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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「おまかせ民主主義」にサヨナラ
日本の民主主義をどう建て直すか

安原和雄
 国民一人ひとりが民主主義の権利を行使しないで一部の人に任せてしまう「おまかせ民主主義」にサヨナラという気運が広がり始めた。しかもわが国の民主主義を建て直すにはどうしたらよいかに関心が集まりつつある。
 2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)の「みどりの未来ガイドブック」(政策案内書)が「おまかせ民主主義」の改革について解説している。行き詰まった現在の民主党政治の打破をめざす新風であり、その行方に注目したい。(2012年4月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「おまかせ」をどう克服するか

 湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)が朝日新聞(4月13日付)オピニオン欄でインタビューに答えて、〈「おまかせ」はダメ、主権者の力を示し、一つずつ変えたい〉と以下のように語っている。

 「議会制民主主義には改善すべき点が多々ありますが、複雑なものを無理にシンプルにしよう、ガラガラポンしてしまおうという欲求の高まりには危機感を覚えます」
 ― 橋下徹(大阪市長)現象、ですね
「橋下さんが支持を集めているのは『決めてくれる人』だからで、その方向性は問われません。『おまかせ民主主義』の延長に橋下さんへの期待がある。
 ― 政治家にならないのですか。
日本の民主主義の現状は危機的です。『おまかせ』の回路を何としても変えたい。主権者としての力を示したい。

 このインタビュー記事の中に「おまかせ民主主義」という指摘が登場していることに着目したい。この「おまかせ民主主義」という表現は、最近目に付くようになってきた。その顕著な一例は、2012年7月に環境政党「緑の党」を旗揚げし、2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)で、その「みどりの未来ガイドブック」が「おまかせ民主主義にサヨナラ」と題してくわしく解説している。

 「おまかせ民主主義」とはどういう含意なのか。それを克服するためには何が必要なのか。その骨子は以下の通りである。
(1)民主主義の3原則
 民衆(市民)が主権者であるためには、以下の3原則が必要不可欠
①情報公開なくして民主主義なし=情報が不正確で部分的であれば、妥当な決定もできない。
②熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる。
③民意が届く決定システムを=決定の影響を最も受ける当事者の民意が優先的に配慮されるべきである。

(2)福島原発事故で露呈した日本民主主義の貧困
①情報秘匿(市民には知らせない)=電力需給の逼迫を煽るための電力会社の恣意的な数値と情報操作。原発コストを低くするための情報操作など
②説明責任の放棄(決定・判断の理由を適切に適切に説明しない)=事故直後から多用される「ただちに影響はない」は説明責任放棄の象徴
③形骸化する公開議論やメディア=審議会、学会での原発反対の専門家やNGOを排除する姿勢など
④意見表明のための公共空間の規制=デモ(パレード)への過剰規制など
⑤国民投票・住民投票への無関心=決定権限は政府、政党、専門家、業界にあるとして、脱原発の民意無視など
⑥民意を反映・活性化させない選挙制度=民意をねじ曲げる小選挙区制を堅持し、比例代表制を無視など

(3)参加民主主義へ
①正確かつ全面的な情報公開のために=市民が参加する自立したメディアの発展と育成など
②開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保など
③民意が届く決定システムのために=現行の小選挙区制から比例代表制への転換、国民投票や住民投票など直接投票促進のための制度改革など
④自由・分権・平等を保障する政党内民主主義=政党の決定と異なる意見を表明する権利など

(4)責任を引き受ける民主主義へ
*なぜ「おまかせ民主主義」だったのか
・外交、平和、軍事などの「アメリカへのおまかせ」
・「官僚主導の経済成長へのおまかせ」の体質は依然として払拭できていない
・閉鎖集団化(原子力村!)と自己中心主義・孤独化
・集団も個人も、私的利益の視点からの政府への不満・批判に終始し、公共的議論が衰退*「参加」とは「責任を引き受ける」こと
・「おまかせ」して物事がうまく行く時代は終わった。社会全体の共通利益のためには、決定権を一部に「おまかせ」してきた市民が、参加する権利を獲得すること
・参加民主主義とは、他者との対話・論争・熟議によって「共通の利益のための決定」というプロセスの責任を引き受けること

▽「おまかせ民主主義にサヨナラ」のキーワード

 以上の「おまかせ民主主義にサヨナラ」の中から「サヨナラ」を実現するためのキーワードを抽出すると、以下のようである。

 情報公開、熟議、民意、説明責任、国民投票、住民投票、比例代表制、自立したメディア、公共的議論、参加と責任を引き受けること、などが挙げられる。これらのキーワードの中で注目すべきは、熟議、自立したメディア、公共的義論、参加と責任である。

*熟議とは
まず熟議とはどういう含意か。上述の「(1)民主主義の3原則」に②「民主主義の熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる」とある。たしかに民主主義のためには熟議、すなわち市民やNGOなどの多様な意見表明と議論が不可欠である。これまで日本社会には多様な要求はあったが、ややもすれば言いっぱなしで、その是非をめぐる熱心な議論は少なかった。
*自立したメディア
 新聞、テレビなどメディアは、政府などの権力の意向に追随するのではなく、批判的視点を堅持しなければならない。それが「自立したメディア」本来の姿勢であるが、現状はそうではない。テレビはいうまでもなく、昨今は大手メディアまでも権力にすり寄る姿勢が目立つ。これでは「おまかせ民主主義にサヨナラ」はとても無理で、むしろ「サヨナラ」の足を引っ張ることになりかねないだろう。
*公共的議論
 公共的議論という表現自体、日本では馴染みにくい。何を含意しているのか。「(3)参加民主主義へ」の②に「開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保」とある。例えば脱原発をめぐる議論では、利害当事者の「電力会社を含む原発推進複合体」は参加資格なし、である。それは当然として、ではいわゆる良心的、中立的な立場の有識者であれば、公共的議論が可能なのか。未知の分野への試みとして評価したい。
*参加と責任
 「(4)責任を引き受ける民主主義」という発想も目新しい。今では「参加」は常套句にさえなっている。しかし「参加」しながら、それに伴う「責任」を参加者ひとり一人が引き受けるという観念は従来薄かった。今後はどうか。例えば脱原発はむろん正しい。重要なことは脱原発路線に参加、つまり賛成しながら、どう責任を引き受けるのか。それは仮に電力が不足すれば(電力会社に都合のいい電力不足説は論外として)、節電に協力し、それを受け入れるということだろう。こういう責任感覚は原発大惨事以降、広がりつつある。

<安原の感想> 脱「おまかせ民主主義」と脱原発を求めて

 次のような新聞記事の一節を紹介する。
 「日本は、えらい人にやってもらう『水戸黄門』文化がいまだに色濃い。自分たちで金を出し合って雇う『七人の侍』的要素が、必ずしも広がらない」
 一進一退、あきらめずにやるしかないと菅は思う。(4月24日付朝日新聞の「ニッポン 人・脈・記」から)

 文中の菅とは、市民運動から政界入りした菅直人前首相を指している。「水戸黄門」と「七人の侍」の対比が適切かどうかはさておき、興味深い指摘である。「水戸黄門」文化とは、いいかえれば「おまかせ民主主義」の雰囲気がある。
 「3.11」後の脱原発を軸とする日本の変革をどう進めるか。その有力な手法、行動、知恵となるのが脱「おまかせ民主主義」であることは間違いない。
 例えば電力不足と節電をどう理解し行動するかである。現在定期検査で停止中の原発を運転再開しないと、電力不足が生じるので、脱原発は現実的ではないというのが民主党政権、大企業、電力会社などの言い分である。これに対し、朝日新聞(4月24日付)世論調査(近畿=京都、大阪の2府、滋賀、兵庫、奈良、和歌山の4県が対象)によると、「節電や一時的な計画停電が必要になってもよいか」の問いに「なってもよい」の答えが77%に上る。節電志向は圧倒的多数派である。
 つまり脱原発を前提に節電の心構えは広がりつつあるのだ。このことは「おまかせ民主主義」にサヨナラの気運が高まりつつあるともいえるのではないか。


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「日本」の良さは、こんなにも
対談『日本を、信じる』を読んで

安原 和雄
 瀬戸内寂聴さんとドナルド・キーンさんの対談集『日本を、信じる』は、「読めば元気の出る対談集!」と銘打ってあるだけに含蓄に富む発言、指摘が少なくない。例えば仏教の無常(同じ状態は続かないで変化すること)観である。
 日本人の多くは無常をマイナス志向で捉えやすいが、本来は積極的、肯定的なプラス志向の意味も含んでいる。悲劇をもたらした東日本大震災から復興・再生への変化はプラス志向の具体例である。対談『日本を、信じる』は日本の未来を信じ、その良さを生かそう!という呼びかけにもなっている。(2012年4月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 瀬戸内寂聴さん(注1)とドナルド・キーンさん(注2)の対談集『日本を、信じる』(2012年3月・中央公論新社刊)を読んだ。その感想を述べる。
 (注1)瀬戸内さんは1922年徳島県生まれ。東京女子大学卒業。73年中尊寺で得度。92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞のほか多数受賞。06年文化勲章受章。他の著書に『現代語訳源氏物語』など多数。
 (注2)キーンさんは1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学などを経て、53年京都大学大学院に留学。現在日本学士院客員。毎日出版文化賞など受賞多数。08年文化勲章受章。著書に『日本文学史』など多数。2011年の「3.11」大震災後、日本に帰化し、日本人となった。

(一)日本の文化と無常という美学
 二人は『日本を、信じる』で日本の文化、さらに無常という美学について語り合っている。その大意を以下、紹介する。

キーン:日本の文化といえば、まず仏教のことを思います。今の日本人の多くは仏教とは縁のない生活のようですね。お葬式の世話を頼む程度でしょうか。
今の人たちの関心が薄れているとはいえ、日本の場合、仏教の影響の大きさは無視できない。伝統的な美術、音楽、演劇でも仏教は中心的なものだし、お能も、ほとんどの演目のワキ役はお坊さんです。そして日本人の精神の支柱には仏教がある。それなのに海外ではほとんど知られていない。
それにしても、今の日本人が日常的に仏教のことを考えないのは不思議ですね。
瀬戸内:そもそも今の仏教は鎌倉時代、それまでにあった奈良時代の仏教に反対してできた新たな仏教です。当時の新興仏教なんです。新興仏教でも、よければ人の心をとらえ長く残っていく。残っていけば、既成仏教になるわけです。

キーン:今回の東日本大震災を、仏教ではどうとらえるのでしょうか。
瀬戸内:仏教には「無常」という言葉がある。「人はみんな死ぬ」ことを日本人は無常と言います。でも、私は自分流に違う解釈をしている。無常は「常ならず」、つまり同じ状態が続かないということ。
今度のような天災があると、「無常」を死に結びつけて考えがちですが、そうではなく、同じ状態が続かないと考えればいい。平和な時代があっても、長く続くとは限らない。こういう災害や事件が起きるけれど、ずっと泣いてばかりいるかというと、そうではない。少しずつ元気を取り戻して立ち上がっていく。今はどん底かもしれないけれど、いつまでも続くどん底じゃない。無常だから、必ず変わっていく。被災地で皆さんをお見舞いするときも、そう話しているんです。
キーン:おっしゃる通りです。同時に思うのは、「無常 ― 同じ状態は続かない」ことに対し、それを受け止める側の態度もいろいろあるということ。移り変わることを喜ぶ場合もあれば、残念に思う場合もある。変わるのを防ぐにはどうしたらいいかを考えることもある。
例えば古代エジプト人やギリシャ人は、何かをつくるとき、不変性を求めて石を使った。ピラミッドは永遠に残ることを目指している。中国のお寺の多くはレンガ造りです。ところが日本の場合、木を使う。日本人はむしろ変わることを願っている。いつも同じではないことを喜ぶ面がある。
桜はどうしてこれほど日本人に愛されているのでしょうか。美しいからですが、それだけではなく、つかの間の美、三日だけの美しさ、だからです。
花は散り、形あるものは壊れる。まさに無常です。しかしそこに美の在(あ)り処(か)を見出し、それが美学にまで昇華されるのは日本だけではないでしょうか。

瀬戸内:東日本大震災でいえば、津波に流されてしまったものは仕方がないと、悲嘆すると同時に、諦めて笑ってしまおうとするところも日本人にはあるように思います。
キーン:そういう矛盾はあらゆる国にあるでしょうが、日本の場合はとくに強い。つまりものを「守る」「捨てる」「諦める」など、相容(あいい)れないことが一人の人間の中にある。日本では同じ人が神道と仏教、両方を信じている。そして新しいものと古いもの、儚(はかな)いものと永遠につづくもの、全部が日本の中に入っている。結果として、日本の文化は極めて豊かになった。そうでなければ、これほどまでに深い文化にはならなかったでしょう。

<安原の感想> 無常観はやはり真理だ
 仏教の基本思想の一つが「無常」であるが、無常とは何か。お二人の無常観は微妙に異なっている。瀬戸内さんは「同じ状態が続かないこと」、いいかえれば、「変わること」に重点をおいて捉える。例えば戦争から平和へ、不幸から幸せへの変化であり、その逆の変化も真である。これは正統派の無常観といえるだろう。
 これに対し、キーンさんは無常についてそれを受け止める側の態度を重視する。日本人は変化していくことを重視するが、世界のすべての人々がそうだとはいえない。例えば古代エジプト人やギリシャ人は、不変性を求める。石で造ったピラミッドはその具体例で、いつまでも残ることを目指している。つまり変化を好まない。
いずれにしても無常観はやはり真理というべきである。短期間の変化もあれば、想像を絶する長期間に及ぶ変化もある。例えば地球の生命である。何万年先あるいは何億年先かは分からないが、いつかは地球の生命が尽きる時が来るだろう。それ以前に人類は滅亡しているかもしれない。やはり万物の無常=変化は避けがたいと理解したい。

(二)美しい風景を壊さないで
二人の話題は多岐にわたっているが、ここでは壊されていく「日本の美しい風景」を惜しむ対話を紹介する。

キーン:日本は世界の中でもとてもきれいな国です。海も山も美しく、さまざまな花が咲きます。しかし日本人は戦後、森を切り崩して分譲地にしたり、マンションを建てたり、その美しさを自分たちの手で壊している。
瀬戸内:そうそう、ゴルフ場にしたり。
キーン:ゴルフ場は最悪ですね。いつか行った町にゴルフ場があり、芝を整えるために使った除草剤や農薬の毒素が水道水に混じって、大騒ぎになっていました。住民の健康を蝕(むしば)み、不安にさせてまで、ゴルフ場は必要でしょうか。私には理解できない。
それだけではない。景色が素晴らしい場所は、その美しさを護(まも)っていくべきなのに、日本三景の一つ、松島は最悪です。島々が浮かぶ景色はたしかに日本一かもしれないが、観光地化されて俗悪、おそらく日本でいちばん醜いところの一つだと思います。
感激したのは最初のときだけです。『奥の細道』の旅行をしたとき、瑞巌寺(ずいがんじ)に立ち寄り、その荘厳な美に敬服したものです。庭園には紅梅と白梅、二本の立派な梅の木が美しい花を咲かせていました。
その後に訪れたときは、観光地化された町の様子に疲れて、瑞巌寺に逃げたのですが、瑞巌寺に入ると、あちらこちらからガイドのマイクの声が聞こえます。何か冗談でも言っているのか、笑い声がこだまし、響き渡り、我慢できませんでした。
今は高層ビルが建ち、せっかくの景色を台無しにしています。誰がそれを許したのでしょう。日本人の無関心は本当に不思議です。

瀬戸内:戦後、どの町の駅前も同じような景色になりました。違ったところに来た気がしません。フランスにカーンという町があります。列車に乗っていて、ふと降りたくなって、立ち寄ったんです。懐かしい雰囲気のする、とても素敵な町なんですよ。聞くと、そこは戦争中、爆撃でメチャメチャになったのを、昔のままの町に、戻したんですって。ここに八百屋が、あそこに鍛冶屋があった、という風に。だからフランスの田舎町に来たような感じがしたんだと納得した。駅前広場の前に壁があって、そこだけ爆撃されたときの様子を記念に残して、後は昔のまんま。
キーン:日本には古くて風情のある町がたくさん残っています。私は瀬戸内海に面した広島県の鞆(とも)の浦(うら)という港町がとても好きです。古い町並みがそのまま残っていて、その昔、韓国からの使節団が泊まった建物もまだそこにあります。
ところが埋め立てて橋をつくるという話があるそうです。それを聞いて、せっかくの町の美しさが台無しになると思いました。そういう橋があると、大きな工場、施設もできる。それを喜ぶ人たちもいるでしょうが、二度とあの町の美しさは取り戻せない。

瀬戸内:被災した東北の町を、建て直して、どういう町にしていくのか。昔のいい風景はぜひ残しておいてほしいですね。
キーン:その上で、人間が楽しく生活できる町、これまでの町の良さをいかしつつ、今まで以上に安心で住みやすい町づくりのチャンスになればよいと、心から祈っています。

<安原の感想> 経済成長への執着を捨てて、日本再生を!
 「日本三景の一つ、松島は最悪です」という発言は、他人事とは思えない。私にとって松島は半世紀も昔の新婚旅行地である。当時は団体旅行者を案内する光景はなかった。のんびりとぶらぶらしながら自分たち二人で記念写真を撮ったように記臆している。
 鞆の浦という港町で埋め立てて橋を架けることになれば、「二度とあの町の美しさは取り戻せない」という指摘には同感である。私自身、福山市出身で、若い頃、鞆の浦のきれいな砂浜で夏に泳いだ思い出もある。

 お二人の対談は、経済成長へのあからさまな批判的発言はうかがえないが、明らかに反「経済成長」の視点に立っている。経済成長に執着する時代はとっくに終わっているにもかかわらず、今なお経済成長への回帰意識を捨てられない政官財界の心なき群像にこそ、本書『日本を、信じる』を読んでほしい。経済成長への執着を捨てて、脱原発の姿勢で「3.11」後の日本再生を図るときである。


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行き詰まった資本主義の変革へ
『資本主義以後の世界』を読んで

安原 和雄
著作『資本主義以後の世界』が話題を呼んでいる。行き詰まった資本主義の変革は不可避と問いかけているからである。資本主義の行方をめぐる論議は日本に限らない。欧米でも資本主義そのものへの不信が広がりつつあり、資本主義をどう変革するかに関心が寄せられている。
「資本主義以後」はどういうイメージなのか。大きな柱は、脱原発であり、脱経済成長である。この脱原発と脱経済成長は内外を問わず共通認識となりつつある。問題は「資本主義以後」のあり方として、この2本柱で果たして十分なのかである。論議の活性化を望みたい。(2012年4月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 中谷巌著『資本主義以後の世界 日本は「文明の転換」を主導できるか』(徳間書店・2012年2月刊)を読んだ。その主張を紹介し、さらに私の感想を述べたい。

 まず本書の主張(要点)を紹介する。
(1)グローバル資本主義の危機と「文明の転換」は不可避
 今や文明の転換、すなわち資本主義思想そのものの転換が問われている。「資本主義以後の世界」は不可避であり、問題はそれがいつなのか、すぐそこに迫っているのか、50年も先のことなのか、である。

 本書はグローバル資本主義の危機を克服するには、究極的には「文明の転換」が不可避だという立場をとっている。
 たとえば、絶え間ない金融危機を生むグローバル資本の「投機的性格」を是正しない限り、恒常的に発生する国際金融危機を抑えることはできない。しかし、投機的取引を制限するという考え方は、あくなき利潤追求と自己増殖を目指す資本主義思想と根源的なところで抵触する。この状況を打破するには、自己増殖を目指す資本主義思想そのものの修正もしくは転換が不可避となる。

 また、グローバルな競争激化が不可避的に生み出す所得や富の偏在を是正するには、市場取引から実現する資源配分のみを「正義」と見なす「交換の思想」を改め、人類が昔から持っていた「贈与の思想」への転換が必要になるだろう。人間はいつ、利己的な欲求追求の手段としての市場至上主義を修正し、利他的な「贈与の精神」が組み込まれた社会システムに回帰できるだろうか。
 もう一つ、「資本主義以後の世界」を構築する上で必要になるのは、「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観を改め、人間が自然の恵みに対し、「敬虔(けいけん)かつ謙虚」な気持ちを持つという意味での「自然観の転換」である。これがない限り、地球環境破壊はとどまるところを知らず、人間が棲(す)む「生態圏」の中では、原子力のような制御不可能な技術に人間が振り回される状況が続く。

 「文明の転換」などは絵空事だという批判は覚悟の上である。それでもなお今日の資本主義世界の閉塞状況を見れば、いずれ「文明の転換」が必要になることは間違いない。問題はそれがいつのことになるのかだ。すぐそこに迫っているのか、50年も先のことなのか。本書で主張したかったのは、いずれ「資本主義以後の世界」が訪れることは確実であること、そのときには否が応でも我々の価値観の転換が不可避になるということである。

(2)「文明の転換」の具体的な提案
 日本は「文明の転換」を主導できるだろうか。脱原発、小規模分散型電力供給、農業の復活、シンボルとしての里山 ― の四つを軸に考える。

*日本の首相は世界に向かって「脱原発」宣言を
 首相が行うべき提案は、たとえば「20年ないし30年の猶予期間を置いた後、すべての原発を廃炉にし、再生エネルギーに転換する」と。日本は原子爆弾による唯一の「被爆国」であり、現在も原発事故によって放射性物質の脅威にさらされている「被曝国」である。日本からの「脱原発」宣言は多くの国際的共感を得られるに違いない。
 首相は国連、G20など国際会議の場で「人類は『生態圏』になじまない原子力に頼るのはもうやめよう」と提案することが必要だ。

*小規模分散型の電力供給モデルへ
 原発は典型的な大規模集中型の電力供給システムであった。これは設置されている地域で消費されることのない電力システムである。ここにも資本主義世界で共通の構造、すなわち「中央による周辺地域の搾取」という構造がある。再生エネルギーへの転換が実現すれば、小規模分散型・地域循環型の電力供給が可能になり、「中央による周辺地域の搾取」という歪んだ構造も解消することが期待できる。
 脱原発を基本にして、再生エネルギー、すなわち太陽光、風力、地熱、バイオマス発電などに惜しまず税金を注ぎ込み、日本を世界トップの「再生エネルギー大国」にする。それが「文明の転換」の基本となる。

*「農業の復活」に賭けるとき
 「競争力のない農業」からは撤退して、なんでも輸入品でまかなえばよいとする無批判な自由化論には反対せざるをえない。
 私が農業の復活を提唱する背景には、①「石油をできる限り使わないかたち」で農業の競争力を強化し、食料自給率を上昇させる、②美しい国土、美しい農村共同体をつくる、というふたつの狙いがある。
 農村には豊かな自然環境、地域独自の文化、多様な動植物など、さまざまな「地域資源」があり、農村という「場」も総体的に捉えて、農業全体を復活させなければならない。

*「里山」こそ日本のシンボル
 日本には「里山」の思想があった。里山とは、集落や人里に接するこんもりとした森を持った山を指す。私たちの祖先は稲作を行うとき、必ず里山をつくって保水能力を高めるとともに、そこに土地の神さまを祀(まつ)ってきた。
 こうした日本的自然観に基づいて「環境立国」を進めていけば、日本は世界的に見ても環境破壊の少ない、美しい農村を保全している貴重な国として認知されるようになるのではないか。地方は穏やかな農村と「里山」、京都や奈良は「古都」、東京は「森の都」といわれるようになれば、日本のプレゼンス(存在感)は一気に高まるだろう。

<安原の感想>(1)新自由主義(=市場原理主義)からの転換
 上述のような中谷著『資本主義以後の世界』の主張にはほぼ全面的に賛同できる。むしろ私(安原)などが従来、主張してきた「農業、農村の重要性と田園価値の尊重」という視点も含まれており、積極的に支持したい。
 とはいえここでどうしても指摘しておきたいことがある。それは彼がかつて新自由主義の信奉者であったという事実である。その「反省の弁」を紹介したことがある。その趣旨は以下のようである(「相次ぐ新自由主義者たちの変節 新しい時代への転換を察知して」と題して「安原和雄の仏教経済塾」=08年11月12日付=に掲載)。

 信じていた新自由主義は果たして正しかったのかという反省がある。新自由主義の結果、貧困、格差が広がってきた。例えば相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者の割合を指す)をみると、先進国の中で何と米国が第1位、日本が第2位となっている、と。

 このご本人の反省の弁に続いて、以下のような私(安原)の感想を書いた。
 新自由主義破綻後の新しい時代への転換を察知したうえでの変節であるなら、意味のないことではない。(中略)これからも周囲の状況変化を見て、都合良く立ち回る風見鶏(かざみどり)よろしく「前・元・新自由主義者」と名乗る輩(やから)が続出するにちがいない。新自由主義を暴走させた、その悪しき産物として日本列島上に広がる眼前の無惨な現実、そして今後長期間続くであろうその後遺症を彼らはどう眺めるのか、その心底を問うてみたい、と。
要するに悪しき思想、新自由主義からの転換は、必然であり、問題は新自由主義後の資本主義のあり方をどう構想するかであるだろう。

<安原の感想>(2)資本主義以後をめぐる論議の活性化を
 破綻状態ともいえる資本主義は果たしてどこへ行くのか。その論議をすすめる時である。
 私事にかかわることで恐縮だが、大学ゼミナールではマルクス著『資本論』にねじり鉢巻きで取り組み、卒業論文のテーマは「金融資本の研究 ― ヒルファーディング理論の批判的検討」であった。マルクスの「資本論」を踏まえ、ヒルファーディング著『金融資本論』を批判的に読みながら、資本主義とその行方を私なりに構想してみようという、いささか振りかぶった発想であった。
 それから半世紀を経た今、「資本主義以後の世界」が切実なテーマとして浮上してきたことに感慨を抑えきれない。遅すぎるというのではない。むしろ歴史的変革の機会が来るべくしてきたという感慨である。英紙フィナンシャル・タイムズが「資本主義の危機」というテーマで1月に連載記事を掲載したことは、資本主義そのものの行方をめぐる関心が欧米各国にも広がっていることを示している。

 さて「資本主義以後の世界」とは、どういうイメージなのか。アイデア、発想は多様であり、その一つが中谷氏の『資本主義以後の世界』であり、日本の脱原発、再生エネルギー大国、農業の復活などを柱とする「文明の転換」である。

<壊れゆく「資本主義宗教」>という見解(3月24日付毎日新聞)もある。イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベン氏の説で、次のように述べている。
 資本主義は経済思想というよりも、一つの宗教だ。ただの宗教ではなく、より強く、冷たく、非合理で、息の詰まる宗教だ。(中略)要は、経済成長か、それによって失われる可能性のある人間性か、どちらを選ぶかだ。資本主義が見ているのは世界の変容ではなく、破壊だ。というのも、資本主義は「無限の成長」という考え方で指揮を執るが、これは合理的に見てあり得ないし、愚かなことだからだ。
 ヒロシマ、ナガサキを経験した後で、日本が50基以上もの原子炉を設置していたとは思いもよらなかった。
 そして(明るみに出たのは)資本主義を率いてきた人々の思慮のなさだ。そこにもまさに資本主義宗教の非合理性が見える。国土が大きくない国に50基もの原子炉を築く行為は、国を壊す危険を冒しているのだから、と。

 国を壊すほどの大量の原発を設置し、「無限の成長」を追求する愚かな日本資本主義への痛烈な批判となっている。このような批判からイメージできる「資本主義宗教」後は、いうまでもなく脱原発と脱経済成長の二本柱である。 

 全国の地方議員や自治体首長ら有志の政治組織「みどりの未来」は、2012年7月に「緑の党」を旗揚げし、翌2013年7月の参院選挙に「緑の党」として初の議員を国会に送り込む方針である。この新政党の基本スローガンがやはり脱原発と脱経済成長である。
脱原発と脱経済成長は必要不可欠であり、政策目標としても正しい。ただ脱原発と脱経済成長は「資本主義以後」の戦略目標として十分なのか、「資本主義以後」ではなく、「資本主義内」での斬新な政策にとどまるのではないか、という主張も当然あり得るだろう。「資本主義以後」も視野に収めた論議の活性化を期待したい。


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