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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
日米安保見直し、軍事費削減が課題
新聞投書にうかがえる民意の多数派

安原和雄
 沖縄の米軍基地移設をめぐって日米両政府と地元民とが真っ向から対立する形となってきた。28日の「日米共同発表」は、移設先として名護市辺野古崎地区と鹿児島県徳之島を明記、これに対し地元民の拒否姿勢は揺るがない。その今後の行方を大きく左右するのは民意である。新聞投書にうかがえる民意の多数派がめざす方向は何か。
 それは「日米安保の見直し」、「軍事費の削減」であり、さらに「軍事力依存は時代錯誤」、「米軍抑止力は疑問」などの声となっている。つまり「在日米軍基地の国外撤去」にほかならない。日米両政府がこれら多数派の民意を無視すれば、「60年安保反対闘争」の21世紀版「米軍基地撤去闘争」が日本列島上に広がる可能性も否定できない。(2010年5月29日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 沖縄米軍基地の移設に関する日米共同発表

 日米両政府(日米安全保障協議委員会)は28日午前、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関する「日米共同発表」を公表した。その骨子はつぎの通り。これについて鳩山政府は同日夜の臨時閣議で決定した。
 (1)北東アジアの最近の情勢と米軍の抑止力について
・北東アジアにおける安全保障情勢の最近の展開により、日米同盟の意義が再確認された。
・沖縄を含む日本における米軍の堅固な前方のプレゼンスが、日本を防衛し、地域の安定維持のために必要な抑止力と能力を提供することを確認した。
<安原のコメント>
「北東アジアにおける安全保障情勢の最近の展開」とは、韓国哨戒艦沈没に絡んで再浮上してきた「北朝鮮脅威」説を指しており、それとの関連で「米軍の抑止力」を強調している点が見逃せない。

 (2)基地移設先について
・普天間飛行場の代替施設の滑走路は沖縄県名護市のキャンプ・シュワブ辺野古崎地区とこれに隣接する水域に設置する。
・米海兵隊などの訓練移転の拡充について鹿児島県徳之島を含め、活用を検討する。
<安原のコメント>
 基地移設先として浮上していた辺野古と徳之島が明記されている。しかし地元民が強硬に反対していることを重視しなければならないだろう。

 以上の日米共同発表と閣議決定の趣旨に異議を唱える形となっているのが、以下の新聞メディアの「読者の投書」に表れている「民意」である。5月の大手紙から転載した。これはブログ<安原和雄の仏教経済塾>に掲載(5月21日付)した「軍事力で平和は守れるだろうか? 朝日新聞投書に映し出される民意」の続編でもある。

▽ 読者の投書(1) ― 軍事力依存の時代ではもはやない

*朝日新聞(5月24日付)=軍事力依存は時代錯誤では
(神奈川県海老名市 無職 男性 70歳)=氏名は省略。以下同じ
 「軍事力で平和は守れない」(19日)に同感である。
 世界最強の軍事力を誇る米国でさえ9・11同時多発テロを防げなかった。イラクやアフガニスタンでは苦戦つづきだ。もはや軍事力で他国を支配しようとするのは時代錯誤ではないか。タイやミャンマーでは軍隊が自国民に銃を向けている。軍隊は国家権力を守る組織であって、必ずしも国民を守るためのものではないことを映像が示している。
 我が国では自殺者が12年連続で3万人を超える。イラク戦争における米兵戦死者数(公式発表)をはるかにしのぐ数だ。にもかかわらず他国の侵略を想定して膨大な防衛予算を割くことが果たして理にかなうだろうか。
 国民にとっての安全保障には、災害や自殺、犯罪などによる被害の防止・軽減が含まれよう。将来の食料・燃料不足はどうだ。現在の供給国が永続する保証はどこにもない。国民の生命と安全守るには、軍事力依存ではなく、積極的な友好外交の推進とともに自給による国力を高めることがまず必要ではないか。

<安原の感想> 狭い「平和=非戦」観から広い「平和=非暴力」観へ
「軍事力依存は時代錯誤」、「軍事力で平和は守れない」は正論である。しかしあえて問いかけたい。「平和とは何か」と。狭い「平和=非戦」観ではなく、広い「平和=非戦を含む非暴力」観ととらえたい。
 そうすれば非戦だけでなく、構造的暴力ともいうべき「自殺」、「犯罪」、「災害」、「食料・燃料不足」などをどう克服するかが「平和=非暴力」実現の重要な課題として浮上してくる。だから軍事力を行使する戦争がないとしても、平和をつくる日常的な努力が欠かせない。

▽ 読者の投書(2)― 米国主導の日米同盟の見直しを

*読売新聞(5月16日付)=米主導見直しも
(埼玉県鴻巣市 無職 男性 63歳)
 沖縄の普天間問題は、国民に日米同盟について真剣に考えさせる契機になっているようだ。戦後、幸いなことに、日本本土を脅かすような有事は起きていない。そのため、いざという時に、日米同盟がどれほど有効なのか、わかりにくいのが国民の実感だろう。
 オバマ米大統領は「核なき世界」を訴えている。日本は、米国の「核の傘」に頼ってきたが、米国主導のこれまでの同盟や日米地位協定を見直してもよいのではないだろうか。
 長い間、沖縄に負担を強いてきた自民党も、普天間問題で鳩山政権を批判しているだけではだめだろう。

<安原の感想> 日米安保・同盟への疑問は脇役か
 上記の投書は、読売特集「日米同盟を考える」の一つである。その他の見出しを拾うと、「経済成長を支えた」「東アジアに貢献」「通商ルートを守る」「(日米同盟)強化以外にない」などの日米安保是認・強化論が主役になっている。それに「(同盟)意義再考の好機」、「米主導見直しも」(内容を上で紹介)、「納得できる案を」などの疑問、批判論を脇役として配してある。
 読売社説は周知のように日米安保・軍事同盟を是認・推進する立場で一貫しており、その読売にしては社論と異なる投書にも配慮しているということか。

▽ 読者の投書(3)― 日米安保が解消されても問題はない

*毎日新聞(5月12日付)=日米安保条約見直しを交渉せよ
(千葉市稲毛区 会社嘱託 男性 63歳)
 また密約が明らかになった。旧政権は国民に知らせることなく、米国に対して重要事件以外は裁判権を放棄するという屈辱的な密約を結んでいたことだ。駐留米軍の犯罪に対し、何も言わないとすることでは独立国ではない。なぜこれまでに卑屈でなければならないのだろう。先の戦争に負けたからか?
 米国と交渉するなら、まず日米安保条約の見直しから交渉すべきだ。米軍が日本に駐留しているのは、安保条約が存在するからである。日米安保条約に立ち入らない交渉では、卑屈で隷属的な交渉しかできないのは当然である。
 仮に日米安保条約が解消されても、何の問題があるのだろうか? 日本の防衛予算は世界第5位であり、もはや軽装備の国家ではない。軍事的に日本は米国から攻撃される以外に不安はないはず、と思うのは私の妄想だろうか。

<安原の感想> 日米安保の見直しこそが本筋
 「(日本は)独立国ではない」という指摘はその通りといえる。そういう想いが国民の間に広がりつつあるのではないか。鳩山首相の迷走がいわば「寝た子」を起こす効果をもたらしつつある。これは首相の「意図せざる貢献」ともいえるのではないか。
 しかし本筋はやはり安保の見直し交渉である。これを視野に収めないただの「米軍基地移設先探し」とその「強要」は、沖縄県民の怒りをかき立てるだけではない。「60年安保反対闘争」の21世紀版「米軍基地撤去闘争」を日本列島上に広げる可能性もある。

▽ 読者の投書(4) ― 日本は本当に米軍に守られてきたのか

*朝日新聞(5月9日付)=米軍抑止力論 再考こそ必要
(東京都昭島市 無職 男性 68歳)
 鳩山首相が5月4日、米軍普天間飛行場の移設先を「最低でも県外」とする方針の転換を沖縄県側に伝えた。米海兵隊の「抑止力」について考え違いがあったという。抑止力とは何か。
 北朝鮮脅威を唱える向きがあるが、休戦ラインで向き合う韓国に米海兵隊はいない。海兵隊が守りの部隊ではなく、急襲先兵隊である事実を直視するべきだ。
 戦後65年、安保条約締結半世紀、日本は本当に米軍に守られてきたのか。沖縄を拠点に米軍がイラク戦争やアフガン戦争でどういう役割を果たしたか。米軍は日本を防衛するために駐留しているわけではない。私の地元の横田基地は朝鮮戦争、ベトナム戦争の度に強化された。基地のそばに住んでいれば、米軍基地が日本を防衛するためのものではないことがよくわかる。
 キーティング前米太平洋軍司令官でさえ、海兵隊の沖縄駐留を「好ましいが、絶対に必要というわけではない」と語った(4月16日朝刊)。沖縄の軍事拠点たる現況を客観的に見据えて抑止力論及び安保条約を再考しない限り、沖縄はアメリカの「占領下」状態から抜けられない。参院選ではそこもしっかり考えたい。

<安原の感想> 韓国哨戒艦沈没と北朝鮮脅威論と
 またもや台頭しつつある北朝鮮脅威論が示唆するものは何か。脅威論の火付け役の一人は、去る5月21日来日したクリントン米国務長官である。例の韓国哨戒艦沈没(3月26日発生、外務省ホームページには「沈没事案」と書かれている)について同国務長官と鳩山首相との間で意見交換が行われ、「北東アジアが緊張している現在こそ日米同盟が重要」との認識を共有したと伝えられる。米軍普天間基地移設に関する日米共同発表(5月28日)でも「北東アジアにおける安全保障情勢の最近の展開」という表現で間接的に「沈没」に触れている。
 ここで連想されるのは、北ベトナムのトンキン湾事件(注)である。今回の「沈没」の真相はともかく、それ以降鳩山首相は「米海兵隊の抑止力論」の自縄自縛に陥り、公約の「国外、県外移設」から「県内」へと逆走した。しかも日米安保絶対論に執着している事実は消えない。
(注)1964年北ベトナムの哨戒艇が米海軍の駆逐艦に魚雷を発射したとされる事件で、米国がベトナム戦争に本格的に介入し、北爆を開始するきっかけになった。しかし7年後の71年、事件は米国によって仕組まれたことが判明した。

▽ 読者の投書(5)― なぜ、極度の我慢を強いられるのか

*朝日新聞(5月9日付)=基地の騒音・恐怖、厚木でも
(相模原市南区 会社員 男性 58歳)
 私の住む市は米軍第5空母航空団の厚木飛行場に隣接する。上空は飛行ルートであるらしく、横須賀基地に艦船が寄港しようものなら、数分間隔で離着陸訓練を繰り返す。その爆音たるや。何十年もの間、常に爆音と墜落の恐怖を抱きながら私は普通に納税し暮らしてきたが、この周辺では防音の補助もない、減税などの恩恵もない。
 国に問いたい。なぜ、基地周辺に住む住民だけがこのような極度の我慢を強いられるのか。広大な敷地にボウリング場、ゴルフ場まで完備し、戦後65年近く経つのにいまだに思いやり予算と称して米軍に膨大な予算をばらまき続ける国。屈辱的とも思える日米地位協定。一体、この国の政治家は何をやってきたのか。
 今こそ冷戦時代に構築された日米安保条約を見直し、米軍駐留なき安全保障へと大きくかじを切り替える時期ではないか。基地周辺に住む住民の一人として、普天間報道を聞く度に感じている。

<安原の感想> 米軍向け「思いやり予算」こそ「事業仕分け」を
 米軍基地に苦しむ住民は沖縄だけではない。米軍基地は日本列島上の各地に散在しており、「なぜ、基地周辺に住む住民だけが極度の我慢を強いられるのか」という疑問は、正当である。
 しかも基地内にはボウリング場、ゴルフ場、さらに教会(キリスト教)なども付設されている。文字通り「至(いた)れり尽(つ)くせり」の行き届いたサービスで、それに陰に陽に貢献しているのが「思いやり予算」(防衛省予算に計上されている在日米軍駐留経費負担の通称で、累計は3兆円を超える)である。これこそ民主党政権の得意とする「事業仕分け」の対象にすべきではないか。

▽ 読者の投書(6) ― 軍事費削減が急務であることを認識する時

*毎日新聞(5月5日付)=軍事費削減で子供たちに教育を
(さいたま市大宮区 高校生 17歳)
 学校で世界の教育について学んだ。あまりにも多くの子供たちがしっかりとした教育を受けられていないことに、衝撃を受けた。児童労働や貧困、学校や先生の不足、そして戦争などが理由だった。学校に行って多くを学べることに感謝しなければ、と改めて思った。
 世界中の子供たちに教育を提供するには、世界の軍事費の約150分の1で済むという。自分の国を守ることも大切だが、子供たちが整った環境の下で教育を受けられること、どれだけ素晴らしいことだろう。
米ロで新たな核軍縮条約が調印された今、各国が軍事費削減に取り組み、教育に割り当ててほしい。まず私たちにできることは、多くの人がこの現状に目を背けないで知ることだと思う。今も字すら読めない子供が、家族や自分のために働いているのだ。

<安原の感想> 軍事費削減で教育、医療、福祉の充実を 
「各国が軍事費削減に取り組み、教育に割り当ててほしい」という高校生の着眼点が素晴らしい。在日米軍基地の国外撤去、日米安保の見直し(解体・破棄も含む)も不可欠の視点だが、同時に核廃絶を含む軍縮そのものをどう進めるかも極めて重要な課題である。それを自らの「世界の教育」学習に基づいて指摘したのがこの高校生の投書である。
 世界の軍事費(2009年)は総額1兆4640億ドル(1ドル=90円で換算すると、約132兆円)、うち米国が6070億ドルで、全体の4割強を独占している。軍事費は巨大な浪費であり、経済基盤を弱体化させる。これが米国が先進国の中で貧困大国に転落している背景でもある。米国をはじめ各国は軍事費を大幅に削減して、浮いた財政資金を教育、医療、福祉など平和(=非暴力)な暮らしの質的改善に振り向けることが急務というべきである。


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軍事力で平和は守れるだろうか?
朝日新聞投書に映し出される民意

安原和雄
沖縄県の米海兵隊普天間基地「移設」問題をめぐって鳩山政権は、「5月末決着」の期限を控えてなお迷走を続けている。多くのメディアの伝えるところによると、「移設先探し」が焦点になっているが、肝心なことを忘れてはいないか。それは真の民意は何か、軍事力で平和を守ることはできるのか、日米安保体制は本当に必要なのか、憲法9条の平和理念をどう守り生かすか、という根源的な問いかけである。
 多くのメディアは避けているようにみえるが、朝日新聞投書欄「声」がこのテーマに迫っている。一方、同じ朝日新聞の社説は、読者の「声」とは対照的に「日米同盟維持」の姿勢をとっている。「メディアの迷走」とも表現できるが、日米安保の是非にからむ本質的な問題提起を忘れないようにしたい。(2010年5月21日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 5月の朝日新聞「声」欄から沖縄普天間基地問題に関する読者の投書(大要)を紹介する。ただし氏名は省略する。いずれの「声」も日米安保体制の是非を問いかけ、「一方的破棄」を含めて吟味しようという姿勢が顕著である。

▽ 読者の「声」(1)― 普天間問題で鳩山首相 大貢献

*5月20日付=普天間問題で鳩山首相 大貢献(見出し、以下同じ)
(横浜市栄区 無職 男性 63歳)
 普天間問題をめぐる鳩山首相について「発言がぶれる」「リーダーシップがない」などの批判が起きている。しかし首相のこのような振る舞いによって、多くのことを国民は知ったり、あらためて自覚したりすることができたのではないか。
 すなわち、国土のわずか0.6%の沖縄に、米軍専用施設の75%があること。それをずっと沖縄に押しつけてきたこと。基地施設を国内ではどこも歓迎しないこと。マスコミに登場するかなりの識者が、基地の軽減より米国の利益に立った発言をしていること。米軍への思いやり予算の膨大なこと。それが世界の中できわめて特異なこと。自民党前政権は、これらのことを積極的に進めてきたこと。日本に米軍基地が本当に必要なのか、を問いかけてくれたこと ― などである。
 政治に無関心といわれてきた若者もいまや米軍基地の実態や、沖縄への負担の押しつけについて、気づき始めている。これは首相の偉大なる貢献ではないのか。米国からの一方的な関係ではなく、対等な関係に向かってかじを切る、新たな時代を切り開くきっかけになると考えるが、いかがか。

<安原の感想>  皮肉の効いた「大貢献」
 「鳩山首相 大貢献」という見出しは、受ける印象とは逆に、「基地批判の世論を盛り上げる上で首相は大貢献」という皮肉の効いた褒め言葉である。たしかに「政治に無関心であるはずの若者たちもいまや米軍基地の実態や、沖縄への負担の押しつけに気づき始めている」とすれば、日本の将来に希望と期待を持てるのではないか。「首相殿、有り難う」とお礼を言うべきかも知れない。

▽ 読者の「声」(2)― 軍事力では平和は守れない

* 5月19日付=軍事力では平和は守れない
(新潟県上越市 無職 男性 79歳)
 基地問題で「米抑止力か自衛力強化か」とする意見には重大な誤りがある。
 第一に、旧来の概念の軍事力では国の安全を守ることはできない。巨大な軍事力を擁する米国でも、ブッシュ前大統領をして「これは戦争だ」と言わしめた連続自爆テロを抑止することはできなかった。
 第二に、軍隊は必ずしも国民を保護してくれるものではない。沖縄戦で地元民が日本軍にどう処遇されたかを想起しても、そのことは言える。
 第三に、憲法9条は「武力の行使は国際紛争解決の手段としては永久に放棄する」と、非暴力による解決を宣言しており、軍事力で安全を図る思想とは相いれない。
 非武装立国は現実的ではないとする人に聞きたい。世界監視の中で日本を武力侵攻するとして、失うものの大きさを相手の立場で考えれば、その可能性は限りなくゼロに近い。「ゼロ%でない限り備えねばならない」と危機感をあおり、商売に励む死の商人の姿が浮かび上がってくるのではないか。

<安原の感想>  陰でほくそ笑む軍産官学情報複合体
この投書の見出し、「軍事力で平和は守れない」は真理である。「米抑止力」依存か、さもなければ「自衛力強化」という論者は、軍事力はもはや打開力、解決力を失っていることに気づこうともしない。曲者は、陰でほくそ笑む「危機感をあおり、商売に励む死の商人」、もっと正確にいえば今日的な戦争勢力、「軍産官学情報複合体」である。その一員に組み込まれているメディアによる「軍事力信仰」のお先棒担ぎには要警戒である。

▽ 読者の「声」(3)― 被爆国に「抑止力」発想の惨めさ

* 5月17日付=被爆国に「抑止力」発想の惨めさ
(横浜市磯子区 無職 男性 75歳)
 そもそも、被爆国に「抑止力」とは何と滑稽(こっけい)で惨めな言葉でしょう。親を武士に無礼打ちされた農民が、武士の刀で身を守ってもらうような発想である。
 鳩山首相は沖縄訪問でも、米軍基地の撤去縮小を求める県民の悲願に耳を貸すどころか、核の傘を想起させる「抑止力」を錦の御旗に掲げるだけだった。
 米国の戦略に奉仕して抑止力を訴えるのではなく、日本としての独自の戦略を考え、まずは「安保の壁」を突き破り、互恵平等の日米関係を築くことが先決と考える。そこで初めて「米軍基地の国外移設」が現実味を帯び、有言実行できる。
 政権交代を機に一刻も早く、独立国としての気概を取り戻し、米国はもとより、中国、北朝鮮などとも平和外交を展開する。それが日本の道ではないか。

<安原の感想> 「抑止力」の罠を超えて、「互恵平等の日米関係」を
 抑止力について「親を武士に無礼打ちされた農民が、武士の刀で身を守ってもらうような発想」という指摘は、言い得て妙である。ここに日米安保体制下での抑止力なるものの本質が浮かび上がってくる。そういう「抑止力」の罠(わな)から抜け出すためには何が求められるのか。「日米安保」破棄を長期的視野に収めて「互恵平等の平和友好的な日米関係」の構築をどう展望していくかであろう。

▽ 読者の「声」(4) ― 安保50年、新たな条約論議を

*5月9日付=安保50年、新たな条約論議を
(山梨県北杜市 設計事務所経営 男性 62歳)
 そもそも独立国である日本に外国の軍隊が常駐しているのは不自然ではないか。日米安保条約第6条に極東の安全維持のため、米国は日本国内に基地を置ける旨が書いてある。
 極東情勢を脅かす要因といえば北朝鮮が思い浮かぶ。しかし北朝鮮の脅威に対して米軍が必要なのかは疑問である。北朝鮮の暴走を阻むため国際社会が懸命に外交努力をしている。中国は米国といまや緊密な関係にある。となればいま日本に米軍が駐留する必要性は、少なくとも日本側にはないのではないか。
 第10条には、条約締結から10年後は、終了の意思を通告すれば1年後には一方的に破棄できる旨が書かれている。50年経てば国際情勢も変わる。日本が米軍の駐留を容認する安保条約を根本から見直し、時代に合った新しい条約を新たに結ぶ。そのための議論を政府は国民に問う必要があるのではないか。

<安原の感想>  日米安保条約の「一方的破棄」を
 沖縄の米軍基地問題を含めて日米安保体制のあり方を吟味するためには、日米安保条約(1960年改定)をしっかり読んでみることが先決である。投書が指摘する通り、第10条に「条約締結から10年後は条約終了の意思を相手国に通告すれば、1年後には条約は終了する」とある。つまり1970年以降、いつでもこの破棄条項を活用できる。問われるのは、中長期的展望の下にそれを実行する日本国民の意思であり、気概である。

▽ 読者の「声」(5) ― 「普天間」にみる民意の成熟

*5月3日付=「普天間」にみる民意の成熟
(埼玉県富士見市 無職 男性 62歳)
 米軍・普天間基地の移設問題で鳩山内閣の迷走ぶりが目立つ。だがその背景には、鹿児島県徳之島での移設反対大集会や、9万人が参加した沖縄県民大会などで示された「基地はいらない」との民意が存在することはいうまでもない。
 このような民意は、イラクやアフガニスタンで罪もない市民が数多く犠牲になる戦争の悲惨さを我々が知るからだけではない。戦争放棄を定めた憲法9条の存在が、憲法施行から63年の間に「戦争は否定するべきもの」との意識を育んできたからではないか。
 普天間問題で「日米同盟関係を優先せよ」との主張に多くの人々が屈することなく、自らの意思や主張によって、政治の現実を確信し、行動できるのも、国民主権を原理とする現憲法の力にほかならない。

<安原の感想>  憲法9条と国民主権に基づく行動力
 とかく平和憲法の理念を邪魔者扱いするのが日米軍事同盟推進派である。しかしお気の毒だが、彼らは日本国民の民意とはかけ離れている。最近の民意は、「米軍基地はいらない」である。そういう民意は平和憲法の理念をしっかり踏みしめている。一つは憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)であり、もう一つは国民主権、すなわち国民が主人公という自覚に立つ行動力である。

▽ 投書とは対照的な「日米同盟維持」の朝日新聞社説

 ここでは最近の朝日新聞社説(5月14日付)を紹介し、上記の読者からの投書に比べて対照的な「日米同盟維持」の主張になっていることを指摘したい。
 同社説の主見出しは、「普天間移設問題 仕切り直すしかあるまい」で、以下、文中の小見出し(*印)とともに社説の骨子を紹介する。

*首脳外交が機能不全
 今回の朝日新聞の世論調査では、県民の53%が県外移設に賛成と答えた。昨年は38%にとどまっていたから、民意は大きく変化した。
 県内への基地集中と過重な負担が、政権交代でやっと改善されるのではと期待したのに、裏切られようとしている。その失望と怒りが、最近は「沖縄差別」という言葉となって噴き出してもいる。
 基地を提供する地元の理解なしに、日米同盟を安定的に維持していくことができるはずはない。その意味で県民を逆なでする結果を招いた首相の取り運びのまずさは何とも罪深い。
 この間、日米間の首脳外交の機能不全も目を覆うばかりであった。

*安保の根本の議論を
 首相は今後、安保とその負担のあり方を大局的な見地から議論し直すべきである。
 日米両国にとって、この地域での脅威は何なのか。それにどう対処すべきか。そのなかで、米海兵隊はどのような機能を果たすのか。
 東アジアの安定装置として日米同盟の機能は大きい。在日米軍の存在は必要だ。だが海兵隊はずっと沖縄にいなければその機能を発揮できないのか。
 そうした日米安保の根本を見据えた議論を日米政府間で、また日本全体を巻き込んで起こすことが不可欠ではないか。それ抜きに、安保の負担の分かち合いという困難な方程式の解にたどりつくことはできないだろう。

*米国も一層の理解を
 米国にも一層の理解を求めたい。
 米国がグローバルパワーたりえているのは、太平洋からインド洋までをカバーする在日米軍基地があってのことだ。オバマ大統領が日米関係を米国の「要石」と語った通りだ。
 日米安保の安定的な運用には、米国にも責任がある。米国政府も柔軟な発想で、日本政府とともに真剣に沖縄の負担軽減を探ってほしい。

▽ 朝日新聞もついに墜ちたか

 朝日社説を読みながら、違和感を感じて、素通りできない表現にいくつか出会った。それは以下のような表現であり、認識である。
・「基地を提供する地元の理解なしに、日米同盟を安定的に維持していくことができるはずはない」
 ここでは「日米同盟を安定的に維持していくこと」に主眼があると読める。
・「東アジアの安定装置として日米同盟の機能は大きい」
・「在日米軍の存在は必要だ」
・「日米安保の安定的な運用には、米国にも責任がある」
ここでも「日米安保の安定的な運用」を前提として、そのための米国の責任に言及している。

 一方、社説に次のような指摘もある。
・「日米安保の根本を見据えた議論を日米政府間で、また日本全体を巻き込んで起こすことが不可欠ではないか。それ抜きに、安保の負担の分かち合いという困難な方程式の解にたどりつくことはできないだろう」
 この指摘のうち「日米安保の根本を見据えた議論を」は、日米安保体制の是非を根本から問い直す提案のようにも読めるが、本意はそうではない。後段に出てくる「安保の負担の分かち合い」のための議論であり、あくまでも日米安保体制の維持、運用が前提となっている。

 以上のように読み解くと、この社説と読者投書「声」との隔たりがいかにも大きい。大づかみに言えば、社説は日米同盟維持・推進派の主張であり、読者の投書は日米同盟批判ないしは破棄に力点が置かれている。同じ新聞がこのような質的に異なる二つの意見、主張を掲載するのは何を意味するのか。
 多様な意見を尊重する朝日新聞流のバランス感覚ともいえるが、本音はそうではないだろう。主体はあくまで社説にあり、投書は外部の意見であり、アクセサリー(お飾り)ともいえる。しかし私(安原)の印象ではアクセサリーの方が立派で、堂々としている。時代への認識力も優れている。
 これに比べると、朝日社説は権力に接近している姿勢であり、これでは朝日新聞もついに日本版「軍産官学情報複合体」のメディア宣伝班に墜(お)ちたのか、という印象が拭えない。このままではやがてその歴史的責任を問われるときが来るのではないか。釈迦に説法だが、ジャーナリズムの原点は「権力批判」であることを改めて胸に刻みたい。


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古都鎌倉を訪ねて出会う釈尊の教え
連載・やさしい仏教経済学(4)

安原和雄
 古都鎌倉で散策を楽しむのであれば、見どころは沢山あるが、おすすめは鎌倉大仏である。といっても大仏そのものではない。観光客の多くは大仏の前で笑顔をつくって記念写真を撮って去っていく。これでは何とももったいない話というほかない。
 実は大仏脇の庭園に一つの顕彰碑が建っている。観光客はこの碑に関心を示さないが、その前に立てば、仏教の開祖・釈尊の有名な教え(ことば)に出会うことができるだけではない。その碑の文言は日本の戦後史と今後の進路に大きな示唆を投げかけてもおり、その文言を凝視しながら、しばし考え込まないわけにはいかない。(2010年5月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 愛によってのみ憎しみは越えられる

 鎌倉大仏に向かって左手の庭園に建立されている顕彰碑に、次のようなブッダ(釈尊)のことば(ダンマパダ=法句経)が刻まれている。
*碑の表面のことば
 人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない。
 Hatred ceases not by hatred, but by love.

*碑の裏面の碑誌(大要)
 前大統領は講和会議での演説の締めくくりに次のブッダの言葉を引用した。
 実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
 Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient law.

 前大統領はサンフランシスコ対日講和会議(1951年9月)で会議出席の各国代表に日本に対する寛容と愛情を説き、対日賠償請求を放棄することを宣言した。さらに「アジアの将来にとって完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して、一部の国々が主張した日本分割案に真っ向から反対して、これを退けた。当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出した。21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想を示す碑である。この原点から新しい平和な世界が生まれることを確信する。
             1991年4月 東大名誉教授 東方学院院長 中村 元

*顕彰碑建立推進賛同者
山田恵諦・天台座主(推進賛同者代表)
梅原 猛・日本文化研究センター所長
小渕恵三・日本スリランカ友好議員連盟会長
沼田恵範・仏教伝道協会発願者
ほか多数

 以上の碑文に出てくる前大統領とは、ジャヤワルデネ・スリランカ大統領(対日講和会議のスリランカ代表)を指しており、碑のブッダの文言は、同大統領が対日賠償請求の放棄を宣言した演説の中で引用したことで知られる。

 私(安原)は米国における同時多発テロ(2001年9月11日)、それに続く米国主導の報復戦争が始まった直後、顕彰碑を訪ねた。約10分間そこに座ってメモを取ったが、近くに沢山いた日本人の観光客は誰一人関心を示さなかった。観光コースになっている大仏をみて、記念写真を撮って駆け足で去っていく。わずかに外国人の若い男女2人が私のそばに来て、その英文を目で追っただけだった。
 私はそれ以来、2010年5月連休明けの鎌倉散策を含めて、数回その顕彰碑を訪ねたが、観光客の無関心ぶりは相変わらずの状態が続いている。

▽ スリランカ大統領の志に日本は応えてきたか
 
 上記の釈尊の教えに込められた願いは、「人類は、非暴力によってのみ暴力から脱出しなければならない。憎悪は愛によってのみ克服される」(マハトマ・ガンジー=注)と共通している。
(注)マハトマ・ガンジー(1869~1948年)はインドの政治家・民族運動指導者で、インド独立の父ともうたわれる。非暴力主義の立場に徹し、全国的な反イギリス独立運動を展開した。1947年のインド独立後、狂信的なヒンズー教徒に暗殺された。

 この「怨みを捨てよ」(釈尊)、「非暴力と愛」(マハトマ・ガンジー)への願いは21世紀の世界に生かされているだろうか。
 碑文には「前大統領は・・・各国代表に日本に対する寛容と愛情を説き、対日賠償請求を放棄することを宣言した」とある。日本はこのスリランカ大統領の「日本に対する寛容と愛情」、「賠償請求の放棄」に果たして応えてきただろうか。残念ながら「否」というほかない。
さらに碑文に「21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想を示す碑」とある。21世紀の日本は「慈悲と共生の理想」の実現にどこまで努力しているだろうか。残念ながらこれまた現実は理想とはほど遠いといわざるを得ない。
 しかも「新しい平和な世界が生まれることを確信する」とあるが、現実の世界では平和どころか、混乱、貧困、破壊、殺戮が横行している。

このようにスリランカ大統領のせっかくの高い志(こころざし)に日本は応えてはいない。平和と理想の実現を阻むものは何か。

▽ 平和と理想の実現を阻む日米安保体制

 実はサンフランシスコ講和条約の調印と同時に、講和会議に出席した日本代表(当時の吉田茂首相)と米国代表との間で日米安全保障条約(旧安保条約)が調印(1951年9月、公布は52年4月)されたことを想起したい。
 その後、10年近い歳月を経て現行の日米安全保障条約(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)が調印(1960年1月)され、全国規模の改定阻止行動が盛り上がるのに背を向けて発効(同年6月)した。平和と理想の実現を阻止しているのが、この日米安保体制といえる。

 ここで現行日米安保条約の特質に若干触れておきたい。
*現行安保条約では「自衛力の維持発展」(第3条)、「共同防衛」(第5条)、「基地の許与」(第6条)などを明記している。ここが平和憲法9条の「戦争放棄」、「戦力不保持」、「交戦権の否認」の規定と真っ向から矛盾対立する点である。これを足場に米国は広大な軍事基地を沖縄を中心に日本列島上に展開し、日本は日米軍事力一体化の下で世界有数の軍事国家へと進む。
*条約の失効条件として、現行安保(第10条)では「この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に条約を終了させる意思を通告することができ、条約はその通告後1年で終了する」と規定している。これは日本からの一方的破棄が可能な規定である。ただ国民がこの破棄条項を活用しなければ、しょせん絵に描いたモチにすぎない。 
*日本から行われる米軍の戦闘作戦行動などに関する日米政府間の「事前協議」(日米交換公文)が新たに設けられたが、実際は米軍側の意向をそのまま受け容れるわけで、「事前協議」は事実上空文化している。核搭載米艦船の一時寄港などを容認する「日米核密約」によって日本の国是・非核3原則(持たず、作らず、持ち込ませず)が一部骨抜きになっていることはその典型的事例である。

 こうして日本は日米安保体制下で軍事力偏重の米国世界戦略の中に組み込まれていく。その後の米軍によるベトナム侵略戦争、湾岸戦争、さらに米国主導のアフガニスタン・イラク戦争と占領は、日米安保体制下の巨大な在日米軍基地網の存在なくしては困難といっていいだろう。このように日本の戦争協力という予感があったからこそ、「1960年安保改定」当時あれほど大規模の「安保ハンタ~イ」の声が日本列島上に響き渡ったのである。

▽ 軍事同盟依存症を克服して「慈悲と共生」へ

 昨今の日米安保体制、すなわち日米同盟は当初からみると、著しく変質してきている。その節目となったのが1996年4月の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」である。この共同宣言は次のように述べている。
 「首相と大統領は、日米安保条約が日米同盟関係の中核であり、地球規模の問題についての日米協力の基盤たる相互信頼関係の土台となっていることを認識した」と。
 ここでの「地球規模の日米協力」とは何を意味するのか。日米安保条約の適用範囲あるいは日米共同対処区域を従来の「極東」から「地球規模」へと無限大に拡大させたことに着目したい。これは「安保の再定義」ともいわれ、地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。自民・公明政権時代に米国主導のアフガン、イラク攻撃に同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。

ここで注目したいのは、大仏脇の碑にある「顕彰碑建立推進賛同者」の一人に小渕恵三元首相(小渕内閣は1998年7月~2000年4月)の名が挙げられていることである。小渕元首相にあやかって、現役の「一国の宰相」たる者は碑を訪ねて、そこに刻まれている「慈悲と共生の理想」という文言と対話を重ねてみてはどうか。そうすれば日米安保体制=軍事同盟への依存症をいかに克服するか、という知恵に辿り着くこともできるのではないか。


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チャレンジ(挑戦)していく情熱
還暦女優・由美かおるの『青春』

安原和雄
 メディアの伝えるところによると、TBS系テレビドラマ「水戸黄門」で女忍者として活躍した女優の由美かおるが近くレギュラー役を引退する。今年11月に還暦(60歳)を迎えるというが、その彼女が引退記者会見で「生涯青春を突っ走っていきたい」とみずみずしい容姿を印象づけた。
 彼女にとって青春とは「チャレンジ(挑戦)していく情熱」だそうで、そういう生き方には大いにあやかりたい。希望を見出しにくいこの21世紀初頭にあって、青春、すなわちチャレンジ(挑戦)とはどういうイメージ、行動スタイルなのか、を考えてみたい。(2010年5月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 葵(あおい)の印籠を掲げて「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか」のセリフで悪を懲らしめるという筋書きのドラマ「水戸黄門」は、寿命の長いドラマである。「単純な結末の分かっているドラマのどこがおもしろいの?」という声も聞くが、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)ものは、筋は単純と決まっており、だからこそおもしろいという見方もあるのだ。
 由美かおるの入浴シーンも200回を超えて話題を呼んだが、それはそれとして今年11月に還暦を迎えるそうで、しかもプロポーションも上から86/58/86と抜群で、15歳の時から変わっていないそうだから、恐れ入るというよりは感銘深いものがある。

▽ 青春とは心の持ち方 ― 理想を失うとき初めて老いる

 さて彼女の引退記者会見(4月上旬)で、私(安原)の印象に残ったのは、ドイツ生まれのアメリカの詩人、サミュエル・ウルマン(1840~1924年)の詩『青春』を引用しながら、次のように語ったことである。
 「チャレンジしていく情熱があれば、『青春』なんだというのは、今の私にぴったりで、生涯青春を突っ走っていきたい」と。
 私が大学で経済学講座を担当していたころ、この詩『青春』を披露したことがある。意欲的な学生たちにはなかなか好評だった記憶がある。参考までに以下、『青春』の一節を紹介する。(宇野収・作山宗久著『青春という名の詩』・産業能率大学出版部から)

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱を指す。青春とは人生の深い泉の清新さをいう
青春とは怯懦(きょうだ)を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する
ときには二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある
年を重ねただけでは人は老いない
理想を失うとき初めて老いる

上記の日本語訳の原文(英文)はつぎの通りである。
Youth is not a time of life; it is a state of mind.
It is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions; it is the freshness of the deep springs of life.
Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite, for adventure over the love of ease.
This ofen exists in a man of sixty more than a boy of twenty.
Nobody grows old merely by a number of years.
We grow old by deserting our ideals.

 「百歳の童(わらべ) 十歳の翁(おきな)」という言葉がある。たしかに青春は年齢とは関係ない。昨今のようにどちらかというと、高齢者が元気であるのに若者たちに青春が縁遠いようにみえるのはいかにも情けない。還暦間近でありながら、由美かおるは青春への意欲に少しも衰えをみせない。
 年齢はさておいて、青春とはどういうイメージなのか。もう一度由美かおるの青春観に戻ると、彼女は「チャレンジしていく情熱があれば、青春なんだ」と想いを語っている。つまり青春とは、チャレンジ(挑戦)である。高齢といえども挑戦意欲があれば、なお青春であり、若年にして挑戦意欲を失っていれば、すでに老いたり、というべきである。

▽ 挑戦の歴史的事例(1) ― 哲学者・ディオゲネス

 歴史上の具体例を挙げてみたい。
 古代ギリシアの哲学者ディオゲネス(前400ごろ~323ごろ)にまつわるエピソードがある。彼はギリシアの都市(ポリス)の制度、組織、秩序を否定し、自然のままで生きることを理想とし、ぼろをまとい、乞食の格好で樽の中で暮らしていた。犬のように生きたことからキニク派(犬儒派)と呼ばれた。

 ある日のこと、マケドニアのアレキサンダー大王(前356~323年。遠征軍を率いて、ギリシアとオリエントを含む空前の大帝国を建設したことで知られる)が樽に近づいても、あぐらをかいて平然としている。大王は驚きと憐れみの面持ちで話しかけた。
「私はアレキサンダー大王だ」
「私はディオゲネスだ」
「なにかしてやれることはないか」
これに対するディオゲネスの返答が振るっている。彼はこう言った。
「ちょっと脇へどいてほしい。あなたがそこに立っているために日陰になるからな」

 時の君臨者に向かってこういうセリフが吐けるのは、気概であり、挑戦であろう。この瞬間、乞食と大王とが対等の地位に立ったといえる。ディオゲネスはその精神が自由であったからこそ挑戦できたのではないか。しかも大王によるいわば「上からの恵み」を拒否したところがいい。自分自身のライフスタイルに関する自主管理能力は見事というほかない。
 大王は「自分が帝王でなかったら、ディオゲネスのようになりたい」と語ったともいわれる。この大王のセリフはいささかうまくできすぎた歴史の小話だが、かりにそれが真実であれば、ディオゲネスの生き方は大王の価値観に強烈な刺激を与えたことになる。

▽ 挑戦の歴史的事例(2) ― 幕末志士・高杉晋作

 もう一つ、日本人の生き方にかかわる歴史的事例を挙げたい。
 歴史に名をとどめた人物は「なるほど」とうなずかずにはいられない辞世の句を遺している。私の好きな一例は幕末長州藩志士、高杉晋作(1839~67年)の「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。
 知友が見守る中で、こう書いて息絶えたというが、ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いた男の生き様がよく映し出されている。

 この辞世をおもしろいと思うのは「楽しきこともなき世を楽しく」ではなく、「おもしろく」と表現したことである。なぜ「おもしろく」なのか。
 「おもしろく」には危険をもあえて辞さない挑戦の気概がこめられている。理想、ロマン、志、さらに未完成のものを新たに創出していく未来志向をうかがわせる。一方、「楽しく」は、安全地帯に身を置いた保守、受け身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむ姿勢であり、過去・現在志向が強い。ここには挑戦への気概はうかがえない。

 高杉晋作がこれを意識して「おもしろく」と言ったかどうかは不明である。ただ高杉はそれまでの武士集団とは異質の農民、町民も参加させた奇兵隊(「奇」は新奇、異質の意)を創設したことで知られる。しかも幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造すべく生きたことは、29歳という短い生涯(31歳で暗殺された坂本龍馬と違って病死)だったとはいえ、この上もなくおもしろい人生で、悔いはないという心情を辞世の句に読みとることができる。

▽ 21世紀版「青春」のイメージ ― 利他の実践

 さてこの21世紀初頭における「青春」のイメージはいかなるものだろうか。挑戦への意欲、情熱を欠いては青春とはほど遠いことはいうまでもない。ただあえて指摘すれば、「挑戦」をスローガンに掲げて無闇に頑張ればいいという姿勢では高い評価はつけにくい。いくら「挑戦」といっても、間違った方向に突っ走られては、傍(はた)迷惑であり、犠牲者が累積、という悪しき結果を招くことにもなりかねない。だから挑戦意欲にも方向づけが必要ではないか。
 今日的挑戦の特質を一つだけあげれば、それは利他のこころであり、「世のため、人のため」という利他主義の実践である。

 というのは昨今の風潮として、私利優先・自分勝手な発想・生き方が依然として目立つからである。自民党の小泉政権時代に顕著だったあの保守的な新自由主義(=自由市場原理主義、私利優先主義、エゴイズム=利己主義)路線は弱肉強食のすすめであり、貧困・格差の拡大、自殺者の増大など悪しき負の遺産が大きすぎる。この路線は世界金融危機とともに破綻したが、消滅したわけではない。あちこちで再生の機会をうかがっている。
 この私利優先主義への執着者たちは挑戦のつもりだろうが、その再生を歓迎できないことはいうまでもない。だからこそ今求められているのは、利他のこころであり、その挑戦的な実践といえよう。


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2010年「憲法」社説を読んで
軍事基地、日米安保を問い直す地方紙

安原和雄
2010年5月3日は日本国憲法の施行63周年記念日である。この記念日に新聞メディアは平和憲法の存在価値をどう論じたか。目立つのは地方紙の論調で、<基地の存在自体を根本から問い直してみること>(東京新聞)、<日米安保条約を根本から問い直すとき>(北海道新聞)、<憲法9条にこめられている「いのち・平和」尊重を>(琉球新報) ― など根源的な問いを投げかけている。それを支えているのは、平和憲法の理念をいかに守り、生かすかという健全な姿勢である。
 地方紙に比べると、全国紙の筆法の鈍さが浮き上がってくる。憲法記念日が例年通り巡ってきたので、やむを得ず書いた、という印象さえ残る。全国紙が新聞メディアの論調を先導する時代の終わりを意味しているのか。(2010年5月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 新聞社説が憲法記念日に論じたこと ― 地方紙に注目

 まず2010年5月3日付社説の見出しを紹介しよう。沖縄米軍基地の移設問題が大きな焦点になっているので、沖縄紙(琉球新報)社説に関心を持たざるを得ない。参考までに北海道新聞社説も紹介する。
*読売新聞=憲法記念日 改正論議を危機打開の一助に
*日本経済新聞=憲法審査会で議論を始めよ
*朝日新聞=憲法記念日に 失われた民意を求めて
*毎日新聞=憲法記念日に考える 「安保」の将来含め論憲を
*東京新聞=憲法記念日に考える 初心をいまに生かす
*北海道新聞=憲法記念日 「平和」と「人権」生かして
*琉球新報=憲法記念日 9条の輝き世界へ次代へ 命守る政治の有言実行を 

 各紙社説を一読した印象を踏まえて、あえてグループ別に分ければ、以下のように仕分けることもできるのではないか。
<改憲派>
*読売=「きょうは憲法記念日。改憲を改めて考える一日にしたい。(中略)対等な日米関係を掲げるなら、まず集団的自衛権行使という憲法上の問題に正面から向き合わなければならない」と。
*日経=「衆参の憲法審査会を少しでも早く動かし、21世紀にふさわしい憲法をつくる意識を明確にしてほしい」と。

<中間派>
*朝日=「すれ違う政治と国民」、「熟慮する民主主義」、「新しい公共空間を」などの小見出しを付けて民意をどう生かすかを論じている。しかし肝心の日米安保、沖縄問題は避けている。
*毎日=「かねてより<論憲>を主張してきた。現憲法の掲げる基本価値を支持しつつ、現状に合わせたよりよい憲法を求めて議論を深めようとする立場である」と指摘しているが、論憲の方向が今ひとつ明確ではない。

<護憲派>
 上記の7紙のうち東京新聞、北海道新聞、琉球新報はいずれも「平和憲法の理念を守り、生かす」という護憲派の視点を明確にしている。最近は大手全国紙よりもむしろ地方紙に傾聴に値する論調が多い。

 以下では護憲派の主張を紹介する。(*印の文言は小見出し。必ずしも原文と同じではない)

▽ 東京新聞社説 ― 初心をいまに生かす(主見出し)

 東京新聞社説(要旨)はつぎの通り。

 長い戦争から解放され、人々は新しい憲法を歓迎しました。その“初心”実現に向けて積極的理念を世界に発信できるか、日本の英知が試されます。
 米軍普天間飛行場の移設問題が迷走し、憲法改正国民投票法の施行が十八日に迫る中で今年も憲法記念日を迎えました。この状況は非武装平和宣言の第九条をとりわけ強く意識させます。
 日本国憲法の公布は一九四六年十一月三日、施行は翌年五月三日でした。当時の新聞には「日本の夜明け」「新しい日本の出発」「新日本建設の礎石」「平和新生へ道開く」など新憲法誕生を祝う見出しが並んでいます。

 長かった戦争のトンネルからやっと抜け出せた人々の、新たな歴史を刻もうとする息吹が紙面から伝わってきます。新生日本の初心表明ともいえるでしょう。
 「初心忘るべからず」と言いますが、忘れてはいけない初心が次世代にきちんと継承されているでしょうか。
 かつて沖縄県民は「平和憲法の下へ帰りたい」と島ぐるみで粘り強い復帰運動を展開しました。そのかいあって七二年にやっと復帰が実現し、米軍による支配から脱したものの、四十年近くたった今でも県民の熱望は「憲法の恩恵に浴する」ことです。

*沖縄を犠牲にした平和
 幼い子どもが最初に覚えた言葉は「怖い!」だった。
 沖縄で基地問題を取材している記者が本土の記者に披露した余話です。母親が米軍機の爆音を聞くたびに発した言葉でした。
 普天間飛行場や嘉手納基地で離着陸する米軍機の轟音(ごうおん)、迷彩服で公道を行進する米兵、多発する軍人犯罪…沖縄に残る現実は、太平洋戦争末期に島内全域で行われた地上戦を思い起こさせます。憲法誕生時、多くの日本人が抱いた初心の背景と似ています。

 復帰後、本土では立川、調布、朝霞など米軍の施設・区域が次々返還され大幅に縮小しましたが、沖縄には日本全体の米軍基地の面積で74%が集中し、県土の10%は基地です。
 本土の人たちが享受している平和と安定は、こうした負担、犠牲の上に築かれていることに気づかなければなりません。基地の存在自体を根本から問い直してみることも必要でしょう。

 第九条を自国に対する制約と考えるのではなく、日本国憲法の有する普遍的価値を国際社会に向かって発信してゆくことが、日本には求められます。
 北朝鮮が核実験を行い、中国が軍拡路線を歩む一方で、米ロが核軍縮に取り組もうとしているだけに日本の姿勢が問われます。

<安原の感想> ― 基地の存在自体を根本から問い直してみること
 東京新聞社説で注目すべきは、「基地の存在自体を根本から問い直してみることも必要」という指摘である。この当たり前のことに全国紙を始め、多くのメディアは触れようとはしない。もはや日本国内で米軍基地のたらい回しをしているときではない。「国外」を基本にアメリカと交渉すべきときである。

▽ 北海道新聞社説 ― 「平和」と「人権」生かして(主見出し)

北海道新聞社説(要旨)は以下の通り。

 憲法記念日は、日本国憲法の理念を確認し、いまの政治が憲法の目指す方向に合致しているかを点検する絶好の機会だ。
 今年は日米安保条約改定50年の節目であり、折しも米軍普天間飛行場の移転が焦点となっている。一方、社会問題化した格差や貧困にどう対策を講じるかも重要である。
 憲法の2本柱は、第9条の「戦争の放棄」に示された平和主義と、第11条の「基本的人権」の尊重だ。その精神を問題解決に生かしたい。
 今月18日には改憲手続きを定めた国民投票法が施行される。憲法に向き合う国民の姿勢が試されることを忘れてはなるまい。

*鳩山政権の理念問う
 鳩山由紀夫首相に聞きたいのは、どんな政治を目指して懸案に取り組んでいるかだ。
 まず米軍普天間である。
 この問題を見るとき、沖縄の米軍基地がイラクとアフガニスタンという二つの戦争に深く組み込まれていることを指摘したい。

 鳩山政権の選択肢は二つだ。
 「国際平和の希求」をうたう憲法の精神に基づき日本の平和外交を追求するか、それとも旧来の対米追随を続けるか-である。
 想起すべきは航空自衛隊のイラクでの活動を9条違反と断じた名古屋高裁判決(08年)だ。憲法の平和主義を踏まえ、戦争への日本の加担に警鐘を鳴らしたと受け止めたい。
 だが普天間をめぐる政権の対応は移転先探しに終始し、沖縄の基地縮小に及んでいない。冷戦後の米軍駐留の是非を含め、日米安保条約を根本から問い直すときではないか。
 回り道のようでも、それが普天間問題を解決に導く原点となる。

 格差や貧困も放置できない。
 憲法前文の「平和のうちに生存する権利」とは、戦争放棄と基本的人権、生存権(第25条)が表裏一体であることを示している。
 自殺者が12年連続で3万人を超え老人の孤独死も伝えられる。非正規切りで職と住まいを失った若者には将来への不安が深まっている。
 憲法を空文にしてはなるまい。
 「いのちを守りたい」と施政方針を述べた鳩山首相は、人間性を回復する政治に全力をあげるべきだ。

*希望は人びとの声に
 憲法を生かすのは、国民の心構えにかかっている。憲法が保障する自由と権利は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(第12条)からだ。
 平和にせよ人権にせよ、憲法の精神を日常の暮らしに引き寄せ、具体的な問題として政治や行政に反映させることが大切だろう。
 たとえば「九条の会」の運動だ。04年に作家の故井上ひさしさんらの呼び掛けにより、個人の自由な意思で憲法を「守り」「生かす」ことを目的に発足した。
 賛同が広がり、北海道の496を含め全国で7507(4月集計)の「九条の会」が活動している。
 友人同士の集まりから、学校や地域、職場、趣味のグループに至るまで、「憲法」を語り合うさまざまな交流が行われている。

<安原の感想> ― 日米安保条約を根本から問い直すとき
 北海道新聞社説で注目したいのは、「冷戦後の米軍駐留の是非を含め、日米安保条約を根本から問い直すときではないか」という主張であり、高く評価したい。これまたメディアのほとんどが聖域視して、触れようとしないテーマである。
 在日米軍基地問題の根源は、日米安保条約(第6条で「米国に基地の許与」を規定している)にあるわけで、基地問題の打開にはこの日米安保体制に行き着かざるを得ない。この一点に着目しない限り、国内での移転先探しに右往左往するほか手はなくなる。民主党政権の最大の弱点というべきである。

 いまこそ対外戦争のための日米軍事同盟を支える日米安保体制か、それとも本来の憲法9条を核とする平和憲法体制か、そのどちらを選択すべきかを正面から問い直すときである。日本の望ましい進路はいうまでもなく平和憲法体制の選択にかかっている。

▽ 琉球新報社説 ― 9条の輝き世界へ次代へ 命守る政治の有言実行を 

 沖縄の琉球新報社説(要旨)はつぎの通り。

 「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の憲法3原則は、普遍的価値として国民の間に定着している。喜ばしい限りだ。
 本社加盟の日本世論調査会が3月に行った世論調査では戦争放棄と戦力不保持などを定めた憲法9条に関して51%が改正は不要とし、改正を必要とした24%を大きく上回った。
 これは9条が、軍国主義の反省の上に立ち戦後を歩んできた日本国民に幅広く支持されている表れだ。

*「9条空洞化」と沖縄基地が連動
 由々しきことは「9条空洞化」と沖縄の基地問題、日米安保問題が絶えず連動してきたことだ。
 例えば、米軍普天間飛行場の返還は、1996年に橋本龍太郎―クリントン日米首脳会談で合意されたが、その合意は日本による有事法制研究の着手が条件だった。その後、実際に97年日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)策定、99年周辺事態法制定など有事法制整備につながった。

 2001年の9・11米中枢同時テロを機に当時の小泉純一郎首相は米国の対テロ戦略、アフガニスタン・イラク攻撃をいち早く支持。「対テロ特措法」「イラク復興支援特措法」を制定し、自衛隊の海外派遣で米政権を積極支援した。
 一連の流れの中で「集団的自衛権行使」など9条違反の疑義が指摘されたが、十分な国会論議、国民論議を経ることなく、対テロ支援による日米同盟強化=憲法のさらなる空洞化という既成事実が着実に積み上げられていった。

*「改憲ありき」脱皮を
 鳩山政権は政府の憲法解釈を担ってきた内閣法制局長官による答弁を今国会から事実上禁止している。法制局は「法の番人」と言われ、解釈改憲の拡大と抑制の両方を担ってきた。功罪はあろうが「法の番人」の歯止めがなくなれば、時の政権の恣意(しい)的な解釈で憲法がさらに形骸(けいがい)化しないか。長官の答弁禁止は慎重を期すべきだ。

 鳩山首相は通常国会の施政方針演説で「いのちを、守りたい」と強調した。米軍基地や米兵犯罪によって命や暮らしを脅かされている県民はまさに「命を守って」と切実に願っている。憲法が保障する平和的生存権の実現に、首相は指導力を発揮してもらいたい。
 次から次に仮想敵をつくる安全保障観を前提にすれば、憲法9条は邪魔に違いない。しかし、国際協調と人間の安全保障を根幹に据えた安全保障観へ転換すれば、9条は一段と輝きを増す。
 各党は従来型の改憲論議から脱皮すべきだ。持続的な平和と国民の幸福のために憲法を生かす構想力、9条の輝きを世界へ次代へ引き継ぐ行動力こそ競ってほしい。

<安原の感想> ― 「いのち・平和」の尊重
 琉球新報社説は、憲法にみる「いのち・平和」の尊重を強調している。それはつぎの指摘に表れている。
・米軍基地や米兵犯罪によって命や暮らしを脅かされている沖縄県民は「命を守って」と切実に願っている。
・憲法が保障する平和的生存権の実現に、首相は指導力を発揮してもらいたい。
・国際協調と人間の安全保障を根幹に据えた安全保障観へ転換すれば、9条は一段と輝きを増す。
・持続的な平和と国民の幸福のために憲法を生かす構想力、9条の輝きを世界へ次代へ引き継ぐ行動力こそ競ってほしい。

 憲法9条にこめられている「いのち・平和」尊重の理念をよりたしかなものに育んでいくのか、それともそれに背を向けて9条改悪にこだわるのか ― この2つの選択肢のうちどちらに軍配を挙げるかと問われれば、もちろん前者の「いのち・平和」尊重である。琉球新報社説の眼目もそこにあり、それが日本国民多数の民意でもある。


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