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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
首相の施政方針演説を採点する
積極的平和主義と軍事重視の姿勢

安原和雄
 首相の施政方針演説は美辞麗句で飾る高校生の演説と言っては高校生に失礼だろうか。皮肉を言っているのではない。むしろ高校生のように率直な姿勢と言えるのではないか。たとえば「可能性」という文言が多用されている。ここが従来の施政方針演説とは異質といえる。
 その半面、首相の持論である「積極的平和主義」に執着している。この積極的平和主義が演説のキーワードであり、これこそが安倍政権の目指すところである。しかも注目すべきことに積極的平和主義は明らかに日米同盟の緊密化にとどまらず、防衛体制=軍事力の強化、戦争を目指している。(2014年1月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず参考までに大手5紙の社説(1月25日付)の見出しを紹介する。主張の内容紹介は省略する。
*朝日新聞=施政方針演説 明るさの裏側には?
*毎日新聞=安倍首相演説 重要課題がそっけない
*讀賣新聞=施政方針演説 不屈の精神で懸案解決に挑め
*日本経済新聞=「経済の好循環」を言葉で終わらせるな
*東京新聞=通常国会始まる 国の針路を誤らぬよう

 さて首相の施政方針演説(1月24日)の特色は何か。
(1)演説のキーワードとなっているのが「可能性」である。可能性についてどういう文脈で指摘しているのか、その事例を以下に紹介したい。

*「不可能だ」と諦める心を打ち捨て、わずかでも「可能性」を信じて、行動を起こす。
*日本の中に眠る、ありとあらゆる「可能性」を開花させることが、安倍内閣の新たな国づくりだ。
*創造と可能性の地・東北=2020年には、新たな東北の姿を、世界に向けて発信しよう。
*復興は新たなものを創り出し、新たな可能性に挑戦するチャンスでもある。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できるはずだ。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。それを引き出す鍵は、教育の再生である。
*世界に目を向けることで、日本の中に眠るさまざまな「可能性」にあらためて気づかされる。
*高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ちあふれる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。沖縄の成長を後押ししていく。
*今年は、地方の活性化が、安倍内閣にとって最重要テーマであり、地方が持つ大いなる「可能性」を開花させていく。
*地方には、特色ある産品や伝統、観光資源などの「地域資源」がある。そこに成長の「可能性」がある。地域資源を生かして新たなビジネスにつなげようとする中小・小規模事業者を応援する。

<安原の感想>なぜ「可能性」にこだわる?
 「可能性」への前例のない執着ぶりはなぜなのか。「可能性」にこだわることが間違っていると言うのではない。それにしてもこだわり方が異常とはいえないだろうか。首相は施政方針演説で以下のように力説している。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できる。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。

 老若男女を問わず、一人ひとりが「力強い成長」の「可能性」を求めて全力疾走せよ!と号令を掛けている光景が浮かび上がってくる。まるであの60年以上も昔の敗戦と廃墟のなかで立ちすくんでいた惨めな姿を連想させる。21世紀の今、時代は大きく変わったのだ。首相が号令を掛ければ、日本国民が一丸となって疾走するとでも思っているのだろうか。そうであれば幼稚にすぎるのではないか。首相は自己を「独裁者」と勘違いしているのかも知れない。これでは失笑するほかない。

(2)演説のもう一つのキーワードは積極的平和主義である。以下のように指摘している。

*先月東京で開催した日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議では、多くの国々から積極的平和主義について支持を得た。ASEANは、繁栄のパートナーであるとともに、平和と安定のパートナーである。
*中国が、一方的に「防空識別区」を設定した。尖閣諸島周辺では、領海侵入が繰り返されている。力による現状変更の試みは、決して受け容れることはできない。引き続き毅然(きぜん)かつ冷静に対応していく。新たな防衛大綱の下、南西地域をはじめ、わが国周辺の広い海、空において安全を確保するため、防衛体制を強化していく。
*私は自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤と信じる。その基軸が日米同盟であることはいうまでもない。
*在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めていく。
*今年も地球儀を俯瞰する視点で、戦略的なトップ外交を展開していく。中国とは残念ながら、いまだに首脳会談が実現していない。しかし私の対話のドアは常にオープンである。韓国は基本的な価値や利益を共有する、最も重要な隣国である。大局的な観点から協力関係の構築に努める。

<安原の感想>積極的平和主義の落とし穴
 安倍首相は積極的平和主義を唱導している。「積極的平和主義」と「平和主義」とはどう異なるのか。従来から重視されてきた平和主義は、軍事力の支えに頼らない平和の構築をめざす政策である。現行平和憲法の前文、9条などにその理念が盛り込まれている。日米安保条約とも両立しない平和理念である。
 一方、積極的平和主義は日米安保体制下で米国と一体となって戦争に協力するという姿勢である。あるいは日本が独自に対外戦争を仕掛けるという含みである。分かりやすく言えば、安倍首相一派は戦争屋集団と名づけることもできる。戦争のための「抑止力の維持」を重視しており、決して非戦、反戦を唱導しているわけではない。だから積極的平和主義は誤解を誘導する用語であり、我ら庶民の一人ひとりとしてはその悲劇の落とし穴にはまらないように用心したい。警戒心を高めたい。


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堤清二の「市民の国家」論とは
政官財界は「没落」を回避できるのか 

安原和雄
 政官財界の内側にいて批判精神を失わないユニークな経営者として知られていた堤清二氏が亡くなった。若手経営者の頃から望ましい国家の姿として「市民の国家」論を唱え、それに耳を貸さない現状のままでは「産業界は没落の一途」を辿るほかないとも指摘した。政官財界は果たして「没落」を回避できるのかという問題意識は、今後も常に新鮮な問いかけとなるだろう。
 日本の著しい右傾化に熱心な安倍自民党政権に向かって、堤氏としては根底から批判するほかなかったに違いない。しかし寿命という自己管理しにくい制約のため、それを果たす機会を与えられなかった。堤氏にとっては無念であったと言うべきだろう。(2014年1月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 朝日新聞(2013年11月29日付)は「経済人・作家 堤清二さん死去」の見出しで次のように報じた。
 セゾングループを率いた経済人であり、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても知られた堤清二(つつみ・せいじ)さんが死去した。86歳。小売業(西武百貨店など)に文化事業を融合させる一方、日本の戦後をみつめた文化人の死を悼む声が28日、相次いだ。西武百貨店を傘下に収めるセブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長は「非常に感覚が鋭く、尊敬していた」とコメントした。

 『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』(毎日新聞社刊「毎日新聞経済部編」1975年刊)に堤 清二氏の証言(記事中の見出しは「″市民の国家″に改造を」、「経済界は没落の一途」)が収められている。政官財界人にインタビューしたのは主として私(安原=当時、毎日新聞東京本社経済部員で財界担当記者)だったが、多くの経済部員の協力を得た。当時の西 和夫・毎日新聞(東京)経済部長は、この長期企画の『証言』について次のように指摘している。
 「日本株式会社の重役たちが1974年から75年にかけて何を悩み、何を志向していたか、とくに一枚岩的な政・官・財複合体の亀裂が刻み込まれたことについていかに深刻な危機感を持ち、その打開策に眠られぬ夜をすごしたか ― を記録する証言として、昭和経済史に残る資料的価値を担うものと自負している」と。

 40年も昔のインタビュー記事だが、決して「単なる昔話」にとどまっているわけではない。むしろ21世紀の今の時点でもなお示唆に富む証言となっている。以下、その証言(大要)を紹介し、<安原の感想>を付記する。

(1)「市民の国家」に改造を
 問い:石油危機とインフレのなかで企業の社会的責任が問われたが、今日の企業の社会的責任はいかにあるべきだと考えるか。
 堤:生活にとって有用な製品を需要に応じて作り出していくのが重要な社会的責任だ。いいかえれば社会的ニーズに応えることだ。社会的ニーズのなかには物質的な豊かさだけでなく、最近では人間的豊かさが大きく出てきている。公害防止は当然のことだし、それに生きがいも企業が労働者に対して果たすべき社会的責任の重要な部分だ。
 問い:どうしてわが国では、あなたの指摘する意味での企業の社会的責任論が定着しなかったのか。
 堤:明治のころから道義的経営者はつねに少数派だった。その少数派の例として住友の別子銅山の公害対策がある。今日のカネに換算して500億円程度の巨費を投じて公害問題に取り組んだ。もう一つ、明治時代の公害事件として有名な足尾銅山があり、その公害反対運動のリーダーだった田中正造は「別子銅山は企業経営の見本だ」とほめた。米国では公害問題にその地域の経営者が先頭に立って取り組んでいる例がたくさんある。
 ところが戦後の日本の場合は一人もいない。あれはマスコミが悪いというステレオ・タイプ的発想になっている。明治時代の経営者に比べ格が落ちた。公害裁判に敗北して、しかもみんなに批判されてシブシブ従うというのが大部分だ。

問い:「社会的責任」が経営者の基本的行動様式になり得なかったのは、日本の産業風土の特殊性によるものか、それとも資本主義体制の本質的欠陥が出てきたものか。
 堤:それに答えるのは、実はこわい。資本主義が社会的有用性をもっていたころはプラスの役割を果たした。しかし現在、資本主義の社会的役割は一段階を終えたのではないかというイヤな予感がする。新しい時代の資本主義に関するビジョンが生まれない限り、今日みられるデメリット(欠陥)が出続ける危険性がある。公害、インフレ、資源問題などがそのデメリットで、これはケインズ経済学の破産にもつながっていく問題だ。
 公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されているわけだ。しかしアダム・スミスを読み直してみると、スミスさえ、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制などの必要を強調している。どうも日本のえらい方は、自己流にスミスを読み違えているとしか思えない。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。
 問い:どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
堤:その前提として国家の質をどうみるかだ。経営者は今の政府を明治の絶対主義政府という観念でしかみていない。常に自由を束縛する国家観しかないわけだ。しかしいまの国家は「市民社会のための装置」という認識をもつべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民社会のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。そして介入の仕方、分野、度合いについて介入を認める立場で注文をつけていく。

<安原の感想>「市民が主役」を取り戻すとき
 国家は「市民社会のための装置」という認識は今日の日本社会に浸透しているだろうか。現実はまるで逆ではないか。特に自民党の安倍政権が誕生してからは、むしろ「国家のための装置」として機能しつつある。そこでは平和・反戦と人権重視の現行憲法の理念は無視ないし軽視されている。軍事力行使も辞さないという姿勢すらうかがわせている。
 40年前の堤発言は、いま、読み返してみると、今日の日本政治の姿を予見していたかのように受け止めることもできる。市民が主役の「市民社会のための装置」という認識を取り戻さなければならない。そのためには安倍政権に一日でも早く引導を渡すときである。

(2)経済界は没落の一途
問い:介入する側の官僚と介入される側の経済界との間にギャップがあるのではないか。
 堤:市民社会のための政府であるべきだという意識で行動しているまじめな官僚は、最近の経済人の行動は理解できないのではないか。意識の面での両者の間のギャップは広がりつつある。しかも経済界は大衆からも見放されているのだから、これでは経済界は没落の一途をたどっていることになる。
 問い:自民党単独政権が長すぎるという意見は財界にも出ている。政権交代が必要だとは思わないか。
 堤:いい悪いは別にして、政権は必ず交代するものだ。世界史をみても100年も一つの政党が政権の座についていたことはない。変わるのが当たり前だ。必然だ。ただ変わり方にいろんなのがある。

 問い:自民党は国民の過半数の支持をすでに失っている。事実上保革逆転しているという見方は財界のなかにもある。つまり資本主義体制の守護者である自民党に対する国民の批判が強まっているわけで、このことは利潤追求を第一目的とするいまの資本主義体制そのものの是非が問われていることを意味するとは考えないか。
 堤:利潤それ自体が原則的に悪だとは思わない。何のために利潤を追求し、どういう方法で利潤を追求するか、この二点で利潤追求行為が悪であるかどうかが決まってくる。昔は利潤追求が経済の発展に役立ち、国民がこれを支持した。しかしいまは利潤追求の仕方が他の社会生活の分野をおかす場合には悪になっている。経済発展が国民の期待の最大公約数ではなくなっているからだ。
 問い:自民党の宮沢喜一氏は、「自由主義経済を死守する」といっている。どう思うか。
 堤:いまの体制を死守するというのは白虎隊と同じでロマンチックだけれども、問題はどういう体制にしなければならないかだ。第一次資本主義体制とでもいうべきこれまでの体制は変わらざるをえないでしょう。経営者も体制が変わることを率直に認めていかねばならない。死守される体制の方が迷惑するのではないか。
 問い:新しい体制はどういうものになると考えるか。
 堤:古典的資本主義はどこの世界にもない。米、英、仏、西独など各国いずれも特性を持っており、したがって典型的な新しい第二次資本主義体制というものはないと思う。日本も歴史、風土に合わせて経済運営が円滑に行われて国民のニーズに応えられさえすれば、これが資本主義であるかどうかわからなくなってもよい。

<安原の感想>行方定まらぬ日本資本主義
 自民党単独政権の末期、自由主義経済=資本主義体制そのものはどうなるのか、に関心が集まりつつあった。その一つは自民党・宮沢喜一氏(蔵相、首相を歴任)の「自由主義経済死守」論である。「死守」論に批判的姿勢で終始したのが堤氏で、「資本主義体制は変わらざるを得ない」と論じた。「死守される体制の方が迷惑する」と冷ややかでもあった。この考えは宮沢流の「死守」論とは180度異なっている。

 さて日本経済の現状はどうか。右翼的色彩の濃い安倍政権の登場とともにアベノミクス(大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略ーの「三本の矢」)という名の経済運営に転換した。しかし例えば大量の非正規労働者群をどう削減していくのか、その展望はみえない。恵まれない大衆への熱い関心は希薄のように見受けられる。安倍首相は政治家というよりは支配者・統治者の心情なのだろう。これでは経済の活性化もままならない。行方定まらない日本資本主義というほかない。
 毎日新聞社説(1月16日付)は春闘に関連して「若年層を中心にした非正規雇用の低賃金と生活不安の改善は急務」と主張した。賛成したい。








「人間中心の国づくり」めざして
2014年元旦社説を批評する

安原和雄
 大手紙の元旦社説のキーワードとして、民主主義、日本浮上、長期の国家戦略、人間中心の国づくり、などを挙げることができる。これらのキーワードは「強い国」志向にこだわる安倍首相の姿勢と果たしてつながるのか。率直に言えば、首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが靖国参拝である。さらにアベノミクスという名の景気対策も、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。
 東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されかねない地獄のような現状への告発ともいえる。われら日本人が喜びと共に「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。(2014年1月3日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

まず大手5紙の2014年元旦社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=政治と市民 にぎやかな民主主義に
*毎日新聞=民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう
*讀賣新聞=日本浮上へ総力を結集せよ 「経済」と「中国」に万全の備えを
*日本経済新聞=飛躍の条件伸ばす 変わる世界に長期の国家戦略を
*東京新聞=人間中心の国づくりへ 年のはじめに考える

なお1月3日付5紙の社説見出しを参考までに書き留める。
*朝日新聞=「1強政治と憲法」 「法の支配」を揺るがすな
*毎日新聞=文化栄える国へ 自由な社会あってこそ
*讀賣新聞=(上向く世界経済) 本格再生へ「分水嶺」の1年だ 先進国と新興国にくすぶる不安
*日本経済新聞=飛躍の条件<創る> 産業社会をモデルチェンジする
*東京新聞=障害を共に乗り越える 年のはじめに考える

以下、各紙元旦社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
▽朝日新聞社説
行政府は膨大な情報を独占し、統治の主導権を握ろうとする。その結果、多くの国民が「選挙でそんなことを頼んだ覚えはない」という政策が進む。消費増税に踏み込んだ民主党政権、脱原発に後ろ向きの現政権にそう感じた人もいるだろう。議論が割れる政策を採るなら、政治は市民と対話しなければならない。
いずれも投票日だけの「有権者」ではなく、日常的に「主権者」としてふるまうことを再評価する考え方ともいえる。そんな活動はもうあちこちに広がっている。新聞やテレビが十分に伝えていないだけだと批判をいただきそうだ。確かに、メディアの視線は選挙や政党に偏りがちだ。私たち論説委員も視野を広げる必要を痛感する。

<安原のコメント>自己批判する論説委員
にぎやかな民主主義に育てていくためにはまずなによりも新聞社の論説委員自身の自己批判から出直す必要があるとも読めるユニークな社説である。ひとむかしも前の論説委員なら自己批判とは無縁であった。大上段に振りかぶった論説が主流となっていたような印象が強いが、それに比べると昨今の論説委員の物腰は激変といえる。皮肉を言いたいのではい。謙虚であることは無論大切なことである。しかし謙虚さは読者や市民に対して必要であるが、政財官界の権力の座にある群像に向かっては無用であるだろう。この姿勢を曖昧にすることは疑問である。

▽毎日新聞社説
「統治する側」が自分たちの「正義」に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見「強い国」に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。全体が一時の熱にうかされ、一方向に急流のように動き始めたとき、いったん立ち止まって、国の行く末を考える、落ち着きのある社会。それをつくるには、幹しかない木ではなく、豊かに枝葉を茂らせた木を、みんなで育てるしかない。
その枝葉のひとつひとつに、私たちもなりたい、と思う。「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じているからだ。

<安原のコメント>良識ある筆致の効果は?
一読しての印象では工夫を凝らした社説である。良識ある筆致ともいえる。しかしその良識なるものが、批判の対象である安倍首相という人物にどこまで通用するのか、その肝心なところが今ひとつ合点がいかない。勝手な想像で恐縮だが、この社説については論説委員の間でも異論があったのではないか。もし異論がなかったとすれば、活気を失った論説陣という印象が否めない。
社説の締めくくりである次の指摘には同感である。<「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じている>と。

▽讀賣新聞社説
デフレの海で溺れている日本を救い出し上昇気流に乗せなければならない。それには安倍政権が政治の安定を維持し、首相の経済政策「アベノミクス」が成功を収めることが不可欠である。当面は、財政再建より経済成長を優先して日本経済を再生させ、税収を増やす道を選ぶべきだ。
対外的にはアジア太平洋地域の安定が望ましい。日中両国の外交・防衛当局者による対話を重ねつつ、日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない。今年も「経済」と「中国」が焦点となろう。この内外のテーマに正面から立ち向かわずに、日本が浮上することはない。

<安原のコメント>讀賣らしく日米同盟強化で一貫
讀賣新聞はかなり以前から保守政権を支える役割を担ってきた。特に安倍政権の発足と共に熱の入れようも高まっている。特に今2014年元旦の社説は1ページの3分の2のスペースを占める超大型となって、異様な雰囲気をただよわせている。
その大型社説に盛り込まれている主張は、まず安倍首相の経済政策「アベノミクス」賛美論に始まり、対外政策では日米同盟の機能強化論で一貫している。讀賣社説は「日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない」と指摘しているが、軍事同盟の強化はむしろ緊張激化を誘発する恐れがある。軍事的に威勢がよすぎるのは危険というほかないだろう。

▽日本経済新聞社説
世界の変化の最たるものは、世の中に影響力を及ぼす地域が米欧からアジアへと移行、その傾向に拍車がかかっていることだ。地球規模でものごとがうごいていくグローバル化によるものだが、百年単位の長期サイクルで考えると、別に驚くに値しない。「アジアへの回帰」そのものだからだ。
国際社会の構造変革が進んでいるのである。その中心をなすのは、膨張する中国だ。軍事、経済などのハードパワーの増大を背景に、世界の力の均衡がゆらぎかねないところまで来つつある。米国で内向きのベクトルが働いているとすればなおさらだ。日本として、日米同盟というハードと、日本の文化と価値観というソフトのふたつの力をうまく使い分けるスマートパワーで、中国と向き合っていくしかない。

<安原のコメント>日本はスマートパワーを発揮できるか
一読後の印象は、なかなか示唆に富む社説といえる。「地球規模のグローバル化」と「百年単位の長期サイクル」で考えると、「アジアへの回帰」が顕著だというのだ。「アジアへの回帰」とは、中国を主役とする国際社会の構造変革の進行にほかならない。それに拍車をかけているのが「内向きの米国」の動向である。
以上のような「地球規模の大変化」という新潮流のなかで日本の果たすべき役割は何か。
ここに「日米同盟というハード」と「日本の文化と価値観というソフト」をうまく使い分ける「スマートパワー」なるものが登場してくる。しかし軍事中心の従来型日米同盟に執着する限り、有効なスマートパワーを果たして発揮できるだろうか。

▽東京新聞社説
強い国志向の日本を世界はどうみているか。昨年暮れの安倍首相の靖国参拝への反応が象徴的。中国、韓国が激しく非難したのはもちろん、ロシア、欧州連合(EU)、同盟国の米国までが「失望した」と異例の声明発表で応じた。戦後積み上げてきた平和国家日本への「尊敬と高い評価」は崩れかかっているようだ。
アベノミクスも綱渡りだ。異次元の金融緩和と景気対策は大企業を潤わせているものの、賃上げや消費には回っていない。つかの間の繁栄から奈落への脅(おび)えがつきまとう。すでに雇用全体の四割の二千万人が非正規雇用、若き作家たちの新プロレタリア文学が職場の過酷さを描いている。人間が救われる国、社会へ転換させなければならない。
何が人を生きさせるのか。ナチスの強制収容所で極限生活を体験した心理学者フランクルが「夜と霧」(みすず書房)で報告するのは、未来への希望であった。

<安原のコメント>「未来への希望」は期待できるか
「強い国」志向にこだわる安倍首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが昨年暮れの靖国参拝である。これには同盟国であるはずの米国が「失望した」と声明したほどだ。アベノミクスという名の景気対策も大企業は歓迎できても、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。上述の東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されつつあるという日本の地獄のような現状への告発といえる。日本版「ナチスの強制収容所」から脱出して「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。


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