fc2ブログ












「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
沖縄の声「不戦の原点見詰めたい」
68回目の終戦記念日に考えること

安原和雄
 連日の猛暑の中で今年も終戦記念日がめぐってきた。68回目の記念日である。終戦(正確には敗戦)の昭和20年(1945年)、私は小学5年生(広島県在住)だったが、周囲の大人達の間にも「敗戦で残念」というよりも「終戦による安堵感」が漂っていたように記憶している。あれから70年近い歳月が過ぎて、状況は様変わりしつつある。
安倍政権の登場と共に好戦的姿勢が目立つのだ。戦後日本の政治、経済、社会のあり方を律してきた平和憲法を邪魔者扱いにする動きが強まっている。専守防衛の放棄、自衛隊の国防軍化、集団的自衛権行使の容認などがその具体例である。だからこそ沖縄の琉球新報紙の「不戦の原点を見詰めたい」という主張が光っている。(2013年8月17日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

主要紙の8月15日付社説は68回目の終戦記念日にどう論じたか。まず社説見出しを紹介する。
*朝日新聞=戦後68年と近隣外交 内向き思考を抜け出そう
*毎日新聞=8・15を考える 積み重ねた歴史の重さ
*讀賣新聞=終戦の日 中韓の「反日」傾斜を憂える 歴史認識問題を政治にからめるな
*日本経済新聞=戦争と平和を考え続ける覚悟を持とう
*東京新聞=68回目の終戦記念日 哀悼の誠つくされたか
*琉球新報= 終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険

 上記の6紙の社説を読んでみて、安倍政権に対する批判力、さらに今後の日本の望ましい進路について明確な主張を展開しているのは沖縄の琉球新報紙であるとの印象を得た。そこで「終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険」と題する琉球新報社説に限ってその全文を紹介し、安原のコメントをつける。

 なお琉球新報社説(8月17日付)は「加害明言せず 過去の過ちを直視せよ」と題して次のように論じていることを紹介しておきたい。
 安倍晋三首相が68回目の終戦記念日の全国戦没者追悼式の式辞でアジア諸国への加害責任を明言せず、例年の式辞にある「不戦の誓い」も文言に含めなかった。中国や韓国などアジア諸国が反発している。戦前の軍国主義日本の悪夢を呼び起こし、警戒感を抱かせたのは極めて遺憾だ、と。

▽ 安倍政権批判に徹する琉球新報社説

 琉球新報社説(8月15日付)全文は以下の通り。

 戦後68回目の終戦記念日がめぐってきた。
 だが今、戦後営々と築き上げてきた「不戦の防御壁」が音を立てて崩れつつある。政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 おびただしい命が失われ、全ての営みが灰燼(かいじん)に帰したあの惨禍から、日本は痛切な反省の末、戦争放棄の誓いを立てたはずだ。その原点を見つめ直したい。

足して2で割る
 安倍晋三首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(有識者懇)が年内にまとめる報告書で、集団的自衛権行使容認論を打ち出すのは必至だとされる。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。
 こうした憲法の大原則の変更を、改正の手続きをすることなく、国会での議論すらなく、法定の機関でもない一私的諮問機関が事実上決めてしまう。これでは日本はもはや立憲国家ですらない。

 この懇談会は第一次安倍内閣当時の2007年にも設置され、集団的自衛権行使を打ち出した。その際「公海上を並走中の同盟国軍艦への攻撃」など「4類型」をまとめ、これらを発動対象にすると掲げた。今回はこの類型も取り払う方針だ。集団的自衛権の対象国も不明確にし、いろいろな国の戦争に参加できるようにするという。米国追従にとどまらないのだ。
 おそらく、何でも発動対象だと驚かせておいて、国会審議で対象を限定することにし、「落としどころ」とするのが狙いだろう。最初に最大限の要求をふっかけておいて、さも譲歩したように見せかける。「足して2で割る」手法なのが透けて見える。
 政府はそうした術数を凝らすのではなく、行使容認の是非を正面から議論すべきだ。米国が始める戦争に無原則に付き合うのは危険すぎる。「無原則ではなく日本が主体的に判断する」と政府は言うだろうが、今の対米屈従外交の日本に「主体的」判断ができると、誰が信じられるだろうか。

「包囲網」の虚構
 最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。
 台湾と中国の航空定期便は週600便もあり、かつてないほど良好で緊密な間柄だ。ベトナムと中国は海も陸も国境が画定した。インドも画定協議推進で合意した。日本が唱える中国包囲網にくみするところなどほとんどない。辛うじてフィリピンくらいだ。
 「従軍慰安婦」の問題も含め、米国も安倍政権の姿勢に冷ややかであり、国際的に孤立しつつあるのはむしろ日本の方なのである。
 ナショナリズムをあおるのは政治的人気をたやすく得る手段だが、好戦的な排外主義者に流されてはならない。まして沖縄の海が火の海になることがあってはならない。戦争は外交の敗北、政治の失敗である。包囲網などではなく、友好的姿勢で粘り強く信頼関係を築くことこそが真の外交だ。

▽「戦争放棄」は完全に空証文へ

 琉球新報社説の中で注目に値する主張を紹介し、安原のコメントをつける。
(1)政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行
使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。

<安原のコメント> 専守防衛原則の放棄
 安倍政権の登場によって武器輸出の解禁、専守防衛原則の放棄、敵地攻撃能力の保有、自衛隊の国防軍化、さらに集団的自衛権の行使へ、とめまぐるしい展開をみせようとしている。これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。
 自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない、という琉球新報紙の指摘は的確である。平和国家・日本を支えてきた平和憲法の理念は安倍政権の登場によって地響きと共に崩れようとしている。こういう危険な選択を許せるのか。

(2)最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。

<安原のコメント> 安倍政権の孤立化も
「最近の日本の危うさは歴然としている。まるで戦争をしたがっているかのようだ」という認識にはハッとさせられる。ここでの「日本の危うさ」とは「本土の危うさ」であるに違いない。これは戦争暴力に対する沖縄と本土との批判力の落差でもあるだろう。
 もう一つ、米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識、という指摘に着目したい。こういう米国の対中姿勢は、安倍政権のけんか腰の外交姿勢とは異なっている。安倍政権の孤立化を近未来に予測するのは読み過ぎだろうか。


(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
子ども代表の「平和への誓い」に同感
2013年原水爆禁止世界大会で

安原和雄
 毎年のことながら、今夏も原水爆禁止世界大会の季節となって、猛暑にめげず、沢山の人々が日本国内だけでなく世界中から広島へ、さらに長崎へ集まった。多彩な催しの中で同感したいのは広島市平和記念式典での子ども代表の「平和への誓い」である。
 「平和への誓い」といえば、反戦=平和をイメージするのが通常だが、そうではなく新鮮な平和観が打ち出された。「平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすもの」という平和論である。若い世代の平和観がどのように根付いていくか、その行方に注目したい。(2013年8月10日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 8月6日の広島市平和記念式典では市内のこども代表が「平和への誓い」を読むのが慣例となっている。今年は竹内駿治君(広島市立吉島東小学校6年)と中森柚子さん(広島市立口田小学校6年)が代表に選ばれた。以下「平和への誓い」を紹介したい。その内容(しんぶん赤旗・8月7日付参照)は次の通り。

 今でも逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている。当時3歳だった祖母の言葉に驚き、怖くなりました。「行ってきます」と出かけた家族、「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。でも帰ってこなかった。それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。
 68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。身体に傷を負うだけでなく、心まで深く傷つけ、消えることもなく、多くの人々を苦しめています。

 今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。命とともに、つなぎたいものがあります。だから、あの日から目をそむけません。もっと知りたいのです。被爆の事実を、被爆者の思いを。もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。
 平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。

 平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです。そのために、友だちや家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して世界の人々と交流します。
 方法は違っていてもいいのです。大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。さあ、一緒に平和をつくりましょう。大切なバトンをつなぐために。
 2013年8月6日

<安原の感想> 平和とは、自らつくりだすもの

 「平和への誓い」で特に注目したいのは、次の一節である。
 「平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです」と。

 ここには含蓄に富む認識、表現を見出すことができる。われわれ大人の多くは、ややもすれば<平和=反戦>と捉えてはいないだろうか。すなわち戦争のない状態が平和なのであり、戦争さえなければ、世の中は平和であるという受け止め方である。特にあの敗戦と共に終わった大戦の経験者にこういう発想が多いように思う。

 これはこれで決して無意味と言いたいわけではない。安倍政権の登場と共に、現行憲法9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)の理念の骨抜き、日米安保体制の強化、すなわち戦争をも辞さない姿勢がうかがえる。このような安倍政権の安易な姿勢に対して<平和=反戦>の旗を掲げる意味は決して小さくはない。

 しかしこの平和観はいかにも視野が狭い。日常生活の平和という感覚からほど遠いのだ。子どもたちが提起している平和観はまさに日常生活の平和の実践にほかならない。子どもたちの表現を借りると、「生活できること」、「一人一人が輝いていること」、「幸せを感じること」、言い換えれば借り物ではなく、「自らがつくりだすもの、すなわち平和」なのだ。だからこそ「一緒に平和をつくりましょう」という呼びかけにつながっていく。
 私(安原)はそういう子どもたちを信じて、平和な日本の未来に希望を託したい。


(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)