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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
いよいよ日本版「緑の党」が旗揚げへ
脱原子力発電、脱経済成長をめざして

安原和雄
 日本にもようやく「緑の党」が7月に誕生することになった。2013年参議院選挙に立候補し、初の国会議員を登場させることをめざしている。具体的な政策として脱原子力発電(即時全面停止)を正面に掲げるほか、脱経済成長など、民主・自民党のような既成大政党とは一線を画す姿勢を打ち出している。
 「緑の党」は今では多くの国や地域で活動しており、ドイツ、フランスなどでは連立政権に参加し、環境政策の転換などで実績を挙げている。日本版「緑の党」は出遅れ感が否めないが、やがて存在感のある政党に成長していくことを期待したい。(2012年2月24日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 全国の地方議員や自治体首長ら有志の政治組織「みどりの未来」は、2012年2月第4回総会を東京で開き、7月に「緑の党」を結成することを決めた。同時に2013年7月の参院選挙に挑戦し、「緑の党」として初の議員を国会に送り込もうという基本方針を確認した。
 なお共同代表に八木 聡(長野県大町市議)、中山 均(新潟市議)、須黒奈緒(東京杉並区議)、松本なみほ(兵庫県神戸市)― の4氏を再任した。

 「緑の党」の理念や具体的政策は何か。「日本にも緑の党をつくろう!」と呼びかける「みどりの未来ガイドブック」(2011年11月「みどりの未来」発行)を参考にしながら、その概要を紹介しよう。

(1)どういう世界や日本をめざしているのか
 世界や日本の現状をどう認識し、何を実現しようとしているのか。次のように述べている。
・現代社会は、もう何十年も危機的な状態が続いている。
・地球は有限であるのに、人間が無限の経済成長を求めた結果、自然を破壊し、資源を収奪し、モノを作り続けることを繰り返してきた。
・物質的な豊かさが増す一方、格差が広がり、人と人との結びつきや社会のあり方は冷たく貧しいものになり、多くの人々が将来への底知れない不安を抱えながら、時間に追われて暮らしている。
・今こそ本当の「豊かさ」を見直す時にきている。
・経済成長に依存しなくとも、環境と調和したゆったりとした生活を享受することで、地球にも人間にもできるだけ負荷をかけない社会のしくみを創りたい。
・一人ひとりが尊重され、人々の生活が、競争ではなく、自治と協力によって営まれる、あらたな経済社会のかたちを実現したい。
・世界の不公平と貧困、紛争を解決するために、日本が先頭に立ち、公正な国際社会へ転換していく。
・さあ大胆に進路を変えよう。ともに新しい未来の1ページを刻もう。

(2)理念は何か
 次のような「6つの理念」を掲げている。
1.エコロジカルな知恵=世界のすべてはつながり影響し合っている・・・知恵のあるライフスタイルとスローな日本へ!
2.社会的公正/正義=「一人勝ち」では幸せになれない・・・弱肉強食から脱却する思いやりの政策を!
3.参加民主主義=納得できる政治参加・・・利権・腐敗をなくし、一人ひとりの元気と幸せのためのプロセスを!
4.非暴力/平和=誰にも殺されたくない、殺したくない・・・戦争に至らない仕組みを提案し実現する!
5.持続可能性=脱石油、脱原発、脱ダム・・・子どもたちの未来と自然環境を食いつぶすシステムから脱却を!
6.多様性の尊重=私の知らない苦しみや悩みがある・・・「誰もが幸せになる権利」を尊重する、生きやすく楽しい社会を!

(3)理念実現のための具体策は
 「6つの理念」を実現するために以下のような12の具体策を打ち出している。その骨子を紹介する。
1.脱原発(即時全面停止)と再生可能エネルギーへの全面的な転換
 すべての原発を廃炉へ、2020年までに再生可能エネルギーを30%に増やし、温室効果ガスを30%削減
2.地域の人々が担う共生経済(地産地消)のすすめ
 農林水産業(第1次産業)、加工業(第2次産業)、消費(第3次産業)を、すべての地域で循環させる第6次産業(注)の育成
 (注・安原)2011年3月、略称「6次産業化法」(正式名称は「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出および地域の農林水産物の利用促進に関する法律」)が施行された。農林漁業者(1次)が地域資源を活用し、生産・加工(2次)、販売(3次)を一体として手掛け、所得増をめざすのが6次産業の基本的な考えである。農林漁業者が同法の認定を受けると、資金、ノウハウなどで支援を受ける。政府は6次産業化事業の年間売上高を10年後に10兆円にする目標を掲げている。

3.食は自給率向上で安心確保
 食糧自給率(現在40%)を80%に倍増させ、フードマイレージ(食糧輸入に必要な「重さ×距離」)を3分の1に削減。遺伝子組み換え食糧は輸入・生産禁止
4.すべての人に生存権の保障
 月10万円のベーシック・インカム(すべての個人に給付される最低所得保障)の導入。医療、介護、子育て、教育、住まいなどの公共サービスを思い切って拡充
5.雇用の分かち合いでスローライフ
 現状では2000時間(サービス残業を含む)を超える年間労働時間を1300時間に短縮し、雇用を分かち合い、自由時間を増やす。男女の均等待遇と最低賃金の引き上げ
6.公正な税負担で社会保障の充実
 社会保障充実のために所得税の最高税率を70%に戻し、金融・資産課税の強化と環境税の導入。租税特別措置の全廃。消費税は逆進性をなくして引き上げ

7.シングル社会と多様な家族(説明は略)
8.他文化共生のフェアな社会
 移住労働者に日本人と同等の労働条件、定住外国人の地方参政権、アイヌ民族に議席を―などの発想で社会制度を設計し直す
9.誰でも立候補できる選挙制度と小選挙区制の廃止(説明は略)
10.住民自治の徹底と「市民自治法」の制定(同上)
11.共に生きる北東アジア
 「軍事同盟」としての日米安保の見直し。アメリカと対等・友好な関係を築き、米軍基地の撤去と防衛予算の大幅な削減へ。北東アジア非核地帯を実現
12.公正と連帯のグローバル社会
 国際連帯税・通貨取引税を創設。国際連帯税は環境対策や途上国支援、感染症などのグローバルな課題に取り組む資金を調達。通貨取引税は投機マネーのコントロールが狙い。

(4)既存の政党との違いは? 二大政党による政権交代は?
 これまでの政党のビジョンは富の再分配の考え方に違いはあっても、富を生み出す経済成長を前提としている。私たちは、分配の公正とともに持続可能性を重視し、エネルギー政策、環境政策を中心に先駆的、抜本的な政策を推進する。
 組織体制は中央集権ではなく、地域や具体的な課題によって集う自立的なグループによる連合を志向する。採決が必要な場合は多数決で決めるが、、メンバーは決定に従わない権利をもち、少数意見は留保され、尊重される。

 政権交代は、これまで政官財の癒着を断ち切るなど、一定の効果を挙げる可能性があり、そのことは歓迎すべきことである。しかし現在の二大政党はともに経済成長を追い求め、原発や憲法9条改定への容認論が根強いなど、私たちのめざす社会ビジョンとは異なるところが多い。
 既存の政治勢力とも、政策的に共通する部分については連携を図っていく。経済成長至上主義からの脱却を基本にすえて、右か左かではなく未来へ向けて前へ進むべく「新しい政治」をめざす。

<安原の感想> 脱原発と脱経済成長の姿勢堅持を
 「緑の党」の発足に期待したいことは多いが、なかでも脱原発(即時全面停止)と脱経済成長の姿勢は堅持して欲しい。この二つを抱き合わせの政策として世に問いかけている政党は日本ではやがて誕生する「緑の党」のほかにはない。日本版「緑の党」のいわば専売特許ともいえる。
 ただ問題は脱経済成長が世論にどこまで受け容れられるかである。脱原発は今なお「原子力村」(原発推進複合体)の執拗な抵抗が陰に陽に続いているが、すでに広範な世論は脱原発で足並みを揃えつつある。しかし脱経済成長については楽観できない。なぜなら多くのメディアをはじめ、経済成長期待派が今なお勢力を誇っているからである。
 私自身は、どうかといえば、1990年代半ばに脱経済成長派に転じた。「成長至上主義から脱成長主義へ」という見出しで次のように書いている。

 貪欲の経済学のキーワードは、経済成長至上主義である。これに対し、地球環境時代の知足の経済学のキーワードは脱成長主義である。
 成長至上主義とは、GDP(国内総生産)、GNP(国民総生産)が増えることによってのみ豊かさを保証できるという考え方である。一方、脱成長主義とは、GNPが増えなくても、つまりゼロ成長(経済規模が横ばいに推移)あるいはマイナス成長でも、そこに真の豊かさを見出すことができるという発想である。言い換えれば、環境や生活の質の低下を招きかねない量的成長よりも質の向上をめざす質的発展を重視する発想である。
 例えば病人が増えると、GNPも増える。なぜなら病院通いをする人が多くなって、医者や病院の所得収入が増えて、それがGNPを押し上げる要因となるからだ。成長率が高くなったとしても、病人の多い社会が豊かな社会といえるだろうか。(安原和雄著『知足の経済学』・ごま書房・1995年4月刊から)

 以上のような脱経済成長のすすめにかかわる拙文を書いてから、すでに20年近い歳月が流れ去った。脱経済成長派も増えつつあるが、多数派の地位を獲得するのはいつの日か。「緑の党」の活躍に期待したい。


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メディアもようやく脱「成長神話」へ
若者たちは「分配の公正」に関心

安原和雄
メディアの一角に脱「成長神話」説が登場してきた。経済成長論に今なおこだわっているメディアの中では、新しい動きの兆しといえるのではないか。一方、最近の若者たちの間には経済成長よりもむしろ「分配の公正」に関心が向かっている。
高度経済成長時代はすでに遠い過去の物語であり、近年は事実上のゼロ成長(経済規模が横ばいに推移)の時代が続いている。しかしメディア多数派に限らず政府、経済界も経済成長論を捨てきれず、野田首相は施政方針演説で経済成長節(ぶし)を力説した。「分配の公正」を重視する若者たちには「時代遅れの首相」と映ってはいないか。(2012年2月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ メディア=もう「成長神話」手放す時

朝日新聞(2012年2月7日付)の「記者有論」に政治部の佐藤徳仁記者が<日本の将来像 もう「成長神話」手放す時>と題して書いている。その趣旨を紹介する。

年始に連載した「エダノミクスVS.マエハラノミクス」を記者2人で執筆した。低成長を受け入れる民主党の枝野幸男経済産業相と、あくまで成長を追う前原誠司政調会長の主張を、大胆に対比させて日本の将来像を探る材料にしたいと考えた。
バブル崩壊後に成人し、厳しい就職戦線を経験した私には、エダノミクスの方が現実感がある。
ネット上では「成長をあきらめれば国は衰退する」という反応が多かった。大阪市の橋下徹市長も自身のツイッターで「新しい暮らしを模索することは必要だと思うが、だからといって製造業の成長を放棄してよいというものではない」。エダノミクスは分が悪かった。

こうした反応は昔もあった。細川内閣も成長を絶対視せず、身の丈に合った社会を目指す「質実国家」を掲げた。考案者の田中秀征元経済企画庁長官によると、閣僚から「経済縮小の容認と受け取られかねない」と反対論が噴出した。
とはいえ、近年の政権が掲げた「成長戦略」は、実現性がほとんどない。「神話」としか思えない。昨年は31年ぶりに輸入が輸出を上回った。輸出主導で高成長めざす従来モデルは崩壊寸前だ。それでもなお「成長戦略」を声高に語る政治家の姿に違和感を抱くバブル後世代は少なくない。

「成長神話」は、景気対策により、膨大な借金を生んだ。将来の「成長」を当て込み、社会保障などの負担も先送りしてきた。そのツケが増税で跳ね返ってくるのは願い下げだ。「人口減少を補うぐらいの成長で十分」とし、製造業中心の輸出型から、医療、介護、農業、教育などの内需型へ産業構造の転換を唱える枝野氏には説得力がある。
「成長神話」を手放して、低成長を前提に政策をつくり、予想以上の成長は「ボーナス」と考える。そんな発想の転換が必要だ。 

▽ 若者たち=「分配の公正」に関心

広井良典千葉大学法経学部教授が最新の月刊誌『世界』(2012年3月号、岩波書店刊)に「ポスト成長時代の社会保障」と題して論文を書いている。その論文の中で経済成長に関する趣旨を以下、紹介する。

私がずっと感じてきたのは、現在の学生ないし若い世代の中には、「望ましい社会」の構想や、そうした価値判断を行うにあたっての哲学、あるいは人間についての探求といったテーマ、ひいてはそれを具現化するための、たとえば社会起業家やソーシャルビジネス、あるいは地域再生やコミュニティ活性化といった話題に対して、強い関心を持つ者が非常に多いということである。
こうした関心の方向は、現代の社会における先駆的な動きとシンクロナイズしているように見える。たとえばブータンの掲げる「GNH(国民総幸福)」をめぐる議論は、昨年秋に同国の国王夫妻が来日したこともあって、話題になった。またフランスのサルコジ大統領の委託を受けて、スティグリッツ(アメリカの経済学者。2001年にノーベル経済学賞受賞)やセン(インドの経済学者。1998年アジア初のノーベル経済学賞受賞)といった経済学者が、2010年に「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行したが、こうしたテーマに関する学生の関心は高く、ゼミでも様々な発表が行われる。

その基本的背景の一つは、従来のように、経済成長あるいはGDPが増加すれば人々は幸せになれるといった単純な時代ではなくなっているという感覚が、若い世代の間で共有されているという時代の状況だろう。
もう一点つけ加えると、社会保障や税の議論で、哲学あるいは原理・原則に関する議論が不可欠なのは、それが「分配の公正」に関するものだからである。高度成長期にはいわば「成長が分配の問題を解決」してくれた。
現在はそのような時代ではない。一定の世代以下では、成長が分配の問題を解決してくれるといった幻想はなくなっているし、また分配の公平や公正といったテーマに関する人々の関心は高まっている。

▽ <安原の感想> 首相は「時代遅れの不健康なおじさん」か

朝日新聞の<「成長神話」手放す時>の筆者が経済記者ではなく政治記者であるところに新鮮味を感じる。大手メディアの経済記者の場合、成長神話から自立できないケースが多い。つまり「経済」といえば、「成長」という思いこみから経済記者の多くは脱却できないようだ。もっとも朝日の<「成長神話」手放す時>も、正確に読み取れば、「低成長」のすすめであり、決して「脱成長」論ではない。それにしても政治記者が<「成長神話」手放す時>という感覚で経済を論じる姿勢には教えられるところが少なくない。

もう一つ、上述の『世界』論文は、最近の若者たちは経済成長に対する幻想を抱いていないことを指摘しており、これまた新鮮な響きがある。いいかえれば<経済成長=豊かさ・幸せ>という等式を信じてはいないというのだ。若者たちの関心は、経済成長よりもむしろ「分配の公正」に向かっている。

さて野田首相の施政方針演説(1月24日)の全文を読み直してみた。私(安原)の関心事は「経済成長」、「再生」という文言がどの程度繰り返し使われているかである。数えてみると経済成長は7回、再生は15回である。
再生は「日本再生元年」、「日本経済の再生」、「福島の再生なくして日本の再生はない」など。一方、経済成長は「我が国が力強い経済成長を実現」、「新成長戦略の実行を加速」などの言い回しで使われている。

再生の文言が多用されているのは、「3.11」後の再生、つまり復元、復活、新たな地域づくりと経済発展が不可欠であることを視野に収めれば、当然のことである。
しかし経済成長は再生とは異質である。経済成長という概念には経済発展すなわち経済・生活の質的発展・充実という意味は含まれてはいない。
プラスの経済成長(国内総生産=GDPでの財とサービスの量的増加)にこだわることは、人間の身体にたとえれば、体重を増やし続けることを意味する。絶えざる体重増加は、しなやかな健康体という望ましいイメージに反するわけで、野田首相の「新成長戦略」は、すなわち「新不健康戦略」を意味するともいえる。これでは「分配の公正」こそ肝心と考える若者たちにとって首相は「時代遅れの不健康なおじさん」と映るのではないか。


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「自転車楽国」ニッポンのすすめ
乗用車よりも自転車を優先させる時代

安原和雄
最近、歩道を歩いていて、携帯電話で話しながら暴走する自転車に危険を感じることが少なくない。それを批判する声も高まっている。ただ携帯電話、自転車そのものに非があるわけではない。利用する人間の姿勢に責任があるわけで、打開策はどうあるべきだろうか。
 <「自転車楽国」ニッポン>のすすめを提案したい。日本国全体の交通のあり方として自転車乗りを楽しむという含意である。そのためには自転車の専用道を拡充し、歩道は歩行者の専用道として位置づける。道路での移動手段はもはや乗用車中心の時代ではない。自転車と歩くことを重視するときである。(2012年2月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽自動車文明の反省に立って

 私(安原)は10年ほど前(2001年)に「自動車文明を反省するとき」と題して次のような趣旨の一文を書いた。

阪神・淡路大震災(1995年1月17日未明発生)は、地震国における自動車文明が意外に脆いことをはからずも印象づけた。安全なはずの高速道路が崩落したこと、かつてないほどの交通混雑によって消火・救援活動に大きな支障が生じたこと、歩くことこそ交通の基本であること ― などを否応なく学習するにはあまりにも大きな犠牲を払った。この際自動車文明を根本から反省してみるときではないか。その具体策は何か。

まず一人ひとりのライフスタイルを変えてみようではないか。
とにかくできるだけ歩いてみることである。歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。 どちらも健康によい。年老いてぼけないためにも二本足で歩くよう心掛けることが肝要である。車に乗り慣れて足を弱くし、急速に老いていく人たちがいかに多いことか。
 歩くことは視野を広げてくれる。走る車の車窓からの視野は限られ、素通りしていくが、歩いていると、路傍の小さな動植物にも目が届く。歩いていれば、頭脳が活発になり、眠ることもできない。会議をだらだらと無為に続けないためには、座らないで立って行うのも一法といわれるのはここからきている。その昔のまた昔、二本足で歩くことによって猿から人間へと進化した。歩く努力をしないことは人間であることを止めることにつながる。

 フランスの名言に「才子は馬車に乗り、天才は歩く」(木村尚三郎ほか著『続・名言の内側』日本経済新聞社)というのがある。十八世紀のパリでの話で、新交通機関として登場した馬車に乗ることがステイタス・シンボルとなり、田舎出の才子たちは、争って馬車に乗り、カッコよく振る舞った。しかし天才(見識のある人)は悠然と歩くことを好んだというのである。
それに便利であることは本当に豊かなのかを考え直してみることも必要である。車は文明の利器である。しかしその便利さを追求するあまり、身の回りを眺めてみると、怠惰、不健康、環境破壊を自ら招いていることが案外多いことにも気づく。「走る文明」から「歩く文化」への転換をすすめたい。(安原和雄「知足の経済学・再論」(上)=足利工業大学刊『東洋文化』第20号、平成13年)

 上述の文中に「歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。どちらも健康によい」とある。つまりクルマ依存の文明病を克服して、歩くことと並んで自転車利用のすすめを説いたのである。

▽ 新聞投書にみる自転車への期待

 以上のような自転車利用のすすめを説いてから10年後の今、自転車への期待はどうなっているか。以下のように「3.11原発惨事と大震災」以降の新聞投書から見る限り、期待する声が広がっている。なお投書者の氏名はいずれも省略。

*大切な自転車、東北で頑張れ(小学生 浜松市 10歳)=朝日新聞(2011年3月29日付)
 東北で大きな地震があった。何ができるかなとテレビを見ながら考えていたら、お母さんが「浜松市が自転車を回収して被災地に贈るそうよ」と教えてくれた。
 私の黄色い自転車は、もう私には小さくて少しぼろぼろ。でも数え切れないくらいの思い出がつまっている。買ってもらった時のうれしさ、車にぶつかって傷ができたこと、近くの公園で乗り回したこと、全部私の宝物だ。
 私は、自転車を東北の子どもに使ってもらうことを決意した。東北の友達も喜ぶだろうし、その方が自転車もうれしいと思う。
 だから自転車にこう伝えたんだ。今まで楽しかったよ。ありがとう。そしてさようなら。東北の子にたくさん使ってもらって、思い出いっぱい作ってね。自転車も、「うん、がんばるよ」って言っているみたいだった。がんばれ東北。がんばれ私の黄色い自転車。

*「自転車社会」に転換しよう(農業 出雲市 88歳)=毎日新聞(同年9月15日付)
 日本の高度経済成長は「消費は美徳なり」の風潮を生んだ。人々はその中に埋没してしまった。
 ぜいたくで便利な生活を一度味わってしまうと、なかなか抜け出せず、そのうちこのような生活がずっと続くような感覚になってしまう。しかしそれは大きな誤りだ。今こそ、私たち一人ひとりが子や孫たちのために生活の在り方を真剣に考えてみなければならない。自らの生活を見つめ直してみよう。
 例えば、業務以外の自家用車は必要だろうか。多量のエネルギーを消費し、公共交通機関の赤字や廃止を招いていないだろうか。本来、人に備わった脚力を衰えさせてはいないだろうか。環境だけでなく、健康にも影響を及ぼすと思えば、車社会から自転車重視の社会に転換すべきだろう。

*自転車も安全な街づくりを(主婦 東京都北区 42歳)=毎日新聞(同年11月20日付)
 自転車は、活用度の高さから震災後は多くの人に見直されたのではないかと思われる便利な乗り物だ。歩道からも車道からも邪魔者扱いするのではなく、車と共存し、安心して自転車を走らせることができる街づくりの構想を本格化させてほしい。ほかを削ってでも多額の費用をかけて取り組むべきではないか。
 経済優先の車社会を突っ走ってきた日本だが、そろそろ、「人を中心とした」「人に優しい」国づくりで世界にアピールできる国になってほしい。人間をまず第一に考える安心な街づくりという形で子供たちにこの国の力を見せてあげたい。そして、走るときのマナーは当然と受け止めることができる心が育ってくれたらと思う。

▽ 歩行中に「自転車の危険」を感じる人が9割も

 さて朝日新聞(2012年1月28日付)は「歩行中に自転車の危険感じる?」というテーマで特集を組んでいる。これは今や自転車も自動車同様に危険な乗り物に転じたことを意味するのだろうか。

 朝日特集は次のような「危険な自転車」に関するデータを紹介している。
*歩行中に自転車の危険感じる?=「よくある」31%、「ときどきある」58%、「あまりない」10%、「ない」1%
*どんな行為がとくに危険?=「速度の出しすぎ」1952人、「無灯火」1368人、「携帯電話で話しながら」1275人、「携帯電話をいじりながら」1163人、「歩道走行」1129人(上位5番まで)
*この1年で歩行中に自転車にひかれそうになった(ひかれた)ことは?=「ある」29%、「ない」71%
*自転車に乗る人で、この1年で自動車、バイク、人などにぶつかりそうになった(ぶつかった)ことは?=「ある」40%、「ない」60%

 このデータの中で特に注目したいのは、一つは歩行中に自転車の危険を感じる人が9割もいること。もう一つは自転車の危険な行為として携帯電話をいじったり、話したりしながら走行することを挙げている人が圧倒的多数を占めていること、である。

▽ 「自転車楽国」ニッポンをつくるための条件は

 地上での人の移動手段としては鉄道、バス、乗用車、路面電車、自転車、徒歩などがある。これまでは乗用車が主役であったが、その時代は終わりつつある。その代わりに脚光を浴びつつあるのが自転車である。 
 ところがその自転車が最近、上述の朝日新聞特集からも分かるように特に都市では危険視されるようになった。私(安原)自身も東京郊外の自宅近辺を歩行中にすれ違う自転車の危険を感じる一人である。たしかに携帯電話で話しながらの走行が目立つ。私は歩行中に携帯電話を身につけてはいるが、使うことはない。自転車に乗って携帯電話を使う姿を見ると、違和感を感じる。「ここにもケータイの奴隷がいるな」と想うのだ。奴隷は、自覚に欠けており、想像力も自己反省も不足している。

さてどうするか。自転車の活用を軸に据えた新たな構想は考えられないだろうか。ここで<「自転車楽国(らくこく)」ニッポン>をつくっていくことを提案したい。わざわざ「楽国」と呼ぶには理由がある。「自転車大国」も一案だが、経済大国、軍事大国への連想からイメージに新鮮さがないし、時代感覚からみてずれてはいないか。
 ここは歴史に学んで「楽市楽座」(注)の「楽」を借用してみる。この「楽」は現代に翻訳すれば、新時代の新政策という意味と同時に自転車に乗ることを楽しむという含意もある。
 (注)楽市楽座=戦国時代から近世初期に戦国大名が城下町を繁栄させるために実行した商業政策。それまでの座商人(特権を有した商工業者)の特権廃止などで、新興商人の自由営業を許した。

 「自転車楽国」ニッポンをつくるための必要条件として四つ挙げたい。
 第一は自転車の利点を多くの人が理解すること。自転車は排ガスを出さないため自然環境保全貢献型であること、脚力を使うため乗る人の健康にもプラスであること、など利点は少なくない。
 第二は国道も含めて自動車道に自転車道を併設すること。もはや自動車依存時代は終わりつつある。国道だからといって、自動車だけが我が物顔に占拠する時代ではない。自動車依存症の人には少し肩身の狭い思いをしていただく。
 第三は自転車道の拡充と同時に歩道は「歩く人の専用道」として取り戻すこと。今後は高齢者が一段と増えることを考えれば、杖をつきながらでも、「安心して歩ける」歩道の確保は急務といえる。
 第四は朝日新聞特集の「ゆとりやお互いを思いやる気持ちなど、目に見えない部分が文化として根づくことが大事」という視点を重視し、実践すること。これは交通問題に限らない。ゆとり、思いやり、優しさ、慈悲の心は、「3.11の原発惨事と大震災」以降の日本再生のためにも不可欠である。

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