fc2ブログ












「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
財政・税制の質的変革をめざして
連載・やさしい仏教経済学(30)

安原和雄
「平成の開国」、「最小不幸社会の実現」、「不条理をただす政治」 ― この三つは、菅直人首相が施政方針演説(1月24日)で明らかにした国づくりの理念である。さらに首相は「この国に暮らす幸せの形を描く」とも述べた。しかし率直に言えば、残念ながらこの三つの理念と「幸せの形」とがどうにも結びつかない。なぜなのか。一例を挙げれば「最小不幸社会の実現」の決め手として消費税増税を掲げているからである。大衆増税である消費税引き上げは「最大不幸社会」への道である。
 いま求められているのは財政・税制の根本的な質的変革であり、あの新自由主義(=市場原理主義)との揺るぎのない決別である。これによって初めて「この国の幸せの形」が浮かび上がってくるのではないか。(2011年1月26日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 「無縁社会」の実像 ― 問われる「生活の質」

 まず高校生(17歳、横浜市保土ヶ谷区=氏名省略)の投書(1月16日付毎日新聞)の紹介(大要)から始めたい。題して<高齢者の「生活の質」を考える>

 老人ホームでのボランティア活動で聞いた言葉が忘れられない。入居者の方が「長生きしても良いことはない。昔は人生50年と言われていたけれど、そのくらいがちょうど良い」とおっしゃったのだ。
 毎日を前向きに過ごせない・・・。家族や友人と過ごす楽しい老後を想像していた私には衝撃だった。長寿を誇る日本だが、高齢者の生活の質についても考えるべきではないか。 ボランティア活動では話をするだけでとても喜んでもらえた。人と人との関わりが心身ともに健康に生きるための活力になると思う。高齢者の生活の質を高めるには、医療や社会保障の充実という行政面での改革は当然必要だろう。しかし身近なお年寄りに気を配って声を掛けるなど個人でできることも多い。
 わが家の近所はお年寄りが多い。私はまず、あいさつをすることから始めたい。誰もがいつかは老いる。この問題を自分自身のものとして自覚し、行動を起こすことが求められているのだ。

<安原の感想> 高校生と菅首相との間の距離
 この高校生は老人ホームでのボランティア活動で大変貴重なことを学んだ。いかにも感性豊かで、行動力に富む、という印象である。学んだことを列挙すると ― 。
・老人と話をするだけで喜んでもらえたこと
・人と人との関わりが心身ともに健康に生きる活力になること
・身近なお年寄りに気を配って声を掛けること
・近所のお年寄りにあいさつをすること

 以上のような日常のささやかな行為は、その気になれば誰にもできることでありながら、若者に限らず大人も含めて忘却し勝ちとなっているのではないか。これが世に言う「無縁社会」の実像であろう。この高校生はボランティア活動を通じて日本社会のいわば空洞化現象に気づき、そこから「高齢者の生活の質」というテーマを発見した。
 今後の課題は、この「高齢者の生活の質」を高めること、つまり向上させるにはどうしたらよいのかである。ただし「生活の質」は、高齢者に限らない。日本社会全体に関わる大きなテーマである。この高校生の視点が果たしてどこまで広がるか。

菅首相は、施政方針演説で「無縁社会」に触れ、「年間3万人を超える自殺」にも言及し、「不条理をただす政治」として「一人でも困っている人がいたら、決して見捨てることなく手を差し伸べる」と言明してみせた。しかしその有効な具体策は見えてこない。高校生の気づきと菅首相との政治姿勢との距離は縮まる気配はうかがえない。

▽ 「生活の質」の向上とは ― 経済成長は「質」を表さない

 ここでは「生活の質」の向上とは何を意味するのか、それを経済成長との関連で考えてみたい。
 特に指摘しておきたいのは、もともとGDP(=国内総生産)という経済統計概念は経済活動の量を測ることはできるが、質を測ることはできないという点である。このことは経済が量的に拡大しても、つまりプラスの経済成長下でも生活の質は低下することもあり得るし、逆に量的に縮小しても、つまりマイナスの経済成長下でも生活の質の向上はあり得ることを示唆している。だからこそGDP増大で表示されるみせかけの豊かさを信じ込む迷妄から自らを解放しなければならない。

 身近な具体例を挙げてみよう。
<その1・交通事故>
 田舎道で2台の車が静かにすれ違った。何事も起こらず、GDPにはほとんど寄与しない。しかし一方の車のドライバーが注意を怠って反対車線に逸(そ)れて、接近してくる第三の車を巻き込んで深刻な事故を起こしたとする。
 この瞬間「素晴らしい!」とGDPは叫ぶ。医者、看護婦、解体サービス、車の修理や新車の購入、法廷での争い、傷害者への見舞い、所得の損失補償、保険代理店の介入、新聞記事、街路樹の整理、これらはすべて職業的活動であり、金銭の支払いが必要である。
 交通事故はこのような多面的な支払い、需要を惹起するからGDPを増大させ、みせかけの豊かさは増えることになるが、事故の当事者を不幸に追い込む。事故がなければ、GDPは増大せず、つまりゼロ成長であり、みせかけの豊かさにも無縁であるが、無事故の本人にはこの方が幸せである。
 この身近な事例からも分かるようにGDPは欠陥概念であり、これだけを物差しにして幸せや豊かさを測ることがいかに一面的であるかは明らかであろう。

<その2・日本の残飯は世界一>
 日本のファミリーレストラン、宿泊施設など外食産業での残飯は3割にものぼり、世界一ともいわれる。外食産業の規模(売上高)は、年間約24兆円(2009年)というデータもある。消費者が賢明になって、残飯を出さないように控えめの注文となり、残飯3割分がそのまま売り上げ減になると仮定すれば、外食産業の売上は約7兆円(24兆円の3割分)の減少となる。これは外食産業にとっては打撃であり、何ほどかのGDPのマイナス要因でもあり、景気振興論者には、「さあ一大事」の仕儀となる。
 しかし消費者にとって生活の質は低下するだろうか。むしろ食べ過ぎ、栄養の取りすぎの恐れがなくなって健康体を取り戻すことができて、生活の質は向上するのではないか。食べ過ぎという貪欲は生活の質の向上に反し、食事の節制、すなわち知足こそが生活の質の向上につながる。

▽ 財政・税制の質的変革が肝心 ― 新自由主義との決別を

 上述の身近な具体例は、いわば自己責任あるいは自己努力による「生活の質」の向上策である。ただこのような私的対応策には自ずから限界がある。「生活の質」充実のためには、公的な打開策が不可欠であり、何よりも財政・税制の根本的かつ質的な組み替えが必要である。
 仏教経済学の八つのキーワードのうちいのちの尊重、非暴力(=平和)、簡素、持続性などを実現させるためにはつぎの諸政策が特に重要となる。

(1)軍事費の削減・廃止 ― 非武装のコスタリカに学ぶこと
 わが国の年間五兆円近い巨額の軍事費を削減・廃止していく展望をもつこと。世界を見渡せば、軍備を持たない国は意外に多い。なかでも中米のコスタリカは憲法改正によって常備軍を廃止(1949年)し、浮いた財政資金を自然環境保全、教育、医療、社会保障の充実に充てており、日本としても学ぶべきことの多い非武装モデル国である。

(2)無駄な公共事業の中止または削減 ― 典型は八ッ場ダム
 「無駄」という批判の強い公共事業の典型が八ッ場(やんば)ダム(利根川の支流で、群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先)の建設である。総額1兆円に近い大型公共事業で、民主党政権誕生と共に「中止」が打ち出されたが、その後曖昧(あいまい)な姿をさらしている。ダムに限らず、高速道路も含めて無駄な公共事業の中止あるいは削減は緊急の課題である。

(3)国民生活の充実が急務 ― 消費税増税は「最大不幸社会」への道
 財政のあり方として社会保障、教育、医療、雇用、農林漁業、中小企業対策など国民生活に直結した分野の充実に重点を置くこと。菅首相は施政方針演説で「平成の開国」の柱としてTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への交渉参加の姿勢を明らかにしたが、特に農業への打撃を考えれば、「開国」は疑問である。
 税制面では大企業や資産家などを優遇する不公正税制を廃止し、税負担能力に応じて累進課税を強化して、税の増収を図ること。特に大企業の法人税は引き下げが続いており、引き上げへの転換が急務である。
 低所得者層ほど負担感の重い大衆課税である消費税(現在税率5%)の引き上げは見送ること。さらに食料品の無税などに踏み切り、やがて段階的廃止の方向に進むのが望ましい。ところが菅直人首相は施政方針演説(1月24日)で「社会保障改革に必要な財源確保」を理由に消費税増税の姿勢を明言した。これではうたい文句の「最小不幸社会の実現」に反して、「最大不幸社会」へと多くの国民を誘うことになるだろう。

(4)エネルギー・環境対策の推進 ― 原発の見送りと環境税の導入を
 太陽光、風力など再生可能な自然エネルギー開発のための新規長期投資を促進させること。原子力発電の増設は見送り、漸次削減、廃止していく展望をもつこと。
 地球温暖化防止など環境対策として環境税を導入すること。環境税導入によって地球環境に負荷を与える人や企業の税負担を高める工夫が必要である。将来、消費税引き下げとの見合いで、環境税引き上げを視野に置く。

 以上の財政・税制の質的組み替えは、自民中心政権時代以来の新自由主義路線(=市場原理主義)からの決別、「新自由主義よ、さようなら」を意味する。

 小泉政権時代(2001~06年)から特に顕著になった新自由主義路線は無慈悲な弱肉強食の競争を強要し、失業者、非正規労働者を増やしただけではない。貧富の格差、人間性軽視、自殺者、日常的な暴力をも拡大した。
 民主党政権誕生(09年9月)以降もそれまでの新自由主義路線に比べてそれほど顕著な変化はうかがえない。むしろ日米安保体制(=日米同盟)は深化の方向へと舵を切りつつある。政権交替へ寄せた世論の期待は、肩すかしを食わせられた形で、民主党政権への支持率が急降下したのも当然といえる。
 重要なことは質的変革の目標とそれを実現していく道筋をどう提案するかである。目指すものは「持続型経済」、「簡素な経済」であり、その究極の姿は「幸せな社会」でなければならない。財政・税制の根本的変革は、「幸せな社会」づくりへの大きな一歩となるだろう。

<参考資料>
・友寄英隆著『「新自由主義」とは何か』(新日本出版社、2006年)
・安原和雄著『足るを知る経済 ― 仏教思想で創る二十一世紀と日本』(毎日新聞社、2000年)

(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
いのち・簡素尊重の循環型社会を
連載・やさしい仏教経済学(29

安原和雄
 ごみ列島ニッポンを大掃除するにはどうしたらいいのか。その答えとしてリサイクル(再生利用)を想い浮かべる人が多いにちがいないが、実はこのリサイクルはゴミなど廃棄物減らしへの貢献度では一番低い。追求すべき課題は廃棄物そのものの発生を少なくする循環型社会をどう構築していくかである。つまり大量生産 ― 大量消費 ― 大量廃棄の経済構造をいかに簡素化するかである。
 資源・エネルギーの節約のためにも簡素化は重要であるが、ここでは日常の暮らしにとって魅力ある循環型社会とは何か、にまで視野を広げたい。そこにいのち尊重の循環型社会という新しいイメージが浮かび上がってくる。(2011年1月21日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 日本列島を尾瀬にできないか ― 循環型社会がめざす簡素 

さて循環型社会構築のためには何が必要なのか。まず問題を考えたい。
<問い>日本列島全体を尾瀬にできないか? これだけでは質問の真意がつかみにくいかも知れないが、たまにはこういう突飛な発想も有効ではないか。
<答え>尾瀬沼、尾瀬ヶ原を中心とする日本最大の高層湿原(群馬、福島、新潟三県にまたがる)として知られるあの尾瀬である。尾瀬の特徴はいくつかあるが、その一つが入山者はゴミをすべて持ち帰ることになっているため尾瀬にはゴミが無いに等しいことである。
 問いの「日本列島全体を尾瀬にできないか」は、日本列島の隅々から生産・消費・廃棄がもたらすゴミを大掃除してきれいに片づけることができないかと問うている。「それ、無理」と急いで思考停止に陥るのは待ってもらいたい。

 自然にはごみは存在しない。たとえば枯れ葉の場合、自然の土の上に落ちれば、やがて自然の循環の中に還(かえ)るのでごみにならない。ところが同じ枯れ葉が人工のコンクリート上に落ちれば、容易に自然に還らないのでごみとして扱われる。さらにコンクリートもやがて廃棄塊と化していく。要するに人間の活動が存続する限り、廃棄物、ごみは絶えず吐き出される。問題はその廃棄物を循環可能な範囲にどう抑えるかである。
 わが国は2000年6月、循環型社会形成推進基本法を施行、これを機に環境保全と資源節約を目標とする循環型社会の構築に本格的に乗り出した。循環型社会とはどういう社会なのか。平成13年(2001年)版循環型社会白書は次のように解説している。

 大量生産・大量消費・大量廃棄という社会経済活動や国民のライフスタイルが見直され、何よりもまず資源を効率的に利用してごみを出さないこと、出てしまったごみは資源として利用すること、どうしても利用できないごみは適正に処分することという考え方が社会経済の基本原則として定着し、持続的な発展を指向する社会である。
 大量生産・大量消費・大量廃棄という社会からどのような社会に向かえばよいのか。たとえば、「最適生産、最適消費、最少廃棄」型の社会へ、という考え方が挙げられる。また天然資源の消費が抑制されることが、循環型社会の大きな条件である、と。

 以上の説明でも分かるように循環型社会とは「持続可能な発展」の原理の応用であり、現世代にとどまらず子々孫々に至るまでの持続可能な社会のことである。そういう循環型社会の構築のためには以下の三つの条件が不可欠である。
 第一は現在の大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済構造を生産・消費・廃棄の削減へと根本から変革しなければならない。つまり自然環境に本来備わっている再生・浄化・処理能力の範囲内に生産、消費、廃棄を抑えることが不可欠である。
 第二はプラスの経済成長を追い求めることを放棄し、脱「成長経済」の方向で経済運営に努める必要がある。
 第三に政府、企業はもちろん国民一人ひとりが以上の条件を自覚し、日常感覚として実践しなければならない。循環型社会の形成を唱えながら、同時にプラスの経済成長を追求するのは、ちょうどダイエットを目指しながら食欲のままに食べすぎるようなもので、自己矛盾というべきである。
以上を要約すれば、仏教経済学が提示する八つのキーワードの一つ、簡素の追求にほかならない。

 日本列島全体を尾瀬にするにはこの簡素の実現が不可欠である。これは明治維新、そして敗戦に伴う戦後改革に次ぐ現代史上三つ目の歴史的大事業といっても過言ではない。明治維新から富国強兵時代が始まり、敗戦とともに破綻した。戦後の経済成長時代もすでに行き詰まり、今地球環境保全優先時代にわれわれは生きており、その最大のテーマが簡素を旗印に掲げる循環型社会の構築である。

▽ リサイクル中心方式をどう克服するか ― ドイツとの比較

<問い>環境用語に「6R」があるが、これは何を意味しているのか?
<答え>6RはReduce(リデュース=削減)、Reuse(リユース=再利用)、Repair(リペア=修理・修繕)、Rental(レンタル=有料借用)、Refuse(リフューズ=拒否)、Recycle(リサイクル=再生利用)の6つのRを意味している。

 重要なことは、この6Rそれぞれの違いと優先順位を明瞭に認識することである。そうでなければ循環型社会の形成といっても、しょせん絵に描いた餅にすぎない。
*削減=一番重要なのは、ごみ、廃棄物の発生そのものの削減。これには資源投入量の削減が不可欠であり、製品の開発・設計の段階から資源節約や製品の長期使用を志向しなければならない。
*再利用=次は製品や部品の再利用、すなわち繰り返し利用すること。例えばビールの場合、アルミ缶入りよりも瓶入りを選んだ方がよい。瓶は洗浄によって何度も再利用できるし、そのコストも安い。一方アルミ缶は再生利用するほかないので、再生の過程で相当のエネルギーを必要とするからだ。
*修理・修繕=古いもの、部品が壊れたものも「もったいない」精神でできるだけ使い捨てを避けて、修理・修繕によって長期間使うよう心掛けること。
*有料借用=今後大きな流れになるとみられるのが自己所有にこだわらない有料借用。自分で購入し、所有する「モノ持ち」は時代遅れになりつつある。
*拒否=資源浪費型や環境にやさしくないタイプの商品の購入・使用を拒否すること。
*再生利用=一番望ましくないのが、このリサイクルで、処理にエネルギーの多消費を必要とする。

 ドイツは「循環経済・廃棄物法」(1996年10月施行)をテコに「持続可能な発展」の思想に立って、先進国の中でいち早く循環型社会の構築に取り組んでいる。その特色は次の三点である。大事なのはリデュース(削減)を最重要視していることである。
*廃棄物の発生を少なくすることについてメーカーの責任を明確にしていること。
*三段階に分けて廃棄物の発生に対応すること。まず廃棄物の少ない製品の開発・設計や製造を促進する。次に廃棄物になったものはリサイクルする。最後にどうしてもリサイクルできない廃棄物は環境にやさしい方法で処分すること。
*ドイツ連邦政府が必要な権限を持っていること。

 以上のドイツ方式に比べると、日本の場合、6Rの最後のリサイクル中心方式である。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンの4種類の家電製品をリサイクルの対象とする家電リサイクル法(2001年4月施行)はその典型例の一つである。リサイクル中心方式では廃棄物の発生を抑えるのではなく、大量生産ー大量消費の構造を温存したまま、吐き出される大量の廃棄物のリサイクルに重点を置くことになる。これに経済成長主義が加わると、リサイクルをテコにして大量生産ー大量消費の拡大再生産という悪循環に陥る可能性も大きい。これではリサイクルは簡素とは無縁といえる。

▽ 魅力ある循環型社会の必要条件は ― いのちの尊重

 視点を変えて、循環型社会は果たして魅力あふれる社会だろうかと問うてみたい。毎日のようにリサイクルに精を出し、「人生とはリサイクルなり」というイメージさえ浮かんでくる。ごみ捨てに日夜精励する人生が幸せだろうかと問い直してみるのもよい。
 循環型社会の目指すものが簡素で、それをテコに地球温暖化など地球環境問題の打開への糸口が見出され、大気や水がきれいになり、ごみが街から姿を消せば、それはそれで歓迎すべきことである。生活の質の向上、充実のためには簡素の追求が重要であることもちろんだが、それで十分なのか、を問い直してみることがここでのテーマである。

 魅力ある循環型社会には簡素に加えて、いのちの尊重が不可欠だと考える。いのちの尊重とは何を意味しているのか。地球環境問題、すなわち地球環境の汚染・破壊は、近代工業文明の経済構造、すなわち大量生産ー大量流通ー大量消費ー資源・エネルギーの浪費ー大量廃棄の構造が必然的にもたらしたものである。注目すべきは、地球環境の汚染・破壊が地球上の「生きとし生けるもの」の生存基盤の汚染・破壊を進行させていることである。
 ここでの生きとし生けるものとは、仏教思想でいうところの「いのちあるもの」すべてを指している。人類に限らない。動植物もすべて含まれる。仏教の「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の思想は、草木国土すべて、つまり山にも川にも草花にも、いのちが息づいており、人間と自然との共生がいかに価値あるものであるかをうたい上げている。これは仏教の「不殺生」、つまり人間だけではなく、動植物に対しても無益な殺生を厳に戒める思想につながっている。

 以上のように自然環境にいのちが宿っていることを自覚することから「いただきます」、「もったいない」という感性が身につく。日本人が食事のとき、「いただきます」と祈るのは、食物の素材となる動植物の「いのちをいただきます」といういのちを慈しみ、感謝するこころの表現である。「もったいない」はいのちあるすべてのものを粗末に扱ってはならない、愛情を込めて接するという感覚、ライフスタイルにつながっている。
 このことが資源・エネルギー浪費型から節約型への転換を促すことになる。こうして多様ないのちを尊重してこそ環境保全も可能となるだろう。いいかえれば、いのちが尊重されるからこそ生活の質の向上も期待できる。

 いのちの尊重は、人間も含めて生き物のいのちを大切にすることだけを含意しているのではない。いのちを大切に思う心が共生、連帯、思いやり、やさしさなど仏教思想の慈悲の心につながっているところを重視したい。ここまで視野を広げて実践が伴えば、循環型社会は魅力度の高い社会だといえるのではないか。

<参考資料>
・安原和雄「ゼロ成長経済の構図 ― 循環・共生型社会をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第18号、平成十一年)
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(『東洋文化』 第20号、平成十三年)
・安原和雄「同(下)」(同 第21号、平成十四年)

(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
「豊かさ」から「幸せ」の時代へ
連載・やさしい仏教経済学(28)

安原和雄
時代の雰囲気は「豊かさ」から「幸せ」へと変わりつつある。例えば最近のメディアには「幸せ」に関する記事が多くなっている。豊かさと幸せとは質的にどう異なるのか。平たく言えば、豊かさは「量の増大」であり、幸せは「質の充実」である。
 そういう幸せの定式として「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を提案したい。この幸せの定式を実現させる必要条件として二つ挙げたい。一つは「ゆとり主導型経済」の推進で、これは従来の輸出主導型、内需主導型に代わる新しい構想である。もう一つは「生活者主権」の尊重で、従来の消費者主権に代わる新提言である。時代の変化は、それにふさわしい新しい構想、提言を求めている。(2011年1月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「豊かさ」よりも「幸せ」に関心が高まってきた

 最近、「幸せ」という発想、文言に出合う機会が多い。
 ここ3か月間の新聞投書(趣旨)から具体例を拾ってみよう。氏名は省略。
・<新聞の川柳や俳句が楽しみ>=主婦 34歳 福島県いわき市
 何気なく新聞を見ていたら川柳が載っていた。その一つに朝から大笑いしてしまった。そこで、ふと思ったが、朝から笑えるのって、何て幸せなことだろう、と。川柳一つで自分も、伝えた誰かも、朝から笑える。小さな笑いのタネを見つけることで、自分も家族も他の誰かも幸せにできたら、すてきだな、と思った。

・<「最小不幸」より「小さな幸せ」を>=主婦 57歳 山口県光市
 菅首相は、「最小不幸社会」の実現を目指すと言ったが、この言葉に違和感を覚える。先日、追悼コンサートでみんなで「小さな幸せ」を歌った。亡くなった先生の作詞作曲で、小さな幸せが大きな希望や喜びにつながるという内容だった。みんなが明るく笑顔で過ごせる社会。そんな「小さな幸せ」こそが、今この国に求められている。

・<生きるっていいよ>=主婦 54歳 茨城県日立市
 毎日のように子供の自殺がニュースになっている。私もつらいこと、苦しいこともたくさんあったが、生きてきてよかったと思う。小さなことでも楽しみや幸せを見つけられるし、やる気があれば、夢がかなうこともある。すべての親は子供に幸せになってほしい、命を大切にして欲しいと思っている。自分一人の命じゃないことを分かってほしい。 

 さてフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥシュ氏(70歳)の説法「経済成長 人々を幸せにしない」(朝日新聞=2010年7月13日付夕刊・東京版)を紹介する。
・私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長が続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ。
・(「持続可能な成長」という考え方について)持続可能な成長は語義矛盾だ。地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ。
・(「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのかについて)北の国々による従来の開発は、南の国々に低開発の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道をを作っていけるようにしなければならない。
・(菅首相が経済成長と財政再建は両立できると訴えていることについて)欧州の政治家も同じようなことを言っているが、誰も成功していない。彼らは資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々のめざすのは、つましい、しかし幸福な社会だ。

<安原の感想> 幸せの定式=幸福追求権の活用+精神的充実感
 「僕は幸せだなー」という歌の文句ではないが、幸せとはなによりも精神的な喜び、潤い、充実感である。しかしこの精神的充実感を客観的に保障する枠組みが必要である。それを平和憲法の多面的な幸福追求権に求めたい。
 まず憲法13条「幸福追求権」をどう活かすかが課題となる。幸せのためには何よりも平和=非暴力が不可欠である。だから憲法前文の平和的生存権、9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の理念を実効あるものにしなければならない。さらに生活に必要なモノ・サービスも欠かせない。そのためには憲法25条「生存権=健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、国の生存権保障義務」の活用も必要不可欠のテーマである。
 以上のように憲法に定めてある多面的な幸福追求権を土台にして「平和憲法の幸福追求権の活用+精神的充実感」を新しい「幸せの定式」としてはどうか。

 菅第2次改造内閣が1月14日発足した。その政策目標の目玉は「安心できる社会保障、財源としての消費税引き上げ」つまり増税路線である。これでは菅首相持論の「最小不幸社会」ではなく、「最大不幸社会」とはいえないか。
 以下では上述の「幸せの定式」を実現していくための必要条件を考える。

▽ 幸せの必要条件(1)― ゆとり主導型経済の構想

 幸せの必要条件としてまず「ゆとり主導型経済」という構想を提案したい。
 わが国におけるかつての高度成長時代の輸出主導型経済は、輸出拡大が経済の牽引力となった。それが対外摩擦を生み、批判を浴びて内需主導型経済に転じた。内需つまり国内需要とは、GDP(国内総生産)の需要項目(輸出、企業設備投資、在庫投資、公共投資を含む財政支出、住宅投資、個人消費)のうちの輸出(外需)を除く部分を指しているが、この内需の拡大が経済の牽引力を担う内需主導型も万能ではない。
 1980年代後半のバブル経済とその崩壊が具体的な一例である。内需拡大策がバブルを増幅させ、その結末があのバブルの崩壊にほかならない。そこで仏教経済学としては「ゆとり主導型経済」という構想を練って、それへの転換を進めるときであると考える。

 ゆとりとは、次の五つのゆとりを指している。
*所得のゆとり=物価水準の安定ないしは引き下げ、憲法25条の活用に必要な実質所得と就業機会の確保など
*空間のゆとり=社会資本ストックの質的充実、ゆったりした私的・公的空間、人間性尊重にふさわしい職場空間の確保など
*環境のゆとり=地球環境と自然、土壌、生態系、きれいな大気・水、豊かな緑と森林と田園、美しい景観などの保全と創造
*時間のゆとり=労働時間短縮と自由時間増大、年次休暇の充実、介護・育児休暇の増大など
*精神のゆとり=こころの充実感、平和(=非暴力)、安らぎ、働きがい、生きがい、モラルの確立など

 この五つのゆとりが経済発展(=経済の質的充実に重点がある。量的拡大しか意味しない経済成長とは異なる)の牽引力となり、またそのゆとりの確保を目標にして経済が循環していく。
 ここでは一つだけ、精神のゆとりがなぜ経済発展の牽引力になるのかに触れておきたい。無気力、怠惰、モラルの崩壊による働きがいの喪失感が経済発展の制約条件であることはいうまでもない。働きがいも生きがいも無縁な社会はすでに崩壊状態にあることもまた自明のことであろう。精神のゆとりとは、こころの充実感であり、生きがいであり、それは働きがいと共に存在する性質のものである。そういう意味で精神のゆとりは経済発展の重要な支柱である。

 指摘しておく必要があるのは、五つのゆとりのうち所得と空間のゆとりは主として市場価値、貨幣価値であるが、環境、時間、精神のゆとりは、いずれもお金に換算しにくい、従って市場で入手できない非市場価値、非貨幣価値であるということ。いいかえれば所得と空間のゆとりはGDPの構成要素となり得るが、環境、時間、精神のゆとりは構成要素にはなりにくい。

 仏教経済学としては、非市場価値、非貨幣価値を重視する。なぜなら環境、時間、精神のゆとりを抜きにしては真の幸せを実感できないからである。また環境、時間、精神のゆとりの確保は、幸せを実感させてくれるが、GDPの構成要素ではないため、経済成長率の高低とは無関係である。こうしてゆとり主導型経済と脱経済成長主義とは、表裏一体の関係にある。
 内需主導型経済の視点からすれば、以上のようなゆとり主導型経済が果たしてうまく循環していくのかという疑問が生じるかもしれない。ゆとり主導型といえども、もちろん外需(輸出)も内需(公共投資、民間設備投資、個人消費など)も存続する。そうでなければ経済は回らない。
 大切な点は、内需主導型が経済成長至上主義、つまり成長率が高いほど好ましいと考える立場であるのに対し、ゆとり主導型では成長率を高めることを目標とするものではないし、ゼロ成長(経済規模の横ばい状態)でも一時的なマイナス成長(経済規模の縮小状態)でも構わないと達観する。なぜなら仏教経済学は成長率を高めることが必ずしも真の幸せにはつながらないという認識に立っているからである。

▽ 幸せの必要条件(2)― 生活者主権の尊重

 幸せの必要条件として生活者主権の尊重も大切である。
 現代経済学では消費者主権を重視する。一方、仏教経済学では生活者主権の尊重を前面に掲げる。生活者主権という用語はまだ市民権を得ているとはいえないが、地球環境保全や幸せを重視する時代のキーワードになるべき新しい考え方である。生活者主権の確立のために次のような「生活者の四つの権利」を提案したい。

*自立・拒否する権利=依存効果(注1)からの自立、環境破壊の拒否など真の自由・選択権
 (注1)依存効果とは、アメリカの経済学者J・K・ガルブレイス(故人)が著書『豊かな社会』(岩波書店)で説いた経済用語で、まず企業による生産が行われ、それを消費させるために欲望を喚起すること、つまり欲望は生産に依存するという意。テレビのコマーシャルは「消費欲望の喚起」の日常的な光景といえる。本来なら欲望が先行して、それを満たすために生産が行われるが、この因果関係が逆転して、生産主導型になっている。
*参加・参画する権利=財・サービスの生産・供給のあり方、政府レベルの政策決定などへの参加・参画権(注2)
 (注2)参加は集会、会議などにそのメンバーの一員として加わることで、決定権は必ずしも持たない。参画は議決・決定権の行使に重点をおく参加のこと。
*ゆとりを活かす権利=上述の五つのゆとりの創造・活用・享受権
*自然・環境と共生する権利=経済成長至上主義に代わる「持続可能な発展」を追求する生存権

 生活者主権は既存の消費者主権とどう違うのか。消費者主権とは、消費者が主役として、消費者の自由な選好と利益を最優先させて経済全体の資源配分を行うことを意味している。この消費者主権は市場価値、貨幣価値のみに視野を限定した消費者の欲望をどこまでも充足させていくことを前提に組み立てられており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とは両立しにくい。そこに消費者主権の限界がある。
 一方、生活者主権は生活者が主役として、経済全体の資源配分を行うことを指している。生活者を主権者とする経済デモクラシーといってもいい。生活者とは、消費者と違って、お金で買える市場価値(=貨幣価値)だけではなく、むしろお金では買えない非市場価値(=非貨幣価値)を尊重し、双方のバランスをつねに考慮する。そこには知足、簡素の感覚が伏在しており、従って地球環境の保全、資源エネルギーの節約とも両立する。

 誤解を避けるために補足すると、人によって消費者、生活者に分かれるわけではない。同じ人が消費者であったり、生活者になったりする。両者の違いは人によるのではなく、日常の行為として消費者主権、生活者主権のどちらを重視するかによる。仏教経済学としてはもちろん生活者しての生き方をすすめたい。

<参考資料>
・日野秀逸著『憲法がめざす幸せの条件 ― 9条、25条と13条』(新日本出版社、2010年)
・市場価値(=貨幣価値)と非市場価値(=非貨幣価値)については「お金では買えない価値の大切さ 連載・やさしい仏教経済学(24)」を参照
・安原和雄「知足とシンプルライフのすすめ ― <消費主義>病を克服する道」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第26号、平成十九年)

(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
経済成長至上主義よ、さようなら
連載・やさしい仏教経済学(27)

安原和雄
 毎日新聞の「万能川柳2010年」(12月27日付夕刊・東京版)に「GDP抜かれて3位 だからなに」(東京 寂淋)があった。文字通り「経済成長至上主義よ、さようなら」でいいではないかという心情を詠(よ)んだ一句と理解したい。これまでGDP(国内総生産)総額では米国1位、日本2位、中国3位だったが、日本が中国に抜かれて3位に転落したため自称・経済専門家たちが大騒ぎしていることへの皮肉めいた感想になっている。
若干解説すれば、GDP総額ではたしかに中国に逆転負けしているが、1人当たりGDPでみれば中国人口は日本の約10倍だから、中国の1人当たりGDPは日本の約10分の1にすぎない。ただこういう数字にこだわること自体、脱「成長主義」からほど遠い。ともかく成長率論議にぎやかな経済成長至上主義の時代は過去のものとなったことを自覚して出直したい。(2011年1月8日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 40年前のシューマッハーから21世紀の地球白書へ

脱「経済成長」をめぐって時代はどう推移したかに触れておきたい。
 「貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない」
 これは40年も昔の仏教経済思想家、シューマッハーの経済成長批判の言である。

さて21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008~09』はつぎのように指摘している。
 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
 さらに次のようにも記している。
 今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。

 以上の認識、記述は大局的に観て正しいと私(安原)は考える。要するに経済成長は豊かさをもたらすものではなくなっており、「経済成長至上主義よ、さようなら」が合い言葉ともいえる時代なのである。ところが昨今のテレビや新聞などメディアには経済成長のすすめ、待望論が静まる気配はない。政治の世界も同様である。2010年6月発足した菅民主党政権は新成長戦略を前面に掲げてまっしぐらという構えである。一体これは何を意味しているのか。「経済成長=豊かさ」という定式に今なお執着しているためだろう。

 なるほど第二次大戦後の日本の経済発展史をふり返ってみれば、「経済成長=豊かさ」がそれなりに成立した時期もあった。1956年度(昭和31年度)から1973年度までの高度成長期(年度平均9.1%の実質経済成長率を達成)である。高度成長を支えたのが池田内閣時代に策定(1960年12月閣議決定)された所得倍増計画(「10年間で月給倍増、雇用拡大、生活水準引き上げ」がスローガン)であった。当時はモノ不足時代で、それを満たす消費の増加によって豊かさ感を味わった。しかし当時すでに高度成長の陰で公害や格差などのひずみもひろがりつつあったことは見逃せない。

▽ 「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てよう

 40年も前の昔話にこれ以上お付き合いする必要はないだろう。2010年前後の目下の現状はどうか。「経済成長=豊かさ」という固定観念を捨てて、 ― そういえば最近思い込み、執着心を投げ捨てる「断捨離」(だんしゃり)という行為が流行となってきているようで、いいかえれば「諸行無常=すべては変化する」という真理を尊重して、 ― 日本や世界を観察し直すと、異質の光景を目にすることができる。
 その具体例として以下の主張、提案を紹介したい。

(1)経済成長で貧困は解消しない
 経済成長で貧困は解消せず ― 貧困それ自体を政策課題に(湯浅 誠・反貧困ネットワーク事務局長)=2010年6月11日付毎日新聞。その大要は以下の通り。

 低所得と貧困は完全にイコールではない。貧乏でも家族や友人、地域の人に囲まれ、幸せに暮らしている人はいる。貧困とはそうした人間関係も失った状態を指す。<貧困=貧乏+孤立>だ。
 単身高齢世帯が463万世帯と、高齢者世帯全体の23%に達した。貧乏でも孤立していなければ、孤立していても貧乏でなければ、何とかなるかもしれない。しかし両方が重なる世帯が増えてしまっている。
 「経済成長さえすれば貧困は改善する」という人たちがいるが、それが決定的な処方せんになるとは思えない。02年から07年までは「戦後最長の好景気」だったが、低所得世帯は増え続け、貧困も広がった。経済成長しても、その果実の分かち合い(再分配)を間違えれば、貧困は解消しない。経済成長が「主」で、貧困はそれに従属する「従」の要因だという発想そのものを転換する必要がある。
 イギリスでは今年、児童貧困対策法が成立した。20年までに子どもの貧困を解消すると法律で宣言し、改善状況を毎年国会に報告する義務を負った。そこにあるのは貧困それ自体を政策のターゲットにする発想である。貧困をどうやって減らすかを真剣に考えなければ、たとえ経済成長しても、減らない。

<安原の感想> 貧困打開には「果実の再分配」の変革を
湯浅氏の指摘を評価できるのは、「経済成長=貧困の改善」という定式を否定していることである。貧困を改善するためには経済成長が先行しなければならないという主張は、現代経済学の決まり文句ともいえるが、こういう迷妄を打破しなければ、貧困問題の打開策は見つからない。
 なぜか。そもそも経済成長とは何を意味するのか。それは経済活動によって生み出される付加価値(大まかにいえば企業利潤と賃金の総計)が増えることを指している。つまり付加価値の量的増加を意味するにすぎない。この付加価値が企業利潤にほとんどが配分されて、賃金への配分が少なければ、働く人々の暮らしは改善されず、貧困は解消しない。これが今日の日本経済が直面している現実である。だから貧困を改善するためには湯浅氏の表現を借りると、「果実の再分配」を働く人々中心へと変革する必要がある。
 こういう単純な真理が必ずしも理解されていないのは、真理への眼(まなこ)が曇っているからだ。もう一つ、競争力強化の名目をかざして巨額の内部留保(企業利潤)を貯め込んでいる大企業を優遇(法人税減税など)する経済運営が行われているからだろう。政権担当者の責任はとても大きい。

(2)持続可能で公正な「脱成長社会」をめざして
 バルセロナ(スペイン)会議の「脱成長宣言」(経済的脱成長に関する第2回国際会議・2010年3月採択)=食政策センター‘ビジョン21’発行「いのちの講座」・2010年8月25日号。その大要は次の通り。

 2010年3月脱成長に関する第2回国際会議に40カ国から400人の研究者、実践家、市民社会のメンバーが集まった。2008年パリで開かれた第1回国際会議の宣言は、財政・金融の危機であり、同時に経済、社会、文化、エネルギー、政治さらに地球生態環境の危機でもあることを指摘した。この危機の原因は、成長にもとづく経済モデルの失敗にある。
 さて経済成長を促進しようとする「危機対策」は、長期的には様々な不平等と環境条件を悪化させるだろう。「借金を燃料としてくべる成長」という幻想、すなわち借金を返すために経済を無理矢理成長させるという妄想は、結局のところ社会的な災厄を招き、経済的な負債と地球環境への負債を将来世代と貧しい人々に押しつけ、たらい回しにすることになるだろう。
 世界経済の脱成長プロセスは不可避である。問題はこのプロセスをナショナル、グローバル双方の視点から社会的公正を軸にしてどうコントロールするかである。これこそ脱成長運動が解決すべき課題である。まずは豊かな国々が脱成長に向けての変化を開始しなければならない。

 バルセロナに集まったのは、現在のシステムとは根本的に異なる代替策、つまり地球生態環境からみて持続可能で社会的に公正な「脱成長社会」をめざす様々な提案を組織化するためであった。
 会議では次のような新しい提案が出された。
・地域通貨の促進普及
・小規模な自己管理型で、利潤追求を重視しない企業の促進普及
・ローカルなコモンズ(共同体による共有財産管理システム)の防衛と拡大
・労働時間削減などワークシェアリング(仕事の分かち合い)とベーシックインカム(一定の所得を無条件で保障すること)の導入
・原子力発電所、ダム、ゴミ焼却炉、高速輸送などの大規模インフラ(社会的経済的基盤施設)の放棄
・クルマ中心のインフラを徒歩、自転車、オープンコモンスペース(自由利用公共空間)に転換すること
・資源搾取に反対する、南の環境正義をめざす運動を支持すること
・政治の脱商業化と政策決定に対する直接参加の強化拡大
 これらの諸提案の実現に取り組むことによって人々の良い暮らし(well-being)が増大するだろう。経済成長の愚かさに終止符を打たなければならない。現在の課題は「いかにして変えるか」ということだ。

<安原の感想> 資本主義そのものの改革案
 バルセロナ会議の「脱成長宣言」は、経済分野での脱成長をめざすにとどまらないで、むしろ資本主義そのものをどう変革していくかに主眼があるといえる。その変革のめざす目標が<持続可能で公正な「脱成長社会」>である。
 これは2008年のアメリカの金融危機に始まる世界金融危機とともにいったん破綻はしたが、消滅はしていないあの市場原理主義(=新自由主義)との決別をも意味している。いいかえれば経済成長推進か、それとも脱経済成長か、という経済に視野を局限した従来の日本的発想を超える政策提言といえよう。
 その具体的な政策提言が地域通貨の普及、利潤追求を重視しない企業の促進普及、労働時間削減を含むワークシェアリングの導入、原子力発電所の放棄、車中心のインフラからの転換 ― などである。もちろんワークシェリング、脱原発、脱車社会にしても、アイデアとしては日本にもあるが、これを<持続可能で公正な「脱成長社会」>への提案と展望の中に位置づける姿勢は乏しい。バルセロナ会議の「脱成長宣言」に学ぶところは少なくない。

<参考資料>
安原和雄「持続可能な経済(学)を求めて―『地球白書』に観る二一世紀の世界」(駒澤大学仏教経済研究所編「仏教経済研究」第三十九号、平成二十二年)

(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
2011年元旦「社説」を読んで
沖縄の悲願に背を向ける主要大手紙

安原和雄
昨年に続いて本年も沖縄の米軍基地問題は最大のテーマであり続けるだろう。沖縄県民の声は明確である。県知事をはじめ反基地の姿勢で一貫しているといえるのではないか。問題はメディアの対応である。沖縄紙と主要大手紙の2011年元旦社説を読んだ。
 浮き彫りになったことは、沖縄紙が「基地依存」からの脱却を唱えているのに対し、本土の大手紙は冷淡すぎる。沖縄県民の民意を正当に評価しようとする姿勢はうかがえない。むしろ沖縄の悲願に背を向けている印象である。その背景には日米安保体制がある。日米安保の呪縛から脱出しない限り、沖縄の正当な反「米軍基地」への展望はみえてこない。(2011年1月2日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 沖縄紙が米軍基地問題で発信したこと

 まず沖縄のメディアは新年を迎えて米軍基地問題で何を発信しているのか。年末と元旦の琉球新報社説(見出しと社説の要旨)を紹介する。

*2011年元旦付=新年を迎えて/「豊かな沖縄」づくり元年 「発展の鍵」は県民の手に
 2011年。沖縄の未来を決める「転機の年」を迎えた。
 21世紀も10年が経過したものの、沖縄には「戦争の世紀」とも呼ばれた20世紀の残滓(ざんし)や垢(あか)が、いまだにこびりついている。
 その残滓や垢を落とし、新世紀にふさわしい夢と希望、活力にあふれる「豊かな沖縄」づくりに挑む。その始動の年としたい。

 昨年は、普天間飛行場返還・移設問題を中心に、迷走する政治に翻弄(ほんろう)された沖縄だった。
 沖縄経済は長く「基地依存経済」と言われてきた。しかし、いまでは基地から得られる利益や配分、経済効果は、すでにフェンスの外側の民間経済に比べ大きく劣化している。
 実際に過去の基地返還跡地の経済波及効果は、基地時代に比べ那覇新都心(米軍牧港住宅地区)で12倍、小禄金城地区(那覇空軍・海軍補助施設)で30倍、北谷桑江・北前地区(ハンビー飛行場など)では208倍に上る。
 県内の米軍基地が全面返還された場合は、経済波及効果は2・2倍。沖縄経済の規模が倍増するとの県議会試算も公表されている。
 今、沖縄経済は、米軍基地に支配された「20世紀の呪縛」を解き、沖縄が持つ豊かな土地、資源、労働力を民間でフルに活用し、「豊かな沖縄」を実現する時を迎えている。

 「政府依存、政府任せの沖縄振興計画の限界」が指摘される中、地方主権を先取りする知恵と意思、構想力が県民に求められている。
 復帰40年を前に、すでに県内には多くの優れた社会・産業資本が整備されている。課題はその利活用。整備重視から県経済の「成長のエンジン」となる資本をいかに始動・発進し活用するか。「発展の鍵」は県民が握っている。

*2010年12月31日付=2010年回顧/喜びと怒り味わった年 うそのない政治へ変革を

 日本漢字能力検定協会が発表した、今年の世相を1文字で表す漢字は「暑」だった。沖縄の立場からはひとくくりに言い表せない。
 国内政治なら「欺」という文字で表現できる。昨年の衆院選直前、民主党代表だった鳩山由紀夫氏は「(普天間飛行場は)最低でも県外移設が期待される」と言明した。ところが首相に就任すると、その主張はどんどん尻すぼみになる。
 4月25日に読谷村で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」が9万人(主催者発表)を集めて開かれたにもかかわらず、5月には「普天間の代替地はやはり県内、より具体的には辺野古の付近にお願いせざるを得ない」と姿勢を転換した。結果的には自公政権と大差ない。
 しかも理由に挙げたのが根拠に乏しい「抑止力」だ。普天間飛行場には十数機の固定翼機と三十数機のヘリが常駐しているとされるが、訓練などでたびたび国外に派遣されており、実質的にもぬけの殻同然になることも少なくない。「抑止力」論は、基地を沖縄に置き続けるために後から取って付けた理屈にすぎない。
 安全保障に対する知識も信念もないまま、甘言を弄(ろう)しただけだった。普天間飛行場の県外・国外移設を期待して民主党に投票した多くの県民からすれば、詐欺に遭ったに等しい。揚げ句の果てには、成立時に民主党が反対した米軍再編推進法を盾に、再編交付金をちらつかせて名護市に辺野古移設の受け入れを迫る始末だ。
(中略)11年は誰もが笑顔で幸せに過ごせる年であってほしい。

<安原の感想> 「欺」に終始した民主党政権への怒り
琉球新報社説は年末の2010年回顧では国内政治について「欺」という文字で表現できる、と書いた。米軍普天間基地に関する民主党政権の当初の公約「県外移設」から「県内移設」に腰砕けになったことを指している。この怒りは当然である。しかも「抑止力」論について「基地を沖縄に置き続けるために後から取って付けた理屈」と断じている。これまた当然であろう。
 一方、元旦社説では「基地依存経済」から脱却しつつある現状と展望が具体的な数字の裏付けによって示されている。しかも沖縄の「発展の鍵」は県民が握っている、と明言している。脱「米軍基地」の沖縄を創っていく主人公はほかならぬ沖縄県民だという宣言と受けとめたい。地方主権の実践である。

▽ 沖縄からの発信に大手紙は応えているか

 大手紙の元旦社説(見出しと要旨)を以下に紹介する。
肝心なことは沖縄からの反基地への発信に本土の大手紙がどう応えているかである。結論を言えば、正面から受けとめる姿勢は残念ながら見受けられない。むしろ目立つのは沖縄の反基地という民意に応えるのではなく、背を向ける姿勢に終始していることである。

(1)東京新聞=年のはじめに考える 歴史の知恵 平和の糧に
 日本は第二次世界大戦の惨禍から学んだ人類の知恵ともいえる「戦争放棄」を盛り込んだ憲法九条を擁し「核なき世界」を先取りする「非核三原則」、紛争国に武器を輸出しないと宣言した「武器輸出三原則」を掲げてきました。
 これらは今後、国際社会に日本が貢献する際の足かせではなく、平和を目指す外交の貴重な資産です。紛争国に武器を与えない日本だからこそ自衛隊の国連平和維持活動参加が歓迎されるのです。
 脅威や懸念には米国など同盟国、周辺国と連携し現実的に対応しながらも、平和国家の理想を高く掲げ決しておろそかにしない。
 そうした国の在り方こそ、世界第二位の経済大国の座を中国に譲っても、日本が世界から尊重され続ける道ではないでしょうか。

<安原の感想> 憲法九条は平和外交の貴重な資産
 戦争放棄と憲法九条、非核三原則、武器輸出三原則は日本の平和外交の貴重な資産という認識には同感である。ただ気にかかるのは「脅威や懸念には米国など同盟国と連携し現実的に対応」という表現である。米国など同盟国を無批判に肯定することは戦争のための軍事同盟である日米安保体制を容認することにほかならない。これでは社説の主張する「平和国家の理想」と矛盾しており、沖縄の反基地という心情との距離は縮まらないのではないか。

(2)朝日新聞=今年こそ改革を 与野党の妥協しかない 
 長い経済不振のなかで、少子高齢化と財政危機が進む。先進国の苦境を尻目に新興国は成長軌道へ戻り、日本周辺の安全保障環境が変化しだした。政治はこれらの難問に真剣に取り組むどころか、党利党略に堕している。そんなやりきれなさが社会を覆っている。
 危機から脱出するにはどうするか。迷走する政治に、あれもこれもは望めまい。税制と社会保障の一体改革、それに自由貿易を進める環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への参加。この二つを進められるかどうか。日本の命運はその点にかかっている。
 思えば一体改革も自由貿易も、もとは自民党政権が試みてきた政策だ。選挙で負けるのが怖くて、ずるずる先送りしてきたにすぎない。民主党政権がいま検討している内容も、前政権とさして変わらない。どちらも10年がかりで進めるべき息の長い改革だ。
 だとすれば、政権交代の可能性のある両党が協調する以外には、とるべき道がないではないか。たとえば公約を白紙に戻し、予算案も大幅に組み替える。そうした大胆な妥協へ踏み出すことが、与野党ともに必要だ。

<安原の感想> 沖縄の反基地路線から遠のく
 民主党政権への失望感は果てしなく広がっている。その背景として朝日社説は税制と社会保障の一体改革、さらに自由貿易の先送りを挙げている。果たしてそうだろうか。先送りではなく、民主党が自民党政権時代の市場原理主義(=新自由主義)路線、すなわち対米従属と日米安保への執着、大企業優遇(法人税引き下げなど)に限りなく接近しつつあるためではないのか。
 しかも社説は民主党と自民党との事実上の連立のすすめを説くに至った。これでは沖縄の反基地路線から遠のくほかない。朝日は沖縄を見捨てるのか。

(3)毎日新聞=2011 扉を開こう 日本の底力示す挑戦を
 日本を元気にするために、次の課題について一刻も早く道筋をつける必要がある。
・経済の再生と地方の活性化。日本の創造性と魅力(ソフトパワー)を鍛えること
・日米同盟を揺るぎなくする一方で日中関係を改善すること
・子育てにも若者にも最大限の支援をすること
・消費税増税を含めた財政再建
・創造的で人間的な力のある若者を育て科学技術や文化の振興をはかること
 軍事力や経済力のハードパワーに対してソフトパワーの基本は人々を魅了するところにある。文化や価値観、社会のあり方などの魅力により観光や留学、就業などの形で外国人を引き寄せる。それが外交や安全保障、経済再生にもつながる。
 ソフトパワーの領域に限らない。重要なのは人々の元気と底力を引き出す仕掛け人を生み育てていくことだ。

<安原の感想> 沖縄の反基地にこそ「日本の挑戦」を
 扉を開こう 日本の底力示す挑戦を、という問いかけ自体には賛成である。しかし読み進むにつれて「待てよ」という印象が深まってくる。沖縄の反基地にこそ「日本の挑戦」を、という趣旨かと思ったのは、当方の勘違いであった。
 ソフトパワーの重要性を強調したいのであれば、ハードパワーからの転換が不可欠ではないか。ところが「日米同盟を揺るぎなくする」とハードパワーの典型、日米安保(軍事同盟)に執着している。これでは肝心の沖縄の反基地の姿勢は視野から消えるほかないだろう。

(4)読売新聞=世界の荒波にひるまぬニッポンを 大胆な開国で農業改革を急ごう
 懸念すべき政治現象の一つが、日本の存立にかかわる外交力の劣化と安全保障の弱体化である。それを如実に示したのが、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件と、メドベージェフ露大統領の北方領土視察だ。
 人権尊重、法の支配、民主主義という国際的な規範を無視し、あるいは軽視する、これらの「異質」な周辺国からの圧力や脅威に対抗するには、強固な日米同盟が不可欠だ。
 自国の安全は自らが守る決意と、それを裏付ける防衛力の整備という自助努力の上で、日米同盟関係を堅持し、強固にする。菅首相はこの基本をきちんと認識しなければならない。
 同盟強化のためには、沖縄県にある米軍普天間飛行場の移設問題を、できるだけ早く解決しなければなるまい。
 再選された仲井真弘多(なかいまひろかず)知事の理解と協力を得るには、米軍施設の跡地利用、地域振興の具体策とともに、沖縄の過重な基地負担を軽減する方策を示す必要がある。菅首相自ら先頭に立って知事と県民を説得しなければならない。

<安原の感想> 「日米同盟の強化が必須」に固執
 読売社説の見出しは「大胆な開国で農業改革を急ごう」となっているが、主眼は「日米同盟の強化が必須」という主張にある。読売は早くからその主張に固執してきた。迷いなく一貫している。見上げた姿勢というべきかも知れないが、そうはいかない。
 「菅首相よ、先頭に立って沖縄県知事と県民を説得せよ」という姿勢は、反基地という沖縄の民意を無視するものである。菅首相もこれには有り難迷惑ではないのか。日米安保のような二国間の軍事同盟は世界的に観て、もはや時代遅れの遺物になりつつあることを指摘しておきたい。

(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)