脱「車」、脱「道路」の設計を
安原和雄
道路特定財源の一般財源化、暫定税率を維持するか廃止するか―をめぐる国会論議は、政府・与党と野党との対立が解けないまま3月末でひと区切りとなる。しかしこの国会論議では肝心のテーマが盲点となってはいないか。それは脱「車」、脱「道路」をめざすという挑戦的な課題である。
ガソリンで走る車中心の交通のあり方には石油資源不足のため限界がみえてきた。車のための際限のない道路づくりも過剰投資の浪費を背景に批判が高まってきた。目先の税制問題を超えて長期的視野から、脱「車」、脱「道路」の設計図をどう描くかを急ぐときである。日本列島各地の動向にも目を配りながら、新しい設計図を描いてみる。(08年3月30日掲載、同月31日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 増えてきた自転車通勤
東京新聞の地球温暖化に関する連載企画「地球発熱」の一つに「自転車通勤 企業が応援 浸透加速」(3月25日付)と題する記事がある。そのポイントを紹介しよう。
*自動車部品メーカーが奨励
自動車部品製造会社、デンソー本社(愛知県刈谷市)は06年12月にエコポイント制「DECOポン」を導入し、それが社員の環境意識に変化をもたらした。この制度は自転車で2.5キロ以上を通勤すると、月に20点、自主的なごみ拾いは1回5点とポイントがたまり、有機農産物などと交換できる仕組み。費用は会社側が負担する。
*駐車場確保の困難がきっかけに
デンソーの場合、社員用の駐車場を確保できなくなり、マイカー通勤を減らそうとしたのがきっかけだった。自転車通勤者は現在、約1千人。マイカー通勤の約2万5千人と比べるとわずかだが、試算によると、「DECOポン」利用の自転車通勤だけでCO2(二酸化炭素)の発生を年間2万4千キロ抑制できたという。
*自転車通勤の手当て倍増に
奨励制度や手当によって自転車通勤を応援する企業や自治体が目立ってきた。例えば名古屋市役所は01年春、自転車通勤手当を2倍の4千円に増額する一方、5キロ未満のマイカー通勤者の手当を半額の1千円にした。その結果、自転車で通勤する職員は約1千800人と2.2倍に増えた。
〈安原のコメント〉― 地球環境優先時代に生き残る企業
デンソー本社の場合、当初社内で「自動車関連の会社が自転車利用を奨励するのはどうか」という冷ややかな反応もあったらしい。この発想は従来型の会社人間、― つまり自社の目先の小利しか念頭になく、社会全体、まして地球への広い視野に欠けるため、結果として自社に損失と不評を招くサラリーマン像 ― の域を出ない哀れな群像である。
こういう発想に執着している限り、企業の将来性は期待できない。その視野の狭さを克服した企業こそ、21世紀の地球環境保全優先時代に生き残ることのできる優良企業であろう。そういう企業に拍手を送りたい。
もっとも最近、自転車の暴走による死傷事故が増えている。環境保全の観点からいえば、排ガスと縁を切れない自動車よりも、排ガスとは無縁の自転車がいいにきまっているが、「いのちの尊重」という点では、凶器と化しつつある自転車暴走をどう食い止めるかが大きな課題となってきた。
▽進みはじめた「車離れ」
朝日新聞の連載企画「道路を問う」(上、中、下)は示唆に富んだ記事である。その中の「車減る社会 見据える時」(3月26日付)の要点を以下に紹介する。
*「乗り合いタクシー」の試み
鹿児島県曽於(そお)市が運行する乗り合いタクシー。県内最大のバスグループ「岩崎グループ」が06年に路線バス160系統を廃止して以来、同市内では高齢者の最大の移動手段となってきた。1日延べ約80台を運行し、年間延べ約5万人が利用。運行経費は年に5千万円近く、市財政には負担だが「お年寄りには移動のすべがあってこその『命の道』」と担当者は言う。
*広がるバス路線廃止
2002年の道路運送法改正による規制緩和を機に全国各地で赤字バス路線廃止の動きが広がっている。02年以降4年間の廃止路線は全国で計3万1千キロ余り。一方でお年寄りは次々とマイカーの運転から引退し、道路があっても利用できない人が増えていく。特に地方は深刻だ。
*車をもたない若者たち
高齢化だけではない。全国の新車販売台数は07年、ピークの90年より3割少ない535万台に落ち込み、20代前半の男性で免許はあるが車をもたない人は、01年の21%から05年は32%に増えた。所得格差などもあり、「車離れ」がじわりと進む。都内の出版社で働く男性(24)は「車を持つ友達はほとんどいない。もっとほかのことにお金は使いたい」と話す。
〈安原のコメント〉― 交通事故死傷者数は年間100万人を超える
この記事は最後にこう訴えている。「ポスト車社会」を見据えた道路のあり方を考えるべき時ではないか ― と。同感である。
一見便利な車社会だが、その半面、交通事故の多発、環境悪化など弊害が多すぎる。ここでは交通事故について考えてみる。
「交通死54年ぶり5000人台 7年連続の減少」(朝日新聞08年1月3日付)という見出しのニュースが報じられた。「07年1年間の交通事故死者は5743人で1958年以来54年ぶりに6千人を下回った」という記事である。しかしこれを見て、「事態は改善」と評価することには「待った」と言いたい。
第一にいまなお年間6千人に近い人が犠牲になっている。この犠牲者数はあの阪神大震災の犠牲者に近い数字であり、毎年阪神大震災級の大災厄に見舞われているに等しい。
第二にこの犠牲者数は修正を要する。というのはこの死者数は事故発生から24時間以内に死亡が確認された場合の数字で、実際にはもっと沢山の人が死んでいる。例えば03年の事故死者数は7702人とされているが、事故後1年以内の死者総数は1万人を超えている。
第三に交通事故死傷者数は近年増えている。04年には約119万人が死傷し、負傷者の中には後遺障害(植物状態など)に苦しむ被害者が増える傾向にある。
▽地方議会にみる「車社会」への批判発言
ここでは地方議会からの発言の一つを紹介したい。3月14日愛媛県議会で阿部悦子県会議員(環境政党をめざす「みどりのテーブル」会員)が平成20年度(2008年度)愛媛県一般会計予算への反対討論として以下のような意見(要旨)を表明した。
冒頭に「今議会の議論では道路のプラス面ばかりが強調され、社会にとってマイナスの側面に光を当てた議論がなかっのは残念」と指摘した。(発言内容は「みどりのテーブル」会員のMLから)
*道路と車社会の負の遺産
環境問題では、CO2などの排出による地球温暖化とそれに伴う気候変動、窒素酸化物(NOx)などによる大気汚染、水質汚染、酸性雨、騒音問題、振動や低周波被害、さらに地域の分断から来る伝統や文化の喪失、地方の人口が都会に吸い上げられて、過疎化を進めたこと、景観破壊などが道路と車社会の負の遺産として挙げられる。
*子どもと高齢者が車社会の犠牲に
厚生労働省の統計によると、平成17年、愛媛県内で喘息にかかり医療機関で治療を受けている人数は1万1千人、そのうち0歳から14歳までの子どもが4千人、65歳以上の高齢者も4千人となっている。子どもと高齢者が車社会の犠牲になっている。
*多額に上る社会的費用
以上のように道路を作ったことから支出しなければならない社会的費用、つまり外部費用は多額に上るとされ、例えば全国で年間に大気汚染に8兆円、気候変動に2兆円、交通事故に5兆円などの試算もある。従って、私は暫定税率はそのままにして道路特定財源の一般財源化をはかり、深刻さの増す医療、福祉、環境、教育、交通取締りなどに当てることが妥当だと思う。
*最近の原油価格高騰が示唆するもの
近い将来、自家用車の需要がなくなる時代が到来する。原油価格の高騰にみられるように、終りのない第三次石油ショックにより、人々が車を自由に使えなくなるピークオイル問題である。
さらに、今後の少子高齢化社会の進展により、交通弱者が増加する。交通弱者とは、自ら車を運転できない高齢者、病者、障がい者そして低所得者の方々である。
道路を作った結果、日本中に過疎地を生み出したが、これら過疎地では同時に超高齢化も進んでいる。そこで一般財源化した予算は、乗り合いタクシー事業など、公共交通の充実のために使うべきである。
誰もが低料金で自由に移動することができ、CO2の排出も少ない公共交通にこそ、将来の公共事業費つまり現在の道路予算を使うべきではないか。
〈安原のコメント〉石油資源が不足する「ピークオイル問題」
阿部議員が指摘している「ピークオイル問題」とは何か。「車が自由に使えなくなる」という表現は分かりやすい。世界の石油需要が拡大し、それに対し供給が著しく不足する状態のことで、最近の原油価格の高騰がそれを示唆している。
原油生産量はすでにピークに達しているという説もある。石油資源が枯渇する数十年先のことではなく、世界の石油埋蔵量の半分を消費した時点を「ピーク」と捉える説もある。石油不足のため道路も車も「無用の長物」となる状態である。
そういう時代は近未来にやってくる。それを視野に収めて「ポスト車社会」の設計図を急いで考えるときである。
▽道路整備は交通渋滞や温暖化を加速する
現在の車社会を肯定している人々の多くが抱いている期待あるいは思い込み ― 例えば「道路整備は交通渋滞を緩和する」など ― はどこまで本当だろうか。
上岡直見(注)著『脱・道路の時代』(コモンズ、2007年10月刊)を手がかりに問答形式で考えてみる。
(注)著者の上岡氏は現在、法政大学非常勤講師(環境政策)など。主著は『新・鉄道は地球を救う』(交通新聞社)、『市民のための道路学』(緑風出版)、『クルマの不経済学』(北斗出版)など。
問い:道路整備は交通渋滞を緩和するか?
答え:1994~2005年の間に日本全体で道路に投資された金額累計額は、全体で151兆690億円に達する。しかしこのような巨費を投じたにもかかわらず、渋滞緩和の効果はきわめて疑わしい。その理由は、約30年間で道路容量は約1.5倍増加したものの、自動車の走行量はそれを大きく上回り、約2.5倍に増えたからである。
問い:道路整備は環境を改善するか?
答え:現実には自動車交通に関して、地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)は増加し、大気汚染の改善も停滞している。これは自動車1台あたりの環境負荷物質の排出量が減っても、それを上回る形で自動車の総走行距離が増えているからである。道路が整備されて自動車が走りやすくなると、その分だけより多く自動車を使うという現象が起きるからでもある。つまり道路を整備すればするほど温暖化を加速するなど環境を悪化させることにもなる。
問い:道路整備は交通事故を防止するか?
答え:自動車の一定走行距離あたりの交通事故件数をみると、1970年後半以降急速に改善されたが、1980年代後半以降になると、ほぼ一定の水準で推移している。このことは80年代後半以降には自動車の総走行距離が増加すると、それに比例して事故の総件数が増えることを意味している。道路整備が自動車交通の増加をいっそう促すことを考慮すれば、道路整備は交通事故を減少どころかむしろ増加させている可能性もある。
〈安原のコメント〉既得権への執着がもたらすもの
以上のように道路や車が抱えている問題は、道路の整備によっては打開できない。にもかかわらずなぜ巨額の道路投資が相も変わらず行われようとしているのか。この疑問に答えるには著作『脱・道路の時代』の以下の指摘が参考になるだろう。
日本の道路関係者は「道路が足りない」という思い込みに囚われ、地理的、社会的状況に合わない、米国型の自動車交通体系を持ち込むことに熱中した。それでも1970年代までは、経済成長に合わせて道路を整備する必然性があったが、現在はさらなる道路整備の理由は失われている。
道路建設が政治面・経済面での既得権維持のために続けられてきた。合理的な道路計画 ― 例えば複数の案を検討して費用対効果の高い区間を優先することなど―について、誰が責任を有しているのか明確なルールもないまま、慣習的な手続きの繰り返しとして道路整備が行われているにすぎない ― と。
要するに民主的ルールなどとは無縁で、既得権維持に執着する結果、巨額の税金が浪費される。この狭い日本列島を縦横に走る高速道路は、将来、やがて車を走らせたくても、それができなくなったとき、どうなるか。
廃(すた)れた高速道路で休日を利用してマラソン大会でも試みるか、あるいはローマの古代遺跡のように海外からの観光客相手の観光資源にでもするか、などが考えられる。観光資源として有効活用する場合、「大いなる錯誤にもとづく貪欲な人間 ― つい最近までこの世に生存していた先輩たち ― が築いた世にも珍しい遺跡です」という観光ガイドの説明が必要かも知れない。
▽脱「車」、脱「道路」の設計図を提案する
さて「ポスト車社会」の設計図はどのように描いたらよいのだろうか。「車社会」とは現在の車(=自家用乗用車)中心の社会を指している。この車社会をどのように変革していくか、いいかえれば新しい脱「車」、脱「道路」の交通体系をいかにして構築していくかがテーマである。
具体案はつぎのようで、公共交通が中心的役割を担うようになる。
(1)公共交通中心に転換を
鉄道、バス(路線バス、コミュニティ・バス)、路面電車、乗り合いタクシーなどの公共交通を主軸とする交通体系へ転換をめざす設計図を描くときである。
まず車はエネルギー多消費型であることに着目したい。環境省のデータによると、交通機関別のエネルギー消費比率(一定数の旅客を同じ距離で輸送する場合)は鉄道=1に対し、バス=2、車=6となっており、車が一番エネルギー多消費型である。そのうえ地球温暖化の原因であるCO2の排出量も車が一番多い。交通機関の中では車が環境汚染の主役という不名誉を担っている。しかも交通事故による死傷者が年間100万人を超えるというマイナスの影響が大きすぎる。
負担のあり方として公共交通利用者には低負担、一方、車依存症の利用者には高負担という方向に転換する必要がある。
特に高齢者のために、地方自治体運営による小回りの利くコミュニティ・バスを各地に低負担(あるいは無料)で普及させることが不可欠である。
(2)自転車、歩行のすすめ
石油エネルギーを使わない自転車や歩行は環境保全型の移動のあり方である。しかも運動にもなって健康にプラスである。運転中の車からは見えにくい四季折々の豊かな自然の変化なども感得できる。
自転車利用をすすめる場合、自転車専用レーンを設ける必要がある。これは従来の車中心の道路づくりの変革につながる道である。
(3)道路づくりの一時凍結を
利権がらみの惰性にもとづく道路づくりは、この際一時凍結して出直してはどうか。
具体的には「道路整備の中期計画」(注)を一時凍結し、民主的な手続きを経て、利権を排除し、費用対効果、環境保全、ピークオイル問題などを十分考慮・検討した上で、公共交通中心の交通体系実現に必要な限りで着手する。
(注)政府・与党合意にもとづく中期計画で、08年度から10年間、道路整備に59兆円という巨費を投じる計画。この財源確保のためにもガソリン税など道路特定財源の暫定税率の延長が必要としている。福田首相は3月27日の記者会見で中期計画期間の「10年間」を「5年間」に短縮する旨を表明した。
(4)環境税(=炭素税)の導入に踏み切れ
道路特定財源の一般財源化(教育、医療、福祉、環境などにも税収を転用できる)は世論調査でも多くの人が望んでおり、実現すべきである。問題は暫定税率をどうするかである。福田首相は3月29日官邸で内閣記者会のインタビューに応じ、暫定税率についてつぎのように述べた。これは環境目的税などに転用することを念頭に置いたもの、という解説がある。(毎日新聞3月30日付)
「廃止すれば、年間2兆6000億円の税収不足となる。今の税率水準は維持しなければならない。今の税率は西欧の先進国と比べれば、非常に安い。先進国の環境問題への取り組みと逆行する」
7月の北海道・洞爺湖サミット(地球温暖化防止が最大テーマの主要国首脳会議)の議長役を果たす福田首相の念頭に環境対策が大きな比重を占めていることは当然であろう。この際、暫定税率分をそのまま環境税(=炭素税)に振り替えることに踏み切ってはどうか。
西欧先進国は1990年代はじめから環境税などの導入をすすめており、今なお踏み切れない日本の存在感は薄らぐ一方である。このままでは福田首相はみじめなサミット議長役に甘んじる結果となるだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
道路特定財源の一般財源化、暫定税率を維持するか廃止するか―をめぐる国会論議は、政府・与党と野党との対立が解けないまま3月末でひと区切りとなる。しかしこの国会論議では肝心のテーマが盲点となってはいないか。それは脱「車」、脱「道路」をめざすという挑戦的な課題である。
ガソリンで走る車中心の交通のあり方には石油資源不足のため限界がみえてきた。車のための際限のない道路づくりも過剰投資の浪費を背景に批判が高まってきた。目先の税制問題を超えて長期的視野から、脱「車」、脱「道路」の設計図をどう描くかを急ぐときである。日本列島各地の動向にも目を配りながら、新しい設計図を描いてみる。(08年3月30日掲載、同月31日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 増えてきた自転車通勤
東京新聞の地球温暖化に関する連載企画「地球発熱」の一つに「自転車通勤 企業が応援 浸透加速」(3月25日付)と題する記事がある。そのポイントを紹介しよう。
*自動車部品メーカーが奨励
自動車部品製造会社、デンソー本社(愛知県刈谷市)は06年12月にエコポイント制「DECOポン」を導入し、それが社員の環境意識に変化をもたらした。この制度は自転車で2.5キロ以上を通勤すると、月に20点、自主的なごみ拾いは1回5点とポイントがたまり、有機農産物などと交換できる仕組み。費用は会社側が負担する。
*駐車場確保の困難がきっかけに
デンソーの場合、社員用の駐車場を確保できなくなり、マイカー通勤を減らそうとしたのがきっかけだった。自転車通勤者は現在、約1千人。マイカー通勤の約2万5千人と比べるとわずかだが、試算によると、「DECOポン」利用の自転車通勤だけでCO2(二酸化炭素)の発生を年間2万4千キロ抑制できたという。
*自転車通勤の手当て倍増に
奨励制度や手当によって自転車通勤を応援する企業や自治体が目立ってきた。例えば名古屋市役所は01年春、自転車通勤手当を2倍の4千円に増額する一方、5キロ未満のマイカー通勤者の手当を半額の1千円にした。その結果、自転車で通勤する職員は約1千800人と2.2倍に増えた。
〈安原のコメント〉― 地球環境優先時代に生き残る企業
デンソー本社の場合、当初社内で「自動車関連の会社が自転車利用を奨励するのはどうか」という冷ややかな反応もあったらしい。この発想は従来型の会社人間、― つまり自社の目先の小利しか念頭になく、社会全体、まして地球への広い視野に欠けるため、結果として自社に損失と不評を招くサラリーマン像 ― の域を出ない哀れな群像である。
こういう発想に執着している限り、企業の将来性は期待できない。その視野の狭さを克服した企業こそ、21世紀の地球環境保全優先時代に生き残ることのできる優良企業であろう。そういう企業に拍手を送りたい。
もっとも最近、自転車の暴走による死傷事故が増えている。環境保全の観点からいえば、排ガスと縁を切れない自動車よりも、排ガスとは無縁の自転車がいいにきまっているが、「いのちの尊重」という点では、凶器と化しつつある自転車暴走をどう食い止めるかが大きな課題となってきた。
▽進みはじめた「車離れ」
朝日新聞の連載企画「道路を問う」(上、中、下)は示唆に富んだ記事である。その中の「車減る社会 見据える時」(3月26日付)の要点を以下に紹介する。
*「乗り合いタクシー」の試み
鹿児島県曽於(そお)市が運行する乗り合いタクシー。県内最大のバスグループ「岩崎グループ」が06年に路線バス160系統を廃止して以来、同市内では高齢者の最大の移動手段となってきた。1日延べ約80台を運行し、年間延べ約5万人が利用。運行経費は年に5千万円近く、市財政には負担だが「お年寄りには移動のすべがあってこその『命の道』」と担当者は言う。
*広がるバス路線廃止
2002年の道路運送法改正による規制緩和を機に全国各地で赤字バス路線廃止の動きが広がっている。02年以降4年間の廃止路線は全国で計3万1千キロ余り。一方でお年寄りは次々とマイカーの運転から引退し、道路があっても利用できない人が増えていく。特に地方は深刻だ。
*車をもたない若者たち
高齢化だけではない。全国の新車販売台数は07年、ピークの90年より3割少ない535万台に落ち込み、20代前半の男性で免許はあるが車をもたない人は、01年の21%から05年は32%に増えた。所得格差などもあり、「車離れ」がじわりと進む。都内の出版社で働く男性(24)は「車を持つ友達はほとんどいない。もっとほかのことにお金は使いたい」と話す。
〈安原のコメント〉― 交通事故死傷者数は年間100万人を超える
この記事は最後にこう訴えている。「ポスト車社会」を見据えた道路のあり方を考えるべき時ではないか ― と。同感である。
一見便利な車社会だが、その半面、交通事故の多発、環境悪化など弊害が多すぎる。ここでは交通事故について考えてみる。
「交通死54年ぶり5000人台 7年連続の減少」(朝日新聞08年1月3日付)という見出しのニュースが報じられた。「07年1年間の交通事故死者は5743人で1958年以来54年ぶりに6千人を下回った」という記事である。しかしこれを見て、「事態は改善」と評価することには「待った」と言いたい。
第一にいまなお年間6千人に近い人が犠牲になっている。この犠牲者数はあの阪神大震災の犠牲者に近い数字であり、毎年阪神大震災級の大災厄に見舞われているに等しい。
第二にこの犠牲者数は修正を要する。というのはこの死者数は事故発生から24時間以内に死亡が確認された場合の数字で、実際にはもっと沢山の人が死んでいる。例えば03年の事故死者数は7702人とされているが、事故後1年以内の死者総数は1万人を超えている。
第三に交通事故死傷者数は近年増えている。04年には約119万人が死傷し、負傷者の中には後遺障害(植物状態など)に苦しむ被害者が増える傾向にある。
▽地方議会にみる「車社会」への批判発言
ここでは地方議会からの発言の一つを紹介したい。3月14日愛媛県議会で阿部悦子県会議員(環境政党をめざす「みどりのテーブル」会員)が平成20年度(2008年度)愛媛県一般会計予算への反対討論として以下のような意見(要旨)を表明した。
冒頭に「今議会の議論では道路のプラス面ばかりが強調され、社会にとってマイナスの側面に光を当てた議論がなかっのは残念」と指摘した。(発言内容は「みどりのテーブル」会員のMLから)
*道路と車社会の負の遺産
環境問題では、CO2などの排出による地球温暖化とそれに伴う気候変動、窒素酸化物(NOx)などによる大気汚染、水質汚染、酸性雨、騒音問題、振動や低周波被害、さらに地域の分断から来る伝統や文化の喪失、地方の人口が都会に吸い上げられて、過疎化を進めたこと、景観破壊などが道路と車社会の負の遺産として挙げられる。
*子どもと高齢者が車社会の犠牲に
厚生労働省の統計によると、平成17年、愛媛県内で喘息にかかり医療機関で治療を受けている人数は1万1千人、そのうち0歳から14歳までの子どもが4千人、65歳以上の高齢者も4千人となっている。子どもと高齢者が車社会の犠牲になっている。
*多額に上る社会的費用
以上のように道路を作ったことから支出しなければならない社会的費用、つまり外部費用は多額に上るとされ、例えば全国で年間に大気汚染に8兆円、気候変動に2兆円、交通事故に5兆円などの試算もある。従って、私は暫定税率はそのままにして道路特定財源の一般財源化をはかり、深刻さの増す医療、福祉、環境、教育、交通取締りなどに当てることが妥当だと思う。
*最近の原油価格高騰が示唆するもの
近い将来、自家用車の需要がなくなる時代が到来する。原油価格の高騰にみられるように、終りのない第三次石油ショックにより、人々が車を自由に使えなくなるピークオイル問題である。
さらに、今後の少子高齢化社会の進展により、交通弱者が増加する。交通弱者とは、自ら車を運転できない高齢者、病者、障がい者そして低所得者の方々である。
道路を作った結果、日本中に過疎地を生み出したが、これら過疎地では同時に超高齢化も進んでいる。そこで一般財源化した予算は、乗り合いタクシー事業など、公共交通の充実のために使うべきである。
誰もが低料金で自由に移動することができ、CO2の排出も少ない公共交通にこそ、将来の公共事業費つまり現在の道路予算を使うべきではないか。
〈安原のコメント〉石油資源が不足する「ピークオイル問題」
阿部議員が指摘している「ピークオイル問題」とは何か。「車が自由に使えなくなる」という表現は分かりやすい。世界の石油需要が拡大し、それに対し供給が著しく不足する状態のことで、最近の原油価格の高騰がそれを示唆している。
原油生産量はすでにピークに達しているという説もある。石油資源が枯渇する数十年先のことではなく、世界の石油埋蔵量の半分を消費した時点を「ピーク」と捉える説もある。石油不足のため道路も車も「無用の長物」となる状態である。
そういう時代は近未来にやってくる。それを視野に収めて「ポスト車社会」の設計図を急いで考えるときである。
▽道路整備は交通渋滞や温暖化を加速する
現在の車社会を肯定している人々の多くが抱いている期待あるいは思い込み ― 例えば「道路整備は交通渋滞を緩和する」など ― はどこまで本当だろうか。
上岡直見(注)著『脱・道路の時代』(コモンズ、2007年10月刊)を手がかりに問答形式で考えてみる。
(注)著者の上岡氏は現在、法政大学非常勤講師(環境政策)など。主著は『新・鉄道は地球を救う』(交通新聞社)、『市民のための道路学』(緑風出版)、『クルマの不経済学』(北斗出版)など。
問い:道路整備は交通渋滞を緩和するか?
答え:1994~2005年の間に日本全体で道路に投資された金額累計額は、全体で151兆690億円に達する。しかしこのような巨費を投じたにもかかわらず、渋滞緩和の効果はきわめて疑わしい。その理由は、約30年間で道路容量は約1.5倍増加したものの、自動車の走行量はそれを大きく上回り、約2.5倍に増えたからである。
問い:道路整備は環境を改善するか?
答え:現実には自動車交通に関して、地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)は増加し、大気汚染の改善も停滞している。これは自動車1台あたりの環境負荷物質の排出量が減っても、それを上回る形で自動車の総走行距離が増えているからである。道路が整備されて自動車が走りやすくなると、その分だけより多く自動車を使うという現象が起きるからでもある。つまり道路を整備すればするほど温暖化を加速するなど環境を悪化させることにもなる。
問い:道路整備は交通事故を防止するか?
答え:自動車の一定走行距離あたりの交通事故件数をみると、1970年後半以降急速に改善されたが、1980年代後半以降になると、ほぼ一定の水準で推移している。このことは80年代後半以降には自動車の総走行距離が増加すると、それに比例して事故の総件数が増えることを意味している。道路整備が自動車交通の増加をいっそう促すことを考慮すれば、道路整備は交通事故を減少どころかむしろ増加させている可能性もある。
〈安原のコメント〉既得権への執着がもたらすもの
以上のように道路や車が抱えている問題は、道路の整備によっては打開できない。にもかかわらずなぜ巨額の道路投資が相も変わらず行われようとしているのか。この疑問に答えるには著作『脱・道路の時代』の以下の指摘が参考になるだろう。
日本の道路関係者は「道路が足りない」という思い込みに囚われ、地理的、社会的状況に合わない、米国型の自動車交通体系を持ち込むことに熱中した。それでも1970年代までは、経済成長に合わせて道路を整備する必然性があったが、現在はさらなる道路整備の理由は失われている。
道路建設が政治面・経済面での既得権維持のために続けられてきた。合理的な道路計画 ― 例えば複数の案を検討して費用対効果の高い区間を優先することなど―について、誰が責任を有しているのか明確なルールもないまま、慣習的な手続きの繰り返しとして道路整備が行われているにすぎない ― と。
要するに民主的ルールなどとは無縁で、既得権維持に執着する結果、巨額の税金が浪費される。この狭い日本列島を縦横に走る高速道路は、将来、やがて車を走らせたくても、それができなくなったとき、どうなるか。
廃(すた)れた高速道路で休日を利用してマラソン大会でも試みるか、あるいはローマの古代遺跡のように海外からの観光客相手の観光資源にでもするか、などが考えられる。観光資源として有効活用する場合、「大いなる錯誤にもとづく貪欲な人間 ― つい最近までこの世に生存していた先輩たち ― が築いた世にも珍しい遺跡です」という観光ガイドの説明が必要かも知れない。
▽脱「車」、脱「道路」の設計図を提案する
さて「ポスト車社会」の設計図はどのように描いたらよいのだろうか。「車社会」とは現在の車(=自家用乗用車)中心の社会を指している。この車社会をどのように変革していくか、いいかえれば新しい脱「車」、脱「道路」の交通体系をいかにして構築していくかがテーマである。
具体案はつぎのようで、公共交通が中心的役割を担うようになる。
(1)公共交通中心に転換を
鉄道、バス(路線バス、コミュニティ・バス)、路面電車、乗り合いタクシーなどの公共交通を主軸とする交通体系へ転換をめざす設計図を描くときである。
まず車はエネルギー多消費型であることに着目したい。環境省のデータによると、交通機関別のエネルギー消費比率(一定数の旅客を同じ距離で輸送する場合)は鉄道=1に対し、バス=2、車=6となっており、車が一番エネルギー多消費型である。そのうえ地球温暖化の原因であるCO2の排出量も車が一番多い。交通機関の中では車が環境汚染の主役という不名誉を担っている。しかも交通事故による死傷者が年間100万人を超えるというマイナスの影響が大きすぎる。
負担のあり方として公共交通利用者には低負担、一方、車依存症の利用者には高負担という方向に転換する必要がある。
特に高齢者のために、地方自治体運営による小回りの利くコミュニティ・バスを各地に低負担(あるいは無料)で普及させることが不可欠である。
(2)自転車、歩行のすすめ
石油エネルギーを使わない自転車や歩行は環境保全型の移動のあり方である。しかも運動にもなって健康にプラスである。運転中の車からは見えにくい四季折々の豊かな自然の変化なども感得できる。
自転車利用をすすめる場合、自転車専用レーンを設ける必要がある。これは従来の車中心の道路づくりの変革につながる道である。
(3)道路づくりの一時凍結を
利権がらみの惰性にもとづく道路づくりは、この際一時凍結して出直してはどうか。
具体的には「道路整備の中期計画」(注)を一時凍結し、民主的な手続きを経て、利権を排除し、費用対効果、環境保全、ピークオイル問題などを十分考慮・検討した上で、公共交通中心の交通体系実現に必要な限りで着手する。
(注)政府・与党合意にもとづく中期計画で、08年度から10年間、道路整備に59兆円という巨費を投じる計画。この財源確保のためにもガソリン税など道路特定財源の暫定税率の延長が必要としている。福田首相は3月27日の記者会見で中期計画期間の「10年間」を「5年間」に短縮する旨を表明した。
(4)環境税(=炭素税)の導入に踏み切れ
道路特定財源の一般財源化(教育、医療、福祉、環境などにも税収を転用できる)は世論調査でも多くの人が望んでおり、実現すべきである。問題は暫定税率をどうするかである。福田首相は3月29日官邸で内閣記者会のインタビューに応じ、暫定税率についてつぎのように述べた。これは環境目的税などに転用することを念頭に置いたもの、という解説がある。(毎日新聞3月30日付)
「廃止すれば、年間2兆6000億円の税収不足となる。今の税率水準は維持しなければならない。今の税率は西欧の先進国と比べれば、非常に安い。先進国の環境問題への取り組みと逆行する」
7月の北海道・洞爺湖サミット(地球温暖化防止が最大テーマの主要国首脳会議)の議長役を果たす福田首相の念頭に環境対策が大きな比重を占めていることは当然であろう。この際、暫定税率分をそのまま環境税(=炭素税)に振り替えることに踏み切ってはどうか。
西欧先進国は1990年代はじめから環境税などの導入をすすめており、今なお踏み切れない日本の存在感は薄らぐ一方である。このままでは福田首相はみじめなサミット議長役に甘んじる結果となるだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
新総裁に必要な資質を提案する
安原和雄
日銀総裁のいすが戦後初めて空席となって「深刻な事態」と大騒ぎである。日銀の福井俊彦総裁らが2008年3月19日任期満了となるのに伴い、後任候補として政府は、武藤敏郎日銀副総裁、さらに田波耕治国際協力銀行総裁を提示したが、2候補とも野党が多数を占める参院で不同意となったからである。しかしここは冷静に対応したい。むしろ好機と捉えて、新総裁にふさわしい人物論を考えるときであろう。
私は最低必要な資質として、経済倫理観を身につけていること、経済や暮らしに混乱と破壊を招いている新自由主義路線(=市場原理主義)に一定の距離を置くことができること―の2点を挙げたい。(08年3月21日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽メディアの大手各紙社説はどう論じたか
メディアの大手5紙(3月20日付)はどう論じたか。以下にまず各紙の見出しを紹介する。
*読売新聞=日銀総裁人事 一日も早く空席を埋めよ
*朝日新聞=混迷政治 福田さん、事態は深刻だ
*毎日新聞=日銀総裁空席 政治の罪はきわめて重い
*日本経済新聞=総裁空席が示す政治の深刻な機能不全
*東京新聞=日銀総裁問題 天下り慣行を見直せ
どう論じたかについては、各紙社説の冒頭の数行を紹介する。そこに主張の要点は集約されているからである。
〈読売〉=日本銀行の総裁の座が戦後初めて、空席になった。この深刻な事態を招いた政治の機能低下は、目に余るものがある。世界の金融市場は、危機的な状況にある。一日も早く、新しい日銀総裁を決定しなければならない。
〈朝日〉=日本銀行総裁のいすが空席になった。世界経済が揺れるなか、前代未聞の異常事態である。直接の引き金をひいたのは民主党など野党の反対だ。参院の採決で、元大蔵事務次官の田波耕治氏の起用に同意しなかった。だが、そもそもの原因は福田首相の手際の悪さにある。
〈毎日〉=日銀総裁人事は再び白紙に戻り、空席が現実になってしまった。日銀は日本の経済運営の根幹に位置し、海外からも動向が注視されている。そのトップが不在となる。こうした状況をつくってしまった政治の罪は重大だ。
〈日経〉=日銀総裁も決められない政治の機能不全は深刻な事態である。国際金融情勢が緊迫する中、総裁は異例の空席となり、副総裁の白川方明氏が当面、総裁職を代行する。今月末で期限が切れるガソリン税の暫定税率も成立のめどが立たず、4月以降、ガソリン価格や予算執行面で大混乱が予想される。福田首相は窮地に立たされている。
〈東京〉=日銀総裁問題の混迷は、財務省事務次官が重要ポストに天下りする慣行を見直す絶好の機会でもある。総裁は空席になったが、金融市場は幸い冷静だ。首相は頭を冷やして原点から考え直すべきだ。
▽冷静な正論を展開する東京新聞
各紙の社説を通読して感じるのは、過剰反応の表現がいささか目立つことである。
「深刻な事態」(読売)、「前代未聞の異常事態」(朝日)、「政治の罪は重大だ」(毎日)、「深刻な事態」「福田首相、窮地」(日経)―などである。
しかしなぜ「深刻な事態」といえるのか、その説明が十分ではない。空席という事態も想定外ではなく、あり得るからこそ新日銀法(1998年4月施行)22条(役員の職務及び権限)に「副総裁は(中略)総裁に事故があるときはその職務を代理し、総裁が欠員の時はその職務を行う」とあるのだろう。
今日のような改革の時代は、いいかえれば変化の時代でもある。初めての事態が発生し、日頃の感覚と事態が異なるからといって、いちいち騒ぎ立てるのは、時代に対する認識が足りないのではないか。
参院で野党が多数を占めるいわゆる「ねじれ国会」も選挙の結果なのだから、これは「国民の声」の反映であり、それに異を唱えるような姿勢は民主主義、主権在民の否定に通じる。
これら4紙に比べると、東京新聞は冷静な主張を展開している。
「空席の事態は、残念だが、成果もある」という認識に立って、つぎのように論じている。正論というべきである。
与野党が意見を異にした核心部分は「財務省の事務方トップが安易に日銀総裁に天下っていいのか」という点だった。ねじれ国会は議論と選考経過を透明にして、日銀総裁問題を機に、あらためて天下りの問題点を浮き彫りにしている。
旧大蔵省時代から財務省は、これまで多くの事務次官経験者を政府系金融機関などのトップに送り込んできた。少数の例外を除いて、そのほとんどが予算編成を扱う主計局か主税局から事務次官に上り詰めた国内主流派で占められている。中でも日銀総裁は最高のポストだった。
だが「国内主流派の次官を日銀総裁に」というのは、あまりに時代の流れに鈍感な理屈ではなかったか。(中略)「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ ― と。
▽野党の主張はそれなりに筋が通っている
以下に日銀総裁人事に反対票を投じた野党のうち民主党と日本共産党の反対理由を紹介する。それなりに筋の通った主張だと考える。
*民主党
民主党の鳩山由紀夫幹事長は3月19日午後、日銀総裁人事についてつぎのように記者団に語った。
・「国民の暮らしのことを考えれば不同意になってよかった」(参議院本会議で田波日銀総裁候補を不同意としたことについて)
・「財務省に官邸がコントロールされ、財務省のトップをやっていた人間でないと駄目だといわんばかりの人事が続くことでこの国が歪められてしまっていいのか」
・「官邸主導の政治から国民が主役になる政治を作るのが民主党の闘いであり、このような人事に賛成できるわけがない」
・「間違った人事で5年間国益を損ねることの方が、はるかに国民にとって不幸である」(日銀総裁ポストの空白に対する影響について)
(以上は「民主党のホームページ」から)
*日本共産党
共産党機関紙「しんぶん 赤旗」(3月20日付)は「主張」で「日銀総裁空席 政府の人選に問題がある」と題して、日銀総裁人事に反対した理由をつぎのように指摘している。
・元財務次官の武藤敏郎氏は、日銀副総裁として異常な金融緩和を推進し、財務次官として社会保障の削減路線のレールを敷いたことなど、金融・財政の両面で国民のくらしを痛めつけてきた。「国民経済の健全な発展に資する」(日銀法)という日銀の使命に照らして、総裁にふさわしくない。
・国際協力銀行総裁の田波耕治氏は、1998年、当時の大蔵省が大銀行を救済するため、際限のない税金投入の枠組みをつくったときの大蔵次官で、国民の血税投入をてこにした強引な不良債権処理によって、膨大な中小企業を倒産・廃業に追い込み、地域経済の疲弊を加速させた。
・日銀法改正で総裁・副総裁の任命に国会の同意が必要だと定めたのは、その選任に「国民の意見が反映されるよう」(当時の大蔵省答弁)にするためだった。
・賛成しない野党が悪いという態度は、この国会同意の本旨を踏みにじる暴論である。福田内閣は野党が賛成できる人事を提示することを真剣に追求すべきである。
▽日銀総裁に必要な資質、条件は
日銀総裁空席のままの状態が続くことが望ましくないことはいうまでもない。問題は今後の日銀総裁に必要な資質、条件は何かである。東京新聞社説のつぎの主張は妥当だと考える。
「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ―と。
慣行を打破することは必要だが、それだけでは「最適」な人物像は浮かび上がってはこない。経済官僚、日銀、経済界、学界など幅広い分野から選べばいいが、最低必要な資質、条件としてつぎの2点を挙げたい。
(1)経済倫理観が身に備わっていること
(2)新自由主義路線に一定の距離をおく経済観をもっていること
(1)について ― アダム・スミスや渋沢栄一に学ぶこと
朝日新聞「天声人語」(3月20日付)につぎのような興味深い記事を発見した。
2代前の総裁だった速水優さんは、在任中にデフレと格闘した。(中略)大胆な策を矢継ぎ早に放った。「日銀は日本経済の良心でなくてはならない」と、言い続けたそうだ ― と。
「日本経済の良心」という認識に着目したい。同氏は大学卒論がたしかアダム・スミス(イギリスの経済学者、1723~1790年)の『道徳感情論』(経済倫理を説いており、『国富論』と並ぶスミスの代表的著作)で、私(安原)はその話を直接うかがったこともある。日本資本主義の父とうたわれる渋沢栄一(明治、大正時代の財界人)も、アダム・スミスを高く評価し、「道徳経済合一説」、「論語算盤説」を唱えた。
渋沢の経済倫理観の軸になっているのがスミスのほかに論語のつぎの文言である。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」
大意はつぎの通り。
君子、すなわち人格が優れた人物は、義、すなわちなにが正しいかを中心に判断し、一方、小人、すなわちつまらない人は損得を中心に考える。
渋沢の強調したいところは、君子の経営、いいかえれば義中心の経営を心がけるべきだ、という点である。これからの日銀総裁は、スミスや渋沢の経済倫理観に学ぶ必要があることを指摘したい。
(2)について ― 「市場との対話」は万能ではない
小泉政権以来顕著になった弱肉強食、多様な格差拡大、労働条件の悪化、人間の尊厳の破壊 ― などを招く新自由主義(=市場原理主義)路線は福田政権下のいまなお消えてはいない。また「市場との対話」が最近力説される傾向にある。しかし市場メカニズムは重要ではあるが、決して万能ではない。「市場との対話」説は、市場を万能とみる市場原理主義(=新自由主義)に通じており、限界、欠陥がある。
日銀法2条(通貨及び金融調節の理念)に「日銀は物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することを理念とする」とある。「国民経済の健全な発展」と新自由主義(=市場原理主義)とは両立しがたい。したがってこれからの日銀総裁は新自由主義に囚われない批判的な目が求められる。
日銀法3条(日銀の自主性の尊重)に「日銀の自主性は尊重されなければならない」とある。この条文の精神を活用すれば、新自由主義路線に批判的な足場を保持できるだろう。
ただ同法4条(政府との関係)に「日銀は、その通貨及び金融の調節が政府の経済政策の基本方針と整合的なものになるよう、政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」とある。この条文は「日銀の自主性尊重」を制約するもので、自主性の尊重が発揮できるか、それとも損なわれるか、そのどちらに揺れるかは、まさに総裁の器量にかかっている。
昔話になるが、私(安原)は宇佐美洵総裁(1964年12月~69年12月)、佐々木直総裁(69年12月~)時代に経済記者として日銀を担当していた。当時の夜回り取材メモに政策担当の澤田悌・理事(66年~69年)とのつぎのようなやりとりが残っている。
安原「日銀公定歩合の上げ下げなどの政策決定に重要な要素は何ですか」
澤田「それは器量だなー」
他社の記者は同席していなかったように記憶している。理事は、私の問いにしばらく考え込んだうえで、ぽつりとこう答えた。この返答は意外であった。というのは「経済情勢を十分判断して」などというありきたりの返答を予想していたからである。意外であるだけに私には感銘深いものがあった。日銀にもこういう人物がいるのかという印象を抱いた。
昨今の数字にしか興味を抱かない現代経済学者、市場万能主義者たちにはこのやりとりの含蓄は恐らく理解できないだろう。しかしこれからの望ましい日銀総裁論を考えるとき、やはりこのやりとりを思い出さずにはいられない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
日銀総裁のいすが戦後初めて空席となって「深刻な事態」と大騒ぎである。日銀の福井俊彦総裁らが2008年3月19日任期満了となるのに伴い、後任候補として政府は、武藤敏郎日銀副総裁、さらに田波耕治国際協力銀行総裁を提示したが、2候補とも野党が多数を占める参院で不同意となったからである。しかしここは冷静に対応したい。むしろ好機と捉えて、新総裁にふさわしい人物論を考えるときであろう。
私は最低必要な資質として、経済倫理観を身につけていること、経済や暮らしに混乱と破壊を招いている新自由主義路線(=市場原理主義)に一定の距離を置くことができること―の2点を挙げたい。(08年3月21日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽メディアの大手各紙社説はどう論じたか
メディアの大手5紙(3月20日付)はどう論じたか。以下にまず各紙の見出しを紹介する。
*読売新聞=日銀総裁人事 一日も早く空席を埋めよ
*朝日新聞=混迷政治 福田さん、事態は深刻だ
*毎日新聞=日銀総裁空席 政治の罪はきわめて重い
*日本経済新聞=総裁空席が示す政治の深刻な機能不全
*東京新聞=日銀総裁問題 天下り慣行を見直せ
どう論じたかについては、各紙社説の冒頭の数行を紹介する。そこに主張の要点は集約されているからである。
〈読売〉=日本銀行の総裁の座が戦後初めて、空席になった。この深刻な事態を招いた政治の機能低下は、目に余るものがある。世界の金融市場は、危機的な状況にある。一日も早く、新しい日銀総裁を決定しなければならない。
〈朝日〉=日本銀行総裁のいすが空席になった。世界経済が揺れるなか、前代未聞の異常事態である。直接の引き金をひいたのは民主党など野党の反対だ。参院の採決で、元大蔵事務次官の田波耕治氏の起用に同意しなかった。だが、そもそもの原因は福田首相の手際の悪さにある。
〈毎日〉=日銀総裁人事は再び白紙に戻り、空席が現実になってしまった。日銀は日本の経済運営の根幹に位置し、海外からも動向が注視されている。そのトップが不在となる。こうした状況をつくってしまった政治の罪は重大だ。
〈日経〉=日銀総裁も決められない政治の機能不全は深刻な事態である。国際金融情勢が緊迫する中、総裁は異例の空席となり、副総裁の白川方明氏が当面、総裁職を代行する。今月末で期限が切れるガソリン税の暫定税率も成立のめどが立たず、4月以降、ガソリン価格や予算執行面で大混乱が予想される。福田首相は窮地に立たされている。
〈東京〉=日銀総裁問題の混迷は、財務省事務次官が重要ポストに天下りする慣行を見直す絶好の機会でもある。総裁は空席になったが、金融市場は幸い冷静だ。首相は頭を冷やして原点から考え直すべきだ。
▽冷静な正論を展開する東京新聞
各紙の社説を通読して感じるのは、過剰反応の表現がいささか目立つことである。
「深刻な事態」(読売)、「前代未聞の異常事態」(朝日)、「政治の罪は重大だ」(毎日)、「深刻な事態」「福田首相、窮地」(日経)―などである。
しかしなぜ「深刻な事態」といえるのか、その説明が十分ではない。空席という事態も想定外ではなく、あり得るからこそ新日銀法(1998年4月施行)22条(役員の職務及び権限)に「副総裁は(中略)総裁に事故があるときはその職務を代理し、総裁が欠員の時はその職務を行う」とあるのだろう。
今日のような改革の時代は、いいかえれば変化の時代でもある。初めての事態が発生し、日頃の感覚と事態が異なるからといって、いちいち騒ぎ立てるのは、時代に対する認識が足りないのではないか。
参院で野党が多数を占めるいわゆる「ねじれ国会」も選挙の結果なのだから、これは「国民の声」の反映であり、それに異を唱えるような姿勢は民主主義、主権在民の否定に通じる。
これら4紙に比べると、東京新聞は冷静な主張を展開している。
「空席の事態は、残念だが、成果もある」という認識に立って、つぎのように論じている。正論というべきである。
与野党が意見を異にした核心部分は「財務省の事務方トップが安易に日銀総裁に天下っていいのか」という点だった。ねじれ国会は議論と選考経過を透明にして、日銀総裁問題を機に、あらためて天下りの問題点を浮き彫りにしている。
旧大蔵省時代から財務省は、これまで多くの事務次官経験者を政府系金融機関などのトップに送り込んできた。少数の例外を除いて、そのほとんどが予算編成を扱う主計局か主税局から事務次官に上り詰めた国内主流派で占められている。中でも日銀総裁は最高のポストだった。
だが「国内主流派の次官を日銀総裁に」というのは、あまりに時代の流れに鈍感な理屈ではなかったか。(中略)「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ ― と。
▽野党の主張はそれなりに筋が通っている
以下に日銀総裁人事に反対票を投じた野党のうち民主党と日本共産党の反対理由を紹介する。それなりに筋の通った主張だと考える。
*民主党
民主党の鳩山由紀夫幹事長は3月19日午後、日銀総裁人事についてつぎのように記者団に語った。
・「国民の暮らしのことを考えれば不同意になってよかった」(参議院本会議で田波日銀総裁候補を不同意としたことについて)
・「財務省に官邸がコントロールされ、財務省のトップをやっていた人間でないと駄目だといわんばかりの人事が続くことでこの国が歪められてしまっていいのか」
・「官邸主導の政治から国民が主役になる政治を作るのが民主党の闘いであり、このような人事に賛成できるわけがない」
・「間違った人事で5年間国益を損ねることの方が、はるかに国民にとって不幸である」(日銀総裁ポストの空白に対する影響について)
(以上は「民主党のホームページ」から)
*日本共産党
共産党機関紙「しんぶん 赤旗」(3月20日付)は「主張」で「日銀総裁空席 政府の人選に問題がある」と題して、日銀総裁人事に反対した理由をつぎのように指摘している。
・元財務次官の武藤敏郎氏は、日銀副総裁として異常な金融緩和を推進し、財務次官として社会保障の削減路線のレールを敷いたことなど、金融・財政の両面で国民のくらしを痛めつけてきた。「国民経済の健全な発展に資する」(日銀法)という日銀の使命に照らして、総裁にふさわしくない。
・国際協力銀行総裁の田波耕治氏は、1998年、当時の大蔵省が大銀行を救済するため、際限のない税金投入の枠組みをつくったときの大蔵次官で、国民の血税投入をてこにした強引な不良債権処理によって、膨大な中小企業を倒産・廃業に追い込み、地域経済の疲弊を加速させた。
・日銀法改正で総裁・副総裁の任命に国会の同意が必要だと定めたのは、その選任に「国民の意見が反映されるよう」(当時の大蔵省答弁)にするためだった。
・賛成しない野党が悪いという態度は、この国会同意の本旨を踏みにじる暴論である。福田内閣は野党が賛成できる人事を提示することを真剣に追求すべきである。
▽日銀総裁に必要な資質、条件は
日銀総裁空席のままの状態が続くことが望ましくないことはいうまでもない。問題は今後の日銀総裁に必要な資質、条件は何かである。東京新聞社説のつぎの主張は妥当だと考える。
「財務省出身だからだめ」なのではなく、最適とは思えないのに「次官だから総裁に」という慣行に固執する態度が時代にそぐわないのだ―と。
慣行を打破することは必要だが、それだけでは「最適」な人物像は浮かび上がってはこない。経済官僚、日銀、経済界、学界など幅広い分野から選べばいいが、最低必要な資質、条件としてつぎの2点を挙げたい。
(1)経済倫理観が身に備わっていること
(2)新自由主義路線に一定の距離をおく経済観をもっていること
(1)について ― アダム・スミスや渋沢栄一に学ぶこと
朝日新聞「天声人語」(3月20日付)につぎのような興味深い記事を発見した。
2代前の総裁だった速水優さんは、在任中にデフレと格闘した。(中略)大胆な策を矢継ぎ早に放った。「日銀は日本経済の良心でなくてはならない」と、言い続けたそうだ ― と。
「日本経済の良心」という認識に着目したい。同氏は大学卒論がたしかアダム・スミス(イギリスの経済学者、1723~1790年)の『道徳感情論』(経済倫理を説いており、『国富論』と並ぶスミスの代表的著作)で、私(安原)はその話を直接うかがったこともある。日本資本主義の父とうたわれる渋沢栄一(明治、大正時代の財界人)も、アダム・スミスを高く評価し、「道徳経済合一説」、「論語算盤説」を唱えた。
渋沢の経済倫理観の軸になっているのがスミスのほかに論語のつぎの文言である。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」
大意はつぎの通り。
君子、すなわち人格が優れた人物は、義、すなわちなにが正しいかを中心に判断し、一方、小人、すなわちつまらない人は損得を中心に考える。
渋沢の強調したいところは、君子の経営、いいかえれば義中心の経営を心がけるべきだ、という点である。これからの日銀総裁は、スミスや渋沢の経済倫理観に学ぶ必要があることを指摘したい。
(2)について ― 「市場との対話」は万能ではない
小泉政権以来顕著になった弱肉強食、多様な格差拡大、労働条件の悪化、人間の尊厳の破壊 ― などを招く新自由主義(=市場原理主義)路線は福田政権下のいまなお消えてはいない。また「市場との対話」が最近力説される傾向にある。しかし市場メカニズムは重要ではあるが、決して万能ではない。「市場との対話」説は、市場を万能とみる市場原理主義(=新自由主義)に通じており、限界、欠陥がある。
日銀法2条(通貨及び金融調節の理念)に「日銀は物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することを理念とする」とある。「国民経済の健全な発展」と新自由主義(=市場原理主義)とは両立しがたい。したがってこれからの日銀総裁は新自由主義に囚われない批判的な目が求められる。
日銀法3条(日銀の自主性の尊重)に「日銀の自主性は尊重されなければならない」とある。この条文の精神を活用すれば、新自由主義路線に批判的な足場を保持できるだろう。
ただ同法4条(政府との関係)に「日銀は、その通貨及び金融の調節が政府の経済政策の基本方針と整合的なものになるよう、政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」とある。この条文は「日銀の自主性尊重」を制約するもので、自主性の尊重が発揮できるか、それとも損なわれるか、そのどちらに揺れるかは、まさに総裁の器量にかかっている。
昔話になるが、私(安原)は宇佐美洵総裁(1964年12月~69年12月)、佐々木直総裁(69年12月~)時代に経済記者として日銀を担当していた。当時の夜回り取材メモに政策担当の澤田悌・理事(66年~69年)とのつぎのようなやりとりが残っている。
安原「日銀公定歩合の上げ下げなどの政策決定に重要な要素は何ですか」
澤田「それは器量だなー」
他社の記者は同席していなかったように記憶している。理事は、私の問いにしばらく考え込んだうえで、ぽつりとこう答えた。この返答は意外であった。というのは「経済情勢を十分判断して」などというありきたりの返答を予想していたからである。意外であるだけに私には感銘深いものがあった。日銀にもこういう人物がいるのかという印象を抱いた。
昨今の数字にしか興味を抱かない現代経済学者、市場万能主義者たちにはこのやりとりの含蓄は恐らく理解できないだろう。しかしこれからの望ましい日銀総裁論を考えるとき、やはりこのやりとりを思い出さずにはいられない。
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人間としていと恥ずかしき物語
安原和雄
2008年3月中旬のある日のこと、外電によると、ニュージーランドで浜辺に乗り上げたクジラの母子がイルカの水先案内で助かった。人間は助けることができなかったのに、どこからともなく現れたイルカ「モコ」― 地元の人たちはそう呼んでいる ― がその親子を救ったのだ。イルカと人間の知恵比べはイルカに軍配があがった形で、人間としていささか恥ずかしい始末となった。(08年3月18日掲載)
[ウェリントン 3月13日 ロイター] ニュージーランド北島の東部マヒアで、浜辺に乗り上げたクジラ2頭をイルカが助け出すという出来事があった。現地の自然保護当局の職員が13日に語った。
このイルカは今回クジラが打ち上げられた浜辺によく姿を現しており、地元では「モコ」と呼ばれている。
自然保護当局の職員マルコム・スミス氏は「私の知る限り、こうした出来事が記録されたのは初めて」としている。
スミスさんによると、母子とみられる2頭のクジラを海に戻そうとする試みは何度か行われたものの、方向感覚を失ったクジラは繰り返し浜辺に打ち上げられてしまい、あきらめかけていたときに「モコ」が姿を見せた。
スミスさんは「イルカがやって来たときクジラの態度が明らかに変わった。即座に反応した」と当時の状況を説明。「イルカはわれわれが1時間半かけてできなかったことを数分で片付けた」と語った。(以上は外電)
▽人間、イルカ、クジラ ― みな、いっしょだから
イルカならやりかねないなあ、と思う。
言葉を使わなくたって、しぐさや目線から、思いは伝わってくる。
人間も犬や猫もイルカもクジラも。
遊ぼう~♪というとき。
しょうがない、相手してやるよ、というとき。
ごめん今忙しい、というとき。
どけどけー!というとき。
別にテレパシーとか呼ぶほどのものでもない。
前に書いたかもしれないけど、
台風の日、イルカと遊んだあと、ひとりでいつまでも海の中にいたら、
一頭のイルカが戻ってきて、私のまわりをくるっと一回り。
ちょっと厳しい表情で
「オマエ、あぶないからもう帰れ。わかったな」と言った。
「ごめん、ありがとう、そうします~」
と言って、船に上がった。
船長が「あれ?どうしたの?」
「イルカに怒られた。あぶないからもう帰れって」
「そっか。じゃあ帰ろう」
当たり前のようにうなずく船長。
わかってるんだ。
頭の良さ。遊び好き。ワイルドさ。好奇心。気まぐれ。思いやり。
「モコ」は、「当然のことをしただけだよ」
と思っていることだろう。
人間、イルカ、クジラ・・・って分けて考える人が多いけど、
彼らは分けて考えてない。
いっしょだから。
分けて考えていなければ、
人間たちだって、クジラを救うことができたのかも
(以上は、外電も含めて《[mixi]marujunさんの日記/人間、イルカ、クジラ》から転載しました)
〈安原のコメント〉イルカの智恵に負けた万物の霊長・人間様
「事実は小説よりも奇なり」というが、このイルカ物語は、そのひとつに数えられないだろうか。
ただ「奇」といってはイルカに申し訳ないような気もする。「自然なことをしたまでよ」とイルカは思っているだろうから。
このブログは「仏教経済塾」と銘打っている。
だから考え方の背景に仏教思想がある。
このイルカ物語を読んで、ふと空想にとらわれた。
イルカこそ仏教の菩薩行を実践しているのではないか―と。
つまりクジラを助けたのは、仏教・「不殺生戒」の実践である「いのちの尊重」であり、さらに「世のため人のため」に尽くす「利他行」そのものではないか―と。
そのうえこうも感じないわけにはいかない。
「正義」の旗を掲げて軍事力と戦争によって殺生に明け暮れる世界一の軍事大国。
その「正義」の旗は泥まみれで腐食が進み、世界中から反発と失笑を買っているにもかかわらず、それに気づこうともしない軍事大国。
その一方で「調査捕鯨」などという名目でクジラの殺生に余念のない経済大国。
あるいは目先の小利に目が眩(くら)んで右往左往している世界の無数の人間様。
経済大国の最近までの宰相、Kさんの語り口、「人それぞれ」を借用すれば、「国もそれぞれ勝手に」ということになるのかも知れない。
しかしそれにしても、いのちある自然界の多様な存在に比べて、格別偉いわけでもないのに、「人間は万物の霊長」と勝手に思いこんだときから歯車が狂ってきたらしい。
イルカの、知識ではなく、智恵に敵わなかった人間様―という事実は人間としていささか赤面の想いがする、と。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
2008年3月中旬のある日のこと、外電によると、ニュージーランドで浜辺に乗り上げたクジラの母子がイルカの水先案内で助かった。人間は助けることができなかったのに、どこからともなく現れたイルカ「モコ」― 地元の人たちはそう呼んでいる ― がその親子を救ったのだ。イルカと人間の知恵比べはイルカに軍配があがった形で、人間としていささか恥ずかしい始末となった。(08年3月18日掲載)
[ウェリントン 3月13日 ロイター] ニュージーランド北島の東部マヒアで、浜辺に乗り上げたクジラ2頭をイルカが助け出すという出来事があった。現地の自然保護当局の職員が13日に語った。
このイルカは今回クジラが打ち上げられた浜辺によく姿を現しており、地元では「モコ」と呼ばれている。
自然保護当局の職員マルコム・スミス氏は「私の知る限り、こうした出来事が記録されたのは初めて」としている。
スミスさんによると、母子とみられる2頭のクジラを海に戻そうとする試みは何度か行われたものの、方向感覚を失ったクジラは繰り返し浜辺に打ち上げられてしまい、あきらめかけていたときに「モコ」が姿を見せた。
スミスさんは「イルカがやって来たときクジラの態度が明らかに変わった。即座に反応した」と当時の状況を説明。「イルカはわれわれが1時間半かけてできなかったことを数分で片付けた」と語った。(以上は外電)
▽人間、イルカ、クジラ ― みな、いっしょだから
イルカならやりかねないなあ、と思う。
言葉を使わなくたって、しぐさや目線から、思いは伝わってくる。
人間も犬や猫もイルカもクジラも。
遊ぼう~♪というとき。
しょうがない、相手してやるよ、というとき。
ごめん今忙しい、というとき。
どけどけー!というとき。
別にテレパシーとか呼ぶほどのものでもない。
前に書いたかもしれないけど、
台風の日、イルカと遊んだあと、ひとりでいつまでも海の中にいたら、
一頭のイルカが戻ってきて、私のまわりをくるっと一回り。
ちょっと厳しい表情で
「オマエ、あぶないからもう帰れ。わかったな」と言った。
「ごめん、ありがとう、そうします~」
と言って、船に上がった。
船長が「あれ?どうしたの?」
「イルカに怒られた。あぶないからもう帰れって」
「そっか。じゃあ帰ろう」
当たり前のようにうなずく船長。
わかってるんだ。
頭の良さ。遊び好き。ワイルドさ。好奇心。気まぐれ。思いやり。
「モコ」は、「当然のことをしただけだよ」
と思っていることだろう。
人間、イルカ、クジラ・・・って分けて考える人が多いけど、
彼らは分けて考えてない。
いっしょだから。
分けて考えていなければ、
人間たちだって、クジラを救うことができたのかも
(以上は、外電も含めて《[mixi]marujunさんの日記/人間、イルカ、クジラ》から転載しました)
〈安原のコメント〉イルカの智恵に負けた万物の霊長・人間様
「事実は小説よりも奇なり」というが、このイルカ物語は、そのひとつに数えられないだろうか。
ただ「奇」といってはイルカに申し訳ないような気もする。「自然なことをしたまでよ」とイルカは思っているだろうから。
このブログは「仏教経済塾」と銘打っている。
だから考え方の背景に仏教思想がある。
このイルカ物語を読んで、ふと空想にとらわれた。
イルカこそ仏教の菩薩行を実践しているのではないか―と。
つまりクジラを助けたのは、仏教・「不殺生戒」の実践である「いのちの尊重」であり、さらに「世のため人のため」に尽くす「利他行」そのものではないか―と。
そのうえこうも感じないわけにはいかない。
「正義」の旗を掲げて軍事力と戦争によって殺生に明け暮れる世界一の軍事大国。
その「正義」の旗は泥まみれで腐食が進み、世界中から反発と失笑を買っているにもかかわらず、それに気づこうともしない軍事大国。
その一方で「調査捕鯨」などという名目でクジラの殺生に余念のない経済大国。
あるいは目先の小利に目が眩(くら)んで右往左往している世界の無数の人間様。
経済大国の最近までの宰相、Kさんの語り口、「人それぞれ」を借用すれば、「国もそれぞれ勝手に」ということになるのかも知れない。
しかしそれにしても、いのちある自然界の多様な存在に比べて、格別偉いわけでもないのに、「人間は万物の霊長」と勝手に思いこんだときから歯車が狂ってきたらしい。
イルカの、知識ではなく、智恵に敵わなかった人間様―という事実は人間としていささか赤面の想いがする、と。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
軍事ケインズ主義の成れの果て
安原和雄
アメリカ主導のイラク攻撃・占領は3月20日で満5年を迎える。異常な軍事支出と戦争に明け暮れるブッシュ政権がアメリカにもたらしたものは何か。このテーマを分析した論文(注)「軍事ケインズ主義の終焉」(最新の『世界』08年4月号=岩波書店刊=掲載)は、アメリカにおける「軍事ケインズ主義」の成れの果てとして「国家破産の危機に瀕するアメリカ帝国」の実像を浮き彫りにしている。
その打開策は果たしてあるのか。軍事ケインズ主義と縁を切り、路線転換を図る以外に妙策はあり得ない。目下たけなわのアメリカ大統領選予備選の真の争点はここにあるはずだが、米日のメディア報道にそういう視点はうかがえない。(08年3月13日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
(注)論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン氏は1931年生まれの国際政治学者。カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、米国日本政策研究所長で、東アジアの専門家として知られる。米国のイラク攻撃後に書かれた論文集『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』(集英社新書、04年7月刊)がある。
▽「軍事ケインズ主義」の正体
まずアメリカの「軍事ケインズ主義」とは何を意味しているのか。論文から要点を拾い出してみよう。
*巨大な常備軍保有が公共政策の要
戦争を頻繁に行うことを公共政策の要とし、武器や軍需品に巨額の支出を行い、巨大な常備軍をもつことによって、豊かな資本主義経済を永久に持続させられるという主張
*巨額の軍事支出が経済を支える
国内の製造基盤が止めどなく衰退し、海外に仕事を次々と奪われていっても、巨額の軍事費を支出していれば十分に経済を支えられると信じる思想
*民主政治に組み込まれた戦争経済
過剰な軍事支出を続ける仕組みがアメリカの民主政治体制に深く組み込まれており、戦争経済を永遠に続け、軍事にカネを使っていれば経済を潤すと信じるイデオロギー
*軍産複合体と議員たちの利益
軍事予算と軍需産業の肥大化は、軍産複合体(巨大な軍隊と大規模な軍需産業の結合)と上下両院議員の利益に直結している。議員は選挙区に、軍事関係の企業や事業を誘致して、雇用機会を増やし助成金を得ることで計り知れない利益を得る。軍事ケインズ主義を支えているのは、これら軍産複合体や議員たちである。
〈安原のコメント〉思い込みに囚われた「誤った信仰」
以上から分かるように軍事ケインズ主義とは、要するに財政支出が経済成長の牽引力になるというケインズ(イギリスの経済学者)主義の軍事面への応用であり、その正体は軍事支出が資本主義の永続性を保証するという思い込みに囚われたイデオロギーである。論文によれば、もちろん「誤った信仰」にすぎない。この軍事ケインズ主義は現在のアメリカを崩壊と破綻に追い込んでいる。
論文はつぎのように述べている。
無謀な軍事政策を続けるブッシュ政権の面々は(中略)、みんな「だれよりも頭がいい」つもりでいた。しかしホワイトハウスとペンタゴン(国防総省)にいるネオコン(新保守主義者)たちは、驕りが高じて大失敗をしでかした。帝国主義による戦争で世界支配をもくろんだはいいが、その策謀を支える財政問題をどうすることもできない―と。
▽膨れ上がる軍事支出と国家債務の急増
軍事ケインズ主義に伴う弊害の顕著な具体例は、異常な軍事支出の浪費ぶりと借金による国家債務の急増である。
まず世界の軍事大国トップ10と現行軍事予算の推定総額(論文から引用)はつぎの通り。
1 米国= 6230億ドル(08年度予算)
2 中国= 650億ドル(04年度)
3 ロシア= 500億ドル
4 フランス= 450億ドル(05年度)
5 日本= 417億5000万ドル(07年度)
6 ドイツ= 351億ドル(03年度)
7 イタリア= 282億ドル(03年度)
8 韓国= 211億ドル(03年度)
9 インド= 190億ドル(05年度推定)
10 サウジアラビア= 180億ドル(05年度推定)
全世界の軍事支出合計=1兆1000億ドル(04年推定)
アメリカを除く全世界合計= 5000億ドル
ペンタゴンが公表する国防費についてはつぎのような米国専門家の指摘がある。
「信頼できる経験則がある。ペンタゴンが発表する基本予算の総額を見て、その2倍が本当の予算と考えれば、間違いない」と。これはペンタゴン以外の航空宇宙局(NASA)、エネルギー省、国務省、国土安全保障省などに「隠し軍事費」が計上されているためとされる。そうだとすると上記の08年度米国国防費6230億ドルは、実際は1兆ドル超(100兆円超)とみるのが正しい。
ただ公表された米国国防費6230億ドルだけに限っても、米国以外の全世界軍事費総額5000億ドルを上回っている事実に注目したい。
その結果が国家債務の急増であり、事実上の財政破綻である。論文はこう指摘している。
2007年11月、米財務省は、国家債務が史上初めて9兆ドル(900兆円超)の大台に乗ったと発表した。合衆国憲法が正式に発効した1789年から1981年まで国家債務が1兆ドルを超えることはなかった。ブッシュ大統領の就任時(2001年1月)の負債額は5兆7000億ドルで、その後国家債務は45%も増加した。その最大の理由は世界の軍事費の中で異常に突出した米国軍事支出である ― と。
▽進むアメリカ経済の悪化、空洞化
米国の異常な軍事費の突出が招いたものは、財政破綻だけではない。さまざまな経済の悪化や空洞化を進めた。ここでも論文からその要点を紹介しよう。
*巨大化した「機会損失」
軍国主義にすべてを賭け、社会的インフラ(注)など国家の長期的な繁栄に欠かせない投資をないがしろにしている。これを経済用語で「機会損失」といい、別のことにカネを使ったために失われたものを意味する。
具体的には公教育システムの荒廃、国民皆保険にほど遠い健康保険の不備、世界最大の環境汚染国として果たすべき責任の放棄、民間のニーズに応える製造業競争力の喪失 ― など。
(注)インフラはインフラストラクチャー(infrastructure)の略。道路、鉄道、通信情報施設、下水道、学校、病院、公園など社会的経済・生産基盤となるものの総称。
*経常収支は世界一の大赤字
国際収支の中の経常収支(「対外貿易黒字または赤字」プラス「国境を越えて移動する利子、特許料、印税、配当金、株式売買益、対外援助などの収支」)は06年に8115億ドルの赤字で世界中で163番目の最下位。162位のスペインが1064億ドルの赤字で、米国の赤字はその8倍近い異常な水準である。
*無駄な核兵器の開発・実験・製造
1940年代から96年まで核兵器の開発・実験・製造に5兆8000億ドル(約600兆円)以上を費やした。備蓄がピークに達した1967年には3万2500発もの原水爆を保有していた。2006年になっても9960発を保有している。正気を失わないかぎり、いかなる使い道もない代物である。
*製造基盤の消滅
1987年までの40年間に7兆6200億ドル(約800兆円)が資本資源として軍備に支出された。一方、1985年の工場設備やインフラの総価値は7兆2900億ドルである。つまり軍備に回された資本資源を軍備以外の分野に使っていれば、アメリカの資本ストックは2倍に増えていたことになる。あるいは既存の設備を一新して近代化することもできた。
しかしそれを怠ったため、21世紀に入って、アメリカの製造基盤はほぼ消滅してしまった。特に工作機械の分野で、投資を怠った弊害が顕著に表れた。
〈安原のコメント〉軍事ケインズ主義は「死に至る病」
論文は「軍事ケインズ主義を信奉することは、経済にとって、ゆっくりと死に至る自殺行為に他ならない」と指摘している。的確な診断というべきである。経済の軍事化は経済発展につながるのではなく、逆に経済の弱体化をもたらすことは、いまさら持ち出すまでもない常識である。
とはいえここでは軍事支出の増加が経済に及ぼす長期的な影響に関する経済学者の研究(在ワシントンの経済政策研究センターが07年5月発表)を紹介する。その結論はつぎの通りである。
戦争が起こり軍事支出が増えれば、経済が活性化すると一般に考えられている。しかし実際にはほとんどの経済モデルが示すように、軍事支出が増加すると、消費や投資などの生産的な目的に使われるべきリソース(資源)が軍事産業に流れ、結局は経済成長が鈍り雇用が減る ― と。
しかも重要なことは論文「軍事ケインズ主義の終焉」が指摘するように「これは軍事ケインズ主義の悪しき影響の一端にすぎない」のである。悪影響はもっと多面的に噴出している。
▽「唯一の超大国」の終わり
論文の結論はつぎの通りである。
アメリカが「唯一の超大国」でいられる束の間の時代は終わった ― と。
その補足意見としてハーバード大学経済学部教授の以下のような見解を紹介している。
いつの時代でも、政治・外交・文化の諸分野で絶大な影響力を持つ国家は、例外なく世界最大の債権国だった。アメリカが英国から盟主としての役割を引き継いだ時期は、英国に代わって最大の債権国となった時期と一致している。これは偶然の出来事ではない。もうアメリカは世界第一の債権国でないばかりか、実状は最大の債務国である。世界への影響力を保つためには、強大な軍事力を盾とするしかない ― と。
アメリカ再生への出口はないのか。「もし何も対策を取らないなら、おそらく国家は破産し、長い恐慌の時代を迎えることになる」―つまりアメリカ帝国は国家破産の危機に瀕している、というのが論文のもう一つの結論である。
では取るべき対策は残されているのか。
緊急に実行すべき対策として論文は次の諸点を挙げている。
*ブッシュ政権が実施した高額所得者に対する減税策を廃止すること
*アメリカ帝国が世界各地に築いた800を超える軍事基地を撤去する事業に着手すること
*国防費をケインズ主義のプログラムに使うことを止めること
〈安原のコメント〉ブッシュ政権をニクソン大統領と比べると
「唯一の超大国」アメリカにとって「強大な軍事力を盾とするしかない」とは悲劇そのものではないか。軍事力という国家暴力にすがるしか残された道がないとすれば、そういう国家が世界の尊敬を集めることはできない。事実、ブッシュ政権は世界の中で孤立を深めつつある。その打開策は軍事ケインズ主義から一日も早く縁を切り、脱出することである。
それにしてもここで想い起こすほかないのは、ニクソン米大統領の洞察に満ちた演説である。30数年も以前のこと、当時のニクソン大統領が1971年7月6日新聞・テレビ首脳者を前につぎのような演説を行った。
「私はギリシャとローマでなにが起こったのかと思う、(中略)そこに起こったものは、過去の偉大な文化 ― 富裕への過程、生き、よりよくなろうとする意欲を失う過程である。彼らはデカダンスの虜(とりこ)となって、とどのつまりは文明を滅ぼした。アメリカはいま、その時期に達しつつある」と。
古代ギリシャ、ローマが滅びたように現代アメリカも同じような過程に入りつつあるという認識を示したのである。
この演説から1週間ほど後の7月15日、ニクソン訪中(翌年2月)プランを世界に向けて発表、突然の米中の握手に世界は驚き慌てた。さらに1か月後の8月15日には金・ドル交換の停止など未曾有のドル防衛策を発表、ドル・ショックという激震が世界経済を襲った。しかもベトナム戦争(1975年春終結)では、米国の敗色はすでに濃厚であった。
当時すでにアメリカは超大国の地位から滑り落ちつつあり、従来の政策路線の大転換を迫られていた。ニクソン大統領はそれを察知した上で打開策を講じたが、これに比べると、現下のブッシュ政権はいたずらに戦争と軍事力に執着し、打開能力を失っている。
最近のドル安の進行がそれを端的に物語っている。米ドルは魅力を失い、世界中で売られ、価値が大幅に下がりつつある。これはアメリカそのものの価値が急速に下落しつつあることの証明に他ならない。
〈参考〉「日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年5月18日付で掲載)は、今回の『世界』掲載論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン著『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』を紹介したものである。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
アメリカ主導のイラク攻撃・占領は3月20日で満5年を迎える。異常な軍事支出と戦争に明け暮れるブッシュ政権がアメリカにもたらしたものは何か。このテーマを分析した論文(注)「軍事ケインズ主義の終焉」(最新の『世界』08年4月号=岩波書店刊=掲載)は、アメリカにおける「軍事ケインズ主義」の成れの果てとして「国家破産の危機に瀕するアメリカ帝国」の実像を浮き彫りにしている。
その打開策は果たしてあるのか。軍事ケインズ主義と縁を切り、路線転換を図る以外に妙策はあり得ない。目下たけなわのアメリカ大統領選予備選の真の争点はここにあるはずだが、米日のメディア報道にそういう視点はうかがえない。(08年3月13日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
(注)論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン氏は1931年生まれの国際政治学者。カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、米国日本政策研究所長で、東アジアの専門家として知られる。米国のイラク攻撃後に書かれた論文集『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』(集英社新書、04年7月刊)がある。
▽「軍事ケインズ主義」の正体
まずアメリカの「軍事ケインズ主義」とは何を意味しているのか。論文から要点を拾い出してみよう。
*巨大な常備軍保有が公共政策の要
戦争を頻繁に行うことを公共政策の要とし、武器や軍需品に巨額の支出を行い、巨大な常備軍をもつことによって、豊かな資本主義経済を永久に持続させられるという主張
*巨額の軍事支出が経済を支える
国内の製造基盤が止めどなく衰退し、海外に仕事を次々と奪われていっても、巨額の軍事費を支出していれば十分に経済を支えられると信じる思想
*民主政治に組み込まれた戦争経済
過剰な軍事支出を続ける仕組みがアメリカの民主政治体制に深く組み込まれており、戦争経済を永遠に続け、軍事にカネを使っていれば経済を潤すと信じるイデオロギー
*軍産複合体と議員たちの利益
軍事予算と軍需産業の肥大化は、軍産複合体(巨大な軍隊と大規模な軍需産業の結合)と上下両院議員の利益に直結している。議員は選挙区に、軍事関係の企業や事業を誘致して、雇用機会を増やし助成金を得ることで計り知れない利益を得る。軍事ケインズ主義を支えているのは、これら軍産複合体や議員たちである。
〈安原のコメント〉思い込みに囚われた「誤った信仰」
以上から分かるように軍事ケインズ主義とは、要するに財政支出が経済成長の牽引力になるというケインズ(イギリスの経済学者)主義の軍事面への応用であり、その正体は軍事支出が資本主義の永続性を保証するという思い込みに囚われたイデオロギーである。論文によれば、もちろん「誤った信仰」にすぎない。この軍事ケインズ主義は現在のアメリカを崩壊と破綻に追い込んでいる。
論文はつぎのように述べている。
無謀な軍事政策を続けるブッシュ政権の面々は(中略)、みんな「だれよりも頭がいい」つもりでいた。しかしホワイトハウスとペンタゴン(国防総省)にいるネオコン(新保守主義者)たちは、驕りが高じて大失敗をしでかした。帝国主義による戦争で世界支配をもくろんだはいいが、その策謀を支える財政問題をどうすることもできない―と。
▽膨れ上がる軍事支出と国家債務の急増
軍事ケインズ主義に伴う弊害の顕著な具体例は、異常な軍事支出の浪費ぶりと借金による国家債務の急増である。
まず世界の軍事大国トップ10と現行軍事予算の推定総額(論文から引用)はつぎの通り。
1 米国= 6230億ドル(08年度予算)
2 中国= 650億ドル(04年度)
3 ロシア= 500億ドル
4 フランス= 450億ドル(05年度)
5 日本= 417億5000万ドル(07年度)
6 ドイツ= 351億ドル(03年度)
7 イタリア= 282億ドル(03年度)
8 韓国= 211億ドル(03年度)
9 インド= 190億ドル(05年度推定)
10 サウジアラビア= 180億ドル(05年度推定)
全世界の軍事支出合計=1兆1000億ドル(04年推定)
アメリカを除く全世界合計= 5000億ドル
ペンタゴンが公表する国防費についてはつぎのような米国専門家の指摘がある。
「信頼できる経験則がある。ペンタゴンが発表する基本予算の総額を見て、その2倍が本当の予算と考えれば、間違いない」と。これはペンタゴン以外の航空宇宙局(NASA)、エネルギー省、国務省、国土安全保障省などに「隠し軍事費」が計上されているためとされる。そうだとすると上記の08年度米国国防費6230億ドルは、実際は1兆ドル超(100兆円超)とみるのが正しい。
ただ公表された米国国防費6230億ドルだけに限っても、米国以外の全世界軍事費総額5000億ドルを上回っている事実に注目したい。
その結果が国家債務の急増であり、事実上の財政破綻である。論文はこう指摘している。
2007年11月、米財務省は、国家債務が史上初めて9兆ドル(900兆円超)の大台に乗ったと発表した。合衆国憲法が正式に発効した1789年から1981年まで国家債務が1兆ドルを超えることはなかった。ブッシュ大統領の就任時(2001年1月)の負債額は5兆7000億ドルで、その後国家債務は45%も増加した。その最大の理由は世界の軍事費の中で異常に突出した米国軍事支出である ― と。
▽進むアメリカ経済の悪化、空洞化
米国の異常な軍事費の突出が招いたものは、財政破綻だけではない。さまざまな経済の悪化や空洞化を進めた。ここでも論文からその要点を紹介しよう。
*巨大化した「機会損失」
軍国主義にすべてを賭け、社会的インフラ(注)など国家の長期的な繁栄に欠かせない投資をないがしろにしている。これを経済用語で「機会損失」といい、別のことにカネを使ったために失われたものを意味する。
具体的には公教育システムの荒廃、国民皆保険にほど遠い健康保険の不備、世界最大の環境汚染国として果たすべき責任の放棄、民間のニーズに応える製造業競争力の喪失 ― など。
(注)インフラはインフラストラクチャー(infrastructure)の略。道路、鉄道、通信情報施設、下水道、学校、病院、公園など社会的経済・生産基盤となるものの総称。
*経常収支は世界一の大赤字
国際収支の中の経常収支(「対外貿易黒字または赤字」プラス「国境を越えて移動する利子、特許料、印税、配当金、株式売買益、対外援助などの収支」)は06年に8115億ドルの赤字で世界中で163番目の最下位。162位のスペインが1064億ドルの赤字で、米国の赤字はその8倍近い異常な水準である。
*無駄な核兵器の開発・実験・製造
1940年代から96年まで核兵器の開発・実験・製造に5兆8000億ドル(約600兆円)以上を費やした。備蓄がピークに達した1967年には3万2500発もの原水爆を保有していた。2006年になっても9960発を保有している。正気を失わないかぎり、いかなる使い道もない代物である。
*製造基盤の消滅
1987年までの40年間に7兆6200億ドル(約800兆円)が資本資源として軍備に支出された。一方、1985年の工場設備やインフラの総価値は7兆2900億ドルである。つまり軍備に回された資本資源を軍備以外の分野に使っていれば、アメリカの資本ストックは2倍に増えていたことになる。あるいは既存の設備を一新して近代化することもできた。
しかしそれを怠ったため、21世紀に入って、アメリカの製造基盤はほぼ消滅してしまった。特に工作機械の分野で、投資を怠った弊害が顕著に表れた。
〈安原のコメント〉軍事ケインズ主義は「死に至る病」
論文は「軍事ケインズ主義を信奉することは、経済にとって、ゆっくりと死に至る自殺行為に他ならない」と指摘している。的確な診断というべきである。経済の軍事化は経済発展につながるのではなく、逆に経済の弱体化をもたらすことは、いまさら持ち出すまでもない常識である。
とはいえここでは軍事支出の増加が経済に及ぼす長期的な影響に関する経済学者の研究(在ワシントンの経済政策研究センターが07年5月発表)を紹介する。その結論はつぎの通りである。
戦争が起こり軍事支出が増えれば、経済が活性化すると一般に考えられている。しかし実際にはほとんどの経済モデルが示すように、軍事支出が増加すると、消費や投資などの生産的な目的に使われるべきリソース(資源)が軍事産業に流れ、結局は経済成長が鈍り雇用が減る ― と。
しかも重要なことは論文「軍事ケインズ主義の終焉」が指摘するように「これは軍事ケインズ主義の悪しき影響の一端にすぎない」のである。悪影響はもっと多面的に噴出している。
▽「唯一の超大国」の終わり
論文の結論はつぎの通りである。
アメリカが「唯一の超大国」でいられる束の間の時代は終わった ― と。
その補足意見としてハーバード大学経済学部教授の以下のような見解を紹介している。
いつの時代でも、政治・外交・文化の諸分野で絶大な影響力を持つ国家は、例外なく世界最大の債権国だった。アメリカが英国から盟主としての役割を引き継いだ時期は、英国に代わって最大の債権国となった時期と一致している。これは偶然の出来事ではない。もうアメリカは世界第一の債権国でないばかりか、実状は最大の債務国である。世界への影響力を保つためには、強大な軍事力を盾とするしかない ― と。
アメリカ再生への出口はないのか。「もし何も対策を取らないなら、おそらく国家は破産し、長い恐慌の時代を迎えることになる」―つまりアメリカ帝国は国家破産の危機に瀕している、というのが論文のもう一つの結論である。
では取るべき対策は残されているのか。
緊急に実行すべき対策として論文は次の諸点を挙げている。
*ブッシュ政権が実施した高額所得者に対する減税策を廃止すること
*アメリカ帝国が世界各地に築いた800を超える軍事基地を撤去する事業に着手すること
*国防費をケインズ主義のプログラムに使うことを止めること
〈安原のコメント〉ブッシュ政権をニクソン大統領と比べると
「唯一の超大国」アメリカにとって「強大な軍事力を盾とするしかない」とは悲劇そのものではないか。軍事力という国家暴力にすがるしか残された道がないとすれば、そういう国家が世界の尊敬を集めることはできない。事実、ブッシュ政権は世界の中で孤立を深めつつある。その打開策は軍事ケインズ主義から一日も早く縁を切り、脱出することである。
それにしてもここで想い起こすほかないのは、ニクソン米大統領の洞察に満ちた演説である。30数年も以前のこと、当時のニクソン大統領が1971年7月6日新聞・テレビ首脳者を前につぎのような演説を行った。
「私はギリシャとローマでなにが起こったのかと思う、(中略)そこに起こったものは、過去の偉大な文化 ― 富裕への過程、生き、よりよくなろうとする意欲を失う過程である。彼らはデカダンスの虜(とりこ)となって、とどのつまりは文明を滅ぼした。アメリカはいま、その時期に達しつつある」と。
古代ギリシャ、ローマが滅びたように現代アメリカも同じような過程に入りつつあるという認識を示したのである。
この演説から1週間ほど後の7月15日、ニクソン訪中(翌年2月)プランを世界に向けて発表、突然の米中の握手に世界は驚き慌てた。さらに1か月後の8月15日には金・ドル交換の停止など未曾有のドル防衛策を発表、ドル・ショックという激震が世界経済を襲った。しかもベトナム戦争(1975年春終結)では、米国の敗色はすでに濃厚であった。
当時すでにアメリカは超大国の地位から滑り落ちつつあり、従来の政策路線の大転換を迫られていた。ニクソン大統領はそれを察知した上で打開策を講じたが、これに比べると、現下のブッシュ政権はいたずらに戦争と軍事力に執着し、打開能力を失っている。
最近のドル安の進行がそれを端的に物語っている。米ドルは魅力を失い、世界中で売られ、価値が大幅に下がりつつある。これはアメリカそのものの価値が急速に下落しつつあることの証明に他ならない。
〈参考〉「日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年5月18日付で掲載)は、今回の『世界』掲載論文の著者、チャルマーズ・ジョンソン著『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』を紹介したものである。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
戦争する国・アメリカ
安原和雄
小出五郎著『戦争する国、平和する国』(07年9月、佼成出版社刊)は、平和をどうつくっていくかに関心を寄せている人々にとって学ぶところが多い労作である。「平和する国」のモデルは中米の非武装国コスタリカであり、一方、「戦争する国」の典型はいうまでもなくアメリカである。(08年3月5日掲載)
本書のタイトル、『戦争する国、平和する国』がなかなかユニークである。「戦争する国」のマイナスのイメージは、「テロとの戦い」を「正義のための戦争」という旗印を掲げて、強行し、多くの犠牲を強いる今のアメリカをみれば、よく分かる。
しかし「平和する国」とはどういう意味か。「戦争以外の方法で平和を実現するという動詞として〈平和する〉という言葉を使いたい。もしかしたら戦争するよりも険しく、継続的な忍耐と努力が必要だ」と著者は解説している。
本書は1987年にノーベル平和賞を受賞し、現在2回目のコスタリカ大統領の座にあるオスカル・アリアス・サンチェス氏とのインタビューを軸にまとめたコスタリカ・リポートである。筆者の小出氏は科学ジャーナリストで、元NHK解説委員。
▽非武装国コスタリカの利点、そして多様性の尊重
中米の小国、コスタリカ(人口は北海道より少ない430万人ほど)は世界で注目される国である。なぜか。本書の「はじめに」に「非武装中立、環境保全、教育重視を国の基本政策とし、政策実現のために熱心に発言し行動している国」とある。
大統領との会見内容のほんの一部を紹介しよう。
小出「コスタリカの特徴をキーワードで表現すれば、何か」
大統領「『平和の国』。50年以上前(1949年)に軍隊を廃止し、世界に平和を宣言した国。複数の政党があり、つまり話し合いを大切にする国、寛容の国、穏やかな国、中米地域に平和を実現するための労を惜しまなかった国」と。
具体的には「1980年代、超大国の冷戦の影響で、隣国のグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアは内戦が続いていた。コスタリカはこれらの国に平和を実現するには武力ではなく、対話をすべきだと大胆に持ちかけ成功させた。武器を沈黙させることができたのだ」と。
しかもこう言い切っている。「今は、希望を持って未来を見つめることができる国」と。未来を見失っている我がニッポンとの隔たりが大きすぎるのではないか。大統領がノーベル平和賞を受賞したのも、この中米和平実現の功績が評価されたためだ。
軍隊を廃止した利点は数多い。大統領は語っている。「軍隊廃止で財源が浮けば、まず教育に、福祉に、住宅建設に回すことができる。私たちが誇りにしていることだが、コスタリカの子どもたちは戦車や戦闘機を見たことがない。コスタリカは今、ラテン・アメリカ全体で一番社会的不平等が少ない国だ」と。
平和と並ぶもう一つのキーワードが「多様性」で、大統領は「コスタリカの生物多様性法では多様性を環境保護だけでなく、平和、民主主義、人権尊重、経済活動、教育などすべてを含む価値観にしている」と解説している。いいかえれば多様性の尊重こそが平和をつくるのであり、他国の言い分を聞き入れないアメリカ的単独行動主義を排するというメッセージだろう。
本書の読後感をいえば、小国コスタリカは「経済力は豊かではないとしても、未来に生きるモデル国」として魅力的である。軍事力はもはや万能ではない。軍事同盟に執着する大国の時代は急速に遠のき、非武装の小国が世界をリードする時代がすぐそこまで来ている、という希望が湧いてくる。
(以上は【「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)つうしん=第24号、08年3月1日発行】に安原が書いた書評の趣旨で、ここに転載した)
▽戦争の「正義」と「戦争プロパガンダ10の法則」
著書『戦争する国、平和する国』はつぎのようにも指摘している。
戦争する国は、つねに「正義のための戦争」と主張する。イラク戦争でアメリカのブッシュ政権は「テロとの戦い」を正義の旗印として掲げた。
しかし、正義とは何だろうか。
正義とは、実はつくられるものなのだ。
自国の正義を正当化するために、世論を誘導して国民の同意をとりつける。(中略)反対できない雰囲気をつくりあげる。このように情報によって世論を誘導することをプロパガンダ(propaganda)という―と。
ここでは同書から「戦争プロパガンダ10の法則」を紹介しよう。この法則はブッシュ政権が「テロとの戦い」という「正義」を振りかざして実行してみせた。
①「われわれは戦争をしたくない」
②「しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ」
③「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
④「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
⑤「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為に及んでいる」
⑥「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
⑦「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
⑧「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
⑨「われわれの大義は神聖なものである」
⑩「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
若干の解説を加えると―、
③の「悪魔」について
ブッシュ大統領が「9.11テロ」(2001年9月11日ニューヨークの世界貿易センタービルなどが航空機の自爆攻撃を受け、約3000人が犠牲となった)翌年の一般教書(02年1月)で「悪の枢軸」(Axis of Evil)として「北朝鮮、イラン、イラク」を名指しで非難したことはまだ記憶に新しい。最近の一般教書(07年1月)でもEvilは2回出てくる。法則通り「悪魔」を口実にしているわけで、「戦争する大統領」の面目躍如(?)というところだろうか。
④の「偉大な使命」について
イラク攻撃の場合、「国内では残虐非道、人権無視の独裁的な恐怖政治を行い、一方では核兵器、生物兵器、化学兵器を製造、保有し、世界の平和を脅かしている。だからサダム・フセイン大統領を倒すこと」が正義であると宣言し、開戦した。
しかしこれらの大量破壊兵器は見つからなかった。根拠なき「偉大な使命」というほかない。
⑧の「戦いの支持者」について
お膝元のアメリカのメディアに限らず、日本のメディアもブッシュ大統領の開戦、侵略を批判しなかった。むしろ「テロは文明への攻撃」と断じて「ブッシュの戦争」を支持した。
もちろんテロは容認できないが、テロを批判するのであれば、まずアメリカの「国家テロ」こそ断罪されるべきである。一例を挙げると、1975年春終結したベトナム戦争ではアメリカの侵略によって約300万人のベトナム人が犠牲となった。そのアメリカにテロを批判する資格はない。
▽戦争プロパガンダへの5つの対抗手段
さて戦争プロパガンダにはどう対応したらいいだろうか。本書が掲げる5つの対抗手段を紹介しよう。
①「法則」を知っている
②数字と予測は不確実
③多様な側面から考える
④選挙にはきちんと参加する
⑤やはり、「知は力なり」
ひとつだけ紹介すると、《①「法則」を知っている》ことが大切である。たとえば《法則⑩》に「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」とある。対外的な緊張が高まると、反対者を「非国民」「愛国心がない」と非難する声が高まる。
法則⑩を知っていれば、「敵」を非難する方法は、プロパガンダの定法であることが分かり、戦争勢力が意図的に流す「偽」の情報をチェックすることができる。だから簡単に乗せられて後悔する愚を避けることができる。
〈ご参考〉「正義とPeaceとWar 〈折々のつぶやき〉29」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年3月31日付で掲載)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
小出五郎著『戦争する国、平和する国』(07年9月、佼成出版社刊)は、平和をどうつくっていくかに関心を寄せている人々にとって学ぶところが多い労作である。「平和する国」のモデルは中米の非武装国コスタリカであり、一方、「戦争する国」の典型はいうまでもなくアメリカである。(08年3月5日掲載)
本書のタイトル、『戦争する国、平和する国』がなかなかユニークである。「戦争する国」のマイナスのイメージは、「テロとの戦い」を「正義のための戦争」という旗印を掲げて、強行し、多くの犠牲を強いる今のアメリカをみれば、よく分かる。
しかし「平和する国」とはどういう意味か。「戦争以外の方法で平和を実現するという動詞として〈平和する〉という言葉を使いたい。もしかしたら戦争するよりも険しく、継続的な忍耐と努力が必要だ」と著者は解説している。
本書は1987年にノーベル平和賞を受賞し、現在2回目のコスタリカ大統領の座にあるオスカル・アリアス・サンチェス氏とのインタビューを軸にまとめたコスタリカ・リポートである。筆者の小出氏は科学ジャーナリストで、元NHK解説委員。
▽非武装国コスタリカの利点、そして多様性の尊重
中米の小国、コスタリカ(人口は北海道より少ない430万人ほど)は世界で注目される国である。なぜか。本書の「はじめに」に「非武装中立、環境保全、教育重視を国の基本政策とし、政策実現のために熱心に発言し行動している国」とある。
大統領との会見内容のほんの一部を紹介しよう。
小出「コスタリカの特徴をキーワードで表現すれば、何か」
大統領「『平和の国』。50年以上前(1949年)に軍隊を廃止し、世界に平和を宣言した国。複数の政党があり、つまり話し合いを大切にする国、寛容の国、穏やかな国、中米地域に平和を実現するための労を惜しまなかった国」と。
具体的には「1980年代、超大国の冷戦の影響で、隣国のグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグアは内戦が続いていた。コスタリカはこれらの国に平和を実現するには武力ではなく、対話をすべきだと大胆に持ちかけ成功させた。武器を沈黙させることができたのだ」と。
しかもこう言い切っている。「今は、希望を持って未来を見つめることができる国」と。未来を見失っている我がニッポンとの隔たりが大きすぎるのではないか。大統領がノーベル平和賞を受賞したのも、この中米和平実現の功績が評価されたためだ。
軍隊を廃止した利点は数多い。大統領は語っている。「軍隊廃止で財源が浮けば、まず教育に、福祉に、住宅建設に回すことができる。私たちが誇りにしていることだが、コスタリカの子どもたちは戦車や戦闘機を見たことがない。コスタリカは今、ラテン・アメリカ全体で一番社会的不平等が少ない国だ」と。
平和と並ぶもう一つのキーワードが「多様性」で、大統領は「コスタリカの生物多様性法では多様性を環境保護だけでなく、平和、民主主義、人権尊重、経済活動、教育などすべてを含む価値観にしている」と解説している。いいかえれば多様性の尊重こそが平和をつくるのであり、他国の言い分を聞き入れないアメリカ的単独行動主義を排するというメッセージだろう。
本書の読後感をいえば、小国コスタリカは「経済力は豊かではないとしても、未来に生きるモデル国」として魅力的である。軍事力はもはや万能ではない。軍事同盟に執着する大国の時代は急速に遠のき、非武装の小国が世界をリードする時代がすぐそこまで来ている、という希望が湧いてくる。
(以上は【「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)つうしん=第24号、08年3月1日発行】に安原が書いた書評の趣旨で、ここに転載した)
▽戦争の「正義」と「戦争プロパガンダ10の法則」
著書『戦争する国、平和する国』はつぎのようにも指摘している。
戦争する国は、つねに「正義のための戦争」と主張する。イラク戦争でアメリカのブッシュ政権は「テロとの戦い」を正義の旗印として掲げた。
しかし、正義とは何だろうか。
正義とは、実はつくられるものなのだ。
自国の正義を正当化するために、世論を誘導して国民の同意をとりつける。(中略)反対できない雰囲気をつくりあげる。このように情報によって世論を誘導することをプロパガンダ(propaganda)という―と。
ここでは同書から「戦争プロパガンダ10の法則」を紹介しよう。この法則はブッシュ政権が「テロとの戦い」という「正義」を振りかざして実行してみせた。
①「われわれは戦争をしたくない」
②「しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ」
③「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
④「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
⑤「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為に及んでいる」
⑥「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
⑦「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
⑧「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
⑨「われわれの大義は神聖なものである」
⑩「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
若干の解説を加えると―、
③の「悪魔」について
ブッシュ大統領が「9.11テロ」(2001年9月11日ニューヨークの世界貿易センタービルなどが航空機の自爆攻撃を受け、約3000人が犠牲となった)翌年の一般教書(02年1月)で「悪の枢軸」(Axis of Evil)として「北朝鮮、イラン、イラク」を名指しで非難したことはまだ記憶に新しい。最近の一般教書(07年1月)でもEvilは2回出てくる。法則通り「悪魔」を口実にしているわけで、「戦争する大統領」の面目躍如(?)というところだろうか。
④の「偉大な使命」について
イラク攻撃の場合、「国内では残虐非道、人権無視の独裁的な恐怖政治を行い、一方では核兵器、生物兵器、化学兵器を製造、保有し、世界の平和を脅かしている。だからサダム・フセイン大統領を倒すこと」が正義であると宣言し、開戦した。
しかしこれらの大量破壊兵器は見つからなかった。根拠なき「偉大な使命」というほかない。
⑧の「戦いの支持者」について
お膝元のアメリカのメディアに限らず、日本のメディアもブッシュ大統領の開戦、侵略を批判しなかった。むしろ「テロは文明への攻撃」と断じて「ブッシュの戦争」を支持した。
もちろんテロは容認できないが、テロを批判するのであれば、まずアメリカの「国家テロ」こそ断罪されるべきである。一例を挙げると、1975年春終結したベトナム戦争ではアメリカの侵略によって約300万人のベトナム人が犠牲となった。そのアメリカにテロを批判する資格はない。
▽戦争プロパガンダへの5つの対抗手段
さて戦争プロパガンダにはどう対応したらいいだろうか。本書が掲げる5つの対抗手段を紹介しよう。
①「法則」を知っている
②数字と予測は不確実
③多様な側面から考える
④選挙にはきちんと参加する
⑤やはり、「知は力なり」
ひとつだけ紹介すると、《①「法則」を知っている》ことが大切である。たとえば《法則⑩》に「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」とある。対外的な緊張が高まると、反対者を「非国民」「愛国心がない」と非難する声が高まる。
法則⑩を知っていれば、「敵」を非難する方法は、プロパガンダの定法であることが分かり、戦争勢力が意図的に流す「偽」の情報をチェックすることができる。だから簡単に乗せられて後悔する愚を避けることができる。
〈ご参考〉「正義とPeaceとWar 〈折々のつぶやき〉29」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年3月31日付で掲載)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
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