「沖縄の声」に耳を傾けるとき
安原和雄
野田首相にとって初めての日米首脳会談は今後の日米関係に何をもたらすか。最大の懸案である沖縄・米軍普天間飛行場を名護市辺野古へ県内移設する日米合意は実現するのか。答えは明白に「否」である。それが「沖縄の声」である。「国外・県外移設」を求める沖縄の声を無視すれば、その先に何が待っているのか。
大手紙社説が説いてやまない「日米同盟の深化」どころか、逆に「日米同盟の破綻」を招きかねない。沖縄に犠牲を強いながら日本の平和を確保する選択はもはやあり得ない。遠からず日米同盟、日米安保体制そのものが問い直されることにもなるだろう。(2011年9月24日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 「沖縄の声」を重視する東京新聞社説
野田佳彦首相はオバマ米大統領との初の日米首脳会談で沖縄・米軍普天間飛行場の返還について、沖縄名護市辺野古に県内移設する日米合意に基づいて進める姿勢を示した。この日米会談について大手紙社説(9月23日付)はどう論じたか。
*東京新聞=日米首脳会談 沖縄の声がなぜ届かぬ(社説の見出し。以下同じ)
国外・県外移設を求める県民の声はなぜ届かないのか。残念だ。辺野古への移設は、名護市をはじめ、公有水面埋め立ての許可権を持つ仲井真弘多知事が反対しており、実現はかなり難しいのが実情だ。首脳同士の初顔合わせは厳しい現状を直接伝える好機だったが、首相は逸してしまった。
沖縄県が三千億円の一括交付金創設を求めているとはいえ、札束で県内移設を受け入れさせるなら、県民の反発を買うだけだ。
仲井真知事は首相と同時期に訪米し、米上院軍事委員会のレビン委員長らと会ったり、ワシントンの大学で講演したり、記者会見したりして、県内移設の難しさを米側に伝えた。
県内移設を強行すれば県民の対米感情は決定的にこじれ、日米同盟の健全性は失われる。首相はそこまで見通して日米合意推進を大統領に誓ったのだろうか。できない約束はしない。民主党政権に就いて学んだはずだ。
*朝日新聞=日米首脳会談 外交立て直しの起点に
いまの日米関係に突き刺さった最大のトゲは、米軍普天間飛行場の移設問題だ。日米安保体制の安定的な維持のため、両国政府はともに打開策を探るしかあるまい。同盟の知恵としなやかさが試される。野田外交は、基軸である日米同盟の確認からスタートした。強固な日米関係を土台に、東アジア、さらにはアジア太平洋地域の安定的な秩序をつくることだ。
*毎日新聞=日米首脳会談 鳩菅外交の轍を踏むな
今の日米関係は順風満帆からほど遠く、不正常とさえ言えよう。本来なら、日米安保条約改定から半世紀の昨年、同盟深化をうたう共同宣言をまとめる段取りだったのが、日本の政局混迷で宙に浮いた。今月は講和条約と旧日米安保条約調印から60年という歴史の節目なのに、同盟をじっくり議論する機運は生まれなかった。
*読売新聞=同盟深化へ「結果」を出す時だ
大統領は「日本は重要な同盟国で、幅広く協力していくパートナーだ」と語った。首相は、米軍の震災支援に触れ、「日米同盟は日本外交の基軸だという信念が揺るぎないものになった」と応じた。両首脳が日米同盟を深化させることで一致したことは、まず無難な初顔合わせと言えよう。
*日本経済新聞=普天間問題の先送りはもう限界だ
もはや普天間問題の先送りは限界に近い。野田内閣はこうした認識に立ち、進展に向けた目に見える行動に出てほしい。このままでは沖縄県名護市辺野古に移設する日米合意は破綻する。基地の行き場がなくなれば、普天間は学校や家が密集する今の場所にとどまることになる。それは何より、地元の人々にとって最悪だ。
<安原の感想> 日米同盟への批判力を再生させるとき
大手5紙の社説で「沖縄の声」を重視する視点を前面に出しているのは東京社説だけで、他の4紙はいずれも「日米同盟堅持」に力点が置かれている。いいかえれば沖縄米軍基地の長年にわたる被害に耐えられなくなった「沖縄の民の声」に正面から向き合おうとしているのが東京社説である。しかし残りの社説は野田政権とオバマ政権に肩入れする主張にとどまっている。「基軸である日米同盟の確認」(朝日)、「同盟深化をうたう共同宣言を」(毎日)、「同盟深化へ」(読売)、「普天間問題の先送りは限界」(日経)などからそれが読み取れる。
もっとも日米政権に批判的な東京社説も「日米同盟の健全性は失われる」と懸念しているところを見ると、日米同盟そのものに根底から疑問を抱いているわけではない。このようにカッコ付きの「批判」であるとしても、その「批判の目」を評価したい。それにしても大手紙がほぼ軒並み日米安保体制、日米同盟への批判力を失ってからすでに久しい。
なぜなのか。日米安保、日米同盟ともにその本質は米国主導の対外戦争(かつての対ベトナム戦争、最近の対アフガン・イラク戦争など)のための軍事同盟である。その足場として機能しているのが沖縄を中心とする在日米軍基地網であるにもかかわらず、その現実から目をそらしているからだろう。東日本大震災への「日米トモダチ作戦」などの事例が目つぶしの格好の道具として利用されている。
あえていえば、「安保是認」という時流に乗じた浅薄な思いこみを捨てて、日米安保条約を今一度学習し直す必要があるのではないか。メディアが権力批判を放棄するとき、つまり「メディアの自殺」が広がるとき、何が起きるか。それは多数の民衆の犠牲が広がるときでもある。だからこそ民衆によるメディア批判が欠かせない。同時に日米安保、日米同盟への批判力を再生させるときでもある。
▽ 沖縄県民の民意の否定は、国際社会への恥さらし
ここでは沖縄の琉球新報社説(大要)を紹介したい。「民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい」と沖縄県民の民意の尊重を力説している。
*琉球新報社説(9月23日付)=日米首脳会談 民意否定して民主主義か(見出し)
これほど中身の乏しい会談は、過去にあまり記憶がない。指導者としての情熱や展望が感じられず、官僚の振り付け通り言葉を躍らせただけではないか。
野田佳彦首相とオバマ米大統領の日米首脳会談で、首相は米軍普天間飛行場について「日米合意に基づき推進する」と述べ、名護市辺野古への移設をあらためて約束。大統領は「結果を求める時期が近づいている」と応じ、具体的な進展への日本側の努力を求めた。
鳩山、菅両政権の時代から首脳会談のたびに「日米合意の推進」をことさら強調する日本側の対応は、首をかしげざるを得ない。
辺野古移設案は県民の支持を全く得られず、さらに米議会の支持も失った。現実主義者を自認する政治家や官僚など「安保マフィア」と言われる人々は、自らが「非現実主義者」化している現実に気付かないのだろうか。
日米同盟関係について、首相は「日本外交の基軸と考えていたが、大震災後、信念はさらに揺るぎないものになった」と強調したが、肝心なのは日米関係が幅広い国民の信頼に裏打ちされているのかだ。
首相の「信念」発言に呼応し、大統領は「同盟を21世紀にふさわしいものに近代化していきたい」としたが、真意が定かでない。
辺野古移設については、仲井真弘多知事をはじめ大多数の県民が反対し「実現不可能」と考えている。この期に及んでなお首相や外務官僚が米側に期待感を抱かせる発言を繰り返すのは罪深い。
民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい。いい加減、自覚してもいいころだ。
<安原の感想> 浮かび上がる本土と沖縄の「対立の構図」
まず琉球新報社説の中で次の指摘は見のがせない。
・辺野古移設案は県民の支持を全く得られず、さらに米議会の支持も失った。現実主義者を自認する政治家や官僚など「安保マフィア」と言われる人々は、自らが「非現実主義者」化している現実に気付かないのか。
・民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい。
特に「安保マフィア」という表現に着目したい。マフィアとは、米国その他の国の大都市に暗躍する密輸・賭博(とばく)などの犯罪組織を指しているが、犯罪に限らず、政治や産業にまで介入している。ここでの安保マフィアは日米安保体制に固執する軍産政官学複合体の意味だろう。一方、原子力発電マフィアといえば、「原発推進複合体」、「原子力村」など原発推進に執着しているグループを指している。いうまでもなくこの2つのマフィアは緊密な相互依存関係にある。
琉球新報社説は、その安保マフィアが政治・経済を牛耳っているつもりかも知れないが、現実にはもはやその力を失っている、といいたいのだ。現実に変革の力量を発揮しつつあるのは、安保マフィアではなく、多数の民衆の「民意」であり、だからこそその民意を否定することは、「国際社会に自らの恥をさらす」ことになる。
もう一つ、沖縄タイムス社説(9月22日付=普天間問題 「構造的差別」断ち切れ=見出し)から以下の指摘を紹介したい。
・県知事がわざわざ米国に出向き、「沖縄の総意」を伝えたにもかかわらず、日本の外務大臣は、同じ日に米国で、沖縄の総意に反する約束をした。
・沖縄だけがいつまでも基地の過重な負担を背負い続ける構図は「構造的差別」そのものだ。
・「沖縄という特定の地域を犠牲にした安全保障」をいつまでも続けることは、著しく公平、公正さに欠ける。
以上の沖縄タイムス社説の主張は、沖縄から本土に向かって批判の矢を撃つという姿勢を感じさせる。「沖縄の総意」に反する本土政府の対米約束、沖縄だけが背負い続ける「構造的差別」、公平・公正さに欠ける「沖縄を犠牲にした安全保障」― などの痛烈な指摘は、正当である。
主として東京に本社をもつ大手紙の社説の多くは、日米同盟の枠内に安住している風であり、批判力も衰えて、いささか気楽すぎるのではないか。沖縄の主張にもっと耳を傾けるときである。本土と沖縄との間に浮かび上がる「対立の構図」、この亀裂は本土側の責任である。この対立の構図はやがて日米同盟、日米安保体制そのものの見直しにも直結していくだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
野田首相にとって初めての日米首脳会談は今後の日米関係に何をもたらすか。最大の懸案である沖縄・米軍普天間飛行場を名護市辺野古へ県内移設する日米合意は実現するのか。答えは明白に「否」である。それが「沖縄の声」である。「国外・県外移設」を求める沖縄の声を無視すれば、その先に何が待っているのか。
大手紙社説が説いてやまない「日米同盟の深化」どころか、逆に「日米同盟の破綻」を招きかねない。沖縄に犠牲を強いながら日本の平和を確保する選択はもはやあり得ない。遠からず日米同盟、日米安保体制そのものが問い直されることにもなるだろう。(2011年9月24日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 「沖縄の声」を重視する東京新聞社説
野田佳彦首相はオバマ米大統領との初の日米首脳会談で沖縄・米軍普天間飛行場の返還について、沖縄名護市辺野古に県内移設する日米合意に基づいて進める姿勢を示した。この日米会談について大手紙社説(9月23日付)はどう論じたか。
*東京新聞=日米首脳会談 沖縄の声がなぜ届かぬ(社説の見出し。以下同じ)
国外・県外移設を求める県民の声はなぜ届かないのか。残念だ。辺野古への移設は、名護市をはじめ、公有水面埋め立ての許可権を持つ仲井真弘多知事が反対しており、実現はかなり難しいのが実情だ。首脳同士の初顔合わせは厳しい現状を直接伝える好機だったが、首相は逸してしまった。
沖縄県が三千億円の一括交付金創設を求めているとはいえ、札束で県内移設を受け入れさせるなら、県民の反発を買うだけだ。
仲井真知事は首相と同時期に訪米し、米上院軍事委員会のレビン委員長らと会ったり、ワシントンの大学で講演したり、記者会見したりして、県内移設の難しさを米側に伝えた。
県内移設を強行すれば県民の対米感情は決定的にこじれ、日米同盟の健全性は失われる。首相はそこまで見通して日米合意推進を大統領に誓ったのだろうか。できない約束はしない。民主党政権に就いて学んだはずだ。
*朝日新聞=日米首脳会談 外交立て直しの起点に
いまの日米関係に突き刺さった最大のトゲは、米軍普天間飛行場の移設問題だ。日米安保体制の安定的な維持のため、両国政府はともに打開策を探るしかあるまい。同盟の知恵としなやかさが試される。野田外交は、基軸である日米同盟の確認からスタートした。強固な日米関係を土台に、東アジア、さらにはアジア太平洋地域の安定的な秩序をつくることだ。
*毎日新聞=日米首脳会談 鳩菅外交の轍を踏むな
今の日米関係は順風満帆からほど遠く、不正常とさえ言えよう。本来なら、日米安保条約改定から半世紀の昨年、同盟深化をうたう共同宣言をまとめる段取りだったのが、日本の政局混迷で宙に浮いた。今月は講和条約と旧日米安保条約調印から60年という歴史の節目なのに、同盟をじっくり議論する機運は生まれなかった。
*読売新聞=同盟深化へ「結果」を出す時だ
大統領は「日本は重要な同盟国で、幅広く協力していくパートナーだ」と語った。首相は、米軍の震災支援に触れ、「日米同盟は日本外交の基軸だという信念が揺るぎないものになった」と応じた。両首脳が日米同盟を深化させることで一致したことは、まず無難な初顔合わせと言えよう。
*日本経済新聞=普天間問題の先送りはもう限界だ
もはや普天間問題の先送りは限界に近い。野田内閣はこうした認識に立ち、進展に向けた目に見える行動に出てほしい。このままでは沖縄県名護市辺野古に移設する日米合意は破綻する。基地の行き場がなくなれば、普天間は学校や家が密集する今の場所にとどまることになる。それは何より、地元の人々にとって最悪だ。
<安原の感想> 日米同盟への批判力を再生させるとき
大手5紙の社説で「沖縄の声」を重視する視点を前面に出しているのは東京社説だけで、他の4紙はいずれも「日米同盟堅持」に力点が置かれている。いいかえれば沖縄米軍基地の長年にわたる被害に耐えられなくなった「沖縄の民の声」に正面から向き合おうとしているのが東京社説である。しかし残りの社説は野田政権とオバマ政権に肩入れする主張にとどまっている。「基軸である日米同盟の確認」(朝日)、「同盟深化をうたう共同宣言を」(毎日)、「同盟深化へ」(読売)、「普天間問題の先送りは限界」(日経)などからそれが読み取れる。
もっとも日米政権に批判的な東京社説も「日米同盟の健全性は失われる」と懸念しているところを見ると、日米同盟そのものに根底から疑問を抱いているわけではない。このようにカッコ付きの「批判」であるとしても、その「批判の目」を評価したい。それにしても大手紙がほぼ軒並み日米安保体制、日米同盟への批判力を失ってからすでに久しい。
なぜなのか。日米安保、日米同盟ともにその本質は米国主導の対外戦争(かつての対ベトナム戦争、最近の対アフガン・イラク戦争など)のための軍事同盟である。その足場として機能しているのが沖縄を中心とする在日米軍基地網であるにもかかわらず、その現実から目をそらしているからだろう。東日本大震災への「日米トモダチ作戦」などの事例が目つぶしの格好の道具として利用されている。
あえていえば、「安保是認」という時流に乗じた浅薄な思いこみを捨てて、日米安保条約を今一度学習し直す必要があるのではないか。メディアが権力批判を放棄するとき、つまり「メディアの自殺」が広がるとき、何が起きるか。それは多数の民衆の犠牲が広がるときでもある。だからこそ民衆によるメディア批判が欠かせない。同時に日米安保、日米同盟への批判力を再生させるときでもある。
▽ 沖縄県民の民意の否定は、国際社会への恥さらし
ここでは沖縄の琉球新報社説(大要)を紹介したい。「民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい」と沖縄県民の民意の尊重を力説している。
*琉球新報社説(9月23日付)=日米首脳会談 民意否定して民主主義か(見出し)
これほど中身の乏しい会談は、過去にあまり記憶がない。指導者としての情熱や展望が感じられず、官僚の振り付け通り言葉を躍らせただけではないか。
野田佳彦首相とオバマ米大統領の日米首脳会談で、首相は米軍普天間飛行場について「日米合意に基づき推進する」と述べ、名護市辺野古への移設をあらためて約束。大統領は「結果を求める時期が近づいている」と応じ、具体的な進展への日本側の努力を求めた。
鳩山、菅両政権の時代から首脳会談のたびに「日米合意の推進」をことさら強調する日本側の対応は、首をかしげざるを得ない。
辺野古移設案は県民の支持を全く得られず、さらに米議会の支持も失った。現実主義者を自認する政治家や官僚など「安保マフィア」と言われる人々は、自らが「非現実主義者」化している現実に気付かないのだろうか。
日米同盟関係について、首相は「日本外交の基軸と考えていたが、大震災後、信念はさらに揺るぎないものになった」と強調したが、肝心なのは日米関係が幅広い国民の信頼に裏打ちされているのかだ。
首相の「信念」発言に呼応し、大統領は「同盟を21世紀にふさわしいものに近代化していきたい」としたが、真意が定かでない。
辺野古移設については、仲井真弘多知事をはじめ大多数の県民が反対し「実現不可能」と考えている。この期に及んでなお首相や外務官僚が米側に期待感を抱かせる発言を繰り返すのは罪深い。
民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい。いい加減、自覚してもいいころだ。
<安原の感想> 浮かび上がる本土と沖縄の「対立の構図」
まず琉球新報社説の中で次の指摘は見のがせない。
・辺野古移設案は県民の支持を全く得られず、さらに米議会の支持も失った。現実主義者を自認する政治家や官僚など「安保マフィア」と言われる人々は、自らが「非現実主義者」化している現実に気付かないのか。
・民主主義の価値観を共有する日米両国による民意の否定は、国際社会に自らの恥をさらすに等しい。
特に「安保マフィア」という表現に着目したい。マフィアとは、米国その他の国の大都市に暗躍する密輸・賭博(とばく)などの犯罪組織を指しているが、犯罪に限らず、政治や産業にまで介入している。ここでの安保マフィアは日米安保体制に固執する軍産政官学複合体の意味だろう。一方、原子力発電マフィアといえば、「原発推進複合体」、「原子力村」など原発推進に執着しているグループを指している。いうまでもなくこの2つのマフィアは緊密な相互依存関係にある。
琉球新報社説は、その安保マフィアが政治・経済を牛耳っているつもりかも知れないが、現実にはもはやその力を失っている、といいたいのだ。現実に変革の力量を発揮しつつあるのは、安保マフィアではなく、多数の民衆の「民意」であり、だからこそその民意を否定することは、「国際社会に自らの恥をさらす」ことになる。
もう一つ、沖縄タイムス社説(9月22日付=普天間問題 「構造的差別」断ち切れ=見出し)から以下の指摘を紹介したい。
・県知事がわざわざ米国に出向き、「沖縄の総意」を伝えたにもかかわらず、日本の外務大臣は、同じ日に米国で、沖縄の総意に反する約束をした。
・沖縄だけがいつまでも基地の過重な負担を背負い続ける構図は「構造的差別」そのものだ。
・「沖縄という特定の地域を犠牲にした安全保障」をいつまでも続けることは、著しく公平、公正さに欠ける。
以上の沖縄タイムス社説の主張は、沖縄から本土に向かって批判の矢を撃つという姿勢を感じさせる。「沖縄の総意」に反する本土政府の対米約束、沖縄だけが背負い続ける「構造的差別」、公平・公正さに欠ける「沖縄を犠牲にした安全保障」― などの痛烈な指摘は、正当である。
主として東京に本社をもつ大手紙の社説の多くは、日米同盟の枠内に安住している風であり、批判力も衰えて、いささか気楽すぎるのではないか。沖縄の主張にもっと耳を傾けるときである。本土と沖縄との間に浮かび上がる「対立の構図」、この亀裂は本土側の責任である。この対立の構図はやがて日米同盟、日米安保体制そのものの見直しにも直結していくだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
「覚老」(自覚した老人)をめざして
安原和雄
あわただしく我が人生を生きながらえて来て、ふと気がついてみれば、すでに後期高齢者(75歳以上)の域に脚を踏み入れている。来し方を振り返るのはほどほどにして、ただいま現在の「今」をどう生きるかを考えないわけにはいかない。世に「一病息災」というが、私の身体は最近、「二病息災」(二つの病と共存しながら元気に生きる)という新語を当てはめたい気分である。
「二病」をいたわりながらどう生きるか。人生の大先達から「覚老」(自分の役割を自覚しながら生きる老人)という生き方があるのを学んだ。めざすべきものは覚老で、どこまで実践できるか、今後の大いなる楽しみとしたい。無造作に現世に「さようなら」を告げるわけにはいかなくなった。(2011年9月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
総務省が発表した高齢者推計人口(9月15日現在)によると、65歳以上は前年より24万人増えて2980万人、総人口に占める割合は23.3%と、いずれも過去最高を更新した。80歳以上は前年比38万人増の866万人、総人口比6.8%で、ともに過去最高となった。この数字は日本の高齢化がさらに進みつつあることを示している。
▽ 後期高齢者となって仏教書を読み直す
私自身、後期高齢者となった今、20年近くも昔に読んだ仏教関係の著作を読み直している。なぜそういう心境になったのか。「一病息災」(ちょっとした病気のある人の方が身体に注意するので、健康な人よりもかえって長生きするということ)は歓迎できるが、最近どうも「二病」にとりつかれたらしい。後期高齢者にふさわしく(?)、脚のしびれだけでなく、腰痛も時折感じる。外出は少し控えたいという気分でもあり、それが仏教書を再読・自習したいという動機になっている。
「敬老の日」(19日)を目前にして再読した仏教書は、松原泰道氏(注)の著作である。
(注)松原氏は1907年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜・瑞龍寺(ずいりゅうじ)で修行。臨済宗妙心寺派教学部長を経て、「南無の会」会長、坐禅堂・日月庵(にちげつあん)庵主。1989年第23回仏教伝道文化賞を受賞。ベストセラー『般若心経入門』など著書多数。2009年7月肺炎のため死去、101歳。
(1)「覚老」への努力が老人問題解決のカギ
松原著『法句経(ほっくきょう)入門』(1994年初版第19刷発行・祥伝社)はなかなか示唆に富んでいる。人生の四苦(生老病死)の「老苦=老いることの苦悩」について以下のように指摘している。
私(松原)は、若いとき、よく父から「お前、あっという間に60歳になるぞ!」と言われたものだ。しかし私は大して気にせず、のんびりしていた。ところが本当にあっという間に、私は60歳はおろか、70歳も目前だ。あわてて「老い」を真剣に考え悩む。
釈尊の「老は苦なり」を実感している。現代では生活苦や対人関係も老苦の原因である。さらに病・死苦、孤独感が重なる老苦は老人を自殺に追い込む。老人を山野へ棄てた習慣が未開社会にあったことは、伝説で知られる。しかし経済的な効用と能力だけが支配する現在の社会では、今日的「棄老」の傾向を感じる。
東洋大学教授の金岡秀友氏によると、すでに昭和17年に竹田芳衛著『敬老の科学』で「共同社会から功利社会へと世の中が転移しつつあるとき、一番さきに老人の位置がむつかしくなる。したがって老人は、つねに自分でなければできない役割をもつように心がけよ」と忠告しているが、その達見に驚く。
思うに福祉施設の増強とか、養老、敬老の心情を高めるだけでは、現代の老人問題は解決できない。竹田氏のいう自覚的老人 ― 「覚老」を老人自身がめざすことだ。とくに自分の年齢相応に人生の意味を自覚する「覚老」への努力が老人問題解決のカギになる。年齢の数量よりも年齢の密度の問題である。
このことを法句(115番)は次のように詩(うた)う。
たとい百歳の寿(いのち)を得るも、無上の法(おしえ)に会うことなくば、この法に会いし人の、一日の生(しょう)にも及ばざるなり。
<大意> 仏法という真理を探究することがなかったら、百年の長寿も、真理を学ぶ人の一日という短命の価値に及ばない。
私(松原)は「人生は丹精(たんせい)だ」と受け止める。人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない。それは花器や茶器が壊れやすいから大事に扱うのに似ている。花器や茶器は、テレビやステレオと違い、新品よりも古さに価値がある。といっても水洩れする花瓶や、さびた茶釜ではだめで、傷つかぬよう、さびぬように手入れと丹精で守りつづけて、年を経た丹精の道具にして、はじめて価値がある。人生もまた同じである。
「仏法に会う」とは、「永遠の青春」ともいうべき柔軟心(じゅうなんしん)を身につけるといってもいい。しかし若いときは、若さと誇りと自信から、老いを学ぶ気が起こらない。私がそうだった。この自己への奢(おご)りが永遠の青春性を蝕(むしば)むことを、このごろ気づいて後悔している。
(2)病気と健康とを和物に和えて
もう一つ、松原著『わたしの般若心経 生死を見すえ、真のやすらぎへ』(1991年初版第1刷発行・祥伝社)の中から「老いと若さ」について紹介する。
老いと若さを比べたり、死と生とを比較すると、目の前が真っ暗になってしまう。いま自分がしている生活や、いま自分が置かれている状態と、他のそれとの優劣を比べあわせるなら、苦悩はいつまでもなくならない。
もしもいま、あなたが病床にあるなら、「健康だったらなあ!」と、幻の健康と比べっこせずに、病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えてごらんなさい。健康なときには味わえなくて、病気になってはじめてわかる人生の意味・味わいをわからせてもらえる。
私は(戦後)復員したとき肺を結核菌に冒(おか)されていた。栄養失調で身体も衰弱していたので、トイレの往(ゆ)き来(き)は、両手を壁についての伝え歩きだった。終戦直後なので食糧も医薬品も不自由の絶頂で、病気回復などは望むべくもない。といって「死にたい」とも思わない。もちろん生きたいのであるが、生き死には私の力ではどうにもならないのだからと思い、床の中で般若心経などを黙読した。
私はそのとき「生き死にを超えるとは、大いなるもの(私の場合は仏の心)にお任(まか)せすること」だと、合点した。「超える」も「任せる」も、ともに小さな自分にとらわれる執着から脱皮することなのだと、腹の底からうなずくことができた。それが私の調理した生き死にの和物の味である。
<安原の感想> 病との共存を覚悟
ユニークな松原節(ぶし)には今さらながら示唆を受けるところが尽きない。「人生は丹精だ」、「人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない」、「病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えて」などがそれである。特に「和物に和えて」という表現を使って、病気と健康との優劣を比較しないで、病気と健康の双方を受け入れよ、という指摘は含蓄に富んでいる。
誰しも病気はいやで、健康でありたいと二者択一の考え方に囚(とら)われやすい。私自身そうであった。小中学生の頃、当時子どもには珍しいといわれた関節リュウマチにかかり、毎冬寝たきり同然になって、寝床で泣いていた。しかし高校生になった春から健康になりたい一心で毎朝冷水摩擦を始めたら、途端に関節リュウマチも逃げ去った。以来60年冷水摩擦を励行してきたが、今度は後期高齢者としての我が身に病魔が目を付けたらしい。軽い脚のしびれと腰痛が消えない。病との共存を覚悟せざる得ない、そういう心境である。
▽ 今後は「覚老」として何をめざすか
後期高齢者として病との共存は覚悟するとして、問題は覚老として何をめざすのかである。「悠々自適の老後を」という考え方もないではない。しかしこの生き方は中身が今ひとつ不明である。独りよがりの自己満足に堕する可能性もある。「覚老」の精神に沿わないかも知れない。
さてどうするか。やはり及ばずながら「世のため人のため」という利他の心構えは失いたくない。どこまで実践できるかは、今後の課題だが、少なくとも心構えだけは捨てたくない。そのためには仏教経済学(思想)のすすめをおいてほかには考えられない。一般の大学で教えられている現代経済学を批判する視点に立つ仏教経済学は今なお未完であり、広く社会に根づくにはさらに時間と努力を要する。
私(安原)の考える仏教経済学のキーワードとして八つを挙げたい。「八」(漢数字)は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくという期待をこめて使いたい。しかも八つのキーワードによって仏教思想とのかかわりをより分かりやすく提示することに努める。その場合、現代経済学への根本的批判が原点となっている。
以下、仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。〈 〉内は現代経済学の特質を示す。
*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・〈いのち無視(自然を征服・支配・破壊)〉
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・〈暴力(戦争)〉
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・〈貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)〉
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・〈孤立(いのちの分断、孤独)〉
*簡素(質素、飾り気がないこと)・・・〈浪費・無駄(虚飾)〉
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・〈私利(利己主義、自分勝手)〉
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・〈画一性(個性無視、非寛容)〉
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・〈非持続性(持続不可能な「成長」)〉
補足(1):競争(個性と連帯)・・・・〈競争(弱肉強食、私利追求)〉
補足(2):貨幣(非貨幣価値も重視)・〈貨幣(貨幣価値のみ視野に)〉
仏教経済学の最大の特色は、いのち尊重(人間に限らず、動植物も含めて生きとし生けるものすべてのいのちの尊重)であり、現代経済学にはこの視点は欠落している。競争については仏教経済学もその重要性を認めるが、個性と連帯を生かす競争をすすめる。一方、現代経済学は弱肉強食をすすめ、個性や連帯を損なう傾向があり、仏教経済学とは異質である。
以上の八つのキーワードからいえることは、仏教経済学に立脚しなければ、地球も世界も日本も救われないだろうという期待がある。このような認識を大切に育んでいくのが覚老としての希望である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
あわただしく我が人生を生きながらえて来て、ふと気がついてみれば、すでに後期高齢者(75歳以上)の域に脚を踏み入れている。来し方を振り返るのはほどほどにして、ただいま現在の「今」をどう生きるかを考えないわけにはいかない。世に「一病息災」というが、私の身体は最近、「二病息災」(二つの病と共存しながら元気に生きる)という新語を当てはめたい気分である。
「二病」をいたわりながらどう生きるか。人生の大先達から「覚老」(自分の役割を自覚しながら生きる老人)という生き方があるのを学んだ。めざすべきものは覚老で、どこまで実践できるか、今後の大いなる楽しみとしたい。無造作に現世に「さようなら」を告げるわけにはいかなくなった。(2011年9月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
総務省が発表した高齢者推計人口(9月15日現在)によると、65歳以上は前年より24万人増えて2980万人、総人口に占める割合は23.3%と、いずれも過去最高を更新した。80歳以上は前年比38万人増の866万人、総人口比6.8%で、ともに過去最高となった。この数字は日本の高齢化がさらに進みつつあることを示している。
▽ 後期高齢者となって仏教書を読み直す
私自身、後期高齢者となった今、20年近くも昔に読んだ仏教関係の著作を読み直している。なぜそういう心境になったのか。「一病息災」(ちょっとした病気のある人の方が身体に注意するので、健康な人よりもかえって長生きするということ)は歓迎できるが、最近どうも「二病」にとりつかれたらしい。後期高齢者にふさわしく(?)、脚のしびれだけでなく、腰痛も時折感じる。外出は少し控えたいという気分でもあり、それが仏教書を再読・自習したいという動機になっている。
「敬老の日」(19日)を目前にして再読した仏教書は、松原泰道氏(注)の著作である。
(注)松原氏は1907年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜・瑞龍寺(ずいりゅうじ)で修行。臨済宗妙心寺派教学部長を経て、「南無の会」会長、坐禅堂・日月庵(にちげつあん)庵主。1989年第23回仏教伝道文化賞を受賞。ベストセラー『般若心経入門』など著書多数。2009年7月肺炎のため死去、101歳。
(1)「覚老」への努力が老人問題解決のカギ
松原著『法句経(ほっくきょう)入門』(1994年初版第19刷発行・祥伝社)はなかなか示唆に富んでいる。人生の四苦(生老病死)の「老苦=老いることの苦悩」について以下のように指摘している。
私(松原)は、若いとき、よく父から「お前、あっという間に60歳になるぞ!」と言われたものだ。しかし私は大して気にせず、のんびりしていた。ところが本当にあっという間に、私は60歳はおろか、70歳も目前だ。あわてて「老い」を真剣に考え悩む。
釈尊の「老は苦なり」を実感している。現代では生活苦や対人関係も老苦の原因である。さらに病・死苦、孤独感が重なる老苦は老人を自殺に追い込む。老人を山野へ棄てた習慣が未開社会にあったことは、伝説で知られる。しかし経済的な効用と能力だけが支配する現在の社会では、今日的「棄老」の傾向を感じる。
東洋大学教授の金岡秀友氏によると、すでに昭和17年に竹田芳衛著『敬老の科学』で「共同社会から功利社会へと世の中が転移しつつあるとき、一番さきに老人の位置がむつかしくなる。したがって老人は、つねに自分でなければできない役割をもつように心がけよ」と忠告しているが、その達見に驚く。
思うに福祉施設の増強とか、養老、敬老の心情を高めるだけでは、現代の老人問題は解決できない。竹田氏のいう自覚的老人 ― 「覚老」を老人自身がめざすことだ。とくに自分の年齢相応に人生の意味を自覚する「覚老」への努力が老人問題解決のカギになる。年齢の数量よりも年齢の密度の問題である。
このことを法句(115番)は次のように詩(うた)う。
たとい百歳の寿(いのち)を得るも、無上の法(おしえ)に会うことなくば、この法に会いし人の、一日の生(しょう)にも及ばざるなり。
<大意> 仏法という真理を探究することがなかったら、百年の長寿も、真理を学ぶ人の一日という短命の価値に及ばない。
私(松原)は「人生は丹精(たんせい)だ」と受け止める。人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない。それは花器や茶器が壊れやすいから大事に扱うのに似ている。花器や茶器は、テレビやステレオと違い、新品よりも古さに価値がある。といっても水洩れする花瓶や、さびた茶釜ではだめで、傷つかぬよう、さびぬように手入れと丹精で守りつづけて、年を経た丹精の道具にして、はじめて価値がある。人生もまた同じである。
「仏法に会う」とは、「永遠の青春」ともいうべき柔軟心(じゅうなんしん)を身につけるといってもいい。しかし若いときは、若さと誇りと自信から、老いを学ぶ気が起こらない。私がそうだった。この自己への奢(おご)りが永遠の青春性を蝕(むしば)むことを、このごろ気づいて後悔している。
(2)病気と健康とを和物に和えて
もう一つ、松原著『わたしの般若心経 生死を見すえ、真のやすらぎへ』(1991年初版第1刷発行・祥伝社)の中から「老いと若さ」について紹介する。
老いと若さを比べたり、死と生とを比較すると、目の前が真っ暗になってしまう。いま自分がしている生活や、いま自分が置かれている状態と、他のそれとの優劣を比べあわせるなら、苦悩はいつまでもなくならない。
もしもいま、あなたが病床にあるなら、「健康だったらなあ!」と、幻の健康と比べっこせずに、病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えてごらんなさい。健康なときには味わえなくて、病気になってはじめてわかる人生の意味・味わいをわからせてもらえる。
私は(戦後)復員したとき肺を結核菌に冒(おか)されていた。栄養失調で身体も衰弱していたので、トイレの往(ゆ)き来(き)は、両手を壁についての伝え歩きだった。終戦直後なので食糧も医薬品も不自由の絶頂で、病気回復などは望むべくもない。といって「死にたい」とも思わない。もちろん生きたいのであるが、生き死には私の力ではどうにもならないのだからと思い、床の中で般若心経などを黙読した。
私はそのとき「生き死にを超えるとは、大いなるもの(私の場合は仏の心)にお任(まか)せすること」だと、合点した。「超える」も「任せる」も、ともに小さな自分にとらわれる執着から脱皮することなのだと、腹の底からうなずくことができた。それが私の調理した生き死にの和物の味である。
<安原の感想> 病との共存を覚悟
ユニークな松原節(ぶし)には今さらながら示唆を受けるところが尽きない。「人生は丹精だ」、「人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない」、「病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えて」などがそれである。特に「和物に和えて」という表現を使って、病気と健康との優劣を比較しないで、病気と健康の双方を受け入れよ、という指摘は含蓄に富んでいる。
誰しも病気はいやで、健康でありたいと二者択一の考え方に囚(とら)われやすい。私自身そうであった。小中学生の頃、当時子どもには珍しいといわれた関節リュウマチにかかり、毎冬寝たきり同然になって、寝床で泣いていた。しかし高校生になった春から健康になりたい一心で毎朝冷水摩擦を始めたら、途端に関節リュウマチも逃げ去った。以来60年冷水摩擦を励行してきたが、今度は後期高齢者としての我が身に病魔が目を付けたらしい。軽い脚のしびれと腰痛が消えない。病との共存を覚悟せざる得ない、そういう心境である。
▽ 今後は「覚老」として何をめざすか
後期高齢者として病との共存は覚悟するとして、問題は覚老として何をめざすのかである。「悠々自適の老後を」という考え方もないではない。しかしこの生き方は中身が今ひとつ不明である。独りよがりの自己満足に堕する可能性もある。「覚老」の精神に沿わないかも知れない。
さてどうするか。やはり及ばずながら「世のため人のため」という利他の心構えは失いたくない。どこまで実践できるかは、今後の課題だが、少なくとも心構えだけは捨てたくない。そのためには仏教経済学(思想)のすすめをおいてほかには考えられない。一般の大学で教えられている現代経済学を批判する視点に立つ仏教経済学は今なお未完であり、広く社会に根づくにはさらに時間と努力を要する。
私(安原)の考える仏教経済学のキーワードとして八つを挙げたい。「八」(漢数字)は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくという期待をこめて使いたい。しかも八つのキーワードによって仏教思想とのかかわりをより分かりやすく提示することに努める。その場合、現代経済学への根本的批判が原点となっている。
以下、仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。〈 〉内は現代経済学の特質を示す。
*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・〈いのち無視(自然を征服・支配・破壊)〉
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・〈暴力(戦争)〉
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・〈貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)〉
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・〈孤立(いのちの分断、孤独)〉
*簡素(質素、飾り気がないこと)・・・〈浪費・無駄(虚飾)〉
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・〈私利(利己主義、自分勝手)〉
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・〈画一性(個性無視、非寛容)〉
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・〈非持続性(持続不可能な「成長」)〉
補足(1):競争(個性と連帯)・・・・〈競争(弱肉強食、私利追求)〉
補足(2):貨幣(非貨幣価値も重視)・〈貨幣(貨幣価値のみ視野に)〉
仏教経済学の最大の特色は、いのち尊重(人間に限らず、動植物も含めて生きとし生けるものすべてのいのちの尊重)であり、現代経済学にはこの視点は欠落している。競争については仏教経済学もその重要性を認めるが、個性と連帯を生かす競争をすすめる。一方、現代経済学は弱肉強食をすすめ、個性や連帯を損なう傾向があり、仏教経済学とは異質である。
以上の八つのキーワードからいえることは、仏教経済学に立脚しなければ、地球も世界も日本も救われないだろうという期待がある。このような認識を大切に育んでいくのが覚老としての希望である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
野田内閣が生き残るための必要条件
安原和雄
野田内閣発足後の新聞投書に掲載された原発惨事にかかわる「民(たみ)の声」に耳を傾けると、何が聞こえてくるか。伝わってくるのは被災者たちの悲痛な思いであり、一方、手助けのありようを模索、実践する救援者たちの心遣いである。日本列島上の相互の絆が強まり、日本再生への展望も開けてくるだろう。
しかしどこまでも批判すべきは、「政官財と学・メディアの既得権益共同体」である。脱原発に執拗な抵抗を続けており、その様相は醜悪でさえある。野田内閣が生き残るための必要条件は「民の声」を聞き入れながら、既得権益共同体を解体することで、それ以外の妙手はないだろう。野田内閣にそれが期待できるか。(2011年9月9日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
以下、紹介する新聞投書は朝日新聞「声」と毎日新聞「みんなの広場」で、9月5日から8日までの掲載文である。投書者の氏名はいずれも省略した。
(1)故郷と絆と希望と
*美しい故郷は見捨てられない
=主婦 神奈川県小田原市 43歳(朝日新聞8日付)
福島第一原発事故を受け、福島県双葉町から神奈川県に7歳と2歳の息子、夫と避難している。
首相がまた代わった。しかし私たちや原発の環境は何か変わるのだろうか。新聞には警戒区域の土地を国が買い上げる案などの記事も載る。双葉町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙って見ているだけでいいの? 福島の風景は何とも美しい。故郷を見捨てることは私にはできない。
*被災地の声聞く大切さ知った
=大学院生 神戸市灘区 27歳(朝日新聞8日付)
宮城県内で実施した東日本大震災の被災者からのヒアリング調査に同行した。とりわけ印象的だったのは、被災者の要望が行政や地元議会にまだまだ理解されていないという嘆きの声だ。現場で当事者の話に耳を傾け、それを周囲に伝え、支援につなげていくことの大切さを痛感した。
震災から半年、社会の関心は薄れつつあるのではないか。被災地から遠く離れた地にあっても、被災地の「声」を聞こうとする姿勢を常に持ち続けたい。
<安原の感想> 絆を結び合う希望を
美しい故郷の町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙ってみているだけでいいの? ― この無念の思いの深さは体験者でなければ理解できそうにない。私(安原)にはその心境は「首相は代わったが、被災者たちのくやしさは変わらない」とも読みとれる。
だからこそ非体験者である大学院生としては「被災地の声聞く大切さを知った」というほかない。それ以外の対応策は容易には見出せない。ただ体験者と非体験者とが手を取り合い、多様な絆を結び連ねることはできる。そこにささやかな希望を見出したい。
しかしその希望に背を向けるようなデータを一つ紹介したい。東電福島原発事故のため、福島県の12市町村で自治体外での生活を強いられている住民は8月末時点で計10万1931人に上る(毎日新聞9月9日付)。
(2)子供たちの笑顔
*福島の保育園で見た笑顔
=体操教室代表 兵庫県西宮市 62歳(毎日新聞8日付)
福島県を訪れ、歌と人形劇のボランティア公演を行ってきた。南相馬市の保育園では、福島原発事故による避難で休園になっている他の保育園の子どもたちもいてにぎやかだった。歌遊びや人形劇に子どもたちの笑顔が見られ、こちらもうれしい気持ちになった。
公演中、一人の保育士さんが泣いていた。大震災のストレスからか自傷的な行動をする2歳の子どもがこの日は声を出して笑い、歌ってもいたとのこと。皆さんに笑顔の時間が戻るよう祈らずにはいられない。
*首相は福島の子どもを守れ
=主婦 名古屋市天白区 74歳(朝日新聞7日付)
「わたしはふつうの子どもを産めますか?何歳まで生きられますか?」
政府へ福島県の子どもたちが直訴した。子どもからこんな言葉を投げかけられる政府がどこにあるのか。政府の責任は重い。
野田首相に第一に望むことは、子どもたちを一刻も早く安全な場所に避難させること。先日のテレビでは、子どもを抱いた若い母親が「この子は、私よりも長く生きられるでしょうか」と、涙ぐんでいた。なぜ国は子どもが毎日被曝しているのに、有効な手を打たずにいるのか。
<安原の感想> わたしは何歳まで生きられますか?
子どもたちが政府に向かって「何歳まで生きられますか?」と問いつめる光景、さらに若い母親が「この子は私より長生きできますか」と涙ぐむ場面をこれまでイメージしたことがあるだろうか。これは想像の物語ではなく、紛(まぎ)れもない現実の話である。
子どもたちの表情から笑みを奪うような悲惨な現実にもがいている社会、国は世界には沢山ある。しかしその現実に日本が原発惨事とともに直面しようとは、どれだけの日本人が想像できただろうか。悔恨(かいこん)のなかから出直すほかないのか。
(3)脱「経済成長」と脱「原発」と
*「経済成長 誰のため?」に賛成
=無職 大阪府枚方市 80歳(毎日新聞7日付)
毎日新聞「風知草」で、山田記者は「経済成長 誰のため?」として原発リスクと経済成長をはかりにかける愚を指摘し、経済成長に妄執する指導者層を批判した。同感だ。
まだ使える車やテレビなど製品を次々と新型に買い替えさせる構造は、莫大な資源とエネルギーを必要とする。そのエネルギーを支えようと、原発推進の「やらせ」を工夫し、都合のいい専門家を利用し、虚構の「安全神話」が作り上げられてきた。これが経済成長の真の姿だ。もうこれ以上の便利は望まない。
*悪夢見て全原発の即時停止願う
=主婦 神奈川県藤沢市 36歳(毎日新聞6日付)
私が福島第一原発で働いていて、水素爆発を起こした瞬間の夢を見た。悪夢である。この夢を見てすぐにもすべての原発を止めてほしいと思った。原発事故がさも想定外のことのようにいわれるが、これまで数十年で事故は何度もあった。いままで福島のような事故が起きなかったことこそが「奇跡」だったのだ。
経済発展のために1万年先の子孫に放射性物質を押し付けるなんてできない。
*菅降ろしの裏に脱原発反対勢力
=無職 福島県田村市 69歳(毎日新聞5日付)
文芸評論家・加藤典洋氏によると、菅降ろしの本質は菅首相(当時)の人格を攻撃し、「再生エネルギー法」「発送電分離」などの政策を葬り去ろうとすることにあった。原子力発電から自然エネルギー発電への転換で、「脱原発」を実現されては困る政官財の既得権益共同体が首相の政治努力を空洞化させようとしているさまは、戦前の軍部のあり方とうり二つというのだ。
自分たちで選びながら、利権を脅かそうとするトップを降ろそうとする民主党の面々や自民党、官僚のあり方にはあきれるばかりだ。政争に加担するメディアの報道も情けなく、憤りすら感じる。世論調査では国民の7割以上が脱原発賛成である。
<安原の感想> 「政官財の既得権益共同体」解体がカギ
<経済成長のためにこそ、原発推進を!>が原発推進派=「政官財の既得権益共同体」のスローガンであった。だから脱「原発」のためには、まず脱「経済成長」が不可欠となる。「経済成長」という概念は「豊かさ」を意味するとしばしば誤解されているが、正しくはそうではない。身近な例で言えば、経済成長のすすめは、大人になっても自分の体重を限りなく増やして喜ぶような無邪気な発想で、健康を害する負の効果しかない。長寿にマイナスである。真に目指すべき目標は、経済成長ではなく、生活の質的改善である。
日本経済の健康を取り戻し、しなやかな持続性をもたらすためにも経済成長主義の古びた旗を降ろし、同時に「政官財の既得権益共同体」(正確には「政官財と学・メディアの既得権益共同体で、「原子力村」など多様な呼称がある)の解体も避けて通れない。
この歴史的課題の打開を野田内閣にどこまで期待できるか。脱原発ではなく精々減らすだけの「減原発」、「既得権益共同体」の執拗な温存策、さらに減税ではなく消費税上げなどの大衆増税が待っているとすれば、我らが庶民派の忍耐力にも限度があろうというものだ。マンガ風にいえば、ドジョウたちももはやこれまでと「ドジョウ内閣」打倒に立ち上がるかもしれない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
野田内閣発足後の新聞投書に掲載された原発惨事にかかわる「民(たみ)の声」に耳を傾けると、何が聞こえてくるか。伝わってくるのは被災者たちの悲痛な思いであり、一方、手助けのありようを模索、実践する救援者たちの心遣いである。日本列島上の相互の絆が強まり、日本再生への展望も開けてくるだろう。
しかしどこまでも批判すべきは、「政官財と学・メディアの既得権益共同体」である。脱原発に執拗な抵抗を続けており、その様相は醜悪でさえある。野田内閣が生き残るための必要条件は「民の声」を聞き入れながら、既得権益共同体を解体することで、それ以外の妙手はないだろう。野田内閣にそれが期待できるか。(2011年9月9日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
以下、紹介する新聞投書は朝日新聞「声」と毎日新聞「みんなの広場」で、9月5日から8日までの掲載文である。投書者の氏名はいずれも省略した。
(1)故郷と絆と希望と
*美しい故郷は見捨てられない
=主婦 神奈川県小田原市 43歳(朝日新聞8日付)
福島第一原発事故を受け、福島県双葉町から神奈川県に7歳と2歳の息子、夫と避難している。
首相がまた代わった。しかし私たちや原発の環境は何か変わるのだろうか。新聞には警戒区域の土地を国が買い上げる案などの記事も載る。双葉町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙って見ているだけでいいの? 福島の風景は何とも美しい。故郷を見捨てることは私にはできない。
*被災地の声聞く大切さ知った
=大学院生 神戸市灘区 27歳(朝日新聞8日付)
宮城県内で実施した東日本大震災の被災者からのヒアリング調査に同行した。とりわけ印象的だったのは、被災者の要望が行政や地元議会にまだまだ理解されていないという嘆きの声だ。現場で当事者の話に耳を傾け、それを周囲に伝え、支援につなげていくことの大切さを痛感した。
震災から半年、社会の関心は薄れつつあるのではないか。被災地から遠く離れた地にあっても、被災地の「声」を聞こうとする姿勢を常に持ち続けたい。
<安原の感想> 絆を結び合う希望を
美しい故郷の町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙ってみているだけでいいの? ― この無念の思いの深さは体験者でなければ理解できそうにない。私(安原)にはその心境は「首相は代わったが、被災者たちのくやしさは変わらない」とも読みとれる。
だからこそ非体験者である大学院生としては「被災地の声聞く大切さを知った」というほかない。それ以外の対応策は容易には見出せない。ただ体験者と非体験者とが手を取り合い、多様な絆を結び連ねることはできる。そこにささやかな希望を見出したい。
しかしその希望に背を向けるようなデータを一つ紹介したい。東電福島原発事故のため、福島県の12市町村で自治体外での生活を強いられている住民は8月末時点で計10万1931人に上る(毎日新聞9月9日付)。
(2)子供たちの笑顔
*福島の保育園で見た笑顔
=体操教室代表 兵庫県西宮市 62歳(毎日新聞8日付)
福島県を訪れ、歌と人形劇のボランティア公演を行ってきた。南相馬市の保育園では、福島原発事故による避難で休園になっている他の保育園の子どもたちもいてにぎやかだった。歌遊びや人形劇に子どもたちの笑顔が見られ、こちらもうれしい気持ちになった。
公演中、一人の保育士さんが泣いていた。大震災のストレスからか自傷的な行動をする2歳の子どもがこの日は声を出して笑い、歌ってもいたとのこと。皆さんに笑顔の時間が戻るよう祈らずにはいられない。
*首相は福島の子どもを守れ
=主婦 名古屋市天白区 74歳(朝日新聞7日付)
「わたしはふつうの子どもを産めますか?何歳まで生きられますか?」
政府へ福島県の子どもたちが直訴した。子どもからこんな言葉を投げかけられる政府がどこにあるのか。政府の責任は重い。
野田首相に第一に望むことは、子どもたちを一刻も早く安全な場所に避難させること。先日のテレビでは、子どもを抱いた若い母親が「この子は、私よりも長く生きられるでしょうか」と、涙ぐんでいた。なぜ国は子どもが毎日被曝しているのに、有効な手を打たずにいるのか。
<安原の感想> わたしは何歳まで生きられますか?
子どもたちが政府に向かって「何歳まで生きられますか?」と問いつめる光景、さらに若い母親が「この子は私より長生きできますか」と涙ぐむ場面をこれまでイメージしたことがあるだろうか。これは想像の物語ではなく、紛(まぎ)れもない現実の話である。
子どもたちの表情から笑みを奪うような悲惨な現実にもがいている社会、国は世界には沢山ある。しかしその現実に日本が原発惨事とともに直面しようとは、どれだけの日本人が想像できただろうか。悔恨(かいこん)のなかから出直すほかないのか。
(3)脱「経済成長」と脱「原発」と
*「経済成長 誰のため?」に賛成
=無職 大阪府枚方市 80歳(毎日新聞7日付)
毎日新聞「風知草」で、山田記者は「経済成長 誰のため?」として原発リスクと経済成長をはかりにかける愚を指摘し、経済成長に妄執する指導者層を批判した。同感だ。
まだ使える車やテレビなど製品を次々と新型に買い替えさせる構造は、莫大な資源とエネルギーを必要とする。そのエネルギーを支えようと、原発推進の「やらせ」を工夫し、都合のいい専門家を利用し、虚構の「安全神話」が作り上げられてきた。これが経済成長の真の姿だ。もうこれ以上の便利は望まない。
*悪夢見て全原発の即時停止願う
=主婦 神奈川県藤沢市 36歳(毎日新聞6日付)
私が福島第一原発で働いていて、水素爆発を起こした瞬間の夢を見た。悪夢である。この夢を見てすぐにもすべての原発を止めてほしいと思った。原発事故がさも想定外のことのようにいわれるが、これまで数十年で事故は何度もあった。いままで福島のような事故が起きなかったことこそが「奇跡」だったのだ。
経済発展のために1万年先の子孫に放射性物質を押し付けるなんてできない。
*菅降ろしの裏に脱原発反対勢力
=無職 福島県田村市 69歳(毎日新聞5日付)
文芸評論家・加藤典洋氏によると、菅降ろしの本質は菅首相(当時)の人格を攻撃し、「再生エネルギー法」「発送電分離」などの政策を葬り去ろうとすることにあった。原子力発電から自然エネルギー発電への転換で、「脱原発」を実現されては困る政官財の既得権益共同体が首相の政治努力を空洞化させようとしているさまは、戦前の軍部のあり方とうり二つというのだ。
自分たちで選びながら、利権を脅かそうとするトップを降ろそうとする民主党の面々や自民党、官僚のあり方にはあきれるばかりだ。政争に加担するメディアの報道も情けなく、憤りすら感じる。世論調査では国民の7割以上が脱原発賛成である。
<安原の感想> 「政官財の既得権益共同体」解体がカギ
<経済成長のためにこそ、原発推進を!>が原発推進派=「政官財の既得権益共同体」のスローガンであった。だから脱「原発」のためには、まず脱「経済成長」が不可欠となる。「経済成長」という概念は「豊かさ」を意味するとしばしば誤解されているが、正しくはそうではない。身近な例で言えば、経済成長のすすめは、大人になっても自分の体重を限りなく増やして喜ぶような無邪気な発想で、健康を害する負の効果しかない。長寿にマイナスである。真に目指すべき目標は、経済成長ではなく、生活の質的改善である。
日本経済の健康を取り戻し、しなやかな持続性をもたらすためにも経済成長主義の古びた旗を降ろし、同時に「政官財の既得権益共同体」(正確には「政官財と学・メディアの既得権益共同体で、「原子力村」など多様な呼称がある)の解体も避けて通れない。
この歴史的課題の打開を野田内閣にどこまで期待できるか。脱原発ではなく精々減らすだけの「減原発」、「既得権益共同体」の執拗な温存策、さらに減税ではなく消費税上げなどの大衆増税が待っているとすれば、我らが庶民派の忍耐力にも限度があろうというものだ。マンガ風にいえば、ドジョウたちももはやこれまでと「ドジョウ内閣」打倒に立ち上がるかもしれない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
新聞社説の批判力を採点する
安原和雄
社説で野田内閣を「ドジョウ内閣」と呼んでいるのは東京新聞である。野田佳彦首相が民主党代表選で自らを地味なドジョウにたとえたことに始まる。詩人相田みつをさんの「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」にちなんだもので、藤村修官房長官までも「ドジョウのように泥にまみれて・・・」と調子を合わせている。
さてそのドジョウ内閣の発足に当たって新聞社説はどう評価し、あるいは批判しているか。新聞読者の声や批評と見比べながら、新聞社説を採点すると、むしろ読者の率直で明快な主張に学ぶことが多く、教えられる。(2011年9月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
大手主要紙の社説(9月3日付)は野田新内閣の発足を受けて何を論じたか。以下、5紙社説の主見出しを紹介する。かっこ内は社説の小見出しである。
*朝日新聞=野田新内閣スタート 「合意の政治」への進化を(政治改革の93年組、なじまぬ「対決型」、二重苦の国会で)
*毎日新聞=野田内閣スタート 政治の総力を結集せよ(希望のシグナル送れ、内向きから外向きへ)
*東京新聞=野田内閣スタート ドジョウは働いてこそ(震災・原発で継続性、協調で政治を前に、小渕内閣と類似?)
*日本経済新聞=新内閣は一丸となって課題に取り組め(不毛な対立から脱却を、官僚を活用する発想で)
*読売新聞=野田内閣発足 国難を乗り切る処方箋を示せ 「鳩菅政治」からの決別が急務だ(政官関係の見直しを、「震災」「原発」を迅速に、TPP参加へ動こう)
▽ 党内融和と「合意の政治」はどこまで評価できるか
朝日社説は党内融和のための首相の配慮を高く評価し、しかも<「合意の政治」への進化>を唱えている。その背景に<なじまぬ「対決型」>という朝日新聞としての認識がある。
例えば次のように指摘している。
・イデオロギー対立はとうの昔に終わっている。
・グローバル化や出生率低下、高齢社会の制約から、動員できる政策の幅は狭まり、手段も限られている。
・こんな現実を見据えれば、民主、自民両党の立ち位置に抜きがたい違いがあるようには見えない。折り合える課題はもっと多いはずだ。
・いまこそ、「対決の政治」を「合意の政治」へと進化させる好機なのだ。
一方、朝日新聞の投書欄「声」(9月3日付)に「党内融和より国民に目を向けて」(主婦 千葉市稲毛区 54歳=氏名省略)が載っている。その大要を紹介する。
今回の閣僚人事は各グループに配慮したものに思え、私は落胆した。党役員人事も、小沢一郎氏に近い人物を幹事長に起用するなど「内向き」が目立つ。菅政権のような失敗を恐れ、党内融和ばかりを気にする政権運営では、「国民生活が第一」という政策は実現できない。国民に100%目を向けることができない政党に、「もう一度やらせてみたい」とは思えない。
<安原の感想>「大連立」のすすめか「国民生活第一」か
朝日社説の唱える「合意の政治」は民主、自民両党を中心とする「大連立」のすすめであり、これに比べると読者の「国民生活が第一」(「声」)の主張の方がよほど素直であり、共感できる。
大連立のすすめは何を意図しているのか。政党それぞれの独自の主張には価値がないとでも言いたいのか。そもそも「イデオロギー対立はとうの昔に終わっている」という朝日社説の主張には承服しがたい。イデオロギーを「時代錯誤の思いこみ」とでも受け止めているのか。辞書によればイデオロギーとは「政治、道徳、宗教、哲学、芸術などにおける歴史的、社会的立場に制約された考え方」であり、「一般に思想傾向。特に政治・社会思想」を指している。
混迷深める今こそ日本の現状打開と行く末をめぐって、正しいイデオロギー論争が期待されているのではないか。それとも朝日社説は、かつて言論・思想の自由を奪い、日本国を破滅に追い込んだ軍部のように、もはや「問答無用」とでもいいたいのだろうか。
▽「脱原発」なのか、それとも「減原発」なのか
各紙社説は原発のあり方についてどのように主張しているか。
毎日社説=原発依存を減らし、再生可能エネルギーに転換していく前内閣の方針は踏襲するのが当然である。首相は記者会見で、将来は原発に頼らない社会を目指す考えを明らかにした。そこに至るプロセスについて政権内で議論を加速させ、どんなエネルギー政策を目指すのか、具体的に示していくことが必要だ。
朝日社説=原発新設の道は事実上閉ざされ、原発が減るのはどの党も認めざるを得ない。
読売社説=原発については菅政権のように、見通しのない「脱原発依存」に訴えるだけでは経済も、国民生活も混乱するばかりである。・・・原発の再稼働に向けて努力すべきだ。
一方、毎日新聞の投書欄「みんなの広場」(9月3日付)に「原発に頼らない国造りを」(無職 埼玉県幸手市 63歳=氏名省略)が載っている。その趣旨を紹介する。
原発事故が収束していないのに原発を再稼働させる動きが出ているが、これ以上国民に犠牲を強いていいのかと言いたい。原発は安全どころか、事故が一度起こると、とてつもなく危ないものだということがはっきりした。それでも再稼働させるのは何のためか。
「原発がなければ電力が不足し、電力がなければ日本の経済活動が衰退し、産業の空洞化が進む」。私はこれらの言葉を信じない。だまされてはならない。新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい。
<安原の感想> なぜ社説は「脱原発」を明言しないのか
毎日新聞(9月4日付)の全国世論調査結果を紹介する。「原発に依存しないエネルギー政策を打ち出した菅前内閣の方針を、新内閣は引き継ぐべきだと思うか」という問いに対し、回答は次の通り。
*引き継ぐべきだ=64%(全体)、60%(男性)、68%(女性)
*引き継ぐ必要はない=31%(全体)、37%(男性)、25%(女性)
この調査結果から見る限り、脱原発派が過半数を占めている。望ましい健全な意見と評価したい。
ここで念のため指摘しておきたいことがある。世論調査の問いの「原発に依存しない・・・」は「脱原発」を意味している。これと「原発依存減」(毎日社説)、「原発減」(朝日社説)とは意味内容が違うという点である。脱原発は原発をゼロにすることであり、例えばドイツは2022年を目標に完全な脱原発を目指している。一方、「原発依存減」、「原発減」は、原発の数を減らすという意味にすぎない。つまり完全な脱原発とは異質である。
読売社説の「原発再稼働」は論外として、問題は毎日、朝日の両社説がなぜ脱原発に踏み切ることに躊躇(ちゅうちょ)しているのか、である。不可解というべきである。
一方、毎日新聞の投書は「新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい」と述べている。ここでの「原発に頼らない」は、投書の趣旨からいえば、明らかに脱原発を意味している。新聞社説よりも投書者の認識の方が的確といえる。
▽ 消費税引き上げをどう捉えるか
消費税引き上げについて新聞社説はどう捉えているか。
日経社説=社会保障と税の一体改革でも消費税増税などの検討作業の先送りは許されない。民主党内には議論そのものを敬遠する空気が漂うが、首相は成長戦略と歳出削減、増税の論議を平行して進める強い指導力が求められる。
東京社説=首相は財務相当時から、2010年代半ばまでの消費税率引き上げに取り組んでおり、この布陣(新財務相や新国家戦略担当相などの人事)も復興増税や消費税増税を確実にするためのシフトなのだろう。(中略)増大する社会保障費や財政規律の確保のため、いずれ消費税増税が避けられないとしても、野放図な歳出構造を放置しては国民の理解は得られない。
毎日社説=財政や社会保障の抜本改革は、誰が政権の座にあろうが避けては通れないテーマである。「国民の耳に痛いこともいう」のが持論の野田首相には、覚悟をもって取り組むことを期待したい。
朝日社説=年金などの社会保障制度は、政権が交代してもくるくる変えられない。その財源の手当ても与野党共通の課題だ。だからこそ与野党が協力して一体改革に取り組んだ方がいい。
一方、東京新聞の読者「発言」欄の「ミラー」(9月3日付)に「首相は国民の声を聞いて」(商店主 群馬県安中市 76歳=氏名省略)が掲載されている。その趣旨は以下のとおり。
代表選の候補者5人を比較すれば、無難な野田氏を選んだといえる。財務相を経験した野田氏だが、国民としては増税だけは避けてもらいたい。それ以前の問題として国会議員や公務員数の削減、報酬・給与の削減こそ先決問題だと思う。
一般庶民が何を考えているか、どうしてもらいたいかに耳を傾けられるか。これができなければ、短命に終わることは間違いないだろう。
<安原の感想> 民(たみ)の声 ― 「増税だけは避けてもらいたい」
「民の声」すなわち「増税だけはノー」に政治が背を向けたら何が起こるか。その答えは「新内閣は短命に終わることは間違いない」である。民の声はこのように率直で単純明快である。新内閣の面々にとっては「内閣発足早々、縁起(えんぎ)でもない」とご不満だろうが、民の声を軽視しない方が身のためであろう。
新聞社説は今や消費税上げを意味する増税論が常識になっているらしい。日経と東京は「消費税増税」と明記しているが、毎日は「国民の耳に痛いこともいう」、朝日社説も「その財源の手当ても与野党共通の課題」という表現にとどめている。しかし毎日、朝日ともに消費税増税を意味していることは明らかである。
このように主要紙が事実上こぞって消費税賛成になびいているからといって、野田内閣は「消費税上げの環境が整いつつある」などと安心しない方が賢明である。なぜなら社説の主張は多くの場合少数意見だからだ。必ずしも「民の声」の代弁とはいえない。
政官財の代弁者であることもしばしばである。「3.11」前まで原発推進派としての役割を担ってきたことは今では常識となっている。社内でも少数派に属する。第一線の現役記者で社説を読んで参考にしたいと考える者は皆無に近い。かつて10年近く論説室に籍を置いていた私(安原)の体験からもそう言える。
野田内閣が泥まみれの「ドジョウ内閣」をあえて目指すのであれば、以上のことを見抜く眼力と実践が不可欠である。本物のドジョウに笑われないように精進を重ねることを祈りたい。
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安原和雄
社説で野田内閣を「ドジョウ内閣」と呼んでいるのは東京新聞である。野田佳彦首相が民主党代表選で自らを地味なドジョウにたとえたことに始まる。詩人相田みつをさんの「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」にちなんだもので、藤村修官房長官までも「ドジョウのように泥にまみれて・・・」と調子を合わせている。
さてそのドジョウ内閣の発足に当たって新聞社説はどう評価し、あるいは批判しているか。新聞読者の声や批評と見比べながら、新聞社説を採点すると、むしろ読者の率直で明快な主張に学ぶことが多く、教えられる。(2011年9月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
大手主要紙の社説(9月3日付)は野田新内閣の発足を受けて何を論じたか。以下、5紙社説の主見出しを紹介する。かっこ内は社説の小見出しである。
*朝日新聞=野田新内閣スタート 「合意の政治」への進化を(政治改革の93年組、なじまぬ「対決型」、二重苦の国会で)
*毎日新聞=野田内閣スタート 政治の総力を結集せよ(希望のシグナル送れ、内向きから外向きへ)
*東京新聞=野田内閣スタート ドジョウは働いてこそ(震災・原発で継続性、協調で政治を前に、小渕内閣と類似?)
*日本経済新聞=新内閣は一丸となって課題に取り組め(不毛な対立から脱却を、官僚を活用する発想で)
*読売新聞=野田内閣発足 国難を乗り切る処方箋を示せ 「鳩菅政治」からの決別が急務だ(政官関係の見直しを、「震災」「原発」を迅速に、TPP参加へ動こう)
▽ 党内融和と「合意の政治」はどこまで評価できるか
朝日社説は党内融和のための首相の配慮を高く評価し、しかも<「合意の政治」への進化>を唱えている。その背景に<なじまぬ「対決型」>という朝日新聞としての認識がある。
例えば次のように指摘している。
・イデオロギー対立はとうの昔に終わっている。
・グローバル化や出生率低下、高齢社会の制約から、動員できる政策の幅は狭まり、手段も限られている。
・こんな現実を見据えれば、民主、自民両党の立ち位置に抜きがたい違いがあるようには見えない。折り合える課題はもっと多いはずだ。
・いまこそ、「対決の政治」を「合意の政治」へと進化させる好機なのだ。
一方、朝日新聞の投書欄「声」(9月3日付)に「党内融和より国民に目を向けて」(主婦 千葉市稲毛区 54歳=氏名省略)が載っている。その大要を紹介する。
今回の閣僚人事は各グループに配慮したものに思え、私は落胆した。党役員人事も、小沢一郎氏に近い人物を幹事長に起用するなど「内向き」が目立つ。菅政権のような失敗を恐れ、党内融和ばかりを気にする政権運営では、「国民生活が第一」という政策は実現できない。国民に100%目を向けることができない政党に、「もう一度やらせてみたい」とは思えない。
<安原の感想>「大連立」のすすめか「国民生活第一」か
朝日社説の唱える「合意の政治」は民主、自民両党を中心とする「大連立」のすすめであり、これに比べると読者の「国民生活が第一」(「声」)の主張の方がよほど素直であり、共感できる。
大連立のすすめは何を意図しているのか。政党それぞれの独自の主張には価値がないとでも言いたいのか。そもそも「イデオロギー対立はとうの昔に終わっている」という朝日社説の主張には承服しがたい。イデオロギーを「時代錯誤の思いこみ」とでも受け止めているのか。辞書によればイデオロギーとは「政治、道徳、宗教、哲学、芸術などにおける歴史的、社会的立場に制約された考え方」であり、「一般に思想傾向。特に政治・社会思想」を指している。
混迷深める今こそ日本の現状打開と行く末をめぐって、正しいイデオロギー論争が期待されているのではないか。それとも朝日社説は、かつて言論・思想の自由を奪い、日本国を破滅に追い込んだ軍部のように、もはや「問答無用」とでもいいたいのだろうか。
▽「脱原発」なのか、それとも「減原発」なのか
各紙社説は原発のあり方についてどのように主張しているか。
毎日社説=原発依存を減らし、再生可能エネルギーに転換していく前内閣の方針は踏襲するのが当然である。首相は記者会見で、将来は原発に頼らない社会を目指す考えを明らかにした。そこに至るプロセスについて政権内で議論を加速させ、どんなエネルギー政策を目指すのか、具体的に示していくことが必要だ。
朝日社説=原発新設の道は事実上閉ざされ、原発が減るのはどの党も認めざるを得ない。
読売社説=原発については菅政権のように、見通しのない「脱原発依存」に訴えるだけでは経済も、国民生活も混乱するばかりである。・・・原発の再稼働に向けて努力すべきだ。
一方、毎日新聞の投書欄「みんなの広場」(9月3日付)に「原発に頼らない国造りを」(無職 埼玉県幸手市 63歳=氏名省略)が載っている。その趣旨を紹介する。
原発事故が収束していないのに原発を再稼働させる動きが出ているが、これ以上国民に犠牲を強いていいのかと言いたい。原発は安全どころか、事故が一度起こると、とてつもなく危ないものだということがはっきりした。それでも再稼働させるのは何のためか。
「原発がなければ電力が不足し、電力がなければ日本の経済活動が衰退し、産業の空洞化が進む」。私はこれらの言葉を信じない。だまされてはならない。新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい。
<安原の感想> なぜ社説は「脱原発」を明言しないのか
毎日新聞(9月4日付)の全国世論調査結果を紹介する。「原発に依存しないエネルギー政策を打ち出した菅前内閣の方針を、新内閣は引き継ぐべきだと思うか」という問いに対し、回答は次の通り。
*引き継ぐべきだ=64%(全体)、60%(男性)、68%(女性)
*引き継ぐ必要はない=31%(全体)、37%(男性)、25%(女性)
この調査結果から見る限り、脱原発派が過半数を占めている。望ましい健全な意見と評価したい。
ここで念のため指摘しておきたいことがある。世論調査の問いの「原発に依存しない・・・」は「脱原発」を意味している。これと「原発依存減」(毎日社説)、「原発減」(朝日社説)とは意味内容が違うという点である。脱原発は原発をゼロにすることであり、例えばドイツは2022年を目標に完全な脱原発を目指している。一方、「原発依存減」、「原発減」は、原発の数を減らすという意味にすぎない。つまり完全な脱原発とは異質である。
読売社説の「原発再稼働」は論外として、問題は毎日、朝日の両社説がなぜ脱原発に踏み切ることに躊躇(ちゅうちょ)しているのか、である。不可解というべきである。
一方、毎日新聞の投書は「新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい」と述べている。ここでの「原発に頼らない」は、投書の趣旨からいえば、明らかに脱原発を意味している。新聞社説よりも投書者の認識の方が的確といえる。
▽ 消費税引き上げをどう捉えるか
消費税引き上げについて新聞社説はどう捉えているか。
日経社説=社会保障と税の一体改革でも消費税増税などの検討作業の先送りは許されない。民主党内には議論そのものを敬遠する空気が漂うが、首相は成長戦略と歳出削減、増税の論議を平行して進める強い指導力が求められる。
東京社説=首相は財務相当時から、2010年代半ばまでの消費税率引き上げに取り組んでおり、この布陣(新財務相や新国家戦略担当相などの人事)も復興増税や消費税増税を確実にするためのシフトなのだろう。(中略)増大する社会保障費や財政規律の確保のため、いずれ消費税増税が避けられないとしても、野放図な歳出構造を放置しては国民の理解は得られない。
毎日社説=財政や社会保障の抜本改革は、誰が政権の座にあろうが避けては通れないテーマである。「国民の耳に痛いこともいう」のが持論の野田首相には、覚悟をもって取り組むことを期待したい。
朝日社説=年金などの社会保障制度は、政権が交代してもくるくる変えられない。その財源の手当ても与野党共通の課題だ。だからこそ与野党が協力して一体改革に取り組んだ方がいい。
一方、東京新聞の読者「発言」欄の「ミラー」(9月3日付)に「首相は国民の声を聞いて」(商店主 群馬県安中市 76歳=氏名省略)が掲載されている。その趣旨は以下のとおり。
代表選の候補者5人を比較すれば、無難な野田氏を選んだといえる。財務相を経験した野田氏だが、国民としては増税だけは避けてもらいたい。それ以前の問題として国会議員や公務員数の削減、報酬・給与の削減こそ先決問題だと思う。
一般庶民が何を考えているか、どうしてもらいたいかに耳を傾けられるか。これができなければ、短命に終わることは間違いないだろう。
<安原の感想> 民(たみ)の声 ― 「増税だけは避けてもらいたい」
「民の声」すなわち「増税だけはノー」に政治が背を向けたら何が起こるか。その答えは「新内閣は短命に終わることは間違いない」である。民の声はこのように率直で単純明快である。新内閣の面々にとっては「内閣発足早々、縁起(えんぎ)でもない」とご不満だろうが、民の声を軽視しない方が身のためであろう。
新聞社説は今や消費税上げを意味する増税論が常識になっているらしい。日経と東京は「消費税増税」と明記しているが、毎日は「国民の耳に痛いこともいう」、朝日社説も「その財源の手当ても与野党共通の課題」という表現にとどめている。しかし毎日、朝日ともに消費税増税を意味していることは明らかである。
このように主要紙が事実上こぞって消費税賛成になびいているからといって、野田内閣は「消費税上げの環境が整いつつある」などと安心しない方が賢明である。なぜなら社説の主張は多くの場合少数意見だからだ。必ずしも「民の声」の代弁とはいえない。
政官財の代弁者であることもしばしばである。「3.11」前まで原発推進派としての役割を担ってきたことは今では常識となっている。社内でも少数派に属する。第一線の現役記者で社説を読んで参考にしたいと考える者は皆無に近い。かつて10年近く論説室に籍を置いていた私(安原)の体験からもそう言える。
野田内閣が泥まみれの「ドジョウ内閣」をあえて目指すのであれば、以上のことを見抜く眼力と実践が不可欠である。本物のドジョウに笑われないように精進を重ねることを祈りたい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
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