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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
除夜の鐘に思う ― 非暴力・平和
〈折々のつぶやき〉46

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は46回目。題して「除夜の鐘に思う ― 非暴力・平和」です。(2008年12月27日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 知人の清水秀男さんから以下のような08/12月のメッセージ「除夜の鐘に思う」が届いた。「 煩悩、特に怨念について思いを巡らしてみました」とある。清水さんからは毎月メッセージをいただいているが、「除夜の鐘に思う」は年末年始にふさわしい内容なので、その大要を紹介し、末尾に私(安原)の感想を述べる。

▽煩悩の三毒 ― 貪、瞋、痴

 12月31日大晦日の夜は、寺院では108煩悩を取り去り、新しい清浄な気持ちで、新春を迎えるべく、その数だけ「除夜の鐘」が打ち鳴らされる。「除夜」は、「旧年を除く夜」という意味だが、私(清水)は煩悩の闇を取り除く夜という意味に解釈している。
煩悩とは身心を乱し、苦しめ悩まし、智慧を妨げる心の働きである。

 108煩悩の内容については諸説あるが、108なる数字はインドでは数が非常に多いことを意味するので、人間はいかに多くの煩悩を抱えているかを示している。その中でも三毒と言われる代表的根源的煩悩として、強い執着・激しい欲望(貪:とん)、怒り・怨(うら)み・憎しみ(瞋:じん)、道理に暗い愚かさ(痴:ち)があげられる。

▽怨みをすててこそ怨みはやむ

 釈迦の肉声に最も近い経典の一つといわれる『法句経』の中で、釈迦はつぎのように言っている。
 「実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」

 この釈迦の教えを象徴する出来事が日本にある。それは、浄土宗の開祖 法然の父の遺言である。その遺言は、仇討ちが武士の身だしなみとされていた時代において、まさにこの釈迦の教えを体現した感銘深い内容であり、この父にして法然ありきという感がする。
美作国(岡山県)の豪族であった法然の父は、敵対する武士の夜襲に遭い、瀕死の重傷を負い、臨終に近いことを悟り、9歳であった法然を枕元に呼び、つぎの様に最期の諭(さと)しをした。
 「親の仇は討つではないぞ。親の仇を討つために敵に遺恨を晴らすことになれば、汝も遺恨を受けることになり、この世に遺恨が尽きることはない。汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱する道を求め、多くの人を救って欲しい」

 この遺言が法然の一生を決定づけ、遺恨を晴らすことなく仏門に入り、すべての人が念仏により救われる道を説き、貴族を中心とした仏教を民衆のものにしていった。

▽怨みの連鎖 ― テロ、殺人、戦争

 怨みは大なり小なり人間である限り抱く煩悩である。仏教学者の故高神覚昇師は、怨みとはちょうど人間の心臓につき刺さった棘(とげ)のようなものであり、ゴミが眼に入ると思わず眼をこするが、こすればこする程、眼の中に深く入っていくように、棘(怨み)も取り除こうと悶え、あせれば余計心の底に深く入って残っていく、と表現されている。
 怨みを、人生上の問題として一生抱えながら苦悩する人や怨みにより自分自身を傷つけ、健康を損なう人もいれば、ひいては怨みの連鎖により、政治・宗教・社会問題に広がり、殺人や幾多の戦争にまで結びついていることは歴史が証明している。
 今年多く起こった無差別殺傷事件、いじめ、父母殺人、テロ、民族間・宗教間の闘争も何らかの怨念がベースにある場合が多い。

▽怨みのしがらみから抜け出すには

 ではこの蔦(つた)のように複雑にからまった怨みのしがらみから、いかにしたら抜け出せるのであろうか。
 釈迦は『法句経』で一つの解決策を示している。
 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである、と覚悟をしよう。― このことわりを他の人々は知っていない。しかしこのことわりを知る人々があれば、争いはしずまる」

 釈迦の言葉を私(清水)なりに味わってみることにする。
 "人間は必ず死を迎えることは永遠の真理であることをまず認識しよう。自分が怨みを抱いている憎い人間もいつかは死ぬ、その自分もいつ死ぬか分からぬ運命にある。過去の怨みをいつまでも抱いたり、報復する時間があるくらいなら、今与えられた時間を精一杯、悔いのない生き方をし、安らかに死を迎えたいものである。安らかな死を迎えるためにも、相手により過去深く傷つき、怨みの檻の中に閉じ込めていた重く頑(かたくな)な自分の心を開け放ち、自由になろうではないか。それと同時に、自分も知らず知らずのうちに人を傷つけ、怨みを抱かせた多くの人がいるに違いない。怨みを捨てるには、傷つけられた相手をゆるすと共に、傷つけた相手にもゆるしを乞わねばならない。相手をゆるした時、はじめて自分もゆるされる。そして各人が自分も含めてすべての人を、思いやりをもってゆるせるようになった時、争いは終息し平和が訪れる。"

 「死生学」の権威、上智大学名誉教授のデーケン神父は、人間の生涯最後の仕事は、憎んでいた人をゆるしていくことだと言われる。怨みなど微塵(みじん)もなく捨て去り、すべてをゆるし続けていくこと。そして、むしろ怨みを自分にとっての肥やしとして生かし、感謝しながら、只今の瞬間を悔いなく100%生き切ること。

▽自らを制すれば、人は怨みを抱かない

 水に流すという言葉がある。水に流すとは本来「禊」(みそぎ)を表し、水で穢れや罪を洗い清めることを意味し、ゆるすというニュアンスに近いものがある。
 除夜の鐘の音を聞きながら、この一年の行いの至らなさ、愚かさ、自分の持つ煩悩のしぶとさに気づき、省みるとともに、他をもゆるす寛大な心を忘れず、水に流すものは流し、リセットし、闇を光に転じ、心新たに新年を迎えたいものである。

 最後に釈迦の言葉を味わいながら、今年の締めくくりとしたい。
 「わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い。善い人は悪を捨てる。情欲と怒りと迷妄を捨てるが故に、煩悩の覆いをのがれる」
(注) 上記文中の法句経を含め釈迦の言葉は(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)から。

▽〈安原の感想〉― 「非暴力・平和」を求めて

 いくつか紹介されている釈迦の言葉で、特に注目したいのは「わかち与える人には功徳が増大する。みずからを制するならば、ひとが怨みをいだくことは無い」である。
 私流に翻訳すれば、以下のようになる。
人に怨みを抱かせないためには、怨みを抱かせるような行為を止めることである。そのためには自らを制御しなければならない。できることなら分かち与えることである―と。

 この釈迦の教えをどう実践するか。21世紀最大のテーマであるテロを具体例として考えてみたい。例の「9.11テロ」(2001年9月11日米国を襲った同時多発テロ)への報復として、つまりその怨みを晴らすためにブッシュ米大統領はまずアフガニスタン攻撃を開始し、さらに03年3月イラク攻撃に走る。その名目は「対テロ戦争」である。しかしここで見逃してはならないのは、つぎの事実である。

*もう一つの「9.11テロ」
 1973年9月11日南米チリのアジェンデ政権(民主的に選ばれた社会主義的政権)が軍部の蜂起によって倒され、大統領は官邸で射殺され、大統領支持派の多数の市民が捕らえられ、銃殺されるなどの犠牲者が出た。背後で暗躍したのが米CIA(中央情報局)とされている。もう一つの「9.11テロ」として知られる歴史的事実である。
*米軍事力による犠牲者は数知れない
 第二次大戦以降、米軍の軍事力行使あるいは米国製兵器(米国は世界最大の兵器輸出国)の使用による犠牲者数は数千万人にのぼるともいわれ、数知れない。うち米軍のベトナム侵略(1975年米軍敗退で終結)でベトナムの300万人が犠牲となった。
*ブッシュ大統領の情報誤認による先制攻撃
 ブッシュ大統領は08年12月、米テレビニュースのインタビューで「(在任中の)最大の痛恨事はイラク情報の誤りだった」と語った。イラクでの大量破壊兵器は存在しないにもかかわらず、存在するという誤った情報のもとに先制攻撃に踏み切ったことを指している。そう思うなら、誤認が明らかになった時点でなぜ米軍を撤退させないのか。真相は中東の石油確保、戦争で稼ぐ米国「軍産複合体」の利益 ― などが念頭にあったからではないだろうか。

 以上の事実が物語るものは、巨大な軍事力を振りかざす米国家権力こそが地球規模で破壊と殺戮をもたらしており、世界最大のテロリスト集団ではないかということである。「9.11テロ」(2001年)よりも10年以上も前から海外各地の米国大使館が襲われるなど米国向けのテロは多発していた。それは米国主導の地球規模でのテロ、暴力への怨みであり、報復であろう。
 以上ような怨み、報復の連鎖を断ち切るには何よりもまず米国が覇権主義に基づく外交・軍事政策を止めて、転換させることである。いいかえれば非暴力の世界をどう構築し、共有していくか、非暴力という功徳をどう施すか、である。その視点と行動を欠いては暴力の連鎖に終止符を打つ手だては期待できないだろう。
(注)仏教語の功徳とは、現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行

 年の瀬を迎え、除夜の鐘に耳を傾けながら、私(安原)なりに非暴力・平和のありようを思案してみたい。せめて日本列島から暴力を追放し、非暴力・平和が広がることを祈念したい。そのことが世界の非暴力・平和にも貢献することを信じたい。


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アイデンティティーってなに? 
〈折々のつぶやき〉45

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は45回目。題して「アイデンティティーってなに?」です。(08年12月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「みんな違っていて当然」 

 一つの含蓄に富んだ文章(要旨)を以下に紹介する。その見出しは「みんな違っていて当然」。

 アイデンティティー(ID・直訳すると「存在証明」)。その人がどんな人間なのか、自分が何者なのかを意味するこの言葉。私たち(日本人)にとって日常的ではない。しかしアメリカにいると毎日のようにIDという単語を耳にする。
 その理由をはっきり感じるのが地下鉄に乗ったときである。向かいの列に座っている人全員の肌の色が違う。着ているものの傾向も全く違う。どこの国の出身だろう? IDカードを見なくてはわからない。

 自分はどんな傾向があってどう生きるか。そのようなことを考える下地は、環境によってはぐくまれるのかもしれない。常にIDカードを持たないとものごとが進まない環境にいると、自分を客観的に観察し、自分と対話するチャンスも増える。

 地下鉄に乗っても店で買い物をしても、みな肌の色、体形がまちまちだから、自分と他者がはっきり違い、人それぞれであるということがいやでも認識される。
 きちんと話さないとコミュニケーションがとれないな、という覚悟もできるし、人は自分と同じようには考えなくて当たり前ということも自然に体でわかってくる。

 日本でストレスの原因として多いのは「相手が思い通りになってくれない」というものだ。自分の脚本を相手に押しつけてしまう。相手は自分と同じように考えるものと思っていると、ストレスが生まれる。相手は自分と違って当然という認識は、こうしたストレスを軽くするかも。
 (毎日新聞08年12月14日付「日曜くらぶ」― 心療内科医・海原純子さんの「心のサプリ/一日一粒」から)

▽日本人のアイデンティティー(1)― まだ馴染みが薄い

 私(安原)はこの「心のサプリ」の愛読者の一人である。「なるほど」と思わずうなずき、膝を叩くことが多い。とくに今回の記事は我々日本人にとって考えさせられるテーマである。たしかに「アイデンティティー」(英語はIdentity)は日常用語としてはまだ馴染みが薄い。
 筆者の海原さんも体験談を告白している。「以前雑誌に原稿を書いていてアイデンティティーという言葉を使ったら、知らない人もいるので別の言葉にしてくださいと言われた」と。

 なぜアイデンティティーが日常用語になっていないのか。日本語の一つの辞書を引くと、つぎの2つの意味が載っている。
①自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。
②本人にまちがいないこと。また身分証明。

 ②の身分証明は、海外旅行の際に不可欠のパスポート(旅券)がその具体例である。パスポートがなければ、自分が日本人の何者であるかを証明することができない。もし海外で紛失すれば、パスポートを再発行して貰う以外に帰国できる手段はない。海外旅行者が増えている今日、このアイデンティティーは分かりやすい。
 問題は①の主体性、あるいは自己同一性といわれるアイデンティティーである。 最近、研究会での議論などでは結構使われるようになってきたが、それでもまだ一般化してはいない。海原さんの表現を借りれば、「自分を客観的に観察し、自分と対話する」という習慣が身についていないからだろう。

 日本社会では例えば「他社並み」「横並び」「お隣さんと同じで」という感覚が通用してきた。いいかえれば主体性、個性は無用だった。個性的な主体性を発揮すれば、かえって波風が立ちすぎる。
しかし今日の国際化時代にはこの感覚を欧米人に理解して貰うのはむずかしい。なぜなら彼らは「みんな違って当然」という感覚だからである。日本人としてのアイデンティティー(自己同一性)は「没個性で皆同じ」と言ったら「恐ろしい集団」と誤解されかねない。
 にもかかわらず相も変わらず、海原さんが指摘しているように「相手も自分と同じように考えるものと思っている」のが日本人の多数派である。議論していて、相手の主張に同意しないと、不機嫌になる人がまだ多い。「自分を客観的に観察する」ことが不得手で、「みんな違っていて当然」という発想に頭を切り替えることが難しいのだろう。自慢できる話ではない。

▽日本人のアイデンティティー(2)― 日本の宝・憲法9条

 以上は日本人一人ひとりにとってのアイデンティティー論といえる。俗に言う「人それぞれ、人生いろいろだよ」説に通じるところがある。ただここでアイデンティティー論が終わったのではいささか物足りない。「日本人」あるいは「日本」のアイデンティティーは何か、いいかえれば日本にあって、外国にないもので、日本が海外に誇りにすることができるものは何か、それを日本(人)の新しいアイデンティティーと呼ぶこともできるのではないか。

私は、そういうアイデンティティーとして憲法9条を挙げたい。9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)の理念は世界に誇るべき日本の宝といっていい。日本の宝として今後大いに育てていくべき責務がある。ところが残念なことに日米安保条約に基づく日米安保体制のために9条の理念は骨抜きになっており、日本は世界でも有数の軍事強国の地位にのし上がっている。現実は9条の「軍備の否認」、つまり「非武装」という理念から遠くかけ離れている。
世界には非武装国は27カ国(いずれも小国)もある(前田 朗著『軍隊のない国家』日本評論社刊)。これに対し日本は米国に次ぐ世界第2位の経済大国(もっとも最近はかなり脆弱な経済大国に転落しているが)であり、しかもかつての侵略戦争の反省に立って憲法理念として非武装をうたっているところがユニークなのである。

 つぎのような見方も一部にある。憲法9条は敗戦直後に米占領軍によって押しつけられたものであり、軍隊を正式に保有できるように9条を改定すべきだという意見がそれである。この認識は歴史的事実に反する。多くの国民意志を反映する形で9条は憲法に盛り込まれた。
 ただここでは頭の体操として100歩譲って、国民の意志とは無関係に占領軍によって9条が出来上がったと仮定しよう。仮にそうだとしても非武装の理念を放棄する理由にはならない。なぜなのか。

 考えてもみよう。地球人口66億人のうち自分の意志でこの世に生を享(う)けた者が一人として存在するだろうか。すべての人が自己の意志とは無関係に、父母のある行為の結果として命をいただいたのである。だからといって、それを理由に命を粗末にしなければならいと考える者はいない。命は大切にしたいと考えている。
 それと同じように憲法9条は「日本の宝」― いまでは世界の心ある人々から高く評価されており、「世界の宝」に格上げされてきた ― ともいえる貴重な存在なのだから、大切に育てようではないか。その努力を怠っては、子々孫々に申し訳が立たない。

考えてみれば、日本人には仏教と農耕民族としての歴史的伝統があり、外国の狩猟民族と違って争いを好まないところがある。最近は日本列島上に暴力沙汰があふれているが、これは本来の姿ではないと信じたい。憲法9条の理念を大切に生かしていきたいと考える人々が増えて、「九条の会」が全国に現在7000以上も誕生しているのは、争いを好まないことの証左であろう。


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定額給付金だけがバラマキなのか
財政、税制を根本から組み替えよ

安原和雄
麻生太郎首相が打ち出したあの定額給付金がかなり不評である。私(安原)は率直に言って不思議な思いに駆られている。わが国の財政資金はバラマキといえば、ほとんどがバラマキである。定額給付金だけがバラマキなのではない。給付金を貰ったからといって、麻生首相個人のポケットマネーをいただくのではないのだから、現政権の面々に一票を投じなければ罰が当たるという性質のものではない。減税の一種だと思って受け取ればいいのではないか。拒否したい人は返上すればよいだろう。
 肝腎なことは、無駄、浪費の多い現在の財政・税制を国民のために使うように根本から組み替えることである。この一点を抜きにしたバラマキ返上論は視点が小さすぎるのではないか。(08年12月17日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 ある日突然、多くの日本人がお人好しになったのか、という印象さえある。いわゆる負け組の人々もお金が余っているのか。高齢者の年金支給額がある日突然増えたとでもいうのだろうか。そういう事実は寡聞にして知らない。大事なところで錯覚があるのではないか。
 総額2兆円の定額給付金はバラマキであり、有効な政策ではないから容認できないというバラマキ返上論はいくつかのタイプに分けられる。最近の新聞への投書やインターネットのメールで流されてきた提案などから以下にまとめた。それぞれに私(安原)のコメントをつける。

(1)景気対策優先説
 国庫に2兆円もの余裕があるなら、景気対策に真剣に取り組んで貰いたい。そもそも首相は1人当たり1万2000円から2万円の給付金で景気が上向くとでも思っているのか。景気対策を給付金に頼るなら、10倍くらいの金額が必要である。

〈安原のコメント〉― ささやかなゆとりと幸せを求めて
「総額2兆円規模のカネで景気が上向くとはいえない」は、その通りである。それは減税として還元しても同じである。給付金をどう使うかは国民、生活者、消費者の自由であり、景気回復を目標に掲げて我々は日常生活を送っているのではない。多くの庶民はささやかなゆとりと幸せを求めて生活を営んでいるにすぎない。
 しかし現実には日々の生活にゆとりのない人々があふれているのが現状であり、そういう人たちにとって少しでも生活費の足しになれば、それでいいのではないか。それ以上のことを大げさに期待するその心境は分かるが、肯定はできない。

(2)選挙向けの買収行為説
 「定額給付金は選挙に向けての買収行為だ」という不評が聞こえてくる。選挙が近づくと、今回のような給付金とか、減税とか、高速道路料金の割引とか、人気取りとしか思えない予算措置がどんどん出てくる。こんなことを繰り返していたら、国民は政府を信用しなくなる。

〈コメント〉― 麻生首相への義理立ては無用
 麻生太郎現政権側は内心では「選挙向けの買収行為」のつもりかもしれないが、それにやすやすと応じる程度のレベルの日本国民なのだろうか。私は「否」と言いたい。麻生首相や閣僚の面々のポケットマネーを恵んで貰うわけではない。だから近い将来の総選挙では現政権を担う面々に1票を投じる義理はないのである。勘違いしないようにしたい。
 交付金は、国民が納めた税金のほんの一部の「スズメの涙」が戻ってくるにすぎない。「何の遠慮がいるものか」であろう。税金を納めていない恵まれない人にも交付金は届くだろう。それが恵まれない人々を対象にする公正な社会保障制度のあり方だと理解すればいいのではないか。

(3)消費税引き上げ誘導説
 定額給付金を一時的に支給されても、その引き換えに消費税率を引き上げるというのでは結局、低所得者、年金所得者、中小企業経営者らをますます苦しめることになる。そんなお金があるのなら、ぜひ消費税率の引き上げを止めて欲しい。

〈コメント〉― 消費税上げを撤回させるには
こういう疑問、心配は少なくないと想像できる。だから消費税率引き上げに「待った」を掛けるのは正しい。賛成である。ただ1回限りの2兆円交付金を止めたからといって、それだけで消費税率引き上げの撤回を期待するのは甘すぎる。
 麻生首相は先日「生活防衛のための緊急対策」を発表した記者会見で「3年後の消費税引き上げの姿勢は変わらない」旨を明らかにした。さらに政府の経済財政諮問会議(議長・麻生首相)は12月16日、税制改革「中期プログラム」の政府原案をまとめ、「3年後消費税上げ」を明記した。消費税引き上げを阻み、ひいては将来引き下げるには財政・税制の根本的な組み替えが不可欠である。

(4)2兆円の有効活用説
 2兆円の使い道としては、医師不足の解消、産科・小児科医療の充実、派遣社員や臨時採用教師の待遇改善など雇用対策の充実―などの分野に回して有効活用してはどうか。本当に「国民の生活不安」に応える政策を検討してもらいたい。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条・生存権)が保障されるよう真剣に考えてもらいたい。

〈コメント〉― 生存権保障のためには発想の大転換を
 憲法25条は、国民の生存権と同時に、その生存権を保障する義務が国にあることを定めている。ところが国はその義務の怠り、生存権の保障とはほど遠い寒々とした現実が日本列島上に広がっている。だから2兆円の有効活用説は一見もっともにみえる。「一見」というのは、なぜ交付金2兆円にこだわるのかという疑問が直ちに浮かび上がってくるからである。この交付金は一回限りの財政資金にすぎない。2兆円程度の資金で国民の生存権が保障できると考えるのはお人好しだろう。しかも地球環境保全(温暖化防止など)という21世紀最大の課題も生存権保障につながるテーマである。
 ここは2兆円執着説から発想を大転換させようではないか。オバマ次期米大統領も「Change(変革)!」と言っているではないか。大いに学びたい。具体的には国の一般会計予算(来年09年度は総額88兆円台で、過去最大、しかも総額のうち政策経費を示す一般歳出も52兆円前後と初めて50兆円の大台を突破すると伝えられる)の根本的な組み替えである。

 財政・税制組み替えのいくつかの事例を挙げると―。
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な支出削減
*大企業や資産家への優遇税制の廃止・見直し、環境税の導入、消費税は据え置く(将来は引き下げも)
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止するなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実
*教育、雇用、中小企業などの分野の充実
*食料自給率向上のための農業分野の充実
*自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)の開発投資の促進

(5)定額給付金をNPOへの寄付に
「政策目的が不明確で、効果も疑わしく、財政にも負担をかけるような定額給付金は白紙に戻すべきだ」といった厳しい批判の声も聞かれる。しかし、白紙に戻され、給付金が提供されず、国庫に戻ったとしても、私たちの暮らしが改善されるのだろうか。必要とされる公共的なサービスを政府がすべて提供できないことが明らかになるとともに、市民による公益的な活動、すなわちNPO活動が広がってきている。とはいえ、NPOへの期待が高まっているものの、活動資金は絶対的に不足している。
 給付金の問題点のひとつに、高額所得者には自発的な受け取り辞退を促す方式をとっている。給付金を辞退し、国庫に戻す案とともに、NPOに寄付を行い、市民自らが様々な問題解決にあたる財政的な基盤を提供していくというプランも検討されるべきではないか。

〈コメント〉― 志が小さすぎないか
 「NPOへの寄付に」は変わり種の提案である。なるほど、こういう提案もあるのか、という印象である。NPO(非営利団体)活動の重要性はよく分かる。活動資金が不足しているという現実もその通りだろう。だからといって交付金の2兆円に目をつけるのはいかがなものか。
 この際、2兆円の分捕り合戦に一枚加わらねば、という思いで馳せ参じているという印象さえある。いささか志が小さすぎるのではないか。


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山岡鉄舟の修身二十則に学ぶ
〈折々のつぶやき〉44

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は44回目。題して「山岡鉄舟の修身二十則に学ぶ」です。(08年12月12日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽まずは、嘘を言うべからず

 幕末の傑物、山岡鉄舟(1836~88年)の没後120周年記念特別展が臨済宗の禅寺・全生庵(ぜんしょうあん=所在地は東京・台東区谷中)で開催され、それを拝観した折りにいただいたのが、鉄舟の「修身二十則」である。その全容はつぎの通り。まず最初に「嘘を言うべからず」を掲げている。

一、嘘を言うべからず
一、君の御恩忘れるべからず
一、父母の御恩忘れるべからず
一、師の御恩忘れるべからず
一、人の御恩忘れるべからず
一、神仏ならびに長者を粗末にすべからず
一、幼者を侮るべからず
一、己に心よからず事 他人に求めるべからず
一、腹をたつるは道にあらず
一、何事も不幸を喜ぶべからず
一、力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし
一、他を顧して自分の善ばかりするべからず
一、食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず
一、殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし
一、礼儀をみだるべからず
一、何時何人に接するも客人に接するよう心得べし
一、己の知らざることは何人にてもならうべし
一、名利のため学問技芸すべからず
一、人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず
一、己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし

 以上、ざっと一読して、「幕末か、古いなあー」という印象を得た人は、その人自身、道を踏み外した人生を送る可能性があることを反省した方がよいだろう。表現はたしかに古いが、そこに盛り込まれている心は、今こそ玩味し、実践するに値すると考えたい。

▽21世紀版「修身」を考える(その1)― 恩とお陰様で

 昨今の日本社会は倫理、道徳、モラル ― と表現は多様だが、要するに人間としての道に反する言動があまりに多すぎる。もちろん身分社会での上下間の秩序を律するモラルではない。この21世紀における平等対等の人間社会における倫理にほかならない。それをあえて「修身」といってもいいだろう。

 「嘘を言うべからず」を冒頭に挙げているところなどは、120年以上も昔の鉄舟が、今日の日本列島上のごまかし、偽装、不祥事の多発、日常化を心眼で見抜いていたのではないかと思わせるではないか。平気で「嘘をつく」習慣が広がっていることを改めて痛感する。
 その筆頭が残念ながら我等が宰相、麻生太郎首相である。去る10月30日発表した「追加経済対策」の一つ、例の「定額給付金」(すでに旧聞に属するようなお話しになっている)には所得制限を付けず、全世帯が対象、と言明した。ところがその後「豊かなところに出す必要はない」などと、前言をひるがえした。もみにもんだ末、高額所得者は「辞退も」というややこしいことになった。
 結果的に首相は嘘をついたことになる。なぜ嘘をつくのか。この人、倫理観とは無縁の思考様式らしい。山岡鉄舟が現存していれば、免許皆伝の無刀流の刃が頭上にキラリと光り、躍るのではないか。チョンマゲがついていれば、バサリと切り落とされるだろう。

 つぎに多様な「御恩」が列挙されている。今日風にいえば、「お陰様で」という感謝の心と理解できる。弱肉強食の熾(し)烈な競争の中ではカネを稼いで自力で生きるほかないと考えている人が少なくない。
 しかし「自力で生きる」というのは、勝手な思い込みにすぎない。この現世では誰一人として、自力で生きている人はいない。他人様のお陰で、人、動植物、自然環境など多様な存在との相互依存関係の下でのみ、生きている。
 考えてもみよう。例えば食物をお金で買い求める場合、それを生産してくれる人がいることが前提である。お金を食べるわけにはいかない。そういう相互依存関係の事実を認識し、感謝することが「恩」であり、「お陰様」である。

▽21世紀版「修身」を考える(その2)― 「幼者を侮るな」

 いささかの意外感に駆られるのは、「幼者を侮るべからず」をわざわざ挙げていることである。「父母への恩」なら、常識的だが、「幼者を侮るな」は修身のあり方としては珍しいような気がする。幼者は未来の親であり、父母である。国の礎として宝物であることは間違いない。未来へ向かって進む子どもの生命力や成長力を評価する感覚とすれば、これはまさに現代的感覚とはいえないか。
 昨今親殺しが多発しているが、一方、子どもを犠牲にする事件も後を絶たない。医療事故も含めての惨事である。鉄舟はそういう21世紀初頭の惨状を予見していたわけではないだろうが、現代への切ない警告にも響く。

 「食する度に農業の艱難をおもうべし」は、農業国であった当時では、当たり前の感覚ともいえるが、ここには命の源である農業への感謝の心をうかがわせる。しかも農民たちの日常の苦労への共感がこめられている。食べ残しや汚染食物が広がる今日の飽食・日本にこそ、本来のあるべき農業への感謝や共感が必要なときではないか。

 もう一つ、今日、十二分に味わってみるべきは「人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず」である。こういう考え方に接すると、鉄舟は心底、人間は平等対等であり、それぞれの価値に上下はないという思想を身につけていたのではないか、と思える。
 鉄舟が建立した禅寺、全生庵の「全生」は、人間としての生命を全うする、という意味である。この全生にこめられている含蓄と人間の平等対等の思想とは結びついている。現代の我々日本人の多くは、残念ながら120年前の鉄舟よりも相当に退歩し、しかも本道から逸(そ)れているとはいえないか。


(参考:「安原和雄の仏教経済塾」に11月3日付で「山岡鉄舟と新リーダーの質」を掲載しています)

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生活のため刑務所入りを望む時代
〈折々のつぶやき〉43

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は43回目。題して「生活のため刑務所入りを望む時代」です。(08年12月6日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「家」なし 余生は刑務所で

日本の世相もついにここまで切羽詰まった状況に変化したか、という思いで読み、考えさせられる記事(朝日新聞08年12月4日付夕刊=東京版)を紹介したい。見出しは、つぎのようである。
 「家」なし 余生は刑務所で
 万引き失敗 何かせにゃー
79歳に懲役4年 渋谷通行人刺傷

 記事の要旨は以下の通り。

 東京都渋谷区の百貨店前で通行人を果物ナイフで刺すなどして、傷害罪に問われた無職北川初子被告(79)に対し、東京地裁は4日、懲役4年(求刑懲役6年)の判決を言い渡した。
 裁判官は「寝泊まりする場所のあてがなくなり、警察に世話になるためには大きな事件を起こすしかないなどという動機は身勝手この上ない。同情できない」と批判した。
11月中旬の法廷で北川被告は腰を曲げて被告席に座りぽつぽつと話し続けた。「とにかく寝るところも金もない。それで警察のお世話になろうと」

 被告の法廷での説明などによると―。
 出身は大阪。戦争で女学校を卒業できなかった。結婚生活は2年で破綻し、以降は家政婦をしながら関西や九州を転々とした。「家」を持たないため、01年ごろ知人宅に身を寄せた。しかし08年7月そこも飛び出し、あてもなく上京した。
 そのころから刑務所で余生を過ごすことを思いつく。警察の「世話」になろうと、7月にスーパーで万引きした。気づいてもらえず淺草署に自首。署や区役所から福祉施設を紹介された。
 だが騒音をめぐって他の入居者ともめ、施設を抜け出した。さまよったあげく、「小さなことでは警察に泊めてもらえない。なんかせにゃー、あかんと思った」。
 法廷での被告は、罪の重さを気にかける様子もなく、「長生きしすぎちゃったと思ってますねん。なかなか死ねません。どうしたらいいやろ?」と語った。

 08年版犯罪白書は、刑法犯全体に占める高齢者(65歳以上)の割合が、20年前に比べて10ポイント以上増えて13.3%に達したことを指摘した。単身で、住まいのない高齢者が再犯に及ぶケースが目立つ。

▽小泉純一郎元首相殿 貴殿の政治家としての責任感覚を問う

 以上の記事を読んで、「馬鹿な・・・」と笑うことができるのは、おそらく世にいう勝ち組の一人なのだろう。私(安原)はとても笑う気にはなれない。「なるほど」とうなづくほかなかった。しかも「ついに現れたか」という思いにも駆られた。実は数年前から「生活苦から逃れるために刑務所に入ってそれなりの衣食住を確保しようと考える者が続出するのではないか」と思案するようになり、折にふれ、 人にもその話をしてきた。

 そう考える背景には、いうまでもなくこれまた世にいうところの新自由主義の横行がある。小泉純一郎政権時代(2001~06年)に特に目立つようになった新自由主義路線は企業の利益第一、効率、スピードのみをめざす悪しき自由競争、弱肉強食のすすめによって一握りの勝ち組と大量の負け組とに日本社会を分断した。
 負け組は自殺に走り、あるいは失業者、非正規労働者として街にあふれ、雇用不安、低賃金で苦しんでいる。正規労働者といえども、恵まれているわけではなく、長時間労働、不健康、ノイローゼなどに苛(さいな)まれている。高齢者は生活の基盤そのものを確保できなくなり、長寿への希望を断たれる人も多い。
 一方、勝ち組は安泰かといえば、さにあらず、拝金主義、貪欲に目が眩(くら)んで刑務所に自らの意思に反して閉じこめられる事例が少なくない。

 昨今の世界金融危機とともに、新自由主義は破綻したが、その災厄、後遺症、傷跡は足早に消えていくわけではない。そういう状況下で生きるため、生活のために刑務所入りを自ら望む人が現れたのである。「生活のため刑務所入りを望む時代」の到来といっても決して誇張ではないように感じている。もちろん人を刺傷する行為が許されるわけではない。それを承知の上で、ここであの小泉純一郎元首相殿に問いたい。

 「貴殿は首相になって、自民党をぶっ壊す、と言って人気を得たが、実は日本をぶっ壊すことになったのだ。その惨状が日本列島上の庶民の日常生活に広がっている。生きるため、生活のために刑務所入りを志願せざるを得ないような時代の到来に政治家としての責任を感じることはないのか」と。

 その返答は大体のところ想像がつく。例のお得意の「人それぞれ、人生いろいろだよ」と笑い飛ばすのだろう。あるいは最近、文民統制違反で解任された前自衛隊空幕長のセリフ同様に「そんなの関係ねえ」と横を向くのかもしれない。しかし小泉元首相が日本国政治の最高責任者として新自由主義路線の陣頭指揮に当たった事実とその責任はいつまでも消えることはない。


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「平和=非暴力」の平和実現を
新自由主義後の新時代を求めて

安原和雄
麻生太郎政権の迷走が続いている。安倍元首相、福田前首相につづいて3人目の政権投げ出しとなるのではないかという事態も取り沙汰される始末である。そういう政治行き詰まりの背景は、大きな災厄をもたらし、世界金融危機とともに破綻した新自由主義のつぎの新時代をどうつくっていくか、その設計図立案能力を失っているからだろう。
 米国に劣らず、日本もまた新たな変革に直面している。その変革の核となるのは、新しい平和すなわち、従来の「平和=非戦」を超えて、「平和=非暴力」という21世紀型平和をどう実現していくかである。この一点を見据えないで、目下の行き詰まりを打開することはできない。来年09年に先送りとなった衆院総選挙で日本国民がどういう進路選択をするか、恐らく世界注視の的となるだろう。(08年12月2日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「コスタリカに学ぶ会」の定例学習会にて

 「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」=中山武敏・児玉勇二共同代表、杉浦ひとみ事務局長)は08年11月30日、東京・江東区東大島文化センターで第20回定例学習会を開いた。参加者は同会会員のほか、平和・市民運動などに取り組んでいる人たちを含めて約30人。テーマは「衆院選挙の動向と平和のあり方」で、私(安原=「学ぶ会」世話人の一人)が以下のような柱を中心に問題提起を行った。その趣旨を紹介したい。

1 衆院選挙の行方は?
2 平和とは? ― 平和観の再定義が必要
3 日本列島はすでに「戦場」となっている
4 「平和=非暴力」の日本を創っていくためにはどうするか?
5 総選挙での国民の選択―中米の小国コスタリカに学ぶこと

▽衆院選挙の行方は?

 総選挙は来年度予算を09年3月までに成立させて、その後にという見通しも話題になっている。麻生太郎首相の評判はがた落ちで、自民党内の支持も薄れつつあり、総選挙前に安倍、福田首相に続いて3人目の政権投げ出しに追い込まれる可能性もないわけではない。小沢一郎民主党代表流にいえば、「4人目の新しい首相にお祝いを言うことになるかもしれない」(11月28日の党首討論会で)という皮肉も聞こえてくる。

 いずれにしても自民・公明の保守政権は政権担当能力を失っている。幕末の政治状況は「幕府は薩長に倒される前に自壊していた」といわれるが、今日、それと同様の出口のない混迷状況に陥っている。
 なぜそういえるのか? 新自由主義路線が破綻したにもかかわらず、そのつぎの新しい時代を創っていく能力を失っているからである。新しい政治、政権に求められているのは「平和」を創っていく能力、その営みである。

▽平和とは? 平和観の再定義が必要

問い:日本は平和なのか?
 憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)のお陰で、日本は戦争をやっていないし、平和だと思っている人が少なくない。本当に平和といえるのか?

 ここで平和学の世界における第一人者、ノルウェーのヨハン・ガルトゥング教授著『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、1991年)に学びたい。そこから従来の平和観「平和=非戦」を超えて、今日的な新しい平和観「平和=非暴力」を引き出す必要があるだろう。いいかえれば平和とは、大量の人命殺傷、資源・エネルギーの浪費、自然環境破壊をもたらす「戦争」がない状態であることはもちろん重要だが、それだけでなく、「構造的暴力」=内外の政治、経済、社会構造に起因する多様な暴力=もない状態を指している。

構造的暴力の具体例はつぎの通り。
*人間性やいのちの否定、破壊が日常的に存続している状態、例えば自殺、凶悪犯罪、交通事故死、失業、貧困、病気、飢餓、人権侵害、不平等、差別、格差などが存在する限り、平和ではないということになる。
*貪欲な「経済成長追求」による地球上の資源・エネルギーの収奪・浪費、それにともなう地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)がつづく限り、平和な世界とはいえない。

▽日本列島はすでに「戦場」となっている

「平和=非暴力」という今日的な平和観に立って日本列島を見渡すと、すでに参戦しているほか、多様な「構造的暴力」が日常化している。つまりいのちを奪い合う事実上の戦場になっている。
 具体的には以下の諸点を指摘できる。

(1)日本は米軍主導の戦争にすでに参戦している
 日本は戦後、日米安保体制下で何度も米軍の侵略戦争に協力してきた。湾岸戦争、ベトナム戦争、現在のアフガニスタン・イラク戦争などがそうである。
 在日米軍基地は米軍の出撃基地として機能している。手厚い「思いやり予算」によって米軍基地の戦闘能力を手助けしているのが日本政府である。

 日本自身も事実上参戦している。
 特に昨今の米軍主導のアフガニスタン、イラク戦争では「対テロ戦争」「人道支援」という名の自衛隊の海外派兵、さらに新テロ特措法によってインド洋で米軍などに実施している石油補給も参戦である。石油補給という後方支援がなければ現代戦は遂行できないからである。

(2)これまでの新自由主義路線(小泉政権時代に顕著になった規制廃止・緩和、民営化、自由化と大企業の利益・効率優先さらに弱肉強食のすすめ)を背景に構造的暴力が日常化している
・多発する凶悪犯罪(秋葉原での17人の無差別殺傷事件など「誰でもよかった殺人」、元厚生省次官らの殺傷事件ほか)
・年間3万人を超える自殺
・年間6000人の交通事故死(多いときは年間1万7000人の死者を出した。累計の犠牲者数は50万人を超えているのではないか。まさに交通戦争死といえる)
・生活習慣病など病気の増加
・300万人前後の失業、雇用不安、非正規労働の増加、企業倒産の増加
・貧富の格差拡大、長時間労働、人権抑圧など

(3)日本の地球温暖化防止への努力不足からも分かるように資源・エネルギーの浪費、それによる地球環境の汚染・破壊に手を貸している。これも構造的暴力。

(4)行政(官)と民間企業(民)のごまかし、偽装、不祥事の続発が上記の暴力を増幅させている。

 これでも日本は平和といえるだろうか。軍事力を行使して戦死者を出す修羅場のみが戦場ではない。多様な暴力によっていのち、安心、平穏、平和が破壊されている日本列島上の地獄のような現実も、「戦場」と呼ぶ以外に何と呼べばいいのか。

▽「平和=非暴力」の日本を創っていくためにはどうするか?

「平和=非暴力」実現のための必要条件としてつぎの2点をあげたい。
(1)憲法の空洞化している平和理念を取り戻し、生かし、実現させていくこと
(2)世界金融危機とともに破綻した新自由主義路線の根本的転換をめざすとき
 世界金融危機は新自由主義の破綻を示している。平和を創っていくためには世界金融危機にみるような新自由主義の破綻を好機ととらえたい。

 中長期的展望も含めて具体策としてつぎの諸点が考えられる。
①憲法前文の「平和共存権」と9条の「戦力不保持」の理念を生かすこと
 前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。
 「前文の平和共存権」と「9条の戦力不保持」を生かすためには何が必要か。
世界レベルでみれば、核兵器廃絶と大幅な軍縮が不可欠であり、日本としては日米安保体制(=軍事・経済同盟)の解体を中長期的視野に入れる必要がある。日米安保体制は諸悪の根源といえる。なぜか?

 一つは「軍事同盟」としての安保体制をあげることができる。日米安保条約は第3条(自衛力の維持発展)、第5条(共同防衛)、第6条(基地の許与)を定めており、それを根拠に今では「世界の中の安保」をめざして、地球規模での戦争のための巨大な暴力装置として機能しているからである。しかも第3条(自衛力の維持発展)が憲法9条(戦力不保持)の理念を骨抜きにしている。
 もう一つは、「経済同盟」としての安保体制を指摘できる。第2条(経済的協力の促進)は「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」ことをうたっており、これを背景に安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要する暴力装置となっているからである。
 こういう日米安保条約は互恵平等を原則とする新たな「日米友好条約」へ切り替えるほかないだろう。

②憲法25条の「生存権、国の生存権保障義務」の実現を図ること
 周知のように25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっているが、新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減 、税金・保険料負担の増大 ― などによって生活の根幹が脅かされ、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
 この25条と9条は表裏一体の関係にある。軍事力の保有によって9条が空洞化、すなわち骨抜きになっているからこそ25条の生存権も骨抜きにされている。この現実を変革するためには軍事費を削減し、非武装・中立を展望すると同時に新自由主義路線の根本的転換が不可欠の課題である。

③憲法27条の「労働の権利・義務」の実現を図ること
 「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあるが、現実には失業者のほかに非正規労働者があふれている。新自由主義のため、適正な労働の機会を保障しないのは、「労働は権利、義務」という憲法規定からみて憲法違反とはいえないか。

 いずれにしても旧来の「平和=非戦」、「守る平和」観、つまり「現在日本は平和だ」という平和観にこだわる限り、現実を変革し、未来への展望を切り開くことは難しい。ここは21世紀型の「平和=非暴力」、「つくる平和」観に立脚点を置き換えて憲法の平和理念を生かす方向で、新自由主義を克服し、新しい平和を創っていくときである。

 安保解体後の新たな変革課題を列挙すると―。
*非武装中立・日本への道を目指すこと
*防衛省を平和省へ、自衛隊を非武装「地球救援隊」(仮称)へ全面的に改組すること
*日本版軍産複合体を解体し、平和産業・経済への転換を図ること

▽総選挙での国民の選択―中米の小国コスタリカに学ぶこと

 衆院選挙の動向が今後どういう曲折をたどるにせよ、遅くとも09年9月には現衆院議員の4年間の任期切れのため自動的に総選挙を迎える。何が争点になるのか。

選択肢としてつぎの3つが想定できる。
(1)新自由主義の一部手直しと消費税増税路線
 新自由主義は大筋で維持しながら、目先の景気対策によるてこ入れで一部手直しし、一時的に飾り立てる手法で、近未来に消費税増税が待ち受けている。一方、日米安保=日米同盟の堅持、国連軽視の路線を推進する。
(2)国民生活重視を前面に掲げる路線
 国民生活重視の政策を掲げる。一方、日米同盟も国連も重視していく。ただ新自由主義からどこまで離別していくのかが明確ではない。
(3)新自由主義からの根本的な転換と〈平和=非暴力〉をめざす路線
 国民生活立て直しのために財政、税制を大幅に組み替える。軍事費などを削減する一方、消費税は引き上げない。大企業・資産家への優遇制度(税制面など)を廃止するか、見直す。地球温暖化防止など地球環境問題打開に重点を置く。外交面では国連を重視し、日米同盟は中長期的視野で解体し、日米友好条約に切り替えていく。〈平和=非暴力〉の実現をめざす。

「コスタリカに学ぶ会」としてはコスタリカの先進的な政策にいかに学ぶかという視点を重視したい。
 コスタリカの国是として知られる3本柱はつぎの通りで、軍事費に財政資金を浪費しないため、その浮いた資金を環境保全、教育、医療など国民生活の充実に回すという財政資金の「平和=非暴力」的な良循環が定着している。
*非武装中立
*自然環境保全
*平和・人権教育の重視

特にコスタリカの非武装中立は日本国憲法9条の平和理念を実践しているに等しい。日本国平和憲法の施行は1947年で、常備軍の廃止を定めたコスタリカ憲法の施行は1949年だから、憲法で理念として非武装を明確に打ち出したのは、日本の方が元祖である。ところがその日本は日米安保体制下で世界の軍事強国の一つにのし上がっている。一方、コスタリカは軍隊を廃止したまま、今日もその原則を堅持し続けている。
 「平和=非暴力」という21世紀型の平和を創っていくうえではコスタリカは世界で一番進んでいる国であり、いまや日本がコスタリカに学ぶとき、というべきである。

 コスタリカに学ぶという視点に立てば、上記3つの選択肢のうち路線(3)を選択することを意味する。

 以上のような問題提起の後、約2時間にわたって活発な意見交換が行われた。提出された問題点は、日米安保条約第5条「共同防衛」の意味、北朝鮮の拉致問題と非暴力の関係、日本の軍需産業と自民党との癒着、教育の右傾化にどう取り組むか、諸悪の根源は小選挙区制ではないか、日米安保を日米友好条約に切り替えるための行動指針は? 「ことばの力」をどう磨いてゆくか、「平和=非暴力」をどう広めていくか、グローバリゼーション(世界化)に抗してローカリゼーション(地域重視)を進めるにはどうするか? ゼロ成長を目指すときではないか、インドのガンジーらの非暴力主義を今日どう評価するか、日本人の多くはなぜ怒らないのか ― など広範囲にわたっている。その一問一答の内容紹介は割愛する。


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