連載・やさしい仏教経済学(9)
安原和雄
仏教に深い理解を示す海外の思想家はシューマッハーに限らない。米国の環境思想史家として知られるロデリック・F・ナッシュもその一人として挙げることができる。ナッシュの著作『自然の権利―環境倫理の文明史』を手がかりに人間中心主義から生命中心主義への転換の今日的意義を考える。
「人間の自然権」の重視、すなわち人間が自然を支配するのが当然、とみる人間中心主義を克服して、「自然の自然権」の重視、すなわち人間と<自然=地球>との共生を目指す生命中心主義への新しい流れを追ってみる。この生命中心主義こそは仏教経済思想の根幹の一つとなっているが、いまでは欧米文明の中で無視できない新潮流となってきた。(2010年7月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ロデリック・F・ナッシュ(注1)著/松野 弘 訳『自然の権利―環境倫理の文明史』(ちくま学芸文庫、1999年刊)は「人間の自然権」を軸に据える人間中心主義から「自然の自然権」を重視する生命中心主義への転換を詳細な文献、データを駆使して描いた労作である。その要点を以下に紹介し、<安原の感想>を付記する。
(注1)ナッシュは1939年生まれ。米国の最も優れた環境思想史研究者といわれ、環境運動、環境教育の実践的指導者。カリフォルニア大学歴史学部教授を経て同大学名誉教授。著作の文庫版への序文で「禅は日本において長く豊かな伝統をもっている。これは自然界をも包摂するような、拡大された倫理に向けた豊潤な知的土壌となっている。仏教徒は十分に発達した倫理が自然のありとあらゆるものを含んでいることを理解している」と環境倫理との関連で日本仏教への深い親近感を示している。
▽ 解放されたイルカは、ついに自由を得た
「イルカ解放事件」をご存じだろうか。1977年ハワイのオアフ島で、ハワイ大学の心理学教授が8年間訓練していたイルカのカップルを2人の大学生が逃がした。他人の私有物に対する重窃盗罪で懲役6か月、執行猶予5年の刑を受けた。しかし2人は堂々と「解放されたイルカはたしかに旅立ち、ついに自由を得た」と語り、ハワイで一躍名士となった。
この解放事件には次のような背景がある。
一つはイルカは「海の人間」という認識である。
神経生理学者のジョン・C・リリー(イルカ研究所長)は、イルカの脳はいくつかの点で人間の脳より勝っていること、また研究のために飼っていたイルカの何匹かが「自殺」(彼の言葉)したことを発見して、イルカを「海の人間」と表現し、「地球上の海水で完全な自由」を持つべきだと主張し、動物の解放者となった。
もう一つは、グリーンピース(注2)の直接行動である。
海の哺乳動物、とりわけクジラとアザラシの権利は、1970年代中ごろから、グリンピースの主要な関心事となり、捕鯨、アザラシ狩りの抗議運動に参加するようになった。
1974年に活動の対象を「人間の生命に対する尊厳から、すべての生命に対する尊厳」に拡大した。「グリーンピース哲学」は次のように宣言した。「人類は地球上の生命体の中心ではない。われわれは地球を自分自身と同様に尊重することを学ばなければならない」と。
(注2)グリーンピース(greenpeace)は1971年結成。本部はオランダのアムステルダム、2008年現在、支援者は290万人、有給専従職員は約1000人。支部は日本(1989年設立)を含め、世界で41か国。環境保全、自然保護、原子力、エネルギーなどの分野で世界的に知られる団体。時折、過激な行動がニュースになる。(ウィキペディア参照)
<安原の感想> 「人間の自然権」から「自然の自然権」へ
地球のあちこちで「自然の解放」のための直接行動が繰り広げられることになった。ここへたどり着くに至った、人間と自然との関係に関する思想はどのように変化・発展してきたのか。これをを図式化(弁証法的発展)すると、次のようになる。
<正>人間の自然権(人間中心主義、人間の自然支配)
<反>自然の権利 (生命中心主義、生命体としての自然の尊重、生命の権利の容認)
<合>自然の自然権(人間と<自然=地球>との共生)
「自然の自然権」とは、人間と同様に自然にも天賦人権と同じ自然権がある、という意。
▽ 生命中心主義と人間中心主義はどう違うのか
「自然は固有の価値をもつ。その結果、自然は存在する権利を保有している」という立場は「生命中心主義」(biocentralism)、「生態学的平等主義」(ecological egalitarianism)あるいは「ディープ・エコロジー」(deep ecology=生命中心主義的で深遠な生態学)などと呼ばれている。これと正反対の立場が「人間こそがすべての価値の尺度である」という考え方にもとづく「人間中心主義」(anthropocentrism)であり、「シャロー・エコロジー」(shallow ecology=人間中心的で皮相な生態学)とも言われる。
*鹿とアインシュタインは平等である
人間以外の存在と自然の両方に対する「生命の権利」という考え方は1970年代になると急速に関心を増した。これは具体的に何を意味しているのか。「鹿とアインシュタイン(注3)は果たして違うのか?」という興味深い問題がある。以下がその答えである。
平等の原理によって人間の利益と動物の利益は平等に評価されなければならない。人間と同じようにネコや鹿も生命と知覚作用を大切にしている。鹿が人間と同じように考えないことが、権利の分配に何ら関連性がないということは、アインシュタインが平均的人間と比べて進んだ思考をするからといって、権利を多く与えられないのと同じである。倫理的配慮の際の重要な要素は、意識(必ずしも自意識とは限らない)と感覚である。知能によって人間同士の権利に差が生じないのと同様、知能を根拠として人間と他の存在の権利を差別することはできない ― と。要するに「平等」が正解ということになる。
(注3)アインシュタイン(1879~1955年)はアメリカの理論物理学者。ドイツ生まれのユダヤ人。相対性理論や光量子説などで知られる。1921年ノーベル物理学賞受賞。
*「山の身になって考える」 ― 人間中心主義を超えて
環境倫理学の父、アルド・レオポルド(1887~1947年)は生命中心主義の重要な創始者で、「山の身になって考える」(thinkinng like a mountain)という論文(1944年)で人間中心主義を超えた。
彼のもっとも急進的な思想は、人間以外の生命体、および「生命共同体」(life-community)、すなわち生態系の固有の権利にかかわるものである。動植物だけでなく、水、土壌などのような「自然の状態で存続するものの権利」を主張している。すなわち地球を人間と共有している生命体は「われわれ人間に経済上の利益をもたらすか否かにかかわらず、生命の権利(biotic right)」として生きることを許されるべきである ― と。
▽ <ガイア=地球生命体>仮説と「地球の権利」
*「ガイア仮説」が登場
イギリスの化学者、ジェームズ・ラヴロックが1970年代半ばに「ガイア仮説」(注4)を提案した。
彼によれば、「地球という惑星は自動制御できる環境をつくりつつ、現在でもその環境を維持している。その環境は部分的要素である生命体を支えるのみならず、自らも生きている」。
適正な環境倫理は、全体である地球に価値を与えるよう求める。人類は地球という共同体のなかで、唯一道徳的な意識をもつ成員、つまり<ガイア>の脳細胞であるから、自分の属する地球の幸福を維持するために、自制という独自の能力を持っている。(中略)要するに地球は権利をもつ最高の存在とみなされ、その権利は下位の存在の権利よりも優先される。
(注4)ガイアとはギリシア神話に登場する地母神(ちぼしん)で、諸々の存在の母であり、慈しみ深い地の女神である。語源的にはギリシア語のGaiaは英語のEarthにあたり、地球、大地という意味。ガイア仮説は「地球全体が一つの有機体であり、地球は巨大な一つの生き物である」という考え方である。
*地球外へ放出される有害な人類
「動物の権利」専門家、スティーブン・R・L・クラーク教授は1983年、「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、一つの種(人間を含む)を死守することではない」と言った。単純な有機体が有毒な液体や固形の廃棄物を取り除き、癌や伝染病を破壊しようとするように、有機体である地球には破壊的な因子を排除する能力がある。
ガイア仮説の要点は、この惑星で現在もっとも恐るべき有害な存在である人類も、その技術文明を一掃しない限り、放出されるかもしれないことを示唆している。
<安原の感想> 地球外へ放出される巨悪はだれか?
「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、人間を死守することではない」との指摘は深い示唆を投げかけている。これは人類が地球にとって有害であり続ければ、やがて巨大な廃棄物として地球外へ放出されることを意味している。その放出の候補に挙げられるのはだれか。
人類の中でも巨悪な存在の一つ、米日軍産複合体(注5)の一派が、日米安保体制という「暴力装置」を足場に地球規模で軍事力を行使し、地球(=いのち・自然の生命共同体)を破壊し続ければ、地球という有機体内の毒物として、やがて地球外へ放り出される運命を辿ることになるといえるかもしれない。
それを受け容れることができないのであれば、自然の権利、生命の権利の尊重はもちろんのこと、さらに「地球に対しても尊敬の念」を抱く以外には自らを救う方策は考えられない。
(注5)昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウスのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。
米国版軍産複合体と一体化しているのが日本版軍産複合体で、構成メンバーは、首相官邸のほか、米国と同類の面々で、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。最近では特に大手新聞論調の安保体制への追随ぶりは目に余る。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教に深い理解を示す海外の思想家はシューマッハーに限らない。米国の環境思想史家として知られるロデリック・F・ナッシュもその一人として挙げることができる。ナッシュの著作『自然の権利―環境倫理の文明史』を手がかりに人間中心主義から生命中心主義への転換の今日的意義を考える。
「人間の自然権」の重視、すなわち人間が自然を支配するのが当然、とみる人間中心主義を克服して、「自然の自然権」の重視、すなわち人間と<自然=地球>との共生を目指す生命中心主義への新しい流れを追ってみる。この生命中心主義こそは仏教経済思想の根幹の一つとなっているが、いまでは欧米文明の中で無視できない新潮流となってきた。(2010年7月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ロデリック・F・ナッシュ(注1)著/松野 弘 訳『自然の権利―環境倫理の文明史』(ちくま学芸文庫、1999年刊)は「人間の自然権」を軸に据える人間中心主義から「自然の自然権」を重視する生命中心主義への転換を詳細な文献、データを駆使して描いた労作である。その要点を以下に紹介し、<安原の感想>を付記する。
(注1)ナッシュは1939年生まれ。米国の最も優れた環境思想史研究者といわれ、環境運動、環境教育の実践的指導者。カリフォルニア大学歴史学部教授を経て同大学名誉教授。著作の文庫版への序文で「禅は日本において長く豊かな伝統をもっている。これは自然界をも包摂するような、拡大された倫理に向けた豊潤な知的土壌となっている。仏教徒は十分に発達した倫理が自然のありとあらゆるものを含んでいることを理解している」と環境倫理との関連で日本仏教への深い親近感を示している。
▽ 解放されたイルカは、ついに自由を得た
「イルカ解放事件」をご存じだろうか。1977年ハワイのオアフ島で、ハワイ大学の心理学教授が8年間訓練していたイルカのカップルを2人の大学生が逃がした。他人の私有物に対する重窃盗罪で懲役6か月、執行猶予5年の刑を受けた。しかし2人は堂々と「解放されたイルカはたしかに旅立ち、ついに自由を得た」と語り、ハワイで一躍名士となった。
この解放事件には次のような背景がある。
一つはイルカは「海の人間」という認識である。
神経生理学者のジョン・C・リリー(イルカ研究所長)は、イルカの脳はいくつかの点で人間の脳より勝っていること、また研究のために飼っていたイルカの何匹かが「自殺」(彼の言葉)したことを発見して、イルカを「海の人間」と表現し、「地球上の海水で完全な自由」を持つべきだと主張し、動物の解放者となった。
もう一つは、グリーンピース(注2)の直接行動である。
海の哺乳動物、とりわけクジラとアザラシの権利は、1970年代中ごろから、グリンピースの主要な関心事となり、捕鯨、アザラシ狩りの抗議運動に参加するようになった。
1974年に活動の対象を「人間の生命に対する尊厳から、すべての生命に対する尊厳」に拡大した。「グリーンピース哲学」は次のように宣言した。「人類は地球上の生命体の中心ではない。われわれは地球を自分自身と同様に尊重することを学ばなければならない」と。
(注2)グリーンピース(greenpeace)は1971年結成。本部はオランダのアムステルダム、2008年現在、支援者は290万人、有給専従職員は約1000人。支部は日本(1989年設立)を含め、世界で41か国。環境保全、自然保護、原子力、エネルギーなどの分野で世界的に知られる団体。時折、過激な行動がニュースになる。(ウィキペディア参照)
<安原の感想> 「人間の自然権」から「自然の自然権」へ
地球のあちこちで「自然の解放」のための直接行動が繰り広げられることになった。ここへたどり着くに至った、人間と自然との関係に関する思想はどのように変化・発展してきたのか。これをを図式化(弁証法的発展)すると、次のようになる。
<正>人間の自然権(人間中心主義、人間の自然支配)
<反>自然の権利 (生命中心主義、生命体としての自然の尊重、生命の権利の容認)
<合>自然の自然権(人間と<自然=地球>との共生)
「自然の自然権」とは、人間と同様に自然にも天賦人権と同じ自然権がある、という意。
▽ 生命中心主義と人間中心主義はどう違うのか
「自然は固有の価値をもつ。その結果、自然は存在する権利を保有している」という立場は「生命中心主義」(biocentralism)、「生態学的平等主義」(ecological egalitarianism)あるいは「ディープ・エコロジー」(deep ecology=生命中心主義的で深遠な生態学)などと呼ばれている。これと正反対の立場が「人間こそがすべての価値の尺度である」という考え方にもとづく「人間中心主義」(anthropocentrism)であり、「シャロー・エコロジー」(shallow ecology=人間中心的で皮相な生態学)とも言われる。
*鹿とアインシュタインは平等である
人間以外の存在と自然の両方に対する「生命の権利」という考え方は1970年代になると急速に関心を増した。これは具体的に何を意味しているのか。「鹿とアインシュタイン(注3)は果たして違うのか?」という興味深い問題がある。以下がその答えである。
平等の原理によって人間の利益と動物の利益は平等に評価されなければならない。人間と同じようにネコや鹿も生命と知覚作用を大切にしている。鹿が人間と同じように考えないことが、権利の分配に何ら関連性がないということは、アインシュタインが平均的人間と比べて進んだ思考をするからといって、権利を多く与えられないのと同じである。倫理的配慮の際の重要な要素は、意識(必ずしも自意識とは限らない)と感覚である。知能によって人間同士の権利に差が生じないのと同様、知能を根拠として人間と他の存在の権利を差別することはできない ― と。要するに「平等」が正解ということになる。
(注3)アインシュタイン(1879~1955年)はアメリカの理論物理学者。ドイツ生まれのユダヤ人。相対性理論や光量子説などで知られる。1921年ノーベル物理学賞受賞。
*「山の身になって考える」 ― 人間中心主義を超えて
環境倫理学の父、アルド・レオポルド(1887~1947年)は生命中心主義の重要な創始者で、「山の身になって考える」(thinkinng like a mountain)という論文(1944年)で人間中心主義を超えた。
彼のもっとも急進的な思想は、人間以外の生命体、および「生命共同体」(life-community)、すなわち生態系の固有の権利にかかわるものである。動植物だけでなく、水、土壌などのような「自然の状態で存続するものの権利」を主張している。すなわち地球を人間と共有している生命体は「われわれ人間に経済上の利益をもたらすか否かにかかわらず、生命の権利(biotic right)」として生きることを許されるべきである ― と。
▽ <ガイア=地球生命体>仮説と「地球の権利」
*「ガイア仮説」が登場
イギリスの化学者、ジェームズ・ラヴロックが1970年代半ばに「ガイア仮説」(注4)を提案した。
彼によれば、「地球という惑星は自動制御できる環境をつくりつつ、現在でもその環境を維持している。その環境は部分的要素である生命体を支えるのみならず、自らも生きている」。
適正な環境倫理は、全体である地球に価値を与えるよう求める。人類は地球という共同体のなかで、唯一道徳的な意識をもつ成員、つまり<ガイア>の脳細胞であるから、自分の属する地球の幸福を維持するために、自制という独自の能力を持っている。(中略)要するに地球は権利をもつ最高の存在とみなされ、その権利は下位の存在の権利よりも優先される。
(注4)ガイアとはギリシア神話に登場する地母神(ちぼしん)で、諸々の存在の母であり、慈しみ深い地の女神である。語源的にはギリシア語のGaiaは英語のEarthにあたり、地球、大地という意味。ガイア仮説は「地球全体が一つの有機体であり、地球は巨大な一つの生き物である」という考え方である。
*地球外へ放出される有害な人類
「動物の権利」専門家、スティーブン・R・L・クラーク教授は1983年、「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、一つの種(人間を含む)を死守することではない」と言った。単純な有機体が有毒な液体や固形の廃棄物を取り除き、癌や伝染病を破壊しようとするように、有機体である地球には破壊的な因子を排除する能力がある。
ガイア仮説の要点は、この惑星で現在もっとも恐るべき有害な存在である人類も、その技術文明を一掃しない限り、放出されるかもしれないことを示唆している。
<安原の感想> 地球外へ放出される巨悪はだれか?
「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、人間を死守することではない」との指摘は深い示唆を投げかけている。これは人類が地球にとって有害であり続ければ、やがて巨大な廃棄物として地球外へ放出されることを意味している。その放出の候補に挙げられるのはだれか。
人類の中でも巨悪な存在の一つ、米日軍産複合体(注5)の一派が、日米安保体制という「暴力装置」を足場に地球規模で軍事力を行使し、地球(=いのち・自然の生命共同体)を破壊し続ければ、地球という有機体内の毒物として、やがて地球外へ放り出される運命を辿ることになるといえるかもしれない。
それを受け容れることができないのであれば、自然の権利、生命の権利の尊重はもちろんのこと、さらに「地球に対しても尊敬の念」を抱く以外には自らを救う方策は考えられない。
(注5)昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウスのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。
米国版軍産複合体と一体化しているのが日本版軍産複合体で、構成メンバーは、首相官邸のほか、米国と同類の面々で、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。最近では特に大手新聞論調の安保体制への追随ぶりは目に余る。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
連載・やさしい仏教経済学(8)
安原和雄
昨今、「経済」といえば、「成長」が合い言葉になっているような印象がある。「経済成長のために増税を」という珍説まで登場する始末である。経済成長こそが大目標で、そのためにはあらゆる手段が正当化されるかのような雰囲気である。しかし正直なところ、経済成長はそれほど立派な代物(しろもの)だろうか。
仏教経済学の視点からいえば、経済成長はもはや限界に直面している。それは地球上の有限の資源と環境が限りない成長を許さないからである。むしろ21世紀という時代は脱「経済成長」を求めている。それを前20世紀にいち早く提唱したのが仏教経済思想家、シューマッハーである。(2010年7月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここではシューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』(日本語訳は講談社学術文庫、原文・英文は1973年刊)が経済成長についてどう論じているかを紹介する。もちろん脱「経済成長」派として論陣を張っているが、今から40年近くも前の主張であることに留意したい。
▽ 際限のない経済成長はあり得ない
だれも彼もが十分に富を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪(た)えられる限度か、あるいはその双方からみて重大な疑問がある。
ケインズ(注1)に従えば、経済的進歩は、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせたときに、はじめて実現できる。現代の経済は、はげしい貪欲(どんよく)に動かされ、むやみやたらな嫉妬(しっと)心に満ちあふれているが、そのお陰で拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力をもつか、あるいはその中に崩壊のたねを宿しているかどうかにある。
(注1)ジョン・M・ケインズ(1883~1946年)はイギリスの著名な経済学者で、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(1936年)。大量の失業を克服するには財政支出拡大による有効需要創出策が不可欠と説いた。さらに貪欲、戦争も是認した。
限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。
ガンジー(注2)が説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」が当たっていよう。永続性は、「おやじの時代のぜいたく品が今ではみんな必需品」といって悦に入るような欲深な態度とは相反する。
(注2)マハトマ・ガンジー(1869~1948年)はインドの政治家・民族運動指導者で、インド独立の父ともうたわれる。非暴力主義の立場に徹したが、狂信的なヒンズー教徒に暗殺された。
貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない。
<安原の感想> 貪欲と嫉妬心は、有限の資源と環境とは折り合えない
シューマッハーの著作を読んでいると、「貪欲」、「嫉妬心」という言葉が繰り返し出てくる。「現代の経済は、はげしい貪欲に動かされ、嫉妬心に満ちあふれている」といった調子である。経済成長のために「貪欲のすすめ」を説いたのは、実はイギリスの経済学者、ケインズその人である。シューマッハーは、そのケインズとも交友関係にあったが、ここではケインズの経済成長論を批判する姿勢に立っている。その理由は、際限のない経済成長は有限の資源と環境とは両立できない、ということである。
つまり資源と環境は有限であり、経済成長が資源と環境に依存している以上、無限の経済成長は限界があり、不可能だという主張である。こういう認識は今(2010年現在)ではかなりの人々の支持を得ている。
▽ 経済成長は「善」という勝手な思い込み
数量的な方法によって、ある国の国民総生産(GNP)が5%伸びたとして、ではその伸びはよいことなのか、悪いことなのかと質問されると、経済学者は答えを避ける。GNPの伸びは、何が伸びたのかとか、その利益を得たものがいたとしたら、それはだれなのか、と関係なく善に決まっているのである。病的な成長、不健全な成長ないしは破壊的・破滅的な成長もあり得るのだという考えは、彼らにとっては抱いてはならない誤った考えなのである。
ごく一部の経済学者だけが、有限な環境の中で無限の成長はありえないことが明らかである以上、今後どの程度の「成長」が可能なのかという疑問を抱き始めている。とはいえこの人たちも、量的な成長の概念を脱却できていない。質的差異の優位を説かずに、彼らは(プラスの)成長の代わりにゼロ成長を主張しているにすぎない。
もちろん質を扱うのは量を扱うよりもはるかにむずかしい。判断を下すことが、計算することより高い次元の働きであるのと同じである。量的差異は質的差異に比べて分かりやすいし、定義もしやすい。一見科学的に精密だという印象を与えるけれども、その裏では重要な質的差異が犠牲になっている。
<安原の感想> 一部では「無限の成長」に疑問抱く
ここでは二つの点に着目したい。一つは経済学者たちは経済成長(当時は<国民総生産=GNP>で計っていたが、現在は<国内総生産=GDP>で表す)は批判の余地のない「善」に決まっていると思い込んでいたこと。だから病的な成長、破壊的な成長もあり得るという発想には気づきもしなかった。つまり経済成長論者たちは思考停止病にかかっていたといえる。この思考停止病患者は21世紀の今なお後を絶たない。
もう一つは、シューマッハーのほかにごく一部の経済学者ではあるが、当時すでに「無限の成長」に疑問を抱き始めていたこと、である。その具体例が以下に紹介するローマ・クラブと著作『成長の限界』である。
▽ ローマ・クラブと『成長の限界』
ローマ・クラブ(注3)は、「人類の危機」レポートとしての『成長の限界』(デニス・L・メドウズ米国MIT助教授ほか著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年刊)に関連して次のような「見解」を公表した。
・多くの人々が、現在の成長の趨勢は、有限な地球の規模とどの程度まで両立できるのか、地球の生命維持能力からみて度を過ごしてはいないかと真剣に自問するようになるのに本書は貢献するだろう。
・今はじめて、物的成長を放置することの対価を検討し、成長継続に対する代替策を求めることが決定的な重要性を帯びるに至った。
・先進諸国が自らの物的生産の成長の減速を推進すると同時に、一方では発展途上国がその経済を急速に成長させる努力に対して援助を行う必要がある。
(注3)ローマ・クラブは1970年スイス法人として設立された民間組織で、世界各国の科学者、経済学者、教育者、企業経営者などから構成されていた。人類の危機(核戦力の拡大、人口増大、広がる環境汚染、天然資源の枯渇、都市化の進行、増大する社会不安など)に関するプロジェクトが活動の中心テーマ。日本からは当時、大来佐武郎(日本経済研究センター理事長)、木川田一隆(東京電力会長)らがメンバーとなっていた。
シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』とローマ・クラブの『成長の限界』は1970年代初頭に相前後して世に問われたが、共に脱「経済成長」論の先がけとなった。
▽1970年ころと21世紀の現状を比較すると
21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。結論からいえば、「経済成長主義よ、さようなら」が合い言葉にさえなっている。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
さらに次のようにも記している。
今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。
<安原の感想> 経済成長はもはや「時代遅れ」
米国ワールドウオッチ研究所長のクリストファー・フレイヴィンはカリフォルニア州出身で、大学で経済学と生物学を専攻した。その彼が率いるチーム作成の『地球白書2008~09』は、上述のように「経済成長は時代遅れ」と断じているだけではない。現下の最大テーマである「気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配」は、「経済システムの自己破壊」を例証している、とも書いている。
シューマッハーが1970年代はじめに経済成長への批判を始めてから約40年を経た今日、経済成長(経済の拡大)は、経済発展(経済の質的改善)をもたらすどころか、「経済の自己破壊」を招きつつある。それでもなお成長論者たちは、「経済成長」を錦の御旗として生活悪化につながる悪税(消費税引き上げ)などの画策を止めようとはしない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
昨今、「経済」といえば、「成長」が合い言葉になっているような印象がある。「経済成長のために増税を」という珍説まで登場する始末である。経済成長こそが大目標で、そのためにはあらゆる手段が正当化されるかのような雰囲気である。しかし正直なところ、経済成長はそれほど立派な代物(しろもの)だろうか。
仏教経済学の視点からいえば、経済成長はもはや限界に直面している。それは地球上の有限の資源と環境が限りない成長を許さないからである。むしろ21世紀という時代は脱「経済成長」を求めている。それを前20世紀にいち早く提唱したのが仏教経済思想家、シューマッハーである。(2010年7月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここではシューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』(日本語訳は講談社学術文庫、原文・英文は1973年刊)が経済成長についてどう論じているかを紹介する。もちろん脱「経済成長」派として論陣を張っているが、今から40年近くも前の主張であることに留意したい。
▽ 際限のない経済成長はあり得ない
だれも彼もが十分に富を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪(た)えられる限度か、あるいはその双方からみて重大な疑問がある。
ケインズ(注1)に従えば、経済的進歩は、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせたときに、はじめて実現できる。現代の経済は、はげしい貪欲(どんよく)に動かされ、むやみやたらな嫉妬(しっと)心に満ちあふれているが、そのお陰で拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力をもつか、あるいはその中に崩壊のたねを宿しているかどうかにある。
(注1)ジョン・M・ケインズ(1883~1946年)はイギリスの著名な経済学者で、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(1936年)。大量の失業を克服するには財政支出拡大による有効需要創出策が不可欠と説いた。さらに貪欲、戦争も是認した。
限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。
ガンジー(注2)が説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」が当たっていよう。永続性は、「おやじの時代のぜいたく品が今ではみんな必需品」といって悦に入るような欲深な態度とは相反する。
(注2)マハトマ・ガンジー(1869~1948年)はインドの政治家・民族運動指導者で、インド独立の父ともうたわれる。非暴力主義の立場に徹したが、狂信的なヒンズー教徒に暗殺された。
貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない。
<安原の感想> 貪欲と嫉妬心は、有限の資源と環境とは折り合えない
シューマッハーの著作を読んでいると、「貪欲」、「嫉妬心」という言葉が繰り返し出てくる。「現代の経済は、はげしい貪欲に動かされ、嫉妬心に満ちあふれている」といった調子である。経済成長のために「貪欲のすすめ」を説いたのは、実はイギリスの経済学者、ケインズその人である。シューマッハーは、そのケインズとも交友関係にあったが、ここではケインズの経済成長論を批判する姿勢に立っている。その理由は、際限のない経済成長は有限の資源と環境とは両立できない、ということである。
つまり資源と環境は有限であり、経済成長が資源と環境に依存している以上、無限の経済成長は限界があり、不可能だという主張である。こういう認識は今(2010年現在)ではかなりの人々の支持を得ている。
▽ 経済成長は「善」という勝手な思い込み
数量的な方法によって、ある国の国民総生産(GNP)が5%伸びたとして、ではその伸びはよいことなのか、悪いことなのかと質問されると、経済学者は答えを避ける。GNPの伸びは、何が伸びたのかとか、その利益を得たものがいたとしたら、それはだれなのか、と関係なく善に決まっているのである。病的な成長、不健全な成長ないしは破壊的・破滅的な成長もあり得るのだという考えは、彼らにとっては抱いてはならない誤った考えなのである。
ごく一部の経済学者だけが、有限な環境の中で無限の成長はありえないことが明らかである以上、今後どの程度の「成長」が可能なのかという疑問を抱き始めている。とはいえこの人たちも、量的な成長の概念を脱却できていない。質的差異の優位を説かずに、彼らは(プラスの)成長の代わりにゼロ成長を主張しているにすぎない。
もちろん質を扱うのは量を扱うよりもはるかにむずかしい。判断を下すことが、計算することより高い次元の働きであるのと同じである。量的差異は質的差異に比べて分かりやすいし、定義もしやすい。一見科学的に精密だという印象を与えるけれども、その裏では重要な質的差異が犠牲になっている。
<安原の感想> 一部では「無限の成長」に疑問抱く
ここでは二つの点に着目したい。一つは経済学者たちは経済成長(当時は<国民総生産=GNP>で計っていたが、現在は<国内総生産=GDP>で表す)は批判の余地のない「善」に決まっていると思い込んでいたこと。だから病的な成長、破壊的な成長もあり得るという発想には気づきもしなかった。つまり経済成長論者たちは思考停止病にかかっていたといえる。この思考停止病患者は21世紀の今なお後を絶たない。
もう一つは、シューマッハーのほかにごく一部の経済学者ではあるが、当時すでに「無限の成長」に疑問を抱き始めていたこと、である。その具体例が以下に紹介するローマ・クラブと著作『成長の限界』である。
▽ ローマ・クラブと『成長の限界』
ローマ・クラブ(注3)は、「人類の危機」レポートとしての『成長の限界』(デニス・L・メドウズ米国MIT助教授ほか著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年刊)に関連して次のような「見解」を公表した。
・多くの人々が、現在の成長の趨勢は、有限な地球の規模とどの程度まで両立できるのか、地球の生命維持能力からみて度を過ごしてはいないかと真剣に自問するようになるのに本書は貢献するだろう。
・今はじめて、物的成長を放置することの対価を検討し、成長継続に対する代替策を求めることが決定的な重要性を帯びるに至った。
・先進諸国が自らの物的生産の成長の減速を推進すると同時に、一方では発展途上国がその経済を急速に成長させる努力に対して援助を行う必要がある。
(注3)ローマ・クラブは1970年スイス法人として設立された民間組織で、世界各国の科学者、経済学者、教育者、企業経営者などから構成されていた。人類の危機(核戦力の拡大、人口増大、広がる環境汚染、天然資源の枯渇、都市化の進行、増大する社会不安など)に関するプロジェクトが活動の中心テーマ。日本からは当時、大来佐武郎(日本経済研究センター理事長)、木川田一隆(東京電力会長)らがメンバーとなっていた。
シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』とローマ・クラブの『成長の限界』は1970年代初頭に相前後して世に問われたが、共に脱「経済成長」論の先がけとなった。
▽1970年ころと21世紀の現状を比較すると
21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。結論からいえば、「経済成長主義よ、さようなら」が合い言葉にさえなっている。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
さらに次のようにも記している。
今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。
<安原の感想> 経済成長はもはや「時代遅れ」
米国ワールドウオッチ研究所長のクリストファー・フレイヴィンはカリフォルニア州出身で、大学で経済学と生物学を専攻した。その彼が率いるチーム作成の『地球白書2008~09』は、上述のように「経済成長は時代遅れ」と断じているだけではない。現下の最大テーマである「気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配」は、「経済システムの自己破壊」を例証している、とも書いている。
シューマッハーが1970年代はじめに経済成長への批判を始めてから約40年を経た今日、経済成長(経済の拡大)は、経済発展(経済の質的改善)をもたらすどころか、「経済の自己破壊」を招きつつある。それでもなお成長論者たちは、「経済成長」を錦の御旗として生活悪化につながる悪税(消費税引き上げ)などの画策を止めようとはしない。
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連載・やさしい仏教経済学(7)
安原和雄
人間のいのちの源(みなもと)は農業であり、だから人間は農業が衰亡したら生きられない。この単純にして明快な真理がどれだけの人々に共有されているだろうか。むしろ工業が「主」で、農業は「従」だという見方が今では常識にさえなっている。日本の場合でいえば、第二次大戦後の高度成長期に急速に農業国から工業国へと変貌した。その結果、一人あたりの所得も増え、国全体のGDP(国内総生産)はアメリカに次いで世界第二位の地位にのし上がった。
しかしこの「経済大国ニッポン」という輝けるイメージは、アッという間に「貧困大国ニッポン」へと転落した。今では日本列島上にシューマッハー流にいえば、「暴力、疎外、環境破壊など現代のもっとも危険な傾向」が広がっている。その背景に何があるのか。「農業の軽視」が主因、というのがシューマッハーの診断であり、警告である。(2010年7月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
シューマッハーの思想的遺産は少なくないが、ここでは農業についての主張、認識を紹介したい。それを受けて<安原の感想>を書き留める。
▽農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい
農業の基本「原理」は、生命、つまりいのちのある物質を扱うということ。生産物は生命過程、すなわち生長の結果であり、生産のための手段は、これまた生きた土壌である。これに反し、現代工業の基本「原理」は、人間のつくり出した過程を対象とするという点である。この過程は人造の、生命のない材料を使ったときだけ信頼できるものとなる。天然の原料より人造の原料が好まれるのは、業者が好みの寸法につくることができ、完璧(かんぺき)な品質管理を施すことができるからである。人間がつくった機械は、生きもの、例えば人間よりも確実に、かつ予測通りに働く。工業の理想は、人間をも含め生命をもった要素を排除することであり、生産過程を機械に任せてしまうことである。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者、1861~1947年)が生命を定義して「宇宙の反復的機構に向けられた反逆」と言ったのにならって、現代工業を「人間をも含めた生きた自然界の予測のしにくさ、時間的不正確さ、移り気や強情といったものに対する反逆」と定義してもよいだろう。
言いかえれば農業の基本「原理」と工業の基本「原理」とは両立せず、相対立するものであることは疑問の余地がない。死のない生が無意味であるように工業なしでは農業は無意味になるだろう。とはいえ、農業が主、工業は従であることに変わりはない。人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられないからである。もっとも人類が文明生活を営めるようになると、二つの原理の間のバランスが必要になる。
農業と工業の基本的な違いは、生と死の違いほどに大きい。しかしこの違いを認識できなくなり、農業を工業の一種とみなすようになったとき、このバランスは必ず破れてしまう。
<安原の感想> 農業と工業のバランスが崩れると・・・
シューマッハーの主張には刺激的な表現が少なくない。ここでの「農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい」もその一例である。もちろん農業が「生」で、工業が「死」と言いたいのである。その本意は、工業が死滅していいというわけではない。農業が「主」で工業はあくまで「従」であるべきで、そのバランスの重要性を強調しているのである。
問題は、このバランスが崩れて、「農の工業化」が進むと、一体どうなるかである。生きた土地や自然の崩壊が進み、野生の生き物たちの生存領域が失われていく。例えば野生の熊が人家周辺に出没するようになってからすでに久しいし、最近ではスズメなどの減少も伝えられる。東京など大都会では自然の餌にありつけないカラスが人間が放出する廃棄物(残飯など)を食い荒らす事例が目立ってきた。
もう一つ、2010年4月から6月にかけて、家畜伝染病・口蹄疫(こうていえき)のため、宮崎県で残酷にも数え切れないほどの牛が殺処分となった。その背景に畜産の経済性重視の工業化、集約化、大規模化の進行がある。これは「農・畜産の工業化」が進むと、野生の生き物に限らず、人間自身にとっても甚大な悲劇をもたらす具体例といえないか。
▽ 人間と自然界との和解が不可欠
土地はこの上なく貴重な資産であり、それを「おさめ、守る」のが人間の任務であり、幸福でもある。唯物主義的見方では農業は本質的に食糧生産を目的とするものだと考える。しかし広い視野からすると、農業の目的は次の三つである。
①人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。人間は自然界のごく脆(もろ)い一部である。
②人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。
③まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと。
③の目的しか認めず、しかもこれを情け容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、①②の目的を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できない。
「人間が自然界と和解すること(reconciliation of man with the natural world)が、単に望ましいだけでなく、不可欠になったのだ」という某専門家の主張に私(シューマッハー)は賛成である。この和解は旅行、観光その他の余暇活動でできる性質のものではなく、農業の構造を変えることによって初めて達成できる。離農を促進することは止め、まず地方文化の再建を目指し、もっと多くの人たちがやり甲斐のある職業として農業に従事できるように土地を開放しなければならない。さらに大地の上での人間の営みのすべてが健康(health)、美(beauty)、永続性(permanance)の三大理想を目指すような政策を模索していく必要がある。
大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用からうまれた農業の社会的構造のもとでは人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、「暴力(violence)、疎外(alienation)、環境破壊(environmental destruction)など現代のもっとも危険な傾向」の後押しをしている。健康、美、永続性は、そもそも真面目に議論されることさえない。これでは「人間的な価値の無視」、すなわち「人間の無視」であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪である。
<安原の感想> 「暴力、疎外、環境破壊」か、「健康、美、永続性」か
「人間が自然界と和解することが不可欠」という考え方にシューマッハーは賛意を明確にしている。我々日本人は通常、「自然界との和解」というヨーロッパ的感覚には馴染みが薄い。むしろ「自然を慈しむ」、「人間と自然との共生」という仏教的感覚だろう。その差異はさておいて、シューマッハーは何を言いたいのか。
ここでのテーマは、農業の工業化に伴う「暴力、疎外、環境破壊」路線の継続を容認するのか、それとも本来の望ましい農業に回帰して、「健康、美、永続性」路線を追求するのか、その選択である。シューマッハーはもちろん前者の路線を拒否し、後者の望ましい路線への転換をすすめる立場である。前者は大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用の農業だから、後者の「健康、美、永続性」に反する農業であることは間違いない。日本でもこの後者の農業を育てるのに奮闘している人たちが増えている。この流れは大切に育てたい。
▽ 超経済的価値を再認識するとき
どんな社会でも自分の土地に手入れをし、長く健(すこ)やかに美しく保つゆとりがないはずはない。技術的な困難はないし、知識もふんだんにある。我々は十分にエコロジーの知識があるので、今日、土地管理、家畜管理、食糧の貯蔵と加工、無分別な都市化などの面で起こっている行き過ぎや乱用の言い訳をすることは許されない。
にもかかわらずそういうことが起こるのを許しているのは、貧しくてそれを防ぐ手だてがないからではない。その原因は、社会が「超経済的価値」(meta-economic values)への信念という確かな基盤を欠いているからである。
いったんこの強固な信念が失われると、すべては経済計算に支配されることになる。経済計算という形で合理化されている、卑しく打算的な生活態度がそれである。人間の次に大切な、土地という資源をどう取り扱うかという単純な問題の中に人間の生き方のすべてが含まれている。われわれが超経済的価値を再び認めるようになれば、土地は再び健やかに、景観は昔のように美しくなるだろう。
<安原の感想> 卑しく打算的な生活態度を捨てること
「超経済的価値」を信じよう! その時、新しい時代を築くことができる ― がシューマッハーが21世紀に遺したメッセージである。超経済的価値とはどういうイメージなのか。大学で教えられている現代経済学にはこういう経済用語はない。上述の「健康、美、永続性」などはこの超経済的価値といえるのではないか。要するに貨幣価値(=市場価値)に換算しにくくて、市場取引の対象にならないため、いくらカネを積み上げても入手できないが、人間が生きていく上で重要な価値である。
私は仏教経済学の視点から、この価値を非貨幣価値(=非市場価値)と称している。例えばいのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがい ― など沢山ある。いずれも市場メカニズムには馴染まない。重要なことは、シューマッハーも示唆しているように「経済計算第一で、卑しく打算的な生活態度」、いいかえれば貪欲(=強欲)な生き方を捨てることである。そうでなければ、これらの超経済的価値の真価はみえてこない。
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安原和雄
人間のいのちの源(みなもと)は農業であり、だから人間は農業が衰亡したら生きられない。この単純にして明快な真理がどれだけの人々に共有されているだろうか。むしろ工業が「主」で、農業は「従」だという見方が今では常識にさえなっている。日本の場合でいえば、第二次大戦後の高度成長期に急速に農業国から工業国へと変貌した。その結果、一人あたりの所得も増え、国全体のGDP(国内総生産)はアメリカに次いで世界第二位の地位にのし上がった。
しかしこの「経済大国ニッポン」という輝けるイメージは、アッという間に「貧困大国ニッポン」へと転落した。今では日本列島上にシューマッハー流にいえば、「暴力、疎外、環境破壊など現代のもっとも危険な傾向」が広がっている。その背景に何があるのか。「農業の軽視」が主因、というのがシューマッハーの診断であり、警告である。(2010年7月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
シューマッハーの思想的遺産は少なくないが、ここでは農業についての主張、認識を紹介したい。それを受けて<安原の感想>を書き留める。
▽農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい
農業の基本「原理」は、生命、つまりいのちのある物質を扱うということ。生産物は生命過程、すなわち生長の結果であり、生産のための手段は、これまた生きた土壌である。これに反し、現代工業の基本「原理」は、人間のつくり出した過程を対象とするという点である。この過程は人造の、生命のない材料を使ったときだけ信頼できるものとなる。天然の原料より人造の原料が好まれるのは、業者が好みの寸法につくることができ、完璧(かんぺき)な品質管理を施すことができるからである。人間がつくった機械は、生きもの、例えば人間よりも確実に、かつ予測通りに働く。工業の理想は、人間をも含め生命をもった要素を排除することであり、生産過程を機械に任せてしまうことである。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者、1861~1947年)が生命を定義して「宇宙の反復的機構に向けられた反逆」と言ったのにならって、現代工業を「人間をも含めた生きた自然界の予測のしにくさ、時間的不正確さ、移り気や強情といったものに対する反逆」と定義してもよいだろう。
言いかえれば農業の基本「原理」と工業の基本「原理」とは両立せず、相対立するものであることは疑問の余地がない。死のない生が無意味であるように工業なしでは農業は無意味になるだろう。とはいえ、農業が主、工業は従であることに変わりはない。人間は工業なしでも生きられるが、農業がなければ生きられないからである。もっとも人類が文明生活を営めるようになると、二つの原理の間のバランスが必要になる。
農業と工業の基本的な違いは、生と死の違いほどに大きい。しかしこの違いを認識できなくなり、農業を工業の一種とみなすようになったとき、このバランスは必ず破れてしまう。
<安原の感想> 農業と工業のバランスが崩れると・・・
シューマッハーの主張には刺激的な表現が少なくない。ここでの「農業と工業の違いは生と死の違いほどに大きい」もその一例である。もちろん農業が「生」で、工業が「死」と言いたいのである。その本意は、工業が死滅していいというわけではない。農業が「主」で工業はあくまで「従」であるべきで、そのバランスの重要性を強調しているのである。
問題は、このバランスが崩れて、「農の工業化」が進むと、一体どうなるかである。生きた土地や自然の崩壊が進み、野生の生き物たちの生存領域が失われていく。例えば野生の熊が人家周辺に出没するようになってからすでに久しいし、最近ではスズメなどの減少も伝えられる。東京など大都会では自然の餌にありつけないカラスが人間が放出する廃棄物(残飯など)を食い荒らす事例が目立ってきた。
もう一つ、2010年4月から6月にかけて、家畜伝染病・口蹄疫(こうていえき)のため、宮崎県で残酷にも数え切れないほどの牛が殺処分となった。その背景に畜産の経済性重視の工業化、集約化、大規模化の進行がある。これは「農・畜産の工業化」が進むと、野生の生き物に限らず、人間自身にとっても甚大な悲劇をもたらす具体例といえないか。
▽ 人間と自然界との和解が不可欠
土地はこの上なく貴重な資産であり、それを「おさめ、守る」のが人間の任務であり、幸福でもある。唯物主義的見方では農業は本質的に食糧生産を目的とするものだと考える。しかし広い視野からすると、農業の目的は次の三つである。
①人間と生きた自然界との結びつきを保つこと。人間は自然界のごく脆(もろ)い一部である。
②人間を取り巻く生存環境に人間味を与え、これを気高いものにすること。
③まっとうな生活を営むのに必要な食糧や原料を造り出すこと。
③の目的しか認めず、しかもこれを情け容赦なく暴力的に追求するような文明、その結果、①②の目的を無視した上、組織的にそれに反対の動きをする文明は、長期的にみてとうてい存続できない。
「人間が自然界と和解すること(reconciliation of man with the natural world)が、単に望ましいだけでなく、不可欠になったのだ」という某専門家の主張に私(シューマッハー)は賛成である。この和解は旅行、観光その他の余暇活動でできる性質のものではなく、農業の構造を変えることによって初めて達成できる。離農を促進することは止め、まず地方文化の再建を目指し、もっと多くの人たちがやり甲斐のある職業として農業に従事できるように土地を開放しなければならない。さらに大地の上での人間の営みのすべてが健康(health)、美(beauty)、永続性(permanance)の三大理想を目指すような政策を模索していく必要がある。
大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用からうまれた農業の社会的構造のもとでは人間は生きている自然界と本当に触れあうことはできない。それどころか、この社会的構造は、「暴力(violence)、疎外(alienation)、環境破壊(environmental destruction)など現代のもっとも危険な傾向」の後押しをしている。健康、美、永続性は、そもそも真面目に議論されることさえない。これでは「人間的な価値の無視」、すなわち「人間の無視」であり、これが経済至上主義から必然的に生まれてくる害悪である。
<安原の感想> 「暴力、疎外、環境破壊」か、「健康、美、永続性」か
「人間が自然界と和解することが不可欠」という考え方にシューマッハーは賛意を明確にしている。我々日本人は通常、「自然界との和解」というヨーロッパ的感覚には馴染みが薄い。むしろ「自然を慈しむ」、「人間と自然との共生」という仏教的感覚だろう。その差異はさておいて、シューマッハーは何を言いたいのか。
ここでのテーマは、農業の工業化に伴う「暴力、疎外、環境破壊」路線の継続を容認するのか、それとも本来の望ましい農業に回帰して、「健康、美、永続性」路線を追求するのか、その選択である。シューマッハーはもちろん前者の路線を拒否し、後者の望ましい路線への転換をすすめる立場である。前者は大規模な機械化、化学肥料と農薬の大量使用の農業だから、後者の「健康、美、永続性」に反する農業であることは間違いない。日本でもこの後者の農業を育てるのに奮闘している人たちが増えている。この流れは大切に育てたい。
▽ 超経済的価値を再認識するとき
どんな社会でも自分の土地に手入れをし、長く健(すこ)やかに美しく保つゆとりがないはずはない。技術的な困難はないし、知識もふんだんにある。我々は十分にエコロジーの知識があるので、今日、土地管理、家畜管理、食糧の貯蔵と加工、無分別な都市化などの面で起こっている行き過ぎや乱用の言い訳をすることは許されない。
にもかかわらずそういうことが起こるのを許しているのは、貧しくてそれを防ぐ手だてがないからではない。その原因は、社会が「超経済的価値」(meta-economic values)への信念という確かな基盤を欠いているからである。
いったんこの強固な信念が失われると、すべては経済計算に支配されることになる。経済計算という形で合理化されている、卑しく打算的な生活態度がそれである。人間の次に大切な、土地という資源をどう取り扱うかという単純な問題の中に人間の生き方のすべてが含まれている。われわれが超経済的価値を再び認めるようになれば、土地は再び健やかに、景観は昔のように美しくなるだろう。
<安原の感想> 卑しく打算的な生活態度を捨てること
「超経済的価値」を信じよう! その時、新しい時代を築くことができる ― がシューマッハーが21世紀に遺したメッセージである。超経済的価値とはどういうイメージなのか。大学で教えられている現代経済学にはこういう経済用語はない。上述の「健康、美、永続性」などはこの超経済的価値といえるのではないか。要するに貨幣価値(=市場価値)に換算しにくくて、市場取引の対象にならないため、いくらカネを積み上げても入手できないが、人間が生きていく上で重要な価値である。
私は仏教経済学の視点から、この価値を非貨幣価値(=非市場価値)と称している。例えばいのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがい ― など沢山ある。いずれも市場メカニズムには馴染まない。重要なことは、シューマッハーも示唆しているように「経済計算第一で、卑しく打算的な生活態度」、いいかえれば貪欲(=強欲)な生き方を捨てることである。そうでなければ、これらの超経済的価値の真価はみえてこない。
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連載・やさしい仏教経済学(6)
安原和雄
仏教経済学は原子力発電にはどういう姿勢なのか。仏教経済学の提唱者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』で「原子力 ― 救いか呪いか」と題する一章を設けて原子力発電と核分裂について主張を展開している。一口で言えば、「人類の生存に脅威」、「人間の生命にとって想像を絶する危険」などと警鐘を打ち鳴らしている。つまり人類にとって「救い」どころか「呪い」そのものという認識である。
しかも「経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の<採算性>にしか目を向けていない」と視野の狭い既存の現代経済学に手厳しい。原発について流布されている「原子力の平和利用」という虚言を打破しなければならない、と言いたいのである。(2010年7月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
「原子力 ― 救いか呪いか」での主張(要旨)を以下に紹介しながら、対応策も考えてみたい。
▽ 人間の生命にとって想像を絶する危険
人間が自然界に加えた変化の中で、もっとも危険で深刻なのは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、放射能が環境汚染の重大な原因となり、人類の生存を脅かすことになった。一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない。
石炭か石油を使う在来型の発電所を建設するか、それとも原子力発電所を作るかの選択は経済的根拠に基づいて行われており、核分裂が人間の生命にとって想像を絶する特殊な危険だということがまったく考慮されていない。(中略)これこそ経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である。
直接放射能を浴びた人だけでなく、その子孫をも危険に陥れるような、今までの経験にない「次元」の危険である。
新しい「次元」の危険のもう一つは、人類が放射性物質をいったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくないことである。(中略)放射能は半永久的に残るわけで、放射性物質を安全な場所に移す以外に手はない。
原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とはいったいどこか。地球上に安全な場所はない。(中略)生物がいるところならどこでも、放射性物質は生物循環の中に取り込まれる。(中略)生物は他の生物を食べて生きているのだから、放射性物質は生命の連鎖を上にたどって、最後には人間に戻ってくる。
<安原の感想> 「原子力の平和利用こそ危険」
ここで見逃せない指摘は、「一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きい」である。
これは約40年も前、エネルギーの総需要に占める原子力の比率がまだ数%の頃の指摘であることに注意を向けたい。オバマ米大統領の「核なき世界」発言(09年4月プラハで)以来、核兵器廃絶への希望が生まれている。その半面、原子力の平和利用では特に日本の政府、経済界に執着心が強い。地震による事故、実害などへの懸念が高まっているにもかかわらず、である。
日本における原発推進派の思慮の欠落さには、日本人だけで300万人を超える多くの犠牲者を無理強いしたあの戦争(当時の呼称は大東亜戦争)にみる指導者たちの無責任ぶりとの類似性を感じないわけにはいかない。同じ過ちを再び繰り返しつつあるのか。原発事故で多くの犠牲者を出した後で、推進責任者が自決し、遺書の中でいくら謝罪しても、それで償えるわけではない。
▽ 使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑
一番大きな廃棄物は、耐用期間を過ぎた原子炉である。原子炉を使える期間が25年か、30年かといった些末な経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、多分何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。どんどん増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する要はないという考えの愚かさを記録し続ける。
石炭や石油で空気や水を汚す害悪を軽視しようというのではないが、「次元の相異」を認識すべきである。放射能汚染は、そのひどさの次元でこれまでのどんな汚染とも比較にならない。疑問はこれだけではない。空気が放射性粒子を帯びてくると、きれいな空気を求めても無意味ではないか。空気の汚染が避けられたとしても、土壌と水が毒されてしまえば、それも無意味ではないか。
人類にとってかけがえのない地球が子孫を不具にするかもしれないような物質で汚染されているのに、経済的進歩、高い生活水準について語ることに意味があるのだろうか。
いかに経済がそれで繁栄するからといって、安全性を確保する方法も分からず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にため込んでよいというものではない。それは生命そのものに対する冒涜(ぼうとく)であり、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的、精神的にも化け物じみている。それは経済生活を営むに当たって人間をまったく度外視することを意味する。
<安原の感想> いのちと生存を保障する「英知」を
ここでも恐ろしい指摘が冷静に行われている。その一つは、「経済がそれ(原発)で繁栄するからといって、あらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらす毒性の強い物質を大量にため込む、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い」である。我が国でもやがて使用済みの原子力発電所が「醜悪な記念碑」としての残骸を曝(さら)すことになる。
目先の経済繁栄に執着して、原発による人間、自然を含めた「いのちの破局」へと突き進むのか、それとも今ここで原発による「経済繁栄」を捨てるのか、その二者択一はすでに迫られつつある。求められるのは、目先の私欲を満たす「繁栄」や「経済成長」ではなく、いのちと生存を保障する「英知」である。
▽ 反「原発」のための対応策は
シューマッハーの著作(英文)が世に問われたのは1973年だから今(2010年)から約40年昔のことである。それ以降、日本では「もんじゅ」の再開に伴う事故(注)を含め、原発がらみの事故が絶えない。不幸にもシューマッハーの警告は的中しつつある。
(注)2010年5月、日本原子力研究開発機構(原子力機構)の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は運転を再開した。1995年末のナトリウム漏れ事故で停止して以来、14年半ぶりの運転再開であるが、装置の故障や制御棒の操作ミスなどが相次いだ。
典型的な原発大事故として、チェルノブイリ原発事故を挙げることができる。1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
予想しない核分裂連鎖反応が起きた事例として東海村JCO(株式会社ジェー・シー・オー=住友金属鉱山の子会社)の臨界事故がある。1999年9月茨城県東海村でJCOの核燃料加工施設で発生、作業員2人の死亡者と600人余の被曝者を出したと伝えられる。
では一体どうしたらよいのか。シューマッハーは次のように提案している。
・神の賜物(たまもの)である自然界 ― 人間はその部分であって、自分の手で創ったものではない ― 、この大きく、すばらしい自然界と調和した、非暴力的で調和を重んじる有機的な方法を、意識的に探求・開発していくこと。
・廃棄物の管理方法が分からない間は原子炉の建設を行わないこと。
・電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと。
<安原の感想> 自然エネルギー活用もすでに示唆
「原発拒否」という以上、原発に依存しないで、どういうエネルギーを重視するかが問題となってくる。その提案はシューマッハーにしても、あまり具体的ではない。ただ「自然界と調和した、非暴力的で有機的な方法」の探求・開発をすすめている。この指摘は何を示唆しているのか。その含意を以下のように読み解くこともできるのではないか。
21世紀になって、周知のように石油、石炭さらに原子力の代替エネルギーとして太陽光、風力、水力など再生可能な自然エネルギーの活用が大きなテーマになっているが、シューマッハーすでにこれら自然エネルギーの可能性に視点を向けつつあった ― と。
一方、次のようにも指摘している。「石炭、石油のような再生不能の燃料は、やむを得ない場合に限って使うべきで、ぜいたくに使うことは一種の暴力行為である」と。この発想が上記の「電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと」という無駄遣い抑制の提案に結びつく。この提案は今日こそ実践に値する。
<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の原発関連記事
・「今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに」=08年1月25日付
・「日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない」=07年8月28日付
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教経済学は原子力発電にはどういう姿勢なのか。仏教経済学の提唱者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』で「原子力 ― 救いか呪いか」と題する一章を設けて原子力発電と核分裂について主張を展開している。一口で言えば、「人類の生存に脅威」、「人間の生命にとって想像を絶する危険」などと警鐘を打ち鳴らしている。つまり人類にとって「救い」どころか「呪い」そのものという認識である。
しかも「経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の<採算性>にしか目を向けていない」と視野の狭い既存の現代経済学に手厳しい。原発について流布されている「原子力の平和利用」という虚言を打破しなければならない、と言いたいのである。(2010年7月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
「原子力 ― 救いか呪いか」での主張(要旨)を以下に紹介しながら、対応策も考えてみたい。
▽ 人間の生命にとって想像を絶する危険
人間が自然界に加えた変化の中で、もっとも危険で深刻なのは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、放射能が環境汚染の重大な原因となり、人類の生存を脅かすことになった。一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない。
石炭か石油を使う在来型の発電所を建設するか、それとも原子力発電所を作るかの選択は経済的根拠に基づいて行われており、核分裂が人間の生命にとって想像を絶する特殊な危険だということがまったく考慮されていない。(中略)これこそ経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である。
直接放射能を浴びた人だけでなく、その子孫をも危険に陥れるような、今までの経験にない「次元」の危険である。
新しい「次元」の危険のもう一つは、人類が放射性物質をいったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくないことである。(中略)放射能は半永久的に残るわけで、放射性物質を安全な場所に移す以外に手はない。
原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とはいったいどこか。地球上に安全な場所はない。(中略)生物がいるところならどこでも、放射性物質は生物循環の中に取り込まれる。(中略)生物は他の生物を食べて生きているのだから、放射性物質は生命の連鎖を上にたどって、最後には人間に戻ってくる。
<安原の感想> 「原子力の平和利用こそ危険」
ここで見逃せない指摘は、「一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きい」である。
これは約40年も前、エネルギーの総需要に占める原子力の比率がまだ数%の頃の指摘であることに注意を向けたい。オバマ米大統領の「核なき世界」発言(09年4月プラハで)以来、核兵器廃絶への希望が生まれている。その半面、原子力の平和利用では特に日本の政府、経済界に執着心が強い。地震による事故、実害などへの懸念が高まっているにもかかわらず、である。
日本における原発推進派の思慮の欠落さには、日本人だけで300万人を超える多くの犠牲者を無理強いしたあの戦争(当時の呼称は大東亜戦争)にみる指導者たちの無責任ぶりとの類似性を感じないわけにはいかない。同じ過ちを再び繰り返しつつあるのか。原発事故で多くの犠牲者を出した後で、推進責任者が自決し、遺書の中でいくら謝罪しても、それで償えるわけではない。
▽ 使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑
一番大きな廃棄物は、耐用期間を過ぎた原子炉である。原子炉を使える期間が25年か、30年かといった些末な経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、多分何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。どんどん増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する要はないという考えの愚かさを記録し続ける。
石炭や石油で空気や水を汚す害悪を軽視しようというのではないが、「次元の相異」を認識すべきである。放射能汚染は、そのひどさの次元でこれまでのどんな汚染とも比較にならない。疑問はこれだけではない。空気が放射性粒子を帯びてくると、きれいな空気を求めても無意味ではないか。空気の汚染が避けられたとしても、土壌と水が毒されてしまえば、それも無意味ではないか。
人類にとってかけがえのない地球が子孫を不具にするかもしれないような物質で汚染されているのに、経済的進歩、高い生活水準について語ることに意味があるのだろうか。
いかに経済がそれで繁栄するからといって、安全性を確保する方法も分からず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にため込んでよいというものではない。それは生命そのものに対する冒涜(ぼうとく)であり、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的、精神的にも化け物じみている。それは経済生活を営むに当たって人間をまったく度外視することを意味する。
<安原の感想> いのちと生存を保障する「英知」を
ここでも恐ろしい指摘が冷静に行われている。その一つは、「経済がそれ(原発)で繁栄するからといって、あらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらす毒性の強い物質を大量にため込む、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い」である。我が国でもやがて使用済みの原子力発電所が「醜悪な記念碑」としての残骸を曝(さら)すことになる。
目先の経済繁栄に執着して、原発による人間、自然を含めた「いのちの破局」へと突き進むのか、それとも今ここで原発による「経済繁栄」を捨てるのか、その二者択一はすでに迫られつつある。求められるのは、目先の私欲を満たす「繁栄」や「経済成長」ではなく、いのちと生存を保障する「英知」である。
▽ 反「原発」のための対応策は
シューマッハーの著作(英文)が世に問われたのは1973年だから今(2010年)から約40年昔のことである。それ以降、日本では「もんじゅ」の再開に伴う事故(注)を含め、原発がらみの事故が絶えない。不幸にもシューマッハーの警告は的中しつつある。
(注)2010年5月、日本原子力研究開発機構(原子力機構)の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は運転を再開した。1995年末のナトリウム漏れ事故で停止して以来、14年半ぶりの運転再開であるが、装置の故障や制御棒の操作ミスなどが相次いだ。
典型的な原発大事故として、チェルノブイリ原発事故を挙げることができる。1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
予想しない核分裂連鎖反応が起きた事例として東海村JCO(株式会社ジェー・シー・オー=住友金属鉱山の子会社)の臨界事故がある。1999年9月茨城県東海村でJCOの核燃料加工施設で発生、作業員2人の死亡者と600人余の被曝者を出したと伝えられる。
では一体どうしたらよいのか。シューマッハーは次のように提案している。
・神の賜物(たまもの)である自然界 ― 人間はその部分であって、自分の手で創ったものではない ― 、この大きく、すばらしい自然界と調和した、非暴力的で調和を重んじる有機的な方法を、意識的に探求・開発していくこと。
・廃棄物の管理方法が分からない間は原子炉の建設を行わないこと。
・電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと。
<安原の感想> 自然エネルギー活用もすでに示唆
「原発拒否」という以上、原発に依存しないで、どういうエネルギーを重視するかが問題となってくる。その提案はシューマッハーにしても、あまり具体的ではない。ただ「自然界と調和した、非暴力的で有機的な方法」の探求・開発をすすめている。この指摘は何を示唆しているのか。その含意を以下のように読み解くこともできるのではないか。
21世紀になって、周知のように石油、石炭さらに原子力の代替エネルギーとして太陽光、風力、水力など再生可能な自然エネルギーの活用が大きなテーマになっているが、シューマッハーすでにこれら自然エネルギーの可能性に視点を向けつつあった ― と。
一方、次のようにも指摘している。「石炭、石油のような再生不能の燃料は、やむを得ない場合に限って使うべきで、ぜいたくに使うことは一種の暴力行為である」と。この発想が上記の「電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと」という無駄遣い抑制の提案に結びつく。この提案は今日こそ実践に値する。
<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の原発関連記事
・「今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに」=08年1月25日付
・「日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない」=07年8月28日付
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
連載・やさしい仏教経済学(5)
安原和雄
仏教経済学(思想)に関する業績は多様である。ここではドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーが唱えた仏教経済学を紹介したい。シューマッハー流の仏教経済学が目指すものは、簡素と非暴力、知足、中道と「正しい生活」、非貨幣的価値、量ではなく質、資源エネルギーの節約、真の豊かさと完全雇用、地域資源の活用 ― などである。
注目に値するのは「中間技術」という新しい技術観を唱えて、巨大技術を排していることである。これが著作のタイトル「Small is beautiful」(スモール イズ ビューティフル)となっている。この著作に触れたことが私にとって現代経済学から仏教経済学に宗旨替えするきっかけとなった。彼は講演旅行中の列車内で客死したが、その仏教経済学は今日、継承発展させるべき優れた遺産と考える。(2010年7月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
シューマッハー(1911~77年)の発想の妙をうかがわせることばを紹介したい。経済学者仲間から「経済学と仏教とどんな関係があるのか」と聞かれて、こう答えた。
「仏教抜きの経済学は愛のないセックスである」と。「精神性を欠いた経済学は一時的な物的満足を与えるだけで、内的な達成感は与えない」と言いたいのである。ここでの「精神性を欠いた経済学」とは、わが国でいえば大学経済学部で通常教えられている現代経済学(ケインズ経済学、新古典派経済学=通称・新古典派総合、自由市場原理主義など)を指している。
さらに仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、シューマッハーはユーモア感覚で次のように応じた。「変わり者のどこが悪いのか。変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。私はその小さな革命家だ。それ(変わり者)は褒め言葉なのだ」と。同感である。
▽ 仏教経済学は現代経済学と比べてどう異質なのか
シューマッハーの著書『スモール イズ ビューティフル ―― 人間中心の経済学』(原本・英文『Small is beautiful』は1973年に発刊され、世界的なベストセラーに)の中で「仏教経済学」(Buddhist Economics)と題する一章を設けて、現代経済学とどう異なり、どのようにして現代経済学を超えることができるかを論じている。以下にその<仏教経済学の特質>と<現代経済学の特質>を比較表示する。
<仏教経済学の特質>(かっこ内が<現代経済学の特質>)
*基調:簡素と非暴力(富への執着と暴力、戦争)、非物質的価値=正義、調和、美、健康=の重視(物質的価値の重視)、労働者重視(労働の生産物重視)
*基本道徳:知恵、正義=真、勇気=善、節制=美・知足(目先の利益、狭量で卑小、打算的)
*目標:中道=八正道の一つである「正しい生活」(唯物的な生活様式)
*方法論:非貨幣的価値と質の重視(貨幣価値と数量化の重視)
*石油などの再生不能資源:節約型(浪費型)
*豊かさ観:適正規模消費で満足の極大化(適正規模生産で消費の極大化)
*労働と余暇:仕事と余暇は相補う関係(労働は必要悪)
*雇用:真の意味の完全雇用(失業を容認)
*生産技術:大衆による生産の技術=中間技術。小さいことは素晴らしい、人間の背丈に合わせること(大量生産の技術=巨大技術)
*農業と工業:農業が主役(工業が主役)、化学肥料・農薬の大量使用の拒否(その大量使用)
*貿易:地域資源の活用(遠隔地の資源に依存)
▽ 簡素こそが「暴力と戦争」を回避できる
両者を見比べれば、おのずからその相違点が浮き彫りになってくるが、おおまかな説明を加えたい。
まず基調(基本思想)として指摘できることは、現代経済学の立場では富に執着するあまり、必然的に暴力と戦争へとつながっていくことである。これに対し、仏教経済学の基調は簡素であり、従って相争うことが少なく、非暴力である。もともと物的資源・エネルギーには限りがある。従ってそれを貪(どん)欲に求めるか、それとも簡素・節約を旨とするかが暴力、戦争を引き起こすかどうかのきわめて重要な分岐点とならざるをえない。
シューマッハーは次のように指摘している。
「自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」
また現代経済学の立場では、再生不能資源(石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料、鉄鉱石などの鉱物資源)の浪費に走りやすいが、仏教経済学は再生不能資源節約の重要性を強調する。この違いは何を意味するのか。シューマッハーの次の指摘も見逃せない。
「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」
21世紀に入ってからのアメリカを主軸とする多国籍軍によるアフガン、イラクへの侵攻の背景に中東地域などにおける再生不能の石油、天然ガス資源の確保があったことは否めない。近現代の多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。
▽ 目標は中道(節制・知足)と「正しい生活」
基本道徳では現代経済学が狭量で卑小かつ打算的であるのに対し、仏教経済学は知恵、正義(真)、勇気(善)と並んで節制(美)を掲げていることに注目したい。節制すなわち知足は真善美の美に結びつく。知足の対極にある貪欲が美と正反対の醜を意味することはいうまでもない。
仏教の基本思想の一つは中道(注1)である。中道とは、決して物的な福祉を軽視するわけではない。富や楽しむことそれ自体、その全てを排するのでもない。排するのは執着心であり、焦がれ求める心である。中道はまた節制すなわち知足を意味し、仏教の八正道(注2)の一つ、「正命=正しい生活」につながっていく。だから仏教経済学では中道そして正しい生活が追求すべき目標となってくる。現代経済学が目標として唯物的な生活様式にこだわるのと異なる大きな特色である。
(注1)仏教でいう中道とは、通俗的な「ほどほどに」とか「足して二で割る」という意ではない。中道とは「道に中(あた)ること」という意であり、道理に合っていなければならない。道理に目覚めれば、おのずから執着心は解消し、極端にも走らないという考え方である。
(注2)中道はすなわち正道である。仏教の八正道(はっしょうどう)とは、正見(正しく道理を見る)、正思(正しく道理を思惟する)、正語(真実の言葉で語る)、正業(清浄な身のこなし、心のかまえ)、正命(正しい生活)、正精進(悟りにいたる道に励む)、正念(正しい道を念ずる)、正定(正しい精神の集中とその安定)の八つを指している。
▽ 豊かさ観 ― 消費の極大化、それとも満足の極大化か
豊かさ観も大きく異なる。現代経済学では豊かさを「適正規模の生産で消費の極大化」、つまりできるだけコストの安い財・サービスの供給と、消費の極大化(限りない欲望の充足と大量の廃棄物の排出)と捉える。これに対し、仏教経済学では豊かさを「適正規模の消費で満足の極大化」、つまり消費を抑える生活様式をとる中での満足の極大化(中道、知足の正しい生活)を追求する。シューマッハーは次のように述べている。
「現代経済学者は、生活水準を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人よりも豊かであるという前提に立って、年間消費量を尺度にする。仏教経済学者にいわせれば、この方法は大変不合理である。その理由は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」
労働と余暇、生産技術はどう異なるのか。人間の労働が富、経済の基本的な源泉であることはいうまでもない。ところが労働観、余暇観が大きく異なる。
現代経済学では労働は必要悪であり、労働は経営上は一つのコストにすぎず、大量の失業を当然視する。だから労働者にとっては余暇と楽しみを十分に享受することはできない。これでは働くことが働きがい、生きがいに通じることにはならない。
仏教経済学の立場ではどうか。仕事の役割は三つある。一つは、人間にその能力を発揮、向上させる場を与えること、次は他人との協力によって自己中心的な態度を棄てさせること、第三はまっとうな生活に必要な財とサービスを作り出すことである。こういう労働観に立って、真の意味の完全雇用を追求し、一方、仕事と余暇に関する次の指摘は十分玩味してみる必要がある。
「仕事と余暇とは、相補って生という一つの過程を作っている。二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまう」
以上のような現代経済学と仏教経済学との相違点を特色づけているものは何か。前者が貨幣価値と数量化を重視するのに対し、後者は非貨幣的価値(貨幣に換算できない価値=真,善、美など)と質を重視することである。
▽ 反「巨大技術」で、「中間技術」のすすめ ― Small is Beautiful
生産技術では現代経済学は大量生産方式、従って巨大技術を追求するのに対し、仏教経済学は大衆による生産を重視し、従って人間だれしも持っている資源である「良く働く頭脳と器用な手」の活用が中心となる。これは「中間技術」(intermediate technology)の採用、導入を意味する。
シューマッハーは中間技術について次のように指摘している。
「それは技術発展の新しい方向、すなわち人間の背丈に合わせる方向である。人間は小さいもので、だからこそ小さいことは素晴らしい(Man is small, and, therefore, small is beautiful)。巨大さを追い求めるのは自己破壊に通じる」と。
ここでの「Small is beautiful」がそのまま著書のタイトルにもなっている。
巨大技術と中間技術は質的にどう異なるのか。シューマッハー説に耳を傾けよう。次のようにまとめている。
<巨大技術>=暴力的で生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。
<中間技術>=自立の技術、民主的技術、民衆の技術と呼んでもよい。さらに労働集約型、小規模、分散化の促進(地域、管理面での集中の排除)、自己制御の原理の尊重、生態系・環境・資源の保全、人間への奉仕、市場の変化への柔軟性 ― など。
注目すべき点は、現代資本主義にみる巨大技術を「暴力的」と捉えており、一方、中間技術は「民衆の技術」であり、その特色として「労働集約型、小規模、分散化、自己制御」さらに「環境・資源の保全、人間への奉仕」などが挙げられている。例えば原子力発電のような巨大技術は暴力的であり、その対極に中間技術があり、これこそが「人間奉仕」の技術という位置づけである。
<参考資料>
*E・F・シューマッハー著/小島慶三ら訳『スモール イズ ビューティフル ― 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
*同著/酒井 懋訳『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)
*E・F・Schumacher『SMALL IS BEAUTIFUL― Economics as if People Mattered』(HarperPerennial 1989)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教経済学(思想)に関する業績は多様である。ここではドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーが唱えた仏教経済学を紹介したい。シューマッハー流の仏教経済学が目指すものは、簡素と非暴力、知足、中道と「正しい生活」、非貨幣的価値、量ではなく質、資源エネルギーの節約、真の豊かさと完全雇用、地域資源の活用 ― などである。
注目に値するのは「中間技術」という新しい技術観を唱えて、巨大技術を排していることである。これが著作のタイトル「Small is beautiful」(スモール イズ ビューティフル)となっている。この著作に触れたことが私にとって現代経済学から仏教経済学に宗旨替えするきっかけとなった。彼は講演旅行中の列車内で客死したが、その仏教経済学は今日、継承発展させるべき優れた遺産と考える。(2010年7月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
シューマッハー(1911~77年)の発想の妙をうかがわせることばを紹介したい。経済学者仲間から「経済学と仏教とどんな関係があるのか」と聞かれて、こう答えた。
「仏教抜きの経済学は愛のないセックスである」と。「精神性を欠いた経済学は一時的な物的満足を与えるだけで、内的な達成感は与えない」と言いたいのである。ここでの「精神性を欠いた経済学」とは、わが国でいえば大学経済学部で通常教えられている現代経済学(ケインズ経済学、新古典派経済学=通称・新古典派総合、自由市場原理主義など)を指している。
さらに仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、シューマッハーはユーモア感覚で次のように応じた。「変わり者のどこが悪いのか。変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。私はその小さな革命家だ。それ(変わり者)は褒め言葉なのだ」と。同感である。
▽ 仏教経済学は現代経済学と比べてどう異質なのか
シューマッハーの著書『スモール イズ ビューティフル ―― 人間中心の経済学』(原本・英文『Small is beautiful』は1973年に発刊され、世界的なベストセラーに)の中で「仏教経済学」(Buddhist Economics)と題する一章を設けて、現代経済学とどう異なり、どのようにして現代経済学を超えることができるかを論じている。以下にその<仏教経済学の特質>と<現代経済学の特質>を比較表示する。
<仏教経済学の特質>(かっこ内が<現代経済学の特質>)
*基調:簡素と非暴力(富への執着と暴力、戦争)、非物質的価値=正義、調和、美、健康=の重視(物質的価値の重視)、労働者重視(労働の生産物重視)
*基本道徳:知恵、正義=真、勇気=善、節制=美・知足(目先の利益、狭量で卑小、打算的)
*目標:中道=八正道の一つである「正しい生活」(唯物的な生活様式)
*方法論:非貨幣的価値と質の重視(貨幣価値と数量化の重視)
*石油などの再生不能資源:節約型(浪費型)
*豊かさ観:適正規模消費で満足の極大化(適正規模生産で消費の極大化)
*労働と余暇:仕事と余暇は相補う関係(労働は必要悪)
*雇用:真の意味の完全雇用(失業を容認)
*生産技術:大衆による生産の技術=中間技術。小さいことは素晴らしい、人間の背丈に合わせること(大量生産の技術=巨大技術)
*農業と工業:農業が主役(工業が主役)、化学肥料・農薬の大量使用の拒否(その大量使用)
*貿易:地域資源の活用(遠隔地の資源に依存)
▽ 簡素こそが「暴力と戦争」を回避できる
両者を見比べれば、おのずからその相違点が浮き彫りになってくるが、おおまかな説明を加えたい。
まず基調(基本思想)として指摘できることは、現代経済学の立場では富に執着するあまり、必然的に暴力と戦争へとつながっていくことである。これに対し、仏教経済学の基調は簡素であり、従って相争うことが少なく、非暴力である。もともと物的資源・エネルギーには限りがある。従ってそれを貪(どん)欲に求めるか、それとも簡素・節約を旨とするかが暴力、戦争を引き起こすかどうかのきわめて重要な分岐点とならざるをえない。
シューマッハーは次のように指摘している。
「自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」
また現代経済学の立場では、再生不能資源(石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料、鉄鉱石などの鉱物資源)の浪費に走りやすいが、仏教経済学は再生不能資源節約の重要性を強調する。この違いは何を意味するのか。シューマッハーの次の指摘も見逃せない。
「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」
21世紀に入ってからのアメリカを主軸とする多国籍軍によるアフガン、イラクへの侵攻の背景に中東地域などにおける再生不能の石油、天然ガス資源の確保があったことは否めない。近現代の多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。
▽ 目標は中道(節制・知足)と「正しい生活」
基本道徳では現代経済学が狭量で卑小かつ打算的であるのに対し、仏教経済学は知恵、正義(真)、勇気(善)と並んで節制(美)を掲げていることに注目したい。節制すなわち知足は真善美の美に結びつく。知足の対極にある貪欲が美と正反対の醜を意味することはいうまでもない。
仏教の基本思想の一つは中道(注1)である。中道とは、決して物的な福祉を軽視するわけではない。富や楽しむことそれ自体、その全てを排するのでもない。排するのは執着心であり、焦がれ求める心である。中道はまた節制すなわち知足を意味し、仏教の八正道(注2)の一つ、「正命=正しい生活」につながっていく。だから仏教経済学では中道そして正しい生活が追求すべき目標となってくる。現代経済学が目標として唯物的な生活様式にこだわるのと異なる大きな特色である。
(注1)仏教でいう中道とは、通俗的な「ほどほどに」とか「足して二で割る」という意ではない。中道とは「道に中(あた)ること」という意であり、道理に合っていなければならない。道理に目覚めれば、おのずから執着心は解消し、極端にも走らないという考え方である。
(注2)中道はすなわち正道である。仏教の八正道(はっしょうどう)とは、正見(正しく道理を見る)、正思(正しく道理を思惟する)、正語(真実の言葉で語る)、正業(清浄な身のこなし、心のかまえ)、正命(正しい生活)、正精進(悟りにいたる道に励む)、正念(正しい道を念ずる)、正定(正しい精神の集中とその安定)の八つを指している。
▽ 豊かさ観 ― 消費の極大化、それとも満足の極大化か
豊かさ観も大きく異なる。現代経済学では豊かさを「適正規模の生産で消費の極大化」、つまりできるだけコストの安い財・サービスの供給と、消費の極大化(限りない欲望の充足と大量の廃棄物の排出)と捉える。これに対し、仏教経済学では豊かさを「適正規模の消費で満足の極大化」、つまり消費を抑える生活様式をとる中での満足の極大化(中道、知足の正しい生活)を追求する。シューマッハーは次のように述べている。
「現代経済学者は、生活水準を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人よりも豊かであるという前提に立って、年間消費量を尺度にする。仏教経済学者にいわせれば、この方法は大変不合理である。その理由は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」
労働と余暇、生産技術はどう異なるのか。人間の労働が富、経済の基本的な源泉であることはいうまでもない。ところが労働観、余暇観が大きく異なる。
現代経済学では労働は必要悪であり、労働は経営上は一つのコストにすぎず、大量の失業を当然視する。だから労働者にとっては余暇と楽しみを十分に享受することはできない。これでは働くことが働きがい、生きがいに通じることにはならない。
仏教経済学の立場ではどうか。仕事の役割は三つある。一つは、人間にその能力を発揮、向上させる場を与えること、次は他人との協力によって自己中心的な態度を棄てさせること、第三はまっとうな生活に必要な財とサービスを作り出すことである。こういう労働観に立って、真の意味の完全雇用を追求し、一方、仕事と余暇に関する次の指摘は十分玩味してみる必要がある。
「仕事と余暇とは、相補って生という一つの過程を作っている。二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまう」
以上のような現代経済学と仏教経済学との相違点を特色づけているものは何か。前者が貨幣価値と数量化を重視するのに対し、後者は非貨幣的価値(貨幣に換算できない価値=真,善、美など)と質を重視することである。
▽ 反「巨大技術」で、「中間技術」のすすめ ― Small is Beautiful
生産技術では現代経済学は大量生産方式、従って巨大技術を追求するのに対し、仏教経済学は大衆による生産を重視し、従って人間だれしも持っている資源である「良く働く頭脳と器用な手」の活用が中心となる。これは「中間技術」(intermediate technology)の採用、導入を意味する。
シューマッハーは中間技術について次のように指摘している。
「それは技術発展の新しい方向、すなわち人間の背丈に合わせる方向である。人間は小さいもので、だからこそ小さいことは素晴らしい(Man is small, and, therefore, small is beautiful)。巨大さを追い求めるのは自己破壊に通じる」と。
ここでの「Small is beautiful」がそのまま著書のタイトルにもなっている。
巨大技術と中間技術は質的にどう異なるのか。シューマッハー説に耳を傾けよう。次のようにまとめている。
<巨大技術>=暴力的で生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。
<中間技術>=自立の技術、民主的技術、民衆の技術と呼んでもよい。さらに労働集約型、小規模、分散化の促進(地域、管理面での集中の排除)、自己制御の原理の尊重、生態系・環境・資源の保全、人間への奉仕、市場の変化への柔軟性 ― など。
注目すべき点は、現代資本主義にみる巨大技術を「暴力的」と捉えており、一方、中間技術は「民衆の技術」であり、その特色として「労働集約型、小規模、分散化、自己制御」さらに「環境・資源の保全、人間への奉仕」などが挙げられている。例えば原子力発電のような巨大技術は暴力的であり、その対極に中間技術があり、これこそが「人間奉仕」の技術という位置づけである。
<参考資料>
*E・F・シューマッハー著/小島慶三ら訳『スモール イズ ビューティフル ― 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
*同著/酒井 懋訳『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)
*E・F・Schumacher『SMALL IS BEAUTIFUL― Economics as if People Mattered』(HarperPerennial 1989)
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