説法・日本変革への道
仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7両日の浄土宗教化高等講習会で私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。以下は「説法・日本変革への道」(要約)である。(別稿で全容を掲載)
▽仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきである。私はCSRにヒントを得てBSRという新語をつくった。衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。
▽すでに破産した現代経済学
仏教経済学は現代経済学(赤字財政による経済拡大策をすすめるケインズ経済学など)とどう異なるのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害などはその具体的な現れである。
破局をもたらしたものは、現代経済思想であり、それに基づく経済成長路線であった。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
▽仏教経済学の特質はいのち・知足・利他・持続性
仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。欲望について仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。これも仏教経済学の特色である。
経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。
現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。
一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「ゼロ成長でも十分」と考える。
▽「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及を
日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することである。そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。
▽「健康のすすめ」の医療改革案
厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう医療改革は改革の名に値しない。「健康のすすめ」を柱とする改革案は次の通りである。
*高齢者は原則無料
*健康奨励策の導入=1年間に1度も医者にかからなかった者は、医療保険料の一部返還請求の権利を持つことなど。
*「いのち・食・健康」教育の重視=「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。
*働き方の改革=労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。
*自己責任の原則を導入=糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったのだから、自己責任の原則を適用する必要がある。
▽自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。
地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は以下のようである。
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
装備は人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断され、空路による救助・支援のための「人道ヘリコプター」を大量保有する。
特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
以上
仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7両日の浄土宗教化高等講習会で私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。以下は「説法・日本変革への道」(要約)である。(別稿で全容を掲載)
▽仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきである。私はCSRにヒントを得てBSRという新語をつくった。衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。
▽すでに破産した現代経済学
仏教経済学は現代経済学(赤字財政による経済拡大策をすすめるケインズ経済学など)とどう異なるのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害などはその具体的な現れである。
破局をもたらしたものは、現代経済思想であり、それに基づく経済成長路線であった。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
▽仏教経済学の特質はいのち・知足・利他・持続性
仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。欲望について仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。これも仏教経済学の特色である。
経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。
現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。
一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「ゼロ成長でも十分」と考える。
▽「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及を
日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することである。そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。
▽「健康のすすめ」の医療改革案
厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう医療改革は改革の名に値しない。「健康のすすめ」を柱とする改革案は次の通りである。
*高齢者は原則無料
*健康奨励策の導入=1年間に1度も医者にかからなかった者は、医療保険料の一部返還請求の権利を持つことなど。
*「いのち・食・健康」教育の重視=「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。
*働き方の改革=労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。
*自己責任の原則を導入=糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったのだから、自己責任の原則を適用する必要がある。
▽自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。
地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は以下のようである。
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
装備は人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断され、空路による救助・支援のための「人道ヘリコプター」を大量保有する。
特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
以上
説法・日本変革への道
安原和雄
仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7日の両日、浄土宗の教化高等講習会が栃木県下で開かれ、私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。参加者は関東地区から集まったお坊さんたちで、以下は、坊さんならぬ一介の仏教経済学徒が講演の趣旨を織り込んでまとめた「説法・日本変革への道」(全容)である。この日本変革論は小泉首相の改革路線とは180度異質であることを強調したい。(別稿で要約を掲載)
Ⅰ.仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。03年1月スイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)で「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか」という声が相次いで飛び出した。短期利益や株価だけを重視する米国式経営の限界が米企業の数々の不祥事で表面化したためである。日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日本でも日常用語になった観がある。
仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきではないだろうか。私は05年10月中旬「安原和雄の仏教経済塾」に「企業人はカネの奴隷か」という一文を載せた。読者からの感想に「権威あるお寺のお布施もカネ次第になっている現状では仏教はどこまで有効なのか」があった。もっともな疑問である。
私はCSRにヒントを得てBSR(仏教の社会的責任)という新語をつくった。葬式仏教にとどまらず、現世において仏の教えが日常生活の中に浸透していくこと、さらに衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。そういう視点から仏教経済学の特質は何か、仏教経済学からどのような日本変革への道筋を引き出すことができるかを考える。
Ⅱ.仏教経済学(「知足の経済学」)と現代経済学(「貪欲の経済学」)の比較
実は肝心のビジネスマンたちと仏教経済学はまだ縁が浅い。「仏教経済学って、なに?」という反応が普通である。仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか。双方の経済学の特質を以下に説明したい。
▽仏教抜きの経済学は愛情のないセックス?
仏教経済学は地球環境時代の経済思想であり、一方、現代経済学は経済成長時代のそれである。第2次世界大戦後の大きな時代区分として経済成長時代と地球環境時代を考える。経済成長によって豊かさを追求してきたのが経済成長時代で、日本では1990年頃、バブル崩壊とともに終わった。そしてわれわれはいま地球環境時代に生きている。
地球環境時代とは、どういう時代なのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害はその具体的な現れである。この現状を地球環境の保全と再生によってどう打開するかが緊急の至上命題となっている、そういう今日の時代を指している。
破局をもたらしたものは、現代経済思想(注)であり、それに基づく経済成長路線であった。経済成長の旗振り役を務めた現代経済学者たちの責任は大きい。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
(注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長主義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる弱肉強食の経済思想)などを指している。
著書『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)で「仏教経済学」を提唱したことで知られるドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーは「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」と言った。これはなにを意味するのか。仏教経済学がめざすものはいのち、安らぎ、慈しみそのものであり、一方、現代経済学は愛情のないセックスにたとえられると主張したいのだろう。
▽第一の特質はいのちの尊重
さて仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。地球は人間、自然(生態系)のいのちからなる広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちが危機にさらされている。だから、仏教経済学はいのちの尊重を前面に掲げる。釈迦の説法は「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」である。しかし現代経済学にはそもそもいのちの尊重という発想はない。視野の外に置かれている。
自然と人間の関係について仏教経済学は、人間を自然の一員としてとらえるのに対し、現代経済学の立場では人間が自然を征服・支配し、破壊することになる。
欲望についてはどうか。仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。ここが仏教経済学のもうひとつの特色である。このため私は「知足の経済学」とも呼称する。一方現代経済学についてはイギリスの経済学者、ケインズが「豊かさを追求するためにはまだまだ貪欲を必要とする」と述べたことから私は「貪欲の経済学」とも名づける。
きずなについては仏教経済学は地球・自然・動植物と人間、人間同士の共生、いいかえれば相互依存関係にあると認識し、相互のきずなが深まることを期待する。これは聖徳太子の和の精神の今日的な実践でもあるだろう。しかし現代経済学はもともと地球・自然との共生は視野になく、人間も個人主義の立場から孤立、分断状態、つまりきずななどと無縁の世界ととらえる。
競争はもちろん必要で、競争のない社会は停滞する。だが競争には善い競争と悪い競争がある。仏教経済学は野球のイチロー、ゴルフの宮里藍にみられる 「自分との競争」をすすめる。個性を競い合ってこそ連帯感も広がるからである。これは善い競争の一例である。これに反し、現代経済学は企業のリストラ(人員整理)にみられるように人間を手段視し、弱肉強食をすすめる。これは悪い競争である。
▽利他主義? それとも利己主義?
経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
貨幣観はどうか。仏教経済学は、GDP(国内総生産)では表示できない非貨幣価値(=市場では入手できない非市場価値)、例えば地球上の生きとし生けるものすべてのいのち、太陽光熱、地球、大気、土壌、森林、水脈、生態系などの自然環境、さらにいのちあるものへの慈しみ、思いやり、共生と連帯感、生きがい、働きがい―などを重視する。一方現代経済学は貨幣価値(=カネとの交換で市場で入手できる市場価値)しか視野になく、「カネこそわが命」という考えから、拝金主義に走らざるをえない。
さて地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。そのポイントは、①量の拡大から質の充実への転換、②戦争、テロなど一切の暴力の拒否であり、いわば21世紀の平和志向そのものである。
現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。石油浪費経済を止めないかぎり、地球の一部地域に偏在し、有限資源である石油の暴力的確保に走りやすい。石油浪費経済に執着するアメリカのイラク(世界第2位の石油埋蔵量)攻撃の狙いに石油確保があることがそれを示している。日本がイラク攻撃を支援しているのも石油確保(石油の9割を中東地域に依存)が背景にある。
現代経済学者、ケインズは「災害も戦争も富の増進に役立つ」と言った。現代経済学は暴力、すなわち自然からの逆襲である災害も、国家の暴力行為である戦争も肯定するのである。なぜなら災害も戦争も破壊の跡の復興景気を当てにできるからである。しかしこういう経済に持続性は期待できない。
▽持続性を重視する仏教経済学
一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「経済成長主義よ、さようなら」「ゼロ成長でも十分」(注)と考える。
(注)ゼロ成長の意味はしばしば誤解されるが、これは経済活動がゼロになるという意味ではない。経済活動がゼロになれば、人間は生きていけない。そうではなく、GDP(国内総生産)の伸びがゼロ%、いいかえればGDPの規模が横ばいに推移するという意味である。現在日本のGDPは年間約500兆円で、毎年これだけの規模の新たな富がつくり出されることを指している。
そういう経済は「平和=簡素と非暴力」につながる。なぜなら有限資源の石油の浪費を止めれば、石油の暴力的確保は必要がなくなるからである。さらに過剰な生産・消費・廃棄を招く経済成長主義に告別すれば、簡素な経済(シンプルエコノミー)の構築も期待できるからである。「簡素すなわち非暴力」(シューマッハーの言葉)であることを認識することが大切である。
Ⅲ.平和(=いのち・簡素・非暴力)な暮らし・経済をつくろう
仏教経済学が唱える「日本変革への道」は(A)簡素な暮らし(シンプルライフ)、経済(シンプルエコノミー)に切り替え、定着させること、(B)平和、いいかえればいのちを大切にし、簡素、非暴力をめざすこと―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型くるま社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(太陽光熱、風力、水力など)への大転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)の導入、健康人を増やす社会・医療改革、自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設―などを視野に収めた日本変革プランである。いうまでもなくこれは小泉首相が進めている改革とは異質の変革路線である。
ここでは次の3点に絞って考えたい。
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」の創設
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
私は日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することであり、そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。
▽何をいただくのか?
食事前に唱える「いただきます」の含意を十分に理解している日本人が少なくなった。何をいただくのか。動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
(注)千利休(1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。
大量の食べ残しは動植物のいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう生かすかである。もちろん「世のため、人のため」に生かすことであり、これが大乗仏教の利他主義の原点となる。
▽「もったいない」を世界語に
毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は、国連など世界中で「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いている。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から改めて指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしいが、廃語にしてしまうのは、それこそもったいない話である。
「お陰様で」は、人間は自分独りで生きているのではない、先祖とのつながりのお陰であり、自然からの恵みや人々の有形無形の支えによって生かされ、生きていることに気づき、感謝するこころの表白である。
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
仏教には病と共存、という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った。その体験からできることなら多くの人たちが健康であることを願っている。最近医療ミスが頻発しており、患者の側に立ったぬくもりのある治療体制の確立が急務であると同時に、健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。
ところが厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう財政重視に偏した医療改革は改革の名に値しない。健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育や働き方の改革)を伴うプランでなければならない。
▽「健康のすすめ」の改革案
以下、「健康のすすめ」を柱とする改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は現在1割となっているが、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。健康人を増やすためには多様な健康奨励策の実施が望ましい。これは努力すれば、それなりの結果をもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。
*「いのち・食・健康」教育の重視
「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらに含蓄ある「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の言葉を家庭や学校で理解する機会をつくる。学校での教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。
*働き方の改革
ワークシェアリング(仕事の分かち合い)の導入による労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は自由市場原理主義に立つ小泉改革路線の中で企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。
*自己責任の原則を導入
健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任の原則を適用する必要があるだろう。
*精進のための猶予期間
自己責任原則の導入は2年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。
以上の改革は長期的に健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、かりに一部の病院が倒産しても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことである。
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
日本の政策選択の重要な柱として非武装の「地球救援隊」創設を提唱したい。既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。
▽なぜ非武装の地球救援隊なのか
第1は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは改めて指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。
第2は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約110兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費を大幅に削減し、非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える負の効果しかない。
第3は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、数年来のテロの背景にアメリカの世界戦略、外交、軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子とする覇権主義が、世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。このアメリカの戦略、政策を根本から転換しないかぎり、テロ対策として軍事力を行使することは、むしろ暴力と報復の悪循環を招くにすぎない。
以上から今日の地球環境時代には「軍事中心の安全保障」観はもはや有効ではないどころか、むしろ世界に脅威を与え、「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めている。それは「いのちの安全保障」とも称すべき新しい安全保障観であり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
▽地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、地球規模の非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人と人の間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
装備は兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
(注)新潟県中越地震(04年10月発生、死者51人、負傷者4795人、住宅被害12万9041世帯)、パキスタン地震(05年10月上旬発生、死者5万人超と伝えられる)では陸路交通網が寸断され、ヘリ活用が救助・救援の重要な手段となったことが実証された。
*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法、有事関連諸法は廃止する。
▽仏教と憲法の平和思想を生かして
地球救援隊創設は、暴力による混乱と破壊に満ちた世界を暴力のない平和な世界につくり直すために、日本が仏教と憲法の平和思想を生かして、先導的な役割を果たそうという構想である。
ただこの構想を実現させるにはいくつかの条件が必要である。具体的には憲法9条の改悪を阻止すること、戦争の策動基地となっている日米安保・日米軍事同盟を解体し、在日米軍基地を完全撤去すること、東アジア平和同盟を発足させること―などである。そのためには国民一人ひとりの現状打破と変革への強い選択意志が不可欠である。
上述の3つの変革プランの達成に仏教が貢献すること―それが仏教の社会的責任といえる。このような社会的責任への自覚なくして、仏教の今後の発展が期待できるとは考えられない。最近「憲法9条を守る会」結成の動きが仏教界にも広がりつつあることは大いに歓迎したい。
以上
安原和雄
仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7日の両日、浄土宗の教化高等講習会が栃木県下で開かれ、私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。参加者は関東地区から集まったお坊さんたちで、以下は、坊さんならぬ一介の仏教経済学徒が講演の趣旨を織り込んでまとめた「説法・日本変革への道」(全容)である。この日本変革論は小泉首相の改革路線とは180度異質であることを強調したい。(別稿で要約を掲載)
Ⅰ.仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。03年1月スイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)で「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか」という声が相次いで飛び出した。短期利益や株価だけを重視する米国式経営の限界が米企業の数々の不祥事で表面化したためである。日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日本でも日常用語になった観がある。
仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきではないだろうか。私は05年10月中旬「安原和雄の仏教経済塾」に「企業人はカネの奴隷か」という一文を載せた。読者からの感想に「権威あるお寺のお布施もカネ次第になっている現状では仏教はどこまで有効なのか」があった。もっともな疑問である。
私はCSRにヒントを得てBSR(仏教の社会的責任)という新語をつくった。葬式仏教にとどまらず、現世において仏の教えが日常生活の中に浸透していくこと、さらに衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。そういう視点から仏教経済学の特質は何か、仏教経済学からどのような日本変革への道筋を引き出すことができるかを考える。
Ⅱ.仏教経済学(「知足の経済学」)と現代経済学(「貪欲の経済学」)の比較
実は肝心のビジネスマンたちと仏教経済学はまだ縁が浅い。「仏教経済学って、なに?」という反応が普通である。仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか。双方の経済学の特質を以下に説明したい。
▽仏教抜きの経済学は愛情のないセックス?
仏教経済学は地球環境時代の経済思想であり、一方、現代経済学は経済成長時代のそれである。第2次世界大戦後の大きな時代区分として経済成長時代と地球環境時代を考える。経済成長によって豊かさを追求してきたのが経済成長時代で、日本では1990年頃、バブル崩壊とともに終わった。そしてわれわれはいま地球環境時代に生きている。
地球環境時代とは、どういう時代なのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害はその具体的な現れである。この現状を地球環境の保全と再生によってどう打開するかが緊急の至上命題となっている、そういう今日の時代を指している。
破局をもたらしたものは、現代経済思想(注)であり、それに基づく経済成長路線であった。経済成長の旗振り役を務めた現代経済学者たちの責任は大きい。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
(注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長主義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる弱肉強食の経済思想)などを指している。
著書『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)で「仏教経済学」を提唱したことで知られるドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーは「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」と言った。これはなにを意味するのか。仏教経済学がめざすものはいのち、安らぎ、慈しみそのものであり、一方、現代経済学は愛情のないセックスにたとえられると主張したいのだろう。
▽第一の特質はいのちの尊重
さて仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。地球は人間、自然(生態系)のいのちからなる広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちが危機にさらされている。だから、仏教経済学はいのちの尊重を前面に掲げる。釈迦の説法は「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」である。しかし現代経済学にはそもそもいのちの尊重という発想はない。視野の外に置かれている。
自然と人間の関係について仏教経済学は、人間を自然の一員としてとらえるのに対し、現代経済学の立場では人間が自然を征服・支配し、破壊することになる。
欲望についてはどうか。仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。ここが仏教経済学のもうひとつの特色である。このため私は「知足の経済学」とも呼称する。一方現代経済学についてはイギリスの経済学者、ケインズが「豊かさを追求するためにはまだまだ貪欲を必要とする」と述べたことから私は「貪欲の経済学」とも名づける。
きずなについては仏教経済学は地球・自然・動植物と人間、人間同士の共生、いいかえれば相互依存関係にあると認識し、相互のきずなが深まることを期待する。これは聖徳太子の和の精神の今日的な実践でもあるだろう。しかし現代経済学はもともと地球・自然との共生は視野になく、人間も個人主義の立場から孤立、分断状態、つまりきずななどと無縁の世界ととらえる。
競争はもちろん必要で、競争のない社会は停滞する。だが競争には善い競争と悪い競争がある。仏教経済学は野球のイチロー、ゴルフの宮里藍にみられる 「自分との競争」をすすめる。個性を競い合ってこそ連帯感も広がるからである。これは善い競争の一例である。これに反し、現代経済学は企業のリストラ(人員整理)にみられるように人間を手段視し、弱肉強食をすすめる。これは悪い競争である。
▽利他主義? それとも利己主義?
経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
貨幣観はどうか。仏教経済学は、GDP(国内総生産)では表示できない非貨幣価値(=市場では入手できない非市場価値)、例えば地球上の生きとし生けるものすべてのいのち、太陽光熱、地球、大気、土壌、森林、水脈、生態系などの自然環境、さらにいのちあるものへの慈しみ、思いやり、共生と連帯感、生きがい、働きがい―などを重視する。一方現代経済学は貨幣価値(=カネとの交換で市場で入手できる市場価値)しか視野になく、「カネこそわが命」という考えから、拝金主義に走らざるをえない。
さて地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。そのポイントは、①量の拡大から質の充実への転換、②戦争、テロなど一切の暴力の拒否であり、いわば21世紀の平和志向そのものである。
現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。石油浪費経済を止めないかぎり、地球の一部地域に偏在し、有限資源である石油の暴力的確保に走りやすい。石油浪費経済に執着するアメリカのイラク(世界第2位の石油埋蔵量)攻撃の狙いに石油確保があることがそれを示している。日本がイラク攻撃を支援しているのも石油確保(石油の9割を中東地域に依存)が背景にある。
現代経済学者、ケインズは「災害も戦争も富の増進に役立つ」と言った。現代経済学は暴力、すなわち自然からの逆襲である災害も、国家の暴力行為である戦争も肯定するのである。なぜなら災害も戦争も破壊の跡の復興景気を当てにできるからである。しかしこういう経済に持続性は期待できない。
▽持続性を重視する仏教経済学
一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「経済成長主義よ、さようなら」「ゼロ成長でも十分」(注)と考える。
(注)ゼロ成長の意味はしばしば誤解されるが、これは経済活動がゼロになるという意味ではない。経済活動がゼロになれば、人間は生きていけない。そうではなく、GDP(国内総生産)の伸びがゼロ%、いいかえればGDPの規模が横ばいに推移するという意味である。現在日本のGDPは年間約500兆円で、毎年これだけの規模の新たな富がつくり出されることを指している。
そういう経済は「平和=簡素と非暴力」につながる。なぜなら有限資源の石油の浪費を止めれば、石油の暴力的確保は必要がなくなるからである。さらに過剰な生産・消費・廃棄を招く経済成長主義に告別すれば、簡素な経済(シンプルエコノミー)の構築も期待できるからである。「簡素すなわち非暴力」(シューマッハーの言葉)であることを認識することが大切である。
Ⅲ.平和(=いのち・簡素・非暴力)な暮らし・経済をつくろう
仏教経済学が唱える「日本変革への道」は(A)簡素な暮らし(シンプルライフ)、経済(シンプルエコノミー)に切り替え、定着させること、(B)平和、いいかえればいのちを大切にし、簡素、非暴力をめざすこと―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型くるま社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(太陽光熱、風力、水力など)への大転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)の導入、健康人を増やす社会・医療改革、自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設―などを視野に収めた日本変革プランである。いうまでもなくこれは小泉首相が進めている改革とは異質の変革路線である。
ここでは次の3点に絞って考えたい。
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」の創設
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
私は日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することであり、そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。
▽何をいただくのか?
食事前に唱える「いただきます」の含意を十分に理解している日本人が少なくなった。何をいただくのか。動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
(注)千利休(1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。
大量の食べ残しは動植物のいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう生かすかである。もちろん「世のため、人のため」に生かすことであり、これが大乗仏教の利他主義の原点となる。
▽「もったいない」を世界語に
毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は、国連など世界中で「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いている。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から改めて指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしいが、廃語にしてしまうのは、それこそもったいない話である。
「お陰様で」は、人間は自分独りで生きているのではない、先祖とのつながりのお陰であり、自然からの恵みや人々の有形無形の支えによって生かされ、生きていることに気づき、感謝するこころの表白である。
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
仏教には病と共存、という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った。その体験からできることなら多くの人たちが健康であることを願っている。最近医療ミスが頻発しており、患者の側に立ったぬくもりのある治療体制の確立が急務であると同時に、健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。
ところが厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう財政重視に偏した医療改革は改革の名に値しない。健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育や働き方の改革)を伴うプランでなければならない。
▽「健康のすすめ」の改革案
以下、「健康のすすめ」を柱とする改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は現在1割となっているが、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。健康人を増やすためには多様な健康奨励策の実施が望ましい。これは努力すれば、それなりの結果をもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。
*「いのち・食・健康」教育の重視
「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらに含蓄ある「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の言葉を家庭や学校で理解する機会をつくる。学校での教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。
*働き方の改革
ワークシェアリング(仕事の分かち合い)の導入による労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は自由市場原理主義に立つ小泉改革路線の中で企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。
*自己責任の原則を導入
健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任の原則を適用する必要があるだろう。
*精進のための猶予期間
自己責任原則の導入は2年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。
以上の改革は長期的に健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、かりに一部の病院が倒産しても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことである。
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
日本の政策選択の重要な柱として非武装の「地球救援隊」創設を提唱したい。既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。
▽なぜ非武装の地球救援隊なのか
第1は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは改めて指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。
第2は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約110兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費を大幅に削減し、非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える負の効果しかない。
第3は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、数年来のテロの背景にアメリカの世界戦略、外交、軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子とする覇権主義が、世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。このアメリカの戦略、政策を根本から転換しないかぎり、テロ対策として軍事力を行使することは、むしろ暴力と報復の悪循環を招くにすぎない。
以上から今日の地球環境時代には「軍事中心の安全保障」観はもはや有効ではないどころか、むしろ世界に脅威を与え、「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めている。それは「いのちの安全保障」とも称すべき新しい安全保障観であり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
▽地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、地球規模の非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人と人の間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
装備は兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
(注)新潟県中越地震(04年10月発生、死者51人、負傷者4795人、住宅被害12万9041世帯)、パキスタン地震(05年10月上旬発生、死者5万人超と伝えられる)では陸路交通網が寸断され、ヘリ活用が救助・救援の重要な手段となったことが実証された。
*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法、有事関連諸法は廃止する。
▽仏教と憲法の平和思想を生かして
地球救援隊創設は、暴力による混乱と破壊に満ちた世界を暴力のない平和な世界につくり直すために、日本が仏教と憲法の平和思想を生かして、先導的な役割を果たそうという構想である。
ただこの構想を実現させるにはいくつかの条件が必要である。具体的には憲法9条の改悪を阻止すること、戦争の策動基地となっている日米安保・日米軍事同盟を解体し、在日米軍基地を完全撤去すること、東アジア平和同盟を発足させること―などである。そのためには国民一人ひとりの現状打破と変革への強い選択意志が不可欠である。
上述の3つの変革プランの達成に仏教が貢献すること―それが仏教の社会的責任といえる。このような社会的責任への自覚なくして、仏教の今後の発展が期待できるとは考えられない。最近「憲法9条を守る会」結成の動きが仏教界にも広がりつつあることは大いに歓迎したい。
以上
企業人はカネの奴隷か
安原 和雄
新興のIT企業や投資ファンドが他社の株を大量に取得するケースが相次いでいる。インターネット商店街最大手の楽天(三木谷浩史会長兼社長)が民放TBSの株を大量に取得したことが05年10月13日表面化した。阪神タイガースの親会社、阪神電鉄の筆頭株主に躍り出て話題を呼んでいる投資ファンド(通称・村上ファンド)を率いる村上世彰氏もかなりのTBS株を取得した。半年前のライブドア(堀江貴文社長)によるニッポン放送株買い占め騒動はまだ記憶に新しい。
仏教経済学の視点に立つと、これら一連の動きからなにがみえてくるか。それは「企業人たちよ! カネの奴隷になりたいの?」という疑問である。
▽カネ欲は望ましくない欲望
仏教のキーワードの一つは少欲知足である。釈迦は次のように説いている。
「少欲の人は無求(ぐ)無欲なれば、患(うれ)へなし・・・」
「苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。・・・知足の人は貧しといえどもしかも富めり」と。
欲望肥大症は身を滅ぼす。人生の苦悩から抜け出したいのであれば、知足、すなわち「もうこれで十分」という足るを知るこころを持ちたい。そういう生き方のできる人こそ実は豊かな人、という意である。
ただ仏教は欲望すべてを否定しているのではない。欲望には望ましい欲(求道の精神、歴史の大道に沿った改革への志、世のため人のために尽くしたいという利他の精神など)と望ましくない欲(物欲、カネ欲、権力欲、名誉欲など)の2つがあると教える。前者は大欲、後者は小欲(=小さな低次元の欲望で、少欲すなわち知足とは異なる)ともいわれる。前者の望ましい欲望まで失ってしまっては生き甲斐も消えていく。
もちろんカネは現下の市場経済、貨幣経済の下では大切であるが、カネはあくまでも手段であり、増殖を目的とすべきものではないと仏教経済学は考える。
▽渋沢栄一、伊庭貞剛に学ぶこと
日本資本主義の父ともいうべき存在であった渋沢栄一(1840~1931年)は実業界から引退するまでに500余の企業設立にかかわったほか、教育分野では一橋大学の創設にも力を尽くした。渋沢は経済・経営観として「論語・算盤」説、つまり利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だと説き、その指針としたのが論語の次の言葉である。
「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
立派な人物はつねに義にかなうかどうかを中心に考え、行動するが、つまらない人間は万事につけ利益本位に打算し、義に背くかどうかなど考えもしない、という意である。
渋沢は必要な事業を盛んにするために多くの企業を設立したが、株が騰貴することを目的に株を持ったことはないと著書『論語講義』(講談社学術文庫)で語っている。
一方、伊庭貞剛(1847~1926年)は、渋沢と同時代に生きて「東の渋沢、西の伊庭」ともうたわれた存在で、住友財閥の重鎮として多くの業績を残した。伊庭の座右の銘が仏教の禅の言葉である。
「君子財を愛し、これを取るに道あり」
立派な人物は財を尊重して、手に入れるにも道に沿って行う、つまり道義に反していないかどうかをまず考える、という意である。
また彼の口癖に「金というものは儲けられるもんじゃない。授かるものだ」、「武力、財力、智力、意力など〈力〉は貴いが、所詮手段じゃ。〈力〉を導くものは、〈道〉の外にない」があった。住友グループの経営理念、「浮利を追うなかれ」はここから生まれた。
2人の大先達の経済・経営観を今日風に翻訳すれば、企業人たちよ、カネの奴隷にならないよう自らを戒めよ、ということだろう。
▽マネーゲーム主役たちの金銭感覚
モノづくりの実業を軽視して、カネの増殖に狂奔するマネーゲーム騒動が目立つ昨今だが、株買い占めの主役たちはどういう金銭感覚を持っているのか。
ライブドアの堀江貴文氏は「カネで買えないモノなどあるわけない。買えないモノがあれば、教えて欲しい」と言ったことがある。これには次のように答えたい。「両親からいただいた自分のいのちもカネで買ったのか」と。市場経済の外に目を向ければ、カネでは買えない貴重なモノが沢山あることに気づくだろう。
村上ファンドの村上世彰氏は小学生の頃から株運用に興味を持っていたといわれる。彼の行動指針は「おもしろいこと、もうかること、フェアなこと(法に従うこと)」であり、株を買い占めた阪神電鉄を「投資家にとってこんないい会社はない」と評価していると伝えられる。いいかえれば、違法でないかぎり、株でもうけることほどこの世でおもしろいことはないという金銭感覚であろう。
一方、楽天の三木谷浩史氏は「地方の活性化、さらに日本を変えることに貢献したい。重要なことは経営に正義心があるかどうかだ」と経営理念を語っている。この発言からみるかぎり、ITを足場にした新事業そのものへの意欲を感じさせる。その手段としての株買い占めであれば、事業の拡大策ではあるが、買い占めた株の値上がりを待って、利ざやを稼ぐために売り逃げるというマネーゲームの印象は薄い。
ともかく今後とも盛んになるだろうマネーゲームは何を意味しているのか。英国の経済学者、スーザン・ストレンジが著書『カジノ資本主義』(岩波書店)でマネーゲーム化した資本主義に次のように警告を発したのはもう20年も前のことである。
「西側世界の金融システムは急速に巨大なカジノ以外のなにものでもなくなりつつある。(中略)このことは深刻な結果をもたらさざるをえない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。(中略)いまや運が怠惰や無能と同じように仕事を奪うかもしれない。不確実性の増大が我々を賭博常習者にしてしまっている」
▽勝利したはずの資本主義の腐朽性
マネーゲームの主役たちは、カネを自在に操っているつもりかもしれないが、実はカネに操られ、自らの意に反してカネの奴隷と化している。資本主義経済が実業本位からマネーゲーム本位へ、つまりギャンブル化していくことは資本主義が健全性を失い、腐朽性を強めていくことにほかならない。かつてのソ連型社会主義の崩壊とともに、資本主義の独り勝ちになったと有頂天になっている見方が少なくないが、実は勝利を収めたはずの資本主義の土台そのものが汚染され、崩壊しつつあることに気づくときであろう。
バブル崩壊後の1990年以降、名門企業も含めてどれほど多くの企業人が、不正会計操作、自己利益の飽くなき追求などマネーゲームまがいの経営で道を踏み外し、刑務所送りとなったことか。その都度、腰を90度曲げて陳謝する異様な光景はいまでは珍しくもない。
渋沢、伊庭の大先達が、もし生存していたら、何というだろうか。「資本主義の精神もここまで堕ちたか」と慨嘆するにちがいない。
以上
安原 和雄
新興のIT企業や投資ファンドが他社の株を大量に取得するケースが相次いでいる。インターネット商店街最大手の楽天(三木谷浩史会長兼社長)が民放TBSの株を大量に取得したことが05年10月13日表面化した。阪神タイガースの親会社、阪神電鉄の筆頭株主に躍り出て話題を呼んでいる投資ファンド(通称・村上ファンド)を率いる村上世彰氏もかなりのTBS株を取得した。半年前のライブドア(堀江貴文社長)によるニッポン放送株買い占め騒動はまだ記憶に新しい。
仏教経済学の視点に立つと、これら一連の動きからなにがみえてくるか。それは「企業人たちよ! カネの奴隷になりたいの?」という疑問である。
▽カネ欲は望ましくない欲望
仏教のキーワードの一つは少欲知足である。釈迦は次のように説いている。
「少欲の人は無求(ぐ)無欲なれば、患(うれ)へなし・・・」
「苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。・・・知足の人は貧しといえどもしかも富めり」と。
欲望肥大症は身を滅ぼす。人生の苦悩から抜け出したいのであれば、知足、すなわち「もうこれで十分」という足るを知るこころを持ちたい。そういう生き方のできる人こそ実は豊かな人、という意である。
ただ仏教は欲望すべてを否定しているのではない。欲望には望ましい欲(求道の精神、歴史の大道に沿った改革への志、世のため人のために尽くしたいという利他の精神など)と望ましくない欲(物欲、カネ欲、権力欲、名誉欲など)の2つがあると教える。前者は大欲、後者は小欲(=小さな低次元の欲望で、少欲すなわち知足とは異なる)ともいわれる。前者の望ましい欲望まで失ってしまっては生き甲斐も消えていく。
もちろんカネは現下の市場経済、貨幣経済の下では大切であるが、カネはあくまでも手段であり、増殖を目的とすべきものではないと仏教経済学は考える。
▽渋沢栄一、伊庭貞剛に学ぶこと
日本資本主義の父ともいうべき存在であった渋沢栄一(1840~1931年)は実業界から引退するまでに500余の企業設立にかかわったほか、教育分野では一橋大学の創設にも力を尽くした。渋沢は経済・経営観として「論語・算盤」説、つまり利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だと説き、その指針としたのが論語の次の言葉である。
「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
立派な人物はつねに義にかなうかどうかを中心に考え、行動するが、つまらない人間は万事につけ利益本位に打算し、義に背くかどうかなど考えもしない、という意である。
渋沢は必要な事業を盛んにするために多くの企業を設立したが、株が騰貴することを目的に株を持ったことはないと著書『論語講義』(講談社学術文庫)で語っている。
一方、伊庭貞剛(1847~1926年)は、渋沢と同時代に生きて「東の渋沢、西の伊庭」ともうたわれた存在で、住友財閥の重鎮として多くの業績を残した。伊庭の座右の銘が仏教の禅の言葉である。
「君子財を愛し、これを取るに道あり」
立派な人物は財を尊重して、手に入れるにも道に沿って行う、つまり道義に反していないかどうかをまず考える、という意である。
また彼の口癖に「金というものは儲けられるもんじゃない。授かるものだ」、「武力、財力、智力、意力など〈力〉は貴いが、所詮手段じゃ。〈力〉を導くものは、〈道〉の外にない」があった。住友グループの経営理念、「浮利を追うなかれ」はここから生まれた。
2人の大先達の経済・経営観を今日風に翻訳すれば、企業人たちよ、カネの奴隷にならないよう自らを戒めよ、ということだろう。
▽マネーゲーム主役たちの金銭感覚
モノづくりの実業を軽視して、カネの増殖に狂奔するマネーゲーム騒動が目立つ昨今だが、株買い占めの主役たちはどういう金銭感覚を持っているのか。
ライブドアの堀江貴文氏は「カネで買えないモノなどあるわけない。買えないモノがあれば、教えて欲しい」と言ったことがある。これには次のように答えたい。「両親からいただいた自分のいのちもカネで買ったのか」と。市場経済の外に目を向ければ、カネでは買えない貴重なモノが沢山あることに気づくだろう。
村上ファンドの村上世彰氏は小学生の頃から株運用に興味を持っていたといわれる。彼の行動指針は「おもしろいこと、もうかること、フェアなこと(法に従うこと)」であり、株を買い占めた阪神電鉄を「投資家にとってこんないい会社はない」と評価していると伝えられる。いいかえれば、違法でないかぎり、株でもうけることほどこの世でおもしろいことはないという金銭感覚であろう。
一方、楽天の三木谷浩史氏は「地方の活性化、さらに日本を変えることに貢献したい。重要なことは経営に正義心があるかどうかだ」と経営理念を語っている。この発言からみるかぎり、ITを足場にした新事業そのものへの意欲を感じさせる。その手段としての株買い占めであれば、事業の拡大策ではあるが、買い占めた株の値上がりを待って、利ざやを稼ぐために売り逃げるというマネーゲームの印象は薄い。
ともかく今後とも盛んになるだろうマネーゲームは何を意味しているのか。英国の経済学者、スーザン・ストレンジが著書『カジノ資本主義』(岩波書店)でマネーゲーム化した資本主義に次のように警告を発したのはもう20年も前のことである。
「西側世界の金融システムは急速に巨大なカジノ以外のなにものでもなくなりつつある。(中略)このことは深刻な結果をもたらさざるをえない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。(中略)いまや運が怠惰や無能と同じように仕事を奪うかもしれない。不確実性の増大が我々を賭博常習者にしてしまっている」
▽勝利したはずの資本主義の腐朽性
マネーゲームの主役たちは、カネを自在に操っているつもりかもしれないが、実はカネに操られ、自らの意に反してカネの奴隷と化している。資本主義経済が実業本位からマネーゲーム本位へ、つまりギャンブル化していくことは資本主義が健全性を失い、腐朽性を強めていくことにほかならない。かつてのソ連型社会主義の崩壊とともに、資本主義の独り勝ちになったと有頂天になっている見方が少なくないが、実は勝利を収めたはずの資本主義の土台そのものが汚染され、崩壊しつつあることに気づくときであろう。
バブル崩壊後の1990年以降、名門企業も含めてどれほど多くの企業人が、不正会計操作、自己利益の飽くなき追求などマネーゲームまがいの経営で道を踏み外し、刑務所送りとなったことか。その都度、腰を90度曲げて陳謝する異様な光景はいまでは珍しくもない。
渋沢、伊庭の大先達が、もし生存していたら、何というだろうか。「資本主義の精神もここまで堕ちたか」と慨嘆するにちがいない。
以上
平和(=非暴力、簡素)はつくるもの 安原 和雄
私は仏教経済学の普及に大いなる関心を抱くと同時に「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人でもあります。仏教経済学の立場からいっても平和は重要なテーマであり、戦争には「NO」の立場を堅持します。
ただ肝心なことは平和は守るものではなく、つくっていくものだということです。そういう視点から私の平和観のほんの一端を以下に述べます。2005年10月5日付の毎日新聞に掲載された「憲法9条の改訂に62%が反対」という世論調査結果には心強いものを感じました。
▽平和からほど遠い日本
日本の平和をどうつくるかを考えてみます。それが地球の平和にもつながっていくと思います。平和とは非戦、すなわち戦争がない状態だと考えている人が多いのではないでしょうか。もちろんこの平和観は重要ですが、21世紀の今日、〈平和=非戦〉にとどまらず、〈平和=非暴力、簡素〉という広い平和観に立って考える必要があります。
広い平和観からみれば、日本の現状は平和からほど遠いことを教えてくれます。なぜなら日常的に多様な暴力があふれており、しかも生活や経済のあり方が簡素になりきってはいないからです。
多様な暴力には戦争、テロ、紛争のほかに、凶悪犯罪、自殺、交通事故死、人権侵害、失業、病気、社会的不公正さらに資源エネルギーの浪費による地球環境の汚染・破壊などがあります。日本列島上では幸い戦争やテロなどの暴力は今のところありませんが、それ以外の暴力は日常茶飯事です。
▽簡素な暮らし・経済への転換を
広い平和観によると、戦争、テロだけでなく、多様な暴力すべてをなくすことが平和です。だから平和とは守るものではなく、つくるものです。では平和をつくるために何をすべきでしょうか。
まず身近な暮らしのあり方を変えることです。例えば忘れかけている「もったいない」、「いただきます」、「お陰様で」― いのちやモノを大切にすること、生かされ、生きていることへの感謝を表す言葉―を日常の暮らしの中に取り戻すことです。
2004年度ノーベル平和賞受賞者のマータイ女史(ケニアの副環境相)は05年2月来日、日本語の「もったいない」(MOTTAINAI)に出会い、世界共通語にしようと国連をはじめ世界各地で訴えています。有り難いことです。
この「もったいない」の精神で廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済への転換が平和構築にとって不可欠です。なぜなら廃棄物を大量に排出する浪費的な暮らし・経済は、同時に有限でしかも地球上の一部地域に偏在している石油を無造作に使う石油浪費型であり、こういう暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えば米国のイラク攻撃と日本の攻撃支援の背景に石油確保があります)につながるからです。マータイ女史は「多くの戦争は資源をめぐって起こる」と指摘しています。
▽憲法9条の改悪阻止と日米安保体制の解体を
正式の軍隊をもつために憲法9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようという動きはもちろん阻止しなければなりません。05年10月5日付毎日新聞の世論調査によると、回答者の62%が「憲法9条の改訂に反対」と答えています。「9条を変えるべきだ」は30%にすぎません。このように憲法9条を改悪しないことは国民の意志といえるわけですが、9条を守るだけでは不十分です。なぜなら9条は残念ながら事実上空洞化しているからです。
9条本来の理念(戦争放棄、戦力不保持)を取り戻す必要があります。現実は日米安保体制、日米軍事同盟を背景に日本の歴代保守政権は平和憲法9条の理念を無視して、戦力を増強してきました。今ではアメリカに次いで英、仏などと並ぶ軍事強国(国家予算ベース)にのし上がっています。
しかも広大な在日米軍基地網の配置を許容し、アメリカの戦争を支援してきました。最近のイラク攻撃への支援、協力もその具体例の一つです。だから日米安保体制、日米軍事同盟の解体も視野に入れなければ平和をつくることはできません。
平和憲法の理念と日米安保体制(安保条約第3条で日本は自衛力の維持発展、第6条で軍事基地の許与をアメリに約束しています)とはもともと矛盾し、両立できない性質のものです。だから9条の理念を取り戻すためには日米安保と軍事同盟の解体を長期戦略として打ち出すことが大切です。
以上
私は仏教経済学の普及に大いなる関心を抱くと同時に「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人でもあります。仏教経済学の立場からいっても平和は重要なテーマであり、戦争には「NO」の立場を堅持します。
ただ肝心なことは平和は守るものではなく、つくっていくものだということです。そういう視点から私の平和観のほんの一端を以下に述べます。2005年10月5日付の毎日新聞に掲載された「憲法9条の改訂に62%が反対」という世論調査結果には心強いものを感じました。
▽平和からほど遠い日本
日本の平和をどうつくるかを考えてみます。それが地球の平和にもつながっていくと思います。平和とは非戦、すなわち戦争がない状態だと考えている人が多いのではないでしょうか。もちろんこの平和観は重要ですが、21世紀の今日、〈平和=非戦〉にとどまらず、〈平和=非暴力、簡素〉という広い平和観に立って考える必要があります。
広い平和観からみれば、日本の現状は平和からほど遠いことを教えてくれます。なぜなら日常的に多様な暴力があふれており、しかも生活や経済のあり方が簡素になりきってはいないからです。
多様な暴力には戦争、テロ、紛争のほかに、凶悪犯罪、自殺、交通事故死、人権侵害、失業、病気、社会的不公正さらに資源エネルギーの浪費による地球環境の汚染・破壊などがあります。日本列島上では幸い戦争やテロなどの暴力は今のところありませんが、それ以外の暴力は日常茶飯事です。
▽簡素な暮らし・経済への転換を
広い平和観によると、戦争、テロだけでなく、多様な暴力すべてをなくすことが平和です。だから平和とは守るものではなく、つくるものです。では平和をつくるために何をすべきでしょうか。
まず身近な暮らしのあり方を変えることです。例えば忘れかけている「もったいない」、「いただきます」、「お陰様で」― いのちやモノを大切にすること、生かされ、生きていることへの感謝を表す言葉―を日常の暮らしの中に取り戻すことです。
2004年度ノーベル平和賞受賞者のマータイ女史(ケニアの副環境相)は05年2月来日、日本語の「もったいない」(MOTTAINAI)に出会い、世界共通語にしようと国連をはじめ世界各地で訴えています。有り難いことです。
この「もったいない」の精神で廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済への転換が平和構築にとって不可欠です。なぜなら廃棄物を大量に排出する浪費的な暮らし・経済は、同時に有限でしかも地球上の一部地域に偏在している石油を無造作に使う石油浪費型であり、こういう暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えば米国のイラク攻撃と日本の攻撃支援の背景に石油確保があります)につながるからです。マータイ女史は「多くの戦争は資源をめぐって起こる」と指摘しています。
▽憲法9条の改悪阻止と日米安保体制の解体を
正式の軍隊をもつために憲法9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようという動きはもちろん阻止しなければなりません。05年10月5日付毎日新聞の世論調査によると、回答者の62%が「憲法9条の改訂に反対」と答えています。「9条を変えるべきだ」は30%にすぎません。このように憲法9条を改悪しないことは国民の意志といえるわけですが、9条を守るだけでは不十分です。なぜなら9条は残念ながら事実上空洞化しているからです。
9条本来の理念(戦争放棄、戦力不保持)を取り戻す必要があります。現実は日米安保体制、日米軍事同盟を背景に日本の歴代保守政権は平和憲法9条の理念を無視して、戦力を増強してきました。今ではアメリカに次いで英、仏などと並ぶ軍事強国(国家予算ベース)にのし上がっています。
しかも広大な在日米軍基地網の配置を許容し、アメリカの戦争を支援してきました。最近のイラク攻撃への支援、協力もその具体例の一つです。だから日米安保体制、日米軍事同盟の解体も視野に入れなければ平和をつくることはできません。
平和憲法の理念と日米安保体制(安保条約第3条で日本は自衛力の維持発展、第6条で軍事基地の許与をアメリに約束しています)とはもともと矛盾し、両立できない性質のものです。だから9条の理念を取り戻すためには日米安保と軍事同盟の解体を長期戦略として打ち出すことが大切です。
以上
学問のススメ―仏教経済学
下野新聞(05年3月20日付)掲載
足利工業大学教授 安原 和雄
「もったいない」を心に(大きな活字の脇見出し)―と題した記事の全文は以下の通り。
三十年も昔のこと、鎌倉散策の折に鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の墓所を訪ね、脇に置かれたおみくじを生まれて初めて引いたことがある。私の適職は「教育者」と出た。大学時代以来、教職をめざそうなどと考えたことはないし、当時経済記者として夜遅くまで走り回っていた頃でもあり、「これは違うな」と、気にもとめなかった。
しかしやはり「人生は縁」ということだろうか。十数年後に経済学の教壇に立つ巡り合わせとなったのだから、内心苦笑せざるを得なかった。
<知足と共生と>
最初に大学を訪ねたとき、中庭で聖徳太子の立像が目に飛び込んできた。台座には太子の十七条憲法の有名な「以和為貴」(和をもって尊しとなす)の文字が刻まれている。この和の精神は足利工業大学の建学の精神にもなっている。
一方、これも縁というべきか。知人の紹介でやがて駒澤大学仏教経済研究所の仏教経済研究会の一員になった。こうして私の関心は仏教経済学へと急傾斜していった。
仏教経済学は仏教を経済に活かすことをめざす新しい考え方である。仏教のキーワードに知足(ちそく=足るを知ること)がある。これは「もうこれで十分」と考えて、簡素のなかに充実した生き方を求める知恵である。さらに聖徳太子の和の精神、今日風に翻訳すれば、人間と地球・自然・動植物との共生、平和共存を重視することも忘れてはならない。
仏教経済学は、仏教の知足や共生の知恵を活かしながら、現実の経済社会をどう改革するかを模索する学問ともいえる。身近な例を挙げれば、「もったいない」というモノやいのちを大切にする心を生活や経済のなかで実践することである。これが地球環境の保全にもつながっていく。
2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は「日本文化に根ざした〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し語った。有難いことに彼女は仏教経済学の伝道者として行脚(あんぎゃ)していただいたことになる。
<貪欲を超えて>
このように仏教経済学は単なる研究のための学問ではない。「世のため人のため」に貢献する実践学であるから、これほど挑戦に値する分野もそう多くはないだろう。
かつての経済記者時代を振り返ると、「カネ、カネ」、「もっと経済成長を」という貪欲(どんよく)、つまり「もっともっと欲しい」という欲望肥大症にかかった喧騒の巷(ちまた)をうろついていた自分を発見する。仏教経済学に挑戦するからには、そういう過去からきれいに卒業しなければならない。私自身の貪欲から知足への転換のすすめである。
囲碁を趣味とする者として、最近囲碁と仏教とは深くかかわっているような気がしている。囲碁を楽しむためには知足と和と平和共存の精神が欠かせない。貪欲に闘争一本槍の気構えで相手を叩き伏せようとすれば、作戦は破綻(はたん)する。しかし平和共存の構えで、ほんの少しだけ勝てば十分という知足の心で向き合えば、勝率は高いし、お互いに愉快なひとときを味わえる。
桜の花が咲く頃、鎌倉を訪ねて、もう一度おみくじを引いてみたい。「適職は仏教経済思想家」を期待するが、残念ながらそういうおみくじはないに違いない。
(以上)
下野新聞(05年3月20日付)掲載
足利工業大学教授 安原 和雄
「もったいない」を心に(大きな活字の脇見出し)―と題した記事の全文は以下の通り。
三十年も昔のこと、鎌倉散策の折に鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の墓所を訪ね、脇に置かれたおみくじを生まれて初めて引いたことがある。私の適職は「教育者」と出た。大学時代以来、教職をめざそうなどと考えたことはないし、当時経済記者として夜遅くまで走り回っていた頃でもあり、「これは違うな」と、気にもとめなかった。
しかしやはり「人生は縁」ということだろうか。十数年後に経済学の教壇に立つ巡り合わせとなったのだから、内心苦笑せざるを得なかった。
<知足と共生と>
最初に大学を訪ねたとき、中庭で聖徳太子の立像が目に飛び込んできた。台座には太子の十七条憲法の有名な「以和為貴」(和をもって尊しとなす)の文字が刻まれている。この和の精神は足利工業大学の建学の精神にもなっている。
一方、これも縁というべきか。知人の紹介でやがて駒澤大学仏教経済研究所の仏教経済研究会の一員になった。こうして私の関心は仏教経済学へと急傾斜していった。
仏教経済学は仏教を経済に活かすことをめざす新しい考え方である。仏教のキーワードに知足(ちそく=足るを知ること)がある。これは「もうこれで十分」と考えて、簡素のなかに充実した生き方を求める知恵である。さらに聖徳太子の和の精神、今日風に翻訳すれば、人間と地球・自然・動植物との共生、平和共存を重視することも忘れてはならない。
仏教経済学は、仏教の知足や共生の知恵を活かしながら、現実の経済社会をどう改革するかを模索する学問ともいえる。身近な例を挙げれば、「もったいない」というモノやいのちを大切にする心を生活や経済のなかで実践することである。これが地球環境の保全にもつながっていく。
2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は「日本文化に根ざした〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し語った。有難いことに彼女は仏教経済学の伝道者として行脚(あんぎゃ)していただいたことになる。
<貪欲を超えて>
このように仏教経済学は単なる研究のための学問ではない。「世のため人のため」に貢献する実践学であるから、これほど挑戦に値する分野もそう多くはないだろう。
かつての経済記者時代を振り返ると、「カネ、カネ」、「もっと経済成長を」という貪欲(どんよく)、つまり「もっともっと欲しい」という欲望肥大症にかかった喧騒の巷(ちまた)をうろついていた自分を発見する。仏教経済学に挑戦するからには、そういう過去からきれいに卒業しなければならない。私自身の貪欲から知足への転換のすすめである。
囲碁を趣味とする者として、最近囲碁と仏教とは深くかかわっているような気がしている。囲碁を楽しむためには知足と和と平和共存の精神が欠かせない。貪欲に闘争一本槍の気構えで相手を叩き伏せようとすれば、作戦は破綻(はたん)する。しかし平和共存の構えで、ほんの少しだけ勝てば十分という知足の心で向き合えば、勝率は高いし、お互いに愉快なひとときを味わえる。
桜の花が咲く頃、鎌倉を訪ねて、もう一度おみくじを引いてみたい。「適職は仏教経済思想家」を期待するが、残念ながらそういうおみくじはないに違いない。
(以上)
<略歴>
広島県福山市(2006年3月神辺町と福山市が合併し、福山市に変更)出身。1958年一橋大学社会学部卒業。毎日新聞東京本社経済記者、編集委員、論説委員等を経て足利工業大学教授を歴任。一橋大学で「渋沢栄一の世界 ― 21世紀の企業社会と〈論語・算盤〉説」というテーマで如水会寄付講義。
現在、フリージャーナリスト
日本記者クラブ会員
足利工業大学名誉教授
駒澤大学仏教経済研究所員
「NPO・循環型社会研究会」理事
「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人
「現代マス・メディア研究会」会員
小島志塾(2011年度末に退会)
経済理論学会(2007年度末に退会)、日本経営倫理学会(2008年度末に退会)
<著書>
・『平和をつくる構想―石橋湛山の小日本主義に学ぶ』(澤田出版、2006年)
・『足るを知る経済―仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
・『知足の経済学ー崩壊する日本経済社会を救う「文化志士」のすすめ』(ごま書房)
・『遊びの人生経済学ー遊びが人生、世の中を変える』(創流出版)
・『戦後日本外交史』(全7巻・共著、三省堂)ほか多数。
<論文>
・「三・一一」後の「日本再生」構想 ― 脱原発、脱日米安保、地球救援隊をめざして(駒澤大学『仏教経済研究』第41号、2012年5月)
・駒澤大学仏教経済研究所第七回公開シンポジウム 地球環境時代をどう生きるか ― 仏教経済学の視点から(駒澤大学『仏教経済研究』第40号、2011年5月)
・「日米安保」体制から日米平和友好体制へ ― 仏教経済思想に立って(同『仏教経済研究』第40号、2011年5月)
・「持続可能な経済(学)」を求めて ―『地球白書』に観る二一世紀の世界(同『仏教経済研究』第39号、2010年5月)
・二十一世紀と仏教経済学と(下) ― 仏教を生かす日本変革構想(同『仏教経済研究』第38号、2009年5月)
・二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に(同『仏教経済研究』第37号、2008年5月)
・世界宗教者平和会議にみる平和観 ― 〈平和すなわち非暴力〉の視点(同『仏教経済研究』第36号、2007年5月)
・安藤昌益と仏教経済学 ― 二十一世紀版〈自然世〉を考える(同『仏教経済研究』第35号、2006年5月)
・いのちの共生と仏教経済思想 ― 〈貪欲経済思想〉を超える視点(同『仏教経済研究』第34号、2005年5月)ほか多数
・憲法9条を「世界の宝」にしよう―脱「日米安保体制」をめざして(足利工業大学研究誌『東洋文化』(第28号、2009年1月)
・核兵器のない世界を求めて―広島・長崎の平和宣言を生かす道(同『東洋文化』(第27号、2008年1月)
・知足とシンプルライフのすすめ―〈消費主義〉病を克服する道(同『東洋文化』第26号、2007年1月)
・〈いのちの安全保障〉を提唱する―軍事力神話の時代は終わった(同『東洋文化』第25号、2006年1月)
・二十一世紀版小日本主義のすすめ―大国主義路線に抗して(同『東洋文化』第24号、2005年1月)ほか多数
<趣味>
囲碁(5段)、寺院・庭園・温泉めぐり
(2012年8月更新)
広島県福山市(2006年3月神辺町と福山市が合併し、福山市に変更)出身。1958年一橋大学社会学部卒業。毎日新聞東京本社経済記者、編集委員、論説委員等を経て足利工業大学教授を歴任。一橋大学で「渋沢栄一の世界 ― 21世紀の企業社会と〈論語・算盤〉説」というテーマで如水会寄付講義。
現在、フリージャーナリスト
日本記者クラブ会員
足利工業大学名誉教授
駒澤大学仏教経済研究所員
「NPO・循環型社会研究会」理事
「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人
「現代マス・メディア研究会」会員
小島志塾(2011年度末に退会)
経済理論学会(2007年度末に退会)、日本経営倫理学会(2008年度末に退会)
<著書>
・『平和をつくる構想―石橋湛山の小日本主義に学ぶ』(澤田出版、2006年)
・『足るを知る経済―仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
・『知足の経済学ー崩壊する日本経済社会を救う「文化志士」のすすめ』(ごま書房)
・『遊びの人生経済学ー遊びが人生、世の中を変える』(創流出版)
・『戦後日本外交史』(全7巻・共著、三省堂)ほか多数。
<論文>
・「三・一一」後の「日本再生」構想 ― 脱原発、脱日米安保、地球救援隊をめざして(駒澤大学『仏教経済研究』第41号、2012年5月)
・駒澤大学仏教経済研究所第七回公開シンポジウム 地球環境時代をどう生きるか ― 仏教経済学の視点から(駒澤大学『仏教経済研究』第40号、2011年5月)
・「日米安保」体制から日米平和友好体制へ ― 仏教経済思想に立って(同『仏教経済研究』第40号、2011年5月)
・「持続可能な経済(学)」を求めて ―『地球白書』に観る二一世紀の世界(同『仏教経済研究』第39号、2010年5月)
・二十一世紀と仏教経済学と(下) ― 仏教を生かす日本変革構想(同『仏教経済研究』第38号、2009年5月)
・二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に(同『仏教経済研究』第37号、2008年5月)
・世界宗教者平和会議にみる平和観 ― 〈平和すなわち非暴力〉の視点(同『仏教経済研究』第36号、2007年5月)
・安藤昌益と仏教経済学 ― 二十一世紀版〈自然世〉を考える(同『仏教経済研究』第35号、2006年5月)
・いのちの共生と仏教経済思想 ― 〈貪欲経済思想〉を超える視点(同『仏教経済研究』第34号、2005年5月)ほか多数
・憲法9条を「世界の宝」にしよう―脱「日米安保体制」をめざして(足利工業大学研究誌『東洋文化』(第28号、2009年1月)
・核兵器のない世界を求めて―広島・長崎の平和宣言を生かす道(同『東洋文化』(第27号、2008年1月)
・知足とシンプルライフのすすめ―〈消費主義〉病を克服する道(同『東洋文化』第26号、2007年1月)
・〈いのちの安全保障〉を提唱する―軍事力神話の時代は終わった(同『東洋文化』第25号、2006年1月)
・二十一世紀版小日本主義のすすめ―大国主義路線に抗して(同『東洋文化』第24号、2005年1月)ほか多数
<趣味>
囲碁(5段)、寺院・庭園・温泉めぐり
(2012年8月更新)
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