原発を並べて戦争はできない
安原和雄
米国主導の対テロ戦争の余波で、万一、日本が戦争に巻き込まれた場合、どういう事態が発生するか。原発技術者・山田太郎氏は、原発に関する専門知識を活かした論文、「原発を並べて自衛戦争はできない」(季刊誌『Ripresa』07年夏季号・リプレーザ社発行)で「日本列島上に並んでいる原子力発電所が攻撃されれば、放射能汚染で日本列島に日本人が住めなくなる日がくる可能性がある」と指摘している。
さらにそれを防ぐためには日本の安全保障政策として「非武装の選択こそが現実的」と提案している。(07年8月28日掲載、同月29日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
安倍改造内閣の発足(8月27日)について、多くのメディアは今後安倍カラーをいかに修正するかが焦点と伝えている。しかし安倍首相は米国の意向に沿ってテロ対策特別措置法(注)の延長にあくまで執着している。これは日米軍事同盟の堅持、そして米国主導の対テロ戦争への協力態勢を続ける姿勢に変わりはないことを意味している。
いいかえれば安倍首相は、先の参院選で自民党が惨敗したにもかかわらず、「戦後レジーム(体制)からの脱却」、憲法9条の改悪、そして「戦争のできる国・日本」への意図を捨ててはいないとみて差し支えないだろう。そういう路線に固執することが日本にどういう悲劇をもたらすか、山田論文が示唆するところは深い。
(注)テロ対策特別措置法は、日本が血税を使って、米国を中心とする多国籍軍に石油を供給するために海上自衛艦をインド洋に派遣している根拠法であり、11月1日で期限切れとなる。安倍政権はこの延長を画策しているが、参院で第一党となった民主党の小沢代表は、延長に反対することを明言しており、当面、与野党間の最大の争点となっている。
以下に山田論文の要点を紹介したい。
▽原発が武力攻撃を受けたらどうなるか?
原発の安全に関する議論―大地震でも、あるいは重要な機器が故障しても大丈夫か、など―は、平和であることを当然の前提としている。しかしその平和という前提条件がなくなるという事態、つまり戦争になったら原発にどういう問題が生じてくるのか。
1)武力攻撃は原発の設計条件に入っていない
まず指摘したいのは、原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、は入っていないということである。
わが国に現在ある商業用原発55基は、いかに発電コストを小さくできるかという経済性を最優先に設計されており、武力攻撃を受けた場合、どうなるかは少なくとも設計上は分かっていない。
2)武力攻撃下で原子炉はどこまで安全か
次は武力攻撃下で原子炉の安全はどこまで保てるのか、である。
ここで火力発電所と原発の決定的な相違点に触れておきたい。火力発電の場合、武力攻撃によって発電できなくなったとしたら、ボイラーへの燃料供給を止めさえすれば、発電所の運転は無事に止められる。
しかし原発の場合、原子炉内にある核燃料は、どうなるか。原子炉内で核反応が止まっても、核反応によって新たにできていた放射性物質が、放射線を出すとともに、発熱もするので、その熱を水で冷却してやらねば、核燃料の温度は上がり続け、最後には燃料被覆管が溶けて破れてしまう。さらに温度が上昇すれば、管の破れにとどまらず核燃料自体が溶け、炉心が崩壊するという事態になる。その実例がスリーマイル島原発事故(注)である。
(注)1979年3月に米国ペンシルバニア州を流れる川の中州にあるスリーマイル島(TMI)原発で起きた事故は、原子炉から冷却水が失われて炉心が崩壊(溶融)した深刻なものだった。原子力事故の国際評価では旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故に次ぐ史上2番目の大事故とされている。
さて肝心の原子炉が停止した後に行わねばならない冷却は、武力攻撃を受けた場合にできるのだろうか。冷却には、原子炉内の水の循環とその原子炉内の水から熱を海に運び出す補機冷却システムの働きが必要である。例えば海水用ポンプ、配管、熱交換器、電動機、非常用電源(多くはディーゼル発電機)、ディーゼルエンジン用燃料(多くは軽油)タンクなどが必要で、それらの多くは屋外にむき出しで置かれている。これらの機器は小さな通常爆弾でほとんどが破壊されるか、機能停止になるだろう。
これでは武力攻撃を受けたら、ほぼ確実に原子炉の冷却ができなくなり、原子炉の安全が保てない。こういう事態の発生はもともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。
ただ想像すれば、大量の放射能が屋外に放出される可能性がある場合、公的機関を通じて地域住民に避難勧告あるいは命令が出され、地域の交通機関は大混乱に陥るだろう。実際には地域住民が避難することは不可能に近いかも知れない。
3)武力攻撃下で使用済核燃料はどこまで安全か
指摘しておきたいことは、原発で最も危険なのは、原子炉内で核反応させた使用済核燃料である。核燃料は平均約4年間原子炉内で使われた後、炉外に取り出される。取り出された使用済核燃料は依然として強い放射線を出しているので、万一、人が近づいたら、致死量の放射線被曝をしてしまう。
この使用済核燃料が保存される燃料貯蔵設備(燃料プールなど)も、通常爆弾の攻撃には無防備といってよい。この燃料貯蔵設備に爆弾が落下した場合、爆発の衝撃によって何が起こるか。
使用済燃料の破損・破壊が生じて、使用済燃料が核反応を起こす可能性がある。これは燃料貯蔵設備が、むき出しの原子炉になってしまうことを意味する。どの程度の核反応になるか。そもそもそこで核反応が起きることを想定していないから、核反応を停止させる装置を持っていない。だから起こってしまった核反応は成りゆきに任せるほかない。
燃料貯蔵設備の中では、核反応の熱で高温になり、しかも破損した使用済核燃料から放射性物質が大量に漏れだし、大気中に放出される。付随して水蒸気爆発が起きれば、原子炉建屋の破壊が進むかもしれない。
予想しない核反応が起きた事例として東海村JCO臨界事故(注)があるが、これに比べて武装攻撃の結果起こる核反応の規模は桁違いに大きく、被害も甚大になるだろう。
(注)1999年9月茨城県東海村でJCO(株式会社)の核燃料加工施設で発生、作業員2人が死亡した。
被害発生の直後は、死者や重傷者の救出、人々の避難などでも大混乱になるだろう。長期的には、その時の気象状況にもよるが、周辺の広大な土地が永久に人の住めない放射能汚染状態に陥るだろう。こういう結果になることは、チェルノブイリ原発事故(注)から21年後の今日の現実をみれば明白である。しかもチェルノブイリ事故は戦時下ではなく、平和時の事故であった。
(注)1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
4)武力攻撃下で六ヶ所村の再処理施設は果たして安全か
青森県下北半島に位置する六カ所村の再処理施設が試運転を完了して、正式に稼働できるのはいつか、は分からない。
しかし仮に稼働して、各地の原発の敷地から順次、使用済核燃料が六ヶ所村へ向けて搬出され始めても、各原発で貯蔵する使用済核燃料はゼロにはならない。原子炉から取り出された使用済核燃料は、相当長期間、発熱を続けるので、その期間、燃料貯蔵設備で冷却する必要があるからである。しかも再処理施設の正式稼働がいつになるか分からない現状では各原発の敷地内に使用済核燃料が際限なく溜まり続ける。このことが各原発を武力攻撃に対し、きわめて危険な存在にしている。
一方、再処理施設が正式稼働すれば、使用済核燃料が全国の原発から集まってくることになり、それによって再処理施設は各原発よりもはるかに武力攻撃に対しては危険な存在になるだろう。
▽非武装こそが「現実的」な指針
どの外国とであれ、国籍不明の武装勢力とであれ、ひとたび武器を使用した紛争に日本が巻き込まれたら、原発が武力攻撃される可能性を覚悟せざるを得ない。その場合、原発を安全に護ることは不可能といってよい。平和の下でなければ、原発は安全を保てないことは、原発の原理的・構造的な宿命である。
原発を国内に抱えているわが国は、国家であれ、武装集団であれ、どんな相手からも、武力攻撃を受けるような事態をつくってはならない。そのためには、軍備を持たずに、平和的な手段で国際紛争を解決する努力をするのが国家滅亡を避けるためのもっとも現実的な方法なのである。
これは日本国憲法(特に前文と第9条)に書いてあることであり、人類で初めて原子爆弾を投下されるという悲惨な体験をした日本においては、戦争直後も「現実的」な指針であったし、当時よりも兵器が発達し、多数の原爆が存在する現時点では、なおさら「現実的」な指針になっている。
最後に次のことを指摘したい。
A:原発に対する武力攻撃には軍事力などでは護れないこと。日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引き金を握った核兵器であること。
B:ひとたび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性がないこと。
▽安原のコメント―原発という名の「原爆」を抱えて、戦争にこだわる愚かさ
以上の山田論文「原発を並べて自衛戦争はできない」を読んで、驚いたのは、原発が武力攻撃を受けた場合、どういう危険な事態が発生するかがすべて「想定外」となっていることである。山田論文の繰り返しになるが、重要な点なので、以下に再録したい。
*原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、ということは入っていない。
*武力攻撃を受けたら、原子炉の冷却ができなくなり、原子炉の安全が保てない。こういう事態の発生はもともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。
*使用済核燃料が保存される燃料貯蔵設備も、通常爆弾の攻撃には無防備といってよい。この燃料貯蔵設備に爆弾が落下した場合、爆発の衝撃によって何が起こるか。
使用済燃料の破損・破壊が生じて、使用済燃料が核反応を起こす可能性がある。どの程度の核反応になるか。そもそもそこで核反応が起きることを想定していないから、起こってしまった核反応は成りゆきに任せるほかない。
先の新潟県中越沖地震で運転停止に追い込まれた東京電力柏崎刈羽原発の場合も「想定外」の事故が相次いだ。しかしこの想定外は平和状態での地震による事故であるが、山田論文にみる「想定外」は戦争状態でのそれであり、どれだけの混乱と惨事を招くかが想定外なのである。その最悪の想定外が放射能汚染によって日本列島に日本人が住めなくなるという事態である。こういう事態は、小松左京の作品『日本沈没』―地震による日本列島沈没のため海外移住を余儀なくされることを描いた長編小説―から連想すれば、「原発版・日本沈没」物語とはいえないか。
安倍首相ら憲法9条(=戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)の改悪志向派、すなわち軍事力重視の安全保障派=日米軍事同盟依存派は、以上のような最悪の事態を頭の片隅にせよ、考えてみたことがあるのだろうか。
彼らは憲法9条擁護派、すなわち生命・人間重視の安全保障派=日米軍事同盟批判派に対し、しばしば「平和ボケ」という冷やかしの言葉を投げつけてきたが、その彼らこそ平和・安全地帯に身を置いて戦争時の惨事を想像すらできない「平和ボケ」ではないのか。
原発という名の事実上の「原爆」を列島上に55基も抱え込んでいて、それでもなお軍事力にしがみつき、戦争という火遊びをする、その愚かさにいつ気づくのか。亡国への道をひた走ろうとするその狂気からいつ醒(さ)めるのか。いいかえれば非武装こそが生き残る唯一の賢明な道であることにいつ気づくのか。
私は山田論文の「非武装こそが現実的な指針」という認識に共感を覚える。その論文末尾の次の指摘をいま一度噛みしめたい。ここには日本人の運命とその未来が示唆されている。
「ひとたび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性がない」と。
(なお「原発を並べて自衛戦争はできない」を掲載している季刊誌『Ripresa』を発行しているリプレーザ社のTel&Fax:050-1008-1753、発売元の社会評論社のTel:03-3814-3861、Fax:03-3818-2808)
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
安原和雄
米国主導の対テロ戦争の余波で、万一、日本が戦争に巻き込まれた場合、どういう事態が発生するか。原発技術者・山田太郎氏は、原発に関する専門知識を活かした論文、「原発を並べて自衛戦争はできない」(季刊誌『Ripresa』07年夏季号・リプレーザ社発行)で「日本列島上に並んでいる原子力発電所が攻撃されれば、放射能汚染で日本列島に日本人が住めなくなる日がくる可能性がある」と指摘している。
さらにそれを防ぐためには日本の安全保障政策として「非武装の選択こそが現実的」と提案している。(07年8月28日掲載、同月29日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
安倍改造内閣の発足(8月27日)について、多くのメディアは今後安倍カラーをいかに修正するかが焦点と伝えている。しかし安倍首相は米国の意向に沿ってテロ対策特別措置法(注)の延長にあくまで執着している。これは日米軍事同盟の堅持、そして米国主導の対テロ戦争への協力態勢を続ける姿勢に変わりはないことを意味している。
いいかえれば安倍首相は、先の参院選で自民党が惨敗したにもかかわらず、「戦後レジーム(体制)からの脱却」、憲法9条の改悪、そして「戦争のできる国・日本」への意図を捨ててはいないとみて差し支えないだろう。そういう路線に固執することが日本にどういう悲劇をもたらすか、山田論文が示唆するところは深い。
(注)テロ対策特別措置法は、日本が血税を使って、米国を中心とする多国籍軍に石油を供給するために海上自衛艦をインド洋に派遣している根拠法であり、11月1日で期限切れとなる。安倍政権はこの延長を画策しているが、参院で第一党となった民主党の小沢代表は、延長に反対することを明言しており、当面、与野党間の最大の争点となっている。
以下に山田論文の要点を紹介したい。
▽原発が武力攻撃を受けたらどうなるか?
原発の安全に関する議論―大地震でも、あるいは重要な機器が故障しても大丈夫か、など―は、平和であることを当然の前提としている。しかしその平和という前提条件がなくなるという事態、つまり戦争になったら原発にどういう問題が生じてくるのか。
1)武力攻撃は原発の設計条件に入っていない
まず指摘したいのは、原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、は入っていないということである。
わが国に現在ある商業用原発55基は、いかに発電コストを小さくできるかという経済性を最優先に設計されており、武力攻撃を受けた場合、どうなるかは少なくとも設計上は分かっていない。
2)武力攻撃下で原子炉はどこまで安全か
次は武力攻撃下で原子炉の安全はどこまで保てるのか、である。
ここで火力発電所と原発の決定的な相違点に触れておきたい。火力発電の場合、武力攻撃によって発電できなくなったとしたら、ボイラーへの燃料供給を止めさえすれば、発電所の運転は無事に止められる。
しかし原発の場合、原子炉内にある核燃料は、どうなるか。原子炉内で核反応が止まっても、核反応によって新たにできていた放射性物質が、放射線を出すとともに、発熱もするので、その熱を水で冷却してやらねば、核燃料の温度は上がり続け、最後には燃料被覆管が溶けて破れてしまう。さらに温度が上昇すれば、管の破れにとどまらず核燃料自体が溶け、炉心が崩壊するという事態になる。その実例がスリーマイル島原発事故(注)である。
(注)1979年3月に米国ペンシルバニア州を流れる川の中州にあるスリーマイル島(TMI)原発で起きた事故は、原子炉から冷却水が失われて炉心が崩壊(溶融)した深刻なものだった。原子力事故の国際評価では旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故に次ぐ史上2番目の大事故とされている。
さて肝心の原子炉が停止した後に行わねばならない冷却は、武力攻撃を受けた場合にできるのだろうか。冷却には、原子炉内の水の循環とその原子炉内の水から熱を海に運び出す補機冷却システムの働きが必要である。例えば海水用ポンプ、配管、熱交換器、電動機、非常用電源(多くはディーゼル発電機)、ディーゼルエンジン用燃料(多くは軽油)タンクなどが必要で、それらの多くは屋外にむき出しで置かれている。これらの機器は小さな通常爆弾でほとんどが破壊されるか、機能停止になるだろう。
これでは武力攻撃を受けたら、ほぼ確実に原子炉の冷却ができなくなり、原子炉の安全が保てない。こういう事態の発生はもともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。
ただ想像すれば、大量の放射能が屋外に放出される可能性がある場合、公的機関を通じて地域住民に避難勧告あるいは命令が出され、地域の交通機関は大混乱に陥るだろう。実際には地域住民が避難することは不可能に近いかも知れない。
3)武力攻撃下で使用済核燃料はどこまで安全か
指摘しておきたいことは、原発で最も危険なのは、原子炉内で核反応させた使用済核燃料である。核燃料は平均約4年間原子炉内で使われた後、炉外に取り出される。取り出された使用済核燃料は依然として強い放射線を出しているので、万一、人が近づいたら、致死量の放射線被曝をしてしまう。
この使用済核燃料が保存される燃料貯蔵設備(燃料プールなど)も、通常爆弾の攻撃には無防備といってよい。この燃料貯蔵設備に爆弾が落下した場合、爆発の衝撃によって何が起こるか。
使用済燃料の破損・破壊が生じて、使用済燃料が核反応を起こす可能性がある。これは燃料貯蔵設備が、むき出しの原子炉になってしまうことを意味する。どの程度の核反応になるか。そもそもそこで核反応が起きることを想定していないから、核反応を停止させる装置を持っていない。だから起こってしまった核反応は成りゆきに任せるほかない。
燃料貯蔵設備の中では、核反応の熱で高温になり、しかも破損した使用済核燃料から放射性物質が大量に漏れだし、大気中に放出される。付随して水蒸気爆発が起きれば、原子炉建屋の破壊が進むかもしれない。
予想しない核反応が起きた事例として東海村JCO臨界事故(注)があるが、これに比べて武装攻撃の結果起こる核反応の規模は桁違いに大きく、被害も甚大になるだろう。
(注)1999年9月茨城県東海村でJCO(株式会社)の核燃料加工施設で発生、作業員2人が死亡した。
被害発生の直後は、死者や重傷者の救出、人々の避難などでも大混乱になるだろう。長期的には、その時の気象状況にもよるが、周辺の広大な土地が永久に人の住めない放射能汚染状態に陥るだろう。こういう結果になることは、チェルノブイリ原発事故(注)から21年後の今日の現実をみれば明白である。しかもチェルノブイリ事故は戦時下ではなく、平和時の事故であった。
(注)1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
4)武力攻撃下で六ヶ所村の再処理施設は果たして安全か
青森県下北半島に位置する六カ所村の再処理施設が試運転を完了して、正式に稼働できるのはいつか、は分からない。
しかし仮に稼働して、各地の原発の敷地から順次、使用済核燃料が六ヶ所村へ向けて搬出され始めても、各原発で貯蔵する使用済核燃料はゼロにはならない。原子炉から取り出された使用済核燃料は、相当長期間、発熱を続けるので、その期間、燃料貯蔵設備で冷却する必要があるからである。しかも再処理施設の正式稼働がいつになるか分からない現状では各原発の敷地内に使用済核燃料が際限なく溜まり続ける。このことが各原発を武力攻撃に対し、きわめて危険な存在にしている。
一方、再処理施設が正式稼働すれば、使用済核燃料が全国の原発から集まってくることになり、それによって再処理施設は各原発よりもはるかに武力攻撃に対しては危険な存在になるだろう。
▽非武装こそが「現実的」な指針
どの外国とであれ、国籍不明の武装勢力とであれ、ひとたび武器を使用した紛争に日本が巻き込まれたら、原発が武力攻撃される可能性を覚悟せざるを得ない。その場合、原発を安全に護ることは不可能といってよい。平和の下でなければ、原発は安全を保てないことは、原発の原理的・構造的な宿命である。
原発を国内に抱えているわが国は、国家であれ、武装集団であれ、どんな相手からも、武力攻撃を受けるような事態をつくってはならない。そのためには、軍備を持たずに、平和的な手段で国際紛争を解決する努力をするのが国家滅亡を避けるためのもっとも現実的な方法なのである。
これは日本国憲法(特に前文と第9条)に書いてあることであり、人類で初めて原子爆弾を投下されるという悲惨な体験をした日本においては、戦争直後も「現実的」な指針であったし、当時よりも兵器が発達し、多数の原爆が存在する現時点では、なおさら「現実的」な指針になっている。
最後に次のことを指摘したい。
A:原発に対する武力攻撃には軍事力などでは護れないこと。日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引き金を握った核兵器であること。
B:ひとたび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性がないこと。
▽安原のコメント―原発という名の「原爆」を抱えて、戦争にこだわる愚かさ
以上の山田論文「原発を並べて自衛戦争はできない」を読んで、驚いたのは、原発が武力攻撃を受けた場合、どういう危険な事態が発生するかがすべて「想定外」となっていることである。山田論文の繰り返しになるが、重要な点なので、以下に再録したい。
*原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、ということは入っていない。
*武力攻撃を受けたら、原子炉の冷却ができなくなり、原子炉の安全が保てない。こういう事態の発生はもともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。
*使用済核燃料が保存される燃料貯蔵設備も、通常爆弾の攻撃には無防備といってよい。この燃料貯蔵設備に爆弾が落下した場合、爆発の衝撃によって何が起こるか。
使用済燃料の破損・破壊が生じて、使用済燃料が核反応を起こす可能性がある。どの程度の核反応になるか。そもそもそこで核反応が起きることを想定していないから、起こってしまった核反応は成りゆきに任せるほかない。
先の新潟県中越沖地震で運転停止に追い込まれた東京電力柏崎刈羽原発の場合も「想定外」の事故が相次いだ。しかしこの想定外は平和状態での地震による事故であるが、山田論文にみる「想定外」は戦争状態でのそれであり、どれだけの混乱と惨事を招くかが想定外なのである。その最悪の想定外が放射能汚染によって日本列島に日本人が住めなくなるという事態である。こういう事態は、小松左京の作品『日本沈没』―地震による日本列島沈没のため海外移住を余儀なくされることを描いた長編小説―から連想すれば、「原発版・日本沈没」物語とはいえないか。
安倍首相ら憲法9条(=戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)の改悪志向派、すなわち軍事力重視の安全保障派=日米軍事同盟依存派は、以上のような最悪の事態を頭の片隅にせよ、考えてみたことがあるのだろうか。
彼らは憲法9条擁護派、すなわち生命・人間重視の安全保障派=日米軍事同盟批判派に対し、しばしば「平和ボケ」という冷やかしの言葉を投げつけてきたが、その彼らこそ平和・安全地帯に身を置いて戦争時の惨事を想像すらできない「平和ボケ」ではないのか。
原発という名の事実上の「原爆」を列島上に55基も抱え込んでいて、それでもなお軍事力にしがみつき、戦争という火遊びをする、その愚かさにいつ気づくのか。亡国への道をひた走ろうとするその狂気からいつ醒(さ)めるのか。いいかえれば非武装こそが生き残る唯一の賢明な道であることにいつ気づくのか。
私は山田論文の「非武装こそが現実的な指針」という認識に共感を覚える。その論文末尾の次の指摘をいま一度噛みしめたい。ここには日本人の運命とその未来が示唆されている。
「ひとたび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性がない」と。
(なお「原発を並べて自衛戦争はできない」を掲載している季刊誌『Ripresa』を発行しているリプレーザ社のTel&Fax:050-1008-1753、発売元の社会評論社のTel:03-3814-3861、Fax:03-3818-2808)
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
前内閣法制局長官が明言
安原和雄
現行平和憲法上、解釈変更によって集団的自衛権の行使は許されるのかどうか、について阪田雅裕・前内閣法制局長官は月刊誌『世界』(07年9月号・岩波書店)のインタビューに答えて、憲法の平和主義の規定からみて「許されぬ」と明言している。
安倍首相は、米政権の意図に沿う方向で日本が集団的自衛権の行使に積極的に取り組む姿勢を示してきたが、先の参院選で「地方の反乱」もあって自民党が惨敗、その上、内閣法制局長官経験者からの「反乱」に直面した形である。首相の持論「戦後レジーム(体制)からの脱却」を阻む要素がまた一つ増えたことになる。(07年8月18日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽集団的自衛権の解釈変更を意図する有識者懇談会
安倍首相は、07年4月の日米首脳会談で「かけがえのない日米同盟」を確認した。同時に「戦後レジームからの脱却」の一環として、訪米直前に集団的自衛権(注)の憲法上の解釈を変更するための有識者懇談会(首相の私的諮問機関・「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」=座長・柳井俊二 前駐米大使)を発足させたことをブッシュ米大統領に説明した。
懇談会のメンバーは、いずれも首相の意を受けて集団的自衛権の憲法解釈の変更を是認する顔ぶれで、朝日新聞社説(07年4月27日付)は「結論ありきの懇談会だ」、毎日新聞社説(4月26日付)は「公正で開かれた議論を望む」と注文をつけていた。
(注)集団的自衛権とは
自国が直接攻撃されていない場合でも、密接な同盟関係にある外国への武力攻撃がなされた場合、それを実力で阻止する国家の権利のこと。国連憲章や日米安全保障条約など国際法上は認められている。
しかし日本政府の従来の憲法解釈(その元締めは内閣法制局)によると、つぎのようである。「憲法9条が許容している自衛権の行使は、わが国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるもので、憲法上許されない」と。
なお現行の日米安保条約(1960年6月発効)は「日米両国が国連憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、日米安保条約を締結する」とうたっている。
上記の懇談会は、以上の政府の憲法解釈を変更し、改憲しないまま、現行憲法上も集団的自衛権を行使できるようにしようと画策している。つぎの4類型を中心に議論を進めている。
*北朝鮮の弾道ミサイルが米国向けに発射された場合、そのミサイルを日本が撃ち落とすことが集団的自衛権上、可能なのかどうか
*日本周辺の公海上で米軍の艦船が攻撃された場合、自衛隊が応戦できるかどうか
*自衛隊がイラク(サマワ)に派遣されて、水の供給や道路整備に携わったが、一緒に活動した英豪軍などに対する攻撃があった場合、それを軍事的に救援できるかどうか
*有事の際に軍事行動する米軍に対し、自衛隊はどこまで後方支援ができるか
前内閣法制局長官が「集団的自衛権に関する解釈変更は許されぬ」と明言したことは、上記の懇談会の意図に「待った」をかけたも同然である。以下に同長官の発言の要点を紹介する。従来の政府解釈の丁寧な説明となっているが、今の政府がそれを変更しようとしている折だけに、前長官の発言には重みがある。
▽前内閣法制局長官の発言(1)―集団的自衛権の行使は専守防衛の枠を超える
問い:これまで政府は「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきたが、その理由は何か。
答え:わが国が自衛権を持っていることは最高裁も認めている。自衛のために― 国民の生命、財産を守るためにと言った方がいいのかも知れない― 、必要最小限度の実力組織、自衛隊を有し、武力攻撃を受けたときにそれを排除するための必要最小限度の実力を行使できる、というのが政府の憲法解釈で、これは大方の憲法学者と異なるところだろう。
自衛隊が必要最小限度を越えているかどうかは、予算審議等を通じての国会の判断、いわば国民の判断であると政府は言ってきた。量的にどこまでとは一概に言えない。ただそういう性質の自衛力だから、専守防衛ということである。だからもっぱら攻撃をするときにしか使えない兵器は保持できないと言ってきた。例えば航空母艦、長距離ミサイルの類の兵器で、これらはいまも保持していない。
もう一つ、自衛隊はまさに国民の生命、財産を守るために存在することから、海外で武力行使をすることは基本的には考えられない。「基本的には」というのは、例えば自衛のため、要するに外国の武力攻撃があり、それを排除するための行動が領土、領空、領海の外に及ぶことはあり得る。そういう意味で自国の防衛のために必要最小限度の範囲内で公空、公海に及ぶことはあったとしても、それ以外の場合に海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない、というのが政府の解釈である。
だから集団的自衛権であれ、集団安全保障であれ、それは直接的には国民の生命、財産が危険にさらされている状況ではない。にもかかわらず、自衛隊が海外に行って、たとえ国際法上違法ではないにしても、武力を行使することを憲法9条が容認していると解釈する論拠は、日本国憲法をどう読んでみても、個別的自衛のための軍事行動とは違って、見出すことができない。
〈安原のコメント〉すでに強大な「必要最小限度」の自衛力
政府の防衛政策の根幹となっているのは、個別的自衛権に立つ専守防衛論である。つまり自衛のための必要最小限度の自衛力は保持できるが、それを越えて海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない。だから攻撃専用の航空母艦、長距離ミサイルなどの兵器は保持できない、というのが政府の解釈である。こういう解釈を守る限り、個別的自衛権の枠を踏み越える集団的自衛権は憲法9条からみて、容認できないということになる。
専守防衛論としては一貫しているようにみえるが、わが国の軍事力規模は現実には米国に次ぐ英、仏などと並ぶ第2位グループに入っており、日本はすでに強大な軍事国家といえる存在であることを見逃してはならない。「必要最小限度の自衛力」が実は「日米軍事一体化」の下に際限なく脹らんできたのである。
▽前内閣法制局長官の発言(2)―平和主義が日本国憲法の特色
問い:集団的自衛権に関して、時の政権担当者が今まで積み重ねてきた政府の解釈とは異なる憲法解釈をとると表明することには、どのような問題があると考えるか。
答え:昭和29年の自衛隊創設からでも50年余り、政府が国会を通し、国民に対して憲法9条はこういう意味だとずっと言ってきたことには、それだけの重みがあり、国民の間でもそれなりに定着してきている解釈だと思われる。
それがある日突然に、いままで言ってきたことは全部間違っていた、実はこういう意味だったということになると、やはり国民の法規範に対する信頼を損ねる。一体法治主義とか法治国家とは何だということになり、国民の遵法精神にも非常に影響することになりかねない。
もう一つ、9条については集団的自衛権や、集団安全保障、海外での武力行使でもいいんだということを9条1項、2項から導くことが論理的にむずかしい。もしそれもいいのだということになったとすると、法規範としての9条の意義がなくなってしまう。
国連憲章ができてから戦争の違法化がずいぶん進んで、集団的自衛権の行使や集団安全保障以外の海外での武力行使は一切違法だとされている。
憲法98条(憲法の最高法規性、条約・国際法規の遵守)があって、わが国も国際法は遵守しなければならないわけだから、仮に9条を国際法で認められる武力行使は禁止していないと解釈することになれば、9条はあってもなくても同じ、念のためにしつこく書いてあるという―法律用語で入念規定―、念のための規定という以上の意味を持たなくなってしまう。
教科書などでは日本国憲法は3つの原理の上に立っている。1つは国民主権、2つ目は基本的人権の尊重(ここまでは世界中どこも一緒)、3つ目に平和主義ということが言われてきたわけだが、その平和主義とは一体何なんだろうということになってしまう。そのような意味でも、9条解釈について、時の政権の意向で変更することはハードルが高いと思う。
〈安原のコメント〉9条の平和主義が「世界の宝」と評価されている
ここでは憲法9条の特異性が指摘されている。つまりその平和主義が他の国にはみられないユニークなところで、この平和主義の理念を尊重する限り、集団的自衛権の行使は認められないことを強調している。この平和主義こそが「憲法9条は世界の宝」と海外でも高く評価されている点である。
ただ厳密にいえば、憲法9条は「戦力の不保持」を明記しており、非武装の理念を掲げている。日本と同様に、憲法上、常備軍の廃止をうたい、実際にも軍事力を持たない国として中米のコスタリカを挙げたい。コスタリカは事実上、日本国憲法9条の「非武装」の理念を実践している国なのである。
参考までにいえば、コスタリカを含めて軍隊を持たない国は世界でなんと27か国もある(落合栄一郎氏=バンクーバー9条の会=の記事「世界に軍隊のない国はいくつあるの?」=インターネット新聞「日刊ベリタ」に07年6月28日掲載)。
地球規模でみれば、個別自衛権だの、集団的自衛権だのと大騒ぎしているのは、軍事同盟を結んでいる一部の先進国にすぎない。
▽前内閣法制局長官の発言(3)―憲法9条は国民が国に戦争をさせない規定
問い:有識者懇談会の議事要旨をみると、これまでの政府解釈には国際法と国内法とのギャップが大きいとか、国際法の議論をいままで踏まえていなかったという趣旨の発言がみられる。法制局は国際法のことも考えて検討、議論するものなのか。
答え:憲法と国際法は違う。国際法は基本的には主権国家の内政には干渉しない。統治権力と国民との間がどうあるべきかについての国際慣習法はなくて、統治権力はいわばオールマイティで、王制であろうと、民主主義であろうと、そんなことは国際法の問うところではない。国家の戦争といっても、実際に携わるのは国民で、国民に戦争をさせるのも、させないのも、それぞれの国家が自由に判断するところということになる。国際法は国家間の約束、取り決めでしかない。
統治権力者である国と被統治者である国民との関係を規律するのは憲法である。憲法各条の名宛人はほとんどが国である。例えば29条(財産権の保障)や14条(法の下の平等)についても、国に対して、国民の財産権を侵害してはいけない、国民を差別してはいけないということを求めている。
9条は、国民が国に戦争をさせないことを決めている規定なのだから、それは国際法がどういうルールであるかということとは全く次元が違う。
〈安原のコメント〉安倍首相にみる憲法感覚の危険性
ここで見逃せないのは、「憲法各条の名宛人はほとんどが国」と「9条は国民が国に戦争させないことを決めている規定」という指摘である。
憲法9条を読んでみると、1項で「日本国民は」から始まり、「(中略)国権の発動たる戦争(中略)は、永久に放棄する」とうたい、2項で「(中略)陸海空軍その他の戦力は、保持しない。国の交戦権は、認めない」と述べている。主体としての、あるいは有権者としての国民が「戦争を放棄し、戦力を保持せず、交戦権を否認している」とうたっている点が重要である。憲法上の主役は統治権力者である政府ではなく、国民なのである。
集団的自衛権についていえば、政府が都合のいいように、つまり米国に追随する形で勝手に解釈を変更すべきものではない。ところが安倍首相は、「私の内閣」という発言にも表れているように統治権力者意識が強すぎる印象がある。憲法にしても国民を統治・支配するための手段と考えているのではないか。これでは話が逆さまであり、憲法の肝心要のところ―国民が政府に実行させることが書いてある―が分かっていないことになる。
先の参院選で自民党が惨敗した背景の一つとして、こうした安倍首相の憲法感覚の危険性を察知した国民の「反乱」を挙げることもできよう。
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
安原和雄
現行平和憲法上、解釈変更によって集団的自衛権の行使は許されるのかどうか、について阪田雅裕・前内閣法制局長官は月刊誌『世界』(07年9月号・岩波書店)のインタビューに答えて、憲法の平和主義の規定からみて「許されぬ」と明言している。
安倍首相は、米政権の意図に沿う方向で日本が集団的自衛権の行使に積極的に取り組む姿勢を示してきたが、先の参院選で「地方の反乱」もあって自民党が惨敗、その上、内閣法制局長官経験者からの「反乱」に直面した形である。首相の持論「戦後レジーム(体制)からの脱却」を阻む要素がまた一つ増えたことになる。(07年8月18日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽集団的自衛権の解釈変更を意図する有識者懇談会
安倍首相は、07年4月の日米首脳会談で「かけがえのない日米同盟」を確認した。同時に「戦後レジームからの脱却」の一環として、訪米直前に集団的自衛権(注)の憲法上の解釈を変更するための有識者懇談会(首相の私的諮問機関・「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」=座長・柳井俊二 前駐米大使)を発足させたことをブッシュ米大統領に説明した。
懇談会のメンバーは、いずれも首相の意を受けて集団的自衛権の憲法解釈の変更を是認する顔ぶれで、朝日新聞社説(07年4月27日付)は「結論ありきの懇談会だ」、毎日新聞社説(4月26日付)は「公正で開かれた議論を望む」と注文をつけていた。
(注)集団的自衛権とは
自国が直接攻撃されていない場合でも、密接な同盟関係にある外国への武力攻撃がなされた場合、それを実力で阻止する国家の権利のこと。国連憲章や日米安全保障条約など国際法上は認められている。
しかし日本政府の従来の憲法解釈(その元締めは内閣法制局)によると、つぎのようである。「憲法9条が許容している自衛権の行使は、わが国を防衛するために必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるもので、憲法上許されない」と。
なお現行の日米安保条約(1960年6月発効)は「日米両国が国連憲章に定める個別的または集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、日米安保条約を締結する」とうたっている。
上記の懇談会は、以上の政府の憲法解釈を変更し、改憲しないまま、現行憲法上も集団的自衛権を行使できるようにしようと画策している。つぎの4類型を中心に議論を進めている。
*北朝鮮の弾道ミサイルが米国向けに発射された場合、そのミサイルを日本が撃ち落とすことが集団的自衛権上、可能なのかどうか
*日本周辺の公海上で米軍の艦船が攻撃された場合、自衛隊が応戦できるかどうか
*自衛隊がイラク(サマワ)に派遣されて、水の供給や道路整備に携わったが、一緒に活動した英豪軍などに対する攻撃があった場合、それを軍事的に救援できるかどうか
*有事の際に軍事行動する米軍に対し、自衛隊はどこまで後方支援ができるか
前内閣法制局長官が「集団的自衛権に関する解釈変更は許されぬ」と明言したことは、上記の懇談会の意図に「待った」をかけたも同然である。以下に同長官の発言の要点を紹介する。従来の政府解釈の丁寧な説明となっているが、今の政府がそれを変更しようとしている折だけに、前長官の発言には重みがある。
▽前内閣法制局長官の発言(1)―集団的自衛権の行使は専守防衛の枠を超える
問い:これまで政府は「日本国憲法のもとでは集団的自衛権は行使できない」という解釈をとってきたが、その理由は何か。
答え:わが国が自衛権を持っていることは最高裁も認めている。自衛のために― 国民の生命、財産を守るためにと言った方がいいのかも知れない― 、必要最小限度の実力組織、自衛隊を有し、武力攻撃を受けたときにそれを排除するための必要最小限度の実力を行使できる、というのが政府の憲法解釈で、これは大方の憲法学者と異なるところだろう。
自衛隊が必要最小限度を越えているかどうかは、予算審議等を通じての国会の判断、いわば国民の判断であると政府は言ってきた。量的にどこまでとは一概に言えない。ただそういう性質の自衛力だから、専守防衛ということである。だからもっぱら攻撃をするときにしか使えない兵器は保持できないと言ってきた。例えば航空母艦、長距離ミサイルの類の兵器で、これらはいまも保持していない。
もう一つ、自衛隊はまさに国民の生命、財産を守るために存在することから、海外で武力行使をすることは基本的には考えられない。「基本的には」というのは、例えば自衛のため、要するに外国の武力攻撃があり、それを排除するための行動が領土、領空、領海の外に及ぶことはあり得る。そういう意味で自国の防衛のために必要最小限度の範囲内で公空、公海に及ぶことはあったとしても、それ以外の場合に海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない、というのが政府の解釈である。
だから集団的自衛権であれ、集団安全保障であれ、それは直接的には国民の生命、財産が危険にさらされている状況ではない。にもかかわらず、自衛隊が海外に行って、たとえ国際法上違法ではないにしても、武力を行使することを憲法9条が容認していると解釈する論拠は、日本国憲法をどう読んでみても、個別的自衛のための軍事行動とは違って、見出すことができない。
〈安原のコメント〉すでに強大な「必要最小限度」の自衛力
政府の防衛政策の根幹となっているのは、個別的自衛権に立つ専守防衛論である。つまり自衛のための必要最小限度の自衛力は保持できるが、それを越えて海外、特に外国の領土、領海、領空で武力を行使することは許されない。だから攻撃専用の航空母艦、長距離ミサイルなどの兵器は保持できない、というのが政府の解釈である。こういう解釈を守る限り、個別的自衛権の枠を踏み越える集団的自衛権は憲法9条からみて、容認できないということになる。
専守防衛論としては一貫しているようにみえるが、わが国の軍事力規模は現実には米国に次ぐ英、仏などと並ぶ第2位グループに入っており、日本はすでに強大な軍事国家といえる存在であることを見逃してはならない。「必要最小限度の自衛力」が実は「日米軍事一体化」の下に際限なく脹らんできたのである。
▽前内閣法制局長官の発言(2)―平和主義が日本国憲法の特色
問い:集団的自衛権に関して、時の政権担当者が今まで積み重ねてきた政府の解釈とは異なる憲法解釈をとると表明することには、どのような問題があると考えるか。
答え:昭和29年の自衛隊創設からでも50年余り、政府が国会を通し、国民に対して憲法9条はこういう意味だとずっと言ってきたことには、それだけの重みがあり、国民の間でもそれなりに定着してきている解釈だと思われる。
それがある日突然に、いままで言ってきたことは全部間違っていた、実はこういう意味だったということになると、やはり国民の法規範に対する信頼を損ねる。一体法治主義とか法治国家とは何だということになり、国民の遵法精神にも非常に影響することになりかねない。
もう一つ、9条については集団的自衛権や、集団安全保障、海外での武力行使でもいいんだということを9条1項、2項から導くことが論理的にむずかしい。もしそれもいいのだということになったとすると、法規範としての9条の意義がなくなってしまう。
国連憲章ができてから戦争の違法化がずいぶん進んで、集団的自衛権の行使や集団安全保障以外の海外での武力行使は一切違法だとされている。
憲法98条(憲法の最高法規性、条約・国際法規の遵守)があって、わが国も国際法は遵守しなければならないわけだから、仮に9条を国際法で認められる武力行使は禁止していないと解釈することになれば、9条はあってもなくても同じ、念のためにしつこく書いてあるという―法律用語で入念規定―、念のための規定という以上の意味を持たなくなってしまう。
教科書などでは日本国憲法は3つの原理の上に立っている。1つは国民主権、2つ目は基本的人権の尊重(ここまでは世界中どこも一緒)、3つ目に平和主義ということが言われてきたわけだが、その平和主義とは一体何なんだろうということになってしまう。そのような意味でも、9条解釈について、時の政権の意向で変更することはハードルが高いと思う。
〈安原のコメント〉9条の平和主義が「世界の宝」と評価されている
ここでは憲法9条の特異性が指摘されている。つまりその平和主義が他の国にはみられないユニークなところで、この平和主義の理念を尊重する限り、集団的自衛権の行使は認められないことを強調している。この平和主義こそが「憲法9条は世界の宝」と海外でも高く評価されている点である。
ただ厳密にいえば、憲法9条は「戦力の不保持」を明記しており、非武装の理念を掲げている。日本と同様に、憲法上、常備軍の廃止をうたい、実際にも軍事力を持たない国として中米のコスタリカを挙げたい。コスタリカは事実上、日本国憲法9条の「非武装」の理念を実践している国なのである。
参考までにいえば、コスタリカを含めて軍隊を持たない国は世界でなんと27か国もある(落合栄一郎氏=バンクーバー9条の会=の記事「世界に軍隊のない国はいくつあるの?」=インターネット新聞「日刊ベリタ」に07年6月28日掲載)。
地球規模でみれば、個別自衛権だの、集団的自衛権だのと大騒ぎしているのは、軍事同盟を結んでいる一部の先進国にすぎない。
▽前内閣法制局長官の発言(3)―憲法9条は国民が国に戦争をさせない規定
問い:有識者懇談会の議事要旨をみると、これまでの政府解釈には国際法と国内法とのギャップが大きいとか、国際法の議論をいままで踏まえていなかったという趣旨の発言がみられる。法制局は国際法のことも考えて検討、議論するものなのか。
答え:憲法と国際法は違う。国際法は基本的には主権国家の内政には干渉しない。統治権力と国民との間がどうあるべきかについての国際慣習法はなくて、統治権力はいわばオールマイティで、王制であろうと、民主主義であろうと、そんなことは国際法の問うところではない。国家の戦争といっても、実際に携わるのは国民で、国民に戦争をさせるのも、させないのも、それぞれの国家が自由に判断するところということになる。国際法は国家間の約束、取り決めでしかない。
統治権力者である国と被統治者である国民との関係を規律するのは憲法である。憲法各条の名宛人はほとんどが国である。例えば29条(財産権の保障)や14条(法の下の平等)についても、国に対して、国民の財産権を侵害してはいけない、国民を差別してはいけないということを求めている。
9条は、国民が国に戦争をさせないことを決めている規定なのだから、それは国際法がどういうルールであるかということとは全く次元が違う。
〈安原のコメント〉安倍首相にみる憲法感覚の危険性
ここで見逃せないのは、「憲法各条の名宛人はほとんどが国」と「9条は国民が国に戦争させないことを決めている規定」という指摘である。
憲法9条を読んでみると、1項で「日本国民は」から始まり、「(中略)国権の発動たる戦争(中略)は、永久に放棄する」とうたい、2項で「(中略)陸海空軍その他の戦力は、保持しない。国の交戦権は、認めない」と述べている。主体としての、あるいは有権者としての国民が「戦争を放棄し、戦力を保持せず、交戦権を否認している」とうたっている点が重要である。憲法上の主役は統治権力者である政府ではなく、国民なのである。
集団的自衛権についていえば、政府が都合のいいように、つまり米国に追随する形で勝手に解釈を変更すべきものではない。ところが安倍首相は、「私の内閣」という発言にも表れているように統治権力者意識が強すぎる印象がある。憲法にしても国民を統治・支配するための手段と考えているのではないか。これでは話が逆さまであり、憲法の肝心要のところ―国民が政府に実行させることが書いてある―が分かっていないことになる。
先の参院選で自民党が惨敗した背景の一つとして、こうした安倍首相の憲法感覚の危険性を察知した国民の「反乱」を挙げることもできよう。
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
広島・長崎の平和宣言をバネに
安原和雄
2007年8月6日の広島平和宣言、同月9日の長崎平和宣言に盛り込まれた悲願は「核廃絶」の一語に尽きる。広島市長は「市民の力で核廃絶」を強調、一方、長崎市長は「米国など核保有国は自国の核廃絶を」と指摘し、あくまでも核廃絶をめざすことを誓った。
安倍首相もまた「核廃絶に全力で取り組む」と答えた。しかし歴代首相は毎年のようにこの発言を繰り返しており、果たしてどこまで信頼できるのか。広島・長崎の平和宣言をバネにして核兵器のない世界をつくる条件を探る。(07年8月9日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽「広島平和宣言」― 21世紀は市民の力で解決できる時代
まず秋葉忠利・広島市長が07年8月6日の平和記念式典で述べた「広島平和宣言」を紹介しよう。その要点は以下の通り。
*被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのまま膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、いまだに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。
*しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。(中略)世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までに核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。
世界の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。
*唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守(じゅんしゅ)し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。
秋葉広島市長は昨年の広島平和宣言で「核兵器廃絶をめざして私たちが目覚め起つ時が来た」と宣言した。それから1年後、核兵器廃絶をめざす世界の動きは「市民の力」によって一段と具体化してきた。
その一つは世界の平和市長会議が「2020年までに」という期限を区切って核廃絶をめざす活動に取り組んでいること、もう一つは地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が今年(07年)10月の総会で「人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛ける」こと―などである。
▽広島こども代表「平和への誓い」―原爆によっても失われなかった「生きる希望」
こども代表として森展哉君(広島市立五日市観音西小学校6年)と山崎菜緒さん(広島市立東浄小学校6年)が「平和への誓い」を読み上げた。その趣旨はつぎの通り。
*原子爆弾によっても失われなかったものがあります。それは生きる希望です。祖父母たちは、廃墟(はいきょ)の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。
*テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。そして私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体をこわしています。
*嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。
*私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。
私たちは、「戦争を止めよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。
▽釈尊が説いた平和の理念―「怨みは、怨みをすててこそやむ」
上記のこども代表の「平和の誓い」の中で目を引くのは、つぎの一節である。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です―と。
私は、この一節に法句経にある釈尊の次の言葉を連想する。
「この世においては、怨(うら)みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」と。
英文は Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient law.
この文言は、スリランカの大統領がサンフランシスコ対日講和会議(1951年)で対日賠償請求の放棄を宣言した演説に引用したことで知られ、鎌倉大仏脇の庭園にあるスリランカ大統領の顕彰碑に日本語と英語で刻まれている。
私は米国での「9.11テロ」(2001年の同時多発テロ)とそれにつづくアフガニスタンへの米国のいわゆる報復戦争が始まった直後、顕彰碑を訪ねたことがある。怨みと怨みの連鎖から抜け出す道はないのかと考えていたからである。
付近には沢山の日本人観光客がいたが、この顕彰碑にだれ一人関心を示さなかった。お仕着せの観光ルートに乗って、大仏の周囲で記念写真を撮って駆け足で去っていった。わずかに外国人の男女2人が私のそばに来て、顕彰碑の英文を目で追っていたのを昨日のことのように記憶している。
上記の法句経に込められた精神は、非暴力主義を貫いたマハトマ・ガンジー(1869~1948年、インドの政治家・民族運動指導者)の「人類は、非暴力によってのみ暴力から脱出しなければならない。憎悪は愛によってのみ克服される」と共通している。
▽「長崎平和宣言」―全面的核廃絶と「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を
田上富久・長崎市長が8月9日の平和記念式典で述べた「長崎平和宣言」の骨子はつぎの通り。
*本年4月、伊藤一長・前長崎市長が暴漢の凶弾にたおれました。「核兵器と人類は共存できない」と、被爆者とともに訴えてきた前市長の核兵器廃絶の願いを、私たちは受け継いでいきます。
*「核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」という、1996年の国際司法裁判所の勧告的意見は、人類への大いなる警鐘でした。2000年の核不拡散条約(NPT)再検討会議では、核保有国は、全面的核廃絶を明確に約束したはずです。
米国をはじめとして、すべての核保有国は、核の不拡散を主張するだけではなく、まず自らが保有する核兵器の廃絶に誠実に取り組んでいくべきです。科学者や技術者が核開発への協力を拒むことも、核兵器廃絶への大きな力となるはずです。
*日本政府は、被爆国の政府として、日本国憲法の平和と不戦の理念にもとづき、国際社会において、核兵器廃絶に向けて、強いリーダーシップを発揮してください。
すでに非核兵器地帯となっているカザフスタンなどの中央アジア諸国や、モンゴルに連なる「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を目指すとともに、北朝鮮の核廃棄に向けて、6か国協議の場で粘り強い努力を続けてください。
*今日、被爆国のわが国においてさえも、原爆投下への誤った認識や核兵器保有の可能性が語られるなか、単に非核三原則を国是とするだけではなく、その法制化こそが必要です。
長年にわたり放射線障害や心の不安に苦しんでいる国内外の被爆者の実情に目を向け、援護施策のさらなる充実に早急に取り組んでください。被爆者の体験を核兵器廃絶の原点として、その非人道性と残虐性を世界に伝え、核兵器の使用はいかなる理由があっても許されないことを訴えてください。
田上長崎市長が訴えたことは、秋葉広島市長と同様に「全面的な核廃絶」である。そこにはあくまでも「核廃絶」をめざしていく熱い思いを読み取ることができる。米国をはじめとする核保有国はまず自国の核兵器の廃絶に取り組むこと、「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現をめざすこと、さらに国是である非核三原則の法制化をすすめること―を訴えている。
▽ 安倍首相のあいさつ(1)―改憲への執着をまだ捨てていないのか
以上のような「平和宣言」やこども代表の「平和の誓い」に対し、安倍首相はどう答えたか。広島、長崎での首相あいさつの中でつぎのように述べた。趣旨は以下の通り。
「私は、犠牲者の御霊と市民の皆様の前で、広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならないとの決意をより一層強固なものとしました。今後とも、憲法の規定を遵守し、国際平和を誠実に希求し、非核三原則を堅持していくことを改めてお誓い申し上げます。
また、国連総会への核軍縮決議案の提出などを通じて、国際社会の先頭に立ち、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、全力で取り組んでまいります」と。
参考までに昨年の小泉首相の挨拶を以下に紹介する。要旨はつぎの通り。
「犠牲者の御霊と市民の皆様の前で、今後とも、憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立ち続けることをお誓い申し上げます」と。
一読して分かるように同じ調子で、同じ文言を散りばめたあいさつである。
「非核三原則の堅持」、「核兵器の廃絶と恒久平和の実現」は同じで、変わっていない。若干異なっているのが憲法問題である。昨年は「憲法の平和条項を順守」であったが、今年は「憲法の規定を遵守」となっている。
昨年の「憲法の平和条項」を削除し、今年は単に「憲法の規定」に置き換えた理由は何か。私はそこに安倍首相の改憲の意志を読み取りたい。つまり憲法前文の「平和的生存権」と9条第2項の「軍備及び交戦権の否認」を削除し、正式の軍隊を保有するという改憲(自民党の新憲法草案=05年11月公表)へのこだわりである。
7月末の参院選で惨敗し、参院で憲法改正の発議に必要な3分の2以上の与党勢力の確保が難しくなっているにもかかわらず、安倍首相は依然として改憲に執着している、そのハラを読みとることができるだろう。そのしがみつく貪欲さは、やがて歴史の舞台から転落していく悲劇につながっているだろうことに気づいていないらしい。
▽安倍首相のあいさつ(2) ― 世界が「核廃絶」に向かう条件
首相あいさつは「国際社会の先頭に立ち、核兵器の廃絶に向け、全力で取り組む」とも指摘した。しかしどこまで本気で核廃絶に取り組むのだろうか。
日米安保=軍事同盟下で米国のいわゆる核抑止力に依存しているのが、わが国防衛政策の基本原則である。いいかえれば、核廃絶を唱えながら、米国の「核の傘」を容認する立場を崩さず、非核三原則(核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず―の三原則)も一部を事実上ないがしろにしているのが現実である。
これでは内容空疎な首相の「核廃絶」発言というほかないだろう。しかし折角の「核廃絶」発言を生かす条件は何か。
世界が核廃絶に向けて歩み出すためには少なくとも以下の3つの条件が必要である。
1)米国の時代遅れの誤った政策に「ノー」と言うとき
秋葉広島市長は、つぎのように力説した。
「時代に遅れた少数の指導者たちが、いまだに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けている」と。
さらにこうも強調した。
「日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守(じゅんしゅ)し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです」と。
見逃せないのは「時代遅れ」という文言を2度繰り返していることである。それが米国の指導者であり、核保有国の一握りの指導者たちを指していることはいうまでもない。「核の力による支配」を万能視し、その呪縛から逃れられない人びとである。「核の奴隷」と化した哀れな、しかし危険きわまりない群れ、と言ってもいいだろう。その群れには明確な「ノー」を突きつける必要がある。
2)核大国の核軍縮を最優先にすること
核不拡散はもちろん重要である。しかし核大国の核軍縮こそ優先すべきである。大量の核兵器を保有する核5大国(米、ロシア、英、仏、中国)が、正当性を欠く身勝手な「核覇権主義」に執着したまま、核大国以外への核拡散を非難するのは公正とはいえない。
核不拡散条約(NPT)は、その名称から誤解されやすいが、核不拡散だけでなく、核保有国の核軍縮の重要性もうたっていることを忘れてはならない。
3)日米安保=軍事同盟を解体し、「非核兵器地帯」結成に努力すること
核抑止力に依存する日米安保=軍事同盟が存在する限り、アジアにおける核廃絶は困難であろう。
日米安保=軍事同盟のお陰で平和が保たれていると思うのは錯覚である。例えば米軍によるイラク攻撃のための出撃基地として機能しているのが、実は日米安保=軍事同盟下での在日米軍基地である。いいかえれば日米安保=軍事同盟はアジアに限らず中東までも含む広大な地域の平和への脅威となっている。そういう日米安保=軍事同盟は長期展望として解体するほかない。
一方、田上長崎市長が訴えているように、「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を目指すことが重要である。これには北朝鮮の核廃棄を含む朝鮮半島の非核化が必要である。
念のため指摘すれば、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)は、すでに1997年に東南アジア非核兵器地帯条約に調印している。
日本が核廃絶に本気で取り組むためには、こうした非核地帯条約を正当に評価し、日本を含む非核地帯へと拡大していくことが不可欠といえよう。その場合、長崎市長が強調したように非核三原則の法制化を実現することが重要な意味をもつことになるだろう。
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
安原和雄
2007年8月6日の広島平和宣言、同月9日の長崎平和宣言に盛り込まれた悲願は「核廃絶」の一語に尽きる。広島市長は「市民の力で核廃絶」を強調、一方、長崎市長は「米国など核保有国は自国の核廃絶を」と指摘し、あくまでも核廃絶をめざすことを誓った。
安倍首相もまた「核廃絶に全力で取り組む」と答えた。しかし歴代首相は毎年のようにこの発言を繰り返しており、果たしてどこまで信頼できるのか。広島・長崎の平和宣言をバネにして核兵器のない世界をつくる条件を探る。(07年8月9日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽「広島平和宣言」― 21世紀は市民の力で解決できる時代
まず秋葉忠利・広島市長が07年8月6日の平和記念式典で述べた「広島平和宣言」を紹介しよう。その要点は以下の通り。
*被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのまま膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、いまだに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。
*しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。(中略)世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までに核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。
世界の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。
*唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守(じゅんしゅ)し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。
秋葉広島市長は昨年の広島平和宣言で「核兵器廃絶をめざして私たちが目覚め起つ時が来た」と宣言した。それから1年後、核兵器廃絶をめざす世界の動きは「市民の力」によって一段と具体化してきた。
その一つは世界の平和市長会議が「2020年までに」という期限を区切って核廃絶をめざす活動に取り組んでいること、もう一つは地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が今年(07年)10月の総会で「人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛ける」こと―などである。
▽広島こども代表「平和への誓い」―原爆によっても失われなかった「生きる希望」
こども代表として森展哉君(広島市立五日市観音西小学校6年)と山崎菜緒さん(広島市立東浄小学校6年)が「平和への誓い」を読み上げた。その趣旨はつぎの通り。
*原子爆弾によっても失われなかったものがあります。それは生きる希望です。祖父母たちは、廃墟(はいきょ)の中、心と体がぼろぼろになっても、どんなに苦しくつらい時でも、生きる希望を持ち続けました。
*テレビや新聞は、絶えることない戦争が、世界中で多くの命を奪い、今日一日生きていけるか、一日一食食べられるか、そんな状況の子どもたちをつくり出していることを伝えています。そして私たちの身近なところでは、いじめや争いが多くの人の心や体をこわしています。
*嫌なことをされたら相手に仕返しをしたい、そんな気持ちは誰にでもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても、何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして文化や歴史の違いを超えて、お互いを認め合い、相手の気持ちや考えを「知ること」が大切です。
*私たちは、あの日苦しんでいた人たちを助けることはできませんが、未来の人たちを助けることはできるのです。
私たちは、「戦争を止めよう、核兵器を捨てよう」と訴え続けていきます。
▽釈尊が説いた平和の理念―「怨みは、怨みをすててこそやむ」
上記のこども代表の「平和の誓い」の中で目を引くのは、つぎの一節である。
平和な世界をつくるためには、「憎しみ」や「悲しみ」の連鎖を、自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です―と。
私は、この一節に法句経にある釈尊の次の言葉を連想する。
「この世においては、怨(うら)みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」と。
英文は Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient law.
この文言は、スリランカの大統領がサンフランシスコ対日講和会議(1951年)で対日賠償請求の放棄を宣言した演説に引用したことで知られ、鎌倉大仏脇の庭園にあるスリランカ大統領の顕彰碑に日本語と英語で刻まれている。
私は米国での「9.11テロ」(2001年の同時多発テロ)とそれにつづくアフガニスタンへの米国のいわゆる報復戦争が始まった直後、顕彰碑を訪ねたことがある。怨みと怨みの連鎖から抜け出す道はないのかと考えていたからである。
付近には沢山の日本人観光客がいたが、この顕彰碑にだれ一人関心を示さなかった。お仕着せの観光ルートに乗って、大仏の周囲で記念写真を撮って駆け足で去っていった。わずかに外国人の男女2人が私のそばに来て、顕彰碑の英文を目で追っていたのを昨日のことのように記憶している。
上記の法句経に込められた精神は、非暴力主義を貫いたマハトマ・ガンジー(1869~1948年、インドの政治家・民族運動指導者)の「人類は、非暴力によってのみ暴力から脱出しなければならない。憎悪は愛によってのみ克服される」と共通している。
▽「長崎平和宣言」―全面的核廃絶と「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を
田上富久・長崎市長が8月9日の平和記念式典で述べた「長崎平和宣言」の骨子はつぎの通り。
*本年4月、伊藤一長・前長崎市長が暴漢の凶弾にたおれました。「核兵器と人類は共存できない」と、被爆者とともに訴えてきた前市長の核兵器廃絶の願いを、私たちは受け継いでいきます。
*「核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」という、1996年の国際司法裁判所の勧告的意見は、人類への大いなる警鐘でした。2000年の核不拡散条約(NPT)再検討会議では、核保有国は、全面的核廃絶を明確に約束したはずです。
米国をはじめとして、すべての核保有国は、核の不拡散を主張するだけではなく、まず自らが保有する核兵器の廃絶に誠実に取り組んでいくべきです。科学者や技術者が核開発への協力を拒むことも、核兵器廃絶への大きな力となるはずです。
*日本政府は、被爆国の政府として、日本国憲法の平和と不戦の理念にもとづき、国際社会において、核兵器廃絶に向けて、強いリーダーシップを発揮してください。
すでに非核兵器地帯となっているカザフスタンなどの中央アジア諸国や、モンゴルに連なる「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を目指すとともに、北朝鮮の核廃棄に向けて、6か国協議の場で粘り強い努力を続けてください。
*今日、被爆国のわが国においてさえも、原爆投下への誤った認識や核兵器保有の可能性が語られるなか、単に非核三原則を国是とするだけではなく、その法制化こそが必要です。
長年にわたり放射線障害や心の不安に苦しんでいる国内外の被爆者の実情に目を向け、援護施策のさらなる充実に早急に取り組んでください。被爆者の体験を核兵器廃絶の原点として、その非人道性と残虐性を世界に伝え、核兵器の使用はいかなる理由があっても許されないことを訴えてください。
田上長崎市長が訴えたことは、秋葉広島市長と同様に「全面的な核廃絶」である。そこにはあくまでも「核廃絶」をめざしていく熱い思いを読み取ることができる。米国をはじめとする核保有国はまず自国の核兵器の廃絶に取り組むこと、「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現をめざすこと、さらに国是である非核三原則の法制化をすすめること―を訴えている。
▽ 安倍首相のあいさつ(1)―改憲への執着をまだ捨てていないのか
以上のような「平和宣言」やこども代表の「平和の誓い」に対し、安倍首相はどう答えたか。広島、長崎での首相あいさつの中でつぎのように述べた。趣旨は以下の通り。
「私は、犠牲者の御霊と市民の皆様の前で、広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならないとの決意をより一層強固なものとしました。今後とも、憲法の規定を遵守し、国際平和を誠実に希求し、非核三原則を堅持していくことを改めてお誓い申し上げます。
また、国連総会への核軍縮決議案の提出などを通じて、国際社会の先頭に立ち、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、全力で取り組んでまいります」と。
参考までに昨年の小泉首相の挨拶を以下に紹介する。要旨はつぎの通り。
「犠牲者の御霊と市民の皆様の前で、今後とも、憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立ち続けることをお誓い申し上げます」と。
一読して分かるように同じ調子で、同じ文言を散りばめたあいさつである。
「非核三原則の堅持」、「核兵器の廃絶と恒久平和の実現」は同じで、変わっていない。若干異なっているのが憲法問題である。昨年は「憲法の平和条項を順守」であったが、今年は「憲法の規定を遵守」となっている。
昨年の「憲法の平和条項」を削除し、今年は単に「憲法の規定」に置き換えた理由は何か。私はそこに安倍首相の改憲の意志を読み取りたい。つまり憲法前文の「平和的生存権」と9条第2項の「軍備及び交戦権の否認」を削除し、正式の軍隊を保有するという改憲(自民党の新憲法草案=05年11月公表)へのこだわりである。
7月末の参院選で惨敗し、参院で憲法改正の発議に必要な3分の2以上の与党勢力の確保が難しくなっているにもかかわらず、安倍首相は依然として改憲に執着している、そのハラを読みとることができるだろう。そのしがみつく貪欲さは、やがて歴史の舞台から転落していく悲劇につながっているだろうことに気づいていないらしい。
▽安倍首相のあいさつ(2) ― 世界が「核廃絶」に向かう条件
首相あいさつは「国際社会の先頭に立ち、核兵器の廃絶に向け、全力で取り組む」とも指摘した。しかしどこまで本気で核廃絶に取り組むのだろうか。
日米安保=軍事同盟下で米国のいわゆる核抑止力に依存しているのが、わが国防衛政策の基本原則である。いいかえれば、核廃絶を唱えながら、米国の「核の傘」を容認する立場を崩さず、非核三原則(核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず―の三原則)も一部を事実上ないがしろにしているのが現実である。
これでは内容空疎な首相の「核廃絶」発言というほかないだろう。しかし折角の「核廃絶」発言を生かす条件は何か。
世界が核廃絶に向けて歩み出すためには少なくとも以下の3つの条件が必要である。
1)米国の時代遅れの誤った政策に「ノー」と言うとき
秋葉広島市長は、つぎのように力説した。
「時代に遅れた少数の指導者たちが、いまだに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けている」と。
さらにこうも強調した。
「日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守(じゅんしゅ)し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです」と。
見逃せないのは「時代遅れ」という文言を2度繰り返していることである。それが米国の指導者であり、核保有国の一握りの指導者たちを指していることはいうまでもない。「核の力による支配」を万能視し、その呪縛から逃れられない人びとである。「核の奴隷」と化した哀れな、しかし危険きわまりない群れ、と言ってもいいだろう。その群れには明確な「ノー」を突きつける必要がある。
2)核大国の核軍縮を最優先にすること
核不拡散はもちろん重要である。しかし核大国の核軍縮こそ優先すべきである。大量の核兵器を保有する核5大国(米、ロシア、英、仏、中国)が、正当性を欠く身勝手な「核覇権主義」に執着したまま、核大国以外への核拡散を非難するのは公正とはいえない。
核不拡散条約(NPT)は、その名称から誤解されやすいが、核不拡散だけでなく、核保有国の核軍縮の重要性もうたっていることを忘れてはならない。
3)日米安保=軍事同盟を解体し、「非核兵器地帯」結成に努力すること
核抑止力に依存する日米安保=軍事同盟が存在する限り、アジアにおける核廃絶は困難であろう。
日米安保=軍事同盟のお陰で平和が保たれていると思うのは錯覚である。例えば米軍によるイラク攻撃のための出撃基地として機能しているのが、実は日米安保=軍事同盟下での在日米軍基地である。いいかえれば日米安保=軍事同盟はアジアに限らず中東までも含む広大な地域の平和への脅威となっている。そういう日米安保=軍事同盟は長期展望として解体するほかない。
一方、田上長崎市長が訴えているように、「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を目指すことが重要である。これには北朝鮮の核廃棄を含む朝鮮半島の非核化が必要である。
念のため指摘すれば、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟の10カ国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)は、すでに1997年に東南アジア非核兵器地帯条約に調印している。
日本が核廃絶に本気で取り組むためには、こうした非核地帯条約を正当に評価し、日本を含む非核地帯へと拡大していくことが不可欠といえよう。その場合、長崎市長が強調したように非核三原則の法制化を実現することが重要な意味をもつことになるだろう。
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〈折々のつぶやき〉30
安原和雄
このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。
今回は参院選(07年7月29日投票)で惨敗した自民党の「たるみきった組織」にまつわる話で、つぶやきとはいいながら、大声でのつぶやきである。〈折々のつぶやき〉30回目。(07年8月5日掲載、同月7日インターネット新聞「日刊ベリタ」に見出しなど一部を修正して転載)
自民党が惨敗した、あの参院選が終わってから1週間ほどの8月4日(土)、日本記者クラブ(東京都千代田区)で開かれた新聞、テレビのジャーナリストたちの会合「テーマは〈参院選報道とこれから〉」に出席した。その折に同記者クラブで自民党機関紙『自由民主』(7月31日付=毎週火曜日、自民党本部発行)と民主党機関紙『民主』(8月3日付=第1・第3金曜日、民主党プレス民主編集部発行)を入手した。
まず投票日から2日後の日付である『自由民主』を広げてみた。自民党の惨敗をどのように総括しているかに関心があったからである。
第一面にはつぎのような大見出しが躍っている。
政治の不安定化を阻止せよ
「経済低迷」を招いた愚を繰り返すな
私はこの見出しは、勝利した民主党への対抗策として打ち出した選挙後の自民党の心構えと受け取った。
さらに記事の中見出しに「成長か停滞か」、「改革か逆行か」、「国民利益優先か政権獲得優先か」、「責任政党か無責任政党か」の4本が目立つ形で配されている。その意味するところは、例えば「成長か停滞か」では、前者の「成長」が自民党、後者の「停滞」が民主党の代名詞といいたいのだろうと思った。後の3つの対立語も同様である。つまり勝利した民主党の政策や政治姿勢は本当に国民にとって受け容れることができるものなのか―という疑問符を掲げて、自民党の逆攻勢が始まったと読んだ。
ここまではなるほどという印象だったが、記事を読んで驚いた。書き出しはつぎのような文章が並んでいる。
「参院選の投票日、7月29日が迫っている」。(ここで「えっ?」と思った)。つづいてつぎの文章である。
「仮に参院の主導権を譲り渡す事態となれば、政治は再び不安定となる。経済低迷は避けられず、ようやくここまで回復してきた景気が、逆戻りすることになりかねない。14年前、わが党が敗北したために、長い経済低迷を招いた愚を、再び繰り返してはならない。情勢は予断を許さない。・・・」と。
なんとこれは投票日前に書いた記事をそのまま印刷して投票日から2日後の日付で配布したものである。
2~3ページには「駆ける! 安倍総裁 響く! 改革の訴え全国に」という見出しで選挙運動中の安倍演説が掲載されている。まあ、これはこれで後日の参考資料にはなる。
さらに後半部分には4ページにわたって「比例代表公認候補者の一覧」が落選者も含めて顔写真付きでずらりと並んでいる。
全部を読み終えて、「やれ、やれ」という思いを抱くほかなかった。内部事情はいろいろあっただろう。しかしこれは一般紙でいえば、投票日前の土曜日の情報を載せた新聞を投票が終わって、勝敗の結果がはっきりしている月曜日に読者に届けるに等しい。これは誰が考えても通用しないし、読者の理解を得られるような話ではない。新聞としては何の価値もない。ところが自民党はそれが通用すると思っているのだろうか。
「記事作成、印刷手順からいってこうなるほかなかった」というのであれば、組織の惰性、怠慢であり、一方、「勝利するのだからこれでいい」と考えていたとすれば、組織としての傲慢といえよう。要するに「たるみきった自民党組織」というほかない。「開かれた組織」でもなければ、「説明責任」に心を配る組織でもない。
参考までに8月3日付の『民主』を紹介しておく。第一面にはつぎの見出しが並んでいる。
党 第1党に60議席獲得 逆転なる
ご支援に感謝 「国民の生活が第一」の政治を実現します
憲法改正より生活維新
3ページ目には「国民の生活が第一」を実現する担い手、というタイトルで当選者一覧(候補者一覧ではない)が顔写真付きで並んでいる。
別のページでは「女性躍進 生活者の視点で政治を変える」という特集面も組んでいる。
『民主』の紙面に躍動感があるのに比べて、『自由民主』は灰色に沈みきっている。民主党は勝つべくして勝ったようであり、一方、自民党は負けるべくして負けたというべきである。
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安原和雄
このごろ想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに記していきたい。
今回は参院選(07年7月29日投票)で惨敗した自民党の「たるみきった組織」にまつわる話で、つぶやきとはいいながら、大声でのつぶやきである。〈折々のつぶやき〉30回目。(07年8月5日掲載、同月7日インターネット新聞「日刊ベリタ」に見出しなど一部を修正して転載)
自民党が惨敗した、あの参院選が終わってから1週間ほどの8月4日(土)、日本記者クラブ(東京都千代田区)で開かれた新聞、テレビのジャーナリストたちの会合「テーマは〈参院選報道とこれから〉」に出席した。その折に同記者クラブで自民党機関紙『自由民主』(7月31日付=毎週火曜日、自民党本部発行)と民主党機関紙『民主』(8月3日付=第1・第3金曜日、民主党プレス民主編集部発行)を入手した。
まず投票日から2日後の日付である『自由民主』を広げてみた。自民党の惨敗をどのように総括しているかに関心があったからである。
第一面にはつぎのような大見出しが躍っている。
政治の不安定化を阻止せよ
「経済低迷」を招いた愚を繰り返すな
私はこの見出しは、勝利した民主党への対抗策として打ち出した選挙後の自民党の心構えと受け取った。
さらに記事の中見出しに「成長か停滞か」、「改革か逆行か」、「国民利益優先か政権獲得優先か」、「責任政党か無責任政党か」の4本が目立つ形で配されている。その意味するところは、例えば「成長か停滞か」では、前者の「成長」が自民党、後者の「停滞」が民主党の代名詞といいたいのだろうと思った。後の3つの対立語も同様である。つまり勝利した民主党の政策や政治姿勢は本当に国民にとって受け容れることができるものなのか―という疑問符を掲げて、自民党の逆攻勢が始まったと読んだ。
ここまではなるほどという印象だったが、記事を読んで驚いた。書き出しはつぎのような文章が並んでいる。
「参院選の投票日、7月29日が迫っている」。(ここで「えっ?」と思った)。つづいてつぎの文章である。
「仮に参院の主導権を譲り渡す事態となれば、政治は再び不安定となる。経済低迷は避けられず、ようやくここまで回復してきた景気が、逆戻りすることになりかねない。14年前、わが党が敗北したために、長い経済低迷を招いた愚を、再び繰り返してはならない。情勢は予断を許さない。・・・」と。
なんとこれは投票日前に書いた記事をそのまま印刷して投票日から2日後の日付で配布したものである。
2~3ページには「駆ける! 安倍総裁 響く! 改革の訴え全国に」という見出しで選挙運動中の安倍演説が掲載されている。まあ、これはこれで後日の参考資料にはなる。
さらに後半部分には4ページにわたって「比例代表公認候補者の一覧」が落選者も含めて顔写真付きでずらりと並んでいる。
全部を読み終えて、「やれ、やれ」という思いを抱くほかなかった。内部事情はいろいろあっただろう。しかしこれは一般紙でいえば、投票日前の土曜日の情報を載せた新聞を投票が終わって、勝敗の結果がはっきりしている月曜日に読者に届けるに等しい。これは誰が考えても通用しないし、読者の理解を得られるような話ではない。新聞としては何の価値もない。ところが自民党はそれが通用すると思っているのだろうか。
「記事作成、印刷手順からいってこうなるほかなかった」というのであれば、組織の惰性、怠慢であり、一方、「勝利するのだからこれでいい」と考えていたとすれば、組織としての傲慢といえよう。要するに「たるみきった自民党組織」というほかない。「開かれた組織」でもなければ、「説明責任」に心を配る組織でもない。
参考までに8月3日付の『民主』を紹介しておく。第一面にはつぎの見出しが並んでいる。
党 第1党に60議席獲得 逆転なる
ご支援に感謝 「国民の生活が第一」の政治を実現します
憲法改正より生活維新
3ページ目には「国民の生活が第一」を実現する担い手、というタイトルで当選者一覧(候補者一覧ではない)が顔写真付きで並んでいる。
別のページでは「女性躍進 生活者の視点で政治を変える」という特集面も組んでいる。
『民主』の紙面に躍動感があるのに比べて、『自由民主』は灰色に沈みきっている。民主党は勝つべくして勝ったようであり、一方、自民党は負けるべくして負けたというべきである。
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試される小沢民主党代表の力量
安原和雄
先の参院選で、小沢一郎代表の率いる民主党が参院第1党にのし上がり、与党を過半数割れに追い込んだ。その小沢代表は日本社会の望ましい姿として何を描こうとしているのか。注目したいのは、現在の弱肉強食型社会から共生型社会へと転換させるべきだという構想が浮上してきたことである。弱肉強食がもたらす格差拡大をどう是正するかが、参院選の争点でもあったことを考えれば、この共生型社会への転換をどこまで実現できるかは、小沢代表の政治的力量を計る格好のテーマになるだろう。(07年8月3日掲載、同月4日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽解散よりも、共生社会の設計図が先
毎日新聞(07年7月31日付東京版夕刊「特集ワイド」)につぎの見出しの興味深い記事(松田喬和、大槻英二記者)が載った。
民主・小沢代表 かく戦えり
参院選で自民を大敗に追い込んだ 「知恵袋」が明かす秘策
「知恵袋」とは元参院議員、平野貞夫氏で、1935年生まれ。1992年に参院議員に初当選し、04年に引退。議会運営と立法過程に精通し、小沢氏(65)と終始政治行動をともにした、とされる。
私が関心を抱いたのは、記者と知恵袋との以下の一問一答である。
問い:今後の民主党は参院の第1党として、政権担当能力も問われるが、衆院解散に早く追い込んだ方が得策なはずだ。
答え:民主党が真っ先にやらなければならないのは、解散に追い込むとかではない。政権を取ったときに、どういう社会、国を作るかという柱を提示することです。本質は、弱肉強食の社会を作るのか、共生の社会を作るのかの選択ですよ。年金や格差を含めて、民主党は共生社会の設計図を先に出すべきです。
私は、この答えの中に今どきの政治家にはあまり期待できない見識を発見している。政治的事件ともいうべき目先の解散よりも、格差拡大 ― すなわち一方にカネにしか価値を見出さない拝金主義者たちの群れ、他方に餓死を含む大量の貧困の累積 ―によって荒れ果てたこの日本をどう改革していくか、その方が何倍も重要ではないのか、という思いを感じるからである。
▽仏教経済学は「共生」を重視する
さて私の考える仏教経済学はつぎの八つのキーワードからなっている。
いのち、平和(=非暴力)、知足(=足るを知る)、簡素、共生、利他、持続性そして多様性―の八つである。つまり共生は仏教経済学の一つの重要な柱なのである。これらのキーワードは仏教経済学を特色づけており、現代経済学(ケインズ経済学、小泉・安倍路線を主導する新自由主義=自由市場原理主義など)には欠落していることを指摘しておきたい。
仏教経済学が唱える共生は、どういう含蓄なのか。
人間同士の共生はもちろんだが、それだけでなく、人間と地球・自然との共生も視野に収めている。なぜなら人間は自分一人の力で生きているのではなく、他人様のお陰で生きているからである。また地球・自然からの恵みをいただきながら人間はいのちをつないでいる。だから人間同士、さらに人間と地球・自然との相互依存関係を大切に考える。人間に限らず、動植物も含めて地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは、相互依存関係の中でのみ生き、生かされている。
ここから人間同士も、さらに人間と地球、人間と自然もそれぞれお互いに対等・平等の地位にあると認識する。いいかえれば人間が地球・自然より上位にあって、地球・自然を支配するという地位にはないことを指している。
これに反し、現代経済学には共生・相互依存・平等という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。そこには差別が生じやすい。職場や学校でのいじめ、ノイローゼなどの多発は、こういう分断、孤独と重なり合っている。
また人間と地球・自然とは切り離された状態にあり、人間が自然・地球を開発・征服するのは当然と考えやすい。
▽民主党は参院選で共生社会づくりをどう公約したか
以上のような仏教経済学の視点から、「知恵袋」氏の提唱する共生社会の構築には賛成したい。民主党の参院選向けの「重点政策50」のうち、<環境>と<食と農>から、共生社会に関連ある政策を拾い出してみたい。
まず<環境>については「脱地球温暖化戦略」として「脱温暖化で地球と人との共生」をうたっている。具体的にはつぎのような柱からなっている。
*温室効果ガス削減の中・長期目標の設定(中期的には2020年までに1990年比20%、長期的には2050年よりも早い時期に50%の削減)
*再生可能エネルギー(風力、太陽、バイオマス、海洋エネルギーなど)の普及開発を図り、2020年までに一次エネルギー総供給に占める割合を10%程度に高める。
*温室効果ガスに関する国内排出権取引市場の創設
*地球温暖化対策税の導入―など
さらに<環境>の中の「生物多様性の保全」について「ヒトと野生生物との共生」という理念を掲げている。
つぎに<食と農>についてはつぎの柱が主なものである。その狙いは農林漁業の持続性、食料の安定供給、自給率(食料40%、木材18%、水産物57%)の向上―などの確保と実現で、共生社会の土台となるものといえる。
*全国的レベルで地産地消(そこでできたものをそこで食べる)、旬産旬消(その時できたものをその時に食べる)を推進し、学校給食で地産地消・旬産旬消を進める
*すべての販売農家に総額1兆円の戸別所得補償制度を実施する。棚田の維持、有機農業の実践など環境保全への取り組みに応じた加算を行う
*国産材を優先活用し、10年後の木材自給率を50%に高めること、ふる里で100万人の雇用創出を図ること―を内容とする「森と里の再生プラン」に取り組む
*魚介類の産卵場である「海藻による海中の森」の公共事業による造成、魚価安定制度の導入など
以上のように個別の施策はいろいろ挙げられているが、総合的な共生社会づくりの理念とプランが提示されているとはいえない。
▽望ましい共生社会の必要条件は
望ましい共生社会の骨格としてどのような条件が必要だろうか。仏教経済学の視点に立って、次の3点を挙げたい。
民主党の参院選挙公約でこれら3点が唱えられているわけではない。しかし日本国内では格差拡大という不公正、地球規模では戦乱と殺戮、さらに地球環境の汚染・破壊―の深刻さを考えると、21世紀型共生社会の最低必要条件は、この3点でなければならない。
(1)人と人との共生=社会的連帯感を取り戻そう
弱きをくじき、強きを助ける、小泉政権以来の弱肉強食のすすめによる格差拡大を助長する政策を止めること。そのためには大企業、富裕者を利し、一方の恵まれない人びとを蹴落とすような税制、賃金、労働条件の転換と改善をすすめ、社会的連帯感を取り戻していくときである。
ただし競争がない社会は活気がなくなり、停滞する。競争のあり方として弱肉強食=優勝劣敗ではなく、個性を競い合う競争になるのが望ましい。ナンバーワン(例えば売上高を競い合う「量の拡大」)よりもオンリーワン(ユニークな「質の充実」)をめざす競争のすすめである。
これは憲法13条(個人の尊重、生命・自由及び幸福追求の権利の尊重)、18条(奴隷的拘束からの自由)、25条(生存権)、26条(教育権)、27条(労働権)などの理念を生かすことにつながる。
(2)国と国との共生=外交力中心の平和的共存を
もはや軍事力によって生命、安全を守る時代ではない。むしろ生命、安全を壊しているのは軍事力である。米国主導のアフガニスタン、イラク攻撃にみられるように覇権主義をめざす軍事力行使は、混乱、殺戮、破壊しかもたらさない。外交力による平和的共存こそが求められる。
国と国との共生、すなわち平和的共存をめざすためには、イラク、インド洋に派遣している自衛隊の撤収が必要である。
民主党は「自衛隊のイラク派遣を直ちに終了させる」ことを参院選公約でうたった。日本政府は人道復興支援を名目とするイラク特措法によって陸上、航空自衛隊をイラクへ派遣していたが、06年7月陸上自衛隊は撤収、しかし同法が07年7月、2年延長され、航空自衛隊はいまなお輸送活動をつづけている。
一方、小沢代表はテロ対策特措法(07年11月1日に期限切れとなる)の延長に「あくまで反対」を唱えている。このテロ特措法はインド洋に自衛艦を2隻配置し、米軍を中心とする多国籍軍に石油を供給するための根拠法である。
航空自衛隊による空輸、海上自衛隊による石油供給は、米軍などの戦争のための「後方支援」であり、対米追随の事実上の参戦を意味している。このような戦争協力は国と国との共生の理念に反する。民主党がこの参戦に反対の姿勢を貫くかどうかが共生社会づくりの最初の試金石になるだろう。
以上の参戦を拒否することは憲法前文(世界諸国民の平和的生存権)、9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を生かすことにほかならない。
(3)人と地球・自然との共生=温暖化対策、原発の段階的撤退、自給率の向上
地球・自然との共生なしには人類がもはや生存し続けることは不可能であるのは自明のことである。その共生策として地球温暖化対策、原子力発電からの段階的撤退、農業の再生と食料自給率の向上―の3つを必要条件として挙げたい。
地球温暖化対策は来年の北海道・洞爺湖サミット(首脳会議)の中心テーマである。
原発の段階的撤退は、先の新潟県中越沖地震で原発の「安全神話」に改めて疑問符が投げかけられた以上、切実なテーマとして浮上してきた。なぜなら原発は人間との共生はもちろん、地球や自然との共生も成立しにくい危険性を抱えているからである。
その具体例がチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故(1986年4月、旧ソ連ウクライナ共和国で発生)である。上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降り、原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
この種の原発事故が日本で発生した場合、どこへ移住するのか、これは想像力が問われる問題である。
農業の再生と食料自給率の向上は、地球温暖化、砂漠化などによって懸念されている近未来の世界的な食料危機に対応するための不可欠かつ緊急の課題である。わが国の食料自給率は40%であり、いいかえれば60%を海外に依存している。米仏などの自給率100%超に比べわが国は、いわば「いのちの源」のほとんどを海外任せにしている、その危うさにもっと敏感でありたい。
以上の人と地球・自然との共生をすすめることは、仏教経済学の一つの柱、持続性を生かす道でもある。
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
安原和雄
先の参院選で、小沢一郎代表の率いる民主党が参院第1党にのし上がり、与党を過半数割れに追い込んだ。その小沢代表は日本社会の望ましい姿として何を描こうとしているのか。注目したいのは、現在の弱肉強食型社会から共生型社会へと転換させるべきだという構想が浮上してきたことである。弱肉強食がもたらす格差拡大をどう是正するかが、参院選の争点でもあったことを考えれば、この共生型社会への転換をどこまで実現できるかは、小沢代表の政治的力量を計る格好のテーマになるだろう。(07年8月3日掲載、同月4日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽解散よりも、共生社会の設計図が先
毎日新聞(07年7月31日付東京版夕刊「特集ワイド」)につぎの見出しの興味深い記事(松田喬和、大槻英二記者)が載った。
民主・小沢代表 かく戦えり
参院選で自民を大敗に追い込んだ 「知恵袋」が明かす秘策
「知恵袋」とは元参院議員、平野貞夫氏で、1935年生まれ。1992年に参院議員に初当選し、04年に引退。議会運営と立法過程に精通し、小沢氏(65)と終始政治行動をともにした、とされる。
私が関心を抱いたのは、記者と知恵袋との以下の一問一答である。
問い:今後の民主党は参院の第1党として、政権担当能力も問われるが、衆院解散に早く追い込んだ方が得策なはずだ。
答え:民主党が真っ先にやらなければならないのは、解散に追い込むとかではない。政権を取ったときに、どういう社会、国を作るかという柱を提示することです。本質は、弱肉強食の社会を作るのか、共生の社会を作るのかの選択ですよ。年金や格差を含めて、民主党は共生社会の設計図を先に出すべきです。
私は、この答えの中に今どきの政治家にはあまり期待できない見識を発見している。政治的事件ともいうべき目先の解散よりも、格差拡大 ― すなわち一方にカネにしか価値を見出さない拝金主義者たちの群れ、他方に餓死を含む大量の貧困の累積 ―によって荒れ果てたこの日本をどう改革していくか、その方が何倍も重要ではないのか、という思いを感じるからである。
▽仏教経済学は「共生」を重視する
さて私の考える仏教経済学はつぎの八つのキーワードからなっている。
いのち、平和(=非暴力)、知足(=足るを知る)、簡素、共生、利他、持続性そして多様性―の八つである。つまり共生は仏教経済学の一つの重要な柱なのである。これらのキーワードは仏教経済学を特色づけており、現代経済学(ケインズ経済学、小泉・安倍路線を主導する新自由主義=自由市場原理主義など)には欠落していることを指摘しておきたい。
仏教経済学が唱える共生は、どういう含蓄なのか。
人間同士の共生はもちろんだが、それだけでなく、人間と地球・自然との共生も視野に収めている。なぜなら人間は自分一人の力で生きているのではなく、他人様のお陰で生きているからである。また地球・自然からの恵みをいただきながら人間はいのちをつないでいる。だから人間同士、さらに人間と地球・自然との相互依存関係を大切に考える。人間に限らず、動植物も含めて地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは、相互依存関係の中でのみ生き、生かされている。
ここから人間同士も、さらに人間と地球、人間と自然もそれぞれお互いに対等・平等の地位にあると認識する。いいかえれば人間が地球・自然より上位にあって、地球・自然を支配するという地位にはないことを指している。
これに反し、現代経済学には共生・相互依存・平等という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。そこには差別が生じやすい。職場や学校でのいじめ、ノイローゼなどの多発は、こういう分断、孤独と重なり合っている。
また人間と地球・自然とは切り離された状態にあり、人間が自然・地球を開発・征服するのは当然と考えやすい。
▽民主党は参院選で共生社会づくりをどう公約したか
以上のような仏教経済学の視点から、「知恵袋」氏の提唱する共生社会の構築には賛成したい。民主党の参院選向けの「重点政策50」のうち、<環境>と<食と農>から、共生社会に関連ある政策を拾い出してみたい。
まず<環境>については「脱地球温暖化戦略」として「脱温暖化で地球と人との共生」をうたっている。具体的にはつぎのような柱からなっている。
*温室効果ガス削減の中・長期目標の設定(中期的には2020年までに1990年比20%、長期的には2050年よりも早い時期に50%の削減)
*再生可能エネルギー(風力、太陽、バイオマス、海洋エネルギーなど)の普及開発を図り、2020年までに一次エネルギー総供給に占める割合を10%程度に高める。
*温室効果ガスに関する国内排出権取引市場の創設
*地球温暖化対策税の導入―など
さらに<環境>の中の「生物多様性の保全」について「ヒトと野生生物との共生」という理念を掲げている。
つぎに<食と農>についてはつぎの柱が主なものである。その狙いは農林漁業の持続性、食料の安定供給、自給率(食料40%、木材18%、水産物57%)の向上―などの確保と実現で、共生社会の土台となるものといえる。
*全国的レベルで地産地消(そこでできたものをそこで食べる)、旬産旬消(その時できたものをその時に食べる)を推進し、学校給食で地産地消・旬産旬消を進める
*すべての販売農家に総額1兆円の戸別所得補償制度を実施する。棚田の維持、有機農業の実践など環境保全への取り組みに応じた加算を行う
*国産材を優先活用し、10年後の木材自給率を50%に高めること、ふる里で100万人の雇用創出を図ること―を内容とする「森と里の再生プラン」に取り組む
*魚介類の産卵場である「海藻による海中の森」の公共事業による造成、魚価安定制度の導入など
以上のように個別の施策はいろいろ挙げられているが、総合的な共生社会づくりの理念とプランが提示されているとはいえない。
▽望ましい共生社会の必要条件は
望ましい共生社会の骨格としてどのような条件が必要だろうか。仏教経済学の視点に立って、次の3点を挙げたい。
民主党の参院選挙公約でこれら3点が唱えられているわけではない。しかし日本国内では格差拡大という不公正、地球規模では戦乱と殺戮、さらに地球環境の汚染・破壊―の深刻さを考えると、21世紀型共生社会の最低必要条件は、この3点でなければならない。
(1)人と人との共生=社会的連帯感を取り戻そう
弱きをくじき、強きを助ける、小泉政権以来の弱肉強食のすすめによる格差拡大を助長する政策を止めること。そのためには大企業、富裕者を利し、一方の恵まれない人びとを蹴落とすような税制、賃金、労働条件の転換と改善をすすめ、社会的連帯感を取り戻していくときである。
ただし競争がない社会は活気がなくなり、停滞する。競争のあり方として弱肉強食=優勝劣敗ではなく、個性を競い合う競争になるのが望ましい。ナンバーワン(例えば売上高を競い合う「量の拡大」)よりもオンリーワン(ユニークな「質の充実」)をめざす競争のすすめである。
これは憲法13条(個人の尊重、生命・自由及び幸福追求の権利の尊重)、18条(奴隷的拘束からの自由)、25条(生存権)、26条(教育権)、27条(労働権)などの理念を生かすことにつながる。
(2)国と国との共生=外交力中心の平和的共存を
もはや軍事力によって生命、安全を守る時代ではない。むしろ生命、安全を壊しているのは軍事力である。米国主導のアフガニスタン、イラク攻撃にみられるように覇権主義をめざす軍事力行使は、混乱、殺戮、破壊しかもたらさない。外交力による平和的共存こそが求められる。
国と国との共生、すなわち平和的共存をめざすためには、イラク、インド洋に派遣している自衛隊の撤収が必要である。
民主党は「自衛隊のイラク派遣を直ちに終了させる」ことを参院選公約でうたった。日本政府は人道復興支援を名目とするイラク特措法によって陸上、航空自衛隊をイラクへ派遣していたが、06年7月陸上自衛隊は撤収、しかし同法が07年7月、2年延長され、航空自衛隊はいまなお輸送活動をつづけている。
一方、小沢代表はテロ対策特措法(07年11月1日に期限切れとなる)の延長に「あくまで反対」を唱えている。このテロ特措法はインド洋に自衛艦を2隻配置し、米軍を中心とする多国籍軍に石油を供給するための根拠法である。
航空自衛隊による空輸、海上自衛隊による石油供給は、米軍などの戦争のための「後方支援」であり、対米追随の事実上の参戦を意味している。このような戦争協力は国と国との共生の理念に反する。民主党がこの参戦に反対の姿勢を貫くかどうかが共生社会づくりの最初の試金石になるだろう。
以上の参戦を拒否することは憲法前文(世界諸国民の平和的生存権)、9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を生かすことにほかならない。
(3)人と地球・自然との共生=温暖化対策、原発の段階的撤退、自給率の向上
地球・自然との共生なしには人類がもはや生存し続けることは不可能であるのは自明のことである。その共生策として地球温暖化対策、原子力発電からの段階的撤退、農業の再生と食料自給率の向上―の3つを必要条件として挙げたい。
地球温暖化対策は来年の北海道・洞爺湖サミット(首脳会議)の中心テーマである。
原発の段階的撤退は、先の新潟県中越沖地震で原発の「安全神話」に改めて疑問符が投げかけられた以上、切実なテーマとして浮上してきた。なぜなら原発は人間との共生はもちろん、地球や自然との共生も成立しにくい危険性を抱えているからである。
その具体例がチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故(1986年4月、旧ソ連ウクライナ共和国で発生)である。上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降り、原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
この種の原発事故が日本で発生した場合、どこへ移住するのか、これは想像力が問われる問題である。
農業の再生と食料自給率の向上は、地球温暖化、砂漠化などによって懸念されている近未来の世界的な食料危機に対応するための不可欠かつ緊急の課題である。わが国の食料自給率は40%であり、いいかえれば60%を海外に依存している。米仏などの自給率100%超に比べわが国は、いわば「いのちの源」のほとんどを海外任せにしている、その危うさにもっと敏感でありたい。
以上の人と地球・自然との共生をすすめることは、仏教経済学の一つの柱、持続性を生かす道でもある。
(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
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