矢面に立たされることになる。

 こんごうの迎撃ミサイルの照準は、憲法9条にも向けられている。迎撃は大気圏外の宇宙空間で行われており、宇宙の軍事利用を禁じた「宇宙の平和利用原則」に違反する。また将来、米国向けミサイルの迎撃も可能とされる日米共同開発中(三菱重工などが参加)の新型SM3の搭載が見込まれており、集団的自衛権の行使を射程に入れている。
 加えて、新型SM3は第三国への輸出が想定されており、武器輸出禁止三原則をさらに空洞化させることは必至だ。MDは、日米安保戦略会議で「はらわたを見せ合う」と防衛省幹部(当時)が形容するほどに、日米の「軍産学複合体」を一体化させている。

 現在、隠されてきた軍需利権の深い闇に捜査のメスが入り、MD が最大級の利権の温床であることが明らかになりつつある。再逮捕された守屋前防衛事務次官は、MD導入の脚本と演出を担った張本人であった。
 SM3ミサイルは1発約20億円、こんごうへのSM3搭載費だけで総額412億円が投じられた。当面導入するシステムだけで1兆円、将来的には6兆円にも及ぶとされるMDは、「スパイラル(らせん状)開発」の名のもとに日米の軍需産業や国防族に半永久的に利権を提供する悪質なプロジェクトである。
 
 石破茂防衛相は実験後の会見でMDの費用対効果を聞かれ、「人命が救われることがお金で計れるか」と大見得を切った。しかし、軍需産業の救済に多額の税金を投入する一方で、薬害肝炎被害者や貧困にあえぐ人々を切り捨てようとしてはばからない残酷な政府の閣僚に、そうした言葉を発する資格はない。

 MDは、米国による東欧への配備計画が米ロ間で深刻な軍拡競争の引金となっているように、軍事対立の拡大と資源の浪費のみをもたらす百害あって一利なしのプロジェクトである。日本政府はMDにのめり込むのではなく、軍拡競争自体にストップをかけ、軍縮を促進する「踏み込んだ外交」こそを展開すべきである。

 私たちはあらためて要求する。
・こんごうの佐世保への08年1月上旬の実戦配備を中止し、SM3を撤去せよ
・1月中にも計画されている日本海(予定)での日米共同MD演習を中止せよ
・入間、習志野基地配備のPAC3ミサイルを即時撤去し、PAC3配備計画を撤回せよ
・1月に計画している入間配備のPAC3の都心への移動展開演習を断念せよ
・ミサイル防衛から撤退し、東北アジアの核・ミサイル軍縮に向けたイニシアチブを取れ

 2007年12月18日 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン

▽ハワイから送られてきた「連帯のあいさつ」

 日本の民間平和運動、「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」に対し、MD実験に先立ってハワイから送られてきた「連帯のあいさつ」を以下に紹介する。これは同じく「みどりのテーブル」会員向けに流されたメール情報による。「連帯のあいさつ」は次の諸点を強調している。
・「ミサイル防衛」は嘘であり、「ミサイル防衛」の真の戦略的目的は米軍の攻撃能力を高めることにある。
・私たちのハワイの大切な土地や、海、空が戦争の出撃地になることを許さない。
・戦争ゲームに日本が加担することは、その平和憲法を裏切ることになる。

 2007年12月11日
 アメリカのいわゆる「ミサイル防衛」システムに日本が参加することに反対する皆さんに熱いあいさつと連帯を送る。
 私たちは「ミサイル防衛」が嘘であることを知っている。「ミサイル防衛」の真の戦略的目的は米軍の攻撃能力を高めることにある。はるか上空から海底深くに到るまでの軍事的「全領域支配」を追求しようとするアメリカのあくなき姿勢は、平和と安全をもたらすものとは程遠く、地球全体を脅かす危険で新たな軍拡競争を加速させている。

 米国は、太平洋地域における帝国拡大のために、独立国であったハワイに武力侵攻し占領した。現在、帝国の情報技術前線の拡大に伴い、米国のミサイル防衛プログラムは、ハワイの陸地や、海、空を侵している。
 「こんごう」が撃ち落とす予定のミサイルは、カウアイ島ノヒリにある聖なる砂丘の上から発射される。この場所は、ハワイの先住民族である「カナカ・マオリ」(Kanaka Maoli)が伝統的に墓地にしてきた所である。
 米軍による侵犯は、帝国が自らの領域を監視するための電子的な目や耳を設置しているハレアカラ山(マウイ島)やマウナケア山(ハワイ島)などの聖なる山々に広がり、強力なソナーがクジラたちを傷つけ殺しているかもしれない海中深くにまで及んでいる。

 私たちは、私たちの大切な土地や、海、空が戦争の出撃地になることを許さないし、戦争マシーンの工作者たちに場所を与えることも許さない!
 私たちは、ハワイ沖のミサイル防衛実験に日本が参加することに強く反対し、米国のミサイル防衛計画への日本の関与を拒否する皆さんのアクションに拍手を送る。こうした戦争ゲームに日本が加担することは、その平和憲法を裏切ることである。

 平和と正義と非核の世界に向けて、私たちの声と行動を結集しよう!

DMZ(非武装地帯)ハワイ(アロハ・アイナ)
アメリカフレンズ奉仕委員会ハワイ支部
オハナ・コア(非核独立太平洋)
カウアイ平和社会正義連合
マル・アイナ非暴力教育行動センター

〈安原のコメント〉「聖なる砂丘」からミサイル発射
 MD(ミサイル防衛)の開発・導入・配備・迎撃実験に反対している日本の「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」やハワイの「DMZ(非武装地帯)ハワイ(アロハ・アイナ)」などの動きは日本のメディアでは皆無といっていいほど報道されない。特にハワイでの反対運動の様子は日本では情報が少なすぎる。

 上記のハワイからの「連帯のあいさつ」によると、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」が初の迎撃実験に成功したという標的の模擬弾道ミサイルは米軍によって発射された。その発射地はハワイ先住民が伝統的に墓地にしてきた「聖なる砂丘」となっている。米軍とそれに協力する日本の海上自衛隊による聖地の侵犯は許せぬ、という先住民たちの叫びが伝わってくる。しかも「日本は戦争ゲームに加担して、平和憲法を裏切るようなことは避けて欲しい」という心底からの声も聞こえてくる。


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台頭するローカリゼーション
経済グローバル化への果たし状

安原和雄
 ローカリゼーション(地域第一主義)という名の新しい挑戦が日本を含めて世界中で台頭し、広がりつつある。これは経済のグローバル化(世界化)への対抗軸として、グローバル化が生み出す弊害を克服するために市民たちが突きつけた果たし状ともいえる。ローカリゼーションが目指すものは何か。その実践はどこまで進んでいるのか。リーダー役を果たしている2人の女性活動家の見方、主張、実践を追った。これは「世界を壊していくグローバル化」(07年12月13日掲載)の続編である。(07年12月20日掲載、同月21日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず女性活動家、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(注)が東京で行った講演のうちローカリゼーションに関する内容(要旨)を紹介する。(ヘレナさんほか著『ローカリゼーションの胎動と私たちの実践』=編集 懐かしい未来ネットワーク、発行 NPO法人 開発と未来工房、07年11月刊=参照)。
 (注)ヘレナさんはスウェーデン生まれの言語学者。ISEC(エコロジーと文化のための国際協会、本部イギリス)の代表。グローバリゼーションに対する批判的な問題提起や啓発活動を行っている、世界的なオピニオンリーダーの一人。

▽地元産の食べ物を食べよう!― その多くの利点

 経済を地域レベルにシフトしていくことを目ざすローカリゼーション(localization)は、さまざまな地域でさまざまな取組が始まっている。その担い手は政府ではなく、普通の市井の人たちで、特に意義深く重要な動きは、ローカル・フード・ムーブメント(local food movement)、つまり地元の食材を使って地元産の食べ物を食べよう、という運動である。
わたしが関わっている組織ISEC(注)は、15年前の立ち上げ当初からローカル・フード・ムーブメントを展開、1997年から2000年の間に、農家がつくったものを持ち寄って販売するファーマーズ・マーケットが400カ所で開設された。

 (注)ISEC(The International Society for Ecology and Culture=エコロジーと文化のための国際協会)は、グローバルな消費文化から生物学的・文化的多様性を守り、地域に根ざしたオルタナティブ(もう一つの選択肢)を推進することを目的としている。ラダック(インド最北部のヒマラヤ山岳地帯にあるチベット文化圏地域の呼称)での長年に及ぶ活動のほか、イギリスを拠点にして、地場農産物を奨励し、小農を守ったり、コミュニティを再興するための啓発活動などを行っている。アメリカとドイツに支部がある。

 また学校の校庭に食べられる植物を植えて、子どもたちにその育て方を教え、子どもたちとそれを育てる喜び、調理し、食べる喜びを分かち合う、いわゆる食育運動もある。あるいは地元でつくられたものを地元の店で売る。
 生産者と消費者の間の提携もある。消費者が農家と1年契約を結び、そのお金を活かして、1年間かけてきちんと作物の計画を立て、多様な作物がつくられるようにすれば有機的な農業もしやすくなる。作物の種類が多いほど、農薬が必要なくなる。これによって農家にとってもより高い収益が確保できる。

 以上のローカル・フード運動には多くのメリット(利点)がある。ものを運ぶ距離を短くして、輸送コストを極端に減らすことができること、石油をはじめとする稀少な資源をできるだけ使わないで済むこと、輸送にかかるエネルギー消費は地球温暖化の大きな原因であるが、これを減らすことができて、温暖化防止にもつながる。
 さらに(地域を重視するため)地元のものに対する尊敬の念を取り戻させてくれること、例えば食べ物に限らず、地域の環境や文化に対する敬意を、そこで暮らす人たちが取り戻すことができて、生活に臨む態度が変わっていく。

▽分散型、再生可能なエネルギーと暮らし

 中央集中型ではなく、分散型の再生可能なエネルギーの推進も非常に重要なことである。持続可能な経済を支えるためには、再生可能なエネルギーは欠かせない。
 現代社会では私たちは企業からの強いプロパガンダ(宣伝)にさらされている。例えば人口の爆発的増加の世界ではその人口を養うために、大量の農薬や肥料は不可欠であり、ローカル化ではそれだけの多くの人口は絶対に養えない、と。

 しかし私は全く逆だと思っている。モノカルチャー(広大な土地に単一の作物を栽培すること)で同じ作物をいっせいに育てるよりも、多種類の作物を少しずつ育てた方が、面積当たりの生産量は多くなる。だからより多くの人たちが農的な暮らしをし、より小さな農場で多様な植物をつくる方が、全体として生産量はずっと多くなる。
 また現在のエネルギー事情の中で今後生き延びるためには原子力は不可欠だと常に聞かされている。しかしそれもまやかしだと私は思う。地域に根ざした生活、経済であれば、その地域に根ざした持続可能な分散型エネルギーで十分やっていけるはずである。

〈安原のコメント〉ローカリゼーションこそ未来性に富む
 ここでの持続可能な分散型の再生可能エネルギーとは何を指しているのか。ヘレナさんは十分な説明をしていない。ヘレナさんほか著『ローカリゼーションの胎動と私たちの実践』のあとがきで著者の一人、鎌田陽司さん(NPO法人・開発と未来工房代表理事)はつぎのように書いている。
 「エネルギーに関しては脱石油に向かう、地域のバイオマス(生物資源)、風力、小水力、地熱などの自然エネルギーの活用。それを可能にする地縁技術、適正技術。電気を使わない非電化製品」と。
グローバル化が中央集中型で、再生不可能な大量の石油と原子力エネルギー依存型であるのに対し、ローカリゼーションは地域分散型で再生可能な自然エネルギーを重視する。ここが両者の質的違いをくっきり分けている。いいかえればグローバル化が持続不可能で未来性を欠いているのに比べ、ローカリゼーションは持続可能で未来性に富んでいる。

▽日本版ローカリゼーション ― 地域内資源循環と自給

 つぎに講演会でのコメンテーター、中島恵理さん(注)の発言内容(要旨)を以下に紹介する。
 (注)環境省民間活動支援室・環境教育推進室長補佐。サスティナブル・コミュニティ研究所理事、里山ネットワークアドバイザーなど。自身も八ケ岳山麓で農のある暮らしを実践。著書に『英国の持続可能な地域づくり:パートナーシップとローカリゼーション』など

 ローカリゼーション(localization)の日本語訳は「地域内資源循環」という感じで、ここでの資源にはモノだけでなく、人も含まれる。人やモノや、智恵やお金や、社会を構成する重要なものが地域の中で活用されて循環してネットワークして活かされていく、これがとても大切なことと思う。具体的にローカリゼーションを進めていく上で一番重要なのは、生きるために必要な食べ物、水、エネルギーなど基本的なものを出来る限り自給していくことではないか。

 ローカル・フードは日本語でいえば「地産池消」で、このローカル・フードなどを通じ、有機物の資源循環を基本として、エネルギーは自然エネルギーを使う。これを地域の仕組みとして進めていくためにコミュニティ・レストラン、コミュニティ・カフェ、コミュニティ・トランスポート(住民の短・中距離移動のためのコミュニティバスなどの交通機関)さらにコミュニティ・コンポスト(生ごみなどを発酵させてつくった堆肥=たいひ)などの活動が日本各地にある。

 海外に出て感じるのは、グローバリゼーションが世界的に広がっているが、それと同じくらいの勢いでローカリゼーションを進めていこうとする動きが日本、イギリス、インド、アフリカ、アメリカでも起こっていることである。そういう実態を目にすることで、ローカリゼーションの必要性や重要性を、わたしは強く認識するに至った。

 中島さんは以下の4地域の事例を報告しているが、内容は割愛する。
*「生ゴミの地産池消」=埼玉県小川町
*「地域通貨と自然エネルギー」=滋賀県野洲市
*「障害者たちのローカリゼーション」=青森県八戸市
*「ゴミ回収で商店街の活性化」=東京・新宿区早稲田

▽ローカリゼーションは対抗軸になり得るか―聴衆との質疑応答から

 ローカリゼーションのあり方、進め方をめぐってヘレナさん、中島さんと聴衆との間で交わされた質疑応答の一部を以下に紹介する。

(1)失業者が増えないか?
〈問い〉グローバル経済の中で仕事をしている人もいる。だからローカリゼーションを進めると、それによって失業者が増える可能性はないのか。増えるとしたら、ローカリゼーションを進める上でブレーキになるのではないか?

〈答え〉
 ヘレナさん:地球規模での貿易の規制緩和が進められていくことで、企業が合併して、2つの企業が1つになる。この過程で必ず雇用が減る。だからこの企業合併へ向かう誘因をローカリゼーションによって変え、逆に企業を分ける方向に進めていく必要がある。これを進めていけば、労働力、資本、資源とのバランスがとれるところに辿りつくのではないか。

 中島さん:わたし自身の経験では、夫は有機農業をやり、また地元の木材を使って家を建てている。それを金銭で評価すれば少ないが、自らの手で健康によい食材をつくり、また自分の技術を身につけながら家をつくる。そういう形の幸せな生活とローカリゼーションが結びつく。いまのGDP(国内総生産)や金銭のモノサシだけでは、厳しく見えるかもしれないが、広い視点で評価すれば、ローカル化した社会の方が幸せな暮らしへと行き着くのではないか。

〈安原のコメント〉成長主義、拝金主義を克服できるか
 失業はどうなるか?という疑問は重要である。これに答えるのは簡単ではないが、ヘレナさんの答えはそれなりに納得できるのではないか。
 一方、中島さんの「GDP、金銭のモノサシ・・・」という話は経済成長主義、拝金主義をどう克服するか、という問いかけと理解したい。
 小泉政権以降顕著になった新自由主義=市場原理主義にもとづく「弱肉強食の競争」を軸とするいわゆる構造改革が何をもたらしているか。一つの具体例として景気の回復・上昇は大企業や資産家には恩恵をもたらすが、一般サラリーマンは仲間外れになっている。これが著しい格差拡大、不平等の背景であり、成長主義、拝金主義の追求は今や幻想と化している。にもかかわらずまだ人々は成長主義、拝金主義に夢を託す執着を断ち切れない。この執着を振り払わなければ、ローカリゼーションの未来は見えてこないのだろう。

(2)乗りこえるための力は?
〈問い〉政府のほか、WTO(世界貿易機関)など国際機関が進める経済グローバル化の圧倒的な力がある中で、ローカリゼーションが対抗軸として本当にそれを乗りこえる力になり得るのか。乗りこえていくためには何が必要になるのか?

〈答え〉
  ヘレナさん:グローバリゼーションを進めていくと、職を失うかもしれない、職を変えないといけない、あるいは家族と離れて暮らさなければいけないかもしれない。そういう不安定な状態がグローバリゼーションには必然的に伴う。
 グローバリゼーションの推進者は実はひと握りの人たちで、圧倒的大多数の人たちは、利益を受けると聞かされてはいるものの、実際には失うものの方が大きい。
 例えばアメリカでは25年前に比べると、1年間で1か月分も長時間働くようになっている。わたしの母国スウェーデンでも、社会的な福祉が崩壊しつつあり、より長い時間働かなければならず、その結果、子どもと過ごす時間や自然の中で過ごす時間、さらに瞑想したり、生活を楽しむ時間がなくなってきている。
 このように圧倒的多数の人たちが、グローバリゼーションでさまざまなものを失っている現実をまず明確にすること、そういう気づきを広めていくとともに、システムとしてもうひとつ別の選択肢があることを広めていく必要がある。

 中島さん:日本でも地域起こしや商店街活性化や、ローカリゼーションを意識しないまま、結果的にローカリゼーションの取組をしている動きは沢山ある。ただしそれぞれの動きがネットワークされていない。イギリスの取組の方がネットワークされている点が大きな違いである。日本のひとつひとつは小さな取組でも、ネットワークを結ぶことで大きな発言力を持っていく。さらに世界中とネットワークを築いていくことで、世界を変えていくこともできるのではないか。

〈安原のコメント〉失うものを取り戻すことができるか
 大多数の者にはグローバル化で失うものが多い、という事実に気づくことがまず大事である。失業による収入減だけではない。家族と離れて暮らさざるを得ないこと、長時間労働に伴う「時間のゆとり」の減少、子どもと過ごしたり、自然の中で過ごしたりする時間がないこと、(ヘレナさんによると)瞑想する時間がなくなること―など数え切れない。日本ではこれに自殺、過労死などが追加される。要するにゆとりと人間性の喪失である。

 私は「ゆとり」にはつぎの5つのタイプがあると考えている。グローバル化はこれらのゆとりを壊しており、ローカリゼーションの中にこそゆとりを取り戻すことができる。しかもこのゆとりには、市場でお金と交換して入手できる貨幣価値(=市場価値)よりもお金では入手することのできない非貨幣価値(=非市場価値)の方が多い。

①所得のゆとり(貨幣価値)=生存権を保障できるだけの所得面の余裕
②空間のゆとり(貨幣価値と非貨幣価値)=社会資本による公共空間、街並みの美しさ、職場空間などの確保
③環境のゆとり(非貨幣価値)=生命共同体としての地球環境の保全(地球温暖化防止など)、循環型社会の構築とその維持・保全など
④時間のゆとり(非貨幣価値)=労働時間の大幅な短縮によるゆったりした自由時間の確保
⑤精神のゆとり(非貨幣価値)=ローカリゼーションを考え、実践するだけの心の余裕と意欲、利他主義の実践、個性の尊重、絆(きずな)の復活など

(3)企業、政府との協力はどうするか?
〈問い〉企業の側も意識が高まって、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)やSRI(Socially Responsible Investment=社会的責任投資)などの動きが出ている。企業とはどのように協力していったらいいか。またローカリゼーションを進めていく上で政府とのパートナーシップ(協力関係)はいかにあるべきか?

〈答え〉
 ヘレナさん:優先順位をつければ、まず地元のコミュニティグル-プ同士の協力、次がNGO(非政府組織)同士の協力を地域レベル、国レベル、国際レベルでやっていく。その次に自治体政府との協力が挙げられる。多国籍企業との協力は、いまのところ成功していないと思う。可能性としては企業との協力もあり得るが、その協力を意味あるものにするためには私たちの側により明確なビジョンがなければならない。
 その明確なビジョンも急速に広まりつつあり、ローカリゼーション運動も急速に成長しているから、政府や大企業とのコラボレーション(協働)も、数年後には実現しているかもしれない。

 中島さん:実はわたしは(環境省で)民間活動を支援していくために企業、行政、NGOとのパートナーシップを推進する仕事をしている。環境省は東京・青山の国連大学に地球環境パートナーシッププラザ(注)を設けている。
 ここでは地域の資源や眠っているお宝を発掘して、コミュニティ・ビジネスやコミュニティ・ガーデン(里山、市民農園など)の具体的な活動とつなげていく。それも単なるボランティアではなく、雇用もつくって経済的価値も生み出しつつ、地域の社会・環境問題を解決できるような手段・方法を開拓したいと思っている。
 (注)環境省、国連大学とNPO(非営利組織)などの民間スタッフが共同で運営する団体。持続可能な社会を目指し、参加による課題解決の仕組みづくり、そうした現場で活動する人たちを育てることを目的に設立された。

〈安原のコメント〉協力関係をどうつくっていくか
 パートナーシップ(協力関係)、コラボレーション(協働)など表現はさまざまだが、要は人間同士、人間と企業、政府を含む組織との協力関係をどうつくっていくかが課題である。
 グローバル化はこの相互の関係を断ち切った。企業は利益第一に走り、質問者が指摘しているCSRやSRIへの取組はまだ不十分である。政府は大企業の支援者となり、一方、個人それぞれは弱肉強食の競争を強いられて、乾いた砂粒のような存在となっている。お互いの協力関係を取り戻すにはグローバル化を批判し、ローカリゼーションへの視点に立って出直すほかないだろう。


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世界を壊していくグローバル化
その多様な弊害の実相を観ると

安原和雄
 米ブッシュ政権主導のグローバリゼーション=グローバル化(世界化)が地球規模で猛威を振るっている。一方、その弊害も顕著になりつつあり、「世界を壊す」という形容も決して誇張ではない。その多様な弊害の実相を今こそ見きわめることが必要である。反グローバリゼーションの旗を掲げ続けている女性活動家の見方、主張を手がかりに考える。
(07年12月13日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 女性活動家、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさん(注)を招いて行われた講演会での話(要旨)を紹介しよう。グローバリゼーションの名の下で現実に何が起こっているかについて以下のように述べている。(ヘレナさんほか著『ローカリゼーションの胎動と私たちの実践』=編集 懐かしい未来ネットワーク、発行 NPO法人 開発と未来工房、07年11月刊=参照)。

 (注)ヘレナさんはスウェーデン生まれの言語学者。ISEC(エコロジーと文化のための国際協会、本部イギリス)の代表。1986年、持続可能で公正な地球社会実現に重要な貢献をした人々に与えられるライト・ブリッド賞を受賞。著書『ラダック 懐かしい未来』は30カ国語以上に訳された。ラダック(インド最北部のヒマラヤ山岳地帯にあるチベット文化圏地域の呼称)での活動を継続しつつ、グローバリゼーションに対する問題提起や啓発活動を行っている。世界的なオピニオンリーダーの一人。

▽もし石油がなくなったら、今の暮らしはどうなる ?

*石油依存のグローバルな生活様式
 近い将来石油が足りなくなるかもしれないという、いわゆるピークオイル(注)の問題を意識すると、原油価格が急騰したら、あるいは石油そのものがなくなったら、今の私たちの暮らしが今後どうなっていくのかという疑問が湧いてくる。考えてみると、現在の都市化されたグローバルな生活様式がいかに石油に依存しているかが分かってくる。ほとんどすべての製品が石油を基にしている。周囲を見わたせば、いたるところがプラスティックだらけという状態からも一目瞭然である。
(注)ピークオイル(peak oil)とは、原油生産量がピーク(最高点)に達すること。ピークを過ぎると、その後の原油生産量は減少に向かい、原油価格が高騰する。07年4月には1バレル(159リットル)60ドル台だったのが、同年12月上旬には90ドルの水準まで上昇した。

〈安原のコメント〉
「もし石油がなくなったら」という想定問答を日常感覚で試みている人が果たしてどれだけいるだろうか。現実には例えば鉄道やバスに比べて石油浪費型の自動車で― 日本国内のガソリンは1リットル90円から150円程度まで価格上昇したとはいえ― 移動している人びとが余りにも多い。
 それが示唆するものは何か。やがて、早ければ10年くらいで石油が足りなくなる日がやってくるということだろう。最近の原油価格の高騰は、その予兆である。昨今の経済のグローバル化は歴史上の必然であり、しかも一見猛威を振るっているようにみえるが、実は石油というもろい基盤の上に咲くあだ花ともいえる。

*自由貿易=「貿易のための貿易」の無駄
 例えば何十万トンというプラスティック製の消耗品、あるいはバターや牛乳、小麦などが輸出され、全く同じものが同じ国内に輸入されている。ほとんどの人はこの事実を知らない。こういう輸出入の量がどんどん大きくなっていて、貿易の相手国も世界各地に広がっている。これが自由貿易、グローバル経済の姿で、こういう「貿易のための貿易」、すなわち同じものを輸出し、輸入するという馬鹿げたことは非常に無駄が多いし、環境汚染を生む源でもある。

▽民主主義も、社会的つながりも、愛情すらも奪っていく

*グローバル化は民主主義を脅かす
 経済活動をさらにグローバル化していく方向は、社会的、心理的、かつ環境に関する問題をますます悪化せせるだけではない。真の民主主義さえ存在し得ないことになってしまう。なぜなら外国への投資を決めるのは政府ではなく、グローバル企業なので、選挙で投票する人たちがグローバル経済に反対していても、その投票には全く意味がなくなってしまうからである。

*社会的つながりを崩壊させたグローバル化
 グローバル化経済の下では「もっともっと」という競争とプレッシャーに常にさらされている。少なくなった仕事を求め、少なくなっていく資源を求め、人々はより長時間働かなくてはならない。学校ではより一生懸命に勉強しなくてはならない。そういう状況に置かれてしまい、幸せを感じる度合いがだんだん少なくなっている。
 沢山働く人は、どうしてもテレビを見る時間が多くなる。あるいはコンピュータの前に座って、自分とは別のもうひとつの自分をインターネットの世界でつくりあげることで現実から逃れようとする人も増えている。
 街の中、電車の中、オフィスの中で、人はあまり他の人に目を向けなくなってしまった。パソコンの画面を見たり、携帯電話で話したりしていて、目の前にいる人の顔を見て話をするということがなくなってきている。つまり社会的つながりが崩壊してしまっていることがグローバリゼーションのもたらした大きな要素のひとつである。

*消費文化の中で愛情すらも奪われていく
 経済のグローバル化は、人々から愛情すらも奪っている。子どもにとって自分たちの声を聞いてくれている、自分をみていてくれている、自分は愛されている、自分を慈しんでくれている、そう感じられるような関係の中で生きられるかどうかは本当に大きなことである。これを可能にさせていた社会体系が、グローバルな消費文化の中で急速に失われている。
 消費文化の中で生きる子どもたち、若者たちは、友だちの愛を得たいなら、最新のファッション、流行のスニーカー、最新のおもちゃを持っていなければならないというメッセージにさらされている。しかしいくら最新のファッションを身につけても、愛情を得たり、そこからコミュニティができていくわけではない。さらなる競争やねたみが生み出されてしまい、やがて自分が自分自身であるがゆえに愛されるのではなく、自分が持っているものに注目が寄せられているだけだということに気づかされる。

〈コメント〉
 「経済のグローバル化」といっても、それが世界中にまき散らす弊害は、経済の分野に限らない。ここで指摘されているように民主主義への脅威、社会的つながりの崩壊、さらに愛情の喪失など、その弊害は多面的である。日本での自殺が小泉政権以来、年間3万人を超える高水準にあるのも、また親殺し子殺しが多発しているのも、その背景には無慈悲な新自由主義路線=グローバル化路線がある。

 特に「子どもにとって自分たちの声を聞いてくれる、自分は愛されている、自分を慈しんでくれると感じるように生きることができるかどうかは大きいこと」という指摘は的確というべきである。ここには望ましい教育の原点が伏在している。この一点を視野に入れない教育改革論は無意味であり、それこそ画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くだろう。いいかえれば教育改革はグローバリゼーションにどう対抗するかという視点から取り組む必要があることを示唆している。

▽グローバル化にどう対抗するか ― 聴衆との質疑応答から

ヘレナさんの講演に対し、聴衆との間で交わされた質疑応答の一部を以下に紹介する。
問い:グローバル化の推進者たちは、人類の危機的な行く末が分かっていて推進しているのか、それとも気づいていないのか?

答え:結果がどうなるか、気づいていないと思う。さまざまな国の閣僚たちと話して感じるのは、グローバリゼーションによる社会的、環境的影響が分かっていないという印象である。この人たちは、経済活動が停滞し、経済成長が止まってしまうと、その結果もたらされる苦痛が非常に大きいものになると信じ込んでいる。だからグローバル化という経済活動を進めていくことで、自分たちは良いことをしていると信じている。

 また経済成長の道をとらなければ、多くの雇用が失われてしまう、職がなくなってしまう、とよく口にする。しかしグローバリゼーションによって世界中のどれだけ多くの農家が土地を奪われているか、いかに多くの職が失われたかについては語ろうとしない。さらに大規模の企業合併や買収が進められている最近の潮流のもとでは、大企業のトップでさえ自分の職に安心して就いてはいられなくなってしまった。
 包括的見方がなされていないから、ものごとのつながりが見えていない。

〈コメント〉政策転換を強いられるグローバル化推進者たち
 グローバル化の推進者たち(米ブッシュ政権をはじめ日本を含む各国の保守政権、世界銀行、WTO=世界貿易機関など)が、「人類の危機的な行く末」も含めて、その弊害に気づいているかどうかは、無視できないテーマである。ヘレナさんは、推進者たちも「根は善人」、あるいは「洞察力の乏しい人々」という認識らしい。しかし私(安原)はそこまでお人好しにはなれない。

 グローバル化の推進者たちは、多様な矛盾が露呈している資本主義体制=自由市場体制の救済者気取りではあっても、弱肉強食の競争の結果、大量につくられる負け組への慈悲心は皆無に等しい。このことに気づいていないのではなく、それを承知でやっているとみるべきで、彼らはまやかしの「改革」を売り物にしながら、体制擁護のための最後の勝負、つまり賭(かけ)に出ているのではないか。
 しかし米ブッシュ政権の先制攻撃論にもとづく戦争と殺戮(さつりく)― これも米主導のグローバリゼーションに不可欠の側面 ― はもはや切り札にならないだけではなく、むしろ自らの墓穴を掘ることになりかねない状況にある。このことに彼らも気づき始めて、政策転換への調整を強いられている。

問い:良い「グローバル化」、一方、悪い「グローバル化」とは?
答え:グローバリゼーションを、国際的な協働や国際的な貿易と混同してはいけない。グローバリゼーションとは、グローバルな貿易に関する規制を緩和していることを指していう言葉である。コカ・コーラやIBM、またトヨタや三菱のような地球規模で事業展開する企業にとって、地球の隅のローカルな市場に入っていく、あるいはそこから退出していく、そういう自由がどんどん与えられていくこと、これがグローバリゼーションである。

 いいかえれば、グローバル化はグローバルなビジネスの規制緩和を推進するシステムのこと。この動きとリンクした形で、むしろ国内や地域でのビジネスが過剰に規制される状況を生んでいる。国や地域レベルの生産活動では、衛生、保健、福祉、環境面で厳しい規制を設けられているにもかかわらずグローバルな企業に対しては、そういう規制がない、あるいはあったとしても実際には守られないところに大企業はどんどん出向いて大儲けができる。このようにグローバリゼーションは非常に不平等な仕組みだということを強調したい。

 規制緩和といいながら、実際には過度の規制が弱小企業に押し付けられている。
 例えばアメリカのコロラド州では、自分の家のストーブで焼いたビスケットを売るビジネスをしていた人が営業許可を取り消された。当局からこれまでのストーブは不衛生だから、新しい1万ドルのストーブに買い換えなさい、といわれたが、買えなかったためである。
 またフランスでは何世代にもわたってチーズをつくっていたある農家がチーズを販売する権利を剥奪された。チーズを発酵させる納屋にタイルを貼るなど衛生的な環境に改築するよう当局から求められたが、改築できず、廃業となった。
ローカルなビジネスの規制の多くは、大企業が政府に入れ知恵をしてつくらせているものも多い。

〈コメント〉「グローバリゼーションは不平等な仕組み」は正しい
 いま世界を席巻(せっけん)しつつあるかにみえるグローバリゼーション=グローバル化の正体は何かをはっきり理解する必要がある。単純にいえば、良いグローバル化と悪いグローバル化に分けられる。
 前者の良いグローバル化は国際的な協働や通常の国際貿易を指しており、これは拒否すべきものではない。問題は後者の悪いグローバル化で、これは地球規模で展開する多国籍企業など巨大企業のビジネスに対する規制の緩和・自由化を推進するシステムを指している。その一方で弱小企業は過剰な規制を受けて整理され、没落していく。ヘレナさんの「グローバリゼーションは不平等な仕組み」という指摘は100%正しい。

問い:会社を辞めて、グローバリゼーションの流れから離脱すべきなのかどうか?
答え:自分ひとりが会社に残るか辞めるかは、重要な問題ではない。それよりも、この世の中の全体像とその仕組みを自分でしっかりと勉強し、オルタナティブ(代替的)なあり方に関するビジョンを人に伝えていけるようになることが大切である。
 一人ひとりがよく生きることも大切だが、もっと大切なのは、どう生きたいのかというビジョンを自らが持ち、それを周囲と共有していくこと。そういう意識の人たちの数が、ある時ある臨界点に達し、わたしたちが望んでいる世界を創っていくような力、政策を転換していくための大きな力となるかもしれない。

〈コメント〉大切なのは変革のビジョンを共有すること
 ここでも重要な問題提起が行われている。一人の良心的な個人がグローバル化に抵抗して、大企業を辞めるかどうかは、たしかに重要とはいえないだろう。大切なことは「どう生きたいのか」、つまり社会を、ひいては世界をどう変革したいのか、そのビジョン(構想、未来像)を持ち、それを周囲の人々と共有していくこと、と言い切るヘレナさんは、未来を見つめる楽観主義者といえる。


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常備軍は廃止されるべきだ!
カントの平和論を今読み解く

安原和雄
 ドイツの哲学者、カントの著作『永遠平和のために』が話題を呼んでいる。同著作の主眼は常備軍の廃止を唱えたことにある。210年余も前の先見性に富んだカントの平和論を手がかりに、戦乱と破壊の絶えない21世紀の今を読み解くと、みえてくるものは何か。それは今こそ常備軍廃止論を生かすときであり、「永遠平和は人類の使命」(カントの言葉)という認識を共有することである。(07年12月6日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽作家 瀬戸内寂聴さんの「カントの平和論」

 作家の瀬戸内寂聴さんが毎日新聞(07年12月2日付)掲載の「時代の風」欄につぎの見出しで一文を書いている。

カントの平和論
現在も納得できる言葉

 何よりカントの説く永遠平和の考えは、お釈迦様が常に説いた説法の考え方とそっくりなのに目をはじかれた。
 本当に秀(すぐ)れた思想家の考えは、地球のどこに離れて生まれようと棲(す)もうと、同じなのだと納得させられた。

 つづいてカントの平和に関する言葉を書きつづっている。そのいくつかを以下に紹介しよう。
*平和というのは、すべての敵意が終わった状態をさしている。
*常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。
*殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない。
*永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である。
(池内 紀訳『永遠平和のために』より)

 最後に「どのページを開いても、たった今、書かれたように、二十一世紀の現実の世界に向かって発せられているとしか思えないではないか」という読後感で結んでいる。

 瀬戸内寂聴さんは作家活動の一方、51歳で出家し、師僧の今東光氏から「寂聴」の法名をもらった。瀬戸内さん自身、「寂聴という名は煩悩の炎を鎮(しず)めて静かになった心で森羅万象の全ての快い音を聴くこと。だから素敵な名前」と書いている。(HPから)

 なおカント著/宇都宮芳明訳『永遠平和のために』(岩波文庫、1985年第1刷発行)がすでにあるが、「わかりいい日本語にして、ぜひとも若い人に読んでもらいたい」という趣旨で、新しい池内 紀訳『永遠平和のために』(綜合社、2007年)が出版された。

▽「常備軍はいっさい全廃されるべきである」

 カント著/池内 紀訳『永遠平和のために』を手に取ると、そこから、今日、学んで生かすべき視点は数多い。最大の眼目はやはり「常備軍の全廃」を唱えたことであろう。
 訳者の池内さんは「解説」で「カントのこの小さな本は、長い歳月を経て国際連合を生み出すもととなり、またわが国の憲法にあっては〈九条〉の基本理念となった」と書いている。カントの主張を3つに絞って以下に紹介する。

(1)「常備軍は、いずれ、いっさい全廃されるべきである」
 なぜなら常備軍はつねに武装して出撃する準備をととのえており、それによって、たえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国もかぎりなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには平和を維持するのが短期の戦争以上に重荷となり、常備軍そのものが先制攻撃をしかける原因となってしまう。

(2)「対外紛争のために国債を発行してはならない」
 国家の経済(道路の整備など)のため、国の内外に援助を求めても、どのような嫌疑もかき立てない。だが国と国との間の借款制度は、力を競い合う道具としては、とめどなくふくらみつづける。しかも当座は返済を求められないため、危険きわまりない力となる。

 借款によって戦争を起こす気安さ、また権力者に生来そなわった戦争好き、この二つが結びつくとき、永遠の平和にとって最大の障害となる。さらに国債の発行禁止はつぎのことからも、どうしても必要な条項となる。つまり、借款ずくめの国家の破産は避けようがなく、必ずや財務の健全な他国も巻き込み、巻き込まれた国々にとっても大いなる負担になる。

(3)「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
 いったい、どのような権利があってよその国に干渉できるのか?(中略)よそから干渉するのは、国家の権利を侵害している。(中略)干渉がすでに言語道断であって、すべて国家の自律を危うくする。

▽現代とこそ響き合う「永遠平和のために」

 作品『永遠平和のために』はカント(1724~1804年)が71歳(1795年)の時、世に送り出された。カントがこの世にあった18世紀はヨーロッパ大陸で次から次へと戦乱が切れ目なく続いた。だからこそカントは戦争のない「永遠平和」を熱望した。
 それから210年余を経た現在、アフガン、イラクなど地球上の至るところで暴力と戦乱の炎は消えることがない。210年も前の平和論は、むしろ現代とこそ響き合う存在感を示しているとはいえないか。上記の主張を今日風に読み解いてみると―。

(1)「常備軍は、いずれ、いっさい全廃されるべきである」 について
 常備軍のマイナス効果として、他国を戦争の脅威にさらしていること、軍拡競争によって軍事費が増大の一途をたどること、常備軍そのものが先制攻撃をしかける原因となること―の3点が挙げられている。これは先制攻撃論をちらつかせながら、覇権主義、単独行動主義をほしいままにしている現在のブッシュ政権率いるアメリカ帝国の姿そのものではないか。

 その一方、常備軍を全廃した国はすでに存在している。それが中米の小国、コスタリカである。コスタリカは内戦で約2000名の犠牲者を出し、しかも広島、長崎の悲惨な原爆体験を教訓にして、1949年に憲法を改正し、常備軍を廃止して、今日に至っており、世界から注目される存在となっている。
 さて日本は敗戦後、1947年5月施行の現行平和憲法9条で「戦争放棄、さらに軍備および交戦権の否認」をうたい、常備軍を廃止したが、やがて日米安保=軍事同盟体制下で強大な軍事力を保有する始末となった。9条の理念は空洞化が進んでいるといわざるを得ない。

 平和哲学のカント教授が今健在なら、どういう採点をするだろうか。コスタリカは100点満点、一方日米両国はいうまでもなく落第生である。特に日本については折角、常備軍廃止を憲法9条で唱えながら、なぜ人類英知の結晶ともいうべき平和の理念を投げ捨てたのか、という叱正の声が聞こえてくる。

(2)「対外紛争のために国債を発行してはならない」について
 ここでは国債発行による外国からの借款、つまり借金が招くマイナス効果として、戦争を起こす気安さが生じること、国家破産が避けにくいこと、さらに他国を巻き込み、その国の負担が大きくなること―を挙げている。これは今日の日米間の金融貸借関係をそのまま表現している。

 最近、米経済への先行き不安、米国の「双子の赤字」(経常収支赤字と財政赤字)増大などを背景に基軸通貨・米ドルへの信認が薄れ、ドルが売られ、ドル安となっている。急速なドル安進行は米国家破産への道でもある。
 日本は中国に次いで世界2位の100兆円を超える外貨準備高をもっており、そのほとんどは米国債などのドル建て資産として運用している。いいかえれば日本は米国債を買うことによって「双子の赤字」の穴埋めをし、ひいてはアフガン、イラクへの米国の侵攻を財政面で支援する役割を演じている。
 しかしドル安がさらに進むと、その結果一番被害を受けるのは実は日本である。日本が保有する数十兆円というドル建て資産は大幅に減価して、紙くず同然になりかねない。これでは日本にとって「大きな負担」(カントの表現)、つまり大損失である。

 カント教授が今、健在なら、「弱いドルから強い欧州通貨・ユーロへ乗り換えなさい」と助言するだろう。現に中国など他国はドルを手放す動きを強めつつある。ところが日本の権力者たちにとっては以前から米国債売却によってドル離れを進めることはタブーになっている。なぜなら日米安保=軍事同盟体制に束縛されて、思考停止病にかかっているからである。対米追随路線の成れの果てというべきであろう。カント教授の折角の助言も恐らく「馬の耳に念仏」であるにちがいない。

▽「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」

 カントの主張の3つめはつぎの通りである。
(3)「いかなる国家も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」について
 考えてみるべき点は、カントが挙げている「いったい、どのような権利があってよその国に干渉できるのか?」という疑問に尽きるのではないか。「よその国の体制や政治」が気に入らないからといって、それに武力干渉することに正当性はないだろう。こういう言い分がまかり通るのであれば、自国も他国からの武力干渉に「ごもっとも」と甘んじなければおかしい。ブッシュ米政権のやり口こそがまさにカントが「待った」をかけた武力干渉である。

 ブッシュ大統領は「9.11テロ」(2001年)翌年の一般教書(02年1月)で「悪の枢軸」(Axis of Evil)として北朝鮮、イラン、イラクを名指しで非難した。その一つ、イラクには03年3月武力侵攻を開始し、一般市民を含めて多数の犠牲者を出した。もはやイラク侵攻は混乱と破壊を積み重ねるだけの大義なき戦争となっている。
 07年12月3日に発足したオーストラリアのラッド労働党政権は、ハワード前保守政権の親米一辺倒の路線と違って対米関係に一定の距離を置くようになり、イラクへの派遣部隊の一部を撤退させることを明らかにしている。

 このように世界中でブッシュ離れが広がりつつあるだけではない。米国内でもブッシュ政権は支持を失っている。わが国の福田政権もインド洋における米艦船などへの給油活動 ― 事実上の参戦を意味している ― の再開に執着する必要はない。国際貢献という虚名を振りかざして、その実、対米追随でしかない路線にこだわることは世界の物笑いの種にもなりかねない段階を迎えている。
ここでも福田政権は日米安保=軍事同盟体制のしがらみから自由になれず、深刻な思考停止病にかかっていることを指摘したい。

 瀬戸内さんも紹介しているカントのつぎの言葉は、今こそ何度も噛みしめてみるに値する価値がある。
 「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」。


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