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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「知ろうとしない責任」を考える
「自己責任」などの論議を超えて

安原和雄
破綻した新自由主義路線の中で犠牲者たちに「自己責任」が説かれ、一方、オバマ米大統領の就任演説に盛り込まれたキーワードの一つは「新たな責任の時代」である。にぎにぎしい責任論という印象があるが、さてその責任とは一体いかなるものなのか、となると、話はそれほど単純ではない。人に責任を押しつける責任論ほどいただけないものはない。21世紀版責任論があるとすれば、私は「自己責任」など従来の論議を超えて、「真実を知ろうとしない責任」、「変革に参加していく責任」を考えてみたい。(09年1月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽仏教者が自己責任論を批判

 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授が「因果応報と自己責任」と題してつぎのような一文を書いている(朝日新聞夕刊=東京版・09年1月22日付)。その要旨を紹介する。世に言うところの自己責任論への批判となっている。

 因果応報という考えがある。「善いことや悪いことをすれば、それは皆、潜在エネルギーとなって保存され、未来の幸せ、不幸せの種になる」という教えだ。「だから悪いことはするな」という忠告なのだ。
 因果応報があったとしても、この世の誰もが、善悪のエネルギーを山のように背負い込んで生きているはずだから、皆平等だ。しかも潜在エネルギーは、幸、不幸の一因として働くだけで、人生の流れ全体は、他の様々な原因の積み重なりによって決まる。
 今、生活がうまくいかなくて、苦しい目に遭っている人たちのことを「自己責任だ」と切り捨てる人がいる。では聞くが、その苦しんでいる人たちは過去にどんな悪行を行ったというのか。自己責任という以上は、「どんなことをした責任で今苦しんでいるのか」をはっきり言えるはずだ。

 人生は、才能や努力だけで成り立つものではない。偶然の巡り合わせに大きく左右される。それは自分の人生を振り返れば、誰でも分かるはずだ。だから幸・不幸の理由は人それぞれ全部違う。それを十把一からげにして「不幸は本人のせい」とは、不合理きわまりない。
 今、不況の中で苦しんでいる多くの人たちは、因果応報でもなく、自己責任でもなく、この社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる。社会の巡り合わせが一番の原因なのだ。だからこそ、その苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの「責任ある行動」なのである。

▽オバマ大統領の就任演説にみる「新たな責任の時代」

 厳寒のワシントンにおけるオバマ米大統領就任演説(1月20日・現地時間)のキーワードの一つが「新たな責任の時代」である。その趣旨はつぎの通り。

 我々の試練は新しいのかも知れない。我々が成功するかどうかは勤労と誠実さ、勇気、フェアプレー、忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心にかかっている。これらは真理であり、歴史を進歩させた静かな力だった。今求められているのは、こうした真理への回帰だ。責任を果たすべき新たな時代だ。我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ。私たちにとって、困難な仕事に全力で立ち向かうことほど、自らの性格を定義し、精神をみたすものはない。
 これが市民であることの代償と約束だ。これが私たちの自信の源泉だ。神が未知の運命を自らの手で形作るよう、我々に求めたものだ。

 以上のオバマ演説は、かつてのジョン・F・ケネディ米大統領の就任演説(1961年1月20日)の有名なつぎの一節を思い出させる。そのケネディ大統領は1963年11月、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。
「祖国(国家)があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが祖国のために何をできるかを考えて欲しい」と。

▽〈安原の感想〉(1)― 変革の主体としての責任

 昨今の我が国での責任論は、政治家や企業経営者の責任というよりも、自己責任論がにぎやかである。特に小泉政権時代のいわゆる構造改革(=規制廃止、自由化、民営化によって弱肉強食の競争を強要し、貧富の格差、貧困、失業、人間性無視などを増やす新自由主義路線)による多くの被害者、犠牲者たちに向かって「お前たちの努力が足りない責任だ」と責められる。

 それを仏教者は批判している。その批判にはつぎの意味が含まれる。
 一つは、「苦しんでいる多くの人たちは、自己責任ではなく、社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる」という自己責任否定であり、もう一つは「苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの〈責任ある行動〉」という、政治家や企業経営者などへの責任追及論である。この認識には私は基本的には賛同したい。

 ただこの際、指摘しておきたいのは、小泉改革花盛りのとき、それを批判する人が少なかったことである。その典型例はいわゆる郵政改革(小泉改革の中心テーマ)が焦点になった総選挙で、その時自民党を圧勝させた多くの国民のそれぞれの一票に責任はないのか、と問いたい。率直に言えば、小泉改革なるものの本性を見抜かないで、賛辞を添えて一票を投じたのだ。私は国民の多くがいささかお人好しになったのではないかと当時考えたし、今もそう思っている。
 今後もこの種の事態は、起こり得るだろう。これは日本の変革を良い方向にすすめるうえで、国民一人ひとりが主体的にどうかかわっていくか、その責任 ― あえていえば、その歴史的責任 ― はいかにあるべきか、というテーマでもある。
私事で恐縮だが、私は小泉改革は、新自由主義路線であるが故に当初から批判論を講演や論文で指摘してきた。しかし力不足であったことを今、自己反省している。

▽〈安原の感想〉(2)― 知ろうとしない責任

さてオバマ大統領の「新たな責任の時代」をどう評価すべきか。彼はこう述べた。
 「我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ」と。
 日本の政治、経済のリーダーにはとても期待できないセリフである。しかしその意味するところをどう受け止めるかは、単純ではない。新たな変革の時代に米国人一人ひとりが積極的に立ち向かい、変革を担うべきだという含意なら、賛成できるが、一方ではつぎのような責任転嫁論だという批判的な見方も根強い。

 「史上最大の金融危機は金融機構に寄生するウオールストリートの経営責任者とヘッジファンドマネージャーらが、金融の不正操作によってシステムの破綻を引き起こし、経済を破局に導いたことによるものだが、〈新たな責任の時代〉とは、その責任を、何百万もの職の喪失と住宅差し押さえ、社会保障の削減に直面した一般市民に転嫁しようとするものだ」と。(インターネット新聞「日刊ベリタ」・1月24日掲載の記事「真のチェンジを期待できるのか 就任演説と米メディアの報道を読み解く」=筆者はみゆきポワチャさん=から)
 オバマ大統領の真意がどこにあるのか、責任転嫁論であるのかどうかは遠からず明白になってくるだろう。

 それにしても責任論は扱いにくい。政治、経済の指導的立場にある者が責任逃れの言動を弄するのは論外であるが、それでは国民の多くが被害者となった場合、その被害者に責任はまったくないのかというと、そうとは言い切れない。

 私は今、昨年(08年)暮れにテレビで放映された「あの戦争はなんだったのか」というドラマを想い出している。ビートたけしが戦争指導者・東條英機を演じたドラマである。敗戦の昭和20年(1945年)まで15年間にも及んだアジア太平洋戦争で日本人の犠牲者は一般市民も含めて310万人にのぼった。なぜその戦争を防ぐことはできなかったのかが、このドラマのテーマである。
 「国民は真相を知らなかったから」という釈明に対し、登場人物の一人、新聞記者がこうつぶやいたのが印象に残っている。
 「知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ」と。

 知ろうと努力しなかったその責任はないのか、という問いかけであろうと私は受け止めた。ただ当時は、新聞は戦争推進の記事であふれて、国民の目も耳も閉ざされていたし、真相を知ろうとすれば官憲に弾圧される社会状況下にあった。自由、人権、民主主義とは縁遠い社会でもあった。
しかし現在は当時とは大きく異なっている。真実を知ろうと努力すれば、それをつかむ自由も機会もある。今日ほど「知ろうとしない責任」の大きい時はないのではないか。


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目が離せない米国軍産複合体
オバマ的「変革」を阻むもの

安原和雄
オバマ米政権の「変革」はどこまで貫かれるのだろうか。世界金融危機、世界恐慌の最中であるだけに経済分野での変革への期待が高まるのは当然であろう。しかし安全保障ではどうか。
 読み解く必要があるのは、イラクからは米軍撤退をすすめるが、それと対照的にアフガニスタンには米軍増派を行うことである。ブッシュ前政権時代に軍事力行使の限界を世界に見せつけたにもかかわらず、オバマ政権がその失敗に学ぶという姿勢が見えてこない。その背景に巨大な軍産複合体の存在が見逃せない。オバマ的変革を阻むものがあるとすれば、この軍産複合体であり、今後目が離せないだろう。(09年1月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙社説はアフガンへの米軍増派をどう論じたか

 大手4紙の社説はアフガンへの米軍増派をどういう視点から言及しているか。まずオバマ大統領就任にかかわる社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞(1月21日付)=オバマ大統領就任 米国再生の挑戦が始まる
*毎日新聞(1月22日付)=オバマ米大統領就任 世界変える旅が始まった 
*読売新聞(1月22日付)=オバマ政権発足 米国再生へ問われる真価
*東京新聞(1月22日付)=オバマ大統領就任 分断から対話の時代へ

 オバマ新政権が経済分野では変革路線を打ち出していることは疑問の余地がない。環境、自然エネルギー、雇用の3本柱からなる「グリーン・ニューディール」がその典型である。目下進行中の世界金融危機、世界恐慌をもたらした元凶、新自由主義路線からの転換の意図もその一つである。

 しかし外交・安全保障の分野ではどうか。新政権はイラクからは16か月以内に戦闘部隊を撤退させることにしているが、アフガニスタンへはむしろ米軍増派の方針を明らかにしている。この点を大手メディアはどう論じたか。たとえば朝日社説(1月21日付)はつぎのように指摘している。
 イラクの治安が悪化しないよう配慮しつつ、「間違った戦争」を一日も早く終わらせなければならない。他方、アフガニスタンへの米軍増派は慎重に考えて貰いたい。軍事作戦を突出させてはアフガンの住民たちの反発が増すばかりだし、隣国パキスタンの政情不安にもしっかり目配りする必要がある。軍事と民政支援をどう組み合わせ、国際社会の力を結集するか ― と。

要するに朝日の主張は慎重論であって、反対論ではない。まぜ反対論を主張できないのか。軍事力による報復は、出口のない報復の悪循環をもたらすだけである。朝日に限らず、大手紙の社説からは米軍増派への明確な反対論はうかがえない。概してオバマ新政権発足に贈るご祝儀社説という印象が残る。

 ここで日本の一般メディアからはとてもうかがえないような批判的な視点を紹介したい。批判の主は、反米左派で知られる南米、ベネズエラのチャベス大統領である。1月20日、支持者集会で以下のように語った。日米の枠にこだわらずに地球規模で観察すれば、見方、感想は「国、人それぞれ」であることが分かる。
 「誰も幻想を抱いてはいけない。(あの国は)帝国主義の米国なのだ。オバマ大統領が中南米を新しい視点で眺め、我々を尊重することを望む。我々は米国大統領が誰であれ、革命を継続するだけだ」(読売新聞1月22日付)

▽毎日新聞の「記者の目」が光っている。

大手紙社説に比べて光っているのが、毎日新聞の「記者の目」である。
 小倉孝保記者(毎日ニューヨーク支局)は1月22日付「記者の目」でつぎのような3本見出しでユニークな視点を打ち出している。要旨を紹介する。
・オバマ大統領 「非暴力」キング牧師に学べ
・軍事依存体質から脱却急げ
・まずCTBT批准に努力を

 米国に初の黒人大統領が誕生した。私はその歴史的瞬間を、黒人の公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師(68年暗殺)の地元アトランタで迎えた。米国はオバマ大統領の誕生で、人種の壁を越えるという牧師の夢の実現に一歩近づいたと思う。しかし牧師にはもう一つ、重要な精神がある。非暴力だ。世界に暴力があふれる今こそ、彼の「もう一つの夢」に向かって歩み始めることを新大統領に期待したい。
 
 アトランタのキング牧師記念館に入ると、インドの独立運動家、ガンジー(1869~1948年)の肖像画が目につく。ガンジーの非暴力思想に感銘したキング牧師は生涯、暴力を否定した。
 米国は必要以上に武力に頼り、武力を許容する社会になっていないか。イラク帰還米兵で心的外傷後ストレス障害と闘うルイス・モンタルバンさん(35)は言う。「戦地で最もショックだったのは、米企業が戦争で大もうけしていたことだ」
 「非暴力」は非現実的でも、軍縮によって武力への依存度を徐々に下げていくことは可能なはずだ。議会を説得し、核実験全面禁止条約(CTBT)批准に努力してほしい。クラスター爆弾や劣化ウラン弾の使用禁止に動いたり、武器輸出にさらに厳しい制限を設ければ、「米国は変わる」との強いメッセージとなる。

 キング牧師の「私には夢がある」との演説から46年。新大統領は20日(日本時間21日)、「試練にさらされた時にたじろかなかったと、子孫に言われるようにしよう」と演説した。大統領が軍事依存体質から脱却に踏み出すなら、米国は信頼を取り戻せる。それは次世代に誇る贈り物になると思う。

 もう一つ、笠原敏彦記者(毎日外信部)は、1月20日付「記者の目」でつぎの見出しで論じた。要点を紹介する。
・対中外交深化させる米新政権と日本
・「オバマ・ショック」に備えよ
・将来の二極化も視野に

 米国の対中外交へのエネルギー傾注が必然かつ自明の理となった今、「(日米)安保堅持を叫んでいれば米外交において重要な位置付けを日本は得るという時代は終わった」(田中直毅国際公共政策研究センター理事長「中央公論」08年12月号)のである。
 日本は第二次大戦後、日米同盟のお陰で世界第2の経済大国になり得た。しかしその過剰な依存のせいで経済力を政治・外交力に転化できなかった。米国の一極構造が溶解し始める中で、日米同盟に依存した世界観で外交を続けるなら、日本の国際的な地位は劇的に低下するだろう。

▽〈安原の感想〉― メディアの批判精神を期待する

小倉記者は、200万人が集まったワシントンの大統領就任式ではなく、その同時刻に黒人指導者で暗殺されたあのキング牧師の地元、アトランタで取材していたというその着想と行動力が評価できる。そこでインドの独立運動家、ガンジーとキング牧師とを重ね合わせて非暴力を考え、暴力のあふれる現在の世界から暴力を追放するには「非暴力へ」と思い至る。それを踏まえてオバマ大統領に「軍事依存体質からの脱却」― これは私に言わせると、米国軍産複合体支配からの脱却を意味する ― をすすめる。

 一方、笠原記者は、日本が日米安保依存型の外交にこだわっていると、日本の国際的地位は「劇的に」低下していくだろう、との展望を描いている。「劇的に」が何を意味しているのか、いまひとつ不明だが、それはともかく両記者の「目」は的確である。

日米安保は大手メディアでは批判できない聖域のような存在になっており、軍産複合体の存在もあまり紙面に登場してこない。批判精神の弱い惰性から抜け出して、そういうテーマに果敢に接近しようとする姿勢こそがジャーナリズムの今日的な批判精神ではないだろうか。それに期待をかけたい。

▽オバマ米政権の一つの謎 ― 米国軍産複合体の影

オバマ大統領は就任演説で「世界はすでに変わっており、我々もそれに合わせて変わらなければならない」と言った。その言や、よしである。
 ところがつぎの演説の意味が不可解である。「我々は責任を持ってイラクから撤退しはじめ、イラク人に国を任せる。そしてアフガニスタンに平和を築いていく」と。問題は後半の「アフガンに平和を」の意味である。アフガンには米軍増派の方針をすでに明らかにしているのだから、「軍事力増強によって平和を築く」という、あの陳腐な「平和=戦争」という論理がまたもや借用されているとはいえないか。ここだけは「変革」とは無縁らしい。ブッシュ前政権からの引継事項なのか。変革がキーワードのオバマ政権の一つの謎ともいえよう。その背景に何が潜んでいるのか。

 私(安原)はそこに米国軍産複合体の影を観る。
 まずオバマ政権で注目されるのは国防人事である。ロバート・ゲーツ国防長官がそのまま留任した。彼は米中央情報局(CIA)長官を経て、06年からブッシュ前政権の国防長官になり、今日に至っている。ジェームス・ジョーンズ大統領補佐官(国家安全保障担当)は海兵隊総司令官(大将)であった。
 見逃せないのは国防総省(ペンタゴン)ナンバー2の国防副長官にウイリアム・リン元国防次官が座る人事である。同氏は米軍需大手レイセオン社の上級副社長(政府担当)で、08年夏まで政府相手のロビー活動をしていた。これは一例にすぎないが、要するにオバマ大統領は米国軍需産業と緊密な関係にある人物をペンタゴンの枢要ポストに据えた。

 ここで「アイクの警告」を思い出したい。半世紀近い昔のことだが、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
 その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは〈軍産複合体〉とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。

 軍部と産業との結合体である「軍産複合体」の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴンと軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体となっている。これが特にブッシュ政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といえる。オバマ的変革に抵抗し、阻むものは、この軍産複合体の存在といえよう。
 日本にももちろん日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携しており、今では米日連合軍産複合体に成長している。

 オバマ大統領は「アイクの警告」を生かして、軍産複合体と一定の距離を保ち、巧みに封じ込めることができるだろうか。これに失敗すれば変革路線も肝心なところで挫折に見舞われるだろう。大きな挑戦的課題というべきだが、イラクからは軍を引くとしても、アフガンには軍の増派を進め、戦争ビジネス拡大の余地を保証しているのは、軍産複合体との最初の取引ではないのかという印象が消えない。


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平和をどうつくるか、その提案
憲法9条を生かし、非武装日本を

安原和雄
 「Change(変革)」のスローガンを掲げるオバマ米大統領の登場によって世界の平和は確かなものになっていくのだろうか。米新政権はイラクから米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍増派の方針と伝えられる。平和は他者から与えられるものではない。主体的な国民の選択によって「平和をつくる」という姿勢が不可欠である。
 では日本として平和をどうつくっていくか。いまや「世界の宝」として評価の高い憲法9条の理念(非武装、交戦権の否認)を生かし、戦略目標として「核廃絶・非武装日本」を掲げ、追求していくときだと考える。(09年1月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は「コスタリカに学ぶ会」(正式名称:「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)の世話人の一人として、「平和をどうつくっていくか」をめぐって論議を深めたいと念願している。
 ここでは安藤 洋氏(かしわ9条の会世話人)の「非核・非武装永世中立宣言」運動をすすめようという提案を紹介する。その構想(要旨)は以下のようである。(安藤氏の論文〈「非核・非武装永世中立宣言」運動を ― 「憲法を守る」を超える攻勢的構想」〉=ロゴス社隔月刊誌「もうひとつの世界へ」・2008年12月号に掲載=参照)

▽安藤構想(1)― 「非核・非武装永世中立宣言」運動を

 「非核・非武装永世中立宣言」は、日本が国家として宣言する。日本国憲法には第9条があり、戦争放棄の証になっている。しかし「解釈改憲」の積み重ねによって、9条を実質的に切り崩し、世界第5位の戦力を有する自衛隊(軍隊)が存在し、沖縄をはじめ全国に広がるアメリカの軍事基地があり、イラク戦争に協力を続けている。こうして「条文」と「実体」がまったく乖離している。
 もし日本が「非核・非武装永世中立宣言」をすれば、中国、北朝鮮、韓国などは憲法9条を信頼し、日本が〈平和国家〉であると信じるようになるだろう。

 「憲法を活かす」ために、「非核・非武装永世中立宣言」をする政府を創ろうという戦略が明確になれば、いまの「9条を守る」運動の政治的弱点を必ず克服し、「9条派」の共通の闘争目的が鮮明になって、この旗の下に各党派各組織の連帯を大きく深めることができると確信する。

 この構想のヒントになったコスタリカの実践について説明する。日本では解釈改憲によって「条文」と「実体」が乖離しているが、コスタリカはまったく逆である。コスタリカ憲法12条(常備軍の廃止)は現実政治のなかで実効性を発揮している。
 コスタリカには8歳の子どもが憲法違反を訴えた実績もある憲法裁判所があり、2004年9月にはそれを活用して一大学生が憲法違反の訴えを起こした。当時のコスタリカ大統領が支持し、承認した、アメリカのイラク侵略に政策協力する共同リストにコスタリカの名前があるのは憲法違反だという訴えで、勝利の判決を勝ち取り、コスタリカの国名を共同リストからはずさせた。

 なぜコスタリカには日本と違って「条文」と「実体」の乖離がないのか。
 1983年、アメリカのレーガン大統領が、当時反米の旗を掲げていたニカラグアのサンディニスタ政権へ武力攻撃を加え、コスタリカを巻き込もうとした。その時、コスタリカのモンヘ大統領は、コスタリカの「永世中立宣言」を盾にして、侵略への加担を拒否した。モンヘ大統領は、直接国民にアンケートを出して、戦争と平和の論議を起こし、世論を喚起して、82%の支持を得て、「永世中立宣言」を出したのだ。
 1984年には、干渉した張本人レーガンも「永世中立宣言」を認めざるを得なくなった。そして87年にアリアス・コスタリカ大統領が「平和の輸出戦略」で、周辺諸国の戦争を回避させて、ノーベル平和賞を受賞した。

▽安藤構想(2)― 「夢物語」という批判への反論

 「宣言」の現実性と勝利の展望について「非核・非武装永世中立宣言」なんて「夢物語」という批判には、改めてつぎの事実を示したい。
①「非核3原則」と「憲法9条」は日本国の「国是」であり、すでに国民的権利意識となって広がっていて、正面からこれに反対できない国家理性である。(広辞苑:国家理性=国の政治は、まず自国の利益によって規定され、他のすべての動機は、これに従属せしめるべきだとする国家行動の基本準則)

②名古屋高等裁判所の判決(08年4月17日、航空自衛隊のイラクでの輸送支援活動について違憲の判断を下した)は、憲法前文の「平和的生存権」は、「核時代の自然権的本質を持つ基本的人権」と定義されていることに注目し、「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」、「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」、「他国に民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」、「平和を希求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦、・非暴力平和主義に立って生きる権利」であることを認めている。この権利のすべてが、「非核・非武装の永世中立宣言」への権利的根拠であり、その国是化への行動を促しているように思う。

③なぜ「中立」か? 「非核3原則」と「9条」から生まれてくる未来国家は「中立」しかありようがない。この国是を守る限り、他国への戦争加担はあり得ない。

④なぜ「永世」か? 改憲を許さない一票のために必死に戦っている「9条派」の人たちには、将来いつ変えられるかもしれないという不安から逃れることができない。このため私は、子々孫々に9条を変えてはならないという「9条遺言の会」を創り、運動を進めている。

 またこの運動は、アメリカに対する基地撤廃要求とも重なる。「宣言」を出そうという運動が国民の中に大きく広がれば、「宣言」が出される前に、沖縄をはじめ日本国中で米軍基地の撤退は具体的な日程にのぼり、「日米安保条約」を「日米友好条約」に改変する動きも具体化される。いま世界に広がる米軍基地反対運動は、この闘いへの連帯と勝利の見通しに確信を与えてくれる。
 従来は「安保条約破棄」、「軍事基地撤廃」を実現するためには、日米両政府がテーブルについて交渉するところから始めなければならないと考えられてきたが、「国家宣言」を出すのは、その国家の主権行使であり、これをアメリカがつぶすことはできない。
 自衛隊をいつ、どの程度縮小するか、廃止するか否かは「宣言」成立後の戦術問題として、国民の合意を取り付けながら時間をかけて行うべきだろう。

 以上のような趣旨の安藤構想は、きわめて示唆に富む刺激的な内容となっている。ただ説明が十分とはいえないところもあり、その点を含めて私(安原)の感想を以下に述べたい。

▽安原の感想(1)― 「非核」よりも「核廃絶」を

 まず「非核・非武装の永世中立宣言」のうち「非核」は「核廃絶」の方が望ましいのではないかと考える。

 非核3原則は、1967年12月の衆院予算委員会で当時の佐藤栄作首相が、日本社会党の成田知巳委員長の質問に答えて、示したもので、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という3原則を指している。さらにこの3原則は1971年11月の衆院本会議で行われた沖縄返還協定付帯決議に盛り込まれた。ただ3原則の一つ、「持ち込ませず」は米軍による日本への核兵器持ち込みを認めないという趣旨だが、現実には核兵器搭載の米国艦艇(原潜など)の日本寄港によって「持ち込ませず」には風穴が空いているという説が有力である。
 もちろん「非核」というスローガンは間違ってはいないし、正しいが、いまではやや新鮮な印象に欠ける。

 しかも最近では「非核」よりも「核廃絶」の方が緊急かつ切実な課題となってきた。たとえば北海道新聞社説(2008年12月28日付・要旨)は「核のジレンマ 日本こそ廃絶の先頭に」と題してつぎのように論じたことに注目したい。

核軍縮をめぐる世界の潮流は変化の兆しを見せている。
 キッシンジャー元国務長官ら米政府の元高官が米紙に「核のない世界を目指して」と題する論文を発表したのは08年1月だった。6月には英国の元外相らが大幅な核兵器削減を主張する論文を英紙に掲載した。
 もはや冷戦時代の核抑止論は有効性を失った。そんな冷徹な共通認識が背景にはある。
注目したいのは、オバマ次期米大統領が「核兵器全廃という目標を核政策の中心に据える」と明言していることだ。
 日本としても最大限の協力と支援を惜しむべきではない。
 たとえば、新大統領を広島、長崎に招いてはどうか。核廃絶の決意を強固にするため、被爆地ほどふさわしい場所はあるまい。

▽安原の感想(2)― 「安保条約破棄」は主体的な選択

 安藤構想の中で若干気になるのはつぎの指摘である。
 「宣言」を出そうという運動が国民の中に大きく広がれば、「宣言」が出される前に、沖縄をはじめ日本国中で米軍基地の撤退は具体的な日程にのぼり、「日米安保条約」を「日米友好条約」に改変する動きも具体化される ― と。

 この指摘の真意はいまひとつ理解しにくいところがある。「宣言」を出そうという運動が大きく広がっても、それが自動的に米軍基地撤退や日米安保条約改変の動きにつながるとは言えないのではないか。
 在日米軍基地は日米安保条約第6条(基地の許与)によって存在しており、その背景にはアメリカの世界戦略がある。次期米国務長官のヒラリー・クリントン上院議員は日米同盟について1月13日上院公聴会でつぎのような考えを示した。
 「日本との同盟は米国のアジア政策の要石だ。アジア太平洋地域の平和と繁栄の維持に必要不可欠」と。
 つまり日本での「宣言」(安保条約破棄を明示しない)にかかわる運動がいくら広がっても、米国側から日米安保条約を破棄し、米軍基地を撤退させる展望は今のところ描くことはできない。ということは日本側から安保破棄の明確な政治的意志を表明する政権を国民の多数意志によってつくる以外の選択肢はないのではないか。そこには国民多数の主体的な選択が求められる。

もう一つ指摘すれば、安保条約破棄、軍事基地撤廃を実現するために、「日米両政府がテーブルについて交渉すること」は必ずしも必要ではない。なぜなら一方的破棄が可能だからである。安保条約10条は「いずれの締約国も、相手国に条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、条約は通告後1年で終了する」と定めている。この条項が多くの人に理解されることがまず必要である。

▽安原の感想(3)― 9条を生かして「核廃絶・非武装の日本」を

さて「平和をつくる」ための構想はどうあるのが望ましいだろうか。私なら、以下のように提案したい。(なお私は平和について「平和=非暴力(非戦も含む)」と広くとらえているが、ここでは「平和=非戦」という狭い平和観に限定して考える)

*戦略目標=「核廃絶・非武装の日本」をつくろう!
*戦略目標実現のための必要条件=平和憲法9条を生かし、日米安保条約破棄を!

 上記の戦略目標について安藤構想と異なるのは、「非核」を「核廃絶」にしていることもあるが、むしろ「永世中立」宣言にこだわっていない点である。
 戦時・平時に関係なく国際的な中立を外交上の立場とする「中立」は、「武装中立」と「非武装中立」に大別できる。前者はたとえばスイスであり、後者はコスタリカである。

 コスタリカは1949年の憲法改正(12条)で常備軍を廃止し、それから30年余の後の1983年に中立宣言を行った。コスタリカの中立宣言には非武装中立、永世中立、積極中立 ― という3つの特色がある。
 非武装中立は、常備軍の廃止にとどまらない。加盟している集団安全保障体制(国連、米州機構、米州相互援助条約)から常備軍保有などを要求されないことも含む。永世中立は読んで字の如く、暫定的な中立ではないこと。積極中立は国際的紛争の平和的解決のためなどに活動する権利を持つことを意味している。

 このようなコスタリカの中立政策に学ぶとすれば、まず軍隊廃止が不可欠であり、中立宣言はその後の内外情勢の推移に依存するという考え方もあり得ることを指摘しておきたい。軍隊廃止とは、私案では武装した自衛隊から非武装の「地球救援隊」(仮称)への全面的改組を意味する。その内容については数年来提案してきたので、ここでは割愛する。

戦略目標実現の必要条件として9条の理念(非武装、交戦権の否認)を生かすことと日米安保の破棄をあげている。私は両者は切り離せない課題として認識している。なぜなら日米安保条約3条は「日米両国の自衛力の維持発展」を明記しており、それが憲法9条の非武装の理念を骨抜きにしているからである。歴代の日本保守政権が解釈改憲によって憲法9条を空洞化させた元凶は、ほかならぬ安保条約3条である。
 さらに安保条約5条「日米共同防衛」、6条「米軍への基地許与」の規定があり、このため日本列島に広大な米軍基地網が張りめぐらされ、アフガニスタン・イラク攻撃などの戦争基地となっている。しかも日米の軍事一体化が進み、日米共同軍事演習が頻繁に行われ、軍事費という名の財政資金の浪費と環境破壊をもたらしている。
 戦略目標として非武装を目指す以上、安保廃棄に目を向け、憲法9条の理念を取り戻し、生かしていくこと以外の妙策はあり得ないとはいえないか。

 いまや変革の時代である。既成概念、既存の枠組み、さらに特定の政党党派に囚われているときではない。特に「平和をどうつくるか」という視点に立つとき、このことは必要不可欠にして緊急の課題となっている。もちろんタブー(批判を許さぬ聖域)をつくってはならない。安藤構想を前向きに発展させる方向で論議が深まることを期待したい。


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成人になって考えてみたいこと
平和憲法の理念を生かす変革を

安原和雄
 今年もまた多くの若者たちが成人の仲間入りをする。成人としてどういう生き方を選択するか、もちろん「人それぞれ」であっていいが、多少なりとも考えてみたいことは、この国のあまりにも寒々とした現実である。その現実から逃れることができない以上、求められるのは現実と向かい合い、変革しようという意欲であろう。変革への有力な手がかりとなるのが平和憲法の理念をどう生かすかではないだろうか。(09年1月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 「成人の日」は祝日法(1948年公布・施行)によって制定され、1月15日だったが、ハッピーマンデー制度導入によって2000年から1月第2月曜日に該当する日に変更された。月曜日を祝日(休日)とすることによって連休日を増やし、暮らしにゆとりを持たせようという狙いがあった。

 さて大手メディアは09年成人の日(1月12日)に何を論じたか。ここでは以下の3紙を取り上げる。まず1月12日付社説の見出しと本文(要旨)を紹介しよう。

▽朝日新聞=成人の日 荒海のなかへ船出する君 

 まさに津波のような経済危機のまっただ中だ。景気はどんどん悪くなる。勤め先が倒産した。採用の内定を取り消された。そんな話を知り合いや先輩から聞けば、自分はどうなるかと不安や焦りも募るだろう。
 これから先に待っているのは少子高齢化の社会だ。多くのお年寄りを、少ない働き手で支えなければならない。老後の年金は、いまのお年寄りほど手厚くない。それなのに、国が背負う借金のツケをしっかり回されるのだ。
 目を世界に転じれば、グローバル化の大波が、強者と弱者、金持ちと貧乏人などさまざまな格差を生んできた。資源やエネルギーの浪費は、地球の温暖化をもたらした。

 しかし、嘆いてばかりでは、その若さが泣こうというものだ。
 時代を変えるのは若者の力だ。
 今年はちょうどいいチャンスだ。衆議院の選挙がある。選挙は世の中を動かすきっかけとなる。とりわけ今回は日本の政治の姿が大変わりする可能性があるのだ。
 傍観者のままでいると、若者が抱える問題は置き去りにされかねない。せっかくおとなになったのだ。ちょっと投票所に行ってみよう。若者の一票一票を積み上げてみよう。
 荒海に乗り出す船は、若いこぎ手を求めている。

▽東京新聞=成人の日に考える 変化の時代に立つ君へ

 新成人の皆さんは、昭和から平成へと移る時代の大きな節目に生まれ、混迷と不安と変化の時代を生きている ―。このようにひとくくりにされてはみても、渦中で過ごした当事者には、「新しい時代」を歩んできたという実感は、乏しいに違いない。
 突然ぶり返した就職氷河期も、派遣切りも、医療不安も、年金危機も、地球温暖化問題も、君たちのせいではない。

 二十歳になったからといって、その日から風景ががらりと変わるわけではない。それでも「成人」という人生の節目は、大切にしてほしいと強く希望する。
 例えば、二十年の過程を振り返り、五感に触れる季節の移ろいを味わいながら、循環するいのちを感じ、他者との関係性を見直して、視野を広げる契機にしてほしい。そうやって、人は「大人」になっていくものだ。

 世の中「変化」ばやりである。でもそれは、他者から与えてもらうものではない。自らに課すべきものであるはずである。
 きょう成人の日。この強い逆風に向かって立つことができるよう、まず自らを変化に導く節目にしてほしい。

▽読売新聞=成人の日 将来の選択は地に足を着けて

 自身の将来や自分たちの社会をどうしていきたいのか。自ら考え、選択していくのが、大人になるということだろう。「選択」は、大人としての責任を果たすキーワードだ。今年は、それにふさわしい衆院選が秋までには実施される。
 20~24歳の投票率は、2005年の衆院選が43%、07年の参院選が33%で、他の年代より低い。まず投票所へ足を運ぼう。

 昨秋以降の金融危機に伴う景気悪化で、仕事や住居を失った人、家族や友人が苦境に陥った人もいるだろう。各政党や候補の政策をしっかり見極めたい。

 自らの進路も慎重に選びたい。就職後3年以内の離職率は、05年春の大学卒業者では36%に上る。適性をきちんと把握し、悔いのない選択をしてほしい。
 自分や社会の進路の選択に確かな視点を持ち、地に足を着けて大人社会への一歩を踏み出そう。

▽若者に期待するキーワード ― 変革

 上記3紙の社説に盛り込まれている共通のキーワードを引き出せば、それは「変革」である。
 朝日は「時代を変えるのは若者の力だ」と強調している。
 東京は「強い逆風に向かって立つことができるよう、まず自らを変化に導く節目にしてほしい」と訴えている。
 読売は「自分や社会の進路の選択に確かな視点を」と指摘している。

 オバマ次期米大統領のキャッチフレーズ、「Change(変革)」にあやかって変革がキーワードになることは時代の新しい流れといえる。弱肉強食を無慈悲にごり押しした新自由主義路線の破綻、世界恐慌、さらにブッシュ米大統領によるアフガニスタン・イラクへの攻撃・占領政策の破綻、その上、目下進行しつつあるイスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの執拗な攻撃とパレスチナ側の1000人近い死者(うち子どもが4分の1以上も)、4000人を超える負傷者 ― をみれば、変革なしにはもはや前へ進めないことは歴然としている。

 若者たち自身にとっても変革は切実なテーマである。結婚情報サービス会社「オーネット」が今年の新成人を対象に調査(男女832人回答)したところ、「結婚したい」が80%、一方「経済的基盤がないとできない」が85%にものぼっている。結婚したいという当然の希望が、現実には阻まれているという実態が浮かび上がっている。この現実をどこまで変革できるか、いいかえれば変革は単なるスローガン、理想ではなく、切実な日常的課題になってきている。

▽憲法理念を生かして(1)― 「平和=非暴力」の実現を

 では何をどう変革するのか、それが問題である。それなりの明確なビジョン(目標)とそれを実現させる実践が伴わなければ、絵に描いたモチに終わるほかないだろう。
 私(安原)は憲法の平和理念を取り戻し、生かし、実現させていくこと ― が不可欠と考える。ここでの「憲法の平和理念」の「平和」は、従来の「平和=非戦」にとどまらず、広く「平和=非暴力」ととらえる。
 例えば生存権が脅かされるのも暴力である。人間が経済の主役としてではなく、逆に経済の奴隷と化して企業利益の最大化に苦役させられる状態も暴力である。だから平和とは非戦はもちろんのこと、生存権が保障され、人間が経済の主人公としての地位を取り戻して振る舞うことができる状態などを指している。

 具体的には以下の5つの憲法条項の理念をどう生かしていくかである。
*憲法前文の「平和共存権」と9条の「戦力不保持と交戦権の否認」
*13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条の「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
*25条の「生存権、国の生存権保障義務」
*27条の「勤労の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

▽憲法理念を生かして(2)― 21世紀版「奴隷解放宣言」も

 上記の5つの憲法理念について説明したい。
 前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。
 平和共存権と9条の戦力不保持を生かすためには核兵器廃絶、非武装中立(常備軍を廃止し、永世中立宣言をしているコスタリカ方式)、さらに非武装中立のための前提条件として日米安保体制(=軍事・経済同盟)の解体を長期的視野に入れておく必要がある。

 13条に「立法その他の国政上、最大の尊重を必要とする」と定めてあるにもかかわらず、現実には「生命・自由・幸福追求の権利の尊重」は空文化している。ここでの「自由」とは、やりたい放題のことに時間とエネルギーを浪費することを意味しない。「私の勝手でしょ」という姿勢は間違っている。人間としての誇りをもって正面を向いて生きることだ。

 18条に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とある。本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
 ここでの「奴隷的拘束」とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」を、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
 特に「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの若者たちが自覚して認識しているだろうか。新自由主義路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。これでは21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。

 周知のように25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」となっている。しかし現実には貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減 、税・保険料負担の増大― などによって生活の根幹が脅かされている。この現実をどう変革するかは緊急の大きな課題である。

 27条に「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」とあるが、現実には失業者のほかに非正規労働者があふれている。適正な労働の機会を国や企業が保障しないのは、「労働は権利、義務」という憲法に違反している。

 日本における「変革」とは、以上のような憲法理念の実現のために「誇り」を持って自ら努力することである。遠慮しないで、堂々と「人間としての叫び」を上げよう! 他人任せでは変革はできない。変革への第一歩としてまず平和憲法の学習から取り組んでみてはいかがだろうか。
 特に憲法9条については「九条の会」(ノーベル文学賞受賞者、大江健三郎氏らが呼びかけ人)が全国各地に、企業内にすでに7000以上も誕生し、活躍している。


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ペットとの別れ ― いのちと感謝
〈折々のつぶやき〉47

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は47回目。題して「ペットとの別れ ― いのちと感謝」です。(09年1月8日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 久しぶりに会った学生時代からの友人Aが浮かぬ顔をしている。聞いてみると、「共に暮らしてきたペットのネコが最近あの世へ旅立った。いささかの寂寥感にとりつかれている」と胸の内を明かしてくれた。ペットとの暮らしについて彼が語ったところを紹介しよう。
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▽霜の降りた寒い冬の朝だった

 都内でのマンション暮らしの彼は、毎朝付近での散歩を日課としていた。散歩のとき、その猫とたまたま出会ったのは、霜の降りた寒い冬の朝だった。ビルわきの草むらに潜むようにして震えていた。よく見ると、すっかりやつれており、このままではあの世へ直行だなと感じ取った。
 動物好きだった彼はとても見捨てるわけにはゆかない。抱きかかえるようにして家へ連れ帰った。近くの動物病院で診て貰うと、「相当な年だね。長くはもたない」という診断だった。

友人A「どうする? 1、2か月の寿命らしいよ」
奥さん「家でしばらく面倒みましょ。外は寒いし、放り出すわけにもいかないでしょう」

 内心ほっとした彼は、短命にせよ名前が必要だと考えて、出会ったところのビルの名称にヒントを得て「ソノ」と名づけた。こうして始まった猫との暮らしは何と3年余にも及ぶことになる。年齢は20数歳にもなるとみられるが、確かなことは分からない。「3年余は誤算だった。しかし嬉しい誤算というべきだね」と語る猫との同居生活ぶりは ― 。

▽枕に頭を乗せて寝る

 生粋の野良ネコというよりは、どこかで飼われていたのかもしれない。何かの事情で捨てられたのか、自分で飛び出したのか、その辺の事情は分からない。
 「これも何かの縁であろう。責任を持って面倒をみるほかない」と思い定めたという。牛乳を飲んだり、ペット用の缶詰や魚の刺身を食べたりして、たちまち元気を取り戻したが、部屋の中を走り回ることはなかった。やはり相当の年らしく、いつも穏やかにゆったりと過ごしていた。

 いつの頃からだったか、そのネコは彼の寝床にもぐり込んで寝るようになった。彼が夜中に目を覚ましてみると、決まって同じ布団で隣に並んで寝ている。こうなっては仕方がないというわけで、小さな枕を与えると、そこにちゃんと頭を乗せて寝ている。ネコとしては珍しいことではないのか。よほど行儀良く育ったせいなのだろうか。

▽「介護訓練か」と苦笑しながら

 ところが、である。思わぬ事態に見舞われることになった。ネコのお漏らしが始まったのである。マンション暮らしのため、外で用を足すというわけにはゆかない。部屋にはペット用便器を備え付けていたが、ある日、掛け布団を濡らした。飼いはじめてから3年近く経ってからである。やはり相当な年だったのだと気づいたが、今さら捨てるわけにはいかない。それは人道、いやネコ道(?)に反する行為であろうとここで2度目の思い定める次第となったという。

 それからは悪戦苦闘の毎日となった。
友人A「しかしこれは天が与えてくれた介護訓練かもしれないよ」
奥さん「いずれ私たちもそういう年齢になるわけだし、いまから訓練しなさいということかもね」

 考えてみれば、その通りであり、「老いて、やがて行く道か」と苦笑するほかなかった。しかし1カ月とは続かなかった。あの世へさっさと逝(い)ってしまったのである。気兼ねしたのか、気を利かしたのか、物言わぬ生き物であり、そこは分からない。

▽感謝の意思表示だったのか

 ここで友人Aのペット物語も一段落した。私は彼を元気づけるつもりでささやいた。「そのネコは君たち夫妻と出会って感謝しているのではないの 」と。
 「そういえば」と前置きして彼は語った。「妻に抱かれているうちに息を引き取ったが、その直前、ネコは顔を妻の頬にこすりつけるようにしてやがて静かに動かなくなった。あの最期のしぐさは感謝の意思表示だったのかなー」と。
 目頭を熱くした彼を観て、私もつい涙腺がゆるんでいくのを感じていた。

 「もう一杯飲み直そう」とどちらからともなく持ちかけて、語り合ったことは、ひとつのいのち、ペットに教えられた「いのちと感謝」である。
 最近は「有り難い」という感謝の気持ちが少なくなっている。人間一人ひとり、この世に生をうけること自体、きわめて小さい可能性の中からいのちを得たのであり、なかなかあり得ないという意味で有り難いことである。朝、元気で起きられれば、また食事を美味しく食べられれば、有り難いのである。ペットとの良縁ができるのも有り難いことである。
 人や世間を怨むこと、不平不満を並べることを自制すれば、そこに有り難いと感謝する心が芽生えてくる。

 近くまた会うことを約して彼と別れた。私は外套の襟を立てながら寒空に輝く月を見上げた。「おとぎ話ではないが、ウサギだったらあのお月様のところに逝くのか、ネコならどこへ旅立つのか」とつぶやきながら・・・。


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09年元旦「社説」を論評する
新自由主義後の新時代への提案は

安原和雄
 大手メディアの09年元旦社説を読んだ。元旦社説は各紙のいわば年頭の辞であり、本年の紙面づくり、主張で何に重点を置くかを内外に示す意味をもっている。多様な意見、論評があるのは当然のことだが、そこには自ずから各紙の時代認識が盛り込まれているはずである。関心の的となるべきは、新自由主義路線の破綻であり、その破綻後の新しい時代、国のかたち、経済モデルをどう築いていくかにほかならない。社説にみる新時代への提案は何か。(09年1月2日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 まず大手5紙の元旦社説の主見出しを紹介する。
*東京新聞=年のはじめに考える 人間社会を再構築しよう
*朝日新聞=混迷の中で考える 人間主役に大きな絵を
*毎日新聞=日本版「緑のニューディール」を
*読売新聞=急変する世界 危機に欠かせぬ機動的対応、政治の態勢立て直しを
*日本経済新聞=危機と政府(1) 賢く時に大胆に、でも基本は市場信ぜよ

 以上の5紙社説の見出しから何が見えてくるか。東京の「人間社会を再構築」と朝日の「人間主役」からは「もっと人間を尊重する社会を」というイメージが浮かび上がってくる。毎日の「緑のニューディール」はいうまでもなく緑、すなわち地球環境保全を焦点に据えているのだろう。
 日経は、「危機と政府(1)」から連載社説が始まることをうかがわせるが、「市場信ぜよ」には連載社説の総論として自由市場主義にあくまでこだわる姿勢を見せている。一方、読売の見出しからは問題意識や主張の具体性が見えてこない。

 元旦社説、つまり新聞社としての基本姿勢表明に何を期待するかは、もちろん「読者それぞれ」であっていい。しかし私(安原)なら、(1)昨年秋からの世界金融危機さらに世界恐慌ともいえる世界大不況をもたらした新自由主義路線の破綻をどう認識するか、(2)日本は新自由主義破綻後の新しい時代をどう築いていくべきか ― の2点は欠かせないと考える。そういう視点に立って09年元旦の5紙社説を吟味したい。

(1)新自由主義路線の破綻についてどういう認識か

 1980年前後から米、英、日本を中心に導入された新自由主義(=市場原理主義)路線はグローバル化、自由化、民営化、規制の緩和・廃止によって多国籍企業など大企業の強欲な私利追求を推進した。日本では2001年からの小泉構造改革が顕著な具体例で、その無惨な「負の遺産」に多くの人々が苦しめられている。これを5紙社説はどう論じたか。

▽東京新聞=「奈落への渦巻き現象」という小見出しをつけてつぎのような事実を列挙している。
・進展するグローバル経済の市場原理主義と競争社会に傷つき倒れる人が続出した。
・全労働者の3分の1の1700万人が非正規雇用、年収200万円以下の働く貧困層が1000万人。若い世代から「結婚もできない」の悲鳴が聞こえる。
・雇用情勢も底抜けしたような不気味さである。厚生労働省の昨年暮れの調査では、ことし3月までに非正規労働の8万5000人が失職か失職見込み。わずか1カ月前の調査に比べ5万5000人も増えて、歯止めがかからない。

▽朝日新聞=「市場の失敗の大きさ」、「格差と貧困の広がり」という小見出しで書いている。
・人々を豊かにするはずの自由な市場が、ときにひどい災禍をもたらす。資本主義が本来もっているそうした不安定性が、金融規制を極限まで緩めたブッシュ政権の米国で暴発し、グローバル化した世界を瞬く間に巻き込んだ。
・このグローバル化を牽引(けんいん)したのが米国だ。株主や投資家の利益を何より重視する。働く人の暮らしや企業の責任よりも、お金を生み出す効率を優先する。1970年代からレーガン革命を貫いて今日に至る「新自由主義」の考え方に支えられた市場のあり方は、世界にも広がった。

・日本では何が起きたか。
 バブル崩壊後の不況脱出をめざし、米国流の市場原理を重視した規制緩和が本格化してほぼ10年。小泉構造改革がそれを加速した。その結果、古い日本型の経済社会の構造がそれなりに効率化され、戦後最長の好景気と史上最高水準の企業収益が実現した。
・同時に現れたのは思いもしなかった現実だ。声高な自己責任論にあおられるように貧富の差が拡大し、働いてもまともな暮らしができないワーキングプアが急速に広がった。労働市場の規制緩和で、非正規労働者が働く人の実に3割にまで膨れ上がり、年収200万円に満たない人が1000万人を超えてしまった。
・かつて日本社会の安定を支えた分厚い中間層はもはやない。

▽毎日新聞=新自由主義路線への言及は特にない。

▽読売新聞=「新自由主義の崩落」という小見出しをつけて次のように指摘している。
・新自由主義、市場原理主義の象徴だった米国型金融ビジネスモデルの崩落が、世界を揺るがせている。
・急激な信用収縮は、実体経済にも打撃を与え、世界は同時不況の様相を深めつつある。
・「100年に1度の危機」とさえ言われ、1929年に始まった「世界大恐慌」が想起されたりもしている。

▽日経新聞=以下のように「市場を信頼し自由競争を重んじる」新自由主義路線は大筋では間違ってはいないという趣旨である。
・米金融危機の一因に監督や規制の甘さがあったのは否めない。そして今は金融混乱の収拾や景気・雇用対策で政府の役割が期待されている。しかし資本主義の活力をいかすには国の介入は少ない方がよい。特に日本はまだ規制が多すぎる。
・サッチャー元英首相、レーガン元米大統領らが1980年代に進めた規制緩和や民営化などの改革は競争力を強め、90年代を中心とした米欧の長期好況の基を築いた。
・市場を信頼し自由競争を重んじるこの保守主義の政策が金融危機を招いたとする見方もあるが、必ずしも正しくない。保守主義は「何でもご自由に」ではないからだ。問題は米欧の金融当局が、この政策思想を適切に運営しなかった点にある。

〈安原のコメント〉批判派の東京新聞、擁護派の日経新聞
 新自由主義についての言及がない毎日新聞は別にして、新自由主義に対する批判派の筆頭は東京新聞である。「奈落への渦巻き現象」という小見出しがそれを物語っている。新自由主義の「負の遺産」に関する記述も具体的である。
 読売新聞は「新自由主義・市場原理主義の象徴だった米国型金融ビジネスモデルの崩落」と書いているが、「崩落」という事実を指摘しているにすぎない。新自由主義路線そのものへの批判的姿勢は必ずしもうかがえない。

 批判的であるようで、ちょっと首を傾げたくなるのが朝日新聞である。一例をあげると、「人々を豊かにするはずの自由な市場が、ときにひどい災禍をもたらす」という記述である。規制のない「自由な市場」はいわゆる弱肉強食の論理が働いて、その結果、貧富の格差(ワーキングプアなど)をもたらすのであり、全員が自動的に豊かになるわけではない。あの小泉構造改革がそれを証明したのだ。だからこそ適正な規制が必要だと考えたい。

 日経新聞は今後も新自由主義的路線の旗振り役を努めるつもりらしい。「特に日本はまだ規制が多すぎる」という社説の認識がそれを物語っている。規制を外して丸裸にしなければ気が済まないのか。競争力の強い大企業などには歓迎できる主張である。しかしそれが日本列島上に寒々とした光景を現出させていることをどう受け止めているのか。

(2)日本は新自由主義後の新時代をどう築いていくべきか

 日本は今後どういう「国のかたち」、「経済モデル」を目指すべきなのか。5紙の社説に探り、私(安原)のコメントをつける。

▽東京新聞=「希望の協力社会」としてのスウェーデン型社会を

・希望の協力社会とは、利他的行為が結局は自己の利益になるという協力の原理と思想が埋め込まれた社会であり、人間の絆(きずな)、愛情、思いやり、連帯感、相互理解が重んじられ生きている社会。
・スウェーデン国民の税・社会保険負担は所得の7割にのぼるが、民主化された地方自治体が提供する親切安心充実の育児、教育、介護サービスは負担の重さを感じさせない。国民の需要は、教師、介護士、保育士などの新たな雇用創出となり、失業や景気対策、地方間格差解消とさまざまな効果で国を元気づけている。

〈コメント〉政治と国民との信頼関係が決め手
 神野直彦東大教授の著書『〈希望の島〉への改革』(NHKブックス)、藤井威元駐スウェーデン大使の論文「スウェーデン型社会という解答」(中央公論1月号)を参考にした上での提案である。高福祉・高負担型のスウェーデンがなぜ「希望の協力社会」といえるのか。いいかえれば「国民の税・社会保険負担は所得の7割」という高負担がなぜ国民に受け容れられているのか。
 それは高負担が国民にとっては自分の貯蓄と同じ意味をもっているからではないのか。自分達の高福祉として還ってくるとすれば、日本のように「老後のために」わざわざ自己責任で貯蓄に励む必要はない。政治と国民との間の信頼関係が決め手であり、それが築かれているからだろう。残念ながら日本ではこの信頼関係が失われている。その違いに着目する必要がある。

▽朝日新聞=たくましい政治を

・国民が望んでいるのは、小手先の雇用や景気対策を超えた大胆なビジョンと、それを実行する政治の力だ。
・ひたすら成長優先できた時代がとうに終わり、価値観が大きく変化するなかで、どんな国をつくっていくか。それは「環境大国」でも「教育大国」でも「福祉大国」でもありうるだろう。将来を見すえた国づくりに集中して資源を投下し、雇用も創出する。そうしたたくましい政治が要るのだ。

〈コメント〉経済成長主義の時代は終わった
 朝日の社説の主見出しは「人間主役に大きな絵を」となっている。繰り返し読んでみたが、「人間主役」にどういう含蓄をもたせているのかが読みとりにくい。上記の「環境大国」、「教育大国」、「福祉大国」を「人間主役」で築いていこう、という呼びかけなのか。それならそういう風に明記して欲しい。
 着目すべきは「成長優先できた時代がとうに終わり、価値観が大きく変化」という指摘である。「経済成長主義」の旗を振りかざす時代は終わったという意味なら賛成である。もはや経済成長を追求する時代ではない。

 「釈迦に説法」だが、経済成長とはGDP(国内総生産)で計る経済の量的拡大を意味するにすぎない。生活の質的豊かさとは直接にはつながらない。例えば交通事故で犠牲者が出れば、それにかかわるカネが動き、GDPの拡大要因である。しかし事故によって生活の質的豊かさが実現するわけではない。その逆である。追求すべきは省資源・省エネを土台とする生活の質的豊かさである。

▽毎日新聞=日本版「緑のニューディール」を

・今後数十年にわたる「国のかたち」を考えれば、環境投資の比重が限りなく重い。時代は大きく転換しようとしている。米国発の世界不況が明らかにしたのは、実は資源・エネルギーの大量消費を前提とする成長モデルの破綻(はたん)である。世界はそれに代わる新しい成長モデルを求めている。
・米国のオバマ次期大統領は環境投資をパッケージにした「グリーン・ニューディール」をオバマノミクス(オバマ大統領の経済政策)の柱のひとつとする考えという。大恐慌からの脱却をめざしてフランクリン・ルーズベルト大統領が打ち出したニューディール政策の環境版である。10年で中東石油への依存を断ち切るために総額1500億ドルを投資、再生可能エネルギーの開発・普及を推進する。これによって500万人の新規雇用を見込むという。

・政府資金を環境に集中投資して需要不足を穴埋めし、中長期的に環境産業と環境技術が日本の成長を先導する経済・社会システムをめざすべきだ。燃費世界一の日本の自動車産業が世界を席巻したように、「グリーン化」の度合いが競争力に直結し、繁栄と安定を決定する時代になったからでもある。
・石油など化石燃料に依存する成長は長期的に持続不可能だ。化石燃料の消費と経済成長をできるだけ切り離す必要がある。
 ここでは、実用段階の太陽光発電と次世代自動車を飛躍的に普及させることを提案しておきたい。

〈コメント〉「グリーン化」の度合いが競争力に
 〈日本版「緑のニューディール」を〉という主張を掲げて具体的に論じているのは、ひとつの見識といえる。「グリーン化」の度合いが競争力に直結、という指摘も評価したい。環境分野で先進的な企業はすでにそういう感覚で取り組んでいる。「グリーン化」が今後の日本社会のキーワードになるのではないか。そういう新しい流れをつくっていくことにメディアとしてどう貢献するか、これはメディア自身の競争力にも直結してくるのではないか。

 若干気になるのは成長主義をどう考えているのかである。「米国発の世界不況が明らかにしたのは、実は資源・エネルギーの大量消費を前提とする成長モデルの破綻(はたん)である」という指摘は適切である。ところが一方で「世界はそれに代わる新しい成長モデルを求めている」と指摘しているのは、合点がいかない。なぜ成長モデルにこだわるのか。

 「成長モデルから脱成長モデルへ経済モデルを転換させよう」というスローガンこそを新自由主義破綻後の新時代は求めていると考える。「新しい成長モデル」ではなく、「グリーン化を軸とする新しい経済モデル」の構築こそが特に先進国での中心テーマであるべきだろう。
日本のGDPはすでに年間500兆円規模で、米国に次ぐ世界第2位の成熟経済の域に達している。人間でいえば熟年同然である。もはや体重を増やす必要はない。人格を磨く年齢である。同様に日本経済も量的拡大を意味する経済成長ではなく、生活の質的充実を目指す適正な分配に重点を置き換えるときであろう。その大きな柱が「緑への分配」である。

▽読売新聞=内需拡大に知恵絞れ

・世界経済の混迷は、数年間は続くという見方が多い。早急に、新たな商品の開発、新市場開拓などによる輸出戦略の立て直しに取り組まなくてはならない。
・景気の底割れを防ぐため、内需拡大を急ぐ必要がある。ただ、少子高齢化、人口減少が進行する中で、従来通りの公共事業を中心とする手法では限界がある。財政事情も厳しい。

〈コメント〉内需拡大のための必要条件
 米国発の世界金融危機、世界的な大不況とともにわが国の輸出依存型の経済運営が行き詰まりに直面していることは改めて指摘するまでもない。その対策として「景気の底割れを防ぐため、内需拡大を急ぐ必要」を力説するだけでは従来通りの景気対策の域を出ない。「経済成長の持続に全力を」という従来の紋切り型の掛け声と大差ない。問題は今、どういう新しい時代に直面しているのか、どういう新たな政策が求められているのか、である。

輸出依存型から内需拡大型への転換は基本方向としては望ましい。ただし以下の条件が必要である。
・地球環境保全を基本柱として据えること
・軍事や高速道路などへの巨大投資・支出を大幅に削減すること
・スウェーデン型に学び、福祉、教育などの充実に重点を置くこと

▽日経新聞=企業の活力をそぐお節介な政府は不要

・小泉政権の下で郵政事業の民営化などに踏み出したものの、医療、農業、教育、運輸など成長につながる多くの分野で、民間の力をいかすための改革が足踏みしている。この歩みはさらに遅れるのだろうか。
・賢くて強く、社会的弱者を守れる政府は必要だが、企業の活力をそぐお節介な政府や、国を借金漬けにする放漫な政府は要らない。経済の面では、市場経済がうまく回るような環境づくりを過不足なく進めるのが本来の役割だ。「大きな政府」待望論が強い今、あえて強調したい。

〈コメント〉郵政の民営化では飽き足りないのか
 新自由主義は民営化の推進と貪欲な私利追求が大きな特徴だが、郵政の民営化ではまだ飽き足りないらしい。医療、農業、教育、運輸なども私利追求の猟場にせずにはおかないという主張である。
 しかし新自由主義路線を意味する小泉構造改革なるものが何をもたらしたか。貧富の格差を広げただけではない。企業社会は数知れない偽装、ごまかし、不祥事が日常茶飯事となっている。貪欲な私利追求の成れの果てにほかならない。市場経済からこの醜悪さを追放するためには市民参加型の適正な公的規制を含む市場経済の再生は不可欠であろう。


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