今こそ「脱成長の社会」に向けて
安原和雄
これまで何度も脱経済成長論に言及してきたが、またもや脱成長論に思いを馳せねばならない。しかもその脱成長論は脱原発と一心同体である。脱原発のための脱成長論と言い直すこともできる。経済成長のためには原発推進も不可欠とみるのが原発推進派の言い分だが、この主張は「亡国・ニッポン」への道につながっている。だからこそ亡国への道を回避するためには脱原発という選択肢以外は考えにくい。
小泉純一郎元首相が最近「原発ゼロ」を提唱して話題を呼んでいる。その目指すところは「亡国・ニッポン」への危機をいかに乗り越えるかであるに違いない。肝心なことは「原発ゼロ」実現のためには「脱成長」をも覚悟することである。(2013年11月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
村上達也、神保哲生共著『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、2013年8月刊)は、日本におけるこれまでの原発依存症を克服して、脱原発の新しい進路を模索するには不可欠の力作である。
著者の村上達也(むらかみ たつや)氏は、1943年東海村生まれ。東海村村長(2013年9月退任。)、「脱原発をめざす首長会議」世話人として活躍。神保哲生(じんぼう てつお)氏は、1961年東京都生まれ、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了のジャーナリスト。なお村上氏の肩書は11月の現在すでに「前村長」となっているが、著作を発表した8月の時点では現職の町長だったので、主見出しは「東海村・村長の脱原発論を読んで」となっている。
『東海村・村長の「脱原発」論』から「脱原発」に関する主張の要点を以下、紹介する。
(1)「科学的精神」の欠如という日本の病
問題の根本にあるのは何かと問われれば、我々日本人は科学というものについての根源的な知識、あるいは哲学、科学的な精神がないんじゃないか。ギリシャ文明だとか、中世のヨーロッパでは科学が宗教の中から出てきた。宗教と対峙しながら科学が生まれてきた。それがルネッサンスで大きく花開いて、科学的な精神が17~18世紀の合理主義につながり、産業革命があって、社会が発展してきた。
そういう根っこがあるヨーロッパと違って、我々日本人は科学を自分で思考せずに、完成品として受容した。朝日新聞論説委員だった笠信太郎が言っていた「切り花論」に等しい。日本は西洋の技術を導入して、やみくもに資本主義的な発展を目指してきた。原発もまったく同じ構造で導入されたところに、失敗の原因があった。
(2)持続できる地域社会をつくっていこう
東海村は2011年から2020年までの10年間の第5次総合計画を決めた。その理念は「村民の叡智(えいち)が生きるまちづくり― 今と未来を生きる全ての命あるもののために」ときわめて高い。基本目標として次の三つを掲げた。
*未来を拓(ひら)く=過去に学び、現在を考え、未来を拓くことのできる叡智の伝承・創造を目指す。
*多様な選択=一人ひとりが尊重され、多様な選択が可能な社会を村民の叡智を活かし、村民主体で創造していく。
*自然といのちの調和=自然といのちの調和と循環を重視し、多様な叡智を結集して新たな創造する活力あるまちを目指す。
ここでは「カネ」のことや「地域経済の発展」は、言っていない。これを策定するとき、村民や職員に呼びかけたことはひとつだけだった。「持続できる地域社会をつくっていこう」と。原発では地域社会を持続的に支えられないことははっきりしていたわけだから。
(3)経済成長神話の反省を
今、反省しなければならないのは、経済成長神話なんですよ。成長、成長ということで、高いところを目指して上へ上へと遮二無二歩いてきた結果が、今の惨憺たる日本社会の状況でしょう。
働く人の三分の一が非正規労働者という社会がつくられて、そのうえに労働契約法も改悪して、首切りしやすくするとか、そういうまさに資本主義的な論理で、どんどん人間の存在というものが、低められ、小さくされてきている。盛んに言われるグローバル化という動きについても、これはおかしい。我々を幸せにしないものなのにわざわざ乗り遅れないようにする必要があるのかと疑問に思う。
原発依存、つまり化け物に依存するような社会から脱却して、人間性を回復すべきだろう。しかし脱成長社会に転換することは、たとえば経団連で威張っているおじさん達にとっては、自分の育ててきた産業とそれを通じて得た権力の否定を意味する。そこに原発と同じようなムラ、たとえば経団連ムラがあって、同じように言論の自由もなかったりする。
(4)大変不気味で恐ろしい空気が覆っている
今、日本には暗い雲が立ちこめていると強く感じている。原発が再び、国家の経済、国家の利益、国家の威信を守るための「国策」― これは戦時中の言葉だが― といつの間にか位置づけられ、地域住民の声が届かない中央で物事が決められて、推進に傾いた議論が行われている。
しかも不都合な情報を出さず、事故の検証も不十分なままで周辺住民の意思を問うプロセスも経ずに、原発を再稼働させようとする権力の姿勢に、なぜか全国民的な異議の声が上がっていない。大変不気味で、恐ろしい空気が日本を覆っている。
(5)国民の生命こそ何物にも代えがたい
言いたいことはシンプルだ。人の命は、何物にも代えがたい。原発政策がはらむ住民軽視の姿勢は、すなわち人命軽視の姿勢にほかならない。原発は経済効率がいいとか、安全保障上の意義があるという人もいるだろう。だが、国家のプライドも、産業界の利益も、国民の生命の上にあってはならない。そのことを私たちは戦前の歴史で学んだはずだ。
住民の命を直接に預かる自治体の長こそ、そのことを強く訴えるべきではないか。
自治体の声が国の政策をも動かせるようになったとき、この国のあり方は大きく変わるのではないか。その強い思いが、私に脱原発を公言させてきた。人命軽視のこの日本の腐りきった社会との戦いに、これまで以上に深く真剣に関わっていく所存である。
<安原の感想> 原発「即ゼロ」に踏み切るとき
小泉純一郎元首相は、11月12日、日本記者クラブで会見し、安倍首相に「原発即時ゼロ」の方針を打ち出すよう力説した。朝日新聞(11月13日付)によると、小泉氏の発言内容は以下のようである。
*原発ゼロの時期について「即ゼロがいい」と明言した。原発再稼働については「再稼働するとまた核のごみも増えていく」と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について「どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい」と中止を求めた。
*原発をめぐる今の政治状況について「野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている。首相が決断すれば反対論者も黙る」と強調し、「結局、首相の判断力、洞察力の問題だ」と安倍首相の決断を求めた。
以上の正当な小泉発言について安倍首相及びその周辺は無視する姿勢である。菅義偉官房長官が12日の記者会見で改めて原発を活用する政策を続ける考えを示したことからも、「小泉発言無視」は明らかである。しかし私(安原)は小泉発言に賛成であり、原発の「即ゼロ」に踏み切るときだと考える。なぜなら原発によって経済成長を図ろうとするのは危険であり、望ましい政策とは言えないからである。
経済成長は人間にたとえれば、身長が伸びて、体重が増えることを意味する。身長が伸びて体重が増えても、人間として心身ともに立派であるとは限らない。同様に経済成長が進むとしても、たしかに経済の量的規模はふくらむが、その経済が質的に立派であるとは言えない。だから上質の経済を創造するためには経済の質的転換が不可欠となる。
焦点の原子力発電は、これまでの原発事故の惨状が明示しているようにいのち・自然・人間との共存は不可能であり、上質の経済とは相容れない。だからもはや脱原発を目指す以外の選択肢はあり得ない。にもかかわらず原発推進にこだわる者たちは、自らの錯覚に気づかず、いのち・自然・人間を粗末に扱う無神経な群像というほかないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
これまで何度も脱経済成長論に言及してきたが、またもや脱成長論に思いを馳せねばならない。しかもその脱成長論は脱原発と一心同体である。脱原発のための脱成長論と言い直すこともできる。経済成長のためには原発推進も不可欠とみるのが原発推進派の言い分だが、この主張は「亡国・ニッポン」への道につながっている。だからこそ亡国への道を回避するためには脱原発という選択肢以外は考えにくい。
小泉純一郎元首相が最近「原発ゼロ」を提唱して話題を呼んでいる。その目指すところは「亡国・ニッポン」への危機をいかに乗り越えるかであるに違いない。肝心なことは「原発ゼロ」実現のためには「脱成長」をも覚悟することである。(2013年11月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
村上達也、神保哲生共著『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、2013年8月刊)は、日本におけるこれまでの原発依存症を克服して、脱原発の新しい進路を模索するには不可欠の力作である。
著者の村上達也(むらかみ たつや)氏は、1943年東海村生まれ。東海村村長(2013年9月退任。)、「脱原発をめざす首長会議」世話人として活躍。神保哲生(じんぼう てつお)氏は、1961年東京都生まれ、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了のジャーナリスト。なお村上氏の肩書は11月の現在すでに「前村長」となっているが、著作を発表した8月の時点では現職の町長だったので、主見出しは「東海村・村長の脱原発論を読んで」となっている。
『東海村・村長の「脱原発」論』から「脱原発」に関する主張の要点を以下、紹介する。
(1)「科学的精神」の欠如という日本の病
問題の根本にあるのは何かと問われれば、我々日本人は科学というものについての根源的な知識、あるいは哲学、科学的な精神がないんじゃないか。ギリシャ文明だとか、中世のヨーロッパでは科学が宗教の中から出てきた。宗教と対峙しながら科学が生まれてきた。それがルネッサンスで大きく花開いて、科学的な精神が17~18世紀の合理主義につながり、産業革命があって、社会が発展してきた。
そういう根っこがあるヨーロッパと違って、我々日本人は科学を自分で思考せずに、完成品として受容した。朝日新聞論説委員だった笠信太郎が言っていた「切り花論」に等しい。日本は西洋の技術を導入して、やみくもに資本主義的な発展を目指してきた。原発もまったく同じ構造で導入されたところに、失敗の原因があった。
(2)持続できる地域社会をつくっていこう
東海村は2011年から2020年までの10年間の第5次総合計画を決めた。その理念は「村民の叡智(えいち)が生きるまちづくり― 今と未来を生きる全ての命あるもののために」ときわめて高い。基本目標として次の三つを掲げた。
*未来を拓(ひら)く=過去に学び、現在を考え、未来を拓くことのできる叡智の伝承・創造を目指す。
*多様な選択=一人ひとりが尊重され、多様な選択が可能な社会を村民の叡智を活かし、村民主体で創造していく。
*自然といのちの調和=自然といのちの調和と循環を重視し、多様な叡智を結集して新たな創造する活力あるまちを目指す。
ここでは「カネ」のことや「地域経済の発展」は、言っていない。これを策定するとき、村民や職員に呼びかけたことはひとつだけだった。「持続できる地域社会をつくっていこう」と。原発では地域社会を持続的に支えられないことははっきりしていたわけだから。
(3)経済成長神話の反省を
今、反省しなければならないのは、経済成長神話なんですよ。成長、成長ということで、高いところを目指して上へ上へと遮二無二歩いてきた結果が、今の惨憺たる日本社会の状況でしょう。
働く人の三分の一が非正規労働者という社会がつくられて、そのうえに労働契約法も改悪して、首切りしやすくするとか、そういうまさに資本主義的な論理で、どんどん人間の存在というものが、低められ、小さくされてきている。盛んに言われるグローバル化という動きについても、これはおかしい。我々を幸せにしないものなのにわざわざ乗り遅れないようにする必要があるのかと疑問に思う。
原発依存、つまり化け物に依存するような社会から脱却して、人間性を回復すべきだろう。しかし脱成長社会に転換することは、たとえば経団連で威張っているおじさん達にとっては、自分の育ててきた産業とそれを通じて得た権力の否定を意味する。そこに原発と同じようなムラ、たとえば経団連ムラがあって、同じように言論の自由もなかったりする。
(4)大変不気味で恐ろしい空気が覆っている
今、日本には暗い雲が立ちこめていると強く感じている。原発が再び、国家の経済、国家の利益、国家の威信を守るための「国策」― これは戦時中の言葉だが― といつの間にか位置づけられ、地域住民の声が届かない中央で物事が決められて、推進に傾いた議論が行われている。
しかも不都合な情報を出さず、事故の検証も不十分なままで周辺住民の意思を問うプロセスも経ずに、原発を再稼働させようとする権力の姿勢に、なぜか全国民的な異議の声が上がっていない。大変不気味で、恐ろしい空気が日本を覆っている。
(5)国民の生命こそ何物にも代えがたい
言いたいことはシンプルだ。人の命は、何物にも代えがたい。原発政策がはらむ住民軽視の姿勢は、すなわち人命軽視の姿勢にほかならない。原発は経済効率がいいとか、安全保障上の意義があるという人もいるだろう。だが、国家のプライドも、産業界の利益も、国民の生命の上にあってはならない。そのことを私たちは戦前の歴史で学んだはずだ。
住民の命を直接に預かる自治体の長こそ、そのことを強く訴えるべきではないか。
自治体の声が国の政策をも動かせるようになったとき、この国のあり方は大きく変わるのではないか。その強い思いが、私に脱原発を公言させてきた。人命軽視のこの日本の腐りきった社会との戦いに、これまで以上に深く真剣に関わっていく所存である。
<安原の感想> 原発「即ゼロ」に踏み切るとき
小泉純一郎元首相は、11月12日、日本記者クラブで会見し、安倍首相に「原発即時ゼロ」の方針を打ち出すよう力説した。朝日新聞(11月13日付)によると、小泉氏の発言内容は以下のようである。
*原発ゼロの時期について「即ゼロがいい」と明言した。原発再稼働については「再稼働するとまた核のごみも増えていく」と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について「どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい」と中止を求めた。
*原発をめぐる今の政治状況について「野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている。首相が決断すれば反対論者も黙る」と強調し、「結局、首相の判断力、洞察力の問題だ」と安倍首相の決断を求めた。
以上の正当な小泉発言について安倍首相及びその周辺は無視する姿勢である。菅義偉官房長官が12日の記者会見で改めて原発を活用する政策を続ける考えを示したことからも、「小泉発言無視」は明らかである。しかし私(安原)は小泉発言に賛成であり、原発の「即ゼロ」に踏み切るときだと考える。なぜなら原発によって経済成長を図ろうとするのは危険であり、望ましい政策とは言えないからである。
経済成長は人間にたとえれば、身長が伸びて、体重が増えることを意味する。身長が伸びて体重が増えても、人間として心身ともに立派であるとは限らない。同様に経済成長が進むとしても、たしかに経済の量的規模はふくらむが、その経済が質的に立派であるとは言えない。だから上質の経済を創造するためには経済の質的転換が不可欠となる。
焦点の原子力発電は、これまでの原発事故の惨状が明示しているようにいのち・自然・人間との共存は不可能であり、上質の経済とは相容れない。だからもはや脱原発を目指す以外の選択肢はあり得ない。にもかかわらず原発推進にこだわる者たちは、自らの錯覚に気づかず、いのち・自然・人間を粗末に扱う無神経な群像というほかないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
21世紀版映画「おしん」を観て
安原和雄
最近(2013年10月下旬)、21世紀版映画「おしん」を観る機会があった。どこにこれほどの涙が隠れていたのかと思えるほど涙が止まらなかった。私にとって30年前の連続テレビドラマ「おしん」物語には断ちがたい想い出がある。「忍耐と我慢のシンボル」ともうたわれたこのドラマは、当時も涙なしには観ることができなかった。
今指摘すべきことは、「おしん」は単なる昔話ではなく、現在進行形の「忍耐と我慢」の物語にほかならない。世に言う多数の非正規労働者の存在は見逃せない。非正規労働者に限らない。必要にして正当な自己主張もままならぬサラリーマン、労働者が多すぎるのではないか。いつになったら、この望ましくない非正常な現実から抜け出せるのか。(2013年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
NHK連続テレビ小説「おしん」は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放映された。全国に「おしんブーム」を巻き起こし、前代未聞の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%を記録した。国内に限らず、現在までに世界68の国と地域でも放映された。
「おしん」に関する当時の毎日新聞社説(昭和59年=1984年4月1日付、つまり「おしん」が終わった日の翌日。筆者は現役の論説委員だった私・安原)を紹介する。その見出しは<いつまで「おしん」なのか>である。当時他紙の社説は「おしん」問題をほとんど論じなかったように記憶している。その意味では「おしん」問題をわざわざ論じた社説は、当時としてはひと味異なった性質のものだった。
▽ 当時の毎日新聞社説<いつまで「おしん」なのか>
社説の大要は以下の通り。
人気テレビドラマ「おしん」が終わった。何度も頬をぬらした人たちにとっても、このドラマはそのうち忘却のかなたへと消えていくことになるのだろう。しかし忍耐と我慢のシンボルとさえいわれた「おしん」は本当にドラマの世界での主役でしかなかったのだろうか。
身近な生活を見回してみても、心なごむ話は意外に少ない。昭和58(1983)年末現在の貯蓄・負債動向調査によると、サラリーマン世帯のうち住宅・土地の負債をかかえている世帯が34.0%と初めて3分の1を超えた。国民生活実態調査によると、所得格差は広がる一方であり、しかも生活実感として「大変苦しい」と「やや苦しい」を合わせて38.6%の世帯が家計の苦しさを訴えている。妻の3分の1は「家計の補助、維持」を理由にパートなどで稼ぐのに精を出している。住宅ローンの負担にあえぎながら、ついついサラ金に手を出し、自殺にまで追い込まれるケースも珍しくない。
最近次々と発表された政府の公式統計や調査からうかがうことのできる私たちの生活の素顔がこれである。たしか、国民のほとんどが中流意識を身につけ、暖衣飽食に首まで浸っていると喧(けん)伝する向きもあったが、これはいったいどこでどうすれ違いを起こしたのだろうか。
税金など非消費支出がふえつづけ、消費生活の足を引っ張っているのは、いうまでもなく、所得減税を見送り、サラリーマンにとって実質増税となっているためである。昨年暮れの総選挙で中曽根政権が公約した1兆円減税も、酒税など間接税の増税と抱き合わせで帳消しとなったことはいまさら指摘するまでもない。
財界首脳が「我慢の哲学」を国民に説くのに大いに活用したのがおしんブームであった。そこには春闘による賃上げをできるだけ抑制しようという意図が働いている。収入が増えず、それでいて、その収入に占める税負担など非消費支出がふえれば、否応なしに私たちが「おしん」の生活をしいられることは小学生でもわかる単純な算術の問題である。「おしん」を拡大再生産していくメカニズムが定着してしまったのか。
ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい。
▽ 21世紀版「おしん物語」を終わらせるには
30年前の当時の毎日新聞社説は次のように締めくくっている。<ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい>と。
この指摘は21世紀の現在もなおほぼそのまま当てはまるのではないか。周知のように働く人達のうち4割近い非正規労働者が低賃金など不適正な労働条件を強いられている。まさに現代版「おしん物語」というほかないだろう。
特に安倍政権の登場とともに「大資本優遇、労働者冷遇」の傾向が強まっている。言い換えれば、安倍政権は今、「おしんの拡大再生産」に熱心であり、励んでいるのである。21世紀版「おしん物語」を打破するためには何が必要か。「労働者の団結と反撃」という古典的でありながらパワーあふれる戦法に学び、実践する以外に妙手はない。つまり「労働者諸君、立ち上がれ」の一言に尽きる。
ところが現状は独りで閉じこもって悩んでいる働き手、サラリーマンが多いように想うが、いかがだろうか。これでは現代版「おしん」にさようなら! を告げるのはむずかしいだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
最近(2013年10月下旬)、21世紀版映画「おしん」を観る機会があった。どこにこれほどの涙が隠れていたのかと思えるほど涙が止まらなかった。私にとって30年前の連続テレビドラマ「おしん」物語には断ちがたい想い出がある。「忍耐と我慢のシンボル」ともうたわれたこのドラマは、当時も涙なしには観ることができなかった。
今指摘すべきことは、「おしん」は単なる昔話ではなく、現在進行形の「忍耐と我慢」の物語にほかならない。世に言う多数の非正規労働者の存在は見逃せない。非正規労働者に限らない。必要にして正当な自己主張もままならぬサラリーマン、労働者が多すぎるのではないか。いつになったら、この望ましくない非正常な現実から抜け出せるのか。(2013年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
NHK連続テレビ小説「おしん」は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放映された。全国に「おしんブーム」を巻き起こし、前代未聞の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%を記録した。国内に限らず、現在までに世界68の国と地域でも放映された。
「おしん」に関する当時の毎日新聞社説(昭和59年=1984年4月1日付、つまり「おしん」が終わった日の翌日。筆者は現役の論説委員だった私・安原)を紹介する。その見出しは<いつまで「おしん」なのか>である。当時他紙の社説は「おしん」問題をほとんど論じなかったように記憶している。その意味では「おしん」問題をわざわざ論じた社説は、当時としてはひと味異なった性質のものだった。
▽ 当時の毎日新聞社説<いつまで「おしん」なのか>
社説の大要は以下の通り。
人気テレビドラマ「おしん」が終わった。何度も頬をぬらした人たちにとっても、このドラマはそのうち忘却のかなたへと消えていくことになるのだろう。しかし忍耐と我慢のシンボルとさえいわれた「おしん」は本当にドラマの世界での主役でしかなかったのだろうか。
身近な生活を見回してみても、心なごむ話は意外に少ない。昭和58(1983)年末現在の貯蓄・負債動向調査によると、サラリーマン世帯のうち住宅・土地の負債をかかえている世帯が34.0%と初めて3分の1を超えた。国民生活実態調査によると、所得格差は広がる一方であり、しかも生活実感として「大変苦しい」と「やや苦しい」を合わせて38.6%の世帯が家計の苦しさを訴えている。妻の3分の1は「家計の補助、維持」を理由にパートなどで稼ぐのに精を出している。住宅ローンの負担にあえぎながら、ついついサラ金に手を出し、自殺にまで追い込まれるケースも珍しくない。
最近次々と発表された政府の公式統計や調査からうかがうことのできる私たちの生活の素顔がこれである。たしか、国民のほとんどが中流意識を身につけ、暖衣飽食に首まで浸っていると喧(けん)伝する向きもあったが、これはいったいどこでどうすれ違いを起こしたのだろうか。
税金など非消費支出がふえつづけ、消費生活の足を引っ張っているのは、いうまでもなく、所得減税を見送り、サラリーマンにとって実質増税となっているためである。昨年暮れの総選挙で中曽根政権が公約した1兆円減税も、酒税など間接税の増税と抱き合わせで帳消しとなったことはいまさら指摘するまでもない。
財界首脳が「我慢の哲学」を国民に説くのに大いに活用したのがおしんブームであった。そこには春闘による賃上げをできるだけ抑制しようという意図が働いている。収入が増えず、それでいて、その収入に占める税負担など非消費支出がふえれば、否応なしに私たちが「おしん」の生活をしいられることは小学生でもわかる単純な算術の問題である。「おしん」を拡大再生産していくメカニズムが定着してしまったのか。
ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい。
▽ 21世紀版「おしん物語」を終わらせるには
30年前の当時の毎日新聞社説は次のように締めくくっている。<ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい>と。
この指摘は21世紀の現在もなおほぼそのまま当てはまるのではないか。周知のように働く人達のうち4割近い非正規労働者が低賃金など不適正な労働条件を強いられている。まさに現代版「おしん物語」というほかないだろう。
特に安倍政権の登場とともに「大資本優遇、労働者冷遇」の傾向が強まっている。言い換えれば、安倍政権は今、「おしんの拡大再生産」に熱心であり、励んでいるのである。21世紀版「おしん物語」を打破するためには何が必要か。「労働者の団結と反撃」という古典的でありながらパワーあふれる戦法に学び、実践する以外に妙手はない。つまり「労働者諸君、立ち上がれ」の一言に尽きる。
ところが現状は独りで閉じこもって悩んでいる働き手、サラリーマンが多いように想うが、いかがだろうか。これでは現代版「おしん」にさようなら! を告げるのはむずかしいだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
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