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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
3.11後の望ましい「平成の変革」
神田明神で開かれた神儒仏講演会
      
安原 和雄
 「3.11」(東日本大震災、原発惨事)は、日本の近現代史上、何を意味しているのか。 大づかみに言えば、<明治維新>、<敗戦後の戦後改革>に次ぐ第三の <「3.11」後の平成の変革>を促して止まない。
 「平成の変革」とは、敗戦後の政治、外交、経済路線の質的変革であり、具体的には脱「原発」、脱「日米安保体制」、脱「経済成長主義」、脱「グローバリズム」さらに脱「私利私欲」型企業の実践にほかならない。この変革のありようを仏教経済学の視点(八つのキーワード=いのち尊重、知足、簡素、非暴力(=平和)、共生、利他、持続性、多様性)で考え、提案したい。(2011年8月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

講演会としては異色の「神儒仏合同講演会」が7月30日、神田祭で知られる神田明神(東京・千代田区外神田)の祭務所ホールで開かれた。講演者は、神道=藤井隆太・神田明神氏子総代/(株)龍角散社長=テーマ「生命関連企業の責任とセルフメディケーションについて」、仏教=安原和雄・足利工業大学名誉教授/仏教経済フォ-ラム副会長=テーマ「日本再生と企業倫理」、儒学=瀬口龍一・(公財)斯文会顧問/日立建機(株)名誉相談役=テーマ「孔孟に学ぶ企業倫理」の3人。
 吉津宜英・駒澤大学仏教学部教授/仏教経済研究所所長が講演の総括的な論評を行った。さらに奈良康明・東方研究会常務理事、大鳥居信史・神田明神宮司、前田専學・東方研究会理事長らが挨拶した。聴衆は約150名を数えた。

 以下、私(安原)の講演「日本再生と企業倫理」(要旨)を紹介する。

(1)日本の近現代史上、<第三の変革>という「巨大な質的変革」に直面

 <明治維新>後が目指したものは、富国強兵と対外侵略戦争。その悲劇的な結末がヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、300万人を超える戦争犠牲者を出した上での敗戦であった。
 <敗戦後の戦後改革>は平和憲法による非武装、基本的人権・生存権の保障などを柱に始まった。しかしやがて日米安保体制、軍事化、原子力発電推進、経済成長主義、グローバリズム、企業の国際競争力の強化路線、さらに1990年代以降、市場原理主義による貧困と格差拡大が主流となっていく。平和憲法の望ましい理念は骨抜きとなった。
 そこへ「3.11」(2011年)東日本大震災と福島原発大惨事の衝撃が走り、日本列島にとどまらず、世界中を揺さぶっている。このため<第三の平成の変革>、つまりそれまで日本の外交、政治、経済、企業のあり方を律してきた枠組みが根本から見直しを迫られている。日本列島全体が大きな歴史的変化の波に洗われている、といえる。

(2)仏教経済学的視点― 八つのキーワード

 <第三の平成の変革>をどういう視点で進めるか。仏教経済学の視点を重視したい。私(安原)の唱える仏教経済学は、大学の経済学部で通常教えられている現代経済学とは異質で、以下のような「いのち尊重」など八つのキーワードを特質としている。かっこ内が現代経済学の特質

*いのち尊重=人間は自然の一員(いのち無視=自然を征服・支配・破壊)
(補足)現代経済学は、戦争や原発暴走でいのちが失われることには無関心。現代経済学者の一人、ケインズ(英国・1883~1946年)は「戦争も富の増進に役立つ」と指摘している。

*知足=欲望の自制、「これで十分」(貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」)
*簡素=美、節約、質素(浪費=無駄、虚飾、華美)
*非暴力=平和。反戦、環境保全なども(暴力=戦争に限らず交通事故死などを含む多様な暴力も容認)
 (補足)「戦争反対、平和を!」と唱えるだけでは視野が狭い。一方、年間の交通事故死者は約5000人で負傷者は100万人を超えている。こういう事実を認識していない人が意外に多い。クルマを「持たない、乗らない」を原則としている私は「いのちに無関心な気楽な人たち」と感じる。

*共生=いのちの相互依存(孤立=いのちの分断、孤独)
*利他=慈悲、自利利他円満、「世のため、人のため」の行動(私利=利己主義、自分勝手)
*持続性=持続可能な「発展」(非持続性=持続不可能な「成長」)
*多様性=自然・生物と人間・地域・国の多様性、個性の尊重、寛容の精神(画一性=個性無視、非寛容)

(3)第三の<平成の変革> ― 日本国憲法(平和憲法)本来の理念の活用、すなわち「日本の再生」を意味する。

 なおここでの「再生」とは、「心を改めて正しい生活、道に入ること」という意。だから元の状態に帰ることを重視する「復旧」、「復興」とは異なる。ただし被災地での復旧、復興が必要であることはいうまでもない。

<平和憲法本来の理念>とは
*前文の平和生存権=われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
*9条=戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認(=非武装・日本)
*13条=個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重
*25条=生存権、国の生存権保障義務
*27条=労働の権利・義務

 平成の変革について― 仏教経済学の視点(八つのキーワード)から考えると、何が見てくるか。
 平成の変革として次の5本柱の「脱」路線を挙げたい。
イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ
ロ)脱「日米安保体制」= 現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換
ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換
ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ
ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ

 「脱」路線とそれが目指す方向の具体策は以下のとおり。同時に仏教経済学の八つのキーワードのうち関連するキーワードを挙げる。

イ)脱「原子力発電」=太陽光・熱、風力、小型水力など再生可能な自然エネルギーへ=いのち、知足、簡素、非暴力、共生、持続性、多様性

メルケルドイツ首相は議会演説で「福島が私を変えた」と言った。なぜ日本の政治家にそういうセリフが言えないのか。日本の菅首相は「脱原発」を明言したかと思うと、「私の個人的見解」と釈明したりする。最近は「減原発」などと言い始めている。

*脱「原発」とは何を意味するのか?
 今日、明日にも直ちに原発を廃止するという意味ではない。脱「原発」の最先端を走っているドイツにしても現在17基の全廃は約10年後の1022年までを目指している。
 一方、日本は54基のうち現在動いているのは10基程度にすぎない。しかも電気事業法で決められている13カ月ごとの定期点検のため、原発の営業運転を停止し、約1か月後に運転を再開するのが従来の例だが、運転再開に地元自治体が「ノー」といえば、再開できない。そういう自治体が増えている。このため来年5月頃には原発が全面停止になる可能性もある。そうなると結果的に日本が原発国では世界で最初に脱原発を実現させることになる。

*仏教者の怒り
 浄土真宗本願寺派住職(武蔵野大学教授)の山崎龍明さんは次のように書いている。
 「敦賀にある原発に<もんじゅ>、<ふげん>という菩薩の名を冠したことに、反対し,改名(かいめい)のための署名運動をした。(中略)原発の便利さとみせかけの豊かさから、今こそ決別すべき時だ。ブッダの説く少欲知足の経済学、分配の経済学への転換をはかるべき時だ」(WCRP=World Conference of Religions for Peace =世界宗教者平和会議日本委員会・2011年6月号)

ロ)脱「日米安保体制」=現行の日米安保条約から日米平和友好条約へ転換=いのち、非暴力、共生、利他、持続性、多様性

 日米安保体制は日本国平和憲法の基本理念に反する。安保は日本にとって「安心・安定装置」とバラ色に描くメディアもあるが、とんでもない誤解だ。安保は軍事同盟・経済同盟であることを見逃してはならない。

*軍事同盟としての安保体制
 安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などは対外侵略のため暴力装置として機能している。それがはっきりしたのはベトナム侵略戦争からで、沖縄の米軍基地がなければベトナム侵略は不可能だっただろう。アフガニスタン、イラクへの米軍の軍事侵攻も安保に基づく在日米軍基地がなければ、不可能だった。
3条(自衛力の維持発展)は憲法9条(非武装の規定)が骨抜きになった元凶である。また現在は「世界の中の安保」に変質し、従来の「極東」から「世界」に対象範囲を拡大している。

*経済同盟としての安保体制
 安保条約2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。「自由な諸制度の強化」とは新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。
 だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。
 これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を蔑(ないがし)ろにしている元凶といえる。

*安保破棄の可能性
 こういう安保条約は解消する必要がある。そんなことができるのか、と諦めている人が多いように見えるが、その気になれば、できる。安保条約10条は、一方的破棄(=破棄の意思を相手国に通告すれば、一年後に条約は終了する)を定めている。この条項はあまり知られていないように思う。

*「地球救援隊」創設の構想
 この構想は、憲法9条の本来の理念を生かす非武装・日本、すなわち自衛隊の全面非武装化による「地球救援隊」(仮称)創設だ。例えば自衛隊は武装ヘリコプターを多数保有しているが、武器を取り外せば、「人道救助ヘリ」に質的変化する。
 私は10年近く前からこの構想を唱えているが、最近は同種の提案が増えている。ある大学の講義でこの構想を提案したら、女子学生は「賛成」が何人もいたが、男子学生は「理想論にすぎない」と保守的な反応であった。それ以来、21世紀は男性の時代ではなく、女性がリードしていく時代ではないかと思っている。

ハ)脱「経済成長主義」=「豊かさ」から「幸せ」への転換=いのち、知足、非暴力、簡素、共生、持続性

*「足るを知る経済」への転換
 現代経済学は経済成長至上主義で、プラス成長に執着しているが、「経済成長=豊かさ」という観念の奴隷となっている。「経済成長主義よ、さようなら」の時代であり、「足るを知る経済」への転換が必要ではないか。
経済成長とは何か。分かりやすく人間の例で言えば、毎年体重が増え続けることを意味している。その人が立派な人物か、幸せに暮らしているのか、は関係ない。毎年体重が増え続けて100㌔を超え、さらに150㌔を超えても「成長が続いている」と喜ぶのに等しい。健康を害することは明らかである。少年時代は体重が増える必要がある。日本経済で言えば、昭和30年代から40年代半ばの円切り上げまでの高度成長時代である。

*量の拡大から質の充実へ
 求めるべきは経済の量的拡大を意味する経済成長よりも「生活の質的充実」である。こういう主張は今では世界的には決して珍しいわけではない。米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。

 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った。

ニ)脱「グローバリズム」=「ローカリズム」のすすめ=知足、簡素、共生、多様性、持続性

菅民主党政権になって突如、関税ゼロを原則とするTPP(Trans-Pacific Partnership=環太平洋パートナーシップ協定または環太平洋経済連携協定)問題が持ち上がった。一部例外品目を残す従来の貿易自由化と違って、関税ゼロによる完全自由化が原則である。農産物輸出大国のアメリカ、オーストラリアが狙っているのは人口の多い日本市場である。
 これこそ「平成の開国」で、グローバリズム(世界市場の開放、自由化)の典型であり、日本がTPPに正式参加すれば、食料自給率はさらに低下し、「壊国」に陥る恐れがある。グローバリズムに安易に乗るわけにはいかない。

*「食と農」の再生と食料自給率の向上
 日本はこれまでいのちを育てる産業の農業をおろそかにし、いのちを削る産業の工業をたくましく成長させてきた。日本社会にいのちを軽視する風潮がはびこっている一つの背景である。
 食料自給率が現在4割まで低下し、6割を海外に依存している先進国は日本だけである。「いのちの源」の大半を海外に依存しているのは異常である。それに近未来の世界的食料不足を考えると、いのちを支える食料をどう確保するかは、食料安全保障上も重要である。
そこへ「3.11」の大震災と原発惨事である。そういう悲惨な状況下でローカリズム(国内地域重視主義)に立って、食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させるか、緊急かつ重要な課題である。
 地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。地産地消、旬産旬消のすすめは、輸送や冷凍保存のためのエネルギーの節約にもつながり、ひいては環境汚染の抑制にも効果が期待できる。

ホ)脱「私利私欲」型企業=「社会的責任」型企業へ=いのち、知足、利他、共生、持続性、多様性

 「3.11」後の企業が私利私欲を克服し、社会的責任として貢献すべき新しい課題として次の三つを挙げたい。
・原発に代わる自然エネルギーの育成
・ローカリズムの振興、発展に尽力
・被災地の中小企業の援助・救済・再建

*お粗末な経団連会長・米倉弘昌住友化学会長
 経団連会長は「脱原発を進めるのであれば、電力が不足するから、国内投資を控えて、工場の海外進出を進めるほかない」と発言している。しかし電力が足りない国は海外でも多いわけで、脱原発派への一種の脅迫のような発言だ。財界首脳としてお粗末とはいえないか。
この発言は私利私欲中心の発想で、企業の社会的責任、つまり従業員はもちろん、顧客、地域、関連企業などとの絆を大切に育てていくという発想・実践とはかけ離れている。経団連が古い体質の重厚長大型産業の利益保護団体に成り下がっていることを示している。楽天の三木谷浩史会長・社長が経団連を脱会したのは理解できる。

*石油危機(注)当時の財界首脳
 (注)石油危機(オイル・ショック)とは、1973年と1979年の2回にわたって起きた石油の供給危機と価格の高騰。

 当時の財界首脳とは、私自身、財界担当経済記者として交流があった。批判すべきことは批判し、議論もした。当時の顔ぶれは、土光敏夫経団連会長、永野重雄日本商工会議所会頭、桜田武日本経営者連盟会長(日経連はその後経団連と合体)、木川田一隆経済同友会代表幹事(東京電力会長)で、私利私欲を超えたもっと広い視野と行動力があったように思う。

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食事前の「いただきます」とは
連載・やさしい仏教経済学(1)

安原和雄
仏教経済学の特色は三つある。第一は仏教経済学は宗教そのものというよりは社会・人文科学の一角を担うものと考えていること。仏教思想にみる宇宙・現世の真理を応用し、生かす経済学、すなわち仏教経済学と捉える。第二は知識としての仏教経済学ではなく、変革を実践していくための仏教経済学ということ。世直しのための新しい経済学ともいえる。第三は既存の経済学(自由市場原理主義、ケインズ経済学など)を批判する視点に立つ経済学であるということ。
 もう一つ付け加えれば、仏教経済学は特定の教科書がまだ出来上がっていない。だからこの「やさしい仏教経済学」は私(安原)の構想する仏教経済学といえる。先達の構想、業績に学ぶところ大なるものがあることはいうまでもない。
 以上のような趣旨で「連載・やさしい仏教経済学」を始める。随時掲載していく。「やさしい仏教経済学」と名づけたのは、質に配慮しながら表現はできるだけやさしく、という願いからである。
 1回目は〈食事前の「いただきます」とは〉。(2010年4月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 「仏教経済学ってなに?」と疑問に思っている人が少なくないことは十分承知している。ただ駒澤大学仏教経済研究所が設立されてからすでに40年余にもなる。仏教経済学を論じている著作として、シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)があり、原文(英文・1973年刊)の著作は世界的なベストセラーにもなった。インターネット(グーグル)で検索してみると、総検索件数は「仏教経済」約190万件、「仏教経済学」約70万件で、決して少ない件数ではない。

▽ 「いただきます」は日本の文化

 日常の暮らしの中でとかく大切なことを見逃してはいないだろうか。毎日の暮らしの中で心掛ければ、もっとこころ豊かな生活を身につけることもできる日常用語が少なくない。「いただきます」、「もったいない」、「お陰様で」の3つである。『広辞苑』(岩波書店)によると、以下の説明が付いている。
 *いただきます=出された料理を食べ始めるときの挨拶の言葉
 *もったいない(勿体ない)=神仏などに対して不届きである。過分のことで畏(おそ)れ多い。そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。用例「捨ててはもったいない」
 *お陰様で=相手の親切などに対して感謝の意を表す挨拶語
 しかし以上の広辞苑の説明は十分とはいえない。

 ここでは「いただきます」についてその本来の意味を考えてみたい。
 まず「いただきます」とは何をいただくのか。食事をいただく、と多くの人は考えているが、それだけでは十分な説明にはなっていない。正しくは動植物の生命(いのち)をいただくのであり、それに感謝する言葉である。
 さらにもう一つ、折角いただいたいのちを大切にして、生かしていくという意味も込められている。できることなら「世のため人のためにお役に立ちたい」と考えることである。利他主義の実践ともいえよう。

 「いただきます」に相当する英語は何だろうか。正解は、そういう英語はない、である。あえていえば、Everything looks so delicious.であろうか。しかしこの表現では日本語の「いただきます」に本来込められているいのちの尊重、感謝の心は浮かび上がって来ない。そういう意味でも「いただきます」は日本人の心であり、文化であると再評価し、大いに広めていく必要がある。

 私(安原)のささやかな体験を紹介したい。10年以上も前、曹洞宗の開祖、道元(1200~1253年)の建立になる永平寺(福井県)を訪ねた折りのことである。次々と観光バスで乗り込んでくる観光客を相手にお坊さんが仏教講話を始めた。その内容は次のようであった。
 「皆さん、食事の前にいただきます、と言うでしょう。この意味はお分かりですか」と。あえて手を挙げて答えようとする者はいなかった。やがてお坊さんは言った。「動植物のいのちをいただくという感謝の気持ちの表れです。肉や魚はもちろん米や野菜にもいのちがあります。そのいのちをいただいて、そのお陰で人間は自らのいのちをつないでいる。だから食事はお陰様で、有り難い、という感謝のこころでいただくものではないでしょうか」と。
 私が「なるほど」と思い、注目したのは、この話を聞いた観光客たちの人波が老若男女を問わず、真剣な表情で大きく何度もうなずいていたことである。私はここに日本人のこころがあり、日本の文化があると納得した。

▽ いのちを尊重し、感謝すること

 このような「いただきます」の深い意味を理解することは、次のような認識と実践につながっていく。
(1)人間だけでなく、この地球上の動植物も含めた「生きとし生けるものすべてのいのち」を認識し、尊重すること。
(2)人間は動植物など他のいのちあるものとの相互依存関係の中で生かされていることを理解し、他者への感謝のこころが芽生えてくること。

 ところが第二次大戦後のモノとカネの拡大を追求する高度経済成長時代、さらに飽食、つまり食べ物がありあまる中で多くの日本人はこの「いただきます」という言葉がもつ深い意味(含蓄)が理解できなくなってしまった。食べ物のいのちに無頓着になれば、やがて人間のいのちの軽視へと走るのは避けがたい流れである。20世紀末以降、いとも簡単にいのちを奪う凶悪犯罪が目立つのは、以上のことと決して無関係ではないだろう。

 ここで「いただきます」に関連して食べ残しの問題を考えたい。
 家庭の台所ごみの中の残飯、さらにファミリーレストランなど外食産業での残飯は日常的光景である。お客の半分の人が食べ残しをするというデータもある。この食べ残しは何を意味するのか?
 何よりもいのちの軽視である。
 食べ残しを平然と行う人は、「いただきます」の含蓄が分からないだけでなく、食事前に唱えたこともないのだろう。食べ物にはいのちが宿っていることを考えれば、食べ残しはそのいのちを粗末にすることである。

 仏教に不殺生戒、つまりいのちあるもののいのちを奪ってはならないという戒めがある。しかしそのいのちをいただかなければ、人間は自らのいのちをつないでいくことができない。これは大きな自己矛盾である。どうしたらいいのか。
 まず必要以上のいのちの殺生をしないことである。むさぼる貪欲(どんよく)を否定し、「これで十分」と心得る知足(足るを知ること)に徹する必要がある。もう一つ、だからこそ感謝のこころを抱いて食べ物のいのちをいただくという姿勢が大切となる。

▽ 「有り難う」と言ってみよう

 いのちを軽視すれば、人や自然と共に生きるという「共生」の感覚も薄らぐ。また人や自然に対して「お陰様で」、「有り難い」という「感謝」の気持ちをもつことができない。最近、若者に限らず大人からも「有り難う」という感謝のことばをあまり聞かなくなったように思うが、どうだろうか。

 東京・日比谷公園脇のホテルで開かれた結婚披露宴に招かれたことがある。最近は仲人を立てない結婚式が増えており、この披露宴も仲人のいない自作自演であった。新婚夫婦の紹介も、お互いに相手の「人と為(な)り」を語り合うという方式で、そのとき新婦が次のセリフを口にしたのが気に入った。
 「お父さん、お母さん、二人が出会ってくれて有り難う。そして私を生んでくれて有り難う。そのお陰で夫となる彼と出会い、今ここに私と彼がこうして手を取り合っている」と。

 これは感謝の気持ちの見事な表現である。今日薄らいでいる感謝のこころを日常生活の中にどのようにして取り戻していくか、いいかえれば人間のこころをどのようにして回復するかが大きな関心の的になって欲しい。日常生活の中でもっともっと「有り難う」を表現するようにしたい。口に出して言えないのであれば、こころでつぶやくだけでもいいではないか。これも不言実行のひとつである。


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地球環境時代にどう対応していくか
仏教経済学の視点から提案する

安原和雄
地球温暖化、熱帯林の減少、砂漠化など地球環境の汚染・破壊をどう食い止めるか。これは21世紀の地球環境時代に生きる我々に課せられた緊急のテーマである。「地球は人類を必要としないが、人類は地球なしには生存できない」という冷厳な真理を認識することが先決といえる。この認識を土台にして、仏教経済学の視点から望ましい対応策を提案したい。
 それは、「もったいない」精神の日常的な実践に始まり、平和憲法の理念を生かす「地球救援隊の創設」に至るまで多様な提案となっている。これらの提案を裏付けているのが、いのち尊重、非暴力、知足(足るを知ること)、利他、持続性 ― など、仏教経済学の唱える理念である。(2010年3月22日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 「地球環境時代をどう生きるか ― 仏教経済学の視点から」というテーマで駒澤大学仏教経済研究所(所長・吉津宜英同大学教授)と仏教経済フォーラム(会長・寺下英明氏)共催の公開シンポジウムが3月20日午後、駒澤大学(東京・世田谷区)で開かれた。基調講演は私(安原)の担当で、パネリストとして吉田宏晢氏(大正大学名誉教授)、柴崎文一氏(明治大学教授)が参加し、司会役は工藤豊氏(仏教経済研究所所員)が努めた。約4時間にわたって活発な討論と聴講者との問答が繰り広げられた。
 以下、基調講演(大要)を紹介する。

▽ インターネット上での仏教経済学に対する認知度

 講演は3つの柱からなっており、それはつぎの通り。
Ⅰ.仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学との比較
 <問い1> 仏教と経済はどう結びつくのか?
  仏教経済(学)=衆生済度+経世済民(経国済民)
<問い2> 宇宙、現世の真理は?
  空(縁起)観=諸行無常(万物流転)、諸法無我(相互依存)→ 現世での変革

Ⅱ.地球環境時代はどういう時代か ― 求められる「持続的発展」
 地球は人類を必要としないが、人類は地球なしには生存できない。温暖化、熱帯林の減少、砂漠化など地球環境の汚染・破壊をどう食い止めるか。
 仏教経済学の八つのキーワードを実践していく時代であり、特に地球環境時代のキーワード、「持続性=持続可能な発展」を経済、生活、安全保障などの分野に広めていくことが大切である。

Ⅲ.地球環境時代をどう生きるか ― 仏道(=仏教経済的精進)の日常化を
 「持続型経済社会」をめざして
 簡素な社会の構築=「貪欲・暴力の経済構造」(=過剰生産→過剰流通→過剰消費→過剰廃棄→資源・エネルギー浪費→地球環境の汚染・破壊→地球生命共同体の崩壊という悪循環の経済構造)から「知足・共生・非暴力の経済構造」へ転換を図っていく。

 さてインターネット(グーグル)で仏教経済学への認知度を調べてみよう。総検索件数をみると、「仏教」約540万件、「仏教経済」約190万件に比べると、「仏教経済学」は約70万件で、多くはないが、決して少ないわけではない。しかしビジネスマンたちに仏教経済学への理解度を聞くと、「お寺さんの経済のことか?」という程度の反応が少なくない。
 そこでまず次の疑問に答えたい。
<問い1>仏教と経済はどう結びつくのか? について
<答え>大乗「仏教」の目指すものは「衆生済度」(=人間に限らず、自然、動植物も含めていのちあるすべてのものを救済すること)であり、一方「経済」の意は「経世(国)済民」(この世、国を整えて、民を救うこと)で、双方ともに「いのちある民を救う」という点で結びついている。

<問い2>宇宙、現世の真理は? について
<答え>仏教思想では宇宙、現世の成り立ちは「万物流転」(すべては変化する)であり、同時に「相互依存」(すべてはそれぞれが独自に単独で存在しているのではなく、相互依存関係の中でのみ存在できるということ)によるという真理に基づいている。これが仏教が説く「空(縁起)観」で、だからこそ仏教思想による現世での変革が可能である、と考える。

▽ 仏教経済学の八つのキーワード ― いのち尊重、非暴力、知足など

 ここでは<Ⅰ.仏教経済学の八つのキーワード ― 現代経済学との比較>について説明したい。
 仏教経済学は新しい経済学であり、発展途上にあり、未完成といえる。確固たる教科書が出来上がっているわけではない。私(安原)が構想する仏教経済学の骨格は以下の八つのキーワードから成り立っている。これを現代経済学(破綻した新自由主義=市場原理主義経済学、ケインズ経済学など)と対比して示すと、以下の通り。

    <仏教経済学>・・・・・・・・・・・・・・・<現代経済学>
*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・いのち無視(自然を征服・支配・破壊)
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・・・・・・・暴力(戦争)
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・・・・孤立(いのちの分断、孤独)
*簡素(しなやかさ、美)・・・・・・・・・・・・浪費・無駄(虚飾)
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・・私利(利己主義、自分勝手)
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・・非持続性(持続不可能な「成長」)
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・画一性(個性無視、非寛容)
(競争 個性を磨いて連帯 ・・・・・・・・・・弱肉強食、私利追求)

 それぞれのキーワードについてごく簡略に説明したい。

*いのち尊重=仏教経済学は人間はいのちある自然の一員という認識に立っている。だから人間に限らず、広く自然も含めてそのいのちを尊重する。一方、現代経済学は自然のいのちだけではなく、人間のいのちをも無視するだけでなく、自然を征服・支配・破壊する方向に走り勝ちである。人間を消費者として捉え、モノ(商品)を買い、消費しなければ価値がないとも考える。

*非暴力=仏教経済学は構造的暴力(政治・経済・社会的に構造化している暴力=戦争に限らず、地球環境の汚染・破壊、自殺、交通事故死、人権無視、貧困など)をなくすこと、すなわち「非暴力=平和」をつくっていくことを目指す。現代経済学は戦争を含む多様な暴力を批判しない。非暴力=平和をつくるという視点、感覚はない。

*知足=物質的に「足るを知る」ことで、「これで十分」と考え、「腹八分」で満足する日常の暮らし方、生き方のこと。現代経済学は、貪欲のすすめで、「まだ足りない」と物質的欲望に執着する。

*共生=自然と人間、人間同士の「いのちの平和的共存」を指している。現代経済学には「いのちの平和的共存」という観念は欠落しており、相互に孤立した状態が想定されている。いのちの分断ともいえる。そこには孤独しかない。

*簡素=シンプルライフともいうが、それでは同義反復にすぎない。簡素であることは浪費・無駄を排し、「しなやかさ」を追求するから美しい、といえる。現代経済学は虚飾に満ちた浪費、無駄に走りやすい。
「簡素と非暴力とは深く関連している」(E・F・シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフル』・講談社学術文庫=仏教経済学を論じている著作として知られる=から)という認識が重要である。

*利他=政治も経済も社会も慈悲(思いやり)の精神で「世のため人のため」という利他主義を求めており、この利他的行動が結局は自分のプラスとなって還ってくる。これを仏教では「自利利他円満」という。仏教経済学はこういう利他的人間観を土台に組み立てる。現代経済学は、自分勝手な私利に執着する利己主義的人間観を想定しており、そこから破綻が生じる。あの貪欲(強欲)資本主義そのものである新自由主義=市場原理主義の破綻がその典型といえる。

*持続性=仏教経済学は「持続可能な発展」(=Sustainable Development、後述)を重視するが、現代経済学は持続不可能な「経済成長」に執着する。

*多様性=仏教経済学は自然・人間・文化・地域・国にはそれぞれ個性があり、多様であると認識し、それを尊重する。いいかえれば寛容で、こころが広い。現代経済学は自然や人間の個性を無視し、画一的に捉え、非寛容な姿勢である。

 さて仏教経済学は競争をどう考えるかについて補足しておきたい。
競争を否定するわけではない。仏教経済学ではそれぞれの「個性を磨く競争」を重視する。こういう個性を尊重する競争は共生・連帯感に通じる。しかし現代経済学は強いものが勝つのが当然という「弱肉強食の競争」、「私利追求の競争」のすすめであり、そこには共生・連帯感は生まれない。

 ここで一つ物申しておきたい。「現代経済学者よ、腹を切れ」と。
 奥田碩(ひろし)前日本経団連会長(前トヨタ自動車会長)が、月刊誌『文藝春秋』への寄稿論文で「労働者の首を切るなら、まず経営者よ、腹を切れ」と言ったことがある。正論である。先達のこの言(物言い)にならえば、「現代経済学者よ、腹を切れ」と言いたい。現代経済学は現世を混乱と危機に追い込んだ責任の一半を負うべきだからである。

▽ 地球環境時代はどういう時代か ― 「持続的発展」の重視を

<Ⅱ.地球環境時代はどういう時代か ― 求められる「持続的発展」>について説明する。
 「持続的発展」すなわち「持続可能な発展」(=Sustainable Development)は何を含意しているのか。世界自然保護基金(WWF)、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)が1991年、国連主催の第一回地球サミット(翌92年ブラジルのリオデジャネイロで開催、「リオ宣言」を採択)に先だって発表した提言『新・世界環境保全戦略 ― かけがえのない地球を大切に』などを手がかりに考える。

(1)「持続的発展」の多様な柱
・生命維持システムー大気、水、土、生物ーを含む生命共同体の尊重
・地球上の生きとし生けるものすべてのいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・雇用の確保と、失業と不完全就業による人的資源の浪費の解消
・生活必需品の充足、特に発展途上国の貧困の根絶
・公平な所得分配のすすめ、所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消

 以上のように持続的発展という概念は、エコロジー、環境、経済、生活、政治、安全保障、社会、文化など多面的な要素からなっている。

 「持続的発展」の多様な柱の一つ、「核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消」に注目したい。この柱が「リオ宣言」に「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」という表現で盛り込まれた。いいかえれば地球環境保全のためには平和(=非暴力)こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示している。この視点に注目したい。

(2)「持続的発展」は仏教思想の具現化
 「持続的発展」はどのように仏教思想と結びつくのか。上述の『新・世界環境保全戦略―かけがえのない地球を大切に』は、たとえば「生命共同体の尊重は、世界の多くの文化、宗教が説いてきたこと」と指摘している。この「世界の宗教」のなかにはもちろん仏教も含まれる。

(3)「持続的経済成長」は誤用
 政府(特に自民・公明政権時代)、経済界などが多用する「持続的経済成長」は正しい用法ではない。日米欧など先進国では成熟経済に達している現在、経済成長(=国内総生産・GDPの量的拡大)には限界があり、経済成長ではなく、経済発展(=経済の質的充実、所得の公平・公正な配分)こそ目指すべき時代である。人間も成人になれば体重を増やし続けること(=量的増大)は必要ではない。特に熟年には人間力、器量、徳を磨くこと(=質的充実)が重要になるのと同じである。
 民主党政権になっても経済成長に相変わらず執着しているが、持続性(=持続的発展・経済発展)と経済成長は必ずしも両立しない。経済発展(=質的充実)と経済成長(=量的拡大)との間の根本的な違いに着目する必要がある。

▽ 地球環境時代をどう生きるか ― 「もったいない」の実践を

 <Ⅲ.地球環境時代をどう生きるか ― 仏道(=仏教経済的精進)の日常化を>というテーマに関連して、持続型経済社会への転換を目指す具体策を考えたい。仏教経済学の視点からいえば、仏道すなわち仏教経済的精進を日常的に重ねていくことが大切である。ここでは以下の4項目(1~4)を挙げているが、もちろんこれに尽きるわけではない。

(1)「いただきます」(いのちの尊重、その活用)、「もったいない」(人や物を大切に思うこころ)、「お陰様で」(共生、相互依存関係へ感謝)― の日常的実践を心掛けよう!
 ケニアのワンガリ・マータイさん(ノーベル平和賞受賞、国連平和大使)の地球規模での「MOTTAINAI」運動に注目したい。

 3つの日常用語の含意を理解し、実践していくこと。
*「いただきます」について
 動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいることへの感謝の言葉。もう一つは、いただいたいのちを社会のために活用していくという心構えを示している。
 10年前、私(安原)が大学で講義していた頃には「いただきます」を日常生活で唱える学生は100人のうち1名程度だった。現在は小学校で給食の時に「いただきます」を唱える学校が増えてきた。

*「もったいない」について
 人や物を大切に思うこころ。マータイさんはケニアの環境副大臣などを歴任し、植樹運動でも知られている。2005年初来日したとき、毎日新聞社を訪ねて、日本語の「もったいない」に出会って感動し、「もったいない=MOTTAINAI」を世界に広める運動を進めてきた。「MOTTAINAI」は今では世界語にまでなっている。
 今2010年2月、5度目の来日となり、広島市の原爆資料館を訪ねたり、京都では「MOTTAINAIというすばらしいライフスタイルを世界に広めたい」と話した。
 ケニアの首都ナイロビにあるナイロビ大学に来2011年、「ワンガリ・マータイ平和環境研究所」を開設の予定で、資源を大切にする心を学ぶ「MOTTAINAI学科」を開講する。「もったいない」の本家本元の日本にこういう学科がなぜないのか? 仏教思想の日常的実践が足りないのではないかと言わざるをえない。

*「お陰様で」について
 人間は自力のみで生きていると思うのは錯覚である。客観的事実として太陽、地球、自然の恵みを受けて、しかも他人様(ひとさま)のお陰で生き、生かされているのである。このことをしっかり認識できれば、「お陰様で」という他者への感謝の心につながっていく。この感謝の心は「もっともっと欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己抑制としても働く。

(2)もっと歩こう。 さわやかな人生を!
 交通事故で年間5000人以上がいのちを捨て、負傷者は、100万人を超える。捨てるのは、いのちではなく、マイカーではないか。徒歩、自転車さらに 公共交通(鉄道、バス、路面電車など)利用の促進を唱えたい。交通手段ではマイカーによる温暖化ガス排出量が圧倒的に多い。

 交通事故死者の数は、統計の取り方にもよるが、交通事故から30日以内に亡くなった人は09年には6000人近い。これだけ多くの死者が出ているのに、いのちを失う事実に鈍感すぎないか。石油もやがて枯渇する可能性もあるので、事実上マイカー時代は終わりつつある。捨てるのはいのちではなく、温暖化ガスの排出量が多いマイカーである。そのためには公共交通中心の交通体系に切り替えることが急務だ。

(3)国産の食べ物(いのち)重視へと転換しよう!
 食料自給率が低い日本(40%で先進国では最低)は、海外からの食料輸入量が多く、「フードマイレージ」(注)の世界一長い国であり、輸送に伴う温暖化ガス排出量も一番多い。しかもいのちを育む田園、近海は荒れ、国民の精神は萎(な)えている現実をどう変えていくか。地産地消の重視へ。
 (注)フードマイレージは「食料の重量に輸入輸送距離を掛けた数値」で、単位はトンキロメートル。

 近未来の世界的な食料危機、水危機への懸念が高まっている。この脅威こそが今後の大きな脅威となる。これは軍事力によって対応できる脅威ではない。日本としてこの脅威にどう立ち向かうか。崩壊が進む田園、近海をどう再生していくかというテーマにほかならない。いのちを確保するための新たな挑戦というべきだ。
 森林、里山を含む田園のいのちを取り戻すときだと考える。そのためには食料の輸入を抑えて、地産地消(その地域でつくった食べ物をできるだけその地域で消費する)を中心にして、国産の食べ物を増やしていくことが必要だ。
 私は農家に生まれたが、子供のころ病弱で、医者に「農業は無理」といわれ、東京の大学へ進学し、東京住まいを続けている。田舎から脱走したわけだ。今、田舎の田園は荒れて、申し訳ない、という心境だが、私なりの生き方でお返しするほかない。その一つが「仏教経済学による社会的貢献」ではないかと考えている。

▽ 地球環境時代をどう生きるか(つづき)― 地球救援隊の創設を

(4)憲法前文の「全世界国民の平和生存権」、9条の「戦争放棄、非武装、交戦権否認」を生かそう!
 自衛隊から地球救援隊(仮称)への全面改組、防衛省から平和省への改組、日米安保体制(=軍事同盟)を解消し、平和友好条約へ転換を図ること。
 自衛隊というプロ集団を平和活用(=諸国民の平和生存権を生かすグローバルな利他的貢献)しないのは、まことにモッタイナイと言うべきだ。

 ここでは自衛隊を全面改組して非武装の地球救援隊を創設する提案について若干説明を加えたい。
*目的=地球規模の非軍事的な脅威(台風、地震、津波など大規模災害、感染症などの疾病、水不足、不衛生、栄養失調、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生を目指すこと。非軍事的貢献によって国と国、人と人との対立と不和を除去し、信頼感を高め、軍事的脅威の顕著な削減を実現させること。
*装備=兵器を廃止し、輸送船、輸送航空機、ヘリコプター、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、それに備えて非武装の「人道ヘリ」を大量保有する。
*教育=いのちの尊重、利他精神、人権感覚の豊かな隊員を育成する。

 さて世界勢力地図の大変化について言及しておきたい。それは20年後の世界のリーダーはどの国か、というテーマである。
 米ウオール・ストリート・ジャーナル紙などの世論調査(09年12月実施)によると、「米国37%、中国39%」という結果が出た。12年前の97年調査では「米国56%、中国がわずか9%」だったが、最近では中国の台頭が顕著で、米国を上回っている。
 しかし米国と中国との間の覇権争いは終止符を打つときだ、と言いたい。軍事力による覇権争いは、結局その国を破綻させる。米国が今、その道を辿っている。世界の軍事費の半分以上を占める軍事超大国・米国は今や貧困者が増えて貧困大国に転落している。中国も高度経済成長下で貧富の著しい格差、官僚の汚職など腐敗が広がっている。

 そういう世界の状況下で日本はどう対応すべきか。米中とは異質の路線を選択するときで、平和憲法の平和共存、非武装の理念を実践していくため、日米軍事同盟を解体し、自衛隊の地球救援隊への全面改組という選択が最善の策と考える。これは世界の歴史に名を残す良質の選択として高い評価を得るだろう。


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仏教を生かす日本の変革構想
人生の四苦をどこまで癒せるか

安原和雄
私は先日、「仏教を生かす日本変革構想 ― 〈四苦〉緩和への必要条件」と題して講話する機会があった。仏教経済思想の視点に立って日本の政治、経済、社会をどう変革すべきかを述べたもので、変革構想の主な柱は、(1)平和憲法と仏教経済思想、(2)簡素な持続型社会をめざして、(3)非暴力(=平和)の世界を求めて ― である。
 これらの変革構想が多くの人々の努力で実現すれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」といえるだけの現世をつくることはできる。だから現状の変革はどうしても必要だが、釈尊が説いた「人生の四苦=生老病死」を変革によってどこまで癒すことができるか、そこが一人ひとりに遺された切実なテーマであることも指摘した。(09年6月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。この学習会は今回の私の講話で230回を数える。

 講話の内容は以下の柱からなっている。
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
*経済成長主義よ、さようなら
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
*「この世に生まれてきてよかったなあー」・・・

▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神

 まず仏教経済学の特質は以下の諸点である。
・一般の大学経済学部で教えられている現代経済学(新自由主義経済論など)への批判から出発している。
・仏教経済学は信仰に基づくものではなく、真理の追究であり、その実践である。
釈尊(仏教の開祖)は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用する実践学で、社会科学の新しい分野を切り開く思想である。
 例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(万物流転=すべてのものは変化し、移り変わること)と(ロ)諸法無我(相互依存=宇宙をはじめ、地球、自然、人間、政治、経済、社会さらに様々な事物などすべては独自に存在しているのではなく、相互依存関係のもとでのみ存在していること)は、信仰ではなく、客観的な真理である。
・既存の現代経済学と違って、教科書が完成しているわけではない。ここでは私(安原)が構想する「仏教経済学・政策論」(骨子)を提示したい。

 仏教経済学の八つの柱(キーワード)はつぎの通り。
一)いのち尊重(人間は自然の一員)
二)非暴力(平和)
三)知足(欲望の自制、「これで十分」)
四)共生(いのちの相互依存)
五)簡素(美、節約、非暴力)
六)利他(慈悲、自利利他円満)
七)持続性(持続可能な「発展」)
八)多様性(多様な自然、人間、社会、文化と個性)

 ここでは八つ(漢数字の八は末広がりを意味しているので、あえて八を使っている)の柱のうちの「いのち尊重」と「利他」に限って若干の説明を加える。
・いのち尊重=現代経済学(いのち尊重という観念はない)とは異質であり、ここが仏教経済学の最大の特色でもある。人間と自然(動植物など)のいのちは平等対等であり、人間だけが特別上位にあるとは考えない。人間は自然の一員ととらえる。
・利他=「世のため人のため」の行動が回り回って自分のためにもなるという思想で、仏教経済学はこの利他主義的人間像を前提にして組み立てる。一方、現代経済学は私利、すなわち自分さえよければいいという利己主義的人間像を想定している。
・仏教経済学のいのち尊重と利他は、非暴力、知足、共生、簡素、持続性、多様性につながっていく。一方、現代経済学はいのち無視、私利重視であり、非暴力ではなく暴力(戦争など多様な暴力)、知足ではなく貪欲、共生ではなく孤立、簡素ではなく浪費、持続性ではなく非持続性、多様性ではなく画一性をそれぞれ特質とする。
(くわしい説明は08年10月13日付のブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「仏教経済学と八つのキーワード」=これは「仏教経済学・原論」に相当=を参照)

 仏教思想にも深い理解を示したイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889~1975年)は、「21世紀に要請される人間像は、大乗仏教で説く菩薩の精神を持った人間」、つまり「慈悲と利他」を実践する人間だと言っている。

▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想

 21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、持続型社会、すなわち持続的発展を基調とする社会を創ること、同時に非暴力(=平和)の世界を構築していくこと ― が緊急の課題となっている。
 仏教経済学の視点では、上記の課題を達成するための変革構想は、現下の「貪欲社会」、すなわち「暴力社会」から「非暴力・知足・共生社会」、すなわち「平和社会」へと転換していくこと。そのためには平和憲法に盛り込まれている以下の6項目の理念を生かす変革プランが求められる。

憲法前文の平和的共存権
9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
25条「生存権、国の生存権保障義務」
27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛

 特に前文の平和的共存権と9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の平和理念は仏教の平和思想の反映ともいえる。
 1946年3月幣原内閣が「マッカーサー草案」(2月)をもとに練り直し、公表した「憲法改正案要綱」の9条について日蓮宗の仏教者、石橋湛山(注)は、当時つぎのように述べて、9条を絶賛している。

 独立国たるいかなる国もいまだかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。この一条を読んで、痛快きわまりなく感じた。我が国民が「全力を挙げてこの高邁なる目的を達成せんことを誓う」ならもはや日本は敗戦国ではない、栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる。これに勝った痛快事があろうか ― と。
(注)石橋湛山=1884~1973年。日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想を背骨とするジャーナリストの大先達。1956年12月首相の座につくが、わずか2か月間で、病のため首相の座を去った「悲劇の宰相」として知られる。

 もう一つ、「9条の会」(憲法9条の改悪に反対する自主的な会で、その数は全国ですでに7000を超えている)に多くのお坊さんたちが参加している事実も指摘しておきたい。

*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要

 上記の6項目すべてに説明を加えるのは割愛して、ここでは18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」について説明しておきたい。
 18条全文は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

 本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
 ここでの「奴隷的拘束」(英文ではbondage)とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
 特に憲法で「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。
 新自由主義経済路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。この18条の含意を玩味して尊重し、「奴隷的拘束からの自由」の精神を身につけなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。日本の現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。

▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして

 現代経済学は経済成長主義に今なお執着している。この「成長」には、石油などエネルギーの浪費が必要であり、アメリカのブッシュ前政権が2003年イラク攻撃に踏み込んだ狙いの一つは石油確保であった。
 日本の自民・公明政権が自衛隊によるインド洋での米国艦船などへの給油に執着しているのも、また東アフリカのソマリヤ沖海上へ海賊対策の名の下に海上自衛隊を派兵しているのも、中東石油(日本の石油消費量の9割を依存)の確保につながっている。戦争を肯定し、石油をがぶ飲みするような「貪欲社会」に別れを告げるのが持続型社会とシンプルエコノミー(簡素な経済)をめざす変革プランである。

 具体的な変革プランの主要な柱はつぎの通り。
イ)経済成長主義よ、さようなら
ロ)循環型社会づくり
ハ)自然エネルギー活用型へ
ニ)クルマ社会の構造変革
ホ)ワークシェアリングの導入
ヘ)「食と農」の再生と食料自給率の向上
ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
 ここではイ)経済成長主義よ、さようなら、ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革 ― に絞って以下に概略紹介する。

*経済成長主義よ、さようなら

 経済成長とは経済の量的拡大を意味しているにすぎない。1960年代までのモノ不足の時代には経済成長も必要であった。また経済成長が必要な発展途上国は多い。しかしわが国のGDP(国内総生産)はすでに約500兆円で、米国(約1000兆円)に次ぐ世界第2の巨大な規模で、成熟経済の域に達している。
 人間でいえば、熟年で、これ以上体重を増やす必要はない。むしろスリムになった方が健康によいし、なによりも人格、智慧を磨くべき熟年である。
 21世紀の日本経済に必要なのは、量的拡大を目指す経済成長主義ではなく、環境も含む生活の質的充実である。
 経済成長を万能と考える時代はとっくに終わり、脱「成長主義」の時代に入っている。にもかかわらず現実には政治家も企業経営者もサラリーマンたちも、その多くが今なお経済成長主義にこだわっている。有り体に言えば、「経済成長=豊かさ」という錯覚の奴隷となっている。

 米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八~〇九』はつぎのように指摘している。
 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。一九〇〇年から二〇〇〇年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。

*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革

 政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。病人を減らし、健康人を増やすためには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。

 そこで以下の医療・教育・社会改革案を提起したい。
・70歳以上の高齢者の医療費は、原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1~2割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を5割に引き上げる。この引き上げには最低2年間の猶予期間をおく。
〈データ〉糖尿病患者は07年現在2210万人。20歳以上では3人に1人の割合となっている。なお遺伝子型の糖尿病に苦しむ人々には自己責任の原則を適用すべきではないので適切な配慮が必要である。

・一年間に一度も医者にかからなかった者には、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校時代から教育する。
食事の前に「いただきます」を唱えるのがかつては普通だったが、今は少ない。「いただきます」は「動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる」ことへの感謝の心を表す言葉である。こういう意識が小学生の頃から社会に浸透すれば、いのちを尊重する風潮が広がり、犯罪も減るのではないか。

▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて

 第一回地球サミット(1992年)で採択した「リオ宣言」は「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」とうたっている。これは地球環境保全のためには平和こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示しているものと読みとることができる。 
このリオ宣言の精神を生かして非暴力(=平和)の世界をつくるうえで日本が貢献するためには何が求められるか。

*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること

 私は自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組することを提案したい。
 日米安保=軍事同盟は、憲法の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
 しかもいのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の政策選択が自衛隊の全面改組による非武装の「地球救援隊」創設である。このような地球救援隊の意義は何か。

 第一は今日の多様な非軍事的脅威に対応すること。
 脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
 第二は巨大な浪費である軍事費を平和活用すること。
世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。

*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を

 地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を具体化する構想であること。
・地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。

・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
 具体的には兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。

▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?

 釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では「四苦八苦」を指しているが、ここでは四苦〈=生(生まれること)、老、病、死〉について考える。
 念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」、というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは人それぞれであるにしても、必ずわが身に迫ってくる。

問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦の解決にどの程度貢献できるのかである。結論からいえば、変革構想がそのまま実現したとしても、四苦が全面的に解決できるという性質のものではない。いいかえれば四苦を癒すうえで必要条件ではあるが、決して十分条件にはなりえない。

 変革構想の実現は、私が提唱する仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。地球規模で混乱、破壊、殺戮が広がっている現状からみれば、いのち尊重、非暴力がそれなりに定着する未来社会ではそれぞれの人生は安穏、幸せに向けて質的な変化が生じるだろう。
 貪欲(あるいは強欲)な資本主義的市場経済や貪欲な生き方が、2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生による新自由主義路線(私利追求を第一とし、弱肉強食の競争を強要)の破綻を境にして知足、すなわち「足るを知る」経済、生き方に変化し、それが広がっていくことを時代は求めている。
 そういう社会では共生、簡素、持続性、多様性を尊重し、それを経済、日常の暮らしの中に生かしていくことも期待できる。貪欲な私利追求ではなく、利他、すなわち「世のため人のために」をモットーにして生きていく人、利他こそが結局は自分の幸せ、人生の充実感をもたらしてくれると思い直す人も増えてくる。

*「この世に生まれてきてよかったなあー」

こういう世の中になれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」と感謝せずにはいられない人が増えることは間違いないだろう。こうして仏教経済学がめざす「現世での幸せ」に大きく歩み寄ることはできる。しかし四苦の生老病死のなかの老病死はどこまでも思い通りにはなりにくい。
それを承知の上でやはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しているからである。変革に精進を重ねるのが大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど・人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への努力にほかならない。

 ここで明恵上人(みょうえしょうにん・1173~1232年、鎌倉時代初期の名僧、京都市の栂尾で高山寺を再興)の臨命終(りんみょうじゅう)説法に触れておきたい。これは今の一瞬一瞬がわが命が終わるときだと思って真剣に生きなさい、という教えである。臨命終に精進を重ねていれば、死も平常心で迎えることができると説いた。


〈ご参考〉今回の仏教経済学講話「仏教を生かす日本変革構想」と昨(08)年10月13日付でブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載されている講話「仏教経済学と八つのキーワード」の下敷きになっているのが、以下の私(安原)の論文である。
*「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第38号、09年5月刊)
*「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(同『仏教経済研究』第37号、08年5月刊)


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「平和=非暴力」の平和実現を
新自由主義後の新時代を求めて

安原和雄
麻生太郎政権の迷走が続いている。安倍元首相、福田前首相につづいて3人目の政権投げ出しとなるのではないかという事態も取り沙汰される始末である。そういう政治行き詰まりの背景は、大きな災厄をもたらし、世界金融危機とともに破綻した新自由主義のつぎの新時代をどうつくっていくか、その設計図立案能力を失っているからだろう。
 米国に劣らず、日本もまた新たな変革に直面している。その変革の核となるのは、新しい平和すなわち、従来の「平和=非戦」を超えて、「平和=非暴力」という21世紀型平和をどう実現していくかである。この一点を見据えないで、目下の行き詰まりを打開することはできない。来年09年に先送りとなった衆院総選挙で日本国民がどういう進路選択をするか、恐らく世界注視の的となるだろう。(08年12月2日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「コスタリカに学ぶ会」の定例学習会にて

 「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」=中山武敏・児玉勇二共同代表、杉浦ひとみ事務局長)は08年11月30日、東京・江東区東大島文化センターで第20回定例学習会を開いた。参加者は同会会員のほか、平和・市民運動などに取り組んでいる人たちを含めて約30人。テーマは「衆院選挙の動向と平和のあり方」で、私(安原=「学ぶ会」世話人の一人)が以下のような柱を中心に問題提起を行った。その趣旨を紹介したい。

1 衆院選挙の行方は?
2 平和とは? ― 平和観の再定義が必要
3 日本列島はすでに「戦場」となっている
4 「平和=非暴力」の日本を創っていくためにはどうするか?
5 総選挙での国民の選択―中米の小国コスタリカに学ぶこと

▽衆院選挙の行方は?

 総選挙は来年度予算を09年3月までに成立させて、その後にという見通しも話題になっている。麻生太郎首相の評判はがた落ちで、自民党内の支持も薄れつつあり、総選挙前に安倍、福田首相に続いて3人目の政権投げ出しに追い込まれる可能性もないわけではない。小沢一郎民主党代表流にいえば、「4人目の新しい首相にお祝いを言うことになるかもしれない」(11月28日の党首討論会で)という皮肉も聞こえてくる。

 いずれにしても自民・公明の保守政権は政権担当能力を失っている。幕末の政治状況は「幕府は薩長に倒される前に自壊していた」といわれるが、今日、それと同様の出口のない混迷状況に陥っている。
 なぜそういえるのか? 新自由主義路線が破綻したにもかかわらず、そのつぎの新しい時代を創っていく能力を失っているからである。新しい政治、政権に求められているのは「平和」を創っていく能力、その営みである。

▽平和とは? 平和観の再定義が必要

問い:日本は平和なのか?
 憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)のお陰で、日本は戦争をやっていないし、平和だと思っている人が少なくない。本当に平和といえるのか?

 ここで平和学の世界における第一人者、ノルウェーのヨハン・ガルトゥング教授著『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、1991年)に学びたい。そこから従来の平和観「平和=非戦」を超えて、今日的な新しい平和観「平和=非暴力」を引き出す必要があるだろう。いいかえれば平和とは、大量の人命殺傷、資源・エネルギーの浪費、自然環境破壊をもたらす「戦争」がない状態であることはもちろん重要だが、それだけでなく、「構造的暴力」=内外の政治、経済、社会構造に起因する多様な暴力=もない状態を指している。

構造的暴力の具体例はつぎの通り。
*人間性やいのちの否定、破壊が日常的に存続している状態、例えば自殺、凶悪犯罪、交通事故死、失業、貧困、病気、飢餓、人権侵害、不平等、差別、格差などが存在する限り、平和ではないということになる。
*貪欲な「経済成長追求」による地球上の資源・エネルギーの収奪・浪費、それにともなう地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)がつづく限り、平和な世界とはいえない。

▽日本列島はすでに「戦場」となっている

「平和=非暴力」という今日的な平和観に立って日本列島を見渡すと、すでに参戦しているほか、多様な「構造的暴力」が日常化している。つまりいのちを奪い合う事実上の戦場になっている。
 具体的には以下の諸点を指摘できる。

(1)日本は米軍主導の戦争にすでに参戦している
 日本は戦後、日米安保体制下で何度も米軍の侵略戦争に協力してきた。湾岸戦争、ベトナム戦争、現在のアフガニスタン・イラク戦争などがそうである。
 在日米軍基地は米軍の出撃基地として機能している。手厚い「思いやり予算」によって米軍基地の戦闘能力を手助けしているのが日本政府である。

 日本自身も事実上参戦している。
 特に昨今の米軍主導のアフガニスタン、イラク戦争では「対テロ戦争」「人道支援」という名の自衛隊の海外派兵、さらに新テロ特措法によってインド洋で米軍などに実施している石油補給も参戦である。石油補給という後方支援がなければ現代戦は遂行できないからである。

(2)これまでの新自由主義路線(小泉政権時代に顕著になった規制廃止・緩和、民営化、自由化と大企業の利益・効率優先さらに弱肉強食のすすめ)を背景に構造的暴力が日常化している
・多発する凶悪犯罪(秋葉原での17人の無差別殺傷事件など「誰でもよかった殺人」、元厚生省次官らの殺傷事件ほか)
・年間3万人を超える自殺
・年間6000人の交通事故死(多いときは年間1万7000人の死者を出した。累計の犠牲者数は50万人を超えているのではないか。まさに交通戦争死といえる)
・生活習慣病など病気の増加
・300万人前後の失業、雇用不安、非正規労働の増加、企業倒産の増加
・貧富の格差拡大、長時間労働、人権抑圧など

(3)日本の地球温暖化防止への努力不足からも分かるように資源・エネルギーの浪費、それによる地球環境の汚染・破壊に手を貸している。これも構造的暴力。

(4)行政(官)と民間企業(民)のごまかし、偽装、不祥事の続発が上記の暴力を増幅させている。

 これでも日本は平和といえるだろうか。軍事力を行使して戦死者を出す修羅場のみが戦場ではない。多様な暴力によっていのち、安心、平穏、平和が破壊されている日本列島上の地獄のような現実も、「戦場」と呼ぶ以外に何と呼べばいいのか。

▽「平和=非暴力」の日本を創っていくためにはどうするか?

「平和=非暴力」実現のための必要条件としてつぎの2点をあげたい。
(1)憲法の空洞化している平和理念を取り戻し、生かし、実現させていくこと
(2)世界金融危機とともに破綻した新自由主義路線の根本的転換をめざすとき
 世界金融危機は新自由主義の破綻を示している。平和を創っていくためには世界金融危機にみるような新自由主義の破綻を好機ととらえたい。

 中長期的展望も含めて具体策としてつぎの諸点が考えられる。
①憲法前文の「平和共存権」と9条の「戦力不保持」の理念を生かすこと
 前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。
 「前文の平和共存権」と「9条の戦力不保持」を生かすためには何が必要か。
世界レベルでみれば、核兵器廃絶と大幅な軍縮が不可欠であり、日本としては日米安保体制(=軍事・経済同盟)の解体を中長期的視野に入れる必要がある。日米安保体制は諸悪の根源といえる。なぜか?

 一つは「軍事同盟」としての安保体制をあげることができる。日米安保条約は第3条(自衛力の維持発展)、第5条(共同防衛)、第6条(基地の許与)を定めており、それを根拠に今では「世界の中の安保」をめざして、地球規模での戦争のための巨大な暴力装置として機能しているからである。しかも第3条(自衛力の維持発展)が憲法9条(戦力不保持)の理念を骨抜きにしている。
 もう一つは、「経済同盟」としての安保体制を指摘できる。第2条(経済的協力の促進)は「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」ことをうたっており、これを背景に安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要する暴力装置となっているからである。
 こういう日米安保条約は互恵平等を原則とする新たな「日米友好条約」へ切り替えるほかないだろう。

②憲法25条の「生存権、国の生存権保障義務」の実現を図ること
 周知のように25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となっているが、新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減 、税金・保険料負担の増大 ― などによって生活の根幹が脅かされ、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
 この25条と9条は表裏一体の関係にある。軍事力の保有によって9条が空洞化、すなわち骨抜きになっているからこそ25条の生存権も骨抜きにされている。この現実を変革するためには軍事費を削減し、非武装・中立を展望すると同時に新自由主義路線の根本的転換が不可欠の課題である。

③憲法27条の「労働の権利・義務」の実現を図ること
 「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあるが、現実には失業者のほかに非正規労働者があふれている。新自由主義のため、適正な労働の機会を保障しないのは、「労働は権利、義務」という憲法規定からみて憲法違反とはいえないか。

 いずれにしても旧来の「平和=非戦」、「守る平和」観、つまり「現在日本は平和だ」という平和観にこだわる限り、現実を変革し、未来への展望を切り開くことは難しい。ここは21世紀型の「平和=非暴力」、「つくる平和」観に立脚点を置き換えて憲法の平和理念を生かす方向で、新自由主義を克服し、新しい平和を創っていくときである。

 安保解体後の新たな変革課題を列挙すると―。
*非武装中立・日本への道を目指すこと
*防衛省を平和省へ、自衛隊を非武装「地球救援隊」(仮称)へ全面的に改組すること
*日本版軍産複合体を解体し、平和産業・経済への転換を図ること

▽総選挙での国民の選択―中米の小国コスタリカに学ぶこと

 衆院選挙の動向が今後どういう曲折をたどるにせよ、遅くとも09年9月には現衆院議員の4年間の任期切れのため自動的に総選挙を迎える。何が争点になるのか。

選択肢としてつぎの3つが想定できる。
(1)新自由主義の一部手直しと消費税増税路線
 新自由主義は大筋で維持しながら、目先の景気対策によるてこ入れで一部手直しし、一時的に飾り立てる手法で、近未来に消費税増税が待ち受けている。一方、日米安保=日米同盟の堅持、国連軽視の路線を推進する。
(2)国民生活重視を前面に掲げる路線
 国民生活重視の政策を掲げる。一方、日米同盟も国連も重視していく。ただ新自由主義からどこまで離別していくのかが明確ではない。
(3)新自由主義からの根本的な転換と〈平和=非暴力〉をめざす路線
 国民生活立て直しのために財政、税制を大幅に組み替える。軍事費などを削減する一方、消費税は引き上げない。大企業・資産家への優遇制度(税制面など)を廃止するか、見直す。地球温暖化防止など地球環境問題打開に重点を置く。外交面では国連を重視し、日米同盟は中長期的視野で解体し、日米友好条約に切り替えていく。〈平和=非暴力〉の実現をめざす。

「コスタリカに学ぶ会」としてはコスタリカの先進的な政策にいかに学ぶかという視点を重視したい。
 コスタリカの国是として知られる3本柱はつぎの通りで、軍事費に財政資金を浪費しないため、その浮いた資金を環境保全、教育、医療など国民生活の充実に回すという財政資金の「平和=非暴力」的な良循環が定着している。
*非武装中立
*自然環境保全
*平和・人権教育の重視

特にコスタリカの非武装中立は日本国憲法9条の平和理念を実践しているに等しい。日本国平和憲法の施行は1947年で、常備軍の廃止を定めたコスタリカ憲法の施行は1949年だから、憲法で理念として非武装を明確に打ち出したのは、日本の方が元祖である。ところがその日本は日米安保体制下で世界の軍事強国の一つにのし上がっている。一方、コスタリカは軍隊を廃止したまま、今日もその原則を堅持し続けている。
 「平和=非暴力」という21世紀型の平和を創っていくうえではコスタリカは世界で一番進んでいる国であり、いまや日本がコスタリカに学ぶとき、というべきである。

 コスタリカに学ぶという視点に立てば、上記3つの選択肢のうち路線(3)を選択することを意味する。

 以上のような問題提起の後、約2時間にわたって活発な意見交換が行われた。提出された問題点は、日米安保条約第5条「共同防衛」の意味、北朝鮮の拉致問題と非暴力の関係、日本の軍需産業と自民党との癒着、教育の右傾化にどう取り組むか、諸悪の根源は小選挙区制ではないか、日米安保を日米友好条約に切り替えるための行動指針は? 「ことばの力」をどう磨いてゆくか、「平和=非暴力」をどう広めていくか、グローバリゼーション(世界化)に抗してローカリゼーション(地域重視)を進めるにはどうするか? ゼロ成長を目指すときではないか、インドのガンジーらの非暴力主義を今日どう評価するか、日本人の多くはなぜ怒らないのか ― など広範囲にわたっている。その一問一答の内容紹介は割愛する。


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仏教経済学と八つのキーワード
いのち、非暴力、知足を軸に

安原和雄
私は先日、「日本の改革設計図を考える ― 仏教経済学の視点から]と題して講話する機会があった。仏教経済学は駒澤大学仏教経済研究所を中心に40年も前から研究が進められてきた。またドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーの著昨『スモール イズ ビューティフルー人間中心の経済学』(講談社学術文庫)が仏教経済学を論じている。
 ネパールをはじめ海外の大学では仏教経済学者がかなり活躍しているが、日本では大学経済学部で講座「仏教経済学」が正式には未開設という事情もあり、発展途上にある。これから大いに育てたい分野である。ここでは講話を踏まえて私の構想する「仏教経済学」(原論)を紹介したい。(08年10月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。学習会はすでに210回を超えている。

 なおシューマッハー(1911~77年)著『スモール イズ ビューティフル』の原本・英文は第一次石油危機当時の1973年に発刊され、世界的なベストセラーになった。「仏教経済学」と題した1章を設けて現代経済学(特にケインズ経済学)とどう異なるかを論じている。

▽仏教経済学とは? ― 仏教思想を生かす社会科学の一つ

 仏教経済学の特質は何か?
 まず大学経済学部で教えられている現代経済学(注)への批判から出発している。しかも仏教の開祖、釈尊がいま生きていたら、どう考えるかを基本に組み立てる。特定の宗派にこだわらず、各派の優れている考え方を摂取する。
 さらに仏教経済学は信仰に基づくものではない。釈尊は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用し、生かす実践学で、社会科学の一つである。

 例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(すべてのものは変化すること)、(ロ)諸法無我(宇宙をはじめ、自然、人間、政治、経済、社会などすべては独自に存在しているものはなく、相互依存関係にあること)は、信仰ではなく、社会科学の最高峰ともいえる真理と理解している。

 ただ既存の現代経済学と違って、決定版としての教科書が出来上がっているわけではない。そこでここでは私(安原)が構想する「仏教経済学」(原論)の骨子を提示したい。

 (注)現代経済学はケインズ経済学、新古典派経済学、新自由主義―の3つに大別できる。
・ケインズ経済学=イギリスの経済学者、J・M・ケインズの主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』が知られる。経済拡大のために財政赤字、「大きな政府」につながる有効需要創出策を説いた。
・新古典派経済学(通称・新古典派総合)=米国の経済学者、P・A・サムエルソンの主著『経済学』が有名で、市場原理の重要性を説き、「小さな政府」をめざすが、一方、「市場の失敗」も認め、政府による管理、規制を容認する。
・新自由主義(=新保守主義)=米国シカゴ学派のリーダー、M・フリードマンの著昨『資本主義と自由』、『選択の自由』などが知られる。1980年前後から政治の場にも登場してきた経済思想で、公的規制を撤廃し、野放図な「自由と競争」を容認する市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理を導入)をめざす。英国のサッチャリズム(サッチャー首相)、米国のレーガノミックス(レーガン大統領)、日本の中曽根ミックス(中曽根首相)から始まった。
 特に2000年以降、米国のブッシュ政権、日本の小泉・安倍政権による新自由主義路線は市場原理主義と軍事力行使が重なり合っている点を見逃してはならない。 昨今の巨大企業破綻や株暴落を含む米国発世界金融危機は、この新自由主義の破綻を意味している。

 さて私が構想する仏教経済学はつぎの八つのキーワードからなっている。「八」という漢数字は末広がりを意味しており、発展への期待をこめている。カッコ内は現代経済学の特質である。
*いのち尊重(いのち無視)
*非暴力=平和(暴力=戦争の肯定)
*知足(貪欲)
*共生(孤立と分断)
*簡素(浪費)
*利他(私利、拝金主義)
*持続性(非持続性)
*多様性(画一性)
 以下、八つのキーワードについて骨子を説明し、現代経済学との相違点を概説する。

▽八つのキーワード(1)― いのち、非暴力、知足、共生 

*いのち尊重
仏教経済学=人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべて(自然、動植物)のいのちを尊重する。仏教の不殺生戒は人間はもちろん、それ以外の動植物の無益な殺生を厳しく戒めている。
現代経済学=いのちへの視点はない。

*非暴力(平和)
仏教経済学=平和を「非戦」に限定しないで、広く「非戦を含む非暴力」ととらえる。すなわち戦争のほかに地球環境の汚染・破壊(異常気象など)、貧困、飢餓、疾病、水の欠乏、人権侵害、格差の拡大などがない状態を「非暴力=平和」ととらえる。
現代経済学=経済学者、ケインズは『一般理論』で「戦争は富の増大に役立つ」と明記し、戦争を肯定している。

*知足
仏教経済学=欲望について「足るを知り、これで十分」と心得る智慧を重視する。釈尊は「知足の人は、貧しといえども、しかも富めり」と説いた。際限のない貪欲を戒める。
現代経済学=「まだ足りない」と貪欲に執着する欲望を肯定する。

*共生
仏教経済学=地球上のすべてのいのちの相互依存関係を指している。人間は一人で生きているのではなく、宇宙(太陽を含む)、地球、自然、社会、地域、家庭、さらに他人様(ひとさま)のお陰で生かされ、生きている。つまり共生以外に人間は生きることはできない。「お陰様」という言葉はこの共生関係に感謝すること。
現代経済学=いのちのつながりという共生への観念はない。むしろいのちの孤立、分断が目立つ。

▽八つのキーワード(2)― 簡素、利他、持続性、多様性

*簡素
仏教経済学=簡素それ自体が美しいととらえる。日本文化の茶の湯は茶室、器(うつわ)、一輪挿しの生け花などにみるように簡素を旨とし、茶の湯の創始者、千利休は、「花は野にある様に生けること」と唱え、自然を生かし、季節感を大切にした。
簡素は非暴力とも深くかかわっている。 簡素は、資源・エネルギーの節約に通じる。資源エネルギーを遠隔地の海外に求める必要はないと仏教経済学は考える。だからグローバリゼーション(経済の地球規模化)ではなく、ローカリゼーション(地域主義)を重視する。
現代経済学=簡素ではなく、浪費のすすめであり、グローバリゼーションを追求する。それは暴力に通じる。米国のイラク、アフガン攻撃は石油などエネルギー確保を中東地域、中央アジアに求めている。新自由主義を信奉してきた米国は世界最大の石油浪費国、最大の地球環境破壊国である。

*利他
仏教経済学=利他という「世のため、人のため」の行為が大切で、それが結局は自分のためにもなるという仏教的行動原理。仏教経済学はこの利他的人間観を想定して、組み立てる。
現代経済学=私利(利己主義)第一の人間観を想定して理論体系を組み立てている。ここが仏教経済学とは根本的に異なる点である。こういう人間観に立つ以上、「おカネ至上主義」の拝金主義につながるほかない。

*持続性(持続可能な「発展」)
仏教経済学=「持続可能な経済社会」を重視する。いのち、自然、資源・エネルギーなどを大切にする簡素・非暴力型経済社会の構築をめざす。つまり経済社会の質的充実を追求するが、貪欲な経済成長主義(量的拡大)はめざさない。
現代経済学=経済成長にこだわる。経済成長すなわち量的拡大は持続的ではない。必ず行き詰まる。

*多様性
仏教経済学=自然、人間、社会、文化すべてが地域、民族、国によって異なり、それぞれの多様性を認め、尊重する。
現代経済学=ブッシュ大統領にみるような単独主義、覇権主義、軍事力中心主義を批判せず、擁護さえする。多様性とは縁遠い。

▽仏教経済学は市場経済、貨幣、競争をどう考えるのか

 以下では仏教経済学として八つのキーワードのほかに市場経済、貨幣、競争をどう位置づけるのかに言及したい。

*市場経済について
現代経済学、特に新自由主義の立場では「自由放任」ともいえる徹底した自由市場経済を追求する。「市場こそ万能」という考えである。しかしこの路線追求は弱肉強食のすすめでもあり、多国籍企業などの強者には有利だが、中小企業や労働者には不利である。貧困、格差の拡大を必然化する。小泉政権時代に顕著になった「構造改革」という名の新自由主義路線の巨大な「負の効果」に多くの国民があえいでいる。

 一方、仏教経済学では市場経済を肯定するが、「自由放任」の自由市場経済ではなく、社会市場経済を構想する。ここでは社会的規制、すなわち自然環境、土地、都市、教育、医療、福祉などの分野での公的規制も必要と考える。公的規制の実施主体として行政機関のほかに市民、住民も参画し、決定権を行使する。

*貨幣について
現代経済学は貨幣、すなわち市場でモノやサービスを入手できる貨幣しか念頭にない。
あるいは昨今の金融資本主義ともいわれるマネーゲーム(金融工学を駆使した野放図な利殖)のための貨幣を重視する。 

 しかし仏教経済学では経済価値をつぎのようにとらえる。
《経済(経世済民)価値=貨幣価値+非貨幣価値》
経済とは本来「経世済民」(世を整えて、民衆を救うこと)を含意している。従って経済価値は、お金と交換で入手できる貨幣価値(モノ、サービス)に限らず、お金では買えない非貨幣価値(いのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがいなど)も含むと考える。このように非貨幣価値も視野に入れて重視するのが仏教経済学である。

*競争について
 現代経済学、特に昨今の新自由主義は弱肉強食の競争で、ナンバーワンをめざす。勝ち負けがはっきりするので、一握りの勝者に対し、多数の敗者、落伍者が出る。

 仏教経済学は競争を肯定するが、それぞれの個性を磨き合う競争を重視する。ナンバーワンよりもオンリーワンをすすめる。勝ち負けを偏重しないので、落伍者もいない。ただし日頃の精進、努力を重視するので、厳しいといえば厳しい。

▽世界的な金融危機を仏教経済学的に読み解くと―

 仏教経済学の八つのキーワードを念頭に置いて、昨今の世界的金融危機を読み解けば、何がみえてくるか?

 世界的な金融危機の発端となった米国サブプライムローンの破綻とは、「低信用者層に対する高金利住宅ローン」という債権を証券会社(=投資銀行など)が証券化して売りまくり、それが住宅建設ブームの破綻によって証券が売れなくなり、大損失を発生させたことを指している。
 それが世界的な金融危機に発展している。金融工学を駆使した現代経済学の賭博的ビジネス(カジノ資本主義とも呼称)とその破綻でもある。

 この破綻を現代経済学を批判する仏教経済学の視点から表現すれば、こうなる。
 際限のない貪欲(もっともっと、「まだ足りない」)で私利(目先の暴利と拝金主義)の極地を追求し、その成れの果てに、 非持続性(=破綻)に陥った。いいかえれば私利を追い求める弱肉強食の自由競争、すなわち<新自由主義路線の飽くなき追求>によって破綻に見舞われ、地獄に転落したわけだ。こうもいえる。現代経済学にひそむ悪魔にそそのかされて、地獄に堕ちた―と。
ただこれによって新自由主義は破綻したが、死滅したとは言いにくい。

 仏教経済学は、このような貪欲そのものの新自由主義路線を批判する立場である。上記の八つのキーワードを経済社会に応用、実践し、貪欲な経済成長、私利や拝金主義を拒否する。それ故に経済、生活の破綻はない。簡素にして暴力のない、しかも質的に充実した日常生活を享受できる「現世での幸せ」をめざすのが仏教経済学である。
昨今の仏教宗派の多くは葬式仏教にみられるように現世への視点を忘れがちである。それは仏教本来の姿ではない。仏教経済学は「来世の幸せ」ではなく、「現世の幸せ」に視点を置いている。
 なお政策論としての仏教経済学の紹介は別の機会に譲りたい。


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21世紀版・小日本主義の勧め
今、石橋湛山に学ぶこと
  
安原 和雄
 第二次大戦前から「大国主義」を捨てて、その代わりに「小日本主義」への転換を唱えたことで知られる石橋湛山は戦後、首相の座を病のためわずか2か月で去らざるを得なかった「悲劇の宰相」ともいわれる。その湛山がいま、もし健在であれば、日本が選択すべき針路としてどういう構想を提示するだろうか。
 やはり21世紀版「小日本主義」を勧める構想以外には考えられない。敗戦直後の改正憲法案の9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)をみて「痛快きわまりない」と叫んだ湛山である。その湛山に学びながら、21世紀版「小日本主義」の構想について憲法の平和理念をさらに発展させ、具体化させる方向で考える。(08年5月16日掲載、同月17日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は2008年5月14日、東京・千代田区一ツ橋、如水会館で開かれた水霜会(徳田吉男会長=一橋大学、神戸大学出身者の会)の例会で「21世紀版・小日本主義の勧め ― 今、石橋湛山に学ぶこと」と題して講演した。以下にその大要を紹介する。

 まず講演の3つの柱は以下の通り。
(Ⅰ)何が問題なのか? ―世界と日本を混乱と破壊に追い込むものは
(Ⅱ)どうしたらよいのか? ―湛山の小日本主義に学ぶ
(Ⅲ)どういう日本に変革できるのか? ―21世紀版小日本主義を実践して

(Ⅰ)何が問題なのか?―世界と日本を混乱と破壊に追い込むものは
 その要旨は以下の通り。

▽ 世界最大のテロリスト集団は誰か ― もう一つの「9.11テロ」

アメリカはテロとの戦いを名目に今なおアフガン、イラクで戦争・占領を続けている。イラクでは日本も事実上参戦している。しかし世界最大のテロリスト集団は一体誰なのか。この真相を認識することが先決である。

*チリのアジェンデ政権を銃で転覆
 まず2001年米国を襲った「9.11テロ」とは別のもう一つの「9.11テロ」をご存じだろうか。
 1973年9月11日、南米チリのアジェンデ政権(当時、民主主義と社会主義を標榜し、民主的選挙で選ばれた)が銃によって転覆された。首謀者はピノチェト将軍で、それを支援したのがアメリカの外交政策とCIA(中央情報局)であった。これがもう一つの「9.11テロ」といわれる。

*米軍によるソンミ村の大虐殺
 私(安原)はベトナム解放30周年記念の年、2005年4月、作家の早乙女勝元氏を団長とするベトナム・ツアーに参加し、米軍のベトナム侵略による被害の実態をみた。
 ベトナム人の犠牲者は300万人にのぼる。しかも米軍が空から撒いた枯れ葉剤の後遺症で今なお苦しみにあえいでいる人も沢山いる。

 米軍の大虐殺として知られるベトナム中部のソンミ村を訪ねた。村人たちがまだ眠っている早朝、武装ヘリで襲い、504人が虐殺され、わずか8人だけが生き残った。米兵たちは村人1 人を殺害する度に、「一点」、「もう一点」と叫んだという。殺人ゲームそのものである。

 第二次大戦後、米軍の直接の軍事力行使あるいはアメリカ製兵器による犠牲者は世界で数千万人に上るという指摘もある。
 こうみると、アメリカ国家権力とその背後に存在する軍産複合体(軍部と兵器メーカーなどとの複合体)こそ世界最大のテロリスト集団といっても差し支えないだろう。
 アメリカの著名な言語学者、ノーム・チョムスキー教授はその著作『覇権か、生存か』(集英社新書)で「ホワイトハウスは世界残虐大賞に値する」と指摘している。

▽日米安保体制の負の効果 ― アメリカと無理心中の懸念も

 日米安保体制(=日米同盟)について正確な認識を共有することが不可欠と考える。多くのメディアでは日米同盟を肯定する傾向があるが、私はむしろその負の効果、いいかえれば危険な特質に着目する必要があると考える。
 日米安保体制(=日米同盟)は軍事同盟と経済同盟からなっている。

*日米軍事同盟に執着し、孤立へ
 まず日米軍事同盟について考える。その法的根拠である日米安保条約の第3条は日本の「自衛力の維持発展」を明確にうたい、ここから特に憲法9条2項(軍備及び交戦権の否認)の骨抜きが始まった。第5条(共同防衛)、第6条(基地許与)によって沖縄を中心に日本列島上に米軍基地網が張りめぐらされ、日本列島は米軍の出撃基地と化している。
 しかも1990年代後半から「世界の中の安保」に変質し、世界中至る所に米軍が出撃し、それを自衛隊が補完する体制が出来上がっている。その典型例が自衛隊のイラク派兵で、名古屋高裁判決(08年4月17日判決、その後確定)は9条違反と断じた。
 しかしこのような日米一体化での軍事力行使がかえってアフガンやイラクで混乱と破壊をもたらしている現状からみれば、軍事力はもはや無力となっている。にもかかわらず日米軍事同盟と軍事力行使に執着し、そのため世界の中で孤立を深める結果となっている

 日米経済同盟もまた危険な選択といえる。日米安保条約第2条(経済協力の促進)に「日米両国は、国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また両国の間の経済的協力を促進する」と定めている。これは具体的に何を意味するのか。一つは米国を源流とする新自由主義(=市場原理主義)の日本への導入で、それは弱肉強食の自由競争の激化、貧富など格差の拡大、後期高齢者の医療費負担増など税・保険料負担の増大を招いている。
それに食料・エネルギー危機さらにサブプライム・ローン(低信用者向け高金利住宅ローン)の破綻が重なって、新自由主義路線も危機に陥っている。これが世界や日本を混乱と破壊に追い込んでいる。

*泥船の運命共同体からどう脱出するか
もう一つ、指摘すべきことはドル暴落が日本に及ぼす打撃である。
 見逃せないのは、日本は米ドルの日本銀行による大量買い支えによってドル崩落の防止に一役買っており、さらにドルの買い支えなどによって増えた外貨準備(ドルが中心で、08年初頭現在で約1兆ドル=100兆円超)は米国債(ドル建て財務省証券)の大量購入によって運用され、米財政赤字の穴埋めをしている。
 大量の米国債購入は、アメリカのイラク攻撃に要する巨額の戦費調達を間接的に支援しているが、一方では近未来にも不可避とされるドル暴落によって10兆円単位の巨額の為替差損をこうむる可能性がある。

 こうみると、日米は軍事、経済両面で、いわば泥船に乗った「運命共同体」であり、このままでは無理心中となりかねない懸念が強い。ここからどう脱出するか。アメリカを支えてきた敗戦国、日独の2大国のうちドイツはイラク戦争に「ノー」を突きつけ、すでに脱出したことを想起したい。

(Ⅱ)どうしたらよいのか? ―湛山の小日本主義に学ぶ

 ジャーナリストの大先達、石橋湛山(1884~1973年、元首相、日蓮宗の信徒)は首相就任祝賀会でつぎのように述べた。「私は自分で総理になろうという考えはない。ただ日本を立派な国にしたいという一念に燃えている」と。今どきの政治家と違って立派である。ただわずか2か月(1956年12月から翌年2月まで)で病のため首相の座を去った。

 軍事力行使を中心とする大国主義が打開力を失っている今こそ、湛山が唱えた小日本主義に学ぶ必要がある。小日本主義の特質はつぎの5本柱からなっている。 
*植民地、領土拡大をめざす大日本主義のアンチ・テーゼ 
大正10年(1921年)頃から「大日本主義は幻想」であるとして、政治的、経済的、軍事的に意味がないという理由から当時の朝鮮、台湾、満州(現在の中国東北部)、樺太(現在のサハリン島の南半分)などの植民地を捨てよ!と説いた。

*軍備拡張は亡国への道
 「わが国の独立と安全を守るために軍備拡張という国力を消耗するような考えでは、国防を全うできないだけでなく、国を滅ぼす。軍備拡張という考えを持つ政治家に政治を託するわけにはいかない」と1968年に論じた。

*9条は世界に先駆けた理念として高く評価
新憲法改定案が公表されたとき、9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)をみて、「世界にいまだ全く類例のない条規である。独立国たるいかなる国もかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。痛快きわまりない」と『東洋経済新報』誌(1946年)で評した。

* 平和憲法と日米安保条約は両立不可能で、憲法理念を優先
 「日米安保条約と憲法は明らかに矛盾している。(中略)日本政府の取るべき態度はきわめて簡単明瞭に自国の憲法に立脚すればよい。これは当然である」と1960年8月の朝日新聞で論評した。

* 世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」締結を提唱
 「今日の日米安保条約は日米間だけのものだが、これを中国、ソ連にまで広げ、相互安全保障になしうれば、ここに初めて日本も安心できるし、米国、中国、ソ連とも仲良くしてゆける」と論じた。
 湛山の打診に対し、当時のフルシチョフ・ソ連首相は「原則的には全面的に賛成」と回答、周恩来中国総理は、「私も以前から同じようなことを考えていた。中国はよいとしても、米国が問題でしょう」と答えたいきさつがある。(『石橋湛山全集』第十四巻・参照)

(Ⅲ)どういう日本に変革できるのか?― 21世紀版小日本主義を実践して

 海外版小国主義=コスタリカ・モデル(軍隊の廃止、自然環境の保全、平和・人権教育)に着目するときである。コスタリカは世界でもユニークな「1949年現行憲法」で軍隊を廃止し、今日に至っている。しかも1983年「中立宣言」を行った。その柱は非武装中立、永世中立、積極中立の3つである。このうち積極中立とは、決して一国平和主義に閉じこもらないで、紛争の絶えない近隣諸国に積極的な平和外交を展開することを指しており、事実その成果として自国の平和確立、戦争拒否を貫いてきた。

 21世紀版小日本主義を構想する以上、大国主義路線(新自由主義=市場原理主義の強行、さらに憲法9条改悪による軍事国家化の推進)からの構造転換が不可欠である。その柱として以下の3つを構想する。
*「持続可能な発展」を日本がめざすべき外交、政治、経済上の新しい戦略目標として導入すること
*日米安保体制(日米軍事・経済同盟)の解体と「東アジア平和同盟」の構築を図ること
*自衛隊を全面改組し、戦力なき「地球救援隊」(仮称)を創設すること 

▽「持続可能な発展」を憲法に追加条項として盛り込む

 「持続可能な発展」(=持続的発展 Sustainable Development)を憲法に追加条項として盛り込むのは、憲法の平和理念をさらに強化するためである。
 ここでの「平和理念」とはどのような意味合いなのか。平和とは、広い意味の「非暴力」、「反暴力」のことである。戦争、紛争、テロ、殺戮がない状態は平和にとって基本的に重要だが、それだけを指しているのではない。人間性や生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―などが存在する限り平和とは縁遠い。さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊が続く限り、平和な世界とはいえない。 いいかえれば以上のような多様な暴力を追放しない限り、平和の実現は夢物語に終わることを強調したい。

 このような多様な暴力を否定し、つまり地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展である。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項として織り込むことが必要である。

 具体的試案は以下の9条と25条の2つである。
 ●9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項
 「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加する。

 戦争、軍備と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって「戦争放棄、軍備・交戦権の否認」という先駆的な理念の強化を図り、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の全面的廃絶と顕著な軍備縮小に取り組む姿勢を明示する。

 次の点を補足しておきたい。
 一つは湛山が現行憲法9条と日米安保体制(=日米軍事同盟)とは矛盾するという観点から、9条を生かすことを優先させるべきだと説いたことである。湛山の9条尊重論が小日本主義と結びついていることはいうまでもない。9条に持続的発展を新たに盛り込むことは湛山の小日本主義の今日的発展を意味する。

 もう一つ、9条の世界的意義は世界のさまざまな人びとによって高く評価されていることである。日本人の多くが考えている以上に9条堅持とその理念の積極的活用に対する海外の期待は大きい。
最近の事例としては「9条を世界に広めよう」を合い言葉とする「9条世界会議」が08年5月4~6日開催された。主会場の千葉・幕張メッセには海外からも含めて約2万人、このほか広島、大阪、仙台で計1万人、総勢3万人超が集まり、「9条世界宣言」を世界に向けて発信した。

 ●25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項
 「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加する。

 この追加条項は従来の経済成長路線(=大量生産・消費・廃棄→地球環境の汚染・破壊→生命共同体の崩壊)、さらに拝金主義という名の「貪欲(=暴力)路線」との決別を明確にし、新たな「持続的な経済」を志向する。これは同時に脱・成長経済、脱・石油浪費社会、すなわち簡素な経済を意味しており、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などの「知足(足るを知ること=非暴力)路線」をめざす。

 この脱・石油浪費社会、脱・成長経済は、「持続的な経済」(=簡素な経済)の2本柱であり、従来の経済構造を根本から変革することをめざすものである。
 誤解が予想されるので、若干補足すると、持続的な経済、すなわち脱・成長経済は決して貧困への道ではない。逆にむしろ従来型の成長経済こそが量的過剰のなかの質的貧困を意味している。
 なぜならGDP(国内総生産)で計る成長経済はモノやサービスの量的拡大(廃棄物、ごみの大量生産などを含む)を意味するだけで、そこに質的豊かさ(いのちの尊重、自然の豊かさ、ゆとり、安らぎ、人と人との絆、人間としての誇りなど)は一切含まれないからである。持続的経済は経済成長率を高めることは追求しないが、質的豊かさの実現を重視する。

 9条が追加条項も含めて安全保障、外交上の平和(=非暴力)を志向するのに対し、25条の追加条項は経済社会の平和(=非暴力)の構築を意図している。

 以上2つの追加条項は、憲法前文にすでに明記されている平和的生存権(注)と一体となって、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものである。この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台となる。
(注)憲法前文は平和的生存権として「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とうたっている。恐怖とは戦争であり、欠乏とは貧困であり、このような暴力から免かれることが平和を意味する。イラク派兵を憲法9条違反としたあの名古屋高裁判決は、この平和的生存権について「すべての基本的人権の基礎にあって、その享受を可能にする基底的権利」と認めた。

▽ 日米安保体制(=軍事・経済同盟)の解体、「東アジア平和同盟」の構築

 憲法9条の平和理念は日米安保体制(=日米軍事同盟)の戦争志向とは根本的に矛盾・対立している。したがって9条を守り、その理念を取り戻すためには日米安保体制を解体することが前提となる。
 念のためつけ加えれば、日米安保条約10条(条約の終了)は「いずれの締約国も、条約終了の意思を通告することができ、その通告の1年後に条約は終了する」と定めている。つまり国民の意思で日米安保を解体することができる。

 しかもアジアと世界の平和を確かなものに創るためには「東アジア平和同盟」の結成が不可欠である。これは湛山の「日中米ソ平和同盟」構想の21世紀応用編である。
 東アジア平和同盟のメンバーは日本、中国、韓国、北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国、東南アジア諸国連合(ASEAN=加盟国はタイ、マレーシア、フィリッピン、インドネシア、シンガポールなど)などが考えられる。これは「東アジア共同体」構想(04年11月、ASEANプラス日中韓の首脳会談で確認)を土台とするもので、湛山の「日中米ソ平和同盟」のメンバーと同一ではない。

 日米安保の解体と東アジア平和同盟の結成はなにをもたらすか。
・東アジアからの米軍基地撤退と東アジア非核化を可能にする
・長期的にはコスタリカ方式の「非武装・積極中立」を視野に置く。
・日米軍事同盟の仮想敵は目下のところ、北朝鮮だから、南北朝鮮の統一ができれば、日米軍事同盟の存在意味がなくなる。

▽ 自衛隊の全面改組、戦力なき「地球救援隊」(仮称)の創設  

 慶応大学で04年12月、「仏教経済学と地球環境時代」というテーマで講義をしたとき、「地球救援隊」の構想を提案したら、ある女子学生は「私も同じことを考えていた」と感想文に書いた。

 なぜ非武装の地球救援隊なのか。
 第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては対応できないことは改めて指摘するまでもない。
 第二は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)を超える巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては浪費の典型である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える効果しかない。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではない。そこから登場してくるのが戦力なき地球救援隊構想である。その概要は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守るために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を生かす構想であること。
・地球救援隊の目的は非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。
・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質の改革を進めること。
 兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
 防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員は約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援の訓練とする。

 (注)ミャンマーを襲った超大型サイクロンと中国四川省の大地震
 08年5月2日夜から3日にかけてミャンマー中・南部を直撃した超大型サイクロンの被害は死者10万人説、食料不足数百万人、コメ産地壊滅によるコメ価格急騰(平年の2倍に) などと伝えられる。
 一方、5月12日発生した中国四川大地震では15日現在、被災者1000万人超、このほか死者5万人超、生き埋め、行方不明者合わせて10万人を超えた。
 2つの大災害ともに「道路寸断、救援届かず」と報じらたことからも分かるように空路救援のための多数の「人道ヘリ」が必要である。

 このような地球救援隊の創設は、軍隊を捨てたコスタリカ・モデル応用の日本版である。
武装組織である自衛隊の全面改組を前提とするこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における平和、すなわち非戦モデルの構築が不可欠であり、そのためには日米安保体制の解消、東アジア平和同盟の締結が前提となる。
 日本国憲法9条の平和理念に対する世界の期待が大きい折だけに、この構想の具体化は日本が世界の対立と恐怖を超えて、和解と共生を促す先導的役割を果たすことにもなるだろう。


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知足と簡素な生活のすすめ
脱「経済成長」が時代の要請

安原和雄
 私(安原)は07年7月23日、日本プレスセンタービル(東京都千代田区)内で開かれた「仏教経済フォーラム」定例研究会で「知足と簡素な生活のすすめ」と題して講話を行った。
 安倍首相は今回の参院選で「成長を実感に!」などと相変わらず経済成長主義に執着しているが、経済成長によって資源エネルギーを浪費し、地球環境の汚染・破壊をさらに進めていくことはもはや許されない。ゼロ成長でもよし、と考える脱「経済成長」こそが時代の要請であることを強調したい。そういう脱「経済成長」時代には「消費こそ生活の目的」と考える従来の「消費主義」病を克服し、知足と簡素な生活への転換が求められる。(07年7月24日掲載、同月26日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)     

▽戦争病、消費主義病にとりつかれたブッシュ米大統領
 「消費は生活の目的ではない」といったら「えっ、なぜ?」という反応を示す人と、「そんなこと、当たり前」と答える人とどちらが多いだろうか。残念ながら前者の消費主義信奉者たちが多数派であることは疑問の余地がないだろう。
 小泉純一郎前政権のキャッチフレーズは「改革なくして成長なし」であった。安倍晋三政権(06年9月発足)のそれは「成長なくして日本の未来なし」である。どちらも政策目標として経済成長の旗を掲げている。経済成長を計る尺度であるGDP(国内総生産=最近では年間約530兆円の規模)のほぼ6割は個人消費であり、この個人消費の増大なしには経済成長もおぼつかない。 

 もちろん消費拡大志向は日本に特殊な現象ではない。むしろ米国がその本場といってよい。「我々の時代は消費主義と定義される」という認識に立つ米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004~05』は次のように述べている。
 「所有して消費したいという衝動は、いまや多くの人々の精神を支配し、かつては宗教や家族、共同体が占めていた精神のある部分もこうした衝動に浸食されている。消費は個人の成功度を測る一般的な基準になった」と。 
 このことは消費主義は、いまや「病」とも称すべき症状を呈するに至ったことを示している。
 あの戦争病にとりつかれたブッシュ米大統領が「9・11テロ」(2001年)の後、「テロを恐れることなくショッピングセンターに出掛け、買い物をすることが愛国者としての義務だ」と勧めたというエピソードが語り継がれている。テロとの戦いを宣言したブッシュ大統領も消費主義病との戦いまでは思いつきもしないらしい。大統領自身が消費主義病にとりつかれているからであろう。

 消費主義病を克服する処方箋は何か。以下の4本の柱を中心に考える。
1.「消費主義」病、それを促す経済成長主義
2.「豊かな生活」の再定義―消費者たちの反乱
3.知足のすすめ―「消費者の選択」の再定義
4.簡素な生活のすすめ―非暴力を求めて

(前出の仏教経済フォーラム=寺下英明会長、安原和雄副会長=は知足、共生、中道を合い言葉に仏教経済思想の形成と普及をめざす自主的かつ開かれた集まりで、宗派にこだわらず、入会、退会ともに自由である)

1.「消費主義」病、それを促す経済成長主義

 ここではまず消費主義病がどのように広がりつつあるか、その一端を報告し、その背景に経済成長主義が相変わらず根を張っていることを指摘する。

*中国の自動車保有台数がアメリカを抜く日
 02年には約1000万台の自家用車が中国の道路を走り、その保有台数は急増し、2015年には保有台数は1億5000万台になるという予測もある。これはアメリカの1999年の自動車保有台数を1800万台も上回る。

*アメリカを中心に広がる消費主義病
 大量消費社会の積極的な追求は、多くの国の国民健康指標の低下をもたらしている。次のような「消費主義病」が急増しつづけている。
・喫煙による死亡
 数百億ドルもの広告によって促進されている消費習慣の喫煙は世界中で毎年500万人の死亡に関係している。
・太りすぎと肥満症
 太りすぎと肥満症―栄養の偏った食生活と運動量の少ないライフスタイルの結果である―は、全世界で10億人以上を苦しめており、日々の生活の質を低下させ、社会に莫大な医療コストを課し、糖尿病の急増を招いている。アメリカでは成人の推定65%が太りすぎ、または肥満症であり、これに関連する死亡は年間30万人に達している。
・体が大きくなりすぎたアメリカ人
 アメリカ人そのものも大きくなっている。実際、体が大きくなりすぎたアメリカ人のニーズを満たすために数十億ドル規模の産業が出現している。特大サイズの衣類や、より頑丈な家具、さらには特大の棺などを供給する産業である。

*「消費主義」病を促すもの―経済成長主義
 先進国の生活習慣となった大量消費、そして消費主義病を蔓延させている元凶は何か。その答えは経済成長主義にほかならない。経済成長とは、GDP(国内総生産)の量的拡大を意味しており、その大半を個人消費が占めている。いいかえれば個人消費の増大なしには経済成長もむずかしい。経済成長主義が消費主義病を促し、逆に消費主義病が経済成長主義を増幅させる。こうしていまでは経済成長主義は一種の宗教にさえなっている。  
 次の指摘は的確である。「際限のない消費による継続的な経済成長が信奉されている様子は、まるで現代の宗教である。企業幹部は株主の期待に応えるために、政治家は次の選挙に勝つために、経済成長を目標に掲げる」(同『地球白書』)と。

2.「豊かな生活」の再定義―消費者たちの反乱

 ここで問うてみたい。「消費の拡大は果たして生活を豊かにし、人々に幸せをもたらしているのか」と。結論からいえば、「ノー」であり、豊かな国、すなわち所得の多い国では「所得増・消費増と幸せは一致しない」という調査結果がある。
 たとえばアメリカでは1957年から2002年までに個人所得は2倍以上に増えたが、意識調査で「大変幸せ」と答えた人の割合はこの期間を通じてほとんど変化していない。いいかえれば、すでに所得が多く、富裕になっている人々には「幸福はお金では買えない」という古い格言が生きている。
 ここから「豊かな生活」とは何か、という豊かな生活の再定義への試みが高まってきた。従来の経済成長主義、消費主義に対する消費者たちのささやかな反乱である。

▽生活の質の向上
 再定義から導き出される豊かな生活とは、「財貨の蓄積」ではなく、「生活の質の向上」にほかならない。要するに経済成長主義、消費主義とは異質の豊かさの追求である。

 その「生活の質の向上」は次のような柱からなっている。
*生存のための基本的条件=食料、住居、安定した生計手段などを含む
*良好な健康=個人の健康と自然環境の健全性を含む
*良好な社会関係=実感できる社会的結束と、実感できる助け合いの社会的ネットワークとを含む
*安全=身体的安全と個人的所有物の安全を含む
*自由=潜在能力(注)を実現する機会の保障を含む
 (注)潜在能力(Capability)とは、アマルティア・セン博士(1933年インド生まれ、1998年度ノーベル経済学賞受賞)独自の概念で、くだいて言えば、様々なライフスタイルを実践できる真の自由を指している。いいかえれば、財やカネの量で示されるのではなく、生活上の様々な選択肢に対する自由度によって測られ、その自由度が大きいほど生活の質が高いことを意味する。だから「潜在能力」という表現よりも「選択の自由度」の方が分かりやすいかもしれない。
 例えば財産家でも病弱であれば、その制約を受けて選択の自由度は低い。さらに飢餓と断食の例では、食事をとらない点では同じだが、飢餓は意に反して強制されるもので、そこには選択の自由はない。ところが断食の場合、食事を自由に選択できるにもかかわらず、あえて断食を選択するので、潜在能力の視点に立てば、断食のできる人は生活の質が良いということになる。

 以上の「生活の質」の柱は、日常感覚では次のように表現できる。
*日常の活動がゆったりと展開され、ストレスが少ない 
*家族、友人、隣人とのより親密な交流がある
*より直接的な自然との「ふれあい」ができる
*人々が財貨の蓄積よりも充足と創造的表現へのより強い関心を抱いている
*自分自身の健康、他の人々の健康、自然界の健康を損なうような行動を避けるライフス タイルを重視する

3.知足のすすめ―「消費者の選択」の再定義

 生活の質の向上を実現し、日常生活に定着させるには何が必要だろうか。東洋思想の知足(=足るを知る)の精神に着目したい。

▽老子の「足るを知る者は富めり」
 特に注目したいのはアメリカ人の手になる『地球白書2004~05』が「消費者の選択」の再定義に関連して、東洋思想である「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように述べている。

 消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味するものと再定義されるべきである。個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。1つの指針は中国古代(前4世紀)の哲人、老子の「足るを知る者は富めり」という教えである―と。

 また老子は「禍は足るを知らざるより大なるはなし」(戦争の惨禍の原因は支配者が強欲、すなわち貪欲で、足ることを知らないのが最大である、という意)とも説いた。この今日的意味を一番理解して欲しい支配者は、いうまでもなくブッシュ米大統領であろう。貪欲そのものの姿勢がイラク攻撃のような軍事力行使に駆り立てているからである。

▽釈尊の「知足の人は貧しといえどもしかも富めり」
 知足の精神の重要性は、釈尊(前563~前483。古代インドのシャカ族の出身で、仏教の開祖)も力説した。その趣旨は次の通りである。

さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。お金が十分なくても足ることを知り、感謝して暮らすことができる人が一番富める人である。足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知らない人は、5欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から、憐れな人だと思われる。

 以上、知足にまつわる古代東洋思想を紹介した。ただ注意を要するのは、今日的な知足の精神とは何を意味するのかである。今日の地球環境の保全を最重要な課題とする地球環境時代に知足を説くことはどういう意味をもっているのか。果たして先進国・富裕国も貧しい発展途上国も一様に知足の心が求められるのかというテーマである。

▽先進国でこそ知足の精神の実践を
 知足の実践には環境保全(=持続可能性)と社会的公正(=格差の是正)という2つの命題を両立させることが重要である。

 具体的には欧米、日本など西側世界の大量消費を維持し、一方、発展途上国の貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別)」を是認することはできない。
 環境保全と社会的公正を両立させるためには、先進国の豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制し、知足の精神の実践が不可欠である。いいかえれば持続可能性の範囲内に貪欲を抑え込むことが不可欠である。

 ただ先進国内でも特に日米では所得面で格差が拡大しつつある。貧者の増大、すなわち「生活の質の向上」の前提となる生存のための基本的条件に恵まれない人々の増大である。この格差を放置したまま、一律に知足の心を説くわけにはいかない。
また中国やインドなども今では高度成長を遂げつつあり、消費水準も急速に高まりつつある。発展途上国の消費水準の向上は、必要であるとしても、あくまでも環境保全に必要な持続可能性の範囲内に収める必要があるだろう。

4.簡素な生活のすすめ―非暴力を求めて

 消費主義が豊かな生活をもたらさないという事情を背景に大量消費社会からの離脱の動きが始まっている。それは草の根レベルで高まりつつあり、欧米、日本では簡素・質素な生活(シンプルライフ)を求め、実行する人々が増えつつある。これは知足の精神、非暴力の日常的な実践といってもよい。

▽4Sをめざすライフスタイル
 シンプルライフとは従来の大量消費型購買習慣の見直しだけでなく、ライフスタイル全体の簡素化をめざしている。スローガン風にいえば、4S(Simple Slow Small それにSmileの4つのS)運動と位置づけることもできるだろう。4Sとは「簡素で、ゆったりと、身の丈に合った暮らしを追求する。同時にほほ笑みを忘れない、一種の利他主義の実践」という生き方を意味する。
 これはわが国でいえば、新保守主義的な自由市場原理主義に立つ小泉流構造改革、さらにそれを継承発展させると宣言している安倍流構造改革とは180度異質の「もう一つの構造改革」である。以下では日本がもっと学ぶべき欧米での具体例を紹介しよう。

*アメリカで増えるLOHAS(ロハス)消費者
 アメリカでは健康と環境に配慮した生産物の購入に関心をもつ消費者が膨大な数に達しており、市場調査では「注目すべき消費者たち」として認知されている。LOHAS消費者(Lifestyles of Health and Sustainability:健康と持続可能性にかなうライフスタイルを追求する消費者)と呼ばれる人々で、環境への負荷の少ない小型蛍光電球や太陽電池、また生産者に正当な報酬が支払われる公正取引の対象であるコーヒーやチョコレートなどに関心をもつ。
 この種の消費者はアメリカの成人人口の3分の1を占め、2000年にその購入総額は約2300億ドル(約27兆円)にのぼった。これは同国の総個人消費の約3%に当たる。

*自転車専用路網を増やしているオランダとドイツ
 オランダ、ドイツは自転車専用路の建設や自転車を優先する信号の設置など、自転車利用を安全にするためのインフラ整備に投資している。オランダは過去20年間に自転車専用路網の総延長を2倍に増やし、ドイツは3倍に増やした。
石油をエネルギー源とする車社会はすでに崩壊過程に入っていることを認識する必要がある。人口13億人の中国の車社会への新規参入がこの崩壊過程に拍車をかけている。
 石油資源に限界があること、車の走行によって放出される膨大な二酸化炭素(CO2)による地球環境の破壊(地球温暖化、異常気象など)、多数の交通事故死(年間の死者は日本1万人以下、アメリカ約4万人)、巨額の必要コスト(道路整備、騒音防止など)―がその理由である。先進国では公共交通機関(鉄道、バスなど)、自転車、徒歩重視への転換競争が始まっている。一番出遅れているのが日本である。

▽ミサイル技師からシンプルライフへ
 米国におけるシンプルライフ実践のはしりともいえる人物を紹介しよう。
 『核先制攻撃症候群』(岩波新書)の著者、R・C・オルドリッジ(1926年生まれ)で、1973年米国最大の兵器メーカー、ロッキード社の弾道ミサイル設計技師を辞職し、平和活動家に転身した人物である。辞職の理由は、当時のペンタゴン(国防総省)の核政策が先制攻撃戦略(核攻撃を受ける前に相手の核ミサイル基地を叩く戦法)に転換したことにあった。その後広島で開かれた原水爆禁止世界大会などへの出席のため来日したこともある。
 彼は当時を追想して書いている。「快適に暮らせる毎週のサラリーがなくなって、まず手がけたことは、今までより贅沢を切りつめた生活すること。お金もかからず、それに環境保護にもかなう料理法による、さまざまな食事をやってみるようになった。それが次第に日常のパターンとして定着した。つまり質素に暮らすということ」と。

 さて今の時点で考えてみるべきことは、彼のシンプルライフがどういう意味をもっているのかである。彼自身、次の諸点を挙げている。
(イ)資源や食糧の配分の不公正を改善するのに貢献すること
 われわれ一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つ。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の94%に向かって、(食糧や資源を不当に収奪する形で)暴力を加えていたことを意味する。地球上の8人に1人が飢餓に直面している。今日の世界で死んでいく人びとのうち3人に1人は、飢えによる。世界の食糧が不足しているわけではない。問題は配分の不公正である。

(ロ)平和をかき乱す貪欲を一掃することができること
 必要としている物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。私はキリスト教徒だが、次のような仏陀の教えが実に説得力を持っている。

欲求は利益の追求をうながす。 利益の追求は欲情をうながす。
欲情は執着をうながす。執着は貪欲とより大きな所有欲をうながす。
貪欲とより多くの所有欲とは、所有物を見張り、監視する必要をうながす。
所有物の見張りと監視から、多くの悪い、よこしまなことが起こる。殴り合い、喧嘩、口論。中傷、うそ。
これが、めぐる因果の鎖である。欲求がなければ、利益の追求や、欲情や執着や貪欲や、より大きな所有欲があり得ようか?
己の所有欲というものがなかったとしたら、静かな平和がやってくるのではないか?

以上の仏陀の教えを紹介した後、次のように述べている。
 「これこそ、われわれの家庭や社会や、さらには国際関係のありさまをよく描いているではないか。因果の鎖を自覚し、質素に生活することにすれば、われわれはいつかは、われわれの本性から貪欲を拭うことができるはずである」と。

(ハ)自分の生活様式を私利中心でないものに改めるよう努めていること、いいかえれば利他主義実践への意欲
具体的には以下のような諸点を挙げている。
*既成の社会的な枠を変えるための非暴力的手段を模索し、かつ兵器こそ安全保障と雇用をもたらすという神話を追放するために活動している。
*アメリカ政治のあり方には同意できないが、この国を愛している。この祖国愛があるからこそ、利潤や権力への飽くことのない渇望にかられた軍産複合体(注)が、アメリカ国民に向けて繰り返し吐き続けている嘘(うそ)やごまかしを暴露しなければならない。
 (注)軍産複合体とは、巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体を指しており、いまではアメリカの政治、外交、軍事を牛耳り、戦争を主導するほどの影響力を持っている。軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、大統領の座を去るに当たって全国民に向けたテレビでの告別演説で警告を発してから、一躍その存在が浮かび上がった。

 ここでは愛国心があるからこそ、軍産複合体と対決し、批判するという姿勢、生き方に着目したい。日本では保守政治家などが戦争のための愛国心育成を主張し始めているが、これとは異質の愛国心には大いに学ぶ必要があるのではないか。

 上述の簡素な行動こそ、貪欲(=不公正、収奪、暴力を意味する)の対極に位置する知足であり、持続可能性の追求であり、非暴力の実践であろう。特にR・C・オルドリッジのシンプルライフは反戦、反核、反権力への志向と重なり合っている。しかも注目すべき点はキリスト教徒であるにもかかわらず、仏陀の教えが、彼の思考と行動の支えとなっていることである。

▽脱「経済成長」をどう考えるか?
 講話後、質疑応答を行った。その一つを紹介する。
問い:脱「経済成長」、つまりゼロ成長でもよし、いわれるが、人間に成長が必要であるように、経済も成長しなければ、行き詰まると思うが、どうか。

答え:たしかに人間には成長が必要である。しかしその成長は50歳の実年を迎えてなお体重が増え続けることではない。体重が増え続けることは健康上もマイナスが多い。必要なのは人間的成長、つまり人間としての質的成長である。

 さて経済成長とは、経済規模の量的拡大を指している。質的充実とは無関係であることを理解する必要がある。経済成長はGDP(国内総生産=個人消費、公共投資、民間設備投資などで構成)という経済概念によって計るが、その質は問わない。ただ量だけが問題である。人間の体重が増えても、それが人間的成長とは無関係であるのと同じである。

 日本の年間GDPは現在500兆円を超えている。いわば成熟経済の規模に達している。この経済規模は米国に次いで世界第2位という巨大さで、この規模を毎年維持するのがゼロ成長であり、毎年増やしていくのがプラス成長である。
 ゼロ成長、つまり毎年500兆円という新しい富を創出するだけでも莫大な資源エネルギーが必要であり、それが地球環境の汚染・破壊につながる。ましてプラスの成長を追求すれば、資源エネルギーの浪費、環境の汚染・破壊に拍車がかかる。
ゼロ成長経済の下でも優れた企業は勝ち残るし、企業倫理に欠ける企業は没落していく。プラス経済成長下でも同じである。プラス成長がなければ、企業は行き詰まると考える必要はない。

 重要なことは経済成長ではなく、経済の質的な充実、すなわち「豊かな生活」の再定義から導き出される「生活の質の向上」をどう実現するかである。「生活の質」の柱として挙げられている5項目のうち、次の2項目の意味を考えてみたい。

*良好な健康=個人の健康と自然環境の健全性
*良好な社会関係=実感できる社会的結束と、実感できる助け合いの社会的ネットワーク
この健康や社会関係は、市場でお金で購入できる性質のものではない。例えば健康を維持するためにはお金が必要であるが、健康そのものをコンビニで買うことはできない。このようなお金で買えないモノはGDP(国内総生産)には計上されない。しかし生活の質を向上させるためにはお金で買えない、いいかえればGDPに計上されない良好な健康や良好な社会関係などが不可欠である。
 だから経済成長がなければ、「豊かさ=生活の質の向上」を実現できないと考える必要はない。それはGDP概念で計る「経済成長」に対する誤解からくる錯覚である。 


(本稿はワールドウオッチ研究所編『地球白書』に負うところが大きい。また拙論「知足とシンプルライフのすすめ―〈消費主義〉病を克服する道」=足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号・07年1月刊に所収=が下敷きとなっている)

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知足の思想をどう広めるか?
貪欲から知足へ大転換を(つづき)

安原和雄
 私は07年2月20日国際文化会館(東京・港区六本木)で開かれた「グローバルジャパン特別研究会」(米欧亜回覧の会=泉 三郎理事長=主催)で「貪欲から知足へ大転換を―仏教経済思想に立って」というテーマで講話した(その内容は「貪欲から知足へ大転換を」と題して、07年2月22日仏教経済塾に掲載)。引きつづき講話をめぐって約1時間、活発な質疑応答が行われた。その〈Q&A〉の趣旨を以下に紹介したい。(07年2月25日掲載)

▽知足の思想を若者たちにどう広め、理解して貰うか?

Q 知足という考え方は今の時代に必要であり、これをぜひ広く普及させたいと考える。日本に昔からある考え方で、高齢者の間ではそれなりの理解があり、受けいれられやすいと思うが、若い人たちにはどうだろうか。果たして受けいれられるのかどうか、そこが気になるところである。どうしたらよいか。

A ご指摘の通りで、結論を一口にいうと、このまま貪欲路線を突っ走って、もう一度日本は滅びる以外にないのかな、という印象、思いもある。小泉純一郎前首相は「自民党をぶっ壊す」と言った。これが大きな反響を呼んだが、安倍晋三現首相の場合、日米一体化路線をこのまま進めば、「日本をぶっ壊す」結果となり、非常に危険な人物になるのではないかという危惧がある。

 安倍政権は教育基本法はすでに改悪したし、やがて憲法9条も改悪して、正式の軍隊を持ち、「世界の中の日米軍事同盟」の一翼を担って海外派兵も辞さない方針である。これは世界の中で孤立するほかない選択であり、これをどう避けるかが大きな課題である。
ここで見逃せないのは、若者たちの間にも時代を見据えた考え方がみられることである。悲観一方になる必要もないような気もする。

 以前、慶応大学で「いのちの尊重と仏教経済思想ー地球環境時代に生きる智慧」というテーマで講義をしたことがある。講義を聴いて書いた学生の感想文によると、女子学生の一文に「仏教経済思想は初めて聴いたが、これからの時代に合っている」とあった。概して女子学生の感想文に未来に生きる意欲を感じさせるものが多かった。私は「21世紀は女性の時代」という印象を抱いている。

 それに私は歴史は激変するということを時折考える。個人の経験からいうと、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊したのが1989年で、その前年に西独政府の招待でベルリン等を訪ね、政府関係者に「東西統一の可能性」について聞いたことがある。その答えは「近い将来とても考えられない」だったが、1年後にベルリンの壁が壊れ、やがて統一も実現した。大方の予測を超えるスピードで歴史は望ましい方向に激動したのである。

 日本の歴史をみても、激変の具体例は少なくない。幕末に坂本龍馬らがいち早く幕藩体制の崩壊を予測し行動したが、それは民衆多数派の支持があったからではない。また太平洋戦争の敗北後に平和憲法体制ができることを戦争末期に日本人の誰が予測しただろうか。
 要するに時代の変わり目には多くの人々にとって予見できない、予想外の事態が発生して新しい時代に変化すると、急速に少数派が多数派に変化する。知足への自覚と実践も急速に広がる可能性もあり、そう悲観する必要もないようにも想う。

▽少子化問題は仏教経済思想ではどう理解するのか?

Q 少子化によって日本人口が減少するという予測が一般的になっている。少子化が進むと、労働人口の減少のほか、高齢者に対する若年層の比率が低下し、高齢者の年金を誰が負担するのかなど問題が少なくない。仏教経済思想ではこの問題をどう考えるのか。

A これは仏教経済思想が家庭や仕事をどのように考えるかという問題とつながっている。柳沢厚生労働相が女性を「子どもを産む機械」と発言して批判を浴びた。この「機械」発言は論外であるが、仏教経済思想は家庭の役割を重視していることを指摘したい。
 ドイツの経済思想家、シューマッハーの著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、原文=英文は1973年刊)は仏教経済学を論じながら次のように述べている。

 「会社や工場で婦人が大規模に雇用されているのは、経済運営の重大な失敗のしるしとみられる。とりわけ幼い子どもを放任して、母親を工場で働かせるのは、熟練労働者を軍人として使うのが現代経済学者の目に不経済に映るのと同様に、仏教経済学者からみて不経済である」と。

 いいかえれば仏教経済思想は女性が子どもを産み、育てることは女性にとって誇るべき偉大な仕事であると理解している。この点は男性にとっては逆立ちしても女性には敵わないところである。いうまでもなく仏教は男女平等の原則を堅持し、女性の社会進出も是認し、歓迎する。さらに夫婦そろって子育てに取り組むことも重要だと考える。しかし他方で男女それぞれの特性、差異をも重視する。

 さて仏教経済思想は仕事をどのようにとらえているか。著作『スモール イズ ビューティフル』は、仕事の役割について仏教的観点から次の3点を指摘している。
①人間にその能力を発揮・向上させる場を与えること
②仕事を他の人々と共にすることを通じて自己中心的な態度を棄てさせること
③まっとうな生活に必要な財とサービスを造り出すこと

これが人間を生かす仕事本来の望ましい姿といえよう。しかし現実は大きく異なる。同著作は次のように述べている。
 「仕事を労働者にとって無意味で退屈で、いやになるような、ないしは神経をすりへらすようなものにすることは、犯罪すれすれである。それは人間よりもモノに注意を向けることであり、慈悲心を欠くことである」と。
 文中の「人間よりもモノに注意を向ける」の「モノ」の代わりに「利益」を置き換えれば、成果主義、サービス残業、労働強化を背景に過労死、ノイローゼ、転職が多発している我が国昨今の職場実態と余りにも似通ってはいないだろうか。

 少子化に伴う人口減少に企業などが懸念を抱いているのは、労働力不足となって、賃金コストの上昇を招くからだろう。労働力過剰の状態がつづけば、失業者は高水準となり、それが賃金や労働条件の低下、悪化をもたらす誘因となる。これが競争激化、弱肉強食を必要と考える自由市場原理主義者たちの望むところだろう。しかしこのような利益中心の企業の都合を優先させて、少子化、人口減少問題を取り上げるのは適切ではない。

 もはやかつての戦前のような「産めよ、増やせよ」という時代ではない。自己決定権は夫婦にあり、結果として人口減少となっても、それを問題視するのはおかしい。年金問題は、企業の定年延長などによって元気な高齢者に就業機会を保障すれば対応できるのではないか。
 ただ子どもを産みたくても産める社会的環境にないという背景からくる昨今の少子化問題は、決して好ましいこととは考えない。

▽中国、インドの高度経済成長路線をどう考えるか?

Q 最近の中国、インドの経済成長、経済発展はすさまじいものがある。まさに貪欲路線を突っ走っているといっても過言ではないだろう。日本だけがいくら貪欲から知足への大転換を図っても、この両国が路線を変えない限り、効果は期待できないのではないか。このままでは地球も人類ももたない。

A まさにご指摘の通りだと思う。2020年のGDP(国内総生産)は中国が米国を抜いてトップに躍り出るし、インドは日本を追い越して3位に急上昇するという予測もある。この両国は人口大国(中国人口13億人、インド人口10億人)であり、かりに米国並みの消費主義にとりつかれたら、地球環境破壊が深刻になるのは避けられないどころか、地球がいくつあっても足りないとさえ言われている。

 ただ若干の救いがあるのは、中国自身が環境問題の深刻さに気づいて、対応策に乗り出そうとしていることだ。それぞれの国が自国の針路のあり方、そして路線転換には責任を持つべきだろう。日本としては率先垂範を実践すべきで、貪欲から知足への大転換の日本モデルをつくりたい。それを日本の責務と考えたい。

 問題は米国ではないか。ブッシュ政権になってから、地球温暖化防止のための国際取り決めである京都議定書へのサインを拒否し、離脱した。貪欲そのものの身勝手な振る舞いで、ここから米国の世界の中での孤立化が顕著になってきた。軍事力依存症のブッシュ政権が歴史の大道をいかに踏み外しているかを世界に印象づけたともいえる。

 ただ米国内にも期待すべき要素はあちこちにみられる。一例をあげれば、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004~05』(家の光協会)が「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように指摘している。

 「消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味する。個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。すべての人は重要な問いの答えをみつけることを学ばなくてはならない。それは〈どれだけあれば足りるのか〉という問いである。考慮に値する一つの指針は、中国の哲学者、老子の〈足るを知る〉という教えである」と。
 貪欲なブッシュ政権の面々に比べ、知足、簡素を尊び、実践する市民レベルの消費行動が米国内で静かに広がりつつあることに目を向けたい。

▽人口急増、飢餓、貧困に悩む発展途上国での知足のあり方は?

Q 世界全体の人口は急増している。主として発展途上国での急増で、先進国の多くでの少子化現象とは対照的である。しかも発展途上国では飢餓、貧困が広がっている。こういう状況下では知足はどう考えたらよいか。

A 飢餓に苦しむ人々は発展途上国を中心に世界全体で8~10億人といわれる。全世界で7人のうち1人は飢餓に苦しんでいる。しかも貧困に陥っている状態ではもちろん知足は必要ではない。
 貪欲を否定し、一方、知足を是認し、勧めるといっても、何を基準に貪欲あるいは知足を判断するか、ここが問題である。政策論として考える場合、単に欲望のあり方として「知足=これで十分」、「貪欲=まだ足りない」と認識するだけでは心の問題、精神論の域を出ない恐れがあるだろう。

 私は「持続的発展=持続可能な発展」(Sustainable Development)を示す多様な条件を客観的な判断基準に据えて、それを否定したり、はみ出すのが貪欲、一方それを肯定したり、その範囲内に収まっているのが知足、と捉えるのが合理的ではないかと考える。

 持続的発展の内実を示す多様な条件のうち、いくつかをあげると、次のようである。
*地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
*長寿と健康な生活(食料、住居、健康の基本的水準)の確保
*基礎教育の達成
*就業機会の保障と人的資源の浪費の解消
*特に発展途上国の貧困の根絶
*経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放
*持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
*核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消

 以上の諸条件を応用する具体例をあげると、飢餓や貧困は「長寿と健康な生活の確保」、「発展途上国の貧困の根絶」にはほど遠い状況で、知足を実践しなければならい段階に至ってはいない。だから飢餓や貧困に苦しむ人々に知足を強いるのは、見当違いである。

 一方、知足の実践が必要不可欠なのは米日欧の先進諸国である。米国に象徴されるように「いのちの尊重」を無視して、軍事力による殺戮を続けるのは、犯罪そのものの貪欲である。
 「経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放」、「持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止」、「核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消」という条件のいずれにも不熱心なのが特に日米である。貪欲そのものであり、時代の要請から大きくずれている。日米が世界の中で孤立しつつある背景には根深いものがあるといわなければならない。
(以上、仏教経済塾への掲載に当たって説明に加筆補正した)


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貪欲から知足へ大転換を
仏教経済思想に立って                   

安原和雄
 私は2007年2月20日、国際文化会館(東京・港区六本木)で開かれた「グローバルジャパン特別研究会」(米欧亜回覧の会=泉 三郎理事長=主催)で「貪欲から知足へ大転換を―仏教経済思想に立って」と題して講話した。
 その趣旨は、(1)軍事力依存症にかかった米国のブッシュ政権、それに追随する日本の安倍政権は共に世界の中で孤立しつつあること、(2)そこから脱出するための針路として従来の貪欲執着路線から知足追求路線への大転換が不可欠であること、(3)望ましい日本の路線選択として石橋湛山の小日本主義に学び、それを継承発展させること―などである。(07年2月22日掲載、同月24日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽仏教経済思想の8つのキーワード=いのちと知足と持続性と

 仏教経済思想を最初にかなり詳しく論じたのは、ドイツの経済思想家、E・F・シューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』(邦訳は講談社学術文庫、原文=英文の著作は1973年に出版)の第4章仏教経済学においてである。シューマッハーは仏教経済学の特質について「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じだ」と喝破した。

 私の唱える仏教経済思想は、釈迦の教えやシューマッハーに学びながら現代経済思想(ケインズ経済学、昨今流行の自由市場原理主義など)への批判から出発して、次の8つのキーワードからなっている。(かっこ内は現代経済思想の特質を示している)

*いのち尊重(いのち無視)
*知足=これで十分(貪欲=まだ足りない)
*簡素(浪費、虚飾)
*非暴力=平和(暴力=戦争)
*多様性(画一性)
*共生(孤立、孤独)
*利他主義=利他的人間観(利己主義=利己的人間観)
*持続性=持続可能な「発展」(非持続性=持続不可能な「成長」)

 以上の「いのち尊重」をはじめ8つのキーワードに相当するものは、現代経済思想には欠落しているのであり、昨今の暴力や利己主義横行による世の乱れの一半の責任は現代経済思想そのものにもあることを強調したい。
(詳しい説明は「21世紀の持続的経済社会とは」=仏教経済塾に07年1月19日掲載、「なぜ〈仏教〉経済学なのか?」=同06年7月26日掲載、「緑の政治がめざす変革構想」=同06年7月24日掲載、などを参照)

▽貪欲(=非持続型社会)から知足(=持続型社会)への大転換

 「持続的発展=持続可能な発展(Sustainable Development)」という概念は1992年の第1回地球サミット(国連主催)で打ち出されたもので、私は以下の3つの特質から成り立っていると考える。単に経済発展と環境保全との両立、をめざすものと捉えるのは狭すぎる。

1)「量の拡大」から「質の充実」への転換=貪欲から知足への転換
 プラスの経済成長、つまり経済活動の量的拡大を追求するのは、貪欲経済路線にほかならず、これでは地球環境、資源エネルギーの有限性からみて破綻に見舞われるほかない。いいかえれば持続的発展は期待できない。持続的発展のためには、量的拡大を伴わない経済生活の質の充実(自然環境保全、安全・安心、連帯感、健康、文化中心)をめざす知足経済路線への転換が不可欠である。知足こそが持続型社会を保障する。

2)一切の暴力の拒否=非暴力、簡素、知足、利他のすすめ
 平和=非戦、という平和観が日本では多いが、これは狭い平和観である。平和=非暴力という広い平和観が必要である。
 ここでいう暴力は多様で、戦争(軍事力の保有自体も含む)、紛争、テロはもちろん、そのほか人間の活動による地球環境の汚染・破壊(地球温暖化、異常気象など)、資源エネルギーの収奪・浪費、凶悪犯罪、交通事故、貧困、飢餓、食料・水不足、感染症などの疾病、文盲、失業、人権侵害、不公正(勝ち組・負け組による格差拡大など)―などを指している。
 こういう多様な暴力は貪欲の表れであり、それを抑制・拒否することは、簡素、知足・利他のすすめにほかならない。

3)動植物、人間を含む地球上のすべてのいのちの尊重=人間中心主義から生命・地球中 心主義への転換
 人間中心主義(ヒューマニズム)は、その人間尊重の精神は是認できるものの、人間が自然よりも上位にあり、自然、動植物を支配するのは当然という発想になりやすいところに弱点がある。これでは人間活動による地球環境の汚染・破壊に歯止めがかからない。生きとし生けるものすべてのいのちを平等に尊重する生命・地球中心主義に立ってこそ初めて人間と自然との多様性、共生を重視し、知足、利他の実践も可能となる。

 以上のような持続的発展の原理が貪欲と知足を分ける基準として活用できる。持続的発展の枠を超えるのが、貪欲であり、一方、持続的発展の枠内に収まっているのが知足である。経済成長でいえば、プラスの経済成長に執着するのは貪欲であり、一方、ゼロ成長、マイナス成長は知足の実践である。貪欲路線にこだわり続けると、地球環境、経済活動さらに人間の暮らしも持続性を失い、破局に落ちこむ。それを避けるにはどれだけ多くの人が貪欲の愚かさ、そして知足の智慧に日常感覚として気づくことができるかにかかっている。

 さて残念ながら日米両国は世界の中で孤立への道を進みつつあるというのが私の現状認識である。孤立を避けるためには何をなすべきなのか。

▽「9.11テロ」(2001年)と「もう一つの9.11テロ」(1973年)について

 米国での「9.11テロ」(2001年の同時多発テロ)について当時の多くの新聞は、「文明への攻撃」と断じた。私はその直後の講演で「新聞は自殺した」と論じた。それは自ら言論の自由を投げ捨てたという意味である。なぜか。9.11テロを文明への攻撃だと認識すれば、そのテロ集団への武力行使は容認せざるを得ないことになる。事実、その後のアフガニスタン、さらにイラクへの米国主導の攻撃を多くの新聞は容認し、自縄自縛に陥り、自由な言論を封じる結果となった。

 ここで考えてみるべきことは、米国の軍産複合体を含む米国の国家権力集団こそ世界最大のテロリスト(国家テロ)集団ではないか、である。第2次大戦後米国による大量殺戮の事例に事欠かない。その米国にテロを断罪する資格が果たしてあるのだろうか。
 例えばベトナム侵略(1975年米軍の敗走によって戦争は終結)である。米軍も5万人を超える犠牲者を出したが、ベトナム側の犠牲者は300万人、しかも米軍が空から撒いた猛毒・枯れ葉剤による後遺症でいまなお呻吟し、生活権を奪われているベトナム人は多数にのぼっている。

 さらに「もう一つの9.11テロ」を挙げる必要がある。南米のチリで民主的に選出されたアジェンデ社会主義政権が1973年9月11日、ピノチェト将軍率いる軍事クーデターによって倒された。アジェンデ大統領が殺害されたほか、数千人の支持者たちが虐殺されるか、今なお行方不明のままとなっている。この軍事クーデターを裏で後押ししたのが米国CIA(中央情報局)とされている。

▽アメリカ「帝国」の崩壊過程と5つの敗戦、進む日米の孤立化について

 米国は世界最強の軍事力と自由市場原理主義のグローバル化によって世界の覇権をめざしているのだから「帝国」と呼んで差し支えないだろう。しかしその帝国の影響力が急速に低下しつつあり、事実上崩壊過程に入っている。何よりも米国の5つの敗戦がそれを物語っている。

 第1はベトナム戦争の敗戦、第2は「9.11テロ」(01年)を強大な軍事力をもちながら防げなかった敗戦、第3は独仏のイラク攻撃への拒否、そしてイラク攻撃の挫折、第4は1100人を超える死者を出した大型ハリケーン「カトリーナ」襲来(05年夏)による米国南部の破壊、第5は米国の裏庭、南米における左派政権の台頭と反米・反自由市場原理主義の動き―である。

 共通しているのは軍事力偏重による大義の喪失であり、軍事的暴力と報復の連鎖であり、さらに貧困と暴力の悪循環である。特に第5の敗戦には米国流自由市場原理主義への反乱という要素が濃厚にみえてくる。
 以上の敗戦は、世界における米国の孤立化が顕著になってきたことを示すもので、その米国と軍事、経済面での一体化を強化しつつある日本もこのままでは孤立化への道を進むほかないだろう。

▽非武装の中米・コスタリカと公正・平和をめざす世界社会フォーラム

 以上のような日米の孤立化の路線とは異質の針路が現実にあることに着目したい。
 一つは非武装中立の平和外交を進める中米・コスタリカで、1949年の憲法改正で軍隊を全廃し、今日に至っている。
 コスタリカは軍事力を捨てたお陰で浮いた軍事費を自然環境の保全、平和・人権教育、社会保障などに回して、安心・安全で豊かな国をつくりあげている。「軍事力つまり暴力を持たず、行使しないからこそ、外国からの侵略つまり暴力を招く恐れもない」というのがコスタリカ国民の平和・安全保障観になっている。大いに学びたいところである。

 もう一つは世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)に対抗する世界社会フォーラムの動向である。前者は米欧日を中心とする世界の政治経済リーダー、エコノミストたちの集まりで、スイスの観光地、ダボスで毎年1月下旬に開かれる。07年1月には約2000人が集まった。同フォーラムはグローバル化と自由市場原理主義の推進本部ともいうべき存在である。
 これに対し、後者の世界社会フォーラムは市民、民衆が主役で、「もう一つの世界」つまり自由市場原理主義に反対し、公正で平和な社会づくりをめざす運動である。07年1月にはケニアの首都ナイロビで開かれ、世界各国のNPOなど約6万5000人が集まった。

▽日本の望ましい路線選択 ― 石橋湛山の小日本主義に学んで

 世界の中で日本が孤立化への道を進むのを避けるためにはどういう路線選択が望ましいだろうか。蔵相、首相を歴任した石橋湛山(日蓮宗の信徒)の小日本主義に学び、継承発展させる必要があると考える。
 湛山の小日本主義論の特色は次の5つにまとめることができる。
1)領土拡大をめざす戦前の大日本主義のアンチ・テーゼであること
2)軍備拡張は亡国への道であると認識していること
3)平和憲法第9条「戦争放棄と戦力不保持」を世界に先駆けた理念としてきわめて高く評価していること
4)平和憲法と日米安保条約(日本の自衛力の維持発展を明記)とは矛盾しており、平和憲法の理念を優先させ、それに立脚すべきであること
5)世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」の締結を提唱したこと

 これを地球環境時代にふさわしく修正しつつ、継承発展させて、21世紀における望ましい日本の路線選択―「従来の貪欲路線から知足路線への大転換構想」として次の3つをあげたい。
1)知足・非暴力・簡素な経済への構造転換
2)平和憲法理念の活用と「持続的発展」条項の導入
3)自衛隊の非武装「地球救援隊」(仮称)への全面改組

▽知足・非暴力・簡素な経済への構造転換を進めること

 簡素な経済への構造転換策として以下の4本柱を提案したい。これらがすべてではないが、重要な柱になり得る。
*循環型社会づくり(5Rの実践=Reduce・削減、Reuse・再利用、Repair・修理による長期使用、Rental・レンタル利用、Recycle・再生利用)
*財政・税制のグリーン化(軍事費の撤廃、消費税の廃止と高率環境税の導入など)
*脱「車」社会の構想(自家用車中心から公共交通・自転車・徒歩中心への転換)
*農業の再生と食料自給率の向上(地産地消、旬産旬消の感覚を取り戻そう)

 湛山は昭和20年代の敗戦後経済の復興にケインズ経済学の立場から蔵相として取り組んだ。戦時経済から平和経済への転換には功績があったが、今日、もはやケインズ経済思想に学ぶところは少ない。ケインズ自身「貪欲が必要」といっており、ケインズ経済学は貪欲の経済思想だからである。

 ここでは農業再生と食料自給率向上の重要性に言及したい。わが国の食料自給率は先進国では極端に低い40%にすぎず、残りの60%を海外に依存している。これは何を意味するか。食料はいのちの糧(かて)だから、日本人はいのちの60%を海外、いいかえれば地球全体に依存し、預けていることを意味する。しかも地球温暖化、異常気象を背景に近未来の水・食料不足が大きな懸念材料になってきた。

 こういう現実を踏まえれば、日本人に必要なのは、安倍首相のお好きな「戦争のために命を捨てる狭い愛国心」ではなく、地球全体への愛を意味する「愛球心」ではないか。食料自給率を高めることと愛球心を育てることーこれが今後の日本の生存条件の有力な柱になるだろう。

▽平和憲法に「持続的発展」条項を追加すること

 以下の追加条項は試案にすぎないが、「持続的発展」を憲法に盛り込むことは、世界でも前例がないはずであり、平和憲法の理念を一層活力に満ちたものにするだろう。湛山は9条の平和理念を高く評価し、日米安保条約よりも優先させるべきだと説いた。その精神を21世紀に継承発展させることにつながる。

*9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)への追加条項=「日本国民及び国は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力しなければならない」
*25条(生存権、国の生存権保障義務)への追加条項=「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努めなければならない」

▽自衛隊を非武装「地球救援隊」(仮称)に全面改組すること

 東西冷戦の終結後、地球環境問題が最重要課題となっている今日、軍事力はもはや有効ではないどころか、むしろ巨大な軍事力そのものが脅威となっている。軍事力は「百害あって一利なし」である。しかも国民に不必要な消費税などの増税を強いる。
 そこでコスタリカの非武装中立路線に学びながら、日本としても平和憲法の理念を生かすための非武装化の構想を模索すべき時である。これは簡素な経済への構造転換の柱の一つ、財政・税制のグリーン化として「軍事費の撤廃、消費税の廃止」を提案していることと連動している。

 ただし自衛隊の非武装「地球救援隊」への全面改組には日米安保=軍事同盟の解体と東アジア平和共同体の結成が必要不可欠である。
 湛山は首相退陣後、岸信介・池田勇人首相時代に「日中米ソ平和同盟」の締結を提唱した。これは日米間の日米安保条約を中国、ソ連にも広げ、相互安全保障条約にするという構想である。当時のフルシチョフ・ソ連首相は「原則的に賛成」と回答し、周恩来中国総理も「私も以前から同じようなことを考えていた。中国はよいが、問題は米国だろう」と言ったという湛山の証言が残っている。
 
こういう湛山の平和構想を今日の地球環境時代にふさわしく継承発展させるのが非武装「地球救援隊」の構想である。
(「地球救援隊」のより詳しい説明は「緑の政治がめざす変革構想」=仏教経済塾に06年7月24日掲載を参照)


 なお講話の後約1時間、質疑応答が行われた。その〈Q&A〉の内容(趣旨)は「知足の思想をどう広めるか?―貪欲から知足へ大転換を(つづき)」と題して仏教経済塾に2月25日掲載した。

(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)

21世紀の持続的経済社会とは
仏教経済学の視点から

安原和雄
 私はNPO「循環型社会研究会」(代表・山口民雄氏)主催のセミナー(07年1月17日東京都内で開催)で「21世紀の持続可能な経済社会とはー仏教経済学の視点から」というテーマで講話した。その趣旨は(1)仏教経済学の8つのキーワード、(2)「持続可能な発展」という概念の多面的な内容、(3)21世紀の持続的経済社会をめざす変革プランーの3つに大別できる。以下に質疑応答を含めて、その概要を報告したい。(07年1月19日掲載、同月20日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽仏教経済学の8つのキーワード―現代経済学とは異質の視点

 私が唱える仏教経済学は、いのち尊重を第一にして、知足、簡素、非暴力、多様性、共生、利他、持続性―の8つのキーワードからなっている。これを多くの大学経済学部で教えている現代経済学の特質と比較すれば、以下のように本質的に異なっている。(かっこ内が現代経済学の特質を示す)

*いのち尊重=人間は自然の一員。(いのち無視=自然を征服・支配・ 破壊)
*知足=欲望の自制、「これで十分」。(貪欲=欲望に執着、「まだ足りない」)
*簡素=美。(浪費・無駄=虚飾)
*非暴力=平和。(暴力=戦争)
*多様性=自然と人間・国のあり方の多様性、個性の尊重。(画一性)
*共生=いのちの相互依存。(孤立=いのちの分断、孤独)
*利他=利他的人間観。(私利=利己的人間観)
*持続性=持続可能な「発展」。(非持続性=持続不可能な「成長」)

 キーワードには挙げていないが、競争、貨幣、経済運営について補足すれば、以下のようである。
*競争=個性を磨いて連帯。(弱肉強食、利益追求のための過当競争)
*貨幣=非貨幣価値・非市場価値も尊重。(貨幣価値・市場価値のみが対象で、拝金主義と消費主義のすすめ)
*経済運営=脱「経済成長主義」、ゼロ成長のすすめ。(経済成長至上主義、プラス成長に執着)

 若干説明すると、仏教経済学は何よりもいのち尊重を掲げるが、現代経済学にはいのち尊重という思想は欠落している。効率や量的分析が中心である。仏教経済学が量よりも質を重視するのと大きく異なっている。
 仏教経済学では「世のため、人のため」を重視する利他的人間観を念頭に置いているが、一方、現代経済学は私利追求を第一と考える利己的人間観を前提に組み立てられている。これは企業利益追求第一主義や拝金主義につながる。その結果、企業では不祥事や経営破綻、個人では刑務所入りの事例が数限りない。
 (詳しくは、「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「〈緑の政治〉がめざす変革構想」、「なぜ〈仏教〉経済学なのか?」、「仏教経済学と八つのキーワード」―などを参照)

▽「持続可能な発展」は、地球さらに経済、安全保障まで含む多面的な内容

 「持続可能な発展」(Sustainable Development=持続的発展)を構成する柱を列挙すれば、以下のように多種多様である。これは『我ら共有の未来』(「環境と開発に関す世界委員会」が1987年に公表した報告)、『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金、国際自然保護連合、国連環境計画が1991年に発表した提言)、さらに国連主催の第一回地球サミット(1992年ブラジルのリオデジャネイロで開催)が採択した「リオ宣言」などで提起されている。
 持続可能な発展という概念、思想は、「経済発展(=経済成長)と環境保全との両立」を意味するととらえるのは、狭すぎるし、正しくない。地球をはじめ政治、安全保障、経済、社会、文化に至る多様な要素が織り込まれていることに留意したい。

また『新・世界環境保全戦略』は、地球の生命共同体の尊重を重視し、それを持続可能な社会の倫理として位置づけ、「この倫理の確立には世界の諸宗教の支持が必要」と指摘している。しかも「地球上のすべての生命は、大きな相互依存システムの一部」という認識を示している。
 このような認識は仏教的な考え方でもあり、「持続可能な発展」という概念と仏教思想とはかかわり合っている点に目を向けたい。わが国ではこの点に留意するところが明確ではないので、特に指摘しておきたい。

・生命維持システムー大気、水、土、生物ーの尊重
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育(すべての子どもに初等教育を施し、非識字率を減らすこと)の達成
・雇用の確保、さらに失業と不完全就業による人的資源の浪費の解消
・生活必需品の充足、特に発展途上国の貧困の根絶
・公平な所得分配のすすめ、所得格差の是正
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・エネルギーの節約と効率改善、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換
・環境の質の確保と文化的、精神的充足感の達成
・政治的自由、人権の保障、暴力からの解放
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消

▽21世紀の持続的経済社会をめざす変革プラン

 以下に持続的経済社会をめざす変革プランを提示したい。これは平和憲法の次の5つの理念、権利・義務を生かす変革構想でもあることを強調したい。

憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)
 13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)
 18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)
 25条(生存権、国の生存権保障義務)
 27条(労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止)

特に18条に「奴隷的拘束からの自由」として「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」という条項があることをどれだけの人が自覚しているだろうか。
 ただし勘違いしてはならない。一例を挙げれば、平和憲法(特に9条)は米国からの押しつけだから、改定する必要があると憲法改悪論者たちは言いつのるが、これは奴隷的拘束からの自由を意味しない。逆に米国による押しつけの見本ともいうべき日米安保体制について憲法改悪志向派が「堅持」を力説するのは不可解である。こういう思考停止病こそ精神的な奴隷的拘束に陥っているとはいえないだろうか。

 さて変革プランの主要な柱は次の通りである。いずれも固定観念、思考停止病からの脱出をめざして、いいかえれば精神的な奴隷的拘束から自由の身になって、仏教経済学の視点から構想してみたい。これは自由市場原理主義に立つ米国のブッシュ路線、日本の小泉・安倍路線とは異質の変革路線につながるものである。 

①循環型社会づくり(5R=Reduce、Reuse、Repair、Rental、Recycleへの取り組み)
②財政・税制のグリーン化(無駄な公共事業の削減、軍事費の撤廃、福祉の充実。消費税の廃止と高率環境税の導入、累進課税の強化など)
③車社会の構造改革(道路公団改革はなぜ道路拡張政策の追認となったのか)
④ワークシェアリング(仕事の分かち合い=自由時間の拡大、就業機会の確保)
⑤農業の再生と食料自給率の向上(地産地消、旬産旬消の感覚を取り戻そう)
⑥病人を減らし、健康人を増やす医療改革(治療モデルから健康モデルへの転換、禁煙の促進=タバコ税の大幅アップ)
⑦平和憲法に新たに「持続的発展」条項の導入を(憲法9条を守り、生かすこと)
⑧自衛隊の非武装「地球救援隊」(仮称)への全面改組(日米安保=軍事同盟の解体、東アジア平和共同体の結成)
 以下、柱ごとに概略述べたい。

▽軍事費の撤廃、すなわち真の非武装を視野において

①循環型社会づくり
 5RのうちReduce(削減)、すなわち生産の段階から省資源・省エネに徹し、廃棄物を最小に抑えることが肝心である。わが国では優先順位として最後の5番目に位置するリサイクル(再生利用のためには膨大なエネルギーが必要)に関心が集まりすぎている。

②財政・税制のグリーン化
 無駄な歳出をカットするためには軍事費(年間約5兆円)が本当に必要なのかどうか、すなわち憲法9条の理念を生かす非武装を視野に入れて論議すべき時である。一方、消費税増税については、高率環境税を導入すれば消費税廃止も可能だという選択もありうることを考えてみたい。
 軍事費や消費税を聖域視したうえでの歳出カットか増税か、という従来型の発想では財政・税制の望ましい姿は描けない。

③車社会の構造改革
 現在のマイカー中心から公共交通(鉄道、バス、市電など)、自転車、歩行中心の交通体系に変革しなければ、車中心の現行方式の道路づくりは果てしない。ヨーロッパにみられる自動車、自転車、歩道の3つを備えた道路づくりへと変えてゆきたい。

④ワークシェアリングの導入
 小泉政権時代の自由市場原理主義(弱肉強食)の強行によって失業、過労死、ノイローゼ、サービス残業などがむしろ悪化し、一部の「勝ち組」と大多数の「負け組」との格差も拡大した。打開策は、労働時間の短縮と雇用の確保をめざすワークシェアリング導入(例えば正社員とパートタイム従業員の時間当たり賃金格差を解消するオランダ・モデルが参考になる)だろう。これが新しい生き方、働き方につながる。

▽農と食と健康と―いのちを育てる農業の再生を

⑤農業の再生と食料自給率の向上
 食糧自給率40%(カロリー・ベース)は先進国では異常な低水準であり、地球温暖化と異常気象に伴う食料不足時代を迎えると、食料安全保障上、重大な懸念が生じる。対策として輸入依存度を減らし、自給率を高めることが必須条件となる。それには地産地消(その地域で育てた食材をその地域でいただく)の拡大が有力手段で、例えば学校給食を地産地消のモデルとしてもっと増やすことはできないか。
 農業のあり方として環境保全・健康貢献型農業への転換も不可欠である。「農業や漁業は〈生命維持産業〉」であり、「その従業者を増やしていくしかない」(小泉武夫東京農大教授の「私の視点」・07年1月15日付朝日新聞)に賛同したい。

⑥病人を減らし、健康人を増やす医療改革
 患者の医療費負担を高くして国民全体の医療費抑制を図る従来の医療改革は行き詰まっている。健康人を増やすためには健康奨励策を導入すべきであり、年間一度も医者にかからなかった者は健康保険料の一部返還請求権を持つこと、その一方で生活習慣病の患者負担は自己責任の原則に立って5割の負担に引き上げること―など新たな発想が必要ではないか。

 農と食と健康とは相互に依存し合っているわけで、農の再生を図りながら、健康人を増やすことに本気で取り組まなければ、やがて平均寿命は低下し、日本の未来は明るくない。

▽平和憲法に「持続的発展」条項の追加を

⑦平和憲法に新たに「持続的発展」条項の導入を
 憲法9条を守り、その理念を生かすという発想に立って、次の条文を追加する。
*9条への追加条文=「日本国民及び国は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力しなければならない」

 さらに25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の理念を地球環境時代の今日的要請に合致するように次の条文を追加する。
*25条への追加条文=「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努めなければならない」

 当面は9条改悪を阻止しなければならないが、単に「憲法を守れ」という発想だけでは地球環境時代の要請に十分には応えられない。長期的視野に立つて、多面的な内容をもつ持続的発展というキーワードを国のかたちの根幹に据えることが求められよう。

▽非武装「地球救援隊」を創設しよう

⑧自衛隊の非武装「地球救援隊」(仮称)への全面改組を
 なぜ非武装の地球救援隊なのか。
*21世紀の地球環境時代におけるわが国憲法の平和理念の活用であること。
 憲法9条は海外でも評価が高く、「9条は人類の英知。日本人はそのことを忘れないで欲しい」、「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という声が多い。「今こそ米国憲法も〈9条〉を持つべきだ」(第二次大戦中に米国のB29爆撃機パイロットだったチャールズ・オーバービー・オハイオ大名誉教授)という意見さえある。

*地球環境時代における脅威は多様であり、軍事的脅威が主要な脅威ではないこと。
 脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、砂漠化、大規模災害、感染症などの疾病、貧困、失業、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威には戦闘機やミサイルでは対応できない。

 もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。さらに軍事同盟は平和のための砦ではなく、むしろ意図的に脅威を挑発して「仮想敵」をつくる衝動が働く。そういう軍事同盟を解体するのは、上述した安全保障問題など多面的な要素を含む持続的発展の実践にほかならない。

*非武装化は、いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教経済思想から必然的に導き出される望ましい政策選択であること。
この構想は1949年の憲法改正によって軍隊を廃止し、積極的な平和外交を展開している中米の小国、コスタリカの非武装平和外交の日本版ともいえる。

 武装組織である自衛隊の全面改組を前提とするこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における平和、すなわち非戦モデルの構築が不可欠である。そのための必要条件として日米安保体制=軍事同盟の解消と東アジア平和共同体の結成―を挙げておきたい。

▽日米は世界の中で孤立する可能性―日米安保解体への選択も

 講話後の質疑応答の一部を紹介したい。
問い:コスタリカやキューバなどに米国とは異質の路線を追求する反米ともいえる動きが強まっている。この点をどのように理解したらよいだろうか。

答え:中米の動きと並んで南米の新しい動向に注目したい。ベネズエラ、ブラジル、エクアドル、ニカラグア、ボリビアなどでは最近、左派政権の登場(あるいは再登場)により反・新自由主義(=反・自由市場原理主義)すなわち反米の姿勢が顕著になってきている。 一方、ブッシュ政権のイラク攻撃にドイツ、フランスは最初から同調しなかった。今ではイラク攻撃そのものの挫折が明白となり、米国内ではイラク戦争に反対の声が過半数に達している。
 このことはブッシュ政権が世界で孤立しつつあることを示している。そういうブッシュ政権と密着関係を維持しているのが小泉政権につづく安倍政権である。これでは日米ともに孤立への道を進むことにもなりかねない。

 その背景に日米安保体制=軍事同盟が存在していることを見逃してはならない。日米安保条約(1960年発効)第3条は日本の「自衛力の維持発展」を規定している。一方、平和憲法9条は非武装の理念を掲げており、この平和憲法体制と安保体制とは明らかに矛盾しているが、歴代の保守政権は安保体制を優先させ、平和憲法体制の空洞化を進めた。そして今や世界の中で孤立しつつある。

 望ましい政策選択は何か。進むべき道は安保体制を解体して、平和憲法体制を再建する以外にはない。日米安保体制の解消には米国が承知しないだろうという見方があることは承知しているが、ここで指摘したいのは、安保条約第10条(有効期間)の「10年経過後には一方の国が条約終了の意思を相手国に通告すれば、その1年後に条約は終了する」という規定である。
 国民に解消の意思があれば、この条文を活用すればよいのであり、米国の顔色をうかがうのは、それこそ精神的な奴隷的拘束に陥って自縄自縛になっているというほかない。

 参考までにいえば、毎日新聞(03年1月4日付)の世論調査によると、日米安保現状維持論は全体の37%、一方、「安保条約から友好条約にすべきだ」つまり条約から軍事色を排除すべきだという意見が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%で、安保条約に批判的な意見が全体の半数近くにのぼった。
 日米安保体制を解体することが直ちに日米間の対立を意味するわけではないことを示唆している。


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なぜ〈仏教〉経済学なのか?
仏教経済学とみどりの思想(つづき)

安原和雄
 私は「平和・環境の党」結成をめざす「みどりのテーブル」の政策研究会(06年7月22日東京都内で開催)で「仏教経済学とみどりの思想」というテーマで講話した(その内容は「緑の政治がめざす変革構想」と題して、06年7月24日仏教経済塾に掲載)。引きつづき講話をめぐって参加者との間で質疑応答が行われた。〈質疑応答=Q&A〉の要旨を以下に紹介したい。(06年7月26日掲載)

▽経済の目的は民衆を幸せにすること

Q 現代経済学には数理経済学もあり、全体としてどういう学問なのかが素人にはどうもはっきりしないところがある。経済学者やいわゆるエコノミストたちが未来を含め、どんな問題に対しても発言しているが、その真意がはっきりしない。経済とはそもそも「経世済民」ではないのか。
A その通りで、英語のEconomyの訳語として「経済」があてられた。これは中国の経世済民(世を整え、民を救う)あるいは経国済民(国を整え、民を救う)という用語から「経」と「済」を抜き出してつくったものである。つまり経済の目的は「民」すなわち民衆を救うこと、いいかえれば、民衆を幸せにすることにある。数理経済学者などは数字をいじくり回している間に、この経済本来の目的を忘れてしまったのでないか。

 仏教経済学は、「民」を幸せにするには何が大事か、何をしなければならないか、を考える。しかも大切なことは、理念にとどまるのではなく、実践に取り組むことである。そのためには矛盾に満ちた現状の変革が必要である。

▽シューマッハーの仏教経済学に学ぶ

Q なぜ仏教経済学に関心を抱くようになったのか。
A 私は新聞社在職中、大蔵省(現財務省)、通産省(現経済産業省)、外務省、日本銀行、財界などの担当経済記者として取材に走り回っていた頃、現代経済学の影響下にあった。しかし特にあの1980年代後半のバブル期(地価、株価の急騰期、ただし物価水準は全体としてはそれほど上昇しなかった)と90年代のその後遺症は余りにも深かった。

 世を挙げて拝金主義が横行(銀行に巨大な不良債権が累積されたのも、拝金主義の成れの果て)し、その甚大な「負の効果」として企業倒産、失業、自殺が増大した。バブルに乗って失敗し、自らいのちを絶った知人も何人かいる。
 このため現代経済学はもはや経世済民という経済本来の目的を追求する経済学ではないことを経済の現場で実感するほかなかった。

 しかも時代は経済成長時代から地球環境時代へと急転回していた。地球温暖化に伴う異常気象はその具体例であり、現代経済学は、そういう新時代の矛盾打開に対応できないのが現状である。一方、地球規模でみると、飢餓に苦しむ人が10億人、安全な水を飲めない人が10億人と極端な貧富の格差が広がっている。これでは現代経済学は、もはや破綻というほかない。

 1990年春、仏教系の足利工業大学に転じた。同時に駒沢大学仏教経済研究所主催の仏教経済研究会にも参加するようになった。これが転機となって私の経済学観が急速に変わりはじめた。現代経済学を批判し、それを克服し得る新しい経済思想として私の目の前に登場したのがシューマッハー(ドイツの経済思想家、1911~1977年)の仏教経済学である。

 彼は著作『スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学』(講談社学術文庫1986年刊、英語版1973年刊)の中で次のように述べている。
 「仏教の八正道(注)の一つに〈正しい生活〉がある。したがって、仏教経済学があってしかるべきである」と。
(注)八正道=正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想―である。

 また次のようにも指摘している。
 「仏教を選んだのは他意あってのことではなく、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のいずれの教えでも、ないしはその他の偉大な東洋の伝統的英知でもさし支えない」と。

 シューマッハーが言いたいことは、仏教経済学でなくても、キリスト教経済学あるいは東洋経済学でもよい、といえるが、それでもやはり仏教経済学が適切ではないか、であろう。
 こういう彼の思考の背景には早くから東洋思想やガンジー思想に惹かれたり、1955年ビルマ(現ミャンマー)政府の経済顧問として招かれ、3か月の滞在中、仏教信者と交友を深めたりしたこと―などが考えられる。
 仏教経済学の今後の課題は、シューマッハーの仏教経済学に学びながら、それをさらに発展させることにあると考えている。

▽本名は仏教経済学、別称が「知足の経済学」

Q 仏教経済学は宗教と経済学を結びつけようということのようだが、なぜ仏教でなければいけないのか。ほかの宗教ではダメなのか。
A そういう疑問はいろんな人から聞いているが、やはり仏教経済学という名称にはこだわりがある。仏教は執着を排し、「こだわるな!」と説いているが、ここではこだわってみたい。
 ただ私は仏教経済学の別称として「知足の経済学」、現代経済学の別称として「貪欲の経済学」を掲げている。後者について現代経済学者の一人、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年。イギリスの経済学者で、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』)が「(経済成長のためには)貪欲を神としなければならない」と述べているからである。この飽くなき欲望そのものの貪欲に対し、仏教は「もうこれで十分」という知足を対置しており、「知足の経済学」と呼ぶこともふさわしい。

 しかし知足は仏教経済学の八つのキーワード(注)の一つにすぎない。だから本名は仏教経済学、別称が「知足の経済学」と思っている。
(注)仏教経済学の八つのキーワード=いのち、知足(=足るを知る)、簡素、非暴力(=平和)、多様性、共生、利他、持続性

▽釈尊の教えに還り、大乗仏教の精神を摂取し活かしていく

Q それにしても、どうも仏教経済学という名称が気になる。仏教と聞いただけで、仏教経済学の入り口のところで拒否反応を示す人もいるのではないか。
A 仏教とは一定の距離を置きたいと考えている人が少なくないことは承知している。こういう拒否反応は当然でもある。なぜなら現下の仏教が本来の「仏の教え」を忘却して、多くのお寺、坊さんが葬式仏教にうつつをぬかして、お布施稼ぎに忙しいからである。これは坊さんたちの怠慢というべきだ。仏教の日常化の努力が不足している。

 しかしお寺さんたちが仏教経済学を担っていくわけではない。またお寺のための仏教経済学でもない。仏教界の現状への批判をそのまま、仏教経済学に向けられるのは筋違いであり、勘違いでもある。

 仏教経済学は現代経済学批判から出発してそれに取って代わる新しい21世紀の経済思想を構築することをめざしている。その場合、釈尊の教え(いのち尊重、少欲知足、平等、非暴力など)に還り、そこから出発して大乗仏教の精神(利他主義、共生、衆生済度など)を取り入れて、それを実践し活かしていく。誤解を恐れずにあえていえば、私は仏教の人文・社会科学化が求められていると考える。その重要な柱が仏教経済学の構築である。

▽神道やキリスト教と経済学との関係は?

Q 仏教経済思想の中身はよいように思えるが、神道と経済学との関係はどうか。
A 神道と仏教との違いについてまず説明したい。ひろ さちや著『仏教と神道』(新潮選書)によると、仏教は世界宗教、神道は民族宗教であり、その民族宗教の特色は以下の諸点である。
*自然発生的に成立した宗教
*特定の教祖はいない
*教義よりも祭祀・儀礼が重視されている
*政治的・軍事的支配者が、同時に宗教的支配者である
*個人の救済よりも、共同体の利益が優先される

 私は神道は、仏教のような広く深い教義がなく、一つの思想体系をなしてはいない点に着目したい。しかも神道は明治以降、国家神道として国家権力の管理下にあった。だから宗教と新しい経済学を結びつけるとき、神道を持ち出すのは適切とはいえない。

Q キリスト教経済学は考えられないか。
A シューマッハーも指摘しているように「キリスト教でもよい」といえる。ただ仏教とキリスト教との基本的な違いが一つある。
 それは仏教は「人間は自然の一員」にすぎず、この地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは平等、対等であると考える。人間だけが格別上位にあって偉いわけではない。ところがキリスト教では人間は万物の霊長で、動植物など他の生き物より上位に位置づけられ、自然を支配、征服するのは当然と考える傾向がある。

 こういう違いがある以上、自然環境の保護、保全を重視する地球環境時代の21世紀にはキリスト教思想よりも仏教思想に立った仏教経済学の方がふさわしいと考えたい。

▽「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」

Q 仏教という表現を使わないで、たとえばエコロジー経済学、共生経済学などはどうか。
A 環境経済学と称する経済学はすでにある。エコロジー経済学、共生経済学にしても一つの思想体系としてみた場合、視野が狭すぎるような気がしている。仏教経済学の一つの分野としてエコロジー経済学、共生経済学を位置づけることはできるが、その逆はあり得ないのではないか。

 繰り返しになるが、仏教経済学は現代経済学批判から出発している。その現代経済学はそれなりの体系をもっている。例えば人間観として利己主義的人間を想定して、理論をつくりあげている。これに対し仏教経済学は利他主義の人間を重視する観点から体系化を考える。
 エコロジー経済学にそういう体系化が期待できるだろうか。また共生経済学の共生は、上述したように仏教経済学の八つのキーワードの一つにすぎない。

Q 仏教経済学に代わる新しい経済学の可能性はないのだろうか。
A シューマッハーは仏教経済学について次のように喝破している。「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じだ」と。
 最近の若者には「セックスになぜ愛情が必要なのか?」と思う人がいるかも知れない(このとき、「そんなことはないですよ」と若者の間から声が挙がった)が、それはともかく干からびた現代経済学と違って、仏教経済学は魂、思いやり、慈悲のこもった経済思想だとシューマッハーは強調したいのだろう。このように仏教経済学は現代経済学を超える次元で構想しており、すでに十分新しいのである。

▽仏教思想まで乗っ取られることを憂う

A ここで指摘したいことは、経済学史上、偉大な3人の経済学者と称される人物のことである。
 それはアダム・スミス(18世紀のイギリスの経済学者で、主著は『道徳感情論』、『国富論』)、カール・マルクス(19世紀のドイツの経済思想家、革命家で、主著は『資本論』)、そしてジョン・M・ケインズ(20世紀のイギリスの経済学者)の3人で、ともにそれぞれの時代が提起した課題に正面から取り組み、打開するための処方箋と未来図を描いた。そこに独創性、先駆性があった。だからこそ歴史に名を遺している。
 仏教経済学もそれなりに21世紀の課題―いのち尊重を第一とする地球環境時代の課題―に挑戦しようという気構えである。

 もう一つ指摘しておきたいことがある。それは21世紀が求める新しい経済思想でまたしても欧米人にしてやられるのではないかという懸念である。上述の偉大な3人の経済学者はいずれもヨーロッパ人である。まあそれはよいとして、例えばアメリカ人の自然環境保護の思想家には仏教に理解の深い人が登場してきている。

 明治維新以来すでに約140年経つが、日本は概していまだに欧米思想の後追いの域を脱出できないままである。このように我々日本人が欧米思想の後塵を拝したままの現状に甘んじて、仏教への前向きの理解をもう少しもたないと、このうえさらに日本の仏教思想まで欧米人に乗っ取られる可能性なしとしない。

 仏教に根ざした日本文化ともいうべき「もったいない」という言葉にしても、ケニアの自然環境保護活動家のマータイ女史(04年ノーベル平和賞受賞)が世界中に広める役割を担ってくれている(06年7月24日仏教経済塾に掲載の「緑の政治がめざす変革思想」参照)。これは日本人としてむしろ恥ずかしいことと言わねばならない。
 こういう体たらくが続くようでは、地球上での日本人の存在価値と貢献は果たしてどこまで可能なのか―このことを憂慮しないわけにはいかない。


(以上は仏教経済学をめぐる質疑応答に限った。しかも仏教経済塾への掲載に当たって説明に若干加筆補正した)

(寸評と提案を歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
「緑の政治」がめざす変革構想
仏教経済学とみどりの思想

 安原和雄
 「みどりのテーブル」(環境・平和の「緑の政党」結成をめざす組織で、共同代表は小林一朗、稲村和美の両氏)主催の政策研究会(2006年7月22日東京都内で開催)で私(安原)は「仏教経済学とみどりの思想」というテーマで講話の機会をもった。出席者は市民派活動家、弁護士、大学院生ら「みどりのテーブル」会員が中心であった。
 私は仏教経済学の立場から「みどりのテーブル」、すなわち「緑の政治」がめざすべき構造変革と未来設計について次の3分野に絞って提案した。
 (1)脱「経済成長」下での雇用とワークシェアリング、(2)車社会の構造改革と健康づくり、(3)「いのちの安全保障」をめざして―非武装の「地球救援隊」(仮称))をつくろう―で、3つとも小泉改革とは180度異質の変革構想である。(06年7月24日掲載、同月25日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽仏教経済学のキーワード―いのち、知足、簡素、非暴力など八つの柱

 まず現代経済学(注1)と対比しながら、仏教経済学の特質にふれたい。仏教経済学の八つのキーワード―いのちの尊重、知足、簡素、非暴力(=平和)、多様性、共生、利他、持続性(=持続可能な発展)―を中心に概略説明したい。(仏教経済塾に7月19日更新の「仏教経済学と八つのキーワード」参照)

(注1)現代経済学は大学経済学部で教えられている主流派経済学で、ケインズ経済学(注2)、いわゆる小泉改革の経済学的裏付けとなっている自由市場原理主義などが含まれる。
(注2)イギリスの経済学者ジョン・M・ケインズ(1883~1946年)は、主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で財政支出拡大などによる不況克服策を唱えた。

*いのちの尊重
 仏教経済学の第一のキーワードは、いのちの尊重である。このいのちは人間に限らず、自然の動植物のいのちも視野に入れる。人間と自然との関係では、人間は自然の一員にすぎず、すべてのいのちは平等、対等と考える。これに対し、現代経済学にはいのちの尊重という思想はない。いのちを無視している。しかも人間は万物の霊長で、一段と上位にあり、自然を征服、支配、破壊しても当然とさえ考える。

*知足、簡素と非暴力(=平和)
 仏教経済学は欲望について知足(足るを知ること)、簡素を旨とし、「足るを知る経済」すなわち脱「石油浪費経済」(=脱「経済成長」)の構築をめざす。だから別称「知足の経済学」ともいえる。
 知足と簡素は非暴力(=平和)の土台となる。
非暴力すなわち平和とは、単にテロ、紛争、戦争がない状態を指しているだけではない。多様な自然、資源、エネルギーに対する収奪、浪費さらに人間性の否定とは無縁の行為、状態でもあることを仏教は教えている。ここでは平和すなわち非暴力の基礎は「簡素な経済」(シンプルエコノミー)であることを強調したい。

 これに対し現代経済学は貪欲すなわち「もっともっと欲しい」という欲望の肥大化を是認する。貪欲は浪費、暴力(=戦争)を求める。それは同時に石油浪費経済(=「経済成長至上主義」)につながる。
 ケインズは貪欲のすすめを説いており、「地震や戦争も富の増進に役立ち得る」とさえ述べている。地震は新たな復興需要をもたらし、戦争は兵器生産などを通して軍需景気を促し、それが生産増大、経済成長を可能にするだろうと言いたいのである。だから現代経済学を別称「貪欲の経済学」と呼んでも決して誇張ではない。

*多様性と共生
 仏教経済学は多様性と共生とを重視する。人間も自然も本来多様性そのものである。だからこそそれぞれに存在価値がある。そこから共生が生まれてくる。人間同士だけでなく、人間と自然との共生も重視する。
 これに反し、現代経済学には多様性、共生という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。また人間と自然とは切り離された状態にある。

▽利他主義という人間観と持続性

*利他主義という人間観
 人間観も大きく異なっている。現代経済学は利己主義、すなわち個人や企業の自己利益を優先させる人間観を前提にして理論をつくりあげている。たしかに自分さえよければそれでよいという、身勝手な人の群れがあふれている。これは犯罪に走り勝ちな拝金主義にもつながっている。昨今、世の乱れは目を覆うものがあるが、その一半の責任は現代経済学の利己主義にあることを強調したい。
 これに対し仏教経済学は「世のため、人のため」を重視する利他主義という人間観を前提に構想する。仏教では「自利利他の調和」(浄土真宗の開祖、親鸞)、すなわち利他主義が結局、自利、すなわち自分の活力、安心をもたらすと説く。

 NHKテレビの朝のドラマ「純情きらり」の次のセリフが記憶に残っている。これは「自利利他の調和」の一例であろう。
 「自分が幸せになりたいと思っても幸せになれるわけではない。他人を幸せにしてあげることによって自分も幸せになれる」(06年6月15日放映)

*持続性(=持続可能な発展)―環境保全と質の充実と平和と
 持続可能な発展(Sustainable Development)は、国連主催の第1回地球サミット(1992年ブラジルのリオで開催)が打ち出して以来、広く世界で知られてきた概念、思想で、そのポイントは次の3点に集約できる。

①生活の質的改善を、生態系など自然環境の収容能力・自浄能力の限度内で生活しつつ、達成すること=量の拡大(経済成長至上主義=石油浪費経済)から質の充実(脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」)への転換
②動植物、人間すべてのいのちからなる生命共同体を尊重すること=21世紀の平和観
③「戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せないこと」(リオ宣言)=戦争、テロなど一切の暴力を拒否

 具体的には長寿・健康・教育さらに政治的自由、人権保障、生産・消費の抑制と廃棄物の削減(=脱「石油浪費経済」)、失業の解消、所得格差の是正、軍事支出の削減、軍事同盟の解消―などが「持続可能な発展」という概念に含まれる。

 以上のような仏教経済学のキーワードは、「みどりのテーブル」(注)がめざす「緑の政治」の五つのキーワード―環境、非暴力・平和、社会の公正、草の根民主主義、持続可能な社会―と重なり合っている。
 従って仏教経済思想の視点も加味しながら、「緑の政治」がめざすべき構造変革と未来設計はどう構想したらよいだろうか。

(注)「みどりのテーブル」は、中村敦夫・前参議院議員らの「みどりの会議」を引き継ぐ新しい草の根民主主義の組織で、平和・環境の「緑の政党」結成をめざしており、07年夏の参議院選挙に10名の立候補者を予定している。06年7月22日現在の会員数は393人で、このうち県議、市議ら地方議員は50余名を数える。

▽「いただきます」「もったいない」などを日常の暮らしに復活・普及させよう

*「いただきます」について
・動植物のいのちをいただくという意味である。
 多くの人は「食事をいただく」と理解しているが、それは正しくない。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいる。それを毎日実感することは「いのち尊重」の心を育て、そこに感謝の気持ちが生じる。
・食べ残しは、いのちを粗末にすること
 大量の食べ残しはいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。戦後の高度経済成長と使い捨ての時代になって以降、「いただきます」の意味を理解した上で食事を摂っている人が少なくなった。
・いのちを生かすこと
 もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。もちろん「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。

 以上のような「いただきます」の含意を正しく理解することは、いのちの尊重、節約の心、さらにモラルの再生のためにも不可欠である。

*「もったいない」(勿体ない)について
・大切に使う心。節約し、無駄をなくすこと。
・滋賀県知事に当選した嘉田 由紀子さんのスローガンが「もったいない」。「もったいない」が当選したも同然で、その意義はきわめて大きい。
・ノーベル化学賞受賞の島津製作所の田中耕一さんの座右銘も「もったいない」。
・毎日新聞社の招きで、05年2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は東京、名古屋、京都を訪ね、「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いた。国連本部など世界の各地でも説いている。
 地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、日本文化に根づいた〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。06年2月にも来日した。

*「お陰様で」について
・われわれ一人ひとりは、誰のお世話にもならず、独力で生きていると考えている人が多いが、それは錯覚である。独力ではなく、地球、自然、社会、他人様によって生かされていること、つまり相互依存関係の中で生かされているという客観的な真理をつかみ、それに感謝する心を表現する言葉である。

 以上の3つの仏教に根ざした日本文化ともいうべきこころと言葉を日常生活の中に復活させ、普及させることが緊急の課題となってきた。これは一人ひとりの意識改革、自らのライフスタイルの変革を意味しており、これを抜きにしては、以下に述べるシステム、制度上の構造変革も魂のこもった生きた構造変革にはならないだろう。

▽「緑の政治」がめざすべき構造変革と未来設計

(1)脱「経済成長」下での雇用とワークシェアリング
 もはや「経済成長=雇用増」は成り立たない。
 21世紀は脱「経済成長」の時代であり、かりに一時的な景気回復によって経済成長がありえても、現状では雇用の増加にはつながらない。なぜなら利益至上主義の企業経営にとってはコスト削減、人減らしあるいは雇用増の抑制による利益確保が中心課題となっているからである。

 そこで失業解消の決め手としてワークシェアリング(労働時間短縮と仕事の分かち合いによる就労機会の確保)の導入が浮かび上がってくる。
 「オランダモデル」がよく知られている。パートタイム雇用を増やし、時短を進める方式で、フルタイム労働者とパートタイム労働者の賃金、社会保障面の差別を撤廃し、国全体の実質賃金水準は維持する。これによって失業率は大幅に削減された。
 新しい「日本モデル」として、労働時間短縮による自由時間のゆとり享受、選択的な定年の大幅延長(高齢化・少子化対策)、労働差別(男女別、正規・非正規別)の廃止、全体の実質賃金水準の維持―などが考えられる。

 自由市場経済下で失業、格差拡大、労働時間の増大など多様な「負の効果」をもたらした政府、企業はその改善策実施に責任をもたねばならない。
 まず政府は、増えている労働時間の思い切った短縮―週35時間労働(1日7時間、週休2日制)などの法制化に取り組むべきである。労働時間短縮の法制化が先行しなければ、日本版ワークシェアリングも絵に描いた餅に終わるだろう。
 さらに強調したいのは、企業は、その社会的責任(CSR・Corporate Social Responsibility、企業市民としての責任=株主重視からの転換)としてワークシェアリングに取り組むことである。環境保全と並んで、そういう努力を重ねる企業こそ、優良企業という折り紙をつける社会的評価基準を導入する必要がある。

(2)車社会の構造改革と健康づくり
 車社会の構造改革と健康づくりを結びつけて総合的にとらえる視点が必要になってきた。自動車への依存症が環境汚染・破壊をもたらし、しかも運動不足による糖尿病など生活習慣病を招いていること―を考えると、双方の同時解決策を工夫する必要がある。
 そのための望ましい制度改革、政策はなにか。具体策は以下の通り。

*現行のマイカー中心型(いのち・環境破壊型)の交通体系から公共交通(鉄道、バス、路面電車など)中心型(いのち尊重と環境保全型)への大転換
*高率環境税(汚染税)の導入と消費税の廃止
*新型の道路づくり(自転車道の併設など)、料金体系の改革(マイカーに比べ鉄道運賃を割安にし、鉄道利用者を増やす)、地域でのコミュニティ・バスの積極的活用、自転車と徒歩による「さわやか交通」の重視
*「医療改革」の改革=従来の治療モデル(負担増が中心)から予防モデル(健康づくりに重点)への転換と健康奨励策の導入
・年間一度も健康保険を使わなかった者は健康保険料の一部返還請求権をもつ
・小学校時代からの食育(地産地消、旬産旬消の学校給食の全国化、防腐剤など食品添加物の全廃)のすすめ

*21世紀版「養生訓」を実践すること
 貝原益軒著『養生訓』(注)は、身体とこころの養生を以下のように説いた。要するに今日版「養生訓」の実践は、病気になってから病院に駆け込むのではなく、予防第一を心掛けること、そのためには「走る車文明」から「歩く文化」への転換、つまりできるだけ車を捨てて、大いに歩くことにほかならない。
(注)貝原益軒(1630~1714年)は、江戸時代には珍しい85歳という長寿を全うした。医者ではなく、儒者として執筆したのが、83歳の時で、その高齢で虫歯が一本もなかったといわれる。

・「食事は腹八分がよくて、腹いっぱい食べてはいけない」と「腹八分」をすすめた。
・「養生の根本は発病する前に予防すること」と予防第一を主張した。
・「畏(おそ)れを実践すれば、生命を長くたもって病むことはない。(中略)畏れるということは、身を守る心の法である。(中略)人間の欲望を畏れ慎んで我慢することである」と「養生は畏れの一字」であることを力説した。
・「毎日少しずつ身体を動かして運動するのがよい」と運動のすすめを説いた。

(3)「いのちの安全保障」をめざして―非武装「地球救援隊」をつくろう
 世界を底知れぬ脅威と収奪と破壊に追い込む「軍事力中心の安全保障」はすでに時代錯誤と化している。21世紀の時代が求めているのは「いのちの安全保障」、すなわち武力を捨てて、地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを中心課題とする新しい安全保障観であり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
 これは平和憲法9条の非武装理念を活かし、自衛隊を全面改組し、新たに創設しようというものである。

そのための必要条件として次の3つを挙げたい。
*資源エネルギー(石油など)貪欲・浪費型の世界規模の経済(暴力=戦争志向型)から知足・簡素型の地域重視の経済(非暴力=平和追求型)への転換
 すでに指摘したように「知足(足るを知ること)と簡素は非暴力(=平和)の土台となる」という仏教経済学の基本テーゼを改めて強調したい。逆に「貪欲と浪費は暴力(=戦争)をそそのかす」のである。石油浪費経済を追求する米国と日本が石油確保を狙いの一つとして産油国・イラクを攻撃する上で共同戦線を張ったのは、その具体例といえる。

*日米安保体制=日米軍事同盟の解体、防衛庁の廃止と平和省の創設
 日米安保=軍事同盟は、「世界の中の安保」を掲げて、軍事的脅威を演出し、武力行使を辞さない危険な軍事的根拠地となっている。「いのちの安全保障」実現のためには日米安保の解体、平和省の創設が不可避となってきた。

*東アジア平和同盟(軍事同盟の解体、核兵器の廃絶、通常兵力の顕著な軍縮)の結成
 第一回東アジアサミット(=首脳会議、05年12月マレーシアのクアラルンプールで開催)が平和共存を旗印として「東アジア共同体」結成へ向けて歴史的な第一歩を踏み出したことを評価したい。これが将来の東アジア平和同盟の結成へと発展していくことを期待したい。

 さて地球救援隊構想の概要は以下の通りである。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、地球規模の非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人と人の間の対立と不和を除去し、信頼感を高め、軍事的脅威の顕著な削減を実現させること。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
具体的には次のようである。
 装備は兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、地球救援隊のために組み替える。訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練に切り替える。
 特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。

*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。従来の自衛隊法、有事関連諸法は廃止すること。


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仏教は世界平和にどう貢献するか
仏教の平和貢献

安原和雄
 2006年3月4日駒澤大学(東京・世田谷区)で同大学仏教経済研究所(吉津宜英所長)主催、仏教経済フォーラム(寺下英明会長)共催の公開シンポジウム「いまの仏教、これからの仏教―世界平和にどう貢献するか」が行われた。奈良康明駒澤大学総長の「草の根対話の呼びかけ」と題する基調講演の後、コーディネーター、工藤豊氏(仏教経済研究所員)の司会で、パネリストとして参加した末木文美士氏(東大大学院教授)、萩野茂雄氏(仏教伝道協会「仏教聖典を経営に活かす会」会長)さらに私(安原)の3人がそれぞれ意見を述べ合った。
 私は「仏教の社会的責任として今こそ平和=非暴力の実現に積極的に貢献しなければならない」と強調した。私の発言趣旨は以下の通りである。

▽仏教の社会的責任と平和貢献

 現実の日本の仏教界は葬式仏教に偏している。しかもその葬式仏教は―宗派にもよるだろうが―お布施の金額を一方的に示して強制するなどお寺の金集めとなっている。
企業のビジネス活動はお客様の意向を無視しては成り立たないが、葬式仏教の場合、お布施の強制取り立てが可能なのは死者を事実上の人質にとっているからだろう。これでは仏教の存在価値はあってないに等しい。
 仏教の社会的責任が厳しく問われていることを自覚しなければならない。どうするか。本日のテーマである「世界平和にどう貢献するか」を実践することに尽きる。

 さて「平和」とは、何を指しているのか。従来の「平和を守る」という考え方は平和=非戦(戦争がない状態)ととらえる。これは狭い平和観である。戦争さえなければ、果たして平和だろうか。
 例えば最近幼い子どもたちが次々と犠牲になっている。これは許し難い暴力の横行である。我が子を殺された親は、「日本は日本列島上で戦争していないから平和だ」と思うだろうか。そうではないだろう。

 平和をもっと広くとらえたい。すなわち平和=非暴力(戦争・軍備・テロはもちろん、殺生・収奪・浪費・不平等・不公正・人権抑圧・貧困・飢餓など多様な暴力を克服した状態を指す)ととらえたい。

 以上のような広い平和観に立てば、平和とは多様な暴力をなくすことを意味するから、「守る」という受身ではなく、「新たにつくっていく」という積極的な行動が求められる。平和は守るものではなく、つくるものとして認識することが大事で、そういう平和に仏教がどう貢献するか、そこがカギである。

▽「仏教の平和貢献」を仏教のキーワードから考える

 以下の不殺生戒、不偸盗戒、知足と共生など仏教のキーワードを社会的に実践していくことが「仏教の平和貢献」につながると考える。

*不殺生戒
 人を殺すことはもちろん、地球上の生きとし生けるものすべての無益な殺生を戒めている。いいかえれば、 不殺生戒は「いのちの尊重」の実践を意味する。
<不殺生戒に反する具体例>
・国家権力による戦争=人間や自然・環境に対する殺生の典型例
・地球環境の破壊=多様ないのちの営みを続ける自然・環境の破壊

*不偸盗戒
 盗む行為を戒めているわけだが、ここでは盗む行為を浪費、収奪、さらに不公正、不平等を押しつけることも含めて広く理解したい。いいかえれば、不偸盗戒は簡素・節約・公正・平等の実現に努力することを意味する。
<不偸盗戒に反する具体例>
・大量生産―大量消費―大量廃棄という今日の経済構造下での資源エネルギーの浪費は、自然からの必要以上の無用な収奪である。つまり貪欲に経済成長を求め、大量の廃棄物を排出することは不偸盗戒に反する。
・現在日本では失業者が300万人もいるが、失業は、人から仕事の機会を奪うのだから、盗んではならないという不偸盗戒に反する。無造作にリストラをやる企業は「泥棒会社」と呼ぶこともできるだろう。

*知足と共生
 知足(足るを知ること)、「もったいない」のこころで貪欲、浪費、無駄をなくすこと、また共生(ともいき)は世界の万物(=人間、動植物も含めて)のいのちを尊重し、活かすことに通じる。こういう知足と共生のすすめは、シンプルライフ(簡素な暮らし)、シンプルエコノミー(簡素な経済)へつながる。
 
▽現代の平和をつくる3つの具体策―仏教経済学の視点から

イ)「簡素な暮らし」、「簡素な経済」への転換が不可欠
ロ)日米安保体制(=日米軍事同盟)の解体
ハ)自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

 これら3つは仏教経済学から導き出せる平和をつくるうえで必要不可欠な具体策である。ここで仏教経済学について若干説明しておきたい。
 仏教経済学は、新しい時代を切りひらく世直しのための経済思想である。仏教の開祖・釈尊の教えを土台にすえて、21世紀という時代が求める多様な課題―地球環境問題から平和、さらに一人ひとりの生き方まで―に応えることをめざしている。その切り口が、いのち・平和(=非暴力)・簡素・知足(=足るを知る)・共生・利他・持続性 ―の7つで、これらの視点は主流派の現代経済学には欠落している。だから仏教経済学は現代経済学の批判から出発している。

 いいかえれば仏教経済学は「非暴力と簡素な経済」をめざすが、一方、ケインズなどの現代経済学(注)は「暴力と浪費の経済」につながる。
 (注)イギリスの経済学者、ケインズ(1883~1946年)はその主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』で「地震も、戦争でさえ、富の増進に役立ちうる」と述べて、暴力と戦争のすすめを説いている。また論文「わが孫たちの経済的可能性」で「貪欲(avarice)はいましばらくなお我々の神でなければならない。なぜならそのようなものだけが経済的窮乏というトンネルから、我々を陽光のなかへと導いてくれることができるからである」と貪欲をすすめている。

イ)「簡素な暮らし」、「簡素な経済」への転換が不可欠

 平和すなわち非暴力の基礎は「簡素な暮らし」(シンプルライフ)、「簡素な経済」(シンプルエコノミー)である。したがって平和をつくるためには、脱「石油浪費」経済(=石油浪費の否定)への転換、すなわち脱「成長経済」(=経済成長至上主義の否定)路線への転換が求められる。
 私は「石油浪費は戦争を誘発するが、脱・石油浪費は平和をもたらす」と言いたい。なぜそういえるのか。

 ドイツの経済思想家、E・F・シューマッハーは仏教経済学を論じた著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)の中で次のように述べている。
 「簡素と非暴力は深く関連している。(中略)物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これを大量に使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である」と。
 さらに「石炭、石油、天然ガスといった再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」と。

 たしかに簡素な経済構造であれば、暴力(=軍事力)は不要である。しかし貪欲な経済成長主義の追求(=石油の浪費)は暴力を不可避とする。アメリカがその典型で、産油国・イラクへの攻撃のねらいの一つは石油確保にある。

ロ)日米安保体制(=日米軍事同盟)の解体

軍事力という暴力を盾にした日米安保=軍事同盟は、いのちを奪い、世界に混乱と破壊の脅威を与えている。アメリカのイラク攻撃とそれを支える日米軍事同盟は世界の平和=非暴力にとって大きな脅威となっている。だから平和をつくっていくためには、その解体が不可欠である。

ハ)自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

 なぜ非武装「地球救援隊」なのか。
 これは非暴力=平和を志向する仏教経済学から必然的に導き出される構想で、地球規模の非軍事的脅威(大規模災害、感染症などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援をめざす。
 また「平和憲法第9条(=戦力不保持、交戦権の否認)は宝」と海外で高く評価する人々がいることを見逃してはならない。その9条の理念の今日的具体化が非武装「地球救援隊」構想である。
 (安保解体と地球救援隊について詳しくは「安原和雄の仏教経済塾」のホームページに掲載の「小日本主義のすすめ」(1)(2)、「平和をつくる4つの構造変革」などを参照)

 このように仏教を今日に生かし、平和=非暴力をつくっていく。それが「仏教の平和貢献」と考える。

以上
小日本主義のすすめ(2)
軍事的脅威論への疑問と持続的発展

安原和雄
以下は仏教経済塾に別途掲載(2005年12月25日付)の講演「小日本主義のすすめ(1)」について「コスタリカに学ぶ会」(正式名称「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)会員からのE-メールでの質問、意見に安原がメールで考えを述べた補足文である。これは「<持続的発展>を日本国憲法の追加条項に 21世紀版<小日本主義>へ安原氏が提言」と題して、インターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月23日付)に掲載された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月26日記)

<補足文1>軍事的脅威をどうとらえるか
(05年6月29日)

 私の講演のなかで不足している部分を挙げておきたいと思います。それは次の点です。
 アメリカのような巨大な軍事力の行使はもちろん、保有自体が暴力であり、それがいのち、自然、暮らしを含む地球生命共同体への脅威になっているという点です。

 講演では非軍事的脅威が主要な脅威と指摘しましたが、実は上記のような軍事的脅威の存在も同時に指摘する必要があります。しかも巨額の軍事費は巨大な資源エネルギーの浪費であり、地球レベルでみれば、その資金を軍事費以外の貧困、飢餓、衛生、教育などの分野に回し、その改善を進めることは緊急不可欠の課題です。世界全体の軍事費は今や100兆円を超えています。その半分近くをアメリカが占めています。軍事費や戦争で稼ぐ産軍複合体にとっては笑いが止まらない話ですが、国民レベルでみれば、膨大な無駄遣いというべきです。

▽従来型脅威論に疑問符を

 以上の点は時間の制約もあり、講演では指摘しなかったと思いますが、大事なことです。脅威とは何かをめぐって意見は多様だと思いますが、他国からの軍事的脅威にどう対処するかという従来型の脅威論にこだわると、自衛を名目とする軍事力容認論、そして憲法9条改訂論につながっていきます。そういう脅威論に疑問符を抱くことから新しい発想、着想が生まれます。

 先制攻撃論に支えられたアメリカの巨大な軍事力、そのアメリカとの日米軍事同盟の存在そのものが今や地球、人類、中東・アジアにとって容認できない脅威となっていることを認識する必要があります。従って平和をつくっていくためには、平和への脅威をつくり出す日米軍事同盟、それを支える日米安保体制を解体しなければならないというのが私の基本的な認識です。以上は重要な点なので補足しておきます。


<補足文2>持続的発展にかかわる安原見解
(05年7月4日)

 小日本主義構想の中の「持続可能な発展」(Sustainable Development)すなわち「持続的発展」について私なりの考えを以下の4本柱を軸に述べます。
1)「持続可能な発展」とはどういう意味をもつ概念、思想なのか。
2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。
3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことはどういう意義をもつか。
4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問とはいえないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。

1)「持続可能な発展」はどういう意味をもつか

 国連主催の第1回地球サミット(1992年開催)が採択した「環境と発展のためのリオ宣言」で打ち出されて以来広く世界で知られてきた概念、思想で、その慨要は次のようです。
①人々の生活の質的改善を、その生活支持基盤となっている各生態系の収容能力の限度内で生活しつつ達成すること。従って経済成長主義、消費主義、拝金主義とは両立しないこと。
②「戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せない」(リオ宣言)こと。従って戦争、テロ、紛争と持続的発展とは矛盾しており、決して両立しないこと。
③生活の質的改善、共生、循環、平和がキーワードとなっていること。いいかえれば持続的発展という思想、概念は地球環境の保全だけに限定して捉えないことが重要であること。

 具体的内容を列挙すれば、以下のようです。
・人類に限らず、地球上の生きとし生けるもののいのちの尊重
・長寿と健康な生活(食糧、住居、健康の基本的水準)の確保
・基礎教育の達成
・政治的自由、人権の保障、家庭内暴力や社会的暴力からの解放
・就業機会の保障と人的資源の浪費の解消
・特に発展途上国の貧困の根絶
・核兵器の廃絶、軍事支出の大幅な削減、軍事同盟の解消
・環境保全を中心とする新しい安全保障観の確立
・経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放
・公平な所得分配の実現
・景観や文化遺産、生物学的多様性、生態系の保全
・持続不可能な生産・消費・廃棄構造の改革と廃止
・再生不能な資源・エネルギーの収奪や浪費の中止、再生可能もしくは汚染を引き起こさないエネルギー資源への転換

▽持続的発展への新しい多様な脅威

 以上のような持続的発展の内容を補足し、21世紀的課題を指摘したのが第2回地球サミット(2002年南アフリカのヨハネスブルグで開催)で採択された「ヨハネスブルグ宣言」です。

 同宣言は、貧富の格差拡大、グローバリゼーションが招く不平等、基本的な必要物と施設(水、衛生施設、住まい、エネルギー、医療、食糧など)の不足のほか、飢餓、栄養不良、地球温暖化の悪影響による自然災害、生物多様性の喪失、砂漠化、大気・水・海洋の汚染、漁業資源の悪化、麻薬、組織犯罪、人種・宗教差別、エイズ、マラリア、武器・人身の売買、テロ、占領、軍事衝突など実に多様な脅威を持続的発展にとっての新たな脅威と指摘しています。

 以上のように包括的な概念であり、しかも21世紀の新しい地球規模の課題に取り組むためのキーワードとして理解されるべきものです。
 ただ以上の理解、認識が広く共有されているわけではありません。一例をあげれば、日本政府や経済界はしばしば「持続的経済成長」という言葉を使います。これは「持続可能な発展」を「地球環境の保全と経済成長との両立」ととらえるところから出てくる誤った理解です。上記のように「経済成長それ自体を目標にする呪縛からの解放」が持続的発展の1つの柱です。なぜなら量の拡大を意味する経済成長にそもそも持続性は期待できないし、不可能だからです。

2)今日の平和観、平和運動はいかにあるべきか。

 平和運動は一定の平和観に基づいています。だからどういう平和観に立つかがきわめて重要です。平和観には「平和=非戦、不戦」という従来の狭い平和観と、「平和=非暴力、反暴力」という今日的な広い平和観に大別できます。

 私は後者の広い平和観をとります。その意味するところは戦争、テロ(最近の平和学ではこれを「直接的暴力」と呼んでいます)がない状態が平和にとって基本的に重要なことですが、それに限るものではありません。人間性、生の営みの否定ないしは破壊、例えば自殺、交通事故死、凶悪犯罪、人権侵害、不平等、差別、失業、貧困、病気、飢餓―など(最近の平和学では「構造的暴力」と名付けています)が存在する限り平和とはいえません。

▽貪欲な経済成長は「構造的暴力」

 さらに貪欲な経済成長による地球上の資源エネルギーの収奪、浪費とそれに伴う地球環境の汚染、破壊(これも「構造的暴力」)が続く限り、平和な世界とはいえません。

 いいかえれば以上のような多様な暴力(「直接的暴力」と「構造的暴力」)を追放しない限り、真の平和はあり得ません。だから平和は守るものではなく、つくるべきものです。戦争さえなければ平和だと考えるのは、一面的です。

3)「持続可能な発展」を憲法に追加条項(修正条項)として盛り込むことの意義は何か

 以上のような広い平和観に立って多様な暴力を否定し、地球上の生きとし生けるもののいのちを等しく尊重し、真実の平和を確保するためのキーワードが持続的発展です。従って平和憲法が真の意味で平和の確保をめざすのであれば、憲法の中に「持続的発展」という文言を追加条項(修正条項という文言をこれまで使ってきましたが、誤解を避けるためには追加条項とした方が適切かもしれません)として織り込むことが不可欠です。具体的試案は以下の第9条と第25条の2つです。

▽第9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)に関する追加条項

 「日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する責務を有する」を新たに追加します。

<趣旨>現行の第九条の条文はそのまま活かして、さらに以上の文言を加えようという提案です。戦争と対立する概念である持続的発展を新たにうたうことによって戦争放棄という先駆的な理念の強化を図ると同時に、日本国民の国際貢献のあり方として核兵器の廃絶と世界の通常軍事力の顕著な削減に取り組む姿勢を明示します。

ここでの「世界の通常軍事力の顕著な削減に向けて努力する」とは、日本の戦力不保持の憲法理念が現実には日米安保体制と強大な軍事力保有によって空洞化しており、この理念を長期的視野で取り戻すことを意味します。これはコスタリカ・モデル(軍隊廃止)の日本への応用です。さらにこれをバネにして世界の軍縮を促進させるのに日本(市民レベルも含めて)が貢献することを意味しています。

▽第25条(生存権、国の生存権保障義務)に関する追加条項

 「すべての国民、企業、各種団体及び国は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める責務を有する」を新たに追加します。

<趣旨>この追加条項は従来の経済成長路線、消費主義、拝金主義という名の貪欲路線との決別を明確にし、脱「成長経済」(=簡素な経済)、地球環境の保全、資源エネルギーの節約などを柱とする「知足(足るを知る)路線」をめざすものです。
 第9条が安全保障、外交上の平和(=反「直接的暴力」)を志向するのに対し、第25条の追加条項は新たな経済社会上の平和(=反「構造的暴力」)の構築を意図しています。

若干補足すると、私は「廃棄物を大量に出さない簡素な暮らし・経済」への転換が平和を構築するうえで不可欠だと考えています。なぜなら廃棄物を大量排出する貪欲で浪費的な暮らし・経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えばイラク攻撃の背景に石油確保があります)につながるからです。身近な例をあげれば、平然と飲食物を大量に食べ残す人たちの平和論、平和運動を私は信用しません。「もったいない」の心が欠落した平和運動は今や有効ではありません。

▽「平和環境立国・日本」としての戦略目標

 以上2つの追加条項は、持続的発展を軸に据える「平和環境立国・日本」としての戦略目標を世界に向けて宣言するものであり、この新しい憲法理念は、21世紀版小日本主義の大枠であり、その土台として位置づけられます。決して改憲を意図するものではありません。
 歴史的にみれば、近代の人権思想が当初から正当に広く受け容れられたわけではありません。同様に持続的発展という概念、思想に対しても不慣れのため戸惑いが見受けられます。新しい思想は常にそういう扱いを受けてきましたし、これからもそうでしょう。

 持続的発展に関する国際的な基本文書、『新・世界環境保全戦略ーかけがえのない地球を大切に』(原題はCaring for the EarthーA Strategy for Sustainable Living・第1回地球サミット前年の1991年発表)は「政府は憲法などで持続可能な社会の規範を明記すべきだ」とうたっていますが、まだ憲法に「持続的発展」という文言を採用した国はありません。そこで日本があえて先陣を切り、憲法に盛り込めば、人権思想をうたったアメリカ独立宣言(1776年)、フランス人権宣言(1789年)に匹敵する歴史的偉業になるだろうというのが私の夢です。

4)改憲論が現実の政治日程にのぼっているときに憲法の修正条項を持ち出すのは疑問ではないか。小日本主義構想を実現させる道筋はどうか。

この疑問、問題提起は現実の政治運動論にもつながるもので、それなりの道筋を見出すことは容易ではありません。走りながら考えるほかないことを承知のうえで、以下のことを指摘したいと思います。

▽長期戦略ビジョンと戦術
 小日本主義構想の中の上記1)、2)、3)の私の理解、提言は長期戦略ビジョンであり、「未来の設計図」(「コスタリカに学ぶ会」世話人の小倉志郎氏の表現)です。現下の問題は小泉政権の政策路線や2大政党制に取って代わるだけの長期ビジョンが欠落していることです。だから国民の多くは「どこかおかしい」と感じながらも、明確な将来展望が見出せないまま、悪しき現実に流されているのではないかというのが私の現状分析です。

 重要な点は小日本主義構想のような長期戦略ビジョンが適切かどうかです。このような長期戦略ビジョンをめぐる議論を展開し、その方向性を設定することこそ緊急の課題というべきです。

 たしかに長期戦略を実現させる戦術をどう考えるかは重要なテーマです。私は変革のための「未来の設計図」の提起そのものがバネとなって「意識改革」を触発する戦術としても機能するだろう、その可能性に期待します。政治情勢がわが方に有利になってから長期戦略ビジョンを打ち出すのは、順序が逆であり、それでは「百年河清を待つ」に等しいのではないでしょうか。長期戦略をもたないいわゆる抵抗勢力の次元にいつまでもとどまっているわけにはいきません。そこからいかに脱皮するかが今問われています。

多様な暴力のアンチテーゼ、すなわち「平和=非暴力」という広い平和観を志向する「持続的発展」を憲法に追加条項として盛り込むべきだという提案は、すでに3)で述べたように小日本主義構想の土台をなすものです。これを欠いては小日本主義構想の骨格が揺らいできます。だから持続的発展という概念、思想がもつ上記の戦略的価値を強調する必要があります。それを繰り返し強調することによって地球環境時代における「平和=非暴力」についての意識改革を促す戦術的効果を期待したいと思います。

▽日米安保体制と日米軍事同盟は「諸悪の根源」

 一方、日米安保体制すなわち日米軍事同盟の存在が諸悪の根源となっています。だから小日本主義構想はその重要な柱の一つに安保体制と軍事同盟の解体を掲げています。この解体は長期戦略であり、しかも持続的発展の重要な一環として位置づけられる性質のものです。これを提起することそのものが、「反平和」派が多数を占める現在の政治勢力配置図を「平和」多数派へと塗り替えるための戦術として機能する可能性があります。目下のところ、その実現が困難であることはいうまでもありません。しかし海外派兵、憲法9条改悪路線が進行しつつある「現在の今」という機会を逸したら、いつ提起することができるのでしょうか。

 参考までにいえば、世論調査(03年1月4日付毎日新聞)によると、日米安保維持派は全体の37%、一方、日米安保批判派は47%(「安保条約から友好条約にすべきだ」が33%、「安保条約をなくして中立を」が14%)というデータがあります。安保廃棄は困難ではあるが、現実的であり、空論とはいえないと思います。 

▽憲法9条の条文を守るだけで十分か

 講演での「憲法の修正条項」という表現が誤解を招いているようです。アメリカ合衆国憲法は次々と修正条項を加えることによって、よい方向に修正してきたと専門家は言っています。これに倣(なら)って新しく条項を追加するという意味で修正という表現を使いましたが、これは追加という表現に変更した方がわかりやすいようです。

 いずれにしても憲法に追加条項として「持続的発展」を盛り込むべきだという私の提案(私は憲法学者ではありません。素人だからこそ大胆な提案も可能だと自負しています。余談になりますが、「小さな専門家よりも大きな素人をめざす」という発想を大切にしたいと思っています)はすでに述べたように改憲ではありません。それどころか憲法の「平和=戦力不保持」の理念をどう活かすかが重要であり、持続的発展こそ活かす道だと考えます。平和憲法の理念を改悪しないで堅持すべきだという意味では「護憲派の中の護憲派」と自任しています。

 たしかに憲法9条条文の改悪を阻止することは当面の最重要な課題でしょう。しかし9条の条文をただ守れば、それでいいのかといえば、それだけでは平和理念を堅持するには不十分だと思っています。なぜならすでに3)で指摘したように日米安保体制、日米軍事同盟の強化を背景に9条は事実上骨抜きにされ、空洞化(注)しているからです。従来の平和運動が「戦争反対、9条を守れ」と繰り返し叫んできたにもかかわらずです。条文を守るだけでは空洞化の進行を阻止するのはむずかしいと思います。

 必要不可欠なことは、①9条条文を守ること、②平和理念の堅持、強化のために憲法に持続的発展を追加条項として織り込むこと、さらに③日米安保体制と日米軍事同盟を解体することーこの3本柱です。単に9条条文を守ればよいという考えでは、これからは戦争を阻止することも困難になるだろうと予測します。
(注)9条がなぜ空洞化しているのか。日米安保条約第3条で「日本の自衛力の維持発展」を定めており、歴代の保守政権はそれを忠実に実行し、憲法9条の戦力不保持の規定を無視してきたからです。
 小日本主義を最初に提唱した石橋湛山は日米安保と平和憲法との間のこの矛盾に気づき、日米安保よりも平和憲法の理念を優先させるべきだと主張していました。

▽9条改悪阻止の後に来るものは?

 問題は9条改悪を阻止できたとして(その可能性は大いにあります)、その先に何が待っているのかです。平和でしょうか、それとも戦争でしょうか。
 ここで戦後日本の戦争参加の歴史を概観してみましょう。アメリカの戦争に3度参戦しています。平和憲法のお陰で参戦の経験はないなどと考えるとしたら、お人好しもいいところです。

最初は朝鮮戦争です。いわゆる朝鮮特需によって第2次大戦後の日本経済は経済復興のきっかけを得ましたが、朝鮮特需はアメリカが発注する兵器の生産・修理(ここから戦後日本の兵器生産が再開されました)によってアメリカの戦争を支援したことを意味します。

2度目はアメリカのベトナムへの侵略戦争で、日米安保体制によって沖縄の巨大な米軍基地を許容し、それがベトナム戦争の支援基地として重要な役割を果たしました。沖縄の米軍基地が存在しなかったら、恐らくベトナムへの侵略戦争は困難だったでしょう。

3度目が今回のアメリカ主導のイラク攻撃への参戦です。ベトナム戦争と同様に沖縄の米軍基地が支援基地として重要な役割を担っていますが、この参戦は初の海外派兵によるもので、2度目までの戦争協力=参戦とは質的に異なっています。9条の条文は堅持されているにもかかわらずです。

▽後方支援という名の参戦

具体的にはイラク国内で自衛隊が派兵駐留している一方、インド洋に常時2隻の自衛艦を配置し、イラク攻撃に不可欠の石油を国民の血税を使って供給しています。私は後者の後方支援(注)の事実を重視します。この後方支援を日本が拒否していたら、アメリカのイラク攻撃に支障をきたしていたはずです。 
 (注)日本では多くの場合、後方支援は戦争への参加ではないという誤解があり、認識が甘すぎます。<前線での戦闘>と<後方支援=弾薬、石油、食料、医薬品、その他備品などの補給>とは表裏一体の関係にあります。後方支援なしには戦闘は不可能です。これは欧米の軍事論の常識です。なお日本は米国のアフガニスタン攻撃以来、後方支援を続けています。

 4度目の参戦はもちろん起こらないことを願いますが、9条改悪を阻止できたとしても参戦の可能性はあります。どういう形をとるでしょうか。例えばアメリカが北朝鮮を攻撃するケースです。この場合、日米安保体制と有事法制によって戦争に必然的に巻き込まれ、それが日本列島にどういう事態を引き起こすか、その先は想像力の問題です。

 重要なことは戦争放棄と戦力不保持の9条条文が改悪されないで、健在であるにもかかわらず、こういう事態に巻き込まれるということです。だからこそ9条条文を守るだけでは十分ではありません。骨抜きにされた9条の内実をどう正常化するか、先に述べた日米安保体制廃棄などの3本柱によって、戦争放棄、戦力の不保持を掲げる本来の平和理念を取り戻さなければなりません。

<補記>戦後日本は米国主導の戦争に3度参戦したと上述しましたが、湾岸戦争(1990~91年)も加えれば、4度になります。湾岸戦争では日本は合計130億ドルの援助支出(「湾岸での平和回復活動」という名目の援助資金)のほか、自衛隊掃海艇など6隻をペルシャ湾へ派遣しました。(05年12月26日記)
以上
小日本主義のすすめ(1)
 小日本主義のすすめ―アメリカとの心中を避けよう

安原和雄
以下は「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)世話人の安原による「小日本主義のすすめーアメリカとの心中を避けよう」と題する講演(2005年4月24日、東京・江東区で開かれた同会主催の05年度総会・講演会にて)の内容である。
安原は、石橋湛山元首相が提唱した「小日本主義」こそ今後の日本が歩むべき道であることを強調した。講演内容と質疑応答は同会発行の「コスタリカ通信」16号(05年6月20日付)に、さらにインターネット新聞「日刊ベリタ」(05年7月16日付)に掲載された。これをここ「仏教経済塾」に収録する。(05年12月25日)


 <講演要旨>

1)何が問題なのか―歴史に学ぶこと

▽世界最大のテロリスト集団は誰か

2005年4月はベトナム解放(米軍侵略からの解放)30周年にあたります。私は作家の早乙女勝元氏を団長とする「解放30周年記念ツアー」に参加し、「大虐殺」で知られるベトナム中部のソンミ村も訪ねました。
1968年3月、村人たちがまだ眠っている早朝、米軍は武装ヘリで急襲、504人を次々と虐殺、奇跡的に生き残ったのはわずか8人でした。米兵たちは村人1人を殺害する度に、「1点」、「もう1点」と叫んだといいます。まさに虐殺ゲームそのものです。ベトナム人の戦争犠牲者は死者300万人、米軍が空から撒いた枯れ葉剤の後遺症で今なお苦しんでいる人が100万人もいます。

以上は第2次世界大戦後、地球規模で繰り返されたアメリカの蛮行の1例にすぎません。過去半世紀に米軍の直接の軍事力行使あるいはアメリカ製兵器による世界の犠牲者は数千万人に上るという指摘もあります。こういう事実からホワイトハウスをはじめとするアメリカ国家権力集団こそ世界最大のテロリスト集団といわざるを得ません。言語学者として著名なノーム・チョムスキーMIT(マサチューセッツ工科大学)教授は「ホワイトハウスの行状は世界残虐大賞に相当する」と指摘しています。 

▽ブッシュ大統領らは戦争犯罪者?

一般のメディアが報道しないひとつの事実を紹介しましょう。05年3月5日東京・千代田区内で開かれた「イラク国際戦犯民衆法廷」(共同代表は大学教授ら)が判決を下しました。その内容はブッシュ米大統領、ブレア英首相は「侵略、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド(大虐殺)」で有罪、小泉首相も「侵略の罪、戦争犯罪のほう助・支援」で有罪というものです。このようにブッシュ大統領らを戦犯として裁く民間ベースの動きがあることを知っておくことも大切ではないでしょうか。

さらに見逃せないのは日米英が世界で孤立しつつあるという事実です。イラク攻撃のための米国主導の「有志連合」から脱落国が増えています。特にドイツは最初から「ノー」と拒否しました。ドイツと日本はアメリカの最も重要な同盟国ですが、このうちドイツが離脱したことの意味を重視する必要があります。

▽米国は「世界規模の乞食」なのか

 フランスには「米帝国は世界規模の乞食」と主張する知識人もいます。それは3つの依存症に悩んでいるからです。たしかに軍事力は世界最強で、経済規模(GDP=国内総生産)でもアメリカが世界最大(次が日本)で、「帝国」ともいえる巨大な存在です。
 しかし貿易、財政ともに大幅な赤字(特に財政赤字は巨額の軍事費が原因)であり、それを穴埋めするために金融(資金)面で大きく他の主要国(日本、中国などが米国債を購入して資金を供給)に依存せざるを得ない経済構造になっています。つまり他国のお陰でやっと「帝国」を維持し続けているにもかかわらず、「お陰様で」の感謝の一言もなく、傲慢な振る舞いを止めないようでは真の超大国とはいえないでしょう。

▽「小泉改革」のめざす路線は?

 小泉改革は、中曽根政権時代(1982年~87年)に始まった新保守主義的ないわゆる構造改革の継承であり、その特色は2つあります。
 1つは自由化・民営化促進による自由な企業利益の追求、いいかえれば自由市場原理主義の導入です。もう1つは日米軍事同盟下で日本の軍事国家化をめざしてひた走る路線です。小泉首相の靖国神社公式参拝、戦地イラクへの自衛隊派兵、憲法第9条(戦争放棄と戦力不保持)の改訂への動きなどはこの路線推進を意味しています。

▽憲法9条は守るだけで十分か

 9条の条文を変えさせないで、守ることも重要ですが、9条は事実上骨抜きになっています。日本の軍事力は予算ベースでは、アメリカ、英国、フランスに次ぐ世界第4位で、しかも日米安保体制によって巨大な米軍基地の存在を許し、アメリカの戦争支援基地になっており、日本はすでに世界の軍事強国の一員といえます。

 なぜ憲法9条が空洞化したのか、その答えは日米安保条約にあります。第3条で「自衛力の維持発展」を定めており、憲法9条の非武装の規定と矛盾しています。この憲法9条の非武装の理念を取り戻すためにはどうしたらよいかを今こそ考えるときではないでしょうか。

▽「日米運命共同体」泥船説もある。無理心中の恐れはないか

 日米は日米安保体制を背景に軍事、経済両面で運命共同体となっていますが、現実は日本が軍事基地と資金の提供(大量の米国債購入など)によって米国を支えています。このつっかい棒を外せば、アメリカ帝国の崩壊も早まる、いわば泥船にもたとえられる運命共同体です。

 しかしアメリカ帝国の崩壊と運命を共有し、心中するほど日本はお人好しである必要はないでしょう。アメリカ帝国を支えてきた敗戦国、日独のうちドイツはすでにイラク攻撃に「ノー」の意思表示を明確にし、泥船から脱出したことを見逃してはなりません。

2)どうするか―小日本主義のすすめ

▽石橋湛山の小日本主義論 

ジャーナリストの大先達でもある石橋湛山(元首相)が戦前から戦後にかけて主張した小日本主義論の特質は次の5つにまとめることができます。
①植民地、領土拡大をめざす戦前の大日本主義のアンチテーゼであること 
②軍備拡張は亡国への道であること
③平和憲法第9条は世界に先駆けた理念として高く評価すべきであること
④平和憲法と日米安保条約は両立不可能であり、憲法理念を優先させること
⑤東西冷戦時代に世界とアジアの平和のために「日中米ソ平和同盟」という一般の発想を超える構想を提唱したこと

▽21世紀版小日本主義を実践し、日本を変革しよう

今こそ湛山の非戦・平和の小日本主義論に学び、21世紀にどう活かすかを考えるときです。これは同時にコスタリカ・モデル(軍隊廃止、平和教育、自然環境保全―の3本柱が国是)に学びながら、平和をつくり、アメリカとの心中を避ける道につながります。21世紀版小日本主義のすすめとして次の5つの変革路線を導き出すことができます。 

①小泉流大国主義路線(新保守主義=自由市場原理主義導入と軍事国家化)への対抗軸として、質的に異なる変革路線であること
②憲法の平和理念を強化し、経済社会の持続性を確保するために第1回地球サミット(1992年)が採択した「持続可能な発展」(Sustainable Development)という新しい理念・思想を憲法に修正条項として盛り込むこと
③経済成長主義(大量生産・消費・廃棄→地球環境の汚染・破壊→地球生命共同体の崩壊)を捨てて、簡素な暮らし・経済(=脱「石油浪費社会」)へ構造変革を進めること
④日米安保体制を解体し、「東アジア平和同盟」を構築すること
⑤自衛隊を全面改組し、戦力なき「地球救援隊」(仮称)を創設すること  

▽「地球救援隊」構想は平和への道

地球救援隊構想の説明だけにします。慶応大学で04年11月、講義の機会があり、この構想を提案したところ、ある女子学生は「私も同じことを考えていた」と感想文に書きました。男性よりも女性の方が未来志向型で、「21世紀は女性の時代」という印象もあります。

 さて今なぜ非武装の地球救援隊なのでしょうか。今日の主要な脅威はいのち、自然、日常の暮らしへの脅威であり、いいかえれば地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威です。具体的には地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これらの脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもないでしょう。
 地球救援隊は、これらの非軍事的脅威に対応するシステムで、この活動によって世界貢献と平和確保とを目標にします。

システムの概要は次の諸点です。
*地球のいのち・自然を守るために平和憲法第9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を活かす構想であること
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと
*自衛隊の全面改組を前提とする構想であり、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質の改革を進めること。例えば台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、装備として非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有すること

▽日米安保解体と米軍基地撤去がカギ

 地球救援隊の創設は、軍隊を捨てたコスタリカ・モデル応用の日本版ともいえます。非武装のこの構想が実を結ぶためにはアジア、中東における非戦モデルの構築が不可欠です。そのためには戦争システムである日米安保体制の解体(安保条約第10条によると、日米のどちらかが条約終了の意思を相手国に通告すれば、1年後に終了)と米軍基地の撤去が鍵となります。さらに平和の構築をめざす東アジア平和同盟の締結も必要です。

 ともかくこの構想の具体化は、日本が世界の対立と恐怖を超えて、和解と共生を促す道しるべとなって尊敬を得るだけでなく、21世紀の平和を確保する上で先導的役割を果たすことにもなると思います。
                                   
 <講演後の質疑応答>

 講演終了後、出席者と安原との間で一問一答が行われた。その要旨は次の通り。

Q(問い)1:日本がアメリカ国債(財務省証券)を買うことは、アメリカの対イラク政策に加担することになるのですか? “未来バンク”のような考え方、第三世界の事業に市民が投資することについて、どうお考えでしょうか?
A(答え):アメリカの財政赤字の最大の要因はイラク攻撃の出費など軍事費の増大です。財政を税金だけではまかない切れず、国債を発行して海外から資金を調達しています。それを買うのは加担することになります。日本は総額70兆円近く買っています。“未来バンク”の詳細はわからないが、拝金主義でなく、お金をいかに有効に使うか、金の遣い道について、こちらが希望を出すという動きが最近非常に強まっています。それは、歓迎すべきことです。

Q2:日本国民の中には、アメリカとの関係を絶つと何をされるかわからないから怖いと思っている人が多い。アメリカを怒らせたらどうなりますか?
A:日米間には強い経済関係があります。しかし、昨年度初めて、日中間の貿易額が日米間の貿易額を上回りました。今は日米英のチームは世界で孤立しつつあります。軍事力を振り回すアメリカと一緒に行動して、日本にとってプラスになりますか? アメリカに追随しなくてもやっていけるのです。

日米関係重視の観念に縛られるのは長い間の惰性にすぎません。ベルリンの壁崩壊のように歴史は激変します。変わってみれば、なぜ、あのような悪夢にとりつかれていたのかと思いますよ。現状にとらわれるのではなく、現状をどう変えたらよいのか、想像力を逞しくして考える知的作業をする必要があります。日米関係を縛っているのは日米安全保障条約ですが、同条約10条2項に、現在はどちらかが通告すれば、1年後には相手の同意なしに廃棄できると定めていることを忘れてはいけません。

Q3:核をなくすことを現実的に考えるにはどうしたらいいですか?
A:核保有大国は米ロ中仏英の5カ国です。核拡散防止条約は各締約国に「誠実に核軍縮交渉を行う義務」を課しています。また、核廃絶を支持する国が増え、非核地帯を宣言する地域も多い。むしろ核保有国が事実上包囲されている状況です。核廃絶の動きが地球規模で起こっています。

Q4:自由市場経済は破綻するのではないでしょうか。自由市場経済になれば問題が解決するような世論になっていますが、お考えは?
A:経済での勝ち組、負け組を分ける弱肉強食を是認するアメリカ流の市場経済はいずれ破綻すると思います。欧州は社会福祉を重視しており、これに学ぶべきです。歴史的には今は変革期に入っています。5~10年の間に大きく変わる可能性があります。そのためには私たちが評論家ではなく、行動者になる必要があります。「コスタリカに学ぶ会」はそのためにあります。

Q5:ドイツが米と心中しない道を選び、韓国がかつての軍政から変ったように日本も変わることができるのではないでしょうか?
A:独仏の和解があって今日の欧州連合(EU)ができました。日本と同じ敗戦国のドイツでは政治リーダーが日本の靖国神社参拝のようなことをしていない。もともとアメリカを生んだのは欧州だという思いがあります。日本もアメリカ一辺倒の姿勢から卒業して日中関係を大切に考え、東アジアを基盤に平和の構築を考えていくことが必要です。
以上


(上記の講演についてE-メールで質問、意見が出され、それにメールで安原が補足した内容は「小日本主義のすすめ(2)」と題して別途、仏教経済塾に収録する)
いのちの尊重と仏教経済学
いのちの尊重と仏教経済学

安原和雄
「仏教経済塾」は仏教経済学の立場からエッセーや主張を書いている。では仏教経済学とはどういう経済学なのか。大学の経済学部で教えている現代経済学とどう異なるのか―という疑問を抱かれるに違いない。そこで仏教経済学の特質、そこから導き出される政策提案について大まかに紹介したい。
以下は平成16年度足利工業大学公開講座(共通テーマは「心・いのち・地球 宗教対話のなかから」)の一つとして、私が行った講演「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代に生きる智慧」(2004年12月9日実施、『足利工業大学総合研究センター年報』第6号・05年6月に掲載)の概要である。『年報』掲載以後の新しい動きについては<補注>を新たに加えるなど「仏教経済塾」用に加筆補正した。(05年12月22日)

Ⅰ.地球環境時代とは=「いのちの尊重」が合い言葉

われわれは今、どういう時代に生きているのか。そしてどう生きたらよいのか。こういう視点、感覚の欠落した人生はつまらない。道を踏み外さないためには、まず正しい時代認識が不可欠である。それは今、地球環境時代に生きているという明確な自覚を持つことから始めたい。
地球環境時代とは、20世紀後半(第2次大戦後から1990年頃まで)の経済成長時代がもたらした巨大な矛盾と破局(=大量生産・消費・廃棄→資源・エネルギーの浪費→地球環境の汚染・破壊→地球の生命共同体の汚染・破壊→いのちの基盤の破局)からどう脱出し、いのちの持続性をいかに確保するか、平凡な表現を使えば、「いのちの尊重」が合い言葉となってきた時代といえよう。

▽自然災害は天災? それとも人災?

ここで問題を出したい。
#問い:最近の地球上の自然災害は天災なのか? それとも人災なのか?
#答え:結論を急げば、実は人災という認識をもつのが正しい。

以下にいくつかのデータとその背景を説明する。
*2003年に自然災害で亡くなった人は合計6万7800人(欧州を中心に異常高温で 3万2400人、イラン南東部の大地震で2万9600人など)。前年の1万2400 人から5倍以上に増えた。
*日本では04年夏の台風で死者・不明者は220名を超えた。さらに新潟中越地震で約 40名。台風で地盤がゆるんでいるところへ大地震が来て犠牲を大きくした。
*米本土、カリブ海諸国は、04年夏、大型ハリケーンのため2700人を超える犠牲者 を出した。
*背景に地球温暖化が進み、異常気象を引き起こし、それが大規模な気象災害をもたらし ているという事情がある。生産・消費という経済活動のほか、自動車利用など日常の暮 らしで石油を大量消費していることが地球温暖化の原因である。だから人災の要素が多 分にある。人間の日常的な行為が、「明日は我が身」「明日のいのちも分からない」という危機を招いていることを自覚したい。

<補注>国際通貨基金(IMF)のスマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生、インドネシアなど7カ国が被災)に伴う被害に関する中間的調査(毎日新聞、05年2月23日付)によると、死者・行方不明者が約30万人、避難民が約150万人に上った。一方、被害総額は62億~72億ドル(約6500億~7500億円)に達し、国別ではインドネシア40億~50億ドル、スリランカ10億ドル、モリディブ4億ドルが主な被害額である。地球温暖化による海面上昇が津波の被害を大きくしたという指摘もある。

Ⅱ.いのちを壊す文明=現代経済学の大きな責任

上述のような現状は、「〈いのち・自然〉を浸食する〈文明〉」と表現することもできるるのではないか。いいかえれば、文明がのさばり、いのち・自然を浸食し、汚染・破壊を進めて、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の基盤が破局に直面しつつあるのだ。

21世紀初頭の今、われわれ地球人は、文明が一段といのち・自然に食い込んでいく「破局」へと突き進むのか、それとも進路を大きく転換して「安定」に立ち戻るのか、その分岐点に立っている。いいかえれば「狂気」の現状からどう「正気」を取り戻すか、歴史的な選択を迫られている。これは次のように言い直すこともできよう。従来型の持続不可能な経済成長路線に執着するのか、それとも持続可能な発展を追求する路線へと大きく舵を切るのか、そのどちらを選択するのか、と。

もう一つ重要な点として、仏教経済思想が現代経済思想(注)を押し返せるかどうかが大きな課題になってきたことを指摘したい。横暴な文明を後押ししているのが現代経済思想であり、それによっていのち・自然を浸食し、地球環境の汚染・破壊を進めているのだから、現代経済学者たちの責任は大きい。これに対抗して地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
 (注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる規制緩和・廃止、民営化、強者優先・弱肉強食の経済思想)などを指している。

Ⅲ.仏教経済学=「足るを知る経済」を求めて

地球環境時代の21世紀において「いのちの尊重」を実現させるには何が求められているのだろうか。今日ほどいのちが粗末に扱われ、自然や人間の生命が無造作に奪われていくことが日常茶飯事になっている時代がかつてあっただろうか。わが国の平和憲法第13条は「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」をうたっているが、この条文は第9条(戦争放棄と戦力の不保持、交戦権の否認)と同じように事実上空洞化しているというほかない。どうしたらよいのだろうか。生き方、暮らしのあり方、経済の構造を根本から変革する以外に妙策はあり得ない。

そのためにはまず新しい経済思想としての仏教経済学の構築が急務である。それでは仏教経済学(別称「知足=ちそく=の経済学」)は現代経済学(別称「貪欲=どんよく=の経済学」)に比べどのような特質、質的差異が考えられるのだろうか。いち早く仏教経済学を提唱したのは、ドイツ生まれの経済思想家、エルンスト・F・シューマッハー(注)である。彼は仏教経済学の特質に関連して次のように喝破した。「仏教抜きの経済学は、愛情のないセックスと同じである」と。
 (注)シューマッハー(1911~77年)の主著は世界的ベストセラーになった『スモール イズ ビューティフル―人間中心の経済学』で、この中で「仏教経済学」と題した章を設けて論じている。1955年、当時のビルマ(現ミャンマー)政府の経済顧問に招かれ、仏教信者とも交流を重ねた。キリスト教(カトリック)信徒であるが、ヨガの実践に関心を抱くなど異色の経済思想家である。

▽仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか

シューマッハーが唱える仏教経済学に私なりの主張も加味して仏教経済学と現代経済学の大まかなイメージ比較を試みたい。

<仏教経済学>         <現代経済学>
地球環境時代           経済成長時代
いのちの尊重             無視  
人間は自然の一員        自然を征服・支配・破壊

知足(簡素)と非暴力(平和)  貪欲(浪費)と暴力(戦争)
利他主義              利己主義
非貨幣価値を尊重        拝金主義

共生・相互依存・平等       孤立・分断・差別
個性を磨く競争・連帯       弱肉強食・人間は手段

持続可能な「発展」         持続不可能な「成長」
脱「経済成長主義」          経済成長至上主義
(脱「石油浪費経済」)        (石油浪費経済)
 
▽「いのちの尊重」がキーワード

イメージ比較について若干の説明を加えたい。
仏教経済学は仏教の考え方を経済に活かすことをめざしている。何よりもいのち・自然を尊重し、人間は自然の一員という立場をとる。現代経済学がいのちを無視して視野の外に置き、しかも人間は自然とは対等ではなく、むしろ自然を征服・支配・破壊する対象として捉えるのと大きな違いである。だから仏教経済学は地球環境を大切にすることが求められる地球環境時代にふさわしい新しい経済思想である。

仏教経済学は欲望について知足(足るを知ること)を旨とし、簡素、非暴力(=平和)を実践し、「足るを知る経済」すなわち脱「石油浪費経済」(=脱「経済成長主義」)の構築をめざす。だから別称・知足の経済学ともいえる。

これに対し現代経済学は貪欲すなわち「もっともっと欲しい」という欲望の肥大化を是認する。貪欲は浪費、暴力(=戦争)を求める。それは同時に石油浪費経済(=「経済成長至上主義」)につながる。ケインズは貪欲のすすめを説いており、「地震や戦争も富の増進に役立ち得る」とさえ述べている。地震は新たな復興需要をもたらし、戦争は兵器生産などを通して軍需景気を促し、それが生産増大、経済成長を可能にするだろうと言いたいのである。現代経済学を別称・貪欲の経済学と性格づけるのは決して誇張ではない。

▽異なる人間観―利他主義と利己主義

人間観も大きく異なっている。現代経済学は利己主義、すなわち個人や企業の自己利益を優先させる人間観を前提にして理論をつくりあげている。たしかに自分さえよければそれでよいという、身勝手な人間が増えた。これは犯罪に走り勝ちな拝金主義にもつながっている。昨今、世の乱れは目を覆うものがあるが、その一半の責任は現代経済学の利己主義にあることを強調したい。

これに対し仏教経済学は「世のため、人のため」を重視する利他主義という人間観を前提に構想する。仏教では「自利利他の調和」、すなわち利他主義が結局自分の活力、感謝、安心をもたらすと説く。これはお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)を重視する発想でもある。例えば電車の中で座席を譲るのも立派な利他主義の実践であり、非貨幣価値を重視する行動である。

仏教経済学は共生を重視する。人間同士だけでなく、人間と自然との共生も重視する。なぜなら人間は自分一人の力で生きているのではなく、他人様のお陰で生きているからである。また自然からの恵みをいただきながら人間はいのちをつないでいる。だから人間同士、さらに人間と自然との相互依存関係を大切に考える。人間に限らず、動植物も含めて地球上の生きとし生けるものすべてのいのちは相互依存関係の中でのみ生き、生かされている。ここから人間も、人間と自然もそれぞれお互いに対等・平等の地位にあると認識する。

これに反し、現代経済学には共生・相互依存・平等という感覚は欠落している。人間はそれぞれが孤立・分断された個人にすぎない。そこには差別が生じやすい。また人間と自然とは切り離された状態にあり、人間が自然を開発・征服するのは当然と考えやすい。

▽競争―オンリーワンとナンバーワン

競争についてはどうか。仏教経済学も競争は重視する。なぜなら競争のない社会は活気とは無縁であり、停滞するからである。しかし競争はそれぞれの個性を尊重し、その個性を磨く、あるいは個性を生かす競争のすすめを説く。今風にいえば「オンリーワン」をめざす競争である。いいかえれば他人との競争というよりも、自分をより高めるための自分との競争である。ここから相互の連帯感も生まれる。

一方、現代経済学のすすめる競争は弱肉強食、優勝劣敗である。強者が弱者を打ち負かして当然という競争である。「オンリーワン」ではなくて、「ナンバーワン」をめざす競争といえる。これは今日の効率・利益至上主義に走る競争であり、ほんの一握りの「勝ち組」がその他大多数の「負け組」を見下す競争でもある。「勝ち組」といえども明日には自分が「負け組」に転落する悲劇が待ちかまえている競争である。この場合、人間は効率や利益の手段でしかない。人間尊重、ましていのち尊重という視点とは無縁である。

Ⅳ.持続可能な発展=環境保全と質の充実と平和と

ここで仏教経済学の柱の一つであり、21世紀のキーワードともいうべき「持続可能な発展」(Sustainable Development=持続的発展)について概略説明しておきたい。持続可能な発展は、国連主催の第1回地球サミット(1992年ブラジルのリオで開催)が打ち出して以来、広く世界で知られてきた概念、思想で、そのポイントは次の3点に集約できる。
*生活の質的改善を、生態系など自然環境の収容能力・自浄能力の限度内で生活しつつ、達成すること=量の拡大(経済成長至上主義=石油浪費経済)から質の充実(脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」)への転換
*動植物、人間すべてのいのちからなる生命共同体を尊重すること=21世紀の平和観
*戦争は、持続可能な発展を破壊する性格を有する。平和、発展および環境保全は相互依存的であり、切り離せないこと=戦争、テロなど一切の暴力を拒否

以上をまとめていうと、持続可能な発展(=持続的発展)は、地球環境の保全と生活の質向上の両立を図り、戦争などの暴力を拒否することを指している。具体的には長寿・健康・教育さらに政治的自由と人権の保障、生産・消費の抑制と廃棄物の削減(=脱「石油浪費経済」)、失業の解消、公平な所得分配と所得格差の是正、生物学的な多様性を含む自然環境の保全、文化的・精神的充足感、軍事支出の削減、軍事同盟の解消―などが挙げられる。

▽持続的発展への新たな脅威

第2回地球サミット(=ヨハネスブルグ・サミット。2002年秋、南アフリカのヨハネスブルグで開かれた国連主催の世界サミット)は、その宣言で持続的発展にとって以下のような新たな脅威を指摘したことを紹介しておきたい。
貧富の格差拡大、市場のグローバル化(地球規模化)が招く不平等、飢餓、人種・宗教差別、水・衛生施設などの不足、組織犯罪、エイズ、武器・人身売買、テロ、占領、軍事衝突など。

これからも分かるように持続的発展は社会、経済、生態、文化、軍事にわたる包括的な内容からなっていることを理解する必要がある。ところが現代経済学の立場から持続的発展について「経済成長と環境保全の両立」をめざすものと誤用されることが少なくない。経済成長は「量の拡大」を意味しており、持続性は不可能である。経済成長への執着こそが地球環境の汚染・破壊を招く元凶であり、「質の充実」とは両立しないことを認識する必要がある。

Ⅴ.暮らしと経済社会の変革プラン=簡素、非暴力を軸に

仏教経済学の性格は次のように表現することもできよう。「コンクリートのすき間を縫って芽生えてきた緑の草花」と。ここでのコンクリートはいうまでもなく科学技術・石油文明を指している。この緑の草花はまだ大きくはないが、雑草のように生命力はたくましい。やがてコンクリートを覆いつくすときが来るだろう。そしてコンクリートに取って代わるには具体的な変革プランが必要である。

それは(1)簡素な暮らし(シンプルライフ=いのちの尊重)に切り替え、定着させること、(2)簡素な経済(シンプルエコノミー=脱「石油浪費経済」)に大胆に転換すること―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。

具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型車社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(風力、水力など)への転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)、健康人を増やす医療改革、戦争・テロ・暴力の拒否―などを視野に収めた日本改革プランである。
しかしここではいのちや非暴力に深くかかわっているテーマに絞って提案したい。

1)「いただきます」の復活、普及を

まず「いただきます」の復活、普及である。私はここ数年来、折にふれて「お陰様で」、「もったいない」とともに「いただきます」の必要性を強調してきた。これによっていのち、節約・感謝の精神を日常の暮らしの中で大切にしようといいたいのである。

#問い:食事前に唱える「いただきます」の意味は? 大量の食べ残しをどう考えるか?
#答え:動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。
千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
 (注)千利休(せんのりきゅう、1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。

▽食べ残しは、いのちを粗末にすること

大量の食べ残しはいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。戦後の高度経済成長と使い捨ての時代になって以降、「いただきます」の意味を理解した上で食事を摂っている人が少なくなった。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。

もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう活かすかである。もちろん「世のため、人のため」に活かすことであり、これが利他主義の原点となる。だからこそ「いただきます」を「お陰様で」、「もったいない」と並んで復活、普及させることは重要なテーマといえる。

<補注>毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は東京、名古屋、京都を訪ね、「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いた。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、日本文化に根づいた〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしい。

2)戦力なき「地球救援隊」の創設を

次はアメリカ主導の大義なき戦争にストップをかけるためにも、平和憲法第9条(戦力の不保持)の理念を活かして、自衛隊を戦力なき「地球救援隊」(仮称)に全面改組することを提唱したい。
テロ制圧と自由・民主主義を目標に掲げたアメリカ主導のアフガニスタン、イラクへの戦争はアメリカの覇権主義に根ざした武力行使であるが、その狙いの一つは石油確保にある。さらに戦争は人命、生活、自然環境を破壊する元凶そのものである。こういう戦争に正義はないし、「人道支援」という名目にせよ、日本の自衛隊を派兵しなければならない正当な根拠はない。同時に平和憲法第9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようとする動きが自民党を中心に顕著になりつつあることは見逃せない。

<補注>自民党は05年11月22日の「立党50年記念党大会」で新憲法草案を正式発表した。その中で現行憲法9条1項の「戦争放棄」は残しているが、肝心の2項「戦力の不保持と交戦権の否認」を削除し、「自衛軍の保持」を明記している。正式の軍隊を持ち、海外で武力行使ができることを憲法上認めようという改悪である。

▽「平和憲法は宝」と海外で高く評価

まず強調したいのは憲法第9条は海外で評価が高く、改悪に反対の声が高まっていることである。一例を挙げれば、元上智大学長、イエズス会神父のヨゼフ・ピッタウ師(イタリア人)は「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という意見の持ち主である。平和憲法の理念を活かすためには、ミサイル防衛など戦力の質的増強を図る自衛隊を戦力なき組織に全面改組することが求められる。

次に地球環境時代の脅威は多様であり、例えば地球温暖化―異常気象によって多数の犠牲者が続出するという非軍事的脅威こそ主要な脅威であり、外国からの軍事的脅威は決して主要な脅威ではないことを認識する必要がある。いいかえれば地球環境時代の主要な脅威にはミサイルや戦闘機は無力である。従って地球環境時代にふさわしい救援組織の創設が急務である。

さらに現代経済学、すなわち貪欲の経済学は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認するが、仏教経済学、すなわち知足の経済学は、いのち・自然を尊重する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。こういう仏教経済学の考え方から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出される。

▽戦力なき地球救援隊構想の概要

さて戦力なき地球救援隊構想の概要は次の諸点からなっている。
*地球救援隊は軍事的脅威に対応する組織ではなく、非軍事的脅威(大規模災害、感染症 などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的 救助・支援をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な 人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*自衛隊の戦力なき「地球救援隊」(仮称)への全面改組であること。従って地球救援隊 と自衛隊とが共に併存するものではないこと。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練などの質 の改革を進めること。
・装備としては戦闘機、ミサイル、武装ヘリコプター、戦車、護衛艦、潜水艦、対潜哨戒 機、弾丸などの兵器は廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸 送船、食料、医薬品などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路 交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装 の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員は約25万人)を大幅に削減し、訓 練は戦闘訓練ではなく、救助・支援の訓練とする。

*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、 治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で 新立法を行う。自衛隊法ほか有事関連法は廃止すること。

▽宮沢賢治の慈悲と利他の心

以上のような地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨ニモマケズ」の慈悲と利他の心が込められている。
 (注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は岩手県生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。

「雨ニモマケズ」の大要を紹介したい。
雨ニモマケズ   風ニモマケズ 
慾ハナク  イツモシヅカニワラッテイル
(中略)
東ニ病気ノコドモアレバ  行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイヒ
(中略)
サウイフモノニ   ワタシハナリタイ

この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨ニモマケズ」として読み替えれば、何がみえてくるか。「南ニ死ニサウナ人アレバ」は発展途上国の栄養失調、病気、飢餓、劣悪な生活インフラで苦しんでいる10億人を超える人々のことであり、「北ニケンクワ(喧嘩)」とはアメリカ(北米)主導のアフガニスタン、イラクへの攻撃を指している。たしかに「ツマラナイカラヤメロ」という声は地球上を覆いつつある。

最後の「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」は「そういう国に日本はなりたい」と読み直したい。宮沢賢治が今生きていれば、そう詠い直すに違いない。賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。こういう道を大胆に選択することこそが地球環境時代に生きる智慧といえるのではないか。


<参考文献>
E・F・シューマッハー著/小島慶三ほか訳『スモール イズ ビューティフルー人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年)
同著『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年)

安原和雄著『足るを知る経済ー仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)
同「日本をどう創り直すかー仏教経済思想に立って」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第23号、2004年1月)
同「二十一世紀版小日本主義のすすめー大国主義路線に抗して」(同第24号、2005年1月)
以上
平和をつくる4つの構造変革
平和をつくる4つの構造変革

安原和雄
「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」(略称・コスタリカに学ぶ会)主催の対話・討論集会「平和をどうつくるか」が2005年11月27日東京・足立区内で約90名を集めて開かれた。パネルディスカッションのコーディネーターは弁護士・中山武敏氏、パネリストは作家・早乙女勝元氏、ジャーナリスト・齋藤貴男氏、それに私の3人である。

冒頭、映画「軍隊を捨てた国・コスタリカ」の要約版ビデオの上映があり、映画企画者の早乙女氏の次のような解説が印象に残った。
「軍隊を持たないで、他国に侵略される恐れはないのか、という疑問を我々は抱きやすいが、コスタリカの人々は、こちらから攻撃をしないのだから、攻撃されることもないと確信している。一般に〈備えあれば憂いなし〉というが、〈備えがないのが最強の備え〉ともいえるのではないか。〈軍隊がなくても平和たり得る〉のではない。〈軍隊がないからこそ平和たり得る〉と考えたい」と。         
以下はパネリストとしての私の主張「平和をつくる4つの構造変革」である。時間の制約上、説明不十分だったところは補足した。

▽「平和=非暴力」が広い平和観
 平和とはなにか。「平和の再定義」が必要と考える。一般に「平和=非戦」すなわち戦争がない状態が平和だと理解されている。もちろんこの平和観は重要だが、これでは「戦争反対」「平和を守れ」という視野を出ない。今やこういう平和観は狭い平和観といえる。
「平和=非暴力」と定義し直し、広い平和観をつくる必要がある。「平和=非暴力」とは、すべての暴力がないことを指している。すなわち究極の国家的暴力である戦争がないことはもちろんのこと、その他の多様な暴力もあってはならない。
 多様な暴力とは、いのちを無造作に奪う日常的な凶悪犯罪、自殺、交通事故死、人権抑圧、教育への不当な介入、不当な増税、福祉の軽視、自然・エネルギーの収奪・浪費、雇用機会の削減、家庭内暴力、企業犯罪、社会的不公正―などを指している。地球規模でみれば、これに貧困、飢餓、地球温暖化、異常気象、自然大災害、砂漠化、各地での軍事的紛争―などが加わる。

 日本列島上ではたしかに戦争はない。しかし平和だろうか。我が子を惨殺された親が「日本は戦争をしていないから平和だ」と思うだろうか。地獄へ堕ちた思いではないだろうか。
日本列島は今や多様な暴力があふれている事実上の「戦場」と化していると考える。多様な暴力がない状態をどうつくるか、それが平和をつくるということである。

 以上のような広い平和観に立って、以下に4つの提案を行う。
 中華人民共和国初代の国家主席、毛沢東は「敵の武器を奪って戦え」といったというが、先の「9.11衆院総選挙」で成功を収めた小泉首相の「単純なスローガン」戦法をこの際借用したい。4つの提案の単純なスローガン、キーワードは、次の通りである。

1)安保解体
2)地球救援隊
3)平和同盟
4)シンプルライフ

1)安保解体
当面の目標として、憲法9条の改悪を阻止し、在日米軍再編による安保の強化を拒否し、さらに長期目標として「安保解体」をめざすこと

▽なぜ9条改悪阻止が必要なのか
自民党新憲法草案(05年10月28日正式決定)によると、憲法改悪のポイントは9条2項の「戦力不保持」「交戦権の否認」の削除、その一方で正式の軍隊として「自衛軍の保持」を明記する。
これは戦争を行うための軍隊をもつことであり、米国の海外での戦争に公然と日本の軍隊が参加すること、つまり海外での日米共同の殺戮作戦に参加することにつながる。

この結果、なにが起こるか。米国のイラク攻撃に参戦したイギリス、スペインが本国でテロ攻撃を受け、多くの犠牲者が出たように日本も、例えば新幹線がテロ攻撃に見舞われ、一挙に数百人が犠牲になる可能性がある。
予想されるこの惨事を避けるためにも、当面の目標は9条改悪阻止である。

▽在日米軍再編―安保強化の拒否
平和をつくるためには9条改悪阻止と並んで、まさに今進められようとしている在日米軍再編、つまり日米安保体制の強化を拒否することである。

在日米軍の再編はなにを意味するのか。在日米軍基地の永久化を含めて日米軍事協力の一体化、緊密化を一層進めようというもので、「世界の中の日米同盟」としての機能、役割の強化をめざしている。
このような日米軍事協力が進めば、憲法9条の条文をそのまま守ることができたとしても、自衛隊の海外派兵が実質上促進されるだろう。
一方、憲法9条が改悪されれば、日本列島はこれまでのような米国の戦争への支援基地から日米共同の出撃基地へと質的な変化を遂げることになる。

▽日米首脳会談と「世界の中の日米同盟」
05年11月16日、京都で開かれた日米首脳会談は注目に値する。「世界の中の日米同盟」を再確認したからである。
日米安保、日米同盟はすでに1990年代後半から「世界の中の日米同盟」に変質―これを「安保の再定義」という―していることを見逃してはならない。ソ連崩壊、東西冷戦終結後、米国が突出した軍事力と身勝手な先制攻撃論を背景に打ち出した覇権主義、単独行動主義に対する補完・支援の役割を日本が世界的規模で担うこと―、それが「世界の中の日米同盟」にほかならない。

▽平和のための変革の本丸は「安保解体」
1960年の現行日米安保条約調印に全国規模で反対運動を展開したときのスローガンは「安保反対」だった。それから45年経ったいま、スローガンは「安保解体=アンポカイタイ」である。単なる「反対」ではなく、「解体」である。「自民党をぶっ壊す」とのたまう小泉首相流にいえば「安保をぶっ壊す」でなければならない。
平和をつくる長期目標として、日米安保体制そのものの解体、日米軍事同盟の解消を明確に掲げるときがきた。平和をつくるための本丸は、なぜ「安保解体」なのか。

*日米安保体制、日米同盟が世界最強の軍事力で武装した「世界の中の日米同盟」として世界に軍事的脅威を与える存在というだけでなく、すでに軍事力行使同盟になっているからである。ブッシュ大統領の表現を借りれば、日米安保こそ「悪の枢軸」(「9.11同時多発テロ」の翌年・02年1月の一般教書)であろう。

*日米安保体制は、日米のいわゆる軍産複合体(注)にとって巨大な既得権益であり、戦争ビジネスの豊富な機会を保障してくれる。だから日米安保は世界平和のための安全保障ではなく、日米軍産複合体のための安全保障の役割を果たしている。
(注)軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、全国向けの演説で「軍産複合体(巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体という新しい現象)が経済的、政治的、精神的に強力かつ不当な影響力を行使しており、自由と民主主義を破綻させる可能性がある」と警告を発した。これをきっかけに軍産複合体の存在が表面化した。その後、軍産複合体は肥大化し、軍事的脅威の巧みな演出者にもなっている。今ではかつての単なる「軍産複合体」から、構成メンバーも多様化した巨大な「軍産官学情報複合体」として道理なき影響力を持ちつづけている。

*平和をつくるためには平和憲法9条の「戦力不保持」、「交戦権の否認」の理念を活かすことが不可欠である。
ところがこの平和理念は日米安保体制(安保条約第3条で日本は自衛力の維持発展を、第6条で軍事基地の許与を、それぞれアメリカに約束している)を背景に空洞化している。歴代保守政権は安保体制を優先し、一方、平和理念をないがしろにし、「解釈改憲」という手法を駆使して、9条の理念を骨抜きにしてきたからである。

 だから平和理念を取り戻し、実効あるものに育てるには日米安保と軍事同盟を解体するほかない。

▽安保解体は可能か
安保条約第10条(有効期限)は「相手国に条約を終了させる意思を通告した場合、その後1年で条約は終了する」と定めている。安保の呪縛から自らを解放し、自立した日本人となって、この条文の意味をしっかりと受け止めたい。国民、市民一人ひとりの変革への意志を結集できれば、「安保解体」は可能である。

2)地球救援隊
自衛隊を全面改組し、非武装の「地球救援隊」(仮称)をつくること

「安保解体」から「軍事力解体」へ、が次の戦略的目標である。そこへ登場してくるのが非武装の「地球救援隊」構想である。(詳しい内容は「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「説法・日本変革への道」全容を参照)

地球温暖化に伴う異常気象、自然大災害(巨大台風・ハリケーン、大地震、巨大津波など)、感染症の猛威、水・食料不足、飢餓、貧困、社会的不公正―など地球規模の非軍事的脅威、いいかえれば非軍事的暴力が多様化し、世界を苦しめている。これらの非軍事的暴力に地球規模で取り組むのが地球救援隊である。
この構想も軍隊を捨てたコスタリカに学び、平和憲法の理念を具体化させる日本の知恵であり、これこそが世界から期待される望ましい国際貢献である。

3)平和同盟
東アジア平和同盟(仮称)の結成に積極的に取り組むこと

東アジア平和同盟は東アジアにおける日米同盟など2国間の軍事同盟に代わる非軍事的な新しいタイプの集団安全保障体制である。自衛隊を全面的に改組して非武装の「地球救援隊」をつくるためには、このような集団安全保障体制の結成が不可欠である。

東アジア平和同盟のメンバーは、日本、中国、韓国、北朝鮮、東南アジア諸国連合(ASEAN=加盟国はタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、シンガポールなど10か国)が考えられる。
この平和同盟は05年12月中旬マレーシアで開かれる第一回東アジア首脳会議が出発点となることを期待する。近未来に北朝鮮も含めて相互不可侵の誓約、核廃絶、顕著な軍縮の実現、経済的・人的交流の促進―などをめざす東アジア平和同盟(「東アジア共同体」など呼称は多様)へと発展させるよう努力する。

ここでもコスタリカに学ぶ姿勢が大切である。コスタリカは米州機構(OAS=05年6月の総会で内政不干渉の原則を確認)などの集団安全保障体制に加盟している。それが非武装中立国・コスタリカの安全保障の基礎にもなっている。

4)シンプルライフ
簡素な暮らし・経済へ変革すること

我々は日常生活で無造作に石油を浪費する暮らし方、いいかえればシンプルライフとはほど遠いを生き方を繰り返してはいないだろうか。これが実は戦争や暴力とつながっていることを理解する必要がある。なぜなら石油浪費型の暮らしや経済は資源エネルギーの暴力的確保(例えば米国のイラク攻撃と日本の攻撃支援の背景に中東石油の確保がある)を必要とするからである。
石油は、有限でしかも地球上の一部地域(例えば日本は石油の9割を中東地域に依存している)に偏在しているという特性がある。このため石油の確保をめぐって戦争など暴力沙汰を引き起こしやすい。

ノーベル平和賞受賞者のマータイ女史(ケニアの自然環境保護活動家)は05年2月来日、日本語の「もったいない」(MOTTAINAI)に出会い、世界共通語にしようと国連をはじめ世界各地で訴えてきた。そのマータイ女史は「多くの戦争は資源をめぐって起こる」と指摘している。
日本文化ともいうべき「もったいない」の精神を活かして大量生産ー大量流通ー大量消費ー大量廃棄の浪費的経済構造に別れを告げ、簡素な暮らし・経済へ転換させることが実は平和構築にとって不可欠なのである。

「憲法9条を守れ」、「戦争反対」を叫ぶだけでは、今や平和=非暴力をつくることはむずかしい。日常生活を石油など資源エネルギーの浪費につながらないシンプルなものに変えていくことが求められる。
例えば近い将来、地球温暖化、異常気象、水不足などを背景に世界的な食料不足時代がやってくるだろう。それがまた地球規模での暴力沙汰を誘発する引き金になることは間違いない。ではどうするか。まずは食べ残し、食べ過ぎを止めることである。これなら一人ひとりに今日ただいまからでも実行できるのではないか。それが平和をつくる行為である。

〈仏教経済学ってなに?〉
 その7つのキーワード=いのち・平和(=非暴力)・簡素・知足(=足るを知る)・共生・利他・持続性

 上述の記事、提案は仏教経済学〈別称「知足(ちそく)の経済学」〉の視点から書いている。仏教経済学とはなにか。
 新しい時代を切りひらく世直しのための経済思想である。仏教の開祖・釈尊の教えを土台にすえて、21世紀という時代が求める多様な課題―地球環境問題から平和、さらに一人ひとりの生き方まで―に応えることをめざしている。その切り口がいのち・平和・簡素・知足・持続性など7つのキーワードで、これらの視点は主流派の現代経済学〈別称「貪欲(どんよく)の経済学」〉には欠落している。だから仏教経済学は現代経済学の批判から出発している。
以上
説法・日本変革への道(要約)
説法・日本変革への道

 仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7両日の浄土宗教化高等講習会で私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。以下は「説法・日本変革への道」(要約)である。(別稿で全容を掲載)

▽仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
 最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきである。私はCSRにヒントを得てBSRという新語をつくった。衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。

▽すでに破産した現代経済学
仏教経済学は現代経済学(赤字財政による経済拡大策をすすめるケインズ経済学など)とどう異なるのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害などはその具体的な現れである。
 破局をもたらしたものは、現代経済思想であり、それに基づく経済成長路線であった。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。

▽仏教経済学の特質はいのち・知足・利他・持続性
 仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。欲望について仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。これも仏教経済学の特色である。
 経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
 地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。
 現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。
 一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「ゼロ成長でも十分」と考える。

▽「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及を
 日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することである。そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。

▽「健康のすすめ」の医療改革案
 厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう医療改革は改革の名に値しない。「健康のすすめ」を柱とする改革案は次の通りである。
*高齢者は原則無料
*健康奨励策の導入=1年間に1度も医者にかからなかった者は、医療保険料の一部返還請求の権利を持つことなど。
*「いのち・食・健康」教育の重視=「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。
*働き方の改革=労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。
*自己責任の原則を導入=糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったのだから、自己責任の原則を適用する必要がある。

▽自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
 既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。

 地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は以下のようである。
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
 装備は人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断され、空路による救助・支援のための「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
以上
説法・日本変革への道(全容)
説法・日本変革への道

 安原和雄
 仏教経済学の視点からどのような日本変革論が可能だろうか。2005年10月26、7日の両日、浄土宗の教化高等講習会が栃木県下で開かれ、私は、「いのちの尊重と仏教経済学ー地球環境時代をどう生きるか」と題して講演した。参加者は関東地区から集まったお坊さんたちで、以下は、坊さんならぬ一介の仏教経済学徒が講演の趣旨を織り込んでまとめた「説法・日本変革への道」(全容)である。この日本変革論は小泉首相の改革路線とは180度異質であることを強調したい。(別稿で要約を掲載)

Ⅰ.仏教の社会的責任(BSR=Buddhist Social Responsibility)
 最近、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)が厳しく問われるようになった。03年1月スイスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(通称ダボス会議)で「企業は貪欲に利益を追求するだけでよいのか」という声が相次いで飛び出した。短期利益や株価だけを重視する米国式経営の限界が米企業の数々の不祥事で表面化したためである。日本企業の不祥事が相次いでいる今日、CSRは日本でも日常用語になった観がある。

 仏教が社会的存在である以上、企業同様に社会的責任が問われるべきではないだろうか。私は05年10月中旬「安原和雄の仏教経済塾」に「企業人はカネの奴隷か」という一文を載せた。読者からの感想に「権威あるお寺のお布施もカネ次第になっている現状では仏教はどこまで有効なのか」があった。もっともな疑問である。
 私はCSRにヒントを得てBSR(仏教の社会的責任)という新語をつくった。葬式仏教にとどまらず、現世において仏の教えが日常生活の中に浸透していくこと、さらに衆生済度の思想を生かして人助け、世直しのために貢献することが仏教の社会的責任とはいえないか。そういう視点から仏教経済学の特質は何か、仏教経済学からどのような日本変革への道筋を引き出すことができるかを考える。

Ⅱ.仏教経済学(「知足の経済学」)と現代経済学(「貪欲の経済学」)の比較
実は肝心のビジネスマンたちと仏教経済学はまだ縁が浅い。「仏教経済学って、なに?」という反応が普通である。仏教経済学は現代経済学とどう異なるのか。双方の経済学の特質を以下に説明したい。

▽仏教抜きの経済学は愛情のないセックス?
 仏教経済学は地球環境時代の経済思想であり、一方、現代経済学は経済成長時代のそれである。第2次世界大戦後の大きな時代区分として経済成長時代と地球環境時代を考える。経済成長によって豊かさを追求してきたのが経済成長時代で、日本では1990年頃、バブル崩壊とともに終わった。そしてわれわれはいま地球環境時代に生きている。
 地球環境時代とは、どういう時代なのか。地球環境の汚染・破壊によって、地球上の人間・動植物も含めた生きとし生けるものすべての「いのち」の生存基盤が破局に直面している。最近頻発する異常気象、自然大災害はその具体的な現れである。この現状を地球環境の保全と再生によってどう打開するかが緊急の至上命題となっている、そういう今日の時代を指している。

 破局をもたらしたものは、現代経済思想(注)であり、それに基づく経済成長路線であった。経済成長の旗振り役を務めた現代経済学者たちの責任は大きい。現代経済学はすでに破産したともいえる。だから地球環境時代にふさわしい新しい経済思想を構築しなければならない。それが仏教経済思想である。
 (注)現代経済思想とは、イギリスの経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883~1946年、主著は『雇用、利子および貨幣の一般理論』・1936年)のケインズ経済学(財政赤字による経済成長主義)、最近の自由市場原理主義(ブッシュ米大統領・小泉首相チームによる弱肉強食の経済思想)などを指している。

 著書『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)で「仏教経済学」を提唱したことで知られるドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーは「仏教抜きの経済学は愛情のないセックスと同じだ」と言った。これはなにを意味するのか。仏教経済学がめざすものはいのち、安らぎ、慈しみそのものであり、一方、現代経済学は愛情のないセックスにたとえられると主張したいのだろう。

▽第一の特質はいのちの尊重
 さて仏教経済学の第一の特質は、いのちの尊重である。地球は人間、自然(生態系)のいのちからなる広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちが危機にさらされている。だから、仏教経済学はいのちの尊重を前面に掲げる。釈迦の説法は「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」である。しかし現代経済学にはそもそもいのちの尊重という発想はない。視野の外に置かれている。
自然と人間の関係について仏教経済学は、人間を自然の一員としてとらえるのに対し、現代経済学の立場では人間が自然を征服・支配し、破壊することになる。

 欲望についてはどうか。仏教経済学は釈迦が説いた知足(足るを知るこころ)を重視する。ここが仏教経済学のもうひとつの特色である。このため私は「知足の経済学」とも呼称する。一方現代経済学についてはイギリスの経済学者、ケインズが「豊かさを追求するためにはまだまだ貪欲を必要とする」と述べたことから私は「貪欲の経済学」とも名づける。
 きずなについては仏教経済学は地球・自然・動植物と人間、人間同士の共生、いいかえれば相互依存関係にあると認識し、相互のきずなが深まることを期待する。これは聖徳太子の和の精神の今日的な実践でもあるだろう。しかし現代経済学はもともと地球・自然との共生は視野になく、人間も個人主義の立場から孤立、分断状態、つまりきずななどと無縁の世界ととらえる。
競争はもちろん必要で、競争のない社会は停滞する。だが競争には善い競争と悪い競争がある。仏教経済学は野球のイチロー、ゴルフの宮里藍にみられる 「自分との競争」をすすめる。個性を競い合ってこそ連帯感も広がるからである。これは善い競争の一例である。これに反し、現代経済学は企業のリストラ(人員整理)にみられるように人間を手段視し、弱肉強食をすすめる。これは悪い競争である。

▽利他主義? それとも利己主義?
 経済学はその理論体系の中でどういう人間観を想定しているかが重要である。既存の現代経済学は利己主義、すなわち自己利益の最大化こそ合理的と考える人間像を想定しているが、仏教経済学は利他主義、すなわち「世のため人のため」にも尽くしたいという本性が備わっている人間像を視野に入れている。
 貨幣観はどうか。仏教経済学は、GDP(国内総生産)では表示できない非貨幣価値(=市場では入手できない非市場価値)、例えば地球上の生きとし生けるものすべてのいのち、太陽光熱、地球、大気、土壌、森林、水脈、生態系などの自然環境、さらにいのちあるものへの慈しみ、思いやり、共生と連帯感、生きがい、働きがい―などを重視する。一方現代経済学は貨幣価値(=カネとの交換で市場で入手できる市場価値)しか視野になく、「カネこそわが命」という考えから、拝金主義に走らざるをえない。

 さて地球環境時代のキーワードである持続性、すなわち持続可能な「発展」(=Sustainable Development=1992年の国連主催の第1回地球サミットで打ち出された)はどうか。そのポイントは、①量の拡大から質の充実への転換、②戦争、テロなど一切の暴力の拒否であり、いわば21世紀の平和志向そのものである。
 現代経済学は、持続不可能な「成長」を重視する。だから経済成長至上主義=石油浪費経済をむしろ奨励し、それに歯止めをかけることができない。石油浪費経済を止めないかぎり、地球の一部地域に偏在し、有限資源である石油の暴力的確保に走りやすい。石油浪費経済に執着するアメリカのイラク(世界第2位の石油埋蔵量)攻撃の狙いに石油確保があることがそれを示している。日本がイラク攻撃を支援しているのも石油確保(石油の9割を中東地域に依存)が背景にある。
 現代経済学者、ケインズは「災害も戦争も富の増進に役立つ」と言った。現代経済学は暴力、すなわち自然からの逆襲である災害も、国家の暴力行為である戦争も肯定するのである。なぜなら災害も戦争も破壊の跡の復興景気を当てにできるからである。しかしこういう経済に持続性は期待できない。

▽持続性を重視する仏教経済学
 一方、持続可能な発展、すなわち持続性を重視する点が仏教経済学の特色である。だから脱「経済成長主義」=脱「石油浪費経済」のすすめを説く。この立場は「経済成長主義よ、さようなら」「ゼロ成長でも十分」(注)と考える。
(注)ゼロ成長の意味はしばしば誤解されるが、これは経済活動がゼロになるという意味ではない。経済活動がゼロになれば、人間は生きていけない。そうではなく、GDP(国内総生産)の伸びがゼロ%、いいかえればGDPの規模が横ばいに推移するという意味である。現在日本のGDPは年間約500兆円で、毎年これだけの規模の新たな富がつくり出されることを指している。

 そういう経済は「平和=簡素と非暴力」につながる。なぜなら有限資源の石油の浪費を止めれば、石油の暴力的確保は必要がなくなるからである。さらに過剰な生産・消費・廃棄を招く経済成長主義に告別すれば、簡素な経済(シンプルエコノミー)の構築も期待できるからである。「簡素すなわち非暴力」(シューマッハーの言葉)であることを認識することが大切である。

Ⅲ.平和(=いのち・簡素・非暴力)な暮らし・経済をつくろう
 仏教経済学が唱える「日本変革への道」は(A)簡素な暮らし(シンプルライフ)、経済(シンプルエコノミー)に切り替え、定着させること、(B)平和、いいかえればいのちを大切にし、簡素、非暴力をめざすこと―の2本柱からなる「日本グリーン化構想」である。
 具体的には循環型社会づくり、財政・税制のグリーン化(高率環境税の早期導入と消費税の廃止など)、農業再生と食糧自給率向上、人命・環境破壊型くるま社会の構造改革、化石燃料(石油、石炭など)から自然エネルギー(太陽光熱、風力、水力など)への大転換、ワークシェアリング(仕事の分かち合い、就業機会の確保)の導入、健康人を増やす社会・医療改革、自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設―などを視野に収めた日本変革プランである。いうまでもなくこれは小泉首相が進めている改革とは異質の変革路線である。
 ここでは次の3点に絞って考えたい。
(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
(2)健康な人を増やす社会・医療改革
(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」の創設

(1)「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の復活・普及
 私は日本の仏教的文化に根ざした「いただきます」「もったいない」「お陰様で」を日常用語として復活・普及させることを提唱したい。これは知足の精神の日常的な実践であり、自然と人間、人間同士の共生を自覚することであり、そしていのち尊重、節約、感謝のこころを日常の暮らしの中で大切にしようと言いたいのである。

▽何をいただくのか?
 食事前に唱える「いただきます」の含意を十分に理解している日本人が少なくなった。何をいただくのか。動植物のいのちをいただくという意味である。人間は動植物のいのちをいただいて自分のいのちをつないでいるのだから、そこに感謝の気持ちが生じるのは当然のことである。また不必要に食べ物を摂取しすぎないこと、すなわち節約の心も大切である。千利休(注)は「食は飢えぬほどにて事足れり」という至言を残している。
 (注)千利休(1522~1591年)は、安土桃山時代の茶人で、簡素・清浄な茶道を大成した。

 大量の食べ残しは動植物のいのちをゴミと同じ感覚で捨てることを意味するから、ひいては人間のいのちをも粗末に扱うことになる。「いただきます」の含意を正しく理解することは、モラルの再生のためにも不可欠である。
 もう一つ大事なことは、折角いただいたいのちをどう生かすかである。もちろん「世のため、人のため」に生かすことであり、これが大乗仏教の利他主義の原点となる。

▽「もったいない」を世界語に
 毎日新聞社の招きで、2005年2月に来日したケニアの環境保護活動家(ケニア副環境相)でノーベル平和賞(04年)を受賞したワンガリ・マータイ女史は、国連など世界中で「日本語の〈もったいない〉という言葉を世界語にしたい」と繰り返し説いている。地球環境保護のために資源・エネルギーを節約するには、〈もったいない〉ほど簡潔にして適切な言葉はない、という認識からである。
多くの日本人が忘れかけていたこの日本独自の言葉がもつ深い価値を遠いアフリカからやってきた人の口から改めて指摘されるとは、日本人としていささか恥ずかしいが、廃語にしてしまうのは、それこそもったいない話である。
 「お陰様で」は、人間は自分独りで生きているのではない、先祖とのつながりのお陰であり、自然からの恵みや人々の有形無形の支えによって生かされ、生きていることに気づき、感謝するこころの表白である。

(2)健康な人を増やす社会・医療改革
 仏教には病と共存、という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った。その体験からできることなら多くの人たちが健康であることを願っている。最近医療ミスが頻発しており、患者の側に立ったぬくもりのある治療体制の確立が急務であると同時に、健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。
 ところが厚生労働省が05年10月19日、公表した「医療制度構造改革試案」は従来通り負担の増加が中心となっている。こういう財政重視に偏した医療改革は改革の名に値しない。健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育や働き方の改革)を伴うプランでなければならない。

▽「健康のすすめ」の改革案
 以下、「健康のすすめ」を柱とする改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
 70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は現在1割となっているが、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
 1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。健康人を増やすためには多様な健康奨励策の実施が望ましい。これは努力すれば、それなりの結果をもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。

*「いのち・食・健康」教育の重視
 「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらに含蓄ある「いただきます」「もったいない」「お陰様で」の言葉を家庭や学校で理解する機会をつくる。学校での教育担当者として定年退職者、大病体験者、ボランティアなどを積極的に活用する。
*働き方の改革
 ワークシェアリング(仕事の分かち合い)の導入による労働時間の短縮、就業機会の保障があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。ところが現実は自由市場原理主義に立つ小泉改革路線の中で企業の人減らし、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に病気や過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。この現状を改善しなければ、健康人を増やすことはできない。

*自己責任の原則を導入
 健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任の原則を適用する必要があるだろう。
*精進のための猶予期間
 自己責任原則の導入は2年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。

 以上の改革は長期的に健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、かりに一部の病院が倒産しても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことである。

(3)自衛隊全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)の創設を
 日本の政策選択の重要な柱として非武装の「地球救援隊」創設を提唱したい。既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認する。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、人間・自然を含む多様ないのちの共生を希求する立場から武力行使を含む暴力を拒否する。この仏教経済学から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくる。

▽なぜ非武装の地球救援隊なのか
 第1は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは改めて指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使が地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為であることはいうまでもない。

 第2は世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約110兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費を大幅に削減し、非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。にもかかわらず巨額の軍事費を支出し続けることは、軍事力の保有による軍事的脅威を助長するだけでなく、むしろ戦争ビジネスに利益確保の機会を与える負の効果しかない。

第3は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、数年来のテロの背景にアメリカの世界戦略、外交、軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子とする覇権主義が、世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。このアメリカの戦略、政策を根本から転換しないかぎり、テロ対策として軍事力を行使することは、むしろ暴力と報復の悪循環を招くにすぎない。

 以上から今日の地球環境時代には「軍事中心の安全保障」観はもはや有効ではないどころか、むしろ世界に脅威を与え、「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めている。それは「いのちの安全保障」とも称すべき新しい安全保障観であり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。

▽地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)
*地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争の放棄と戦力の不保持)を具体化する構想であること。
*地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、地球規模の非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人と人の間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、訓練、教育などの根本的な質の改革を進めること。
 装備は兵器を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」(注)を大量保有する。
 防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在定員約25万人)を大幅に削減し、訓練は戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
 特に教育は大切で、いのちの尊重、利他精神の涵養、人権感覚の錬磨に重点を置き、「いのちの安全保障」を誇りをもって担える人材を育成する。
 (注)新潟県中越地震(04年10月発生、死者51人、負傷者4795人、住宅被害12万9041世帯)、パキスタン地震(05年10月上旬発生、死者5万人超と伝えられる)では陸路交通網が寸断され、ヘリ活用が救助・救援の重要な手段となったことが実証された。

*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法、有事関連諸法は廃止する。

▽仏教と憲法の平和思想を生かして
 地球救援隊創設は、暴力による混乱と破壊に満ちた世界を暴力のない平和な世界につくり直すために、日本が仏教と憲法の平和思想を生かして、先導的な役割を果たそうという構想である。
 ただこの構想を実現させるにはいくつかの条件が必要である。具体的には憲法9条の改悪を阻止すること、戦争の策動基地となっている日米安保・日米軍事同盟を解体し、在日米軍基地を完全撤去すること、東アジア平和同盟を発足させること―などである。そのためには国民一人ひとりの現状打破と変革への強い選択意志が不可欠である。    

 上述の3つの変革プランの達成に仏教が貢献すること―それが仏教の社会的責任といえる。このような社会的責任への自覚なくして、仏教の今後の発展が期待できるとは考えられない。最近「憲法9条を守る会」結成の動きが仏教界にも広がりつつあることは大いに歓迎したい。
以上
足利知足塾が発足
21世紀は知足の時代      
         
 足利知足塾という名の新しい知足塾が全国で初めて発足(05年7月、栃木県足利市大岩町の蕎麦屋さん「だいかいど大海戸」=店主・柿澤一雄さん=にて発足会を開催。20名の市民が集合)しました。以下はその発足会の席で安原が「21世紀は知足の時代」と題して行った講話です。これをきっかけに知足塾が全国のあちこちに誕生することを願っています。


1)仏教経済学―「もったいない」を心に
  キーワード:もったいない、知足と共生、貪欲を超えて

 赤穂浪士四十七士が吉良邸討ち入り前夜に集合したのはたしか蕎麦屋でした。歴史に残るような重要な会談や会合はしばしば蕎麦屋か温泉で行われてきました。今日のこの会合も開催場所は蕎麦屋であり、今後どこまで発展するか楽しみです。

 さて仏教経済学といってもまだ馴染みにくいところがあるでしょうが、そうむずかしい話ではありません。分かりやすくいえば、仏教を経済に活かそうという新しい考え方です。だから大学の経済学部で教えている従来の現代経済学とは異質のものです。
 
 では仏教を経済にどういう風に活かそうというのでしょうか。仏教の今日的なキーワードである「知足」(=足るを知ること)と「もったいない」の心、精神を経済や日常の暮らしの中に組み込んで、経済のあり方(生産、流通、消費、廃棄のあり方)、その経済を担う人間様一人ひとりの生き方、暮らし方を変えてみようという話です。

 仏教というと、あの世で地獄ではなく、極楽へゆくためのお説教くらいに考えている人が多いと思いますが、それは誤解であり、錯覚です。仏教は現実のこの世で地獄に堕(お)ちないで、極楽に生きるにはどうすればよいかを説く教えです。しかも仏教は十の理屈よりも一つの実践を重視します。だから仏教経済学はこの世で極楽、幸せを築くには経済や暮らしの変革をめざして実践することを重視します。

2)少欲知足の説法について
▽釈迦(仏教の開祖)の説法『遺教経』(ゆいきょうぎょう)
・少欲=「多欲の人は、多く利を求むるが故に苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲なければ、この患(わづら)いなし」
・知足=「不知足の者は富めりといえども、しかも貧し。知足の人は貧しといえども、しかも富めり」
▽老子(中国古代の哲人)が説いた『老子』=「足るを知る者は富む」
▽兼好法師(鎌倉末期の歌人、随筆家)の『徒然草』=「四つの事(食、着、居、薬)倹 約ならば、誰の人か足らずとせん」
▽3代将軍家光と親交を深めた江戸初期の臨済宗禅僧、沢庵=「食は朝に一粥、暮れに一粥にて足ることを知る」

 ここでは知足(少欲知足と表現されることも多い)が歴史上の人物によってどのように説かれたかをみましょう。知足の最初の提唱者である釈迦(今のネパール南部、インド)と老子(中国)は国は違っても、共に西暦前5世紀前後の同時代に生きていましたが、「足るを知る者こそ豊かな人」という同じような考えだったことは興味深いことです。兼好法師や沢庵は知足の精神を後世の日本に引き継いだ無欲、すなわち大欲の賢人で、日常の知足の生き方、暮らし方が見事な人生哲学として身についていたことをうかがわせます。

3)少欲知足は実は大欲である
人間の欲望には小欲、少欲、大欲、貪欲、知足、無欲などさまざま種類の欲望があります。これらの欲望は相互にどのような関係にあるのでしょうか。図で示すと、以下のようになります。
<大欲=無欲>
    |
<少欲=知足>
    |
<小欲=貪欲>

 若干の説明が必要です。小欲と少欲とは同じ発音ですが、どう違うのでしょうか。間違えやすいところですが、小欲はつまらない欲望で貪欲と同じ意味です。人間の煩悩の3毒(貪=むさぼり、瞋=いかり、痴=おろかさ)、さらに金銭、地位、権力などへのむさぼり、執着心を指しています。

 一方、大欲は、我欲(=小欲への執着心)を捨てた無欲に根ざしています。仏教でいう「大」は「小」と比較する「大」ではなく、「絶対」を表すことばで、仏教では仏道に生きることがすなわち大欲です。
 参考までにいえば、仏教用語は普通の言葉とは逆の意味に用いることが多いのです。例えば「あなたは無学だね」といわれると、大概の人は馬鹿にされたと怒るでしょう。しかし仏教用語の無学は最高の褒(ほ)め言葉です。なぜなら無学とは、もうこれ以上学ぶものは何もないほど学問を究めたという意味だからです

 さて肝心の少欲と知足はどう考えたらよいのでしょうか。少欲すなわち知足であり、少欲知足は、「もっともっと欲しい」とむさぼる貪欲と違って「もうこれで十分」と受け止める感謝の心構えといえます。だから少欲知足は小欲(=貪欲)を制し、大欲(=無欲)実践へのバネになり得えます。こうも言えます。少欲知足は「欲望を無理に我慢する」というマイナス思考ではなく、むしろ大欲へつながるプラス思考である、と。

4)地球環境時代に少欲知足をどう実践するか
少欲知足と大欲の実践
大欲は仏道に生きることと述べました。しかしお坊さんになるという意味ではありません。全員が大欲をめざしてお坊さんになったら日本社会はもちません。大欲とは少欲知足の精神を生かし、「世のため、人のため」つまり利他主義に尽力し、人生を積極的にいきいきと生きようとする姿勢であり、その行動・実践です。利他主義は仏の心、仏の道の実践を意味します。この利他主義が仏教経済学の重要な柱のひとつです。 
 自分のことしか考えない利己主義では世の中がもちません。「私の勝手でしょ、自分の腕で稼いだカネを自分の好きなように使ってどこが悪いの」などと考える人が最近増えましたが、それは勝手な思いこみであり、間違っています。こういう考え方、生き方は自己破滅への道です。

 考えてもみましょう。この世に自分一人の力で生きている人はいません。今朝あなたは何を食べましたか。コメですか、それともパンですか。どちらも農業者は別にして多くの場合、自分で作ったコメやパンではないでしょう。他人様のお世話になっているのです。 「いや自分のカネで買った」といいたいのでしょう。

 しかしお金って何でしょうか?あの紙切れが5000円も、1万円もの値打ちがあるのは、政府や中央銀行(日本の場合は日本銀行)が間に入って信用できることを約束しているからです。いいかえれば人と人との約束事なのです。つまり人間同士のつながり、社会的共同体の中でのみお金は価値をもってくるのです。このことはコンビニもファミリーレストランもない絶海の孤島に独り取り残された場面を想定すればよく理解できます。トランクに1万円札を一杯詰め込んでいても、そのお金が何の役にも立たず、無価値であることが分かるはずです。

 このように人間は「お陰様」という利他主義の精神で生きるほかないです。こういう世の成り立ち、社会のあり方を理解して感謝の心で生きることが少欲知足の実践であり、大欲の生き方につながります。

非市場価値の尊重 
仏教経済学は経済価値を市場価値(=貨幣価値)と非市場価値(=非貨幣価値)の2つに大別します。前者の市場価値はお金と交換してマーケット(コンビニなど)で購入できる商品、サービスです。お金がものをいう市場経済の世界です。一方、非市場価値はお金との交換で手に入れることのできない価値です。いくらお金を積んでも、そのお金が威力を発揮できない分野です。具体例をあげると、以下のようです。

*市場価値(=貨幣価値)―衣食住などの個人消費のほか、企業活動、公共投資、福祉、教育など。
*非市場価値(=非貨幣価値)―地球、自然の恵み、いのち、いのちあるものすべてとの共生、簡素な暮らしを大切に思う価値観、愛、やさしさ、品性、徳など。

既存の現代経済学は前者の市場価値しか視野にありませんが、仏教経済学は後者の非市場価値も視野に入れて、それを重視します。特に今日のような地球環境時代(いのち、地球自然環境の保全、簡素な暮らしの尊重が求められる時代)には後者の非市場価値の重視が大切だと考えます。それが少欲知足の経済・暮らしにつながります。しかもそれは地球環境時代にふさわしい生き方であり、政治・経済社会の変革をめざして生きることにほかなりません。

日本文化の伝統的な少欲知足の精神を表す次の3つのことばの復活・普及
*「いただきます」=いのちの尊重、感謝
*「もったいない」=モノやいのちを大切にする心
*「お陰様で」 =自然や祖先への畏敬の念、感謝、連帯感

地球救援隊(仮称)の創設を提唱
 戦争は貪欲(=資源エネルギーの暴力的確保への理不尽な欲求など)に根ざしています。05年2月に来日したケニアの副環境相、04年度のノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は日本語の「もったいない」を世界語にしたいと地球規模で普及活動に取り組んでいます。そのマータイ女史がこう言っています。「そもそも戦争は資源の争いから始まる」と。暴力に走る貪欲を捨てて、平和を希求する知足の心をどう活かすか、その着想から生まれたのが「地球救援隊構想」です。 

 平和憲法第9条(戦力の不保持)の理念を活かして、自衛隊を戦力なき「地球救援隊」(仮称)に全面改組することを提唱します。
 テロ制圧と自由・民主主義を目標に掲げたアメリカ主導のアフガニスタン、イラクへの戦争はアメリカの覇権主義に根ざした武力行使ですが、その狙いの一つは石油確保にあります。さらに戦争は人命、生活、自然環境を破壊する元凶そのものです。こういう戦争に正義はないし、「人道支援」という名目にせよ、日本の自衛隊を派兵しなければならない正当な根拠はありません。同時に平和憲法第9条(戦争放棄、戦力不保持)を改悪しようとする動きが自民党を中心に顕著になりつつあることは見逃せません。

 まず強調したいのは第9条は海外で評価が高く、改悪に反対の声が高まっていることです。一例を挙げれば、元上智大学長、イエズス会神父のヨゼフ・ピッタウ師(イタリア人)は「日本の平和憲法は宝。改憲はとんでもない」という意見の持ち主です。平和憲法の理念を活かすためには、ミサイル防衛など戦力の質的増強を図る自衛隊を戦力なき組織に全面改組することが求められます。

 次に地球環境時代の脅威は多様であり、例えば地球温暖化―異常気象によって多数の犠牲者が続出するという非軍事的脅威こそ主要な脅威であり、外国からの軍事的脅威は決して主要な脅威ではないことを認識する必要があります。いいかえれば地球環境時代の主要な脅威にはミサイルや戦闘機は無力です。従って地球環境時代にふさわしい救援組織の創設が急務です。

 さらに既存の現代経済学、すなわち「貪欲の経済学」は「戦争は富の増進に役立つ」として武力行使を容認します。しかし仏教経済学、すなわち「知足の経済学」は、いのち・自然を尊重する立場から武力行使を含む暴力を拒否します。こういう仏教経済学の考え方から自衛隊の戦力なき組織への全面改組という方向が必然的に導き出されてくるわけです。

 さて戦力なき地球救援隊構想の概要は次の諸点からなっています。
*地球救援隊は軍事的脅威に対応する組織ではなく、非軍事的脅威(大規模災害、感染症などの疾病、水不足、不衛生、飢餓、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援をめざすこと。
*活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*自衛隊の戦力なき「地球救援隊」(仮称)への全面改組であること。従って地球救援隊と自衛隊とが共に併存するものではないこと。

*自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの質の改革を進めること。
 ・装備は戦闘機、ミサイル、武装ヘリコプター、戦車、護衛艦、潜水艦、対潜哨戒機、弾丸などの兵器は廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 ・防衛予算(現在年間約五兆円)、自衛隊員(現在定員約二五万人)を大幅に削減し、訓練はもちろん戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
 ・特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、いのちの安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。

*NPO(非営利団体)、NGO(非政府組織)などと緊密な協力体制を組むこと。
*必要な新立法を行うこと。例えば現行の自衛隊法は自衛隊の主な行動として防衛出動、治安出動、災害派遣の3つを定めているが、このうち災害派遣を継承発展させる方向で新立法を行う。自衛隊法ほか有事関連法は廃止する。

 以上のような地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨ニモマケズ」の慈悲と利他の心が込められています。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は岩手県生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛しました。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもありました。

 「雨ニモマケズ」の大要を紹介しましょう。
   雨ニモマケズ          風ニモマケズ 
   慾ハナク          イツモシヅカニワラッテイル
   (中略)
   東ニ病気ノコドモアレバ     行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ      行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
   南ニ死ニサウナ人アレバ     行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
   北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
   (中略)
   サウイフモノニ         ワタシハナリタイ
   
 この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨ニモマケズ」として読み替えれば、何がみえてくるでしょうか。「南ニ死ニサウナ人アレバ」は発展途上国の栄養失調、病気、飢餓、劣悪な生活インフラで苦しんでいる10億人を超える人々のことであり、「北ニケンクワ(喧嘩)」とはアメリカ(北米)主導のアフガニスタン、イラクへの攻撃を指しています。たしかに「ツマラナイカラヤメロ」という声は地球上を覆いつつあります。

 最後の「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」は「そういう国に日本を変えましょう。それを私はお手伝いします」と読み直します。宮沢賢治が今生きていれば、そう詠い直すに違いないでしょう。賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたいと思います。こういう道を大胆に選択することこそが地球環境時代に生きる智慧といえるのではないでしょうか。

以上