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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「この国は病んでいる」と告発
脳梗塞の後遺症と闘いながら

安原和雄
 朝日新聞の「聞く」シリーズ(08年6月10日付から28日付まで15回連載)はなかなかの好企画である。語り手は、世界的な免疫学者(東大名誉教授)として知られる多田富雄さん(74)。脳梗塞に倒れて7年、第1級の障害者として後遺症と闘いながら、左手だけでパソコンを打ち、発言を続けている。市場原理主義の競争原理を厳しく批判し、「この国は病んでいる」と告発している。(08年6月29日掲載)

 聞き手は都丸修一記者。話題は市場原理主義から格差社会、後期高齢者医療制度、日本文化の特色、学問のあり方、次世代への助言に至るまで広範囲に及んでいる。以下ではその一部を紹介する。

▽後期高齢者医療制度は憲法違反

 私はこの国の行方を深く憂えている。私には国自身が病んでいるように思われる。
 最近は、暮らしの原理ともいえる憲法を改正する国民投票法が強行採決されても、文句も出ないし、デモらしいデモも起こらない。
 昭和の日本には健全な中流が育っていた。日本はこの健全な中流に支えられていた。それが過剰な競争と能率主義、成果主義、市場原理主義で「格差」が広がり、もはや中流はろくに発言できなくなった。健康な社会ではなくなった。
 一昨年4月から施行されたリハビリの日数制限、今年4月から始まった後期高齢者医療制度などは、市場原理主義にもとづく残酷な「棄民法」としかいいようがない。日本はいつからこんな冷たい国になってしまったのか。病にかかっているとしか見えない。

 私は朝日新聞に「リハビリ中止は死の宣告」という一文を投書し、窮状を訴えた。投書は白紙撤回の署名運動に発展し、2カ月間に48万人の署名が集まった。私は車いすで厚生労働省に署命を届けた。厚労省はそれを握りつぶし、07年の再改定では、かえって締め付けを強化した。
 こうして障害者、高齢の患者の診療制限が露骨になり、その延長線上に後期高齢医療制度がある。これは残酷な「うば捨て医療制度」である。日本が誇る国民皆保険の医療制度は崩壊寸前だ。3千万人の老人と一緒に、「べ平連」(ベトナム反戦・平和運動)ならぬ「老平連」を結成しなければならない。

 私は後期高齢者医療制度は憲法違反ではないかと思っている。というのも、私のような障害をもっている者は、「障害認定撤回届」を提出しない限り、75歳どころか65歳から「後期高齢者」に強制的に組み込まれる。これは「法の下の平等」を規定した憲法14条に違反している。こういう差別が堂々とまかり通っている。

〈安原のコメント〉
 多田さんは憂国の士である。「私はこの国の行方を深く憂えている」とは、並みのセリフではない。間違いなく、憂国の士と呼ぶに値する。
 だからこそ「国が病んでいる」と言い切ることもできるのだろう。
 だからこそ後期高齢者医療制度を「憲法違反」とも断じることに躊躇しない。
 だからこそ「べ平連」ならぬ「老平連」の結成をめざして、全国3千万人の老人よ、決起せよ!と呼びかけてもいるのだ。

▽「格差社会」のゆがみが重なって・・・

 私は専門バカで、社会のことなど何も分からなかった。しかし病気で入院しているときぼんやりと感じていたことが、突然はっきりと見えてきた。
 昭和が終わるころ、バブル経済に浮かれながら、人心は冷え切っていた。まもなく不良債権処理のため、リストラが強行された。そのころから、この国は市場原理主義の病に侵されたように思える。
 病が一挙に悪化したのは小泉、安倍政権の時代。競争原理、自己責任、経済優先で、美しく優しかった日本は、急に冷たい、ぎすぎすした国になってしまった。その病状のひとつが強引な医療費の削減に表れた。
 先進医療が発達し、超高齢化社会に突入したというのに、社会保障費を増やすどころか、毎年2200億円ずつ削っていった。

 障害者になってみると、日本の民主主義の欠陥がよく分かる。多数の一般市民の利便は達成しても、障害者のようなマイノリティーのことは考えない。それが小泉政権下でさらに拍車がかかり、「自助努力」や「適正化」の名の下に人間社会のきずなを断ち切ってきた。
 政府は「医療費の適正化」の決まり文句で、2011年度までに1兆1千億円も圧縮しようとしている。道路には今後10年間で59兆円もつぎ込むのに、社会保障費はどんどん削る。

 へき地や救急の医者不足、少子化というのに産科や小児科の診療体制の不備も、医療費の強引な抑制の結果もたらされた。経済優先、市場原理主義の競争原理が医療にまで広がった。そこに「格差社会」のゆがみが重なり、収拾不可能な社会問題化したのが日本の現状だと思う。
 衝動的に人をあやめる若者のニュースが相次いでいる。命を大事にすることを知らないと、自暴自棄になって、破滅的行動に歯止めがかからなくなる。命を軽視して物質本位に走った大人の責任だ。
 このあたりで病根に気づき、政策を転換しないと、この国は本当に危ない。

〈安原のコメント〉
「私は専門バカ」と謙遜していられるが、事実は正反対で、視野の広さと教養の深さには感服するほかない。市場原理主義、競争原理、格差社会のゆがみへの批判はズバリ的を射ている。「衝動的に人をあやめる若者のニュース」という指摘は、市場原理主義の悪弊が、あの秋葉原殺傷事件とつながっているという診断とも読める。その観察にも同感である。
 大学や研究所で現代経済学を操っているつもりの自称専門家の方がはるかに視野の狭い専門バカとはいえないか。本当の専門バカは、本人にその自覚が欠けているところに特色がある。だから市場原理主義の欠陥に気づくこともない。

▽成長神話を考え直して新しい価値観の構築を

 老い先短い身だから、次の世代に助言したい。まず子や孫の世代に謝罪しなければならない。私たちの世代が、この星の上に残した負の遺産は、彼等の生存さえ危うくしているからだ。私たちが1代で消費したエネルギーは、それまで人類が使ったエネルギーの総量より大きい。

 その膨大な消費がつくりだした二酸化炭素は、救いようもなく地球環境を破壊してしまった。子や孫たちは、その借金を返しながら、生き延びねばならない。
 使ったエネルギーには核エネルギーも含まれる。核を用いた戦争は人類のモラルまで破壊した。
 その波及効果として、若者に無差別殺人まではやらせている。老人の生命を軽視した最近の医療政策も、どこかで根っこがつながっている。

 これも豊かさを求めて突っ走った結果だ。この辺で経済至上主義、成長神話を考え直して、新しい価値観を構築しなければならない。
 そのためには観測を誤らない目を養うことが必要だ。ものを近くから眺めるのではなく、遠いまなざしを持って、全体を見る。
 また、自然(生命)と伝統(注・安原)を生き方の原点に据えたらどうか。自然は万人が認めなければならない価値であり、伝統は日本人の規範を教えてくれる。多様性の価値を認め、その中でアイデンティティーを守る。その原点に戻って、地球の未来を創造してほしい。

(注)ここでの伝統は「美しい日本 四つの特徴」として「聞く」シリーズで語っている次の4点を指すと思われるので、補足しておきたい。
*「アニミズム」の文化
 自然崇拝、自然信仰。自然の中に無数の神を見つけ、それを敬ってきた。これが環境を守る、日本のエコロジー思想のルーツである。
*豊かな「象徴力」
 俳句、和歌、能、歌舞伎、茶道、華道など日本の芸術は豊かな象徴力に支えられている。こんな民族はほかにはない。
*「あわれ」という美学の発見
 滅びゆくものに対する共感、死者の鎮魂、人の世の無常、弱者への慈悲など、あわれなものへの思いが日本の美の大切な要素になっている。強さ、偉大さ、権威などを価値とする外国とは違った日本独自の価値観で、日本人の心の優しさ、美しさ、デリケートさの根源である。
*「匠(たくみ)の技」
 美術はもちろん、詩歌、芸能でも細部まで突き詰める技の表現がある。「型」や「間」を重んじる独特の美学で、日本の優れた工業技術のルーツでもある。

〈安原のコメント〉
ここでの次世代への助言はこれしかないという上策である。「経済至上主義、成長神話を考え直して、新しい価値観の構築を」という提唱には100%賛成である。たしかに経済成長路線そのものを根本から転換する以外に地球環境問題への打開策は見出せない。これが免疫学者に洞察できるのに、市場原理主義者達には理解できないし、理解しようともしない。
 なぜなのか。「市場原理主義だから」ではどこまでも出口は見つからない。これでは彼等に退場を迫る以外に策はない。


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消費者庁より生活者庁の新設を
「生活者」が主役を担う時代へ

安原和雄
 福田康夫首相の主導のもとで消費者庁を新設する動きが進んでいる。商品の安全にからむ事故が多発し、その犠牲者も少なくない。消費者は怒り心頭に発し、不安の中の生活を余儀なくされている。安全だけではない。「生活の質」をめぐる多様な問題が山積している。消費者庁の新設でこれらの課題に十分応えることができるのだろうか。消費者庁ではなく、生活者庁の新設こそ真剣に検討すべき時だと考える。
 消費者が主役の時代はすでに終わった。今や「生活者」こそが主役を担う時代である。消費者庁にこだわるようでは時代感覚がずれている。(08年6月22日掲載、同月25日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽注目に値する一つの新聞投書

 私(安原)は一つの新聞投書に注目した。「生活者の視点 新組織に望む」と題したつぎのような投書(大要)である。(08年6月19日付朝日新聞「声」欄から)

 総理肝いりの消費者庁設置の検討が進んでいる。この新しい組織を、例えば毒入りギョーザのような問題が起きたら対処する、というだけの機関として位置づけてはいけない。「消費者」ではなく「生活者」のためを考える、という視点で取り組んで頂きたい。

 1960年代より、わが国は官民一体となって工業化の道を歩み、経済大国になった。しかしこの15年余り、陰りが見られるようになった。これまでの「生産、消費、繁栄」という図式が受け入れられなくなり、代わりに「安全、安心、幸福」という言葉がキーワードになってきた。この流れを受けての新組織の実現を期待している。

 国語辞典にも、消費は「使ってなくすること」とあり、生産の対語である。生活は「生きて、活動すること」と載っている。たかが用語の話ではない。ぜひ次の時代の安全、安心そして幸福の推進役を果たす「生活者庁」に改名して頂きたい。(相模原市 会社役員 福山忠彦・63歳)

 以上の趣旨は、目下進行中の消費者庁新設についての注文である。21世紀の今日は、「生産、消費、繁栄」をめざす消費者ではなく、「安全、安心、幸福」を期待する生活者が主役の時代である。だから「消費者庁」ではなく、「生活者庁」の新設でなければならない。それを多くの国民は期待している、という主張と理解できる。同感である。
 どちらでも大差ないだろうと考える人もいるに違いないが、消費者か、それとも生活者かは投書者も指摘しているように「たかが用語の話ではない」のである。

▽消費者と生活者はどう違うか

 福田首相は経済財政諮問会議(08年6月17日)で「生活者が真に求める重要施策に予算配分を変えていくことが重要な課題」と強調したと伝えられる。首相は年頭記者会見(08年1月4日)でも「生活者、消費者重視」を強調した。同首相は小泉、安倍首相時代とは異なって「生活者、消費者重視」を売り物にしたいらしい。しかし消費者と生活者は異質のはずだが、それを明示しない首相発言の含意は今ひとつ不明である。それでは消費者と生活者とはどう違うのか。

 消費者という用語は、消費者主権と並んで既存の現代経済学の教科書に載っているが、生活者、生活者主権という表現は教科書に登場してこない。なぜだろうか。生活者、生活者主権は現代経済学(市場価値=貨幣価値のみを視野に置いている)をはみ出した概念といえるからである。

 私(安原)は消費者、生活者の違い、特質をつぎのようにとらえたい。
*消費者=市場でお金と交換に財・サービス(市場価値=貨幣価値)を入手し、消費する人々を指している。広い意味の消費者には個人(家計)に限らず、企業、政府も含まれるが、消費者主権という場合の消費者には購買力の裏付けのある個人消費者に限るのが普通である。

*生活者=消費者よりも広い概念で、国民一人ひとりすべてを指す。だから購買力をもつ消費者はもちろん、それ以外の購買力をもたない老若男女、さらに赤ん坊も含めて、いのちある人間はすべて生活者といえよう。
 このような生活者は、お金をいくら出しても市場では入手できないが、「生活の質」を豊かにするために不可欠の非市場価値=非貨幣価値(いのち、地球環境、自然の恵み、生態系、利他的行動、慈悲、ゆとり、生きがい、働きがい、連帯感など)を重視するところが消費者とは質的に異なる。経済学教科書に登場する消費者には、こういう視点、感覚はない。
 高度成長時代には「消費は美徳」を追求し、ほとんどの人が消費者として行動したが、今日のような地球環境保全が重視される時代にはむしろ「簡素こそ美徳」をスローガンに掲げて、生活者として行動することが期待される。

▽消費者と生活者の「4つの権利」

 さて消費者には消費者主権があるように、生活者には生活者主権が考えられる。これは具体的になにを指しているのか。まず消費者主権については、後に暗殺されたあのケネディ米大統領が1962年(昭和37年)、「消費者の利益保護に関する教書」の中で、つぎのような「消費者の4つの権利」を提起した。
(1)安全の権利
(2)情報を得る権利
(3)選択の権利
(4)意見を述べる権利

このうち(1)安全の権利は、「健康や生命に関して危険な商品販売から保護される権利」で、その具体化の一例がPL(Product Liability・製造物責任=商品の欠陥が原因で消費者が生命、身体、財産上の損害を被った場合の製造業者の責任のこと)制度である。欧米の多くの先進国に著しく遅れて、日本では1994年6月、やっとPL法が成立し、95年夏から施行された。
 「消費者の4つの権利」の提唱が日本の消費者保護基本法の制定(1968年)に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。消費者運動の活性化にも寄与した。

しかしいのちが粗末に扱われ、貧困層が増え、労働者の権利が軽視され、ニセ物が横行し、その上地球環境の汚染・破壊が進みつつある21世紀初頭の今日、この「消費者の4つの権利」ではもはや不十分である。だから生活者主権の確立という視点からこれを発展させる必要がある。私は、つぎのような「生活者の4つの権利」を提案してきた。

(1)生活の質を確保する権利(いのち尊重のほか、非暴力=平和を含む生活の質的充実を図る権利、消費しないことも含む真の選択権など)
(2)ゆとりを享受する権利(時間、所得、空間、環境、精神の5つのゆとりの享受権)
(3)地球環境と共生する権利(「持続可能な経済社会」づくりへの積極的な関与権)
(4)参加・参画する権利(望ましい生産・供給のあり方、さらに地方自治体も含む政府レベルの政策決定への参加・参画権)

 以上、「生活者の4つの権利」の行使は、現行の平和憲法のつぎの条項の理念を具体化させようとする実践でもある。
*前文の平和共存権
*9条の「戦争放棄、軍備および交戦権の否認」
*13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条の「奴隷的拘束および苦役からの自由」
*25条の「生存権、国の生存権保障義務」
*27条の「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

▽消費者よりも生活者こそが主役の時代

 以上のように消費者と消費者主権、生活者と生活者主権をそれぞれとらえると、消費者と生活者とでは、日常の消費、生活のあり方としてどう異なってくるのか。いいかえれば消費者と生活者とは一体どちらが時代の主役なのか、主役であるべきなのかである。

 消費者、消費者主権という用語にイメージできるものは、時代への対応力に限界がある。生産者(企業など)の身勝手な横暴(品質、安全、表示の軽視、偽装など)へのそれなりの摘発力は期待できるが、それ以上ではない。消費者は事後的に怒りや注文を突きつけるだけで、事前に抑止力を発揮することはなかなか困難である。
 また消費者は一つの商品やサースについて選択する場合、品質、価格で有利なものを選択することになる。これは「消費は美徳」を前提に「賢い消費者」として消費行動をするわけで、いかに消費をすすめるかに重点があり、消費を抑制するという観念は薄い。

 さらに消費者が経済成長主義や消費主義に立つ限り、むしろ〈大量生産 ― 大量消費 ― 大量廃棄 ― 資源エネルギーの浪費 ― 地球環境の汚染・破壊〉という悪しき構造を担う一員として従来通りの消費行動を続けて、環境の汚染・破壊に無意識のうちに手を貸す行動に駆り立てられることが少なくない。
 いずれにしても1980年代後半のバブル経済が1990年代初めに崩壊し、1992年第一回地球サミット(国連主催)が開催された頃を境に「消費者が主役の時代」は終わりを告げた。いまや生活者こそが主役であるべきなのである。

 生活者が主役の時代とは、何よりも豊かさの再定義が必要な時代である。それは消費の量的増大を豊かさの尺度としていた従来型「浪費のすすめ」から転換して、「生活の質の充実」、「消費しないことも含む真の選択」、「地球環境との共生」、「行政への参加・参画権の行使」(上記の「生活者の4つの権利」参照)を実践していくことを意味している。

 しかし誤解を避けるためにつけ加えると、「浪費からの転換」は決して「貧困大国ニッポン」への道のすすめではない。その道への転落に歯止めをかけるためには少なくとも適切なセーフティ・ネット(社会保障制度)のほかに憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)、18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)、25条(生存権の保障)、27条(労働者の権利、義務など)の理念を具体的に実現していくことが不可欠である。

 問題はそれを誰が担うかである。市場メカニズムと貨幣価値(=市場価値)の枠内での行動を余儀なくされる消費者に求めるのは、限界があり、市場メカニズムと貨幣価値の枠に縛られない生活者が担うほかないだろう。
 従来の消費者行政の枠を超えるためにも、生活者庁の新設こそが望ましい。


〈参考〉:ブログ「安原和雄の仏教経済塾」(08年1月10日付)に「今こそ生活者主権の確立を 生活者、消費者が主役とは」と題する記事が掲載してある。

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宗教者の「環境・平和」提言
洞爺湖G8サミットに向けて

安原和雄
 宗教者達は地球環境問題や平和にどう対応しようとしているのか。世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace)日本委員会(庭野日鑛理事長)という宗教団体のメンバーが7月開かれる北海道・洞爺湖G8サミット(先進8カ国首脳会議)に向けて提言を行っている。
 「環境」では科学・技術、経済よりも精神文化の重要性を、「平和」では核兵器廃絶と軍事費削減こそ緊急の課題だと強調している。サミットに集う先進国首脳達の思考とは異質の環境・平和論となっている。(08年6月17日掲載、同月19日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 WCRPは仏教、神道、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教など世界の諸宗教をメンバーとしている。第1回世界大会(1970年)は「非武装・開発・人権」をテーマに京都で、さらに最近の第8回世界大会(2006年)は「あらゆる暴力を乗り超え、共にすべてのいのちを守るために」をテーマにやはり京都で開かれた。
そのWCRP日本委員会発行の『WCRP』(月刊)は08年1月号から「平和をめざして~G8北海道・洞爺湖サミットに向けて~」を連載している。その中から以下の2つの提言(要旨)を紹介する。

▽環境問題と宗教者の役割

 稲貴夫・神社本庁渉外部長は「洞爺湖サミット ― 環境問題と宗教者の役割」と題して次のように指摘している。(『WCRP』・08年1月31日号から)

 元旦(2008年)の新聞各紙は温暖化問題を大きく取り上げた。これらの記事を見て、私の心配は大きくなった。非常に複雑な環境問題がマスメディアによって「温暖化=気候変動」の問題に一元化され、私たちの生活に直結した環境問題が逆に見えなくなっているのではないかと危惧するからである。

 そもそも温暖化予測は、コンピューター・シミュレーションによるもので、その手法の科学的整合性には様々な問題点が指摘されているが、そこには宗教者にとって根源的な問題が内在していると思う。
 環境問題は人間と自然との関係の問題であり、その基層には私たちの人間観、自然観がある。そう考えると、コンピューター・シミュレーションに基づく環境問題の認識には、少なからぬ違和感を覚える。

 50年先、100年先の予測に基づく「温暖化の危機」は、生命の営みとしての環境を考え、自然と人間の関係を問い直してゆくための行動理念たり得るだろうか。それは「エコ商品」の販売促進のためのキャッチコピー(というより脅し文句?)としては役立つだろうが、宗教者には、人間の生き方としての理念が求められているはずだ。
 今日の地球温暖化をめぐる動きは、未来の地球環境(気候)も科学・技術によって予知し管理することが可能だという前提で成り立つものである。しかし果たして科学・技術はそこまで万能だろうか。
 少なくとも宗教者としては、環境問題を精神文化の課題として受け止めてゆく姿勢が必要ではないかと感じている。

 そう思いめぐらすと、「自然を慈しみ感謝する心」や「物を大切にする心」という、日本人が理想としてきた謙虚な姿勢と心のあり方にたどりつく。それは古い価値観といえるものだが、現代人がそれを忘れてしまったことに、本質的な問題があるのではないか。 
 環境問題の対応には、資源エネルギーの枯渇や食糧問題、貧困と格差、野生動植物の保護など、現在進行形の諸問題を広く学びながら、それを人間の生き方の問題として受け止め、生活実践として具現化してゆくことが何よりも大切であり、そこにこそ宗教者の役割があると考えている。

〈安原のコメント〉― 「自然を慈しみ感謝する心」を育むとき

地球環境問題の中心テーマとして昨今浮かび上がってきているのが温暖化問題である。
7月の洞爺湖G8サミットを控えて、喧騒に近い響きさえ奏でている。温暖化問題を解決できるかどうか、その成否は地球そのもの、さらに人類を含む多様ないのちの命運にかかわっているといっても過言ではない。
 そういう認識自体は間違いないとしても、その対応のあり方として科学・技術万能主義が頭をもたげてきている。その典型が技術革新によるCO2(二酸化炭素)の排出削減にこだわる経済界主流の考え方である。しかも安全性に深刻な懸念があるにもかかわらず、CO2を排出しないことを理由に原子力発電への依存度を強めようとしている。一方、市場メカニズムを利用する排出量取引も先発組のEU(欧州連合)にならって08年秋から日本も「試行」したいと福田首相は記者会見(08年6月9日)で言明した。

 このような技術革新、原発さらに市場メカニズムの活用という企業の算盤勘定を前提にした従来型の手法で、果たして現下最大の地球環境問題を根本的に打開できるのか、と改めて問い直してみると、たしかに違和感を感じないわけにはいかない。
 宗教者の立場からすれば、科学技術や経済よりも人間の生き方、すなわち精神文化こそ重要である。その柱の一つが「自然を慈しみ感謝する心」である。さらに「物を大切にする心」という日本人の古くからの価値観の再生にほかならない。いいかえれば欲望をほしいままにして、地球を汚染と破壊に追い込んだ従来型の貪欲路線上での技術革新や市場メカニズムの利用は万能ではなく、限界があることを認識する必要があるだろう。

▽核兵器より解放された世界を目指して

 鈴木克治・WCRP日本委員会渉外部長は「核兵器より解放された世界を目指して」と題して以下のように論じている。(『WCRP』・08年2月20日号から)

*具体的提案に向けて
1.国際社会における核軍縮の提唱を真に説得力あるものにし、結果として核兵器の不拡散を期するために、2006年10月の北朝鮮による核実験に対してWCRP日本委員会が表明した「例外なき核兵器の廃絶を実現するため、すべての核兵器保有国が核不拡散条約(NPT)の中で誓約した核兵器の軍縮及び廃絶に向けて誠実に取り組むこと」を要請する。
2.広島市、長崎市が推進する世界市長会議は2020年までに、世界中の核兵器を廃絶すべく「2020ビジョン」を進めている。そのためには、2010年のNPT再検討会議が「核兵器禁止条約」を採択することが絶対の前提条件である。私たち宗教者は、G8指導者に強く要請する。

3.現在、世界には約2万6000発の核弾頭が存在している。そのうち約1万発を保有しているアメリカ政府は、2030年までにアメリカ保有の核弾頭を更新する計画「コンプレックス2030」を議会に提案している。この計画が実施段階に入れば、核兵器生産能力を一気に高め、新たな核兵器の生産を無制限に許すことにもなり、まさに核不拡散条約、世界の核兵器廃絶への流れに逆行することになる。同計画を放棄するようアメリカ政府首脳に強く要請する。
4.この地上で、飢え、蔓延する感染症、貧困、抑圧、テロの暴力の恐怖に苦しむ人が一人でもいる限り真の平和はありえない。莫大な軍事費をこのような人間安全保障(人間としての基本的ニーズ)のための資源に転換していくことを強く要請する。

*目指される方向性
 原爆の犠牲となった広島、長崎の20数万の犠牲者は、いのちの尊厳と核兵器は決して両立しえないことを証した。原爆被爆後、筆舌に尽くしがたい苦難の中、伝えられてきた「二度とこのあやまちはくりかえしません」との核兵器廃絶への願いと祈りを真摯に受け止めるようG8首脳に強くアピールする。
 WCRPとしては、すべてのいのちを尊ぶ宗教者の立場から、WCRP創設以来積み上げてきた核軍縮への取り組みの基礎の上に、今こそ不拡散を超えて、核兵器そのものの廃絶の声を明確に提案したい。

〈安原のコメント〉― 核兵器廃絶と軍事費削減こそが緊急の課題

 最近のメディアの多くは「核廃絶」を無視し、「核不拡散」の大合唱を繰り返している。核拡散、つまり北朝鮮、イランなどが核兵器をもつことがいかに危険であるかに焦点を合わせた論調が多すぎる。もちろん核拡散を歓迎するわけにはいかない。それは自明のことである。しかしそのためにも核保有大国(米露英仏中)の核軍縮、核廃棄こそが緊急の課題であり、核不拡散の重要なカギを握っている。
 現在、世界には約2万6000発の核弾頭が存在、そのうち約1万発をアメリカが保有している。そのアメリカ政府は、2030年までにアメリカ保有の核弾頭を更新する計画「コンプレックス2030」を議会に提案している。貪欲に核兵器に執着する核大国・アメリカの素顔を十分認識する必要があるだろう。 

 第二次大戦末期(1945年8月)に広島、長崎に原爆を投下したのもアメリカである。当時、私(安原)は広島県生まれの小学5年生であった。間もなくケロイド症状の原爆被爆者と出会ったことを記憶している。それ以来「核兵器と平和」というテーマが私の心から消えたことはない。「宗教家は核廃絶」、一方「メディアは核不拡散」 ― という引き裂かれた状況は悲しすぎる。メディアは、アメリカを筆頭とする核大国に免罪符を与えるようなお人好し(?)のレベルから抜け出て、核廃絶を求める共同歩調に参加するときであろう。

 もう一つ、鈴木克治氏が指摘している「莫大な軍事費を人間安全保障(人間としての基本的ニーズ)のための資源に転換していくこと」という視点も重要である。世界全体の年間軍事費は1兆ドル超(110兆円超)で、その大半をアメリカ一国が占めている。軍事力の保有自体が巨大な浪費であり、しかも軍事力行使は地球環境にも甚大な負の影響を与える、つまり環境保全と軍事費削減は表裏一体の関係にあることに着目すべきである。
 地球環境問題に真摯に取り組むのであれば、軍事費削減も7月の洞爺湖サミットの主要議題となるべきであろう。軍事費を削減し、浮いた資金を世界の医療、教育、福祉、貧困対策、つまり「人間としての基本的ニーズ」に回せば、どれほど住みよい地球となることか。その期待に反してG8サミットが地球と人類と多様ないのちに貢献することを怠るようでは、サミットの存在価値はない。


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憲法9条伝えるのは老人の役割
日野原翁と対談:福島社民党首

安原和雄
 とにかくお元気な翁である。ご老体と呼ぶには精神的に若すぎる。その日野原重明(ひのはら・しげあき)さん(聖路加国際病院名誉院長・同理事長)は、今年(08年)10月4日の誕生日に満97歳を迎える。著書も数え切れないほど多い。日野原翁と福島みずほさん(社民党党首)との対談が目に留まった。日野原さんは現役の平和運動家でもあり、対談では「憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割」― などと強調している。(08年6月9日掲載、同月14日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 日野原さんと福島さんの対談が掲載されているのは、「みずほと一緒に国会へ行こう会ニュース」(08年6月1日発行 NO.38)で、「月刊社民」08年5月号より部分転載、となっている。ぜひ多くの人に読んでもらいたいという思いに駆られて、その大要を以下に紹介する。文中の(注)は安原が記した。

▽ジョン万次郎の家を日米友好記念館に

 福島:ジョン万次郎(中浜万次郎・注1)がアメリカで最初に過ごしたマサチューセッツ州の住宅を修復して、日米友好記念館にする計画を進めていらっしゃる。・・・
 日野原:万次郎は14歳でアメリカに行って立派に成長し、ペリーの来る前に帰国してアメリカの実情を幕府に伝え、「早く門戸を開けなさい」と言って、勝海舟や福沢諭吉をサンフランシスコまで連れて行ったりした。こういう日本人はちょっといないですよ。
 万次郎の写真を1000円札に採用してほしいという運動も起こそうと思っている。1000円札なら子どもも使うでしょう。14歳の少年がアメリカ人に可愛がられて、その恩返しをしたという話は、子どもたちに希望を持たせると思います。

 福島:私が感動するのは、万次郎自身が特別な身分ではなく、普通の漁師の子どもだということなのです。
 日野原:そうですよ。万次郎が教育を受けた町にルーズベルト元大統領(世界大恐慌後の1933年から第二次大戦中までのアメリカ大統領、1882~1945年)のお祖父さんがいたのです。お祖父さんはルーズベルトに「あんな少年になれ」と言ったらしい。それでルーズベルトは大統領就任の時に万次郎のお孫さんを招待したのです。
 福島:当時の日本の寺子屋という教育システムが良かったのかどうか・・・、普通の人が本当に徳を持って頑張っていたということですね。
 日野原:そういう素質があったところに、万次郎を自分の子どものように育てようというアメリカ人がいたからでしょうね。それが素晴らしいですよ。

 (注1)中浜万次郎(本名・1827~1898年)は江戸末期、明治前期の英語学者。土佐(高知県)中ノ浜の漁民で、1841年出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨船に救われる。以来10年間ハワイ、アメリカ本土で過ごし、英語・航海・測量などを学んだ。1851年に帰国し、江戸幕府などに海外の新知識を伝えた。1853年ペリー(アメリカ海軍軍人)の浦賀来航、開国要求を経て、万次郎は1860年咸臨(かんりん)丸(艦長・勝海舟)で遣米使節団の通訳として渡米した。

▽日本は武装をしない裸の国へ

 福島:会長を務められている「新老人の会」にも入りました。
 日野原:僕の「新老人の会」は究極的には平和運動です。憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割です。今後、改憲を問う国民投票が行われたとしても、自衛隊を自衛軍にする案には絶対に反対しなければいけない。やはり年をとった人が立ち上がりなさい、そういう運動です。
 福島:絶対に長生きしてもらわないと困りますね。万が一、国民投票になれば反対を投票してもらわないといけないし。
 日野原:そのために長生きの術を心得なければなりません。「新老人の会」は今、会員が6063人(2008年4月4日現在)、来年中に1万人にしたいのです。「夫婦で会員になって下さい」と呼びかけています。20歳以上はサポート会員です。やがて会員が5万人になると、日本を動かせるのです。
 福島:それが平和の思いになるといいですね。
 日野原:僕は、もっともっとはっきり「日本は武器を捨てる」というべきです。現状はアメリカの核兵器に守られているのだから、日本が核を持っているのと同じですよ。とんでもない国です。

 福島:国会では戦争を知らない2世、3世議員が勇ましいことを言うけれども・・・。
 日野原:近年、新聞(全国紙)は、12月8日の太平洋戦争開戦日について何も書いていません。真珠湾攻撃を受けたハワイでは、きちんと行事があるというのに。今、日本人のほとんどが満州事変(注2)も盧溝橋(ろこうきょう)事件(注3)も知らないし、旧日本軍が南京(なんきん)で何万という市民を殺したことも知りません。
 僕は京大医学部4年生の時に、先輩の石井四郎中将(731部隊・注4)から南京で妊婦を銃剣で突いているフィルムを見せられました。旧満州(現中国東北部)のハルピンで10人ほどの捕虜を独房に入れて伝染病の菌を食べさせたりして、菌が入って何日目に熱が出て、何日目に脳症を起こし、何日目に死んだという記録も見せられました。

 福島:実際に授業を受けられたというのも、すごい話ですね。
 日野原:みんな自分が殺しているような感覚になって、気持ちが悪くなって貧血を起こして倒れるのです。そうしたら彼は「誰だ貧血で倒れるのは。そんなことでは日本の軍医になれない」と言って脅すのです。でも彼は戦犯になっていません。
 福島:そうですね。731部隊は罪を問われていません。
 日野原:米軍が石井さんから、いろいろな細菌戦情報をもらうために戦犯を免責にしたのです。今の日本人は、そういう歴史を知らないのではないでしょうか。それを思ったら自衛軍をつくるなんてとんでもない。日本は武装しない裸の国になって、もういいことしかしないということを世界に宣言すれば意味がありますよ。

 (注2)旧日本軍の関東軍参謀らが1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖の満鉄線路を爆破し、それをきっかけに満州事変が始まった。 
 (注3)中国・北京市南郊の盧溝橋付近で、1937年(昭和12年)7月7日夜日中両軍が衝突し、日中戦争のきっかけとなった。
 (注4)「731部隊」は旧日本軍が細菌戦の研究・実施のために1933年(昭和8年)に創設、ハルピンに置いた特殊部隊の略称。秘匿名は「満州第七三一部隊」、正式名は「関東軍防疫給水部本部」。中国で細菌戦を実施するとともに、生体実験や生体解剖を行い、多くの捕虜がその犠牲になった。部隊長は石井四郎(1892~1959年)。

 福島:日本がどうやって平和な国であり続けられるのか、もっと前進できるのか、もっと考えてみます。
 日野原:もう、裸になるのが一番。裸になってどうして占領されますか。占領されるような気配があったら、国連は黙っていませんよ。犠牲はあっても仕方がない。インドのガンディーが殺されたように、アメリカのキング牧師がピストルで撃たれたように。インドはその犠牲によって無抵抗で独立しました。

▽いま伝えたい大切なこと ― いのち・時・平和

 福島:先生の『いま伝えたい大切なこと―いのち・時・平和』(NHK出版)などを読ませて頂いています。特に印象深かったのは、「命というのは時間である」と書いてある部分です。
 日野原:寿命というのは時間です。時間を自分がどう使うか。それが私たちのミッションなのです。『10歳のきみへ~95歳のわたしから』(冨山房)という本は読みましたか。
 僕が「日本人は寿命が長い」と言ったら、10歳の子どもが「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間、瞬間をどう入れるのかが私の仕事だ。とても難しい仕事だ」という感想文を書いた。それを慶応義塾大学の学生に読んだら「僕たちは今まで名門の大学に入ろうということしか考えなかった。いのちのことを考えたことは1回もなかった。10歳の子どもがそう言うのを聞いて涙が出た」という学生が2人いました。
 福島:先生は子どもたちに命をどう教えるか、一方では高齢者の皆さんに立ち上がって平和のことを言ってもらうこと。この2つをとても大切にされていますね。
 日野原:それが一番大切なメッセージです。そのために長生きして下さいと言っています。

▽新老人の生き方―3つの選択

 福島:もう一つ心に残っているのは、『生きかたの選択』(河出書房新社)で「新老人の生き方」として3つ提案されています。1つが人を愛し愛されること、2つ目がやったことのない創造的なことをすること。
 日野原:その思想は、僕が60歳の時にマルチン・ブーバー(注5)の「やったことのないことを始める老人は老いない」という哲学を読んでハッと思ったのです。

 (注5)マルチン・ブーバー(1878~1965年)はオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者。フランクフルト大学教授などを歴任、主著は『我と汝』(1923年)。

 福島:3つ目が粘り強く耐えることですね。
 日野原:耐えることによって、本当に不幸な人の気持ちが分かる。自分が失敗したり病気にならないと、分からないのです。僕が病気を分かっているのは1年間、結核でトイレに行けないほど苦しんだから。病人のそばに行くと、僕の態度や言葉が患者さんの心に通じるの。
 福島:先生の行動力、発言力はすごいと思います。
 日野原:年を取ると勇気が出るのです。若いときよりも、今のほうが勇気があるのです。
 福島:積み重ねてこられた人生があるし、先生がおっしゃることだったら、「そうか」と耳を傾ける人が多いと思います。

 日野原:自分のためにやるのではない。みんなの命のためにいいことを、やろうとしているから。
 私は(1970年に)ハイジャックされた「よど号」に乗り合わせましたが、帰ってくることができました。皆さんが同情していろいろな見舞いを下さったのですが、それに対するお返しは、別の人に返していくことで社会が良くなるのだと思いました。学校の社会科の時間は、そういうことを教えるべきです。
 福島:たしかにそう思いますね。私も育ててくれたたくさんの人がいるけれど、別の形で社会に返したいと思います。これからもますますお元気で、多彩なご活躍を楽しみにさせて頂きます。今日はありがとうございました。

〈安原のコメント〉― 日野原翁の若さの秘密は ?

 日野原さんが若さを持続させている秘密は何だろうか。
 その第一は100歳近い高齢で、高い理想を捨てていないこと。
平和運動に関与していることが、その具体例である。対談でのつぎのセリフは年齢を感じさせない。
*憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割です。今後、改憲を問う国民投票が行われたとしても、自衛隊を自衛軍にする案には絶対に反対しなければいけない。
*はっきり「日本は武器を捨てる」というべきです。現状はアメリカの核兵器に守られているのだから、日本が核を持っているのと同じですよ。とんでもない国です。

 しかも学生時代にあの「731部隊」の石井中将から直接授業を受けたという体験談は、生々しい歴史の証言となっている。

 第二は挑戦意欲が盛んであること。
 マルチン・ブーバーの「やったことのないことを始める老人は老いない」という哲学を読んでハッと思った、と語っているところなど、チャレンジ精神の原点というべきである。見習いたい。

 第三に利他主義の実践者であること。
 「自分のためにやるのではない。みんなの命のためにいいことを、やろうとしている」という発言は並みではない。本来なら若者たちが、「世のため人のために役立つ」という利他主義に立つこういうセリフをもっと口にし、実践すべきだが、翁の覇気に後れをとっている。


 なお日野原さんのことは以前にも、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」(08年2月15日付)に「山坂多い人の世と〈平和論〉」と題して掲載してある。

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「もったいない」を生かす時
船場吉兆の廃業から学ぶこと

安原和雄
 高級料亭「船場吉兆」がついに廃業に追い込まれた。客が残した料理を歪められた「もったいない」精神から別の客に回していたことが発覚したことがきっかけとなった。消費者軽視の表れ、という声もあり、決して褒めた話ではない。
 しかし「もったいない」精神を蔑(ないがし)ろにする行為、事例は身近な暮らしから国の政策に至るまで日常茶飯事に発生している。船場吉兆を非難して、事足れり、と自己満足しているようでは、やがてわが身に災難となって降りかかってくるだろう。船場吉兆の廃業から学ぶべきことは何か。この機会に「もったいない」精神をどう生かすか、そのためにはどこにメスを入れたらよいのかを改めて考えてみる。(08年6月3日掲載、同月7日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽心得違いだった「もったいない」

 船場吉兆(大阪市中央区)女将(おかみ)の湯木佐知子社長(71)らが08年5月28日午後、大阪市内で記者会見を行い、再建を断念し、廃業することを発表した。07年10月以降、食品の表示偽装などが次々と発覚、湯木新社長の下で再建に取り組んできた。ところが6~7年前から当時の社長の指示で、客が残したアユの塩焼き、ゴボウをウナギで巻いた「八幡巻き」など6種の料理を別の客に回していたことが5月初めに明るみに出て、客足が激減し、行き詰まった。

 残った料理を使い回していたことについて大阪市保健所は5月2日、本店立ち入り調査をした。食品衛生法には問われないものの、同保健所は「健康被害を招きかねず、今後、使い回しはあってはならない」と口頭で指導した。
 料理長の説明によると、「まだきれいなものを、もったいない精神と言いますか、見るからに使えそうなものであれば、足りなくなったとき、お出ししたりした」という。(毎日新聞08年5月3日付)

 私(安原)はブログ「安原和雄の仏教経済塾」(07年10月21日付)につぎの見出しの記事を掲載した。
正しい「もったいない」精神を
老舗「赤福」の不祥事に考える

 これは創業300年の歴史を誇る餅菓子の老舗「赤福」(本社・三重県伊勢市)が売れ残り商品の製造日偽装問題で本社工場が営業禁止処分(07年10月19日)となった不祥事である。回収品の再使用などのルール違反をつづけていたもので、社長は「もったいない」を回収品再使用の理由に挙げていた。
赤福は、屋号・商品名で、その由来は「赤心慶福」である。「赤心慶福」は、「赤子のような、いつわりのないまごころを持って自分や他人の幸せを喜ぶ」という意味があるそうで、これは「もったいない」という心遣いにつながっている。

 しかしその「もったいない」に心得違いがあった。同じ心得違いでも、船場吉兆は廃業に、一方、赤福は営業を再開しており、明暗を分けている。

▽「もったいない」精神を実践しよう!

 さて本来の「もったいない」(勿体ない)とはどういう含意なのか。つぎの3つの意味に大別できる。
(イ)人間や物事が粗末に扱われて惜しい。有効に生かされず残念だ。用例:まだ使えるのに捨ててしまうのはもったいない。
(ロ)神聖なものがおかされて恐れ多い。用例:神前をけがすとはもったいない。
(ハ)好意が分(ぶん)にすぎて恐縮だ。用例:お心づかいもったいなく存じます。

 最近では(イ)の意味に使われることが多い。
 例えば地球・自然環境の汚染・破壊、資源エネルギーの浪費、大量の廃棄物(ごみ)を出すこと ― などはまことに「もったいない」ことといえる。7月上旬北海道で洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が開かれる。主要テーマは地球温暖化対策をどう進めるかであり、もちろん「もったいない」精神に立って地球規模で環境保全、資源節約をどう広めていくかと深くかかわっている。

 世界的な食料不足が深刻になっている折から、いまこそ「もったいない」精神の実践が求められる。料理店などでの大量の食べ残しや売れ残り、家庭での大量の生ゴミの排出 ― などは、今に始まったことではないが、日常茶飯事に起こっている「もったいない」というほかない事例である。食べ残しや売れ残りを廃絶することが望ましいが、そこまではいかなくても、大幅に削減するには大量生産 ― 大量消費 ― 大量廃棄という今日の生産・消費構造そのものをどう改革するかが避けて通れない。

▽後を絶たぬ税金乱費の公共事業

 巨額の税金の無駄遣いも見逃せない。
 年間約5兆円の軍事予算、数十兆円にも及ぶ道路を含む様々な公共事業、さらに宇宙基本法(5月21日成立)がもたらすだろう宇宙の軍事利用に伴う巨額の無駄遣い(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」・08年5月29日付=参照)― など数限りない。いずれも「もったいない」精神に根本から反するものである。

 最新号の『週刊ポスト』(08年6月13日号)が「ムダ大型公共事業」一覧表を掲載しているので、以下に紹介する。(なお金額は総事業費で、かっこ内の年次は計画された年)
1.第2東名神高速道路=10兆円(1987年)
2.北陸新幹線=4兆1000億円(73年)
3.首都圏中央連絡自動車道=3兆円(87年)
4.関西国際空港2期工事=1兆4200億円(87年)
5.八ッ場ダム(利根川支流、吾妻川に建設中の多目的ダム)=4600億円(52年)
6.アイランドシティ整備計画(博多湾沖に建設中の人工島)=4600億円(94年)
7.長崎新幹線=3800億円(73年)
8.川辺川ダム=3300億円(66年)
9.静岡空港=1900億円(96年)
10.吉野川可動堰=1030億円(91年)

 さらに同誌は、反対の声が高まっている八ッ場ダムについてつぎのように記している。

 福田首相の地元・群馬県の吾妻川上流で「無駄な巨大プロジェクト」の代名詞といわれる「八ッ場(やんば)ダム」の建設計画が延々と進められている。
 水没する予定の川原湯地区の旅館経営者がこぼす。
 「ダムは本当にできるんかね。50年間、いつまでたっても本格工事は始まらないのに、国は工事用の土砂を運ぶための道路ばかり作っておる。小学校も全校生徒31人に減ったのに、校舎を建て替え、温水プールまで造った。関連事業ばかりで、工事事務所の役人の人件費だけでも50年間でいくらかかったことやら・・・」― と。

▽巨悪にこそ監視の目を光らせる時

 以上のような国レベルの税金乱費に比べれば、07年の赤福不祥事、そして今回の船場吉兆廃業は、商人道に反する企業のイメージを印象づけてはいるが、有り体にいえば、ささいなエピソードにすぎない。なぜなら消費者には自由な選択権を与えられているからである。店を選び、贅沢を抑えれば、被害に遭うことも少ない。消費者としては消費者主権、つまり生産者(業者など)よりも消費者こそが主役という自覚が必要であるだろう。

 それにしても相手が国家権力(軍事力、警察力、徴税権を掌握している点が最大の特質)となると、自由な選択は容易ではない。国家権力を牛耳り、税金を食い物にする巨悪にこそ監視の目を光らせる時である。それを怠ると、肩に重く食い込む大きな負担増などの災難がやがて大衆のわが身に降りかかってくる。
 最近の一例を挙げれば、後期高齢者医療制度(75歳以上を対象に4月実施)という名の老人いじめがすでに始まっている。

 しかも巨額の消費税増税案が急浮上してきた。国民の生存権に必要な社会保障費の自然増について小泉政権以来毎年2000億円超を抑制してきた、その一方で消費税増税への動きである。地方を含む国の借金総額は700兆円を超える。「巨額の借金を孫の代にまで残していいのか」というのが理由らしい。

 しかし問われるべきは、これほどの借金をいったい誰がつくり、誰がその果実をポケットに収めたのか、である。さらに今後もポケットにねじ込もうとしているのか。上述の「ムダ大型公共事業」一覧表がそれを明示している。「盗人に追銭」のような無駄遣いを続ける時期はとっくに終わっているはずである。

 最大の課題は巨悪をどう退治するかである。船場吉兆廃業の発表を行う女将さんがテレビで平身低頭する姿に、ほくそ笑む巨悪の影が二重写しになっているのをみたような気がする。その巨悪たちが神妙に頭を下げ、退場するのは、いつの日なのか。


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