ヒューマノミックスの先達を偲んで
安原和雄
日本における「ヒューマノミックス=人間主義経済学」提唱の先達が相次いであの世へ旅立った。一人は、全国組織、「小島志塾」主宰者で、訳書『スモール イズ ビューティフル』でも知られる元参院議員、小島慶三氏であり、もう一人は仏教思想に詳しく、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」関連の著作が多い後藤隆一氏である。
両氏が論戦の標的にしたのは、弱肉強食、貧困、格差拡大を招いたあの新自由主義(=自由市場原理主義)路線で、その熱情は90歳近くまで老いてなお衰えることはなかった。遺された宿題は、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」から何を学び取り、どう発展させていくのかである。先達の業績を偲びながら、そのことを考えたい。(2010年1月28日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
「ヒューマノミックス」は、ヒューマニズム(人間性尊重)とエコノミックス(経済学)からなる新しい合成語で、「人間復興の経済学」、「人間主義経済学」の意である。
小島慶三氏の逝去(08年8月)を偲ぶ記事は、「水田こそ世界に誇るべき宝だ! 日本は資源大国 ― 緑と土と水」というタイトルでブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載(08年10月20日付)してある。
一方、後藤隆一氏(注1)については私(安原)の同氏宛私信の中から選んだ2編 ― 『人間主義経済学序説』を読んで(2007年4月付)と『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで(2003年5月付)― を以下に公開し、先達の足跡を辿りながら偲ぶことにしたい。
なお漢字のふりがな、(注)記、コメントの小見出しは私信の原文にはなかったが、理解の一助にと考えて今回新たにつけ加えた。
(注1)後藤隆一氏は1921年岩手県生まれ、2009年12月末逝去。学徒出陣を経験、戦後復学。東京商科大学(現・一橋大学)卒業後、財団法人・東洋哲学研究所代表理事・所長に就任、宗教・哲学関係の研究・著作活動に携わる。著書に『現代人の仏教思想』、『現代に生きる仏教』、『脱近代への道』、『ヒューマノミックス宣言』、『ヒューマノミックスの世紀』、『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』(霞出版社)、『人間主義経済学序説』(新思索社)など多数。
(1)『人間主義経済学序説』を読んで ― 2007年4月
著作『人間主義経済学序説』と格闘した末の感想を以下に記しました。ほんの一部の印象記でしかありません。著作の文章を引用し、それに〈コメント〉として私の印象をつづりました。
▽新しい学風を
高島善哉先生(注2)は「東洋においては、『自然』は『しぜん』ではなく、『じねん』であったことを思え。私たちの前には、そろそろ新しい学風、新しい方法と方法態度が生まれてきてもいい時期ではないのか。翻訳と解説の時代はそろそろ終わりかけている」と言われている。
(注2)高島善哉氏は1904年岐阜県生まれ、1990年逝去。退官まで40年間一橋大学で教壇に立った。戦争末期、学徒出陣の学生に向かって「生きて帰ってくれ」と無駄死にを戒めた言葉は今なお語りぐさになっている。著作は『アダム・スミスの市民社会体系』、『社会科学入門』、『社会思想史概論』、『民族と階級』、『時代に挑む社会科学』など多数。これら著作は『高島善哉著作集』全9巻(こぶし書房)に収められている。
〈コメント〉欧米的思考への依存症から脱却を
「そろそろ新しい学風を」は私も学生時代(高島ゼミの一員であった)に直接お聞きしたことがあります。それ以来欧米の学問、欧米的思考への依存症からどう脱却するかが、私にとっても大きなテーマとなっていました。私が今日仏教経済学に関心を抱いているのも、その延長線上にあるように思います。
▽「空」、「仮」、「中道」の仏法
あらゆる存在は、認識の主体である自我を含めてすべて他に依存して存在し、他との関係によって変化してゆくものゆえ、独立不変の実体ではないと説くのを「空」(くう)といい、「無常無我」ともいう。(中略)
「あらゆるものを実体視して、欲望の虜(とりこ)になり、争うこと」から脱し、平和と共存の世界をつくること、それが大乗仏教の菩薩である。菩薩道を説くのが「仮」(け)の仏法である。仮の世界と言えば、架空の世界のように聞こえるが、「空」から見た場合の仮説であって、日常的な現実、五感の対象である現象の世界を指している。
法華経はこの空と仮の仏教を「方便」(ほうべん)と名づけ、空と仮を統合した「中道」(ちゅうどう)を真実とした。
〈コメント〉空観と仏教経済学
以上の「空」、「仮」、「中道」の相互関係は、現象や欲望の世界に生きる者にとっては理解しにくいところがありますが、空観は私の唱える仏教経済学の重要な柱として取り入れており、現実の正しい分析とその把握に不可欠だと認識しています。今後さらにどう発展させるかが私自身にとっての課題です。
▽マルクスの疎外論と物象化論
「疎外」とは、主体的で精神的で内面的なものである人間が客観的で物質的なものに自らを外化し客体化すること。(中略)これに対し「物象化」とは、人間が資本、商品という物に支配され、物の論理の代行者になること。
(中略)疎外論とは人間の自己喪失論であり、物象化論とは人間の自己奴隷化論である。
〈コメント〉21世紀版「奴隷解放宣言」を
上記の自己喪失、自己奴隷化は米国主導の自由市場原理主義(注3)が日本へ導入され、広がるにつれていよいよ顕著になってきています。私は日本のサラリーマンの大半は奴隷状態に置かれているにもかかわらず、それを自覚できないところが奴隷の奴隷たる特徴があると思います。個々の人間が分断されて、自覚的主体性が欠落したまま、漂流しつつあると言えば、誇張にすぎるでしょうか。21世紀版「奴隷解放宣言」(注4)が必要です。
著作『資本論』(大学時代のゼミで研究テーマでした)で知られるドイツのマルクスの今日的限界論も指摘されていますが、改めてマルクスに学び、21世紀版疎外論、物象化論をもっと深めることが現状打開のために緊急の課題であるように感じています。
(注3)このコメントは2007年4月の時点で書いたもので、当時は自由市場原理主義(=新自由主義)は横暴を極めていた。その自由市場原理主義は2008年秋の米国金融恐慌に始まる世界金融危機とともに破綻したが、消滅はしていない。しぶとく生き残りを策している。
(注4)日本国憲法18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定めてある。「奴隷的拘束」という文言が憲法に盛り込まれていることをどれだけの人が自覚しているだろうか。21世紀版「奴隷解放宣言」は憲法18条の含意を噛みしめることから始まる。
昨今の日本における「奴隷」群像は、批判力を失い、思考停止病にかかっているところが特色である。そのタイプも企業型奴隷(企業の私利追求に無批判に追随し、身を粉にして働くサラリーマン)、消費型奴隷(消費を増やすことを豊かな暮らしと錯覚し、食事では無造作に食べ残しをするなど動植物の「いのち」を粗末にし、しかも環境の汚染・破壊に手を貸している消費者)、さらに日米安保型奴隷(日米安保体制=軍事同盟を絶対視し、米国の軍事力=抑止力で日本が守られていると勘違いしている気楽な人々) ― など多様である。
▽ロエブルの貨幣システム論
エウゲン・ロエブル(注5)は「ヒューマノミックス」の創始者の一人と評価されている。ロエブルの貨幣システム論の内容は省略し、後藤氏の学生に贈る言葉(2006年創価大学にて)と私のコメントのみを以下に紹介する。
(注5)ロエブルは1907年チェコスロバキアで生まれ、ウィーン大学で近代経済学を学んだが、29年世界大恐慌を経験し、マルクス経済学に転じた。第二次大戦後は亡命先のイギリスから祖国へ帰り、経済官僚として活躍するが、当時のソ連首相と衝突し、投獄され、11年間の獄中生活を体験する。その間の研究と思索の成果が「ヒューマノミックス」である。
*「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」、「貨幣を支配する力とは何か。それは英知であり、アイデアである」
これが後藤氏の学生に贈る言葉である。
〈コメント〉貨幣論の問題点
ロエブルの貨幣論は理解しにくいところがありますが、「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」という学生への言葉(思想)をどうすれば実現できるかが基本的な問題です。そのための道筋を示すのがロエブルの貨幣論だと思います。
以下にその問題点を列挙します。
①ロエブルは「所有権消滅」を唱えているが、所有権が消滅する未来社会は、どういうイメージの社会なのか。
社会主義でも共産主義でもないとしたら、ユートピアの追求なのか。資本主義は否定し、一方市場経済は存続する社会らしい。市場経済がなお存在しているとしたら、所有権を否定する市場経済なるものが現実に存在し得るのか。
②法人税、所得税を廃止し、消費税を重視する提案となっている。消費税だけの国家財政になるのか。
そうだとすると、そういう財政にどれほどの現実味が期待できるか。
「政府のような公的機関が責任を負うべき社会的必要経費は政府またはそれを代行する中央銀行が貨幣を創造して直接その支出のための供給をする」とあるが、これはわが国の戦前、戦争中の赤字国債の日銀引き受けと同じような政策に思える。現実の政策として日本版赤字国債とどう違うのか。
③不平等、格差の是正策として高額所得者に過大な所得分を国庫に納めさせることを提案しているが、従来の高額所得者の税負担を重くする累進課税策とどう違うのか。
累進課税を徹底すれば、所得面での格差にはそれなりに対応できるのではないか。
④「経済民主主義」の問題は現在すでに重要なテーマであり、今後は一段と重要性が増してくる。
例えば企業の社会的責任、企業と政府の情報公開と説明責任、政策形成への市民の参加と参画 ― などが経済民主主義の柱で、現在、日本でも不十分ながら実施の方向に向かいつつあるとはいえないか。これと提案されている経済民主主義と質的にどう違うのか。
⑤ロエブルの貨幣システムを誰が担うのか。
本書には「人間の自覚的自己制御の主体性の確立・・・」という言葉がしばしば登場してくるが、いいかえれば「自覚的自己制御の主体性を確立した人間」がロエブルの貨幣システムを担う ― と読める。ただこの種の人間は仏(ほとけ)ではなくとも、菩薩道(「世のため人のため」の利他主義)を実践できる人間であるに違いない。
▽人間主義経済学の人間観
既存の経済学は、市場経済のみを対象とし、そこでの人間は抽象化された欲望と競争の主体でしかなかった。しかし現実の人間は単なる個体的存在としての自己保存本能をもつだけでなく、社会的存在としての相互依存性を自覚し、全体の利益である善を求め、自己コントロールをする存在である。さらには生命愛に目覚め、自然との共存によって「持続的な発展」を可能にするような生命共同体的な英知と慈悲を持つ存在である。
これを「十界」(注6)の生命論に当てはめると、欲望と競争は餓鬼界と修羅界の原理になり、社会的価値である善を求める生命は人間界、菩薩界の原理になり、生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる。それらの原理の相互依存的統一体として人間は存在する。従って人間主義経済学は欲望と競争を原理とする市場システムだけでなく、市場システムの諸矛盾が生み出す苦悩を解決するための「自覚的自己制御」の原理を基底とするシステムを開発し、この二大サブシステムが相互媒介的に機能する総合システムでなければならない。自覚的自己制御の原理を「共同体原理」と名づけ、「市場原理」の生み出す矛盾に対応するものと考える。
(注6)十界(じっかい)とは、迷えるものと悟れるものとのすべての境地(生存の領域)を10種に分類したもので、地獄界に始まり、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天上界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩(ぼさつ)界、そして仏(ぶつ)界までの十界を指している。
〈コメント〉利己的人間観か利他的人間観か
経済学はどういう人間観を想定して構築されているかがきわめて重要であり、それによってその経済学の質が明らかになります。既存の経済学(ケインズなどの現代経済学)はまさにご指摘の「欲望と競争の主体」としての人間像、いいかえれば利己主義的人間観を想定しています。私(安原)の提唱する仏教経済学は、これに対し利他主義的人間観に立っています。
さて人間主義経済学の人間観に関連して気になるのは、「生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる」として仏界の原理を経済学の中に取り入れ、そういう仏的人間像が政治経済の改革を担うかのように描かれている点です。
先に「ロエブルの貨幣システムを誰が担うのか」について「菩薩道を実践できる人間」と指摘しました。凡人であっても、菩薩道は精進によっては不可能ではありませんが、生身の人間が、あの釈尊(=仏教の開祖)のような仏的人間にたどり着くことがどこまで可能でしょうか。しかも政治経済の改革を現実に担うためには相当数の仏様が現実に存在する必要があります。
「仏とは完成された人間であり、人間とは未完成の仏」ともいわれます。いいかえれば人間誰しも仏性を備えているわけで、生きて仏になる可能性はありますが、現実には難事中の難事です。まして昨今のように自由市場原理主義の浸透によって、餓鬼、畜生、修羅の巷(ちまた)をさ迷う利己的人間が横行し、地獄に堕(お)ちる人間も少なくない現状では、仏を目指すことは難問中の難問のように思います。しかしそれでも「人間革命、社会革命」は必要不可欠のテーマです。
(2)『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで ― 2003年5月
特に感銘を受けた点、興味深く拝読した箇所について若干の感想を述べます。
▽シューマッハーとロエブル
シューマッハー(注7)は仏教思想に通じる人間観に立って新しい文明論を提起したが、ロエブルのパラダイム(新しい時代の方法的態度あるいは知的枠組み)もまた大乗仏教の縁起、空と同じ発想に立っており、仏教思想との接近を見る。
(注7)E・F・シューマッハー(1911~1977年)は、ドイツ生まれの経済思想家。主著『Small is Beautiful』(英語版は1973年に出版)は物質至上主義の現代文明に鋭い批判を放ち、世界的なベストセラーとなった。「Buddhist Economics」(仏教経済学)の一章をを設けてケインズ経済学と比較しながら仏教経済学の特色を詳しく論じている。邦訳版は小島慶三氏ら訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、1986年)。
〈コメント〉仏教思想との接点
ロエブルの思想が仏教思想と重なり合うという視点には大変興味を覚えます。
▽世界宗教の条件
文明的危機の時代における健全な世界宗教の条件として次の5点を挙げている。
①人間観の体系的なパラダイムとしての哲学を持つこと
②人類を救う救済力を持つこと
③時代に適応する弾力性、多面性、総合性を持つこと
④時代の問題に対する解決能力を持つこと
⑤人間に希望を与え、人間と自然との共存のため戦うモラルを育てること
一方、堕落した宗教の特質について次の4点を指摘している。
①権威主義的なファンダメンタリズム(原理主義)
②民衆に付け込んで、宗教を金儲けの手段にする詐欺行為
③職業としての宗教。宗教は万人のための生活法であるから、分業社会の職業ではない。
④教義の中にある非科学的要素を無理に維持しようとするファンダメンタリズムの一種
〈コメント〉健全な宗教と堕落した宗教
健全な宗教と堕落した宗教の条件、特質を明確に整理してある点は専門家ではない一般の人々にも大変説得力があるように思います。専門家はとかく宗教を個人レベルの救済について実践的というよりも思弁的に捉える傾向があります。衆生済度(人間大衆に限らず、地球上の生きとし生ける者すべてを救済すること)を目指す大乗仏教を唱えながら、現実には自己救済にこだわる小乗仏教の立場から抜け切れないのが実状といえるのでしょうか。
健全な宗教の条件としては特に④、⑤の実践的姿勢が大切ではないでしょうか。一方、堕落した宗教の欺瞞性として特に②、③がもっと強調されてもいいように思います。こういう考え方からいえば、お布施狙いの葬式仏教しか視野にない昨今のお寺さんの多数は、堕落した宗教の担い手ということにもなります。
▽非暴力と戦争否定
・古代インドのアショーカ大王(注8)の国是 ― 非暴力と戦争否定 ― を戦争と殺戮横行の21世紀において評価し直す必要がある。
・戦争を放棄した日本は世界に非暴力を推奨していくべき義務がある。
・近代国家から戦争による殺人の権利を奪うことが、21世紀の目覚めた世界市民の責任である。
・人類を団結させる共通の目的とは、平和であり、環境問題であり、砂漠の緑化である。
(注8)アショーカ大王(阿育王ともいう。治世前268~232)は、古代インドにおける統一国家建設の偉業を果たしたことで知られる。王に即位してから武力征服による悲惨な結果に悔恨し、仏教に帰依し、「法による統治」へ政策転換した。殺生を禁じ、饗宴のための浪費を戒め、道路に植樹し、井泉を掘り、休息所を設置させた。人と家畜のための2種の療養院を建てたとも伝えられる。
〈コメント〉仏教思想の市民化が急務
世界宗教、なかでも仏教の21世紀的課題は非暴力推進と戦争否定に尽きるといっても過言ではないと思います。地球環境問題の打開も砂漠の緑化も非暴力、戦争否定と表裏一体のものです。そういう視野を持たないで、人間救済、人類救済をいくら唱えても、空しすぎます。しかし残念ながら葬式仏教に偏している日本仏教の大勢はまさに堕落としかいいようがありません。だからこそ正しい健全な仏教思想の市民化あるいは民衆化が急務ともいえます。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
日本における「ヒューマノミックス=人間主義経済学」提唱の先達が相次いであの世へ旅立った。一人は、全国組織、「小島志塾」主宰者で、訳書『スモール イズ ビューティフル』でも知られる元参院議員、小島慶三氏であり、もう一人は仏教思想に詳しく、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」関連の著作が多い後藤隆一氏である。
両氏が論戦の標的にしたのは、弱肉強食、貧困、格差拡大を招いたあの新自由主義(=自由市場原理主義)路線で、その熱情は90歳近くまで老いてなお衰えることはなかった。遺された宿題は、「ヒューマノミックス=人間主義経済学」から何を学び取り、どう発展させていくのかである。先達の業績を偲びながら、そのことを考えたい。(2010年1月28日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
「ヒューマノミックス」は、ヒューマニズム(人間性尊重)とエコノミックス(経済学)からなる新しい合成語で、「人間復興の経済学」、「人間主義経済学」の意である。
小島慶三氏の逝去(08年8月)を偲ぶ記事は、「水田こそ世界に誇るべき宝だ! 日本は資源大国 ― 緑と土と水」というタイトルでブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載(08年10月20日付)してある。
一方、後藤隆一氏(注1)については私(安原)の同氏宛私信の中から選んだ2編 ― 『人間主義経済学序説』を読んで(2007年4月付)と『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで(2003年5月付)― を以下に公開し、先達の足跡を辿りながら偲ぶことにしたい。
なお漢字のふりがな、(注)記、コメントの小見出しは私信の原文にはなかったが、理解の一助にと考えて今回新たにつけ加えた。
(注1)後藤隆一氏は1921年岩手県生まれ、2009年12月末逝去。学徒出陣を経験、戦後復学。東京商科大学(現・一橋大学)卒業後、財団法人・東洋哲学研究所代表理事・所長に就任、宗教・哲学関係の研究・著作活動に携わる。著書に『現代人の仏教思想』、『現代に生きる仏教』、『脱近代への道』、『ヒューマノミックス宣言』、『ヒューマノミックスの世紀』、『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』(霞出版社)、『人間主義経済学序説』(新思索社)など多数。
(1)『人間主義経済学序説』を読んで ― 2007年4月
著作『人間主義経済学序説』と格闘した末の感想を以下に記しました。ほんの一部の印象記でしかありません。著作の文章を引用し、それに〈コメント〉として私の印象をつづりました。
▽新しい学風を
高島善哉先生(注2)は「東洋においては、『自然』は『しぜん』ではなく、『じねん』であったことを思え。私たちの前には、そろそろ新しい学風、新しい方法と方法態度が生まれてきてもいい時期ではないのか。翻訳と解説の時代はそろそろ終わりかけている」と言われている。
(注2)高島善哉氏は1904年岐阜県生まれ、1990年逝去。退官まで40年間一橋大学で教壇に立った。戦争末期、学徒出陣の学生に向かって「生きて帰ってくれ」と無駄死にを戒めた言葉は今なお語りぐさになっている。著作は『アダム・スミスの市民社会体系』、『社会科学入門』、『社会思想史概論』、『民族と階級』、『時代に挑む社会科学』など多数。これら著作は『高島善哉著作集』全9巻(こぶし書房)に収められている。
〈コメント〉欧米的思考への依存症から脱却を
「そろそろ新しい学風を」は私も学生時代(高島ゼミの一員であった)に直接お聞きしたことがあります。それ以来欧米の学問、欧米的思考への依存症からどう脱却するかが、私にとっても大きなテーマとなっていました。私が今日仏教経済学に関心を抱いているのも、その延長線上にあるように思います。
▽「空」、「仮」、「中道」の仏法
あらゆる存在は、認識の主体である自我を含めてすべて他に依存して存在し、他との関係によって変化してゆくものゆえ、独立不変の実体ではないと説くのを「空」(くう)といい、「無常無我」ともいう。(中略)
「あらゆるものを実体視して、欲望の虜(とりこ)になり、争うこと」から脱し、平和と共存の世界をつくること、それが大乗仏教の菩薩である。菩薩道を説くのが「仮」(け)の仏法である。仮の世界と言えば、架空の世界のように聞こえるが、「空」から見た場合の仮説であって、日常的な現実、五感の対象である現象の世界を指している。
法華経はこの空と仮の仏教を「方便」(ほうべん)と名づけ、空と仮を統合した「中道」(ちゅうどう)を真実とした。
〈コメント〉空観と仏教経済学
以上の「空」、「仮」、「中道」の相互関係は、現象や欲望の世界に生きる者にとっては理解しにくいところがありますが、空観は私の唱える仏教経済学の重要な柱として取り入れており、現実の正しい分析とその把握に不可欠だと認識しています。今後さらにどう発展させるかが私自身にとっての課題です。
▽マルクスの疎外論と物象化論
「疎外」とは、主体的で精神的で内面的なものである人間が客観的で物質的なものに自らを外化し客体化すること。(中略)これに対し「物象化」とは、人間が資本、商品という物に支配され、物の論理の代行者になること。
(中略)疎外論とは人間の自己喪失論であり、物象化論とは人間の自己奴隷化論である。
〈コメント〉21世紀版「奴隷解放宣言」を
上記の自己喪失、自己奴隷化は米国主導の自由市場原理主義(注3)が日本へ導入され、広がるにつれていよいよ顕著になってきています。私は日本のサラリーマンの大半は奴隷状態に置かれているにもかかわらず、それを自覚できないところが奴隷の奴隷たる特徴があると思います。個々の人間が分断されて、自覚的主体性が欠落したまま、漂流しつつあると言えば、誇張にすぎるでしょうか。21世紀版「奴隷解放宣言」(注4)が必要です。
著作『資本論』(大学時代のゼミで研究テーマでした)で知られるドイツのマルクスの今日的限界論も指摘されていますが、改めてマルクスに学び、21世紀版疎外論、物象化論をもっと深めることが現状打開のために緊急の課題であるように感じています。
(注3)このコメントは2007年4月の時点で書いたもので、当時は自由市場原理主義(=新自由主義)は横暴を極めていた。その自由市場原理主義は2008年秋の米国金融恐慌に始まる世界金融危機とともに破綻したが、消滅はしていない。しぶとく生き残りを策している。
(注4)日本国憲法18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定めてある。「奴隷的拘束」という文言が憲法に盛り込まれていることをどれだけの人が自覚しているだろうか。21世紀版「奴隷解放宣言」は憲法18条の含意を噛みしめることから始まる。
昨今の日本における「奴隷」群像は、批判力を失い、思考停止病にかかっているところが特色である。そのタイプも企業型奴隷(企業の私利追求に無批判に追随し、身を粉にして働くサラリーマン)、消費型奴隷(消費を増やすことを豊かな暮らしと錯覚し、食事では無造作に食べ残しをするなど動植物の「いのち」を粗末にし、しかも環境の汚染・破壊に手を貸している消費者)、さらに日米安保型奴隷(日米安保体制=軍事同盟を絶対視し、米国の軍事力=抑止力で日本が守られていると勘違いしている気楽な人々) ― など多様である。
▽ロエブルの貨幣システム論
エウゲン・ロエブル(注5)は「ヒューマノミックス」の創始者の一人と評価されている。ロエブルの貨幣システム論の内容は省略し、後藤氏の学生に贈る言葉(2006年創価大学にて)と私のコメントのみを以下に紹介する。
(注5)ロエブルは1907年チェコスロバキアで生まれ、ウィーン大学で近代経済学を学んだが、29年世界大恐慌を経験し、マルクス経済学に転じた。第二次大戦後は亡命先のイギリスから祖国へ帰り、経済官僚として活躍するが、当時のソ連首相と衝突し、投獄され、11年間の獄中生活を体験する。その間の研究と思索の成果が「ヒューマノミックス」である。
*「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」、「貨幣を支配する力とは何か。それは英知であり、アイデアである」
これが後藤氏の学生に贈る言葉である。
〈コメント〉貨幣論の問題点
ロエブルの貨幣論は理解しにくいところがありますが、「貨幣に支配される人間になるな。貨幣を支配する人間になれ」という学生への言葉(思想)をどうすれば実現できるかが基本的な問題です。そのための道筋を示すのがロエブルの貨幣論だと思います。
以下にその問題点を列挙します。
①ロエブルは「所有権消滅」を唱えているが、所有権が消滅する未来社会は、どういうイメージの社会なのか。
社会主義でも共産主義でもないとしたら、ユートピアの追求なのか。資本主義は否定し、一方市場経済は存続する社会らしい。市場経済がなお存在しているとしたら、所有権を否定する市場経済なるものが現実に存在し得るのか。
②法人税、所得税を廃止し、消費税を重視する提案となっている。消費税だけの国家財政になるのか。
そうだとすると、そういう財政にどれほどの現実味が期待できるか。
「政府のような公的機関が責任を負うべき社会的必要経費は政府またはそれを代行する中央銀行が貨幣を創造して直接その支出のための供給をする」とあるが、これはわが国の戦前、戦争中の赤字国債の日銀引き受けと同じような政策に思える。現実の政策として日本版赤字国債とどう違うのか。
③不平等、格差の是正策として高額所得者に過大な所得分を国庫に納めさせることを提案しているが、従来の高額所得者の税負担を重くする累進課税策とどう違うのか。
累進課税を徹底すれば、所得面での格差にはそれなりに対応できるのではないか。
④「経済民主主義」の問題は現在すでに重要なテーマであり、今後は一段と重要性が増してくる。
例えば企業の社会的責任、企業と政府の情報公開と説明責任、政策形成への市民の参加と参画 ― などが経済民主主義の柱で、現在、日本でも不十分ながら実施の方向に向かいつつあるとはいえないか。これと提案されている経済民主主義と質的にどう違うのか。
⑤ロエブルの貨幣システムを誰が担うのか。
本書には「人間の自覚的自己制御の主体性の確立・・・」という言葉がしばしば登場してくるが、いいかえれば「自覚的自己制御の主体性を確立した人間」がロエブルの貨幣システムを担う ― と読める。ただこの種の人間は仏(ほとけ)ではなくとも、菩薩道(「世のため人のため」の利他主義)を実践できる人間であるに違いない。
▽人間主義経済学の人間観
既存の経済学は、市場経済のみを対象とし、そこでの人間は抽象化された欲望と競争の主体でしかなかった。しかし現実の人間は単なる個体的存在としての自己保存本能をもつだけでなく、社会的存在としての相互依存性を自覚し、全体の利益である善を求め、自己コントロールをする存在である。さらには生命愛に目覚め、自然との共存によって「持続的な発展」を可能にするような生命共同体的な英知と慈悲を持つ存在である。
これを「十界」(注6)の生命論に当てはめると、欲望と競争は餓鬼界と修羅界の原理になり、社会的価値である善を求める生命は人間界、菩薩界の原理になり、生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる。それらの原理の相互依存的統一体として人間は存在する。従って人間主義経済学は欲望と競争を原理とする市場システムだけでなく、市場システムの諸矛盾が生み出す苦悩を解決するための「自覚的自己制御」の原理を基底とするシステムを開発し、この二大サブシステムが相互媒介的に機能する総合システムでなければならない。自覚的自己制御の原理を「共同体原理」と名づけ、「市場原理」の生み出す矛盾に対応するものと考える。
(注6)十界(じっかい)とは、迷えるものと悟れるものとのすべての境地(生存の領域)を10種に分類したもので、地獄界に始まり、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天上界、声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩(ぼさつ)界、そして仏(ぶつ)界までの十界を指している。
〈コメント〉利己的人間観か利他的人間観か
経済学はどういう人間観を想定して構築されているかがきわめて重要であり、それによってその経済学の質が明らかになります。既存の経済学(ケインズなどの現代経済学)はまさにご指摘の「欲望と競争の主体」としての人間像、いいかえれば利己主義的人間観を想定しています。私(安原)の提唱する仏教経済学は、これに対し利他主義的人間観に立っています。
さて人間主義経済学の人間観に関連して気になるのは、「生命共同体的な英知と慈悲の生命は仏界の原理となる」として仏界の原理を経済学の中に取り入れ、そういう仏的人間像が政治経済の改革を担うかのように描かれている点です。
先に「ロエブルの貨幣システムを誰が担うのか」について「菩薩道を実践できる人間」と指摘しました。凡人であっても、菩薩道は精進によっては不可能ではありませんが、生身の人間が、あの釈尊(=仏教の開祖)のような仏的人間にたどり着くことがどこまで可能でしょうか。しかも政治経済の改革を現実に担うためには相当数の仏様が現実に存在する必要があります。
「仏とは完成された人間であり、人間とは未完成の仏」ともいわれます。いいかえれば人間誰しも仏性を備えているわけで、生きて仏になる可能性はありますが、現実には難事中の難事です。まして昨今のように自由市場原理主義の浸透によって、餓鬼、畜生、修羅の巷(ちまた)をさ迷う利己的人間が横行し、地獄に堕(お)ちる人間も少なくない現状では、仏を目指すことは難問中の難問のように思います。しかしそれでも「人間革命、社会革命」は必要不可欠のテーマです。
(2)『蘇生の哲学ーパラダイムとしての人間観』を読んで ― 2003年5月
特に感銘を受けた点、興味深く拝読した箇所について若干の感想を述べます。
▽シューマッハーとロエブル
シューマッハー(注7)は仏教思想に通じる人間観に立って新しい文明論を提起したが、ロエブルのパラダイム(新しい時代の方法的態度あるいは知的枠組み)もまた大乗仏教の縁起、空と同じ発想に立っており、仏教思想との接近を見る。
(注7)E・F・シューマッハー(1911~1977年)は、ドイツ生まれの経済思想家。主著『Small is Beautiful』(英語版は1973年に出版)は物質至上主義の現代文明に鋭い批判を放ち、世界的なベストセラーとなった。「Buddhist Economics」(仏教経済学)の一章をを設けてケインズ経済学と比較しながら仏教経済学の特色を詳しく論じている。邦訳版は小島慶三氏ら訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、1986年)。
〈コメント〉仏教思想との接点
ロエブルの思想が仏教思想と重なり合うという視点には大変興味を覚えます。
▽世界宗教の条件
文明的危機の時代における健全な世界宗教の条件として次の5点を挙げている。
①人間観の体系的なパラダイムとしての哲学を持つこと
②人類を救う救済力を持つこと
③時代に適応する弾力性、多面性、総合性を持つこと
④時代の問題に対する解決能力を持つこと
⑤人間に希望を与え、人間と自然との共存のため戦うモラルを育てること
一方、堕落した宗教の特質について次の4点を指摘している。
①権威主義的なファンダメンタリズム(原理主義)
②民衆に付け込んで、宗教を金儲けの手段にする詐欺行為
③職業としての宗教。宗教は万人のための生活法であるから、分業社会の職業ではない。
④教義の中にある非科学的要素を無理に維持しようとするファンダメンタリズムの一種
〈コメント〉健全な宗教と堕落した宗教
健全な宗教と堕落した宗教の条件、特質を明確に整理してある点は専門家ではない一般の人々にも大変説得力があるように思います。専門家はとかく宗教を個人レベルの救済について実践的というよりも思弁的に捉える傾向があります。衆生済度(人間大衆に限らず、地球上の生きとし生ける者すべてを救済すること)を目指す大乗仏教を唱えながら、現実には自己救済にこだわる小乗仏教の立場から抜け切れないのが実状といえるのでしょうか。
健全な宗教の条件としては特に④、⑤の実践的姿勢が大切ではないでしょうか。一方、堕落した宗教の欺瞞性として特に②、③がもっと強調されてもいいように思います。こういう考え方からいえば、お布施狙いの葬式仏教しか視野にない昨今のお寺さんの多数は、堕落した宗教の担い手ということにもなります。
▽非暴力と戦争否定
・古代インドのアショーカ大王(注8)の国是 ― 非暴力と戦争否定 ― を戦争と殺戮横行の21世紀において評価し直す必要がある。
・戦争を放棄した日本は世界に非暴力を推奨していくべき義務がある。
・近代国家から戦争による殺人の権利を奪うことが、21世紀の目覚めた世界市民の責任である。
・人類を団結させる共通の目的とは、平和であり、環境問題であり、砂漠の緑化である。
(注8)アショーカ大王(阿育王ともいう。治世前268~232)は、古代インドにおける統一国家建設の偉業を果たしたことで知られる。王に即位してから武力征服による悲惨な結果に悔恨し、仏教に帰依し、「法による統治」へ政策転換した。殺生を禁じ、饗宴のための浪費を戒め、道路に植樹し、井泉を掘り、休息所を設置させた。人と家畜のための2種の療養院を建てたとも伝えられる。
〈コメント〉仏教思想の市民化が急務
世界宗教、なかでも仏教の21世紀的課題は非暴力推進と戦争否定に尽きるといっても過言ではないと思います。地球環境問題の打開も砂漠の緑化も非暴力、戦争否定と表裏一体のものです。そういう視野を持たないで、人間救済、人類救済をいくら唱えても、空しすぎます。しかし残念ながら葬式仏教に偏している日本仏教の大勢はまさに堕落としかいいようがありません。だからこそ正しい健全な仏教思想の市民化あるいは民衆化が急務ともいえます。
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「人類の持続的発展」を目指して
安原和雄
安保改定50年を迎えて、安全保障のあり方をどう考えたらいいだろうか。政府や多くのメディアが主張しているような「日米同盟の深化」は、戦争のための軍事同盟を土台に据えたもので、しょせん一時的な糊塗策でしかない。大切な視点は「脱軍事」をどう構想するかである。そのためには軍事同盟としての日米安保を解消して、平和友好条約に変革することである。しかも日米2国間に限定しないで、中国を含む多国間の平和友好条約を構想することも必要だろう。
その平和友好条約が目指すべき基本目標は、「脱軍事」を土台にした「人類の持続的発展」である。これは従来の「軍事力中心の安全保障」から脱して、地球環境汚染・飢餓・貧困などへの対策を軸に据える「人間の安全保障」の追求をも意味する。もはや軍事同盟は百害って一利なし、の時代とはいえないか。(2010年1月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 大手新聞社説は「安保50年」をどう論じたか
まず大手5紙の社説見出しを紹介する。
朝日新聞(1月19日付)=安保改定50年 「同盟も、9条も」の効用
毎日新聞(同)=安保改定50年 重層的深化の実上げよ
読売新聞(同)=安保改定50年 新たな日米同盟を構築したい
日経新聞(1月18日付)=寒波のなかで50周年迎える日米安保
東京新聞(1月14日付)=日米同盟協議 軍事超えた深化目指せ
見出しから判断するかぎり、東京の〈軍事超えた深化目指せ〉が目新しい印象を受ける。
「県内に(米軍基地を)移設させる日米合意の履行は沖縄の負担軽減にはならず、沖縄県民の不満は解消されない。国民の理解が得られない同盟関係は脆弱(ぜいじゃく)だと心得るべきだろう。日米関係強化の観点からも、県外・国外移設の検討は当然だ」などの指摘は評価に値する。しかし一方、「北朝鮮の核問題や中国の軍事的台頭を抱える東アジア地域では米軍の存在が当面必要」としており、日米安保容認論であることは他紙と大同小異である。
ここでは朝日の〈「同盟も、9条も」の効用〉の骨子を紹介し、感想を述べる。
*朝日新聞社説の骨子
同盟の半世紀は日本社会にとって同盟受容の半世紀でもあった。今や朝日新聞の世論調査では、常に7割以上が日米安保を今後も維持することに賛成している。
冷戦終結後、アジア太平洋地域の安定装置として再定義された日米同盟の役割はすっかり定着した。核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を前に、安保体制の与える安心感は幅広く共有されているといえるだろう。
日本が基地を提供し、自衛隊と米軍が役割を分担して日本の防衛にあたる。憲法9条の下、日本の防衛力は抑制的なものにとどめ、日本が海外で武力行使することはない。在日米軍は日本の防衛だけでなく、抑止力としてアジア太平洋地域の安全に役立つ。
それが変わらぬ日米安保の骨格だ。9条とのセットがもたらす安心感こそ、日米同盟への日本国民の支持の背景にあるのではないか。
アジアの近隣諸国にも、「9条つきの日米同盟」であったがゆえに安心され、地域の安定装置として受け入れられるようになった。
「9条も安保も」という基本的な枠組みは、国際的にも有用であり続けるだろう。
〈安原の感想〉 ― 批判精神はどこへ?
朝日の社説で気になるのは、「安定」、「安心」という文言が前後5回も出てくることである。「アジア太平洋地域の安定装置」、「安保体制の与える安心感」、「9条とのセットがもたらす安心感」、「9条つきの日米同盟であったがゆえに安心され」、「地域の安定装置・・・」という具合である。
日米安保体制は多様な顔を持っているが、その本質は軍事同盟であり、軍事力行使の暴力装置として機能している。なぜ暴力装置を安心・安定装置と捉えるのか、奇異な印象を拭いきれない。
その答えとして思い当たるところがある。それは鳩山首相が1月19日発表した「安保改定50年」の談話である。こう述べている。「日米安保に基づく米軍のプレゼンスは、地域の諸国に大きな安心をもたらすこと・・」と。もう一つは「日米安全保障共同宣言―21世紀に向けての同盟」(1996年4月)で、「アジア太平洋地域の平和と安定の維持のために・・・」などと繰り返しうたっている。同じ文言は首相談話にも盛り込まれている。
ジャーナリズムの重要な役割として権力批判がある。ところが朝日はそういう批判精神を捨てているらしい。首相談話の文言をそのまま社説の主張として取り上げるのではジャーナリズムとしての存在価値はないに等しい。
▽『世界』の特集「普天間移設問題の真実」からの批判
月刊論壇誌『世界』(2010年2月号、岩波書店)の特集「普天間移設問題の真実」で2つのメディア批判論が提起されている。メディアの多くが日米安保体制(=日米同盟)に対する批判力を失っている現状に鋭い眼を向けている。その骨子を以下に紹介する。
(1)寺島実郎(財団法人日本総合研究所会長)「常識に還る意思と構想 ― 日米同盟の再構築に向けて」から
中国の作家魯迅は、20世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情、それが奴顔である。
普天間問題を巡る2009年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。
常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然なことだ」という認識を取り戻すことである。詭弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。
(2)西谷 修(東京外国語大学大学院教授)「〝自発的隷従〟を超えよ 自立的政治への一歩」から
新聞はほとんど毎日(普天間基地の移設問題について)「日米同盟の危機」、「アメリカの対日不信」といった見出しが躍っている。(中略)日本のメディアは、「アメリカを怒らせてはたいへんだ」とばかり連日大騒ぎし、「危機」を言い立てて鳩山政権に圧力をかけている。
自民党の政治家たちがそう言うのならまだわかる。自民党は一貫して「日米関係」を基軸として日本の政治を仕切ってきた党であり、「対米従属」はその命綱だったからだ。けれどいま、自民党に代わって「警鐘」を打ち鳴らすのはメディアだ。(中略)まだ自民党の時代が続いていると勘違いして、「体制」の代弁をしているつもりなのか。時代が変わるのに抗うかのように、鳩山首相を「決断できない」と批判し、「連立と日米同盟のどちらをとるのか」とまで迫る剣幕だ。この基調は読売、サンケイ、日経は言うに及ばず、朝日までほとんど変わらない。まるで日本のメディアはアメリカ・タカ派の代弁者か、その幇間(ほうかん)のようである。
第二世代(第一世代は岸信介ら)以降の政治家にとって「対米依存」が日本政治の所与の構造として作られていた。アメリカは、庇護してくれる「自由世界」の盟主であり、ヒーローであり、見習って身を正すべき手本である。だから彼らはアメリカ傘下の「優等生」であろうと努め、アメリカに気に入られることを誇りさえするようになる。そうなると、「従属」は、もはややむを得ぬ手段ではなく、喜んで受け入れ、進んで担われる枠組みになる。この「自発性」(自由)」とは区別されない「従属」、それを「自発的隷従」という。
現在のメディアは「自発的隷従」の増幅器に成り下がっている。かつて日本経済がアメリカ市場に依存しきっていた頃、「アメリカがくしゃみをすると日本は肺炎にかかる」と言われたが、いまでも、アメリカが咳払いすると日本は震え上がると、彼らは思いこんでいるようだ。
先回の選挙で民意ははっきりと「チェンジ」を求めた。つまり新政権の路線転換は民意(とりわけ沖縄の民意)に支えられたものである。(中略)何の権限があってメディアは、民意の無視を政府に要求することができるのか。この国でいまメディアはデモクラシーを虚仮にしているのだ。
〈安原の感想〉 ― メディアは反論しなくていいのか?
寺島氏は、メディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」について指摘している。奴顔とは、「自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情」を指している。いいかえれば奴隷の表情ということだろう。
一方、西谷氏は、現在のメディアは「自発的隷従」の増幅器に成り下がっている、とまで言い切っている。「自発的隷従」とは、「自発性」(自由)」とは区別されない「従属」の姿勢を指しているそうで、これも誤解を恐れずに言えば、「自発的奴隷」と表現し直すこともできるのではないか。
ご両人がここまで切り込んでくるからには、現在のメディアの存在価値そのものに根底から不信感を抱いていると観るほかないだろう。しかも西谷氏は、この国ではメディアはデモクラシーを虚仮(こけ)にしている、と断じている。この筆法を借用すれば、メディア自身が虚仮にされているのだ。現役の記者諸君、これに毅然と反論しなくていいのか?
▽ 琉球新報社説「脱軍事の地平開く元年に」が光っている
大手紙が概して「安保体制擁護」の不甲斐ない論調に終始しているのに比べると、沖縄のメディアの批判的姿勢は光っている。ここでは沖縄の琉球新報社説(1月18日付)の大要を紹介する。
安保改定50年 脱軍事の地平開く元年に 住民の敵意招かぬ賢明さを(見出し)
日米安保をどうするか。日米安保だけでいいのか。国民論議を尽くし重層的な安保を確立し「平和国家日本」の真価を示す時だ。
誰を何から守るのか(小見出し)
「安保の負担は沖縄に、受益は国民全体で」という状況が構造化している。安保の目的は何か。誰を何からどう守るのか。本質的な議論をしっかり行いたい。
現行安保は、第5条の米国による日本防衛義務、第6条の米国への日本の基地提供義務が注目されがちだが、第1条で「国際連合を強化」、第2条で「経済的協力を促進」をうたうなど、本来は「日米軍事同盟」一色ではない。
条約前文は「平和、友好関係の強化」「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護」もうたう。
しかし、運用実態は「軍事偏重」「沖縄の過重負担」であり、インド洋への海上自衛隊派遣に象徴されるように憲法上の疑義がある。民主主義や法の支配のうたい文句が泣く。
昨秋、琉球新報社が実施した世論調査では、米軍の日本駐留を定めた安保条約について4割強が「平和友好条約に改めるべきだ」と答えた。米軍基地提供のよりどころである安保「維持」は17%弱。「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強、「破棄すべき」は10%強だった。
県民は「反軍・反基地」感情を抱えながらも、米国との敵対ではなく、安保見直しを通してより良い関係を希求している。
鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領は「変革」を旗印とし、従来の政権にも増して民主主義、人権、国際協調を重視する姿勢が鮮明だ。
両首脳は「核なき世界」の実現や温室効果ガス削減という難題に果敢に挑戦している。その2人が沖縄問題の一つ「普天間の早期撤去」で英断を下せぬはずがない。
日米中に大きな責任(小見出し)
国際社会は核拡散やテロ根絶など軍事的課題だけでなく、感染症や飢餓・貧困、食料危機、エネルギー危機、人権問題など多様な安全保障問題に直面している。むしろ軍事力では解決できない安全保障の課題の比重が増している。
こうした中、日米両政府の発想は旧態依然とし軍事に比重を置きすぎていないか。この20年余国防費が2けたの伸びを見せる中国を、警戒するのは不自然ではない。だからといって日米が中国の「脅威」をあおり軍事的に対抗するというなら、それは短絡的だ。
日米中の3国は、経済、外交、安全保障各面における総合的な影響力から、人類全体の持続的発展に大きな責任と役割を負っている。日米中が軍事的な緊張・敵対関係に陥り、世界全体の「平和と繁栄の危機」を招いてはならない。
力を頼みにした安保政策で市民の安全を保障し、経済社会の持続的な発展を保障するのは不可能だ。日米で政権が交代した今、軍事偏重安保を根本的に見直す好機だ。
従来の「対米追従」とは決別すべきだ。憲法9条を持つ「平和国家」、唯一の被爆国として日本に期待されるのは、ODA(政府開発援助)など非軍事面の貢献であり、核廃絶や軍縮の推進役であろう。
安保50年を日米が協調し、より積極的な予防外交や日米を含む多国間安全保障の実現、「人間の安全保障」(注)の定着に踏み出す、新しい安全保障の元年としたい。
(注)人間の安全保障とは、従来の軍事力中心の安全保障とは異質の安全保障観で、環境破壊、人権侵害、難民、貧困など人間の生存、生活、尊厳への脅威に対する取り組みの強化を目指している。米ソ冷戦の終結に伴って国連開発計画(UNDP)が『人間開発報告』で打ち出した。資料は「人間の安全保障委員会」編『安全保障の今日的課題――人間の安全保障委員会報告書』(朝日新聞社、2003年)など。
〈安原の感想〉 ― 軍事偏重安保を根本的に見直す好機
「日米で政権が交代した今、軍事偏重安保を根本的に見直す好機だ」という主張には同感である。
もう一つ、昨秋、琉球新報社が実施した「日米安保条約に関する世論調査」の結果にも注目したい。その内容はつぎの通り。
・4割強が「平和友好条約に改めるべきだ」
・米軍基地提供のよりどころである安保「維持」は17%弱。
・「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強
・「破棄すべき」は10%強
世論調査結果の中で特に「平和友好条約に改めるべきだ」が4割強にも上っている点に注目したい。ここから「現行の軍事偏重安保を根本的に見直す」方向として「平和友好条約に改める」ことが展望できるのではないか。
▽ 日米安保を平和友好条約に変革するとき
現行日米安保条約を平和友好条約に変革するうえで上述の琉球新報社説は示唆に富んでいる。まず新しい平和友好条約に盛り込むべき具体的な柱が現行安保条約にすでに規定されているという点を指摘したい。同社説の中のつぎの2点を挙げることができる。
*日米安保条約第1条で「国際連合を強化」、第2条で「経済的協力を促進」をうたうなど、本来は「日米軍事同盟」一色ではない。
*条約前文は「平和、友好関係の強化」「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護」もうたっている。
以上から国連重視主義に立つ平和友好条約という特質が浮かび上がってくる。当然2国間軍事同盟という時代遅れの同盟は無用であり、在日米軍基地も全面的に撤去しなければならない。
上記の2点のほかに平和友好条約には琉球新報社説が指摘している以下のキーワードも取り込むのが望ましい。目指すべき基本目標は、「人類の持続的発展への責任」、「人間の安全保障の推進」であり、その具体的な柱は「核なき世界」の実現、軍縮推進、核不拡散、テロ根絶、地球温暖化防止、感染症・飢餓・貧困への対策、食料・エネルギー危機への対応、ODA(政府開発援助)など非軍事面の貢献 ― などである。
問題は平和友好条約への参加国を日米2カ国に限定するか、あるいはもっと拡大するかである。ここで石橋湛山元首相が日米安保改定の翌1961年に唱えた「日中米ソ平和同盟」構想を想起したい。これは日米安保を中国、ソ連(当時)にも拡大し、多国間安全保障条約に変質させる構想であった。当時のフルシチョフソ連首相は「原則的には全面的に賛成」と回答し、周恩来中国総理は「私も以前から同じことを考えていた。中国はよいとしても、米国が問題でしょう」と指摘した旨、石橋元首相は回想している。
平和友好条約は日米2国間よりも多国間の方が望ましいだろう。多国間安保構想は、上述の琉球新報社の世論調査にみる声、〈「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強〉と重なってくる。
いずれにしても琉球新報社説のつぎの認識を共有したいと考える。
*力を頼みにした安保政策で市民の安全を保障し、経済社会の持続的な発展を保障するのは不可能だ。
*従来の「対米追従」とは決別すべきだ。
*軍事力では解決できない安全保障の課題の比重が増している。
以上のような視点が大手新聞社説に欠落しているのは残念というほかない。戦争のための暴力装置である軍事同盟を土台にして、「同盟の深化」を唱えるのは、しょせん一時的な糊塗策でしかないことを指摘したい。
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安原和雄
安保改定50年を迎えて、安全保障のあり方をどう考えたらいいだろうか。政府や多くのメディアが主張しているような「日米同盟の深化」は、戦争のための軍事同盟を土台に据えたもので、しょせん一時的な糊塗策でしかない。大切な視点は「脱軍事」をどう構想するかである。そのためには軍事同盟としての日米安保を解消して、平和友好条約に変革することである。しかも日米2国間に限定しないで、中国を含む多国間の平和友好条約を構想することも必要だろう。
その平和友好条約が目指すべき基本目標は、「脱軍事」を土台にした「人類の持続的発展」である。これは従来の「軍事力中心の安全保障」から脱して、地球環境汚染・飢餓・貧困などへの対策を軸に据える「人間の安全保障」の追求をも意味する。もはや軍事同盟は百害って一利なし、の時代とはいえないか。(2010年1月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 大手新聞社説は「安保50年」をどう論じたか
まず大手5紙の社説見出しを紹介する。
朝日新聞(1月19日付)=安保改定50年 「同盟も、9条も」の効用
毎日新聞(同)=安保改定50年 重層的深化の実上げよ
読売新聞(同)=安保改定50年 新たな日米同盟を構築したい
日経新聞(1月18日付)=寒波のなかで50周年迎える日米安保
東京新聞(1月14日付)=日米同盟協議 軍事超えた深化目指せ
見出しから判断するかぎり、東京の〈軍事超えた深化目指せ〉が目新しい印象を受ける。
「県内に(米軍基地を)移設させる日米合意の履行は沖縄の負担軽減にはならず、沖縄県民の不満は解消されない。国民の理解が得られない同盟関係は脆弱(ぜいじゃく)だと心得るべきだろう。日米関係強化の観点からも、県外・国外移設の検討は当然だ」などの指摘は評価に値する。しかし一方、「北朝鮮の核問題や中国の軍事的台頭を抱える東アジア地域では米軍の存在が当面必要」としており、日米安保容認論であることは他紙と大同小異である。
ここでは朝日の〈「同盟も、9条も」の効用〉の骨子を紹介し、感想を述べる。
*朝日新聞社説の骨子
同盟の半世紀は日本社会にとって同盟受容の半世紀でもあった。今や朝日新聞の世論調査では、常に7割以上が日米安保を今後も維持することに賛成している。
冷戦終結後、アジア太平洋地域の安定装置として再定義された日米同盟の役割はすっかり定着した。核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を前に、安保体制の与える安心感は幅広く共有されているといえるだろう。
日本が基地を提供し、自衛隊と米軍が役割を分担して日本の防衛にあたる。憲法9条の下、日本の防衛力は抑制的なものにとどめ、日本が海外で武力行使することはない。在日米軍は日本の防衛だけでなく、抑止力としてアジア太平洋地域の安全に役立つ。
それが変わらぬ日米安保の骨格だ。9条とのセットがもたらす安心感こそ、日米同盟への日本国民の支持の背景にあるのではないか。
アジアの近隣諸国にも、「9条つきの日米同盟」であったがゆえに安心され、地域の安定装置として受け入れられるようになった。
「9条も安保も」という基本的な枠組みは、国際的にも有用であり続けるだろう。
〈安原の感想〉 ― 批判精神はどこへ?
朝日の社説で気になるのは、「安定」、「安心」という文言が前後5回も出てくることである。「アジア太平洋地域の安定装置」、「安保体制の与える安心感」、「9条とのセットがもたらす安心感」、「9条つきの日米同盟であったがゆえに安心され」、「地域の安定装置・・・」という具合である。
日米安保体制は多様な顔を持っているが、その本質は軍事同盟であり、軍事力行使の暴力装置として機能している。なぜ暴力装置を安心・安定装置と捉えるのか、奇異な印象を拭いきれない。
その答えとして思い当たるところがある。それは鳩山首相が1月19日発表した「安保改定50年」の談話である。こう述べている。「日米安保に基づく米軍のプレゼンスは、地域の諸国に大きな安心をもたらすこと・・」と。もう一つは「日米安全保障共同宣言―21世紀に向けての同盟」(1996年4月)で、「アジア太平洋地域の平和と安定の維持のために・・・」などと繰り返しうたっている。同じ文言は首相談話にも盛り込まれている。
ジャーナリズムの重要な役割として権力批判がある。ところが朝日はそういう批判精神を捨てているらしい。首相談話の文言をそのまま社説の主張として取り上げるのではジャーナリズムとしての存在価値はないに等しい。
▽『世界』の特集「普天間移設問題の真実」からの批判
月刊論壇誌『世界』(2010年2月号、岩波書店)の特集「普天間移設問題の真実」で2つのメディア批判論が提起されている。メディアの多くが日米安保体制(=日米同盟)に対する批判力を失っている現状に鋭い眼を向けている。その骨子を以下に紹介する。
(1)寺島実郎(財団法人日本総合研究所会長)「常識に還る意思と構想 ― 日米同盟の再構築に向けて」から
中国の作家魯迅は、20世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情、それが奴顔である。
普天間問題を巡る2009年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。
常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然なことだ」という認識を取り戻すことである。詭弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。
(2)西谷 修(東京外国語大学大学院教授)「〝自発的隷従〟を超えよ 自立的政治への一歩」から
新聞はほとんど毎日(普天間基地の移設問題について)「日米同盟の危機」、「アメリカの対日不信」といった見出しが躍っている。(中略)日本のメディアは、「アメリカを怒らせてはたいへんだ」とばかり連日大騒ぎし、「危機」を言い立てて鳩山政権に圧力をかけている。
自民党の政治家たちがそう言うのならまだわかる。自民党は一貫して「日米関係」を基軸として日本の政治を仕切ってきた党であり、「対米従属」はその命綱だったからだ。けれどいま、自民党に代わって「警鐘」を打ち鳴らすのはメディアだ。(中略)まだ自民党の時代が続いていると勘違いして、「体制」の代弁をしているつもりなのか。時代が変わるのに抗うかのように、鳩山首相を「決断できない」と批判し、「連立と日米同盟のどちらをとるのか」とまで迫る剣幕だ。この基調は読売、サンケイ、日経は言うに及ばず、朝日までほとんど変わらない。まるで日本のメディアはアメリカ・タカ派の代弁者か、その幇間(ほうかん)のようである。
第二世代(第一世代は岸信介ら)以降の政治家にとって「対米依存」が日本政治の所与の構造として作られていた。アメリカは、庇護してくれる「自由世界」の盟主であり、ヒーローであり、見習って身を正すべき手本である。だから彼らはアメリカ傘下の「優等生」であろうと努め、アメリカに気に入られることを誇りさえするようになる。そうなると、「従属」は、もはややむを得ぬ手段ではなく、喜んで受け入れ、進んで担われる枠組みになる。この「自発性」(自由)」とは区別されない「従属」、それを「自発的隷従」という。
現在のメディアは「自発的隷従」の増幅器に成り下がっている。かつて日本経済がアメリカ市場に依存しきっていた頃、「アメリカがくしゃみをすると日本は肺炎にかかる」と言われたが、いまでも、アメリカが咳払いすると日本は震え上がると、彼らは思いこんでいるようだ。
先回の選挙で民意ははっきりと「チェンジ」を求めた。つまり新政権の路線転換は民意(とりわけ沖縄の民意)に支えられたものである。(中略)何の権限があってメディアは、民意の無視を政府に要求することができるのか。この国でいまメディアはデモクラシーを虚仮にしているのだ。
〈安原の感想〉 ― メディアは反論しなくていいのか?
寺島氏は、メディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」について指摘している。奴顔とは、「自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな表情」を指している。いいかえれば奴隷の表情ということだろう。
一方、西谷氏は、現在のメディアは「自発的隷従」の増幅器に成り下がっている、とまで言い切っている。「自発的隷従」とは、「自発性」(自由)」とは区別されない「従属」の姿勢を指しているそうで、これも誤解を恐れずに言えば、「自発的奴隷」と表現し直すこともできるのではないか。
ご両人がここまで切り込んでくるからには、現在のメディアの存在価値そのものに根底から不信感を抱いていると観るほかないだろう。しかも西谷氏は、この国ではメディアはデモクラシーを虚仮(こけ)にしている、と断じている。この筆法を借用すれば、メディア自身が虚仮にされているのだ。現役の記者諸君、これに毅然と反論しなくていいのか?
▽ 琉球新報社説「脱軍事の地平開く元年に」が光っている
大手紙が概して「安保体制擁護」の不甲斐ない論調に終始しているのに比べると、沖縄のメディアの批判的姿勢は光っている。ここでは沖縄の琉球新報社説(1月18日付)の大要を紹介する。
安保改定50年 脱軍事の地平開く元年に 住民の敵意招かぬ賢明さを(見出し)
日米安保をどうするか。日米安保だけでいいのか。国民論議を尽くし重層的な安保を確立し「平和国家日本」の真価を示す時だ。
誰を何から守るのか(小見出し)
「安保の負担は沖縄に、受益は国民全体で」という状況が構造化している。安保の目的は何か。誰を何からどう守るのか。本質的な議論をしっかり行いたい。
現行安保は、第5条の米国による日本防衛義務、第6条の米国への日本の基地提供義務が注目されがちだが、第1条で「国際連合を強化」、第2条で「経済的協力を促進」をうたうなど、本来は「日米軍事同盟」一色ではない。
条約前文は「平和、友好関係の強化」「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護」もうたう。
しかし、運用実態は「軍事偏重」「沖縄の過重負担」であり、インド洋への海上自衛隊派遣に象徴されるように憲法上の疑義がある。民主主義や法の支配のうたい文句が泣く。
昨秋、琉球新報社が実施した世論調査では、米軍の日本駐留を定めた安保条約について4割強が「平和友好条約に改めるべきだ」と答えた。米軍基地提供のよりどころである安保「維持」は17%弱。「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強、「破棄すべき」は10%強だった。
県民は「反軍・反基地」感情を抱えながらも、米国との敵対ではなく、安保見直しを通してより良い関係を希求している。
鳩山由紀夫首相とオバマ米大統領は「変革」を旗印とし、従来の政権にも増して民主主義、人権、国際協調を重視する姿勢が鮮明だ。
両首脳は「核なき世界」の実現や温室効果ガス削減という難題に果敢に挑戦している。その2人が沖縄問題の一つ「普天間の早期撤去」で英断を下せぬはずがない。
日米中に大きな責任(小見出し)
国際社会は核拡散やテロ根絶など軍事的課題だけでなく、感染症や飢餓・貧困、食料危機、エネルギー危機、人権問題など多様な安全保障問題に直面している。むしろ軍事力では解決できない安全保障の課題の比重が増している。
こうした中、日米両政府の発想は旧態依然とし軍事に比重を置きすぎていないか。この20年余国防費が2けたの伸びを見せる中国を、警戒するのは不自然ではない。だからといって日米が中国の「脅威」をあおり軍事的に対抗するというなら、それは短絡的だ。
日米中の3国は、経済、外交、安全保障各面における総合的な影響力から、人類全体の持続的発展に大きな責任と役割を負っている。日米中が軍事的な緊張・敵対関係に陥り、世界全体の「平和と繁栄の危機」を招いてはならない。
力を頼みにした安保政策で市民の安全を保障し、経済社会の持続的な発展を保障するのは不可能だ。日米で政権が交代した今、軍事偏重安保を根本的に見直す好機だ。
従来の「対米追従」とは決別すべきだ。憲法9条を持つ「平和国家」、唯一の被爆国として日本に期待されるのは、ODA(政府開発援助)など非軍事面の貢献であり、核廃絶や軍縮の推進役であろう。
安保50年を日米が協調し、より積極的な予防外交や日米を含む多国間安全保障の実現、「人間の安全保障」(注)の定着に踏み出す、新しい安全保障の元年としたい。
(注)人間の安全保障とは、従来の軍事力中心の安全保障とは異質の安全保障観で、環境破壊、人権侵害、難民、貧困など人間の生存、生活、尊厳への脅威に対する取り組みの強化を目指している。米ソ冷戦の終結に伴って国連開発計画(UNDP)が『人間開発報告』で打ち出した。資料は「人間の安全保障委員会」編『安全保障の今日的課題――人間の安全保障委員会報告書』(朝日新聞社、2003年)など。
〈安原の感想〉 ― 軍事偏重安保を根本的に見直す好機
「日米で政権が交代した今、軍事偏重安保を根本的に見直す好機だ」という主張には同感である。
もう一つ、昨秋、琉球新報社が実施した「日米安保条約に関する世論調査」の結果にも注目したい。その内容はつぎの通り。
・4割強が「平和友好条約に改めるべきだ」
・米軍基地提供のよりどころである安保「維持」は17%弱。
・「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強
・「破棄すべき」は10%強
世論調査結果の中で特に「平和友好条約に改めるべきだ」が4割強にも上っている点に注目したい。ここから「現行の軍事偏重安保を根本的に見直す」方向として「平和友好条約に改める」ことが展望できるのではないか。
▽ 日米安保を平和友好条約に変革するとき
現行日米安保条約を平和友好条約に変革するうえで上述の琉球新報社説は示唆に富んでいる。まず新しい平和友好条約に盛り込むべき具体的な柱が現行安保条約にすでに規定されているという点を指摘したい。同社説の中のつぎの2点を挙げることができる。
*日米安保条約第1条で「国際連合を強化」、第2条で「経済的協力を促進」をうたうなど、本来は「日米軍事同盟」一色ではない。
*条約前文は「平和、友好関係の強化」「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護」もうたっている。
以上から国連重視主義に立つ平和友好条約という特質が浮かび上がってくる。当然2国間軍事同盟という時代遅れの同盟は無用であり、在日米軍基地も全面的に撤去しなければならない。
上記の2点のほかに平和友好条約には琉球新報社説が指摘している以下のキーワードも取り込むのが望ましい。目指すべき基本目標は、「人類の持続的発展への責任」、「人間の安全保障の推進」であり、その具体的な柱は「核なき世界」の実現、軍縮推進、核不拡散、テロ根絶、地球温暖化防止、感染症・飢餓・貧困への対策、食料・エネルギー危機への対応、ODA(政府開発援助)など非軍事面の貢献 ― などである。
問題は平和友好条約への参加国を日米2カ国に限定するか、あるいはもっと拡大するかである。ここで石橋湛山元首相が日米安保改定の翌1961年に唱えた「日中米ソ平和同盟」構想を想起したい。これは日米安保を中国、ソ連(当時)にも拡大し、多国間安全保障条約に変質させる構想であった。当時のフルシチョフソ連首相は「原則的には全面的に賛成」と回答し、周恩来中国総理は「私も以前から同じことを考えていた。中国はよいとしても、米国が問題でしょう」と指摘した旨、石橋元首相は回想している。
平和友好条約は日米2国間よりも多国間の方が望ましいだろう。多国間安保構想は、上述の琉球新報社の世論調査にみる声、〈「米国を含む多国間安保条約に改める」15%強〉と重なってくる。
いずれにしても琉球新報社説のつぎの認識を共有したいと考える。
*力を頼みにした安保政策で市民の安全を保障し、経済社会の持続的な発展を保障するのは不可能だ。
*従来の「対米追従」とは決別すべきだ。
*軍事力では解決できない安全保障の課題の比重が増している。
以上のような視点が大手新聞社説に欠落しているのは残念というほかない。戦争のための暴力装置である軍事同盟を土台にして、「同盟の深化」を唱えるのは、しょせん一時的な糊塗策でしかないことを指摘したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
「小さな国の大きな智慧」に学ぶとき
安原和雄
イラクへの軍事侵攻は米国にとって一体何をもたらしたか。イラク民主化の美名に隠された軍事侵攻の本音は、イラクの豊富な石油資源の確保にあったが、その思惑は外れ、挫折した。このことは軍事力行使によって石油資源を確保し、石油浪費経済の維持を図ろうとする「古いシナリオ」はもはや「変革の21世紀」にはふさわしくないことを物語っている。
今こそ中米の小国、コスタリカが実践しつつある「小さな国の大きな智慧」に学ぶときではないか。コスタリカは憲法改正によって軍隊を廃止し、反戦・平和路線を維持しているだけではない。温暖化対策にも熱心で、温暖化効果ガスの排出量ゼロを目指す国造りに取り組んでいる。世界における平和・環境のモデル国、コスタリカにもっと大きな関心を寄せたい。(2010年1月14日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ “石油戦争”の勝者はイラク国民
イラクにおける「石油戦争」にまつわる興味深い記事を紹介したい。中東ジャーナリスト、坂井定雄氏の「“石油戦争”の勝者はイラク国民」と題する記事(護憲・軍縮・共生を目指すインターネット上の市民メディア「リベラル21」に2010年1月10日付掲載)で、その大要は以下の通り。
2003年、ブッシュ政権の米国が開始したイラク戦争に対して、世界中の反戦デモは「No War for Oil !」を叫んだ。その通り、米軍のイラク占領後、さっそく米系メジャーが巨大な未開発石油資源の独占的開発権を狙って、バグダッドに押し寄せてきた。しかし、まもなく始まった反米武装勢力の攻撃・テロの激化で、米系メジャーは素早く撤退した。
それから6年半。治安も改善、政治体制もほぼ安定するなかで、09年6月、イラク戦争後、最初の小規模な新規油田開発の入札が行われ、皮肉にも米系メジャーではなく、中国国営石油公司(CNPC)との間で調印された。
そして、12月、イラク石油省は、世界最大規模の3油田を含む10の油田の新規開発・拡張プロジェクトの本格的国際入札を行い、以下のような契約が決定、調印された。
*英国シェルとマレーシア・ペトロナスの企業連合とのマジュヌーン油田開発=確認埋蔵量126億バレル、日産180万バレルが目標。
*中国のCNPC中心の企業連合とのファルファヤ油田開発=確認埋蔵量41億バレル、日産53.4万バレルが目標。
*ロシアのルクオイルとノルウエーの企業との西クルナ2油田開発=確認埋蔵量129億バレル、日産180万バレルが目標。
*日本の石油資源開発とペトロナスの企業連合との南部ガラフ油田計画=日産23万バレルが目標。
イラク石油省は、2回目の大規模入札を予定しており、6年後にはイラクの原油生産は日産700万バレルに達する計画だ。世界第3位の埋蔵量を持つイラクは、原油生産量でも世界1、2位のサウジアラビア、ソ連に迫ることになる。
宗派間抗争に加え、石油権益争いも大きな不安材料だが、石油開発の推進は国民的合意である。国際的入札で中国はじめアジア諸国やロシアが積極的に参加、契約調印したことにより、イラク政府は自主性、公開性を国民に示せたと自信を持った。石油戦争の勝者はイラク国民だった、といえよう。貧困対策、水道、電気はじめ生活インフラの改善など、石油の富を国民が実感できる施策を確実に実施できるかどうかが、プロジェクトを進めるカギになるだろう。
▽ 軍事力に頼る石油浪費経済に未来はない
もう一つ、以下のようなタイトルの私(安原)の記事を紹介する。
軍事力に頼る石油浪費経済に未来はない
今こそ「小さな国の大きな智慧」に学ぶとき
この記事は、『週刊 金曜日』(03年1月31日号)の連載記事「安原和雄の経済私考」欄に掲載されたもので、内容は以下の通り。
「日米運命共同体」がしきりに喧伝されたのは、1980年代の中曽根政権のときではなかったか。海上自衛隊のイージス艦(最新の艦隊防空用ミサイル護衛艦)の出航光景をテレビで見ながら、そのことを思い出していた。
インド洋へのイージス艦派遣は、アメリカがイラク攻撃を始めれば、それを支援するのが目的である。イラク攻撃の真の狙いは何か。「フセイン・イラク大統領を追放し、民主的政権を樹立させる」というブッシュ米大統領の意図の裏には石油がからんでいる。それをうかがわせるデータ、「主要石油産出国の石油の埋蔵量と採掘可能年数」(1999年、埋蔵量の単位=100万㌔㍑)を紹介したい。なお下記の数字は左欄が石油埋蔵量、右欄が採掘可能年数である。
サウジアラビア=41,499 ― 96.0
イラク =17,888 ―116.2
イラン =14,262 ― 71.0
ロシア = 7,723 ― 22.5
中国 = 3,816 ― 20.5
アメリカ = 3,344 ― 9.6
ここで注目すべきことは、イラクの石油埋蔵量が多いだけでなく、採掘可能年数が現在の採掘ペースを前提に計算すると、世界で一番長く、100年を超えていることである。一方、アメリカでの採掘可能年数はわずかに10年程度でしかない。
石油に関連してもう一つ、ブッシュ政権誕生直後にアメリカは地球温暖化防止のための京都議定書(97年12月採択)から一方的に離脱したことは周知の事実である。京都議定書の精神を守ることは石油浪費経済の抑制につながる。これに反し、京都議定書を拒否したことは、アメリカ流の石油浪費経済を今後とも持続させること、さらにそれに必要な石油を確保し、支配する意思があることを世界に向けて宣言したものと受け止めざるを得ない。こういう脈絡で見れば、石油埋蔵量、採掘可能年数ともにイラクはアメリカにとってまさに垂涎の的(すいぜんのまと)であるに違いない。
そこでアメリカの意のままにならないフセイン・イラク大統領を軍事力で追放するというシナリオが浮かび上がってくる。いいかえれば軍事力による石油確保と石油浪費経済の維持というカビの生えた古いシナリオである。日本がイラク攻撃を支援する含みでイージス艦を派遣したことは、日米運命共同体のパートナーとしてこのシナリオの実現に一肌脱ぐことを意味する。改めて指摘するまでもなく、日本は石油の9割近くを中東諸国に依存している。
しかし軍事力を振り回して石油浪費経済を維持するという路線は歴史の大道に沿った正しい選択といえるだろうか。答えは明らかに否である。21世紀の道理に合った選択は、地球環境の保全、石油浪費経済からの脱却、軍事力に頼らない平和の確立 ― 以外にはあり得ない。この3本柱の道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある。
孤立を避けたいなら、今こそ小国に学ぶときであることを強調したい。私は新年早々、「コスタリカに学び、平和をつくる会」の訪問団の一人としてコスタリカを訪ね、ジャーナリストたちと対話する機会を得た。「イラクへの攻撃と日本の選択についてどう考えるか」という質問にこう答えてくれた。「日本の賢明な選択を期待したい」と。これは日米軍事同盟が存在していても、アメリカに追随しない平和路線の選択が可能なはずだという趣旨である。
コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊制度を廃止し、平和教育の徹底と自然環境の保全、いいかえれば石油浪費経済とは無縁の政策に国を挙げて取り組んできたユニークな実績がある。「小さな国の大きな智慧」と評価したい。ここに日本再生のヒントを求めることはできないか。
▽ 石油確保の思惑外れたアメリカの軍事侵攻 ― 世界の中で孤立
上述の2つの記事を今、重ね合わせて読んでみて私(安原)は共感を覚えると同時に感慨深い思いに駆られている。
その一つは、アメリカのイラク軍事侵攻の真の目的であった石油確保が思惑外れとなり、失敗に終わっていることである。坂井氏の記事「“石油戦争”の勝者はイラク国民」がそれを示している。
私は『週刊 金曜日』(03年1月31日号)掲載の記事につぎのように書いた。アメリカがイラク攻撃を始めたのは、03年3月20日で、その2か月前のことである。
アメリカの意のままにならないフセイン・イラク大統領を軍事力で追放するというシナリオが浮かび上がってくる。いいかえれば軍事力による石油確保と石油浪費経済の維持というカビの生えた古いシナリオである ― と。
この「カビの生えた古いシナリオ」がそのまま実現するようでは、この世に神も仏も存在しないという始末となるが、それが挫折していることは、慶賀に値するといえる。
さらにつぎのようにも書いた。
軍事力を振り回して石油浪費経済を維持するという路線は歴史の大道に沿った正しい選択といえるだろうか。答えは明らかに否である。21世紀の道理に合った選択は、地球環境の保全、石油浪費経済からの脱却、軍事力に頼らない平和の確立―以外にはあり得ない。この3本柱の道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある ― と。
ここで強調したいのは「道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある」という指摘である。この予感も数年を経て否定しがたい現実となった。だからこそ道理を踏み外し、孤立を深めていたブッシュ米大統領が退陣に追いつめられ、変革(チェンジ)を旗印として掲げるオバマ米大統領の登場となるほかなかった。歴史の変化は速い。そこに共感と感慨を覚えないわけにはいかない。
▽ 「小さな国の大きな智慧」に学ぶとき ― 日本・コスタリカ同盟を
私(安原)は上述の『週刊 金曜日』(03年1月)掲載の記事でつぎのようにも指摘した。
コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊制度を廃止し、平和教育の徹底と自然環境の保全、いいかえれば石油浪費経済とは無縁の政策に国を挙げて取り組んできたユニークな実績がある。「小さな国の大きな智慧」と評価したい。ここに日本再生のヒントを求めることはできないか ― と。
その中米の小国・コスタリカが大手紙でも大きく取り上げられるようになった。毎日新聞(2010年元旦)は正月特集「生命の宝庫 中米・コスタリカ」を3頁にわたって組んでいる。さらに1月11日付で環境特集「生命の宝庫~コスタリカの挑戦」は「森林保護へ報奨金 20年で国土の5割に回復」、「ホルヘ・ロドリゲス環境エネルギー相に聞く」を載せている。
コスタリカは環境対策では世界の最先端を走っている国で、温暖化効果ガスの削減目標として「2021年までに排出量ゼロ」を表明している。「環境エネルギー相に聞く」の内容を以下に紹介する。
森林が失われると水源も守れず、水が不足し、水質も悪化する。国民の健康や生活、産業活動に悪影響を及ぼす。自然保護に消極的だった国では今、水不足と温暖化の影響で深刻な事態が起こりつつある。コスタリカは80年代半ば、国連食糧農業機関(FAO)や世界銀行、国際NGOからの忠告を受け入れ、森林政策を転換した。つまり「森林=木材」ではなく、エコツーリズムや水力発電を振興するための資源と位置付けた。
現在のコスタリカの二酸化炭素(CO2)排出量は年約800万トン。2021年までに(排出量を吸収量で相殺して実質ゼロにする)カーボンオフセット国家を目指している。環境技術を導入し、産業や交通部門からの排出を減らす。同時に森林による吸収を増やす。吸収量はほぼ目標に達した。企業の意識も高まっている。
昨年9月の国連気候変動サミットで、複数の首脳が温暖化対策はお金がかかりすぎると述べていた。アリアス・コスタリカ大統領は、世界の軍事費(注)の1%未満で対策はできると訴えた。お金の問題ではない。
(注)世界の軍事費は年間総額100兆円超で、うち約半分をアメリカ一国が占めている。日本の軍事費は5兆円弱である。
コスタリカの軍隊廃止や環境保全対策についてわが国では「小国だから可能だ」という根拠なき反論もあるが、そういう思いこみは捨てて、変革の時代だからこそ「小さな国の大きな智慧」にも学ぶときではないか。「日米同盟の深化」が民主党鳩山政権の合い言葉になっている。しかし21世紀の歴史の進む方向を洞察し、同盟を結ぶとすれば、日米軍事同盟に見切りをつけて、むしろ環境、平和を軸とする日本・コスタリカ同盟に転換するという選択肢もあり得る。日本国憲法9条の本来の理念、「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を国を挙げて実践しているのが実はコスタリカであり、それに学び、提携を進めることが智慧に富む選択といえよう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
イラクへの軍事侵攻は米国にとって一体何をもたらしたか。イラク民主化の美名に隠された軍事侵攻の本音は、イラクの豊富な石油資源の確保にあったが、その思惑は外れ、挫折した。このことは軍事力行使によって石油資源を確保し、石油浪費経済の維持を図ろうとする「古いシナリオ」はもはや「変革の21世紀」にはふさわしくないことを物語っている。
今こそ中米の小国、コスタリカが実践しつつある「小さな国の大きな智慧」に学ぶときではないか。コスタリカは憲法改正によって軍隊を廃止し、反戦・平和路線を維持しているだけではない。温暖化対策にも熱心で、温暖化効果ガスの排出量ゼロを目指す国造りに取り組んでいる。世界における平和・環境のモデル国、コスタリカにもっと大きな関心を寄せたい。(2010年1月14日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ “石油戦争”の勝者はイラク国民
イラクにおける「石油戦争」にまつわる興味深い記事を紹介したい。中東ジャーナリスト、坂井定雄氏の「“石油戦争”の勝者はイラク国民」と題する記事(護憲・軍縮・共生を目指すインターネット上の市民メディア「リベラル21」に2010年1月10日付掲載)で、その大要は以下の通り。
2003年、ブッシュ政権の米国が開始したイラク戦争に対して、世界中の反戦デモは「No War for Oil !」を叫んだ。その通り、米軍のイラク占領後、さっそく米系メジャーが巨大な未開発石油資源の独占的開発権を狙って、バグダッドに押し寄せてきた。しかし、まもなく始まった反米武装勢力の攻撃・テロの激化で、米系メジャーは素早く撤退した。
それから6年半。治安も改善、政治体制もほぼ安定するなかで、09年6月、イラク戦争後、最初の小規模な新規油田開発の入札が行われ、皮肉にも米系メジャーではなく、中国国営石油公司(CNPC)との間で調印された。
そして、12月、イラク石油省は、世界最大規模の3油田を含む10の油田の新規開発・拡張プロジェクトの本格的国際入札を行い、以下のような契約が決定、調印された。
*英国シェルとマレーシア・ペトロナスの企業連合とのマジュヌーン油田開発=確認埋蔵量126億バレル、日産180万バレルが目標。
*中国のCNPC中心の企業連合とのファルファヤ油田開発=確認埋蔵量41億バレル、日産53.4万バレルが目標。
*ロシアのルクオイルとノルウエーの企業との西クルナ2油田開発=確認埋蔵量129億バレル、日産180万バレルが目標。
*日本の石油資源開発とペトロナスの企業連合との南部ガラフ油田計画=日産23万バレルが目標。
イラク石油省は、2回目の大規模入札を予定しており、6年後にはイラクの原油生産は日産700万バレルに達する計画だ。世界第3位の埋蔵量を持つイラクは、原油生産量でも世界1、2位のサウジアラビア、ソ連に迫ることになる。
宗派間抗争に加え、石油権益争いも大きな不安材料だが、石油開発の推進は国民的合意である。国際的入札で中国はじめアジア諸国やロシアが積極的に参加、契約調印したことにより、イラク政府は自主性、公開性を国民に示せたと自信を持った。石油戦争の勝者はイラク国民だった、といえよう。貧困対策、水道、電気はじめ生活インフラの改善など、石油の富を国民が実感できる施策を確実に実施できるかどうかが、プロジェクトを進めるカギになるだろう。
▽ 軍事力に頼る石油浪費経済に未来はない
もう一つ、以下のようなタイトルの私(安原)の記事を紹介する。
軍事力に頼る石油浪費経済に未来はない
今こそ「小さな国の大きな智慧」に学ぶとき
この記事は、『週刊 金曜日』(03年1月31日号)の連載記事「安原和雄の経済私考」欄に掲載されたもので、内容は以下の通り。
「日米運命共同体」がしきりに喧伝されたのは、1980年代の中曽根政権のときではなかったか。海上自衛隊のイージス艦(最新の艦隊防空用ミサイル護衛艦)の出航光景をテレビで見ながら、そのことを思い出していた。
インド洋へのイージス艦派遣は、アメリカがイラク攻撃を始めれば、それを支援するのが目的である。イラク攻撃の真の狙いは何か。「フセイン・イラク大統領を追放し、民主的政権を樹立させる」というブッシュ米大統領の意図の裏には石油がからんでいる。それをうかがわせるデータ、「主要石油産出国の石油の埋蔵量と採掘可能年数」(1999年、埋蔵量の単位=100万㌔㍑)を紹介したい。なお下記の数字は左欄が石油埋蔵量、右欄が採掘可能年数である。
サウジアラビア=41,499 ― 96.0
イラク =17,888 ―116.2
イラン =14,262 ― 71.0
ロシア = 7,723 ― 22.5
中国 = 3,816 ― 20.5
アメリカ = 3,344 ― 9.6
ここで注目すべきことは、イラクの石油埋蔵量が多いだけでなく、採掘可能年数が現在の採掘ペースを前提に計算すると、世界で一番長く、100年を超えていることである。一方、アメリカでの採掘可能年数はわずかに10年程度でしかない。
石油に関連してもう一つ、ブッシュ政権誕生直後にアメリカは地球温暖化防止のための京都議定書(97年12月採択)から一方的に離脱したことは周知の事実である。京都議定書の精神を守ることは石油浪費経済の抑制につながる。これに反し、京都議定書を拒否したことは、アメリカ流の石油浪費経済を今後とも持続させること、さらにそれに必要な石油を確保し、支配する意思があることを世界に向けて宣言したものと受け止めざるを得ない。こういう脈絡で見れば、石油埋蔵量、採掘可能年数ともにイラクはアメリカにとってまさに垂涎の的(すいぜんのまと)であるに違いない。
そこでアメリカの意のままにならないフセイン・イラク大統領を軍事力で追放するというシナリオが浮かび上がってくる。いいかえれば軍事力による石油確保と石油浪費経済の維持というカビの生えた古いシナリオである。日本がイラク攻撃を支援する含みでイージス艦を派遣したことは、日米運命共同体のパートナーとしてこのシナリオの実現に一肌脱ぐことを意味する。改めて指摘するまでもなく、日本は石油の9割近くを中東諸国に依存している。
しかし軍事力を振り回して石油浪費経済を維持するという路線は歴史の大道に沿った正しい選択といえるだろうか。答えは明らかに否である。21世紀の道理に合った選択は、地球環境の保全、石油浪費経済からの脱却、軍事力に頼らない平和の確立 ― 以外にはあり得ない。この3本柱の道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある。
孤立を避けたいなら、今こそ小国に学ぶときであることを強調したい。私は新年早々、「コスタリカに学び、平和をつくる会」の訪問団の一人としてコスタリカを訪ね、ジャーナリストたちと対話する機会を得た。「イラクへの攻撃と日本の選択についてどう考えるか」という質問にこう答えてくれた。「日本の賢明な選択を期待したい」と。これは日米軍事同盟が存在していても、アメリカに追随しない平和路線の選択が可能なはずだという趣旨である。
コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊制度を廃止し、平和教育の徹底と自然環境の保全、いいかえれば石油浪費経済とは無縁の政策に国を挙げて取り組んできたユニークな実績がある。「小さな国の大きな智慧」と評価したい。ここに日本再生のヒントを求めることはできないか。
▽ 石油確保の思惑外れたアメリカの軍事侵攻 ― 世界の中で孤立
上述の2つの記事を今、重ね合わせて読んでみて私(安原)は共感を覚えると同時に感慨深い思いに駆られている。
その一つは、アメリカのイラク軍事侵攻の真の目的であった石油確保が思惑外れとなり、失敗に終わっていることである。坂井氏の記事「“石油戦争”の勝者はイラク国民」がそれを示している。
私は『週刊 金曜日』(03年1月31日号)掲載の記事につぎのように書いた。アメリカがイラク攻撃を始めたのは、03年3月20日で、その2か月前のことである。
アメリカの意のままにならないフセイン・イラク大統領を軍事力で追放するというシナリオが浮かび上がってくる。いいかえれば軍事力による石油確保と石油浪費経済の維持というカビの生えた古いシナリオである ― と。
この「カビの生えた古いシナリオ」がそのまま実現するようでは、この世に神も仏も存在しないという始末となるが、それが挫折していることは、慶賀に値するといえる。
さらにつぎのようにも書いた。
軍事力を振り回して石油浪費経済を維持するという路線は歴史の大道に沿った正しい選択といえるだろうか。答えは明らかに否である。21世紀の道理に合った選択は、地球環境の保全、石油浪費経済からの脱却、軍事力に頼らない平和の確立―以外にはあり得ない。この3本柱の道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある ― と。
ここで強調したいのは「道理を踏み外した大国は、遠からず世界の中で孤立を深めていくほかないという予感がある」という指摘である。この予感も数年を経て否定しがたい現実となった。だからこそ道理を踏み外し、孤立を深めていたブッシュ米大統領が退陣に追いつめられ、変革(チェンジ)を旗印として掲げるオバマ米大統領の登場となるほかなかった。歴史の変化は速い。そこに共感と感慨を覚えないわけにはいかない。
▽ 「小さな国の大きな智慧」に学ぶとき ― 日本・コスタリカ同盟を
私(安原)は上述の『週刊 金曜日』(03年1月)掲載の記事でつぎのようにも指摘した。
コスタリカは1949年の憲法改正で軍隊制度を廃止し、平和教育の徹底と自然環境の保全、いいかえれば石油浪費経済とは無縁の政策に国を挙げて取り組んできたユニークな実績がある。「小さな国の大きな智慧」と評価したい。ここに日本再生のヒントを求めることはできないか ― と。
その中米の小国・コスタリカが大手紙でも大きく取り上げられるようになった。毎日新聞(2010年元旦)は正月特集「生命の宝庫 中米・コスタリカ」を3頁にわたって組んでいる。さらに1月11日付で環境特集「生命の宝庫~コスタリカの挑戦」は「森林保護へ報奨金 20年で国土の5割に回復」、「ホルヘ・ロドリゲス環境エネルギー相に聞く」を載せている。
コスタリカは環境対策では世界の最先端を走っている国で、温暖化効果ガスの削減目標として「2021年までに排出量ゼロ」を表明している。「環境エネルギー相に聞く」の内容を以下に紹介する。
森林が失われると水源も守れず、水が不足し、水質も悪化する。国民の健康や生活、産業活動に悪影響を及ぼす。自然保護に消極的だった国では今、水不足と温暖化の影響で深刻な事態が起こりつつある。コスタリカは80年代半ば、国連食糧農業機関(FAO)や世界銀行、国際NGOからの忠告を受け入れ、森林政策を転換した。つまり「森林=木材」ではなく、エコツーリズムや水力発電を振興するための資源と位置付けた。
現在のコスタリカの二酸化炭素(CO2)排出量は年約800万トン。2021年までに(排出量を吸収量で相殺して実質ゼロにする)カーボンオフセット国家を目指している。環境技術を導入し、産業や交通部門からの排出を減らす。同時に森林による吸収を増やす。吸収量はほぼ目標に達した。企業の意識も高まっている。
昨年9月の国連気候変動サミットで、複数の首脳が温暖化対策はお金がかかりすぎると述べていた。アリアス・コスタリカ大統領は、世界の軍事費(注)の1%未満で対策はできると訴えた。お金の問題ではない。
(注)世界の軍事費は年間総額100兆円超で、うち約半分をアメリカ一国が占めている。日本の軍事費は5兆円弱である。
コスタリカの軍隊廃止や環境保全対策についてわが国では「小国だから可能だ」という根拠なき反論もあるが、そういう思いこみは捨てて、変革の時代だからこそ「小さな国の大きな智慧」にも学ぶときではないか。「日米同盟の深化」が民主党鳩山政権の合い言葉になっている。しかし21世紀の歴史の進む方向を洞察し、同盟を結ぶとすれば、日米軍事同盟に見切りをつけて、むしろ環境、平和を軸とする日本・コスタリカ同盟に転換するという選択肢もあり得る。日本国憲法9条の本来の理念、「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を国を挙げて実践しているのが実はコスタリカであり、それに学び、提携を進めることが智慧に富む選択といえよう。
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自然と共生、脱原発、持続可能な社会
安原和雄
新聞やテレビは連日、民主党連立政権にかかわるニュースであふれているが、その陰で日本の「新しい国づくり」の姿を描きながら地道な活動を続けている市民組織の存在にも目を向けたい。それは日本版「緑の党」づくりを目指す市民組織「みどりの未来」で、政策目標として持続可能な社会への変革を柱に自然との共生、脱石油・脱原発、脱クルマ・公共交通充実、防衛省解体・平和省創設、小選挙区制の廃止 ― などを掲げている。
国政レベルで発言力を高めているヨーロッパの「緑の党」に比べれば、「みどりの未来」はまだ地方自治体議員にとどまっているが、政策目標から見るかぎり、将来性は期待できる。二大政党制を絶対視しないためにも少数政党の存在価値を重視し、多様な選択肢を確保したい。(2010年1月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 市民組織「みどりの未来」とその「6つの政策」
市民組織「みどりの未来」は、「みどりの政治理念」として以下のような「6つの政策目標」を掲げている。それぞれのイメージ、目標について若干の説明を加えたい。
*エコロジカルな知恵(Ecological Wisdom)=世界のすべてはつながり影響しあっている・・・知恵のあるライフスタイルとスローな日本へ! ― 自然との共生、少欲知足、ゼロ成長、スロー・スモール・シンプル、土地は子孫からの借り物など
*社会正義(Social Justice)=「一人勝ち」では結局幸せになれない・・・弱肉強食から脱却する思いやりの「政策」を! ― 反貧困、同一価値労働・同一賃金、雇用創出型ワークシェアリング、労働時間短縮・バカンス法、国際連帯税(トービン税)など
*参加型民主主義(Participatory Democracy)=納得できる政治参加・・・利権・腐敗をなくし、一人ひとりの元気と幸せのためのプロセスを! ― 納税者主権、子どもの政治参加、小選挙区制の廃止、地方選挙までの比例代表制、企業団体献金の全面禁止など
*非暴力(Non-Violence)=誰にも殺されたくない、殺したくない・・・戦争に至らない具体的な仕組みを提案・実現する! ― 丸腰国家、防衛省の解体・平和省の創設、脱軍需産業、東アジア非核平和構想、WTO・IMF体制の解体など
*持続可能性(Sustainability)=脱石油、脱原発、脱ダム・・・子どもたちの未来と自然環境を食いつぶすシステムから脱却を! ― 低炭素社会、食・エネルギー・ケアの地産地消、自然エネルギーの固定価格買取制度、遺伝子組み換え反対、脱クルマ・公共交通の充実など
*多様性の尊重(Respect for Diversity)=私の知らない苦しみがある・・・「誰もが幸せになる権利」を尊重する生きやすく楽しい社会を! ― 多宗教共存、多文化共生・多様性保障の教育推進、先住民(アイヌなど)の権利、障害者権利条約、外国人労働者の権利擁護など
海外における「緑の党」の現状をみると、欧州では例えばドイツでは昨09年9月の連邦議会(下院=基本定数598)総選挙で90年連合・緑の党は得票率10.7%、68議席で、前回の得票(8.1%、51議席)をかなり上回った。一方、オセアニア(大洋州)ではオーストラリア、ニュージーランドで活発な活動を展開しており、「緑の党」の声を無視しては政治ができないという評価もある。
日本では目下のところ国政レベルの議員はいないが、地方自治体では活動が広がりつつある。
▽ 対談「持続可能な社会へシフトチェンジを」
その市民組織「みどりの未来」の最新のニュースレター「MIDORI STYLE」(2010年1月1日付)は、鎌仲ひとみさん(映像作家、注1)と稲村和美さん(「みどりの未来」共同代表、注2)の対談を掲載している。テーマは「持続可能な社会へシフトチェンジを」となっている。
(注1)鎌仲ひとみさんはフリーの映像作家。テレビ番組を多数監督した。受賞も多い。ドキュメンタリー映画最新作「ミツバチの羽音と地球の回転」は5月に公開される。自然エネルギーを模索し、地域で格闘している人々との出会いを求めて、カメラは未来へのヒント・希望を探る。
(注2)稲村和美さんは1972年生まれ、神戸大学大学院修士課程修了。阪神淡路大震災で市民派市議と出会い、尼崎市議会会派スタッフに。さらに証券会社勤務、尼崎市長選挙スタッフなどを経て、現在兵庫県議会議員(03年~)。
対談の大要を以下に紹介する。
(1)自然との共生、エネルギー・シフト
稲村:映画のタイトルの「ミツバチの羽音と地球の回転」、これはどういう想いを込められたんですか。
鎌仲:ミツバチは花をまったく壊さずに蜜を採っていき、花は受粉します。自然と人間も、そうした関係でなくちゃいけない。自然と共生するライフスタイルを実践する存在に自らなることが大事です。蜜ももらうけれども、受粉もする。そういう関係性は、今私たちの生きている社会や文明のあり方とは逆なんですよね。経済成長の根本に、環境破壊や第三世界からの搾取があるわけです。ですから「自分自身を持続可能な存在に変えていくこと」と、地球全体を見る視点との両方を持つ映画にしたかった。「これからはそうでなくちゃね」といった提案をしたくて、こういうタイトルにしました。
稲村:「環境を守ろう」というと、「いろんなことを我慢しないといけない」、「利便性が失われる」といった、ネガティブな反応がまだ根強いですよね。でも今「みどり」というキーワードのもとに集まっている私たちは、「自然と共生する生き方って、実は私たちにとってもいいことじゃない?」、「自然を貪(むさぼ)り蹂躙(じゅうりん)してきて、同時に私たち自身もいろんなものを失ってきたんじゃない?」、そのことをもっとうまく伝えていきたいと感じています。
鎌仲:この映画の大切なテーマは「エネルギー・シフト」なんです。すでに55基もあるのに、みんな「原発を作るのは仕方ない」と思っている。その流れをどう変えていくか。原発に頼らない、総合的で長期的な考え方のできる情報、視点を提示できたらいいなと思っています。
今回取材したスウェーデンでは、本気でやらなければ子どもや孫たちが生きていく上で大変な危ない事態になる、生活の質がだめになっていくという意識を国民が共有しています。日本では「電力会社が電気を作ってくれるから、自分たちは使えればそれでいい」と。
(2)自分たちの意思で社会が変わる
稲村:「自分たちにもかかわる問題なんだ」というリアリティを、どうやって伝えたり共有したりできるのかが、やはり大きな課題ですね。鎌仲さんは映画という効果的なツールを持っていて羨ましいと思います。
鎌仲:これを「道具」として使ってもらいたいわけです。私たちが依(よ)って立つ構造やシステムが否応なくこんな状況になっている。「じゃあこのシステムは誰が作ったの?」と見ていくと、誰かが作ったのかもしれないけど、それを支え続けているのは、例えば私たちが電力会社にただお金を払い続けていること、その問題に興味を持たないこと。「他のものがいい」、「こういうのは嫌だ」と思ったときに、その「支えている自分」に気づいて、じゃあ具体的にどういう行動ができるのだろう、と。「何ができるんですか?」という問いに対する「受け皿」をぜひ「みどりの未来」につくっていただきたいです。
稲村:まず第一歩は「知ってもらうこと」です。それと同時に、その問題に気づいたら「こんな道がある」、「こんな方法がある」ということがセットで提示されていないと、みんな目をそむけてしまうんです。問題を分かれば分かるほど当然、及び腰になることもあるんですよね。私は決して悲観はしていません。いろんなことを知り、感じた人たちから「じゃあ自分たちのライフスタイルで、できることから変えていこう」という動きは確実にあるし、ひとつずつ具体的な選択肢、チャレンジの紹介などもされるようになりました。
そして自分がライフスタイルを変えていくことと同時に、誰しもが与えられた、長い歴史の中でやっと勝ち得た「一票を投じる」という選択権をほったらかしにするなんて、何てもったいないんだろう、と思うんです。
鎌仲:衆議院選挙(09年8月)では投票率は何%だったのかしら。
稲村:高いと言われていますが、69%でした。お金のあるなしに関係なく、一票を持っているわけですから、それを使うことで世の中がもっと変えられる、自分たちが望む仕組みを自分たちがつくれると実感できることが大切ですよね。政治がもたらしているマイナスも大きいけれども、逆にこれをプラスに使ったときの威力も決して小さくはないんです。それと「自分たちの意思で何かが変わる」という手応えを感じる体験があまりにも少ないですよね。
阪神淡路大震災ではライフラインも何もかも全部止まってみんなが協力せざるを得ない。避難所では自分たちが決めたルールはみんな、こんなにきちんと守るんだ!と感動したんです。不便でプライバシーもない、エネルギーはもちろん、ないない尽くしの中で、すごく貴重な体験をさせてもらいました。非常事態でないときでも、この手応えを感じられるような社会にしたいと思いました。
(3)もうひとつの具体案を提示すること
鎌仲:現実の日本の政治を動かしているのは、「お金」だと思うんです。経済界が政治家に一番影響力を持っていて、国民のためというよりも、日本の経済を動かすためにやっていることの方が今までずっと大きかった。だから経済と政治が合体しているのをひとつひとつ引き離していかないといけないんです。
中国電力が上関原発を建てることで儲かる。すると雇用が生まれ税収が増え、自治体はその税金や寄付金、電源立地交付金という特別な税金を国からもらえる。「原発を建ててください」と言っているのはそういうわけです。だから反対を訴えるときは、「原発よりもっといいものがある」と、もうひとつの具体的な案を提示しないといけません。
稲村:ヨーロッパなどでは政府が別の道への誘導をかけていますよね。
鎌仲:そう。ドイツでは価格も提示して風力発電の電気を優先的に買うよう促していて、会社や市民セクターに風力発電所を建てようという流れができています。確実に返ってくると保証されているから、投資が動くわけですね。そこで得た税収を、今まで短期雇用や派遣だった労働者を終身雇用にするための社会保険税を補助する予算に充てることで、合わせて100万人近い人が雇用を得たんです。たった一つの制度を創出しただけで、それが目に見えると、国民は「よかった」と思うわけです。
「バック・キャスティング」という考え方があります。今の日本で55基ある原発をすぐにゼロにするのは無理ですけど、でも新しいものは建てない、古い原発は徐々に廃炉にし、その分の電気を使わない、あるいは自然エネルギーでやっていく方法を段階的に考えていくんです。
(4)政治への敷居を下げること
稲村:私たちも「一歩一歩こうした選択を積み重ねていけば、遠くにあった目標に近づいていくことにつながる」ということを、政策的にどう表現しようかと知恵を絞っているところです。
最後に「みどりの未来」にアドバイスをお願いできますか。
鎌仲:「世界を変えることはできない」とみんな思い込んでいるし、茶色の世界をオセロのようにいっぺんに100%「みどり」にすることはできない。でもそれぞれの地域に住んでいる人たちが同時多発的に、自分の根ざしている暮らしを「みどり」にしていくことで、変われる。世界を変えるのは地域を変えることだと思えば、もっと具体的になってくるし、みんなも参加しやすいんじゃないかな。
「みどりの未来」が、地域の中で政治と普通の人が触れあう、カフェみたいな場所をつくっていくことも重要ではないか。子連れで来られるような「場」です。「みどりの未来」が開くカフェは、政治への敷居を下げると思います。本当に具体的に地域に寄与したい、変えたい、良くしたいと思う人が政治家になって当たり前なんですから。「稲村さんがやっているんだったら、私にもできるかもしれない」と。
稲村:そうですよね。映画の完成、楽しみにしています。
▽ 日本版「緑の党」に成長するための必要条件
「みどりの未来」は日本版「緑の党」を目指してはいるが、まだ地方レベルの市民組織にとどまっている。同じニュースレター「MIDORI STYLE」(1月1日付)に大橋巨泉・元参院議員のつぎのような趣旨の一文が掲載されている。題して「民主圧勝もいいが、緑の党の議席のない国に未来なんてないも同然だ」で、「緑の党」が日本でも登場してくることを期待する一文となっている。
半世紀も経って、ようやく政権交代を為しとげた日本の民主主義は、まだまだやっと中学生というところなのだ。一番未熟なところは、いまだに緑の党に議席を与えたことがないことだ。こんな国は先進国では例外的である。環境問題に特に関心の高いヨーロッパでは、各国で2けたに近い得票率を得ている。
(中略)地球温暖化や汚染は着実に進んでいる。地球は限界に来ている。政治が未来を設計するものだとすれば、答えは明確に出ている ― と。
さて期待に応えて、日本版「緑の党」に成長するには何が必要だろうか。
冒頭で紹介したように市民組織「みどりの未来」の「6つの政策目標」は、民主党政権のマニフェスト(政権公約)に比べてよほど斬新であり、時代を先取りしていると言ってもいいだろう。鎌仲ひとみさんと稲村和美さんとの対談も、新鮮な感覚で彩られており、読んでいて、楽しい。これをどう生かしていくか。
対談の中のキーワードを私(安原)なりに引き出せば、以下のようである。
*自然との共生
*エネルギー・シフト(脱原発)
*「原発よりもっといいものがある」と、もうひとつの具体案を提示していくこと
*自分自身を持続可能な存在に変えていくこと
*地球全体を見る視点
*「嫌なこと」を「支えている自分」に気づくこと
*自分のライフスタイルを変えていくこと
*勝ち得た「一票を投じる」という選択権を大切にすること
*政治への敷居を下げること
*子連れで来られるカフェみたいな「場」をつくること
思いつくままに選んでみたら、キーワード「ベスト10」となった。いうまでもなくどれも重要で、正しいが、例えば「自然との共生」はもはや常識だし、「脱原発」への意識も広がりつつある。
ただ「脱原発」には原発推進グループの抵抗が根強い。朝日、毎日など大手紙(2010年1月7日付)は、「低炭素社会へ向けた原子力発電 ― 地球環境と日本のエネルギーを考える」核燃料サイクルシンポジウム(2月6日、東京商工会議所東商ホールで開催)に関する派手な広告を掲載した。片隅に小さい活字で「経済産業省 資源エネルギー庁」とうたっているところをみると、ここが主導するシンポジウムなのだろう。
上述の「ベスト10」のなかで「なるほど」と新鮮な印象を得たのは、もうひとつの具体案を提示していくこと、「嫌なこと」を「支えている自分」に気づくこと、子連れで来られるカフェみたいな「場」をつくること ― などである。
もはや「反対」「変革」を叫ぶだけでは対抗力としては弱い。もうひとつの具体案を提示していく提案力は今や不可欠といえよう。
つぎに「こんな嫌なことには反対」と思いながら、実はその嫌な構造を自分自身が支えていることに気づかないことが多い。自分自身を知ることが一番難しいというが、そこに気づくことが変革のための出発点といえる。
3つ目の「子連れで来られるカフェみたいな場」をつくること、という日常感覚の柔らかい発想には脱帽である。こうして「政治への敷居を下げること」はたしかに変革のための必須条件である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
新聞やテレビは連日、民主党連立政権にかかわるニュースであふれているが、その陰で日本の「新しい国づくり」の姿を描きながら地道な活動を続けている市民組織の存在にも目を向けたい。それは日本版「緑の党」づくりを目指す市民組織「みどりの未来」で、政策目標として持続可能な社会への変革を柱に自然との共生、脱石油・脱原発、脱クルマ・公共交通充実、防衛省解体・平和省創設、小選挙区制の廃止 ― などを掲げている。
国政レベルで発言力を高めているヨーロッパの「緑の党」に比べれば、「みどりの未来」はまだ地方自治体議員にとどまっているが、政策目標から見るかぎり、将来性は期待できる。二大政党制を絶対視しないためにも少数政党の存在価値を重視し、多様な選択肢を確保したい。(2010年1月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 市民組織「みどりの未来」とその「6つの政策」
市民組織「みどりの未来」は、「みどりの政治理念」として以下のような「6つの政策目標」を掲げている。それぞれのイメージ、目標について若干の説明を加えたい。
*エコロジカルな知恵(Ecological Wisdom)=世界のすべてはつながり影響しあっている・・・知恵のあるライフスタイルとスローな日本へ! ― 自然との共生、少欲知足、ゼロ成長、スロー・スモール・シンプル、土地は子孫からの借り物など
*社会正義(Social Justice)=「一人勝ち」では結局幸せになれない・・・弱肉強食から脱却する思いやりの「政策」を! ― 反貧困、同一価値労働・同一賃金、雇用創出型ワークシェアリング、労働時間短縮・バカンス法、国際連帯税(トービン税)など
*参加型民主主義(Participatory Democracy)=納得できる政治参加・・・利権・腐敗をなくし、一人ひとりの元気と幸せのためのプロセスを! ― 納税者主権、子どもの政治参加、小選挙区制の廃止、地方選挙までの比例代表制、企業団体献金の全面禁止など
*非暴力(Non-Violence)=誰にも殺されたくない、殺したくない・・・戦争に至らない具体的な仕組みを提案・実現する! ― 丸腰国家、防衛省の解体・平和省の創設、脱軍需産業、東アジア非核平和構想、WTO・IMF体制の解体など
*持続可能性(Sustainability)=脱石油、脱原発、脱ダム・・・子どもたちの未来と自然環境を食いつぶすシステムから脱却を! ― 低炭素社会、食・エネルギー・ケアの地産地消、自然エネルギーの固定価格買取制度、遺伝子組み換え反対、脱クルマ・公共交通の充実など
*多様性の尊重(Respect for Diversity)=私の知らない苦しみがある・・・「誰もが幸せになる権利」を尊重する生きやすく楽しい社会を! ― 多宗教共存、多文化共生・多様性保障の教育推進、先住民(アイヌなど)の権利、障害者権利条約、外国人労働者の権利擁護など
海外における「緑の党」の現状をみると、欧州では例えばドイツでは昨09年9月の連邦議会(下院=基本定数598)総選挙で90年連合・緑の党は得票率10.7%、68議席で、前回の得票(8.1%、51議席)をかなり上回った。一方、オセアニア(大洋州)ではオーストラリア、ニュージーランドで活発な活動を展開しており、「緑の党」の声を無視しては政治ができないという評価もある。
日本では目下のところ国政レベルの議員はいないが、地方自治体では活動が広がりつつある。
▽ 対談「持続可能な社会へシフトチェンジを」
その市民組織「みどりの未来」の最新のニュースレター「MIDORI STYLE」(2010年1月1日付)は、鎌仲ひとみさん(映像作家、注1)と稲村和美さん(「みどりの未来」共同代表、注2)の対談を掲載している。テーマは「持続可能な社会へシフトチェンジを」となっている。
(注1)鎌仲ひとみさんはフリーの映像作家。テレビ番組を多数監督した。受賞も多い。ドキュメンタリー映画最新作「ミツバチの羽音と地球の回転」は5月に公開される。自然エネルギーを模索し、地域で格闘している人々との出会いを求めて、カメラは未来へのヒント・希望を探る。
(注2)稲村和美さんは1972年生まれ、神戸大学大学院修士課程修了。阪神淡路大震災で市民派市議と出会い、尼崎市議会会派スタッフに。さらに証券会社勤務、尼崎市長選挙スタッフなどを経て、現在兵庫県議会議員(03年~)。
対談の大要を以下に紹介する。
(1)自然との共生、エネルギー・シフト
稲村:映画のタイトルの「ミツバチの羽音と地球の回転」、これはどういう想いを込められたんですか。
鎌仲:ミツバチは花をまったく壊さずに蜜を採っていき、花は受粉します。自然と人間も、そうした関係でなくちゃいけない。自然と共生するライフスタイルを実践する存在に自らなることが大事です。蜜ももらうけれども、受粉もする。そういう関係性は、今私たちの生きている社会や文明のあり方とは逆なんですよね。経済成長の根本に、環境破壊や第三世界からの搾取があるわけです。ですから「自分自身を持続可能な存在に変えていくこと」と、地球全体を見る視点との両方を持つ映画にしたかった。「これからはそうでなくちゃね」といった提案をしたくて、こういうタイトルにしました。
稲村:「環境を守ろう」というと、「いろんなことを我慢しないといけない」、「利便性が失われる」といった、ネガティブな反応がまだ根強いですよね。でも今「みどり」というキーワードのもとに集まっている私たちは、「自然と共生する生き方って、実は私たちにとってもいいことじゃない?」、「自然を貪(むさぼ)り蹂躙(じゅうりん)してきて、同時に私たち自身もいろんなものを失ってきたんじゃない?」、そのことをもっとうまく伝えていきたいと感じています。
鎌仲:この映画の大切なテーマは「エネルギー・シフト」なんです。すでに55基もあるのに、みんな「原発を作るのは仕方ない」と思っている。その流れをどう変えていくか。原発に頼らない、総合的で長期的な考え方のできる情報、視点を提示できたらいいなと思っています。
今回取材したスウェーデンでは、本気でやらなければ子どもや孫たちが生きていく上で大変な危ない事態になる、生活の質がだめになっていくという意識を国民が共有しています。日本では「電力会社が電気を作ってくれるから、自分たちは使えればそれでいい」と。
(2)自分たちの意思で社会が変わる
稲村:「自分たちにもかかわる問題なんだ」というリアリティを、どうやって伝えたり共有したりできるのかが、やはり大きな課題ですね。鎌仲さんは映画という効果的なツールを持っていて羨ましいと思います。
鎌仲:これを「道具」として使ってもらいたいわけです。私たちが依(よ)って立つ構造やシステムが否応なくこんな状況になっている。「じゃあこのシステムは誰が作ったの?」と見ていくと、誰かが作ったのかもしれないけど、それを支え続けているのは、例えば私たちが電力会社にただお金を払い続けていること、その問題に興味を持たないこと。「他のものがいい」、「こういうのは嫌だ」と思ったときに、その「支えている自分」に気づいて、じゃあ具体的にどういう行動ができるのだろう、と。「何ができるんですか?」という問いに対する「受け皿」をぜひ「みどりの未来」につくっていただきたいです。
稲村:まず第一歩は「知ってもらうこと」です。それと同時に、その問題に気づいたら「こんな道がある」、「こんな方法がある」ということがセットで提示されていないと、みんな目をそむけてしまうんです。問題を分かれば分かるほど当然、及び腰になることもあるんですよね。私は決して悲観はしていません。いろんなことを知り、感じた人たちから「じゃあ自分たちのライフスタイルで、できることから変えていこう」という動きは確実にあるし、ひとつずつ具体的な選択肢、チャレンジの紹介などもされるようになりました。
そして自分がライフスタイルを変えていくことと同時に、誰しもが与えられた、長い歴史の中でやっと勝ち得た「一票を投じる」という選択権をほったらかしにするなんて、何てもったいないんだろう、と思うんです。
鎌仲:衆議院選挙(09年8月)では投票率は何%だったのかしら。
稲村:高いと言われていますが、69%でした。お金のあるなしに関係なく、一票を持っているわけですから、それを使うことで世の中がもっと変えられる、自分たちが望む仕組みを自分たちがつくれると実感できることが大切ですよね。政治がもたらしているマイナスも大きいけれども、逆にこれをプラスに使ったときの威力も決して小さくはないんです。それと「自分たちの意思で何かが変わる」という手応えを感じる体験があまりにも少ないですよね。
阪神淡路大震災ではライフラインも何もかも全部止まってみんなが協力せざるを得ない。避難所では自分たちが決めたルールはみんな、こんなにきちんと守るんだ!と感動したんです。不便でプライバシーもない、エネルギーはもちろん、ないない尽くしの中で、すごく貴重な体験をさせてもらいました。非常事態でないときでも、この手応えを感じられるような社会にしたいと思いました。
(3)もうひとつの具体案を提示すること
鎌仲:現実の日本の政治を動かしているのは、「お金」だと思うんです。経済界が政治家に一番影響力を持っていて、国民のためというよりも、日本の経済を動かすためにやっていることの方が今までずっと大きかった。だから経済と政治が合体しているのをひとつひとつ引き離していかないといけないんです。
中国電力が上関原発を建てることで儲かる。すると雇用が生まれ税収が増え、自治体はその税金や寄付金、電源立地交付金という特別な税金を国からもらえる。「原発を建ててください」と言っているのはそういうわけです。だから反対を訴えるときは、「原発よりもっといいものがある」と、もうひとつの具体的な案を提示しないといけません。
稲村:ヨーロッパなどでは政府が別の道への誘導をかけていますよね。
鎌仲:そう。ドイツでは価格も提示して風力発電の電気を優先的に買うよう促していて、会社や市民セクターに風力発電所を建てようという流れができています。確実に返ってくると保証されているから、投資が動くわけですね。そこで得た税収を、今まで短期雇用や派遣だった労働者を終身雇用にするための社会保険税を補助する予算に充てることで、合わせて100万人近い人が雇用を得たんです。たった一つの制度を創出しただけで、それが目に見えると、国民は「よかった」と思うわけです。
「バック・キャスティング」という考え方があります。今の日本で55基ある原発をすぐにゼロにするのは無理ですけど、でも新しいものは建てない、古い原発は徐々に廃炉にし、その分の電気を使わない、あるいは自然エネルギーでやっていく方法を段階的に考えていくんです。
(4)政治への敷居を下げること
稲村:私たちも「一歩一歩こうした選択を積み重ねていけば、遠くにあった目標に近づいていくことにつながる」ということを、政策的にどう表現しようかと知恵を絞っているところです。
最後に「みどりの未来」にアドバイスをお願いできますか。
鎌仲:「世界を変えることはできない」とみんな思い込んでいるし、茶色の世界をオセロのようにいっぺんに100%「みどり」にすることはできない。でもそれぞれの地域に住んでいる人たちが同時多発的に、自分の根ざしている暮らしを「みどり」にしていくことで、変われる。世界を変えるのは地域を変えることだと思えば、もっと具体的になってくるし、みんなも参加しやすいんじゃないかな。
「みどりの未来」が、地域の中で政治と普通の人が触れあう、カフェみたいな場所をつくっていくことも重要ではないか。子連れで来られるような「場」です。「みどりの未来」が開くカフェは、政治への敷居を下げると思います。本当に具体的に地域に寄与したい、変えたい、良くしたいと思う人が政治家になって当たり前なんですから。「稲村さんがやっているんだったら、私にもできるかもしれない」と。
稲村:そうですよね。映画の完成、楽しみにしています。
▽ 日本版「緑の党」に成長するための必要条件
「みどりの未来」は日本版「緑の党」を目指してはいるが、まだ地方レベルの市民組織にとどまっている。同じニュースレター「MIDORI STYLE」(1月1日付)に大橋巨泉・元参院議員のつぎのような趣旨の一文が掲載されている。題して「民主圧勝もいいが、緑の党の議席のない国に未来なんてないも同然だ」で、「緑の党」が日本でも登場してくることを期待する一文となっている。
半世紀も経って、ようやく政権交代を為しとげた日本の民主主義は、まだまだやっと中学生というところなのだ。一番未熟なところは、いまだに緑の党に議席を与えたことがないことだ。こんな国は先進国では例外的である。環境問題に特に関心の高いヨーロッパでは、各国で2けたに近い得票率を得ている。
(中略)地球温暖化や汚染は着実に進んでいる。地球は限界に来ている。政治が未来を設計するものだとすれば、答えは明確に出ている ― と。
さて期待に応えて、日本版「緑の党」に成長するには何が必要だろうか。
冒頭で紹介したように市民組織「みどりの未来」の「6つの政策目標」は、民主党政権のマニフェスト(政権公約)に比べてよほど斬新であり、時代を先取りしていると言ってもいいだろう。鎌仲ひとみさんと稲村和美さんとの対談も、新鮮な感覚で彩られており、読んでいて、楽しい。これをどう生かしていくか。
対談の中のキーワードを私(安原)なりに引き出せば、以下のようである。
*自然との共生
*エネルギー・シフト(脱原発)
*「原発よりもっといいものがある」と、もうひとつの具体案を提示していくこと
*自分自身を持続可能な存在に変えていくこと
*地球全体を見る視点
*「嫌なこと」を「支えている自分」に気づくこと
*自分のライフスタイルを変えていくこと
*勝ち得た「一票を投じる」という選択権を大切にすること
*政治への敷居を下げること
*子連れで来られるカフェみたいな「場」をつくること
思いつくままに選んでみたら、キーワード「ベスト10」となった。いうまでもなくどれも重要で、正しいが、例えば「自然との共生」はもはや常識だし、「脱原発」への意識も広がりつつある。
ただ「脱原発」には原発推進グループの抵抗が根強い。朝日、毎日など大手紙(2010年1月7日付)は、「低炭素社会へ向けた原子力発電 ― 地球環境と日本のエネルギーを考える」核燃料サイクルシンポジウム(2月6日、東京商工会議所東商ホールで開催)に関する派手な広告を掲載した。片隅に小さい活字で「経済産業省 資源エネルギー庁」とうたっているところをみると、ここが主導するシンポジウムなのだろう。
上述の「ベスト10」のなかで「なるほど」と新鮮な印象を得たのは、もうひとつの具体案を提示していくこと、「嫌なこと」を「支えている自分」に気づくこと、子連れで来られるカフェみたいな「場」をつくること ― などである。
もはや「反対」「変革」を叫ぶだけでは対抗力としては弱い。もうひとつの具体案を提示していく提案力は今や不可欠といえよう。
つぎに「こんな嫌なことには反対」と思いながら、実はその嫌な構造を自分自身が支えていることに気づかないことが多い。自分自身を知ることが一番難しいというが、そこに気づくことが変革のための出発点といえる。
3つ目の「子連れで来られるカフェみたいな場」をつくること、という日常感覚の柔らかい発想には脱帽である。こうして「政治への敷居を下げること」はたしかに変革のための必須条件である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
2010年元旦「社説」を論評する
安原和雄
今年2010年は「安保50周年」である。1960年に現行日米安保条約が締結されてから半世紀の歴史を刻んできた。半世紀という異常に長い期間続いてきた軍事同盟・安保を今後も継続するのか、それとも変革(チェンジ)の21世紀にふさわしく転換し、新しい日米関係の構築を模索するのか、その大きな選択が問われている。
元旦の大手紙社説は日米安保をどう論じたか。メディアの世界では朝日新聞をはじめ、安保容認論が広がっている。日米安保の本質は軍事同盟であるが、その本質が果たして理解されているのかどうかに危うさを感じる。強調すべきことは、日米安保体制といえども、もはや決して批判を許さぬ聖域ではないということである。そういう視点で元旦社説を論評する。(2010年1月2日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(1) ― ユニークな東京新聞社説
大手5紙の元旦社説は日米安保体制(=日米同盟)をどのような視点で論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説=激動世界の中で より大きな日米の物語を
*毎日新聞社説=2010 再建の年 発信力で未来に希望を
*読売新聞社説=「ニッポン漂流」を回避しよう 今ある危機を乗り越えて
*日本経済新聞社説=繁栄と平和と地球環境を子や孫にも
*東京新聞社説=年のはじめに考える 支え合い社会の責任
これらの見出しから判断するかぎり、一般的、抽象的な見出しとなっているので、具体的な中身は、分かりにくい。日米安保に関する記述量の多い順に並べ替えると、朝日、読売、日経、毎日の順で、東京は安保には一行も触れてはいない。
しかし東京新聞は表面上は安保には言及してはいないが、それは軍事安保(軍事力中心の安全保障)の話であって、それとは異質の経済安保(経済的安全・安心を土台とする安全保障で、かつて1970年代の大平自民党政権時代に話題になった)には触れているといえるのではないか。社説筆者の意図はともかく、私(安原)はその意味でユニークな社説と読みとりたい。
社説の中の「個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなる」という指摘に着目すべきで、社会的連帯感を失った国が軍事的防衛力をいくら増強しても、しょせん有効とはいえない。
「主体者としての覚悟は」という小見出しの下に書かれたその趣旨は以下の通り。
〈東京新聞社説〉
◆主体者としての覚悟は
高度経済成長時代に企業と家庭が担った福祉はグローバル経済下では不可能になりました。働く夫と専業主婦がモデルだった家庭も共働き夫婦に姿を変えています。子ども手当には、未来の担い手は社会が育てるとの理念とともに雇用不安と格差社会での新社会政策の側面が含まれます。「コンクリートから人へ」の財政配分も時代の要請でしょう。
医療や介護、教育や保育などはだれもが必要とする社会サービスで、やはり国が提供すべきでしょう。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めない若者の増加をこれ以上見過ごすことはできないからです。
国の所得再分配機能と平等化が重要になっていますが、生活安心のための施策に財源の裏付けを要するのは言うまでもありません。月二万六千円の子ども手当には毎年五・五兆円の恒久的財源が、〇七年度に九十一兆円だった医療、年金、介護などの社会保障給付額は、二五年度には百四十一兆円に膨れると試算されています。財源問題をどうするのか。
歴史的と呼ばれた昨年の政権交代の真の意義は国民自身の手で政権交代を実現させたことでした。国民の一人一人が統治の主体者として責任を負ったのです。政治や社会の傍観者であることは許されず、どんな社会にするかの主体的覚悟をも問われたのです。
福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。
政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。一九七〇年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(2)― 同盟擁護に積極的な朝日新聞
朝日新聞社説は、同盟という安定装置、「納得」高める機会に、アジア新秩序に生かす、の3つの小見出しを付けて以下のように論じている。大手紙のなかで一番力を入れて、日米同盟擁護論を説いているのが朝日である。なお読売、日経、毎日の安保に関する社説の内容紹介は省略する。
〈朝日新聞社説〉
■同盟という安定装置
最強の軍事大国と専守防衛の国。太平洋をはさむ二大経済大国。類(たぐい)まれな組み合わせをつなぐ現在の日米安保体制は今年で半世紀を迎える。
いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた。そして今、北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない。
米国にとって、アジア太平洋での戦略は在日米軍と基地がなければ成り立たない。日本の財政支援も考えれば、安保は米国の「要石」でもある。日本が米国の防衛義務を負わないからといって「片務的」はあたらない。
アジアはどうか。日米同盟と9条は日本が自主防衛や核武装に走らないという安心の源でもある。米中の軍事対立は困るが、中国が「平和的台頭」の道から外れないよう牽制(けんせい)するうえで、米国の力の存在への期待もあるだろう。中国を巻き込んだ政治的な安定が地域の最優先課題だからだ。
同盟国だからといって常に国益が一致することはない。そのことも互いに理解して賢く使うなら、日米の同盟関係は重要な役割を担い続けよう。
問題は、同盟は「空気」ではないことだ。日本の政権交代を機に突きつけられたのはそのことである。
■「納得」高める機会に
普天間問題の背景には、沖縄の本土復帰後も、米軍基地が集中する弊害で脅かされ続ける現実がある。
過去の密約の解明も続く。米国の軍事政策と日本の政策との矛盾。当時の時代的な背景があったにしても、民主主義の政府が隠し続けていいはずはない。密約の法的な効力がどうなっているか。国民が関心を寄せている。
いま日米両政府が迫られているのは、これらの問題も直視しつつ、日米の両国民がより納得できる同盟のあり方を見いだす努力ではなかろうか。
とくに日本の政治には、同盟の土台である軍事の領域や負担すべきコストについて、国民を巻き込んだ真剣な議論を避けがちだった歴史がある。鳩山政権のつたなさもあって、オバマ政権との関係がきしんではいるが、実は、長期的な視野から同盟の大事さと難しさを論じ合う好機でもある。
日米の安保関係は戦後の日本に米国市場へのアクセスを保証し、高度成長を支える土台でもあった。いまや、日中の貿易額が日米間のそれを上回る。中国、アジアとの経済的な結びつきなしに日本は生きていけない。
しかし、だからといって、「アジアかアメリカか」の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯(ちゅうたい)を役立てる外交力である。
■アジア新秩序に生かす
アジアには経済を中心に、多国間、二国間で重層的な協力関係が築かれるだろうし、いずれ「共同体」が現実感をもって協議されるだろう。
だが地域全体として軍備管理や地域安全保障の枠組みをつくるには、太平洋国家である米国の存在が欠かせない。そうした構想を進めるうえでも、日米の緊密な連携が前提となる。
日本が米国と調整しつつ取り組むべき地球的な課題も山積だ。アフガニスタン、イラクなどでの平和構築。「核のない世界」への連携。気候変動が生む紛争や貧困への対処。日米の同盟という土台があってこそ日本のソフトパワーが生きる領域は広い。
むろん、同盟の土台は安全保障にある。世界の戦略環境をどう認識し、必要な最低限の抑止力、そのための負担のありかたについて、日米両政府の指導層が緊密に意思疎通できる態勢づくりを急がなければならない。
日米の歴史的なきずなは強く、土台は分厚い。同盟を維持する難しさはあっても、もたらされる利益は大きい。「対米追随」か「日米対等」かの言葉のぶつけ合いは意味がない。同盟を鍛えながらアジア、世界にどう生かすか。日本の政治家にはそういう大きな物語をぜひ語ってもらいたい。
▽ 日米安保体制も聖域ではない ― 同盟擁護論への疑問
私(安原)はいわゆる安保世代といってもいい年齢である。新聞社入社早々の地方支局勤務から東京本社社会部に配属になったのが1960年5月で、翌6月現行日米安保条約が国会で成立し、発効した。私は当時、都内の警察担当で、取材に駆り出された。安保阻止国民会議による大規模の安保阻止デモ隊が毎日、国会を取り巻き、連呼する「アンポ・ハンターイ」の叫びは、いまなお鮮明に記憶に残っている。その体験からしても、安保容認論になびくわけにはいかない。
そういう私から見て不思議なのは、昨今の若い人、といっても、50歳前後の諸氏はなぜ安保容認論に傾きやすいのか、である。想像するに、今年2010年は「安保50周年」であるため、物心がついた頃にはすでに安保体制は存在していたわけで、ちょうどテレビや車を当然のこととして受け容れるのと同じ感覚ではないかという気がする。
しかしそういう感覚で日米安保体制を観察し、容認するのは危険である。安保体制の軍事同盟としての本質が見えてこないだろう。安保体制といえども、決して批判を許さぬ聖域ではないという認識と自覚が不可欠である。
朝日社説への疑問点は沢山ある。米国流の軍事力による抑止力を土台にしたソフトパワー論が発想の根っこにあるらしいが、ここでは以下の1点に絞ってコメントを付けたい。
*「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた」について。
上記の認識は「同盟という安定装置」という小見出し付きで書かれている。大きなテーマを随分あっさりと片づけているという印象である。
まず「日本を一緒に守る安保」というが、かつての米軍のベトナム侵攻、今のイラク、アフガンでの軍事力行使は在日米軍基地が侵攻のための基地として利用されている。この現状をどう捉えるのか。これは日本を守るためなのか。今日イラク、アフガンが日本を攻撃するのを阻止するために米軍が出動しているという話は聞いたことがない。
つぎに「憲法9条とを巧みに組み合わせる選択」と指摘しているが、ここでの憲法9条は本来の9条の理念(非武装、交戦権の否認)が事実上骨抜きになっていることをどう考えているのか。骨抜きになった9条でなければ、軍事同盟としての安保とは両立できない。
もう一つ「国民に安心感を与え続けてきた」とはどういう感覚なのか。憲法9条本来の理念をよみがえらしたいと願う「憲法9条の会」が全国で何千と結成されており、しかも米軍基地周辺の住民がどれだけ犠牲になり、苦痛を強いられてているか、を考えたい。一体どこに「国民にとっての安心感」があるというのだろうか。
それに小見出しの「同盟という安定装置」の表現も不可解である。「同盟」を仲良しクラブとでも思っているのだろうか。戦争のための軍事同盟である以上、それはむしろ「不安定装置」あるいは「暴力装置」と捉えるべきである。
その昔の昭和10年代の日独伊3国軍事同盟を想起したい。当時の朝日、毎日などの大手紙は、3国同盟を擁護し、戦争を煽った。昭和20(1945)年の敗戦とともに新聞はその過ちを反省し、再出発したはずである。その初心を忘れ果てたのか、いま再び軍事同盟を容認する姿勢を打ち出している。
▽ 「世界に変化しないものは、ひとつもない」 ― 諸行無常の真理
知人、清水秀男さんから元旦に届いた賀状の一節を以下に紹介したい。
「世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。
春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。
変化するって自然のことなんだ」
(米国の哲学者、故バスカーリア博士の子供向けの絵本、『葉っぱのフレディ』から)
さらにつぎのように賀状は続いている。
変化し流転する真理は、貴重な贈物。一つは生まれ変り、生成発展へと挑戦するチャンスであること。もう一つは過去のこだわりを捨て、日々に新たに今の一瞬一瞬を怠ることなく、充実して最善を尽くす大切さへの気づき。
今年は寅年。勇気と希望を持って虎穴に入り、毎日を今日一日と心得、日々新鮮に、創造的に生きていく年にしたいと思っています ― と。
仏教は「諸行無常」(しょぎょうむじょう)すなわち「この世のすべてのことは変化する」という真理を説いている。身近な例でいえば、健康な人も病気になり、また病気が治って健康を取り戻すことができる。人間を含む命ある生き物が最後には死を免れないのも、その具体例である。
日米安保体制といえども、この諸行無常の真理から逃れることはできない。この真理に逆らうのは愚者の浅慮といえよう。今年は「安保50周年」で、このこと自体がすでに異常であり、やがて「安保の終わり」がやってくるのは避けがたい。過去の日本の同盟の歴史をみると、日英同盟(1902~23年)、日独伊3国同盟(1940~45年)のうち長期の日英同盟も20年で終了している。これに比べると、「安保50周年」がいかに異常な長期に及んでいるかが理解できよう。
しかも世界の軍事同盟は今や解体の方向に進んでおり、現在残っている2国間軍事同盟は、日米安保のほか米韓軍事同盟、米豪軍事同盟のみとなっている。2国間軍事同盟はいまや時代遅れになってきたというべきである。
日米軍事同盟を解体するからといって、それが日米間の果たし合いを意味するわけではない。そうではなく現行安保条約から新しい日米平和友好条約へ切り替えて、「変革」の21世紀にふさわしい日米関係を構築していくことを意味している。諸行無常の真理に事後的に翻弄され、混乱に落ち込むのではなく、むしろ意図的に活用して、新しい歴史を創っていくことこそが日本人が実践すべき智慧というものではないか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
今年2010年は「安保50周年」である。1960年に現行日米安保条約が締結されてから半世紀の歴史を刻んできた。半世紀という異常に長い期間続いてきた軍事同盟・安保を今後も継続するのか、それとも変革(チェンジ)の21世紀にふさわしく転換し、新しい日米関係の構築を模索するのか、その大きな選択が問われている。
元旦の大手紙社説は日米安保をどう論じたか。メディアの世界では朝日新聞をはじめ、安保容認論が広がっている。日米安保の本質は軍事同盟であるが、その本質が果たして理解されているのかどうかに危うさを感じる。強調すべきことは、日米安保体制といえども、もはや決して批判を許さぬ聖域ではないということである。そういう視点で元旦社説を論評する。(2010年1月2日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(1) ― ユニークな東京新聞社説
大手5紙の元旦社説は日米安保体制(=日米同盟)をどのような視点で論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説=激動世界の中で より大きな日米の物語を
*毎日新聞社説=2010 再建の年 発信力で未来に希望を
*読売新聞社説=「ニッポン漂流」を回避しよう 今ある危機を乗り越えて
*日本経済新聞社説=繁栄と平和と地球環境を子や孫にも
*東京新聞社説=年のはじめに考える 支え合い社会の責任
これらの見出しから判断するかぎり、一般的、抽象的な見出しとなっているので、具体的な中身は、分かりにくい。日米安保に関する記述量の多い順に並べ替えると、朝日、読売、日経、毎日の順で、東京は安保には一行も触れてはいない。
しかし東京新聞は表面上は安保には言及してはいないが、それは軍事安保(軍事力中心の安全保障)の話であって、それとは異質の経済安保(経済的安全・安心を土台とする安全保障で、かつて1970年代の大平自民党政権時代に話題になった)には触れているといえるのではないか。社説筆者の意図はともかく、私(安原)はその意味でユニークな社説と読みとりたい。
社説の中の「個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなる」という指摘に着目すべきで、社会的連帯感を失った国が軍事的防衛力をいくら増強しても、しょせん有効とはいえない。
「主体者としての覚悟は」という小見出しの下に書かれたその趣旨は以下の通り。
〈東京新聞社説〉
◆主体者としての覚悟は
高度経済成長時代に企業と家庭が担った福祉はグローバル経済下では不可能になりました。働く夫と専業主婦がモデルだった家庭も共働き夫婦に姿を変えています。子ども手当には、未来の担い手は社会が育てるとの理念とともに雇用不安と格差社会での新社会政策の側面が含まれます。「コンクリートから人へ」の財政配分も時代の要請でしょう。
医療や介護、教育や保育などはだれもが必要とする社会サービスで、やはり国が提供すべきでしょう。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めない若者の増加をこれ以上見過ごすことはできないからです。
国の所得再分配機能と平等化が重要になっていますが、生活安心のための施策に財源の裏付けを要するのは言うまでもありません。月二万六千円の子ども手当には毎年五・五兆円の恒久的財源が、〇七年度に九十一兆円だった医療、年金、介護などの社会保障給付額は、二五年度には百四十一兆円に膨れると試算されています。財源問題をどうするのか。
歴史的と呼ばれた昨年の政権交代の真の意義は国民自身の手で政権交代を実現させたことでした。国民の一人一人が統治の主体者として責任を負ったのです。政治や社会の傍観者であることは許されず、どんな社会にするかの主体的覚悟をも問われたのです。
福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。
政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。一九七〇年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(2)― 同盟擁護に積極的な朝日新聞
朝日新聞社説は、同盟という安定装置、「納得」高める機会に、アジア新秩序に生かす、の3つの小見出しを付けて以下のように論じている。大手紙のなかで一番力を入れて、日米同盟擁護論を説いているのが朝日である。なお読売、日経、毎日の安保に関する社説の内容紹介は省略する。
〈朝日新聞社説〉
■同盟という安定装置
最強の軍事大国と専守防衛の国。太平洋をはさむ二大経済大国。類(たぐい)まれな組み合わせをつなぐ現在の日米安保体制は今年で半世紀を迎える。
いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた。そして今、北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない。
米国にとって、アジア太平洋での戦略は在日米軍と基地がなければ成り立たない。日本の財政支援も考えれば、安保は米国の「要石」でもある。日本が米国の防衛義務を負わないからといって「片務的」はあたらない。
アジアはどうか。日米同盟と9条は日本が自主防衛や核武装に走らないという安心の源でもある。米中の軍事対立は困るが、中国が「平和的台頭」の道から外れないよう牽制(けんせい)するうえで、米国の力の存在への期待もあるだろう。中国を巻き込んだ政治的な安定が地域の最優先課題だからだ。
同盟国だからといって常に国益が一致することはない。そのことも互いに理解して賢く使うなら、日米の同盟関係は重要な役割を担い続けよう。
問題は、同盟は「空気」ではないことだ。日本の政権交代を機に突きつけられたのはそのことである。
■「納得」高める機会に
普天間問題の背景には、沖縄の本土復帰後も、米軍基地が集中する弊害で脅かされ続ける現実がある。
過去の密約の解明も続く。米国の軍事政策と日本の政策との矛盾。当時の時代的な背景があったにしても、民主主義の政府が隠し続けていいはずはない。密約の法的な効力がどうなっているか。国民が関心を寄せている。
いま日米両政府が迫られているのは、これらの問題も直視しつつ、日米の両国民がより納得できる同盟のあり方を見いだす努力ではなかろうか。
とくに日本の政治には、同盟の土台である軍事の領域や負担すべきコストについて、国民を巻き込んだ真剣な議論を避けがちだった歴史がある。鳩山政権のつたなさもあって、オバマ政権との関係がきしんではいるが、実は、長期的な視野から同盟の大事さと難しさを論じ合う好機でもある。
日米の安保関係は戦後の日本に米国市場へのアクセスを保証し、高度成長を支える土台でもあった。いまや、日中の貿易額が日米間のそれを上回る。中国、アジアとの経済的な結びつきなしに日本は生きていけない。
しかし、だからといって、「アジアかアメリカか」の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯(ちゅうたい)を役立てる外交力である。
■アジア新秩序に生かす
アジアには経済を中心に、多国間、二国間で重層的な協力関係が築かれるだろうし、いずれ「共同体」が現実感をもって協議されるだろう。
だが地域全体として軍備管理や地域安全保障の枠組みをつくるには、太平洋国家である米国の存在が欠かせない。そうした構想を進めるうえでも、日米の緊密な連携が前提となる。
日本が米国と調整しつつ取り組むべき地球的な課題も山積だ。アフガニスタン、イラクなどでの平和構築。「核のない世界」への連携。気候変動が生む紛争や貧困への対処。日米の同盟という土台があってこそ日本のソフトパワーが生きる領域は広い。
むろん、同盟の土台は安全保障にある。世界の戦略環境をどう認識し、必要な最低限の抑止力、そのための負担のありかたについて、日米両政府の指導層が緊密に意思疎通できる態勢づくりを急がなければならない。
日米の歴史的なきずなは強く、土台は分厚い。同盟を維持する難しさはあっても、もたらされる利益は大きい。「対米追随」か「日米対等」かの言葉のぶつけ合いは意味がない。同盟を鍛えながらアジア、世界にどう生かすか。日本の政治家にはそういう大きな物語をぜひ語ってもらいたい。
▽ 日米安保体制も聖域ではない ― 同盟擁護論への疑問
私(安原)はいわゆる安保世代といってもいい年齢である。新聞社入社早々の地方支局勤務から東京本社社会部に配属になったのが1960年5月で、翌6月現行日米安保条約が国会で成立し、発効した。私は当時、都内の警察担当で、取材に駆り出された。安保阻止国民会議による大規模の安保阻止デモ隊が毎日、国会を取り巻き、連呼する「アンポ・ハンターイ」の叫びは、いまなお鮮明に記憶に残っている。その体験からしても、安保容認論になびくわけにはいかない。
そういう私から見て不思議なのは、昨今の若い人、といっても、50歳前後の諸氏はなぜ安保容認論に傾きやすいのか、である。想像するに、今年2010年は「安保50周年」であるため、物心がついた頃にはすでに安保体制は存在していたわけで、ちょうどテレビや車を当然のこととして受け容れるのと同じ感覚ではないかという気がする。
しかしそういう感覚で日米安保体制を観察し、容認するのは危険である。安保体制の軍事同盟としての本質が見えてこないだろう。安保体制といえども、決して批判を許さぬ聖域ではないという認識と自覚が不可欠である。
朝日社説への疑問点は沢山ある。米国流の軍事力による抑止力を土台にしたソフトパワー論が発想の根っこにあるらしいが、ここでは以下の1点に絞ってコメントを付けたい。
*「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた」について。
上記の認識は「同盟という安定装置」という小見出し付きで書かれている。大きなテーマを随分あっさりと片づけているという印象である。
まず「日本を一緒に守る安保」というが、かつての米軍のベトナム侵攻、今のイラク、アフガンでの軍事力行使は在日米軍基地が侵攻のための基地として利用されている。この現状をどう捉えるのか。これは日本を守るためなのか。今日イラク、アフガンが日本を攻撃するのを阻止するために米軍が出動しているという話は聞いたことがない。
つぎに「憲法9条とを巧みに組み合わせる選択」と指摘しているが、ここでの憲法9条は本来の9条の理念(非武装、交戦権の否認)が事実上骨抜きになっていることをどう考えているのか。骨抜きになった9条でなければ、軍事同盟としての安保とは両立できない。
もう一つ「国民に安心感を与え続けてきた」とはどういう感覚なのか。憲法9条本来の理念をよみがえらしたいと願う「憲法9条の会」が全国で何千と結成されており、しかも米軍基地周辺の住民がどれだけ犠牲になり、苦痛を強いられてているか、を考えたい。一体どこに「国民にとっての安心感」があるというのだろうか。
それに小見出しの「同盟という安定装置」の表現も不可解である。「同盟」を仲良しクラブとでも思っているのだろうか。戦争のための軍事同盟である以上、それはむしろ「不安定装置」あるいは「暴力装置」と捉えるべきである。
その昔の昭和10年代の日独伊3国軍事同盟を想起したい。当時の朝日、毎日などの大手紙は、3国同盟を擁護し、戦争を煽った。昭和20(1945)年の敗戦とともに新聞はその過ちを反省し、再出発したはずである。その初心を忘れ果てたのか、いま再び軍事同盟を容認する姿勢を打ち出している。
▽ 「世界に変化しないものは、ひとつもない」 ― 諸行無常の真理
知人、清水秀男さんから元旦に届いた賀状の一節を以下に紹介したい。
「世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。
春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。
変化するって自然のことなんだ」
(米国の哲学者、故バスカーリア博士の子供向けの絵本、『葉っぱのフレディ』から)
さらにつぎのように賀状は続いている。
変化し流転する真理は、貴重な贈物。一つは生まれ変り、生成発展へと挑戦するチャンスであること。もう一つは過去のこだわりを捨て、日々に新たに今の一瞬一瞬を怠ることなく、充実して最善を尽くす大切さへの気づき。
今年は寅年。勇気と希望を持って虎穴に入り、毎日を今日一日と心得、日々新鮮に、創造的に生きていく年にしたいと思っています ― と。
仏教は「諸行無常」(しょぎょうむじょう)すなわち「この世のすべてのことは変化する」という真理を説いている。身近な例でいえば、健康な人も病気になり、また病気が治って健康を取り戻すことができる。人間を含む命ある生き物が最後には死を免れないのも、その具体例である。
日米安保体制といえども、この諸行無常の真理から逃れることはできない。この真理に逆らうのは愚者の浅慮といえよう。今年は「安保50周年」で、このこと自体がすでに異常であり、やがて「安保の終わり」がやってくるのは避けがたい。過去の日本の同盟の歴史をみると、日英同盟(1902~23年)、日独伊3国同盟(1940~45年)のうち長期の日英同盟も20年で終了している。これに比べると、「安保50周年」がいかに異常な長期に及んでいるかが理解できよう。
しかも世界の軍事同盟は今や解体の方向に進んでおり、現在残っている2国間軍事同盟は、日米安保のほか米韓軍事同盟、米豪軍事同盟のみとなっている。2国間軍事同盟はいまや時代遅れになってきたというべきである。
日米軍事同盟を解体するからといって、それが日米間の果たし合いを意味するわけではない。そうではなく現行安保条約から新しい日米平和友好条約へ切り替えて、「変革」の21世紀にふさわしい日米関係を構築していくことを意味している。諸行無常の真理に事後的に翻弄され、混乱に落ち込むのではなく、むしろ意図的に活用して、新しい歴史を創っていくことこそが日本人が実践すべき智慧というものではないか。
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