学園内ではケータイを捨てよう
安原和雄
私は今春(05年3月)まで経済学を講じていた足利工業大学(栃木県)で聴講生を対象にケータイ意識調査(04年7月)を実施した。ケータイは、あっという間に普及したが、マイナス面も目立ってきている。この調査はケータイ社会がかかえる問題点をそれなりに浮き彫りにしている。
以下は「学生たちへの呼びかけ文」と「学生の意識調査結果」で、インターネット新聞「日刊ベリタ」に「9割の学生が私はケータイの奴隷。でも手放せないが4割」という見出しで掲載(05年7月30日付)された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月29日記)
◇「学園内ではケータイを捨てよう」と学生たちに呼びかけた文章
ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!― 未来を創る若者たちへ
「娘さん、よく聞~けよ、山男にゃ惚(ほ)~れ~るなよ、・・・」という歌の文句にあやかって、こういう問いかけになった。
私は経済学の講義(前期)で「技術と自然・人・社会」と題して技術進歩のプラスとマイナスについて話すことにしている。その講義で携帯電話(以下、ケータイと略す)に言及し、「君たち若者も含めて多くの人はケータイの奴隷になってはいないか」と指摘し、感想を書いて貰った。その中に次の一文があった。「現代人はケータイの奴隷だという考えには共感できる。私自身もケータイに振り回されている」と。この学生の素直な感性は評価したい。
なぜあえて「奴隷」というのか。アルコール・たばこ依存症と同じようにケータイを手放せない一種の中毒症状にかかっていると思えるからだ。いいかえれば、ケータイを僕として使いこなすというよりも、むしろ無自覚のまま自らケータイの僕として振り回されているからだ。主人公は機器としての電話であり、携帯者は実は僕になり下がっている。
講義中に「今、電源を切っているか」と聞いたら、「切っている」と答えた者は皆無である。なぜか。「外から何か連絡が入ってくるかもしれない。それに音の出ないマナーモードにしているから」というのが答えである。そこで私は言った。「連絡が取れないために君たちの一生が狂うような一大事が毎日、時間刻みであるわけはないだろう」と。
▽ケータイ依存症のマイナス
ケータイ依存症のマイナスをいくつか挙げてみたい。
★日本語力が身につかないこと。
英語や漢字の辞書機能がついており、さらに小説も読めるケータイが増えているが、手軽すぎないか。小説にしても感動とは無縁の小さな画面世界でしかない。友達同士でメールをやりとりするだけでは文章力も上達しない。要するに読み書き、話すという日本語力の原点が確立しにくい。これでは面接など就職試験にパスし、一人前として実社会へ巣立ってゆくことは容易ではないだろう。
★命にかかわること。
ケータイで話しながら、自動車を運転することによる事故は年間3000件近くもある。一寸先には地獄が口を開けて待っているのだ。
★約束を事前に決めてそれを守る、という観念が希薄(きはく)になっていること。
友人同士ではケータイで話しながら時間や場所をその都度決めていくことが習い性となっているからだろう。
★努力し、自らを鍛えるという感覚が疎(おろそ)かになっていること。
勤勉(きんべん)、怠惰(たいだ)という漢字を読めない学生が少なくない。思うに勤勉、怠惰という感覚が欠如しているためではないか。「文明の進歩は便利さをもたらしたが、同時に努力することを忘れさせた」という最近の新聞投書(大学教授)には同感である。
▽学園内ではケータイを捨てよう!
たしかに便利な機器ではある。生活の必需品だと思い込んでいる者も少なくない。しかしここでよ~く聞いて欲しい。ケータイの虜(とりこ)から自らを解放する志(こころざし)はないか、という問いかけを。そして提案したい。せめて学園内ではケータイを捨ててみよ、と。
その手で代わりに新聞を掴み、書物を小脇に抱えてみよう。新聞で現実社会の動静(どうせい)を知り、書物を案内役に未知の世界の魅力を探し求める旅へと出発しよう。あるいは分厚い辞書のページを自分の手でめくってみる楽しさを味わってはどうか。友人同士で面と向かって対話を重ねる。
こうした日常的な努力によって日本語力を磨こうではないか。日本語力の基礎が身につかなければ、残念ながらコミュニケーション能力や学力の向上も期待できない。
もう一つ、ケータイから自由になることによって、いいかえればケータイに拉致(らち)された心を取り戻して、自己を見つめ直そう。自分の立ち居振る舞いを、もう一人の自分が一定の距離をおいて観察するのだ。
何のために? 自己観察によって自分の足りないところに気づくためとでも言ったらいいだろうか。こうして人間力を高めることに努めよう。
▽人間力とは、人生を生きる知恵
人間力とは人生を生きる知恵であり、次のようなものが含まれる。
☆動植物も含めて、地球上の生きとし生けるものの命を大切にすること。
☆約束の実行など社会のルールを守ること。
☆手抜き、怠け心を捨てて、汗をかき、自らを鍛えること。
☆自分の職業そして人生をどう選択するか、その選択眼を眠らせないこと。
こういう知恵が身についていれば、今日のような変化の激しい困難な状況下で人生をいきいきと生きることも、それほどむずかしいことではないだろう。
今すぐに投げ捨てなかったら、折角の大学生活を活かすことはできないかもしれない。ケータイを再び手にするのは、実社会へ乗り込んでからでも遅くはない。
そのとき君たちはケータイを自主的に使える主人公になっているはずである。もはや奴隷でも、僕(しもべ)でもない。その便利な僕を家庭、地域、組織、日本そして地球の再生と未来の設計のために駆使して貰いたい。
未来を創る機会に恵まれているのは、君たち若者だけである。だからこそ今、ケータイと戯(じゃ)れているヒマはないのだ。このことに気づいて欲しい。
◇ケータイに関する学生の意識調査結果
上記の「ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!」の文章を読んだうえで次の質問に答えて貰った。その調査結果は以下の通り。
調査に回答(記名入り)した学生数は208名(履修学生総数は372名)。
<問い1>「若者たちを含めて多くの人は、ケータイの奴隷、僕になっている」という考え方についてどう思うか。次のイ)、ロ)のどちらかに○印をつけ、その理由あるいは意見を書いて下さい。
イ)そう思う=180名(回答総数の87%) ロ)そうは思わない=28名 (13%)
★「そう思う」理由など:
・一度持ち始めると、本当に中毒症状といえる状態になって、もう手放せない。
・電車の中などでケータイをいじっている人が沢山いる。そういう人たちはケータイがないと、生きていけない「ケータイの僕」になっている。
・ケータイでゲームをしている者も多く、こちらはゲーム依存症と呼ぶべきだろう。
・電話以外の機能が大幅に増え、その目新しさに振り回されている。
・自分がケータイを家に置き忘れたとき、うろたえたのも、一種の奴隷化のように思えた。
・ケータイを持っていないと、不安でしようがない。
・くやしいけど、そう思う。ケータイが手許にないと心配になる。
・ケータイに振り回され、ケータイに自分の人生を使われているように思える。
・テレビで若者達に命の次に大切なものは?と聞くと、ほとんどがケータイと答えた。
☆「そうは思わない」理由など:
・ケータイは持っているが、約束の連絡などにしか使わないので奴隷にはなっていない。
・ケータイがなくても別に困らない。
・ケータイはあまり好きではないので、それほど使わない。
<問い2>ケータイ依存症のマイナスとして「日本語力が身につかないこと」などを挙げているが、これらマイナス点についてどう思うか。自由に意見を述べて下さい。
・小学生にもケータイを持たせる親が増えている。ちゃんと面と向かって話ができないと、佐世保市のような小学生殺害事件を起こしてしまう。
・分からない漢字があると、すぐにケータイに頼って怠け心がついたりする。
・自分の回りにも新聞を読まない人がいるし、日本語力は落ちている。
・ケータイ依存症の共通点は「まわりがみえていない」こと。そこに「迷惑に思う人がいる」ということすらみえていない。
・友人とメールをやりとりするとき、文法を無視する。だから日本語力が伸びなかった。(中国人の留学生)
・その通りだ。日本語力、文章力が全くといっていいほど身につかないと思う。
・難しい漢字の読み書きができなくなっているため、社会に出てから情けない思いをするだろう。
・メールを打てば、勝手に変換してくれて、辞書を引く習慣がなくなった自分が情けない。
・最近は絵文字を使って文章を打っている人が多い。それが日本語力の低下を招いている。
・ケータイの代わりにもっと新聞や書物を読んで、日本語力を身につけた方がいいと思う。
<問い3>学園内ではケータイを捨てよう、いいかえれば使用を止めようという提案をどう思うか。 イ)、ロ)、ハ)のどれかに○印をつけ、その理由を書いて下さい。
イ)捨てる気になった=22名(11%) (ケータイ不保持者 1名)
ロ)捨てるかどうか考えてみたい=96名(46%)
ハ)やはり捨てられない=89名(43%)
☆「捨てる気になった」理由:
・ケータイを使わないようにしないと、頭がおかしくなってしまう。
・ケータイを持ってはいるが、毎日学校に持ってくる必要はない。学校には公衆電話があり、緊急時にはそれを使えばいいからだ。
・昼間からメールや電話はあまり来ない。学校にいる間は使っていない。
◎「捨てるかどうか考えてみたい」理由:
・たしかに緊急の連絡がつねにあるわけではない。
・よく考えてみれば、ケータイはそんなに大切なものではないし、ケータイがないから死ぬというわけでもない。
・ケータイのマナーのこともあるし、依存症のマイナス点もよくわかる。
★「やはり捨てられない」理由:
・自分の都合だけ考えれば、便利だからである。
・授業中とかに使用せず、最低限のマナーがあれば、持っていてもいいと思う。
<問い4>人間力を高めよう、という呼びかけについて感想を述べて下さい 。
・当たり前のことだが、誰もできていない。自分も少しずつ高めたい。
・社会のルールなどを守らない若者が多いので、この呼びかけは今の時代に合っている。
・本学内で非常識な行いが目立つ。他人と比べなければ自己確認ができない若者が多いので、他大学との交流をもつのはどうか。
・「ケータイの僕」になることが新しいルールだということにもなりかねないので、その便利さの誤用を避けるためにも、この呼びかけには賛成したい。
・呼びかけを読んで本当にケータイとじゃれているヒマはないと思った。今自分を鍛えないと、このままで終わってしまう気がした。
・技術が進歩してついつい手抜き、怠け心がついているから、人間力を高めることはいいことと思う。
・私は人生はどれくらい人間力を高めるかで価値づけられると思うから、賛成である。
<問い5>以上のほかに感想や意見があれば、自由に記して下さい。
・友達と一緒にいるのに、話をしないで、ケータイをいじっている。これこそ「ケータイの僕」になっている。
・ケータイについて深く考えたことがなかったので、これからは考えてみたい。
・「便利さ」を追求して、手抜き心が育っている。私は楽をせずに生きたい。
・私は少数派の人間になりたい。
・「一寸先には地獄が口を開けて待っている」。この言葉を噛みしめてケータイの使い方に注意したい。
・ケータイにマナーモードをつけるよりも、人間にマナーモードをつけた方がいい。
・ケータイは人間にとって必要がないかもしれないことが分かった。
以上
安原和雄
私は今春(05年3月)まで経済学を講じていた足利工業大学(栃木県)で聴講生を対象にケータイ意識調査(04年7月)を実施した。ケータイは、あっという間に普及したが、マイナス面も目立ってきている。この調査はケータイ社会がかかえる問題点をそれなりに浮き彫りにしている。
以下は「学生たちへの呼びかけ文」と「学生の意識調査結果」で、インターネット新聞「日刊ベリタ」に「9割の学生が私はケータイの奴隷。でも手放せないが4割」という見出しで掲載(05年7月30日付)された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月29日記)
◇「学園内ではケータイを捨てよう」と学生たちに呼びかけた文章
ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!― 未来を創る若者たちへ
「娘さん、よく聞~けよ、山男にゃ惚(ほ)~れ~るなよ、・・・」という歌の文句にあやかって、こういう問いかけになった。
私は経済学の講義(前期)で「技術と自然・人・社会」と題して技術進歩のプラスとマイナスについて話すことにしている。その講義で携帯電話(以下、ケータイと略す)に言及し、「君たち若者も含めて多くの人はケータイの奴隷になってはいないか」と指摘し、感想を書いて貰った。その中に次の一文があった。「現代人はケータイの奴隷だという考えには共感できる。私自身もケータイに振り回されている」と。この学生の素直な感性は評価したい。
なぜあえて「奴隷」というのか。アルコール・たばこ依存症と同じようにケータイを手放せない一種の中毒症状にかかっていると思えるからだ。いいかえれば、ケータイを僕として使いこなすというよりも、むしろ無自覚のまま自らケータイの僕として振り回されているからだ。主人公は機器としての電話であり、携帯者は実は僕になり下がっている。
講義中に「今、電源を切っているか」と聞いたら、「切っている」と答えた者は皆無である。なぜか。「外から何か連絡が入ってくるかもしれない。それに音の出ないマナーモードにしているから」というのが答えである。そこで私は言った。「連絡が取れないために君たちの一生が狂うような一大事が毎日、時間刻みであるわけはないだろう」と。
▽ケータイ依存症のマイナス
ケータイ依存症のマイナスをいくつか挙げてみたい。
★日本語力が身につかないこと。
英語や漢字の辞書機能がついており、さらに小説も読めるケータイが増えているが、手軽すぎないか。小説にしても感動とは無縁の小さな画面世界でしかない。友達同士でメールをやりとりするだけでは文章力も上達しない。要するに読み書き、話すという日本語力の原点が確立しにくい。これでは面接など就職試験にパスし、一人前として実社会へ巣立ってゆくことは容易ではないだろう。
★命にかかわること。
ケータイで話しながら、自動車を運転することによる事故は年間3000件近くもある。一寸先には地獄が口を開けて待っているのだ。
★約束を事前に決めてそれを守る、という観念が希薄(きはく)になっていること。
友人同士ではケータイで話しながら時間や場所をその都度決めていくことが習い性となっているからだろう。
★努力し、自らを鍛えるという感覚が疎(おろそ)かになっていること。
勤勉(きんべん)、怠惰(たいだ)という漢字を読めない学生が少なくない。思うに勤勉、怠惰という感覚が欠如しているためではないか。「文明の進歩は便利さをもたらしたが、同時に努力することを忘れさせた」という最近の新聞投書(大学教授)には同感である。
▽学園内ではケータイを捨てよう!
たしかに便利な機器ではある。生活の必需品だと思い込んでいる者も少なくない。しかしここでよ~く聞いて欲しい。ケータイの虜(とりこ)から自らを解放する志(こころざし)はないか、という問いかけを。そして提案したい。せめて学園内ではケータイを捨ててみよ、と。
その手で代わりに新聞を掴み、書物を小脇に抱えてみよう。新聞で現実社会の動静(どうせい)を知り、書物を案内役に未知の世界の魅力を探し求める旅へと出発しよう。あるいは分厚い辞書のページを自分の手でめくってみる楽しさを味わってはどうか。友人同士で面と向かって対話を重ねる。
こうした日常的な努力によって日本語力を磨こうではないか。日本語力の基礎が身につかなければ、残念ながらコミュニケーション能力や学力の向上も期待できない。
もう一つ、ケータイから自由になることによって、いいかえればケータイに拉致(らち)された心を取り戻して、自己を見つめ直そう。自分の立ち居振る舞いを、もう一人の自分が一定の距離をおいて観察するのだ。
何のために? 自己観察によって自分の足りないところに気づくためとでも言ったらいいだろうか。こうして人間力を高めることに努めよう。
▽人間力とは、人生を生きる知恵
人間力とは人生を生きる知恵であり、次のようなものが含まれる。
☆動植物も含めて、地球上の生きとし生けるものの命を大切にすること。
☆約束の実行など社会のルールを守ること。
☆手抜き、怠け心を捨てて、汗をかき、自らを鍛えること。
☆自分の職業そして人生をどう選択するか、その選択眼を眠らせないこと。
こういう知恵が身についていれば、今日のような変化の激しい困難な状況下で人生をいきいきと生きることも、それほどむずかしいことではないだろう。
今すぐに投げ捨てなかったら、折角の大学生活を活かすことはできないかもしれない。ケータイを再び手にするのは、実社会へ乗り込んでからでも遅くはない。
そのとき君たちはケータイを自主的に使える主人公になっているはずである。もはや奴隷でも、僕(しもべ)でもない。その便利な僕を家庭、地域、組織、日本そして地球の再生と未来の設計のために駆使して貰いたい。
未来を創る機会に恵まれているのは、君たち若者だけである。だからこそ今、ケータイと戯(じゃ)れているヒマはないのだ。このことに気づいて欲しい。
◇ケータイに関する学生の意識調査結果
上記の「ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!」の文章を読んだうえで次の質問に答えて貰った。その調査結果は以下の通り。
調査に回答(記名入り)した学生数は208名(履修学生総数は372名)。
<問い1>「若者たちを含めて多くの人は、ケータイの奴隷、僕になっている」という考え方についてどう思うか。次のイ)、ロ)のどちらかに○印をつけ、その理由あるいは意見を書いて下さい。
イ)そう思う=180名(回答総数の87%) ロ)そうは思わない=28名 (13%)
★「そう思う」理由など:
・一度持ち始めると、本当に中毒症状といえる状態になって、もう手放せない。
・電車の中などでケータイをいじっている人が沢山いる。そういう人たちはケータイがないと、生きていけない「ケータイの僕」になっている。
・ケータイでゲームをしている者も多く、こちらはゲーム依存症と呼ぶべきだろう。
・電話以外の機能が大幅に増え、その目新しさに振り回されている。
・自分がケータイを家に置き忘れたとき、うろたえたのも、一種の奴隷化のように思えた。
・ケータイを持っていないと、不安でしようがない。
・くやしいけど、そう思う。ケータイが手許にないと心配になる。
・ケータイに振り回され、ケータイに自分の人生を使われているように思える。
・テレビで若者達に命の次に大切なものは?と聞くと、ほとんどがケータイと答えた。
☆「そうは思わない」理由など:
・ケータイは持っているが、約束の連絡などにしか使わないので奴隷にはなっていない。
・ケータイがなくても別に困らない。
・ケータイはあまり好きではないので、それほど使わない。
<問い2>ケータイ依存症のマイナスとして「日本語力が身につかないこと」などを挙げているが、これらマイナス点についてどう思うか。自由に意見を述べて下さい。
・小学生にもケータイを持たせる親が増えている。ちゃんと面と向かって話ができないと、佐世保市のような小学生殺害事件を起こしてしまう。
・分からない漢字があると、すぐにケータイに頼って怠け心がついたりする。
・自分の回りにも新聞を読まない人がいるし、日本語力は落ちている。
・ケータイ依存症の共通点は「まわりがみえていない」こと。そこに「迷惑に思う人がいる」ということすらみえていない。
・友人とメールをやりとりするとき、文法を無視する。だから日本語力が伸びなかった。(中国人の留学生)
・その通りだ。日本語力、文章力が全くといっていいほど身につかないと思う。
・難しい漢字の読み書きができなくなっているため、社会に出てから情けない思いをするだろう。
・メールを打てば、勝手に変換してくれて、辞書を引く習慣がなくなった自分が情けない。
・最近は絵文字を使って文章を打っている人が多い。それが日本語力の低下を招いている。
・ケータイの代わりにもっと新聞や書物を読んで、日本語力を身につけた方がいいと思う。
<問い3>学園内ではケータイを捨てよう、いいかえれば使用を止めようという提案をどう思うか。 イ)、ロ)、ハ)のどれかに○印をつけ、その理由を書いて下さい。
イ)捨てる気になった=22名(11%) (ケータイ不保持者 1名)
ロ)捨てるかどうか考えてみたい=96名(46%)
ハ)やはり捨てられない=89名(43%)
☆「捨てる気になった」理由:
・ケータイを使わないようにしないと、頭がおかしくなってしまう。
・ケータイを持ってはいるが、毎日学校に持ってくる必要はない。学校には公衆電話があり、緊急時にはそれを使えばいいからだ。
・昼間からメールや電話はあまり来ない。学校にいる間は使っていない。
◎「捨てるかどうか考えてみたい」理由:
・たしかに緊急の連絡がつねにあるわけではない。
・よく考えてみれば、ケータイはそんなに大切なものではないし、ケータイがないから死ぬというわけでもない。
・ケータイのマナーのこともあるし、依存症のマイナス点もよくわかる。
★「やはり捨てられない」理由:
・自分の都合だけ考えれば、便利だからである。
・授業中とかに使用せず、最低限のマナーがあれば、持っていてもいいと思う。
<問い4>人間力を高めよう、という呼びかけについて感想を述べて下さい 。
・当たり前のことだが、誰もできていない。自分も少しずつ高めたい。
・社会のルールなどを守らない若者が多いので、この呼びかけは今の時代に合っている。
・本学内で非常識な行いが目立つ。他人と比べなければ自己確認ができない若者が多いので、他大学との交流をもつのはどうか。
・「ケータイの僕」になることが新しいルールだということにもなりかねないので、その便利さの誤用を避けるためにも、この呼びかけには賛成したい。
・呼びかけを読んで本当にケータイとじゃれているヒマはないと思った。今自分を鍛えないと、このままで終わってしまう気がした。
・技術が進歩してついつい手抜き、怠け心がついているから、人間力を高めることはいいことと思う。
・私は人生はどれくらい人間力を高めるかで価値づけられると思うから、賛成である。
<問い5>以上のほかに感想や意見があれば、自由に記して下さい。
・友達と一緒にいるのに、話をしないで、ケータイをいじっている。これこそ「ケータイの僕」になっている。
・ケータイについて深く考えたことがなかったので、これからは考えてみたい。
・「便利さ」を追求して、手抜き心が育っている。私は楽をせずに生きたい。
・私は少数派の人間になりたい。
・「一寸先には地獄が口を開けて待っている」。この言葉を噛みしめてケータイの使い方に注意したい。
・ケータイにマナーモードをつけるよりも、人間にマナーモードをつけた方がいい。
・ケータイは人間にとって必要がないかもしれないことが分かった。
以上
軍事的脅威論への疑問と持続的発展
安原和雄
以下は仏教経済塾に別途掲載(2005年12月25日付)の講演「小日本主義のすすめ(1)」について「コスタリカに学ぶ会」(正式名称「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)会員からのE-メールでの質問、意見に安原がメールで考えを述べた補足文である。これは「<持続的発展>を日本国憲法の追加条項に 21世紀版<小日本主義>へ安原氏が提言」と題して、インターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月23日付)に掲載された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月26日記)
<補足文1>軍事的脅威をどうとらえるか
(05年6月29日)
私の講演のなかで不足している部分を挙げておきたいと思います。それは次の点です。
アメリカのような巨大な軍事力の行使はもちろん、保有自体が暴力であり、それがいのち、自然、暮らしを含む地球生命共同体への脅威になっているという点です。
講演では非軍事的脅威が主要な脅威と指摘しましたが、実は上記のような軍事的脅威の存在も同時に指摘する必要があります。しかも巨額の軍事費は巨大な資源エネルギーの浪費であり、地球レベルでみれば、その資金を軍事費以外の貧困、飢餓、衛生、教育などの分野に回し、その改善を進めることは緊急不可欠の課題です。世界全体の軍事費は今や100兆円を超えています。その半分近くをアメリカが占めています。軍事費や戦争で稼ぐ産軍複合体にとっては笑いが止まらない話ですが、国民レベルでみれば、膨大な無駄遣いというべきです。
▽従来型脅威論に疑問符を
以上の点は時間の制約もあり、講演では指摘しなかったと思いますが、大事なことです。脅威とは何かをめぐって意見は多様だと思いますが、他国からの軍事的脅威にどう対処するかという従来型の脅威論にこだわると、自衛を名目とする軍事力容認論、そして憲法9条改訂論につながっていきます。そういう脅威論に疑問符を抱くことから新しい発想、着想が生まれます。
先制攻撃論に支えられたアメリカの巨大な軍事力、そのアメリカとの日米軍事同盟の存在そのものが今や地球、人類、中東・アジアにとって容認できない脅威となっていることを認識する必要があります。従って平和をつくっていくためには、平和への脅威をつくり出す日米軍事同盟、それを支える日米安保体制を解体しなければならないというのが私の基本的な認識です。以上は重要な点なので補足しておきます。
<補足文2>持続的発展にかかわる安原見解
(05年7月4日)
小日本主義構想の中の「持続可能な発展」(Sustainable Development)すなわち「持続的発展」について私なりの考えを以下の4本柱を軸に述べます。
1)「持続可能な発展」とはどういう意味をもつ概念、思想なのか。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことはどういう意義をもつか。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問とはいえないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。
1)「持続可能な発展」はどういう意味をもつか
国連主催の第1回地球サミット(1992年開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」で打ち出されて以来広く世界で知られてきた概念、思想で、その慨要は次のようです。
①人々の生活の質的改善を、その生活支持基盤となっている各生態系の収容能力の限度内で生活しつつ達成すること。従って経済成長主義、消費主義、拝金主義とは両立しないこと。
②「戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せない」(リオ宣言)こと。従って戦争、テロ、紛争と持続的発展とは矛盾しており、決して両立しないこと。
③生活の質的改善、共生、循環、平和がキーワードとなっていること。いいかえれば持続的発展という思想、概念は地球環境の保全だけに限定して捉えないことが重要であること。
具体的内容を列挙すれば、以下のようです。
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育の達成
・政治的自由、人権の保障、家庭内暴力や社会的暴力からの解放
・就業機会の保障と人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放
・公平な所得分配の実現
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・再生不能な資源・エネルギーの収奪や浪費の中止、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
▽持続的発展への新しい多様な脅威
以上のような持続的発展の内容を補足し、21世紀的課題を指摘したのが第2回地球サミット(2002年南アフリカのヨハネスブルグで開催)で採択された「ヨハネスブルグ宣言」です。
同宣言は、貧富の格差拡大、グローバリゼーションが招く不平等、基本的な必要物と施設(水、衛生施設、住まい、エネルギー、医療、食糧など)の不足のほか、飢餓、栄養不良、地球温暖化の悪影響による自然災害、生物多様性の喪失、砂漠化、大気・水・海洋の汚染、漁業資源の悪化、麻薬、組織犯罪、人種・宗教差別、エイズ、マラリア、武器・人身の売買、テロ、占領、軍事衝突など実に多様な脅威を持続的発展にとっての新たな脅威と指摘しています。
以上のように包括的な概念であり、しかも21世紀の新しい地球規模の課題に取り組むためのキーワードとして理解されるべきものです。
ただ以上の理解、認識が広く共有されているわけではありません。一例をあげれば、日本政府や経済界はしばしば「持続的経済成長」という言葉を使います。これは「持続可能な発展」を「地球環境の保全と経済成長との両立」ととらえるところから出てくる誤った理解です。上記のように「経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放」が持続的発展の1つの柱です。なぜなら量の拡大を意味する経済成長にそもそも持続性は期待できないし、不可能だからです。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
平和運動は一定の平和観に基づいています。だからどういう平和観に立つかがきわめて重要です。平和観には「平和=非戦、不戦」という従来の狭い平和観と、「平和=非暴力、反暴力」という今日的な広い平和観に大別できます。
私は後者の広い平和観をとります。その意味するところは戦争、テロ(最近の平和学ではこれを「直接的暴力」と呼んでいます)がない状態が平和にとって基本的に重要なことですが、それに限るものではありません。人間性、生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―など(最近の平和学では「構造的暴力」と名付けています)が存在する限り平和とはいえません。
▽貪欲な経済成長は「構造的暴力」
さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊(これも「構造的暴力」)が続く限り、平和な世界とはいえません。
いいかえれば以上のような多様な暴力(「直接的暴力」と「構造的暴力」)を追放しない限り、真の平和はあり得ません。だから平和は守るものではなく、つくるべきものです。戦争さえなければ平和だと考えるのは、一面的です。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことの意義は何か
以上のような広い平和観に立って多様な暴力を否定し、地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展です。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項(修正条項という文言をこれまで使ってきましたが、誤解を避けるためには追加条項とした方が適切かもしれません)として織り込むことが不可欠です。具体的試案は以下の第9条と第25条の2つです。
▽第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項
「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加します。
<趣旨>現行の第九条の条文はそのまま活かして、さらに以上の文言を加えようという提案です。戦争と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって戦争放棄という先駆的な理念の強化を図ると同時に、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に取り組む姿勢を明示します。
ここでの「世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する」とは、日本の戦力不保持の憲法理念が現実には日米安保体制と強大な軍事力保有によって空洞化しており、この理念を長期的視野で取り戻すことを意味します。これはコスタリカ・モデル(軍隊廃止)の日本への応用です。さらにこれをバネにして世界の軍縮を促進させるのに日本(市民レベルも含めて)が貢献することを意味しています。
▽第25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項
「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加します。
<趣旨>この追加条項は従来の経済成長路線、消費主義、拝金主義という名の貪欲路線との決別を明確にし、脱「成長経済」(=簡素な経済)、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などを柱とする「知足(足るを知る)路線」をめざすものです。
第9条が安全保障、外交上の平和(=反「直接的暴力」)を志向するのに対し、第25条の追加条項は新たな経済社会上の平和(=反「構造的暴力」)の構築を意図しています。
若干補足すると、私は「廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済」への転換が平和を構築するうえで不可欠だと考えています。なぜなら廃棄物を大量排出する貪欲で浪費的な暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えばイラク攻撃の背景に石油確保があります)につながるからです。身近な例をあげれば、平然と飲食物を大量に食べ残す人たちの平和論、平和運動を私は信用しません。「もったいない」の心が欠落した平和運動は今や有効ではありません。
▽「平和環境立国・日本」としての戦略目標
以上2つの追加条項は、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものであり、この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台として位置づけられます。決して改憲を意図するものではありません。
歴史的にみれば、近代の人権思想が当初から正当に広く受け容れられたわけではありません。同様に持続的発展という概念、思想に対しても不慣れのため戸惑いが見受けられます。新しい思想は常にそういう扱いを受けてきましたし、これからもそうでしょう。
持続的発展に関する国際的な基本文書、『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(原題はCaring for the EarthーA Strategy for Sustainable Living・第1回地球サミット前年の1991年発表)は「政府は憲法などで持続可能な社会の規範を明記すべきだ」とうたっていますが、まだ憲法に「持続的発展」という文言を採用した国はありません。そこで日本があえて先陣を切り、憲法に盛り込めば、人権思想をうたったアメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)に匹敵する歴史的偉業になるだろうというのが私の夢です。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問ではないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。
この疑問、問題提起は現実の政治運動論にもつながるもので、それなりの道筋を見出すことは容易ではありません。走りながら考えるほかないことを承知のうえで、以下のことを指摘したいと思います。
▽長期戦略ビジョンと戦術
小日本主義構想の中の上記1)、2)、3)の私の理解、提言は長期戦略ビジョンであり、「未来の設計図」(「コスタリカに学ぶ会」世話人の小倉志郎氏の表現)です。現下の問題は小泉政権の政策路線や2大政党制に取って代わるだけの長期ビジョンが欠落していることです。だから国民の多くは「どこかおかしい」と感じながらも、明確な将来展望が見出せないまま、悪しき現実に流されているのではないかというのが私の現状分析です。
重要な点は小日本主義構想のような長期戦略ビジョンが適切かどうかです。このような長期戦略ビジョンをめぐる議論を展開し、その方向性を設定することこそ緊急の課題というべきです。
たしかに長期戦略を実現させる戦術をどう考えるかは重要なテーマです。私は変革のための「未来の設計図」の提起そのものがバネとなって「意識改革」を触発する戦術としても機能するだろう、その可能性に期待します。政治情勢がわが方に有利になってから長期戦略ビジョンを打ち出すのは、順序が逆であり、それでは「百年河清を待つ」に等しいのではないでしょうか。長期戦略をもたないいわゆる抵抗勢力の次元にいつまでもとどまっているわけにはいきません。そこからいかに脱皮するかが今問われています。
多様な暴力のアンチテーゼ、すなわち「平和=非暴力」という広い平和観を志向する「持続的発展」を憲法に追加条項として盛り込むべきだという提案は、すでに3)で述べたように小日本主義構想の土台をなすものです。これを欠いては小日本主義構想の骨格が揺らいできます。だから持続的発展という概念、思想がもつ上記の戦略的価値を強調する必要があります。それを繰り返し強調することによって地球環境時代における「平和=非暴力」についての意識改革を促す戦術的効果を期待したいと思います。
▽日米安保体制と日米軍事同盟は「諸悪の根源」
一方、日米安保体制すなわち日米軍事同盟の存在が諸悪の根源となっています。だから小日本主義構想はその重要な柱の一つに安保体制と軍事同盟の解体を掲げています。この解体は長期戦略であり、しかも持続的発展の重要な一環として位置づけられる性質のものです。これを提起することそのものが、「反平和」派が多数を占める現在の政治勢力配置図を「平和」多数派へと塗り替えるための戦術として機能する可能性があります。目下のところ、その実現が困難であることはいうまでもありません。しかし海外派兵、憲法9条改悪路線が進行しつつある「現在の今」という機会を逸したら、いつ提起することができるのでしょうか。
参考までにいえば、世論調査(03年1月4日付毎日新聞)によると、日米安保維持派は全体の37%、一方、日米安保批判派は47%(「安保条約から友好条約にすべきだ」が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%)というデータがあります。安保廃棄は困難ではあるが、現実的であり、空論とはいえないと思います。
▽憲法9条の条文を守るだけで十分か
講演での「憲法の修正条項」という表現が誤解を招いているようです。アメリカ合衆国憲法は次々と修正条項を加えることによって、よい方向に修正してきたと専門家は言っています。これに倣(なら)って新しく条項を追加するという意味で修正という表現を使いましたが、これは追加という表現に変更した方がわかりやすいようです。
いずれにしても憲法に追加条項として「持続的発展」を盛り込むべきだという私の提案(私は憲法学者ではありません。素人だからこそ大胆な提案も可能だと自負しています。余談になりますが、「小さな専門家よりも大きな素人をめざす」という発想を大切にしたいと思っています)はすでに述べたように改憲ではありません。それどころか憲法の「平和=戦力不保持」の理念をどう活かすかが重要であり、持続的発展こそ活かす道だと考えます。平和憲法の理念を改悪しないで堅持すべきだという意味では「護憲派の中の護憲派」と自任しています。
たしかに憲法9条条文の改悪を阻止することは当面の最重要な課題でしょう。しかし9条の条文をただ守れば、それでいいのかといえば、それだけでは平和理念を堅持するには不十分だと思っています。なぜならすでに3)で指摘したように日米安保体制、日米軍事同盟の強化を背景に9条は事実上骨抜きにされ、空洞化(注)しているからです。従来の平和運動が「戦争反対、9条を守れ」と繰り返し叫んできたにもかかわらずです。条文を守るだけでは空洞化の進行を阻止するのはむずかしいと思います。
必要不可欠なことは、①9条条文を守ること、②平和理念の堅持、強化のために憲法に持続的発展を追加条項として織り込むこと、さらに③日米安保体制と日米軍事同盟を解体することーこの3本柱です。単に9条条文を守ればよいという考えでは、これからは戦争を阻止することも困難になるだろうと予測します。
(注)9条がなぜ空洞化しているのか。日米安保条約第3条で「日本の自衛力の維持発展」を定めており、歴代の保守政権はそれを忠実に実行し、憲法9条の戦力不保持の規定を無視してきたからです。
小日本主義を最初に提唱した石橋湛山は日米安保と平和憲法との間のこの矛盾に気づき、日米安保よりも平和憲法の理念を優先させるべきだと主張していました。
▽9条改悪阻止の後に来るものは?
問題は9条改悪を阻止できたとして(その可能性は大いにあります)、その先に何が待っているのかです。平和でしょうか、それとも戦争でしょうか。
ここで戦後日本の戦争参加の歴史を概観してみましょう。アメリカの戦争に3度参戦しています。平和憲法のお陰で参戦の経験はないなどと考えるとしたら、お人好しもいいところです。
最初は朝鮮戦争です。いわゆる朝鮮特需によって第2次大戦後の日本経済は経済復興のきっかけを得ましたが、朝鮮特需はアメリカが発注する兵器の生産・修理(ここから戦後日本の兵器生産が再開されました)によってアメリカの戦争を支援したことを意味します。
2度目はアメリカのベトナムへの侵略戦争で、日米安保体制によって沖縄の巨大な米軍基地を許容し、それがベトナム戦争の支援基地として重要な役割を果たしました。沖縄の米軍基地が存在しなかったら、恐らくベトナムへの侵略戦争は困難だったでしょう。
3度目が今回のアメリカ主導のイラク攻撃への参戦です。ベトナム戦争と同様に沖縄の米軍基地が支援基地として重要な役割を担っていますが、この参戦は初の海外派兵によるもので、2度目までの戦争協力=参戦とは質的に異なっています。9条の条文は堅持されているにもかかわらずです。
▽後方支援という名の参戦
具体的にはイラク国内で自衛隊が派兵駐留している一方、インド洋に常時2隻の自衛艦を配置し、イラク攻撃に不可欠の石油を国民の血税を使って供給しています。私は後者の後方支援(注)の事実を重視します。この後方支援を日本が拒否していたら、アメリカのイラク攻撃に支障をきたしていたはずです。
(注)日本では多くの場合、後方支援は戦争への参加ではないという誤解があり、認識が甘すぎます。<前線での戦闘>と<後方支援=弾薬、石油、食料、医薬品、その他備品などの補給>とは表裏一体の関係にあります。後方支援なしには戦闘は不可能です。これは欧米の軍事論の常識です。なお日本は米国のアフガニスタン攻撃以来、後方支援を続けています。
4度目の参戦はもちろん起こらないことを願いますが、9条改悪を阻止できたとしても参戦の可能性はあります。どういう形をとるでしょうか。例えばアメリカが北朝鮮を攻撃するケースです。この場合、日米安保体制と有事法制によって戦争に必然的に巻き込まれ、それが日本列島にどういう事態を引き起こすか、その先は想像力の問題です。
重要なことは戦争放棄と戦力不保持の9条条文が改悪されないで、健在であるにもかかわらず、こういう事態に巻き込まれるということです。だからこそ9条条文を守るだけでは十分ではありません。骨抜きにされた9条の内実をどう正常化するか、先に述べた日米安保体制廃棄などの3本柱によって、戦争放棄、戦力の不保持を掲げる本来の平和理念を取り戻さなければなりません。
<補記>戦後日本は米国主導の戦争に3度参戦したと上述しましたが、湾岸戦争(1990~91年)も加えれば、4度になります。湾岸戦争では日本は合計130億ドルの援助支出(「湾岸での平和回復活動」という名目の援助資金)のほか、自衛隊掃海艇など6隻をペルシャ湾へ派遣しました。(05年12月26日記)
以上
安原和雄
以下は仏教経済塾に別途掲載(2005年12月25日付)の講演「小日本主義のすすめ(1)」について「コスタリカに学ぶ会」(正式名称「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)会員からのE-メールでの質問、意見に安原がメールで考えを述べた補足文である。これは「<持続的発展>を日本国憲法の追加条項に 21世紀版<小日本主義>へ安原氏が提言」と題して、インターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月23日付)に掲載された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月26日記)
<補足文1>軍事的脅威をどうとらえるか
(05年6月29日)
私の講演のなかで不足している部分を挙げておきたいと思います。それは次の点です。
アメリカのような巨大な軍事力の行使はもちろん、保有自体が暴力であり、それがいのち、自然、暮らしを含む地球生命共同体への脅威になっているという点です。
講演では非軍事的脅威が主要な脅威と指摘しましたが、実は上記のような軍事的脅威の存在も同時に指摘する必要があります。しかも巨額の軍事費は巨大な資源エネルギーの浪費であり、地球レベルでみれば、その資金を軍事費以外の貧困、飢餓、衛生、教育などの分野に回し、その改善を進めることは緊急不可欠の課題です。世界全体の軍事費は今や100兆円を超えています。その半分近くをアメリカが占めています。軍事費や戦争で稼ぐ産軍複合体にとっては笑いが止まらない話ですが、国民レベルでみれば、膨大な無駄遣いというべきです。
▽従来型脅威論に疑問符を
以上の点は時間の制約もあり、講演では指摘しなかったと思いますが、大事なことです。脅威とは何かをめぐって意見は多様だと思いますが、他国からの軍事的脅威にどう対処するかという従来型の脅威論にこだわると、自衛を名目とする軍事力容認論、そして憲法9条改訂論につながっていきます。そういう脅威論に疑問符を抱くことから新しい発想、着想が生まれます。
先制攻撃論に支えられたアメリカの巨大な軍事力、そのアメリカとの日米軍事同盟の存在そのものが今や地球、人類、中東・アジアにとって容認できない脅威となっていることを認識する必要があります。従って平和をつくっていくためには、平和への脅威をつくり出す日米軍事同盟、それを支える日米安保体制を解体しなければならないというのが私の基本的な認識です。以上は重要な点なので補足しておきます。
<補足文2>持続的発展にかかわる安原見解
(05年7月4日)
小日本主義構想の中の「持続可能な発展」(Sustainable Development)すなわち「持続的発展」について私なりの考えを以下の4本柱を軸に述べます。
1)「持続可能な発展」とはどういう意味をもつ概念、思想なのか。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことはどういう意義をもつか。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問とはいえないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。
1)「持続可能な発展」はどういう意味をもつか
国連主催の第1回地球サミット(1992年開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」で打ち出されて以来広く世界で知られてきた概念、思想で、その慨要は次のようです。
①人々の生活の質的改善を、その生活支持基盤となっている各生態系の収容能力の限度内で生活しつつ達成すること。従って経済成長主義、消費主義、拝金主義とは両立しないこと。
②「戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せない」(リオ宣言)こと。従って戦争、テロ、紛争と持続的発展とは矛盾しており、決して両立しないこと。
③生活の質的改善、共生、循環、平和がキーワードとなっていること。いいかえれば持続的発展という思想、概念は地球環境の保全だけに限定して捉えないことが重要であること。
具体的内容を列挙すれば、以下のようです。
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育の達成
・政治的自由、人権の保障、家庭内暴力や社会的暴力からの解放
・就業機会の保障と人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放
・公平な所得分配の実現
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・再生不能な資源・エネルギーの収奪や浪費の中止、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
▽持続的発展への新しい多様な脅威
以上のような持続的発展の内容を補足し、21世紀的課題を指摘したのが第2回地球サミット(2002年南アフリカのヨハネスブルグで開催)で採択された「ヨハネスブルグ宣言」です。
同宣言は、貧富の格差拡大、グローバリゼーションが招く不平等、基本的な必要物と施設(水、衛生施設、住まい、エネルギー、医療、食糧など)の不足のほか、飢餓、栄養不良、地球温暖化の悪影響による自然災害、生物多様性の喪失、砂漠化、大気・水・海洋の汚染、漁業資源の悪化、麻薬、組織犯罪、人種・宗教差別、エイズ、マラリア、武器・人身の売買、テロ、占領、軍事衝突など実に多様な脅威を持続的発展にとっての新たな脅威と指摘しています。
以上のように包括的な概念であり、しかも21世紀の新しい地球規模の課題に取り組むためのキーワードとして理解されるべきものです。
ただ以上の理解、認識が広く共有されているわけではありません。一例をあげれば、日本政府や経済界はしばしば「持続的経済成長」という言葉を使います。これは「持続可能な発展」を「地球環境の保全と経済成長との両立」ととらえるところから出てくる誤った理解です。上記のように「経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放」が持続的発展の1つの柱です。なぜなら量の拡大を意味する経済成長にそもそも持続性は期待できないし、不可能だからです。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
平和運動は一定の平和観に基づいています。だからどういう平和観に立つかがきわめて重要です。平和観には「平和=非戦、不戦」という従来の狭い平和観と、「平和=非暴力、反暴力」という今日的な広い平和観に大別できます。
私は後者の広い平和観をとります。その意味するところは戦争、テロ(最近の平和学ではこれを「直接的暴力」と呼んでいます)がない状態が平和にとって基本的に重要なことですが、それに限るものではありません。人間性、生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―など(最近の平和学では「構造的暴力」と名付けています)が存在する限り平和とはいえません。
▽貪欲な経済成長は「構造的暴力」
さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊(これも「構造的暴力」)が続く限り、平和な世界とはいえません。
いいかえれば以上のような多様な暴力(「直接的暴力」と「構造的暴力」)を追放しない限り、真の平和はあり得ません。だから平和は守るものではなく、つくるべきものです。戦争さえなければ平和だと考えるのは、一面的です。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことの意義は何か
以上のような広い平和観に立って多様な暴力を否定し、地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展です。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項(修正条項という文言をこれまで使ってきましたが、誤解を避けるためには追加条項とした方が適切かもしれません)として織り込むことが不可欠です。具体的試案は以下の第9条と第25条の2つです。
▽第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項
「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加します。
<趣旨>現行の第九条の条文はそのまま活かして、さらに以上の文言を加えようという提案です。戦争と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって戦争放棄という先駆的な理念の強化を図ると同時に、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に取り組む姿勢を明示します。
ここでの「世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する」とは、日本の戦力不保持の憲法理念が現実には日米安保体制と強大な軍事力保有によって空洞化しており、この理念を長期的視野で取り戻すことを意味します。これはコスタリカ・モデル(軍隊廃止)の日本への応用です。さらにこれをバネにして世界の軍縮を促進させるのに日本(市民レベルも含めて)が貢献することを意味しています。
▽第25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項
「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加します。
<趣旨>この追加条項は従来の経済成長路線、消費主義、拝金主義という名の貪欲路線との決別を明確にし、脱「成長経済」(=簡素な経済)、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などを柱とする「知足(足るを知る)路線」をめざすものです。
第9条が安全保障、外交上の平和(=反「直接的暴力」)を志向するのに対し、第25条の追加条項は新たな経済社会上の平和(=反「構造的暴力」)の構築を意図しています。
若干補足すると、私は「廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済」への転換が平和を構築するうえで不可欠だと考えています。なぜなら廃棄物を大量排出する貪欲で浪費的な暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えばイラク攻撃の背景に石油確保があります)につながるからです。身近な例をあげれば、平然と飲食物を大量に食べ残す人たちの平和論、平和運動を私は信用しません。「もったいない」の心が欠落した平和運動は今や有効ではありません。
▽「平和環境立国・日本」としての戦略目標
以上2つの追加条項は、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものであり、この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台として位置づけられます。決して改憲を意図するものではありません。
歴史的にみれば、近代の人権思想が当初から正当に広く受け容れられたわけではありません。同様に持続的発展という概念、思想に対しても不慣れのため戸惑いが見受けられます。新しい思想は常にそういう扱いを受けてきましたし、これからもそうでしょう。
持続的発展に関する国際的な基本文書、『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(原題はCaring for the EarthーA Strategy for Sustainable Living・第1回地球サミット前年の1991年発表)は「政府は憲法などで持続可能な社会の規範を明記すべきだ」とうたっていますが、まだ憲法に「持続的発展」という文言を採用した国はありません。そこで日本があえて先陣を切り、憲法に盛り込めば、人権思想をうたったアメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)に匹敵する歴史的偉業になるだろうというのが私の夢です。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問ではないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。
この疑問、問題提起は現実の政治運動論にもつながるもので、それなりの道筋を見出すことは容易ではありません。走りながら考えるほかないことを承知のうえで、以下のことを指摘したいと思います。
▽長期戦略ビジョンと戦術
小日本主義構想の中の上記1)、2)、3)の私の理解、提言は長期戦略ビジョンであり、「未来の設計図」(「コスタリカに学ぶ会」世話人の小倉志郎氏の表現)です。現下の問題は小泉政権の政策路線や2大政党制に取って代わるだけの長期ビジョンが欠落していることです。だから国民の多くは「どこかおかしい」と感じながらも、明確な将来展望が見出せないまま、悪しき現実に流されているのではないかというのが私の現状分析です。
重要な点は小日本主義構想のような長期戦略ビジョンが適切かどうかです。このような長期戦略ビジョンをめぐる議論を展開し、その方向性を設定することこそ緊急の課題というべきです。
たしかに長期戦略を実現させる戦術をどう考えるかは重要なテーマです。私は変革のための「未来の設計図」の提起そのものがバネとなって「意識改革」を触発する戦術としても機能するだろう、その可能性に期待します。政治情勢がわが方に有利になってから長期戦略ビジョンを打ち出すのは、順序が逆であり、それでは「百年河清を待つ」に等しいのではないでしょうか。長期戦略をもたないいわゆる抵抗勢力の次元にいつまでもとどまっているわけにはいきません。そこからいかに脱皮するかが今問われています。
多様な暴力のアンチテーゼ、すなわち「平和=非暴力」という広い平和観を志向する「持続的発展」を憲法に追加条項として盛り込むべきだという提案は、すでに3)で述べたように小日本主義構想の土台をなすものです。これを欠いては小日本主義構想の骨格が揺らいできます。だから持続的発展という概念、思想がもつ上記の戦略的価値を強調する必要があります。それを繰り返し強調することによって地球環境時代における「平和=非暴力」についての意識改革を促す戦術的効果を期待したいと思います。
▽日米安保体制と日米軍事同盟は「諸悪の根源」
一方、日米安保体制すなわち日米軍事同盟の存在が諸悪の根源となっています。だから小日本主義構想はその重要な柱の一つに安保体制と軍事同盟の解体を掲げています。この解体は長期戦略であり、しかも持続的発展の重要な一環として位置づけられる性質のものです。これを提起することそのものが、「反平和」派が多数を占める現在の政治勢力配置図を「平和」多数派へと塗り替えるための戦術として機能する可能性があります。目下のところ、その実現が困難であることはいうまでもありません。しかし海外派兵、憲法9条改悪路線が進行しつつある「現在の今」という機会を逸したら、いつ提起することができるのでしょうか。
参考までにいえば、世論調査(03年1月4日付毎日新聞)によると、日米安保維持派は全体の37%、一方、日米安保批判派は47%(「安保条約から友好条約にすべきだ」が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%)というデータがあります。安保廃棄は困難ではあるが、現実的であり、空論とはいえないと思います。
▽憲法9条の条文を守るだけで十分か
講演での「憲法の修正条項」という表現が誤解を招いているようです。アメリカ合衆国憲法は次々と修正条項を加えることによって、よい方向に修正してきたと専門家は言っています。これに倣(なら)って新しく条項を追加するという意味で修正という表現を使いましたが、これは追加という表現に変更した方がわかりやすいようです。
いずれにしても憲法に追加条項として「持続的発展」を盛り込むべきだという私の提案(私は憲法学者ではありません。素人だからこそ大胆な提案も可能だと自負しています。余談になりますが、「小さな専門家よりも大きな素人をめざす」という発想を大切にしたいと思っています)はすでに述べたように改憲ではありません。それどころか憲法の「平和=戦力不保持」の理念をどう活かすかが重要であり、持続的発展こそ活かす道だと考えます。平和憲法の理念を改悪しないで堅持すべきだという意味では「護憲派の中の護憲派」と自任しています。
たしかに憲法9条条文の改悪を阻止することは当面の最重要な課題でしょう。しかし9条の条文をただ守れば、それでいいのかといえば、それだけでは平和理念を堅持するには不十分だと思っています。なぜならすでに3)で指摘したように日米安保体制、日米軍事同盟の強化を背景に9条は事実上骨抜きにされ、空洞化(注)しているからです。従来の平和運動が「戦争反対、9条を守れ」と繰り返し叫んできたにもかかわらずです。条文を守るだけでは空洞化の進行を阻止するのはむずかしいと思います。
必要不可欠なことは、①9条条文を守ること、②平和理念の堅持、強化のために憲法に持続的発展を追加条項として織り込むこと、さらに③日米安保体制と日米軍事同盟を解体することーこの3本柱です。単に9条条文を守ればよいという考えでは、これからは戦争を阻止することも困難になるだろうと予測します。
(注)9条がなぜ空洞化しているのか。日米安保条約第3条で「日本の自衛力の維持発展」を定めており、歴代の保守政権はそれを忠実に実行し、憲法9条の戦力不保持の規定を無視してきたからです。
小日本主義を最初に提唱した石橋湛山は日米安保と平和憲法との間のこの矛盾に気づき、日米安保よりも平和憲法の理念を優先させるべきだと主張していました。
▽9条改悪阻止の後に来るものは?
問題は9条改悪を阻止できたとして(その可能性は大いにあります)、その先に何が待っているのかです。平和でしょうか、それとも戦争でしょうか。
ここで戦後日本の戦争参加の歴史を概観してみましょう。アメリカの戦争に3度参戦しています。平和憲法のお陰で参戦の経験はないなどと考えるとしたら、お人好しもいいところです。
最初は朝鮮戦争です。いわゆる朝鮮特需によって第2次大戦後の日本経済は経済復興のきっかけを得ましたが、朝鮮特需はアメリカが発注する兵器の生産・修理(ここから戦後日本の兵器生産が再開されました)によってアメリカの戦争を支援したことを意味します。
2度目はアメリカのベトナムへの侵略戦争で、日米安保体制によって沖縄の巨大な米軍基地を許容し、それがベトナム戦争の支援基地として重要な役割を果たしました。沖縄の米軍基地が存在しなかったら、恐らくベトナムへの侵略戦争は困難だったでしょう。
3度目が今回のアメリカ主導のイラク攻撃への参戦です。ベトナム戦争と同様に沖縄の米軍基地が支援基地として重要な役割を担っていますが、この参戦は初の海外派兵によるもので、2度目までの戦争協力=参戦とは質的に異なっています。9条の条文は堅持されているにもかかわらずです。
▽後方支援という名の参戦
具体的にはイラク国内で自衛隊が派兵駐留している一方、インド洋に常時2隻の自衛艦を配置し、イラク攻撃に不可欠の石油を国民の血税を使って供給しています。私は後者の後方支援(注)の事実を重視します。この後方支援を日本が拒否していたら、アメリカのイラク攻撃に支障をきたしていたはずです。
(注)日本では多くの場合、後方支援は戦争への参加ではないという誤解があり、認識が甘すぎます。<前線での戦闘>と<後方支援=弾薬、石油、食料、医薬品、その他備品などの補給>とは表裏一体の関係にあります。後方支援なしには戦闘は不可能です。これは欧米の軍事論の常識です。なお日本は米国のアフガニスタン攻撃以来、後方支援を続けています。
4度目の参戦はもちろん起こらないことを願いますが、9条改悪を阻止できたとしても参戦の可能性はあります。どういう形をとるでしょうか。例えばアメリカが北朝鮮を攻撃するケースです。この場合、日米安保体制と有事法制によって戦争に必然的に巻き込まれ、それが日本列島にどういう事態を引き起こすか、その先は想像力の問題です。
重要なことは戦争放棄と戦力不保持の9条条文が改悪されないで、健在であるにもかかわらず、こういう事態に巻き込まれるということです。だからこそ9条条文を守るだけでは十分ではありません。骨抜きにされた9条の内実をどう正常化するか、先に述べた日米安保体制廃棄などの3本柱によって、戦争放棄、戦力の不保持を掲げる本来の平和理念を取り戻さなければなりません。
<補記>戦後日本は米国主導の戦争に3度参戦したと上述しましたが、湾岸戦争(1990~91年)も加えれば、4度になります。湾岸戦争では日本は合計130億ドルの援助支出(「湾岸での平和回復活動」という名目の援助資金)のほか、自衛隊掃海艇など6隻をペルシャ湾へ派遣しました。(05年12月26日記)
以上
小日本主義のすすめ―アメリカとの心中を避けよう
安原和雄
以下は「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)世話人の安原による「小日本主義のすすめーアメリカとの心中を避けよう」と題する講演(2005年4月24日、東京・江東区で開かれた同会主催の05年度総会・講演会にて)の内容である。
安原は、石橋湛山元首相が提唱した「小日本主義」こそ今後の日本が歩むべき道であることを強調した。講演内容と質疑応答は同会発行の「コスタリカ通信」16号(05年6月20日付)に、さらにインターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月16日付)に掲載された。これをここ「仏教経済塾」に収録する。(05年12月25日)
<講演要旨>
1)何が問題なのか―歴史に学ぶこと
▽世界最大のテロリスト集団は誰か
2005年4月はベトナム解放(米軍侵略からの解放)30周年にあたります。私は作家の早乙女勝元氏を団長とする「解放30周年記念ツアー」に参加し、「大虐殺」で知られるベトナム中部のソンミ村も訪ねました。
1968年3月、村人たちがまだ眠っている早朝、米軍は武装ヘリで急襲、504人を次々と虐殺、奇跡的に生き残ったのはわずか8人でした。米兵たちは村人1人を殺害する度に、「1点」、「もう1点」と叫んだといいます。まさに虐殺ゲームそのものです。ベトナム人の戦争犠牲者は死者300万人、米軍が空から撒いた枯れ葉剤の後遺症で今なお苦しんでいる人が100万人もいます。
以上は第2次世界大戦後、地球規模で繰り返されたアメリカの蛮行の1例にすぎません。過去半世紀に米軍の直接の軍事力行使あるいはアメリカ製兵器による世界の犠牲者は数千万人に上るという指摘もあります。こういう事実からホワイトハウスをはじめとするアメリカ国家権力集団こそ世界最大のテロリスト集団といわざるを得ません。言語学者として著名なノーム・チョムスキーMIT(マサチューセッツ工科大学)教授は「ホワイトハウスの行状は世界残虐大賞に相当する」と指摘しています。
▽ブッシュ大統領らは戦争犯罪者?
一般のメディアが報道しないひとつの事実を紹介しましょう。05年3月5日東京・千代田区内で開かれた「イラク国際戦犯民衆法廷」(共同代表は大学教授ら)が判決を下しました。その内容はブッシュ米大統領、ブレア英首相は「侵略、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド(大虐殺)」で有罪、小泉首相も「侵略の罪、戦争犯罪のほう助・支援」で有罪というものです。このようにブッシュ大統領らを戦犯として裁く民間ベースの動きがあることを知っておくことも大切ではないでしょうか。
さらに見逃せないのは日米英が世界で孤立しつつあるという事実です。イラク攻撃のための米国主導の「有志連合」から脱落国が増えています。特にドイツは最初から「ノー」と拒否しました。ドイツと日本はアメリカの最も重要な同盟国ですが、このうちドイツが離脱したことの意味を重視する必要があります。
▽米国は「世界規模の乞食」なのか
フランスには「米帝国は世界規模の乞食」と主張する知識人もいます。それは3つの依存症に悩んでいるからです。たしかに軍事力は世界最強で、経済規模(GDP=国内総生産)でもアメリカが世界最大(次が日本)で、「帝国」ともいえる巨大な存在です。
しかし貿易、財政ともに大幅な赤字(特に財政赤字は巨額の軍事費が原因)であり、それを穴埋めするために金融(資金)面で大きく他の主要国(日本、中国などが米国債を購入して資金を供給)に依存せざるを得ない経済構造になっています。つまり他国のお陰でやっと「帝国」を維持し続けているにもかかわらず、「お陰様で」の感謝の一言もなく、傲慢な振る舞いを止めないようでは真の超大国とはいえないでしょう。
▽「小泉改革」のめざす路線は?
小泉改革は、中曽根政権時代(1982年~87年)に始まった新保守主義的ないわゆる構造改革の継承であり、その特色は2つあります。
1つは自由化・民営化促進による自由な企業利益の追求、いいかえれば自由市場原理主義の導入です。もう1つは日米軍事同盟下で日本の軍事国家化をめざしてひた走る路線です。小泉首相の靖国神社公式参拝、戦地イラクへの自衛隊派兵、憲法第9条(戦争放棄と戦力不保持)の改訂への動きなどはこの路線推進を意味しています。
▽憲法9条は守るだけで十分か
9条の条文を変えさせないで、守ることも重要ですが、9条は事実上骨抜きになっています。日本の軍事力は予算ベースでは、アメリカ、英国、フランスに次ぐ世界第4位で、しかも日米安保体制によって巨大な米軍基地の存在を許し、アメリカの戦争支援基地になっており、日本はすでに世界の軍事強国の一員といえます。
なぜ憲法9条が空洞化したのか、その答えは日米安保条約にあります。第3条で「自衛力の維持発展」を定めており、憲法9条の非武装の規定と矛盾しています。この憲法9条の非武装の理念を取り戻すためにはどうしたらよいかを今こそ考えるときではないでしょうか。
▽「日米運命共同体」泥船説もある。無理心中の恐れはないか
日米は日米安保体制を背景に軍事、経済両面で運命共同体となっていますが、現実は日本が軍事基地と資金の提供(大量の米国債購入など)によって米国を支えています。このつっかい棒を外せば、アメリカ帝国の崩壊も早まる、いわば泥船にもたとえられる運命共同体です。
しかしアメリカ帝国の崩壊と運命を共有し、心中するほど日本はお人好しである必要はないでしょう。アメリカ帝国を支えてきた敗戦国、日独のうちドイツはすでにイラク攻撃に「ノー」の意思表示を明確にし、泥船から脱出したことを見逃してはなりません。
2)どうするか―小日本主義のすすめ
▽石橋湛山の小日本主義論
ジャーナリストの大先達でもある石橋湛山(元首相)が戦前から戦後にかけて主張した小日本主義論の特質は次の5つにまとめることができます。
①植民地、領土拡大をめざす戦前の大日本主義のアンチテーゼであること
②軍備拡張は亡国への道であること
③平和憲法第9条は世界に先駆けた理念として高く評価すべきであること
④平和憲法と日米安保条約は両立不可能であり、憲法理念を優先させること
⑤東西冷戦時代に世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」という一般の発想を超える構想を提唱したこと
▽21世紀版小日本主義を実践し、日本を変革しよう
今こそ湛山の非戦・平和の小日本主義論に学び、21世紀にどう活かすかを考えるときです。これは同時にコスタリカ・モデル(軍隊廃止、平和教育、自然環境保全―の3本柱が国是)に学びながら、平和をつくり、アメリカとの心中を避ける道につながります。21世紀版小日本主義のすすめとして次の5つの変革路線を導き出すことができます。
①小泉流大国主義路線(新保守主義=自由市場原理主義導入と軍事国家化)への対抗軸として、質的に異なる変革路線であること
②憲法の平和理念を強化し、経済社会の持続性を確保するために第1回地球サミット(1992年)が採択した「持続可能な発展」(Sustainable Development)という新しい理念・思想を憲法に修正条項として盛り込むこと
③経済成長主義(大量生産・消費・廃棄→地球環境の汚染・破壊→地球生命共同体の崩壊)を捨てて、簡素な暮らし・経済(=脱「石油浪費社会」)へ構造変革を進めること
④日米安保体制を解体し、「東アジア平和同盟」を構築すること
⑤自衛隊を全面改組し、戦力なき「地球救援隊」(仮称)を創設すること
▽「地球救援隊」構想は平和への道
地球救援隊構想の説明だけにします。慶応大学で04年11月、講義の機会があり、この構想を提案したところ、ある女子学生は「私も同じことを考えていた」と感想文に書きました。男性よりも女性の方が未来志向型で、「21世紀は女性の時代」という印象もあります。
さて今なぜ非武装の地球救援隊なのでしょうか。今日の主要な脅威はいのち、自然、日常の暮らしへの脅威であり、いいかえれば地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威です。具体的には地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これらの脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもないでしょう。
地球救援隊は、これらの非軍事的脅威に対応するシステムで、この活動によって世界貢献と平和確保とを目標にします。
システムの概要は次の諸点です。
*地球のいのち・自然を守るために平和憲法第9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を活かす構想であること
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと
*自衛隊の全面改組を前提とする構想であり、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質の改革を進めること。例えば台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、装備として非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有すること
▽日米安保解体と米軍基地撤去がカギ
地球救援隊の創設は、軍隊を捨てたコスタリカ・モデル応用の日本版ともいえます。非武装のこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における非戦モデルの構築が不可欠です。そのためには戦争システムである日米安保体制の解体(安保条約第10条によると、日米のどちらかが条約終了の意思を相手国に通告すれば、1年後に終了)と米軍基地の撤去が鍵となります。さらに平和の構築をめざす東アジア平和同盟の締結も必要です。
ともかくこの構想の具体化は、日本が世界の対立と恐怖を超えて、和解と共生を促す道しるべとなって尊敬を得るだけでなく、21世紀の平和を確保する上で先導的役割を果たすことにもなると思います。
<講演後の質疑応答>
講演終了後、出席者と安原との間で一問一答が行われた。その要旨は次の通り。
Q(問い)1:日本がアメリカ国債(財務省証券)を買うことは、アメリカの対イラク政策に加担することになるのですか? “未来バンク”のような考え方、第三世界の事業に市民が投資することについて、どうお考えでしょうか?
A(答え):アメリカの財政赤字の最大の要因はイラク攻撃の出費など軍事費の増大です。財政を税金だけではまかない切れず、国債を発行して海外から資金を調達しています。それを買うのは加担することになります。日本は総額70兆円近く買っています。“未来バンク”の詳細はわからないが、拝金主義でなく、お金をいかに有効に使うか、金の遣い道について、こちらが希望を出すという動きが最近非常に強まっています。それは、歓迎すべきことです。
Q2:日本国民の中には、アメリカとの関係を絶つと何をされるかわからないから怖いと思っている人が多い。アメリカを怒らせたらどうなりますか?
A:日米間には強い経済関係があります。しかし、昨年度初めて、日中間の貿易額が日米間の貿易額を上回りました。今は日米英のチームは世界で孤立しつつあります。軍事力を振り回すアメリカと一緒に行動して、日本にとってプラスになりますか? アメリカに追随しなくてもやっていけるのです。
日米関係重視の観念に縛られるのは長い間の惰性にすぎません。ベルリンの壁崩壊のように歴史は激変します。変わってみれば、なぜ、あのような悪夢にとりつかれていたのかと思いますよ。現状にとらわれるのではなく、現状をどう変えたらよいのか、想像力を逞しくして考える知的作業をする必要があります。日米関係を縛っているのは日米安全保障条約ですが、同条約10条2項に、現在はどちらかが通告すれば、1年後には相手の同意なしに廃棄できると定めていることを忘れてはいけません。
Q3:核をなくすことを現実的に考えるにはどうしたらいいですか?
A:核保有大国は米ロ中仏英の5カ国です。核拡散防止条約は各締約国に「誠実に核軍縮交渉を行う義務」を課しています。また、核廃絶を支持する国が増え、非核地帯を宣言する地域も多い。むしろ核保有国が事実上包囲されている状況です。核廃絶の動きが地球規模で起こっています。
Q4:自由市場経済は破綻するのではないでしょうか。自由市場経済になれば問題が解決するような世論になっていますが、お考えは?
A:経済での勝ち組、負け組を分ける弱肉強食を是認するアメリカ流の市場経済はいずれ破綻すると思います。欧州は社会福祉を重視しており、これに学ぶべきです。歴史的には今は変革期に入っています。5~10年の間に大きく変わる可能性があります。そのためには私たちが評論家ではなく、行動者になる必要があります。「コスタリカに学ぶ会」はそのためにあります。
Q5:ドイツが米と心中しない道を選び、韓国がかつての軍政から変ったように日本も変わることができるのではないでしょうか?
A:独仏の和解があって今日の欧州連合(EU)ができました。日本と同じ敗戦国のドイツでは政治リーダーが日本の靖国神社参拝のようなことをしていない。もともとアメリカを生んだのは欧州だという思いがあります。日本もアメリカ一辺倒の姿勢から卒業して日中関係を大切に考え、東アジアを基盤に平和の構築を考えていくことが必要です。
以上
(上記の講演についてE-メールで質問、意見が出され、それにメールで安原が補足した内容は「小日本主義のすすめ(2)」と題して別途、仏教経済塾に収録する)
安原和雄
以下は「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)世話人の安原による「小日本主義のすすめーアメリカとの心中を避けよう」と題する講演(2005年4月24日、東京・江東区で開かれた同会主催の05年度総会・講演会にて)の内容である。
安原は、石橋湛山元首相が提唱した「小日本主義」こそ今後の日本が歩むべき道であることを強調した。講演内容と質疑応答は同会発行の「コスタリカ通信」16号(05年6月20日付)に、さらにインターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月16日付)に掲載された。これをここ「仏教経済塾」に収録する。(05年12月25日)
<講演要旨>
1)何が問題なのか―歴史に学ぶこと
▽世界最大のテロリスト集団は誰か
2005年4月はベトナム解放(米軍侵略からの解放)30周年にあたります。私は作家の早乙女勝元氏を団長とする「解放30周年記念ツアー」に参加し、「大虐殺」で知られるベトナム中部のソンミ村も訪ねました。
1968年3月、村人たちがまだ眠っている早朝、米軍は武装ヘリで急襲、504人を次々と虐殺、奇跡的に生き残ったのはわずか8人でした。米兵たちは村人1人を殺害する度に、「1点」、「もう1点」と叫んだといいます。まさに虐殺ゲームそのものです。ベトナム人の戦争犠牲者は死者300万人、米軍が空から撒いた枯れ葉剤の後遺症で今なお苦しんでいる人が100万人もいます。
以上は第2次世界大戦後、地球規模で繰り返されたアメリカの蛮行の1例にすぎません。過去半世紀に米軍の直接の軍事力行使あるいはアメリカ製兵器による世界の犠牲者は数千万人に上るという指摘もあります。こういう事実からホワイトハウスをはじめとするアメリカ国家権力集団こそ世界最大のテロリスト集団といわざるを得ません。言語学者として著名なノーム・チョムスキーMIT(マサチューセッツ工科大学)教授は「ホワイトハウスの行状は世界残虐大賞に相当する」と指摘しています。
▽ブッシュ大統領らは戦争犯罪者?
一般のメディアが報道しないひとつの事実を紹介しましょう。05年3月5日東京・千代田区内で開かれた「イラク国際戦犯民衆法廷」(共同代表は大学教授ら)が判決を下しました。その内容はブッシュ米大統領、ブレア英首相は「侵略、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド(大虐殺)」で有罪、小泉首相も「侵略の罪、戦争犯罪のほう助・支援」で有罪というものです。このようにブッシュ大統領らを戦犯として裁く民間ベースの動きがあることを知っておくことも大切ではないでしょうか。
さらに見逃せないのは日米英が世界で孤立しつつあるという事実です。イラク攻撃のための米国主導の「有志連合」から脱落国が増えています。特にドイツは最初から「ノー」と拒否しました。ドイツと日本はアメリカの最も重要な同盟国ですが、このうちドイツが離脱したことの意味を重視する必要があります。
▽米国は「世界規模の乞食」なのか
フランスには「米帝国は世界規模の乞食」と主張する知識人もいます。それは3つの依存症に悩んでいるからです。たしかに軍事力は世界最強で、経済規模(GDP=国内総生産)でもアメリカが世界最大(次が日本)で、「帝国」ともいえる巨大な存在です。
しかし貿易、財政ともに大幅な赤字(特に財政赤字は巨額の軍事費が原因)であり、それを穴埋めするために金融(資金)面で大きく他の主要国(日本、中国などが米国債を購入して資金を供給)に依存せざるを得ない経済構造になっています。つまり他国のお陰でやっと「帝国」を維持し続けているにもかかわらず、「お陰様で」の感謝の一言もなく、傲慢な振る舞いを止めないようでは真の超大国とはいえないでしょう。
▽「小泉改革」のめざす路線は?
小泉改革は、中曽根政権時代(1982年~87年)に始まった新保守主義的ないわゆる構造改革の継承であり、その特色は2つあります。
1つは自由化・民営化促進による自由な企業利益の追求、いいかえれば自由市場原理主義の導入です。もう1つは日米軍事同盟下で日本の軍事国家化をめざしてひた走る路線です。小泉首相の靖国神社公式参拝、戦地イラクへの自衛隊派兵、憲法第9条(戦争放棄と戦力不保持)の改訂への動きなどはこの路線推進を意味しています。
▽憲法9条は守るだけで十分か
9条の条文を変えさせないで、守ることも重要ですが、9条は事実上骨抜きになっています。日本の軍事力は予算ベースでは、アメリカ、英国、フランスに次ぐ世界第4位で、しかも日米安保体制によって巨大な米軍基地の存在を許し、アメリカの戦争支援基地になっており、日本はすでに世界の軍事強国の一員といえます。
なぜ憲法9条が空洞化したのか、その答えは日米安保条約にあります。第3条で「自衛力の維持発展」を定めており、憲法9条の非武装の規定と矛盾しています。この憲法9条の非武装の理念を取り戻すためにはどうしたらよいかを今こそ考えるときではないでしょうか。
▽「日米運命共同体」泥船説もある。無理心中の恐れはないか
日米は日米安保体制を背景に軍事、経済両面で運命共同体となっていますが、現実は日本が軍事基地と資金の提供(大量の米国債購入など)によって米国を支えています。このつっかい棒を外せば、アメリカ帝国の崩壊も早まる、いわば泥船にもたとえられる運命共同体です。
しかしアメリカ帝国の崩壊と運命を共有し、心中するほど日本はお人好しである必要はないでしょう。アメリカ帝国を支えてきた敗戦国、日独のうちドイツはすでにイラク攻撃に「ノー」の意思表示を明確にし、泥船から脱出したことを見逃してはなりません。
2)どうするか―小日本主義のすすめ
▽石橋湛山の小日本主義論
ジャーナリストの大先達でもある石橋湛山(元首相)が戦前から戦後にかけて主張した小日本主義論の特質は次の5つにまとめることができます。
①植民地、領土拡大をめざす戦前の大日本主義のアンチテーゼであること
②軍備拡張は亡国への道であること
③平和憲法第9条は世界に先駆けた理念として高く評価すべきであること
④平和憲法と日米安保条約は両立不可能であり、憲法理念を優先させること
⑤東西冷戦時代に世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」という一般の発想を超える構想を提唱したこと
▽21世紀版小日本主義を実践し、日本を変革しよう
今こそ湛山の非戦・平和の小日本主義論に学び、21世紀にどう活かすかを考えるときです。これは同時にコスタリカ・モデル(軍隊廃止、平和教育、自然環境保全―の3本柱が国是)に学びながら、平和をつくり、アメリカとの心中を避ける道につながります。21世紀版小日本主義のすすめとして次の5つの変革路線を導き出すことができます。
①小泉流大国主義路線(新保守主義=自由市場原理主義導入と軍事国家化)への対抗軸として、質的に異なる変革路線であること
②憲法の平和理念を強化し、経済社会の持続性を確保するために第1回地球サミット(1992年)が採択した「持続可能な発展」(Sustainable Development)という新しい理念・思想を憲法に修正条項として盛り込むこと
③経済成長主義(大量生産・消費・廃棄→地球環境の汚染・破壊→地球生命共同体の崩壊)を捨てて、簡素な暮らし・経済(=脱「石油浪費社会」)へ構造変革を進めること
④日米安保体制を解体し、「東アジア平和同盟」を構築すること
⑤自衛隊を全面改組し、戦力なき「地球救援隊」(仮称)を創設すること
▽「地球救援隊」構想は平和への道
地球救援隊構想の説明だけにします。慶応大学で04年11月、講義の機会があり、この構想を提案したところ、ある女子学生は「私も同じことを考えていた」と感想文に書きました。男性よりも女性の方が未来志向型で、「21世紀は女性の時代」という印象もあります。
さて今なぜ非武装の地球救援隊なのでしょうか。今日の主要な脅威はいのち、自然、日常の暮らしへの脅威であり、いいかえれば地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威です。具体的には地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これらの脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもないでしょう。
地球救援隊は、これらの非軍事的脅威に対応するシステムで、この活動によって世界貢献と平和確保とを目標にします。
システムの概要は次の諸点です。
*地球のいのち・自然を守るために平和憲法第9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を活かす構想であること
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと
*自衛隊の全面改組を前提とする構想であり、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質の改革を進めること。例えば台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、装備として非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有すること
▽日米安保解体と米軍基地撤去がカギ
地球救援隊の創設は、軍隊を捨てたコスタリカ・モデル応用の日本版ともいえます。非武装のこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における非戦モデルの構築が不可欠です。そのためには戦争システムである日米安保体制の解体(安保条約第10条によると、日米のどちらかが条約終了の意思を相手国に通告すれば、1年後に終了)と米軍基地の撤去が鍵となります。さらに平和の構築をめざす東アジア平和同盟の締結も必要です。
ともかくこの構想の具体化は、日本が世界の対立と恐怖を超えて、和解と共生を促す道しるべとなって尊敬を得るだけでなく、21世紀の平和を確保する上で先導的役割を果たすことにもなると思います。
<講演後の質疑応答>
講演終了後、出席者と安原との間で一問一答が行われた。その要旨は次の通り。
Q(問い)1:日本がアメリカ国債(財務省証券)を買うことは、アメリカの対イラク政策に加担することになるのですか? “未来バンク”のような考え方、第三世界の事業に市民が投資することについて、どうお考えでしょうか?
A(答え):アメリカの財政赤字の最大の要因はイラク攻撃の出費など軍事費の増大です。財政を税金だけではまかない切れず、国債を発行して海外から資金を調達しています。それを買うのは加担することになります。日本は総額70兆円近く買っています。“未来バンク”の詳細はわからないが、拝金主義でなく、お金をいかに有効に使うか、金の遣い道について、こちらが希望を出すという動きが最近非常に強まっています。それは、歓迎すべきことです。
Q2:日本国民の中には、アメリカとの関係を絶つと何をされるかわからないから怖いと思っている人が多い。アメリカを怒らせたらどうなりますか?
A:日米間には強い経済関係があります。しかし、昨年度初めて、日中間の貿易額が日米間の貿易額を上回りました。今は日米英のチームは世界で孤立しつつあります。軍事力を振り回すアメリカと一緒に行動して、日本にとってプラスになりますか? アメリカに追随しなくてもやっていけるのです。
日米関係重視の観念に縛られるのは長い間の惰性にすぎません。ベルリンの壁崩壊のように歴史は激変します。変わってみれば、なぜ、あのような悪夢にとりつかれていたのかと思いますよ。現状にとらわれるのではなく、現状をどう変えたらよいのか、想像力を逞しくして考える知的作業をする必要があります。日米関係を縛っているのは日米安全保障条約ですが、同条約10条2項に、現在はどちらかが通告すれば、1年後には相手の同意なしに廃棄できると定めていることを忘れてはいけません。
Q3:核をなくすことを現実的に考えるにはどうしたらいいですか?
A:核保有大国は米ロ中仏英の5カ国です。核拡散防止条約は各締約国に「誠実に核軍縮交渉を行う義務」を課しています。また、核廃絶を支持する国が増え、非核地帯を宣言する地域も多い。むしろ核保有国が事実上包囲されている状況です。核廃絶の動きが地球規模で起こっています。
Q4:自由市場経済は破綻するのではないでしょうか。自由市場経済になれば問題が解決するような世論になっていますが、お考えは?
A:経済での勝ち組、負け組を分ける弱肉強食を是認するアメリカ流の市場経済はいずれ破綻すると思います。欧州は社会福祉を重視しており、これに学ぶべきです。歴史的には今は変革期に入っています。5~10年の間に大きく変わる可能性があります。そのためには私たちが評論家ではなく、行動者になる必要があります。「コスタリカに学ぶ会」はそのためにあります。
Q5:ドイツが米と心中しない道を選び、韓国がかつての軍政から変ったように日本も変わることができるのではないでしょうか?
A:独仏の和解があって今日の欧州連合(EU)ができました。日本と同じ敗戦国のドイツでは政治リーダーが日本の靖国神社参拝のようなことをしていない。もともとアメリカを生んだのは欧州だという思いがあります。日本もアメリカ一辺倒の姿勢から卒業して日中関係を大切に考え、東アジアを基盤に平和の構築を考えていくことが必要です。
以上
(上記の講演についてE-メールで質問、意見が出され、それにメールで安原が補足した内容は「小日本主義のすすめ(2)」と題して別途、仏教経済塾に収録する)
いのちの尊重と仏教経済学
安原和雄
「仏教経済塾」は仏教経済学の立場からエッセーや主張を書いている。では仏教経済学とはどういう経済学なのか。大学の経済学部で教えている現代経済学とどう異なるのか―という疑問を抱かれるに違いない。そこで仏教経済学の特質、そこから導き出される政策提案について大まかに紹介したい。
以下は平成16年度足利工業大学公開講座(共通テーマは「心・いのち・地球 宗教対話のなかから」)の一つとして、私が行った講演「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代に生きる智慧」(2004年12月9日実施、『足利工業大学総合研究センター年報』第6号・05年6月に掲載)の概要である。『年報』掲載以後の新しい動きについては<補注>を新たに加えるなど「仏教経済塾」用に加筆補正した。(05年12月22日)
Ⅰ.地球環境時代とは=「いのちの尊重」が合い言葉
われわれは今、どういう時代に生きているのか。そしてどう生きたらよいのか。こういう視点、感覚の欠落した人生はつまらない。道を踏み外さないためには、まず正しい時代認識が不可欠である。それは今、地球環境時代に生きているという明確な自覚を持つことから始めたい。
地球環境時代とは、20世紀後半(第2次大戦後から1990年頃まで)の経済成長時代がもたらした巨大な矛盾と破局(=大量生産・消費・廃棄→資源・エネルギーの浪費→地球環境の汚染・破壊→地球の生命共同体の汚染・破壊→いのちの基盤の破局)からどう脱出し、いのちの持続性をいかに確保するか、平凡な表現を使えば、「いのちの尊重」が合い言葉となってきた時代といえよう。
▽自然災害は天災? それとも人災?
ここで問題を出したい。
#問い:最近の地球上の自然災害は天災なのか? それとも人災なのか?
#答え:結論を急げば、実は人災という認識をもつのが正しい。
以下にいくつかのデータとその背景を説明する。
*2003年に自然災害で亡くなった人は合計6万7800人(欧州を中心に異常高温で 3万2400人、イラン南東部の大地震で2万9600人など)。前年の1万2400 人から5倍以上に増えた。
*日本では04年夏の台風で死者・不明者は220名を超えた。さらに新潟中越地震で約 40名。台風で地盤がゆるんでいるところへ大地震が来て犠牲を大きくした。
*米本土、カリブ海諸国は、04年夏、大型ハリケーンのため2700人を超える犠牲者 を出した。
*背景に地球温暖化が進み、異常気象を引き起こし、それが大規模な気象災害をもたらし ているという事情がある。生産・消費という経済活動のほか、自動車利用など日常の暮 らしで石油を大量消費していることが地球温暖化の原因である。だから人災の要素が多 分にある。人間の日常的な行為が、「明日は我が身」「明日のいのちも分からない」という危機を招いていることを自覚したい。
<補注>国際通貨基金(IMF)のスマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生、インドネシアなど7カ国が被災)に伴う被害に関する中間的調査(毎日新聞、05年2月23日付)によると、死者・行方不明者が約30万人、避難民が約150万人に上った。一方、被害総額は62億~72億ドル(約6500億~7500億円)に達し、国別ではインドネシア40億~50億ドル、スリランカ10億ドル、モリディブ4億ドルが主な被害額である。地球温暖化による海面上昇が津波の被害を大きくしたという指摘もある。
Ⅱ.いのちを壊す文明=現代経済学の大きな責任
上述のような現状は、「〈いのち・自然〉を浸食する〈文明〉」と表現することもできるるのではないか。いいかえれば、文明がのさばり、いのち・自然を浸食し、汚染・破壊を進めて、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の基盤が破局に直面しつつあるのだ。
21世紀初頭の今、われわれ地球人は、文明が一段といのち・自然に食い込んでいく「破局」へと突き進むのか、それとも進路を大きく転換して「安定」に立ち戻るのか、その分岐点に立っている。いいかえれば「狂気」の現状からどう「正気」を取り戻すか、歴史的な選択を迫られている。これは次のように言い直すこともできよう。従来型の持続不可能な経済成長路線に執着するのか、それとも持続可能な発展を追求する路線へと大きく舵を切るのか、そのどちらを選択するのか、と。
もう一つ重要な点として、仏教経済思想が現代経済思想(注)を押し返せるかどうかが大きな課題になってきたことを指摘したい。横暴な文明を後押ししているのが現代経済思想であり、それによっていのち・自然を浸食し、地球環境の汚染・破壊を進めているのだから、現代経済学者たちの責任は大きい。これに対抗して地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
(注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる規制緩和・廃止、民営化、強者優先・弱肉強食の経済思想)などを指している。
Ⅲ.仏教経済学=「足るを知る経済」を求めて
地球環境時代の21世紀において「いのちの尊重」を実現させるには何が求められているのだろうか。今日ほどいのちが粗末に扱われ、自然や人間の生命が無造作に奪われていくことが日常茶飯事になっている時代がかつてあっただろうか。わが国の平和憲法第13条は「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」をうたっているが、この条文は第9条(戦争放棄と戦力の不保持、交戦権の否認)と同じように事実上空洞化しているというほかない。どうしたらよいのだろうか。生き方、暮らしのあり方、経済の構造を根本から変革する以外に妙策はあり得ない。
そのためにはまず新しい経済思想としての仏教経済学の構築が急務である。それでは仏教経済学(別称「知足=ちそく=の経済学」)は現代経済学(別称「貪欲=どんよく=の経済学」)に比べどのような特質、質的差異が考えられるのだろうか。いち早く仏教経済学を提唱したのは、ドイツ生まれの経済思想家、エルンスト・F・シューマッハー(注)である。彼は仏教経済学の特質に関連して次のように喝破した。「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じである」と。
(注)シューマッハー(1911~77年)の主著は世界的ベストセラーになった『スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学』で、この中で「仏教経済学」と題した章を設けて論じている。1955年、当時のビルマ(現ミャンマー)政府の経済顧問に招かれ、仏教信者とも交流を重ねた。キリスト教(カトリック)信徒であるが、ヨガの実践に関心を抱くなど異色の経済思想家である。
▽仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか
シューマッハーが唱える仏教経済学に私なりの主張も加味して仏教経済学と現代経済学の大まかなイメージ比較を試みたい。
<仏教経済学> <現代経済学>
地球環境時代 経済成長時代
いのちの尊重 無視
人間は自然の一員 自然を征服・支配・破壊
知足(簡素)と非暴力(平和) 貪欲(浪費)と暴力(戦争)
利他主義 利己主義
非貨幣価値を尊重 拝金主義
共生・相互依存・平等 孤立・分断・差別
個性を磨く競争・連帯 弱肉強食・人間は手段
持続可能な「発展」 持続不可能な「成長」
脱「経済成長主義」 経済成長至上主義
(脱「石油浪費経済」) (石油浪費経済)
▽「いのちの尊重」がキーワード
イメージ比較について若干の説明を加えたい。
仏教経済学は仏教の考え方を経済に活かすことをめざしている。何よりもいのち・自然を尊重し、人間は自然の一員という立場をとる。現代経済学がいのちを無視して視野の外に置き、しかも人間は自然とは対等ではなく、むしろ自然を征服・支配・破壊する対象として捉えるのと大きな違いである。だから仏教経済学は地球環境を大切にすることが求められる地球環境時代にふさわしい新しい経済思想である。
仏教経済学は欲望について知足(足るを知ること)を旨とし、簡素、非暴力(=平和)を実践し、「足るを知る経済」すなわち脱「石油浪費経済」(=脱「経済成長主義」)の構築をめざす。だから別称・知足の経済学ともいえる。
これに対し現代経済学は貪欲すなわち「もっともっと欲しい」という欲望の肥大化を是認する。貪欲は浪費、暴力(=戦争)を求める。それは同時に石油浪費経済(=「経済成長至上主義」)につながる。ケインズは貪欲のすすめを説いており、「地震や戦争も富の増進に役立ち得る」とさえ述べている。地震は新たな復興需要をもたらし、戦争は兵器生産などを通して軍需景気を促し、それが生産増大、経済成長を可能にするだろうと言いたいのである。現代経済学を別称・貪欲の経済学と性格づけるのは決して誇張ではない。
▽異なる人間観―利他主義と利己主義
人間観も大きく異なっている。現代経済学は利己主義、すなわち個人や企業の自己利益を優先させる人間観を前提にして理論をつくりあげている。たしかに自分さえよければそれでよいという、身勝手な人間が増えた。これは犯罪に走り勝ちな拝金主義にもつながっている。昨今、世の乱れは目を覆うものがあるが、その一半の責任は現代経済学の利己主義にあることを強調したい。
これに対し仏教経済学は「世のため、人のため」を重視する利他主義という人間観を前提に構想する。仏教では「自利利他の調和」、すなわち利他主義が結局自分の活力、感謝、安心をもたらすと説く。これはお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)を重視する発想でもある。例えば電車の中で座席を譲るのも立派な利他主義の実践であり、非貨幣価値を重視する行動である。
仏教経済学は共生を重視する。人間同士だけでなく、人間と自然との共生も重視する。なぜなら人間は自分一人の力で生きているのではなく、他人様のお陰で生きているからである。また自然からの恵みをいただきながら人間はいのちをつないでいる。だから人間同士、さらに人間と自然との相互依存関係を大切に考える。人間に限らず、動植物も含めて地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは相互依存関係の中でのみ生き、生かされている。ここから人間も、人間と自然もそれぞれお互いに対等・平等の地位にあると認識する。
これに反し、現代経済学には共生・相互依存・平等という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。そこには差別が生じやすい。また人間と自然とは切り離された状態にあり、人間が自然を開発・征服するのは当然と考えやすい。
▽競争―オンリーワンとナンバーワン
競争についてはどうか。仏教経済学も競争は重視する。なぜなら競争のない社会は活気とは無縁であり、停滞するからである。しかし競争はそれぞれの個性を尊重し、その個性を磨く、あるいは個性を生かす競争のすすめを説く。今風にいえば「オンリーワン」をめざす競争である。いいかえれば他人との競争というよりも、自分をより高めるための自分との競争である。ここから相互の連帯感も生まれる。
一方、現代経済学のすすめる競争は弱肉強食、優勝劣敗である。強者が弱者を打ち負かして当然という競争である。「オンリーワン」ではなくて、「ナンバーワン」をめざす競争といえる。これは今日の効率・利益至上主義に走る競争であり、ほんの一握りの「勝ち組」がその他大多数の「負け組」を見下す競争でもある。「勝ち組」といえども明日には自分が「負け組」に転落する悲劇が待ちかまえている競争である。この場合、人間は効率や利益の手段でしかない。人間尊重、ましていのち尊重という視点とは無縁である。
Ⅳ.持続可能な発展=環境保全と質の充実と平和と
ここで仏教経済学の柱の一つであり、21世紀のキーワードともいうべき「持続可能な発展」(Sustainable Development=持続的発展)について概略説明しておきたい。持続可能な発展は、国連主催の第1回地球サミット(1992年ブラジルのリオで開催)が打ち出して以来、広く世界で知られてきた概念、思想で、そのポイントは次の3点に集約できる。
*生活の質的改善を、生態系など自然環境の収容能力・自浄能力の限度内で生活しつつ、達成すること=量の拡大(経済成長至上主義=石油浪費経済)から質の充実(脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」)への転換
*動植物、人間すべてのいのちからなる生命共同体を尊重すること=21世紀の平和観
*戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せないこと=戦争、テロなど一切の暴力を拒否
以上をまとめていうと、持続可能な発展(=持続的発展)は、地球環境の保全と生活の質向上の両立を図り、戦争などの暴力を拒否することを指している。具体的には長寿・健康・教育さらに政治的自由と人権の保障、生産・消費の抑制と廃棄物の削減(=脱「石油浪費経済」)、失業の解消、公平な所得分配と所得格差の是正、生物学的な多様性を含む自然環境の保全、文化的・精神的充足感、軍事支出の削減、軍事同盟の解消―などが挙げられる。
▽持続的発展への新たな脅威
第2回地球サミット(=ヨハネスブルグ・サミット。2002年秋、南アフリカのヨハネスブルグで開かれた国連主催の世界サミット)は、その宣言で持続的発展にとって以下のような新たな脅威を指摘したことを紹介しておきたい。
貧富の格差拡大、市場のグローバル化(地球規模化)が招く不平等、飢餓、人種・宗教差別、水・衛生施設などの不足、組織犯罪、エイズ、武器・人身売買、テロ、占領、軍事衝突など。
これからも分かるように持続的発展は社会、経済、生態、文化、軍事にわたる包括的な内容からなっていることを理解する必要がある。ところが現代経済学の立場から持続的発展について「経済成長と環境保全の両立」をめざすものと誤用されることが少なくない。経済成長は「量の拡大」を意味しており、持続性は不可能である。経済成長への執着こそが地球環境の汚染・破壊を招く元凶であり、「質の充実」とは両立しないことを認識する必要がある。
Ⅴ.暮らしと経済社会の変革プラン=簡素、非暴力を軸に
仏教経済学の性格は次のように表現することもできよう。「コンクリートのすき間を縫って芽生えてきた緑の草花」と。ここでのコンクリートはいうまでもなく科学技術・石油文明を指している。この緑の草花はまだ大きくはないが、雑草のように生命力はたくましい。やがてコンクリートを覆いつくすときが来るだろう。そしてコンクリートに取って代わるには具体的な変革プランが必要である。
それは(1)簡素な暮らし(シンプルライフ=いのちの尊重)に切り替え、定着させること、(2)簡素な経済(シンプルエコノミー=脱「石油浪費経済」)に大胆に転換すること―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型車社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(風力、水力など)への転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)、健康人を増やす医療改革、戦争・テロ・暴力の拒否―などを視野に収めた日本改革プランである。
しかしここではいのちや非暴力に深くかかわっているテーマに絞って提案したい。
1)「いただきます」の復活、普及を
まず「いただきます」の復活、普及である。私はここ数年来、折にふれて「お陰様で」、「もったいない」とともに「いただきます」の必要性を強調してきた。これによっていのち、節約・感謝の精神を日常の暮らしの中で大切にしようといいたいのである。
#問い:食事前に唱える「いただきます」の意味は? 大量の食べ残しをどう考えるか?
#答え:動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。
千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
(注)千利休(せんのりきゅう、1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。
▽食べ残しは、いのちを粗末にすること
大量の食べ残しはいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。戦後の高度経済成長と使い捨ての時代になって以降、「いただきます」の意味を理解した上で食事を摂っている人が少なくなった。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。もちろん「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。だからこそ「いただきます」を「お陰様で」、「もったいない」と並んで復活、普及させることは重要なテーマといえる。
<補注>毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は東京、名古屋、京都を訪ね、「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いた。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、日本文化に根づいた〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしい。
2)戦力なき「地球救援隊」の創設を
次はアメリカ主導の大義なき戦争にストップをかけるためにも、平和憲法第9条(戦力の不保持)の理念を活かして、自衛隊を戦力なき「地球救援隊」(仮称)に全面改組することを提唱したい。
テロ制圧と自由・民主主義を目標に掲げたアメリカ主導のアフガニスタン、イラクへの戦争はアメリカの覇権主義に根ざした武力行使であるが、その狙いの一つは石油確保にある。さらに戦争は人命、生活、自然環境を破壊する元凶そのものである。こういう戦争に正義はないし、「人道支援」という名目にせよ、日本の自衛隊を派兵しなければならない正当な根拠はない。同時に平和憲法第9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようとする動きが自民党を中心に顕著になりつつあることは見逃せない。
<補注>自民党は05年11月22日の「立党50年記念党大会」で新憲法草案を正式発表した。その中で現行憲法9条1項の「戦争放棄」は残しているが、肝心の2項「戦力の不保持と交戦権の否認」を削除し、「自衛軍の保持」を明記している。正式の軍隊を持ち、海外で武力行使ができることを憲法上認めようという改悪である。
▽「平和憲法は宝」と海外で高く評価
まず強調したいのは憲法第9条は海外で評価が高く、改悪に反対の声が高まっていることである。一例を挙げれば、元上智大学長、イエズス会神父のヨゼフ・ピッタウ師(イタリア人)は「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という意見の持ち主である。平和憲法の理念を活かすためには、ミサイル防衛など戦力の質的増強を図る自衛隊を戦力なき組織に全面改組することが求められる。
次に地球環境時代の脅威は多様であり、例えば地球温暖化―異常気象によって多数の犠牲者が続出するという非軍事的脅威こそ主要な脅威であり、外国からの軍事的脅威は決して主要な脅威ではないことを認識する必要がある。いいかえれば地球環境時代の主要な脅威にはミサイルや戦闘機は無力である。従って地球環境時代にふさわしい救援組織の創設が急務である。
さらに現代経済学、すなわち貪欲の経済学は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認するが、仏教経済学、すなわち知足の経済学は、いのち・自然を尊重する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。こういう仏教経済学の考え方から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出される。
▽戦力なき地球救援隊構想の概要
さて戦力なき地球救援隊構想の概要は次の諸点からなっている。
*地球救援隊は軍事的脅威に対応する組織ではなく、非軍事的脅威(大規模災害、感染症 などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的 救助・支援をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な 人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*自衛隊の戦力なき「地球救援隊」(仮称)への全面改組であること。従って地球救援隊 と自衛隊とが共に併存するものではないこと。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質 の改革を進めること。
・装備としては戦闘機、ミサイル、武装ヘリコプター、戦車、護衛艦、潜水艦、対潜哨戒 機、弾丸などの兵器は廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸 送船、食料、医薬品などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路 交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装 の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員は約25万人)を大幅に削減し、訓 練は戦闘訓練ではなく、救助・支援の訓練とする。
*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、 治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で 新立法を行う。自衛隊法ほか有事関連法は廃止すること。
▽宮沢賢治の慈悲と利他の心
以上のような地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨ニモマケズ」の慈悲と利他の心が込められている。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は岩手県生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
「雨ニモマケズ」の大要を紹介したい。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
慾ハナク イツモシヅカニワラッテイル
(中略)
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
(中略)
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨ニモマケズ」として読み替えれば、何がみえてくるか。「南ニ死ニサウナ人アレバ」は発展途上国の栄養失調、病気、飢餓、劣悪な生活インフラで苦しんでいる10億人を超える人々のことであり、「北ニケンクワ(喧嘩)」とはアメリカ(北米)主導のアフガニスタン、イラクへの攻撃を指している。たしかに「ツマラナイカラヤメロ」という声は地球上を覆いつつある。
最後の「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」は「そういう国に日本はなりたい」と読み直したい。宮沢賢治が今生きていれば、そう詠い直すに違いない。賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。こういう道を大胆に選択することこそが地球環境時代に生きる智慧といえるのではないか。
<参考文献>
E・F・シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフルー人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
同著『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)
安原和雄著『足るを知る経済ー仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
同「日本をどう創り直すかー仏教経済思想に立って」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第23号、2004年1月)
同「二十一世紀版小日本主義のすすめー大国主義路線に抗して」(同第24号、2005年1月)
以上
安原和雄
「仏教経済塾」は仏教経済学の立場からエッセーや主張を書いている。では仏教経済学とはどういう経済学なのか。大学の経済学部で教えている現代経済学とどう異なるのか―という疑問を抱かれるに違いない。そこで仏教経済学の特質、そこから導き出される政策提案について大まかに紹介したい。
以下は平成16年度足利工業大学公開講座(共通テーマは「心・いのち・地球 宗教対話のなかから」)の一つとして、私が行った講演「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代に生きる智慧」(2004年12月9日実施、『足利工業大学総合研究センター年報』第6号・05年6月に掲載)の概要である。『年報』掲載以後の新しい動きについては<補注>を新たに加えるなど「仏教経済塾」用に加筆補正した。(05年12月22日)
Ⅰ.地球環境時代とは=「いのちの尊重」が合い言葉
われわれは今、どういう時代に生きているのか。そしてどう生きたらよいのか。こういう視点、感覚の欠落した人生はつまらない。道を踏み外さないためには、まず正しい時代認識が不可欠である。それは今、地球環境時代に生きているという明確な自覚を持つことから始めたい。
地球環境時代とは、20世紀後半(第2次大戦後から1990年頃まで)の経済成長時代がもたらした巨大な矛盾と破局(=大量生産・消費・廃棄→資源・エネルギーの浪費→地球環境の汚染・破壊→地球の生命共同体の汚染・破壊→いのちの基盤の破局)からどう脱出し、いのちの持続性をいかに確保するか、平凡な表現を使えば、「いのちの尊重」が合い言葉となってきた時代といえよう。
▽自然災害は天災? それとも人災?
ここで問題を出したい。
#問い:最近の地球上の自然災害は天災なのか? それとも人災なのか?
#答え:結論を急げば、実は人災という認識をもつのが正しい。
以下にいくつかのデータとその背景を説明する。
*2003年に自然災害で亡くなった人は合計6万7800人(欧州を中心に異常高温で 3万2400人、イラン南東部の大地震で2万9600人など)。前年の1万2400 人から5倍以上に増えた。
*日本では04年夏の台風で死者・不明者は220名を超えた。さらに新潟中越地震で約 40名。台風で地盤がゆるんでいるところへ大地震が来て犠牲を大きくした。
*米本土、カリブ海諸国は、04年夏、大型ハリケーンのため2700人を超える犠牲者 を出した。
*背景に地球温暖化が進み、異常気象を引き起こし、それが大規模な気象災害をもたらし ているという事情がある。生産・消費という経済活動のほか、自動車利用など日常の暮 らしで石油を大量消費していることが地球温暖化の原因である。だから人災の要素が多 分にある。人間の日常的な行為が、「明日は我が身」「明日のいのちも分からない」という危機を招いていることを自覚したい。
<補注>国際通貨基金(IMF)のスマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生、インドネシアなど7カ国が被災)に伴う被害に関する中間的調査(毎日新聞、05年2月23日付)によると、死者・行方不明者が約30万人、避難民が約150万人に上った。一方、被害総額は62億~72億ドル(約6500億~7500億円)に達し、国別ではインドネシア40億~50億ドル、スリランカ10億ドル、モリディブ4億ドルが主な被害額である。地球温暖化による海面上昇が津波の被害を大きくしたという指摘もある。
Ⅱ.いのちを壊す文明=現代経済学の大きな責任
上述のような現状は、「〈いのち・自然〉を浸食する〈文明〉」と表現することもできるるのではないか。いいかえれば、文明がのさばり、いのち・自然を浸食し、汚染・破壊を進めて、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の基盤が破局に直面しつつあるのだ。
21世紀初頭の今、われわれ地球人は、文明が一段といのち・自然に食い込んでいく「破局」へと突き進むのか、それとも進路を大きく転換して「安定」に立ち戻るのか、その分岐点に立っている。いいかえれば「狂気」の現状からどう「正気」を取り戻すか、歴史的な選択を迫られている。これは次のように言い直すこともできよう。従来型の持続不可能な経済成長路線に執着するのか、それとも持続可能な発展を追求する路線へと大きく舵を切るのか、そのどちらを選択するのか、と。
もう一つ重要な点として、仏教経済思想が現代経済思想(注)を押し返せるかどうかが大きな課題になってきたことを指摘したい。横暴な文明を後押ししているのが現代経済思想であり、それによっていのち・自然を浸食し、地球環境の汚染・破壊を進めているのだから、現代経済学者たちの責任は大きい。これに対抗して地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
(注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる規制緩和・廃止、民営化、強者優先・弱肉強食の経済思想)などを指している。
Ⅲ.仏教経済学=「足るを知る経済」を求めて
地球環境時代の21世紀において「いのちの尊重」を実現させるには何が求められているのだろうか。今日ほどいのちが粗末に扱われ、自然や人間の生命が無造作に奪われていくことが日常茶飯事になっている時代がかつてあっただろうか。わが国の平和憲法第13条は「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」をうたっているが、この条文は第9条(戦争放棄と戦力の不保持、交戦権の否認)と同じように事実上空洞化しているというほかない。どうしたらよいのだろうか。生き方、暮らしのあり方、経済の構造を根本から変革する以外に妙策はあり得ない。
そのためにはまず新しい経済思想としての仏教経済学の構築が急務である。それでは仏教経済学(別称「知足=ちそく=の経済学」)は現代経済学(別称「貪欲=どんよく=の経済学」)に比べどのような特質、質的差異が考えられるのだろうか。いち早く仏教経済学を提唱したのは、ドイツ生まれの経済思想家、エルンスト・F・シューマッハー(注)である。彼は仏教経済学の特質に関連して次のように喝破した。「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じである」と。
(注)シューマッハー(1911~77年)の主著は世界的ベストセラーになった『スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学』で、この中で「仏教経済学」と題した章を設けて論じている。1955年、当時のビルマ(現ミャンマー)政府の経済顧問に招かれ、仏教信者とも交流を重ねた。キリスト教(カトリック)信徒であるが、ヨガの実践に関心を抱くなど異色の経済思想家である。
▽仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか
シューマッハーが唱える仏教経済学に私なりの主張も加味して仏教経済学と現代経済学の大まかなイメージ比較を試みたい。
<仏教経済学> <現代経済学>
地球環境時代 経済成長時代
いのちの尊重 無視
人間は自然の一員 自然を征服・支配・破壊
知足(簡素)と非暴力(平和) 貪欲(浪費)と暴力(戦争)
利他主義 利己主義
非貨幣価値を尊重 拝金主義
共生・相互依存・平等 孤立・分断・差別
個性を磨く競争・連帯 弱肉強食・人間は手段
持続可能な「発展」 持続不可能な「成長」
脱「経済成長主義」 経済成長至上主義
(脱「石油浪費経済」) (石油浪費経済)
▽「いのちの尊重」がキーワード
イメージ比較について若干の説明を加えたい。
仏教経済学は仏教の考え方を経済に活かすことをめざしている。何よりもいのち・自然を尊重し、人間は自然の一員という立場をとる。現代経済学がいのちを無視して視野の外に置き、しかも人間は自然とは対等ではなく、むしろ自然を征服・支配・破壊する対象として捉えるのと大きな違いである。だから仏教経済学は地球環境を大切にすることが求められる地球環境時代にふさわしい新しい経済思想である。
仏教経済学は欲望について知足(足るを知ること)を旨とし、簡素、非暴力(=平和)を実践し、「足るを知る経済」すなわち脱「石油浪費経済」(=脱「経済成長主義」)の構築をめざす。だから別称・知足の経済学ともいえる。
これに対し現代経済学は貪欲すなわち「もっともっと欲しい」という欲望の肥大化を是認する。貪欲は浪費、暴力(=戦争)を求める。それは同時に石油浪費経済(=「経済成長至上主義」)につながる。ケインズは貪欲のすすめを説いており、「地震や戦争も富の増進に役立ち得る」とさえ述べている。地震は新たな復興需要をもたらし、戦争は兵器生産などを通して軍需景気を促し、それが生産増大、経済成長を可能にするだろうと言いたいのである。現代経済学を別称・貪欲の経済学と性格づけるのは決して誇張ではない。
▽異なる人間観―利他主義と利己主義
人間観も大きく異なっている。現代経済学は利己主義、すなわち個人や企業の自己利益を優先させる人間観を前提にして理論をつくりあげている。たしかに自分さえよければそれでよいという、身勝手な人間が増えた。これは犯罪に走り勝ちな拝金主義にもつながっている。昨今、世の乱れは目を覆うものがあるが、その一半の責任は現代経済学の利己主義にあることを強調したい。
これに対し仏教経済学は「世のため、人のため」を重視する利他主義という人間観を前提に構想する。仏教では「自利利他の調和」、すなわち利他主義が結局自分の活力、感謝、安心をもたらすと説く。これはお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)を重視する発想でもある。例えば電車の中で座席を譲るのも立派な利他主義の実践であり、非貨幣価値を重視する行動である。
仏教経済学は共生を重視する。人間同士だけでなく、人間と自然との共生も重視する。なぜなら人間は自分一人の力で生きているのではなく、他人様のお陰で生きているからである。また自然からの恵みをいただきながら人間はいのちをつないでいる。だから人間同士、さらに人間と自然との相互依存関係を大切に考える。人間に限らず、動植物も含めて地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは相互依存関係の中でのみ生き、生かされている。ここから人間も、人間と自然もそれぞれお互いに対等・平等の地位にあると認識する。
これに反し、現代経済学には共生・相互依存・平等という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。そこには差別が生じやすい。また人間と自然とは切り離された状態にあり、人間が自然を開発・征服するのは当然と考えやすい。
▽競争―オンリーワンとナンバーワン
競争についてはどうか。仏教経済学も競争は重視する。なぜなら競争のない社会は活気とは無縁であり、停滞するからである。しかし競争はそれぞれの個性を尊重し、その個性を磨く、あるいは個性を生かす競争のすすめを説く。今風にいえば「オンリーワン」をめざす競争である。いいかえれば他人との競争というよりも、自分をより高めるための自分との競争である。ここから相互の連帯感も生まれる。
一方、現代経済学のすすめる競争は弱肉強食、優勝劣敗である。強者が弱者を打ち負かして当然という競争である。「オンリーワン」ではなくて、「ナンバーワン」をめざす競争といえる。これは今日の効率・利益至上主義に走る競争であり、ほんの一握りの「勝ち組」がその他大多数の「負け組」を見下す競争でもある。「勝ち組」といえども明日には自分が「負け組」に転落する悲劇が待ちかまえている競争である。この場合、人間は効率や利益の手段でしかない。人間尊重、ましていのち尊重という視点とは無縁である。
Ⅳ.持続可能な発展=環境保全と質の充実と平和と
ここで仏教経済学の柱の一つであり、21世紀のキーワードともいうべき「持続可能な発展」(Sustainable Development=持続的発展)について概略説明しておきたい。持続可能な発展は、国連主催の第1回地球サミット(1992年ブラジルのリオで開催)が打ち出して以来、広く世界で知られてきた概念、思想で、そのポイントは次の3点に集約できる。
*生活の質的改善を、生態系など自然環境の収容能力・自浄能力の限度内で生活しつつ、達成すること=量の拡大(経済成長至上主義=石油浪費経済)から質の充実(脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」)への転換
*動植物、人間すべてのいのちからなる生命共同体を尊重すること=21世紀の平和観
*戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せないこと=戦争、テロなど一切の暴力を拒否
以上をまとめていうと、持続可能な発展(=持続的発展)は、地球環境の保全と生活の質向上の両立を図り、戦争などの暴力を拒否することを指している。具体的には長寿・健康・教育さらに政治的自由と人権の保障、生産・消費の抑制と廃棄物の削減(=脱「石油浪費経済」)、失業の解消、公平な所得分配と所得格差の是正、生物学的な多様性を含む自然環境の保全、文化的・精神的充足感、軍事支出の削減、軍事同盟の解消―などが挙げられる。
▽持続的発展への新たな脅威
第2回地球サミット(=ヨハネスブルグ・サミット。2002年秋、南アフリカのヨハネスブルグで開かれた国連主催の世界サミット)は、その宣言で持続的発展にとって以下のような新たな脅威を指摘したことを紹介しておきたい。
貧富の格差拡大、市場のグローバル化(地球規模化)が招く不平等、飢餓、人種・宗教差別、水・衛生施設などの不足、組織犯罪、エイズ、武器・人身売買、テロ、占領、軍事衝突など。
これからも分かるように持続的発展は社会、経済、生態、文化、軍事にわたる包括的な内容からなっていることを理解する必要がある。ところが現代経済学の立場から持続的発展について「経済成長と環境保全の両立」をめざすものと誤用されることが少なくない。経済成長は「量の拡大」を意味しており、持続性は不可能である。経済成長への執着こそが地球環境の汚染・破壊を招く元凶であり、「質の充実」とは両立しないことを認識する必要がある。
Ⅴ.暮らしと経済社会の変革プラン=簡素、非暴力を軸に
仏教経済学の性格は次のように表現することもできよう。「コンクリートのすき間を縫って芽生えてきた緑の草花」と。ここでのコンクリートはいうまでもなく科学技術・石油文明を指している。この緑の草花はまだ大きくはないが、雑草のように生命力はたくましい。やがてコンクリートを覆いつくすときが来るだろう。そしてコンクリートに取って代わるには具体的な変革プランが必要である。
それは(1)簡素な暮らし(シンプルライフ=いのちの尊重)に切り替え、定着させること、(2)簡素な経済(シンプルエコノミー=脱「石油浪費経済」)に大胆に転換すること―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型車社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(風力、水力など)への転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)、健康人を増やす医療改革、戦争・テロ・暴力の拒否―などを視野に収めた日本改革プランである。
しかしここではいのちや非暴力に深くかかわっているテーマに絞って提案したい。
1)「いただきます」の復活、普及を
まず「いただきます」の復活、普及である。私はここ数年来、折にふれて「お陰様で」、「もったいない」とともに「いただきます」の必要性を強調してきた。これによっていのち、節約・感謝の精神を日常の暮らしの中で大切にしようといいたいのである。
#問い:食事前に唱える「いただきます」の意味は? 大量の食べ残しをどう考えるか?
#答え:動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。
千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
(注)千利休(せんのりきゅう、1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。
▽食べ残しは、いのちを粗末にすること
大量の食べ残しはいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。戦後の高度経済成長と使い捨ての時代になって以降、「いただきます」の意味を理解した上で食事を摂っている人が少なくなった。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。もちろん「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。だからこそ「いただきます」を「お陰様で」、「もったいない」と並んで復活、普及させることは重要なテーマといえる。
<補注>毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は東京、名古屋、京都を訪ね、「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いた。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、日本文化に根づいた〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしい。
2)戦力なき「地球救援隊」の創設を
次はアメリカ主導の大義なき戦争にストップをかけるためにも、平和憲法第9条(戦力の不保持)の理念を活かして、自衛隊を戦力なき「地球救援隊」(仮称)に全面改組することを提唱したい。
テロ制圧と自由・民主主義を目標に掲げたアメリカ主導のアフガニスタン、イラクへの戦争はアメリカの覇権主義に根ざした武力行使であるが、その狙いの一つは石油確保にある。さらに戦争は人命、生活、自然環境を破壊する元凶そのものである。こういう戦争に正義はないし、「人道支援」という名目にせよ、日本の自衛隊を派兵しなければならない正当な根拠はない。同時に平和憲法第9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようとする動きが自民党を中心に顕著になりつつあることは見逃せない。
<補注>自民党は05年11月22日の「立党50年記念党大会」で新憲法草案を正式発表した。その中で現行憲法9条1項の「戦争放棄」は残しているが、肝心の2項「戦力の不保持と交戦権の否認」を削除し、「自衛軍の保持」を明記している。正式の軍隊を持ち、海外で武力行使ができることを憲法上認めようという改悪である。
▽「平和憲法は宝」と海外で高く評価
まず強調したいのは憲法第9条は海外で評価が高く、改悪に反対の声が高まっていることである。一例を挙げれば、元上智大学長、イエズス会神父のヨゼフ・ピッタウ師(イタリア人)は「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という意見の持ち主である。平和憲法の理念を活かすためには、ミサイル防衛など戦力の質的増強を図る自衛隊を戦力なき組織に全面改組することが求められる。
次に地球環境時代の脅威は多様であり、例えば地球温暖化―異常気象によって多数の犠牲者が続出するという非軍事的脅威こそ主要な脅威であり、外国からの軍事的脅威は決して主要な脅威ではないことを認識する必要がある。いいかえれば地球環境時代の主要な脅威にはミサイルや戦闘機は無力である。従って地球環境時代にふさわしい救援組織の創設が急務である。
さらに現代経済学、すなわち貪欲の経済学は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認するが、仏教経済学、すなわち知足の経済学は、いのち・自然を尊重する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。こういう仏教経済学の考え方から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出される。
▽戦力なき地球救援隊構想の概要
さて戦力なき地球救援隊構想の概要は次の諸点からなっている。
*地球救援隊は軍事的脅威に対応する組織ではなく、非軍事的脅威(大規模災害、感染症 などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的 救助・支援をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な 人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*自衛隊の戦力なき「地球救援隊」(仮称)への全面改組であること。従って地球救援隊 と自衛隊とが共に併存するものではないこと。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質 の改革を進めること。
・装備としては戦闘機、ミサイル、武装ヘリコプター、戦車、護衛艦、潜水艦、対潜哨戒 機、弾丸などの兵器は廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸 送船、食料、医薬品などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路 交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装 の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員は約25万人)を大幅に削減し、訓 練は戦闘訓練ではなく、救助・支援の訓練とする。
*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、 治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で 新立法を行う。自衛隊法ほか有事関連法は廃止すること。
▽宮沢賢治の慈悲と利他の心
以上のような地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨ニモマケズ」の慈悲と利他の心が込められている。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は岩手県生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
「雨ニモマケズ」の大要を紹介したい。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
慾ハナク イツモシヅカニワラッテイル
(中略)
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
(中略)
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨ニモマケズ」として読み替えれば、何がみえてくるか。「南ニ死ニサウナ人アレバ」は発展途上国の栄養失調、病気、飢餓、劣悪な生活インフラで苦しんでいる10億人を超える人々のことであり、「北ニケンクワ(喧嘩)」とはアメリカ(北米)主導のアフガニスタン、イラクへの攻撃を指している。たしかに「ツマラナイカラヤメロ」という声は地球上を覆いつつある。
最後の「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」は「そういう国に日本はなりたい」と読み直したい。宮沢賢治が今生きていれば、そう詠い直すに違いない。賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。こういう道を大胆に選択することこそが地球環境時代に生きる智慧といえるのではないか。
<参考文献>
E・F・シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフルー人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
同著『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)
安原和雄著『足るを知る経済ー仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
同「日本をどう創り直すかー仏教経済思想に立って」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第23号、2004年1月)
同「二十一世紀版小日本主義のすすめー大国主義路線に抗して」(同第24号、2005年1月)
以上
異説・東アジアサミット
安原和雄
第1回東アジアサミット(首脳会議)が2005年12月14日マレーシアのクアラルンプールで開かれた。将来の「東アジア共同体」結成へ向けて歴史的な第一歩を踏み出したと評価できる。多難な道のりを歩むであろうことはいうまでもないが、焦点は、それが軍事同盟を排した「東アジア平和同盟」結成につながるかどうかであると考える。
私の印象では平和への芽があちこちに伏在しており、近未来にそれが具体化してくることを大いに期待したい。しかし一般メディアの報道をみるかぎり、そういう未来図はどこにも見いだせない。
以下は、仏教経済学という独自の視点に立って、今回のサミットの中に平和(=非核・非戦・非暴力)への展望を探ろうと試みる「異説・東アジアサミット」である。
▽東アジアサミットの参加国と宣言
東アジアサミットの参加国は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)プラス3カ国(日中韓)にオーストラリア、ニュージーランド、インドを加えた16カ国。
採択されたクアラルンプール宣言の中で特に重要と思うのは以下の3点である。
(東南アジア友好協力条約の再確認)
国連憲章の目的と諸原則、東南アジア友好協力条約及びその他の認識された国際法の諸原則に対する約束を再確認
(共同体形成に重要な役割)
東アジア首脳会議がこの地域における共同体の形成に重要な役割を果たし得るとの見方を共有
(平和的共存)
われわれの国々が互いにまた世界全体と共に、公正、民主的かつ調和的な環境の中で平和的に共存することを確保するための、政治及び安全保障上の問題についての戦略的対話の進展と協力の促進
▽日中間の主導権争いが注目点なのか?
今回の東アジアサミットを日本のメディアはどのような視点から伝えたのか。一口にいえば、日中間の主導権争いに重点を置きすぎたのではないか。一例をあげれば、次のようである。
「12日のASEANプラス3首脳会議(注1)では、将来の共同体の枠組みをめぐって〈13カ国主導〉か、それとも域外国(注2)を加えた〈拡大路線〉かが焦点となった。13カ国にこだわったのが中国であり、一方、中国色を薄めるため拡大路線を支持したのが日本だった」
日中間に意見、姿勢の違いがあることは事実である。問題はそれを望ましくないと見るのか、それとも相違点を浮き彫りにして、それを煽るのかである。この点では「協調点を見出すべきだ」という論調と、「中国に屈するな」とでもいいたげな偏狭なナショナリズムををかき立てるかのような論調とに2分された。
メディアの間にも意見、主張の違いがあるのは自由な社会では当然であろう。しかしことはアジアの国造りと平和づくりにかかわっているのである。目先の感情論に走ることは厳に戒めなければならない。
(注1)ASEANプラス3(日中韓)首脳会議が、14日の東アジアサミットに先立って12日に開かれ、「ASEANプラス3が東アジア共同体を達成するための主要な手段」、「ASEANが推進力となる」という宣言を採択した。ここでの「共同体を達成するための主要な手段」という表現と、東アジアサミット宣言の「共同体形成に重要な役割」という表現の違いが話題となった。
「主要な手段」(the main vehicle)と「重要な役割」(a significant role)の違いが意味するものはなにか。それは東アジア共同体形成には「ASEANプラス3」が主役であり、一方の東アジアサミットは脇役であるという示唆であろう。
(注2)域外国とはオーストラリア、ニュージーランド、インドの3カ国で、日本の主張によって東アジアサミットに新たにこの3カ国が加わったが、この拡大された東アジアサミットは東アジア共同体の形成には脇役としての地位に置かれた。
▽サミット宣言のもう一つの読み方
首脳会談や首脳会議が採択する共同声明や宣言をどう読むかはきわめて重要である。読み方によっては一般メディアの報道から受ける印象とはまるで異なるイメージが浮かび上がってくるからである。私は宣言全文(和文と英文)をインターネットを通じて取り寄せ、読んだ。その印象では、重要であるにもかかわらず、日本の一般メディアが見逃した点がいくつかある。2つのことを以下に指摘したい。
(その1)東南アジア友好協力条約
東南アジア友好協力条約(TAC=Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia)をご存じだろうか。この条約の名前はASEANプラス3首脳会議と東アジア首脳会議の双方の宣言に盛り込まれ、条約に基づく約束が再確認されている。にもかかわらず一般紙の報道では脱落している。なぜなのか。
外務省がまとめた「宣言の骨子」をみると、やはり省略されている。一般紙にこの条約の名前が出てこないのは、外務省作成の骨子をほとんどそのまま報道したためではないかと推測する。私はすでに30年の歴史を持つこの条約の存在価値を再評価する必要があると考える。同条約の概要は以下の通りである。
*ベトナム戦争終結の翌年、1976年2月インドネシアのバリ島で開かれたASEAN初の首脳会議でTACは締結された。
*条約はアジア・アフリカ会議(注)で採択された平和10原則を基調にして、国連憲章と主権・領土保全の尊重、すべての国の対等・平等―などをうたっている。
(注)1955年4月インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ諸国の会議で、日本を含む29カ国が参加した。反帝国主義、反植民地主義のもとに民族独立・人種平等・世界平和・友好協力などをうたった平和10原則を決議した。
*現在TACの加盟国はASEAN10カ国のほかに日本、中国、韓国、ロシア、インドなど7カ国が加盟しており、加盟国の総人口は約34億人で、世界人口63億人の半分以上を占めている。
以上から分かるように、TACは東南アジアにおける平和と友好を推進する上で重要な役割を担っており、そのことが首脳宣言で再確認された事実を軽視すると、今後の展望を誤ることにもなるだろう。ASEAN10カ国の注目すべき動きとして、97年に東南アジア非核兵器地帯条約に調印していることも挙げておきたい。
(その2)平和的共存
もう一つは東アジアサミットの宣言に「平和的共存」という文言が盛り込まれていることである。これはTACと違って、一般紙が報道した「サミット宣言要旨」に載っている。外務省作成の宣言骨子にも出ており、それをそのまま報道したからであろう。しかし問題はこれについてのコメント、解説の類は一般紙の報道では皆無に近いことである。
さりげなくサミット宣言に盛り込まれたこの文言をもっと重視する必要があると私は考える。この部分の宣言文をもう一度紹介すると、次のようである。
「われわれの国々が互いにまた世界全体と共に、公正、民主的かつ調和的な環境の中で平和的に共存することを確保する・・・」
英文は次のようである。
to ensure that our countries can live at peace with one another and with the world at large in a just, democratic and harmonious environment;
私は「平和的共存」という文言から、日本国平和憲法前文に盛り込まれている「平和的生存権」(憲法学者の中には「平和的共存権」と理解すべきだという有力な意見もある)を連想した。自民党新憲法草案によると、前文の平和的生存権を全面削除することになっている。
宣言案作成の舞台裏では様々な駆け引きが盛んであるのが、通例だが、それはさておき、自民党が投げ捨てた「平和的生存権」をASEAN諸国が「もったいない」と拾い上げ、その理念を継承発展させようと思案しているのではないかとさえ想像したくなる。
念のため平和的生存権に関する平和憲法の和文と英文を引用すると、次のようである。
和文「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
英文「We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.」
英文の憲法前文では「live in peace」であるが、サミット宣言では「live at peace」であり、ここでのinとatの違いにそれほど大きな意味があるとは思えない。それはともかく、ここで指摘したいことは単なる「平和」という文言とわざわざ「平和的共存」とうたう文言ではその意味に大きな差があるという点である。
▽「軍事力行使による平和」と「非核・非戦・非暴力の平和」
一例を挙げれば、日米軍事同盟下で自衛隊の役割を拡大させ、日米安保の強化を図る米軍再編「中間報告」(05年10月29日発表)では新聞1ページ分の長文の中で「安全、平和、安定」という文言が掃いて捨てるほどあちこちに散りばめられているが、平和的共存という文言は顕微鏡で探しても見つからない。
「中間報告」の平和は「軍事力行使による平和」であり、一方の平和的共存は「非戦・非暴力の平和」を意味している。今回のサミット宣言に「平和的共存」を織り込んだのは、将来の東アジア共同体結成に込める「非核・非戦・非暴力の平和」実現への希望と決意の表明であると理解したい。「日中間の主導権争い」という視点からはこういう展望を持つことは困難であろう。
東アジアサミットをめぐる「対立の構図」をあえて描けば、それは「平和勢力派」対「軍事力派」の対立とはいえないか。中国が日米軍事同盟に対抗して、あるいは米国との覇権争いを意図して軍事力増強を進める愚策は自戒して貰いたい。軍事力重視の発想は急速に過去の遺物になりつつある。
▽早くも始まった米国の横やり
以上から今回のサミットの主要なテーマは、東アジアにおける平和的共存の枠組みづくりであり、その道筋がそれなりに明確にみえてくるのではないかと受け止めたい。ただ問題はこの平和的共存への道程に立ちはだかろうとしている勢力が存在していることである。それは日米安保・軍事同盟派である。東アジアサミットのメンバーから外された米国から反対の声が上がった。早くも始まった米国からの横やりというべきである。
カート・キャンベル米戦略国際問題研究所(CSIS)上級副所長(元国防次官補代理=アジア太平洋担当)は次のように述べた。(05年12月16日付朝日新聞)
「米国が除外されていることに心配は増している。アジアでの多国間の重要な動きにはかかわっていくという政策の基本線を米国は持つべきだ。心配なのは、太平洋横断的ではなく、汎アジア主義的な動きが強まっていることだ」と。
▽「世界の中の日米同盟」は孤立への道
米国からの横やりは当然予想されるところだが、ここで考慮すべきことは「世界の中の日米同盟」を標榜する日米軍事同盟は世界で孤立への道を進みつつあるという一点である。第2次大戦後、米国は地球上に軍事同盟網を張りめぐらせてきたが、大勢は解体の方向に進んでいる。
いまなお実質上機能しているのは、日米と米韓の2つの軍事同盟くらいである。日本の場合、軍事同盟下の在日米軍基地は、米国の覇権主義に基づく戦争の策動・支援・兵站基地としての機能を担っている。
ブッシュ米大統領は最近、イラク戦争に関連して2つの失敗を認めた。1つは「イラク開戦以来、イラク人死者は3万人前後に達した」(12月12日の演説)であり、もう1つは、イラク開戦の理由となった大量破壊兵器について「イラクが保有しているという情報は誤りだった」(12月14日の演説)というものである。
このような道理なき不当な戦争の基地として機能しているのが在日米軍基地であり、小泉政権はその戦争を積極的に支援している。日米軍事同盟が世界から見離されていくのは当然であろう。
▽安保解体、地球救援隊、東アジア平和同盟
仏教経済学の立場から、なぜ東アジアサミットに関心を抱くのか。私は最近、「平和をどうつくるか」をテーマにしたパネルディスカッションで(1)安保・軍事同盟解体、(2)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設、(3)東アジア平和同盟の結成、(4)シンプルライフのすすめ―を提唱した。(詳しくは「仏教経済塾」ホームページに掲載の「平和をつくる4つの構造変革」を参照)
以上の安保解体、地球救援隊創設のためには東アジア平和同盟の構築が不可欠の条件と考えている。これは憲法改正によって軍隊を放棄した中米の小国、コスタリカ(自民党の憲法改悪によって正式の軍隊を憲法上認めようという日本とは180度異なる)に学びながらアジアにどう平和(=非核・非戦・非暴力)をつくっていくかという発想に立っている。
東アジア平和同盟結成への第一歩として、東アジアサミットの今後の動向を注視したい。
〈仏教経済学ってなに?〉
その7つのキーワード=いのち・平和(=非暴力)・簡素・知足(=足るを知る)・共生・利他・持続性
上述の記事、提案は仏教経済学〈別称「知足(ちそく)の経済学」〉の視点から書いている。仏教経済学とはなにか。
新しい時代を切りひらく世直しのための経済思想である。仏教の開祖・釈尊の教えを土台にすえて、21世紀という時代が求める多様な課題―地球環境問題から平和、さらに一人ひとりの生き方まで―に応えることをめざしている。その切り口がいのち・平和・簡素・知足・持続性など7つのキーワードで、これらの視点は主流派の現代経済学〈別称「貪欲(どんよく)の経済学」〉には欠落している。だから仏教経済学は現代経済学の批判から出発している。
以上
安原和雄
第1回東アジアサミット(首脳会議)が2005年12月14日マレーシアのクアラルンプールで開かれた。将来の「東アジア共同体」結成へ向けて歴史的な第一歩を踏み出したと評価できる。多難な道のりを歩むであろうことはいうまでもないが、焦点は、それが軍事同盟を排した「東アジア平和同盟」結成につながるかどうかであると考える。
私の印象では平和への芽があちこちに伏在しており、近未来にそれが具体化してくることを大いに期待したい。しかし一般メディアの報道をみるかぎり、そういう未来図はどこにも見いだせない。
以下は、仏教経済学という独自の視点に立って、今回のサミットの中に平和(=非核・非戦・非暴力)への展望を探ろうと試みる「異説・東アジアサミット」である。
▽東アジアサミットの参加国と宣言
東アジアサミットの参加国は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)プラス3カ国(日中韓)にオーストラリア、ニュージーランド、インドを加えた16カ国。
採択されたクアラルンプール宣言の中で特に重要と思うのは以下の3点である。
(東南アジア友好協力条約の再確認)
国連憲章の目的と諸原則、東南アジア友好協力条約及びその他の認識された国際法の諸原則に対する約束を再確認
(共同体形成に重要な役割)
東アジア首脳会議がこの地域における共同体の形成に重要な役割を果たし得るとの見方を共有
(平和的共存)
われわれの国々が互いにまた世界全体と共に、公正、民主的かつ調和的な環境の中で平和的に共存することを確保するための、政治及び安全保障上の問題についての戦略的対話の進展と協力の促進
▽日中間の主導権争いが注目点なのか?
今回の東アジアサミットを日本のメディアはどのような視点から伝えたのか。一口にいえば、日中間の主導権争いに重点を置きすぎたのではないか。一例をあげれば、次のようである。
「12日のASEANプラス3首脳会議(注1)では、将来の共同体の枠組みをめぐって〈13カ国主導〉か、それとも域外国(注2)を加えた〈拡大路線〉かが焦点となった。13カ国にこだわったのが中国であり、一方、中国色を薄めるため拡大路線を支持したのが日本だった」
日中間に意見、姿勢の違いがあることは事実である。問題はそれを望ましくないと見るのか、それとも相違点を浮き彫りにして、それを煽るのかである。この点では「協調点を見出すべきだ」という論調と、「中国に屈するな」とでもいいたげな偏狭なナショナリズムををかき立てるかのような論調とに2分された。
メディアの間にも意見、主張の違いがあるのは自由な社会では当然であろう。しかしことはアジアの国造りと平和づくりにかかわっているのである。目先の感情論に走ることは厳に戒めなければならない。
(注1)ASEANプラス3(日中韓)首脳会議が、14日の東アジアサミットに先立って12日に開かれ、「ASEANプラス3が東アジア共同体を達成するための主要な手段」、「ASEANが推進力となる」という宣言を採択した。ここでの「共同体を達成するための主要な手段」という表現と、東アジアサミット宣言の「共同体形成に重要な役割」という表現の違いが話題となった。
「主要な手段」(the main vehicle)と「重要な役割」(a significant role)の違いが意味するものはなにか。それは東アジア共同体形成には「ASEANプラス3」が主役であり、一方の東アジアサミットは脇役であるという示唆であろう。
(注2)域外国とはオーストラリア、ニュージーランド、インドの3カ国で、日本の主張によって東アジアサミットに新たにこの3カ国が加わったが、この拡大された東アジアサミットは東アジア共同体の形成には脇役としての地位に置かれた。
▽サミット宣言のもう一つの読み方
首脳会談や首脳会議が採択する共同声明や宣言をどう読むかはきわめて重要である。読み方によっては一般メディアの報道から受ける印象とはまるで異なるイメージが浮かび上がってくるからである。私は宣言全文(和文と英文)をインターネットを通じて取り寄せ、読んだ。その印象では、重要であるにもかかわらず、日本の一般メディアが見逃した点がいくつかある。2つのことを以下に指摘したい。
(その1)東南アジア友好協力条約
東南アジア友好協力条約(TAC=Treaty of Amity and Cooperation in Southeast Asia)をご存じだろうか。この条約の名前はASEANプラス3首脳会議と東アジア首脳会議の双方の宣言に盛り込まれ、条約に基づく約束が再確認されている。にもかかわらず一般紙の報道では脱落している。なぜなのか。
外務省がまとめた「宣言の骨子」をみると、やはり省略されている。一般紙にこの条約の名前が出てこないのは、外務省作成の骨子をほとんどそのまま報道したためではないかと推測する。私はすでに30年の歴史を持つこの条約の存在価値を再評価する必要があると考える。同条約の概要は以下の通りである。
*ベトナム戦争終結の翌年、1976年2月インドネシアのバリ島で開かれたASEAN初の首脳会議でTACは締結された。
*条約はアジア・アフリカ会議(注)で採択された平和10原則を基調にして、国連憲章と主権・領土保全の尊重、すべての国の対等・平等―などをうたっている。
(注)1955年4月インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ諸国の会議で、日本を含む29カ国が参加した。反帝国主義、反植民地主義のもとに民族独立・人種平等・世界平和・友好協力などをうたった平和10原則を決議した。
*現在TACの加盟国はASEAN10カ国のほかに日本、中国、韓国、ロシア、インドなど7カ国が加盟しており、加盟国の総人口は約34億人で、世界人口63億人の半分以上を占めている。
以上から分かるように、TACは東南アジアにおける平和と友好を推進する上で重要な役割を担っており、そのことが首脳宣言で再確認された事実を軽視すると、今後の展望を誤ることにもなるだろう。ASEAN10カ国の注目すべき動きとして、97年に東南アジア非核兵器地帯条約に調印していることも挙げておきたい。
(その2)平和的共存
もう一つは東アジアサミットの宣言に「平和的共存」という文言が盛り込まれていることである。これはTACと違って、一般紙が報道した「サミット宣言要旨」に載っている。外務省作成の宣言骨子にも出ており、それをそのまま報道したからであろう。しかし問題はこれについてのコメント、解説の類は一般紙の報道では皆無に近いことである。
さりげなくサミット宣言に盛り込まれたこの文言をもっと重視する必要があると私は考える。この部分の宣言文をもう一度紹介すると、次のようである。
「われわれの国々が互いにまた世界全体と共に、公正、民主的かつ調和的な環境の中で平和的に共存することを確保する・・・」
英文は次のようである。
to ensure that our countries can live at peace with one another and with the world at large in a just, democratic and harmonious environment;
私は「平和的共存」という文言から、日本国平和憲法前文に盛り込まれている「平和的生存権」(憲法学者の中には「平和的共存権」と理解すべきだという有力な意見もある)を連想した。自民党新憲法草案によると、前文の平和的生存権を全面削除することになっている。
宣言案作成の舞台裏では様々な駆け引きが盛んであるのが、通例だが、それはさておき、自民党が投げ捨てた「平和的生存権」をASEAN諸国が「もったいない」と拾い上げ、その理念を継承発展させようと思案しているのではないかとさえ想像したくなる。
念のため平和的生存権に関する平和憲法の和文と英文を引用すると、次のようである。
和文「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
英文「We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.」
英文の憲法前文では「live in peace」であるが、サミット宣言では「live at peace」であり、ここでのinとatの違いにそれほど大きな意味があるとは思えない。それはともかく、ここで指摘したいことは単なる「平和」という文言とわざわざ「平和的共存」とうたう文言ではその意味に大きな差があるという点である。
▽「軍事力行使による平和」と「非核・非戦・非暴力の平和」
一例を挙げれば、日米軍事同盟下で自衛隊の役割を拡大させ、日米安保の強化を図る米軍再編「中間報告」(05年10月29日発表)では新聞1ページ分の長文の中で「安全、平和、安定」という文言が掃いて捨てるほどあちこちに散りばめられているが、平和的共存という文言は顕微鏡で探しても見つからない。
「中間報告」の平和は「軍事力行使による平和」であり、一方の平和的共存は「非戦・非暴力の平和」を意味している。今回のサミット宣言に「平和的共存」を織り込んだのは、将来の東アジア共同体結成に込める「非核・非戦・非暴力の平和」実現への希望と決意の表明であると理解したい。「日中間の主導権争い」という視点からはこういう展望を持つことは困難であろう。
東アジアサミットをめぐる「対立の構図」をあえて描けば、それは「平和勢力派」対「軍事力派」の対立とはいえないか。中国が日米軍事同盟に対抗して、あるいは米国との覇権争いを意図して軍事力増強を進める愚策は自戒して貰いたい。軍事力重視の発想は急速に過去の遺物になりつつある。
▽早くも始まった米国の横やり
以上から今回のサミットの主要なテーマは、東アジアにおける平和的共存の枠組みづくりであり、その道筋がそれなりに明確にみえてくるのではないかと受け止めたい。ただ問題はこの平和的共存への道程に立ちはだかろうとしている勢力が存在していることである。それは日米安保・軍事同盟派である。東アジアサミットのメンバーから外された米国から反対の声が上がった。早くも始まった米国からの横やりというべきである。
カート・キャンベル米戦略国際問題研究所(CSIS)上級副所長(元国防次官補代理=アジア太平洋担当)は次のように述べた。(05年12月16日付朝日新聞)
「米国が除外されていることに心配は増している。アジアでの多国間の重要な動きにはかかわっていくという政策の基本線を米国は持つべきだ。心配なのは、太平洋横断的ではなく、汎アジア主義的な動きが強まっていることだ」と。
▽「世界の中の日米同盟」は孤立への道
米国からの横やりは当然予想されるところだが、ここで考慮すべきことは「世界の中の日米同盟」を標榜する日米軍事同盟は世界で孤立への道を進みつつあるという一点である。第2次大戦後、米国は地球上に軍事同盟網を張りめぐらせてきたが、大勢は解体の方向に進んでいる。
いまなお実質上機能しているのは、日米と米韓の2つの軍事同盟くらいである。日本の場合、軍事同盟下の在日米軍基地は、米国の覇権主義に基づく戦争の策動・支援・兵站基地としての機能を担っている。
ブッシュ米大統領は最近、イラク戦争に関連して2つの失敗を認めた。1つは「イラク開戦以来、イラク人死者は3万人前後に達した」(12月12日の演説)であり、もう1つは、イラク開戦の理由となった大量破壊兵器について「イラクが保有しているという情報は誤りだった」(12月14日の演説)というものである。
このような道理なき不当な戦争の基地として機能しているのが在日米軍基地であり、小泉政権はその戦争を積極的に支援している。日米軍事同盟が世界から見離されていくのは当然であろう。
▽安保解体、地球救援隊、東アジア平和同盟
仏教経済学の立場から、なぜ東アジアサミットに関心を抱くのか。私は最近、「平和をどうつくるか」をテーマにしたパネルディスカッションで(1)安保・軍事同盟解体、(2)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設、(3)東アジア平和同盟の結成、(4)シンプルライフのすすめ―を提唱した。(詳しくは「仏教経済塾」ホームページに掲載の「平和をつくる4つの構造変革」を参照)
以上の安保解体、地球救援隊創設のためには東アジア平和同盟の構築が不可欠の条件と考えている。これは憲法改正によって軍隊を放棄した中米の小国、コスタリカ(自民党の憲法改悪によって正式の軍隊を憲法上認めようという日本とは180度異なる)に学びながらアジアにどう平和(=非核・非戦・非暴力)をつくっていくかという発想に立っている。
東アジア平和同盟結成への第一歩として、東アジアサミットの今後の動向を注視したい。
〈仏教経済学ってなに?〉
その7つのキーワード=いのち・平和(=非暴力)・簡素・知足(=足るを知る)・共生・利他・持続性
上述の記事、提案は仏教経済学〈別称「知足(ちそく)の経済学」〉の視点から書いている。仏教経済学とはなにか。
新しい時代を切りひらく世直しのための経済思想である。仏教の開祖・釈尊の教えを土台にすえて、21世紀という時代が求める多様な課題―地球環境問題から平和、さらに一人ひとりの生き方まで―に応えることをめざしている。その切り口がいのち・平和・簡素・知足・持続性など7つのキーワードで、これらの視点は主流派の現代経済学〈別称「貪欲(どんよく)の経済学」〉には欠落している。だから仏教経済学は現代経済学の批判から出発している。
以上
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