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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
宇宙基本法の危険すぎる路線
新たな軍拡競争と巨額の浪費

安原和雄
 宇宙の軍事利用を進める宇宙基本法が自民、公明、民主の3党の賛成多数で08年5月21日、参院本会議で成立した。反対したのは日本共産党と社民党である。この宇宙基本法の成立が意味するものは何か。宇宙開発のあり方が従来の平和利用から軍事利用へと質的に転換していくことである。この危険すぎる路線がもたらすものは、宇宙における新たな軍拡競争であり、そのための巨費の浪費である。地上での道路などへの税金の無駄遣いに飽きたらず、今度は天上にまで無駄遣いの宴(うたげ)を広げるつもりなのか。(08年5月29日掲載、同月31日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽関連業界は「祝宴」、一方、新聞は批判的論調

 宇宙基本法が成立した5月21日夕刻、日本航空宇宙工業会(宇宙・軍需関連企業の集まりで、会長・森郁夫富士重工業社長)は東京都内ホテルで「祝宴」を開き、森会長はつぎのように歓迎の挨拶をした。(しんぶん 赤旗・5月22日付)
 「世界各国は航空宇宙産業を戦略産業と位置づけ、積極的な取り組みを進めている。宇宙基本法が成立したこともあり、宇宙産業をさらに活性化していく必要がある」と。

一般メディアは同法についてどのように論評したか。批判的な社説を書いたいくつかの新聞の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説(5月22日付)=宇宙基本法 軍事には明確な原則を
同社説(5月10日付)=宇宙基本法 あまりに安易な大転換
*毎日新聞社説(5月15日付)=宇宙基本法案 軍事利用に懸念は消えない
*東京新聞社説(5月16日付)=宇宙基本法案 『平和目的』こそ原点
*山陽新聞社説(5月12日付)=宇宙基本法案 非軍事利用へ議論深めよ
*愛媛新聞社説(5月12日付)=宇宙基本法 非軍事の誓いと夢を壊すな

▽軍事利用への大転換 ― MDのための早期警戒衛星も

 上記の批判的なメディアが疑問、懸念を表明している諸点を列挙すると、以下の通り。

*わずか4時間の審議で成立
 衆参両院合わせて、国会での実質的な審議はわずかに4時間で、宇宙を軍事利用することに道を開く宇宙基本法が成立した。
*「平和主義の理念」をうたうが・・・
 基本法第1条に「憲法の平和主義の理念を踏まえて」とうたっているが、何が日本の安全保障に資するのか否かがはっきりしない。
*国会決議「平和目的」を捨てて
 日本は1969年に、国会で宇宙利用を「平和の目的に限り」とする決議を全会一致で採択し、政府は「平和目的」とは「非軍事」であると説明してきた。だが、基本法は「我が国の安全保障に資する」と付け加え、「非軍事」のハードルを「非侵略」まで引き下げ、防衛利用を認めるものである。

*MDのための早期警戒衛星も
 基本法成立によって、政府が認めていなかった自衛隊の衛星保有やミサイル防衛(MD)のための早期警戒衛星、高い解像度を持つ偵察衛星の開発・打ち上げが可能となり、歯止めがかからない恐れがある。周辺国の警戒心を呼び起こすだろう。
*「専守防衛」原則に反する
 攻撃兵器を宇宙に配備するのは専守防衛の憲法原則に反する。衛星を攻撃したり、衛星から地上を攻撃したりするのは論外である。
*アジアや世界の緊張を高める
 中国やロシアを想定したミサイル防衛構想に日本の早期警戒衛星が組み込まれると、東アジアや世界の緊張を高め、軍拡競争の引き金になりかねない。イランの脅威などを理由に欧州にミサイル防衛網を配備しようという米国の計画が、ロシアの激しい反発を呼んでいる。

*安定した「官需」への思惑
 基本法に「安全保障」を盛り込んだ背景には北朝鮮の核・ミサイルの脅威のほか、平和利用だけでは今後も大きな需要が期待できず、防衛分野の需要拡大で宇宙産業を振興させたいメーカーの思惑が働いている。衰退気味の民生部門に代わり、安定的な「官需」が欲しいのだ。
*巨費が必要なシステム
 高い偵察能力は抑止力だという理屈もあろうが、早期警戒衛星のような巨費を要するシステムを持つ必要があるとは思えない。

 宇宙基本法はどのような危険な路線を意図しているのか。上記の各紙の批判的な社説からもうかがえるようにつぎの2つの柱を指摘できるだろう。
 ●宇宙における新たな軍拡競争
 ●税金の際限のない浪費路線へ

▽宇宙における新たな軍拡競争

 上記の批判的な新聞論調のうち、つぎの指摘は重要である。
 「中国やロシアを想定したミサイル防衛(MD)構想に日本の早期警戒衛星が組み込まれると、東アジアや世界の緊張を高め、軍拡競争の引き金になりかねない。イランの脅威などを理由に欧州にミサイル防衛網を配備しようという米国の計画が、ロシアの激しい反発を呼んでいる」と。
 さらに「基本法に安全保障を盛り込んだ背景には北朝鮮の核・ミサイルの脅威・・・」という記述も無視できない。

 米国は「対テロ戦争」を名目にアフガニスタン、イラクを攻撃・占領しているが、巨費を投じていながら、この対テロ戦争は事実上、挫折を余儀なくされている。つぎの安全保障の中軸として具体化しつつあるのがMD構想、つまり飛来してくる中・長距離ミサイルを上空で撃ち落とす構想である。しかも日本政府は日米の軍事的一体化の下で、MDのためのミサイルの導入・配置を閣議決定(03年12月)するなど、MD構想の具体化を急いでいる。

 注目すべき点は、自民党国防族議員、防衛省幹部、航空宇宙工業会加盟企業をメンバーとする「日本の安全保障に関する宇宙利用を考える会」(座長・石破茂現防衛相)がまとめた「わが国の防衛宇宙ビジョン」(06年)で、日米一体化で推進中のMDシステムのための宇宙利用を提言している。
 具体的には相手方のミサイル発射をその直後に地上のレーダーや航空機では補足・追尾することは困難だから、早期警戒衛星や宇宙追尾監視衛星が必要だと指摘している。しかもこのような宇宙の軍事利用が中国、ロシア、北朝鮮、イランなどを念頭に置いて進められようとしている。
 ここから「日米軍事同盟」対「中国、ロシア、イラン、北朝鮮」という新たな対立・抗争の構図が浮かび上がってくる。

 これはソ連の崩壊とともに終わったはずの米ソ冷戦が、舞台を宇宙にまで広げ、装いを新たにして再開される可能性が強いことを示唆している。新たな冷戦は新たな軍拡競争を引き起こすだろう。その危険な引き金として新たに加わるのが日本の宇宙基本法の成立である。これでは日本国憲法の前文にうたわれている平和的生存権、さらに9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)の輝ける理念は完全に形骸化しかねない。

▽税金の際限のない浪費路線へ

道路への無駄遣いにつづいて、今度は宇宙での乱費である。どれだけ貪欲に血税を浪費すれば満足するのか。

 1994年~2005年の間に日本全体で道路に投資された金額累計額は、総額151兆円を超える。しかしこのような巨費を投じて、交通渋滞を緩和できたかというと、決してそうではない。その理由は道路容量の増加よりも自動車の走行量の方が大きく上回ったからである。今後の道路整備の基本プランである「道路整備の中期計画」では2008年度から10年間、道路整備にさらに59兆円の巨費を投じる計画である。
 しかし最近の石油価格の異常な高騰から予測できるように近未来に石油不足のため車を走らせることができなくなったとき、巨大な道路網はどういう意味を持つのか。道路という名の既得権益に執着した貪欲な人々による無駄遣いを示す巨大な遺跡としての価値以外には考えにくい。

 宇宙の軍事利用も道路と同じ悪路をたどる懸念は大きい。
 米国が80年代からこれまでにMDの開発・実験に要した予算は1000億ドル(約11兆円)を超える。その米国主導で日本がMDの開発・導入・整備を進めたら一体どれだけのコストがかかるのか。防衛省は当面、1兆円を見込んでいるとも伝えられるが、防衛省幹部の間に「米国に言われるままに実行したらいくら費用がかかるか分からない」という懸念の声さえある。
 アメリカ主導のイラク戦争の挫折にみるように軍事力自体が打開力を失い、無力化している今日、年間約5兆円という規模の日本防衛予算そのものが本来巨大な無駄遣いである。それに加えて新たに宇宙軍拡の一翼を日本が担うことになれば、さらに血税を乱費する道に踏み込むことになる。

 上述の批判的なメディアの論調のうち、つぎの指摘は軽視できない。
 「防衛分野の需要拡大で宇宙産業を振興させたいメーカーの思惑が働いている」
 「早期警戒衛星のような巨費を要するシステムを持つ必要があるとは思えない」―など。 要するに巨費を要する宇宙産業を振興させようという算盤勘定である。ここでも道路と同じように宇宙が既得権益の新分野として肥大化していく恐れが消えない。

 宇宙・兵器メーカーを多数擁する日本経団連はいち早く消費税を現行の5%から17%にまでの引き上げを提言している。消費税1%引き上げは2.5兆円の増税に相当するから総額30兆円(2.5兆円の12倍)の大増税である。「その一部を宇宙分野に」という算盤をはじく音が聞こえてくる。


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貧困大国 ― 日本とアメリカ
その元凶は市場原理主義だ!

安原和雄
 一国の経済規模を示す国内総生産(GDP)でみると、アメリカが世界第1位、日本が第2位の経済大国である。日米両国はつい最近まで誇り高い経済大国であったはずだが、今や貧困大国という汚名を着せられる始末となっている。大国でありながら舞台が暗転した背景はなにか。「市場にまかせれば万事うまく事は運ぶ」という触れ込みで強行されたあの市場原理主義こそがその元凶というべきである。
 最近出版された著作 ― 湯浅 誠著『反貧困』(岩波新書、08年5月刊)、堤 未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』(同、同年1月刊)― を手がかりに貧困大国・日米の実像に迫り、その対抗策を考える。(08年5月23日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「自分自身からの排除」と貧困 ― 「すべり台社会」の実相

 『反貧困』の副題は、「すべり台社会」からの脱出― となっている。「すべり台社会」とはどういう社会なのか。こう書いている。
 一度転んだらどん底まですべり落ちていってしまう「すべり台社会」の中で、「このままいったら日本はどうなってしまうのか」という不安が社会全体に充満している―と。
 このような貧困状態に落ち込む背景としてつぎの「五重の排除」を挙げている。特に「自分自身からの排除」が新しい今日的な貧困を意味している。

1.教育課程からの排除
 背景にはすでに親世代の貧困がある。
2.企業福祉からの排除
 非正規雇用が典型。低賃金の不安定雇用にとどまらず、雇用保険・社会保険にも入れず、かつての正社員が享受できた福利厚生(廉価な社員寮・住宅ローン等)からも排除される。さらに労働組合にも入れない、その総体。
3.家族福祉からの排除
 親や子どもに頼れないこと。
4.公的福祉からの排除
 若い人たちには「まだ働ける」、年老いた人々には「子どもに養ってもらえ」―などとその人が本当に生きていけるかどうかに関係なく、追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政。

5.自分自身からの排除
 何のための生き抜くのか、何のために働くのか、そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。1.から4.の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ、さらに本人自身が「自分のせい」と捉える場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態に追い込まれる。
 ある相談者が言っていた。「死ねないから生きているにすぎない」と。生きることと希望・願望は本来両立すべきなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となる状態―これを「自分自身からの排除」と名づけた。

 著者の湯浅氏(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長/反貧困ネットワーク事務局長)は5月22日、東京都内・日本記者クラブで開かれた企画テーマ〈著者と語る『反貧困』〉でつぎのように強調した。

 あれだけ本人も頑張っているから、助けよう、というのが普通の感覚だが、現実は違う。頑張れ、と言われても頑張りようがないところに追い込まれている人が多い。例えば34歳の男性は「自分はこのままでいいんスよ」と言い張る。なかなか共感を得にくい人たちでもある。しかし重要なことは頑張れという前に頑張れるための条件づくりが先決だ。それが社会と国家の責任だと思う ― と。

〈安原のコメント〉ユニークな切り口
 「自分自身からの排除」というユニークな切り口が『反貧困』の特徴の一つといえる。しかもつぎのように指摘している。
 「セーフティネットの欠如を上から俯瞰する視点から、排除され落下していく当事者の視点へと切り替えるとき、もっとも顕著にみえてくる違いが、自分自身からの排除という問題である。貧困問題を理解する上で、一番厄介で、重要なポイント」と。その通りであろう。
 「すべり台社会」という表現と並んで、こういう視点を重視できるのはホームレスなど貧困の現場に密着して活動している著者ならではの眼力であろう。ただ「自己疎外」、「人間疎外」という視点でもよいように思うが、やはり「排除」という視点を重視したためか。

▽「生活困窮者は、はよ死ねってことか」― 貧困対策に「強い社会」を

 衝撃的事件として知られるのが、北九州市小倉北区で07年7月死後1カ月のミイラ化した遺体で発見された52歳の男性の死亡である。肝硬変を患って働けなくなり、生活保護を受給していたが、福祉事務所からの厳しい就労指導の末、保護を辞退する届けを提出し、生活保護は廃止になっていた。

 日記につぎのような趣旨の文が書き残されていた。
「せっかく頑張ろうと思った矢先切りやがった。生活困窮者は、はよ死ねってことか」
「小倉北の職員、これで満足か。人を信じることを知っているのか。市民のために仕事をせんか。法律はかざりか」
「オニギリ食いたーい」―これが日記に残した最後の叫びとなった。

 このように貧困、生活苦に追い詰められて命を絶つケースは数限りない。日本全体で07年はじめまでに9年連続で年間3万人超の自殺者が出ている。生活苦を理由とする自殺は全体の約3割と推計されている。

 貧困社会から脱出するにはどうしたらよいのか。『反貧困』はつぎのように述べている。
 貧困があってはならないのは、それが社会自身の弱体化の証だからにほかならない。貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDP(国内総生産)を誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されて行かないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
 人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる「強い社会」を目指すべきである ― と。

〈安原のコメント〉「強い社会」?
 貧困対策として「強い社会」を目指すべきだとしている。ここでも用語の問題だが、なぜ「豊かな社会」あるいは「持続的な社会」では貧困対策として有効ではないのだろうか。貧困が存在する限り、大規模な軍事力も巨大なGDPも余り意味をなさない、という趣旨の認識には賛成である。共感を覚える。
 しかし強弱の視点を前面に出されると、つい市場メカニズムと自由競争を無条件に賛美する市場原理主義が招く弱肉強食、つまり勝ち組、負け組のイメージを連想しがちである。著者は「効率が悪く、船足が遅いものは切り捨てる。そうでないと全体が生き残れないとされ、その考え方は教育にも適用された。それは人の生も市場原理(効率)で計られるようになったことを意味する」と指摘しているから、市場原理主義を肯定してはいないはずである。なぜ「強い社会」という表現にこだわるのか、いささかの疑問が残る。

▽貧困大国アメリカにみる「市場原理主義」

 『ルポ 貧困大国アメリカ』はつぎの5章からなっている。
第1章 貧困が生み出す肥満国民
第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々
第4章 出口をふさがれる若者たち
第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」

 各章の見出しを概観しただけで、著作『反貧困』と重なり合う問題意識をみてとることができるのではないか。貧困大国アメリカをもたらした元凶がほかならぬ市場原理主義であり、本書はそういう視点で一貫している。「過激な市場原理」、「暴走型市場原理システム」など表現はさまざまだが、貧困者たちを拡大再生産し、その貧困者をないがしろにするシステムである点では共通している。
 以下では市場原理主義がどういう文脈で取り上げられているかに絞って紹介する。

*貧困層をターゲットにするビジネス
 「サブプライムローン問題」(社会的信用度の低い層向けの高金利住宅ローンの破綻)は単なる金融の話ではなく、過激な市場原理が経済的「弱者」を食い物にした「貧困ビジネス」の一つだ。この言葉は生活困窮者支援のNPO法人「もやい」の事務局長・湯浅誠氏が生みだしたもので、貧困層をターゲットに市場を拡大するビジネスを指す。

*弱者が食い物にされ、使い捨てられていく
 浮かび上がってくるのは、国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在であり、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねないほどの恐ろしい暴走型市場原理システムだ。そこでは「弱者」が食い物にされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく。

*サービスの質が目に見えて低下
 「政府の仕事は、国民にサービスを提供することではなく、効率よく金が回るようなシステムを作り上げることだ」(ブッシュ米政権の第一予算局長の発言)

 「市場原理」が競争により質を上げる合理的システムだと言われる一方で、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むのだと、アメリカ国内の多くの医者たちは現場から警告し続けてきた。競争市場に放り込まれた病院はそれまでの非営利から株式会社型の運営に切り替えざるを得ず、その結果サービスの質が目に見えて低下するからだ。

*いのちの現場に格差や競争を導入すると・・・
 競争のための効率主義が、大金持ちのいる先進国(米国)でありながら、医療サービス・レベルが世界ランキング中37番目、乳幼児死亡率が43番目というお粗末な結果を生み出す。年々増加する医療過誤の原因は、市場原理を医療現場に放り込んだ結果だ。
 いのちの現場に格差や競争を導入することを許してはいけないと、アメリカ国内で声を上げはじめた医師の数は決して少なくない。

〈安原のコメント〉進む「いのちの商品化」
カール・マルクス(1818~1883年、ドイツ生まれの革命的思想家)はその主著『資本論』で19世紀の資本主義分析に取り組み、「労働力の商品化」の構造を解明し、資本主義はその搾取の上に成り立っていることを明らかにした。しかし今日の資本主義的市場原理主義は「いのちの商品化」を進めつつある。つまりいのちそのものを食い物にして利益を稼ぐビジネスの拡大である。
 顕著な具体例がアメリカにおける医療現場での市場原理主義の拡大で、「ノー」の声を医師たちが上げはじめているのは、その危機的状況を察知してのことだろう。後期高齢者医療制度(75歳以上が対象)を導入した日本にとっても「いのちの商品化」は決して他人事ではない。「いのち」と「ビジネス」・「財政」とのどちらが大切なのか、という大きなテーマを投げかけている。

▽弱者を食い物にする「戦争ビジネス」

 弱者を食い物にする市場原理主義、つまり「貧困ビジネス」の典型が「戦争ビジネス」である。その実態の一端を『ルポ 貧困大国アメリカ』から紹介する。

*民営化された戦争 ― イラク戦争
 かつて「市場原理」の導入は、バラ色の未来を運んでくるかのようにうたわれた。だが政府が国際競争力をつけようと規制緩和や法人税の引き下げで大企業を優遇し、その分社会保障費を削減し、帳尻を合わせようとした結果、中間層は消滅し、貧困層は「勝ち組」の利益を拡大するシステムの中にしっかりと組み込まれてしまった。
 グローバル市場で最も効率よく利益を生み出すものの一つに弱者を食い物にする「貧困ビジネス」があるが、その国家レベルのものが「戦争」だ。
 アメリカの(市場原理主義者として知られる)経済学者ミルトン・フリードマンは「国の仕事は軍と警察以外すべて市場に任せるべきだ」と提唱したが、フリードマンに学んだラムズフェルド元米国防長官は、戦争そのものを民営化できないかと考えた。この「民営化された戦争」の代表的ケースが「イラク戦争」で、アメリカ国内にいる貧困層の若者たち以外にも、イラク戦争に巧妙に引きずり込まれていった人々がいる。

*生活苦から戦争に行く― 格差拡大の中で
 経済的情報を含む個人情報が本人の知らないところで派遣会社にわたり、その結果、生活費のため戦地で勤務につき死亡する国民の数も急増する。彼らの動機は愛国心や国際貢献とは無縁であるとみなされるため、戦死して英雄と呼ばれる兵士たちと違い、「自己責任」と表現される。
 ある個人情報機関のスタッフは最近の戦争について語った。
「もはや徴兵制など必要ない」
「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいい。経済的に追いつめられた国民は、イデオロギーのためではなく生活苦から戦争に行ってくれる。兵士として、あるいは戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれる。大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。これは国境を超えた巨大なゲームなのだ」

〈安原のコメント〉市場原理主義にどう立ち向かうか
 「精神的余裕をゼロにする市場原理に組み込まれてしまってからでは遅い」― これは米国のある教育者の言である。
 「問題は何に忠誠を尽くすか、なのだ。大統領という個人でも国家でもなく、アメリカ憲法に書かれた理念に対してでなければいけない」― これはイラク戦争にブレーキをかけるために中将への昇進を目前にして軍を去った米軍元少将の言である。
 この2人の言を紹介した後、『ルポ 貧困大国アメリカ』の著者はつぎのように指摘している。
 
 何が起きているかを正確に伝えるはずのメディアが口をつぐんでいるならば、表現の自由が侵されているその状態におかしいと声を上げ、健全なメディアを育て直す、それもまた私たち国民の責任なのだ。人間が「いのち」ではなく、「商品」として扱われるのであれば、奪われた日本国憲法25条(生存権)を取り戻すまで、声を上げ続けなければならない ― と。
 まさに正論である。「言うは易く、行うは難し」であるとしても。

 朝日新聞(5月18日付)のOPINION「耕論」に興味深い主張が載っている。「生存をかけた若者の反撃」と題して、作家・雨宮処凛(あまみや・かりん)さんはつぎのように述べている。

 自分たちを搾取する社会について学ぶため、マルクスの「資本論」の勉強会を始めたという20代の派遣社員に話を聞いた。細切れの低賃金労働や、過労死寸前の長時間労働で働かされる現代の若者には、「資本論」で描かれる世界は学ぶべき歴史ではなく、自分や友人が身を置く現実と重なって映っている。
 そんな若者たちがいま、泣き寝入りをやめて立ち上がりつつある。
 (中略)これまでは社会の仕組みや闘う方法を知らず、国や企業につけ込まれてきた。でも自ら動けば社会は変えられるのだと気づき、闘うことが楽しくなってきた。生存をかけた反撃が始まったのだ ― と。
 双手を挙げて賛成し、大いに期待したい。


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21世紀版・小日本主義の勧め
今、石橋湛山に学ぶこと
  
安原 和雄
 第二次大戦前から「大国主義」を捨てて、その代わりに「小日本主義」への転換を唱えたことで知られる石橋湛山は戦後、首相の座を病のためわずか2か月で去らざるを得なかった「悲劇の宰相」ともいわれる。その湛山がいま、もし健在であれば、日本が選択すべき針路としてどういう構想を提示するだろうか。
 やはり21世紀版「小日本主義」を勧める構想以外には考えられない。敗戦直後の改正憲法案の9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)をみて「痛快きわまりない」と叫んだ湛山である。その湛山に学びながら、21世紀版「小日本主義」の構想について憲法の平和理念をさらに発展させ、具体化させる方向で考える。(08年5月16日掲載、同月17日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は2008年5月14日、東京・千代田区一ツ橋、如水会館で開かれた水霜会(徳田吉男会長=一橋大学、神戸大学出身者の会)の例会で「21世紀版・小日本主義の勧め ― 今、石橋湛山に学ぶこと」と題して講演した。以下にその大要を紹介する。

 まず講演の3つの柱は以下の通り。
(Ⅰ)何が問題なのか? ―世界と日本を混乱と破壊に追い込むものは
(Ⅱ)どうしたらよいのか? ―湛山の小日本主義に学ぶ
(Ⅲ)どういう日本に変革できるのか? ―21世紀版小日本主義を実践して

(Ⅰ)何が問題なのか?―世界と日本を混乱と破壊に追い込むものは
 その要旨は以下の通り。

▽ 世界最大のテロリスト集団は誰か ― もう一つの「9.11テロ」

アメリカはテロとの戦いを名目に今なおアフガン、イラクで戦争・占領を続けている。イラクでは日本も事実上参戦している。しかし世界最大のテロリスト集団は一体誰なのか。この真相を認識することが先決である。

*チリのアジェンデ政権を銃で転覆
 まず2001年米国を襲った「9.11テロ」とは別のもう一つの「9.11テロ」をご存じだろうか。
 1973年9月11日、南米チリのアジェンデ政権(当時、民主主義と社会主義を標榜し、民主的選挙で選ばれた)が銃によって転覆された。首謀者はピノチェト将軍で、それを支援したのがアメリカの外交政策とCIA(中央情報局)であった。これがもう一つの「9.11テロ」といわれる。

*米軍によるソンミ村の大虐殺
 私(安原)はベトナム解放30周年記念の年、2005年4月、作家の早乙女勝元氏を団長とするベトナム・ツアーに参加し、米軍のベトナム侵略による被害の実態をみた。
 ベトナム人の犠牲者は300万人にのぼる。しかも米軍が空から撒いた枯れ葉剤の後遺症で今なお苦しみにあえいでいる人も沢山いる。

 米軍の大虐殺として知られるベトナム中部のソンミ村を訪ねた。村人たちがまだ眠っている早朝、武装ヘリで襲い、504人が虐殺され、わずか8人だけが生き残った。米兵たちは村人1 人を殺害する度に、「一点」、「もう一点」と叫んだという。殺人ゲームそのものである。

 第二次大戦後、米軍の直接の軍事力行使あるいはアメリカ製兵器による犠牲者は世界で数千万人に上るという指摘もある。
 こうみると、アメリカ国家権力とその背後に存在する軍産複合体(軍部と兵器メーカーなどとの複合体)こそ世界最大のテロリスト集団といっても差し支えないだろう。
 アメリカの著名な言語学者、ノーム・チョムスキー教授はその著作『覇権か、生存か』(集英社新書)で「ホワイトハウスは世界残虐大賞に値する」と指摘している。

▽日米安保体制の負の効果 ― アメリカと無理心中の懸念も

 日米安保体制(=日米同盟)について正確な認識を共有することが不可欠と考える。多くのメディアでは日米同盟を肯定する傾向があるが、私はむしろその負の効果、いいかえれば危険な特質に着目する必要があると考える。
 日米安保体制(=日米同盟)は軍事同盟と経済同盟からなっている。

*日米軍事同盟に執着し、孤立へ
 まず日米軍事同盟について考える。その法的根拠である日米安保条約の第3条は日本の「自衛力の維持発展」を明確にうたい、ここから特に憲法9条2項(軍備及び交戦権の否認)の骨抜きが始まった。第5条(共同防衛)、第6条(基地許与)によって沖縄を中心に日本列島上に米軍基地網が張りめぐらされ、日本列島は米軍の出撃基地と化している。
 しかも1990年代後半から「世界の中の安保」に変質し、世界中至る所に米軍が出撃し、それを自衛隊が補完する体制が出来上がっている。その典型例が自衛隊のイラク派兵で、名古屋高裁判決(08年4月17日判決、その後確定)は9条違反と断じた。
 しかしこのような日米一体化での軍事力行使がかえってアフガンやイラクで混乱と破壊をもたらしている現状からみれば、軍事力はもはや無力となっている。にもかかわらず日米軍事同盟と軍事力行使に執着し、そのため世界の中で孤立を深める結果となっている

 日米経済同盟もまた危険な選択といえる。日米安保条約第2条(経済協力の促進)に「日米両国は、国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また両国の間の経済的協力を促進する」と定めている。これは具体的に何を意味するのか。一つは米国を源流とする新自由主義(=市場原理主義)の日本への導入で、それは弱肉強食の自由競争の激化、貧富など格差の拡大、後期高齢者の医療費負担増など税・保険料負担の増大を招いている。
それに食料・エネルギー危機さらにサブプライム・ローン(低信用者向け高金利住宅ローン)の破綻が重なって、新自由主義路線も危機に陥っている。これが世界や日本を混乱と破壊に追い込んでいる。

*泥船の運命共同体からどう脱出するか
もう一つ、指摘すべきことはドル暴落が日本に及ぼす打撃である。
 見逃せないのは、日本は米ドルの日本銀行による大量買い支えによってドル崩落の防止に一役買っており、さらにドルの買い支えなどによって増えた外貨準備(ドルが中心で、08年初頭現在で約1兆ドル=100兆円超)は米国債(ドル建て財務省証券)の大量購入によって運用され、米財政赤字の穴埋めをしている。
 大量の米国債購入は、アメリカのイラク攻撃に要する巨額の戦費調達を間接的に支援しているが、一方では近未来にも不可避とされるドル暴落によって10兆円単位の巨額の為替差損をこうむる可能性がある。

 こうみると、日米は軍事、経済両面で、いわば泥船に乗った「運命共同体」であり、このままでは無理心中となりかねない懸念が強い。ここからどう脱出するか。アメリカを支えてきた敗戦国、日独の2大国のうちドイツはイラク戦争に「ノー」を突きつけ、すでに脱出したことを想起したい。

(Ⅱ)どうしたらよいのか? ―湛山の小日本主義に学ぶ

 ジャーナリストの大先達、石橋湛山(1884~1973年、元首相、日蓮宗の信徒)は首相就任祝賀会でつぎのように述べた。「私は自分で総理になろうという考えはない。ただ日本を立派な国にしたいという一念に燃えている」と。今どきの政治家と違って立派である。ただわずか2か月(1956年12月から翌年2月まで)で病のため首相の座を去った。

 軍事力行使を中心とする大国主義が打開力を失っている今こそ、湛山が唱えた小日本主義に学ぶ必要がある。小日本主義の特質はつぎの5本柱からなっている。 
*植民地、領土拡大をめざす大日本主義のアンチ・テーゼ 
大正10年(1921年)頃から「大日本主義は幻想」であるとして、政治的、経済的、軍事的に意味がないという理由から当時の朝鮮、台湾、満州(現在の中国東北部)、樺太(現在のサハリン島の南半分)などの植民地を捨てよ!と説いた。

*軍備拡張は亡国への道
 「わが国の独立と安全を守るために軍備拡張という国力を消耗するような考えでは、国防を全うできないだけでなく、国を滅ぼす。軍備拡張という考えを持つ政治家に政治を託するわけにはいかない」と1968年に論じた。

*9条は世界に先駆けた理念として高く評価
新憲法改定案が公表されたとき、9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)をみて、「世界にいまだ全く類例のない条規である。独立国たるいかなる国もかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。痛快きわまりない」と『東洋経済新報』誌(1946年)で評した。

* 平和憲法と日米安保条約は両立不可能で、憲法理念を優先
 「日米安保条約と憲法は明らかに矛盾している。(中略)日本政府の取るべき態度はきわめて簡単明瞭に自国の憲法に立脚すればよい。これは当然である」と1960年8月の朝日新聞で論評した。

* 世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」締結を提唱
 「今日の日米安保条約は日米間だけのものだが、これを中国、ソ連にまで広げ、相互安全保障になしうれば、ここに初めて日本も安心できるし、米国、中国、ソ連とも仲良くしてゆける」と論じた。
 湛山の打診に対し、当時のフルシチョフ・ソ連首相は「原則的には全面的に賛成」と回答、周恩来中国総理は、「私も以前から同じようなことを考えていた。中国はよいとしても、米国が問題でしょう」と答えたいきさつがある。(『石橋湛山全集』第十四巻・参照)

(Ⅲ)どういう日本に変革できるのか?― 21世紀版小日本主義を実践して

 海外版小国主義=コスタリカ・モデル(軍隊の廃止、自然環境の保全、平和・人権教育)に着目するときである。コスタリカは世界でもユニークな「1949年現行憲法」で軍隊を廃止し、今日に至っている。しかも1983年「中立宣言」を行った。その柱は非武装中立、永世中立、積極中立の3つである。このうち積極中立とは、決して一国平和主義に閉じこもらないで、紛争の絶えない近隣諸国に積極的な平和外交を展開することを指しており、事実その成果として自国の平和確立、戦争拒否を貫いてきた。

 21世紀版小日本主義を構想する以上、大国主義路線(新自由主義=市場原理主義の強行、さらに憲法9条改悪による軍事国家化の推進)からの構造転換が不可欠である。その柱として以下の3つを構想する。
*「持続可能な発展」を日本がめざすべき外交、政治、経済上の新しい戦略目標として導入すること
*日米安保体制(日米軍事・経済同盟)の解体と「東アジア平和同盟」の構築を図ること
*自衛隊を全面改組し、戦力なき「地球救援隊」(仮称)を創設すること 

▽「持続可能な発展」を憲法に追加条項として盛り込む

 「持続可能な発展」(=持続的発展 Sustainable Development)を憲法に追加条項として盛り込むのは、憲法の平和理念をさらに強化するためである。
 ここでの「平和理念」とはどのような意味合いなのか。平和とは、広い意味の「非暴力」、「反暴力」のことである。戦争、紛争、テロ、殺戮がない状態は平和にとって基本的に重要だが、それだけを指しているのではない。人間性や生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―などが存在する限り平和とは縁遠い。さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊が続く限り、平和な世界とはいえない。 いいかえれば以上のような多様な暴力を追放しない限り、平和の実現は夢物語に終わることを強調したい。

 このような多様な暴力を否定し、つまり地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展である。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項として織り込むことが必要である。

 具体的試案は以下の9条と25条の2つである。
 ●9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項
 「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加する。

 戦争、軍備と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって「戦争放棄、軍備・交戦権の否認」という先駆的な理念の強化を図り、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の全面的廃絶と顕著な軍備縮小に取り組む姿勢を明示する。

 次の点を補足しておきたい。
 一つは湛山が現行憲法9条と日米安保体制(=日米軍事同盟)とは矛盾するという観点から、9条を生かすことを優先させるべきだと説いたことである。湛山の9条尊重論が小日本主義と結びついていることはいうまでもない。9条に持続的発展を新たに盛り込むことは湛山の小日本主義の今日的発展を意味する。

 もう一つ、9条の世界的意義は世界のさまざまな人びとによって高く評価されていることである。日本人の多くが考えている以上に9条堅持とその理念の積極的活用に対する海外の期待は大きい。
最近の事例としては「9条を世界に広めよう」を合い言葉とする「9条世界会議」が08年5月4~6日開催された。主会場の千葉・幕張メッセには海外からも含めて約2万人、このほか広島、大阪、仙台で計1万人、総勢3万人超が集まり、「9条世界宣言」を世界に向けて発信した。

 ●25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項
 「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加する。

 この追加条項は従来の経済成長路線(=大量生産・消費・廃棄→地球環境の汚染・破壊→生命共同体の崩壊)、さらに拝金主義という名の「貪欲(=暴力)路線」との決別を明確にし、新たな「持続的な経済」を志向する。これは同時に脱・成長経済、脱・石油浪費社会、すなわち簡素な経済を意味しており、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などの「知足(足るを知ること=非暴力)路線」をめざす。

 この脱・石油浪費社会、脱・成長経済は、「持続的な経済」(=簡素な経済)の2本柱であり、従来の経済構造を根本から変革することをめざすものである。
 誤解が予想されるので、若干補足すると、持続的な経済、すなわち脱・成長経済は決して貧困への道ではない。逆にむしろ従来型の成長経済こそが量的過剰のなかの質的貧困を意味している。
 なぜならGDP(国内総生産)で計る成長経済はモノやサービスの量的拡大(廃棄物、ごみの大量生産などを含む)を意味するだけで、そこに質的豊かさ(いのちの尊重、自然の豊かさ、ゆとり、安らぎ、人と人との絆、人間としての誇りなど)は一切含まれないからである。持続的経済は経済成長率を高めることは追求しないが、質的豊かさの実現を重視する。

 9条が追加条項も含めて安全保障、外交上の平和(=非暴力)を志向するのに対し、25条の追加条項は経済社会の平和(=非暴力)の構築を意図している。

 以上2つの追加条項は、憲法前文にすでに明記されている平和的生存権(注)と一体となって、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものである。この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台となる。
(注)憲法前文は平和的生存権として「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とうたっている。恐怖とは戦争であり、欠乏とは貧困であり、このような暴力から免かれることが平和を意味する。イラク派兵を憲法9条違反としたあの名古屋高裁判決は、この平和的生存権について「すべての基本的人権の基礎にあって、その享受を可能にする基底的権利」と認めた。

▽ 日米安保体制(=軍事・経済同盟)の解体、「東アジア平和同盟」の構築

 憲法9条の平和理念は日米安保体制(=日米軍事同盟)の戦争志向とは根本的に矛盾・対立している。したがって9条を守り、その理念を取り戻すためには日米安保体制を解体することが前提となる。
 念のためつけ加えれば、日米安保条約10条(条約の終了)は「いずれの締約国も、条約終了の意思を通告することができ、その通告の1年後に条約は終了する」と定めている。つまり国民の意思で日米安保を解体することができる。

 しかもアジアと世界の平和を確かなものに創るためには「東アジア平和同盟」の結成が不可欠である。これは湛山の「日中米ソ平和同盟」構想の21世紀応用編である。
 東アジア平和同盟のメンバーは日本、中国、韓国、北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国、東南アジア諸国連合(ASEAN=加盟国はタイ、マレーシア、フィリッピン、インドネシア、シンガポールなど)などが考えられる。これは「東アジア共同体」構想(04年11月、ASEANプラス日中韓の首脳会談で確認)を土台とするもので、湛山の「日中米ソ平和同盟」のメンバーと同一ではない。

 日米安保の解体と東アジア平和同盟の結成はなにをもたらすか。
・東アジアからの米軍基地撤退と東アジア非核化を可能にする
・長期的にはコスタリカ方式の「非武装・積極中立」を視野に置く。
・日米軍事同盟の仮想敵は目下のところ、北朝鮮だから、南北朝鮮の統一ができれば、日米軍事同盟の存在意味がなくなる。

▽ 自衛隊の全面改組、戦力なき「地球救援隊」(仮称)の創設  

 慶応大学で04年12月、「仏教経済学と地球環境時代」というテーマで講義をしたとき、「地球救援隊」の構想を提案したら、ある女子学生は「私も同じことを考えていた」と感想文に書いた。

 なぜ非武装の地球救援隊なのか。
 第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては対応できないことは改めて指摘するまでもない。
 第二は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)を超える巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては浪費の典型である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える効果しかない。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではない。そこから登場してくるのが戦力なき地球救援隊構想である。その概要は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守るために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を生かす構想であること。
・地球救援隊の目的は非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。
・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質の改革を進めること。
 兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
 防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員は約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援の訓練とする。

 (注)ミャンマーを襲った超大型サイクロンと中国四川省の大地震
 08年5月2日夜から3日にかけてミャンマー中・南部を直撃した超大型サイクロンの被害は死者10万人説、食料不足数百万人、コメ産地壊滅によるコメ価格急騰(平年の2倍に) などと伝えられる。
 一方、5月12日発生した中国四川大地震では15日現在、被災者1000万人超、このほか死者5万人超、生き埋め、行方不明者合わせて10万人を超えた。
 2つの大災害ともに「道路寸断、救援届かず」と報じらたことからも分かるように空路救援のための多数の「人道ヘリ」が必要である。

 このような地球救援隊の創設は、軍隊を捨てたコスタリカ・モデル応用の日本版である。
武装組織である自衛隊の全面改組を前提とするこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における平和、すなわち非戦モデルの構築が不可欠であり、そのためには日米安保体制の解消、東アジア平和同盟の締結が前提となる。
 日本国憲法9条の平和理念に対する世界の期待が大きい折だけに、この構想の具体化は日本が世界の対立と恐怖を超えて、和解と共生を促す先導的役割を果たすことにもなるだろう。


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保身と無責任か、それとも
〈折々のつぶやき〉37

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は37回目。題して「保身と無責任か、それとも」です。(08年5月12日掲載)

▽ 新入社員に贈る出世心得10カ条

 最近の朝日新聞夕刊(東京版)のコラム「素粒子」は大変興味深く読んでいる。4月の某日、つぎのような一文が載っていた。

新入社員に贈る出世心得10カ条
①保身と無責任を肝に銘ずべし
②失敗は全(すべ)て他人のせいにせよ
③偽(ぎ)なくば会社は立たずと考えよ

④闇と圧力にとことん屈すべし
⑤法や裁判所の命令は無視せよ
⑥他の客の迷惑を第一に考えよ
⑦世間の批判に馬耳東風であれ

⑧正義感や気骨、見識は捨てよ
⑨悪事には見て見ぬふりをせよ
⑩つねに尻尾(しっぽ)を振るポチであれ
(以上を守れば諸君も役員に)

〈安原のコメント〉 失望?
 こういう輩が最近たしかに目立つ。もちろん反面教師として描いているのであり、これとは「正反対の人物」待望論が素粒子・筆者の真意であろう。なぜこのような輩がはびこっているのか。やはり弱肉強食、私利第一主義の市場原理主義の横行が背景にある。
5月11日の「サンデープロジェクト」(朝日テレビ)を観ていたら、中曽根康弘元首相がおもしろいことを言っていた。「市場原理主義が経済だけでなく、教育、道徳の分野にまで入ってくるのは弊害をもたらす」と。

 ほぼ同感である。ただ中曽根さんはその市場原理主義の日本への導入者である。顕著になったのは小泉首相時代だが、1980年代の中曽根首相の時から「小さな政府」論と自由化・民営化路線、すなわち市場原理主義が広がり始めた。
 この「弊害」発言は、それに対する反省の弁だったのか、それとも自分が導入者だという自覚はないのか、本音を聞いてみたい。
 
 勝ち組のつもりらしいが、その実、市場原理主義の囚われの身となっている現代版奴隷の群れと評するほかない連中がのさばっているからといって、日本の現状と将来に失望するのはまだ早すぎる。

▽ 運転手さんとおばさんと

 ここでメディアから2つの記事(要旨)を紹介したい。
一つは毎日新聞「日曜くらぶ」に連載の「心のサプリ」(筆者は心療内科医・海原純子さん)で、「他人を守る人たち」(5月11日付)と題する記事である。つぎのように書いている。

 高速道路を走るトラックの車輪がはずれて、対向車線のバスを直撃するという事故が起こった。最初このニュースをきいた時、なぜバスが横転しなかったのだろうと疑問がわいたが、後でこのバスの運転手がブレーキを踏み、サイドブレーキまで引いて止めたということを聞き、胸が熱くなった。運転手はタイヤの直撃を受けていたのである。
 人間はとっさの時、無意識に身を守る。危険を避ける反射が起こるはずなのだ。
(中略)
 自分を守るのではなく、乗客を守った。もし自分を守っていたら、多分命を落とすことはなかっただろう。しかし乗客の多くがケガをしたり、場合によっては亡くなる人もいただろう。
 乗客の話によると、バスは静かにゆるやかに停車した。運転手の方は何十年も無事故で、運転を指導する立場にいらしたという。職業意識もさることながら、とっさの時に自分を守るのを忘れ、人を守るというのは、その方の普段の生き方の反映なのだろう。
(中略)
 「死んじゃったらおしまいさ、人はすぐ忘れてしまう」などと言う人もいるだろう。でも、そうではない。私はそうした人たちの心を忘れたくない。他人を助けるために命を落としてしまう警官や学生もいる。みな声高に自分の行動をひけらかさない。見返りも求めない。すべて普段の心の反映なのである。(後略)

 もう一つは朝日新聞「声・若い世代」欄に載った「あのおばさん 一生忘れない」(5月11日付)というタイトルの投書(小学生 11歳)である。その趣旨は以下の通り。

 雨の日の夜、僕は塾の帰りに自転車置き場で手がすべり、自転車の鍵をなくしました。木の根元をおおった網の中に落としてしまったのです。
 雨が激しく降ってきてびしょびしょになるし、ダンゴ虫もいっぱいいて、泣きそうになってしまいました。そうしたらお母さんよりちょっと年上のおばさんが、通りすがりに「どうしたの?」と声をかけてくれました。
 おばさんは自分のかさで取ろうとしてくれましたが、なかなか取れません。近くのお店から懐中電灯、長い定規などを買ってきて、ようやく鍵を取ってくれました。おばさんの手は土だらけ、身体も雨でびしょぬれでした。
 僕は名前を聞くのも忘れ、ただ「申し訳ありませんでした」「本当にありがとうございました」としか言えませんでした。
 僕はそのおばさんを一生忘れないと思いました。これから僕も人を助ける心の優しい人になりたいと心の中で決心しました。

〈安原のコメント〉 希望へ
 以上の2つの事例にみる運転手さんとおばさんの行為は、保身と無責任、私利第一主義の対極に位置する思いやり、利他行為ではないだろうか。小学生は「これから僕も人を助ける心の優しい人になりたい」と決心したわけで、どこまで大きく成長していくのか楽しみである。これだから日本の将来も棄てたものではない。混乱の中の現実に希望を見出した気分になっている。


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武力によらない平和を地球規模で
戦争廃絶を願う「9条世界宣言」

安原和雄
 「日本国憲法9条を世界に広めよう」を合い言葉に08年5月4~6日、千葉市の幕張メッセで日本列島の隅々から、さらに世界中から約2万人の人々を集めて開かれた「9条世界会議」は最終日に「9条世界宣言」などを採択して、世界に向けて発信した。その骨子は「9条世界会議は戦争の廃絶をめざして、9条を人類の共有財産として、武力によらない平和を地球規模で呼びかける」と強調している。
 この世界会議は幅広い多数の市民に支えられた初めての試みである。日米両政府によって9条の「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」という理念は事実上空洞化されてきているが、その理念をよみがえらせ、活性化させて、人類の共有財産にまで広めるための大きな第一歩を踏み出した。(08年5月7日掲載、同月8日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 この世界会議には初日の全体会は1万2000人、2日目の分科会は6500人が参加した。満席のため会場に入れなかった人たちは初日に3000人、2日目に500人いた。海外からの参加者は31カ国150名に上った。
 吉岡達也さん(「9条世界会議」日本実行委員会共同代表、国際交流NGOピースボート共同代表)の開会宣言につづいてマイレッド・コリガン・マグワイアさん(北アイルランド、1976年ノーベル平和賞受賞)、コーラ・ワイスさん(アメリカ、「ハーグ平和アピール」国際市民会議」の呼びかけ人)が基調講演を行い、日本国憲法9条の世界的意義を強調した。

 2日目の分科会はシンポジウムだけでも「世界の紛争と非暴力」、「アジアの中の9条」、「平和を創る女性パワー」、「環境と平和をつなぐ」、「核時代と9条」、「9条の危機と未来」など。このほかパネル討論では「グローバリゼーションと戦争」、「軍隊のない世界へ」が多数の参加者を集めた。
 「軍隊のない世界へ」では軍隊を廃止したコスタリカのカルロス・バルガスさん(国際反核法律家協会副会長、国際法律大学教授)がコスタリカが軍隊を廃止した背景や意義、さらにコスタリカと9条をもつ日本との市民レベルの連帯が重要であることを力説した。

▽「G8に対する声明」と「核不拡散条約再検討委員会に対する声明」

 最終日に「9条世界宣言」のほかに「G8に対する9条世界会議声明」が採択された。
その骨子は以下の通り。
 G8サミットが日本の北海道・洞爺湖で7月開催されるにあたり、以下の事項について検討するよう求める。
*G8諸国は世界の軍事費の70%を支出している。軍事費を大胆に削減するとともに、その資源を平和、開発、環境保護のために転換すること。
*アメリカが主導する「対テロ戦争」は、恐怖と抑圧を生み、憎悪と暴力を世界中に助長している。「対テロ戦争」を終わらせ、テロリズムの根源となっている要因について人権を尊重し国際法を活用しつつ、国際協力によって対処すること。
*平和、人権、環境保護を含む企業の社会的責任を支えるための仕組みを構築し、実行すること。

 さらに「核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会に対する声明」も採択された。その骨子はつぎの通り。
*NPT加盟の核保有国は核兵器廃絶への交渉を直ちに開始し、核軍縮と核兵器廃絶のプロセスを再生すること。
*膨大な軍事費の口実になっている核兵器の研究、設計、開発、製造およびミサイル防衛計画を即時に止めること。
*ミサイル禁止条約および宇宙兵器の禁止のための即時交渉開始を支持すること。

▽ 「9条世界宣言」(08年5月4~6日 9条世界会議)

 ここでは「9条世界宣言」の大要を収録し、そのコメント、感想を最後に述べたい。その内容は以下の通り。なお理解を助けるために必要な(注)は安原がつけた。

 日本国憲法9条は、戦争を放棄し、国際紛争解決の手段として武力による威嚇や武力の行使をしないことを定めるとともに、軍隊や戦力の保持を禁止している。このような9条は、単なる日本だけの法規ではない。それは、国際平和メカニズムとして機能し、世界の平和を保つために他の国々にも取り入れることができるものである。9条世界会議は、戦争の廃絶をめざして、9条を人類の共有財産として支持する国際運動をつくりあげ、武力によらない平和を地球規模で呼びかける。

 1945年の国連憲章は、明確に定義された異常事態の場合を除いては「武力による威嚇または武力の行使を慎まなければならない」ことを加盟国に義務づけた。
 日本によるアジア太平洋への侵略戦争と広島・長崎への原爆投下の後に1947年に施行された日本国憲法9条は、武力の行使を認めるいかなる例外ももたないという点で、世界平和のための国際規範の発展におけるさらなる一歩前進である。この日本の動きにつづいて、コスタリカは1949年、軍隊や自衛隊をもたなくても国家は平和的に存在できるという例を示した。
 9条の精神は、すべての戦争が非合法化されることを求めている。そしてすべての人々が恐怖や欠乏から解放され、平和のうちに生きる固有の権利を有することを世界に投げかけている。

(注・安原)日本国憲法(1947年施行)とコスタリカ憲法(1949年改正)
* 日本国憲法9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

*コスタリカ憲法12条(常備軍の禁止)
常設の組織としての軍隊はこれを禁止する。公の秩序の監視と維持に必要な警察力はこれを保有する。大陸内の協定または国内防衛のためにのみ軍事力を組織することができる。

〈今日の世界における9条〉
 しかし今日の世界は、武力紛争、大規模な貧困、格差の拡大、武器の拡散、地球規模の気候変動に覆われている。アメリカによる全面的な「テロとの戦い」は、戦争をもたらし、国連の役割を台無しにし、地球規模の軍備競争を復活させ、世界中で拷問を助長し、人権をむしばんでいる。
 紛争が民間人、とりわけ女性、子ども、高齢者たちに与える影響に対する関心が高まっているにもかかわらず、戦争で殺され傷つき避難を余儀なくされる民間人の割合は、空前の高さに達している。
 このような絶望的な状況は、イラクにおける戦争と占領にはっきりと示されている。平和や民主主義が武力によってもたらされないことは、もはや明白である。こうした世界的な流れのなかで、9条の原則を保持し、地球規模の平和と安定のための国際メカニズムとして強化することが、かつてないほど重要になっている。

 それにもかかわらず日本は、憲法9条の義務を果たしていない。さらに9条の存在自体がいま脅かされている。今日の日本の自衛隊は世界最大規模の軍隊の一つであり、アメリカは日本中に軍事基地をもっている。日米軍事協力がますます強化されるなか、日本の現実は憲法9条の精神からの乖離をいっそう深めている。
日本によるアメリカへの全面的軍事支援を可能にさせるために憲法を改定しようという動きは、日本国内、アジア近隣地域、そして国際社会で不安をかきたてている。日本は近隣諸国への戦争責任を果たしておらず、和解はいまだなされていない。東北アジアには不安定な冷戦構造がいまだに残されている。

〈9条と地球市民社会〉
 歴史的には、国家のみが国際関係の主体であると考えられてきた。しかし市民の運動が重要な役割を果たしてきたこともまた事実である。1990年代より地球規模の市民社会が、草の根レベルで国境をこえて団結し、人類の将来の決定に参加するようになってきた。平和、人権、民主主義、ジェンダーおよび人種の平等、環境保護、文化的な多様性などの課題について主要な役割を果たすようになってきた。

 1997年の対人地雷禁止オタワ条約、1999年の「ハーグ平和アピール」国際市民会議、2002年の国際刑事裁判所の設立、2003年のイラク戦争に対する空前の世界的反戦運動といった例は、いずれも地球市民社会が変革の主体としての力を明確に示したものだった。さらに今、クラスター爆弾の禁止や小型武器の管理を求める運動、核兵器の非合法化を求める運動、また地球規模の平和と経済的・社会的正義を求める運動が広がっている。いまこそ地球市民社会は、9条の条項とその精神に着目し、その主要な原則を強化し、地球規模の平和のためにそのメカニズムを生かしていこう。

〈9条の約束を実現する〉
 9条の主要な原則を国際レベルで実行するためには、大国から小国まですべての国々は、暴力紛争の発生を予防する責任を果たし、いかなる状況下でも武力による威嚇や武力の行使を放棄しなければならない。そして安全保障を人間の観点またジェンダー・バランスの視点から見直す必要がある。
 貧困と不平等が紛争の根源的要因になっている。現在のグローバリゼーションは、南北格差をさらに深刻にしている。各国政府は、国連ミレニアム開発目標の達成を第一歩として、すべての人々にとっての持続的繁栄と社会正義を築くために資源を使わなければならない。

(注・安原)国連ミレニアム開発目標
 国連ミレニアム開発目標(MDGs:Millennium Development Goals)は2000年9月開催された国連ミレニアム・サミット(加盟189か国から150人以上の元首・首脳が参加し、21世紀を前に世界共通の課題を話し合った)で採択された。次の8つの目標を掲げている。
 ①極度の貧困と飢餓の撲滅(世界で1日1ドル以下の所得しかない人々、飢餓に苦しんでいる人々の比率を2015年までに半減させること)、②初等教育の完全普及、③ジェンダーの平等、女性の地位向上の達成、④乳幼児死亡率の削減、⑤妊産婦の健康の改善、⑥HIV/エイズ、マラリアなどの疾病の蔓延防止、⑦持続可能な環境づくり、⑧発展のためのグローバル・パートナーシップの推進。

 以上の目標を掲げた背景には次のような国際社会の深刻な現実があり、この目標達成は05年9月の国連創立60周年記念の首脳会議で再確認された。
・世界の人々の5人に1人は、1日1ドル未満で生活している。
・1999年には約1000万人の5歳未満の乳幼児が防止可能であったはずの病気で死亡した。
・毎年50万人を超える女性が妊娠中に、または出産によって死亡している。
・約1億1300万人の児童が小学校に通っていない。(以上は注)

 9条は人間の発展のための革新的な資金メカニズムを創ろうとする努力を後押しするものである。それは軍備を規制し世界の資源の軍事費への転用を最小化すると定めた国連憲章26条を補完している。

 9条の精神は小型武器、地雷、クラスター兵器、核兵器、生物・化学兵器などを含むあらゆる軍備の拡大、拡散や、軍事産業の活動を否定する。さらに核兵器への依存を拒否し、核兵器の非合法化と廃絶を求めている。

 世界的に軍事費を削減し、限られた資源を持続可能な開発に振り向けることは、地球規模で人間の安全保障を促進し、軍事活動による環境への悪影響を軽減することにつながる。2005年7月、「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ(GPPAC)」の世界提言は「9条はアジア太平洋地域全体の集団的安全保障の土台になってきた」と指摘した。すなわち9条が、この地域の安定に重要な貢献をしており、包括的かつ持続的な平和の構築に大きな潜在力をもっていることを認知した。東北アジアでは9条が地域の平和的統合の土台になりうる。
 市民社会は暴力に対する平和的オルタナティブをつくり出し、地元、国内、地域、世界におけるネットワークを通じて平和を構築する力をもっている。軍事主義を止め、将来の戦争を予防するために、市民社会の力を発揮していこうではないか。

 これらの目標達成のため、9条世界会議に参加した私たちは、以下の通り提言する。

(1)私たちは、すべての政府に以下のことを求めます。
*国連憲章、ミレニアム開発目標、国際人権法、核不拡散条約をはじめとする軍縮条約など、すべての国際的誓約を実行すること。
*平和のうちに生きる固有の権利認め公式化すること。平和のうちに生きる権利なしには他の人権も実現しえない。また人権侵害に対する責任および補償メカニズムを強化すること。
*平和的手段による紛争予防、平和構築、人間の安全保障のための取り組みを支持し、資金を投入すること。
*軍事費を削減し、それらの資金を、保健、教育、持続可能な社会開発に振り向けること。
*包括的で効果的な武器貿易条約を成立させること。不可逆的な軍縮をすすめる第一歩として非武装地帯を設置すること。
*平和をつくる主体として女性が果たす重要な役割を認識するとともに、あらゆる意思決定と政策策定の場に女性の完全かつ積極的な参加を相当数保証すること。
*2000年の核不拡散条約再検討会議最終文書における「明確な約束」にしたがって、すべての核兵器を廃絶するための誠実な交渉を即時に開始し、妥結すること。
*核兵器廃絶の段階的措置として、非核兵器地帯の設置をすすめること。
*地球規模の気候変動に対処することを誓約するとともに、戦争と軍事のもたらす環境への負の影響を転換すること。「国際持続可能エネルギー機関」の設立に向けて投資すること。
*国連をさらに民主的に改革するために、拒否権を廃止し、総会の役割を再活性化すること。
*日本憲法9条やコスタリカ憲法12条のような平和条項を憲法に盛り込み、戦争、国際紛争解決のための武力による威嚇と武力の行使を放棄すること。

(2)私たちは、日本政府に以下のことに取り組むことを奨励します。
*憲法9条の精神を、世界に共有される遺産として尊重し、保護し、さらに活性化しつつ、国際平和メカニズムとしての潜在力を実行に移すこと。
*軍事化の道を歩まず、東北アジアにおける不安定な平和を危機に陥れるような行動をとらないこと。
*世界各地における持続可能な開発のための人間の安全保障に注力するとともに、ミレニアム開発目標の達成という経済大国としての責任を果たすことによって、国際社会で主導的な役割を果たすこと。

(3)私たち市民社会は、以下のことに取り組むことを誓約します。
*9条の主要な原則の維持・拡大を地球規模で促進していくことに真剣に取り組み、平和の文化を普及していくこと。

 上記の誓約を含め、9項目にわたって列挙されているが、(1)、(2)の内容と重複するところもあるので、紹介するのを割愛する。

▽「平和の文化」について

 上記の(3)に「平和の文化を普及していくこと」という文言が出てくる。「平和の文化」(英文の「9条世界宣言」ではa culture of peace)は、日本では常用されてはいないように思うが、どういう意味なのか。
 私(安原)は2003年に初めてコスタリカを訪ね、コスタリカの人々と対話したとき、彼等がこの言葉を「環境の文化」と並んで多用するのに驚いた経験がある。「平和の文化」とは、「平和と文化」ではなく、「平和という文化」の意味と理解したい。いいかえれば、理念、目標としての観念的な平和ではなく、生活様式として、すなわち文化として日常的に定着している実質的な平和を指しているといえるのではないか。

 同様に「環境の文化」も「環境という文化」のことで、自然環境、地球環境を大切にすることが日常生活の中に定着しているという意味であろう。
 1949年の憲法改正によって軍隊を廃止し、浮いた財政資金を平和や環境や教育や福祉の充実に回し、大切にしているコスタリカだからこそ、こういう「平和の文化」、「環境の文化」という言葉が抵抗感なしに語られているのではないか。日本も一日も早く憲法9条の理念を丸ごと実現させて、上記の用語を日常化させたいものである。

▽「持続可能な開発」について

 「9条世界宣言」ではSustainable Developmentの日本語訳として「持続可能な開発」があてられている。しかしこの訳語はいささか疑問である。5日の分科会「シンポジウム・環境と平和をつなぐ」でもそういう疑問が出された。「開発」ではなく、「発展」の訳語の方がふさわしいと考える。

 その理由はつぎのようである。(拙著『知足の経済学』(ごま書房、1995年4月刊・参照)
 「持続可能な開発」という訳語にはつぎのような反論がある。
 つまり「開発・成長の経済学」の観念の強い日本では開発が成長と混同されやすいし、しかも「ゴルフ場の乱開発」という表現にみられるように開発によって自然破壊を連想しやすい。英語のDevelopmentがもっている「包括的な経済社会の発展」、「生活水準、福祉の向上」(健康、栄養状態、教育の達成度、基本的自由、公正な所得分配などを含む)というニュアンス、意味が開発という表現からは理解されにくい。
 ちなみに経済成長とはGNP、GDPの量的増加を指しており、広い意味の発展とは質的に異なる ― と。

 このSustainable Developmennt は1992年の第一回地球サミットのリオ宣言に盛り込まれ、地球環境時代のキーワードとして今日に至っている。当時は「開発」という訳語が多かったが、最近では「発展」が多用されている。

▽平和憲法と日米安保体制との矛盾

 「9条世界宣言」は全体として優れた宣言であることは間違いない。私(安原)は初日と2日目に参加したが、新しい歴史の息吹き、さらに胎動を肌で感じた。これまでとは質的に異なる時代が始まりつつあることを実感させてくれる世界会議であり、宣言ともいえる。しかし若干の物足りなさが残る。それは平和憲法と日米安保体制との根本的矛盾を明示していない点である。

 宣言はつぎのように指摘している。
 今日の日本の自衛隊は世界最大規模の軍隊の一つであり、アメリカは日本中に軍事基地をもっている。日米軍事協力がますます強化されるなか、日本の現実は憲法9条の精神からの乖離をいっそう深めている ― と。その通りである。

なぜ「日本の現実は憲法9条の精神からの乖離をいっそう深めている」のか。ここが問題である。「乖離」の背景には日米安保体制という軍事同盟が存在している。これは否定できない事実である。
 日米安保条約第3条(自衛力の維持発展)は「武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させる」と規定し、軍事力増強を明確にうたっている。これが9条の精神を蔑ろにして「自衛隊は世界最大規模の軍隊」にまで肥大化させた要因である。
第6条(基地の供与)が「アメリカは日本中に軍事基地をもっている」現実の法的根拠である。さらに「日米軍事協力がますます強化される」背景には「世界の中の安保」へと日米安保条約自体が変質・強化・拡大してきたことが挙げられる。

 憲法前文の平和生存権と9条を事実上骨抜きにしているのは、この日米安保の存在にほかならない。にもかかわらず宣言から「軍事同盟」あるいは「日米安保体制」という文言を見出すことはできない。党派を超えて幅広い平和・環境勢力を結集する ― という配慮からだとすれば、その心情が分からないわけではない。
 しかし今や軍事同盟自体が平和・環境重視の観点に立って地球上から解消されつつある時代である。「平和(=反戦と非暴力)のための地球市民社会の構築をめざす」と宣言しながら、これでは戦略の重要なひとつの柱を欠く結果となったとはいえないだろうか。

名古屋高裁の判決(4月17日)が「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断じたのに対し、自衛隊幹部の一人は「そんなの関係ねえ」と言ったことを思い出したい。「9条世界宣言? そんなの関係ねえ」という冷ややかな笑い声が聞こえてきたら、それをどう封じ込めるか。戦術のない戦略は無力になりがちだが、一方、戦略を欠いた戦術は方向性を見失う懸念がある。


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08年「憲法」社説を読んで
9条と25条と平和生存権と

 2008年5月3日は憲法施行以来61年目の憲法記念日である。大手6紙の憲法社説を読んだ。昨年は9条(軍備と交戦権の否認)改憲派の安倍首相時代であり、9条がらみの社説が多かったが、今年は一転して9条を正面から論じる社説は少ない。むしろ平和的生存権(前文)、25条(生存権)に言及する主張が目立つ。
 折しも5月4日からノーベル平和賞受賞者らも海外から参加して市民レベルの「9条世界会議」が日本で開かれる。9条を軸にして25条、平和的生存権も論議の対象になるだろう。この機会に9条の存在価値を改めて評価すると同時に25条、平和的生存権を表裏一体の関係として捉え、どう生かすかを考え、深める時ではないか。(08年5月3日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず大手各紙の社説(5月3日付)の見出しと内容(要旨)をそれぞれ紹介しよう。

▽東京新聞=憲法記念日に考える 「なぜ?」を大切に(主見出し)

 忘れられた公平、平等(小見出し)
 全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶たない。憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことか。
 最大の要因は弱者に対する視線の変化だ。
 行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させた。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、25条は規範としての意味が薄れた。
年収二百万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は一千万人を超える。

 黙殺された違憲判決(小見出し)
憲法には25条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(27条)という規定もある。
 「戦力は持たない」(9条第2項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没した。「戦争はしない」(同条第1項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸している。
 市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月17日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言した。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示した。しかし政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は「そんなのかんけえねえ」と言ってのけた。

 国民に砦を守る責任(小見出し)
 憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(99条)で、国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(12条)、いわば砦(とりで)を守る責任がある。
 その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたい。

〈安原のコメント〉
 一番明快ですっきりした社説という印象である。
日本国憲法の重要な条項を以下のように網羅的に取り上げて、その理念と現実との間の大きな隔たりに「なぜ?」と問い続けたい、と主張している。中学、高校の憲法学習に最適の教科書としても活用できるだろう。

*「国民には平和に生きる権利がある」(前文)
*「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」(9条)
*「国民の自由と権利の保持義務」(12条)
*「生存権、国の生存権保障義務」(25条)
*「労働の権利・義務」(27条)
*「憲法尊重擁護義務」(99条)
 上記の要旨では紹介しなかったが、社説で言及している条項としてつぎの三つがある。
*「主権在民」(前文)
*「公務員は全体の奉仕者」(15条)
*「表現の自由」(21条)

▽朝日新聞=日本国憲法―現実を変える手段として(主見出し)

 豊かさの中の新貧困(小見出し)
 9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、実は憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった。
 従来の憲法論議が想像もしなかった新しい現実が、挑戦状を突きつけているのだ。たとえば「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉に象徴される、新しい貧困の問題。

 東京でこの春、「反貧困フェスタ」という催しがあり、そこで貧困の実態を伝えるミュージカルが上演された。狭苦しいインターネットカフェの場面から物語は始まる。(中略)
 最後に出演者たちが朗唱する。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。生存権をうたった憲法25条の条文だ。
 憲法と現実との間にできてしまった深い溝を、彼らは体で感じているように見えた。

 「自由」は実現したか(小見出し)
 民主主義の社会では、だれもが自分の思うことを言えなければならない。憲法はその自由を保障している。軍国主義の過去を持つ国として、ここはゆるがせにできないと、だれもが思っていることだろう。だが、この袋にも実は穴が開いているのではないか。そう感じさせる事件が続く。

 名門ホテルが右翼団体からの妨害を恐れ、教職員組合への会場貸し出しをキャンセルした。それを違法とする裁判所の命令にも従わない。
 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」は、政府が関与する団体が助成金を出したのを疑問視する国会議員の動きなどもあって、上映を取りやめる映画館が相次いだ。

 憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。
 憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。

〈安原のコメント〉
結びの「憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ」に異論はない。その通りである。そういう文脈で「生存権」(25条)さらに「表現の自由」(21条)の重要性を力説している。これも同感である。

 しかし気になるのは、冒頭の「9条をめぐってかまびすしい議論が交わされる陰で、憲法をめぐってもっと深刻な事態が進行していたことは見過ごされがちだった」という分析である。誰が見過ごしたのか。一般国民か、それとも朝日新聞か。そこをはっきりさせなければ、新聞の責任という問題が雲散霧消する。

小泉政権で顕著になったいわゆる構造改革、すなわち市場原理主義(=新自由主義)が自由化、民営化をテコに弱肉強食、効率一辺倒、大企業利益を優先させる路線であることは、当初から分かっていた。多くのメディアはこういう視点を見逃していた。

▽毎日新聞=憲法記念日 「ことなかれ」に決別を 生存権の侵害が進んでいる(主見出し)

 憲法の保障する集会の自由、表現の自由が脅かされている。「面倒は避けたい」と思うのは人情だ。しかし、このとめどもない「ことなかれ」の連鎖はいったいどうしたことか。意識して抵抗しないと基本的人権は守れない。
 NHKが5年ごとに「憲法上の権利だと思うもの」を調査している。驚いたことに「思っていることを世間に発表する」こと(表現の自由)を権利と認識するひとの割合が調査ごとに下がっている。73年は49%だったのが、03年は36%まで落ち込んだ。表現の自由に対する感度が鈍っているのが心配だ。

 イラクでの航空自衛隊の活動に対する名古屋高裁の違憲判決(中略)は「バグダッドは戦闘地域」と認定し、空輸の法的根拠を否定した。対米協力を優先させ、憲法の制約をかいくぐり、曲芸のような論理で海外派遣を強行するやり方は限界に達している。そのことを明快に示す判決だった。

 この判決の意義はそれにとどまらない。憲法の前文は「平和のうちに生存する権利」をうたっているが、それは単なる理念の表明ではない。侵害された場合は裁判所に救済を求める根拠になる法的な権利である。そのような憲法判断を司法として初めて示したのである。
 ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか。

 4月から始まった「後期高齢者医療制度」は高齢の年金生活者に不評の極みである。無神経な「後期高齢者」という名称。保険料を年金から一方的に天引きされ、従来の保険料より高い人も多い。「平和のうちに生存する権利」の侵害と感じる人が少なくあるまい。

 憲法で保障された国民の権利は、沈黙では守れない。暮らしの劣化は生存権の侵害が進んでいるということだ。憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい。

〈安原のコメント〉
 名古屋高裁の違憲判決に立って、「ダイナミックにとらえ直された「生存権」。その視点から現状を見れば、違憲状態が疑われることばかりではないか」という分析、認識には賛成である。ここには「平和のうちに生存する権利」(前文)と生存権(25条)とを連結させて捉えようとする視点がうかがえる。これには大賛成である。

 結びに「憲法記念日に当たって、読者とともに政治に行動を迫っていく決意を新たにしたい」とある。その言やよし、である。
 それなら一つ問いたい。社説が高く評価するところの平和生存権と日米安保体制(今や「世界の中の安保」へと変質している)は両立するのか、どうか ― と。この一点を回避するようでは、遠からずメディアとしての責任を問われるときが来るだろうと考えるが、いかがだろうか。

▽読売新聞=憲法記念日 論議を休止してはならない(主見出し)

 この国はこれで大丈夫なのか ― 日本政治が混迷し機能不全に陥っている今こそ、活発な憲法論議を通じ、国家の骨組みを再点検したい。
 昨年5月、憲法改正手続きを定めた国民投票法が成立し、新しい憲法制定への基盤が整った。

 ところが、同法に基づいて衆参両院に設置された憲法審査会は、衆参ねじれ国会の下、民主党の消極的姿勢もあって、まったく動いていない。
 超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)が1日主催した大会に、顧問の鳩山民主党幹事長らが欠席したのも、対決型国会の余波だろう。
 大会では、憲法改正発議に向けて憲法問題を議論する憲法審査会を、一日も早く始動させるよう求める決議を採択した。これ以上、遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい。

 与野党は、審査会の運営方法などを定める規程の策定を急ぎ、審議を早期に開始すべきだ。憲法審査会で論じ合わねばならぬテーマは、山ほどある。二院制のあり方も、その一つだ。

〈安原のコメント〉
 「論議を休止してはならない」という見出しからして、すでに曖昧である。言論界の改憲派、特に9条の改定に積極的な姿勢だった読売新聞にしては腰の引けた社説と読んだ。社説全文を一読したが、9条には一切言及していない。
 読売の4月初めの世論調査によると、憲法改正反対派が賛成派を15年ぶりに上回り、逆転した。その理由は「世界に誇る平和憲法だから」が53%で、最も多かった。
 さらに朝日新聞の全国世論調査(5月3日付)によると、9条改正反対が66%、賛成が23%で、その差は拡大している。さすがの読売も世論を無視してまで、自説を貫く気骨はなかったということなのか。

 真意はそうではないだろう。上記の社説で「新しい憲法制定への基盤が整った」、「遅延させては、国会議員としての職務放棄に等しい」などと論じているところをみると、執念は捨ててはいない。

さて日経と産経は、以下の見出しから分かるように9条、25条さらに平和的生存権と密接につながる主張ではないので、要旨紹介もコメントも割愛する。
*日本経済新聞=憲法改正で二院制を抜本的に見直そう
*産経新聞=憲法施行61年 不法な暴力座視するな 海賊抑止の国際連帯参加を

▽武力で平和はつくれない―9条の実現こそ平和への道

 5月3日付の読売新聞と東京新聞に「市民意見広告運動」(事務局のTEL/FAX:03-3423-0266、03-3423-0185)による一頁全面広告が載った。上段の大見出しが「武力で平和はつくれない」であり、一方、下段の大見出しが「9条の実現こそ平和への道です」である。この意見広告は賛同者の賛同金によって実現したもので、賛同者総数は8535件(08年4月12日現在)である。広告資金となる賛同金には限りもあり、広告掲載メディアとして、改憲派で全国最大の発行部数を誇る読売と、一方、護憲派の代表的存在である東京新聞を選択したのではないかと推測する。

 「9条世界会議」(スローガンは「世界は、9条をえらび始めた」、主催は「9条世界会議」実行委員会=TEL:03-3363-7967)が5月4、5日幕張メッセ(千葉県)、5日広島、6日大阪・仙台でそれぞれ開かれる。意見広告は、この「9条世界会議」に賛同する立場をとっている。

 この世界会議にはノーベル平和賞受賞者3人がかかわっている。
 その1人は北アイルランドのマイレッド・マグワイアさん(1976年受賞)。「紛争は暴力ではなく、対話によって解決する。日本の9条はそのような世界のモデルになる」が持論で、初日の5月4日基調講演を行う。
つぎはケニアの環境運動家で、日本語の「もったいない」を世界中で提唱しているワンガリ・マータイさん(04年受賞)。「戦争のない世界へ。すべての国が憲法9条を持つ世界へ」というメッセージを会議に寄せている。
 3人目はアメリカの地雷禁止国際キャンペーンのジョディ・ウイリアムズさん(05年受賞)。「地球市民の一人として、9条を支持する。9条を日本から取り除くのではなく、世界へ広げるキャンペーンをしていこう」というメッセージを会議に届けている。

 意見広告の内容(要点)を以下に紹介する。

 日本はギョーザ(食糧)からガソリン(エネルギー)まで輸入に頼っている国です。足りなくなったら戦争で奪ってきますか? そのためにあなたは戦争に行きますか?

 こういう文章で始まる意見広告はつぎのような柱を立てて、一つ一つ説明している。
*日本は戦争しないと決めた国です
*イラク・インド洋での戦争加担は9条違反です
*自衛隊を海外に派遣する「恒久法」に反対します
*貧困社会と戦争国家は表裏一体です
*「平和を愛する諸国民」は戦争を望みません
*あなたの平和への意思が問われます

 末尾の「平和への意思」はつぎのような文である。
 憲法を変えるための「国民投票法」が2010年5月に施行されます。(中略)平和憲法を変えさせない力は私たちにあります。一人ひとりがあらゆる機会を活かし、主権者として9条改憲反対の意思を示しましょう。

▽9条と25条と平和的生存権とを結びつけ、生かす視点を

 平和憲法の中でも、今日特に重要な条文は9条、25条、さらに前文の「平和的生存権」である。しかもこの3つは相互に連関し合っており、それをどう生かすかという視点を打ち出すことが重要である。

 まず9条と25条はどのようにつながっているのか。上記の意見広告の「貧困社会は戦争国家と表裏一体」という柱に注目したい。なぜ表裏一体なのか。
 つぎのように述べている。
 「福祉予算が削られ、最低限度の生活を保障する憲法25条は実現されていない。社会的弱者や高齢者をいためつける政治がまかり通り、貧困という言葉が日常的になっている。このうえ9条を変えて自衛軍をつくり、軍事予算を増やすことなど、とうてい認めることはできない」と。

 つまり限られた財政資金の配分として「戦争国家として軍事費を優先」すれば、福祉予算は削減され、25条は空洞化し、貧困社会へ転落していく。逆に9条を生かすことによって軍事費を大幅削減ないしは全廃することによってのみ、25条の生存権は保障できることを意味している。 
 この実例は、軍隊を廃止した中米のコスタリカである。浮いた軍事費を教育、社会保障、自然環境保全に回すことによって人づくり重視、国民生活尊重の国づくりをすすめている。

憲法前文の平和的生存権とはどう結びつくのか。前文はつぎのように述べている。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
 「恐怖」とは国家権力による戦争をはじめ、多様な恐怖を指している。一方、「欠乏」とは分かりやすくいえば、貧困にほかならない。さらに人間の尊厳の否定でもある。そういう意味の恐怖と欠乏から免れることが、すなわち平和にほかならない。注意すべきは平和とは単に戦争がない状態のみを指しているのではない。恐怖と欠乏を含む多様な暴力を否定するところから平和は始まる。

 名古屋高裁のイラク派兵違憲判決は「前文の平和的生存権はあらゆる人権の基底的権利」と認めた。これは抽象的な権利ではなく、訴えを起こす根拠になる具体的な権利として認めたことを意味する。この違憲判決を尊重する視点に立てば、平和的生存権は9条、25条と連結し、相互に補完し合う関係といえる。逆にいえば、平和的生存権、9条、25条それぞれを切り離して実現させることは難しいことを意味している。


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