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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「海外で戦争する日本」へ質的転換
安倍政権、集団的自衛権容認を決定

安原和雄
 安倍政権の暴走が止まらない。日本国平和憲法は集団的自衛権行使を禁じているという憲法解釈が正当という立場を歴代政権は堅持してきた。ところが安倍政権はこの憲法解釈をいとも簡単に閣議でひっくり返し、日本が攻撃されていないのにいつでも海外で戦争できるように質的転換を断行した。
 集団的自衛権の乱暴な容認決定というほかない。平和憲法のシンボル、九条をいとも簡単にしかも不法な手段で破棄するに等しい振る舞いと言うべきである。東京新聞社説は「憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ」と断じている。この暴挙を封じ込める手はあるのか。(2014年7月2日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

安倍政権は2014年7月1日の臨時閣議で集団的自衛権行使を禁じてきた憲法解釈を変更し、行使を容認する新たな解釈を決めた。日本の安全保障にかかわる新事態を日本のメディアはどう論じたか。大手5紙社説(7月2日付)の見出しは以下の通り。

*朝日新聞=集団的自衛権の容認 この暴挙を超えて
*毎日新聞=集団的自衛権 歯止めは国民がかける
*讀賣新聞=集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」 日米防衛指針に適切に反映せよ
*日経新聞=助け合いで安全保障を固める道へ
*東京新聞=集団的自衛権容認 9条破棄に等しい暴挙

以上の社説見出しからも推測できるように批判・反対論を展開しているのは朝日、毎日、東京、一方、容認論は讀賣、日経となっている。このような各紙論調の差違はここ数年来、同じ傾向が続いている。いいかえればメディアのなかでも国家権力批判派と容認派とに大別できることを意味している。国家権力に寄り添うメディアは「言論人としては失格」と私は考えるが、賛否両論混在するのは人の世の常で、その多様性から刺激を受ける効用も一概に否定することはできない。

以下では国家権力への批判的姿勢を貫こうと努めている東京新聞社説の大意を小見出しとともに紹介し、安原のコメントをつける。東京新聞社説は以下の小見出し、すなわち(1)軍事的な役割を拡大、(2)現実感が乏しい議論、(3)国会は気概を見せよ、の3つからなっている。 

<東京新聞社説の大意>憲法九条を破棄するに等しい
 政府が閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ。
 再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。

 昨年暮れには、外交・安保に関する首相官邸の司令塔機能を強化する国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法も成立させた。外交・安保の基本方針を示す国家安全保障戦略も初めて策定した。

◆軍事的な役割を拡大
 今年に入って、原則禁じてきた武器輸出を一転拡大する新しい三原則を決定。今回の閣議決定を経て、年内には「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)も見直され、自衛隊と米軍の新しい役割分担に合意する段取りだ。
 安倍内閣は安保政策見直しの背景に、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などアジア・太平洋地域の情勢変化を挙げる。

 しかし、それ以上に、憲法改正を目標に掲げ、「強い日本」を目指す首相の意向が強く働いていることは否定できない。
 安保政策見直しは、いずれも自衛隊の軍事的役割と活動領域の拡大につながっている。
 その先にあるのは、憲法九条の下、必要最小限度の実力しか持たず、通常の「軍隊」とは違うとされてきた自衛隊の「国軍」化であり、違憲とされてきた「海外での武力の行使」の拡大だろう。
 一連の動きは、いずれ実現を目指す憲法改正を先取りし、自衛隊活動に厳しい制限を課してきた九条を骨抜きにするものだ。このことが見過ごされてはならない。

◆現実感が乏しい議論
 安保政策見直しが、日本の平和と安全を守り、国民の命や暮らしを守るために必要不可欠なら、国民の「理解」も進んだはずだが、そうなっていないのが現実だ。
 共同通信社が六月下旬に実施した全国電話世論調査では「集団的自衛権の行使」容認への反対は55・4%と半数を超えている。無視し得ない数字である。

 政府・与党内の議論が大詰めになっても国民の胸にすとんと落ちないのは、議論自体に現実感が乏しかったからではないか。
 象徴的なのは、政府が集団的自衛権の行使などが必要な例として挙げた十五事例である。
 首相がきのうの記者会見で重ねて例示した、紛争地から避難する邦人を輸送する米艦艇の防護は、当初から現実離れした極端な例と指摘され、米国に向かう弾道ミサイルは迎撃しようにも、撃ち落とす能力がそもそもない。

 自民、公明両党だけの「密室」協議では、こうした事例の現実性は結局、問われず、「海外での武力の行使」を認める「解釈改憲」の技法だけが話し合われた。
 政府の憲法解釈を変える「結論ありき」であり、与党協議も十五事例も、そのための舞台装置や小道具にすぎなかったのだ。

 政府自身が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使や、海外での武力の行使を一転して認めることは、先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ。
 正規の改正手続きを経て、国民に判断を委ねるのならまだしも、一内閣の解釈変更で行われたことは、憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない。

 繰り返し指摘してきた通りではあるが、それを阻止できなかったことには、忸怩(じくじ)たる思いがある。
 ただ、安倍内閣による安保政策見直しの動きが、外交・防衛問題をわたしたち国民自身の問題としてとらえる機会になったことは、前向きに受け止めたい。
 終戦から七十年近くがたって、戦争経験世代は少数派になった。戦争の悲惨さや教訓を受け継ぐのは、容易な作業ではない。

 その中で例えば、首相官邸前をはじめ全国で多くの人たちが集団的自衛権の行使容認に抗議し、若い人たちの参加も少なくない。
 抗議活動に直接は参加しなくても、戦争や日本の進むべき道について深く考えることが、政権の暴走を防ぎ、わたしたち自身の命や暮らしを守ることになる。

◆国会は気概を見せよ
 自衛隊が実際に海外で武力が行使できるようになるには法整備が必要だ。早ければ秋に召集予定の臨時国会に法案が提出される。
 そのときこそ国権の最高機関たる国会の出番である。政府に唯々諾々と従うだけの国会なら存在意義はない。与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい。
 その議員を選ぶのは、わたしたち有権者自身である。閣議決定を機に、あらためて確認したい。

<安原の感想>有権者として心すべきこと
 安倍首相という人物は、恐らく策略家としての自己に酔っているのではないか。同時に有権者である国民を相手に、国民の平和構築力と気概・反発力を試そうとしているのではないか。想像するに「首相である私の政策に不服があるなら、安倍政権を打倒したらどうか」とうそぶいているに違いない。「近いうちに打倒するから、首を洗って待っていなさい」と言い返したいところだが、反安倍勢力側に今ひとつ元気がない。

 大衆レベルで言えば、反安倍の動きは広がりつつある。しかしかつての安保闘争のころの大衆動員力とその活力に比べれば、いささか戦闘力に欠ける。上述の東京新聞社説の一節、<与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい>は当然の指摘といえるが、考えてみれば、こういう指摘を新聞社説が説かざるを得ないという状況自体が情けないというべきだろう。多くの国会議員の不甲斐なさは今に始まったことではないが、それにしても骨無し議員が多いのはどうしたことか。

 そういう国会状況の中で光っているのは日本共産党議員団である。いまや反安倍路線で一貫しているのは共産党のみとなっている。気がかりなのは、そういう共産党に対するメディアの姿勢が逃げ腰になってきていることである。こういう姿勢は「天に向かって唾(つば)を吐く」迷妄といえるのではないか。十分に心したい。


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安倍政権の貧困拡大策を批判する
歪められた成長戦略にしがみつく

安原和雄
安倍首相という人物は、「お人好し」なのか、それとも「悪の権化」なのか、その評価、判断は分かれるかも知れない。しかし首相自身の言動から判断する限り、一見「お人好し」のように見えるが、本性は決してそうではない。「悪の権化」と評しても見当違いとはいえないだろう。
それは安倍政権の軍事力強化路線のみを意味しない。経済政策分野でも多くの大衆にとっては貧困拡大策の押しつけであり、雇用の分野では「残業代ゼロ」などの人間尊重とは無縁の発想が浮かび上がってきている。安倍政権の歪められた成長戦略はどこまで広がるのか。(2014年6月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

安倍政権は2014年6月24日、「経済財政運営と改革の基本方針2014」(「骨太の方針」)と「新成長戦略」を閣議決定した。法人実効税率(現在約35%)を数年で20%台へ引き下げること、来年(2015年)10月に消費税率(現行8%)を10%へ引き上げること、さらに雇用分野で「残業代ゼロ」となる「新たな労働時間制度」の創設などを目指している。
以上のような「骨太の方針」について新聞社説はどう論じたか。

まず大手紙社説(25日付)の見出しを紹介する。なお朝日社説は27日までのところ論じていない。
*毎日新聞=骨太の方針 今や予算獲得の方便に
*讀賣新聞=骨太の方針 成長と改革の両立が肝心だ
*日経新聞=日本経済再生へ足踏みせず改革を
*東京新聞=新成長戦略 奇策や禁じ手ばかりだ

以下、各紙社説の骨子を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

(1)毎日社説の骨子
骨太の方針のとりまとめにあたって甘利明経済再生担当相は、自民党の会議で予算獲得に向け次々と注文をつける議員に対し、「全て書き込むと、骨太の方針が<メタボ方針>になる」とぼやいたという。
優先順位をつけ、「財政のメタボ化」に歯止めをかけるのが、政治家の仕事ではないか。それが今や、政策項目を盛りこめば、来年度予算に計上される流れになっている。予算獲得の方便として使われるようでは、骨太の方針を策定する意味がない。昨夏公表された中期財政計画は、空証文に終わった。今回の骨太はさらに後退し、怠慢と言わざるを得ない。

<安原のコメント>財政のメタボ化
たしかにメタボ化は歓迎できない。人間の場合、決して健康体とは言えないだろう。しかし「財政のメタボ化」とは具体的に何を意味するのか。肝心なことは平和憲法の理念、精神を忘却しないこと、さらに重視することである。安倍政権の軍事力強化路線は明らかにメタボ化につながる。
一方、生存権に関わる国民生活の充実は、メタボ化とはいえないだろう。その充実はむしろ推進すべきことである。この辺りを混同して、安倍政権の恣意的な軍事力強化路線を正当化するとすれば、それを容認することはできない。

(2)讀賣社説の骨子
安倍首相は記者会見で「成長戦略にタブーはない」と述べ、日本経済再生に向けて改革を断行する決意を強調した。中長期的な成長力向上のカギを握るのは、財政の立て直しと、人口減対策だろう。健全な財政基盤がなければ、安定した政策運営ができない。人口は消費や生産力の源泉だ。財政と人口という日本の構造的な問題に、正面から取り組む姿勢は高く評価できる。
とはいえ、財政改革も少子化対策も、長年の課題でありながら、府省縦割りや関係団体の抵抗で、十分な成果を上げてこなかった。肝心なのは、有効な打開策を、ためらわず実行することである。政権の安定している今こそ、大胆な改革を進める好機と言える。

<安原のコメント>大胆な改革とは?
讀賣社説は「政権の安定している今こそ、大胆な改革を進める好機」と安倍政権を支援する姿勢である。「時の政権に批判の姿勢を堅持すること」がメディアの基本的姿勢であるべきだと私(安原)は考えるが、最近は必ずしもそうではなくなってきている。
「言論・思想の自由」とは国家権力(政官財の融合体)を批判する自由でなければならない。そういう批判精神が衰微すれば、あの大東亜戦争で亡びた「悲劇の日本」の二の舞をそそのかすメディアに堕しかねない。

(3)日経社説の骨子
日本経済はグローバル化と少子高齢化という大きな構造変化に直面している。1%未満の潜在成長率を底上げするには、これまでと次元が異なる大きな改革が要る。まずは法人税減税だ。政府は来年度から数年で法人実効税率(東京都の場合で36%弱)を20%台に引き下げる方針を盛った。法人税改革の一歩を踏み出したのは前進だ。先進各国の法人減税競争はとまらない。政府・与党は年末までに世界標準の法人税制をきちんと設計してほしい。
労働時間ではなく成果に応じて給与を払う新たな制度の対象者は「少なくとも年収1000万円以上」としたが、あまり狭めないでほしい。いまは原則65歳以上である年金の受給開始年齢の引き上げや医療費の抑制策も待ったなしだ。

<安原のコメント>痛みを伴う「効率化路線」
日経社説の要点は「法人税制を世界標準に合わせること」、もう一つは「社会保障の効率化急務」である。その目指すところは何か。
次のように指摘している。「日本経済はようやくデフレからの脱却が視野に入ってきたとはいえ、潜在成長率を押し上げていくには普段の努力要る。日本経済の真の再生に向け改革の足踏みは許されない」と。確かに企業にとってはこの処方箋は歓迎できるだろう。しかし経済を根底から支える庶民にとってはむしろ痛みを伴う「効率化路線」にならないだろうか。

(4)東京新聞社説の骨子
財政危機だと国民には消費税増税を強いながら、財源の裏付けもない法人減税を決める。過労死防止が叫ばれる中、残業代ゼロで長時間労働につながる恐れが強い労働時間規制緩和を進める。国民の財産の年金資金による株価維持策という禁じ手まで使うに及んでは株価上昇のためなら何でもありかと思わざるを得ない。日々の株価に一喜一憂する「株価連動政権」と揶揄(やゆ)されるゆえんである。
新しい成長戦略は「企業経営者や国民一人ひとりが自信を取り戻し、挑戦するかどうかにかかっている」と最大のポイントを挙げている。しかしこの成長戦略でどうやって国民は自信を取り戻し、未来を信じればいいのか。

<安原のコメント>「人間尊重」の精神を
東京新聞社説は次のようにも指摘している。「原発再稼働を目指し、トップセールスと称して原発や武器を世界に売り歩き、今度はカジノ賭博解禁に前のめりだ。どうして、こんな奇策ばかり弄(ろう)するのか。正々堂々と経済を後押しし、国民が納得する形の成長戦略でなければ、いずれ破綻するであろう」と。
言い換えれば、経済政策として「人間尊重」をどこまで広げることができるかが重要である。しかし安倍政権には「人間尊重」の精神は無縁らしい。安倍政権が人間尊重の心配りを軽視し続ければ、やがて安倍政権の瓦解につながる。宰相たる人物はそのことを自覚しなければならない。。


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「戦争国家」への道をひた走る
集団的自衛権に積極的な安倍政権

安原和雄
 安倍政権は、他国(米国)を守るために自衛隊が海外で戦争できる日本に変質させることを目論んでいる。戦後日本の特質であった「平和国家」という表看板を外して、対外戦争をも躊躇しない「戦争国家」へ急旋回させつつあるのだ。
憲法9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきで、自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。このように従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。(2014年5月18日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 集団的自衛権について大手5紙の社説(5月16日付)はどう論じたか。その見出しと社説の趣旨を以下に紹介する。まず見出しは次の通り。
*朝日新聞=集団的自衛権 戦争に必要最小限はない
*毎日新聞=集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ
*讀賣新聞=集団的自衛権 日本存立へ行使「限定容認」せよ グレーゾーン事態法制も重要だ
*日経新聞=憲法解釈の変更へ丁寧な説明を
*東京新聞=行使ありきの危うさ 「集団的自衛権」報告書

各紙社説でしばしば言及される「集団的自衛権」とは、東京新聞社説によれば、次のような含意である。
例えば、米国に対する攻撃を、日本が直接攻撃されていなくても反撃する権利である。政府は国際法上、権利を有しているが、その行使は憲法九条で許される実力行使の範囲を超える、との立場を堅持してきた。この権利は、1945年の国際連合憲章起草の際、中南米諸国の求めで盛りこまれた経緯がある。国連に報告された行使の事例をみると、米国などのベトナム戦争、旧ソ連のハンガリー動乱やプラハの春への介入など、大国による軍事介入を正当化するものがほとんどだ。

以下、各紙社説の骨子を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

(1)朝日新聞社説
集団的自衛権の行使を認めるには、憲法改正の手段を取らざるを得ない。歴代内閣はこうした見解を示してきた。安倍氏が進めようとしているのは、憲法96条に定める改憲手続きによって国民に問うべき平和主義の大転換を、与党間協議と閣議決定によって済ませてしまおうというものだ。憲法に基づいて政治を行う立憲主義からの逸脱である。弊害は余りにも大きい。
まず、戦争の反省から出発した日本の平和主義が根本的に変質する。日本が攻撃されたわけではないのに、自衛隊の武力行使に道を開く。これはつまり、参戦するということである。集団的自衛権を行使するかしないかは、二つにひとつだ。首相や懇談会が強調する「必要最小限なら認められる」という量的概念は意味をなさない。日本が行使したとたん、相手にとって日本は敵国となる。また解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許すことにもなる。国民主権や基本的人権の尊重といった憲法の基本的原理ですら、時の政権の意向で左右されかねない。法治国家の看板を下ろさなければいけなくなる。

<安原のコメント>平和主義の根本的な変質
朝日社説には重要な視点が二つある。一つは日本の平和主義の根本的な変質である。日本が攻撃されたわけではないのに武力行使に道を開く。いいかえれば「戦争好き」がのさばるということだ。もう一つは「内閣が憲法を支配する」という逆立ち現象が広がることだ。具体的には「国民主権や基本的人権の尊重」という基本的原理が時の政権によって踏みにじられる。「政治は国民のためにある」という本来の姿からの転落である。そういう政治を容認するわけにはいかない。

(2)毎日新聞社説
憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきだ。自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。つまり集団的自衛権行使を認めてこなかった。
「安全保障の法的基盤の再構築」に関する首相の私的懇談会(安保法制懇)報告書は、この解釈を180度変更し、必要最小限度の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈することによって行使を認めるよう求めた。これは従来の憲法解釈の否定であり、戦後の安全保障政策の大転換だ。それなのになぜ解釈を変えられるのか肝心の根拠は薄弱だ。報告書では憲法の平和主義が果たしてきた役割への言及は極端に少なく、まるで憲法を守って国を滅ぼしてはならないと脅しているようだ。

<安原のコメント>集団的自衛権は破滅への道
集団的自衛権とは、自国が攻撃されていないのに他国、例えば米国を守るために自衛隊が海外で武力行使できることを意味する。これは日本国平和憲法の本来の理念に反することは明らかである。これでは「戦争屋」集団ともいうべき乱暴な日本国に海外から尊敬どころか、猜疑心に満ちた眼を注がれることになるだろう。軍事力を背にした強がりは、国内はもちろん海外からも決して尊敬を集める姿勢とはいえず、むしろ破滅への道である。強面(こわもて)がまかり通る時代ではもはやない。

(3)讀賣新聞社説
日本の安全保障政策を大幅に強化し、様々な緊急事態に備えるうえで、歴史的な提言である。首相は記者会見し、「もはや一国のみで平和を守れないのが世界の共通認識だ」と強調した。在外邦人を輸送する米輸送艦に対する自衛隊の警護などを例示し、集団的自衛権の行使を可能にするため、政府の憲法解釈の変更に取り組む考えも表明した。その方向性を改めて支持したい。報告書は、北朝鮮の核実験や中国の影響力の増大など、日本周辺の脅威の変化や軍事技術の進歩を踏まえ、個別的自衛権だけの対応には限界があり、むしろ危険な孤立を招く、と指摘した。
さらに周辺有事における米軍艦船の防護や強制的な船舶検査、海上交通路での機雷除去の事例を挙げ、集団的自衛権を行使できるようにする必要性を強調している。こうした重大な事態にきちんと対処できないようでは、日米同盟や国際協調は成り立たない。偽装漁民による離島占拠など、武力攻撃に至らない「グレーゾーン事態」について報告書は平時から「切れ目のない対応」を可能にするよう法制度を充実すべきだと主張している。

<安原のコメント>讀賣は集団的自衛権を支持
考え方の是非を考慮外に置けば、意見、主張の多様性はむしろ歓迎できる。個人それぞれの生き方に視野を限定すれば、多様性はむしろそれぞれの個性の発露であり、批判すべきことではない。しかし一国の針路、望ましい姿となれば、「私の勝手でしょ」というわけにはゆかない。300万人を超える日本人犠牲者を出したあの大東亜戦争(=太平洋戦争)は悲劇そのものであり、これを繰り返すことは許されない。集団的自衛権を安易に持ち上げるのは厳に慎みたい。それがメディアの歴史的、社会的責任とはいえないか。

(4)日経新聞社説
安倍首相が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にする方向で「政府としての検討を進める」と正式表明した。日本の安保政策の分岐点となり得る重大な方向転換だ。幅広い国民の理解を得られるように丁寧な説明、粘り強い対話を求めたい。報告書は「わが国を取り巻く安保環境はわずか数年の間に大きく変化した」と指摘した。東シナ海や南シナ海での中国の振る舞い、北朝鮮の挑発的な言動などを例示するまでもなく、うなずく国民は多いだろう。
さらに報告書は「一方的に米国の庇護(ひご)を期待する」という冷戦期の対応は次代遅れだと強調し、新たに必要な法整備を進めるべきだと訴えている。財政難の米国に単独で世界の警察を努める国力はもはやない。内向きになりがちな米国の目をアジアに向けさせるには、日本も汗を流してアジアひいては世界の安定に貢献し、日米同盟の絆を強める努力がいる。日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか。こうした議論を重ねれば合意に至る道筋は必ずみつかるはずだ。

<安原のコメント>腰の定まらない日経社説
日経社説は集団的自衛権については悩んでいるらしい。末尾の「日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか」と両説を並べるにとどめて、独自の判断、主張を避けている。「物言(ものい)えば唇(くちびる)寒し」を決め込んでいるのか。腰の定まらない日経社説という印象をぬぐえない。これでは解説記事ではあっても、主張する社説とは言いにくいのではないか。

(5)東京新聞社説
戦争放棄と戦力不保持の憲法九条は第二次世界大戦での三百十万人に上る尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなるまい。その九条に基づいて集団的自衛権の行使を認めないのは、戦後日本の「国のかたち」でもある。一九八一年に確立したこの憲法解釈を堅持してきたのは、ほとんどの期間政権に就いていた自民党中心の歴代内閣にほかならない。国会での長年の議論を経て「風雪に耐えた」解釈でもある。それを一内閣の判断で変えてしまっていいはずがない。
もし集団的自衛権を行使しなければ、国民の命と暮らしを守れない状況が現実に迫りつつあるのであれば、衆参両院での三分の二以上の賛成による改正案発議と国民投票での過半数の賛成という手続きに従い、憲法を改正するのが筋である。そうした正規の手続きを経ない「解釈改憲」が許されるのなら、憲法は法的安定性を失い、憲法が権力を縛るという立憲主義は形骸化する。それでは法の支配という民主主義国家共通の価値観を共有しているとは言えない。安保法制懇のメンバー十四人は外務、防衛両省の元事務次官ら外交・安全保障の専門家がほとんどだ。憲法という国の最高法規への畏敬の念と見識を欠いていたのではないか。

<安原のコメント>解釈改憲は「正気の沙汰」なのか
同じ自民党政権でありながら、なぜこれほど異質なのか。従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。果たして「正気の沙汰」なのか。安倍首相は幼いころ、祖父の岸信介が首相だったころ、首相官邸で三輪車に乗りながら「アンポ・ハンタイ」と叫んでいたというエピソードがある。官邸前でデモ隊が「アンポ反対」を叫ぶのを真似しておもしろがっていたのだ。その孫を岸が「アンポ賛成」と言いなさいと叱ったというが、それから半世紀を経た今、日本の政治は安倍政権の下で急速に悪化しつつある。


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もはや米国は「世界のリーダー」失格
日本は対米従属国家から脱するとき

安原和雄
今回の日米首脳会談(安倍・オバマ会談)は日米同盟と環太平洋経済連携協定(TPP)問題が主要なテーマとなったが、ここでは日米同盟を中心に取り上げる。従来型の強固な日米同盟関係の変容が始まった。必ずしもかつてのように足並みが一致しているわけではない。特に安倍政権になってからその一枚岩的協調関係が変化しつつある。
 もはや米国は世界のリーダーとしての大国とはいえない。世界を牛耳る力量を失いつつあるからである。しかし米国に代わる新しい世界のリーダーの登場を期待するのは時代遅れの感覚と言うべきである。中国にひそかな意図があるかも知れないが、期待するわけにはいかない。そこで日本に求められるものは何か。遠からず日米安保体制を解消し、米軍に巨大な軍事基地を提供する対米従属国家から脱して、新生日本をどう築いていくかが緊急の課題となってくるだろう。(2014年4月28日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽新聞社説はどう論じたか

 大手紙社説(4月25日付)は日米同盟をめぐる日米首脳会談をどの様に論評したのか。各紙の見出しを紹介する。
*朝日新聞=日米首脳会談 アジアの礎へ一歩を
*毎日新聞=日米首脳会談 地域安定への重い責任
*讀賣新聞=中国念頭に強固な同盟を築け TPP合意へ 一層歩み寄る時だ
*日本経済新聞=アジアの繁栄支える日米同盟に
*東京新聞=尖閣「安保」適用 対中信頼醸成に力点を

 以下、各紙社説(骨子)を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
(1)朝日社説
 極めて異例の会談だった。日米首脳会談は、環太平洋経済連携協定(TPP)の協議がととのわず、共同記者会見に合わせて共同声明を発表するにはいたらなかった。一方、安全保障分野に限れば、首相は大統領からほぼ望み通りの「お墨付き」をもらったということなのだろう。だが大統領の発言の主眼は、日本側の期待とは少しずれていた。大統領は語った。「私が強調したのは、この問題を平和的に解決することの重要性だ。日本と中国は、信頼醸成措置を取るべきだ」と。首相がいくら米国との同盟をうたいあげようと、中国との間に太い一線を引いたままではアジア太平洋地域の安定はあり得ない。米国との関係にひとつの区切りをつけたいま、近隣諸国との関係改善への一歩は、安倍氏から踏み出さねばならない。

<安原のコメント>=安倍首相への懸念
 「極めて異例の会談だった」という朝日社説の書き出し自体が社説としては極めて異例といえるのではないか。朝日新聞流の安倍政権への懸念を率直に表明したものなのだろう。朝日新聞は経済社説では安倍政権に近いような印象があるが、政治社説ではかなり批判的である。「首相がいくら米国との同盟をうたいあげようと、中国との間に太い一線を引いたままではアジア太平洋地域の安定はあり得ない」という指摘は大手他紙にはうかがえない視点で、適切である。新聞社説は権力批判を軽視してはならない。政権支持を打ち出すようでは「メディアの自殺」と評しても過言ではない。

(2)毎日社説
 中国が軍備を拡張し、尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海で海洋進出を拡大させていることに対し、日米同盟の抑止力が強化されることを評価し、歓迎したい。日本にすれば、尖閣周辺での領海侵入など中国側の挑発的行動にさらされている同盟国に対し、米国の理解は不十分に見えた。日米同盟が漂流しかねない危機感がささやかれる状況で、対中政策でも日米の緊密な連携が確認されたことは有意義だ。日米同盟を強化し、中国の挑発的行動を抑止することは必要だ。だがそれだけでは十分とはいえない。中国との間で不測の事態を招かないような外交努力が肝心だ。日本は日米同盟強化で中国に対抗するだけでなく、大局的視点に立って、アジア安定に努力する必要がある。

<安原のコメント>=抑止力強化志向は疑問
 どうも最近の毎日新聞社説は安倍政権に肩入れしようという姿勢が目立つ。その典型例は「中国が軍備を拡張し、尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海で海洋進出を拡大させていることに対し、日米同盟の抑止力が強化されることを評価し、歓迎したい」という社説の認識である。明らかに朝日社説とは対照的な姿勢を打ち出している。このような日米同盟の抑止力強化志向は「場合によっては軍事力行使も辞さず」という姿勢である。国家権力に向かって危険な火遊びをそそのかすような主張は禁物である。日本国憲法の平和理念を学習し、再認識する必要があるだろう。

(3)讀賣社説
 安倍政権の「積極的平和主義」と、米オバマ政権のアジア重視のリバランス(再均衡)政策が、相乗効果を上げることが肝要である。日米両政府は緊密の政策調整すべきだ。注目すべきは、オバマ大統領が尖閣諸島について「日米安保条約第5条の適用対象となる」と初めて明言し、対日防衛義務の対象と認めたことである。日本外交の大きな成果と言えよう。大統領は会談で、安倍政権による集団的自衛権の憲法解釈の見直しを歓迎し、支持した。憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にすることは、日米同盟を強化するうえで、極めて有効な手段となろう。政府・与党は、来月の有識者懇談会の報告書を踏まえ、必要最小限の集団的自衛権に限って行使を容認する「限定容認論」の合意形成を急がねばならない。

<安原のコメント>=好戦派が唱える集団的自衛権
 讀賣社説で軽視できないのは「憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にすることは、日米同盟を強化するうえで、極めて有効な手段となろう」という主張である。集団的自衛権という安全保障概念が最近盛んに軍事専門家の間で飛び交っている。テレビでもしばしば放映される。これは分かりやすく言えば、日本本土が直接攻撃されなくとも、軍事同盟の米国が攻撃される場合、これを日本自衛隊が軍事行動によって助けるという軍事概念である。好戦派が最近しきりに主張している。平和憲法の根本理念に反するだけではない。巨大な悲劇を避けるためにも幼児のような危険な火遊びは厳に慎みたい。

(4)日経社説
 アジア太平洋地域にとっていちばんの課題は、中国の台頭を受け止め、地域の安定と成長に向けた協力を引き出していくことだ。そのためには日米が結束し、中国に向き合っていくことが大切である。安倍首相とオバマ大統領の会談は。その意味で成果があった。両首脳は日米同盟をさらに深めていくことで一致し、安全保障から経済まで幅広い分野で協力を強める道筋を敷いた。安全保障分野では目に見える進展があった。とりわけ大きいのは、尖閣諸島をめぐり、日米が結束を強めたことだ。中国は尖閣諸島への揺さぶりを続けている。この状況を踏まえ、米大統領として初めて、尖閣諸島には日米安保条約が適用されると表明した。米軍の最高司令官である大統領が言明した重みはとても大きい。

<安原のコメント>=日経紙のはしゃぎすぎ
 「はしゃぐ」(燥ぐ)という日本語がある。「調子にのってふざけ騒ぐ」という意だが、日経社説を読みながら、失礼ながらこの言葉を想い出した。「米大統領として初めて、尖閣諸島には日米安保条約が適用されると表明した。米軍の最高司令官、大統領が言明した重みはとても大きい」という指摘を目にしたときである。大統領の発言にそこまではしゃぐ必要が果たしてあるだろうか。米軍によるかつてのベトナム侵略と、その挙げ句の果ての敗退は、歴史に残る傲慢な悲劇そのものといえる。仮にもその愚を繰り返すようでは米大統領には新しい正当な歴史を創出する能力、見識は期待薄という認識が世界中に広がらないだろうか。

(5)東京社説
 大統領は首脳会談後の記者会見で「日本の施政下にある領土、尖閣も含めて安保条約第5条の適用対象となる」と述べた。尖閣が条約適用の対象だと明言した米大統領はオバマ氏が初めてだという。同5条は「日本国の施政下にある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃」に「共通の危険に対処するように行動する」ことを定める。首相は会談で「集団的自衛権の行使」の容認に向けた検討状況を説明し、大統領は「歓迎し、支持する」と述べたという。集団的自衛権の問題は国論を二分する大問題である。米大統領の支持という「外圧」を、憲法改正手続きを無視した「解釈改憲」の正当化に悪用してはならない。

<安原のコメント>=批判精神を取り戻すとき
 東京新聞社説の次の指摘に注目したい。<集団的自衛権の問題は国論を二分する大問題である。米大統領の支持という「外圧」を、憲法改正手続きを無視した「解釈改憲」の正当化に悪用してはならない>と。問題の本質をついた正当な指摘と言うべきである。残念なのは東京新聞以外の社説がなぜもっと的確な論説を掲げないのか、である。それが不思議なのである。国家権力への気兼ね、遠慮でもあるのか。これではかつての大東亜戦争中に全面的に戦争推進に協力する翼賛新聞へと堕した時代が再現されないという保障はない。日米安保依存症を克服しようという感覚と無縁であり続けるようでは、時代認識が古すぎる。本来のジャーナリズムの批判精神を取り戻して欲しい。「メディアの自殺」は何としても避けたい。


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17年ぶりの消費増税と新聞社説
批判の視点を失わない東京新聞

安原和雄
 17年ぶりの消費増税である。これを大手紙社説はどう受け止めているのか。残念ながら増税容認の姿勢が多数である。明確な批判の姿勢を堅持しているのは東京新聞のみである。讀賣と日経は以前から国家権力の側に身を寄せてきたので、いまさら驚かないが、わが目を疑うほかないのは、朝日の変質ぶりである。かつての批判精神はどこへ消え失せたのか。残念というほかない。
 安倍政権の対米従属と軍事力増強、つまり右傾化路線を支えるのが増税にほかならない。だから日本の今後の針路を左右するのは増税を容認するかどうかにかかっている。財政難という国家権力側の言い訳に誤魔化されないようにしたい。(2014年4月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 社説掲載日は2014年3月末から4月初めまでで、一様ではない。掲載日順に社説の見出しを以下、紹介する。
*毎日新聞(3月30日)=消費税8%へ 増税の原点、再確認せよ
*讀賣新聞(3月31日)=あす消費税8% 社会保障安定への大きな一歩
*日経新聞(同  上)=17年ぶり消費増税、転嫁着実に乗り切れ
*朝日新聞(4月1日)=17年ぶり消費増税 改革の原点に立ち返れ
*東京新聞(同  上)=国民の痛みに心を砕け きょうから消費税8%


 以下では東京新聞の社説(大意)を 紹介し、私(安原)の感想を述べる。。

 消費税率が8%に引き上げられた。物価が上昇する中、社会保険料などの負担増も相次ぐ。景気対策ばかりでなく、弱者対策にもっと目配りすべきだ。
 目いっぱい詰まったレジ袋を三つ四つ抱えるお年寄りも目についた。高額の家電製品やブランド品ばかりでなく、こうした十円単位の節約につなげる生活品のまとめ買いは、十七年ぶりの消費税引き上げに身構え、わずかでも生活防衛をとの切実な思いが伝わってくる。

◆本格的な負担増時代
 消費税率3%の引き上げで国民負担は約八兆円増える。これまでの税制改正は増税と減税をセットで行い、痛みを和らげるのが基本であった。しかし、今回は所得税などの減税はなく、増税のみだ。
 それだけではない。厚生年金の保険料率は毎年上昇し、国民年金の保険料も上がる。復興増税として十年間、住民税に年一千円の上乗せも始まる。一方で、公的年金の支給額が0・7%引き下げられる。円安で広く物価が上がってきたところに追い打ちをかける負担増の数々である。

 消費税は所得が低い人ほど負担が重くなる逆進性が特に問題だ。みずほ総合研究所の試算で、年収三百万円未満世帯は今回の増税で年間の消費税負担は約五万七千五百円増え約十五万三千円となる。
 収入に対する負担率は6・5%に上昇、年収六百万~七百万円未満世帯の3・9%、年収一千万円以上世帯の2・7%を大きく上回る。負担率の格差は、税率が上がるほど拡大する。
 低所得者の増税負担を和らげるため、住民税がかからない人に現金一万~一万五千円を配るが、この程度の給付一度きりでは「焼け石に水」である。

◆でたらめの景気対策
 政府の対応を見るかぎり、重視するのは弱者への配慮よりも、もっぱら景気の先行きであり、いかに消費税率10%へ再増税する環境をつくるかだと思ってしまう。

 政府は、増税前の駆け込み需要の反動減で景気の落ち込みは避けられないとして、二〇一三年度補正予算で五・五兆円もの景気対策を決めた。いわば「増税のために巨額の財政出動をする」という泥縄対応の愚かさもさることながら、許せないのはその中身である。政府の行政改革推進会議が一四年度当初予算の概算要求から「無駄」と判定した事業の多くを補正予算で復活させていた。

 こんなでたらめな予算の使い方をするのは、消費税収で財源に余裕が生まれると判断したためだ。これでは何のための増税かというのが国民の率直な思いであろう。

 そもそもが大義のない増税であった。天下りするシロアリ官僚の排除や国会議員の定数大幅削減など国民に増税を強いる前提だった「身を切る」約束も実行していない。増税の目的であった社会保障制度改革は、所得など負担能力に応じて給付削減といった抜本的見直しが必要なのは明らかなのに議論の先行きは不透明なままだ。

 「先に増税ありき」の財務省の論理にのるから次々と齟齬(そご)を来す。今また、来年十月に消費税率を10%に引き上げる「次なる増税」を確かなものにしようと財務省は躍起である。

 前回一九九七年の3%から5%への引き上げでは、景気が大失速し、今に続く「十五年デフレ」のきっかけとなった。
 景気の腰折れを防ぎ、デフレ脱却を急ぐことに異論はないが、増税でかえって財政規律が緩む現政権の経済政策をみせられると、景気対策の名の下に公共事業の大盤振る舞いや政官業癒着で予算を食いものにする「何でもあり」がまかり通りそうだ。これは納税者への裏切り行為以外の何ものでもない。

 アベノミクスは勢いを失いつつあり、景気の失速懸念が強まると日銀の追加金融緩和が予想される。その時、財政規律に疑念が生じれば、意図せぬ金利上昇を招きかねないし、無理に増税を断行すれば、消費不況から景気腰折れ、デフレ悪化のリスクに直面する。でたらめの財政運営が許される状況ではない。

◆10%の判断は慎重に
 安倍政権は企業活動を活性化させることで経済成長を目指すが、格差や貧困などへの目配りがなさすぎる。消費税増税の対応には、それが如実に表れている。
 10%への引き上げは慎重にすべきだ。今回の増税後の経済情勢を踏まえ、時期や税率の引き上げ幅、低所得者や年金生活者への配慮を十分に検討する。GDP(国内総生産)の数値だけでなく、声なき声に耳を傾け、国民の痛みに心を砕いてほしい。

<安原の感想>朝日新聞と対照的な東京新聞の批判的姿勢
 「きょうから消費税8% 国民の痛みに心を砕け」という東京新聞社説の見出しは分かりやすい。民衆に寄り添い、国家権力を批判するのが本来のジャーナリズム精神であるだろう。東京新聞社説はそういう批判的視点を見失っていない。これと対照的なのが朝日新聞社説とはいえないか。国民は苦難に耐えなければならない、と言いたいらしい。「忍耐と我慢」を強いるお説教である。

 朝日社説はつぎのように指摘している。
・消費税率が、5%から8%に引き上げられた。国民にとっては、つらい負担増である。だが、借金漬けの日本の現状を考えればやむを得ない選択だ。
・先進国の中で最悪の水準に落ち込んだわが国の財政難を考えれば、増税と予算改革を同時並行で進めるしか道はない。
・膨れあがった予算を抜本的に見直し、削減につなげる。それが消費税率を10%に上げる前提である。

 ほんのちょっぴり政府への批判的視点をのぞかせながら、要するに増税やむなし、を説いている。以前の朝日社説は批判的姿勢を失っていなかったように想うが、国家権力への批判精神を衰微させる新聞メディアに未来はない。朝日新聞に限らない。マスメディアにとって深刻な試練の時である。


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集団的自衛権の行使容認に反対
メディア、弁護士集団の主張は

安原和雄
 日本は歴史的な大きな岐路に差しかかっている。安倍首相の乱暴な姿勢が浮かび上がってくる。いや、正気とは思えない所作が突出さえしている。集団的自衛権の行使容認になりふり構わぬ意気込みである。戦争屋へ向かって一直線という風情さえ感じさせる。
明言しておきたいが、集団的自衛権の行使容認にはどこまでも「反対」の姿勢を打ち出すほかない。どうやら安倍首相は「独裁者」を自任しているのではないか。とんでもない思い上がりと言うべきである。安倍路線に対して新聞などメディアの批判力、さらに正義を貫く弁護士集団の対抗力が期待される。その主張に心ある多くの国民大衆の願望が集まっていることを忘れないようにしたい。(2014年2月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 新聞社説は集団的自衛権をどう論じているか

社説の大意を紹介し、安原のコメントをつける。なお以下の「*憲法解釈変更をめぐる議論」などの小見出しは安原が付した。

(1)毎日新聞社説(2月12日付)「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」
 
*憲法解釈変更をめぐる議論
 集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更をめぐる議論が、国会で始まった。安倍政権は集団的自衛権を行使できるとした上で、政権の政策判断や関係する法律、国会承認によって歯止めをかけ、限定的に行使する方針を今国会中にも閣議決定するとみられている。
 しかし、安倍政権の外交姿勢や歴史認識を見ていると、いったん集団的自衛権の行使を認めてしまえば、対外的な緊張を増幅し、海外での自衛隊の活動が際限なく拡大され、憲法9条の平和主義の理念を逸脱してしまうのではないか、との危惧を持たざるを得ない。

<安原のコメント> 「今は」への懸念
社説の見出しとなっている「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」の「今は」の表現に懸念を抱かないわけにはいかない。なぜ「集団的自衛権の行使 踏み出すべきではない」と期限つきではなく明示できないのか。「今は」の真意は何か。「やがて状況の変化のため集団的自衛権行使もあり得る」という含みを残しているのだろうか。
 さらに末尾の「平和主義の理念を逸脱」への「危惧」は当然のことであり、だからこそ「集団的自衛権行使」は「今は」ではなく、「どこまでも」批判しなければならない。

*「積極的平和主義」という基本理念
 私たちは、冷戦期とも冷戦後とも異なる複雑な時代を生きている。2010年代に入って中国の経済的・軍事的な台頭が顕著になり、米国から中国へのパワーシフト(力の変動)が進行している。日本や国際社会を取り巻く脅威の内容も大量破壊兵器や弾道ミサイルの拡散、テロ、サイバー攻撃など多様化している。
 こうした安全保障環境の変化を踏まえ、安倍政権は、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」を基本理念に掲げた。積極的に国際社会の平和と安定に寄与することにより、日本の平和と国益を守るという。集団的自衛権の行使容認もそのために必要なことだと位置づけられている。

 安保環境変化への安倍政権の問題意識は、私たちも理解する。日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう。安倍政権には中国の軍備拡張や海洋進出に対する日米同盟の抑止力を強化する狙いもあるようだ。
 だが、さまざまな観点から私たちは、集団的自衛権の行使容認に今踏み出すべきではないと考える。

<安原のコメント>集団的自衛権行使容認は疑問
 「日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう」という上記社説の指摘は曖昧である。これでは「理解しながら批判するという曖昧な姿勢」がやがて「容認」へと前のめりになっていく懸念を否定できない。集団的自衛権行使を容認する安倍政権を徹底的に批判する必要がある。そうでないと新聞メディアの弱腰が戦前の昔、戦争体制の大政翼賛会に引きづり込まれていった、あの悲惨な歴史的現実を再現させる恐れがある。多くの犠牲者を出した受け容れがたい歴史を繰り返してはならない。

*安倍晋三首相の私的懇談会の議論
 集団的自衛権行使が想定される具体例として、公海上で自衛隊艦船の近くで行動する米軍艦船の防護、米国向け弾道ミサイルの迎撃、シーレーン(海上交通路)の機雷除去、周辺有事の際の強制的な船舶検査(臨検)などがあがっている。「今の憲法解釈のままでは、こうしたこともできない」事例として集められたものだ。
 だが現実には、これらの活動だけを限定して行うのは難しい。戦闘地域で機雷除去や臨検を行えば、国際法上は武力行使と見なされる。他国軍から反撃され、双方に戦死者が出ることも覚悟しなければならない。
 地理的な範囲に制約がないことも問題だ。日本近海や朝鮮半島の有事だけでなく、ハワイやグアムの米軍基地が攻撃されたり、南シナ海のフィリピン沖で紛争が起きたりした場合にも、米軍とともに戦うことが可能になる。海外派兵を禁じてきた憲法9条は骨抜きになるだろう。

<安原のコメント>憲法9条骨ぬきに性根を据えて対処を
 安倍首相の狙いは、社説が指摘しているように平和憲法を骨抜きにすることにある。ずばりそれを狙っていると言わざるを得ない。つまりは海外派兵を禁じてきた憲法9条の骨抜きにほかならない。具体的には日本近海、朝鮮半島にに限らず、ハワイから南シナ海のフィリピン沖に至るまで自衛隊の海外派兵によって米軍とともに戦うことが可能になる。「平和日本」から「戦争ニッポン」への質的変貌である。この質的転換をどう阻止していくか、反戦と平和、そしてささやかな幸せを希求する日本国民の力量が試されることになるだろう。性根(しょうね)を据えて対処するときである。

(2)朝日新聞社説(2月15日付)「集団的自衛権 聞き流せぬ首相の答弁」

*首相はあまりにも乱暴だ。
 安倍首相の「立憲主義」や「法の支配」への理解は、どうなっているのだろうか。
 集団的自衛権をめぐる国会審議で、こんな疑問をまたもや抱かざるを得ない首相の答弁が続いている。
 日本国憲法のもとでは集団的自衛権の行使は認められない――。歴代内閣のこの憲法解釈を、安倍内閣で改めようというのが首相の狙いだ。
 歴代内閣は一方で、情勢の変化などを考慮するのは当然だとしつつも、「政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではない」との見解を示してきた。

 この矛盾にどう答えるか。野党議員からの問いに、安倍首相は次のように答えた。
 「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任をもって、そのうえで私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは、内閣法制局長官ではない。私だ」
 最高責任者は、確かに首相である。内閣法制局は、専門的な知識をもって内閣を補佐する機関に過ぎない。
 それでも法制局は、政府内で「法の番人」としての役割を果たしてきた。首相答弁はこうした機能を軽視し、国会審議の積み重ねで定着してきた解釈も、選挙に勝ちさえすれば首相が思いのまま変更できると言っているように受け取れる。
 あまりにも乱暴だ。

<安原のコメント>「乱暴な首相」という表現はまだ控えめ
 「大胆な首相」なら評価、尊敬にも値するが、「あまりにも乱暴」という形容は歴代の首相のなかで初めてではないだろうか。とんでもない首相を登場させたものである。「乱暴な首相」登場の背景には小選挙区制という衆院選挙制度の歪みがある。今の小選挙区制では民意を正しく反映させることはできない。先の総選挙(2012年)では自民党は43%の得票で、なんと79%の議席を確保した。これで自民党は圧勝し、第2次安倍政権が発足した。こういう選挙制度の歪みに悪乗りして安倍政権は身勝手にして乱暴な振る舞いを止めようとはしない。「乱暴な首相」と言う表現はまだ控えめと言うべきである。

*民主主義をはき違えている
 首相の言うことが通るなら、政権が代わるたびに憲法解釈が変わることになりかねない。自民党の党是である憲法改正すら不要ということになる。
 首相はまた、解釈変更の是非を国会で議論すべきだとの野党の求めも一蹴した。解釈変更は政府が判断する、その後に必要となる自衛隊法などの改正は国会で議論するからいいだろうという論法だ。
 ここでも議論が逆立ちしている。集団的自衛権の行使容認は本来、憲法改正手続きに沿って国会で議論を尽くすべき極めて重いテーマである。
 選挙で勝ったからといって厳格な手続きを迂回(うかい)し、解釈改憲ですまそうという態度は、民主主義をはき違えている。

 一連の答弁から浮かび上がるのは、憲法による権力への制約から逃れようとする首相の姿勢だ。そのことは、こうした立憲主義を絶対王制時代に主流だった考えだと片づけた先の発言からもうかがえる。
 これでは、首相が中国を念頭にその重要性を強調する「法の支配」を、自ら否定することになりはしないか。

<安原のコメント>「憲法による権力への制約」から逃れる安倍首相
 「民主主義をはき違えている」、「政権が代わるたびに憲法解釈が変わる」、「憲法の解釈変更は政府が判断する」、「法の支配を自ら否定する」など一連の首相の言動は政治家としての正常な感覚とはかけ離れている。まさに「憲法による権力への制約」からいかに逃れるかが首相の信念、行動原理となっているらしい。日本は「戦争放棄などを掲げる平和憲法」を誇りとする世界でも数少ない先進的な国柄であったはずだが、安倍首相は金銭には換えがたいこの誇りをいとも簡単に投げ捨てようと画策している。世界の疑惑を招きつつあることに首相は気づこうともしない。

▽ 集団的自衛権の行使容認に反対する日本弁護士連合会決議

 決議の全文を以下に紹介する。

 武力紛争が依然として絶え間ない国際社会において、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して国際的な平和を創造することを呼びかけた憲法前文、そして戦争を放棄し戦力を保持しないとする憲法第9条の先駆的意義は、ますますその存在意義を増している。
 当連合会は、2005年11月11日の第48回人権擁護大会における「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」、そして2008年10月3日の第51回人権擁護大会における「平和的生存権および日本国憲法9条の今日的意義を確認する宣言」において、集団的自衛権の行使は憲法に違反するものであり、憲法の基本原理である恒久平和主義を後退させ、全ての基本的人権保障の基盤となる平和的生存権を損なうおそれがあることを表明した。

 集団的自衛権とは、政府解釈によると「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。これまで政府は、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないとしてきた。
 ところが、現在、政府は、この政府解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとする方針を打ち出している。また、議員立法によって国家安全保障基本法を制定しようとする動きもある。

 しかしながら、自国が直接攻撃されていない場合には集団的自衛権の行使は許されないとする確立した政府解釈は、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)を課されている国務大臣や国会議員によってみだりに変更されるべきではない。また、下位にある法律によって憲法の解釈を変更することは、憲法に違反する法律や政府の行為を無効とし(憲法第98条)、政府や国会が憲法に制約されるという立憲主義に反するものであって、到底許されない。
 戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である。
 よって、当連合会は、憲法の定める恒久平和主義・平和的生存権の今日的意義を確認するとともに、集団的自衛権の行使に関する確立した解釈の変更、あるいは集団的自衛権の行使を容認しようとする国家安全保障基本法案の立法に、強く反対する。
 以上のとおり決議する。
 2013年(平成25年)5月31日
 日本弁護士連合会

<安原のコメント>平和的生存権の実現をめざして
 日本弁護士連合会は、なぜ集団的自衛権の行使容認に反対するのか。集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」を指している。このような集団的自衛権の行使が日本として許されないと考えるのは正しい。その理由として日本弁護士連合会決議のなかの以下の視点を重視したい。
 「戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である」からである。平和憲法の理念をどう生かすかに世界が注目している。


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首相の施政方針演説を採点する
積極的平和主義と軍事重視の姿勢

安原和雄
 首相の施政方針演説は美辞麗句で飾る高校生の演説と言っては高校生に失礼だろうか。皮肉を言っているのではない。むしろ高校生のように率直な姿勢と言えるのではないか。たとえば「可能性」という文言が多用されている。ここが従来の施政方針演説とは異質といえる。
 その半面、首相の持論である「積極的平和主義」に執着している。この積極的平和主義が演説のキーワードであり、これこそが安倍政権の目指すところである。しかも注目すべきことに積極的平和主義は明らかに日米同盟の緊密化にとどまらず、防衛体制=軍事力の強化、戦争を目指している。(2014年1月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず参考までに大手5紙の社説(1月25日付)の見出しを紹介する。主張の内容紹介は省略する。
*朝日新聞=施政方針演説 明るさの裏側には?
*毎日新聞=安倍首相演説 重要課題がそっけない
*讀賣新聞=施政方針演説 不屈の精神で懸案解決に挑め
*日本経済新聞=「経済の好循環」を言葉で終わらせるな
*東京新聞=通常国会始まる 国の針路を誤らぬよう

 さて首相の施政方針演説(1月24日)の特色は何か。
(1)演説のキーワードとなっているのが「可能性」である。可能性についてどういう文脈で指摘しているのか、その事例を以下に紹介したい。

*「不可能だ」と諦める心を打ち捨て、わずかでも「可能性」を信じて、行動を起こす。
*日本の中に眠る、ありとあらゆる「可能性」を開花させることが、安倍内閣の新たな国づくりだ。
*創造と可能性の地・東北=2020年には、新たな東北の姿を、世界に向けて発信しよう。
*復興は新たなものを創り出し、新たな可能性に挑戦するチャンスでもある。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できるはずだ。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。それを引き出す鍵は、教育の再生である。
*世界に目を向けることで、日本の中に眠るさまざまな「可能性」にあらためて気づかされる。
*高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ちあふれる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。沖縄の成長を後押ししていく。
*今年は、地方の活性化が、安倍内閣にとって最重要テーマであり、地方が持つ大いなる「可能性」を開花させていく。
*地方には、特色ある産品や伝統、観光資源などの「地域資源」がある。そこに成長の「可能性」がある。地域資源を生かして新たなビジネスにつなげようとする中小・小規模事業者を応援する。

<安原の感想>なぜ「可能性」にこだわる?
 「可能性」への前例のない執着ぶりはなぜなのか。「可能性」にこだわることが間違っていると言うのではない。それにしてもこだわり方が異常とはいえないだろうか。首相は施政方針演説で以下のように力説している。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できる。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。

 老若男女を問わず、一人ひとりが「力強い成長」の「可能性」を求めて全力疾走せよ!と号令を掛けている光景が浮かび上がってくる。まるであの60年以上も昔の敗戦と廃墟のなかで立ちすくんでいた惨めな姿を連想させる。21世紀の今、時代は大きく変わったのだ。首相が号令を掛ければ、日本国民が一丸となって疾走するとでも思っているのだろうか。そうであれば幼稚にすぎるのではないか。首相は自己を「独裁者」と勘違いしているのかも知れない。これでは失笑するほかない。

(2)演説のもう一つのキーワードは積極的平和主義である。以下のように指摘している。

*先月東京で開催した日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議では、多くの国々から積極的平和主義について支持を得た。ASEANは、繁栄のパートナーであるとともに、平和と安定のパートナーである。
*中国が、一方的に「防空識別区」を設定した。尖閣諸島周辺では、領海侵入が繰り返されている。力による現状変更の試みは、決して受け容れることはできない。引き続き毅然(きぜん)かつ冷静に対応していく。新たな防衛大綱の下、南西地域をはじめ、わが国周辺の広い海、空において安全を確保するため、防衛体制を強化していく。
*私は自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤と信じる。その基軸が日米同盟であることはいうまでもない。
*在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めていく。
*今年も地球儀を俯瞰する視点で、戦略的なトップ外交を展開していく。中国とは残念ながら、いまだに首脳会談が実現していない。しかし私の対話のドアは常にオープンである。韓国は基本的な価値や利益を共有する、最も重要な隣国である。大局的な観点から協力関係の構築に努める。

<安原の感想>積極的平和主義の落とし穴
 安倍首相は積極的平和主義を唱導している。「積極的平和主義」と「平和主義」とはどう異なるのか。従来から重視されてきた平和主義は、軍事力の支えに頼らない平和の構築をめざす政策である。現行平和憲法の前文、9条などにその理念が盛り込まれている。日米安保条約とも両立しない平和理念である。
 一方、積極的平和主義は日米安保体制下で米国と一体となって戦争に協力するという姿勢である。あるいは日本が独自に対外戦争を仕掛けるという含みである。分かりやすく言えば、安倍首相一派は戦争屋集団と名づけることもできる。戦争のための「抑止力の維持」を重視しており、決して非戦、反戦を唱導しているわけではない。だから積極的平和主義は誤解を誘導する用語であり、我ら庶民の一人ひとりとしてはその悲劇の落とし穴にはまらないように用心したい。警戒心を高めたい。


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天下の悪法・秘密保護法は許せない
奴隷への道を拒否し、権力を監視する

安原和雄
 自民、公明の与党賛成多数で成立した特定秘密保護法は天下の悪法である。なぜ天下の悪法といえるのか。戦後日本の針路を決定づけた平和憲法の理念を骨抜きにするだけではない。民主主義の根幹ともいうべき国民の「知る権利」を空洞化させ、民主主義そのものを崩壊させていく恐れがあるからだ。これは民衆、市民にとって奴隷への道といっても過言ではない。
 奴隷に甘んじる選択を受け容れるのか、それとも奴隷への道を拒否し、国家権力を厳しく監視し続けるのか。答えは二つにひとつである。言うまでもなく正当な選択は、奴隷への選択を拒否し、権力監視に努めることである。(2013年12月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 特定秘密保護法が2013年12月6日夜の参院本会議で自民、公明の与党賛成多数で可決、成立した。この成立を大手メディアはどう論評したか。まず各紙の7日付社説を紹介する。
*朝日新聞=秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙
*毎日新聞=特定秘密保護法成立 民主主義を後退させぬ
*讀賣新聞=国家安保戦略の深化につなげよ 疑念招かぬよう適切な運用を
*日本経済新聞=「知る権利」揺るがす秘密保護法成立を憂う
*東京新聞=民主主義を取り戻せ 秘密保護法が成立 

 朝日、毎日、日経、東京の4紙はいずれも秘密保護法に批判的であるが、讀賣だけは批判精神で一貫しているわけではない。むしろ安倍政権に理解を示す姿勢である。

 以下では12月7日付<東京新聞社説>の要旨を紹介し、<安原の感想>を述べる。

(1)<東京新聞社説の要旨>
 国会の荒涼たる風景に怒りを禁じ得ない。国民の代表である「国権の最高機関」で、民意が踏みにじられる異常さ。取り戻すべきは、民主主義である。

◆公約で触れぬ瑕疵
 防衛・外交など特段の秘匿が必要な「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す特定秘密保護法は、その内容はもちろん、手続き上も多くの瑕疵(かし)がある。
 まず、この法律は選挙で公約として掲げて、有権者の支持を得たわけではないということだ。
 第二次安倍政権の発足後、国会では計三回、首相による施政方針、所信表明演説が行われたが、ここでも同法に言及することはなかった。
 選挙で公約しなかったり、国会の場で約束しなかったことを強行するのは、有権者に対するだまし討ちにほかならない。
 特定秘密保護法の成立を強行することは、民主主義を愚弄(ぐろう)するものだとなぜ気付かないのか。自民党はそこまで劣化したのか。

◆国民を「奴隷」視か
 安倍内閣は国会提出前、国民から法案への意見を聴くパブリックコメントに十分な時間をかけず、反対が多かった「民意」も無視して提出に至った。
 国会審議も極めて手荒だ。
 同法案を扱った衆院特別委員会では、地方公聴会の公述人七人全員が法案への懸念を表明したにもかかわらず、与党は翌日、法案の衆院通過を強行した。
 「再考の府」「熟議の府」といわれる参院での審議も十分とは言えない。参院での審議時間は通常、衆院の七割程度だが、この法律は半分程度にすぎない。
 審議終盤、政府側は突然「情報保全諮問会議」「保全監視委員会」「情報保全監察室」「独立公文書管理監」を置くと言い出した。
 これらは公文書管理の根幹にかかわる部分だ。野党側の求めがあったとはいえ、審議途中で設置を表明せざるを得なくなったのは、当初提出された法案がいかに杜撰(ずさん)で、欠陥があったかを物語る。

 弥縫(びほう)策がまかり通るのも国政選挙は当分ないと、安倍政権が考えているからだろう。今は国民の批判が強くても衆参ダブル選挙が想定される三年後にはすっかり忘れている。そう考えているなら国民をばかにするなと言いたい。
 人民が自由なのは選挙をする間だけで、議員が選ばれるやいなや人民は奴隷となる-。議会制民主主義の欠陥を指摘したのは十八世紀の哲学者ルソーだ。

 特定秘密保護法や原発再稼働に反対するデモを、石破茂自民党幹事長は「テロ」と切り捨てた。国民を奴隷視しているからこそ、こんな言説が吐けるのだろう。
 しかし、二十一世紀に生きるわれわれは奴隷となることを拒否する。有権者にとって選挙は、政治家や政策を選択する最大の機会だが、白紙委任をして唯々諾々と従うことを認めたわけではない。

◆改憲に至る第一歩
 強引な国会運営は第一次安倍政権でも頻繁だった。この政権の政治的体質と考えた方がいい。
 首相は集団的自衛権の行使、海外での武力行使、武器輸出などを原則禁じてきた戦後日本の「国のかたち」を根本的に変えようとしている。その先にあるのは憲法九条改正、国防軍創設だ。特定秘密保護法はその第一歩だからこそ審議に慎重を期すべきだった。
 日本の民主主義が壊れゆく流れにあったとしても、われわれは踏みとどまりたい。これから先、どんな困難が待ち構えていようとも、民(たみ)の力を信じて。

(2)<安原の感想> やがて安倍政権の自己崩壊へ
 上述の東京新聞社説は以下のように社説では通常は使わない特異な表現が満載である。例えば「奴隷」という言葉が繰り返し出てくる。

・民意が踏みにじられる異常さ、有権者に対するだまし討ち
・民主主義を愚弄(ぐろう)するものだとなぜ気付かないのか
・自民党はそこまで劣化したのか
・反対が多かった「民意」も無視
・国会審議も極めて手荒だ
・当初提出された法案がいかに杜撰(ずさん)で、欠陥があったかを物語る
・弥縫(びほう)策がまかり通る
・国民をばかにするなと言いたい
・議員が選ばれるやいなや人民は奴隷となる-。議会制民主主義の欠陥を指摘したのは十八世紀の哲学者ルソーだ
・国民を奴隷視しているからこそ
・二十一世紀に生きるわれわれは奴隷となることを拒否する
・日本の民主主義が壊れゆく
・その先にあるのは憲法九条改正、国防軍創設だ

 以上の社説表現について結論を言えば、安倍政権が傲慢そのものの姿勢に終始していることを示しているのではないか。しかもその目指すところは憲法九条改正、国防軍創設である。「平和ニッポン」をこれまでとは異質の分野、すなわち「軍事力優先と戦争の日本」に導こうとしているのだ。
 だからこそ社説の結びの言葉「民の力を信じて」が生きてくる。「民」としては国家権力を信じられないとすれば、民衆の声、市民の力を信じるほかないだろう。安倍政権は、その意図に反して、実は民衆、市民の「反安倍」への結束を誘(いざな)いつつあるのだ。それがやがて安倍政権の自己崩壊につながっていく。理性も道理も忘却した暴れ者が自己破綻に陥るのに等しい。


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首相の所信表明演説が意図すること
暮らしにくい「弱肉強食の競争社会

安原和雄
安倍首相の所信表明演説が意図するものは何か。それを大づかみに理解しようと思えば、社説を読むのが手っ取り早い。といっても各紙社説は多様である。現政権への擁護論から批判派まで主張は幅広い。だから読者としての自分なりの視点が求められる。
わたし自身は東京新聞の主張に教えられるところが多い。特に<「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくい。目指すべきは「支え合い社会」>という視点に賛成したい。安倍首相の単純な経済成長推進論は幸せへの道にはほど遠い。経済成長賛美はもはやいささか陳腐すぎるとはいえないか。(2013年10月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 大手新聞社説(10月16日付)は安倍首相の所信表明演説をどう論じたか。まず各紙の社説の見出しを紹介する。

*朝日新聞=所信表明演説 1強のおごりはないか
*毎日新聞=安倍首相演説 汚染水への危機感薄い
*讀賣新聞=所信表明演説 「意志の力」を具体化する時だ
*日本経済新聞=首相は「実行なくして成長なし」を貫け
*東京新聞=首相所信表明 「意志の力」は大切だが

 以下、各紙社説の要点を紹介し、締めくくりとして安原のコメントをつける。

(1)朝日新聞=安倍首相の所信表明演説は、拍子抜けするほど素っ気ないものだった。各党とまともに議論する気があるのかどうか、疑わしい。首相がいま最も力を入れているのは、消費税率引き上げに伴う成長戦略だ。演説では「起業・創業の精神に満ちあふれた国を取り戻すこと。若者が活躍し、女性が輝く社会を創りあげること。これこそが私の成長戦略です」と打ち上げた。
 政策を前に進めることには賛成だ。だが、国民が増税などの痛みを強いられるなか、権力が集中する「1強」のおごりが見えるようでは、信は失われるだろう。

(2)毎日新聞=東京電力福島第1原発の汚染水問題に対する危機感が足りないのではないか。そんな疑問を抱く首相の所信表明演説だった。この問題を解決しない限り、首相がアピールする「成長戦略の実行」も前には進めないはずだ。首相は「日本は、もう一度、力強く成長できる」「意志さえあれば、必ずや道はひらける」と改めてプラス思考を強調した。「若者が活躍し、女性が輝く社会をつくる」という首相の言葉に異論はない。
 大事なのは「実行」であり、「作文には意味がない」とも語った。果たして目標としている労働者の賃金アップに本当につながるかどうか。結果が問われる時期が近づいている。

(3)讀賣新聞=日本経済の再生を目指す「意志」は、伝わってくるが、肝心なのは結果である。成長戦略をいかに具体化するか、政権の実行力が問われる。安倍首相は衆参両院の所信表明演説で、困難な課題を克服する「意志の力」の重要性も強調した。
 外交・安全保障の分野で首相は「積極的平和主義」の立場から国家安全保障会議(日本版NSC)の創設を急ぐ考えを示した。政府は日本版NSC設置法案の早期成立に加え、初の国家安全保障戦略や新防衛大綱の策定、集団的自衛権の憲法解釈の見直しなどを着実に進める必要がある。

(4)日本経済新聞=首相はアベノミクスで経済成長率や雇用情勢が改善した成果を示す一方で「これまでも同じような『成長戦略』はたくさんあった」と指摘。「実行なくして成長なし」と訴え、今国会で結果を出すよう呼びかけた。
 外交・安全保障政策では「積極的平和主義」の理念を掲げ、国家安全保障会議の創設や国家安全保障戦略策定の方針を打ち出した。
 日中、日韓関係に全く言及がなかった。中韓両国の国内事情もあり、ともに首脳会談が実現していないが、これでは日中、日韓関係を軽視していると誤解されかねない。

(5)東京新聞=首相が今回の演説でちりばめたのは「チャレンジ」「頑張る」「意欲」「意志の力」「実行」という言葉だ。長年のデフレから脱却し、日本経済をを再び回復基調に転じるには意欲ある人や企業を支援し、けん引役になってほしいのだろう。
 しかし「意志の力」ばかり演説で繰り返されると、心配になってくる。頑張ろうとしても頑張れない、社会的に弱い人は切り捨てられても構わないという風潮を生み出しはしないか、と。弱い人たちが軽んじられる「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくいに違いない。それは目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い。

<安原のコメント> 目指すべきは「支え合い社会」

 大手紙の社説が一番言いたいことは何か。簡潔にいえば、以下のようである。
*朝日新聞=国民が増税などの痛みを強いられるなか、権力が集中する「1強」のおごりが見えるようでは、信は失われるだろう。
*毎日新聞=大事なのは「実行」であり、果たして目標としている労働者の賃金アップに本当につながるかどうか。
*讀賣新聞=政府は、初の国家安全保障戦略や新防衛大綱の策定、集団的自衛権の憲法解釈の見直しなどを着実に進める必要がある。
*日本経済新聞=日中、日韓関係に全く言及がなかった。ともに首脳会談が実現していないが、これでは日中、日韓関係を軽視していると誤解されかねない。
*東京新聞=「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくいに違いない。それは目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い。

上記5紙の社説のうちあえてひとつだけ選ぶとすれば、東京新聞を挙げたい。他の4紙の社説もそれぞれの個性が浮き出ている。朝日は「1強」のおごりを戒め、毎日は労働者の賃金引き上げこそ重要と説く。一方、讀賣は安倍政権を支持する右派メディアらしく、集団的自衛権(日本が直接攻撃されていなくても同盟国米国と共に軍事力を行使すること)を容認する。ただし私自身は集団的自衛権行使には賛同できない。日経の「首相は日中、日韓関係を軽視している」との認識は正しい。

 さてなぜ東京新聞社説が一番評価できるのか。まず<「弱肉強食」の競争社会>への批判となっているからである。しかも安倍政権の単純な経済成長論にも疑問を提示している。何よりも<目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い>という指摘には新味がある。単純な経済成長賛美論はもはや陳腐である。ぬくもりのある「支え合い社会」をこそ目指したい。


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2014年春から消費税引き上げ
安倍政権の増税路線を批判する

安原和雄
 安倍政権は2014年春から消費税率を現行の5%から8%へ引き上げることを決めた。消費税率はやがて10%へと引き上げられる含みである。安倍政権のこの増税路線を新聞メディアはどう論じたか。大手紙社説では消費税上げを批判したのは東京新聞一紙にとどまる。これでは批判精神からかけ離れた大手紙というほかない。
 健全な批判精神を失えば、その行き着く先は国家権力との癒着であり、メディアが国家権力のお先棒を担ぐことにもなりかねない。これではメディアとしての堕落そのものともいえよう。安倍政権とその増税路線に対する正当な批判はいよいよ正念場を迎えている。(2013年10月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 政府は10月1日の閣議で2014年4月、消費税率を現行の5%から8%へ引き上げることを決めた。15年10月に予定されている消費税率10%への引き上げについては首相は「経済状況を勘案して判断時期を含めて適切に決断する」と述べた。
 大手新聞社説(10月2日付)は安倍政権の消費税引き上げ決定をどう論じたか。まず各紙の社説の見出しを紹介する。

*朝日新聞=17年ぶり消費増税 目的を見失ってはならぬ
*毎日新聞=消費税8%へ 増税の原点を忘れるな
*讀賣新聞=消費税率8%へ 景気と財政へ首相の重い決断 来春から必需品に軽減税率を
*日本経済新聞=消費増税を財政改革の出発点に
*東京新聞=増税の大義が見えない 消費税引き上げを決定

 以上5紙のうち消費税引き上げに批判的視点を打ち出しているのは東京新聞のみである。そこで他の4紙の主張は以下、簡潔に紹介し、東京新聞社説の紹介に重点を置く。

(1)朝日新聞=金額にして8兆円余り、わが国の税制改革史上、例のない大型増税である。家計への負担は大きい。それでも、消費増税はやむをえないと考える。借金漬けの財政を少しでも改善し、社会保障を持続可能なものにすることは、待ったなしの課題だからだ。
(2)毎日新聞=私たちは、増大する社会保障費と危機的な財政を踏まえ、消費増税は避けて通れない道だと主張してきた。現在の経済状況を考慮しても先送りする事情は見当たらない。増税によって、社会保障の持続可能性は高まり、財政を健全化していく第一歩となる。
(3)讀賣新聞=景気回復と財政再建をどう両立させるか。日本再生を掲げる安倍政権の真価が問われよう。デフレからの脱却を最優先し、来春の増税を先送りすべきであるが、首相が自らの責任で重い決断をした以上、これを受け止めるしかあるまい。
(4)日本経済新聞=安倍首相が予定通り消費税増税を決断した。5兆円規模の経済対策で景気を下支えしながら、5%の消費税を8%まで引き上げる。17年ぶりの消費税増税を実行し、財政再建の一歩を踏み出すことを評価したい。アベノミクスの効果もあって日本経済は着実に回復している。

(5)東京新聞=社説の大要を以下に紹介する。
 安倍晋三首相が来年四月から消費税の8%への引き上げを決めた。終始、国民不在のまま進んだ大増税は、本来の目的も変質し、暮らしにのしかかる。

*何のための大増税か
 一体、何のための大増税か。疑問がわく決着である。重い負担を強いるのに、血税は社会保障や財政再建といった本来の目的に充てられる保証はない。公共事業などのばらまきを可能とする付則が消費増税法に加えられたためだ。肝心の社会保障改革は不安が先に立つ内容となり、増税のための巨額の経済対策に至っては財政再建に矛盾する。増税の意義がまったく見えないのである。

*弱者を追い込む「悪魔の税制」
 消費税は1%で二・七兆円の税収があり、3%引き上げると国民負担は八兆円を超える。財務省にとっては景気に左右されず安定的に税収が確保できるので好都合だ。だが、すべての人に同等にのしかかるため、所得の低い人ほど負担が重くなる逆進性がある。
 さらに法人税は赤字企業には課せられないが、消費税はすべての商取引にかかり、もうかっていなくても必ず発生する。立場の弱い中小零細事業者は消費税を転嫁できずに自ら背負わざるを得ない場合がある。このままでは格差を広げ、弱者を追い込む「悪魔の税制」になってしまう。

*大企業優先の安倍政権
 消費税を増税する一方、法人税は減税を進めようというのは大企業を優先する安倍政権の姿勢を物語っている。消費税増税で景気腰折れとならないよう打ち出す経済対策も同じである。五兆円規模のうち、企業向けの設備投資や賃上げを促す減税、さらに年末までに決める復興特別法人税の前倒し廃止を合わせると一・九兆円に上る。公共事業などの景気浮揚策も二兆円である。
 国民から吸い上げた消費税を原資に、財界や建設業界といった自民党支持基盤に還流されたり、減税に充てられる構図である。過去に経済対策と銘打って公共事業をばらまき、借金を積み上げた「古い自民」の歴史を忘れてもらっては困る。このままでは社会保障の充実も財政再建もかなわないまま、消費税率だけが上がっていくことになりかねない。

*安心できる社会保障を
 安倍首相は「持続可能な社会保障制度を次の世代にしっかりと引き渡すため、熟慮の末に消費税引き上げを決断した。財源確保は待ったなしだ」と理由を述べた。
 そうであるならば、やるべきことは、安心できる社会保障制度の将来像を具体的に描き、その実現のために無駄な財政支出を徹底的に削減し、公平な負担を確立する。それなしに国民の理解は得られるとはとても思えない。

<安原のコメント> 東京新聞の消費税上げ反対は正論
 東京新聞社説のうち注目すべき主張は以下の諸点である。
*消費税は所得の低い人ほど負担が重くなる逆進性
*格差を広げ、弱者を追い込む「悪魔の税制」
*消費税を原資に、財界や建設業界など自民党支持基盤に還流されたり、減税に充てられる構図
*公共事業をばらまき、借金を積み上げた「古い自民」の復活

 以上のような視点は東京新聞以外の社説ではお目にかかれない。安倍政権の政策に批判の目を注いでいるからこそ、見えてくる疑問点といえる。他紙にこういう視点がほとんど見受けられないのは、安倍政権を批判するどころか、むしろ癒着の気風があるからではないのか。
 現政権との馴れ合いになっては世に言う「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」である。こういう喩(たと)えは、最近ではほとんど使われなくなっているらしい。参考までに辞書を引いてみると、「恋する者の目には相手のあばたでもえくぼのように見える」、言い換えれば「ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるということのたとえ」である。
 これではメディア、新聞としての基本的必要条件であるべき「権力に対する批判精神」の欠如であり、メディアの堕落というほかない。堕落から正常な道へ立ち戻るのは容易ではないことを歴史は教えている。


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沖縄の声「不戦の原点見詰めたい」
68回目の終戦記念日に考えること

安原和雄
 連日の猛暑の中で今年も終戦記念日がめぐってきた。68回目の記念日である。終戦(正確には敗戦)の昭和20年(1945年)、私は小学5年生(広島県在住)だったが、周囲の大人達の間にも「敗戦で残念」というよりも「終戦による安堵感」が漂っていたように記憶している。あれから70年近い歳月が過ぎて、状況は様変わりしつつある。
安倍政権の登場と共に好戦的姿勢が目立つのだ。戦後日本の政治、経済、社会のあり方を律してきた平和憲法を邪魔者扱いにする動きが強まっている。専守防衛の放棄、自衛隊の国防軍化、集団的自衛権行使の容認などがその具体例である。だからこそ沖縄の琉球新報紙の「不戦の原点を見詰めたい」という主張が光っている。(2013年8月17日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

主要紙の8月15日付社説は68回目の終戦記念日にどう論じたか。まず社説見出しを紹介する。
*朝日新聞=戦後68年と近隣外交 内向き思考を抜け出そう
*毎日新聞=8・15を考える 積み重ねた歴史の重さ
*讀賣新聞=終戦の日 中韓の「反日」傾斜を憂える 歴史認識問題を政治にからめるな
*日本経済新聞=戦争と平和を考え続ける覚悟を持とう
*東京新聞=68回目の終戦記念日 哀悼の誠つくされたか
*琉球新報= 終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険

 上記の6紙の社説を読んでみて、安倍政権に対する批判力、さらに今後の日本の望ましい進路について明確な主張を展開しているのは沖縄の琉球新報紙であるとの印象を得た。そこで「終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険」と題する琉球新報社説に限ってその全文を紹介し、安原のコメントをつける。

 なお琉球新報社説(8月17日付)は「加害明言せず 過去の過ちを直視せよ」と題して次のように論じていることを紹介しておきたい。
 安倍晋三首相が68回目の終戦記念日の全国戦没者追悼式の式辞でアジア諸国への加害責任を明言せず、例年の式辞にある「不戦の誓い」も文言に含めなかった。中国や韓国などアジア諸国が反発している。戦前の軍国主義日本の悪夢を呼び起こし、警戒感を抱かせたのは極めて遺憾だ、と。

▽ 安倍政権批判に徹する琉球新報社説

 琉球新報社説(8月15日付)全文は以下の通り。

 戦後68回目の終戦記念日がめぐってきた。
 だが今、戦後営々と築き上げてきた「不戦の防御壁」が音を立てて崩れつつある。政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 おびただしい命が失われ、全ての営みが灰燼(かいじん)に帰したあの惨禍から、日本は痛切な反省の末、戦争放棄の誓いを立てたはずだ。その原点を見つめ直したい。

足して2で割る
 安倍晋三首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(有識者懇)が年内にまとめる報告書で、集団的自衛権行使容認論を打ち出すのは必至だとされる。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。
 こうした憲法の大原則の変更を、改正の手続きをすることなく、国会での議論すらなく、法定の機関でもない一私的諮問機関が事実上決めてしまう。これでは日本はもはや立憲国家ですらない。

 この懇談会は第一次安倍内閣当時の2007年にも設置され、集団的自衛権行使を打ち出した。その際「公海上を並走中の同盟国軍艦への攻撃」など「4類型」をまとめ、これらを発動対象にすると掲げた。今回はこの類型も取り払う方針だ。集団的自衛権の対象国も不明確にし、いろいろな国の戦争に参加できるようにするという。米国追従にとどまらないのだ。
 おそらく、何でも発動対象だと驚かせておいて、国会審議で対象を限定することにし、「落としどころ」とするのが狙いだろう。最初に最大限の要求をふっかけておいて、さも譲歩したように見せかける。「足して2で割る」手法なのが透けて見える。
 政府はそうした術数を凝らすのではなく、行使容認の是非を正面から議論すべきだ。米国が始める戦争に無原則に付き合うのは危険すぎる。「無原則ではなく日本が主体的に判断する」と政府は言うだろうが、今の対米屈従外交の日本に「主体的」判断ができると、誰が信じられるだろうか。

「包囲網」の虚構
 最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。
 台湾と中国の航空定期便は週600便もあり、かつてないほど良好で緊密な間柄だ。ベトナムと中国は海も陸も国境が画定した。インドも画定協議推進で合意した。日本が唱える中国包囲網にくみするところなどほとんどない。辛うじてフィリピンくらいだ。
 「従軍慰安婦」の問題も含め、米国も安倍政権の姿勢に冷ややかであり、国際的に孤立しつつあるのはむしろ日本の方なのである。
 ナショナリズムをあおるのは政治的人気をたやすく得る手段だが、好戦的な排外主義者に流されてはならない。まして沖縄の海が火の海になることがあってはならない。戦争は外交の敗北、政治の失敗である。包囲網などではなく、友好的姿勢で粘り強く信頼関係を築くことこそが真の外交だ。

▽「戦争放棄」は完全に空証文へ

 琉球新報社説の中で注目に値する主張を紹介し、安原のコメントをつける。
(1)政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行
使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。

<安原のコメント> 専守防衛原則の放棄
 安倍政権の登場によって武器輸出の解禁、専守防衛原則の放棄、敵地攻撃能力の保有、自衛隊の国防軍化、さらに集団的自衛権の行使へ、とめまぐるしい展開をみせようとしている。これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。
 自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない、という琉球新報紙の指摘は的確である。平和国家・日本を支えてきた平和憲法の理念は安倍政権の登場によって地響きと共に崩れようとしている。こういう危険な選択を許せるのか。

(2)最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。

<安原のコメント> 安倍政権の孤立化も
「最近の日本の危うさは歴然としている。まるで戦争をしたがっているかのようだ」という認識にはハッとさせられる。ここでの「日本の危うさ」とは「本土の危うさ」であるに違いない。これは戦争暴力に対する沖縄と本土との批判力の落差でもあるだろう。
 もう一つ、米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識、という指摘に着目したい。こういう米国の対中姿勢は、安倍政権のけんか腰の外交姿勢とは異なっている。安倍政権の孤立化を近未来に予測するのは読み過ぎだろうか。


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子ども代表の「平和への誓い」に同感
2013年原水爆禁止世界大会で

安原和雄
 毎年のことながら、今夏も原水爆禁止世界大会の季節となって、猛暑にめげず、沢山の人々が日本国内だけでなく世界中から広島へ、さらに長崎へ集まった。多彩な催しの中で同感したいのは広島市平和記念式典での子ども代表の「平和への誓い」である。
 「平和への誓い」といえば、反戦=平和をイメージするのが通常だが、そうではなく新鮮な平和観が打ち出された。「平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすもの」という平和論である。若い世代の平和観がどのように根付いていくか、その行方に注目したい。(2013年8月10日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 8月6日の広島市平和記念式典では市内のこども代表が「平和への誓い」を読むのが慣例となっている。今年は竹内駿治君(広島市立吉島東小学校6年)と中森柚子さん(広島市立口田小学校6年)が代表に選ばれた。以下「平和への誓い」を紹介したい。その内容(しんぶん赤旗・8月7日付参照)は次の通り。

 今でも逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている。当時3歳だった祖母の言葉に驚き、怖くなりました。「行ってきます」と出かけた家族、「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。でも帰ってこなかった。それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。
 68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。身体に傷を負うだけでなく、心まで深く傷つけ、消えることもなく、多くの人々を苦しめています。

 今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。命とともに、つなぎたいものがあります。だから、あの日から目をそむけません。もっと知りたいのです。被爆の事実を、被爆者の思いを。もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。
 平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。

 平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです。そのために、友だちや家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して世界の人々と交流します。
 方法は違っていてもいいのです。大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。さあ、一緒に平和をつくりましょう。大切なバトンをつなぐために。
 2013年8月6日

<安原の感想> 平和とは、自らつくりだすもの

 「平和への誓い」で特に注目したいのは、次の一節である。
 「平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです」と。

 ここには含蓄に富む認識、表現を見出すことができる。われわれ大人の多くは、ややもすれば<平和=反戦>と捉えてはいないだろうか。すなわち戦争のない状態が平和なのであり、戦争さえなければ、世の中は平和であるという受け止め方である。特にあの敗戦と共に終わった大戦の経験者にこういう発想が多いように思う。

 これはこれで決して無意味と言いたいわけではない。安倍政権の登場と共に、現行憲法9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)の理念の骨抜き、日米安保体制の強化、すなわち戦争をも辞さない姿勢がうかがえる。このような安倍政権の安易な姿勢に対して<平和=反戦>の旗を掲げる意味は決して小さくはない。

 しかしこの平和観はいかにも視野が狭い。日常生活の平和という感覚からほど遠いのだ。子どもたちが提起している平和観はまさに日常生活の平和の実践にほかならない。子どもたちの表現を借りると、「生活できること」、「一人一人が輝いていること」、「幸せを感じること」、言い換えれば借り物ではなく、「自らがつくりだすもの、すなわち平和」なのだ。だからこそ「一緒に平和をつくりましょう」という呼びかけにつながっていく。
 私(安原)はそういう子どもたちを信じて、平和な日本の未来に希望を託したい。


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参院選大勝に傲る政権は久しからず
新聞社説もアベノミクスを批判

安原 和雄
 平家物語に「驕れる人も久しからず」とある。地位や財力を鼻にかけ、おごり高ぶる者は、その身を長く保つことができないというたとえとして知られる。参院選で大勝した安倍自民党にそういう臭いがつきまとっている。大勝に傲る政権は久しからず、と指摘しておきたい。
安倍政権の掲げるアベノミクスなるものの内実は「日本改悪プラン」というほかないが、新聞社説も概して批判的姿勢である。「民意とのねじれ恐れよ」(朝日)、「圧勝におごるな」(毎日)、「数に傲らず」(讀賣)、「傲らず、暮らし優先に」(東京)など安倍政権の傲りを戒める主張が目立つ。(2013年7月23日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 第23回参院選挙は2013年7月21日投開票され、自民が大勝し、民主は惨敗となった。一方、共産、維新の伸びが目立つ。参院新勢力(かっこ内は公示前勢力)を概観すると、自民115(84)、民主59(86)、公明20(19)、みんな18(13)、共産11(6)、維新9(3)、社民3(4)、生活2(8)などとなっている。

 以上のような選挙結果をめぐって新聞社説はどう論じたか。大手紙の7月22日付社説を吟味する。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=両院制した自公政権 民意とのねじれ恐れよ
*毎日新聞=衆参ねじれ解消 熱なき圧勝におごるな
*讀賣新聞=参院選自公圧勝 数に傲らず着実に政策実現を 日本経済再生への期待に応えよ
*日本経済新聞=経済復活に政治力を集中すべきだ
*東京新聞=参院選、自民が圧勝 傲らず、暮らし最優先に

 以下、各紙の社説(要点)を紹介し、それぞれに<安原の感想>をつける。特にアベノミクスをどう論評しているか、政権交代の可能性にどう言及しているかに着目する。

(1)朝日新聞=野党の再生はあるか
 朝日新聞の最近の世論調査では、改憲手続きを定めた憲法96条の改正には48%が反対で、賛成の31%を上回った。首相が意欲を見せる、停止中の原子力発電所の再稼働にも56%の人が反対している。
 首相が民意をかえりみず、数を頼みに突き進もうとするなら、破綻は目に見えている。衆参のねじれがなくなっても、民意と政権がねじれては元も子もあるまい。誤りなきかじ取りを望みたい。しばらくは続きそうな1強体制に、野党はただ埋没するだけなのか、それとも再生に歩み出すのか。野党だけの問題ではない。日本の民主主義が機能するかどうかが、そこにかかっている。

<安原の感想> 「言論の自由」とは権力擁護も含むのか
 末尾の「1強体制に、野党はただ埋没するだけなのか、それとも再生に歩み出すのか。民主主義が機能するかどうかが、かかっている」という問題提起は重要な視点と受け止めたい。一方、星 浩・特別編集委員は「痛み求める胆力あるか」(7月23日付朝日)という見出しで「消費税率の引き上げや痛みを伴う改革に批判が出ても、国民を粘り強く説得する。そんな<胆力>を備えているかどうか。首相が試されるのは、その点だ」と首相を激励している。朝日新聞では「言論の自由」に権力擁護も含むらしい。

(2)毎日新聞=存在意義問われる民主
多くの有権者は実際に「アベノミクス」の恩恵をこうむっているわけであはるまい。それでも自民党が相対的に安定しているとの思いから1票を投じたのではないか。
 今回、安倍内閣への対決姿勢が鮮明な共産党が健闘した。野党第一党の民主党が有権者から忌避され、政策論争を提起できず、政治から活力を奪っている責任を自覚すべきだ。首相は選挙戦終盤に憲法9条改正への意欲を示したが、改憲の具体的内容や優先順位まで国民に説明しての審判だったとは到底言えまい。改憲手続きを定める96条改正を含め、性急な議論は禁物である。まかり間違ってもかつて政権を独占した「55年体制」時代の復活などと、自民党は勘違いしないことだ。

<安原の感想>「毎日対朝日」の言論戦に注目
 朝日が最近「国家権力擁護」への姿勢に傾きつつあるのに比べると、毎日の社説は今なお「権力批判」の姿勢を捨ててはいない。それは「アベノミクス」批判にとどまらない。「今回、安倍内閣への対決姿勢が鮮明な共産党が健闘」と共産党の活躍を評価している。同時に「改憲手続きを定める96条改正を含め、性急な議論は禁物」と改憲への動きにブレーキを掛けている。これは朝日への対抗意識かも知れないが、日本の行く末を考えれば、この対抗意識は望ましい姿勢であり、遠慮は禁物である。燃えよ、言論戦!

(3)讀賣新聞=「アベノミクス」へお墨付き
最大の争点となった安倍政権の経済政策「アベノミクス」はひとまず国民のお墨付きを得た。だが、まだ所得や雇用にまで顕著な効果は及んでいない。デフレ脱却も不透明だ。国民の経済再生への期待に応えるためにも、首相は、政府・与党の総力を挙げて成果を出していかねばなるまい。
 安倍政権は当面、成長戦略の具体化をはじめ、消費税率引き上げの判断、集団的自衛権を巡る政府の憲法解釈の見直しに取り組む。環太平洋経済連携協定(TPP)交渉、国家安全保障会議(日本版NSC)設置も進める意向だ。いずれも日本の将来を左右する重要課題だ。優先順位をつけ、戦略的に実現してほしい。

<安原の感想> 淡い期待がはじけるとき
 「アベノミクス」はひとまず国民のお墨付きを得た。だが、まだ所得や雇用にまで顕著な効果は及んでいない。デフレ脱却も不透明だ ― という指摘、特に後半部分は適切である。アベノミクスという言葉だけが先走りしているのだ。安倍首相は選挙中「日本を取り戻す」と連呼した。具体的な内容は一切触れず、不明なままである。しかし何となく有り難い世の中に変化していく、という淡い期待が安倍自民政権を勝利させた。淡い期待がはじけて真実を見抜くのはいつのことか。一日でも早いほうが日本にとって望ましい。

(4)日本経済新聞=カギ握る成長戦略実行
農業や医療などの岩盤規制を打ち破り、環太平洋経済連携協定(TPP)反対派を説得して、効果的な成長戦略を実行していくのは今しかない。第4の矢ともいわれる財政規律のためには社会保障を中心とする歳出カットも進めていかねばならない。
 将来期待で票を投じた有権者は、かりに所得が増えないとなれば、失望という名の電車に乗りかえて、あっという間に安倍内閣から去っていくだろう。そうならないようにするためにも、アベノミクスの成功に、すべての政治資源を集中させるべきだ。今回の選挙が、政治と経済の失われた20年と決別し、新生日本づくりの転機となることを望みたい。

<安原の感想> やがて安倍首相の逃げまどう姿も
 「将来期待で票を投じた有権者は、かりに所得が増えないとなれば、失望という名の電車に乗りかえて、あっという間に安倍内閣から去っていくだろう」という日経社説の指摘は正しい。期待が大きければ、その反動もまた激しい。アベノミクスを冷静に考えてみれば、遠からず失望は避けがたいだろう。日経社説は「第4の矢」として「社会保障中心の歳出カット」をすすめている。これでは老人パワーに限らず、青年男女パワーも忍耐心を投げ捨てるほかないだろう。安倍首相の逃げまどう姿が目に浮かぶ。

(5)東京新聞=政権交代可能な時代だ。
 政権交代可能な時代だ。世論の動向次第で自民党政権の命脈がいつ尽きるとも限らない。自民党に代わる選択肢を常に用意することが、政治への安心感につながる。
 選挙は代議制民主主義下で最大の権利行使だが、有権者はすべてを白紙委任したわけではない。この先、憲法、雇用、社会保障、暮らしがどうなるのか。選挙が終わっても、国民がみんなで見ているぞという「環視」、いざとなったら声を出すという積極的な政治参加が、民主主義を強くする。今回の参院選がインターネット選挙運動の解禁とあわせ、「お任せ」から「参加型」民主主義への転機となるのなら、意義もある。

<安原の感想> 「お任せ」から「参加型」民主主義へ
 東京新聞社説にはユニークな視点、表現が少なくない。<政権交代可能な時代だ>、<自民党に代わる選択肢を常に用意すること>、<選挙が終わっても国民がみんなで見ているぞという「環視」>、<「お任せ」から「参加型」民主主義へ>など。多くのメディアは東京新聞と違って、これらの視点、表現を多用しない。特に「環視」、「参加型」民主主義は、傲慢な安倍政権の迷走を許さないためにも不可欠であり、大いに活用したい。「お任せ」民主主義の時代はすでに過去の物語であることを改めて自覚したい。


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参院選挙で問われる日本の進路
アベノミクスは「日本改悪プラン」

安原 和雄
 今回の参院選挙はこれまでになく重要な選挙になるのではないか。それは今後の日本の進路をどこに求めるのか、その行方がかかっているからである。安倍首相が唱えるアベノミクスは、日本改革に名を借りた「日本改悪プラン」である。
具体的には消費税引き上げ、社会保障費の冷遇、所得格差の拡大、地域社会の劣化、さらには環太平洋パートナーシップ協定(TPP)による外国産品輸入増と国内農業の崩壊懸念などにとどまらない。平和憲法の改悪、日米軍事同盟の強化、戦争を視野に含む軍事化路線の推進など、これまでとは異質のプランに傾斜しつつある。総体として「アベノミクスは人々の生活を破壊する」と指摘するほかない。(2013年7月6日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 第23回参院選挙は2013年7月4日公示され、21日投開票の運びとなる。参院選挙をめぐって新聞社説はどう論じたか。大手紙の7月4日付社説を吟味する。ただし讀賣新聞社説は5日付。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=参院選きょう公示 争点は経済にとどまらぬ
*毎日新聞=参院選きょう公示 投票こそが政治参加だ
*讀賣新聞=参院選公示 政治の「復権」へ論争を深めよ
*日本経済新聞=13参院選 政策を問う 与野党が政策を競う参院選を望む
*東京新聞=参院選きょう公示 おまかせ民主主義 脱して

 各紙の要点を紹介し、それぞれに<安原の感想>をつける。

(1)朝日新聞=無関心ではすまされない
 今回の参院選も世論調査を見る限り、有権者の関心は盛り上がりに欠ける。05年の「郵政解散」以来、過去5回の国政選挙は、いずれも政治の風景を一変させた。一方で、そのたびに与野党が政争を演じ、有権者はうんざりしているのかもしれない。
 だが、ここは正念場である。
 これから数年、日本政治には次々と難題が押し寄せる。TPP交渉が本格化し、来年には消費税率引き上げが予定されている。社会保障改革や財政再建も待ったなしだ。
 安倍首相が持論とする憲法改正も、いずれ大きな焦点に浮上する可能性がある。
 私たちのくらしと未来に深くかかわる参院選だ。無関心ではすまされない。

<安原の感想> 緊張感が不足していないか
どうも最近の朝日社説には読後感として物足りなさが残る。なぜなのか。明確な主張が不足しているためではないか。他人事のような書き方が目立つのだ。例えば「憲法改正も、いずれ大きな焦点に浮上する可能性」と書いているが、そういうのんびりした雰囲気ではない。すでに最大の焦点となっているのだ。ジャーナリストとしての緊張感が不足しているとはいえないか。世界に誇る「平和憲法」を守り、生かしていくことが我(われ)ら日本人の歴史的責務だと考える。

(2)毎日新聞=有権者の責任にも
 有権者の責任にもふれたい。
 たとえ選択に迷っても政党、候補の主張を見極め、必ず1票を投じてほしい。いくらネットなどを通じて豊富な情報が得られても投票所に足を運ばないようでは政治に参加する最も大きな責任の放棄である。
 震災復興、緊張する中韓両国との関係、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)など有権者がそれぞれ自分が最優先とする個別の政策課題を決め、考え方の近い政党や候補に投票する選択もあっていい。国の針路を決定づけ、民主主義の基盤にもかかわる参院選という認識を公示にあたり幅広く共有したい。

<安原の感想> 進む「日本の劣化現象」
「投票所に足を運ばないようでは政治に参加する最も大きな責任の放棄」という指摘は正しい。日本国憲法第12条に「自由・権利の保持義務、乱用の禁止、利用の責任」とある。言い換えれば選挙権の行使は「大人としての責任」でもある。最近の選挙風景で気がかりなのは投票所に足を運ばない大人が増えていることだ。選挙権を持ちながら、その権利も責任も果たさないのは大人とはいえない。判断力、行動力の拙い幼児同然の存在であろう。このような「日本の劣化現象」進行を食い止める策は果たして見出せるのか。

(3)讀賣新聞= 憲法改正の積極論議を
 憲法も重要な論点である。96条が定める改正の発議要件について自民、維新の会、みんなは緩和を主張する。公明は「改正内容とともに議論する」とし、民主も「先行改正」に反対だが、ともに緩和への余地も残している。
 参院選の結果次第で憲法改正が現実味を帯びる展開もあろう。
 自衛隊の位置づけや二院制、地方分権など、新しい「国のかたち」のあり方をめぐり、各党・候補には積極的な論争が求められる。
 民主主義の根幹である選挙は、政党・候補者と有権者の共同作業だ。ムードに惑わされず、各党・候補者の主張をじっくり吟味し、貴重な1票を行使することが、有権者の重要な責任である。

<安原の感想> 権力と共に歩む新聞の読み方
末尾の「ムードに惑わされず、各党・候補者の主張をじっくり吟味し、貴重な1票を行使することが、有権者の重要な責任である」という主張は、一読したところ、文句のつけようがない。公正中立の視点に立つ主張とも読める。しかし讀賣社説の真意はそうではない。中段の「参院選の結果次第で憲法改正が現実味を帯びる展開もあろう」、さらに小見出しの「憲法改正の積極論議を」が讀賣としての本音とはいえないか。新聞社説を読むときには、権力と共に歩む新聞かどうか、その視点を見逃さないようにしたい。

(4)日本経済新聞=実感を伴う経済成長に
 論戦の焦点はアベノミクスだ。第1の矢の金融緩和、第2の矢の財政出動によって景況感がよくなった。安倍晋三首相が誇るように「日本を覆っていた暗く重い空気が一変した」のは間違いない。
 次の課題はこうした変化を一時的な現象に終わらせず、国民ひとりひとりが実感する経済成長に育てられるかだ。首相が「実感をその手に」とのスローガンを掲げたのは、それがよくわかっているからだろう。首相が今春、経済界に賃上げを要請したのもそうした問題意識による。
 アベノミクスが成長力の向上につながり、恩恵が広く行き渡るようにできるのか。決め手は第3の矢の成長戦略だ。自民党内には小泉内閣が進めた構造改革が所得格差を拡大し、支持基盤である地域社会を壊したとの見方があるが、改革を止めては逆効果だ。

<安原の感想> 第3の矢・成長戦略の行方 
「アベノミクスが成長力の向上につながり、恩恵が広く行き渡るようにできるのか。決め手は第3の矢、成長戦略だ」― 日経社説として、一番言いたいところはここだろう。経済成長主義にこだわる日経らしい主張といえる。しかし成長主義は決して万能ではない。日経社説自身、「自民党内には小泉内閣が進めた構造改革が所得格差を拡大し、支持基盤である地域社会を壊したとの見方がある」と指摘しているではないか。成長戦略に期待していると、やがて大きな失望感を味わうことにもなるだろう。

(5)東京新聞=お任せ民主主義 脱して
 憲法や原発は、国民の運命を決する重要課題だ。候補者は所属する政党の大勢におもねらず、自らの考えを堂々と述べてほしい。
 今回はいつにも増して重要な参院選だ。衆院解散がなければ三年間は国政選挙がなく、この機を逃せば当面、有権者が選挙で意思表示する機会はない。自民党が勝てば、首相はフリーハンドを得る。
 棄権したり、何となく投票したりの「お任せ」民主主義を続けては、政治はよくはならない。暮らしを豊かにするのはどの政党、候補者か。公約や人物を吟味して投じる一票一票の積み重ねこそが、大きな力となるはずだ。

<安原の感想> 「お任せ民主主義」卒業の条件は
「棄権したり、何となく投票したりのお任せ民主主義では、政治はよくならない」は平凡ながら真実をついている。ではお任せ民主主義を卒業するためには何が求められるのか。2012夏発足した新政党「緑の党」(地方議員は多いが、国会議員はまだいない)の次のような変革意欲あふれる政策目標は見逃せない。いのち尊重、脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」、参加する民主主義(=脱官僚、市民自ら政策決定)の実践など。「アベノミクスは人々の生活を破壊する」と批判的姿勢で一貫している。


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主要8カ国首脳会議が残した課題
1%と99%の不公平、格差の行方

安原 和雄
 主要8カ国首脳会議が残した課題は何か。「世界の難題をショーケースに並べてみせた。でも、その処方箋は示せなかった」(朝日新聞社説)、「G8は世界でますます指導力を低下させるだろう」(毎日新聞社説)などの指摘は適切である。主要8カ国が世界を牛耳る時代はもはや過去の物語にすぎない。
 とはいえ取り組むべきテーマは山積している。特に見逃せないのは「1%と99%の不公平、格差」という新自由主義路線の悪しき現状をどう打開していくかである。そのためには軍事化、憲法改悪路線の推進をめざす安倍政権が掲げるアベノミクス=新自由主義路線に反旗を掲げる必要がある。(2013年6月21日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 英国・北アイルランドで開かれた主要8カ国首脳会議(=G8サミット、2013年6月18、19両日開催)には日本をはじめフランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、カナダ、ロシアの各国首脳が参加した。

 まず大手5紙のG8に関する社説の見出しを紹介する。次の通りである。
毎日新聞(6月19日付)=G8と世界経済 先進国が混乱招いては
朝日新聞(6月20日付)=G8と世界 課題を並べるだけでは
讀賣新聞(同上)=G8首脳宣言 日本経済が久々に示す存在感
日本経済新聞(同上)=G8が英国で首脳会議(サミット)を開いた。世界経済の安定に           向けた「確固たる行動」の必要性を確認したのはいい
東京新聞社説(同上)=海外へ逃げる税 問題は企業だけでない

 5紙社説を繰り返し読んでみたが、論評に値する社説をあえて一つに絞るとすれば、東京新聞社説に軍配を挙げたい。そこで以下、東京新聞社説に限って紹介し、安原のコメントをつける。

<東京新聞社説>(大意)
 主要八カ国(G8)首脳会議が多国籍企業による課税逃れを防ぐルール作りで合意したことは歓迎したい。背景の租税回避地や法人税引き下げ競争、富裕層の納税回避にもメスを入れる必要がある。
 G8で議論された「税逃れ」は、身近に存在する話である。高額所得者や大企業はうまく納税義務を免れ、ツケは中・低所得者が負っている実態。経済界の「税金が高いから海外に脱出する」との要求で法人税を優遇する国家戦略特区をつくる、といったことと同じだ。

 問題の本質は、税逃れの術(すべ)を持つ金持ちはますます富み、術のない弱者はますます重税に苦しむという不公平な社会である。
 G8での議論のきっかけは、スターバックスやアップル、グーグルといった多国籍企業が法人税の低い租税回避地(タックスヘイブン)に設立した子会社を利用し、税負担を低く抑えていたことだ。
 低成長で税収が伸び悩む中、各国の政府や議会、さらに世論が、こうした実態に不満を抱き始めたのだ。ロシアの富裕層が資産を移したキプロスの経済危機も、租税回避地に焦点を当てさせた。

 G8は、企業や個人の資金の流れを把握するため、金融機関が保有する口座情報を他国が自動的に共有する枠組みや、多国籍企業が世界のどこで利益を挙げ、どこで税を支払っているかを税務当局に報告させることを決めた。
 一歩前進ではあるが、問題はそう簡単でない。税も規制も緩い租税回避地がどこかに存在するかぎり、カネはそこを目指すからだ。テロ資金や不透明なカネの温床であるため、米国は対策に力を入れている。だが、金融立国の英国はケイマン諸島など世界有数の租税回避地を多く抱え、それが金融業の生命線ゆえ国際協調には面従腹背を通すと見られている。

 各国の法人税引き下げ競争も、税負担の圧縮を狙う企業や富裕層の課税逃れに手を貸している。企業には社会的使命があるはずだ。株主の利益ばかりを優先し、納税をコストのように考えて減らすのは、社会や消費者への背信行為である。
 言うまでもなく所得税は所得に対して応分の負担が原則である。1%の富裕層は税を逃れ、99%の国民がその割を食う。それでいいはずはない。

<安原のコメント> 1%の富裕層と悪質な新自由主義路線
 G8論議での中心テーマとなったのが企業、富裕層の「税逃れ」対策である。「税逃れ」は多様な形で広がっている。上述の東京新聞社説末尾の「所得税は所得に対して応分の負担が原則である。1%の富裕層は税を逃れ、99%の国民がその割を食う。それでいいはずはない」は正論である。しかし現実はこの正論に反している。
 東京新聞社説が説くように「問題の本質は、税逃れの術(すべ)を持つ金持ちはますます富み、術のない弱者はますます重税に苦しむという不公平な社会である」― ここに税負担のいびつな現実がある。

 これは新自由主義路線の推進でもある。規制改革を大義名分としながら、その実、貧困、不公平、格差を拡大再生産していく、あの悪名高い路線の旗を振ったのが小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)であった。
 この新自由主義路線は小泉政権退場とともに消え去ったわけではない。いまの安倍晋三政権下でアベノミクス(3本の矢=公共事業重視の機動的財政出動、物価上昇をもたらす金融緩和政策、成長戦略)という新しい装い、化粧を施して、笑みを浮かべながらよみがってきている。
 同じ新自由主義路線でありながら質的に変化していることに注目したい。アベノミクスは小泉時代の新自由主義路線よりもさらに悪質化していることである。その実体は軍事化・憲法改悪路線の推進である。表面の微笑に幻惑されないように心を整(ととの)え、対応したい。


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病む現代文明を超えて持続可能な文明へ
今こそ江戸期のモデル=自己抑制を

安原和雄
21世紀の現代をどういう視点で捉え、変革していくか、このテーマは多様な論議を呼ぶに違いない。<病む現代文明を超えて、持続可能な文明へ>という視点は常識のように見えながら実は、新鮮そのものである。持続可能な文明への転換は果たしてどこまで可能なのか。
 転換のカギを握っているのが<日本の江戸期のモデル=自己抑制(知足)>の実践である。もう一つ、忘れてはならないのが日本国憲法の平和・反戦理念である。世界の大国の現状を大局的に観察すれば、アメリカの没落、日本の行き詰まり、中国の台頭という新たな勢力地図が浮かび上がってくる。行き詰まりを超えて日本が貢献できるのは、自己抑制さらに平和・反戦の実践であるだろう。(2013年6月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 落合栄一郎(注)著『病む現代文明を超えて 持続可能な文明へ』(2013年5月刊、本の泉社・東京都文京区本郷)の要点を以下に紹介し、<安原の感想>を述べる。

(注)落合氏は東京都出身、東京大学助教を経て、1969年より海外へ。2005年、米ペンシルバニア州ジュニアータ大学を退職後、カナダ・バンクーバーに定住。「バンクーバー9条の会」などで平和運動に関与。著作に『原爆と原発』(鹿砦社、2012年刊)ほか多数。

▽ アメリカ的文明はもはや持続できない

 今の大勢であるアメリカ的文明は持続させるに値しないし、持続もできない。なぜ持続できないのか。資源の有限性、財政破綻、市民の疲弊 ― の三つの視点から考える。

(1)資源の有限性:限りない拡大信仰の果てに
 消費社会とそれを推進する市場主義経済は、資源が無限にあるかのごとく仮定し、振る舞っている。というより、資源が有限であることを無視するか、無知なのかも知れない。資源の無限性を仮定することは企業が儲けるための成長経済の必須条件である。
 人類の大多数が消費の限りない拡大を信仰し、成長経済を続けていると、地球上の資源は遠くない将来に枯渇することは必定である。成長経済ではなく、定常経済に向かうべきだろう。定常経済規模は、多くの先進国では現状よりもかなり小さく、発展途上国では現在より成長して然るべきところが多いだろう。

(2)財政破綻:戦争への無駄金
 アメリカの軍事費は現在、他の国の軍事費総計よりも大きい。このことは国民の富が戦争という破壊行為(人、人工物、環境)に無駄に使われていることを意味する。2001年に始まったアフガン戦争とイラク戦争だけで、総額約1.05兆ドル(日本円にして約90兆円)と推定されている。
 この無駄金の一部は、軍事産業などの懐に入り込み、彼らを肥え太らせるが、これは浪費されたカネのほんのわずかでしかない。このような浪費は、遠からずアメリカの財政を破綻に導く。なぜ無駄を続けるのか。それによって儲ける輩(企業)がおり、それが政治を左右しているからであるに違いない。

(3)市民の疲弊:雇用機会は激減し、低賃金雇用へ
 アメリカ市民の大部分の収入は減り続けている。主な原因は高収入の製造業が、安い人件費と規制の少なさを求めて海外に移設されたからである。その代わりに、利潤が目に見える形で得られる「金融業」が幅を利かせるようになった。この結果、一般市民の高収入の雇用機会は激減し、低賃金雇用が多くなってしまった。夫婦二人で稼いでも、生活を維持できない家庭が増えている。
 こうした経済的、精神的に疲弊した市民の、消費能力が落ちることは目に見えている。資本主義市場経済は、国民の消費に依存していて、アメリカでは市民消費が国内総生産の70%も占めていた。ところが多くの市民が消費できない状態になりつつあるということは、この退廃した資本主義(新自由主義)の根本的な自己矛盾である。

<安原の感想> ニクソンの有名な演説「文明の滅亡」
 落合氏の著作が力説しているのは「アメリカ的文明は持続させるに値しないし、持続もできない」という認識である。これは今から40年ほど昔の1971年、当時のニクソン米大統領が初の訪中直前に試みた次の歴史的演説を想起させる。
 「われわれは世界の最強国であろう。だが基本的な問題は果たしてアメリカは健全な国であろうか。健全な政府、経済、環境、医療制度をもつだけでなく、道義的力でも健全な国であろうか」と。これは「アメリカ文明の滅亡」への洞察というほかない。そして今、限りない拡大信仰、戦争による財政破綻、市民の疲弊とともにアメリカそのものが行き詰まっている。「世界のリーダー・アメリカ」はもはや過去の物語でしかない。

▽ なぜ江戸社会は持続できたのか

 江戸時代の日本はかなりの人口と文化を、2世紀半にわたって持続した稀な例である。なぜそれが可能であったのか。その条件、理由は以下のようである。
(1)地理的条件:日本は中緯度、モンスーン地帯に位置し、海洋に囲まれ、比較的温暖で、生態系は豊かで強靱であること。
(2)平和(徳川統治下の):人的、物質的、エネルギー資源の浪費を必要としなかったこと。
(3)菜食主義:植物性食品はエネルギー効率が高い栄養源であること。その一方、肉食のためには大量の家畜(ヤギや羊)の飼育(地中海地方などで)が必要だが、それに伴って牧草地を食い荒らされ、荒廃する例が多い。日本ではそういう荒廃・環境破壊がなかった。
(4)高い識字率と教育程度:環境や社会への関心と理解があったこと。
(5)政治形態:江戸時代は封建制・世襲制だったが、長期政権であり、現在の民主主義的政治体制下の短期政権と比較して長期的視野を持ちやすいこと。
(6)文化的要素:「自己制御」精神(知足も含む)― 人々や自然環境との調和を尊重し、生態学的知恵を経験から学び、実施したこと。

 以上の理由のうち特に見逃せないのは、江戸期の日本は、エコロジーと自己抑制の精神が根強かったことである。このことが江戸時代を持続させた基本的な背景といえる。

<安原の感想> 「江戸時代に今学ぶこと」とは
 江戸時代に学ぶという視点は今こそ重要とはいえないか。上述の6条件は21世紀の今、どう変化しているかを考えてみたい。
・地理的条件のうち「生態系は豊かで強靱」は過度の消費文明を背景にかなり痛んでいる。
・平和はどうか。多様な資源の浪費が進んでいる。病人が増えるなど人的資源の「酷使による損傷」が目立つ。特に安倍政権下での戦争をも辞さない日米安保体制は、「平和を創る」のではなく、「平和を脅かす」元凶である。
・菜食主義よりも肉食への嗜好が高い。
・環境や社会への無関心が広がり始めている。
・短期政権の連続で政治家の質的劣化が目立つ。
・経済不況、失業、低賃金を背景に、自覚的な「自己制御」(=知足)というよりは「我慢=忍耐」を余儀なくされている。

 以上のように江戸時代と21世紀の現代日本とを比べると、「昔は良かった」という類の懐古趣味にとらわれやすい。取り組むべき課題はやはり「自己制御」を一つの軸として21世紀の現代をどう生きるか、どう変革を進めるか、さらに「持続可能な文明」をどのようにして築いていくかである。

▽ 「持続可能な文明への道のり」をどう築くか

 長期的視野で「持続可能な文明」を築くためには、「世界観・価値観の変革」から「経済通念と経済産業構造の変革」にまで長期的、構造的、多面的な取り組みが求められるが、ここでは「目前の問題とその対応」について考える。以下、「平和憲法改悪を阻止」などのテーマについて落合説を紹介する。

(1)平和憲法改悪を阻止
持続可能な社会の第一の要件は「平和」である。武力による人間、環境、モノの破壊は人類文明の存続を不可能にする。人類が戦争依存体質から抜け出すには、時間がかかるだろうが、その間、日本の平和憲法は、戦争を仕掛けようとする人たちへの歯止めになる。日本のあるセクションの好戦的態度も、憲法9条のおかげで、今のところ、暴発せずに済んでいる。憲法改悪の試みは、国民多数の総意で阻止しなければならない。
 世界帝国をめざし、世界中から非難されているアメリカの片棒を担ぐことに執心する日本の政治家、企業家たちに目を覚ましてもらわねばならない。片棒を担ぐ根拠となる日米安保を破棄しなければならない。平和憲法を維持する決意を世界に示すためには、日米安保の廃棄がぜひ必要である。世界に先駆けて大国日本が軍備を縮小する意思を表明することは世界中から喝采を受けるだろう。

(2)脱原発
脱原発の重要性というより、脱原発はぜひ実現しなければならないことは多言を要しない。

(3)メディアの変革を
 現在の商業的メディアは、広告収入など市場経済への依存度が高いため、広告主の企業から体制(政治、経済、軍事、司法など)に関する報道へ横やりを入れられる。アメリカでは暴力賞賛的な番組が幅を効かせていて、アメリカ人の好戦意識を支えている。日本の現状は、一億総白痴化につながると指摘されて久しいにもかかわらず、ますます退化しているようである。
 教育の低劣化と相まって、日本国民、とくに政治家たちの低劣性という評判はますます増大するだろう。ただ現在のテレビ番組にも質の高いものが皆無ではないから、報道の仕方によっては、市民の資質向上に寄与することは充分に可能だろう。  

(4)経済危機への対処は公平に
特にアメリカで2008年後半から急激に悪化した経済に、さしあたりどう対処すべきか。この危機の影響で生活を脅かされている人々に、救済の手を差し伸べる。その財源は、不当に儲けて、税制の逃げ道を巧みに使って脱税していた人々から正当に税を徴収することから始める。さらに経営者と労働組合との話し合いで、雇用を減らさずに給与をより公平に多くの人に分配する。

(5)資源獲得競争に問われる人類の英知
 資源(水、石油、金属原料など)が人類の大量消費によって激減している。このため多くの国、とくに中国は資源獲得にあらゆる手を打っている。中国が現在の日米欧レベルの消費を獲得するには、資源はいくらあっても足りない。先進国レベルの物質消費は不当であることを中国に認識してもらわねばならない。
 ただしそのためには先進国は率先して消費レベルを下げることを石油から始める必要がある。生ぬるい消費制限程度ではとても間に合わない。資源獲得競争に基づく国際紛争は、今後増えることはあっても減ることはない。これにどう対処するか、人類の英知が問われる。

<安原の感想> 平和憲法改悪の阻止が最重要テーマ
 上述のテーマはいずれも重要だが、あえて一つを選ぶとすれば、平和憲法改悪の阻止を挙げたい。平和憲法改悪阻止がなぜ最重要テーマなのか。日本国憲法前文の次の「決意」と「誓い」は何度も読み返し、玩味し、実践するに値する。

*決意=「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
*誓い=「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と。

 安倍政権は、この「決意」と「誓い」を手軽に投げ捨てて、日本を「戦争国家」へと変質させようと目論んでいる。それは後世に悔いを残す歴史的罪悪といえるだろう。


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経済界が唱える「安保の再構築」
アジア太平洋で日米同盟の強化へ

安原和雄
 安倍政権の右傾化に歩調を合わせるかのように、経済界も急速に右旋回の動きを見せ始めている。財界の一翼を担う経済同友会が公表した提言「安全保障の再構築」はその具体例である。提言は「アジア太平洋での日米同盟の強化」を軸に「集団的自衛権行使」の解釈変更、さらに「武器輸出三原則」の緩和拡大など、財界得意の算盤勘定にも遠慮しない。
さらに見逃せないのは「人間中心の安全保障」を唱えながら、実態は「軍事中心の安全保障」へと傾斜していることである。「日米同盟の強化」つまり「軍事同盟化」にこだわる余り、「人間中心の安全保障」は単なるお題目に堕している印象が強い。(2013年5月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 企業経営トップら経済人の集まりである経済同友会・安全保障委員会(委員長・加瀬 豊=双日取締役会長)は2013年4月、提言<「実行可能」な安全保障の再構築>を公表した。以下、その大要を紹介し、批判的視点から<安原の感想>を述べる。

(1)日本の安全保障の現状と問題点
わが国では憲法や「専守防衛」など独自の安全保障概念による制約もあり、国際情勢や世界における日本の立場の変化を反映し、現実に即した安全保障論議が行われてこなかった。この背景として、日米安全保障体制という強力な「盾」の存在とともに、安全保障政策が党派間の対立軸の一つに位置づけられ、超党派的・国民的合意が成り立たなかったことが挙げられる。
戦後60年余を経て、日本は各国との相互依存関係を世界中に拡大し、その人材や資本、資産、権益もあらゆる地域に広がっている。日本の国益(注)は、日本固有の領土・領海と国民の安全のみではなく、地域、世界の安定と分かちがたく結びついており、この流れはグローバル化の中で、一層進展していくだろう。
(注)国益は、広い意味で以下のものを含む。①狭義の国益(領土、国民の安全・財産、経済基盤、独立国としての尊厳)、②広義の国益(在外における資産、人の安全)③日本の繁栄と安定の基盤をなす地域と国際社会の秩序(民主主義、人権の尊重、法治、自由主義、ルールに則った自由貿易)

(2)日本の繁栄・成長の基盤である安全保障体制の再構築を
国際情勢、地域情勢の不確実性とリスクの多様性という現実を前に、わが国が日本の国益に対する責任、その基盤となる世界・地域の平和と繁栄に対する責任、さらに米国の同盟国としての責任を果たすためには、わが国の安全保障体制の刷新に今すぐ取り組むことが不可欠だ。目指すべき姿は以下のようである。
*国民の安全・財産、主権や国土の安全等の国益の保護、何らかの攻撃に対する自衛は、自ら責任を持って対応することを基本とする。
*日米同盟を日本の安全保障の基軸、アジア太平洋地域における公共財と位置づけ、その維持・深化に取り組む。特に安全保障面では、日本の主体的な防衛努力を前提に、アジア太平洋地域における役割についても柔軟性、戦略性をもって米国との連携を確立する。

(3)「集団的自衛権行使」の解釈変更と「武器輸出三原則」の緩和拡大
*集団的自衛権行使に関わる解釈の変更
自衛権とは、国連憲章上、個別的、集団的の別を問わず国家の「固有の権利」と位置づけられているが、わが国では個別的自衛権と集団的自衛権を峻別し、集団的自衛権の行使は「わが国を防衛するための必要最小限度の範囲」の自衛権行使の範囲を超えるもの、との政府解釈に立脚し、安全保障政策が議論されてきた。
同時に集団的自衛権を過度に危険視し、現実から乖離した議論が続けられてきた。わが国が独自の防衛力のみではなく、日米同盟と友好国との国際協調を通じた平和の実現を志向する以上、この制約を解かない限り、柔軟性と実効性ある安全保障協力はもはや不可能であろう。政治的決断によって政府解釈を変更し、集団的自衛権行使を認めるべきである。

*武器輸出三原則の緩和拡大
本来、武器や関連技術の供与は、安全保障の一環として検討されるべきもので、そうした観点からの三原則の見直しは時宜を得た取り組みであろう。三原則の緩和は、高性能地雷探知機や、荒海での離着陸能力の高い水陸両用機など、人道的活動にも有益な日本のハイテク製品の供与・輸出や、自衛隊が平和維持活動で使用した建設機械の相手国への提供など、日本の国際貢献の幅を広げることにもつながる。法の支配、民主主義、自由主義経済という価値観を共有する国に限り、一定の歯止めを設けつつ、一層の緩和を進めることが望ましい。
また武器輸出三原則の緩和拡大は、先端技術の開発が著しい防衛分野で、日本の防衛力の技術基盤を強化し、それ支える中小を含む企業の存続や技術革新につながることから、日本の防衛力の向上にも寄与する。

(4)経済基盤の安全確保に向けた施策:経営者の視点から
*エネルギー・資源安全保障に関する考え方
エネルギー資源のほぼ全量を輸入に頼る日本にとって、その安定的確保は持続的な経済成長の基盤であり、死活的な重要性を持つ。
万が一の輸入途絶やエネルギー価格暴騰等のリスクに備える上ではエネルギー自給率の向上という観点も重要である。そのため本会が主張してきた「縮原発」(注)の方向性を踏まえつつ安定的エネルギー源として、原子力発電を維持していくことは、安全保障上も重要な意味を持つ。
(注)中長期には、老朽原発を廃炉する「縮・原発」が望ましいが、原発全廃で技術を絶やすのでなく、安全性の高い原発実用化により世界に貢献する。国内では再生可能エネルギー、原発、省エネルギーの技術開発を進めながら発電比率を見直していく。

*食料安全保障に関する考え方
国民の生命を支える食料の安全保障については、自由貿易の推進と国内農業の強化・高度化を両輪と捉え、わが国の戦略的選択肢を拡大する方向で推進する。
日本は、現在でも高品質の農産品を世界に輸出しており、単位面積当たりの収穫量も決して外国にひけを取らない水準にある。自由化と平行して、農業改革を推進し、国際競争力のある産業に変革することが必要である。

*シーレーンの安全確保に向けて
沿岸警備体制の強化と並んで、アジア太平洋地域を中心とする多国間連携も重要である。自由で安全な海上交通路(シーレーン)の確保は、成長を続けるアジア太平洋諸国にとっても極めて重要であり、いわば各国の共通利益といえるだろう。こうした利害や価値観を共有する各国との間で、共同訓練・演習を含む協力を行っていくことを念頭に、海上自衛隊の能力について質・量の充実や、部隊配置や運用の柔軟化を図ることが必要である。

(5)アジア太平洋地域における平和構築に向けた日本の役割:日米同盟の強化
*安定の礎としての日米同盟の強化
わが国の防衛、アジア太平洋地域の安全保障にとって、日本が主体的かつ双務的な役割を果たし、日米同盟を強化していくことが極めて重要である。
日米双方に財政制約がある中で、費用対効果の高い防衛体制を確立し、機動的で柔軟な 防衛力の展開により、同盟の抑止力を高めることが求められている。

(6)節度ある防衛力整備
近隣諸国の防衛費の増大傾向からみて、日本の防衛予算規模についても、検討すること。1991年から2011年にかけて近隣諸国の防衛費の規模は中国の590%を筆頭に、倍増またはそれ以上の伸びをみせている。その間、日本の防衛費は、米国ドル建てで1991年に初めて500億ドルを超えて以来、2011年の545億ドルに至るまでの20年間で7.9%の増加にとどまっている。
これは「防衛費のGDP1%枠」という制約の結果といえるが、国際情勢などの変化を顧みず、過去の政治決定を絶対視するような対応は適切ではない。地域的な防衛力のバランスや抑止力の視点から、必要な予算規模を検討し、節度ある防衛力整備を促進すべきである。

(7)「人間の安全保障」のための日本のコミットメント
安全保障の目的は、国家の安全を保障することに加え、一人ひとりの人間の安全を保障すること、すなわち「人間の安全保障」にある。しかし現実には著しい貧困、内乱や紛争等により、人間の安全保障が達成されていない国や地域も残されている。このような現状に対し、日本は「人間の安全保障」という価値を追求し、貧困削減、グローバルヘルス(国際保健)の推進、生活水準の向上のために、積極的なコミットメントを示していくべきである。
こうして紛争、テロ等のリスク低減、人々の生活水準の向上、経済という各国の共通利益の共有と拡大が進むことも期待される。特に日本の成長の源泉、経済活動の基盤があらゆる地域・国と深く結びついているからこそ、世界の平和と安定に積極的に貢献することが日本の責務である。

<安原の感想> 危険な「軍事中心の安全保障」を批判する
 かつて財界(経団連、経済同友会などの企業経営者集団)は安全保障問題への積極的な関与を避けてきた印象がある。私(安原)は現役の経済記者時代、財界を担当した経験もあるが、彼らは「経済で発言」という発想を超えようとすることにはいささかの躊躇が見受けられた。しかし変われば変わるものである。
 今回の経済同友会提言「安保の再構築」を一読した印象では、「図に乗りすぎている財界」とはいえないだろうか。言い換えれば、平和憲法改悪、右傾化、軍事化の推進を視野に収める安倍政権の登場を好機ととらえて、「この際、本音を」という作戦なのだろう。この種の「悪乗り」(その場の調子や勢いに乗って、度の過ぎたことを言ったり、したりすること)はいただけないし、危険な選択である。
 もっとも<(6)節度ある防衛力整備>にわざわざ言及していることは何を意図しているのか。どの組織にも過激派と穏健派が並存していて必ずしも足並みが揃わないのが常であり、財界も例外ではない。一本調子の防衛力増強論に難色を示すグループへの配慮なのか。

 提言は表面では「人間の安全保障」の視点を強調しているが、本音は「軍事中心の安全保障」に傾斜している。私の安全保障観では「軍事中心の安全保障」のほかに、「人間の安全保障」、「いのちの安全保障」も含めて三つに大別できる。現行の日米安保体制はいうまでもなく軍事中心の安全保障である。提言はその内容からみて、実態は米国流の「軍事中心の安全保障」を補強する安全保障観となっている。
 真面目に人間の安全保障を唱えるからには、「軍事中心の安全保障」観を批判しなければならない。それにとどまらず、「いのちの安全保障」こそ今、強調しなければならない。いのちの安全保障論が立脚する基盤は現行の「日本国憲法」すなわち平和憲法である。その前文は次のように宣言している。

 「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会ににおいて、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
ここでうたわれている平和生存権の保障を打ち出している日本国憲法の理念をどう生かしていくか。いうまでもなく平和生存権は「日本の宝」であり、大事に育てていかなければならない。ところが愚かにも葬り去ろうとしているのが安倍政権であり、経済界である。そういう悪しき衝動をどう封じ込めていくかが今後の大きな課題である。


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TPP参加に高まる「反対の声」
日米密約説も飛び交うその舞台裏

安原和雄
 安倍晋三首相がTPP交渉参加を表明して以来、参加是非論が活発になってきている。首相は「TPPはアジア太平洋の繁栄を約束する枠組みだ。日本は世界第三位の経済大国。必ずルール作りをリードできる」と高姿勢である。しかしそれほど楽観できるのか。
舞台裏では実施のための日米密約説も飛び交っている。日本国のリーダーである首相が乗り気であれば、ここではむしろ反対論を追跡してみたい。その反対論もなかなか意気盛んで、賛成論よりもむしろ筋が通っている。いずれにしても一国の命運に関わるテーマとはいえないか。(2013年3月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下、多様な分野から反対意見を中心に紹介する。

(1)Eメールで伝えられた反対意見
 私(安原)あてに届いたあるEメールは「ほんまにTPPに参加してもえぇの?」と題して次のように批判している。 

 首相訪米後、日本がTPP(環太平洋経済連携協定)に参加することが既定路線であるかのような報道が相次いでいる。私たちの暮らし、社会、そして世界に、大きな影響を及ぼすTPPを、農産物の関税の問題と矮小化し、その例外をオバマ大統領に認めてもらったとして、陳腐な共同声明を曲解しながら、マス・メディアの大本営発表が続いている。
 TPPってほんまにそれだけのこと?
安倍訪米って、誰にとって成果があったん?
私たちの将来は? 日本の未来は? 世界への影響は?

<安原の短評> 群を抜いている視点
 文章のスタイルから見て関西の人らしいが、それはさておいて、実に広い視点からTPPを捉えようとしているところが気に入った。「マス・メディアの大本営発表」という皮肉もうなずかせるものがある。
 末尾の「私たちの将来は? 日本の未来は? 世界への影響は?」は「私」、「日本」、「世界」にとってのTPPという発想であり、その視点は群を抜いている。問題はそれぞれにどう肉付けしていくかである。

(2)朝日新聞の「読者の声」から
「読者の声」(介護職 荻野直人=仙台市、3月22日付)は「TPPはブロック経済では?」という見出しで伝えている。その趣旨は以下の通り。

 TPPについては「安価な外国産品の輸入によって国内の農業が崩壊してしまうのではないか」、「国民皆保険制度がなくなってしまうのではないか」などの懸念が表明されている。この懸念は根拠があると思う。
 ただそれ以前に問いただすべきことがある。「TPPによって自由貿易が拡大する」という推進派の主張についてである。TPPは果たして自由貿易といえるのか。多国間による貿易協定は、その域内での貿易自由度は増すが、それはあくまでも域内の範囲に限られる。TPPは、参加する国としない国という新たな境界を生むことになり、それはブロック経済圏ではないか。

<安原の短評> 「ブロック経済圏」と日米密約
 ブロック経済圏の形成へ、という指摘は見逃せない。毎日新聞(3月22日付夕刊)によると、自民党の実力者、野中広務さん(官房長官、自民党幹事長を歴任)はTPPへの交渉参加についてこう語っている。
 「農業、水産業、医療などさまざまな分野で、本当に日本の主張が通るのか。実際には、例外のない関税撤廃を受け入れる約束が米国との間ですでにできているのではないか。参院選に影響が出るため明らかにしないのではないか」と。これは米国主導のブロック経済圏形成へ、という日米密約説を示唆している。密約説は十分あり得る話である。

(3)官邸前アクションによる抗議
 2013年3月15日に実施された「STOP TPP!! 官邸前アクション」は以下のような抗議文を採択した。 

 <安倍首相のTPP交渉参加表明に最大の怒りをもって抗議する>
 2013年3月15日午後6時、安倍首相は記者会見にて「TPP交渉参加」を表明した。多くの反対の声を裏切り、説明責任もまったく十分に果たさない中の参加表明だ。
 交渉に遅れて参加する国が圧倒的に不利な条件を飲まなければ交渉に参加できない、ということは明白である。にもかかわらず、安倍首相と自民党政権は、日本にとって侮辱的であり、不平等・不正義である条件を受け入れ、国を売り渡してもいいと判断したのだ。
 以下、私たちはすべての力を振り絞って猛抗議する。

*アメリカや日本の多国籍大企業の利益のために、国民のいのちとくらし、雇用も地域も犠牲にするTPPへの参加は、絶対に許されるものではない。
*安倍首相の参加表明は、幾重にも国民を愚弄している。そもそも公約したことを「公約ではない」と言い逃れ、影響試算を示して国民的な論議に付すと言いながら、参加表明後に影響試算を示すなど、国民を馬鹿にするにもほどがある。
*私たちは、今回の参加表明に当たっては、まだまだ国民に公表されていない日米の「合意」などが存在していると確信している。私たちはこのような非民主的で反国民的な行為を許すわけにはいかない。
*私たちは、TPPの危険性を国民と共有できるようさらに運動を広げるとともに、参加表明に至ったさまざまな非民主的な行為の暴露、さらには参議院選挙での国民的な審判も通して、安倍首相の参加表明を撤回させることをめざす。

<安原の短評> 「平成の井伊直弼」の運命は?
 Eメール上に流布している【緊急号外】は次のように示唆している。「井伊直弼は殺され、吉田茂は生き延びた。安倍晋三はどうなるだろうか」と。さらに「第三の開国」たるTPPは、「神聖不可侵」の「戦後国体」の如き日米安保体制の上に、米国の権力と資本にとってさらに「都合のよい国」「使い勝手のよい国」に日本を改造するための究極の不平等条約である、と。
 「平成の井伊直弼」の運命は如何に?という問いかけと受け止めたい。

(4)米、豪、NZ、日本の労働組合 連携強め交渉に反対
3月15日上記4カ国の労働組合が連携を強め、反対運動に乗り出している。

 TPP交渉に参加する米国やオーストラリア、ニュージーランドと日本の労働組合が、TPP交渉に反対する国際的な連携を強化する。交渉の内容が秘密にされていることや、大企業と投資家の利益を重視していることなどを問題視。4月10日には、日本の交渉参加に反対する米国の労働組合の呼び掛けで各国代表がワシントンで会合を開き、運動方針を協議する予定。交渉を主導する米国の政治家に、TPPの問題点への理解を促すため要請活動も行う。

 連携するのは、以下の労働組合である。
*オバマ米大統領と民主党の最大級の支持団体で1200万人以上が加盟する米国労働総同盟・産業別労働組合会議
*30万人が加盟するニュージーランド労働組合評議会
*オーストラリアのギラード首相の支持団体で200万人が加盟する同国労働組合評議会
*中小企業を中心に120万人が加盟する日本の全国労働組合総連合(全労連)―など。

 情報を収集・共有し発信、政府への働き掛けなども強化する。交渉に参加するカナダやペルー、チリ、メキシコの労働組合にも連携を求める。
 運動方針を協議するほか、5月の交渉会合では共同声明を出す方向で調整中だ。

 TPP交渉に反対するのは、労働者の権利を保護している各国の規制が緩和されたり、強化しにくくなったりすることへの懸念があるためだ。また日本が交渉に参加する可能性が出てきたため、日本の輸出攻勢で雇用が奪われるとの危機感も強い。貿易立国のニュージーランドとオーストラリアでは労働組合も自由貿易を推進しており、TPPに反対するのは異例のこと。極端な規制緩和を推し進めることに異議を申し立てているのだ。

<安原の短評> 極端な規制緩和に異議
 ニュージーランドやオーストラリアの労働組合は本来、自由貿易推進派であり、TPPには反対ではないはずである。ところがその労働組合までが反対派に転じたのは、TPPが究極の規制緩和を目指す装置だからだ。通常なら味方であるはずの勢力まで異議申し立て派に追い込むとは、TPPはよほどの曲者であるに違いない。

(5)日本農業新聞の報道=市民の怒り さらに沸騰 
 日本農業新聞(3月16日付)は「市民の怒り さらに沸騰 議員会館前などで猛抗議」と以下のように報じた。

 草の根の反対運動を続けてきた市民らは、東京・永田町で安倍首相会見のテレビ中継を注視。午後6時過ぎ、参加表明が発表されたとたん、深いため息が漏れた。涙を流してテレビをにらみつける女性や「ふざけるな」と机をたたく人もいた。市民は一様に「売国行為」と強い口調で批判を繰り返した。
 首相会見後、反対運動実行委員会は緊急声明を発表。「最大の怒り。多くの反対の声に対し、十分な説明責任を果たさず、全ての力を振り絞って猛抗議する」などと語気を強めた。農業だけの問題として矮小化した大手メディアの責任にも言及。国民の大半がTPPの本質を知らないことに、強い危機感を示した。

 全国食健連の坂口正明事務局長は「安倍首相は根拠も示さずに聖域を守ると言って、自らの主張を繰り返していた。絶対に諦めず、反対の声を上げ続ける」と決意を表明した。都内で料理教室を主宰する安田美絵さんも「首相の参加表明は国民を愚弄(ぐろう)しているとしか言えない。これまでの反対運動は決して無駄ではなく、今後も絶対に入ってはいけないと多くの人に全力で伝える」と主張した。
 プラカードなどを手に若者も猛抗議した。東京都調布市の中学3年生、山﨑成瑠君(15)は「断固反対と言って当選した政治家は恥ずかしくないのか。大人の世界は汚い。僕たちの未来を奪う行為だ」と声を張り上げた。埼玉県日高市の龍門永さん(23)も「首相はTPPの農業以外の危険性を隠して参加表明した。なぜ、こんなおかしいことがまかり通るんだ」と声を荒げた。

<安原の短評>「大人の世界は汚い」とは?
 最近のデモや反対運動には女性や若者たちの姿が目立つ。その若者の一人、中学3年生は、「大人の世界は汚い。僕たちの未来を奪う行為だ」と怒っている。その心情は理解できる。ただここで指摘したいのは、「僕たちの未来」を創っていくのは、ほかならぬ若い君たち自身だということ。新しい未来を築き上げていく一翼を担うことは、魅力尽きない人生行脚とはいえないか。

(6)東京新聞経済部長の警告
 富田光・経済部長は東京新聞(3月16日付)で「経済の枠超え、影響」と題して、以下のようにTPP実施に警告している。その大要は次の通り。

日本は今、TPPという大きい門の前に立っている。門の奥に星条旗がはためいている。門柱には「経済連携」と書かれている。しかし、この文字はTPPの上っ面を表しているにすぎない。TPPは、主に関税を下げることを目指していた、過去の貿易交渉とは完全に異質だ。
 生産する、売る、買う、食べる、移動する、病気を治療する、遊ぶ、学ぶ、保険に入る・・・。関連する対象分野を挙げればキリがない。交渉妥結後、国会が批准すれば人々の暮らしの各ページに影響が及ぶ。海外からの訴訟で国内ルールが変わる可能性さえある。門の中に入れば、経済の枠組みをはるかに超え、社会が構造ごと大転換しかねない。これがTPPの実像だろう。

 政府は、環太平洋の各国と連携することで、国益が得られるとプラス面を強調する。実際、参加を機に、新たなビジネスを紡ぎ出す企業や、海外進出をとげる農家が出るかもしれない。消費の仕組みや意識が変わることで、社会の質を高める起爆剤となりうる力もTPPは併せ持つ。
 しかし現実の交渉では、「既に現在の参加国間で合意した条文は原則として受け入れ、再交渉は要求できない」「交渉を打ち切る権利は(すでに交渉を開始した)九カ国のみにある」との条件が付けられていた。
 こうした肝心の情報を政府は開示してこなかった。米国が厳しい姿勢で交渉に臨むことが確実な中、これまで何が決められたのか国民に正確に伝えなければ、議論は到底尽くせない。TPPの交渉は、民主主義国家としてのあり方を鍛える、試練の場でもある。

<安原の短評> 民主国家としての試練の場
 末尾の「TPPの交渉は、民主主義国家としてのあり方を鍛える、試練の場でもある」という指摘は見逃せない。なぜTPP交渉を単に通商、貿易交渉としてではなく、民主主義の視野で捉えるのか。それは日米間の密約、国民不在の日米交渉、あるいは対米従属下での外交など、従来の「非民主的な交渉」という惰性を克服する必要があるからだろう。
 この視点は重要である。しかし日米安保体制下で多数の米軍基地が日本列島上に存在する現状では、日本が対米民主主義を貫くことがどこまで可能だろうか。疑問は消えない。


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持続可能な未来に向けて踏み出そう
大震災2年、大手紙社説が論じたこと

安原 和雄
 東日本大震災から2年を経た3月11日、大手紙社説はどう論じたか。目を引いたのは、東京新聞社説で、次の書き出しから始まっている。「風化が始まったというのだろうか。政府は時計の針を逆回りさせたいらしい。二度目の春。私たちは持続可能な未来へ向けて、新しい一歩を刻みたい」と。
キーワードは「持続可能な未来」である。地球環境保全のための「持続可能な発展」も広く知られているが、ここでの「持続可能な未来」は、脱原発をめざす合い言葉となっている。ところが安倍政権の原発容認路線は目先の利害に囚われて、「持続可能な未来」に背を向けている。(2013年3月11日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 大手紙社説は東日本大震災から2年の2013年3月11日、どう論じたか。大手5紙の社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞社説=原発、福島、日本 もう一度、共有しよう
*毎日新聞社説=震災から2年 原発と社会 事故が再出発の起点だ
*讀賣新聞社説=再建を誓う日 政府主導で復興を加速させよ 安心して生活できる地域再生を
*日本経済新聞=東日本大震災2年㊦ 福島の再生へ現実的な行程表を
なお日経社説は前日の3月10日付で「東日本大震災2年㊤ 民間の力を使い本格復興へ弾みを」と題して論じている。
*東京新聞社説=3.11から2年 後退は許されない

 以下、5紙社説の大意を紹介し、<安原の感想>を述べる。
▽ 朝日新聞社説
 東京電力福島第一原発で、いま線量計をつけて働く作業員は一日約3500人。6割以上が地元福島県の人たちだという。「フクシマ3500」の努力があって、私たちは日常の生活を送っている。
 事故直後は、「恐怖」という形で国民が思いを共有した。2年経ち、私たちは日常が戻ってきたように思っている。だが、実際には、まだ何も解決していない。私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない。福島との回路をもう一度取り戻そう。
 原発付近一帯を保存し、「観光地化」計画を打ち上げることで福島を語り継ぐ場をつくろうという動きも出ている。いずれも、現実を「見える化」して、シェア(共有)の輪を広げようという試みだ。

<安原の感想> 福島との回路をもう一度
 <私たちが「忘れられる」のは、今なお続く危機と痛みと不安を「フクシマ」に閉じ込めてしまったからにすぎない>という上述の指摘は、さり気ないが、重い。だからこそ<福島との回路をもう一度取り戻そう>という呼びかけは重要である。
 日常生活の場を捨てざるを得ない直接の被災者たちと、私(安原)のような東京に住む間接の被災者との間には生活感覚として同一とはいえない。しかしシェア(共有)の輪を広げようという試みは重要であるし、私自身、その感覚は共有できるのではないかと感じている。

▽ 毎日新聞社説 
 高レベル放射性廃棄物は、地下数百メートルの安定した地層に埋める考えだ。しかし、放射能が十分に下がるまでの数万年間、地層の安定が保たれるかは分からない。原子力発電環境整備機構が最終処分地を公募しているが、応じた自治体はない。
 その結果、全国の原発には行き場のない使用済み核燃料がたまり続けている。未来にこれ以上「核のごみ」というツケを回さないためにも、できるだけ速やかな「脱原発依存」を目指すべきだ。
 ところが、安倍政権は原子力・エネルギー政策を3.11以前に戻そうとしているかのようだ。象徴的なのが原発にまつわる審議会の人選だ。 

<安原の感想> 遠ざけられる脱原発派
 末尾の「原発にまつわる審議会の人選だ」は次のことを指している。
 経済産業相の諮問機関、総合資源エネルギー調査会総合部会(原発を含む中長期のエネルギー政策を審議する)では民主党政権時代、24人の委員のうち7人が脱原発派だった。しかし安倍政権下では15人の委員に絞られ、脱原発派は2人に減らされ、原発立地県の知事も新たに加わった。安倍政権下では脱原発派は遠ざけられているのだ。
 脱原発派の排除は権力の傲慢さの表れである。政権に限らず、企業など他の組織も同じで、重要人事をみれば、そのトップの器量の度合い、傲慢度を推察できる。

▽讀賣新聞社説
 東日本大震災から2年を迎えた。国民みんなで改めて犠牲者の冥福を祈りたい。再起に向けた歩みは遅れている。政府が主導し、復興を加速しなければならない。被災者たちは津波の再来に不安を覚えながら、仮設住宅から水産加工場などに通う。
 「収入と安全安心をどう両立させればいいか」。石巻でよく聞かれる言葉は切実だ。復興策が議会や住民の反発を招き、辞職した町長もいる。それぞれの自治体と住民がジレンマに苦しみながら、「街の再生」を模索した2年だったと言えよう。
 被災地のプレハブの仮設住宅には、今も約11万人が暮らす。不自由な生活にストレスや不安を訴える住民が増えていることが懸念される。安定した生活が送れる新住居に早く移れるよう、自治体は復興住宅の建設を急ぐべきだ。

<安原の感想> 軍事費の一部を被災者へ
 データを補足しておきたい。避難生活を送る被災者は31万5000人を下らない。うち約16万人が、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた福島県の避難者である。
 避難生活を余儀なくされている人々は31万人を超える、という数字を一見しただけでいかに多くの人々が無惨な日常生活を今なお強いられているかが分かる。いうまでもなく、これは決して自己責任とはいえない。善良な犠牲者である。
 軍事など右傾化路線推進に熱心な安倍政権に注文したい。軍事費の一部を被災者へ再配分してはどうか。それが「民」へ心寄せる政治家の心得ではないか。

▽ 日本経済新聞社説
 安倍政権ができて2カ月以上たつのに、民主党政権が決めた廃炉や除染の工程表はそのままだ。政府は現実を踏まえて工程表を作り直し、被災者が希望を持てるように、生活再建や地域再生を含めた大きな見取り図を示すときだ。
 前政権が「原発敷地内で事故は収束した」と宣言してから1年3カ月。福島原発の状況に大きな進展はなく、むしろ廃炉への道のりの険しさを浮き彫りにした。
 廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない。それだけに、2~3年先に達成可能な目標が要る。それがないと、避難を強いられた住民は将来への不安を拭えない。被曝(ひばく)と闘いながら懸命に働く3千人の原発作業員の士気を保つためにも、政府と東電は新たな目標を示すべきだ。

<安原の感想> いのちへの無責任な犯罪
 上述の末尾の「政府と東電は新たな目標を示すべきだ」という指摘は、願望としては分かるが、現実に可能なことなのだろうか。日経社説自体が「廃炉は40年間に及ぶ長期戦になり、炉の冷却が不要になる時期も見通せない」と指摘しているではないか。
 原発に関する限り、あれこれ恣意的な願望を述べることにどれほどの実質的な意味があるだろうか。原発には身勝手な恣意を受け付けない悪魔性が潜んでいる。それを軽視して、目先の算盤勘定で原発推進を唱導するのは、人類とそのいのちに対する無責任な犯罪とはいえないか。

▽ 東京新聞社説
 デンマーク南部のロラン島を訪れた。沖縄本島とほぼ同じ広さ、人口六万五千人の風の島では、至る所で個人所有の風車が回り、「エネルギー自給率500%の島」とも呼ばれている。デンマークは原発をやめて、自然エネルギーを選んだ国である。ロラン島では、かつて栄えた造船業が衰退したあと、前世紀の末、造船所の跡地に風力発電機のブレード(羽根)を造る工場を誘致したのが転機になった。当時市の職員として新産業の育成に奔走した現市議のレオ・クリステンセンさんは「ひとつの時代が終わり、新しい時代への一歩を踏み出した」と振り返る。
 二度目の春、福島や東北だけでなく、私たちみんなが持続可能な未来に向けて、もう一歩、踏み出そう。そのためにも福島の今を正視し、決して忘れないでいよう。

<安原の感想>「持続可能な未来」という希望
 結びの「福島の今を正視し、忘れないでいよう」という呼びかけに双手を挙げて賛同したい。何のためにか。いうまでもなく「私たちみんなが持続可能な未来に向けて踏み出す」ためにほかならない。単なる進軍マーチ程度の呼びかけと受け止めるわけにはゆかない。「持続可能な未来」という希望をただの夢想に終わらせないで、地球と人類といのちのためにどこまでも大切にしたい。
 そのモデルの一つがデンマークという小国であるところも新しい時代の息吹を感じさせる。もはや軍事力を振り回す大国の時代ではない。いのちと希望を育む小国時代の到来といえよう。


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日米首脳会談後の日米同盟の行方は
大手メディアと沖縄紙が論じたこと

安原和雄
 安倍首相の訪米による初の日米首脳会談後の日米同盟は何を目指すのか。メディアはどう論じているか。新聞社説の見出しを紹介すると、「懐の深い同盟を」、「安全運転を外交でも」、「アジア安定へ同盟強化を」、「同盟強化というけれど」、「犠牲強いる同盟」など日米同盟強化論から同盟批判まで多様である。
 この新聞論調から見えてくるのは、日米同盟そのものが大きな転機に直面しているという事実である。特に沖縄紙からは「長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別を解消する方向に直ちにかじを切ってもらいたい」という切実な声が伝わってくる。「日米軍事同盟時代の終わり」の始まりを示唆しているとはいえないか。(2013年2月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 本土の大手5紙と沖縄の琉球新報の社説は日米首脳会談をどのように論評しているのか。まず各紙社説の見出しは以下の通り。なお東京新聞は2月25日付、他の各紙は24日付である。
*朝日新聞=TPPは消費者の視点で 懐の深い同盟関係を
*毎日新聞=「安全運転」を外交でも TPPで早く存在感を
*讀賣新聞=アジア安定へ同盟を強化せよ TPP参加の国内調整が急務だ
*日本経済新聞=同盟強化へ首相が行動するときだ
*東京新聞=日米首脳会談 同盟強化というけれど
*琉球新報=日米首脳会談 犠牲強いる“同盟”は幻想
 以下、各紙社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

▽朝日新聞社説
 日米同盟が大切であることには、私たちも同意する。だからといって、中国との対立を深めては、日本の利益を損なう。敵味方を分ける冷戦型ではなく、懐の深い戦略を描くよう首相に求める。
 首相は、軍事面の同盟強化に前のめりだった。首脳会談では、防衛費の増額や、集団的自衛権行使の検討を始めたことを紹介し、日米防衛協力の指針(ガイドライン)見直しの検討を進めると述べた。一方で、中国を牽制(けんせい)した。
 そういう首相と、米国側の姿勢には温度差があった。オバマ大統領は記者団の前で「日米同盟はアジア太平洋地域の礎だ」と語ったが、子細には踏み込まず、「両国にとって一番重要な分野は経済成長だ」と力点の違いものぞかせた。
 いまは、経済の相互依存が進み、米国は中国と敵対したくない。米中よりも日中のあつれきのほうが大きく、米国には日中の争いに巻き込まれることを懸念する声が強い。

<安原のコメント>「結びつき」を阻む策謀
 朝日社説は次のようにも指摘している。「日米同盟を大切にしつつ、いろんな国とヒト、モノ、カネの結びを深め、相手を傷つけたら自身が立ちゆかぬ深い関係を築く。日中や日米中だけで力みあわぬよう、多様な地域連携の枠組みを作るのが得策だ。対立より結びつきで安全を図る戦略を構想しないと、日本は世界に取り残される」と。
 「結びつきで安全を図る戦略」は一つの選択肢といえよう。従来とかく日米安保体制を足場にして、「結びつき」に背を向ける対立抗争を好んだ。その陰には米日両国好戦派の軍産複合体の策謀が潜んでいた。この策謀を果たしてどこまで抑え込むことが出来るかが「安全を図る戦略」のカギとなる。

▽毎日新聞社説
 日米同盟を基軸に「強い日本」を目指すという安倍外交が、本格的なスタートを切った。北朝鮮の核開発や尖閣諸島をめぐる中国との対立など深刻な不安定要因を抱える日本にとって、今ほど外交力が試される時はない。その基盤となるのが米国との連携である。必要なのは、「強固な日米同盟」を背景にした賢明で注意深い外交だ。
 日本から対立をあおるようなことはしない。領土をめぐる問題は力ではなく対話で解決する。この2点を日米両首脳が世界に向かって発信したことを、中国は重く受け止めるべきだ。一方、日米同盟強化は他国とことさら対立するためではなく、アジアに安定をもたらすためのものでなければならない。安倍氏にはタカ派色を抑制しながら、現実主義的な外交をこれからも続けてもらいたい。外交の「安全運転」は、米国が望んでいることでもある。

<安原のコメント> 「強固な日米同盟」と「外交の安全運転」
前段に「強い日本」、「強固な日米同盟」という認識が強調されている。しかも日米同盟に支えられた「強い」であり、「強固」である。「強い精神力」という意味だろうか。そういう理解はここではむずかしい。やはり軍事力に支えられた「強い日本」であり、「強固な日米同盟」と理解できる。
しかし一方では「日本から対立をあおるようなことはしない」、「日米同盟強化は他国とことさら対立するためではなく、・・・」という釈明が付け加わっている。これが<外交の「安全運転」を>とつながっている。「強い日本」と「外交の安全運転」とが表裏一体の関係にある。軍事力のみに依存する時代ではもはやないということか。

▽讀賣新聞社説
 オバマ米政権も、安倍政権との間で日米関係を再構築することがアジア全体の安定につながり、自らのアジア重視戦略にも資する、と判断しているのだろう。
 焦点だった日本の環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加について、日米両首脳は共同声明を発表した。全品目を交渉対象にするとの原則を堅持しながら、全ての関税撤廃を事前に約束する必要はないことを確認した。首相は訪米前、「聖域なき関税撤廃を前提とする交渉参加には反対する」との自民党政権公約を順守する方針を強調していた。
 公約と交渉参加を両立させる今回の日米合意の意義は大きい。成長著しいアジアの活力を取り込むTPP参加は、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の成長戦略の重要な柱となり、経済再生を促進する効果が期待されよう。

<安原のコメント> アベノミクス始動の必要条件
 「いよいよアベノミクス始動」へ、という大いなる期待を込めた社説である。しかし本当のところ、どこまで期待できるのだろうか。アベノミクスとは、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「成長戦略」という3本の柱からなっている。とくに日本銀行には物価上昇率2%を目標に金融緩和を進めることを期待している。
重要なことは新規需要をどこに求めるかである。首相の頭にあるのは、成長著しいアジアの活力を取り込むためのTPP参加である。しかしあえて指摘すれば、なぜ国内需要に目を向けないのか。例えば300兆円ともいわれる大企業中心の内部留保を賃金として還元することだ。これこそがアベノミクス始動の必要条件であるべきではないか。

▽日本経済新聞社説
 今回の訪米で日米関係を強める道筋を敷くことはできた。だが、それが実を結ぶかどうかは、今後の行動にかかっている。その最たるものが、環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉への参加問題だ。そもそも、日米両国にとっての最大の課題は、台頭する中国にどう向き合い、協力を引き出していくかである。TPPはそのための経済の枠組みだ。両国は同様に、外交・安全保障面でも協力の足場を固めなければならない。
 日米同盟を深めるためには、言葉だけでなく、行動が必要だ。米国の国防予算は大幅に削られようとしている。米軍のアジア関与が息切れしないよう、日本として支えていく努力が大切だ。では、どうすればよいのか。まずは、安倍首相が会談でも約束した日本の防衛力強化だ。日本を守るための負担が減れば、米軍はアジアの他の地域に余力を回せる。

<安原のコメント>「日本の防衛力強化」は疑問
 「日本の防衛力強化」というお人好しの主張もいい加減にして貰いたい ― この日経社説を一読して得た印象である。かつて経済記者は防衛力(=軍事力)の強化にはそれなりの距離をおいて観察していたものだ。なぜなら日常の国民生活に貢献しない軍需生産が活発になれば、民生圧迫で、経済の不健全化を招くと考えたからである。
 しかし最近は発想に変化が生じているらしい。「日米同盟深化」を大義名分として「日本の防衛力強化」に乗り出せ、とそそのかしているだけではない。「日本を守るための負担が減れば、米軍はアジアの他の地域に余力を回せる」と負担の肩代わりまで提案している。「防衛力強化」論は、好戦派の意図するところで、それとは一線を画して、なぜ軍縮への提唱を試みようとはしないのか、不思議である。

▽東京新聞社説
 民主党政権時代に日米関係が悪化し、自民党政権に代わって改善したという幻想を振りまくのは建設的ではない。
 首相が同盟の信頼を強めるというのなら、むしろ安保体制の脆弱(ぜいじゃく)性克服に力を入れるべきである。それは在日米軍基地の74%が集中する沖縄県の基地負担軽減だ。国外・県外移設など抜本的な解決策を模索し始める時期ではないか。住民の反発が基地を囲む同盟関係が強固とは言えまい。
 中国の台頭は日米のみならず、アジア・太平洋の国々にとって関心事項だ。首相が尖閣諸島をめぐる問題で「冷静に対処する考え」を伝えたことは評価したい。毅然(きぜん)とした対応は必要だが、緊張をいたずらに高めないことも、日米同盟における日本の重い役割だ。

<安原のコメント> 中国にどう対応するか ― 日中米ソ平和同盟へ
 中国にどう対応し、アジアの平和をどう確立するかを思案するとき、「悲劇の宰相」として知られる石橋湛山(1884~1973年)を想い起こさずにはいられない。湛山は「日中米ソ平和同盟」を提唱したことで知られる。日米間の日米安保条約を中国、ソ連にまで広げ、相互安全保障条約に格上げする構想で、現在なら、南北朝鮮の参加も視野に入れたい。
 目下のところ、残念ながらこのような構想には目が届かず、目先の対立抗争に神経をとがらせているのは、決して智慧ある所業とはいえない。社説が指摘するように「緊張をいたずらに高めないことも、日米同盟における日本の重い役割」だとすれば、湛山流の平和同盟志向は、「戦争放棄」の平和憲法を持つ日本の歴史的役割とはいえないか。

▽琉球新報社説
 懸案の普天間問題で日米両首脳は、名護市辺野古移設の推進方針で一致した。だが、県内移設は知事が事実上不可能との立場を鮮明にし、県内全41市町村長が明確に反対している。日米合意自体が有名無実化している現実を、両首脳は直視すべきだ。
 首相の日米同盟復活宣言は、基地の過重負担の軽減を切望する県民からすれば、対米追従路線の拡充・強化としか映らない。長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別を解消する方向に直ちにかじを切ってもらいたい。
 首脳会談で、辺野古の埋め立て申請時期に触れなかったことが、沖縄に対する免罪符になると考えているとすれば、思い違いも甚だしい。日米安全保障体制が沖縄の犠牲の上に成り立っている状況を抜本的に改善しない限り、日米関係の強化も完全復活も、幻想にすぎないと自覚すべきだ。

<安原のコメント> 構造的差別の解消を
 冒頭で紹介した琉球新報社説の見出しを再録すれば、<日米首脳会談 犠牲強いる“同盟”は幻想>となっている。なぜ首相の日米同盟復活宣言は幻想なのか。それはこの宣言からは「長年にわたって沖縄が強いられている構造的差別」を解消する方向がみえてこないからである。ここでの構造的差別とは、沖縄県民にとっての米軍基地の加重負担であり、対米追従路線の拡充・強化であり、さらに沖縄の犠牲を強いる日米安保体制そのものから生じている。
 沖縄に見るこの構造的差別は、基地と無関係に暮らす本土のかなりの人々には実感しにくいことは否めないかも知れない。私(安原)自身は、かつて軍事問題担当記者として沖縄の米軍基地を訪ねたというささやかな体験があることを付記しておく。


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アベノミクスは人びとの生活を破壊
新政党「緑の党」が安倍政権を批判

安原和雄
 2012年夏発足した新政党「緑の党」が最近、安倍政権を手厳しく批判する姿勢を打ち出した。「アベノミクスは人々の生活を破壊する」というのだ。正論であり、支持したい。ただ「緑の党」といってもまだ広く知れ渡っているわけではない。
 しかしその政策は、変革意欲にあふれている。「いのち」尊重を軸に脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」を目指すだけではない。重要な政策については官僚などにゆだねないで、<市民自ら決定し、行動する「参加する民主主義」実践>の旗を掲げている。今2013年夏の参院選で果たしてどれほどの存在感を印象づけることが出来るか、そこに注目したい。(2013年2月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「緑の党」がアベノミクスを批判

 「緑の党」は2013年1月末日、「アベノミクスは人びとの生活を破壊する」と題して、安倍政権を批判する見解を公表した。その内容は以下の通り。

  安倍政権は、アベノミクスと呼ばれるデフレ脱却・経済再生の政策を華々しく打ち出してきている。この政策は(1)公共事業(「機動的な財政出動」)、(2)大胆な金融緩和、(3)成長戦略 の「3本の矢」から成り、その第1弾として緊急経済対策が決定された。

 緊急経済対策は、補正予算案として国が10.3兆円(基礎年金の国庫負担分を含めると13.1兆円)を出し、自治体なども合わせた事業費が20兆円に上るという大がかりなもので、その中心は4.7兆円を費やす公共事業である。「防災・減災」のために、老朽化した道路や橋の改修に取り組むが、必要性に疑問のあるものなどが含まれ、従来型の公共事業の全面的な復活が目論まれている。また、緊急経済対策には「成長による富の創出」や「暮らしの安心」のための支出も含まれているが、後者には自衛隊の装備強化まで入っている。

 安倍政権は、公共事業中心の財政出動が民間の投資や雇用の増加に波及し、景気回復をもたらすとしている。しかし、バブル崩壊後の90年代にも採られたこの手法は、まったく効果がなく巨額の借金だけを積み残した。今回も、主たる財源を7.8兆円の国債発行に求めており、そのため本年度の国債発行額は52兆円にまで増え、すでに1000兆円に達している政府債務はますます膨らむ。
 それによって長期金利が上昇し、国債の利払い額が雪だるま式に増える危険がある。

 安倍政権は、財政出動と同時に無制限の金融緩和(注)を進めるために、日銀と政策協定を結び、日銀に2%の物価上昇率目標(インフレ・ターゲット)を定めて無制限の資金供給を行なうように強要した。
しかし、すでに日銀による金融緩和は十分すぎるほど行なわれているが、企業や個人による資金需要が低調なため、金融機関の手元に大量の資金が滞留している。安倍政権の狙いは、政府が増発する国債を金融機関がいったん購入し、それを日銀に全額買い取らせることによって財政赤字を穴埋めさせることにある。これは、日銀が戦時中に国債を直接引き受けたのと同様で、財政赤字の膨張に対する歯止めは失われる。

 安倍政権のブレーンたちは、日銀の無制限の資金供給や大胆な金融緩和によるインフレの進行が予想されると、企業は投資のための借入を増やし、個人はモノを早めに買おうとするから経済が活性化し景気が回復すると説いている。しかし、この20年間で日本の物価上昇率が2%を越えたのは、消費税を5%に引き上げた97年と食料品やガソリンの値段が急騰した08年だけだ。金融緩和に伴う円安の進行は、自動車や電機部門の企業の輸出を伸ばしその株価を上昇させるが、やがて燃料など輸入価格の上昇を引き起こす。
 インフレが人びとにもたらすのは、食料品や燃料の値上がりと消費増税分の価格への転化だけであり、けっして給料が上がったり生活が楽になったりするわけではない。
 それは、2000年代に入って、企業利益が好調な時期にあっても働く人々の所得はむしろ低下していた事実を見れば明らかだ。

 安倍政権は、アベノミクスが景気を回復させて実質GDPを2%押し上げ、60万人の雇用を創出すると豪語している。しかし、すでに経済成長の時代は終わり、仮に一時的に経済成長しても、増えるのは低賃金の非正規雇用と正社員の長時間労働だけなのだ。
 また、「借金を増やさずに社会保障を拡充するために消費税率を引き上げる」と言いながら、国債増発で借金を増やし、社会保障は拡充どころか削減しようとしていることも批判されるべきだ。

 いま求められている経済政策は、従来型の公共事業の復活でも国債増発を支える金融緩和でもない。私たちは、質の良い雇用と仕事を再生可能エネルギー、農業と食、医療・介護・子育ての分野で創り出し、地域のなかでモノと仕事と資金が回る循環型経済をめざしていく。

(注)金融緩和:(1)金利の引き下げや (2)民間の金融機関から国債などを日銀が買い取ることによって、市場に回る通貨を増やすこと。現在、金利はゼロに近く、(1)は限界に達しており、(2)の施策が取られようとしている。

▽ 「緑の党」はどういう政党か

 「緑の党」は2012年7月結成された新政党で、地方議員はかなりの数で活躍しているが、衆参両院の議員はまだいない。2013年7月の参議院選挙に候補者を立て、議席獲得をめざす。同党の共同代表4氏は次の通り。
*すぐろ奈緒(なお)=東京都・杉並区議会議員
*高坂 勝(こうさか・まさる)=東京都・『減速して生きる ダウンシフターズ』著者
*長谷川羽衣子(はせがわ・ういこ)=京都府・NGOe-みらい構想代表
*中山 均(なかやま・ひとし)=新潟県・新潟市議会議員

 この「緑の党」はどういう政策を掲げているのか。同党の「緑の社会ビジョン」によると、その骨子は以下の通りである。
(1)経済成長優先主義から抜け出し、「いのち」を重んじ、自然と共生する循環型経済を創り出す。
(2)プロの政治家、官僚、専門家に重要な決定を預ける「おまかせ民主主義」にサヨナラし、市民が自ら決定し、行動する「参加する民主主義」を実践する。
(3)原発のない社会、エコロジカルで持続可能な、公正で平等な、多様性のある社会、平和な世界をめざす。
(4)いのちと放射能は共存できない!「地産・地消」の再生エネルギーで暮らす。
(5)競争とサヨナラし、スロー・スモール・シンプルで豊かに生きる。
(6)すべての人が性別にとらわれず、「自分らしく」生きられることをめざす。
(7)平和と非暴力の北東アジアを創る。沖縄と日本本土の米軍基地をなくし、徹底的な軍縮を進め、軍事同盟としての日米安保のすみやかな解消を図る。

▽ メール交換による活発な党内議論

 緑の党は、メール交換によって活発な党内議論を繰り広げている。その典型例が憲法をめぐる意見交換である。以下にその一例を仮名で紹介する。なおメールによる意見交換は実名で行われている。

*信州竜援塾のNさん(男性)から
 憲法についての私見です。9条だ、96条だ、xx条だという運動からは、そろそろ卒業しなければなりません。「xx条を守ろう!」という運動から「憲法で想定した日本国の姿を実現しよう!」という、運動に転換しませんか。
 憲法を守るべきは天皇、官僚、議員、公務員です。末端公務員の体育教師が、弱者である生徒に日常的に暴力をふるうことが容認されるような組織のあり方を、日本国憲法は想定していません。国家と企業がぐるみになって地方を中央に隷属させ、金の力で無理無体を押し通し、挙句に大事故を起こしても国家や企業が責任を取らなくてもいいような社会を日本国憲法は想定していません。

 ところが現実は、憲法が想定するのとは正反対の政策が堂々とまかり通っています。となれば憲法の内容などほとんだ知らない大半の人のなかでは、「ろくでもない憲法だから、何の役にも立たない」と考える人が、日々少しづつ増えています。
 みどりの党には従来の護憲政党のような「9条を守る」運動ではなく、「憲法が想定する社会の実現」を掲げていただきたい。

*「緑の大阪」豊中のYさん(女性)の返信
 貴重なご意見ありがとう。私は、10年ほど前から、大阪の北摂地域にて「活かそう憲法!北摂市民ネットワーク」という会をつくって、現在の憲法の実現に向けて活動して来ました。

 Nさんがおっしゃるとおり、憲法を「守る」べきは、天皇、官僚、議員、公務員です。しかし、その守るべき議員が「憲法9条」をないがしろにして、軍備を増強し「国防軍」にしようとしています。
 私は、最低限このような動きに対して黙っているわけにはいきません。安易に、「憲法を創る」という改憲派の議論に巻き込まれるわけにはいかないと思っています。実現すべきは、「憲法」の「基本的人権の尊重」であり、「平和主義」であり、「国民主権」です。

 更に言えば、私はこの「憲法」の理念を活かし発展させるべく、「緑の党」の理念に賛同し、活動をしています。今の「憲法」の基本が「個人の尊厳」なら、「緑の党」の基本的なスタンスは、「命の尊厳」であると思っています。その意味で、安倍内閣などの改憲派とは一線を引いて、「緑の党」の社会的ビジョンの実現に向けた活動を行うべきだと思っています。

今の「安倍政権」の改憲の動きは止めるべきです。「安倍政権」の憲法9条・憲法96条改悪の動きを止める意味で「守る」という言葉を使いました。決して憲法を守る活動だけをしている訳ではありません。

<安原の感想> 変革力を持続させる存在感のある政党へ

 右翼反動の安倍政権をしっかり批判する立場を打ち出している政党としては、日本共産党以外では「緑の党」を挙げたい。緑の党は伸びてほしい政党であり、新しい時代を創る意欲に燃える政党、という評価もできる。
 緑の党の特質としては、アベノミクス(安倍政権の経済成長策などのデフレ脱却・経済再生の政策)への批判も見逃せないが、同時に注目すべきは、「緑の社会ビジョン」である。そこには「いのち」尊重を軸に脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」などを掲げている。このことはめざす政策のあり方として重要である。

 それだけではなく、「自分らしく」という主張に注目したい。<「おまかせ民主主義」にサヨナラし、市民が自ら決定し、行動する「参加する民主主義」の実践>を宣言すると同時に、<すべての人が性別にとらわれず、「自分らしく」生きられることをめざす>としている。この姿勢が<公正で平等な、多様性のある社会、平和な世界をめざす>こととつながっている。

 政党の政策論に「自分らしく」という発想を盛り込むところなど、いかにも緑の党らしい。一人ひとりの日常的な生き方と、政党として目指すべき政策とが切り離せない形でつながっているところが既存の政党とは異質といえる。だからこそメール交換による活発な党内議論も可能となり、これは新しい政治スタイルと評価できるだろう。
 ともかくユニークで存在感があり、変革力を持続させる政党に成長していくことを期待したい。


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日本再生めざして非暴力=平和力を
「いかされている」ことに学ぶとき

安原和雄
他人様のお世話にならず、自力で生きたいと想っている人が案外多いのではないだろうか。健気(けなげ)な生き方ともいえるが、この発想には無理がある。人間は独りでは生きられない。自然環境や他人様のお陰で「ともにいきる」のであり、もう一歩進めて、「いかされている」と考えたい。
出口を見失ったかにみえる日本の再生をどう図っていくか、安倍政権の軍事力中心の右傾化による打開策は正しくない。非暴力=平和力の思想を今こそ高く掲げて広め、実践していくときである。(2013年1月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 先達の芹川博通(注)著『「ともにいきる」思想から「いかされている」思想へ 宗教断想三十話』(=改訂版・2013年1月刊・北樹出版)に学ぶ機会を得た。同著作『三十話』の内容は実に豊かで、ねじり鉢巻きの心境で読んだ。読後感の一端を以下、仏教を中心に述べる。<>内は著作からの引用文である。
(注)芹川博通(せりかわ ひろみち)氏は1939年生まれ。淑徳短期大学名誉教授。多くの大学の講師を歴任。文学博士。比較思想学会前会長、日本宗教学会評議員。著書は『芹川博通著作集』(全8巻、北樹出版)ほか多数。

(1)「ともにいきる」から「いかされている」へ ― 仏教の自然観と環境倫理

 <近代科学のめざましい発展が自然破壊や環境汚染をもたらし、その規模も広域化し深刻なものとなり、人類の生存そのものを脅かす状況となってきている。この原因をひとことでいえば、近代科学文明のよってたつ人間中心の世界観・自然観によるものである。そこで諸宗教の自然観を究める必要があり、諸宗教のなかから仏教の自然観を概観すると、大別して二つに分けることができる。

 その一つは、人間と自然の生命共同体説、草木成仏説などで、これらは人間は自然と「ともにいきる」とする環境倫理の思想を示している。この仏教の自然観は、人間中心の見解ではなく、両者(自然と人間)を同等とみる考えに基づいている。
 もう一つは、山の神、樹の神、山岳信仰、太陽神、自然即仏(しぜんそくぶつ)などで、こうした仏教の自然観に立つなら、人間は自然によって「いかされている」という環境倫理思想へ展開していく。
 この二つはともにすぐれた環境倫理思想だが、人間が今日直面する人類生存の危機を認識するならば、人間と自然の関係は、「ともにいきる」思想をさらにすすめて、人間が自然によって「いかされている」という思想こそが重要であり、この思想は人間中心主義の完全な放棄である・・・>(第16話から)

(安原の感想)「生かされている」という認識と思想の重要性
ここでの「いかされている」(=生かされている)思想は、残念ながら昨今の日本では余り注目されない。とくに右傾化をすすめる安倍政権の登場とともに、この感覚はほとんど重視されないような印象がある。独りよがりになって、「自分一人で生きている」と錯覚していながら、その誤認に気づかず、傲慢な姿勢の輩が目立つ昨今である。だからこそ「いかされている」という客観的事実の認識と思想の重要性を大いに強調しなければならない。

(2)不殺生の思想と仏教 ― 平和思想のいしずえ

 <アヒンサーとは、生きものを傷つけたり、あるいはその生命を奪うことを罪深い行為と意識し、これを避けること。「不殺生」とか「不傷害」と訳される。
 インド独立運動の指導者、ガーンディー(1869―1948年)はアヒンサーに立脚する「非暴力主義」の哲学を展開した。その非暴力主義は、(中略)むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするものだった。したがって彼の思想を「無抵抗主義」と訳してはならない、といわれる。
 アヒンサーが慈悲や施与の精神と固く結びつくと、人間と自然の共生、世界各国の共存・共生といった現代の問題や、世界平和を考えるいしずえの思想として、アヒンサーの思想は再び脚光を浴びることになるのではないか。>(第17話から)

(安原の感想)非暴力と平和力と
インド独立運動の指導者、ガーンディーがアヒンサーに立脚する非暴力主義にこだわっていたことはよく知られている。しかし彼の非暴力主義は決して単純ではない。
 まず抵抗力を持たないような「無抵抗主義」ではない。抵抗力は十分備わっている。
 次に上述の<むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするもの>とは何を含意しているのか。ここが彼の抵抗力の真髄といえるかも知れない。
 「暴ならざる力」はつまり「平和を求め、つくる力」であり、いうまでもなくそれは暴力とは異質である。視点を広げれば、「暴ならざる力」は慈悲や施与の精神であり、人間と自然の共生であり、世界各国の共存・共生であり、さらに世界平和の追求である。

 こうして非暴力と平和力は相互に深く結びついている。これは日本国憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)などにうたわれている平和力をどう実践していくかにかかわってくる。
 近隣諸国の思慮を欠いた些細な挑発に乗らないことである。一方、挑発を期待しているかにみえる日本国内の一部の好戦派には自粛を求めたい。特に最近、老人に無責任な好戦派が目立つ。自らのいのちを賭けて戦う意思も気力もないご老体はお静かに願いたい。

(3)仏教の「自他共に立つ経済倫理」 ― 自利利他行

 <大乗仏教の経済倫理の一つに、大乗菩薩の「自利利他行」があげられる。菩薩の使命はみずから仏(ほとけ)になることを目指して努力しながら(自利行)、衆生救済のための修行を優先的に行うこと(利他行)。つまり自利利他の両面を兼ね備えた行為が菩薩の実践道であり、この菩薩道が大乗仏教である。
 このように大乗菩薩の自利利他行より導き出されたものが「自他共に立つ経済倫理」・「共生の倫理」である。日本仏教では、大乗仏教の精神を説いた最澄(767―822年)の「己(おの)れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」が輝いている。

 (中略)現代世界のように、格差社会の語が使われるイデオロギー色のうすらいだ自由な経済社会に適合する言葉でいうと、生産者はみずからの利潤追求を唯一の目標とするのではなく、「消費者の利益を優先する経済」の樹立を指向し、この理念を世界に発信しなくてはならない。これは「消費者と生産者の共生の経済倫理」ということもできる。一例をあげると、「良い品を安く」である。
 この思想は、仏教の経済倫理の一つの到達点といえる。ここで残された課題は、これを実現するための仏教の経済理論の構築が不可欠になってくる。>(第20話から)

 なお(第20話)の末尾に仏教と経済に関する8著作が紹介されており、その一つとして、<安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と」上・下『仏教経済研究』37・38号、駒澤大学仏教経済研究所、2008-09年>が挙げられている。

(安原の感想)日本再生を目指して「忘己利他」の実践を
ここで「自利利他行」をどう実践していくかが大きな課題として浮上してくる。仏教専門家の多くも、知識としての「自利利他行」を理解しているとしても、それが果たして日常の実践として生かされているのかどうか。日常の実践を欠いているとすれば、最澄(日本における天台宗の創始者)の「忘己利他」(もうこりた)も価値半減とはいえないか。
 昨今、日本人の質的劣化が目立ち何かと話題を呼んでいる。経済の分野ではかつてのような経済成長が期待できず、それが質的劣化の背景にあるとみる考え方もある。しかしそれは狭い経済主義に囚われた錯覚であり、真相は日本人の多くが「忘己利他」の理念と実践を忘却しているためではないか。「忘己利他」の日常的な実践を一人ひとりがどう広めていくか、今後の日本の再生と発展にとって差し迫った大きな課題というべきである。


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「混迷の時代」をどう乗り切るか
2013年元旦社説を論評する

安原和雄
朝日新聞の年頭社説が「混迷の時代の年頭に」と題しているように、たしかに日本の現況は混迷を深めている。この混迷をどう克服するのか、あるいは乗り切ることが出来るのかが今年の大きな課題というほかない。社説の論調も混迷の時代を象徴するかのように多様である。自信に支えられた社説を見出すのは難しい。
そういう多様な社説からあえて一つを選び出すとすれば、東京新聞社説の「人間中心主義を貫く」を挙げたい。ただ欲をいえば、むしろ人間に限らず自然環境(動植物)を含む「いのち中心主義」という視点を重視したい。今年はこの「いのち」がこれまでにも増して何かと話題として浮かび上がってくるのではないか。(2013年1月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

まず大手5紙の2013年元旦社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞=混迷の時代の年頭に 「日本を考える」を考える
*毎日新聞=2013年を展望する 骨太の互恵精神育てよ
*讀賣新聞=政治の安定で国力を取り戻せ 成長戦略練り直しは原発から
*日本経済新聞=国力を高める① 目標設定で「明るい明日」を切り開こう
*東京新聞=年のはじめに考える 人間中心主義を貫く

以下、各紙社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
▽ 朝日新聞社説
新年、日本が向き合う課題は何か、日本はどんな道を選ぶべきか ―。というのは正月のテレビの討論番組や新聞の社説でよく取り上げるテーマだ。でも私たちが抱える、うんざりするような問題の数々は、「日本は」と国を主語にして考えて答えが見つかるようなものなのか。
年末の選挙戦には「日本」があふれていた。「日本を取り戻す」(自民党)、「日本再建」(公明党)、「したたかな日本」(日本維新の会)・・・・・。でも未来の日本についてはっきりしたイメージは浮かび上がらなかった。

<安原のコメント> 不思議な社説という印象
繰り返し読んでみたが、今ひとつ真意が読み取れないというもどかしさが残る不思議な社説である。「混迷の時代の年頭に」が社説の見出しになっている。たしかに「混迷の時代」であることは否定できない。
しかし社説そのものも混迷してはいないか。<「日本を考える」を考える>という見出し自体、混迷を誘っている。社説は個人好みの文学作品ではないはずだから、明快に論じてほしい。もっとも「日本」という言葉が政治の場では安易に使われる傾向にあることは否めない。

▽ 毎日新聞社説
互恵の精神は、国と国との関係にも応用できる。日本外交の当面の最大の課題は、中国とどう向き合うか、にある。尖閣諸島をめぐる対立は、中国側の領海、領空侵犯で武力紛争の可能性まで取りざたされるに至っている。戦後一回も戦争しなかったわが国の平和力を今一度点検し、どうすれば最悪の事態を回避できるか、国民的議論が必要だ。
戦後の平和を支えてきたのは、二度と侵略戦争はしないという誓いと、現実的な抑止力として機能する日米安保体制であろう。係争はあくまでも話し合いで解決する。もちろん、適正な抑止力を維持するための軍事上の備えは怠らない。そのためには日米安保体制の意義、機能を再確認しておくことが大切だ。

<安原のコメント> 驚くべき日米安保推進論
驚くほどの日米安保体制賛美論である。「現実的な抑止力としての日米安保体制」、「軍事上の備えを怠らない」、「日米安保体制の意義、機能を再確認しておくことが大切」などの指摘は、手放しの「日米安保」賛美論というほかない。
毎日新聞社説はかつては安保批判論を主張していたように記憶しているが、いつからなにがきっかけで、これほどの安保推進論に転換したのか。米国を「主犯」とする地球規模での侵攻作戦を日本が実質的に支えてきた政治的、軍事的基盤がほかならぬ安保体制であることは「常識」と思うが、どうか。

▽ 讀賣新聞社説
先の衆院選で、「原発ゼロ」を無責任だとして否定した自民党が大勝したことで、安倍政権には、原子力を含む電源のベストな組み合わせを早急に検討することが求められよう。太陽光や風力など再生可能エネルギーは、水力を除けば、全発電量の1%強にすぎない。すぐに原発に代わる主要電源として利用できると期待してはならない。
世界は引き続き原発を活用し、増設する。特に中国は、十数基を運転させ、50基以上の原発建設を計画している。首相は安全な原発の新設へ意欲を示したが、有為な人材を確保・育成するうえでも、次世代型原発の新設という選択肢を排除すべきではない。成長の観点からは、原発のインフラ輸出も促進したい。

<安原のコメント> 自然エネルギーに活路を
これほど徹底した原発推進論も珍しいのではないか。「いい度胸」と褒めてみたい誘惑に駆られるが、そうはいかない。有無を言わせぬ推進論に固執すれば、こういう主張もあり得るだろう。しかし今さら指摘するまでもないが、「新聞の使命は権力批判」である。この視点にこだわる立場としては到底受け入れることはできない。
もう一つ、疑問がある。それは再生可能エネルギーの将来性をどう考えるかである。現状では確かに規模は小さい。しかし太陽光、風力など再生可能な自然エネルギーに日本は恵まれている。いのちにかかわる危険な原発よりも、自然エネルギーに活路を見出したい。

▽ 日本経済新聞社説
日本の国の力がどんどん落ちている。国内総生産(GDP)はすでに中国に抜かれた。強みを発揮してきた産業も崩れた。巨額の赤字を抱える財政は身動きが取れない。政治は衆院選で自民党が大勝したものの、夏の参院選まで衆参ねじれの状況は変わらない。手をこまぬいていては、この国に明日はない。
経済再生のための目標をどこに置くのか。国民総所得(GNI)という指標を新たな物さしにしてみてはどうか。「投資立国」の勧めである。GDPに海外投資の利益を加えたのがGNIだ。ただGDP自体が増えない限り、GNIの大幅な拡大も望めない。

<安原のコメント>「明るい明日」は期待できるか
日経社説の見出しは<目標設定で「明るい明日」切り開こう>である。その社説は吉田茂元首相の「日本国民よ、自信を持て」ということばで結んでいる。しかし何にどのように自信を持てばいいのか。そこが分からなければ「明るい明日」も期待できない。
社説は「投資立国」を勧めている。言い換えればカネ稼ぎに精を出せ、と言いたいのか。カネがなければ、人生もままならない。といってカネさえあれば幸せになるという保証があるわけではない。カネはあくまで手段にすぎない。国の財政で言えば、予算という名なのカネを国民の幸せのために使わなければならない。

▽ 東京新聞社説
新しい年を人間中心主義の始まりに―が願い。経済は人間のためのもの。若者や働く者に希望を与えなければならない。まず雇用、そして賃金。結婚し、子どもを持ち家庭を築く、そんな当たり前の願いが叶(かな)わぬ国や社会に未来があるはずはない。それゆえ人間中心主義が訴え続けられなければならない。
西欧の近代は自然を制御、征服する思想。今回の大震災はその西欧の限界を示した。近代思想や経済至上主義ではもう立ち行かない。自然と共生する文明のあり方を模索すべきではないか。近代文明を考え直す。そこに人間中心主義が連なっている。

<安原のコメント> 人間中心主義からいのち中心主義へ
東京新聞社説の結びは次の趣旨となっている。「満州事変から熱狂の十五年戦争をへて日本は破局に至った。三百万の多すぎる犠牲者をともなって。石橋湛山の非武装、非侵略の精神は日本国憲法九条の戦争放棄に引き継がれた。簡単には変えられない」と。
東京新聞社説が「人間中心主義」を唱道する視点は他紙の社説に比べれば、ユニークである。ただ、人間中心主義には自ずから限界がある。というのは人間中心主義は、例えば人間の欲望のままに地球環境の破壊をもたらしているからだ。だから私は「いのち中心主義」を強調するときだと考えている。ここでは人間が主役ではなく、いのちが主役である。
人間に限らず、自然(動植物)にもいのちが生きているからである。そのお陰で人間は生かされている。今年の年間テーマとして重視されるのは恐らく「いのち」ではないだろうか。


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今こそ「小日本主義」を広めるとき
安倍首相の「危機突破内閣」に抗して

安原和雄
安倍首相が舵取り役の「危機突破内閣」が発足した。先の総選挙で自民党は大勝したとはいえ、内実は決して安泰ではない。タカ派のイメージが強すぎる。それをむしろ「よいしょ」と支える論調もある。
101歳という高齢でなお健在の日野原重明・聖路加国際病院理事長の苦言にむしろ耳を傾けたい。それは軍事力を棄てる「小日本主義」のすすめである。これは敗戦後間もない頃、首相の座にあった石橋湛山の持論で、日米安保体制下で軍事力重視の強国へと暴走しかねない安倍政権をどう抑え込むかが今後の注目点にならざるを得ない。民意による批判、監視の目を光らせる時である。(2012年12月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ メディアは安倍政権発足をどう論じたか

まず大手紙(12月27日付)の社説を紹介しよう。
*朝日新聞=安倍内閣発足 再登板への期待と不安
*毎日新聞=第2次安倍内閣 「自民の変化」示す政治を
*讀賣新聞=第2次安倍内閣 危機突破へ政権の総力挙げよ 「強い経済」取り戻す知恵が要る
*日本経済新聞=安倍自民の力結集し政治の安定を
*東京新聞=第2次安倍内閣発足 謙虚さをいつまでも

上記の社説の見出しからそれなりに推測できるような内容の社説といえる。読まなくとも社説の筋は読み取れると言っては失礼だろうか。むしろ注目したいのは社説ではなく、讀賣新聞(27日付)一面に掲載された橋本五郎特別編集委員の署名入り記事、「拝啓 安倍晋三様 非情の宰相であれ」である。その骨子は以下の通り。

「政治とは可能性のアート(芸術・技術)である」。鉄血宰相、ビスマルクの言葉です。安倍さんには5年前、不本意にも退場せざるを得なかった挫折の経験がある。ならばこそ「芸術としての政治」を見せてほしい。
安倍さんには「タカ派」のイメージが付きまとっている。海外からも「右傾化」との指摘がある。そんな単純なレッテル張りを気にする必要はない。
国益を守ることには毅然とした「タカ派」でなければならない。その一方で決して一本やりの強硬路線ではなく、戦略的な「しなやかさ」が求められる。
心配なことは、安倍さんが優しいことで、マキャベリは、君主は「憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない」と書いている。
安倍さんが仕えた小泉純一郎さんの政治の特徴は「四つのない」にあった。一度決めたら「変えない」。事を決するにあたり「迷わない」。人の意見を「聞かない」。人に「頼まない」。小泉さんに倣い、確信したなら断固、非情に振る舞ってください。

<安原の感想> タカ派首相は平和憲法理念になじまない
我がニッポンもついに鉄血宰相、ビスマルク(1815~1898年、ドイツの政治家。1871年ドイツ統一を達成、帝国初代宰相となる。社会主義運動を弾圧する一方、社会政策を推進)を持ち上げる記事が登場する時代へと変化したのか、という思いが消えない。日本版ビスマルクの行動スタイルは、以下の4つに集約できる。
・「右傾化」というレッテル張りを気にする必要はないこと
・国益を守ることには毅然とした「タカ派」であること
・君主(日本では首相)は「恐れられる存在」になること
・元首相、小泉流の「非情の振る舞い」が重要であること

これら行動スタイルの勧めは、日本をどこへ誘(いざな)おうとしているのか。その一つは人権、平等、民主主義の否定あるいは一層の弱体化であり、それにとどまらない。平和、非戦への脅威も高まる。いずれも日本国憲法の基本理念の骨抜きに通じかねないだろう。安倍首相のタカ派ぶりがどこまで進むか、監視の目が離せない。タカ派首相は、日本国憲法の民主主義、平和などの基本理念とはどこまでもなじまないことを強調しておきたい。

▽ 日野原翁の「小日本主義」のすすめ

101歳の日野原重明・聖路加国際病院理事長(注)は毎日新聞朝刊(12月24日付、聞き手は伊藤智永記者)で「今こそ<小日本主義>を」と題して一問一答形式で安倍政権の選択すべき路線について注文をつけている。日本の敗戦(1945年)後、首相の座についた石橋湛山(1884~1973年)がこの記事で紹介されているが、その湛山は小日本主義につながる「小国主義」を唱えたことで知られる。一問一答の趣旨を以下に紹介する。
(注)日野原重明(ひのはら・しげあき)氏は、山口県生まれ。キリスト教牧師の家庭で育ち、京大大学院修了(医学博士)。聖路加国際病院長を歴任、予防医学や終末医療などの功績で文化勲章を受章。

(1)「非戦」に徹すれば、誰も日本を攻撃しない
問い:大陸国家・中国は、経済大国になるにつれ海洋への軍事圧力を強めている。
日野原:湛山は帝国主義の時代に、領土・勢力拡張政策が経済的・軍事的にいかに無価値であるかを論証し、領土は小さい「小日本」でも、「縄張りとしようとする野心を棄てるならば、戦争は絶対に起こらない、国防も用はない」と喝破した。日本が軍備を完全になくせば、どこの国が攻撃しますか。湛山は「道徳的位置」の力と言っている。
問い:無防備で対処する?
日野原:そう、裸になることよ。
問い:沖縄の米軍基地も・・・
日野原:サイパンかグアムへ移す。資源もない丸裸の沖縄なら、世界の非難があるのに、誰が手出しできますか。できやしない。
問い:自衛隊は?
日野原:専守防衛に徹し、海外派遣は災害の救助に限定する。
問い:旧社会党の非武装中立論に似てますね。しかしあれは非現実的な政策だったとして、歴史的に否定された。
日野原:よく似ているけど、社会党は中途半端だった。もっと徹底してやるんだ。私は今また、そういう運動を世界中に起こしたいよ。ドイツの哲学者カントが晩年、「永遠平和のために」という本を書いたでしょ。そこで「非戦」という思想に到達している。休戦協定や平和条約で「不戦」を取り決めるだけでは不十分なんだ。

(2)湛山の「小国主義」は小欲を棄てて大欲をめざす途
問い:領土には心の問題も絡む。韓国人にとって竹島は、植民地化の記憶と重なる歴史認識問題のシンボルです。
日野原:日本側が純粋な心を示して解きほぐすしかない。それが愛というものよ。
問い:必要なのは、愛だと。
日野原:愛の徹底には犠牲がある。寛恕。自分が自分の過ちを許すように、相手の心も大らかに許す。今の政治や外交には愛がないね。損得条件の話ばかりで、精神がない。
問い:排外的なナショナリズムが勢いづいている。
日野原:日本も多民族国家になることが必要だ。中国、韓国、米国、インドなど世界中の人たちと血が混じり合っていかないと。民族のよろいを脱ぎ捨てて、裸になる。大和魂だけ言ったって、世界には通じない。
問い:小日本主義には、経済成長否定かと反発もある。
日野原:湛山の「小国主義」には、国内に縮こまるという意味では全然ない。外に領土や軍事力をひろげるのでなく、人材をどんどん輸出して世界に人も心も開いていく。日本の資源は人間だから。帝国主義時代に、「(植民地主義)の小欲に囚(とら))われ、(平和貿易立国の)大欲を遂ぐるの途を知らざるもの」と看破したんだから、偉いもんだ。全然古びていない。むしろ、今の政治の世界にこそ現れてほしい。

<安原の感想> 今こそ「小日本主義」を広めるとき
政治記者の首相会見での質問をテレビで見る限り、骨太さや鋭さにいささか欠けてはいないか。穏当な質問が目立つ。首相の心情としてタカ派的思考があることは明白なので、なぜそこにメスを入れる気構えで問いつめないのか、不満が残る。
「首相はドイツの鉄血宰相をどう評価するか」といささか意表を突く問いかけがあれば、なおおもしろい。安倍首相が平然と自身の「鉄血宰相論」を開陳すれば、賛否はさておき首相株は高騰したかも知れない。

小日本主義論にしても同様である。首相としてこれに同調する姿勢は想像できないが、質問してみる価値は十分ある。小日本主義論すなわち「小国主義」には二つの今日的視点がある。
その一つは不戦ではなく、非戦であること。ドイツの哲学者カントの徹底した「永遠平和論」がその源(みなもと)である。もう一つは植民地主義に囚われる小欲ではなく、平和貿易立国という大欲への途である。この大欲は軍事力を背景にしない。平和憲法の非武装という理念を生かす平和貿易立国の途であり、「小日本主義」を広める道である。
安倍政権はこれら小国主義には背を向けるだろう。半面、日米同盟すなわち日米安保体制の維持・拡充には異常な熱意を見せており、そのことが安倍政権の希望的願望に反して自らの寿命を縮めるほかないだろう。

参考資料:安原和雄「二十一世紀版小日本主義のすすめ―大国主義路線に抗して」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第24号、2005年1月)

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『風力発電が世界を救う』を読んで
エネルギー新時代とチャレンジ精神

安原和雄
 原子力発電が魅力も存在価値も失ったいま、頼りにすべきは、もはや再生可能エネルギー、すなわち風力、太陽光、小規模水力による発電、さらに農林畜産業の廃棄物によるバイオマス発電などである。なかでも著作『風力発電が世界を救う』は、エネルギー新時代の四番打者として「風力発電」をすすめている。
再生可能エネルギーの新時代を築いていくことは、もはや避けることのできない歴史の必然ともいえる。だからこそチャレンジ精神で新時代に向き合う以外に選択の余地は残されていない。(2012年12月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

牛山 泉(注)著『風力発電が世界を救う』(2012年11月、日本経済新聞出版社刊)を読んだ。「日本は潜在的な風力発電大国/ものづくり技術を結集せよ/年率20%強で成長するビッグビジネスの全貌を、第一人者が解き明かす」という触れ込みで、以下、その大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。
(注)牛山泉(うしやま・いずみ)氏は1942年長野県生まれ。71年上智大学大学院理工学研究科博士課程修了。2008年足利工業大学長、現在に至る。1970年代から一貫して風力発電の研究開発に携わっている。

▽「エネルギー新時代の四番打者」をめざして

*原発ゼロなら再生可能エネルギー60%が必要
日本政府による原発への討論型世論調査などで、国民の多くは「原発ゼロ社会」を望んでいることが明らかになった。
再生可能エネルギーの加速度的な普及拡大は、エネルギー安全保障戦略の上からもきわめて重要で、エネルギー自給率わずか4%という危機的な状況から抜け出すことにつながる。再生可能エネルギーが60%以上を占めることは風力も太陽光も、あるいは水力も地熱もバイオマスもすべてが国産だから、結果的にエネルギー自給率も60%以上になる。

*風力発電はいまや堂々たる主要電源
日本ではあまり知られていないが、2011年末現在、世界の風力発電の累積設備容量は2億5000万kwを超えている。これは原発250基分もの設備容量に相当する。2009年と2010年には、世界で約4000万kw、つまり100万kw級原発や大型火力発電40基分にも相当する風力発電が設置されている。世界の風力発電は2010年まで10年以上にわたって年率20%以上の伸びを続けてきた。風力発電はいまの時代の要請にかなっているからこそ、その導入量が突出しているのだ。
原発は世界で435基、約4億kwが運転中であるが、風力発電の累積設備容量はこの半分をはるかに超えている。この10年、発電技術の主役は風力発電であり、2020年には風力が原発の設備容量を抜き去っているはずである。風力発電は、もはや新エネルギーという範疇ではなく、堂々たる主要電源になっている。
風力は地球上どこにも遍在するエネルギーである。低コスト、建設の早さ、そして陸上から洋上への展開など、まさに再生可能エネルギーの本命で、世界が期待ずる「エネルギー新時代の四番打者」といえる。

<安原の感想> 「四番打者」を育てる責任
わが国には、自分たちの力では未来を変えることができないという無力感がある。講演の折にも、「将来はどうなるんですか?」という質問が多い。これに対し、私は「あなたはどうしたいんですか」と逆に問い返している。未来は予測するものではなく創りだすものなのだ。

以上は著作の「はじめに」で著者が力説している一節である。「未来は創りだすもの」という発想には私(安原)も大賛成である。我々日本人の多くは、もの知り、言い換えれば知識のレベルで生きている。しかしこれではしょせん傍観者の域を抜け出せない。重要なことは新しい時代をどう創り出していくのか、その変革の主体としてどう行動していくかであるだろう。著者が指摘する上述の「新時代の四番打者」を育てる責任を一人ひとりが自覚するときである。

▽ 風力発電が日本経済を支える

*風力産業こそ「日本の希望」の一つ
日本では若者の働き口が少ない。文部科学省の調査では、2012年3月に大学を卒業した学生の4人に1人に当たる約12万8000人が安定した職に就いていない。「大手企業を中心に採用は減り、高学歴の人でも就職が厳しくなっている。上位校の学生ほど、中小企業を敬遠して就職浪人を選択するから、就職率は下がる」とは大学の就職担当者の話。
12年版厚生労働白書には、「若者は前世代が築いた社会資本から恩恵を受けており、高齢者の現役時代より恵まれている」などと書かれているが、前世代が作ったインフラ(道路、通信情報施設、学校など)は若い世代がメンテナンス(維持)しなければならない。前世代は膨大な借金を作り、増税や原発のツケまで回してくる。その面倒を見るのは若い世代なのだから、恵まれているどころか、ますます悲観的な状況というのが本質ではないか。
では日本に希望はないのか。これを救う手だての一つがまさに再生可能エネルギー産業、特に風力発電産業なのだ。

*裾野の広い機械組み立て産業
火力や原子力などの大型発電所と比べると、風力発電は小さくてかわいらしいイメージを抱きがちである。しかし大型の風力発電機は部品点数が2万点に近い工業製品である。したがって風力発電機は自動車と同様の組立産業による生産物である。しかも自動車は3万点ほどの小さな部品が多いのに対し、風力発電は部品が大きくて種類も多い。高度な工業力が必要な上に労働集約的な組立工程を必要とする。
東日本大震災と津波、福島原発事故によって宮城・福島・茨城各県の漁民は失職したり、転職を考えている人もいる。洋上風力発電が本格化すれば、洋上風車の建設補助をしたり、メンテナンス要員を安全確実に輸送す漁民の操船技術が生きるはずである。
秋田県には2012年現在、108基の風車が設置されており、道県別では7位である。近年、秋田県沿岸に1000基の風車を設置しようというNPOの活発な動きがある。今後は風力発電関連の大企業を秋田に誘致する希望もある。
日本海側に巨大な洋上風車群ができて、そのための風車製造と保守部品の製造が連続して行われれば、風車の寿命が来たときには、更新用風車の量産が期待できる。
これから地域分散型のエネルギーシステムが構築され、スマートコミュニティーが各地に展開されていくだろう。地域のエネルギー源として、また開発途上国用のコミュニティー電源として秋田発や福島発の中小型風車を供給できるだろう。

*最大50万人の雇用波及効果
再生可能エネルギーへの期待が高まっている。エネルギー構造を変えることは、日本経済に大きな負担をかけるという懸念もあるが、決してそんなことはない。
日本では20年以上も「人余り経済」が続いており、代替エネルギーの導入によって他産業の人手が不足するような状況ではない。それどころか代替エネルギー開発は新規雇用を産み、デフレ圧力や雇用不安を和らげ、消費が刺激される効果が期待される。
現実の「人余り経済」の下では、他産業の生産力を犠牲にしないから、ある試算によれば、新産業の導入による雇用創出とその波及効果で、雇用が30万~50万人、消費が1兆~2兆円拡大すると見込まれる。
再生可能エネルギーは、休耕地における太陽光・風力発電、水路を使った小規模水力発電、農林畜産業の廃棄物によるバイオマス発電など、いずれも農業と親和性が高い。電気は生野菜と同様、保存が難しく、送電ロスもあるから、近隣で利用するほうが望ましい。エネルギー構造を転換することは農村地域での雇用拡大になる。

<安原の感想> チャレンジ精神で立ち向かうとき
もちろん産業構造の転換は苦痛を伴うであろう。しかし日本企業は過去何度もピンチをチャンスに変えてきた。排ガス規制や石油危機は、小さくて省エネ効果の高い日本製品を躍進させる契機になった。日本で初めてアメリカの自動車殿堂入りしたのは、不可能とまでいわれた世界一厳しいカリフォルニアの排ガス規制をCVCCエンジンをクリアしたホンダのシビックではなかったか。それを想起すれば、不況のいまこそチャレンジ精神を発揮すべきである。

以上は著者が本書で強調している一節である。たしかにエネルギーと産業構造の転換の渦中で悲運に頭を抱える企業、人々も少なくないに違いない。しかし進む方向が間違っているわけではない。再生可能エネルギーの新時代を築くことは、もはや避けることのできない歴史の必然と理解すべきである。だからこそチャレンジ精神で立ち向かう以外に選択の余地は残されていない。


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衆院選後の日本経済はどうなるか
脱「GDP主義」へ転換を求めて

安原和雄
 大方の予測を超えた衆院解散に政財界人に限らず、多くの国民が驚いた。関心を抱かざるを得ないのは混迷を深めている日本経済が衆院選後にどうなるのか、その行方である。論議の的となるべきは目先の短期的な景気動向ではなく、中長期的な日本経済の姿、構図である。このテーマは21世紀・日本の真の豊かさ、幸福とは何かを改めて問い直すことでもあるに違いない。
 時代がいま求めているこのテーマの一つは経済成長主義を批判し、脱「GDP主義」への転換を求めることである。さらに貧困や格差拡大をもたらしている市場原理主義(新自由主義路線)を打破していくこと、など課題は多い。(2012年11月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 日本経済の変革を視野に収めた最近の著作として今松英悦、渡辺精一(注)共著<そして「豊かさ神話」は崩壊した ― 日本経済は何を間違ったのか>(2012年10月、近代セールス社刊)が目に付く。その大意を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。

(注)今松英悦(いままつ・えいえつ)氏は1949年岩手県生まれ、毎日新聞経済部、論説委員などを歴任。金融審議会、財政制度等審議会の委員なども務める。現在、津田塾大学非常勤講師。著書に『金融グローバリゼーションの構図』(近代セールス社)、『円の政治経済学』(同文館出版)など。
渡辺精一(わたなべ・せいいち)氏は1963年埼玉県生まれ、毎日新聞大阪経済部などを経て、2003~2010年『週刊エコノミスト』編集次長としてマクロ経済、エネルギー分野などを担当。2012年毎日新聞川崎支局長。著書に『なぜ巨大開発は破綻したか―苫小牧東部開発の検証』(日本経済評論社)。

▽ 「豊かさ神話」の崩壊(1)― 乗り越える経済社会の4原則

 20世紀型ともいえる「豊かさ神話」が崩壊したいま、その「豊かさ神話」を乗り越える経済社会の原則は、どのようなものなのか。本書は以下の4原則を挙げている。

* 脱GDP主義への道
 原則の第一は国内総生産(GDP)を豊かさや幸福度の指標にしないこと。
 石油危機の少し前に朝日新聞の連載記事「くたばれGNP」と題する連載記事が話題になった。当時はGDPではなく、GNP(国民総生産)が経済規模を量る指標として用いられていた。
 いまGDPに代わる指標をつくろうという動きが見られる。経済協力開発機構(OECD)は、GDPに代わる幸福度を量る指標として「より良い暮らし指標」(ベターライフインデックス)を発表した。これは所得のみならず、住宅、教育、安全、環境、生活満足、ワークライフバランスなどの指標から構成されている。日本は所得や安全ではOECD加盟国の中で上位に位置しているが、ワークライフバランスは最下位に近く、生活満足や環境も下位である。
 GDPには無駄な浪費も、環境破壊的な投資も含まれる。そのようなGDPを疑うことなしには、新たな経済社会は始まらない。

* 市場に翻弄されない社会に
 原則の第二は、市場を制御する機構を備えた経済システムを構築すること。
 適正な価格の決定や円滑な取引、さらに経済運営の効果を高めるために市場の役割は重要だ。ただすべてのことを市場にゆだねれば、バブルの生成や崩壊、過剰なまでの経済の金融化などの重大な弊害が生じる。例えば雇用や教育、医療など人々の社会生活にかかわる分野を市場による競争原理にさらすことは控えるべきだ。賃金にしても、人々が憲法の保障する「健康で文化的な最低限の生活」を維持できるものでなければならない。それなしには人々は先行きに不安を覚える。
 リストラという名の人員整理や非正規雇用の促進、賃金引き下げには歯止めをかける必要がある。市場原理に絶対の信認を置き、自助努力を基本とした政策の結果が、いまアメリカや日本で深刻化している格差や貧困の問題だ。そこから脱出するには市場に翻弄されない社会を築いていかねばならない。

* 維持可能な発展を実現するシステムを
 原則の第三は国内レベルだけでなく、地球レベルで「維持可能な発展」を実現できる社会システムをめざすこと。
 維持可能な発展をめざすことでは、1992年の国連環境開発会議(地球サミット=ブラジルのリオデジャネイロで開催)で世界各国が考えを共有した。しかしそれから20年後の「リオプラス20」(2012年6月再びリオで開催)ではむしろ経済成長への道を追求することが前面に出た。
 そこで、どうするのか。まず先進国は浪費型経済に終止符を打たねばならない。先進国はエネルギー過剰消費をすぐにやめるべきだ。豊かさや幸福度をGDPのみで測るのではなく、働き方や環境、時間の使い方なども加味すれば、モノの消費中心の生活態度から脱却できる。
 原子力発電は即時に、あるいは遅くとも段階的に廃止すべきである。経済成長のために原発を維持、あるいは増設していくことは、地球を維持不可能なものにしてしまう。
 維持可能性という点から食糧や農業も今のままというわけにはいかない。維持可能な経済社会という以上、食に直接つながる農業は地域を支える産業と位置づける必要がある。

*「小さな政府」政策との決別
 原則の第四は「小さな政府」政策との決別である。
 財政は国民の安心な生活のためにある。必要な財政規模の政府は、小さな政府論者が批判する「大きな政府」とは違う。「適正な規模の政府」なのだ。では健全かつ適正な規模の政府にするにはどうすればいいのか。まず予算のうち歳出の中身を抜本的に見直す必要がある。
 公共事業費はこれまでかなり圧縮されてきたが、ダム事業のように十分手の入っていないところがある。エネルギー関連でも原発の立地促進費や高速増殖炉もんじゅ向けの予算などは大幅に削れる。防衛費もアメリカ軍向けのおもいやり予算や自衛隊の攻撃型装備向け予算も本来おかしなものだ。
 ただそれだけで必要なお金を捻出するのは容易ではない。そこで税金を払う能力がある法人や個人を優遇してきた税制を元に戻す必要がある。
 小さな政府政策に歯止めをかけ、転換を実現していくためには地方政府とも言われる地方自治体を強化していくことも欠かせない。合併により自治体の規模を大きくするこれまでの政策を大転換し、身近な仕事を担っている基礎自治体といわれる最小の単位は、住民が実感できる規模まで小さくすることが必要だ。

▽ 「豊かさ神話」の崩壊(2)― 真の豊かさを手に入れるために

 本書は末尾で「真の豊かさを手に入れるために」という見出しで、以下のように指摘している。

 「失われた20年」と言われたバブル崩壊後の経済社会停滞の中で、成長神話がいかにむなしいものであったか。一方、所得を増やさなければ、豊かになれないという固定観念から抜け出し、それを乗り越えた社会を築いていくことは、上述の4つの原則に示されているように希望に満ちた試みなのだ。

 経済成長率を高めれば豊かになる、幸福になるというわけではない。これまでのように過剰消費にうつつを抜かす必要はない。エネルギーの消費構造がその典型だ。東日本大震災以降、企業、家庭ともに消費量は低下しているが、それで大きな支障が出ているだろうか。電車やオフィスビルの中は、夏でも寒いことがいまも少なくない。
 原子力発電を全面停止、さらに全面廃棄に持っていくことは、低エネルギー社会を築くことにもつながる。モータリゼーションもオール電化も過剰エネルギー消費社会の象徴なのだ。

 人々の生活がどれほど自然環境に依存しているかをみると、先進国は資源供給や廃棄物処理で過剰なまでに地球を酷使していることが明らかになっている。仮に世界中がアメリカと同じ消費水準を謳歌するとすれば、地球が5つ必要とも言われている。こうした状況が維持可能なわけはない。
 これまでの経済学では、いまの経済活動を継続していくという前提で政策が考えられる。ビジネス・アズ・ユージュアル(BAU)というこの前提のもとでは、状況は何も変わらない。それを打破し、真の豊かさ、幸福を手に入れる社会を築いていく活動こそがいま求められている。

▽ <安原の感想> 21世紀型豊かさ、幸せを求めて

 大手紙(11月 16日付)の書籍広告欄に『幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く』が話題の新刊として紹介されている。その骨子は、「うまくいかないのは、運が悪いからではありません」、「誰に悩みを打ち明けるか、どんな所に身を置くかによって人生はガラリと変わる」など。ここでは個人レベルの主観的な幸せ論に重点がある。まさに従来型の幸せ論の具体例といえるのではないか。

 これと比べて、著作<そして「豊かさ神話」は崩壊した>は、どのように異質なのか。すでに紹介したように新しい21世紀型豊かさ、幸せ観は次の4つの原則の上に築かれる。
*脱GDP主義への道
*市場に翻弄されない社会に
*「維持可能な発展」を実現するシステムを
*「小さな政府」政策との決別

 これら4つの原則は以下の3つの「道」原則に集約することもできるのではないか。
*脱GDPへの道
*脱新自由主義(=脱市場原理主義)への道(=市場に翻弄されない社会に、「小さな政府」政策との決別 ― の2原則を脱新自由主義というひとつの組み合わせとして捉える)
*「維持可能な発展」=「持続可能な発展」(Sustainable Development)への道

 ここでは脱新自由主義への道と「持続可能な発展」への道に触れておきたい。
 まず脱新自由主義とは、あの悪名高き新自由主義路線による異常な格差、貧困をどう是正していくかを指している。すなわち日本経済社会を担う主役である労働者、サラリーマンたちの賃金を含む労働条件を悪化させながら、他方、一部の企業経営者報酬や大企業の内部留保を巨大化させるアンバランスにどうメスを入れるかである。新自由主義路線の根本的な変革・改善なくして、日本経済の再生はあり得ない。

 もう一つ、地球環境保全のための「持続可能な発展」への道は人類生存のためにも重要である。ただ最近は地球環境保全への熱意は薄らいできており、初心に返って、これをどう再活性化させるかが今後の課題である。なお本書は原語Sustainable Developmentの訳語として「維持可能な発展」で一貫させている。これも理解できるが、「持続可能な発展」の訳語が一般的ではないか。


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『縮小社会への道』が訴えること
いのち尊重、脱原発、脱経済成長を

安原和雄
 経済は常に拡大・発展していくものだと思い込んでいる政・財界人や経済学者たちからみれば、21世紀は経済が縮小していくほかない時代だという問題提起は驚愕に値するかも知れない。しかし考えてみれば人間の一生も同じではないか。成長期を経て高齢化が進めば、身体も衰え、しぼんでいく。「縮小社会への道」は必然の成り行きというべきである。
 大切なことは、この冷厳な現実を認め、新しい世界を築くためにどういう手を打っていくかである。その答えは、案外平凡であるが、平易な道ではない。何よりも現平和憲法の理念を生かし、いのち尊重を軸に据える。しかも脱経済成長、脱日米安保、脱原発を推進するほかない。新しい時代の始まりである。(2012年11月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 縮小社会研究会代表・松久 寛編著『縮小社会への道 原発も経済成長もいらない幸福な社会を目指して』(日刊工業新聞社刊、2012年4月)はなかなか刺激的な著作である。毎日新聞(10月14日付)書評欄に中村達也評「人口減少社会のこれからを透視するための貴重なたたき台」が掲載された。
 本書の目次は以下の通りで、これを一読するだけで、異色の問題意識がそれなりに浮かび上がってくる。例えば第2章「成長の限界点」の内容は、「成長路線は破滅への道」という問題意識で貫かれており、今なお成長主義に執着している経済界などの認識とは180度異なっているのが読み取れる。

第1章 脱原発は縮小社会への入り口=安全神話の崩壊、原発事故は文明の岐路
第2章 成長の限界点=成長路線は破滅への道、成長の限界と今日の危機、成長至上主義から縮小社会への移行、海外の事例から見た縮小社会への道
第3章 持続可能な社会と縮小社会=経済の縮小は持続可能の必要条件、大量消費・経済成長との両立へのむなしい願望
第4章 再生可能エネルギーの可能性=石油時代の終わり、太陽光発電と風力発電、エネルギー消費の削減が先決
第5章 縮小社会の交通と輸送=自動車技術の限界、自動車の小型低速化、交通の縮小
第6章 縮小社会の技術=産業の縮小技術、生活者の縮小技術
第7章 日本経済の縮小=人口縮小の経済的影響の比較 ― 日本とスウェーデン、2060年の日本経済 ― 四つのシナリオ
第8章 日本の社会保障の縮小=社会保障システムの危機、抜本的な社会保障改革

以下では縮小社会とはどういうイメージなのかを中心に紹介し、私(安原)の感想を述べたい。

▽縮小社会のイメージ(Ⅰ)― 成長至上主義から縮小社会への移行

(1)ローマクラブの「成長の限界」
今から40年前の1972年にローマクラブは「成長の限界」というレポートをまとめた。それによると、資源の枯渇が年々急速に進み、工業成長を低下させ、2050年ごろには資源の大半が底をつく。これとは逆に人口や汚染は2050年ごろまで拡大を続けるため、一人当たりの工業生産や食料供給は2020年に限界に達し下降に転じていく。
すなわち経済・工業成長は2020年以降、次第に破綻していくという将来予測である。この予測は決して荒唐無稽とはいえない。

(2)事態は危険水域に入っている
今日の事態は以下のように危険水域に入っている。
*資源は予想通り枯渇プロセスをたどり、人口・食料問題に加え温暖化問題が世界的に深刻化している。
*ITやバイオなどの分野では科学技術は速いペースで展開し、人々の科学技術に対する期待は高まり、将来は科学技術が解決してくれるという幻想が脹らんだ。しかし福島原発事故のように、科学技術の負の側面は巨大であるがゆえに深刻化する。原発以外にも、ITやバイオ技術などは未知の要素を含んでおり、事故が起きればその影響は計り知れない。
*BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)などにも拡大・成長主義が広まった。他方、先進諸国では経済成長が鈍化する中で失業が増加し、金融危機が頻発するようになった。財政赤字にあえぐ国が多い。

(3)21世紀前半は縮小社会への移行に伴う苦しみ
21世紀前半の過渡期の世界は、資源枯渇、環境悪化、巨大事故、財政悪化という危機がより深刻化し、以下のように世界中の人々が震え上がるような恐怖感を味わうだろう。
*巨大企業の独占化が進行し、一方、市場の縮小が進む。巨大資本や各国は食料、資源をめぐる争いを激化させる。
*飽食に慣れた人々は生活レベルを下げることに同意せず、成長志向は容易に止まらない。原発を導入・拡大してでもエネルギーを確保して成長を求める傾向は強まり、再び深刻な原発リスクは高まる。
*二酸化炭素(CO2)削減の世界的な停滞が、ヒートアイランド化や地球生命絶滅の危機を引きおこし、深刻化する。世界の海水面の数メートル上昇で沿岸の巨大都市のかなりの面積の水没が懸念される。

▽縮小社会のイメージ(Ⅱ)― 人間に優しい共生社会

(1)新しい時代としての縮小社会
成長至上主義時代は18世紀後半の産業革命に始まり、化石資源を源(みなもと)に拡大型大量消費社会を成り立たせてきたが、21世紀末の化石燃料の枯渇とともに、その300年余りの歴史を終える。それに先立つ21世紀前半の過渡期には、人類が生存を維持できる可能性を極限化で必死に追い求めた末、「生存維持を最優先する社会構造」としての縮小社会の姿が明確になっていくだろう。
この縮小社会は「人間に優しい共生社会」といえるが、その姿は脱原発、平和、環境、幸せの追求など多様である。

(2)縮小社会への道を歩みはじめた国々
 以下の諸国を挙げることができる。

*脱原発へと歩み始めたドイツ、イタリア
2011年3月の福島原発事故を受けて、ドイツは1980年以前に建設された7基の原発の即時停止・廃棄を決定し、新しい原発も2020年~30年には廃棄して脱原発に進むという新政策を決めた。地震国・イタリアではすでに1987年、国民投票(72%の賛成)で脱原発を決めた。しかしその後、4箇所の原発新設を打ち出していたが、福島原発事故後、2011年4月、原発再開方針の無期限凍結(断念)を決めた。
なおオーストリアは原発を違法と定め、スイスも廃止している。「原発やります」の姿勢を崩していない日本とは大きな違いである。

*人間に優しい社会・スウエーデン
スウエーデンには「人々がほどほどに格差なく仲良く暮らし(ラーゴム)、悲しみが社会を襲うときは、それを皆で分かち合う(オムソーリ)」という伝統があり、北欧諸国の共同体精神をよく表現している。北欧の人々は政府を信頼して収入の大半を政府に託す。政府はその付託に答えて国民福祉を真面目にやり遂げる。物質的な豊かさと経済効率よりも「人間に優しい社会」が必要である。失業者や弱者も誇りを持ってゆとりのある生活を送れることは縮小社会の必須課題だ。

*平和・環境回復をめざすコスタリカ
コスタリカは軍隊を廃止した国で、国家予算の3割を教育文化につぎ込んでいる。ある女の子は「憲法に違反している」と訴え、海外派兵を止めさせた。環境危機に直面し、国を挙げて自然回復に取り組んだ経験を持っている。人は自然や生きものを正しく理解したときに親しみが深まり優しさが生まれる。そして子どもたちのためにも豊かな自然を残していこうとする素朴で肯定的なコスタリカ国民の人生観が作られた。

*ヒマラヤ山脈に位置する幸せの国・ブータン
ブータンは成長至上主義システムを意図的に受け入れず、共生社会を維持していこうとしている。野菜中心の自給自足経済を基本にする敬虔な仏教国である。国の基本は「ゆっくりやるべし」で、GNP(国民総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness)すなわち国民の幸せを第一に大切にしている国として有名である。
ではこの国の幸せとはどんなものか。ある村では鶴の飛来を妨げるという理由で電線を設置せず、電気を導入しなかった。電気がある生活より鶴がいる自然との共生を村民は望んでいる。ブータンの「幸せ」の基準は、物質的に豊かになった日本に足りないもの、さらに共生が目指すものは何かを教えてくれる。

<安原の感想>日本の未来図は「いのち尊重と平和・脱成長・脱安保・脱原発」
「縮小国家」という新たな尺度で日本を評価すれば、どういう未来図が浮かび上がってくるだろうか。21世紀末をめざして縮小国家に進むことが歴史の必然であり、正しい針路選択であるとすれば、この問いかけに無関心ではあり得ない。米国は軍事超大国から大幅に軌道修正して、軍事縮小国家に転換しない限り、「21世紀の落第生」という運命を辿るほかないのではないか。その米国と日米安保体制という悪しき絆で一体化し、自主性も独自の智慧も喪失している「我がニッポン」の将来図はどうか。

著作『縮小社会への道』は軍隊を捨てた国・コスタリカと並べて「日本にも平和憲法があるが」という見出しで、次のように指摘している。
世界大戦で侵略・軍国主義に走った日本が再び狂気に陥らないように、アメリカは日本に軍隊はおろか交戦権も持たせなかった。こうしてできたのが憲法9条の平和条項だ。憲法前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。この憲法を愛し支持する国民は多い。しかるにその後日本は軍隊を持ち、コスタリカの行き方と180度逆になってきていることを大変残念に思う、と。

この見解にはもちろん賛意を表したい。日米安保体制を解消して、平和憲法前文の生存(=いのち)尊重と9条本来の反戦、平和の理念に立ち返り、その理念をどう生かし、具体化していくか。日本にとってこの「いのち尊重と平和」こそが「脱成長と脱安保と脱原発」と並んで、縮小社会へ向けての基本的課題でなければならない。


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続発する沖縄での米兵女性暴行
日米安保と米軍基地がある限り

安原和雄
またもや沖縄で米兵による女性暴行事件が起こった。沖縄はいうまでもなく、本土でも多くの人が怒っている。こういう悲劇の続発を防ぐためには何が必要か。事件の背景に広大な米軍基地が存在し、それを容認する日米安保体制が存続する限り、悲劇は絶えないだろう。だから日米安保と米軍基地そのものを廃絶すること以外に続発防止の決め手はあり得ない。
 新聞社説はこの事件をどう論じているか。残念ながら足並みが揃っているわけではない。事件発生を批判する点では一致しても、その背景にある日米安保、米軍基地そのものを批判する姿勢は乱れているのが現状である。(2012年10月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 沖縄での米兵女性暴行について本土の大手紙と沖縄地元の琉球新報は社説でどのように主張したか。本土の主要紙と琉球新報の見出しは次の通り。次いで社説(大要)を紹介し、私(安原)のコメントを試みる。

*東京新聞(10月18日付)=米兵女性暴行 沖縄に基地がある限り
*毎日新聞(同上)=相次ぐ米兵事件 米政府は深刻さ自覚を
*朝日新聞(同上)=米兵の犯罪 沖縄の怒りに向きあう
*読売新聞(10月19日付)=沖縄米兵事件 再発防止へ実効性ある対策を
*琉球新報(10月18日付)=米兵集団女性暴行/卑劣極まりない蛮行 安保を根本から見直せ

(1)東京新聞社説(大要)
 沖縄県知事は、官房副長官を首相官邸に訪ね、「(在沖縄米軍基地は)安全保障上必要だから理解してくれと言われても、こういう事件が起きると無理な話だ」と強く抗議した。
 知事に代表される県民の怒りは当然だ。日米両政府に加え、日本国民全体が重く受け止め、自分の痛みとして感じる必要がある。
 米軍基地は周辺地域の住民にさまざまな負担を強いる。平穏な生活を脅かす日々の騒音や事故の危険性、米国の戦争に加担する心理的圧迫、それに加えて、今回のような米兵の事件、事故などだ。

 日米安全保障条約で、日本の安全と、極東の平和と安全を維持するために日本に駐留する米軍が、日本国民の生命を脅かす存在にもなり得ることは否定しがたい。
 在日米軍基地の約74%は沖縄県に集中する。米軍の世界戦略に加え、本土では基地縮小を求める一方、沖縄での過重な基地負担を放置することで平和を享受してきたわれわれ本土側の責任でもある。

<コメント> 日米安保は生命を脅かす存在に
今回の暴行事件に関連して、後述するように朝日、読売社説には日米安保への言及は見られない。毎日社説はわずかに「日米安保体制そのものをむしばむ」と表現している。これに比べると、東京社説は明快である。「日米安全保障条約で、日本の安全と、極東の平和と安全を維持するために日本に駐留する米軍が、日本国民の生命を脅かす存在にもなり得る」とまで言い切っている。沖縄を論じる場合、安保に言及しない社説はもはや読むに値しないというべきだろう。

(2)毎日新聞社説(大要)
 沖縄県知事は17日、防衛相に「正気の沙汰ではない。綱紀粛正という生やさしい言葉でなく、もっと厳しい対応を強く米側に申し入れてほしい」と求めた。
 仲井真知事は防衛相に「日米地位協定を改定しない限り、彼らは基本的に日本の法律は守らなくていいことになっている」と改定を求めた。

 沖縄では、米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの配備強行や、米軍普天間飛行場の移設難航で、日米両政府や米軍への不満が高まっている。背景には、沖縄に米軍基地が集中することによる過重な負担がある。
ルース駐日米大使は事件について「米政府は極めて強い懸念を持っている」と述べたが、相次ぐ事件は、米軍への信頼を失わせ、日米安保体制そのものをむしばむ。米政府と米軍は事態の深刻さを自覚すべきだ。

<コメント>沖縄県知事「正気の沙汰ではない」
 知事の「正気の沙汰ではない」という抗議の声は穏やかではない。これは「怒り」そのものである。怒りの行き着く先は何か。「沖縄に米軍基地が集中することによる過重な負担」をどう改善するかである。それは「日米安保」への不信の表明でもあり、ゆくゆくは安保破棄まで進まなければ、収まらないだろう。毎日社説末尾の「日米安保体制そのものをむしばむ」という懸念にいつまでもしがみついている時だろうか。

(3)朝日新聞社説(大要)
 沖縄では、1995年に米海兵隊員3人による少女暴行事件がおき、県民の怒りが燃え上がった。だがその後も、米兵による犯罪はなくならない。性犯罪に限っても、この10年余りで中学生への強姦や強制わいせつ、ほかにも強姦致傷、今年8月にも強制わいせつ致傷の事件がおきた。被害者が泣き寝入りし、表に出ない事件もあるとみられている。
 沖縄には、安全への心配がぬぐえぬ新型輸送機オスプレイが配備されたばかりだ。不信が募っているときの、この卑劣な事件である。

 日本と米国の協調は大切だ。そのことを多くの人が感じている。だが、今回の事件が火種となって、再び沖縄で反基地の思いが爆発することは十分に考えられる。日米両政府は真剣に対策を講じる必要がある。
 沖縄で米兵による事件が多いのは、国土の面積の0.6%にすぎないこの島に、在日米軍基地面積の約74%が集中している現実が根底にある。沖縄の負担をどう分かつか。沖縄の外に住む一人ひとりが考えなくてはならない。

<コメント>「日米の協調は大切」が本音
 朝日社説も「沖縄では、米軍による犯罪はなくならない」などと米軍基地への批判的な姿勢を見せてはいる。しかし一番主張したい本音は「日本と米国の協調は大切だ」ではないか。だからこそ「今回の事件が火種となって、再び沖縄で反基地の思いが爆発することは・・・日米両政府は真剣に対策を講じる必要」につながる。朝日社説の主眼は日米安保是認論、いやむしろ賛美論ともいえる。

(4)読売新聞社説(大要)
 8月には、那覇市で在沖縄米兵による強制わいせつ事件が発生したばかりだ。こうした不祥事が繰り返されるようでは、日本の安全保障に欠かせない米軍の沖縄駐留が不安定になろう。今回の事件は、米軍の新型輸送機MV22オスプレイが沖縄に配備された直後だったため、県民の反発が一段と高まっている。

 ただ、暴行事件への対応とオスプレイの安全確保は基本的に別問題であり、それぞれ解決策を追求するのが筋だろう。
 仲井真知事は日米地位協定の改定を改めて主張している。だが、今回の事件捜査では、起訴前の米兵引き渡しなどを制限する地位協定が障害とはなっていない。
 日米両政府は従来、地位協定の運用の改善を重ね、具体的問題を解決してきた。それが最も現実的な選択であり、同盟関係をより強靱(きょうじん)にすることにもつながろう。

<コメント>「自立国・ニッポン」はどこへ
 読売社説の主眼は日米同盟関係を「より強靱に」することにある。「不祥事が繰り返されるようでは、日本の安全保障に欠かせない米軍の沖縄駐留が不安定に」という指摘がそれを示している。「日本の安全保障は米軍の沖縄駐留」にかかっているという認識であるから、ここまでくれば「日米安保依存症」も極まった、というほかない。「自立国・ニッポン」への意欲も視野もどこかへ投げ捨てたのか。

(5)琉球新報社説(大要)
 米軍は事件のたびに綱紀粛正や兵員教育による再発防止を約束するが、何が変わったというのか。現状は基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能だと、米軍自らが自白しているようなものだ。
 女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか ―。県婦人連合会の平良菊会長はこんな疑問を抱きつつ「危険なオスプレイが縦横無尽に飛んで、危険な米兵が地上にうようよしているのが今の沖縄か。人権蹂躙(じゅうりん)も甚だしい」と述べた。同感だ。
 ことし8月にも那覇市で女性への強制わいせつ致傷容疑で米海兵隊員が逮捕された。復帰後の米軍関係の刑法犯は5747件(2011年12月末現在)に上る。米国はこうした現状を恥じるべきだ。
 在日米軍には日米安保条約に基づき「日本防衛」の役割がある。しかし県民には苦痛をもたらす暴力組織としての存在感が大きい。

 日米安保体制を容認する保守系首長も、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを強行配備した日米両政府に抗議し、万が一墜落事故が起きた場合には「全基地閉鎖」要求が強まると警告する。
 
<コメント> 日米安保と米軍基地への批判
琉球新報社説は沖縄の地元紙にふさわしく日米安保体制と米軍基地そのものへの疑問と批判が尽きない。「基地閉鎖なくして米兵犯罪の根絶は不可能」、「在日米軍は日米安保条約に基づき・・・、県民には苦痛をもたらす暴力組織」、「女性は安心して道を歩けない。米兵は沖縄を無法地帯と考えているのか」などの指摘にそれをうかがうことができる。日米安保なき日本再生は沖縄から始まる。すでに始まりつつあると認識したい。


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「日中韓の共同体」構想を提言
毎日新聞「記者の目」に想うこと

安原和雄
毎日新聞の「記者の目」に人目を引く主張が掲載された。国境を越える共同体、欧州連合(EU)に学んでアジアの日本、中国、韓国の3カ国も共同体作りに乗り出せ、という提言である。
提唱者の記者自身、「日中韓共同体は夢物語と思うだろう」と指摘している。たしかにこれまで日中韓共同体構想は論議されることはなかった。しかし歴史は自然現象ではない。新たに創造していくものでもある。共同体構想が実を結べば、争乱の絶えないアジアで平和を可能にするに違いない。それは日本国憲法本来の平和理念をアジアで根付かせることにもつながるだろう。(2012年10月12日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞(10月3日付)「記者の目」が「欧州から見た領土問題 日中韓は共同体作り目指せ」という見出しで論じている。筆者はブリュッセル支局の斎藤義彦記者で、なかなかユニークな主張なので、紹介したい。その要点は以下の通り。

(1)日中韓は共同体作り目指せ
 遠く欧州連合(EU)の本拠地ブリュッセルから見ると、日中韓の対立は歯がゆく思える。EUは互いに殺し合ってきた歴史を越え、債務危機を機に統合を深めている。100年かかってもいい。日中韓は共同体をめざすべきだ。それ以外、安定し繁栄した東アジアの将来はない。

 安直にEUモデルを輸入できるとも思わない。EUも冷戦時は体制の壁は乗り越えられなかった。しかしEUの平和と安定が示すのは、日中韓の国境の垣根を低くし、連携を強め、人の交流を進め、共同体を作ることこそが東アジアに平和と安定をもたらすという可能性だ。

 日中韓共同体は夢物語と思うだろう。しかしそれを語るのは私だけではない。日本をよく知るEU高官は、日中の対立が欧州共同体(EC)が発足して間もない1970年代の地域対立に「似ている」と話す。
 その後、統合を深め「緊張を管理するメカニズムを見つけざるを得なかった」EUの歴史をあげ、日中韓にも「利害対立を調整できる外交的な構造が不可欠だ」と指摘した。EUをよく知る日本政府関係者も「EUが対立を和らげた歴史に学ばざるを得ない」と認めた。

(2)日中韓共同体は反米ではない
 誤解してほしくないのは、日中韓共同体は反米ではない点だ。EUに反米の国など存在しない。むしろ不要とも言われる北大西洋条約機構(NATO)を維持し、欧米の結束を守っている。

 一方、日米同盟は魔法のつえではない。パネッタ米国防長官が9月に訪中した際、尖閣問題で自制を呼びかけるだけに終始したのを見てわかる通り、米国は暴力から日本を守ってはくれるが、日中韓の将来まで決めてはくれない。

 やがて中国も成長が鈍化し、非民主的な体制への市民の不満は高まる。その爆発を私は恐れる。韓国は北朝鮮という重い荷物を抱える。

 日本では総選挙が近づき、対中・対韓強硬派が勢いを増している。だが強硬派に長期展望はあるのか。対処療法ではなく、100年先の日中韓の平和と安定を語る政治家に私なら投票する。

<安原の感想> 平和憲法の理念をどう持続させるかが鍵
 日中韓共同体というこれまで論じられたことのない構想をどう評価するか。「実現までに100年かかってもいい」という未来構想だから、いささかの戸惑いを覚えるが、未来構想だからこそ逆に自由な感想も許されるだろう。

*平和憲法か日米安保か
 私の関心事からいえば、平和憲法、あるいは日米安保がどうかかわってくるのかが焦点となるほかない。長期展望として平和憲法の理念をどう持続させるかが鍵である。一方、日米安保の持続性は歓迎できない。言い換えれば日米安保を解消する共同体でなければならない。この視点を忘却した日中韓共同体構想は、歓迎できる代物(しろもの)とは言えないだろう。

 現状認識をいえば、戦後体制の二つの顔、すなわち日米安保と平和憲法のうち、日米安保の乱暴な振る舞いが巨大化し、一方の平和憲法の存在感は根強いものがあるとしても、現状は満足できるものではない。その背景には民主党の政権誕生とその後の変質、右傾化があり、それを煽るかのような大阪市の橋下一派、「日本維新の会」の台頭がある。自民党など保守勢力も右傾化に悪乗りするのに忙しいという印象がある。

*注目点は次の総選挙
 こういう右傾化の動きに対して、批判的な左派には日本共産党、社民党など、それに新政党として最近発足した「緑の党」が加わっている。しかし目下のところ、右傾化の流れが強く、左派からの批判の声は、残念ながら遠吠えの感さえ否めない。

 問題はこの政治勢力地図が今後どのような展開を辿ることになるのかである。当面の着目点は次の総選挙ではないか。総選挙でこの左右の政治地図を多少なりとも塗り替えることができないようでは「暗い時代」が続くという予感がある。平和憲法の理念は吹っ飛んでしまいかねない時代の始まりとなるかも知れない。それを歓迎するのは、多くの廃墟と無数の犠牲者を産み出す対外戦争を好む米国の例の軍産複合体(これには日本版軍産複合体も一枚噛んでいる)である。

*歴史的大勝負へ
 こうみると、次の総選挙は図式的にいえば、「左派勢力」対「右派勢力プラス軍産複合体」の歴史的大勝負になるだろう。左派が脱原発勢力のほか、「ウオール街の反乱」にみる99%の日本版「市民、民衆」とどれほど握手できるかも重要な要素である。これには日本の命運と未来がかかっている。

 以上のような視点を考慮しないまま、未来の日中韓共同体構想を論じても、それは単なる頭脳遊技に終わる懸念がある。


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辻井喬の「入亜脱従属」論を読んで
カギは平和憲法理念の活用にこそ

安原和雄
 詩人、作家の辻井 喬の「入亜脱従属」論が示唆に富む。アジアの大国・中国と日米安保体制下の同盟国・アメリカ、この両大国と日本は今後どう付き合っていくのが望ましいかがテーマとなっている。「入亜脱従属」論が示唆するところは、日本の進むべき道として、中国との交流を深めながら、一方、日米安保体制からどう離脱を図っていくかである。
 実現のカギとなるのがわが国平和憲法の理念をどう活用するかである。そのためには「日米安保体制があるから安心という時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持つべきか」が重要と問いかけている。(2012年9月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

(1)辻井 喬の<「入亜脱従属」の構想>

 論壇月刊誌『世界』(2012年10月号・岩波書店刊)の特集「日中国交回復40年 ― 対立を越えるために」の一つ、辻井喬(注1)論文<新世紀の日中関係への展望―「入亜脱従属」の構想>に注目したい。
(注1)つじい・たかし=詩人、作家。1927年東京生まれ。日本芸術院賞などを受賞。日本文藝家協会副理事長、日本中国文化交流協会会長など。

<「入亜脱従属」の構想>の要点を、以下紹介する。
 政治体制はそのままに、新しく市場主義を導入することに成功した中国の経済は、新世紀に入って大いに躍進している。
 一方、世界の旧来の自由市場経済は、グローバリズムの負の影響もあって行き詰まっている。第二次世界大戦後の″秩序″と考えられてきた、アメリカを唯一の超大国とし、アメリカ通貨を世界の基軸通貨とする体制の矛盾は、アジア諸国の経済発展、イスラム諸国の民主化などの結果、大きく変わる必要が唱えられるようになった。
 世界はいま、「戦争と革命の世紀」と呼ばれる百年の後で、新しい秩序を模索していると言っていいのかもしれない。
 その中で中国が採用している社会主義市場経済の成功は、世界の指導者の強い関心の的になっている。
(中略)
 中国経済の大躍進は、経済のみならず日中関係の外交、産業、個別政策、文化交流等の分野に大きな影響を及ぼす時代に入っていることが分かる。アメリカとの間に安全保障条約があるから安心であるとしていた時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持っていなければならないかが問われる時代に入ったと考えるべきではないか。
 その際、経済大国として平和憲法を持っているのはわが国だけということが、諸種の判断の大きな砦であることを強調しておきたい。この平和憲法の下にあってこそ、わが国がもう一度アジアのなかのひとつの国として参入することが可能になると言っていい。
 それをスローガン的に言えば、「入亜脱従属」の時代に入った。逆の方向から言えばアジアのなかの一員になりながら、平和的な独立性を持った国となるためにこそ、現在の平和憲法は有用であるということであるだろうか。

(2)堤 清二の構想<″市民の国家″に改造を>

 毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』(1975年毎日新聞社刊)にはわが国政官財の有力者50人とのインタビュー記事が掲載されている。今から40年近くも前のインタビューは、当時毎日新聞経済記者だった私(安原)が主として担当した。証言者の一人として堤 清二(注2)が登場している。
(注2)つつみ・せいじ=インタビュー当時、西武百貨店社長、西友ストアー会長など西部流通グループの代表。当時の若手財界人の中では体制内反逆者ともいえる特異な存在として知られていた。

 堤発言の要点は以下の通り。
 このインタビュー記事はかなり長文であり、記事中の小見出しも「″市民の国家″に改造を」、「経済界は没落の一途」、「自己の陣営に厳しく」となっている。ここでは市民国家論の骨子を、安原との一問一答形式で紹介する。

安原:企業の社会的責任が経営者の基本的行動様式の基準になり得なかったとあなたは指摘している。それは日本産業風土の特殊性によるものか、それとも資本主義体制の本質的欠陥が出てきたものと考えるか。
堤:それに答えるのは、実はこわい。資本主義が社会的有用性を持っていたころはプラスの役割を果たした。しかし現在、資本主義の社会的な役割は一段階を終えたのではないかというイヤな予感がする。新しい時代の資本主義に関するビジョンが生まれない限り、今日みられるデメリット(欠陥)が出続ける危険性がある。公害、インフレ、資源問題などがそのデメリットで、これはケインズ経済学の破産にもつながっていく問題だ。

安原:公取委の大企業分割論など独禁法強化の動きに対し、経済界は「今の自由主義経済にとって自殺行為」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。これでは経済界はかつての公害問題で犯したのと同じ愚を繰り返すのではないか。
堤:まさにその通りだ。資本主義の役割が一段階終わったとすると、次の資本主義は混合経済だろう。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に描いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されていたわけだ。
しかしアダム・スミスを読み直してみると、スミスさえ、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制などの必要を強調している。日本のえらい方は自己流にスミスを読み違えているとしか思えない。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは大衆から見放される。

安原:公経済の分野が広がっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
堤:いまの国家は、市民社会のための装置だ、という認識をもつべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民社会のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府が現実にそうなっているとは思えないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合いについて介入を認める立場で注文をつけていく。

<安原の感想> 「入亜脱従属」のカギは平和憲法の活用
 辻井 喬に続いてなぜ堤 清二が登場してくるのか。ご存知の方には蛇足とも言えるが、両者は同一人物で、本名・堤のペンネームが辻井である。同一人物というだけではない。辻井の最新の<「入亜脱従属」の構想>は、実は堤の40年も前の「市民国家論」をさらに発展させたものとも評価できるからである。
 かつて堤が説いた市民国家論は「市民のための国家」であり、言い換えれば、「資本主義のための国家」ではない。また資本主義を担う「企業家たちのための国家」でもない。そういう含意の市民国家論が21世紀の今、<「入亜脱従属」の構想>として発展した姿形でよみがえってきたと受け止めたい。

 しかも<「入亜脱従属」の構想>は「アメリカとの間に安全保障条約があるから安心であるとしていた時代は終わり、わが国は独立国としてどのような判断と政策を持つかが問われる時代に入った」という、まさに今日的な新しい状況認識に立って打ち出されている点に着目したい。
 その<「入亜脱従属」の構想>の具体的な柱として次の諸点を挙げることができる。
・経済大国として平和憲法を持っているのはわが国だけということ。
・それが諸種の判断の大きな砦であること。
・平和憲法の下でこそ、わが国がもう一度アジアのなかのひとつの国として参入することが可能になること。
・平和的な独立性を持った国となるためにこそ、平和憲法は有用であること。

 以上から読み取れるのは、反戦・平和を目指すわが国平和憲法の存在価値を高く評価すると同時に「入亜脱従属」のカギは平和憲法の活用にかかっていることを力説し、さらに脱「日米安保体制」をも示唆していることである。これらの諸点を見逃すことはできない。


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