「リオ+20」が世界に残した課題
安原 和雄
野田首相をはじめ先進国の首脳が、不参加の態度で軽視した国連主催の「持続可能な開発会議」が世界に残した課題は何か。それは「グリーン経済」(緑の経済)、すなわち環境保護と経済成長の両立をめざす試みの成否である。
20年前の第一回地球サミットは地球環境保全のために、「持続可能な発展」という新しい概念を打ち出した。これは経済成長に否定的だったが、今回はむしろ経済成長のすすめとなっている。同時に今回は「貧困の撲滅」を掲げている。それだけ世界に貧困が広がっているわけで、「撲滅」のスローガンはむしろ看板倒れに終わる可能性が消えない。(2012年6月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 大手新聞社説はどう論じたか
ブラジル・リオデジャネイロで6月22日(日本時間23日)まで開かれた国連主催の「持続可能な開発会議」(リオ+20)について大手紙は社説でどう論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*東京新聞(6月24日付)=リオ環境宣言 フクシマが教えている
*毎日新聞(同上)=リオプラス20 緑の経済へと進めよう
*読売新聞(同上)=リオ+20 環境を守る責任は新興国にも
*日本経済新聞(同上)=環境の危機を主要国は改めて直視せよ
なお朝日新聞は6月25日までの社説では論じていない。
日経社説が「環境の危機を主要国は改めて直視せよ」と論じているように、国際会議についてこれほど批判的、悲観的な言辞が目立つ社説も珍しい。いくつか具体例を挙げれば、以下のようである。
*東京新聞=これは、何だ、と言いたいような、国連持続可能な開発会議の幕切れだった。10年後では遅すぎる。明日にでも首脳が集まって、仕切り直しをするべきだ。
*毎日新聞=先進国と途上国との妥協の末に採択された成果文書「我々が望む未来」は具体的な目標や施策に欠け、かけがえのない地球を将来の世代に伝える明確な道筋は描けなかった。
*読売新聞=成果は極めて乏しかったと言うしかない。最大の焦点だった「グリーン経済」に移行する世界共通の工程表策定はできず、各国の自主的取り組みに委ねることになった。
*日経新聞=成果は乏しかった。(中略)地球環境の悪化に歯止めがかからないのは、資源の消費や開発の加速に比べ、対策のスピードや規模が不十分だからだ。気温上昇で北極の海氷は薄くなり森林は減り続け、世界の5人に1人がなお極度の貧困にある。
もう一つ、先進主要国の首脳、オバマ米大統領、メルケル独首相、キャメロン英首相、さらに日本の野田首相らの不参加が目立ったことは軽視できない。主要先進国で参加したのはオランド仏大統領のみであった。このように先進主要国の首脳がほぼ軒並み不誠実な態度を見せつけるようでは、会議が盛り上がりを欠くのは当然の成り行きであっただろう。
▽ 不思議な朝日新聞社説の姿勢
それにしても不思議なのは、社説で論評しない朝日新聞の姿勢である。念のため25日付まで3日間の朝日社説のテーマ(2本立て)を紹介すれば、以下のようである。
*6月23日=小沢氏の造反 大義なき権力闘争だ/大学改革 減らせば良くなるのか
*同月24日=住民投票 民意反映の回路増やせ/子育て支援 小規模保育を生かそう
*同月25日=電力自由化 規制なき独占では困る/沖縄慰霊の日 戦争の史実にこだわる
以上のような6つの社説はいずれも緊急性を要するものばかりとは判断しにくい。野田首相らは不参加だったとはいえ、世界の100カ国を超える首脳らを含めて5万人近い人々が集まった10年に一度の国際会議である。その会議閉幕の機会を捉えて朝日新聞としての論評を加えるのは、メディアとして当然のことと思うが、なぜ無視したのか。不可解という印象が残る。
想像にすぎないが、どのテーマを取り上げるかを決める論説室内の司令塔が不在のためなのか。論説委員それぞれの自主性に委ねるのは新しい方式と言えるかもしれない。それなら「社説」と銘打つのは疑問である。「主張」あるいは「論説」として署名入りの記事にすべきである。新聞社としての主張という意味の「社説」はもはや投げ捨てる時代ともいえるだろう。「没個性」に甘んじているときではない。かつて大手紙の論説室に籍を置いていた一人としてそう考えたい。
▽ グリーン経済とは(1)― 新聞社説にみる主張
今回の「リオ+20」でキーワードとして浮かび上がったのが「グリーン経済」である。「グリーン経済」とはどういう含意なのか。各紙の社説(6月24日付)から紹介する。
*東京新聞社説=環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と言葉を濁し、具体的な開発目標は、2015年までに策定するとしただけだ。
*毎日新聞社説=経済活動に伴う生物資源の利用や温室効果ガスの排出は地球の許容量を超える。一方で世界人口は70億人を超え、貧富の差は拡大した。だからこそグリーン経済への移行が必要だ。国連環境計画は世界の国内総生産(GDP)の2%を毎年、再生可能エネルギーや省エネなどに上手に投資すれば、世界経済はグリーンに移行でき、雇用創出や途上国の貧困対策につながると分析する。
東日本大震災と福島第一原発事故で自然の猛威とエネルギー多消費社会の危うさを知った日本は、グリーン経済への移行で世界の先導役となるべきだ。
*読売新聞社説=石油など化石燃料への依存度を減らし、環境関連産業を育成しながら低炭素社会へと転換していく「グリーン経済」の構築は、世界全体の課題といえよう。
しかし状況は大きく変わった。急速な経済発展を遂げた中国、インドなど新興国の排出量が増え続け、中国は米国を抜いて世界一の排出国となった。それにもかかわらず、中国の温家宝首相は今回の会議でも、自国を「大きな途上国」と位置付け、先進国が責任を果たすべきだとの姿勢を崩さなかった。
*日本経済新聞=リオ+20で持続可能な開発の道筋が示せたとは言えない。地球環境や貧困は人類の生存がかかる安全保障の問題といえる。先進国に中国、インド、ブラジルなどを加えた主要国はいま一度、危機を直視し真剣に対策にあたる必要がある。
▽ グリーン経済とは(2)― 「持続可能な発展」と「貧困の撲滅」と
上述の東京新聞社説は、環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と指摘している。
ここでの「持続可能な開発」とは英語のSustainable Developmentを指しており、「持続可能な発展」(=持続的発展)と日本語に訳すのが望ましいと考える。この概念は、第一回地球サミット(国連環境開発会議=1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」が打ち出して以来、世界で広く知られるようになった。
その意味するところは、二つある。一つは、今後何世代にもわたって、永続的に地球環境の保全を果たさなければ、人類は滅びるだろうということ。もう一つは、地球環境の保全とともに豊かな国も、貧しい国も共に「生活の質」を向上させていく必要があるということ。このことは従来の経済成長路線、つまりプラスの経済成長によって「量の豊かさ」を追求していく路線が行き詰まり、それを根本から転換させなければならないことを示唆している。
「持続可能な発展」を構成する柱を列挙すれば、以下のように多様である。
・生命維持システム ― 大気、水、土、生物 ― の尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・雇用の確保、さらに失業・不完全就業による人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源 への転換
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成
以上のように発展(Development)という概念は、軍事から環境に至るまで多様な側面から捉えられている。しかし経済成長が一つの柱として掲げられていないことに注意したい。これはGDP(国内総生産)や所得が増えることは、発展や生活の質のごく一面を示すにすぎない。それどころか自然や環境を破壊しながらGDPや所得が増えることは、発展や生活の質的充実にとってむしろマイナスと理解されているのである。
だから本来の「持続可能な発展」は経済成長とは両立しないが、今回「グリーン経済」と共に経済成長への期待が広がっているのはなぜか。採択された宣言「我々が望む未来」の次の指摘が見逃せない。
「グリーン経済のためには持続可能な発展と貧困の撲滅こそ重要である」と。わざわざ「貧困の撲滅」を基本的テーゼの「持続可能な発展」と同列に置いて強調している。それだけ世界中に以前にも増して貧困が広がっており、その貧困対策のためには経済成長も必要だというメッセージなのだろう。しかし経済成長はむしろ新たな貧富の格差を拡大するとしても、貧困の撲滅を達成できる保証はない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原 和雄
野田首相をはじめ先進国の首脳が、不参加の態度で軽視した国連主催の「持続可能な開発会議」が世界に残した課題は何か。それは「グリーン経済」(緑の経済)、すなわち環境保護と経済成長の両立をめざす試みの成否である。
20年前の第一回地球サミットは地球環境保全のために、「持続可能な発展」という新しい概念を打ち出した。これは経済成長に否定的だったが、今回はむしろ経済成長のすすめとなっている。同時に今回は「貧困の撲滅」を掲げている。それだけ世界に貧困が広がっているわけで、「撲滅」のスローガンはむしろ看板倒れに終わる可能性が消えない。(2012年6月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 大手新聞社説はどう論じたか
ブラジル・リオデジャネイロで6月22日(日本時間23日)まで開かれた国連主催の「持続可能な開発会議」(リオ+20)について大手紙は社説でどう論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*東京新聞(6月24日付)=リオ環境宣言 フクシマが教えている
*毎日新聞(同上)=リオプラス20 緑の経済へと進めよう
*読売新聞(同上)=リオ+20 環境を守る責任は新興国にも
*日本経済新聞(同上)=環境の危機を主要国は改めて直視せよ
なお朝日新聞は6月25日までの社説では論じていない。
日経社説が「環境の危機を主要国は改めて直視せよ」と論じているように、国際会議についてこれほど批判的、悲観的な言辞が目立つ社説も珍しい。いくつか具体例を挙げれば、以下のようである。
*東京新聞=これは、何だ、と言いたいような、国連持続可能な開発会議の幕切れだった。10年後では遅すぎる。明日にでも首脳が集まって、仕切り直しをするべきだ。
*毎日新聞=先進国と途上国との妥協の末に採択された成果文書「我々が望む未来」は具体的な目標や施策に欠け、かけがえのない地球を将来の世代に伝える明確な道筋は描けなかった。
*読売新聞=成果は極めて乏しかったと言うしかない。最大の焦点だった「グリーン経済」に移行する世界共通の工程表策定はできず、各国の自主的取り組みに委ねることになった。
*日経新聞=成果は乏しかった。(中略)地球環境の悪化に歯止めがかからないのは、資源の消費や開発の加速に比べ、対策のスピードや規模が不十分だからだ。気温上昇で北極の海氷は薄くなり森林は減り続け、世界の5人に1人がなお極度の貧困にある。
もう一つ、先進主要国の首脳、オバマ米大統領、メルケル独首相、キャメロン英首相、さらに日本の野田首相らの不参加が目立ったことは軽視できない。主要先進国で参加したのはオランド仏大統領のみであった。このように先進主要国の首脳がほぼ軒並み不誠実な態度を見せつけるようでは、会議が盛り上がりを欠くのは当然の成り行きであっただろう。
▽ 不思議な朝日新聞社説の姿勢
それにしても不思議なのは、社説で論評しない朝日新聞の姿勢である。念のため25日付まで3日間の朝日社説のテーマ(2本立て)を紹介すれば、以下のようである。
*6月23日=小沢氏の造反 大義なき権力闘争だ/大学改革 減らせば良くなるのか
*同月24日=住民投票 民意反映の回路増やせ/子育て支援 小規模保育を生かそう
*同月25日=電力自由化 規制なき独占では困る/沖縄慰霊の日 戦争の史実にこだわる
以上のような6つの社説はいずれも緊急性を要するものばかりとは判断しにくい。野田首相らは不参加だったとはいえ、世界の100カ国を超える首脳らを含めて5万人近い人々が集まった10年に一度の国際会議である。その会議閉幕の機会を捉えて朝日新聞としての論評を加えるのは、メディアとして当然のことと思うが、なぜ無視したのか。不可解という印象が残る。
想像にすぎないが、どのテーマを取り上げるかを決める論説室内の司令塔が不在のためなのか。論説委員それぞれの自主性に委ねるのは新しい方式と言えるかもしれない。それなら「社説」と銘打つのは疑問である。「主張」あるいは「論説」として署名入りの記事にすべきである。新聞社としての主張という意味の「社説」はもはや投げ捨てる時代ともいえるだろう。「没個性」に甘んじているときではない。かつて大手紙の論説室に籍を置いていた一人としてそう考えたい。
▽ グリーン経済とは(1)― 新聞社説にみる主張
今回の「リオ+20」でキーワードとして浮かび上がったのが「グリーン経済」である。「グリーン経済」とはどういう含意なのか。各紙の社説(6月24日付)から紹介する。
*東京新聞社説=環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と言葉を濁し、具体的な開発目標は、2015年までに策定するとしただけだ。
*毎日新聞社説=経済活動に伴う生物資源の利用や温室効果ガスの排出は地球の許容量を超える。一方で世界人口は70億人を超え、貧富の差は拡大した。だからこそグリーン経済への移行が必要だ。国連環境計画は世界の国内総生産(GDP)の2%を毎年、再生可能エネルギーや省エネなどに上手に投資すれば、世界経済はグリーンに移行でき、雇用創出や途上国の貧困対策につながると分析する。
東日本大震災と福島第一原発事故で自然の猛威とエネルギー多消費社会の危うさを知った日本は、グリーン経済への移行で世界の先導役となるべきだ。
*読売新聞社説=石油など化石燃料への依存度を減らし、環境関連産業を育成しながら低炭素社会へと転換していく「グリーン経済」の構築は、世界全体の課題といえよう。
しかし状況は大きく変わった。急速な経済発展を遂げた中国、インドなど新興国の排出量が増え続け、中国は米国を抜いて世界一の排出国となった。それにもかかわらず、中国の温家宝首相は今回の会議でも、自国を「大きな途上国」と位置付け、先進国が責任を果たすべきだとの姿勢を崩さなかった。
*日本経済新聞=リオ+20で持続可能な開発の道筋が示せたとは言えない。地球環境や貧困は人類の生存がかかる安全保障の問題といえる。先進国に中国、インド、ブラジルなどを加えた主要国はいま一度、危機を直視し真剣に対策にあたる必要がある。
▽ グリーン経済とは(2)― 「持続可能な発展」と「貧困の撲滅」と
上述の東京新聞社説は、環境保護と経済成長を両立させる「グリーン経済」への移行は、「持続可能な開発のための重要な手段の一つ」と指摘している。
ここでの「持続可能な開発」とは英語のSustainable Developmentを指しており、「持続可能な発展」(=持続的発展)と日本語に訳すのが望ましいと考える。この概念は、第一回地球サミット(国連環境開発会議=1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」が打ち出して以来、世界で広く知られるようになった。
その意味するところは、二つある。一つは、今後何世代にもわたって、永続的に地球環境の保全を果たさなければ、人類は滅びるだろうということ。もう一つは、地球環境の保全とともに豊かな国も、貧しい国も共に「生活の質」を向上させていく必要があるということ。このことは従来の経済成長路線、つまりプラスの経済成長によって「量の豊かさ」を追求していく路線が行き詰まり、それを根本から転換させなければならないことを示唆している。
「持続可能な発展」を構成する柱を列挙すれば、以下のように多様である。
・生命維持システム ― 大気、水、土、生物 ― の尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・雇用の確保、さらに失業・不完全就業による人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源 への転換
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成
以上のように発展(Development)という概念は、軍事から環境に至るまで多様な側面から捉えられている。しかし経済成長が一つの柱として掲げられていないことに注意したい。これはGDP(国内総生産)や所得が増えることは、発展や生活の質のごく一面を示すにすぎない。それどころか自然や環境を破壊しながらGDPや所得が増えることは、発展や生活の質的充実にとってむしろマイナスと理解されているのである。
だから本来の「持続可能な発展」は経済成長とは両立しないが、今回「グリーン経済」と共に経済成長への期待が広がっているのはなぜか。採択された宣言「我々が望む未来」の次の指摘が見逃せない。
「グリーン経済のためには持続可能な発展と貧困の撲滅こそ重要である」と。わざわざ「貧困の撲滅」を基本的テーゼの「持続可能な発展」と同列に置いて強調している。それだけ世界中に以前にも増して貧困が広がっており、その貧困対策のためには経済成長も必要だというメッセージなのだろう。しかし経済成長はむしろ新たな貧富の格差を拡大するとしても、貧困の撲滅を達成できる保証はない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
脱原発後の新しい国造りへ転換を
安原 和雄
脱原発をめざすのか、それとも原発再稼働なのか、その二者択一が問題なのではない。原発再稼働は時代錯誤もはなはだしい所業で、脱原発はもはや自明の理である。日本が今考え、めざすべきことは脱原発後の新しい国造りにどういうイメージを描くかである。
それは太陽エネルギーを活用する「ソーラー地球経済」の一翼を率先して担っていくことであるだろう。石油など化石燃料はやがて枯渇することを視野に収めれば、不滅の太陽エネルギーの活用以外に選択肢はあり得ない。目先の小利を棄てて、長期的な大局観に立つ大利こそ今求められる。(2012年6月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ヘルマン・シェーア著/今泉みね子訳『ソーラー地球経済』(2001年12月・岩波書店刊)を読み直す機会があった。10年も前の著作の大意を紹介しながら、将来のソーラー地球経済の歴史的意義を考えたい。
(注)ヘルマン・シェーア氏(1944~2010)はベルリン自由大学で博士号(経済学と社会学)を取得。ドイツ連邦議会議員、ヨーロッパ議会議員、ユーロソーラー(ヨーロッパ太陽エネルギー協会)会長などを歴任。2010年10月14日に原子力関連についてテレビ出演直後、心臓発作で急死と伝えられる。著書は『ソーラー地球経済』のほか『太陽戦略』など多数。
訳者の今泉さん(1948~)は環境問題ジャーナリスト、翻訳家。講演会「福島がドイツをかえた・・・急転換したドイツの原発のエネルギー政策」(2011年10月)などで活躍。
▽ 日本こそソーラー経済のモデル国に
まず今泉さんの著者評、書評を「訳者あとがき」から紹介する。
*推理小説を読むように謎がとけてくる
本書は、環境問題にたずさわっている者(訳者)にとっても、「目からうろこがおちる」思いをさせてくれる。なぜ経済のグローバル化が進むのか、企業はどんどん合併するのか、失業が増えるのか、都市がすさび離農が増えるのかといった問題の本質はエネルギー源にあること、そしてこのまま進んだらどうなるのか、それを変えるにはどうしたらよいのかを、筋道をたてて解説してくれるからだ。世界で行われているエネルギー産業の内幕も見えてくる。一見かたい内容なのに、推理小説を読むように次々と謎がとけてくるのだ。
*人類はソーラー資源の利用を急ぐとき
講演であふれるほどのエネルギーをみなぎらせた彼(シェーア氏)は「化石資源は50年後にしろ、100年後にしろなくなるのはたしかだから、人類はソーラー資源を利用するしか道はない。戦争や暴力や大きな環境災害を防ぐには、ソーラー資源の利用を急がなければならない。それをどれだけ速く実現させるかに人類の未来はかかっている」と声を張りあげていた。
*日本はソーラー経済にぴったりの国
日本は化石資源に乏しいけれど、太陽、風力、地熱、波力に恵まれ、モンスーン気候のおかげで植物はどんどん育つ、ソーラー経済にぴったりの国である。それだけに本書は政治家、自治体関係者、企業、環境関係者、いやすべての人にとって必読の書だと信じている。日本が世界に率先してソーラー経済を実現させれば、資源を他国に頼らないですむようになるかもしれないのだから。
<安原の短評> 求められる発想の大転換
念のため再説すれば、ここでの「ソーラー」とは、太陽光・熱だけでなく、風力、地熱、水力、波力などの再生可能エネルギー、さらに光合成で育つ植物資源などを指している。幸い日本はこれらのソーラー資源には恵まれており、上述のように「日本こそソーラー経済にぴったりの国」という表現も決して誇大ではない。ソーラー経済のモデル国をめざすべく、発想の大転換を図るときである。
▽ 「目に見える太陽の手」で実現を
ではソーラー地球経済とはどういうイメージなのか。本書は以下の七つのテーゼにまとめている。その大要を紹介する。
(1)生存の危機から脱却できる唯一の道
世界文明が生存の危機から脱却できる唯一の道は、再生可能資源への転換をすみやかに導入し、経済活動すべてを化石資源に依存せずに行えるようにすることである。
(2)転換の効果は産業革命に匹敵
ソーラーエネルギー・原料への転換は、世界社会の未来を保証するために、画期的な価値をもつだろう。その深くて幅広い効果は、産業革命のそれに匹敵する。
(3)人間に合った発展が可能に
化石の本流に打ち勝つことのできる、新たなソーラーの本流によってはじめて、経済のグローバル化はエコロジー面でも持続可能になる。ソーラーが本流となってはじめて、化石経済の破壊的な推進力、経済構造と社会文化の画一化を阻止できて、持続的で、多様性に富み、人間に合った発展が可能になる。
(4)経済発展をエコロジーの循環とともに
人類が安全に、社会的に生きていけるようにするためには、経済発展をエコロジーの循環、地域の経済構造、文化、公共機関に再び連結させるフィードバックは欠くことができない。このようなフィードバックはソーラーエネルギー・原料を基礎としてのみ、再び可能である。
(5)ソーラー資源は利用者にやさしい
化石エネルギーが経済性にすぐれているとされているが、そのエネルギー連鎖全体をみると、経済効率の優越性は神話でしかない。再生可能エネルギーは、その利用の連鎖がはるかに短いために経済効率において有利ですらある。ただし、そのためには在来型のエネルギー産業が公共から受ける無数の優遇措置を廃止しなければならない。ソーラー資源は在来型のエネルギーよりも潜在的には効率がよく、利用者にやさしくなれるし、そのお陰でより経済的に使うことができる。
(6)ソーラー資源の利用・市場化を優先する
経済秩序においては、変えることのできない自然の法則を、変えることのできる市場法則よりも優先させなければならない。たとえば食物も含む地域のソーラー資源の利用・市場化を、これら以外の等価値の商品よりも市場で優先すべきである。
(7)「目に見える太陽の手」によって実現
ソーラー地球経済においてのみ、すべての人間の物質的要求を満たし、それによって、真に等しい普遍の人権という理念を未来につたえ、多様な文化をもつ世界社会を取り戻すことができる。「市場の見えざる手」をもってしては不可能なことが、「目に見える太陽の手」によって実現する。
▽ <安原の感想> 「太陽の手」と「いのち尊重」の両立をめざして
ソーラー地球経済を支えるキーワードは「目に見える太陽の手」である。言い換えれば「太陽の手」によって価格や資源配分が決まっていく。これは卓抜な提案というべきである。
一方、現存の自由市場経済は「見えざる手」によって価格や資源配分が左右される。しかも現実には市場の寡占化によって大企業の支配力が強まる。その行き着く先が貪欲な新自由主義(市場原理主義)路線であり、それを担う「1%の超リッチ」と呼ばれる富裕層が地球規模で「99%の大衆反乱」(「ウオール街を占拠せよ」から始まった)による批判を浴びたのは昨年のことである。
米国に代表される貪欲な新自由主義者たちは対外侵略戦争を行使して恥じないだけではない。弱肉強食、不平等、格差拡大、貧困層増大 ― という巨大な不公正を広げながら私利をほしいままにしてきた。このような新自由主義路線はしぶとく生き残りを策しているが、もはや寿命は尽きようとしている。それでは目を転じて、新自由主義に代わる人間中心主義であれば、充分であり、肯定できるのだろうか。
上述の<(7)「目に見える太陽の手」・・・>に「すべての人間の物質的要求を満たし、・・・普遍の人権という理念を未来につたえ、・・・」とある。これは人間中心主義であり、人間賛歌でもある。当然の認識、主張のようにみえるが、欲をいえば、そこに不満、疑問が残る。なぜ「いのち」、つまり人間に限らず、地球上の動植物も含む「生きとし生けるもののいのち」ではないのか。
私の唱える仏教経済学は、人間尊重に限らず、太陽からの恵みはもちろんのこと、広く「いのち」を尊重し、感謝する。なぜならこの地球上で人間が独力で生きることはできない。動植物のいのちをいただきながら、それとの相互依存関係の下でのみ生存できるからである。
石油など化石資源からソーラー資源への全面的転換がやがて不可避だとすれば、いずれ「太陽の手」を活用する以外の妙手はあり得ない。肝心なことは、一方に「太陽の手」、他方に人間中心主義を超える「いのちの尊重」、この両者をいかに両立させていくかである。難問ではあるが、これ以外に人類が生き残る道はないことを「ソーラー地球経済」は示唆している。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原 和雄
脱原発をめざすのか、それとも原発再稼働なのか、その二者択一が問題なのではない。原発再稼働は時代錯誤もはなはだしい所業で、脱原発はもはや自明の理である。日本が今考え、めざすべきことは脱原発後の新しい国造りにどういうイメージを描くかである。
それは太陽エネルギーを活用する「ソーラー地球経済」の一翼を率先して担っていくことであるだろう。石油など化石燃料はやがて枯渇することを視野に収めれば、不滅の太陽エネルギーの活用以外に選択肢はあり得ない。目先の小利を棄てて、長期的な大局観に立つ大利こそ今求められる。(2012年6月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ヘルマン・シェーア著/今泉みね子訳『ソーラー地球経済』(2001年12月・岩波書店刊)を読み直す機会があった。10年も前の著作の大意を紹介しながら、将来のソーラー地球経済の歴史的意義を考えたい。
(注)ヘルマン・シェーア氏(1944~2010)はベルリン自由大学で博士号(経済学と社会学)を取得。ドイツ連邦議会議員、ヨーロッパ議会議員、ユーロソーラー(ヨーロッパ太陽エネルギー協会)会長などを歴任。2010年10月14日に原子力関連についてテレビ出演直後、心臓発作で急死と伝えられる。著書は『ソーラー地球経済』のほか『太陽戦略』など多数。
訳者の今泉さん(1948~)は環境問題ジャーナリスト、翻訳家。講演会「福島がドイツをかえた・・・急転換したドイツの原発のエネルギー政策」(2011年10月)などで活躍。
▽ 日本こそソーラー経済のモデル国に
まず今泉さんの著者評、書評を「訳者あとがき」から紹介する。
*推理小説を読むように謎がとけてくる
本書は、環境問題にたずさわっている者(訳者)にとっても、「目からうろこがおちる」思いをさせてくれる。なぜ経済のグローバル化が進むのか、企業はどんどん合併するのか、失業が増えるのか、都市がすさび離農が増えるのかといった問題の本質はエネルギー源にあること、そしてこのまま進んだらどうなるのか、それを変えるにはどうしたらよいのかを、筋道をたてて解説してくれるからだ。世界で行われているエネルギー産業の内幕も見えてくる。一見かたい内容なのに、推理小説を読むように次々と謎がとけてくるのだ。
*人類はソーラー資源の利用を急ぐとき
講演であふれるほどのエネルギーをみなぎらせた彼(シェーア氏)は「化石資源は50年後にしろ、100年後にしろなくなるのはたしかだから、人類はソーラー資源を利用するしか道はない。戦争や暴力や大きな環境災害を防ぐには、ソーラー資源の利用を急がなければならない。それをどれだけ速く実現させるかに人類の未来はかかっている」と声を張りあげていた。
*日本はソーラー経済にぴったりの国
日本は化石資源に乏しいけれど、太陽、風力、地熱、波力に恵まれ、モンスーン気候のおかげで植物はどんどん育つ、ソーラー経済にぴったりの国である。それだけに本書は政治家、自治体関係者、企業、環境関係者、いやすべての人にとって必読の書だと信じている。日本が世界に率先してソーラー経済を実現させれば、資源を他国に頼らないですむようになるかもしれないのだから。
<安原の短評> 求められる発想の大転換
念のため再説すれば、ここでの「ソーラー」とは、太陽光・熱だけでなく、風力、地熱、水力、波力などの再生可能エネルギー、さらに光合成で育つ植物資源などを指している。幸い日本はこれらのソーラー資源には恵まれており、上述のように「日本こそソーラー経済にぴったりの国」という表現も決して誇大ではない。ソーラー経済のモデル国をめざすべく、発想の大転換を図るときである。
▽ 「目に見える太陽の手」で実現を
ではソーラー地球経済とはどういうイメージなのか。本書は以下の七つのテーゼにまとめている。その大要を紹介する。
(1)生存の危機から脱却できる唯一の道
世界文明が生存の危機から脱却できる唯一の道は、再生可能資源への転換をすみやかに導入し、経済活動すべてを化石資源に依存せずに行えるようにすることである。
(2)転換の効果は産業革命に匹敵
ソーラーエネルギー・原料への転換は、世界社会の未来を保証するために、画期的な価値をもつだろう。その深くて幅広い効果は、産業革命のそれに匹敵する。
(3)人間に合った発展が可能に
化石の本流に打ち勝つことのできる、新たなソーラーの本流によってはじめて、経済のグローバル化はエコロジー面でも持続可能になる。ソーラーが本流となってはじめて、化石経済の破壊的な推進力、経済構造と社会文化の画一化を阻止できて、持続的で、多様性に富み、人間に合った発展が可能になる。
(4)経済発展をエコロジーの循環とともに
人類が安全に、社会的に生きていけるようにするためには、経済発展をエコロジーの循環、地域の経済構造、文化、公共機関に再び連結させるフィードバックは欠くことができない。このようなフィードバックはソーラーエネルギー・原料を基礎としてのみ、再び可能である。
(5)ソーラー資源は利用者にやさしい
化石エネルギーが経済性にすぐれているとされているが、そのエネルギー連鎖全体をみると、経済効率の優越性は神話でしかない。再生可能エネルギーは、その利用の連鎖がはるかに短いために経済効率において有利ですらある。ただし、そのためには在来型のエネルギー産業が公共から受ける無数の優遇措置を廃止しなければならない。ソーラー資源は在来型のエネルギーよりも潜在的には効率がよく、利用者にやさしくなれるし、そのお陰でより経済的に使うことができる。
(6)ソーラー資源の利用・市場化を優先する
経済秩序においては、変えることのできない自然の法則を、変えることのできる市場法則よりも優先させなければならない。たとえば食物も含む地域のソーラー資源の利用・市場化を、これら以外の等価値の商品よりも市場で優先すべきである。
(7)「目に見える太陽の手」によって実現
ソーラー地球経済においてのみ、すべての人間の物質的要求を満たし、それによって、真に等しい普遍の人権という理念を未来につたえ、多様な文化をもつ世界社会を取り戻すことができる。「市場の見えざる手」をもってしては不可能なことが、「目に見える太陽の手」によって実現する。
▽ <安原の感想> 「太陽の手」と「いのち尊重」の両立をめざして
ソーラー地球経済を支えるキーワードは「目に見える太陽の手」である。言い換えれば「太陽の手」によって価格や資源配分が決まっていく。これは卓抜な提案というべきである。
一方、現存の自由市場経済は「見えざる手」によって価格や資源配分が左右される。しかも現実には市場の寡占化によって大企業の支配力が強まる。その行き着く先が貪欲な新自由主義(市場原理主義)路線であり、それを担う「1%の超リッチ」と呼ばれる富裕層が地球規模で「99%の大衆反乱」(「ウオール街を占拠せよ」から始まった)による批判を浴びたのは昨年のことである。
米国に代表される貪欲な新自由主義者たちは対外侵略戦争を行使して恥じないだけではない。弱肉強食、不平等、格差拡大、貧困層増大 ― という巨大な不公正を広げながら私利をほしいままにしてきた。このような新自由主義路線はしぶとく生き残りを策しているが、もはや寿命は尽きようとしている。それでは目を転じて、新自由主義に代わる人間中心主義であれば、充分であり、肯定できるのだろうか。
上述の<(7)「目に見える太陽の手」・・・>に「すべての人間の物質的要求を満たし、・・・普遍の人権という理念を未来につたえ、・・・」とある。これは人間中心主義であり、人間賛歌でもある。当然の認識、主張のようにみえるが、欲をいえば、そこに不満、疑問が残る。なぜ「いのち」、つまり人間に限らず、地球上の動植物も含む「生きとし生けるもののいのち」ではないのか。
私の唱える仏教経済学は、人間尊重に限らず、太陽からの恵みはもちろんのこと、広く「いのち」を尊重し、感謝する。なぜならこの地球上で人間が独力で生きることはできない。動植物のいのちをいただきながら、それとの相互依存関係の下でのみ生存できるからである。
石油など化石資源からソーラー資源への全面的転換がやがて不可避だとすれば、いずれ「太陽の手」を活用する以外の妙手はあり得ない。肝心なことは、一方に「太陽の手」、他方に人間中心主義を超える「いのちの尊重」、この両者をいかに両立させていくかである。難問ではあるが、これ以外に人類が生き残る道はないことを「ソーラー地球経済」は示唆している。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
全廃に向けて猶予は許されない!
安原 和雄
「反原発」の運動や著作は最近増えてきた。このことは歓迎したいが、どこか物足りない印象も拭えない。なぜなのか。それは「原爆と原発」を一体として捉え、論じなければならないという視点が弱いからだろう。その点、最近の著作『原爆と原発』が「原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」として「共に全廃すべきだ」と力説しているところを大いに買いたい。
原発推進派の原発への執着ぶりも目に余るが、その執拗さを打破するためにも「共に全廃」という視点が不可欠とは言えないか。(2012年6月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
落合栄一郎(注)著『原爆と原発』(2012年5月、鹿砦社・ろくさいしゃ刊)を読んだ。副題に「放射能は生命と相容れない ― 原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」とある。本書の特色は「原爆と原発」を一体として論じているところにある。
(注)落合氏は1936年生まれ、東京大学助教の後、海外へ。カナダ、アメリカの大学などを経て、カナダ・バンクーバー9条の会(日本国憲法9条の理念を生かす会)などに関与。数年来、「持続可能性」、「平和」、「原発」、「文明」の基本問題についてインターネット紙「日刊ベリタ」に寄稿(約200稿)している。
『原爆と原発』の大要を以下、6項目に分けて紹介し、それぞれに<安原の短評>をつける。
(1)化石燃料や原子力は今後1世紀はもたない
化石燃料にしろ、ウランにしろ、その地球上での存在量は有限である。すなわち使えばなくなるし、再生することはできない。それがいつ枯渇するかは、人類の使用速度と存在量に依存するが、遠くない将来になくなることは目に見えている。
現在の経済体制、企業体制としては、なるべく儲かる化石燃料や原子力を使っていたい。しかし長く見積もっても今後1世紀はもたないだろう。このことは、現経済体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えないようであるが、自明のことである。
<安原の短評> 意図的盲目症
「化石燃料や原子力は今後1世紀はもたないことは、現体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えない」という指摘は的確である。真実を認識すれば、そこに責任を伴うことになる。だから日本のリーダーの多くは、事実(真実)を観ようとはしないのだ。意図的盲目症に陥っている。
(2)核兵器生産を継続する経済効果
冷戦時代の核兵器は抑止効果が主目的であったが、冷戦は一応解消し、ロシアも中国も、経済的には欧米と対立する体制ではない。すなわち政治的には核兵器の必要性は薄らいだ。しかし大国の核兵器の実質的削減は、始まっていない。大きな要因は、核兵器産業への経済効果である。特に大規模兵器は、国家機関が国民の税によって買い取るものであり、国家が安泰であるかぎり、取りはぐれはない。
こうした権益を軍需産業が手放すのを渋るのは当然であろう。現在の新自由主義に毒された市場経済では、金融などを支配する大企業家が政治世界を動かす立場にある場合が多く、例えばアメリカでは大企業、特に金融企業が政治の中枢に食い込んでいる。
<安原の短評>軍需産業の権益
なぜ核兵器の実質的削減が進まないのか。軍需産業がその権益を手放そうとしないからである。その元凶は例の「軍産複合体」の存在である。国民の税金によって軍需産業の権益が保障される限り、戦争勢力としての「軍産複合体」の肥大化はつづく。「軍産複合体」に解体の大鉈(なた)を打ち込むのはいつのことか。
(3)「原子力=悪」のイメージ払拭と原発設置に加速
戦後の日本人には、原爆の恐ろしさの体験から、「原子」の言葉に拒否反応する「原子(または核)アレルギー」なる症候が蔓延していた。そこでアイゼンハワー米大統領は、1953年12月8日(太平洋戦争開戦記念日)に国連で、演説「平和のための原子」を行って、「原子力=悪」のイメージ改善に努めた。
ところがその直後、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に日本漁船が遭遇し、死の灰をかぶり、船員一人が死亡、日本人の「反原子」感情はかき立てられた。このためアメリカ政府は、「原子力の安全神話」を吹聴した。しかも1973年に始まる「オイルショック」(中東産油国での原油産出制限と石油価格急騰)で危機に瀕した日本では、原子力発電設置が加速された。
<安原の短評>「経済成長」が錦の御旗
原子力は危険だからこそ、その安全神話をことさら吹聴する必要があった。しかも1973年に始まる「オイルショック」が原発推進派にはまたとない追い風となった。「経済成長」が錦の御旗として高く掲げられた。つまりは経済成長のための原発であり、だからこそ原発批判の声はかき消されるように小さくなっていった。
(4)原発はどうしても必要と言えるのか
原発のべネフィット(利益)は、コストよりも大きいだろうか。ベネフィットの価値を決めるのは、代替エネルギーがないこと、原発がなければ日本は生きられないこと ― なのかどうかにかかっている。2011年夏の電力需要ピーク時に、不足の事態が起きる可能性があると、電力会社は主張した。
しかし企業や消費者の努力もあって、全原発のうちわずかに25%ぐらいしか稼働していなかったにもかかわらず余力を残して乗り切った。2012年5月には稼働原発はついにゼロ基になったが、日本中で停電などは起きていない。これでも原発はどうしても必要といえるのか。
<安原の短評>稼働原発はゼロに
原発再稼働に執念を抱く原発推進派は、電力不足を声高に叫び、電気料金値上げまで持ち出している。自制心という正常な神経とは無縁らしい。しかし稼働原発は5月以来目下、ゼロになっているが、停電は起きていない。国民の間にも節電の心構えは広がっている。節電に困るのは国民ではなく、むしろ電力会社ではないのか。
(5)原発廃棄で大多数の国民の生活は
原発廃棄は、電力会社と、その権益に与(あずか)る政治家や「原子力村」に群がる官僚や学者たち、交付金に潤う地元の自治体、それによって雇用を得ている人々にとってのみ不利なだけであろう。
大多数の国民には大した不利益をもたらさないどころか、より安心な生活ができるようになろう。したがって地元の経済・雇用の機会の増大などの施策を充分に施すこと、例えば自然エネルギー開発へカネを注ぐことによって経済活性化、雇用増大を実現することによって、原発廃棄の不利を克服すべきである。
<安原の短評>より安心な生活へ
「原発廃棄は、大多数の国民にはより安心な生活ができるようになる」という指摘は重要である。もちろん原発廃棄のままでよいわけではない。新エネルギー源として再生可能な自然エネルギー(太陽光・熱、風力、地熱、小型水力など)の開発活性化が不可欠である。そのためにこそ知恵と技術力と資金を有効活用したい。
(6)原爆と原発は地球上の生命と相容れない
原発を維持する隠れた理由の一つに、それがいざという場合に核兵器製造に転用できる可能性があることだ。原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない上に、人類全体にとって経済的にも、環境の面からも望ましくないし、必要もない。
なるべく早く原爆も原発も地球上から抹殺すべきである。特に日本の場合には、地震その他の天災、施設の老朽化などの理由により、現存原子炉はすべて安全な状態に速やかにもっていく必要がある。
<安原の短評>原爆も原発も全廃へ
「原発は核兵器製造に転用できる可能性がある」という示唆に着目したい。この点は専門家には知られていることだが、日本では「原爆は悪」、しかし「原発は善」という誤解が広がっていた。この誤解を吹き飛ばしたのが「3.11」の原発大惨事である。「原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない。だから共に全廃へ」という認識を広く共有したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原 和雄
「反原発」の運動や著作は最近増えてきた。このことは歓迎したいが、どこか物足りない印象も拭えない。なぜなのか。それは「原爆と原発」を一体として捉え、論じなければならないという視点が弱いからだろう。その点、最近の著作『原爆と原発』が「原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」として「共に全廃すべきだ」と力説しているところを大いに買いたい。
原発推進派の原発への執着ぶりも目に余るが、その執拗さを打破するためにも「共に全廃」という視点が不可欠とは言えないか。(2012年6月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
落合栄一郎(注)著『原爆と原発』(2012年5月、鹿砦社・ろくさいしゃ刊)を読んだ。副題に「放射能は生命と相容れない ― 原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」とある。本書の特色は「原爆と原発」を一体として論じているところにある。
(注)落合氏は1936年生まれ、東京大学助教の後、海外へ。カナダ、アメリカの大学などを経て、カナダ・バンクーバー9条の会(日本国憲法9条の理念を生かす会)などに関与。数年来、「持続可能性」、「平和」、「原発」、「文明」の基本問題についてインターネット紙「日刊ベリタ」に寄稿(約200稿)している。
『原爆と原発』の大要を以下、6項目に分けて紹介し、それぞれに<安原の短評>をつける。
(1)化石燃料や原子力は今後1世紀はもたない
化石燃料にしろ、ウランにしろ、その地球上での存在量は有限である。すなわち使えばなくなるし、再生することはできない。それがいつ枯渇するかは、人類の使用速度と存在量に依存するが、遠くない将来になくなることは目に見えている。
現在の経済体制、企業体制としては、なるべく儲かる化石燃料や原子力を使っていたい。しかし長く見積もっても今後1世紀はもたないだろう。このことは、現経済体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えないようであるが、自明のことである。
<安原の短評> 意図的盲目症
「化石燃料や原子力は今後1世紀はもたないことは、現体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えない」という指摘は的確である。真実を認識すれば、そこに責任を伴うことになる。だから日本のリーダーの多くは、事実(真実)を観ようとはしないのだ。意図的盲目症に陥っている。
(2)核兵器生産を継続する経済効果
冷戦時代の核兵器は抑止効果が主目的であったが、冷戦は一応解消し、ロシアも中国も、経済的には欧米と対立する体制ではない。すなわち政治的には核兵器の必要性は薄らいだ。しかし大国の核兵器の実質的削減は、始まっていない。大きな要因は、核兵器産業への経済効果である。特に大規模兵器は、国家機関が国民の税によって買い取るものであり、国家が安泰であるかぎり、取りはぐれはない。
こうした権益を軍需産業が手放すのを渋るのは当然であろう。現在の新自由主義に毒された市場経済では、金融などを支配する大企業家が政治世界を動かす立場にある場合が多く、例えばアメリカでは大企業、特に金融企業が政治の中枢に食い込んでいる。
<安原の短評>軍需産業の権益
なぜ核兵器の実質的削減が進まないのか。軍需産業がその権益を手放そうとしないからである。その元凶は例の「軍産複合体」の存在である。国民の税金によって軍需産業の権益が保障される限り、戦争勢力としての「軍産複合体」の肥大化はつづく。「軍産複合体」に解体の大鉈(なた)を打ち込むのはいつのことか。
(3)「原子力=悪」のイメージ払拭と原発設置に加速
戦後の日本人には、原爆の恐ろしさの体験から、「原子」の言葉に拒否反応する「原子(または核)アレルギー」なる症候が蔓延していた。そこでアイゼンハワー米大統領は、1953年12月8日(太平洋戦争開戦記念日)に国連で、演説「平和のための原子」を行って、「原子力=悪」のイメージ改善に努めた。
ところがその直後、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に日本漁船が遭遇し、死の灰をかぶり、船員一人が死亡、日本人の「反原子」感情はかき立てられた。このためアメリカ政府は、「原子力の安全神話」を吹聴した。しかも1973年に始まる「オイルショック」(中東産油国での原油産出制限と石油価格急騰)で危機に瀕した日本では、原子力発電設置が加速された。
<安原の短評>「経済成長」が錦の御旗
原子力は危険だからこそ、その安全神話をことさら吹聴する必要があった。しかも1973年に始まる「オイルショック」が原発推進派にはまたとない追い風となった。「経済成長」が錦の御旗として高く掲げられた。つまりは経済成長のための原発であり、だからこそ原発批判の声はかき消されるように小さくなっていった。
(4)原発はどうしても必要と言えるのか
原発のべネフィット(利益)は、コストよりも大きいだろうか。ベネフィットの価値を決めるのは、代替エネルギーがないこと、原発がなければ日本は生きられないこと ― なのかどうかにかかっている。2011年夏の電力需要ピーク時に、不足の事態が起きる可能性があると、電力会社は主張した。
しかし企業や消費者の努力もあって、全原発のうちわずかに25%ぐらいしか稼働していなかったにもかかわらず余力を残して乗り切った。2012年5月には稼働原発はついにゼロ基になったが、日本中で停電などは起きていない。これでも原発はどうしても必要といえるのか。
<安原の短評>稼働原発はゼロに
原発再稼働に執念を抱く原発推進派は、電力不足を声高に叫び、電気料金値上げまで持ち出している。自制心という正常な神経とは無縁らしい。しかし稼働原発は5月以来目下、ゼロになっているが、停電は起きていない。国民の間にも節電の心構えは広がっている。節電に困るのは国民ではなく、むしろ電力会社ではないのか。
(5)原発廃棄で大多数の国民の生活は
原発廃棄は、電力会社と、その権益に与(あずか)る政治家や「原子力村」に群がる官僚や学者たち、交付金に潤う地元の自治体、それによって雇用を得ている人々にとってのみ不利なだけであろう。
大多数の国民には大した不利益をもたらさないどころか、より安心な生活ができるようになろう。したがって地元の経済・雇用の機会の増大などの施策を充分に施すこと、例えば自然エネルギー開発へカネを注ぐことによって経済活性化、雇用増大を実現することによって、原発廃棄の不利を克服すべきである。
<安原の短評>より安心な生活へ
「原発廃棄は、大多数の国民にはより安心な生活ができるようになる」という指摘は重要である。もちろん原発廃棄のままでよいわけではない。新エネルギー源として再生可能な自然エネルギー(太陽光・熱、風力、地熱、小型水力など)の開発活性化が不可欠である。そのためにこそ知恵と技術力と資金を有効活用したい。
(6)原爆と原発は地球上の生命と相容れない
原発を維持する隠れた理由の一つに、それがいざという場合に核兵器製造に転用できる可能性があることだ。原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない上に、人類全体にとって経済的にも、環境の面からも望ましくないし、必要もない。
なるべく早く原爆も原発も地球上から抹殺すべきである。特に日本の場合には、地震その他の天災、施設の老朽化などの理由により、現存原子炉はすべて安全な状態に速やかにもっていく必要がある。
<安原の短評>原爆も原発も全廃へ
「原発は核兵器製造に転用できる可能性がある」という示唆に着目したい。この点は専門家には知られていることだが、日本では「原爆は悪」、しかし「原発は善」という誤解が広がっていた。この誤解を吹き飛ばしたのが「3.11」の原発大惨事である。「原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない。だから共に全廃へ」という認識を広く共有したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
| ホーム |