「安心社会」をどう実現するか
安原和雄
民主党など各党が8.30総選挙を目指すマニフェスト(政権公約)を公表している。盛り沢山で、とかく焦点がぼけやすいが、有権者にとって一番気になるのは「安心社会」をどう実現していくか、ではないか。これは〈平和と暮らしを壊す「日米同盟」〉と並ぶ総選挙のもう一つの争点というべきである。
麻生太郎自民党総裁は8.30総選挙を「安心社会実現選挙」と名づけている。このスローガンが見当違いであるわけではない。しかし自民党にその実現能力を期待するのは無理ではないか。といって一方の民主党に十分な信頼を寄せてよいのかどうか。政権交代を意識するあまり、「現実的政党」として自民党ににじり寄るようでは期待薄である。望ましい「安心社会」実現へのシナリオを描いてみる。(09年7月29日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
自民党のホームページによると、麻生太郎総理(自民党総裁)は、衆院を解散した7月21日夕、総理官邸で記者会見を行い、今回の総選挙を「安心社会実現選挙」と位置づけた。「子供たちに夢、若者に希望、高齢者に安心」が目指す安心社会の姿である。同時に「景気回復後、社会保障と少子化に充てるための消費税率引き上げを」と述べた。
以下、望ましい「安心社会」実現のための必要条件を考える。
▽「成長で安心は得られぬ」は正論
毎日新聞の今松英悦・論説委員が社説の下段の「視点」(09年7月27日付)欄で「成長で安心は得られぬ」と題し論じている。これは7月24日に閣議報告された09年度経済財政白書に関連した「視点」で、なかなかの正論と評価できる。その大要を以下に紹介する。
日本が資源制約を実感することになった石油危機から35年余り、バブル崩壊からでも20年近く経過した。ともに経済のありようや成長の内容が問われた。環境制約や人口減少なども重なり、経済発展が最高段階に達している社会では量的拡大に限界があることは容易に想像できる。それにもかかわらず、日本はひたすら量的成長を追求してきた。小泉改革が「改革なくして成長なし」を旗印に、市場原理主義に基づく経済社会作りを目指したのも、企業部門の強化が国内総生産(GDP)拡大の早道と判断したからだ。
ただその顛末(てんまつ)は格差社会の定着や将来への不安増幅など惨憺(さんたん)たるものだった。ここ1、2年、国民の安全の実現や格差是正が政策課題となってきたことは当然である。
09年度経済財政白書は、今回の経済危機の背景には国際的な不均衡の拡大など外的要因と並んで、派遣労働者の解雇や雇い止めの急増、格差の拡大など国内要因があることを明確にした。
成長の中身に踏み込むべきなのだが、量的成長の魔力には勝てない。短期では景気の大幅な落ち込みをどうしていくかが課題であることは間違いない。しかしその先を展望すれば、経済社会の仕組みそのものを問題にしなければならない。09年1~3月時点で企業内の余剰雇用は607万人と試算しているが、成長率が高まったからといって、すべては解消しない。こうしたところにこそ目配りしなければならない。
安心社会実現には、思い切った雇用対策や医療制度改革をやるしかない。今、必要なことは、大胆な歳出の組み替えとそれを支える歳入構造の構築だ。格差拡大に対しては所得再配分を大胆に実施すること、所得税を含め応能原則を回復することだ。
日本の1人当たりGDPは07年で、3万4326ドルだ。経済協力開発機構(OECD)加盟国中19位にばかり目を向けがちだが、なかなかの額なのだ。為替相場が円高に少し動けば、ドルベースの順位はすぐに上がる。量的拡大に踊らされる必要はない。
〈安原の感想〉市場原理主義を超えて
特定の論説記者の主張をわざわざくわしく紹介したのは、それが正論だというだけの理由ではない。昨今の新聞、テレビを含めたメディアにこの種の主張が少ないからである。
重要なことは、世界的危機の根因となった市場原理主義=新自由主義を強要した権力を批判する視点に立っていることである。市場原理主義をどう克服し、超えるかという視点が欠落し、単なる景気対策の枠に視野を限定した記事は今や読むに値しない。権力批判というジャーナリズムの原点を見失っているメディアが少なくない現状に私は危機感を抱いている。
▽「安心社会」を実現するには(1) ― 「経済成長」の正しい理解の共有を
ここでは「安心社会」実現のためには経済成長は必要不可欠なのかを考えたい。今なお経済成長へのこだわりがあちこちにみられる。例えば日本経済新聞(7月22日付)は企画記事「選択09衆院選 何が問われるのか」で「責任ある成長政策を」という見出しでつぎのように書いた。
次期政権は今春に続くもう一段の経済対策を念頭に置かざるを得ないだろう。それも急場をしのぐ需要追加だけでなく、成長戦略を立てて各種改革を進める必要がある。カネがカネを生む金融資本主義には限界が見えた。だが従来型の工業重視、もの作り信仰だけでは新興国の追い上げが激しい。米欧は環境・情報技術を軸とした産業革新を目指している。この潮流をどう受け止めて成長戦略を練り直すのか。このあたり、自民党政権も民主党もはっきりしない面がある ― と。
この例に限らず、一般に経済成長概念について誤解があるのではないか。技術革新に裏打ちされた産業革新、すなわち新産業の創出と経済成長とは異なっている。産業革新がそのまま経済成長につながるわけではない。
経済成長とは、GDP(国内総生産=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など)の量的拡大を意味するにすぎない。いいかえればプラスの経済成長がそのまま暮らしの質的充実につながるわけではない。むしろ相反する場合も多い。
例えば生産の増大によって環境破壊が進めば、経済成長は実現するが、環境悪化によって生活の質は低下する。また経済成長によって雇用が保障され、貧困、格差が解決されるとは限らない。むしろあの市場原理主義=新自由主義路線の強行は、経済成長もそれなりに実現し、大企業の利益をふくらませたが、雇用の破壊と貧困・格差の増大をもたらした。このように経済成長は安心社会の実現に貢献するどころか、むしろ破壊しかねない。
かつてのモノ不足を背景とする高度経済成長時代は、日常生活に必要な新製品の普及によって成長の果実をもたらしたが、今日の成熟経済の域に達した日本経済は、もはや成長に伴って生活充実の果実を期待することはできない。経済成長への正しい理解を共有し、「経済成長こそが幸せの原点」などという幻想を棄てるときである。
▽「安心社会」を実現するには(2) ― 生活の質的充実へ転換を
日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。もっとも近く中国に追い抜かれて第3位に下がるが、大騒ぎするようなテーマではない。いずれにしても人間で言えば、すでに熟年であり、もはや量的拡大つまり体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。 同様に日本経済もむしろ「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模を毎年維持することで十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。
そのためには1980年代の中曽根政権から21世紀の小泉政権まで30年近くにわたって続いた米国主導の市場原理主義=新自由主義路線から根本的に転換する必要がある。
具体的には雇用対策、医療改革、財政・税制の思い切った組み替え、貧困・格差を是正するための所得再配分、税制面での応益負担原則(受益に応じた税負担で、所得の低い者の負担が重くなる)から本来の応能負担原則(所得や資産など能力に応じた税負担)への転換・回復 ― など。
ここでは「安心社会」実現のため、国レベルの財政・税制(歳出と歳入)の望ましい大幅な組み替えの大まかな事例を以下に挙げる。この程度の事例は、総選挙後の新しい時代を担うに足りる政党であるための必要条件にすぎない。これに満足すべきものではないことを指摘しておきたい。
〈歳入面での事例〉
*消費税は引き上げず、据え置く(自民党は「景気回復後に引き上げる」ことを公言しており、民主党も「4年間は引き上げない」として、その後の引き上げに含みを持たせている)
*大企業や資産家・金持ちへの優遇税制の廃止・見直し(応能負担原則の適用)
*温暖化防止など地球環境保全のための新政策の一つとして環境税(炭素税)の導入
〈歳出面での事例〉
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な歳出削減
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止し、さらに高齢者と子どもの医療費無料化を図るなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実
*教育、雇用・労働、中小企業などの分野の充実
*食料自給率向上、田園環境保全 ― など農業分野の充実と雇用の創出
*自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)の開発投資の促進。従来の化石(石油・石炭など)・原子力エネルギー依存型からの大幅な転換
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
民主党など各党が8.30総選挙を目指すマニフェスト(政権公約)を公表している。盛り沢山で、とかく焦点がぼけやすいが、有権者にとって一番気になるのは「安心社会」をどう実現していくか、ではないか。これは〈平和と暮らしを壊す「日米同盟」〉と並ぶ総選挙のもう一つの争点というべきである。
麻生太郎自民党総裁は8.30総選挙を「安心社会実現選挙」と名づけている。このスローガンが見当違いであるわけではない。しかし自民党にその実現能力を期待するのは無理ではないか。といって一方の民主党に十分な信頼を寄せてよいのかどうか。政権交代を意識するあまり、「現実的政党」として自民党ににじり寄るようでは期待薄である。望ましい「安心社会」実現へのシナリオを描いてみる。(09年7月29日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
自民党のホームページによると、麻生太郎総理(自民党総裁)は、衆院を解散した7月21日夕、総理官邸で記者会見を行い、今回の総選挙を「安心社会実現選挙」と位置づけた。「子供たちに夢、若者に希望、高齢者に安心」が目指す安心社会の姿である。同時に「景気回復後、社会保障と少子化に充てるための消費税率引き上げを」と述べた。
以下、望ましい「安心社会」実現のための必要条件を考える。
▽「成長で安心は得られぬ」は正論
毎日新聞の今松英悦・論説委員が社説の下段の「視点」(09年7月27日付)欄で「成長で安心は得られぬ」と題し論じている。これは7月24日に閣議報告された09年度経済財政白書に関連した「視点」で、なかなかの正論と評価できる。その大要を以下に紹介する。
日本が資源制約を実感することになった石油危機から35年余り、バブル崩壊からでも20年近く経過した。ともに経済のありようや成長の内容が問われた。環境制約や人口減少なども重なり、経済発展が最高段階に達している社会では量的拡大に限界があることは容易に想像できる。それにもかかわらず、日本はひたすら量的成長を追求してきた。小泉改革が「改革なくして成長なし」を旗印に、市場原理主義に基づく経済社会作りを目指したのも、企業部門の強化が国内総生産(GDP)拡大の早道と判断したからだ。
ただその顛末(てんまつ)は格差社会の定着や将来への不安増幅など惨憺(さんたん)たるものだった。ここ1、2年、国民の安全の実現や格差是正が政策課題となってきたことは当然である。
09年度経済財政白書は、今回の経済危機の背景には国際的な不均衡の拡大など外的要因と並んで、派遣労働者の解雇や雇い止めの急増、格差の拡大など国内要因があることを明確にした。
成長の中身に踏み込むべきなのだが、量的成長の魔力には勝てない。短期では景気の大幅な落ち込みをどうしていくかが課題であることは間違いない。しかしその先を展望すれば、経済社会の仕組みそのものを問題にしなければならない。09年1~3月時点で企業内の余剰雇用は607万人と試算しているが、成長率が高まったからといって、すべては解消しない。こうしたところにこそ目配りしなければならない。
安心社会実現には、思い切った雇用対策や医療制度改革をやるしかない。今、必要なことは、大胆な歳出の組み替えとそれを支える歳入構造の構築だ。格差拡大に対しては所得再配分を大胆に実施すること、所得税を含め応能原則を回復することだ。
日本の1人当たりGDPは07年で、3万4326ドルだ。経済協力開発機構(OECD)加盟国中19位にばかり目を向けがちだが、なかなかの額なのだ。為替相場が円高に少し動けば、ドルベースの順位はすぐに上がる。量的拡大に踊らされる必要はない。
〈安原の感想〉市場原理主義を超えて
特定の論説記者の主張をわざわざくわしく紹介したのは、それが正論だというだけの理由ではない。昨今の新聞、テレビを含めたメディアにこの種の主張が少ないからである。
重要なことは、世界的危機の根因となった市場原理主義=新自由主義を強要した権力を批判する視点に立っていることである。市場原理主義をどう克服し、超えるかという視点が欠落し、単なる景気対策の枠に視野を限定した記事は今や読むに値しない。権力批判というジャーナリズムの原点を見失っているメディアが少なくない現状に私は危機感を抱いている。
▽「安心社会」を実現するには(1) ― 「経済成長」の正しい理解の共有を
ここでは「安心社会」実現のためには経済成長は必要不可欠なのかを考えたい。今なお経済成長へのこだわりがあちこちにみられる。例えば日本経済新聞(7月22日付)は企画記事「選択09衆院選 何が問われるのか」で「責任ある成長政策を」という見出しでつぎのように書いた。
次期政権は今春に続くもう一段の経済対策を念頭に置かざるを得ないだろう。それも急場をしのぐ需要追加だけでなく、成長戦略を立てて各種改革を進める必要がある。カネがカネを生む金融資本主義には限界が見えた。だが従来型の工業重視、もの作り信仰だけでは新興国の追い上げが激しい。米欧は環境・情報技術を軸とした産業革新を目指している。この潮流をどう受け止めて成長戦略を練り直すのか。このあたり、自民党政権も民主党もはっきりしない面がある ― と。
この例に限らず、一般に経済成長概念について誤解があるのではないか。技術革新に裏打ちされた産業革新、すなわち新産業の創出と経済成長とは異なっている。産業革新がそのまま経済成長につながるわけではない。
経済成長とは、GDP(国内総生産=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など)の量的拡大を意味するにすぎない。いいかえればプラスの経済成長がそのまま暮らしの質的充実につながるわけではない。むしろ相反する場合も多い。
例えば生産の増大によって環境破壊が進めば、経済成長は実現するが、環境悪化によって生活の質は低下する。また経済成長によって雇用が保障され、貧困、格差が解決されるとは限らない。むしろあの市場原理主義=新自由主義路線の強行は、経済成長もそれなりに実現し、大企業の利益をふくらませたが、雇用の破壊と貧困・格差の増大をもたらした。このように経済成長は安心社会の実現に貢献するどころか、むしろ破壊しかねない。
かつてのモノ不足を背景とする高度経済成長時代は、日常生活に必要な新製品の普及によって成長の果実をもたらしたが、今日の成熟経済の域に達した日本経済は、もはや成長に伴って生活充実の果実を期待することはできない。経済成長への正しい理解を共有し、「経済成長こそが幸せの原点」などという幻想を棄てるときである。
▽「安心社会」を実現するには(2) ― 生活の質的充実へ転換を
日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。もっとも近く中国に追い抜かれて第3位に下がるが、大騒ぎするようなテーマではない。いずれにしても人間で言えば、すでに熟年であり、もはや量的拡大つまり体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。 同様に日本経済もむしろ「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模を毎年維持することで十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。
そのためには1980年代の中曽根政権から21世紀の小泉政権まで30年近くにわたって続いた米国主導の市場原理主義=新自由主義路線から根本的に転換する必要がある。
具体的には雇用対策、医療改革、財政・税制の思い切った組み替え、貧困・格差を是正するための所得再配分、税制面での応益負担原則(受益に応じた税負担で、所得の低い者の負担が重くなる)から本来の応能負担原則(所得や資産など能力に応じた税負担)への転換・回復 ― など。
ここでは「安心社会」実現のため、国レベルの財政・税制(歳出と歳入)の望ましい大幅な組み替えの大まかな事例を以下に挙げる。この程度の事例は、総選挙後の新しい時代を担うに足りる政党であるための必要条件にすぎない。これに満足すべきものではないことを指摘しておきたい。
〈歳入面での事例〉
*消費税は引き上げず、据え置く(自民党は「景気回復後に引き上げる」ことを公言しており、民主党も「4年間は引き上げない」として、その後の引き上げに含みを持たせている)
*大企業や資産家・金持ちへの優遇税制の廃止・見直し(応能負担原則の適用)
*温暖化防止など地球環境保全のための新政策の一つとして環境税(炭素税)の導入
〈歳出面での事例〉
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な歳出削減
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止し、さらに高齢者と子どもの医療費無料化を図るなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実
*教育、雇用・労働、中小企業などの分野の充実
*食料自給率向上、田園環境保全 ― など農業分野の充実と雇用の創出
*自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)の開発投資の促進。従来の化石(石油・石炭など)・原子力エネルギー依存型からの大幅な転換
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
平和と暮らしを壊す「日米同盟」
安原和雄
8.30総選挙の争点をどこに見据えるべきか。目先の景気対策を含め、個別の政策を羅列すれば、多様であり、それこそ貨車一杯に積み込むほどあふれるだろう。だが、大局的に観察すれば、来年(2010年)、発足以来半世紀を迎える日米安保体制の是非こそが最大の争点であるべきだと考える。軍事・経済同盟としての日米安保体制が半世紀も続くこと自体がすでに異常であるだけではない。
軍事同盟としての日米安保は、今や「世界の安保」に変質し、軍事力中心主義を克服できない米国との共通戦略に踏み込み、憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の空洞化をさらに進めつつある。一方、経済同盟としての日米安保は、米国主導の新自由主義路線によっていのちの軽視、貧困・格差の拡大などをもたらし、憲法25条(生存権)の理念を骨抜きにした。9条(平和)と25条(暮らし)の本来の理念をどうよみがえらせるかを問いただす総選挙にしたい。(09年7月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙社説は外交・安保・日米同盟をどう論じたか
まず大手4紙の社説(7月22日付)は総選挙に絡めて外交・日米安保・「日米同盟」についてどう論じたか。社説の見出しと主張の骨子を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。
*毎日新聞=政権交代が最大の焦点だ ごまかさない公約を
自民、公明両党はこれまでの実績を強調するだろう。(中略)共産党や社民党、国民新党、新党日本、今後できるかもしれない新党も含め、大切なのはこの国をどんな形にするのかだ。未来に向けたビジョンを示してもらいたい。有権者の目は一段と厳しくなっている。何よりごまかさず、正々堂々と政策論争を戦わせることだ。それがむしろ支持を集める時代なのだ。
〈コメント〉
「大切なのはこの国をどんな形にするのかだ」という指摘はその通りである。しかし当の毎日新聞として「どんな形の国」を期待するのかにはほとんど触れない。なぜなのか。
*朝日新聞=大転換期を託す政権選択
日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない。(中略)日米同盟が重要というのは結構だが、それでは世界の経済秩序、アジアの平和と繁栄、地球規模の低炭素社会化に日本はどう取り組んでいくのか、日本自身の構想と意思を示してほしい。それが多国間外交を掲げる米オバマ政権の期待でもあろう。
現実的な国益判断に立って、国際協調の外交を進めるのは、そもそも日本の有権者が望むところだ。
〈コメント〉
「日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない」は国際情勢の現実認識としては正しい。しかしつぎの「日米同盟が重要というのは結構」という指摘は軽視できない。ここには日米同盟を無批判に肯定する姿勢がうかがえる。あの大東亜戦争の直前に日独伊3国軍事同盟を結んだことを当時のメディアははやし立て、戦争への道を煽った。その結末が日本人犠牲者310万人を数え、敗戦となった。その失敗に学ぶときではないか。
*読売新聞=政策本位で政権選択を問え
民主党は、インド洋での海上自衛隊による給油活動など国際平和協力活動に反対姿勢を示してきた。ただ、最近になって、鳩山代表は、給油活動を当面、継続する考えを表明した。政権交代を視野に入れ、外交の継続性から現実的方向に政策転換するのは当然のことだ。だが、社民党の福島党首は反発した。基本政策で隔たりがある社民党との連立政権は、極めて難しい運営を迫られるだろう。
〈コメント〉
民主党の鳩山代表が海上自衛隊による給油活動に賛成の態度に転じたことを「現実的方向」として評価している。いかにも自民党寄りの読売新聞らしい評価だが、ここで疑問が生じる。わざわざ社説の見出しにしている「政策本位で政権選択を問え」はいささか無理難題とはいえないか。同じ政策についてその是非をどのように選択できるのか。本音は自民党と同じ政策なら、民主党も悪くない、という判断なのだろう。
*日本経済新聞=政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を
民主党政権が実現した場合の大きな不安要素は、外交・安全保障政策だ。インド洋上での海上自衛隊の給油活動については、小沢一郎前代表当時に「憲法違反」と断じて反対した経緯がある。日米関係などに禍根を残す判断だった。
鳩山由紀夫代表は政権獲得後も即時撤退はしない考えを表明した。現実的な外交路線に修正する試みかどうかを注視したいが、社民党は反発し、波紋が広がっている。
〈コメント〉
読売の論調と大同小異である。給油反対は「日米関係などに禍根を残す判断」という認識は「日米同盟」を絶対視する姿勢である。読売同様に社説の見出しで「政策論争のすすめ」を説きながら、その実、論争を歓迎しないという矛盾がある。本音は「自民・公明政権の継続を」ではないか。
さて今日の外交・日米安保・「日米同盟」のあり方を考える上で示唆に富む孫崎 享(注)著『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(講談社現代新書、09年3月刊)の趣旨を以下に紹介する。それを手がかりにして、変質する日米安保の実像とその意味するところを追跡したい。
(注)孫崎氏は1943年旧満州国生まれ。外務省入省後、米国ハーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局長、駐イラン大使などを歴任。国際情報局長時代に各国情報機関と積極的に交流。2002年より防衛大学校教授、09年3月退官。著書に『日本外交 現場からの証言』(中公新書)など。異色の「安全保障官僚」と呼ぶにふさわしい存在である。
▽変質する日米安保(1) ― 「世界」の安保、国連の軽視へ
2005年10月日本の外相、防衛庁長官と米国の国務長官、国防長官は、「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書に署名した。この「日米同盟」と1960年調印の現行「日米安保条約」とはどう異なっているのか。
*「日米同盟」で「極東」から「世界」の安保へ
日米安保条約は第6条の極東条項によって、あくまで活動の範囲は極東である。他方「日米同盟」では「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため」とされている。舞台を極東から世界に移した。全く新しい動きである。
*国連の役割を軽視
日米安保条約は前文で「国連憲章の目的及び原則にたいする信念・・・を再確認」と述べ、第1条で「国連の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎む」「国連を強化することに努力する」などと国連の役割を重視している。
しかし「日米同盟」には国連の目的、原則への言及はない。これは偶然ではない。国連憲章第1条「目的」に「国際的紛争・・・は解決を平和的手段によって、且つ正義及び国際法の原則に従って実現する」「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく」という2点が含まれている。
さらに第2条「原則」で、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」としている。
こうした原則、行動指針は、冷戦終結以降の米国戦略の流れと異なる。人民の同権及び自決の原則は、今日の米国戦略の考えにはない。民主化、市場化を目指す国と目指さない国とは、同等ではない。テロを保護する国は敵である。国際政治の構図は敵と味方に峻別されている。
何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
*「国際的な安全保障環境の改善」と先制攻撃
「日米同盟」では、目的を「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。この目的のため、日本及び米国は、それぞれの能力に基づいて適切な貢献を行う」としている。「国際的な安全保障環境を改善する」という文言は、誰にでも受け容れられる雰囲気を持った表現である。しかし具体的な政策に置き換えると、深刻な意味合いを持つ。具体例は以下のようである。
・米国は冷戦後のイラン・イラク・北朝鮮等での核兵器など大量破壊兵器の拡散を防ぐため、この諸国に対する軍事力使用の計画を考えてきたこと。
・アフガニスタンにおけるタリバンのようなテロリストをかくまう政権を排除すること。
軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
〈安原のコメント〉― 軍産複合体とどこまで戦うのか
オバマ米大統領はチェンジ(変革)を国民に訴えて多数の支持を得た。果たしてそのチェンジをどこまで期待できるのか。ここで重要なのは『日米同盟の正体』が指摘する次の2点である。
・何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
・軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
この指摘からも分かるように著作『日米同盟の正体』は、オバマ大統領の変革にはむしろ悲観的な診断を下している。
しかも真の変革のためには「叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要」と指摘している。その意味するところは、今や戦争なしには生存できないあの軍産複合体(軍部、兵器メーカー、後方支援を担う民営企業などの複合体)という巨大な戦争マシーン勢力とどこまで戦う意思と力があるのかという問いかけであろう。私はオバマ大統領がイラクから米軍を撤退させ、その一方でアフガニスタンへ増派するのは、軍産複合体との妥協の産物と推察する。
▽変質する日米安保(2) ― 「日米同盟」への日本の対応
「日米同盟」に日本はどういう姿勢で対応しているのか。『日米同盟の正体』から紹介したい。その主な内容は以下の通り。
・日米同盟の戦略とは米国が提唱し、それに日本側が同意する以外にない。
・日本は、さしたる考察をすることなく、米国戦略イコール日米共通の戦略とすること、今日本はこの方向に動いている。
・いま自衛隊では、作戦、運用、訓練、教育などほぼすべての分野で日米一体化に向けて動き出している。なぜなのか。安全保障面で日米の価値観が接近したからか。そうではない。冷戦終結以降、米国は圧倒的な軍事力優勢の下、自分達の価値観を受け容れる者と、これに抵抗する者とを峻別し、両者に対する対応も変えた。これに対し、欧州は異なる価値観を持った。力を超えて、法律と規則、国際交渉と国際協力の世界を重視している。日本国民の価値観もヨーロッパ的であった。
日米一体化を進める理由が共通の価値観でないとすれば、何か。大野伴睦自民党元副総裁が述べた価値判断「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」ではないか。理屈が政策を決めるのではない。得か損かが政策を決める。力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている。
・日本側からみると、米国が進める国際戦略が素晴らしいと確信して踏み切った結果ではない。損得を計算し、得だと判断したからである。この判断が問われるのは、日本が派遣した自衛隊員に死者が出たときであろう。
日本が自衛隊派遣の決断を迫られるアフガニスタンでは、西側各国軍の死者数は09年1月時点で米国574名、英国141名、カナダ107名、ドイツ30名、スペイン25名、フランス25名となっている。
・現在の日米関係の危うさは、損か得かで決めていることにある。(中略)日米安保関係は一気に崩れる危険性がある。
・日米共通の戦略には無理がある。米国は軍事力で国際的環境を変えることを志向しているが、この考えは伝統的な西側理念に反している。かつオバマ大統領が最も重視するアフガニスタンでのテロとの戦いは、誰がアフガニスタンを統治するかという土着性の強い問題であり、この政策は成功しない。
〈安原のコメント〉― 力の強い者につく選択は地獄への道
安全保障の分野に大野伴睦自民党元副総裁(故人)が登場してくるのには、アッと驚いた。それもあの有名な「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」という日本的セリフとともにである。しかも「力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている」とすれば、先行き何が待ち受けているのか。
「力の強さ」には決して永続性はない。やがて必ず崩壊するときが来る。その場がアフガニスタンでのテロとの戦いであろう。著作『日米同盟の正体』はアフガニスタンでのテロとの戦いは「成功しない」と言いきっている。これではベトナムへ侵略して敗走した米軍の二の舞である。地獄の底知れぬ苦しみが広がって、その時やっと「日米同盟の正体」に気づくようでは遅すぎる。
▽変質する日米安保(3) ― 核兵器と北朝鮮と日本と
ここでは北朝鮮と日本の核兵器保有について考える。『日米同盟の正体』の主張は以下のようである。
*北朝鮮の核兵器開発について
われわれにとって北朝鮮の核兵器開発がどうなるかが、極めて重大な関心事である。われわれは通常西側の観点で考える。では北朝鮮側からはどう見えるだろうか。
「米国にとり、北朝鮮の核は過去10年ほど主要な問題であったが、北朝鮮にとっては米国の核の脅威は過去50年絶えず続いてきた問題であった。核時代にあって北朝鮮の独特な点は、どんな国よりも長く核の脅威に常に向き合い、その影に生きてきたことである。朝鮮戦争では核による殲滅(せんめつ)から紙一重で免れた。米軍はその後核弾頭や地雷、ミサイルを韓国の米軍基地に持ち込んだ。1991年核兵器が韓国から撤収されても、米軍は北朝鮮を標的とするミサイル演習を続けた。北朝鮮では核の脅威がなくならなかった。何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」(ガバン・マコーマックの『北朝鮮をどう考えるか』平凡社・2004年=参照)。
北朝鮮がこの恐怖心を持っている際には、西側はどう対応すべきか。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)は、「核兵器を有する国は、それを用いずして無条件降伏を受け容れることはないであろう。一方でその生存が直接脅かされていると信じるとき以外は、核戦争の危険を冒す国もない」と判断した。同時に「無条件降伏を求めないことを明らかにし、どんな紛争も国家の生存の問題を含まない枠を作ることが米国外交の仕事である」と指摘している。これが北朝鮮の核兵器開発に対する西側の基本理念となるべきではないか。
*日本の核兵器保有の選択は正しくないし、米国の核の傘も万全ではない
孫崎氏は日本の核兵器保有に否定的であり、さらに米国の核の傘も機能しないとしている。その理由は以下の通り。
核を保有することは核戦争を覚悟せざるを得ない。
日本への核攻撃は東京など政治・経済の中心部への攻撃が主となる。日本はわずかな都市に政治・経済の集中が進み、核攻撃に極めて脆弱である。その一方で日本は、例えばロシア、中国の広大な地域に壊滅的な打撃を与えられない。日本が核保有の選択を模索する場合の最大の弱点である。
米国の核の傘も万全ではない。核戦略のなかで、核の傘は実は極めて危うい存在である。米国が核の傘を提供することによって、米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、米国の核の傘は、ほぼ機能しない。
〈安原のコメント〉 ― 核廃絶への大道を進む時
北朝鮮の核兵器の開発は日本にとって脅威という認識はメディアの間にかなり広がっている。これは核保有国・米国に基地を提供しながら、その日本自身の真の姿を見ようとしないことに気づかないまま、あるいは気づかない風を装って、相手を非難する一つの具体例である。この種の一方的な見方を是正するためには何が必要か。
「何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」という著作『日米同盟の正体』の認識をまずは理解することである。もちろん北朝鮮が核兵器を保有することは容認できないのだから、そのためにも米露英仏中国の核兵器保有5大国が核廃絶へ向けて大きく舵を切り替えるという大道を進む以外に妙手はない。
▽「日米同盟=日米安保体制」の変革を目指して
著作『日米同盟の正体』は「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書についてつぎのように指摘している。「日本ではさほど注目されてこなかったが、これは日米安保条約に取って代わったものと言っていい」と。この表現では日米安保条約そのものが死文化したような印象もあるが、これにはいささか疑問なしとしない。結論から言えば、日米安保体制の質的変化が進んだのであり、安保条約そのものが死文化したのではない。安保条約は厳然として健在であり、日本の政治・経済・社会を支配している。
質的変化を遂げた日米安保体制そのものが平和と暮らしを壊す元凶となっており、諸悪の根源は日米安保体制にあるといっても過言ではない。だからこそ日米安保体制を丸ごと変革、つまり破棄しなければ、毎日新聞社説が指摘する「新しい形の国」を作ることは、およそ夢物語でしかないだろう。
といっても当面、日本政府の通告による安保破棄(注)のための政治的、社会的条件が熟しているわけではない。民主党が総選挙で勝利し、新政権の座についたとしても、この条件は変わらない。客観的な矛盾は噴出しているが、主体的な変革条件は未熟であり、途上半ばというほかない。しかし中長期の展望を見失うところに「新しい国の形」を作ることは困難である。
(注)日米安保条約(1960年調印)10条(条約の終了)は、「締約国は、他方に対し、条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、この条約は通告後1年で終了する」と定めている。つまり一方的破棄が可能な規定である。
▽日米安保は平和(憲法9条)と暮らし(同25条)を壊す元凶
さて日米安保体制は平和と暮らしを壊す元凶であり、諸悪の根源ともいえる。なぜそういえるのか。
まず日本列島上を覆っている数え切れないほどの偽計、偽装、隠蔽、ごまかしの根因は憲法理念と日米安保体制とが矛盾しているところにある。周知のように憲法9条は理念として「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を明記している。一方、安保条約3条は、「自衛力の維持発展」をうたっている。日本の歴代保守政権は、この3条を忠実に実行し、今では自衛力という名の世界有数の軍事力を保有し、憲法9条の理念を骨抜きにしている。日本の最高法規、憲法に政府自らがごまかしを埋め込んでいる国柄である以上、日本列島上に偽装、ごまかしが溢れるのは避けがたい。
つぎに日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。かつてのベトナム侵略もそうだったし、昨今のイラク、アフガニスタンへの米軍事力の展開も在日米軍基地網の存在なしには不可能であるだろう。
「安保の変質」によって「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がりつつある。最近のその具体例が東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
しかし軍事力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。軍事力によるテロとの戦いに失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさない。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする装置として機能してきた。
周知のように憲法25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっているが、現実には新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、まず破綻した新自由主義路線と決別することである。新自由主義は破綻はしたが、死滅したわけではない。再生の機会をうかがっていることを見逃してはならない。
以上のように日米安保体制を背景に憲法9条と25条の空洞化が進んできたわけで、平和と国民の暮らしを守り、生かしていくためには日米安保の解体をこそ視野に入れる必要がある。従来型の自民・公明党政権では新しい時代の要請に応えられない。一方、民主党政権が誕生しても、政策面で自民党に接近するようでは期待できない。目先の景気対策を中心に政権選択を競い合うときではない。
〈ご参考:日米安保、日米同盟に関する主な記事一覧。かっこ内は掲載日〉
・「日米同盟強化」がめざすもの 日米安保体制50周年を前に(09年2月27日)
・目が離せない米国軍産複合体 オバマ的「変革」を阻むもの(同年1月23日)
・日米安保体制解体を提言する 安保後の日本をどう築くか(08年9月20日)
・憲法9条を「世界の宝」に 脱・日米安保体制へ質的転換を(同年7月23日)
・「ごまかし」満載の日本列島 根因は憲法と日米安保との矛盾(07年10月28日)
・日米同盟の見直しが必要な時 安倍政権破綻後の日本の針路(同年9月13日)
・日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から(同年6月22日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(同年5月18日)
・日米首脳会談とミサイル防衛協力 「新世紀の日米同盟」の危険な選択(06年7月3日)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
8.30総選挙の争点をどこに見据えるべきか。目先の景気対策を含め、個別の政策を羅列すれば、多様であり、それこそ貨車一杯に積み込むほどあふれるだろう。だが、大局的に観察すれば、来年(2010年)、発足以来半世紀を迎える日米安保体制の是非こそが最大の争点であるべきだと考える。軍事・経済同盟としての日米安保体制が半世紀も続くこと自体がすでに異常であるだけではない。
軍事同盟としての日米安保は、今や「世界の安保」に変質し、軍事力中心主義を克服できない米国との共通戦略に踏み込み、憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の空洞化をさらに進めつつある。一方、経済同盟としての日米安保は、米国主導の新自由主義路線によっていのちの軽視、貧困・格差の拡大などをもたらし、憲法25条(生存権)の理念を骨抜きにした。9条(平和)と25条(暮らし)の本来の理念をどうよみがえらせるかを問いただす総選挙にしたい。(09年7月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙社説は外交・安保・日米同盟をどう論じたか
まず大手4紙の社説(7月22日付)は総選挙に絡めて外交・日米安保・「日米同盟」についてどう論じたか。社説の見出しと主張の骨子を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。
*毎日新聞=政権交代が最大の焦点だ ごまかさない公約を
自民、公明両党はこれまでの実績を強調するだろう。(中略)共産党や社民党、国民新党、新党日本、今後できるかもしれない新党も含め、大切なのはこの国をどんな形にするのかだ。未来に向けたビジョンを示してもらいたい。有権者の目は一段と厳しくなっている。何よりごまかさず、正々堂々と政策論争を戦わせることだ。それがむしろ支持を集める時代なのだ。
〈コメント〉
「大切なのはこの国をどんな形にするのかだ」という指摘はその通りである。しかし当の毎日新聞として「どんな形の国」を期待するのかにはほとんど触れない。なぜなのか。
*朝日新聞=大転換期を託す政権選択
日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない。(中略)日米同盟が重要というのは結構だが、それでは世界の経済秩序、アジアの平和と繁栄、地球規模の低炭素社会化に日本はどう取り組んでいくのか、日本自身の構想と意思を示してほしい。それが多国間外交を掲げる米オバマ政権の期待でもあろう。
現実的な国益判断に立って、国際協調の外交を進めるのは、そもそも日本の有権者が望むところだ。
〈コメント〉
「日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない」は国際情勢の現実認識としては正しい。しかしつぎの「日米同盟が重要というのは結構」という指摘は軽視できない。ここには日米同盟を無批判に肯定する姿勢がうかがえる。あの大東亜戦争の直前に日独伊3国軍事同盟を結んだことを当時のメディアははやし立て、戦争への道を煽った。その結末が日本人犠牲者310万人を数え、敗戦となった。その失敗に学ぶときではないか。
*読売新聞=政策本位で政権選択を問え
民主党は、インド洋での海上自衛隊による給油活動など国際平和協力活動に反対姿勢を示してきた。ただ、最近になって、鳩山代表は、給油活動を当面、継続する考えを表明した。政権交代を視野に入れ、外交の継続性から現実的方向に政策転換するのは当然のことだ。だが、社民党の福島党首は反発した。基本政策で隔たりがある社民党との連立政権は、極めて難しい運営を迫られるだろう。
〈コメント〉
民主党の鳩山代表が海上自衛隊による給油活動に賛成の態度に転じたことを「現実的方向」として評価している。いかにも自民党寄りの読売新聞らしい評価だが、ここで疑問が生じる。わざわざ社説の見出しにしている「政策本位で政権選択を問え」はいささか無理難題とはいえないか。同じ政策についてその是非をどのように選択できるのか。本音は自民党と同じ政策なら、民主党も悪くない、という判断なのだろう。
*日本経済新聞=政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を
民主党政権が実現した場合の大きな不安要素は、外交・安全保障政策だ。インド洋上での海上自衛隊の給油活動については、小沢一郎前代表当時に「憲法違反」と断じて反対した経緯がある。日米関係などに禍根を残す判断だった。
鳩山由紀夫代表は政権獲得後も即時撤退はしない考えを表明した。現実的な外交路線に修正する試みかどうかを注視したいが、社民党は反発し、波紋が広がっている。
〈コメント〉
読売の論調と大同小異である。給油反対は「日米関係などに禍根を残す判断」という認識は「日米同盟」を絶対視する姿勢である。読売同様に社説の見出しで「政策論争のすすめ」を説きながら、その実、論争を歓迎しないという矛盾がある。本音は「自民・公明政権の継続を」ではないか。
さて今日の外交・日米安保・「日米同盟」のあり方を考える上で示唆に富む孫崎 享(注)著『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(講談社現代新書、09年3月刊)の趣旨を以下に紹介する。それを手がかりにして、変質する日米安保の実像とその意味するところを追跡したい。
(注)孫崎氏は1943年旧満州国生まれ。外務省入省後、米国ハーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局長、駐イラン大使などを歴任。国際情報局長時代に各国情報機関と積極的に交流。2002年より防衛大学校教授、09年3月退官。著書に『日本外交 現場からの証言』(中公新書)など。異色の「安全保障官僚」と呼ぶにふさわしい存在である。
▽変質する日米安保(1) ― 「世界」の安保、国連の軽視へ
2005年10月日本の外相、防衛庁長官と米国の国務長官、国防長官は、「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書に署名した。この「日米同盟」と1960年調印の現行「日米安保条約」とはどう異なっているのか。
*「日米同盟」で「極東」から「世界」の安保へ
日米安保条約は第6条の極東条項によって、あくまで活動の範囲は極東である。他方「日米同盟」では「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため」とされている。舞台を極東から世界に移した。全く新しい動きである。
*国連の役割を軽視
日米安保条約は前文で「国連憲章の目的及び原則にたいする信念・・・を再確認」と述べ、第1条で「国連の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎む」「国連を強化することに努力する」などと国連の役割を重視している。
しかし「日米同盟」には国連の目的、原則への言及はない。これは偶然ではない。国連憲章第1条「目的」に「国際的紛争・・・は解決を平和的手段によって、且つ正義及び国際法の原則に従って実現する」「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく」という2点が含まれている。
さらに第2条「原則」で、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」としている。
こうした原則、行動指針は、冷戦終結以降の米国戦略の流れと異なる。人民の同権及び自決の原則は、今日の米国戦略の考えにはない。民主化、市場化を目指す国と目指さない国とは、同等ではない。テロを保護する国は敵である。国際政治の構図は敵と味方に峻別されている。
何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
*「国際的な安全保障環境の改善」と先制攻撃
「日米同盟」では、目的を「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。この目的のため、日本及び米国は、それぞれの能力に基づいて適切な貢献を行う」としている。「国際的な安全保障環境を改善する」という文言は、誰にでも受け容れられる雰囲気を持った表現である。しかし具体的な政策に置き換えると、深刻な意味合いを持つ。具体例は以下のようである。
・米国は冷戦後のイラン・イラク・北朝鮮等での核兵器など大量破壊兵器の拡散を防ぐため、この諸国に対する軍事力使用の計画を考えてきたこと。
・アフガニスタンにおけるタリバンのようなテロリストをかくまう政権を排除すること。
軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
〈安原のコメント〉― 軍産複合体とどこまで戦うのか
オバマ米大統領はチェンジ(変革)を国民に訴えて多数の支持を得た。果たしてそのチェンジをどこまで期待できるのか。ここで重要なのは『日米同盟の正体』が指摘する次の2点である。
・何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
・軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
この指摘からも分かるように著作『日米同盟の正体』は、オバマ大統領の変革にはむしろ悲観的な診断を下している。
しかも真の変革のためには「叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要」と指摘している。その意味するところは、今や戦争なしには生存できないあの軍産複合体(軍部、兵器メーカー、後方支援を担う民営企業などの複合体)という巨大な戦争マシーン勢力とどこまで戦う意思と力があるのかという問いかけであろう。私はオバマ大統領がイラクから米軍を撤退させ、その一方でアフガニスタンへ増派するのは、軍産複合体との妥協の産物と推察する。
▽変質する日米安保(2) ― 「日米同盟」への日本の対応
「日米同盟」に日本はどういう姿勢で対応しているのか。『日米同盟の正体』から紹介したい。その主な内容は以下の通り。
・日米同盟の戦略とは米国が提唱し、それに日本側が同意する以外にない。
・日本は、さしたる考察をすることなく、米国戦略イコール日米共通の戦略とすること、今日本はこの方向に動いている。
・いま自衛隊では、作戦、運用、訓練、教育などほぼすべての分野で日米一体化に向けて動き出している。なぜなのか。安全保障面で日米の価値観が接近したからか。そうではない。冷戦終結以降、米国は圧倒的な軍事力優勢の下、自分達の価値観を受け容れる者と、これに抵抗する者とを峻別し、両者に対する対応も変えた。これに対し、欧州は異なる価値観を持った。力を超えて、法律と規則、国際交渉と国際協力の世界を重視している。日本国民の価値観もヨーロッパ的であった。
日米一体化を進める理由が共通の価値観でないとすれば、何か。大野伴睦自民党元副総裁が述べた価値判断「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」ではないか。理屈が政策を決めるのではない。得か損かが政策を決める。力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている。
・日本側からみると、米国が進める国際戦略が素晴らしいと確信して踏み切った結果ではない。損得を計算し、得だと判断したからである。この判断が問われるのは、日本が派遣した自衛隊員に死者が出たときであろう。
日本が自衛隊派遣の決断を迫られるアフガニスタンでは、西側各国軍の死者数は09年1月時点で米国574名、英国141名、カナダ107名、ドイツ30名、スペイン25名、フランス25名となっている。
・現在の日米関係の危うさは、損か得かで決めていることにある。(中略)日米安保関係は一気に崩れる危険性がある。
・日米共通の戦略には無理がある。米国は軍事力で国際的環境を変えることを志向しているが、この考えは伝統的な西側理念に反している。かつオバマ大統領が最も重視するアフガニスタンでのテロとの戦いは、誰がアフガニスタンを統治するかという土着性の強い問題であり、この政策は成功しない。
〈安原のコメント〉― 力の強い者につく選択は地獄への道
安全保障の分野に大野伴睦自民党元副総裁(故人)が登場してくるのには、アッと驚いた。それもあの有名な「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」という日本的セリフとともにである。しかも「力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている」とすれば、先行き何が待ち受けているのか。
「力の強さ」には決して永続性はない。やがて必ず崩壊するときが来る。その場がアフガニスタンでのテロとの戦いであろう。著作『日米同盟の正体』はアフガニスタンでのテロとの戦いは「成功しない」と言いきっている。これではベトナムへ侵略して敗走した米軍の二の舞である。地獄の底知れぬ苦しみが広がって、その時やっと「日米同盟の正体」に気づくようでは遅すぎる。
▽変質する日米安保(3) ― 核兵器と北朝鮮と日本と
ここでは北朝鮮と日本の核兵器保有について考える。『日米同盟の正体』の主張は以下のようである。
*北朝鮮の核兵器開発について
われわれにとって北朝鮮の核兵器開発がどうなるかが、極めて重大な関心事である。われわれは通常西側の観点で考える。では北朝鮮側からはどう見えるだろうか。
「米国にとり、北朝鮮の核は過去10年ほど主要な問題であったが、北朝鮮にとっては米国の核の脅威は過去50年絶えず続いてきた問題であった。核時代にあって北朝鮮の独特な点は、どんな国よりも長く核の脅威に常に向き合い、その影に生きてきたことである。朝鮮戦争では核による殲滅(せんめつ)から紙一重で免れた。米軍はその後核弾頭や地雷、ミサイルを韓国の米軍基地に持ち込んだ。1991年核兵器が韓国から撤収されても、米軍は北朝鮮を標的とするミサイル演習を続けた。北朝鮮では核の脅威がなくならなかった。何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」(ガバン・マコーマックの『北朝鮮をどう考えるか』平凡社・2004年=参照)。
北朝鮮がこの恐怖心を持っている際には、西側はどう対応すべきか。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)は、「核兵器を有する国は、それを用いずして無条件降伏を受け容れることはないであろう。一方でその生存が直接脅かされていると信じるとき以外は、核戦争の危険を冒す国もない」と判断した。同時に「無条件降伏を求めないことを明らかにし、どんな紛争も国家の生存の問題を含まない枠を作ることが米国外交の仕事である」と指摘している。これが北朝鮮の核兵器開発に対する西側の基本理念となるべきではないか。
*日本の核兵器保有の選択は正しくないし、米国の核の傘も万全ではない
孫崎氏は日本の核兵器保有に否定的であり、さらに米国の核の傘も機能しないとしている。その理由は以下の通り。
核を保有することは核戦争を覚悟せざるを得ない。
日本への核攻撃は東京など政治・経済の中心部への攻撃が主となる。日本はわずかな都市に政治・経済の集中が進み、核攻撃に極めて脆弱である。その一方で日本は、例えばロシア、中国の広大な地域に壊滅的な打撃を与えられない。日本が核保有の選択を模索する場合の最大の弱点である。
米国の核の傘も万全ではない。核戦略のなかで、核の傘は実は極めて危うい存在である。米国が核の傘を提供することによって、米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、米国の核の傘は、ほぼ機能しない。
〈安原のコメント〉 ― 核廃絶への大道を進む時
北朝鮮の核兵器の開発は日本にとって脅威という認識はメディアの間にかなり広がっている。これは核保有国・米国に基地を提供しながら、その日本自身の真の姿を見ようとしないことに気づかないまま、あるいは気づかない風を装って、相手を非難する一つの具体例である。この種の一方的な見方を是正するためには何が必要か。
「何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」という著作『日米同盟の正体』の認識をまずは理解することである。もちろん北朝鮮が核兵器を保有することは容認できないのだから、そのためにも米露英仏中国の核兵器保有5大国が核廃絶へ向けて大きく舵を切り替えるという大道を進む以外に妙手はない。
▽「日米同盟=日米安保体制」の変革を目指して
著作『日米同盟の正体』は「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書についてつぎのように指摘している。「日本ではさほど注目されてこなかったが、これは日米安保条約に取って代わったものと言っていい」と。この表現では日米安保条約そのものが死文化したような印象もあるが、これにはいささか疑問なしとしない。結論から言えば、日米安保体制の質的変化が進んだのであり、安保条約そのものが死文化したのではない。安保条約は厳然として健在であり、日本の政治・経済・社会を支配している。
質的変化を遂げた日米安保体制そのものが平和と暮らしを壊す元凶となっており、諸悪の根源は日米安保体制にあるといっても過言ではない。だからこそ日米安保体制を丸ごと変革、つまり破棄しなければ、毎日新聞社説が指摘する「新しい形の国」を作ることは、およそ夢物語でしかないだろう。
といっても当面、日本政府の通告による安保破棄(注)のための政治的、社会的条件が熟しているわけではない。民主党が総選挙で勝利し、新政権の座についたとしても、この条件は変わらない。客観的な矛盾は噴出しているが、主体的な変革条件は未熟であり、途上半ばというほかない。しかし中長期の展望を見失うところに「新しい国の形」を作ることは困難である。
(注)日米安保条約(1960年調印)10条(条約の終了)は、「締約国は、他方に対し、条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、この条約は通告後1年で終了する」と定めている。つまり一方的破棄が可能な規定である。
▽日米安保は平和(憲法9条)と暮らし(同25条)を壊す元凶
さて日米安保体制は平和と暮らしを壊す元凶であり、諸悪の根源ともいえる。なぜそういえるのか。
まず日本列島上を覆っている数え切れないほどの偽計、偽装、隠蔽、ごまかしの根因は憲法理念と日米安保体制とが矛盾しているところにある。周知のように憲法9条は理念として「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を明記している。一方、安保条約3条は、「自衛力の維持発展」をうたっている。日本の歴代保守政権は、この3条を忠実に実行し、今では自衛力という名の世界有数の軍事力を保有し、憲法9条の理念を骨抜きにしている。日本の最高法規、憲法に政府自らがごまかしを埋め込んでいる国柄である以上、日本列島上に偽装、ごまかしが溢れるのは避けがたい。
つぎに日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。かつてのベトナム侵略もそうだったし、昨今のイラク、アフガニスタンへの米軍事力の展開も在日米軍基地網の存在なしには不可能であるだろう。
「安保の変質」によって「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がりつつある。最近のその具体例が東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
しかし軍事力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。軍事力によるテロとの戦いに失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさない。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする装置として機能してきた。
周知のように憲法25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっているが、現実には新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、まず破綻した新自由主義路線と決別することである。新自由主義は破綻はしたが、死滅したわけではない。再生の機会をうかがっていることを見逃してはならない。
以上のように日米安保体制を背景に憲法9条と25条の空洞化が進んできたわけで、平和と国民の暮らしを守り、生かしていくためには日米安保の解体をこそ視野に入れる必要がある。従来型の自民・公明党政権では新しい時代の要請に応えられない。一方、民主党政権が誕生しても、政策面で自民党に接近するようでは期待できない。目先の景気対策を中心に政権選択を競い合うときではない。
〈ご参考:日米安保、日米同盟に関する主な記事一覧。かっこ内は掲載日〉
・「日米同盟強化」がめざすもの 日米安保体制50周年を前に(09年2月27日)
・目が離せない米国軍産複合体 オバマ的「変革」を阻むもの(同年1月23日)
・日米安保体制解体を提言する 安保後の日本をどう築くか(08年9月20日)
・憲法9条を「世界の宝」に 脱・日米安保体制へ質的転換を(同年7月23日)
・「ごまかし」満載の日本列島 根因は憲法と日米安保との矛盾(07年10月28日)
・日米同盟の見直しが必要な時 安倍政権破綻後の日本の針路(同年9月13日)
・日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から(同年6月22日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(同年5月18日)
・日米首脳会談とミサイル防衛協力 「新世紀の日米同盟」の危険な選択(06年7月3日)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
〈折々のつぶやき〉51
安原和雄
想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は51回目。題して「囲碁本因坊戦を観て想うこと」です。(09年7月17日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽当たるも八卦、当たらぬも八卦
毎日新聞(09年7月17日付)朝刊につぎのような見出しの大きな活字が踊っている。
羽根本因坊 初防衛
4勝2敗 高尾九段を降す
つぎのような記事が続いている。
第64期本因坊決定戦七番勝負の第6局は16日午後8時、276手で羽根直樹本因坊(32)が挑戦者の高尾紳路九段(32)に先番5目半勝ちし、4勝2敗で防衛した ― と。
要するに本因坊が勝って、本因坊の地位を守り、一方、挑戦者が敗れたというニュースである。囲碁ファンにとっては大きなニュースである。
実は私(安原)は前日の新聞(16日付)が伝える中盤戦の模様をみて、この第6局は、挑戦者の高尾九段が勝つのではないかと予測した。実は第5局の中盤戦の状況を見て、私は挑戦者が勝つ碁勢と予測し、結果はその通りになった。しかし第6局は予測が外れ、内心「あれっ、おかしいな」と思った。プロにしても勝敗の行方を正確に予測することはむずかしい。まして私のようなアマの棋力では、当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦であり、口惜しがるような話ではない。
ただ一言つけ加えておくと、毎日新聞(7月17日付)の局後の総括的な観戦記によると、「高尾の受けは巧妙を極め、一時は控室で〈白有望〉という声も上がった」とある。〈白有望〉とは、白石を持つ高尾九段が勝つ可能性も、という意味である。その高尾九段も局後に「少しいいかと思ったあと、どこかで悪くしてしまいました」と反省の弁を述べている。つまり高尾九段自身も一時「勝てるかも・・・」と思ったという意味だろう。そうだとすると、私の中盤戦を材料にした予測も見当はずれではなかったことになる。
▽羽根本因坊はどういう人柄なのか ― 恐るべき平常心
予測の当否はさておき、初防衛に成功した羽根本因坊はどういう人柄なのか。金沢盛栄・観戦記者は「ひと」欄(毎日新聞7月17日付)でつぎのように描いている。
・ニックネームは「忍の貴公子」。勝っても表情を崩さず、負けても腐らない。
・ある先輩棋士は「院生(プロの卵)の合宿で、小2の羽根直樹君が中3の上級生とけんかをしている場面に出くわした。小さな身体で何度も何度も突進し、決して音を上げない。穏やかな外見からはうかがえない強さを感じた」と語る。
・その内面の剛直さが真骨頂だ。どんな大一番であっても、慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心だ。
日曜日放映のNHK教育テレビの囲碁番組で彼の対局姿勢は何度も観たが、上記のコメントの「慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心」は決して誇張した表現とは言えない。この「平常心」は生涯の理想、目標を持つ人物の生き方には必要条件であるが、32歳の若輩にしては出来すぎている印象さえある。もっとも32歳という年齢は、昔の武士なら決して若輩ではない。幕末の志士、坂本龍馬も、たしか32歳で命を絶たれ、歴史に名を残した。
さて毎日新聞の金沢盛栄・観戦記者に触れておきたい。かれは学生本因坊を4回連続奪取しており、その分野では名物男である。毎年東京・千代田区の日本棋院会館(市ヶ谷)でマスコミ関係の囲碁対抗試合がある。私(安原)も現役記者の頃、参加し、最上級のチームのキャプテンとして出場した彼の碁を脇で観戦する機会があった。プロ並みの打ち回しに「これが学生本因坊の実力か」と舌を巻いた記憶があるが、それはそれとして、あの光景は今でも忘れがたい。
70手くらい打ち進んだころだっただろうか、相手が「負けました」といって投了したのである。少し早すぎるのではないかと思ったが、その時負けた相手が言った台詞(せりふ)が忘れられない。
こう言った。「あなたくらいに強くなると、負けるわけにはいかないから、つらいでしょう」と。もちろん相手が学生本因坊・金沢であることを承知した上での物言いである。言い方もいろいろだなあー、と思ったが、これは負け惜しみというものではないか。当の金沢氏も苦笑するほかなかった。
▽経済学者、財界人と碁を打って
さて囲碁にまつわる話題2つをここに再録(06年4月16日、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載の「囲碁にみる人それぞれ・〈折々のつぶやき〉14」から)しておきたい。
〈その一〉経済学者・都留重人氏
私の尊敬する数少ない経済学者のひとり、都留重人・元一橋大学長(06年2月、93歳で逝去)と日本記者クラブの囲碁月例会で一戦交えたことがある。朝日新聞論説顧問であったこともあり、日本記者クラブのメンバーだったのだろう、月例会にはしばしば顔をみせられた。
私との対戦では、50手くらい打って中盤に入ったばかりの局面で、「安原君、もう負けた、負けた」と勝負を投げられた。「まだまだ、これからでしょう」と応じたが、「いや、もういい」という潔さに驚いたことがある。
先生の最後の著作、『市場には心がない ― 成長なくて改革をこそ』(06年2月、岩波書店刊)も含めた多数の名著に共通している深い学識と透徹した洞察力さらに反国家権力的着想、その一方で持続力の不足ともいえる、この潔さとはどう並存しているのか。たどり着くだろう先行きがみえすぎるのだろうか。いまもなおひとつの謎のままである。
〈その二〉財界首脳・永野重雄氏
かつて経済記者として財界担当だった頃、今は亡き永野重雄・日本商工会議所会頭(新日本製鐵名誉会長)とお手合わせを願ったことがある。私が「2段程度です。何子置いたらいいですか」と聞いたら、即座に「4子でどう」といわれた。「そんなに強いの」と内心思ったが、打ち進むにつれ、その強さがわかってきた。早打ちで、それでいてつぼを外さず、当方の大敗に終わった。
永野さんは財界の重鎮として政界首脳とも緊密な関係にあり、しかも世界を股にかけた機敏な行動力と大局観で知られていた。「なるほど碁の世界と重なっているな」と感じ入った記憶がある。
囲碁は単に勝ち負けを競うだけの場ではない。人間同士が触れ合いながら、それぞれ人間探求を模索する機会でもある。いいかえれば、それぞれの人生観、生き方までが表現される場でもある―と私は考えている。参考までにいえば、私の棋力は現在アマ5段程度にすぎない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は51回目。題して「囲碁本因坊戦を観て想うこと」です。(09年7月17日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽当たるも八卦、当たらぬも八卦
毎日新聞(09年7月17日付)朝刊につぎのような見出しの大きな活字が踊っている。
羽根本因坊 初防衛
4勝2敗 高尾九段を降す
つぎのような記事が続いている。
第64期本因坊決定戦七番勝負の第6局は16日午後8時、276手で羽根直樹本因坊(32)が挑戦者の高尾紳路九段(32)に先番5目半勝ちし、4勝2敗で防衛した ― と。
要するに本因坊が勝って、本因坊の地位を守り、一方、挑戦者が敗れたというニュースである。囲碁ファンにとっては大きなニュースである。
実は私(安原)は前日の新聞(16日付)が伝える中盤戦の模様をみて、この第6局は、挑戦者の高尾九段が勝つのではないかと予測した。実は第5局の中盤戦の状況を見て、私は挑戦者が勝つ碁勢と予測し、結果はその通りになった。しかし第6局は予測が外れ、内心「あれっ、おかしいな」と思った。プロにしても勝敗の行方を正確に予測することはむずかしい。まして私のようなアマの棋力では、当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦であり、口惜しがるような話ではない。
ただ一言つけ加えておくと、毎日新聞(7月17日付)の局後の総括的な観戦記によると、「高尾の受けは巧妙を極め、一時は控室で〈白有望〉という声も上がった」とある。〈白有望〉とは、白石を持つ高尾九段が勝つ可能性も、という意味である。その高尾九段も局後に「少しいいかと思ったあと、どこかで悪くしてしまいました」と反省の弁を述べている。つまり高尾九段自身も一時「勝てるかも・・・」と思ったという意味だろう。そうだとすると、私の中盤戦を材料にした予測も見当はずれではなかったことになる。
▽羽根本因坊はどういう人柄なのか ― 恐るべき平常心
予測の当否はさておき、初防衛に成功した羽根本因坊はどういう人柄なのか。金沢盛栄・観戦記者は「ひと」欄(毎日新聞7月17日付)でつぎのように描いている。
・ニックネームは「忍の貴公子」。勝っても表情を崩さず、負けても腐らない。
・ある先輩棋士は「院生(プロの卵)の合宿で、小2の羽根直樹君が中3の上級生とけんかをしている場面に出くわした。小さな身体で何度も何度も突進し、決して音を上げない。穏やかな外見からはうかがえない強さを感じた」と語る。
・その内面の剛直さが真骨頂だ。どんな大一番であっても、慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心だ。
日曜日放映のNHK教育テレビの囲碁番組で彼の対局姿勢は何度も観たが、上記のコメントの「慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心」は決して誇張した表現とは言えない。この「平常心」は生涯の理想、目標を持つ人物の生き方には必要条件であるが、32歳の若輩にしては出来すぎている印象さえある。もっとも32歳という年齢は、昔の武士なら決して若輩ではない。幕末の志士、坂本龍馬も、たしか32歳で命を絶たれ、歴史に名を残した。
さて毎日新聞の金沢盛栄・観戦記者に触れておきたい。かれは学生本因坊を4回連続奪取しており、その分野では名物男である。毎年東京・千代田区の日本棋院会館(市ヶ谷)でマスコミ関係の囲碁対抗試合がある。私(安原)も現役記者の頃、参加し、最上級のチームのキャプテンとして出場した彼の碁を脇で観戦する機会があった。プロ並みの打ち回しに「これが学生本因坊の実力か」と舌を巻いた記憶があるが、それはそれとして、あの光景は今でも忘れがたい。
70手くらい打ち進んだころだっただろうか、相手が「負けました」といって投了したのである。少し早すぎるのではないかと思ったが、その時負けた相手が言った台詞(せりふ)が忘れられない。
こう言った。「あなたくらいに強くなると、負けるわけにはいかないから、つらいでしょう」と。もちろん相手が学生本因坊・金沢であることを承知した上での物言いである。言い方もいろいろだなあー、と思ったが、これは負け惜しみというものではないか。当の金沢氏も苦笑するほかなかった。
▽経済学者、財界人と碁を打って
さて囲碁にまつわる話題2つをここに再録(06年4月16日、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載の「囲碁にみる人それぞれ・〈折々のつぶやき〉14」から)しておきたい。
〈その一〉経済学者・都留重人氏
私の尊敬する数少ない経済学者のひとり、都留重人・元一橋大学長(06年2月、93歳で逝去)と日本記者クラブの囲碁月例会で一戦交えたことがある。朝日新聞論説顧問であったこともあり、日本記者クラブのメンバーだったのだろう、月例会にはしばしば顔をみせられた。
私との対戦では、50手くらい打って中盤に入ったばかりの局面で、「安原君、もう負けた、負けた」と勝負を投げられた。「まだまだ、これからでしょう」と応じたが、「いや、もういい」という潔さに驚いたことがある。
先生の最後の著作、『市場には心がない ― 成長なくて改革をこそ』(06年2月、岩波書店刊)も含めた多数の名著に共通している深い学識と透徹した洞察力さらに反国家権力的着想、その一方で持続力の不足ともいえる、この潔さとはどう並存しているのか。たどり着くだろう先行きがみえすぎるのだろうか。いまもなおひとつの謎のままである。
〈その二〉財界首脳・永野重雄氏
かつて経済記者として財界担当だった頃、今は亡き永野重雄・日本商工会議所会頭(新日本製鐵名誉会長)とお手合わせを願ったことがある。私が「2段程度です。何子置いたらいいですか」と聞いたら、即座に「4子でどう」といわれた。「そんなに強いの」と内心思ったが、打ち進むにつれ、その強さがわかってきた。早打ちで、それでいてつぼを外さず、当方の大敗に終わった。
永野さんは財界の重鎮として政界首脳とも緊密な関係にあり、しかも世界を股にかけた機敏な行動力と大局観で知られていた。「なるほど碁の世界と重なっているな」と感じ入った記憶がある。
囲碁は単に勝ち負けを競うだけの場ではない。人間同士が触れ合いながら、それぞれ人間探求を模索する機会でもある。いいかえれば、それぞれの人生観、生き方までが表現される場でもある―と私は考えている。参考までにいえば、私の棋力は現在アマ5段程度にすぎない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
温暖化防止、核廃絶、反グローバリズム
安原和雄
イタリアで開かれた09年サミット(主要国首脳会議)が残した課題は何か。世界の多極化とともにサミット自体も大きく変質した。なによりも従来の先進国G8が主導する時代は終わったことを印象づけた。肝心の地球温暖化防止の長期目標では参加国の足並みが揃わず、今年末のコペンハーゲン会議に持ち越された。一方、世界の核廃絶へ向けて大きな一歩を踏み出すことで一致した。楽観はできないが、将来に希望を抱かせる。サミットで採択された共同宣言には例年のようにグローバリズム推進の旗が高く掲げられているが、反グローバリズムの根強い動きにも注目しなければならない。多極化時代の到来は、大国による覇権主義、単独行動主義の終わりをも告げている。(09年7月14日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説はラクイラ・サミットをどう論じたか
09年7月8日から10日までの3日間、イタリアのラクイラで開かれた地球サミットについて新聞社説はどう論じたか。まず5紙の主なサミット社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説
11日=ラクイラG8 世界の変化まざまざと
10日=G8核声明 廃絶へ、歴史動かそう
*毎日新聞社説
11日=温暖化対策 「2度以内」の道筋作ろう。サミット 無用論退ける「首脳力」を ― の2本社説
10日=G8サミット 核廃絶へ日米の連携を。G8サミット 麻生外交 成果少なく ― の2本社説
*読売新聞社説
11日=地球温暖化交渉 先進国と新興国との深い溝
10日=G8経済宣言 世界景気の回復は道半ば
*日本経済新聞社説
11日=温暖化交渉の外堀を埋めたサミット
10日=G8だけでは引っ張れない世界の現実
*東京新聞社説
10日=温暖化対策 2度上昇に抑えるには
9日=サミット 新興国への対応が鍵に
さて肝心の地球温暖化防止策についてはどこまで合意できたのか。その骨子は以下の通り。
(1)G8首脳宣言では「気温上昇を産業革命前に比べ2度以内に抑えるべきだ」と「温室効果ガス排出を先進国全体で2050年までに80%以上削減する」との長期目標で合意。
(2)しかし主要経済国フォーラム(MEF)では「2度以内に抑える」ことでは一致したが、長期目標では一致できなかった。この関連で世界全体の排出を「50年までに相当量削減」する世界全体の目標を設定するため、09年12月のコペンハーゲン会議(COP15=国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)までに取り組む。
以上から主要経済国として具体的にどう削減していくか、その目標については12月のコペンハーゲン会議が注目される。
▽日米欧8カ国(G8)が主役の時代は過去のものとなった
各紙社説の論調から浮かび上がってくるサミットの特色は、従来世界のリーダー役を果たしてきた日米欧8カ国が主役として世界を引っ張っていく時代はもはや過去のものとなったという冷厳な現実である。
朝日新聞は「世界の変化まざまざと」(7月11日付)と題して次のように書いた。
米欧日が合意すれば世界がついてくる時代ではない。ラクイラ・サミットは、そんな多極化時代のG8の限界をまざまざと示した。(中略)
温暖化問題ではG8と平行して開いた主要経済国フォーラム(MEF)が注目された。「先進国が50年までに温暖化ガスを80%以上削減する」とのG8合意をもとに、中国やインドなどに「50年までに全世界で半減」への同意を求めた。だが、反発されて「相当量削減する」との表現にとどまり、この点でも今後に宿題を残した ― と。
日経新聞(7月10日付)もつぎのように指摘した。
G8が世界秩序を主導する旧来の構図が大きく変化している事実を今回のサミットはまざまざと見せつけた。
3日間の日程で本来のG8による話し合いは最初の半日にすぎない。あとは中国やインド、アフリカ諸国などを含めた拡大会合が目白押しですっかり主従関係が逆転した。
米欧はこの流れに対応し始めた。オバマ大統領は9月に米国で開く20カ国・地域(G20)の金融サミットを、温暖化などを含む、より幅広い協議に衣替えしたい意向という。
米は来年3月に30カ国程度を招き「世界核安全保障サミット」を開くと発表した。国際テロ組織への核兵器流出といった現実の脅威を念頭に置くと、中国やインド、パキスタンなどの協力も欠かせない。
ドイツのメルケル首相も「G8体制ではもはや不十分なことが明白になる」と、英国などと同様、G20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが、より多くの国々で話し合うという流れは止まらないだろう ― と。
ここでサミットの多様な枠組みの変化とその意味について説明したい。
従来主役であったG8は1975年に6カ国(日、米、英、ドイツ、フランス、イタリア)で始まり、その後、カナダ、ロシアを含めたG8に広がった。これに新興5カ国(中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)と韓国、豪州、インドネシアの3カ国を加えた主要経済国フォーラム(MEF)が新たに登場してきた。さらにアルゼンチン、トルコ、サウジアラビア、欧州連合(EU)を加えた拡大会合がG20である。
先進8カ国合計の経済規模(GDP)は1992年には世界のなかで7割もあったが、現在は、世界の6割に満たない。一方、G20は世界経済の9割近くを占める。これがG8の地位が低下し、拡大G20が重みを増してきた背景である。
私(安原)自身の経験でいえば、直接取材する立場にあったのは、1978年の第4回ボン(旧西独)・サミット(日本から福田赳夫首相が参加、首相専用機で同行取材)と翌79年の第5回東京サミット(大平正芳首相)で、当時はサミットが始まって間もない頃で、世界における先進諸国の存在感も大きかった。30年前の当時からみると、今日の拡大サミットは隔世の感がある。
もう一つ、日経社説が指摘している「ドイツのメルケル首相も、英国などと同様にG20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが・・・」の含意をどう読みとるかである。各紙とも一様にわが日本国の麻生太郎首相のサミットにおける存在感が希薄だったことを伝えているが、麻生政権は時代が急速にしかも大きく変化しつつあることを認識できないためではないのか。このままでは日本だけが時代に取り残されかねないだろう。
▽核廃絶を実現していくためには核抑止力論への批判を
今回のサミットでの新しい動きは、やはり核廃絶である。毎日新聞社説(7月10日付)は「核廃絶へ日米の連携を」と題してつぎのように指摘した。
G8首脳会議は、核のない世界への条件整備に努めることで一致した。6日に米露首脳が新たな核軍縮条約の枠組みに合意したことも含めて、世界に核廃絶の機運が高まっていることを歓迎したい。(中略)
G8を構成する核保有国の米露英仏が同じ目標(核廃絶)に向けて足並みをそろえた意義は大きい。G8に属さない中国も同調してほしい ― と。
朝日新聞社説(7月10日付)も「廃絶へ、歴史動かそう」というタイトルで、「G8の指導者たちが(核軍縮を進めるための)協調を確認した意義は大きい」と歓迎している。
「歓迎」の主張は大いに評価したいが、指摘しておきたいことがある。それはこれまで各紙社説は繰り返し核不拡散を説いてきたが、核廃絶を正面から論じることは少なかったという点である。ブッシュ前米大統領時代にはその可能性がなかったためでもあるが、核拡散を防ぐためにも、米、露、英、仏、中国という核保有大国の核廃絶こそが本筋であることに変わりはない。
オバマ米大統領が「アメリカには核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある」と述べた上で、「核兵器のない平和で安全な世界を求める」宣言(09年4月)を行って以来、流れは核廃絶へ大きく変化しつつある。その流れに乗ることは決して悪いことではない。
ただ、オバマ大統領自身が核廃絶について「自分が生きている間にやりきれるかどうか分からない」とも指摘していることを見逃してはならないだろう。だからこそ被爆国日本のジャーナリズムとしては核廃絶への流れを加速させるよう努力する責任がある。
日本政府は従来から広島・長崎の平和記念式典(毎年8月)での首相挨拶のなかで核廃絶を唱えてきたが、これは建前にすぎず、現実にはアメリカの「核の傘」を前提にする核抑止力論を信奉する立場に固執している。最近外務省元次官らが「米国の核搭載艦船の日本寄港を認める日米間の密約」が存在していることを公然と語るようになっているが、その意図は何か。
密約の存在からも分かるように日本の非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込まさず)のうち「持ち込まさず」は事実上空文化して、すでに非核2原則に変質しているわけで、この変質を公然と認めようという意図が「密約存在」発言には見え隠れしている。核廃絶を実現する条件として、こうした核抑止力論の迷妄を批判し、そこから脱出する必要がある。なぜなら核抑止力論に執着する以上、核廃絶は空疎なお題目にすぎないからである。この点でも日本ジャーナリズムの責任は大きいといわねばならない。
▽グローバリズムよりもローカリズム重視を
社説ではないが、朝日新聞(09年7月9日付)に「G8こそ災い ローマでデモ」という見出しの小さな一段記事が載った。その趣旨はつぎの通り。
地震被災地ラクイラでの主要国首脳会議(G8サミット)を控えた7日夜、反グローバリズムを訴える活動家や学生約5000人(主催者発表)がローマ中心部でデモをした。十数人が逮捕・拘束され、治安警察隊が進路を阻むなか、デモ参加者は「G8こそ地震、災いだ」などと訴えた。
社説だけでは真実が十分にはつかめないことを示す一例で、この小さな記事を見逃すわけにはゆかない。なぜデモ隊がローマの中心部で「G8こそ、災いだ」などと叫ぶことになったのか。
グローバリズムすなわち世界規模の市場開放、自由貿易の推進をうたう文言を首脳宣言などからいくつか拾い出してみると ― 。
・開放的な市場が経済成長と開発にとり、重要なことを強調し、保護主義に対抗する決意を再確認した。(G8議長総括)
・開放的な市場を維持・促進するとの約束を再確認し、貿易と投資におけるすべての保護主義的措置を拒否する。(サミット拡大会合共同宣言)
・(世界貿易機関=WTO)ドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)について2010年に野心的で均衡のとれた妥結を追求する。(同共同宣言)
・国際投資は成長、雇用、技術革新及び開発の主要な源泉だ。(同共同宣言)
ここで指摘されている「ドーハ・ラウンド」(農産物、鉱工業品、サービス取引の貿易自由化交渉)の交渉が始まったのは、約8年も前の01年11月のことで、これまで何度も決裂、そして交渉再開を繰り返してきた。その根っこには、農業をめぐって、一方に世界規模のグローバリズム、すなわち貿易自由化、相手国の市場開放を求める多国籍企業など大企業、他方に地域中心のローカリズム、すなわち地域経済の発展、食料と雇用の確保のために農業を守ろうとする農民など、との対立抗争がある。
日本の場合、「環境を守る豊かな水田は日本の宝」という認識も強い。水田を維持し、発展させるためには、価格の割安な農産品であれば、海外から輸入すればよいという自由貿易論を単純に受け容れるわけにはゆかない。グローバリズムに対し、ローカリズムの側から反旗をひるがえしているのが、ローマのデモ隊だったのではないか。地球環境の保全を重視する立場からは、むしろローカリズムこそが時代の先兵ともいえるだろう。ローカリズムは単純な保護主義とは異質である。大手紙の社説にこういう視点が皆無に近いのはどういうわけなのか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
イタリアで開かれた09年サミット(主要国首脳会議)が残した課題は何か。世界の多極化とともにサミット自体も大きく変質した。なによりも従来の先進国G8が主導する時代は終わったことを印象づけた。肝心の地球温暖化防止の長期目標では参加国の足並みが揃わず、今年末のコペンハーゲン会議に持ち越された。一方、世界の核廃絶へ向けて大きな一歩を踏み出すことで一致した。楽観はできないが、将来に希望を抱かせる。サミットで採択された共同宣言には例年のようにグローバリズム推進の旗が高く掲げられているが、反グローバリズムの根強い動きにも注目しなければならない。多極化時代の到来は、大国による覇権主義、単独行動主義の終わりをも告げている。(09年7月14日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説はラクイラ・サミットをどう論じたか
09年7月8日から10日までの3日間、イタリアのラクイラで開かれた地球サミットについて新聞社説はどう論じたか。まず5紙の主なサミット社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説
11日=ラクイラG8 世界の変化まざまざと
10日=G8核声明 廃絶へ、歴史動かそう
*毎日新聞社説
11日=温暖化対策 「2度以内」の道筋作ろう。サミット 無用論退ける「首脳力」を ― の2本社説
10日=G8サミット 核廃絶へ日米の連携を。G8サミット 麻生外交 成果少なく ― の2本社説
*読売新聞社説
11日=地球温暖化交渉 先進国と新興国との深い溝
10日=G8経済宣言 世界景気の回復は道半ば
*日本経済新聞社説
11日=温暖化交渉の外堀を埋めたサミット
10日=G8だけでは引っ張れない世界の現実
*東京新聞社説
10日=温暖化対策 2度上昇に抑えるには
9日=サミット 新興国への対応が鍵に
さて肝心の地球温暖化防止策についてはどこまで合意できたのか。その骨子は以下の通り。
(1)G8首脳宣言では「気温上昇を産業革命前に比べ2度以内に抑えるべきだ」と「温室効果ガス排出を先進国全体で2050年までに80%以上削減する」との長期目標で合意。
(2)しかし主要経済国フォーラム(MEF)では「2度以内に抑える」ことでは一致したが、長期目標では一致できなかった。この関連で世界全体の排出を「50年までに相当量削減」する世界全体の目標を設定するため、09年12月のコペンハーゲン会議(COP15=国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)までに取り組む。
以上から主要経済国として具体的にどう削減していくか、その目標については12月のコペンハーゲン会議が注目される。
▽日米欧8カ国(G8)が主役の時代は過去のものとなった
各紙社説の論調から浮かび上がってくるサミットの特色は、従来世界のリーダー役を果たしてきた日米欧8カ国が主役として世界を引っ張っていく時代はもはや過去のものとなったという冷厳な現実である。
朝日新聞は「世界の変化まざまざと」(7月11日付)と題して次のように書いた。
米欧日が合意すれば世界がついてくる時代ではない。ラクイラ・サミットは、そんな多極化時代のG8の限界をまざまざと示した。(中略)
温暖化問題ではG8と平行して開いた主要経済国フォーラム(MEF)が注目された。「先進国が50年までに温暖化ガスを80%以上削減する」とのG8合意をもとに、中国やインドなどに「50年までに全世界で半減」への同意を求めた。だが、反発されて「相当量削減する」との表現にとどまり、この点でも今後に宿題を残した ― と。
日経新聞(7月10日付)もつぎのように指摘した。
G8が世界秩序を主導する旧来の構図が大きく変化している事実を今回のサミットはまざまざと見せつけた。
3日間の日程で本来のG8による話し合いは最初の半日にすぎない。あとは中国やインド、アフリカ諸国などを含めた拡大会合が目白押しですっかり主従関係が逆転した。
米欧はこの流れに対応し始めた。オバマ大統領は9月に米国で開く20カ国・地域(G20)の金融サミットを、温暖化などを含む、より幅広い協議に衣替えしたい意向という。
米は来年3月に30カ国程度を招き「世界核安全保障サミット」を開くと発表した。国際テロ組織への核兵器流出といった現実の脅威を念頭に置くと、中国やインド、パキスタンなどの協力も欠かせない。
ドイツのメルケル首相も「G8体制ではもはや不十分なことが明白になる」と、英国などと同様、G20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが、より多くの国々で話し合うという流れは止まらないだろう ― と。
ここでサミットの多様な枠組みの変化とその意味について説明したい。
従来主役であったG8は1975年に6カ国(日、米、英、ドイツ、フランス、イタリア)で始まり、その後、カナダ、ロシアを含めたG8に広がった。これに新興5カ国(中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)と韓国、豪州、インドネシアの3カ国を加えた主要経済国フォーラム(MEF)が新たに登場してきた。さらにアルゼンチン、トルコ、サウジアラビア、欧州連合(EU)を加えた拡大会合がG20である。
先進8カ国合計の経済規模(GDP)は1992年には世界のなかで7割もあったが、現在は、世界の6割に満たない。一方、G20は世界経済の9割近くを占める。これがG8の地位が低下し、拡大G20が重みを増してきた背景である。
私(安原)自身の経験でいえば、直接取材する立場にあったのは、1978年の第4回ボン(旧西独)・サミット(日本から福田赳夫首相が参加、首相専用機で同行取材)と翌79年の第5回東京サミット(大平正芳首相)で、当時はサミットが始まって間もない頃で、世界における先進諸国の存在感も大きかった。30年前の当時からみると、今日の拡大サミットは隔世の感がある。
もう一つ、日経社説が指摘している「ドイツのメルケル首相も、英国などと同様にG20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが・・・」の含意をどう読みとるかである。各紙とも一様にわが日本国の麻生太郎首相のサミットにおける存在感が希薄だったことを伝えているが、麻生政権は時代が急速にしかも大きく変化しつつあることを認識できないためではないのか。このままでは日本だけが時代に取り残されかねないだろう。
▽核廃絶を実現していくためには核抑止力論への批判を
今回のサミットでの新しい動きは、やはり核廃絶である。毎日新聞社説(7月10日付)は「核廃絶へ日米の連携を」と題してつぎのように指摘した。
G8首脳会議は、核のない世界への条件整備に努めることで一致した。6日に米露首脳が新たな核軍縮条約の枠組みに合意したことも含めて、世界に核廃絶の機運が高まっていることを歓迎したい。(中略)
G8を構成する核保有国の米露英仏が同じ目標(核廃絶)に向けて足並みをそろえた意義は大きい。G8に属さない中国も同調してほしい ― と。
朝日新聞社説(7月10日付)も「廃絶へ、歴史動かそう」というタイトルで、「G8の指導者たちが(核軍縮を進めるための)協調を確認した意義は大きい」と歓迎している。
「歓迎」の主張は大いに評価したいが、指摘しておきたいことがある。それはこれまで各紙社説は繰り返し核不拡散を説いてきたが、核廃絶を正面から論じることは少なかったという点である。ブッシュ前米大統領時代にはその可能性がなかったためでもあるが、核拡散を防ぐためにも、米、露、英、仏、中国という核保有大国の核廃絶こそが本筋であることに変わりはない。
オバマ米大統領が「アメリカには核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある」と述べた上で、「核兵器のない平和で安全な世界を求める」宣言(09年4月)を行って以来、流れは核廃絶へ大きく変化しつつある。その流れに乗ることは決して悪いことではない。
ただ、オバマ大統領自身が核廃絶について「自分が生きている間にやりきれるかどうか分からない」とも指摘していることを見逃してはならないだろう。だからこそ被爆国日本のジャーナリズムとしては核廃絶への流れを加速させるよう努力する責任がある。
日本政府は従来から広島・長崎の平和記念式典(毎年8月)での首相挨拶のなかで核廃絶を唱えてきたが、これは建前にすぎず、現実にはアメリカの「核の傘」を前提にする核抑止力論を信奉する立場に固執している。最近外務省元次官らが「米国の核搭載艦船の日本寄港を認める日米間の密約」が存在していることを公然と語るようになっているが、その意図は何か。
密約の存在からも分かるように日本の非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込まさず)のうち「持ち込まさず」は事実上空文化して、すでに非核2原則に変質しているわけで、この変質を公然と認めようという意図が「密約存在」発言には見え隠れしている。核廃絶を実現する条件として、こうした核抑止力論の迷妄を批判し、そこから脱出する必要がある。なぜなら核抑止力論に執着する以上、核廃絶は空疎なお題目にすぎないからである。この点でも日本ジャーナリズムの責任は大きいといわねばならない。
▽グローバリズムよりもローカリズム重視を
社説ではないが、朝日新聞(09年7月9日付)に「G8こそ災い ローマでデモ」という見出しの小さな一段記事が載った。その趣旨はつぎの通り。
地震被災地ラクイラでの主要国首脳会議(G8サミット)を控えた7日夜、反グローバリズムを訴える活動家や学生約5000人(主催者発表)がローマ中心部でデモをした。十数人が逮捕・拘束され、治安警察隊が進路を阻むなか、デモ参加者は「G8こそ地震、災いだ」などと訴えた。
社説だけでは真実が十分にはつかめないことを示す一例で、この小さな記事を見逃すわけにはゆかない。なぜデモ隊がローマの中心部で「G8こそ、災いだ」などと叫ぶことになったのか。
グローバリズムすなわち世界規模の市場開放、自由貿易の推進をうたう文言を首脳宣言などからいくつか拾い出してみると ― 。
・開放的な市場が経済成長と開発にとり、重要なことを強調し、保護主義に対抗する決意を再確認した。(G8議長総括)
・開放的な市場を維持・促進するとの約束を再確認し、貿易と投資におけるすべての保護主義的措置を拒否する。(サミット拡大会合共同宣言)
・(世界貿易機関=WTO)ドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)について2010年に野心的で均衡のとれた妥結を追求する。(同共同宣言)
・国際投資は成長、雇用、技術革新及び開発の主要な源泉だ。(同共同宣言)
ここで指摘されている「ドーハ・ラウンド」(農産物、鉱工業品、サービス取引の貿易自由化交渉)の交渉が始まったのは、約8年も前の01年11月のことで、これまで何度も決裂、そして交渉再開を繰り返してきた。その根っこには、農業をめぐって、一方に世界規模のグローバリズム、すなわち貿易自由化、相手国の市場開放を求める多国籍企業など大企業、他方に地域中心のローカリズム、すなわち地域経済の発展、食料と雇用の確保のために農業を守ろうとする農民など、との対立抗争がある。
日本の場合、「環境を守る豊かな水田は日本の宝」という認識も強い。水田を維持し、発展させるためには、価格の割安な農産品であれば、海外から輸入すればよいという自由貿易論を単純に受け容れるわけにはゆかない。グローバリズムに対し、ローカリズムの側から反旗をひるがえしているのが、ローマのデモ隊だったのではないか。地球環境の保全を重視する立場からは、むしろローカリズムこそが時代の先兵ともいえるだろう。ローカリズムは単純な保護主義とは異質である。大手紙の社説にこういう視点が皆無に近いのはどういうわけなのか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
憲法9条は世界の人々のためにある
安原和雄
アメリカ合衆国国家の命令によって海外の戦場で「人殺し」を強要され、心に大きな痛手を受けて帰還した元米兵たちの間に反戦・平和への熱い思いを語る動きが広がりつつある。しかもそういう帰還米兵たちに共通しているのは、「日本国憲法9条は世界の宝であり、世界の人々のためにある」という認識と願いを持ち合わせていることである。これは同時に日本人には9条を守り、生かしてゆく責任があるという指摘であり、励ましともなっている点を見逃してはならないだろう。(09年7月8日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽9条を守るのは日本の人々にしかできない
「イラク帰還米兵アッシュ・ウールソンさんのお話しと尺八のつどい」が7月4日、「PAW2009プロジェクト・オブ・アッシュ・ウールソン」主催、「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)協賛で東京・新宿区高田馬場のシロアム教会礼拝室で開かれた。
ウールソンさん(注1)が戦争と平和について語った内容のほんの一部を以下に紹介する。
(注1)ウールソンさんは1981年生まれ。米国シアトル在住。ウイスコンシン大学卒(専攻:グラフィック・アート)。学資を得るため州兵に志願し、イラクへ派遣された。帰国後「反戦イラク帰還兵の会」に所属し、平和活動にたずさわっている。
2008年5月、広島から千葉・幕張までの平和行進(ピースウォーク)に加わり、歩き通した。2008年夏、1か月半、平和の種まきキャラバンと称し、日本各地で平和の大切さを訴えた。昨年来日時に日本の民族楽器・尺八に出会い、すっかり気に入った。今回は、3度目の来日。
戦争は決して正当化され得ない。私はイラクの戦場で人間のいのちがいかに粗末に扱われるか、戦争がいかに人間性を破壊するかをみてきた。
私は州兵に志願した。州兵の任務は、災害の救助であり、国を守るためだけであり、対外戦争には参加させられないと聞いていたから。しかしイラク戦争には州兵までが駆り出されることになった。ルイジアナ州でのあの大ハリケーン(注2)の時、州兵はイラク戦争に出ていて、州の市民を守ることができなかった。
(注2・安原記)2005年8月約1週間にわたって米国南東部を襲った大型ハリケーン・カトリーナ(最大風速78㍍・秒速)は甚大な被害をもたらした。直撃を受けたニューオーリンズ市の8割が水没、死者は総計2500 名(行方不明者を含む)を超えた。
州兵が到着したのが発生から1週間後のことで、銃口を市民に向けるほど混乱状態に陥っていた。復旧費用を含む518億ドル(約5兆円)の追加補正予算が成立したが、イラク戦争などのテロ対策費約50兆円に比べ、あまりにもわずかという印象が強く、世論調査によると、当時のブッシュ政権の支持率は最低の40%前後に低落した。
私は戦争体験を経て、物欲から切り離された生活をしたいと考えるようになった。学んだことは、平和がどれだけ大切なものか、暴力では平和は築けないということ。戦争、暴力によって平和をもたらすことができるなら、今、平和な世界に住んでいるはずである。
子どもの頃、小学校の先生から「お互いに憎んではいけない」と教えられた。しかし現在は国と国とでは憎み合ってもいいということになっている。インドのマハトマ・ガンジーも言っている。人と人との望ましい関係も、国と国との相互関係も同じことだ、と。
いつになったら小学校の先生が教えてくれたような平和な国と国との関係が実現するのだろうか。
日本国憲法9条は、大きな犠牲の上に成り立っている素晴らしい条文である。しかし悲しいことに日本政府は多くの犠牲の上に9条があることを忘れているのではないか。9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである。
参考までにウールソンさんが世界平和のために高く評価している日本国憲法9条の全文を掲載しておく。
[9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)]全文
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
▽みんな、聞いてくれ これが軍隊だ!
イラク帰還兵、ウールソンさんの訴えを聞く会の会場で私(安原)はベトナム戦争の語り部、元米海兵隊員のアレン・ネルソンさん(注3)の小冊子『そのとき、赤ん坊が私の手の中に ― みんな、聞いてくれ これが軍隊だ! ― 憲法9条こそ世界の希望』(07年3月発行=編集:「憲法9条・メッセージ・プロジェクト」代表・安齋育郎:立命館大学国際平和ミュージアム館長)を買い求めた。
(注3)ネルソンさんは1947年ニューヨーク生まれ。アフリカ系アメリカ人。高校中退、海兵隊入隊。沖縄駐留を経て、1966年ベトナム戦争に従軍。除隊後、戦争後遺症に苦しむ。殺人という自らの罪を認めることにより「再生」。キリスト教フレンド派(通称「クエーカー」)の非暴力思想に共鳴し入会。1996年以来日本各地でも講演、とくに憲法9条の人類史的意義を強調。講演前後のブルースの弾き語りでも知られる。
小冊子の内容はかなり長文なので、主な小見出しを以下に紹介する。
・わがアメリカこそ「国際テロ」の帝王
・日本の頭上にはジョージ・ブッシュが君臨
・戦争とは国際テロそのもの
・「お前は私の息子じゃない!」― 帰還した私に母が叫んだ
・猫とホームレス生活に
・少女が尋ねた ―「ネルソンさん 人を殺したの?」
・人を殺すたびに、心のなかの大切なものが死んでゆく・・・
・アメリカは格差社会 ― 「貧困のアメリカ」を紹介したい
・アメリカの富は、軍備のためにある
・貧しさゆえに海兵隊に・・・そのとき母は怒って泣き崩れた
・戦場で殺し合いするのは、貧しい庶民同士
・軍隊の訓練と任務は「殺し」
・「構え、銃!」― 沖縄では「人型」の的だった
・本国では「射撃訓練」― 沖縄では「殺人訓練」
・「暴力」が兵士とともに街をゆく
・戦争にルールなんかありません
・戦場で一番苦しむのは女性、子ども、老人
・殺した死体の場面と悪臭が「悪夢の正体」
・私の手のなかに「新しい生命(いのち)」が生まれ落ちた
・国家は戦争相手を「人間じゃない」と思い込ませる
・いまも沖縄基地の状況は戦場そのもの
・「基地を閉鎖し米軍は本国へ」― そのために私は行動する
・地球上のすべての国に「9条」がほしい
・改憲は世界から「希望の光」を奪う ― 平和は一人ひとりの決意から
以上の小見出しを観察すると、その内容も自ずから想像できるのではないか。ただ一つ、小冊子のタイトルにもなっている《私の手の中に「新しい生命」が生まれ落ちた》は、若干の説明が必要だろう。概略、以下のようである。
海兵隊中隊がある村を通過しようとしていたとき、奇襲攻撃を受けて、逃げ回り、わたしは人家の裏手の防空壕に飛び込んだ。「だれかいるな・・・」と感じ、ふり返ると、若いベトナムの女性が荒い息づかいで苦しそうだった。やがてその女性がひときわ強く息(いき)んだとたん、私は思わず手を差し出していた。
驚いたことに彼女の体から出てきた赤ん坊が私の手のなかに生まれ落ちた。彼女は私から赤ん坊を取り返すと、逃げるように壕から、ジャングルに姿を消した。(中略)
壕を這い出した私は、別の人間に生まれ変わっていたのだと思う。赤ん坊誕生は、私にとって決定的な意味をもつ出会いだった。このことによって初めて「ベトナム人も同じ人間だ・・・」という思いを持った。
〈追記〉東京新聞(09年7月6日付)はつぎのように伝えている。
憲法9条の大切さを訴え続けたアレン・ネルソンさんは09年3月、61歳で死去し、遺骨は石川県加賀市の浄土真宗寺院に納められた。同寺の佐野明弘住職(51)と平和への思いで共感し、交流を深めたからだ。最期はキリスト教徒から仏教徒になって命を閉じた。去る6月しのぶ会が開かれ、170人が集まった。「遺志を継がなければ」「9条の大切さをこれからも訴え続けよう」などとネルソンさんへの思いを語り合った。(加賀通信局・池田知之記者)
▽〈安原の感想〉元米兵の思い ― すべての国に憲法9条がほしい
イラクそしてベトナムの戦場から帰還した元米兵2人がこもごも強調しているのが日本国憲法9条の存在価値である。
アッシュ・ウールソンさんの9条への思いを再録すると、つぎのようである。
9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである ― と。
一方、アレン・ネルソンさんは「英文の日本国憲法を日本の平和活動家から、見せて貰ってわが目を疑った」と前置きしてつぎのように語った。ネルソンさん亡き今となっては彼の遺言と受け止めたい。
9条の力強さ、美しさ・・・。まさにこれは「わが心の師、マハトマ・ガンジーかキング牧師が、日本人の生きる道を示すために書き与えたものではないか」とすら思ったほどだ。9条の持つ力強さはいかなる核兵器、いかなる軍隊も及ぶものではない。
いま危機に瀕する9条をみなさんが守るべきときである。9条はひとり日本を守っているだけではない。地球上のすべての人にとっての宝物である。
私はアメリカ人だ。アメリカにこそ9条がほしい。いや人類がこの核兵器、大量破壊兵器の時代を生きのびるために、地球上のすべての国に9条があってほしい。9条は人類の未来を指し示す「希望の灯」である ― と。
もう一つ、2人ともに「世界の宝、9条を守ることができるのは日本人しかいない」と指摘し、日本人として9条を守り、生かしていく責任とそれへの期待を表明していることも忘れてはならないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
アメリカ合衆国国家の命令によって海外の戦場で「人殺し」を強要され、心に大きな痛手を受けて帰還した元米兵たちの間に反戦・平和への熱い思いを語る動きが広がりつつある。しかもそういう帰還米兵たちに共通しているのは、「日本国憲法9条は世界の宝であり、世界の人々のためにある」という認識と願いを持ち合わせていることである。これは同時に日本人には9条を守り、生かしてゆく責任があるという指摘であり、励ましともなっている点を見逃してはならないだろう。(09年7月8日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽9条を守るのは日本の人々にしかできない
「イラク帰還米兵アッシュ・ウールソンさんのお話しと尺八のつどい」が7月4日、「PAW2009プロジェクト・オブ・アッシュ・ウールソン」主催、「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)協賛で東京・新宿区高田馬場のシロアム教会礼拝室で開かれた。
ウールソンさん(注1)が戦争と平和について語った内容のほんの一部を以下に紹介する。
(注1)ウールソンさんは1981年生まれ。米国シアトル在住。ウイスコンシン大学卒(専攻:グラフィック・アート)。学資を得るため州兵に志願し、イラクへ派遣された。帰国後「反戦イラク帰還兵の会」に所属し、平和活動にたずさわっている。
2008年5月、広島から千葉・幕張までの平和行進(ピースウォーク)に加わり、歩き通した。2008年夏、1か月半、平和の種まきキャラバンと称し、日本各地で平和の大切さを訴えた。昨年来日時に日本の民族楽器・尺八に出会い、すっかり気に入った。今回は、3度目の来日。
戦争は決して正当化され得ない。私はイラクの戦場で人間のいのちがいかに粗末に扱われるか、戦争がいかに人間性を破壊するかをみてきた。
私は州兵に志願した。州兵の任務は、災害の救助であり、国を守るためだけであり、対外戦争には参加させられないと聞いていたから。しかしイラク戦争には州兵までが駆り出されることになった。ルイジアナ州でのあの大ハリケーン(注2)の時、州兵はイラク戦争に出ていて、州の市民を守ることができなかった。
(注2・安原記)2005年8月約1週間にわたって米国南東部を襲った大型ハリケーン・カトリーナ(最大風速78㍍・秒速)は甚大な被害をもたらした。直撃を受けたニューオーリンズ市の8割が水没、死者は総計2500 名(行方不明者を含む)を超えた。
州兵が到着したのが発生から1週間後のことで、銃口を市民に向けるほど混乱状態に陥っていた。復旧費用を含む518億ドル(約5兆円)の追加補正予算が成立したが、イラク戦争などのテロ対策費約50兆円に比べ、あまりにもわずかという印象が強く、世論調査によると、当時のブッシュ政権の支持率は最低の40%前後に低落した。
私は戦争体験を経て、物欲から切り離された生活をしたいと考えるようになった。学んだことは、平和がどれだけ大切なものか、暴力では平和は築けないということ。戦争、暴力によって平和をもたらすことができるなら、今、平和な世界に住んでいるはずである。
子どもの頃、小学校の先生から「お互いに憎んではいけない」と教えられた。しかし現在は国と国とでは憎み合ってもいいということになっている。インドのマハトマ・ガンジーも言っている。人と人との望ましい関係も、国と国との相互関係も同じことだ、と。
いつになったら小学校の先生が教えてくれたような平和な国と国との関係が実現するのだろうか。
日本国憲法9条は、大きな犠牲の上に成り立っている素晴らしい条文である。しかし悲しいことに日本政府は多くの犠牲の上に9条があることを忘れているのではないか。9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである。
参考までにウールソンさんが世界平和のために高く評価している日本国憲法9条の全文を掲載しておく。
[9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)]全文
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
▽みんな、聞いてくれ これが軍隊だ!
イラク帰還兵、ウールソンさんの訴えを聞く会の会場で私(安原)はベトナム戦争の語り部、元米海兵隊員のアレン・ネルソンさん(注3)の小冊子『そのとき、赤ん坊が私の手の中に ― みんな、聞いてくれ これが軍隊だ! ― 憲法9条こそ世界の希望』(07年3月発行=編集:「憲法9条・メッセージ・プロジェクト」代表・安齋育郎:立命館大学国際平和ミュージアム館長)を買い求めた。
(注3)ネルソンさんは1947年ニューヨーク生まれ。アフリカ系アメリカ人。高校中退、海兵隊入隊。沖縄駐留を経て、1966年ベトナム戦争に従軍。除隊後、戦争後遺症に苦しむ。殺人という自らの罪を認めることにより「再生」。キリスト教フレンド派(通称「クエーカー」)の非暴力思想に共鳴し入会。1996年以来日本各地でも講演、とくに憲法9条の人類史的意義を強調。講演前後のブルースの弾き語りでも知られる。
小冊子の内容はかなり長文なので、主な小見出しを以下に紹介する。
・わがアメリカこそ「国際テロ」の帝王
・日本の頭上にはジョージ・ブッシュが君臨
・戦争とは国際テロそのもの
・「お前は私の息子じゃない!」― 帰還した私に母が叫んだ
・猫とホームレス生活に
・少女が尋ねた ―「ネルソンさん 人を殺したの?」
・人を殺すたびに、心のなかの大切なものが死んでゆく・・・
・アメリカは格差社会 ― 「貧困のアメリカ」を紹介したい
・アメリカの富は、軍備のためにある
・貧しさゆえに海兵隊に・・・そのとき母は怒って泣き崩れた
・戦場で殺し合いするのは、貧しい庶民同士
・軍隊の訓練と任務は「殺し」
・「構え、銃!」― 沖縄では「人型」の的だった
・本国では「射撃訓練」― 沖縄では「殺人訓練」
・「暴力」が兵士とともに街をゆく
・戦争にルールなんかありません
・戦場で一番苦しむのは女性、子ども、老人
・殺した死体の場面と悪臭が「悪夢の正体」
・私の手のなかに「新しい生命(いのち)」が生まれ落ちた
・国家は戦争相手を「人間じゃない」と思い込ませる
・いまも沖縄基地の状況は戦場そのもの
・「基地を閉鎖し米軍は本国へ」― そのために私は行動する
・地球上のすべての国に「9条」がほしい
・改憲は世界から「希望の光」を奪う ― 平和は一人ひとりの決意から
以上の小見出しを観察すると、その内容も自ずから想像できるのではないか。ただ一つ、小冊子のタイトルにもなっている《私の手の中に「新しい生命」が生まれ落ちた》は、若干の説明が必要だろう。概略、以下のようである。
海兵隊中隊がある村を通過しようとしていたとき、奇襲攻撃を受けて、逃げ回り、わたしは人家の裏手の防空壕に飛び込んだ。「だれかいるな・・・」と感じ、ふり返ると、若いベトナムの女性が荒い息づかいで苦しそうだった。やがてその女性がひときわ強く息(いき)んだとたん、私は思わず手を差し出していた。
驚いたことに彼女の体から出てきた赤ん坊が私の手のなかに生まれ落ちた。彼女は私から赤ん坊を取り返すと、逃げるように壕から、ジャングルに姿を消した。(中略)
壕を這い出した私は、別の人間に生まれ変わっていたのだと思う。赤ん坊誕生は、私にとって決定的な意味をもつ出会いだった。このことによって初めて「ベトナム人も同じ人間だ・・・」という思いを持った。
〈追記〉東京新聞(09年7月6日付)はつぎのように伝えている。
憲法9条の大切さを訴え続けたアレン・ネルソンさんは09年3月、61歳で死去し、遺骨は石川県加賀市の浄土真宗寺院に納められた。同寺の佐野明弘住職(51)と平和への思いで共感し、交流を深めたからだ。最期はキリスト教徒から仏教徒になって命を閉じた。去る6月しのぶ会が開かれ、170人が集まった。「遺志を継がなければ」「9条の大切さをこれからも訴え続けよう」などとネルソンさんへの思いを語り合った。(加賀通信局・池田知之記者)
▽〈安原の感想〉元米兵の思い ― すべての国に憲法9条がほしい
イラクそしてベトナムの戦場から帰還した元米兵2人がこもごも強調しているのが日本国憲法9条の存在価値である。
アッシュ・ウールソンさんの9条への思いを再録すると、つぎのようである。
9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである ― と。
一方、アレン・ネルソンさんは「英文の日本国憲法を日本の平和活動家から、見せて貰ってわが目を疑った」と前置きしてつぎのように語った。ネルソンさん亡き今となっては彼の遺言と受け止めたい。
9条の力強さ、美しさ・・・。まさにこれは「わが心の師、マハトマ・ガンジーかキング牧師が、日本人の生きる道を示すために書き与えたものではないか」とすら思ったほどだ。9条の持つ力強さはいかなる核兵器、いかなる軍隊も及ぶものではない。
いま危機に瀕する9条をみなさんが守るべきときである。9条はひとり日本を守っているだけではない。地球上のすべての人にとっての宝物である。
私はアメリカ人だ。アメリカにこそ9条がほしい。いや人類がこの核兵器、大量破壊兵器の時代を生きのびるために、地球上のすべての国に9条があってほしい。9条は人類の未来を指し示す「希望の灯」である ― と。
もう一つ、2人ともに「世界の宝、9条を守ることができるのは日本人しかいない」と指摘し、日本人として9条を守り、生かしていく責任とそれへの期待を表明していることも忘れてはならないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
大規模近代化農業に未来はない
安原和雄
「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。(09年7月3日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。
はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ
(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。
目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。
▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する
著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。
種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。
この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。
〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。
著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。
▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か
まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。
2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。
この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。
〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。
このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。
▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏
本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。
近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。
近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。
〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念
工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。
▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物
現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。
加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。
〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。
▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ
農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。
*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。
*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。
〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。
こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。
どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。(09年7月3日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。
はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ
(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。
目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。
▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する
著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。
種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。
この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。
〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。
著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。
▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か
まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。
2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。
この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。
〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。
このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。
▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏
本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。
近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。
近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。
〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念
工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。
▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物
現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。
加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。
〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。
▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ
農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。
*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。
*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。
〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。
こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。
どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。
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