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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
利他は極楽へ、私利は地獄への道
連載・やさしい仏教経済学(20

安原和雄
仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「利他」を取り上げる。利他とは、「世のため、人のための行為」を指している。この利他が結局は自利、すなわち我が身にプラスとなって還ってくる。いいかえれば極楽の世界に通じている。
 ここでの「利他は極楽、私利は地獄」は現世のありようを指している。仏教では来世での極楽、地獄に大きな関心を向けているが、仏教経済学としてはあの世にまで視野を広げることはない。ここが仏教経済学は仏教と同じでありながら、同じではないところである。だからこそ仏教経済学は社会・人文科学の一つとして位置づけることができる。(2010年10月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 地獄、極楽の食事時を探訪して

 地獄、極楽を探訪した以下のようなルポ(現場報告)記の紹介から始めよう。

 地獄を見に行ったときは昼飯時で、食堂に入ってみると、テーブルの上にどんぶりや鉢が並び、山海の珍味が山盛りになっている。地獄の亡者に沢山のご馳走が出るとはおどろきだと感心し、さてテーブルの両側にすわっている亡者たちをみると、みんな骨と皮ばかりにやせこけ、目はくぼみ、真っ青な顔をしてガツガツしている。
 沢山のご馳走があるのに、何でこんなにガツガツしているのだろうと不思議に思ってよくみると、左手は椅子にくくりつけてある。ハハア、人間というのは自分の椅子を離れたがらないものだ。地獄の椅子でさえ離れたがらないのだから、すわり心地のよい代議士や大臣の椅子は手離したくないんだ、と思った。右手は? とみると、右手にはスプーンがしばってある。オヤ、食い気も離さんとみえる。

 ところでこのスプーン、長さが1メートル以上もある。なるほどどんな遠くにあるご馳走もすくいあげる気だなと感心した。
 やがて食事となった。するとどうだろう。長いスプーンで好きなモノをすくい上げるまではよかったが、いざそれを口に入れようとすると、スプーンが長くて口に入らない。いやはや、見るにたえない光景となった。沢山のご馳走を目の前にして、地獄の苦しみとなった。

 気分直しに今度は極楽の食事風景をみに行った。食堂は地獄と同じようで、テーブルにはやはり山海の珍味が山と盛ってある。スプーンの長さも1メートルある。ただ違うのは両側にすわっている人たちがみんなプクプク、ニコニコしている。どういう食べ方をするのか、と不思議に思っていると、感心した。さすがは極楽の住人ですよ。ご馳走を自分の口に入れるには長すぎるスプーンだが、向かいの人の口に入れてやるにはちょうどいい長さである。

 相手を生かすことによって自分も生かされる。まことにすばらしい共生きの世界である。社会の仕組みは全く同じであっても、そこに住む人の心構えや生活態度によって、地獄ともなれば、極楽ともなる。「オレが」、「オレでなくては」、「オレなればこそ」といって個我の執着にひきずりまわされ、取る、奪うを最高の生き方と考え、かえって自らの成長、繁栄を自ら阻害してもがき苦しんでいるのが地獄。一方、与える心、施す心、恵む心をもってお互いが生かされる無我を基調とする福祉社会こそが極楽。私はしみじみそう感じた。(佐藤俊明著『禅のはなし』現代教養文庫)

 以上はもちろん現世での物語である。重要なことは地獄、極楽はあの世ではなく、この世に存在することを自覚することである。何を思い、どう行動するかで、同じ人が地獄に墜ちて苦しんだり、極楽で安心し、笑ったりしている。

▽ 利他とは ― 「忘己利他」、「自利利他円満」、「利行」

利他とは分かりやすく言えば、「世のため、人のため」の行為である。ただその説き方は多様である。日本仏教の開祖の説法に耳を傾けてみよう。

日本・天台宗の開祖、最澄(さいちょう・767~822年)は「忘己利他」(もうこりた)、すなわち「己を忘れ(捨て)、他を利するは慈悲の極みなり」と説いた。慈悲の慈は安楽をもたらすこと、いつくしみの心であり、悲は苦しみを除くこと、あわれみの心を意味している。自分のことは後にして、まず他に対する愛、思いやり、助け合いの精神を行動で示すことにほかならない。
 一方、浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん・1173~1262年)の説法として「自利利他円満」が知られる。その意味するものは、まず他人様のお役に立つこと(利他)、そうすれば長い目でみて、それが結局自分へのプラス(自利・注1)として返ってくるという意である。

 曹洞宗の開祖、道元(どうげん・1200~1253年)は、「菩薩四摂法(ぼさつししょうぼう・菩薩が衆生を悟りに導く四つの方法)」(『正法眼蔵』四・岩波文庫)として布施、愛語、利行、同事の四つを挙げている。その一つ、利行(利他のこと)は何を意味するのか。道元は次のように説いている。
 「愚人おもはくは、利他をさきとせば、自(みづから)が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」と。
 この説法の意味するところは次のようである。「利他は身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう=体と口と心の三つの行為)で善行を施して他人のために利益(りやく)を与えることである。愚かな人は思うであろう。他人の利益を先にしたら、自分の利益が省かれるだろう、と。決してそんなことはない。利行は唯一の真実の法であって、自も他もあまねく利益する」と。(秋月龍著『続・正法眼蔵を読むー道元に学ぶ禅の極意』・PHP文庫)

 仏教経済学は経済を担う存在として、こういう利他主義の人間観を軸に据えている。しかし現代経済学ではそういう人間観は想定していない。自分や企業の利益を第一に考え、行動する利己的な人間観を前提にしている。仏教経済学と現代経済学とでは想定している人間観がまるで異質であることを強調したい。
 最近、親の子殺し、子の親殺しなどのように無造作に人間の命が奪われるだけではなく、政府、企業レベルでもごまかし、偽装、隠ぺいが日常化し、日本列島上に広がっている。すべては利他を忘却した私利(注1)第一、利己主義の悪しき産物といえる。昨今の世の乱れについて、私利第一の人間観に立つ現代経済学を大学で教えている経済学者の責任も大きいといわねばならない。果たして現代経済学者にそういう自覚はあるのだろうか。

 (注1)「自利」、「私利」という二つの文言は似て非なるものなので説明しておきたい。前者の自利は、利他のお返しとして自分にとってもプラスになる、あるいはご利益(りやく)がある、という意味で使っている。一方、私利は私利私欲とも言うように、利他に否定的で、自分だけの身勝手な私欲を優先させる発想、行為を指している。

▽ お布施型企業経営のすすめ=利他主義の実践

 さて以上のような私利、私欲の横行に歯止めをかけ、転換させる手をどこに求めるか。個人一人ひとりにとっては利他の真意を自覚して日常生活の中で実践していく以外に妙案はない。
 では企業はどうか。その有力な手として、「お布施型」(注2)企業経営をすすめたい。現状では自然環境汚染・破壊、倫理軽視、従業員解雇・削減を辞さない私利優先型企業経営が多すぎる。これを自然環境、倫理、雇用の重視を基本理念とするお布施型企業経営へと再編成していくことが望ましい。

 高度経済成長はもはや過去の物語であり、21世紀の今日、ゼロ成長を含む低迷経済下ではマクロの経済規模はほぼ横ばいに推移し、個別企業にとっては浮沈、興亡は避けられない。その明暗を分けるのは、経営のありようとして「お布施型」の新展開か、それとも「私利優先型」に執着するか、そのどちらを選択するかであるだろう。
 前者は利他の実践そのものであり、広く社会の尊敬を得て、成長企業として評判になるが、後者は尊敬を受けられないし、転落の憂き目をかこつ以外に道はないだろう。いいかえれば低迷経済下でも個別企業は企業経営者の時代を見抜く眼力と器量によって成長企業になり得るのである。

(注2)道元は上述のように「菩薩四摂法」として「布施」、「愛語」(慈愛の言葉を施すこと)、「利行」、「同事」(人を好き嫌いしないこと)を挙げて、その筆頭に布施を位置づけている。道元は多様な布施の一つとして「治生産業」に言及している。この治生産業(生産事業)は今日では広く企業経営と理解することもできるのではないか。
 さて仏教の布施の原意は「与えること」「施すこと」であり、利他(利行)の実践と重なり合っているだけではない。愛語も同事も広い意味の布施に含むことができると考えられる。
 その布施は大別して、法施(「法=真理」の施しをすること)、財施(モノ、カネを施すこと)、無畏施(笑顔、やさしさを与えるなどして、不安感や恐怖心を取り除き、安心感を与えること)の三つがある。分かりやすくいえば、日常の実践として世のため人のために尽くし、そこに自らの喜びを噛みしめていくことである。例えば電車で座席を譲るようなささやかな行為も、立派な布施(無畏施)、すなわち利他の実践といえる。

 一つ付記すれば、布施、特に財施は人に強制するものではない。昨今、多くの僧侶が葬式仏教に名を借りて高額のお布施を請求する事例が目立つ。これは邪道であり、本来の布施の精神に反している。

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簡素とローカリゼーションのすすめ
連載・やさしい仏教経済学(19)

安原和雄
私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「簡素」を取り上げる。簡素は非暴力(=平和)とも深くかかわっており、簡素に背を向ければ、それは暴力への道につながっている。その関連で地域重視のローカリゼーション(ローカル化)に言及する。一方、地域を軽視し、世界を壊しつつあるグローバリゼーション(グローバル化)に批判の目を配る。
簡素、シンプルな個人の暮らし方に最近関心が高まっているが、仏教経済学の簡素は、単に個人生活にとどまらず、政治、経済、社会を含めた視野で捉えたい。(2010年10月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 簡素、シンプルな生き方に関心が広がってきた 

 最近は簡素、シンプルな暮らしへの関心が広がってきている。例えば朝日新聞(2010年8月17日付)の書籍広告欄にドミニック・ローホー著/原 秋子訳『シンプルに生きる』(幻冬舎)について次のような大きな活字が躍っている。
 ものをもたない暮らしはこんなに楽しい!
 ヨーロッパを席巻した大ベストセラー
 歴史を重ねてきた国に学ぶ心豊かな人生の過ごし方
変哲もないものに喜びをみつけ、味わう
上質なものを、上質な場所で、上質な時間をかけて

売れ行きについては「忽ち5万部!」と宣伝されている。 著作の内容は「シンプル主義37カ条」で、そのいくつかを以下に紹介すると ― 。

・嫌なことは引き受けない
・1年間に1度も使わなかったものは、すべて捨てる
・欲求と必要の違いを区別できるようにする
・可能な限り物質的なものを排除する
・シンプルにすることは「愛するものを排除するのではなく、幸せのために役にも立たず、貢献もしないものを排除するのだ」と自分に言い聞かせる
・泥棒が入っても、とっていくものがないくらいにしておく
・関わっているさまざまな活動の数を減らす

 ともかくここでのシンプル主義は個人の日常的な暮らしぶりについての助言といえる。我が身に引き比べてみて、なるほどとうなずかせる寸言でもある。

▽ 簡素は非暴力とも深くかかわっている

 仏教経済学が重視する簡素は、上述のような個人レベルにとどまらない。むしろ政治、経済、社会にかかわる変革の視点を重視し、非暴力とも深くかかわっている。一方、現代経済学では、表面を飾り立てた「虚飾」でしかないような貪欲、浪費、無駄を追求し、それは暴力に走りやすい。
ドイツの仏教経済学者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)の中で簡素と非暴力とについて以下のように指摘している点に注目したい。(シューマッハーの主張は、<シューマッハーの「小さいことは素敵」=連載・やさしい仏教経済学(5)>を参照)

・簡素と非暴力
 「仏教経済学の基調は簡素と非暴力である」
 「簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、〈すべて悪しきことをせず、善いことを実践し〉という仏教の戒律を守ることができる。物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで知足(=Self Sufficiency自給自足)的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」

・遠隔地の資源に頼るのは経済的失敗
 「仏教経済学者は、欲求を満たすのに手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だと主張する。現代経済学者は国民一人当たりの輸送量(一マイル当たりのトン数で表示される)の数値が上がれば、それが経済的進歩の証左だというが、この同じ数値が仏教経済学者には消費の様式が悪化した指標となる」
・再生不能資源(石油など)の浪費は暴力
 「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」

 以上のシューマッハーの指摘の中で特に以下の諸点が眼目といえる。
・「地域社会のなかで暮らしている人たちは、世界各国との貿易に頼る人たちよりも戦争に巻き込まれることがまれである」
・「手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だ」
・「再生不能の燃料資源(石油など)は、その地域的分布が偏っており、総量にも限界があるから、それを無制限に掘り出すのは、間違いなく人間同士の暴力沙汰に発展する」

 以上の分析、認識、主張は、昨今の経済のグローバリゼーション(グローバリズム=地球規模化を目指すこと)を批判する立脚点を提供している。しかも簡素と非暴力の視点からローカリゼーション(ローカリズム=地域の中で多様な結びつきつくること)を目指す方向を打ち出している。

▽ 簡素、非暴力のローカル化へ転換を

 「9.11テロ」(2001年の米国での同時多発テロ)以降、世界は暴力に満ちている。米国主導のイラク攻撃は世界第二の石油資源国・イラクの石油を確保することが狙いの一つであった。今日までの多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。戦争を含む暴力を横行させるのがグローバリゼーション(グローバル化)である。
 企業レベルでいえば、グローバル化とは、地球規模で事業展開する多国籍企業などのビジネスの規制緩和・自由化を推進するシステムのこと。例えばコカ・コーラやIBM、トヨタや三菱のような巨大企業にとって地球のローカルな市場に入っていく、あるいは退出していく自由が与えられているが、競争力の弱い企業は没落していく。

 このようなグローバル化への対抗軸として簡素、非暴力、平和をもたらす地域重視のローカリゼーション(ローカル化)への転換が21世紀の大きな課題となってきた。これが仏教経済学の主張である。

▽ ローカル化とグローバル化をめぐる一問一答

 グローバル化とは異質のローカル化への転換は、容易ではなく、以下のような疑問がつきまとう。それへの答えも考えてみる。

<問い1> グローバル経済の中で仕事をしている人も沢山いる。ローカル化を進めると、失業者が増える可能性はないか?
<答え> 地球規模で規制緩和・自由化が進められると、企業が合併し、2つの企業が1つになる。この過程で必ず雇用が減る。だから企業合併への誘因をローカル化によって変えて、逆に企業を分ける方向に進めていく必要がある。これを進めていけば、労働力、資本、資源とのバランスがとれるところに辿りつくのではないか。

<問い2> 政府のほか、WTO(世界貿易機関)など国際機関が進める経済グローバル化の圧倒的な力がある中で、ローカル化が果たして対抗軸になり得るのか?
<答え> グローバル化の推進者は実は一握りの人たちで、圧倒的大多数の人たちは、利益を受けると聞かされてはいるものの、実際には失うものの方が大きい。先進国では例えば社会的な福祉の崩壊、労働時間の長期化、その結果、子供と過ごす時間、自然の中で過ごす時間、生活を楽しむ時間がなくなってきている。日本ではこれに自殺、過労死などが追加される。要するにゆとりと人間性の喪失である。
 このようにグローバル化で様々なものを失っている現実をまず明確にすること、そういう気づきを広めていくとともに、システムとしてもう一つ別の選択肢、ローカル化があることを広めていく必要がある。

<問い3> ローカル化を進めていく上で企業や政府などとのパートナーシップ(協力関係)はいかにあるべきか?
<答え>パートナーシップ、コラボレーション(協働)など表現は様々だが、要は人間同士、人間と企業・政府を含む組織との協力関係をどうつくっていくかが課題である。グローバル化はこの相互の関係を断ち切った。企業は利益第一主義に走り、CSR(Corporate Sosial Responsibility=企業の社会的責任)やSRI(Socially Responsible Investment=社会的責任投資)への取組は不十分である。政府は大企業の支援者となり、一方、個人それぞれは弱肉強食の競争を強いられた、乾いた砂粒のような存在になっている。お互いの協力関係を築くにはグローバル化を批判し、ローカル化への視点に立って出直すほかないだろう。

<参考資料>
・世界を壊していくグローバル化 ― その多様な弊害の実相を観ると(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」07年12月13日付掲載)
・台頭するローカリゼーション ― 経済グローバル化への果たし状(ブログ「同」07年12月20日付掲載)
上記の安原のブログ記事には女性活動家、ヘレナ・ノーバーク=ホッジさん(スウェーデン生まれの言語学者で、ISEC=エコロジーと文化のための国際協会・本部イギリス=の代表)らの意見が紹介されている。

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貪欲から知足へ、孤立から共生へ
連載・やさしい仏教経済学(18)

安原和雄
私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は知足と共生を取り上げる。
 知足とは、「足(た)るを知る」という意で、欲望に執着せず、「これでもう十分」とする。一方、現代経済学は、欲望に執着し、もっともっと欲しい、とその貪欲ぶりには際限がない。共生とは人間や動植物などいのちあるものの相互依存関係を指しており、これを軽視すれば、いのちそのものが危機にさらされる。しかしこの共生感覚も現代経済学には無縁で、そこにはいのちの分断と孤立があるだけであり、世界も地球も混乱と破壊が広がっていくほかない。貪欲を捨てて知足へ、孤立を克服して共生へ、が21世紀の合い言葉でありたい。(2010年10月15日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 釈尊の説法 ― 知足の人は富めり

 仏教の開祖、釈尊は知足についてどう説法しているのか。仏教思想の根幹の一つが知足である。釈尊の最期の説法とされる遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で知足について次のように説いている。(山田無文著『遺教経講話』春秋社)

もし諸(もろもろ)の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。

<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐(あわ)れな人だと思われる。

▽ 貧富の格差の下での知足のありようは ?

 上述の釈尊の説法は傾聴に値するとしても、言及しておく必要があるのは、今日的な知足とは何を意味するのかである。21世紀の地球環境時代に知足を説くことはどういう意味をもっているのか。果たして富裕国としての先進国も貧しい発展途上国も一様に知足のこころが求められるのかというテーマである。ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004-05』(家の光協会)の次の指摘が参考になる。

 発展途上国のすべての人々が平均的なアメリカ人、ヨーロッパ人、日本人と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えれば不可能である、としばしば言われる。しかし世界の公正(global justice)と公平(equality)を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、一方貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別・隔離政策)」による解決はありえない。
 豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境保護と社会的公正という二つの命題を満たすためには、今後数十年間で豊かな国々の物質消費を90%削減することが必要という概算もある、と。

 要するに先進国の富裕な人々にこそ時代の要求として、「もっともっと」という貪欲を抑えて知足のこころが要求されているのである。
 一方、発展途上国で食料、住まい、健康など生存のための基本条件を欠いている場合、それへの配慮はいかにあるのが望ましいだろうか。同『地球白書』の以下の指摘は一考に値する。

 「よい生活」の象徴とされる「あふれるモノに囲まれた生活」に憧れる途上国の人々への配慮を忘れてはならない。消費による環境負荷を軽減する方法を見出すことは非常に重要であるが、その際には特に貧しい国々における「消費水準の向上」と「持続可能性」との完全な両立をめざすべきである、と。        

 以上のような先進国と途上国との間にみる「貧富の格差」は、実は同じ先進国内でも特に日米では厳然として存在していることを見逃すわけにはいかない。。
 大事な点は、「よい生活」への心情には配慮するとしても、際限のない物的欲望の拡大ではなく、「消費水準の向上」を「(自然環境などの)持続可能性」の範囲内にとどめることであろう。

▽ 少欲知足は、毅然とした清々しい生き方

作家、立松和平(たてまつ・わへい、1947~2010年。仏教に関心が深く、作品に『道元禅師』新潮文庫)は、「少欲知足」について「むさぼらず、へつらわない。最小限をもって満足する。・・・もっと欲しいと、いくら物があっても満足しない今の世の中だからこそ、この言葉が私たちのキーワードになる。少欲知足で生きられれば、環境問題も起こらないし、戦争もなくなる」と指摘している。(毎日新聞07年10月16日夕刊「特集」ー道元禅師の教え)

 つまり「むさぼらず、へつらわない」と捉えることが重要で、貪欲に走らないのはもちろんだが、同時に権力などに諂(へつら)わず、自分を曲げないで毅然とした清々しい生き方をも目指している。知足といえば、とかく「我慢」と狭く受け取られるが、それは真意ではない。

▽ すべてのものが共生=相互依存関係にある

 仏教経済学の唱える共生とは何を意味しているのか。大乗経典の一つ、大般涅槃経(だいほつねはんぎょう)は、「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう=生きとし生けるものすべてに仏性がある、という意)を説いた。また中国や日本の仏教は、これに加えて「山川草木、悉皆成仏」(さんせんそうもく、しっかいじょうぶつ=山川草木ことごとくみな成仏する、という意)と説いている。

 仏教にみる、この人間観、自然観は仏性、すなわちいのちを軸として人間と自然界の動植物の間のつながり、相互依存関係をとらえようとするものであり、これは人間と動植物をそれぞれが平等、対等の関係にある共生のシステムとして認識することにほかならない。いいかえれば動植物を含む自然は人間が支配し、利用する対象として存在するのではなく、相互に同価値として存在しているのであり、従って人間中心主義よりも生命中心主義に立っているのが仏教の共生の思想である。
 つまりすべてのものが相互依存関係にある。それぞれの人生を考えてみても、自分ひとりで生きているのではない。宇宙、地球、自然、社会、地域、家庭そして他人様(ひとさま)のお陰で生かされ、生きているのである。いいかえれば他存在、他者との共生以外にそもそも生もいのちも、そのありようがない。

 ここで見逃せないのは、知足と共生とは相補う関係にあることである。
 知足という智慧は共生の摂理を認識することから生まれてくる。人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として地球・自然の恵みを受けて、しかも他人様のお陰で生き、生かされているのである。つまり人間は共生の中でのみ生きているのである。この理(ことわり)を認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制として働く。つまり「もうこれで十分」、「もったいない」という知足の智慧へと赴(おもむ)く。

 一方、共生は知足を促すと同時に知足の助けを借りて成り立っている。いいかえれば貪欲が蔓延しているところには共生は不可能である。なぜなら貪欲に地球・自然を汚染・破壊し、さらに貪欲に身勝手な私利私欲を追い求め、他者をないがしろにするところに共生が成り立つはずもないからである。そこに見出すのは共生・いのちの破壊である。逆にいえば、共生・いのちは知足とともにのみ存続することができる。

<安原の感想> ― 大欲・少欲、貪欲・小欲と中道について

 仏教のキーワードに「中道」がある。どういう含意なのか。中道とは「道に中(あた)る」という意であり、道理に合った道である。俗に二つの考え方、立場を足して二で割るとか、左右の中間を中道ととらえる見方があるが、これは俗説である。あくまでも「道理に合った大道」を指していることを忘れてはならない。

 この中道と欲望とはどういう関係にあるのか。
 欲望も一方に大欲・少欲、他方に貪欲・小欲があり、多様である。どう異なるのか。大欲は「大望を抱く」と同様に大きな志しとして肯定される。仏道に励むことなどを指している。少欲は少欲知足と同じことばで、これも奨励される。
 これに反し、貪欲は貪(むさぼ)りであり、小欲はつまらない身勝手な欲という意味である。欲望の内実をこのように理解すると、「中道=道理に合う大道」の実践といえるのは、大欲と少欲である。これは極楽への道である。一方、貪欲と小欲は、本人がそれにハッと気づくのが遅くて、生き方を変えなければ、地獄への道にもつながっている。

<参考資料>
・安原和雄「知足とシンプルライフすすめ ― 消費主義病を克服する道」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号、平成十九年)
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十七号、平成二十年)

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いのちの尊重と非暴力(=平和)
連載・やさしい仏教経済学(17)

安原和雄
今回から私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を紹介したい。まず「いのちの尊重」、「非暴力(=平和)」を取り上げる。
 「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。仏教でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間のいのちだけが尊重に値するわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、いのちの平等観である。一方、平和については一般に反戦・非戦、つまり戦争がない状態と理解されている。しかしこれは一面的な平和観である。21世紀の新しい平和観は「平和=非暴力」、すなわち戦争を含む多様な暴力がない状態と捉えたい。しかも平和は「守る」ものではなく、「つくる」ものであることを強調したい。(2010年10月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 釈尊の説法 ― 「暴力といのち」について

 仏教の開祖、釈尊は暴力といのちについて次のように述べている。(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』・岩波文庫の「真理のことば」第一〇章)

 「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」
 「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」 

 ここに自己のいのちが大切であれば、人のいのちも大事にしなければならないという仏教思想の「いのち尊重」の原点がある。特に重要なことばは「殺させしめてはならぬ」である。これについて次のような受け止め方がある。

殺す暴力だけでなく、殺し合いを強いられる暴力、すなわち殺させるものと殺させられるものとの社会的不公平・支配被支配関係を前提する暴力 ― その代表は徴兵された兵士たち ― についても戒められている。私が殺されたくないのだから、私はだれも殺さないようにしよう、というのは、いわば個人的な決意の問題であるが、「殺させしめてはならぬ」というのは、それを実現しようとすれば、殺し合いを強いることが不可能な社会の仕組みをも視野に入れなければならない。
 釈迦のことばは、(中略)実に社会的なものであったのだ。このことばに従うかぎり、仏教は暴力と戦争に反対する宗教である。(菱木政晴著『非戦と仏教』・白澤社)

 ただ現実の世界では宗教とかかわる暴力沙汰が過去にもそして今日なお繰り広げられている。これを克服するためにも仏教本来の「いのち尊重と非暴力」の理念をしっかり認識する必要がある。

▽ 仏教の生命中心主義と不殺生戒

 現代経済学の理論体系には「モノ」や「カネ」は登場してくるが、「いのち」の観念はない。無視していると言ってもいい。
 では仏教経済学のキーワードの一つ、「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。まず生命(いのち)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。
 仏教思想でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。
 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する地位に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。

仏教といのち尊重とはどういう関係にあるのか。仏教に不殺生戒(ふせっしょうかい)があり、人を殺すことはもちろんだが、それ以外の無益な殺生を厳しく戒めている。人間は他の動植物のいのちをいただいて生かされているのだから、生きていくためには心ならずも殺生は避けられない。しかしそれは最小限度内に抑えるべきであり、それを超える無益な殺生は許されないと考えるのが仏教である。
 日本人の習慣として食事前に「いただきます」と唱える。これは動植物のいのちをいただき、自らのいのちをつないでいることへの感謝の心の表現である。だからいのちある食べ物を大量に食べ残すのは、身近な無益な殺生の一つの具体例である。

 国家権力による人間や自然に対する無益な殺生の典型例が戦争であり、それを促す軍備の増強も資源、環境に浪費と破壊をもたらすのだから無益な殺生である。自然開発という名の自然破壊も、多様ないのちを生かす営みを続けている自然の破壊だから不殺生戒に反する。

▽ 巨大な軍備も経済成長も盗む行為に等しい

 不殺生戒と並んでもう一つ、仏教が説く不偸盗戒(ふちゅうとうかい)は、盗むことを戒めている。人のものを盗んではならないことは常識だが、ここでは盗むことを浪費、収奪も含めてもっと広い意味に理解したい。アイゼンハワー米大統領(在任期間は1953~61年)は政権末期に「銃、戦艦、ロケットは、腹が減っているのに食べ物がない人々や寒いのに服がない人々からの盗品だ」と述べた。こういう発想に立てば、巨大な軍備それ自体が実は盗む行為そのものなのである。

 大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済成長をめざす構造の中での物的資源、エネルギーの浪費は自然からの必要以上の無用無益な収奪であり、不偸盗戒に反する。経済のグローバル化と競争の激化を背景に生み出される失業と不完全就業による人的資源の浪費にしても、人から仕事の機会を奪うのだから、これも不偸盗戒に反する。こういう考え方に立てば、大量の兵器を作ったり、資源、エネルギーを浪費したり、安易に人員整理を行ったりする企業は「泥棒会社」と呼んで差し支えないのではないか。仏教はそれを戒めているのである。

 イギリスの経済学者、J.M.ケインズは有名な著作『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年。塩野谷九十九訳・東洋経済新報社)の中で、「戦争でさえ、富の増大に役立ちうる」と記している。ケインズ経済学を含む現代経済学は、さまざまな暴力を肯定している。戦争になって軍需景気が起こり、需要が増えることで経済成長が達成されるのはよいことだという発想に立っているからだろう。

<安原の感想> ― 今日の平和(=非暴力)はつくっていくもの

ここで21世紀における平和とは何か、どういう状態を指しているのかを改めて問うてみる必要がある。
 「平和=非戦」、すなわち戦争がない状態が平和だという認識が一般的である。とくに日本人の多くはこういう平和観に囚われている。しかしこれは誤解であり、錯覚というほかない。これは狭い意味の旧型の「平和」観である。戦争さえなければ、本当に平和なのか。
 身近な具体例で考えてみよう。日本での最近の年間交通事故死者数は約6000人(警察庁と厚生労働省の統計を総合的に概算したデータ)である。以前よりはかなり減少したが、それでも年間6000人もの尊いいのちが無造作に奪われている。自殺者は10年以上にわたって年間3万人を超えている。その主因は経済苦といわれる。交通事故死も自殺も戦場での戦死ではないのだから受忍せよ、といえるだろうか。

 「平和すなわち非暴力」とは、単にテロ、紛争、戦争がない状態を指しているだけではない。多様な暴力がない状態を平和ととらえるのが今日的な新しい平和観である。すでに戦争よりもむしろ地球環境破壊、異常気象、感染症などの非軍事的な脅威・暴力によって多くの人命が失われている。さらに貧困、食料不足、安全な水の欠乏、飢餓、疾病、人権侵害、公正の欠如、格差の拡大 ― など多様な暴力によって苦しめられ、あるいは死に至る犠牲者が地球上には億単位で数えるほど多数いる。
 米国では貧困層の若者が貧困からの脱出を目指して、志願兵として戦争に参加するケースも少なくない。いいかえれば貧困という暴力が戦争を容易にしているという側面もある。これら多様な暴力が克服されない限り、平和とはいえない。

仏教経済学の立場では平和について以上のように「非戦・反戦」に限定しないで、「いのちの尊重」を基点にして、広く「非戦を含む非暴力」ととらえる。このように平和を捉えれば、暴力があふれている現状は平和とはいえない。だから平和は守るものではなく、現状を変革し、創(つく)っていくものである。「平和を守ろう!」というスローガンは暴力のあふれる現状をそのまま維持し、守ろうと言っているに等しい。これでは今日の時代感覚にふさわしくない。

<参考資料>
・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十七号、平成二十年)
・同「同(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、平成二十一年)
・ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載(08年8月15日付)記事=日本列島はすでに戦場である! 平和を「守る」から「つくる」へ
・ヨハン・ガルトゥング著/高柳先男ほか訳『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、初版第一刷1991年)


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21世紀の仏教経済思想を提唱する
連載・やさしい仏教経済学(16

安原和雄
 今回から私(安原)が構想する仏教経済思想(仏教経済学)の骨格を提示したい。もちろんこれまで紹介してきた内外の先達による先駆的な思想や提言に負うところは多大である。ただ誤解を恐れずにあえて指摘すれば、先達が遺してくれた業績は20世紀に紡がれた思想的、実践的営為である。時代はいうまでもなくすでに21世紀に踏み込んでおり、新しい時代は、それにふさわしい思想的、実践的な自由、挑戦、創造を求めているとはいえないか。
先達の豊かな思想的、実践的な遺産に学びながら、21世紀は何を求めているのか、その課題に取り組んでみたい。そこでは既成の観念、権威、秩序に囚われない「自由」、変革への志(こころざし)を見失わない「挑戦」、新しい価値、枠組みを生み出すことに精進を重ねる「創造」がキーワードであるに違いない。(2010年10月1日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 仏教と経済はどう結びつくのか ?

 仏教と経済はどういう関係にあるのか。仏教と仏教経済学は同じであって、同じではない。まず問答形式で考えてみたい。
<問い1> 仏教と経済はどう結びつくのか ?
<答え> 仏教経済(学)=衆生済度+経世済民(経国済民)
 大乗「仏教」の目指すものは「衆生済度」(=人間に限らず、自然、動植物も含めていのちあるすべてのものを救済すること)、であり、一方「経済」の意は「経世(国)済民」(この世、国を整えて、民を救うこと)で、両者ともに「いのちある民を救う」という点で結びついている。

<問い2>宇宙、現世の真理は ?
<答え>空(縁起)観=諸行無常(万物流転)、諸法無我(相互依存)→ 現世での変革へ
 仏教によれば、宇宙、現世の成り立ちは「万物流転」(すべては変化すること)であり、同時に「相互依存」(すべてはそれぞれが独自に単独で存在しているのではなく、相互依存関係の中でのみ存在できるということ)によるという真理から離れられない。すべては変化し、独自の存在はあり得ないからこそ、現世での変革が可能である、といえる。
 仏教を土台にしている仏教経済学こそが、現世のありようを単に解釈するだけでなく、むしろ現世の変革を重視する。

<問い3>仏教経済学と車のブレーキとは ?
<答え>車のブレーキは何のためにあるのか ? 「車を止めるため」が常識的な答えだが、これは正解ではない。本田技研工業(通称「ホンダ」)の創業者、本田宗一郎(ほんだ・そういちろう、1906~1991年)は「車をスム-ズに走らせるためだ」と言う。ブレーキが壊れていると知って車を運転する者はいない。ブレーキがあるからこそ安心して運転できる、と。

 企業経営も同じだ。ブレーキに相当する企業モラル(=企業の社会的責任)がしっかり備わっていれば、暴走せず、道を踏み外さないで、企業経営も順調に伸びる。そのためには方向指示器も不可欠だ。
 では政治、経済、社会における「車のブレーキと方向指示器」に相当するものは何か。仏教経済学である。現代経済学の典型といえる自由市場原理主義(=新自由主義)すなわち「貪欲金融資本主義」はブレーキの壊れた車と同じで、しかも方向指示器が「私利私欲」であるため、暴走し、2008年の世界金融危機とともに破綻した。だから今、仏教経済学(思想)への期待が高まりつつあると診断したい。

▽ 仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学を超えて

 では新しい仏教経済学の大枠はどのようなものか。仏教経済学のキーワードとして八つを挙げたい。「八」(漢数字)は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくという期待をこめて使いたい。しかも八つのキーワードによって仏教思想とのかかわりをより分かりやすく提示することに努める。その場合、現代経済学(注)への根本的批判が原点となっていることはいうまでもない。
 以下に私(安原)の考える仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。< >内は現代経済学の特質を示す。

*いのちの尊重(人間は自然の一員)・・・<いのちの無視(自然を征服・支配・破壊)>
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・<暴力(戦争)>
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・<貪欲(欲望に執着、「まだまだ足りない」)>
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・<孤立(いのちの分断、孤独)>
*簡素(質素、飾り気がないこと)・・・<浪費・無駄(虚飾)>
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・<私利(利己主義、自分勝手)>
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・<画一性(個性無視、非寛容)>
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・<非持続性(持続不可能な「成長」)>
 補足(1):競争(個性と連帯)・・・・<競争(弱肉強食、私利追求)>
 補足(2):貨幣(非貨幣価値も重視)・<貨幣(貨幣価値のみ視野に)>

(注)現代経済学はケインズ経済学、新古典派経済学(新古典派総合)、新自由主義(市場原理主義) ― の三つに大別できる。いずれも理論体系として「無限の自然」が前提になっており、「成長の限界」に目が届かない。だから「自然環境の保全」、さらに「持続可能な発展」(Sustainable Development)という地球環境時代のキーワードには目もくれない。
*ケインズ経済学=イギリスの経済学者、J.M.ケインズ(1883~1946年)が大恐慌をふまえて書いた主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で説いた。大恐慌によって出現した大量の失業を克服するには、それまでの自由放任策は有効でなくなり、新たな需要を喚起するための有効需要創出策(財政支出の拡大など)が不可欠というもので、さらに貪欲、戦争も是認した。これが財政赤字、「大きな政府」につながっていく。

*新古典派経済学=通称「新古典派総合」、すなわちアダム・スミス(主著『国富論』・1776年)らの古典派経済学にケインズのマクロ経済学的分析を組み合わせた経済理論で、ノーベル経済学賞(1970年)受賞者、米国経済学者P.A.サムエルソン(主著『経済学』初版1948年)が創始者として知られる。
 市場原理による自由競争が資源の適正配分をもたらすという考え方で、政府による補助金の削減、自由化、民営化などで「小さな政府」をめざす一方、「市場の失敗」を認める。つまり市場原理がうまく機能しない分野(教育、福祉、環境汚染など)には政府による管理・規制を認める。

*新自由主義(市場原理主義)=1980年代以降の主流派経済思想として市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させる新自由主義(=新保守主義)が登場してきた。この主唱者はシカゴ大学を拠点とするシカゴ学派で、そのリーダー、M・フリードマン(1912~2006年、1976年ノーベル経済学賞受賞、著書に『選択の自由―自立社会への挑戦』など)が著名である。
 この新自由主義登場の背景には経済の急速なグローバル化(地球規模化)という事情がある。多国籍企業など大企業が地球規模での生き残り競争に打ち勝つためのイデオロギーであり、支援策を意味している。
 その具体例はサッチャリズム(イギリスのサッチャー首相は1979年就任と同時に鉄道、電話、ガス、水道など国有企業の民営化、法人税減税、金融や労働法制の自由化などを実施)、レーガノミックス(1981年発足した米国のレーガン政権の軍事力増強、規制の緩和・廃止、民営化推進など)、さらに中曽根ミックス(1982年発足した日本の中曽根政権にみる軍備拡張、日米同盟路線の強化、規制緩和・廃止、民営化推進=電電公社、国鉄の民営化など)から始まった。
 特に2000年以降、米国のブッシュ政権さらに日本の小泉・安倍政権による新自由主義路線は市場原理主義と軍事力強化とが重なり合っていた点を見逃してはならない。

▽ 仏教経済思想を生かす変革構想 ― 日本と世界を視野に

 日本と世界を視野に収めて仏教経済思想を生かす変革構想の概略を示したい。その主な柱は以下の通り。

*平和憲法理念と仏教経済思想 ― 「持続的発展」を憲法の追加条項に
*持続型社会をめざして ― 「簡素な経済」へ
その主な内容は以下の通り。
・経済成長主義よ、さようなら
・循環型社会づくり
・自然エネルギー活用型へ
・車社会の構造変革
・ワークシェアリングの導入
・「食と農」の再生と食料自給率の向上
・病人を減らし、健康人を増やす健康重視・医療改革
・財政・税制の根本的組み替えを

*非暴力(=平和)の世界を求めて ― 「地球救援隊」構想
*日米安保解体と非武装・日本への視座 ― 日米同盟の呪縛を清算する時
*仏教の「四苦八苦」から解放されるか ― 政治・経済・社会の変革は必要条件ではあるが、十分条件とはいえない。

 次回から上述の「仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学を超えて」、「仏教経済思想を生かす変革構想 ― 日本と世界を視野に」のそれぞれの柱を順次説明してゆきたい。

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