イージス艦「あたご」の廃艦を
安原和雄
海上自衛隊のイージス艦が漁船に衝突し、漁師の父子2人が行方不明になった事件は大きな波紋が広がっている。父子は行方不明のままで地元の漁協など関係者は2月25日捜索を打ち切らざるを得なくなった。この機会に自衛隊は本当に「国民の生命と財産を守ること」を任務としているのか、を考えたい。さらに衝突事件を起こしたイージス艦「あたご」の防衛上の役割は何か。「あたご」は必要な兵器なのか。廃艦にすべし、という説も飛び出していることを紹介したい。(08年2月28日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
私(安原)はブログ「安原和雄の仏教経済塾」の掲載記事、「いのちの外国依存は危険だ! 食と安全保障の自立を求めて」(2月22日付)でつぎのように書いた。
今回の衝突事件で「国民の生命、財産を守るのが任務の自衛隊なのに、いったいどういうことか」という批判の声が高まっているが、それは自衛隊に対しては、期待はずれに終わるだろう。
もともと軍隊には「一人ひとりのいのちを守る」という意識は希薄である。軍事力、兵器なるものは本来そういう特質をもっていることを今回の痛ましい事故に学ぶ必要があるのではないか。
▽自衛隊の主たる任務は「国の安全」と「国の防衛」
上記の記事について以下のように補足しておきたい。
自衛隊法(自衛隊の任務などを定めた法律=2007年に最終改正)にはつぎのような趣旨の規定がある。
〈自衛隊の任務〉
*第3条=自衛隊はわが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
自衛隊は武力の行使に当たらない範囲でわが国周辺の地域におけるわが国の平和及び安全の確保に資する活動等を行う。
〈自衛隊の行動〉
*第76条(防衛出動)=内閣総理大臣は外部からの武力攻撃に際して、わが国を防衛するため自衛隊の出動を命ずることができる。
*第78条(命令による治安出動)=内閣総理大臣は間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の出動を命ずることができる。
*第82条〈海上における警備行動〉=海上における人命もしくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、(中略)必要な行動をとる。
*第83条〈災害派遣〉=都道府県知事は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため、部隊等の派遣を要請することができる。
以上から分かるように、自衛隊の主たる任務は「国の安全を保つのためのわが国の防衛」であり、そのための防衛出動である。
78条には治安出動の規定がある。この治安出動は、発動には至らなかったが、政府内で検討されたいきさつがある。それは岸内閣当時(1960年)、現在の日米安保条約の国会での強行採決に反対する国民的規模の反対抗議運動を治安維持の名目で抑圧しようというねらいを秘めていた。
「人命又は財産の保護」という文言は82条(海上での警備行動)、83条(災害派遣)などにみることができるが、これは自衛隊の主たる任務にはなっていない。
▽【声明】イージス艦あたごを廃艦に!
「みどりのテーブル」(環境政党をめざす組織で、昨年7月の参院選東京選挙区で当選した川田龍平氏を支援した)の情報交換MLで以下のような抗議声明文「イージス艦あたごを廃艦に!」を入手したので、その要旨を紹介する。発信者は 杉原浩司氏(核とミサイル防衛にNO!キャンペーン)で、あて先は石破茂防衛大臣、首相官邸、自民党、公明党などである。
【抗議声明】イージス艦なんていらない! 「あたご」を廃艦にせよ!
~イージス艦あたごの漁船衝突事件と防衛省の情報隠しに抗議する ~
(抗議文前半の漁船への衝突事件に関する部分は省略)
私たちは「そもそも日本にイージス艦は必要なのか」との根本的な問いを立てざるを得ない。排水量7750トンで国内最大の「護衛艦」であるあたごは、三菱重工長崎造船所で約1400億円もの巨費をかけて建造された。05年に進水、07年3月に就役し、「こんごう」型護衛艦4隻に次ぐ5隻目のイージス艦となった。最新イージスシステムを装備し、こんごう型以上の高度な防空戦闘能力を有するミサイル防衛(MD)対応艦である。
日米で共同開発中の次世代型SM3の対応艦として01年度の「中期防衛力整備計画」で取得が示され、02、03年度で費用計上されたあたご型護衛艦の一番艦であるあたごは、単なる5隻目のイージス艦ではなく、MDの柱の一つである次世代SM3配備を前提とした海自護衛艦隊の再編の要に位置するものといえよう。
そもそもMDは「スパイラル(らせん状)開発」の名で未完成兵器を配備し、更新し続ける「利権まみれの偽装兵器」に他ならない。07年12月、こんごうが「成功」させたとされるSM3による迎撃実験も、1発20億円、総経費60億円もの巨費をかけて、発射施設や飛翔コースが分かっている模擬弾に命中させたに過ぎない。2015年の配備が予定される新SM3の日本負担の共同開発費は、2014年までの9年間で10億~12億ドルに及ぶという。
また、新SM3は射程が伸びるため、ハワイやグアムを含む米国土に向かう弾道ミサイルの迎撃が想定されており、憲法が禁じる集団的自衛権の行使に踏み込むことが前提となっている。さらに日米の軍需産業は、共同生産した新SM3の輸出をにらみ、武器輸出禁止三原則の更なる破壊に向けた圧力を強めている。加えて、日米軍事再編の進行の中で、あたごは米海軍との共同軍事作戦にのめり込む恐れが高い。その先にあるのは他国民の殺傷である。私たちが未来を透視し、今ここで止めなければ、あたごは憲法9条をも「轟沈」するだろう。
莫大な税金を浪費して、先制攻撃を促進し、憲法や産業のあり方にも変更を迫る次世代型SM3。それを搭載するあたご型護衛艦隊。それらが、民衆の生活を脅かすものであることを、今回の「衝突」は予兆している。
防衛省・自衛隊は、今回の衝突事件を真摯に反省し、次世代型SM3の共同開発やその配備を前提とした護衛艦配備計画そのものを取り止めるべきである。軍産疑獄の帳本人である守屋前次官が主導したMD推進政策そのものも見直すべきである。さらに見逃せないのは、今回の事故を口実とした、背広・制服組の一体化を柱とする防衛省再編の企てである。3月にも設置される「法制検討チーム」(仮)は、海外派兵恒久法やサミット(7月の洞爺湖サミット)警備を口実とした「対テロ」軍事化をも協議するという。「盗人猛々しい」とはこの事である。「自動操舵」状態で軍備強化へと突き進む福田政権に対して、私たち自身が手動で強く、脱軍事化へと舵を切らなければならない。
私たちは福田政権および防衛省・自衛隊に対して、改めて以下を要求する。
1.重大事故と情報隠しの責任を取り、石破防衛大臣は辞任せよ。
防衛省・自衛隊は全ての情報を開示せよ。
2.イージス艦やMDは日本に必要なく税金の無駄。
MDから撤退し、違憲艦となる「あたご」をまず廃艦にせよ。
3.戦争できる自衛隊を目指す防衛省再編を中止せよ。
防衛省・自衛隊は解体に向けて縮小を。
2008年2月26日 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン
[連絡先](TEL・FAX)03-5711-6478
(E-mail)[email protected]
http://www.geocities.jp/nomd_campaign/
▽憲法9条の「轟沈」を目指すイージス艦
イージス艦(注)の兵器としての危険な役割に関する抗議文の要点は以下のようである。
(注)イージス艦とは
目標の捜索、探知、分類識別、攻撃までの一連の動作を高性能コンピューターによって自動的に処理するイージス(Aegis=盾)防空システムを備えた最新鋭の艦艇。レーダー、ミサイルと組み合わせて一体的に運用される。海上自衛隊は現在5隻のイージス艦を保有している。
*あたご型護衛艦の一番艦であるあたごは、単なる5隻目のイージス艦ではなく、MD(ミサイル防衛)の柱の一つである次世代SM3(最新の海上配備型迎撃ミサイル)配備を前提とした海自護衛艦隊の再編の要に位置する。
〈安原のコメント〉MDを口実にした護衛艦隊の質的変化
従来の「こんごう型」4隻のイージス艦とは異質のミサイルなどの性能を持つ最新鋭艦第1号だということ。目指すものは、MDを口実にした海上自衛隊護衛艦隊の質的変化だろう。
特記する必要があるのは、こうした計画的な質的変化はすべて政府の安全保障会議や閣議で決定し、それに基づいて進められていることである。自衛隊の制服組が独断で進めている話ではない。
*MDは、未完成兵器を配備し、更新し続ける「利権まみれの偽装兵器」に他ならない。2015年の配備が予定される新SM3の日本負担の共同開発費は、2014年までの9年間で10億~12億ドル(1100億円~1300億円)に及ぶ。
莫大な税金を浪費して、先制攻撃を促進し、憲法や産業のあり方にも変更を迫る次世代型SM3。それを搭載するあたご型護衛艦隊。それらが、民衆の生活を脅かすものであることを、今回の「衝突」は予兆している。
〈コメント〉やがて「民衆の生活」が標的に
「衝突」は何を予兆しているのか? やがて「民衆の生活」そのものが総体として標的になるということだろう。「国民の生命と財産を守る」どころの話ではなく、それとは180度逆の事態が着実に進行しつつあることを軽視してはならない。
*新SM3は射程が伸びるため、ハワイやグアムを含む米国土に向かう弾道ミサイルの迎撃が想定されており、憲法が禁じる集団的自衛権の行使に踏み込むことが前提となっている。さらに日米の軍需産業は、共同生産した新SM3の輸出をにらみ、武器輸出禁止三原則の更なる破壊に向けた圧力を強めている。
加えて、日米軍事再編の進行の中で、あたごは米海軍との共同軍事作戦にのめり込む恐れが高い。その先にあるのは他国民の殺傷である。今ここで止めなければ、あたごは憲法9条をも「轟沈」するだろう。
〈コメント〉ミサイル主導型の9条改悪
「憲法9条の轟沈」とは、的を射た表現である。新型ミサイルの開発とその装備にともなって確実に平和憲法9条の空洞化あるいは改悪が元に引き返せない距離にまで進む危険が強まっている。これはミサイル主導型の9条改悪とでも表現できよう。突如退陣した安倍前首相が目指していた路線そのものの再現といえないか。
「世界の宝」と海外でも評価の高い9条を「轟沈」させてはならない。世界的な大損失となる。各々(おのおの)方、油断めさるな!
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
海上自衛隊のイージス艦が漁船に衝突し、漁師の父子2人が行方不明になった事件は大きな波紋が広がっている。父子は行方不明のままで地元の漁協など関係者は2月25日捜索を打ち切らざるを得なくなった。この機会に自衛隊は本当に「国民の生命と財産を守ること」を任務としているのか、を考えたい。さらに衝突事件を起こしたイージス艦「あたご」の防衛上の役割は何か。「あたご」は必要な兵器なのか。廃艦にすべし、という説も飛び出していることを紹介したい。(08年2月28日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
私(安原)はブログ「安原和雄の仏教経済塾」の掲載記事、「いのちの外国依存は危険だ! 食と安全保障の自立を求めて」(2月22日付)でつぎのように書いた。
今回の衝突事件で「国民の生命、財産を守るのが任務の自衛隊なのに、いったいどういうことか」という批判の声が高まっているが、それは自衛隊に対しては、期待はずれに終わるだろう。
もともと軍隊には「一人ひとりのいのちを守る」という意識は希薄である。軍事力、兵器なるものは本来そういう特質をもっていることを今回の痛ましい事故に学ぶ必要があるのではないか。
▽自衛隊の主たる任務は「国の安全」と「国の防衛」
上記の記事について以下のように補足しておきたい。
自衛隊法(自衛隊の任務などを定めた法律=2007年に最終改正)にはつぎのような趣旨の規定がある。
〈自衛隊の任務〉
*第3条=自衛隊はわが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
自衛隊は武力の行使に当たらない範囲でわが国周辺の地域におけるわが国の平和及び安全の確保に資する活動等を行う。
〈自衛隊の行動〉
*第76条(防衛出動)=内閣総理大臣は外部からの武力攻撃に際して、わが国を防衛するため自衛隊の出動を命ずることができる。
*第78条(命令による治安出動)=内閣総理大臣は間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の出動を命ずることができる。
*第82条〈海上における警備行動〉=海上における人命もしくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合には、(中略)必要な行動をとる。
*第83条〈災害派遣〉=都道府県知事は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため、部隊等の派遣を要請することができる。
以上から分かるように、自衛隊の主たる任務は「国の安全を保つのためのわが国の防衛」であり、そのための防衛出動である。
78条には治安出動の規定がある。この治安出動は、発動には至らなかったが、政府内で検討されたいきさつがある。それは岸内閣当時(1960年)、現在の日米安保条約の国会での強行採決に反対する国民的規模の反対抗議運動を治安維持の名目で抑圧しようというねらいを秘めていた。
「人命又は財産の保護」という文言は82条(海上での警備行動)、83条(災害派遣)などにみることができるが、これは自衛隊の主たる任務にはなっていない。
▽【声明】イージス艦あたごを廃艦に!
「みどりのテーブル」(環境政党をめざす組織で、昨年7月の参院選東京選挙区で当選した川田龍平氏を支援した)の情報交換MLで以下のような抗議声明文「イージス艦あたごを廃艦に!」を入手したので、その要旨を紹介する。発信者は 杉原浩司氏(核とミサイル防衛にNO!キャンペーン)で、あて先は石破茂防衛大臣、首相官邸、自民党、公明党などである。
【抗議声明】イージス艦なんていらない! 「あたご」を廃艦にせよ!
~イージス艦あたごの漁船衝突事件と防衛省の情報隠しに抗議する ~
(抗議文前半の漁船への衝突事件に関する部分は省略)
私たちは「そもそも日本にイージス艦は必要なのか」との根本的な問いを立てざるを得ない。排水量7750トンで国内最大の「護衛艦」であるあたごは、三菱重工長崎造船所で約1400億円もの巨費をかけて建造された。05年に進水、07年3月に就役し、「こんごう」型護衛艦4隻に次ぐ5隻目のイージス艦となった。最新イージスシステムを装備し、こんごう型以上の高度な防空戦闘能力を有するミサイル防衛(MD)対応艦である。
日米で共同開発中の次世代型SM3の対応艦として01年度の「中期防衛力整備計画」で取得が示され、02、03年度で費用計上されたあたご型護衛艦の一番艦であるあたごは、単なる5隻目のイージス艦ではなく、MDの柱の一つである次世代SM3配備を前提とした海自護衛艦隊の再編の要に位置するものといえよう。
そもそもMDは「スパイラル(らせん状)開発」の名で未完成兵器を配備し、更新し続ける「利権まみれの偽装兵器」に他ならない。07年12月、こんごうが「成功」させたとされるSM3による迎撃実験も、1発20億円、総経費60億円もの巨費をかけて、発射施設や飛翔コースが分かっている模擬弾に命中させたに過ぎない。2015年の配備が予定される新SM3の日本負担の共同開発費は、2014年までの9年間で10億~12億ドルに及ぶという。
また、新SM3は射程が伸びるため、ハワイやグアムを含む米国土に向かう弾道ミサイルの迎撃が想定されており、憲法が禁じる集団的自衛権の行使に踏み込むことが前提となっている。さらに日米の軍需産業は、共同生産した新SM3の輸出をにらみ、武器輸出禁止三原則の更なる破壊に向けた圧力を強めている。加えて、日米軍事再編の進行の中で、あたごは米海軍との共同軍事作戦にのめり込む恐れが高い。その先にあるのは他国民の殺傷である。私たちが未来を透視し、今ここで止めなければ、あたごは憲法9条をも「轟沈」するだろう。
莫大な税金を浪費して、先制攻撃を促進し、憲法や産業のあり方にも変更を迫る次世代型SM3。それを搭載するあたご型護衛艦隊。それらが、民衆の生活を脅かすものであることを、今回の「衝突」は予兆している。
防衛省・自衛隊は、今回の衝突事件を真摯に反省し、次世代型SM3の共同開発やその配備を前提とした護衛艦配備計画そのものを取り止めるべきである。軍産疑獄の帳本人である守屋前次官が主導したMD推進政策そのものも見直すべきである。さらに見逃せないのは、今回の事故を口実とした、背広・制服組の一体化を柱とする防衛省再編の企てである。3月にも設置される「法制検討チーム」(仮)は、海外派兵恒久法やサミット(7月の洞爺湖サミット)警備を口実とした「対テロ」軍事化をも協議するという。「盗人猛々しい」とはこの事である。「自動操舵」状態で軍備強化へと突き進む福田政権に対して、私たち自身が手動で強く、脱軍事化へと舵を切らなければならない。
私たちは福田政権および防衛省・自衛隊に対して、改めて以下を要求する。
1.重大事故と情報隠しの責任を取り、石破防衛大臣は辞任せよ。
防衛省・自衛隊は全ての情報を開示せよ。
2.イージス艦やMDは日本に必要なく税金の無駄。
MDから撤退し、違憲艦となる「あたご」をまず廃艦にせよ。
3.戦争できる自衛隊を目指す防衛省再編を中止せよ。
防衛省・自衛隊は解体に向けて縮小を。
2008年2月26日 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン
[連絡先](TEL・FAX)03-5711-6478
(E-mail)[email protected]
http://www.geocities.jp/nomd_campaign/
▽憲法9条の「轟沈」を目指すイージス艦
イージス艦(注)の兵器としての危険な役割に関する抗議文の要点は以下のようである。
(注)イージス艦とは
目標の捜索、探知、分類識別、攻撃までの一連の動作を高性能コンピューターによって自動的に処理するイージス(Aegis=盾)防空システムを備えた最新鋭の艦艇。レーダー、ミサイルと組み合わせて一体的に運用される。海上自衛隊は現在5隻のイージス艦を保有している。
*あたご型護衛艦の一番艦であるあたごは、単なる5隻目のイージス艦ではなく、MD(ミサイル防衛)の柱の一つである次世代SM3(最新の海上配備型迎撃ミサイル)配備を前提とした海自護衛艦隊の再編の要に位置する。
〈安原のコメント〉MDを口実にした護衛艦隊の質的変化
従来の「こんごう型」4隻のイージス艦とは異質のミサイルなどの性能を持つ最新鋭艦第1号だということ。目指すものは、MDを口実にした海上自衛隊護衛艦隊の質的変化だろう。
特記する必要があるのは、こうした計画的な質的変化はすべて政府の安全保障会議や閣議で決定し、それに基づいて進められていることである。自衛隊の制服組が独断で進めている話ではない。
*MDは、未完成兵器を配備し、更新し続ける「利権まみれの偽装兵器」に他ならない。2015年の配備が予定される新SM3の日本負担の共同開発費は、2014年までの9年間で10億~12億ドル(1100億円~1300億円)に及ぶ。
莫大な税金を浪費して、先制攻撃を促進し、憲法や産業のあり方にも変更を迫る次世代型SM3。それを搭載するあたご型護衛艦隊。それらが、民衆の生活を脅かすものであることを、今回の「衝突」は予兆している。
〈コメント〉やがて「民衆の生活」が標的に
「衝突」は何を予兆しているのか? やがて「民衆の生活」そのものが総体として標的になるということだろう。「国民の生命と財産を守る」どころの話ではなく、それとは180度逆の事態が着実に進行しつつあることを軽視してはならない。
*新SM3は射程が伸びるため、ハワイやグアムを含む米国土に向かう弾道ミサイルの迎撃が想定されており、憲法が禁じる集団的自衛権の行使に踏み込むことが前提となっている。さらに日米の軍需産業は、共同生産した新SM3の輸出をにらみ、武器輸出禁止三原則の更なる破壊に向けた圧力を強めている。
加えて、日米軍事再編の進行の中で、あたごは米海軍との共同軍事作戦にのめり込む恐れが高い。その先にあるのは他国民の殺傷である。今ここで止めなければ、あたごは憲法9条をも「轟沈」するだろう。
〈コメント〉ミサイル主導型の9条改悪
「憲法9条の轟沈」とは、的を射た表現である。新型ミサイルの開発とその装備にともなって確実に平和憲法9条の空洞化あるいは改悪が元に引き返せない距離にまで進む危険が強まっている。これはミサイル主導型の9条改悪とでも表現できよう。突如退陣した安倍前首相が目指していた路線そのものの再現といえないか。
「世界の宝」と海外でも評価の高い9条を「轟沈」させてはならない。世界的な大損失となる。各々(おのおの)方、油断めさるな!
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
食と安全保障の自立を求めて
安原和雄
中国製ギョーザによる中毒事件、沖縄での米兵による少女性暴行事件、そして海上自衛隊イージス艦が漁船に衝突し、漁師の父子2人が行方不明になった事件―大きな衝撃を与えたこの3つは、関連のない別々の事件のように見えるが、実は深部ではつながっている。その背景にある共通項は、何にもまして大切な日本人のいのちを外国に頼るという自立性を失った依存型政治経済構造である。
具体的には国民のいのちの源(みなもと)である食料の大半を外国からの輸入に依存し、同時にいのちの安全を米軍主導の日米安保体制に依存している。この歪(ゆが)められた危険な構造に着目し、食と安全保障の自立をどう実現していくのか、いいかえれば「いのちの安全保障」を国民の手に取り戻すことができるのか、を問う時である。(08年2月22日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽中国製ギョーザの中毒事件と毎日新聞「記者の目」
ギョーザの中毒事件に関連する記事では中村秀明記者(毎日新聞大阪経済部)の「記者の目」(08年2月14日付)が光っている。つぎのような見出しで書いている。その要旨を紹介しよう。
消費者は甘やかされる存在なのか
保護より自覚促すべきだ
生産者と連携し良品を
福田康夫首相が打ち出す「消費者行政の一元化」を具体的に検討する有識者会議が初会合を開いた。消費者行政を一本化するという。私は基本的な発想に疑問を感じる。いま必要なのは、消費者をますます無責任で無防備な存在にしてしまう「保護」ではなく、役割と影響力を「自覚」させることだ、と思うからだ。
80年代の半ば、「消費者ニーズ」という言葉が大手を振り始めると、おかしくなった。消費者は学ばなくなったし、買うという行為以外で働きかけなくなった。生産者の側に、ニーズをくみ取ることが求められ、できないのは努力が足りないとされたからだ。生産者はニーズを「安い」「便利」「手軽」に単純化し、消費者を「神様」「王様」とおだて、わがままを増長させた。
減反を進めてもコメが余り、食料自給率が40%を切った理由は、「日本人の食生活の変化」「経済の国際化」と言われる。
中国製ギョーザの農薬混入は怖い話だが、1500キロ離れた外国の工場で半年以上も前に製造され、冷凍保存した食品を口にすること自体、無理がすぎるというものだ。
福田首相は「生産者重視の行政を消費者重視に転換する」との主張を繰り返している。生産者とは大企業経営者か、それとも農家、漁師、近所の商店主、町工場の経営者なのか。彼等は敵なのだろうか。
むしろ今ほど、消費者と生産者とが手を結ぶことが求められている時代はない。
〈安原のコメント〉― 低すぎる日本の食料自給率
福田首相の「消費者行政の一元化、消費者重視への転換」という方針だけでは解決策にならないという「記者の目」の批判は当然として、特に注目すべき指摘はつぎの3点である。
*食料自給率が40%を切ったこと
*外国の工場で製造された食品を口にすること自体、無理すぎること
*消費者と生産者とが手を結ぶ必要があること
なかでも日本の食料自給率の低水準に着目したい。主要先進国の食料自給率(カロリーベース、2003年)をみよう。
高い順に並べると、オーストラリア237%、カナダ145%、アメリカ128%、フランス122%で、この4カ国は余剰食料の輸出国である。一方、自給率100%以下はスペイン89%、ドイツ、スウェーデン各84%、英国70%、イタリア62%、オランダ58%、スイス49%、日本39%(ただし2006年)で、これら諸国は不足食料の輸入国である。
それにしても日本の39%という低水準は異常である。このことは食料、つまりいのちの源の6割強を海外に依存しているわけで、日本は国民のいのちとその糧道を外国の手で抑えられていることを意味する。
▽米兵暴行事件に対する女性団体による抗議文
沖縄での米兵暴行事件(2月10日発生)に対する抗議の声は地方議会や市民平和団体などの間に広がりつつある。ここではその一つ、女性団体による以下のような抗議文(要旨)を紹介する。これは「みどりのテーブル」(環境政党を目指している組織で、昨年の参院選東京選挙区で当選した川田龍平氏を支援した)の情報交換ML(2月14日付)で入手した。一般のマスメディアには載っていない。
在沖米兵による女子中学生性暴力事件に抗議し■
公正な事件解決と根本的防止策を要求します。■
内閣総理大臣 福田康夫 様ほか
アメリカ合衆国大統領 ジョージ・W・ブッシュ 様ほか
私たちは、昨年の沖縄、広島における性暴力事件に続いて、2月10日、またもや米軍人による悪質な性暴力事件が繰り返されたことに、やりきれない怒りを覚えている。
もうたくさんである。これ以上、女性・少女の人権と地域の安全を無視したまま、日米軍事同盟を強化する在日米軍再編を私たちは容認できない。私たちは、再び被害を招いた日米両政府に抗議し、次の2点を要求する。
1.当事件の解決にあたっては、性暴力という犯罪の性質を適切に考慮しながら、 公正な捜査と処罰がなされることを確保すること。
適切な知識と経験をもつ専門家による暴力を受けた少女の心身のケアと、家族への適切なサポートがなされること、公正な捜査と加害者への厳重な処罰、被害者への真摯な謝罪と補償が行われること、また被害者のプライバシーに配慮しつつ、透明性と説明責任が確保されることを求める。
2.基地周辺における性犯罪その他の暴力を防止するために必要なあらゆる措置を、地域政府・住民・女性団体・市民団体との協議の上でとること。
高村外務大臣は、今回の事件について「国民感情からみて、日米同盟に決してよいことではないので、影響をできるだけ小さく抑えるようにしたい」と、なお女性の人権よりも日米軍事同盟を優先する発言を行っている。しかし、軍事同盟こそが女性の安全を危うくしている。私たちは、日本政府が今後の再発防止のために、日米地位協定(注・安原)の再交渉や行動計画策定を含め、必要なあらゆる措置をとること、基地周辺地域の自治体・住民、および市民団体や女性団体と十分な協議を行うことを要求する。
〈よびかけ団体〉
アジア女性資料センター(TEL:03-3780-5245 FAX:03-3463-9752)
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
ふぇみん婦人民主クラブ
(注・安原)日米地位協定は日米安全保障条約第6条(基地の許与)に基づき、米軍が使用する日本国内での施設、区域並びに日本における米軍の地位に関する協定。在日米軍は現在約3万7000人。面積では日本の0.6%にすぎない沖縄に米軍施設(=米軍基地)の70%以上が密集している。米兵の犯罪容疑者の身柄拘束は、この日米地位協定によって米側に有利に運ばれるケースが多い。1995年の沖縄での米海兵隊員による小学生少女への暴行事件では8万5000人の県民抗議総決起大会が開かれ、日米軍事同盟批判の動きが盛り上がった。
なお米軍基地で働く日本人の給料や米軍人の住宅建築費など本来米国が負担すべきものを日本が代わって負担する「思いやり予算」があり、08年度には約2080億円計上している。
〈安原のコメント〉― 軍事同盟こそが安全を危うくする
上記抗議文の中で「女性・少女の人権と地域の安全を無視したまま、日米軍事同盟を強化する在日米軍再編は容認できない」、「軍事同盟こそが女性の安全を危うくしている」 ― と軍事同盟に言及した文言に注目したい。今回は少女に対する暴行事件であるため、「女性や少女」に限定した表現になっているのはやむを得ないとしても、正しくは、つぎのような趣旨に言い直すべきではないだろうか。
「軍事同盟こそが人権、特に女性の人権を無視し、広く人間の尊厳を損ない、地域、日本さらに世界の安全をも危うくしている。このような日米軍事同盟を強化する在日米軍再編は容認できない」と。
後を絶たない米兵の犯罪の根因は軍事同盟そのものにあり、「綱紀粛正」、「再発防止」(高村正彦外相の発言)などという小手先の対応策が有効とは考えられない。
▽海上自衛隊イージス艦の衝突で漁船の父子が行方不明
2月19日未明、千葉県南房総市沖合の太平洋で海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」(注)が漁船と衝突し、漁師の父子2人が行方不明となった。22日現在、行方不明のままである。自衛艦が引き起こした民間船の大破・沈没事故は、潜水艦「なだしお」の衝突で遊漁船の釣り客ら30人が犠牲になった大惨事(88年7月)以来である。
(注)海上自衛隊で5隻目の最新鋭のイージス艦で、米国で開発された。イージスとはギリシャ神話に出てくる「万能の盾」のこと。高性能レーダーを装備、敵の航空機やミサイルをを探知し、同時に10個以上の目標を迎撃できる機能を備えているとされる。ヘリコプター1機を搭載できる。調達価格は1400億円。
大手6紙の社説(2月20日付)はこの事件をどう論じたかをみよう。見出しを紹介する。
読売新聞=漁船との衝突も回避できぬとは
朝日新聞=イージス衝突 なぜ避けられなかったか
毎日新聞=イージス艦衝突 どこを見張っていたのか
日経新聞=「なだしお」の反省はどこへ
産経新聞=イージス艦衝突 海自は緊張感欠いている
東京新聞=イージス艦 あってはならぬ事故だ
以上のように一様に批判的だが、ここでは毎日新聞社説のつぎの指摘に注目したい。
それにしても、数百キロも離れた複数の空中標的を同時に探知、追跡できる高性能レーダーと情報処理能力を備えたイージス艦が、なぜ目の前の漁船と衝突するような初歩的な事故を起こしてしまったのか、疑問はつきない。
海自によると、イージス艦の高性能レーダーは対空専用のため、周辺海域に対しては他の艦船と同様の水上レーダーを使用していて、小さな漁船だと捕捉できないこともある―と。
〈安原のコメント〉― いのちを守るための「最新鋭」ではない
毎日社説のこの指摘は今回の事故の核心の一つを衝いている。最新鋭イージス艦の高性能レーダーは敵機やミサイルなどに対する防空専用だという点を見逃してはならない。有り体にいえば、海上を走る小さな漁船はイージス艦としては眼中にないということだろう。
「最新鋭」とは、戦争のための兵器として最新鋭 ― もっとも実戦でどの程度有効なのかは、実戦経験はないのだから不明だが ―なのであり、国民一人ひとりのいのちを守るうえで最新鋭の能力があるのではない。今回の衝突事件で「国民の生命、財産を守るのが任務の自衛隊なのに、いったいどういうことか」という批判の声が高まっているが、それは自衛隊に対しては、期待はずれに終わるだろう。
もともと軍隊には「一人ひとりのいのちを守る」という意識は希薄である。軍事力、兵器なるものは本来そういう特質をもっていることを今回の痛ましい事故に学ぶ必要があるのではないか。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(1)― 自給率向上と「食の自立」
相前後して発生した3つの事件が投げかけたテーマは「いのちの安全保障」を国民の手に取り戻すために何ができるか、であると考える。私は数年来、従来の「軍事力中心の安全保障」に代わる「いのちの安全保障」という新しい安全保障観を唱えてきた。その一つの柱として「食の自立」を挙げたい。「食」すなわち「いのちの源」の海外への依存度を大幅に削減する「食の自立」であり、そのための自給率向上が必要である。
農水省の発表(2月15日)によると、国内の製粉会社に売り渡す輸入小麦(主要5銘柄)の価格を4月に一律30%引き上げる。国際価格の高騰を背景に平均輸入価格が大幅に上昇したためで、小麦粉、パン、めん類、ビスケットなど小麦を使用した製品の値上げに波及するのは必至の情勢である。
輸入食料は国産物よりも割安が利点とされてきたが、輸入品の値上げで、その利点も薄らいでくる。地球温暖化などを背景に食料不足が世界規模で生じる懸念も高まっており、食料自給率が異常な低水準に落ち込んでいるうえに、世界最大の食料輸入国でもある日本が一番大きな打撃を受ける。
食料自給率の低水準は、自然現象ではない。「割安の食料を海外から輸入するのは当然」という歴代保守政権の安易な食料輸入自由化政策とそれを合理化してきた現代経済学者たちによる人為的な政策結果であり、その責任が問われることにもなるだろう。
食の自立のためには何が求められるのか。庶民の智恵に学ぶときである。
毎日新聞(08年2月15日付)は「便利の落とし穴 中国製ギョーザの警告」、「日本の食に危機感」と題する「読者の反響特集」を組んだ。その一つ、「安さ追求改めよう」と題する投書(福岡市、57歳の女性)の趣旨を紹介しよう。この投書は以下のように今後の望ましい食の自立のあり方を提案している。
私は今は冷凍食品の利用は皆無で、自分で調理したものを食べるのが一番落ち着き、満足する。一円でも安い物に走るという態度も、考え直すべき時が来ていると思う。
〈私が掲げる理想〉
*国民が食べる食料は自国で作る
*地産地消を推進する
*料理に手間を掛けることを良しとする
*安全な食品には相応の代価を払う
投書が唱えている国内産を第一とする地産地消(生産者と消費者とが連携し、地域で生産した食をできるだけその地域で消費すること)をさらにどう広げるか、が大きな課題として浮上してきた。ただ「偽」ばやりの日本であり、国産なら万全というわけではない。とはいえ食の生産者 ― いのちの源の生産者という自覚を持つこと ― と、食の消費者 ― 動植物のいのちをいただいて自らのいのちを持続していることに感謝の心を抱くこと ― とが手を結び合い、再出発するときであろう。
これは「いのちの連携」を旗印とする食と農業の新たな門出を意味する。さらにいま勢い盛んなグローバリゼーション(地球規模化)からローカリゼーション(地域重視)への転換を目指す試みでもあることを指摘したい。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(2)― 非武装へ、さらに米軍基地撤去を
「いのちの安全保障」という新しい安全保障観の一つの柱が上述の「食の自立」であり、もう一つが日本非武装のすすめ、米軍基地の撤去である。そのためには日米安保体制(=日米軍事同盟)の破棄、すなわち日米安保からの自立を中長期的展望に収める必要がある。
こういう構想には平和憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の改悪を目指すグループあるいは「日米安保=軍事同盟」至上主義者たちが拒絶反応を示すだろうことは十分承知している。しかしつぎの理由から従来の「軍事力中心の安全保障」観はすでに有効性を失っており、時代感覚からずれていると考える。そのうえ現在進行中の以下のような軍事優先の展開に「いのちを守る」という視点はどこにもうかがえない。
*米国主導のイラク侵略・攻撃・占領の挫折からも分かるように軍事力は解決能力を失っているだけではなく、世界を混乱、殺戮、破壊に追い込んでいる。
*軍備増強と軍事力行使は巨大な税金や資源エネルギーの浪費であり、地球環境の悪化を招く。しかも米国型軍産複合体にとって莫大な利益の源泉になっており、その一方で貧富の格差を広げ、いのち・人権を無視し、国民の間に大きな亀裂を生んでいる。
*日米安保体制(=軍事同盟)は日本を守るためではなく、むしろ米国の先制攻撃戦争の出撃拠点であり、その中心的役割を担っているのが沖縄米軍基地である。
*在日米軍の再編成、米日軍事の一体化の進展とともに自衛隊は米軍を補完する性格を強めている。同時に日米安保は従来の「周辺事態」にとどまらず、「世界の安保」へと地球規模に行動範囲を広げつつある。その口実が「弾道ミサイル防衛=MD」、「対テロ戦争」であり、その重要な役割を担っているのが海上自衛隊のイージス艦である。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(3)― カントの平和論に学ぶこと
ドイツの哲学者カント(1724~1804年)の著作『永遠平和のために』(綜合社から07年に新訳が出版された)が最近話題を集めており、そこに学ぶことは多い。この著作最大の眼目は「常備軍はいずれ、いっさい全廃されるべきだ」という主張にある。カントはその理由をつぎのように書いている。
「常備軍はつねに武装して出撃する準備をととのえており、それによってたえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国も限りなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには(中略)常備軍そのものが先制攻撃を仕掛ける原因となってしまう」と。
これは先制攻撃論に立つ米国の現ブッシュ政権そのものの姿とはいえないか。日本は米軍への基地許与によって米国流の先制攻撃体制に組み込まれている限り、いのちも人権も平和も守ることはできない。先制攻撃のための日米安保体制と米軍基地そのものを日本列島上に許容する理由はもはやないとみるべきだろう。
だからといって日本が独自の核武装を含む強大な軍事力を保有するという「悪しき自立」の選択は間違っている。これは世界の中で孤立する道であり、それとは逆にむしろ非武装によって平和憲法9条の理念、「軍備及び交戦権の否認」を生かし、日米安保破棄と米軍基地撤去による自立への選択こそ望ましい。「憲法9条は世界の宝」という声が世界に広がりつつあることを認識する時である。
軍隊を廃止し、国内では環境保全に熱心で、しかも平和・人権尊重の教育に徹し、対外的には積極的な平和外交を展開し、「子供たちは戦闘機も戦車もみたことがない」ことを誇りとしている中米の小国コスタリカの非武装・中立路線に大いに学ぶときである。コスタリカの軍隊廃止は、カントの常備軍廃止論と日本国憲法9条の理念の実践である。この小国は世界の最先端を堂々と闊歩している。
これに比べると、軍事力に執着し、いのちや人権を踏み潰しながら、暴走を繰り返す大国、米日(経済規模では米国が世界第1位、日本第2位)の姿は醜悪でさえある。
〈参考資料〉
・「常備軍は廃止されるべきだ! カントの平和論を今読み解く」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2007年12月6日付で掲載)
・安原和雄「〈いのちの安全保障〉を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、06年1月刊)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
中国製ギョーザによる中毒事件、沖縄での米兵による少女性暴行事件、そして海上自衛隊イージス艦が漁船に衝突し、漁師の父子2人が行方不明になった事件―大きな衝撃を与えたこの3つは、関連のない別々の事件のように見えるが、実は深部ではつながっている。その背景にある共通項は、何にもまして大切な日本人のいのちを外国に頼るという自立性を失った依存型政治経済構造である。
具体的には国民のいのちの源(みなもと)である食料の大半を外国からの輸入に依存し、同時にいのちの安全を米軍主導の日米安保体制に依存している。この歪(ゆが)められた危険な構造に着目し、食と安全保障の自立をどう実現していくのか、いいかえれば「いのちの安全保障」を国民の手に取り戻すことができるのか、を問う時である。(08年2月22日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽中国製ギョーザの中毒事件と毎日新聞「記者の目」
ギョーザの中毒事件に関連する記事では中村秀明記者(毎日新聞大阪経済部)の「記者の目」(08年2月14日付)が光っている。つぎのような見出しで書いている。その要旨を紹介しよう。
消費者は甘やかされる存在なのか
保護より自覚促すべきだ
生産者と連携し良品を
福田康夫首相が打ち出す「消費者行政の一元化」を具体的に検討する有識者会議が初会合を開いた。消費者行政を一本化するという。私は基本的な発想に疑問を感じる。いま必要なのは、消費者をますます無責任で無防備な存在にしてしまう「保護」ではなく、役割と影響力を「自覚」させることだ、と思うからだ。
80年代の半ば、「消費者ニーズ」という言葉が大手を振り始めると、おかしくなった。消費者は学ばなくなったし、買うという行為以外で働きかけなくなった。生産者の側に、ニーズをくみ取ることが求められ、できないのは努力が足りないとされたからだ。生産者はニーズを「安い」「便利」「手軽」に単純化し、消費者を「神様」「王様」とおだて、わがままを増長させた。
減反を進めてもコメが余り、食料自給率が40%を切った理由は、「日本人の食生活の変化」「経済の国際化」と言われる。
中国製ギョーザの農薬混入は怖い話だが、1500キロ離れた外国の工場で半年以上も前に製造され、冷凍保存した食品を口にすること自体、無理がすぎるというものだ。
福田首相は「生産者重視の行政を消費者重視に転換する」との主張を繰り返している。生産者とは大企業経営者か、それとも農家、漁師、近所の商店主、町工場の経営者なのか。彼等は敵なのだろうか。
むしろ今ほど、消費者と生産者とが手を結ぶことが求められている時代はない。
〈安原のコメント〉― 低すぎる日本の食料自給率
福田首相の「消費者行政の一元化、消費者重視への転換」という方針だけでは解決策にならないという「記者の目」の批判は当然として、特に注目すべき指摘はつぎの3点である。
*食料自給率が40%を切ったこと
*外国の工場で製造された食品を口にすること自体、無理すぎること
*消費者と生産者とが手を結ぶ必要があること
なかでも日本の食料自給率の低水準に着目したい。主要先進国の食料自給率(カロリーベース、2003年)をみよう。
高い順に並べると、オーストラリア237%、カナダ145%、アメリカ128%、フランス122%で、この4カ国は余剰食料の輸出国である。一方、自給率100%以下はスペイン89%、ドイツ、スウェーデン各84%、英国70%、イタリア62%、オランダ58%、スイス49%、日本39%(ただし2006年)で、これら諸国は不足食料の輸入国である。
それにしても日本の39%という低水準は異常である。このことは食料、つまりいのちの源の6割強を海外に依存しているわけで、日本は国民のいのちとその糧道を外国の手で抑えられていることを意味する。
▽米兵暴行事件に対する女性団体による抗議文
沖縄での米兵暴行事件(2月10日発生)に対する抗議の声は地方議会や市民平和団体などの間に広がりつつある。ここではその一つ、女性団体による以下のような抗議文(要旨)を紹介する。これは「みどりのテーブル」(環境政党を目指している組織で、昨年の参院選東京選挙区で当選した川田龍平氏を支援した)の情報交換ML(2月14日付)で入手した。一般のマスメディアには載っていない。
在沖米兵による女子中学生性暴力事件に抗議し■
公正な事件解決と根本的防止策を要求します。■
内閣総理大臣 福田康夫 様ほか
アメリカ合衆国大統領 ジョージ・W・ブッシュ 様ほか
私たちは、昨年の沖縄、広島における性暴力事件に続いて、2月10日、またもや米軍人による悪質な性暴力事件が繰り返されたことに、やりきれない怒りを覚えている。
もうたくさんである。これ以上、女性・少女の人権と地域の安全を無視したまま、日米軍事同盟を強化する在日米軍再編を私たちは容認できない。私たちは、再び被害を招いた日米両政府に抗議し、次の2点を要求する。
1.当事件の解決にあたっては、性暴力という犯罪の性質を適切に考慮しながら、 公正な捜査と処罰がなされることを確保すること。
適切な知識と経験をもつ専門家による暴力を受けた少女の心身のケアと、家族への適切なサポートがなされること、公正な捜査と加害者への厳重な処罰、被害者への真摯な謝罪と補償が行われること、また被害者のプライバシーに配慮しつつ、透明性と説明責任が確保されることを求める。
2.基地周辺における性犯罪その他の暴力を防止するために必要なあらゆる措置を、地域政府・住民・女性団体・市民団体との協議の上でとること。
高村外務大臣は、今回の事件について「国民感情からみて、日米同盟に決してよいことではないので、影響をできるだけ小さく抑えるようにしたい」と、なお女性の人権よりも日米軍事同盟を優先する発言を行っている。しかし、軍事同盟こそが女性の安全を危うくしている。私たちは、日本政府が今後の再発防止のために、日米地位協定(注・安原)の再交渉や行動計画策定を含め、必要なあらゆる措置をとること、基地周辺地域の自治体・住民、および市民団体や女性団体と十分な協議を行うことを要求する。
〈よびかけ団体〉
アジア女性資料センター(TEL:03-3780-5245 FAX:03-3463-9752)
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
ふぇみん婦人民主クラブ
(注・安原)日米地位協定は日米安全保障条約第6条(基地の許与)に基づき、米軍が使用する日本国内での施設、区域並びに日本における米軍の地位に関する協定。在日米軍は現在約3万7000人。面積では日本の0.6%にすぎない沖縄に米軍施設(=米軍基地)の70%以上が密集している。米兵の犯罪容疑者の身柄拘束は、この日米地位協定によって米側に有利に運ばれるケースが多い。1995年の沖縄での米海兵隊員による小学生少女への暴行事件では8万5000人の県民抗議総決起大会が開かれ、日米軍事同盟批判の動きが盛り上がった。
なお米軍基地で働く日本人の給料や米軍人の住宅建築費など本来米国が負担すべきものを日本が代わって負担する「思いやり予算」があり、08年度には約2080億円計上している。
〈安原のコメント〉― 軍事同盟こそが安全を危うくする
上記抗議文の中で「女性・少女の人権と地域の安全を無視したまま、日米軍事同盟を強化する在日米軍再編は容認できない」、「軍事同盟こそが女性の安全を危うくしている」 ― と軍事同盟に言及した文言に注目したい。今回は少女に対する暴行事件であるため、「女性や少女」に限定した表現になっているのはやむを得ないとしても、正しくは、つぎのような趣旨に言い直すべきではないだろうか。
「軍事同盟こそが人権、特に女性の人権を無視し、広く人間の尊厳を損ない、地域、日本さらに世界の安全をも危うくしている。このような日米軍事同盟を強化する在日米軍再編は容認できない」と。
後を絶たない米兵の犯罪の根因は軍事同盟そのものにあり、「綱紀粛正」、「再発防止」(高村正彦外相の発言)などという小手先の対応策が有効とは考えられない。
▽海上自衛隊イージス艦の衝突で漁船の父子が行方不明
2月19日未明、千葉県南房総市沖合の太平洋で海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」(注)が漁船と衝突し、漁師の父子2人が行方不明となった。22日現在、行方不明のままである。自衛艦が引き起こした民間船の大破・沈没事故は、潜水艦「なだしお」の衝突で遊漁船の釣り客ら30人が犠牲になった大惨事(88年7月)以来である。
(注)海上自衛隊で5隻目の最新鋭のイージス艦で、米国で開発された。イージスとはギリシャ神話に出てくる「万能の盾」のこと。高性能レーダーを装備、敵の航空機やミサイルをを探知し、同時に10個以上の目標を迎撃できる機能を備えているとされる。ヘリコプター1機を搭載できる。調達価格は1400億円。
大手6紙の社説(2月20日付)はこの事件をどう論じたかをみよう。見出しを紹介する。
読売新聞=漁船との衝突も回避できぬとは
朝日新聞=イージス衝突 なぜ避けられなかったか
毎日新聞=イージス艦衝突 どこを見張っていたのか
日経新聞=「なだしお」の反省はどこへ
産経新聞=イージス艦衝突 海自は緊張感欠いている
東京新聞=イージス艦 あってはならぬ事故だ
以上のように一様に批判的だが、ここでは毎日新聞社説のつぎの指摘に注目したい。
それにしても、数百キロも離れた複数の空中標的を同時に探知、追跡できる高性能レーダーと情報処理能力を備えたイージス艦が、なぜ目の前の漁船と衝突するような初歩的な事故を起こしてしまったのか、疑問はつきない。
海自によると、イージス艦の高性能レーダーは対空専用のため、周辺海域に対しては他の艦船と同様の水上レーダーを使用していて、小さな漁船だと捕捉できないこともある―と。
〈安原のコメント〉― いのちを守るための「最新鋭」ではない
毎日社説のこの指摘は今回の事故の核心の一つを衝いている。最新鋭イージス艦の高性能レーダーは敵機やミサイルなどに対する防空専用だという点を見逃してはならない。有り体にいえば、海上を走る小さな漁船はイージス艦としては眼中にないということだろう。
「最新鋭」とは、戦争のための兵器として最新鋭 ― もっとも実戦でどの程度有効なのかは、実戦経験はないのだから不明だが ―なのであり、国民一人ひとりのいのちを守るうえで最新鋭の能力があるのではない。今回の衝突事件で「国民の生命、財産を守るのが任務の自衛隊なのに、いったいどういうことか」という批判の声が高まっているが、それは自衛隊に対しては、期待はずれに終わるだろう。
もともと軍隊には「一人ひとりのいのちを守る」という意識は希薄である。軍事力、兵器なるものは本来そういう特質をもっていることを今回の痛ましい事故に学ぶ必要があるのではないか。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(1)― 自給率向上と「食の自立」
相前後して発生した3つの事件が投げかけたテーマは「いのちの安全保障」を国民の手に取り戻すために何ができるか、であると考える。私は数年来、従来の「軍事力中心の安全保障」に代わる「いのちの安全保障」という新しい安全保障観を唱えてきた。その一つの柱として「食の自立」を挙げたい。「食」すなわち「いのちの源」の海外への依存度を大幅に削減する「食の自立」であり、そのための自給率向上が必要である。
農水省の発表(2月15日)によると、国内の製粉会社に売り渡す輸入小麦(主要5銘柄)の価格を4月に一律30%引き上げる。国際価格の高騰を背景に平均輸入価格が大幅に上昇したためで、小麦粉、パン、めん類、ビスケットなど小麦を使用した製品の値上げに波及するのは必至の情勢である。
輸入食料は国産物よりも割安が利点とされてきたが、輸入品の値上げで、その利点も薄らいでくる。地球温暖化などを背景に食料不足が世界規模で生じる懸念も高まっており、食料自給率が異常な低水準に落ち込んでいるうえに、世界最大の食料輸入国でもある日本が一番大きな打撃を受ける。
食料自給率の低水準は、自然現象ではない。「割安の食料を海外から輸入するのは当然」という歴代保守政権の安易な食料輸入自由化政策とそれを合理化してきた現代経済学者たちによる人為的な政策結果であり、その責任が問われることにもなるだろう。
食の自立のためには何が求められるのか。庶民の智恵に学ぶときである。
毎日新聞(08年2月15日付)は「便利の落とし穴 中国製ギョーザの警告」、「日本の食に危機感」と題する「読者の反響特集」を組んだ。その一つ、「安さ追求改めよう」と題する投書(福岡市、57歳の女性)の趣旨を紹介しよう。この投書は以下のように今後の望ましい食の自立のあり方を提案している。
私は今は冷凍食品の利用は皆無で、自分で調理したものを食べるのが一番落ち着き、満足する。一円でも安い物に走るという態度も、考え直すべき時が来ていると思う。
〈私が掲げる理想〉
*国民が食べる食料は自国で作る
*地産地消を推進する
*料理に手間を掛けることを良しとする
*安全な食品には相応の代価を払う
投書が唱えている国内産を第一とする地産地消(生産者と消費者とが連携し、地域で生産した食をできるだけその地域で消費すること)をさらにどう広げるか、が大きな課題として浮上してきた。ただ「偽」ばやりの日本であり、国産なら万全というわけではない。とはいえ食の生産者 ― いのちの源の生産者という自覚を持つこと ― と、食の消費者 ― 動植物のいのちをいただいて自らのいのちを持続していることに感謝の心を抱くこと ― とが手を結び合い、再出発するときであろう。
これは「いのちの連携」を旗印とする食と農業の新たな門出を意味する。さらにいま勢い盛んなグローバリゼーション(地球規模化)からローカリゼーション(地域重視)への転換を目指す試みでもあることを指摘したい。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(2)― 非武装へ、さらに米軍基地撤去を
「いのちの安全保障」という新しい安全保障観の一つの柱が上述の「食の自立」であり、もう一つが日本非武装のすすめ、米軍基地の撤去である。そのためには日米安保体制(=日米軍事同盟)の破棄、すなわち日米安保からの自立を中長期的展望に収める必要がある。
こういう構想には平和憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の改悪を目指すグループあるいは「日米安保=軍事同盟」至上主義者たちが拒絶反応を示すだろうことは十分承知している。しかしつぎの理由から従来の「軍事力中心の安全保障」観はすでに有効性を失っており、時代感覚からずれていると考える。そのうえ現在進行中の以下のような軍事優先の展開に「いのちを守る」という視点はどこにもうかがえない。
*米国主導のイラク侵略・攻撃・占領の挫折からも分かるように軍事力は解決能力を失っているだけではなく、世界を混乱、殺戮、破壊に追い込んでいる。
*軍備増強と軍事力行使は巨大な税金や資源エネルギーの浪費であり、地球環境の悪化を招く。しかも米国型軍産複合体にとって莫大な利益の源泉になっており、その一方で貧富の格差を広げ、いのち・人権を無視し、国民の間に大きな亀裂を生んでいる。
*日米安保体制(=軍事同盟)は日本を守るためではなく、むしろ米国の先制攻撃戦争の出撃拠点であり、その中心的役割を担っているのが沖縄米軍基地である。
*在日米軍の再編成、米日軍事の一体化の進展とともに自衛隊は米軍を補完する性格を強めている。同時に日米安保は従来の「周辺事態」にとどまらず、「世界の安保」へと地球規模に行動範囲を広げつつある。その口実が「弾道ミサイル防衛=MD」、「対テロ戦争」であり、その重要な役割を担っているのが海上自衛隊のイージス艦である。
▽「いのちの安全保障」を国民の手に(3)― カントの平和論に学ぶこと
ドイツの哲学者カント(1724~1804年)の著作『永遠平和のために』(綜合社から07年に新訳が出版された)が最近話題を集めており、そこに学ぶことは多い。この著作最大の眼目は「常備軍はいずれ、いっさい全廃されるべきだ」という主張にある。カントはその理由をつぎのように書いている。
「常備軍はつねに武装して出撃する準備をととのえており、それによってたえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国も限りなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには(中略)常備軍そのものが先制攻撃を仕掛ける原因となってしまう」と。
これは先制攻撃論に立つ米国の現ブッシュ政権そのものの姿とはいえないか。日本は米軍への基地許与によって米国流の先制攻撃体制に組み込まれている限り、いのちも人権も平和も守ることはできない。先制攻撃のための日米安保体制と米軍基地そのものを日本列島上に許容する理由はもはやないとみるべきだろう。
だからといって日本が独自の核武装を含む強大な軍事力を保有するという「悪しき自立」の選択は間違っている。これは世界の中で孤立する道であり、それとは逆にむしろ非武装によって平和憲法9条の理念、「軍備及び交戦権の否認」を生かし、日米安保破棄と米軍基地撤去による自立への選択こそ望ましい。「憲法9条は世界の宝」という声が世界に広がりつつあることを認識する時である。
軍隊を廃止し、国内では環境保全に熱心で、しかも平和・人権尊重の教育に徹し、対外的には積極的な平和外交を展開し、「子供たちは戦闘機も戦車もみたことがない」ことを誇りとしている中米の小国コスタリカの非武装・中立路線に大いに学ぶときである。コスタリカの軍隊廃止は、カントの常備軍廃止論と日本国憲法9条の理念の実践である。この小国は世界の最先端を堂々と闊歩している。
これに比べると、軍事力に執着し、いのちや人権を踏み潰しながら、暴走を繰り返す大国、米日(経済規模では米国が世界第1位、日本第2位)の姿は醜悪でさえある。
〈参考資料〉
・「常備軍は廃止されるべきだ! カントの平和論を今読み解く」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2007年12月6日付で掲載)
・安原和雄「〈いのちの安全保障〉を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、06年1月刊)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
百歳近いご老体の人生に学ぶ
安原和雄
近隣の寿司屋さんで貰った「人の世は山坂多い旅の道」と題する一枚の文面を紹介しよう。あの世から迎えが来たら、「まだまだ早い」などと答えてみてはどうか、という含蓄に富んだ文言が並んでいる。これは長生きのすすめである。誰しも長生きは望むところだが、問題は我が人生をどう生きるかである。百歳近いご老体の「平和の道」を求める人生行脚に学びたい。(08年2月15日掲載、同月16日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽人の世は山坂の多い旅の道 ― その年齢(とし)にお迎えが来たら
還暦(かんれき=六十 歳) とんでもないと突っ放せ
古稀(こき =七十 歳) まだまだ早いと追い返せ
喜寿(きじゅ =七十七歳) せくな老楽(おいらく)はこれからよ
傘寿(さんじゅ =八十 歳) なんのまだまだ役に立つ
米寿(べいじゅ =八十八歳) もう少しお米(こめ)を食べてから
卒寿(そつじゅ =九十 歳) 年齢(とし)に卒業はないはずよ
白寿(はくじゅ =九十九歳) 百歳のお祝いが済むまでは
茶寿(ちゃじゅ =百八 歳) まだまだお茶が飲み足らん
皇寿(こうじゅ =百十一歳) そろそろゆずろうか日本一
口に出すか出さないかはともかく、長生きは誰しも望むところであるが、こればかりは思い通りにはならない。仏教でいう四苦はご存じの「生老病死」である。この四苦の「苦」は、苦しみ、というよりも「思い通りにならないこと」、いいかえれば「自己管理下に置くことはできない」と理解すれば、分かりいい。
この世に生をうけたのも、自分の意志とは関係ない。「生まれたいと望んで生まれてきた」といえる人がいたら、お目にかかりたいものである。
老いも、いくらイヤだと思っても加齢とともに避けがたい。病気もそうである。病気になりたくないと頑張ってみても、病は向こうからやってくる。もっとも昨今、この人は病気になりたいと思って生活しているのかな、と首をかしげたくなるような暮らし方をしている人が増えているという印象はある。
まして死は、いくら巨万の富を積み上げても、また権力者として振る舞っていても、無情にもある日突然襲いかかってくる。
▽哲学者カントの平和論に学んで
死は万人にとって避けられないからこそ、少しでも寿命を延ばして生きてみたいと想うのは人情というものであろう。問題は、人生をどう生きるかである。
私(安原)が注目しているのは、日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)の生き方である。100歳近い高齢で、なお元気であり、しかも平和を求めて尽力されていることには敬意を表したい。
日野原さんは朝日新聞(08年2月9日付)に「96歳・私の証 あるがまゝ行く 哲学者カントの平和論」というタイトルの一文を寄せている。その要旨を以下に紹介する。
ドイツの哲学者カント(1724~1804)の論文『永遠平和のために』(綜合社)の新訳本を読んでみました。
いかなる国も、よその国の体制や政治に武力でもって干渉してはならない。内部紛争がまだ決着していないのに、よそから干渉するのは、国家の権利を侵害している―。
彼の主張は今日の米国と中東諸国の間に見られる難問を解く鍵にもなりそうな内容でした。
武器に頼らなくても話し合いによる妥協の道があるのに、人はどうして戦争を仕掛けるのか。暴力を受けた側は受けた傷の何倍もの反撃をすることで、テロや戦争は100年戦争にもなりうるのです。
私も医師として晩年を迎え、最後に進むべき道は医学を越えて平和の道の先頭を切って行動することだと思っています。団塊の層を含む高齢者が次の時代の平和を作る主力となる子どもたちに平和のエッセンスを教えるべきだということを、改めてカントに学んだ気がします。
このように日野原さんは白寿(九十九歳)に近いご老体で、「世のため、人のため」に、つまり利他主義の実践に精進を続けている。凡人にはなかなか真似のできることではないが、生き長らえることができれば、こうありたいと願わずにはいられない。
(ご参考)カントの平和論については、このブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年12月6日付で「常備軍は廃止されるべきだ! カントの平和論を今読み解く」と題して掲載してある。
(寸評大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
近隣の寿司屋さんで貰った「人の世は山坂多い旅の道」と題する一枚の文面を紹介しよう。あの世から迎えが来たら、「まだまだ早い」などと答えてみてはどうか、という含蓄に富んだ文言が並んでいる。これは長生きのすすめである。誰しも長生きは望むところだが、問題は我が人生をどう生きるかである。百歳近いご老体の「平和の道」を求める人生行脚に学びたい。(08年2月15日掲載、同月16日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽人の世は山坂の多い旅の道 ― その年齢(とし)にお迎えが来たら
還暦(かんれき=六十 歳) とんでもないと突っ放せ
古稀(こき =七十 歳) まだまだ早いと追い返せ
喜寿(きじゅ =七十七歳) せくな老楽(おいらく)はこれからよ
傘寿(さんじゅ =八十 歳) なんのまだまだ役に立つ
米寿(べいじゅ =八十八歳) もう少しお米(こめ)を食べてから
卒寿(そつじゅ =九十 歳) 年齢(とし)に卒業はないはずよ
白寿(はくじゅ =九十九歳) 百歳のお祝いが済むまでは
茶寿(ちゃじゅ =百八 歳) まだまだお茶が飲み足らん
皇寿(こうじゅ =百十一歳) そろそろゆずろうか日本一
口に出すか出さないかはともかく、長生きは誰しも望むところであるが、こればかりは思い通りにはならない。仏教でいう四苦はご存じの「生老病死」である。この四苦の「苦」は、苦しみ、というよりも「思い通りにならないこと」、いいかえれば「自己管理下に置くことはできない」と理解すれば、分かりいい。
この世に生をうけたのも、自分の意志とは関係ない。「生まれたいと望んで生まれてきた」といえる人がいたら、お目にかかりたいものである。
老いも、いくらイヤだと思っても加齢とともに避けがたい。病気もそうである。病気になりたくないと頑張ってみても、病は向こうからやってくる。もっとも昨今、この人は病気になりたいと思って生活しているのかな、と首をかしげたくなるような暮らし方をしている人が増えているという印象はある。
まして死は、いくら巨万の富を積み上げても、また権力者として振る舞っていても、無情にもある日突然襲いかかってくる。
▽哲学者カントの平和論に学んで
死は万人にとって避けられないからこそ、少しでも寿命を延ばして生きてみたいと想うのは人情というものであろう。問題は、人生をどう生きるかである。
私(安原)が注目しているのは、日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)の生き方である。100歳近い高齢で、なお元気であり、しかも平和を求めて尽力されていることには敬意を表したい。
日野原さんは朝日新聞(08年2月9日付)に「96歳・私の証 あるがまゝ行く 哲学者カントの平和論」というタイトルの一文を寄せている。その要旨を以下に紹介する。
ドイツの哲学者カント(1724~1804)の論文『永遠平和のために』(綜合社)の新訳本を読んでみました。
いかなる国も、よその国の体制や政治に武力でもって干渉してはならない。内部紛争がまだ決着していないのに、よそから干渉するのは、国家の権利を侵害している―。
彼の主張は今日の米国と中東諸国の間に見られる難問を解く鍵にもなりそうな内容でした。
武器に頼らなくても話し合いによる妥協の道があるのに、人はどうして戦争を仕掛けるのか。暴力を受けた側は受けた傷の何倍もの反撃をすることで、テロや戦争は100年戦争にもなりうるのです。
私も医師として晩年を迎え、最後に進むべき道は医学を越えて平和の道の先頭を切って行動することだと思っています。団塊の層を含む高齢者が次の時代の平和を作る主力となる子どもたちに平和のエッセンスを教えるべきだということを、改めてカントに学んだ気がします。
このように日野原さんは白寿(九十九歳)に近いご老体で、「世のため、人のため」に、つまり利他主義の実践に精進を続けている。凡人にはなかなか真似のできることではないが、生き長らえることができれば、こうありたいと願わずにはいられない。
(ご参考)カントの平和論については、このブログ「安原和雄の仏教経済塾」に07年12月6日付で「常備軍は廃止されるべきだ! カントの平和論を今読み解く」と題して掲載してある。
(寸評大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
グローバル化時代と日本文化
安原和雄
昨今のグローバル(世界)化の流れの推進者の一翼を担うのか、それとは異質の新しい流れをつくっていくのか、大きな分岐点に立たされている。前者は国境を越えた世界的な市場原理を進める米国主導の新自由主義路線を意味する。この貪欲な路線に抗して、もうひとつの道として日本文化のシンボルともいうべき茶の湯の創始者、千利休の「簡素の精神」を据え直してみてはどうだろうか。
新自由主義路線は軍事力重視主義と抱き合わせで世界に戦乱、貧富の格差拡大、環境破壊など殺戮、混乱、破壊をもたらしている。しかも多様な文化までも壊しつつある。これが新自由主義的なグローバル化の実態である。もはやそこに未来への希望を託すことはできない。これとは異質の日本文化のキーワード、「簡素」をどう生かしていくかを模索するときではないか。(08年2月9日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽問題提起、「地球(グローバル)時代の茶の湯」について
最近読んで刺激を受けた著作として、樫崎櫻舟(注1)著『利休ゆかりの茶室 獨楽庵物語』(講談社、07年刊)を挙げたい。著者は最終章で「地球時代(グローバル)の茶の湯」というテーマで問題提起をしている点に注目したい。
(注1)著者は、著作に登場する「獨楽庵」にも深くかかわっている。泉三郎のペンネームで著述活動を行っており、『堂々たる日本人』(詳伝社)、『岩倉使節団という冒険』(文藝春秋社)、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』(慶応義塾大学出版会)の制作などがある。
著者は岡倉天心(注2)の『茶の本』(1906年)を踏まえて、「茶の湯の精神は近代西欧文明のアンチテーゼ」として高く評価している。これは茶の湯の精神を「新自由主義的なグローバル化」とは異質の「もう一つのグローバル化」の核にできないかという問題提起と私(安原)は受け止めたい。
(注2)岡倉天心(おかくらてんしん・1862~1913年)
1890年東京美術学校(東京芸大の前身)校長になり、狩野芳崖、橋本雅邦らを民間から引き抜いて教授にした。98年反岡倉運動が起こって職を辞し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を創設した。1904年米国に渡り、05年ボストン美術館東洋部長となった。その頃、英文で書いた『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶の本』は欧米人の東洋への眼を開かせるのに貢献した。明治特有のスケールの大きい豪快な人物、という評価がある。
なお進藤榮一・筑波大名誉教授(国際アジア共同学会代表)は朝日新聞(08年1月21日付「私の視点」)で「東アジア共同体 岡倉天心てがかりに考察」と題して岡倉天心を論じている。
著者の問題提起の骨子を以下に述べる。
『茶の本』は日本文化を知らない米国人に説明するために書かれたものだけに、100年後すっかり米国人のようになってしまった戦後世代の日本人にとっては非常に分かりやすく、皮肉なことにいまや日本の文化や美学を知る上で貴重な教材になっている。
近代の西洋文明が「もっと豊かに、もっと便利に」を合い言葉に、地球全体に拡散し経済の成長や技術の進歩に明け暮れて、生きることも忘れている今日の状況にあって、天心の『茶の本』はそのアンチテーゼとしてむしろその意義を再評価されている。
新訳を出した東京女子大の大久保喬樹氏は、はしがきで、こう述べている。
「天心ははるかに広い視野 ― さまざまな文明から成り立つ世界全体および数千年に及ぶ歴史の流れの全体を見据えた視野から大局的な物の見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西洋化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋思想に還ることが不可欠だとみなした」
近代文明は、その鬼子ともいうべき核兵器やクローン動物を産む事態にまで達した。そして進歩信仰と経済信仰は拝金主義、精神の空洞化、モラルの退廃、また過剰消費と過剰生産を生み、資源浪費と環境破壊を地球規模で起こしている。
茶の湯は、過不足なき生活、ほどほどの暮らし、足るを知る、ゆったりと生活をエンジョイする哲学を秘めている。量より質を、物より心、生き方を、形より美を大事にする思想である。つまりそれは最適循環文明を目指すものであるともいえる。
現代の文明は、それに反して貪欲収奪文明であり、競争至上文明、拝金主義文明であり、人々は物と情報の洪水のなかで溺れ、本来の面目、生きることを見失ってしまっている。
こう見てくれば、茶の湯には現代文明の毒素を中和できる薬効があるように思う。人間の本当の幸福とは何か、生き甲斐とは何か、人生にとって一番大事なものは何かを気づかせてくれる何ものかがここにある。
それは天心が説くように、日本古来の自然信仰、そして中国やインドから道教、仏教、儒教を取り入れて融合したイザヤ・ベンダサンいうところの「日本教」の思想にある。それは自然を克服し征服する西洋の哲学でなく、自然の摂理にしたがう謙虚な思想であり、日々の生活を大事にする哲学である。
▽成長主義から脱却し、「侘びの精神」発信を
1992年6月ブラジルで開かれた第一回国連環境開発会議(地球サミット)を控えて、私(安原)は「千利休の精神に返れ―エコノミーとエコロジー」(朝日新聞1991年11月9日付夕刊「ウイークエンド経済ぜみなーる」に掲載)と題する一文を寄稿した。その趣旨を以下に紹介する。
文明を見直す一つの視点として日本文化を据えてみてはどうか。そのシンボルとして侘(わ)び茶の創始者、千利休(1522~1591年)の精神に返って、真のゆたかさとは何かを考え直してみるのはどうか。利休が目指した侘び茶の理想的境地を風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードで表現することに異論はあるまい。いずれも今日の文明的暮らしから久しく遠ざかっているイメージであり、境地である。
岡倉天心は『茶の本』で「(人は)高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲する」と指摘している。明治の末期にすでに今日的状況をみごとに言い当てているその先見性には教えられるところが多い。
キーワードとしてあげた利休の精神を今日生かすとは具体的に何を指しているのか。
まず「利休」という号には利益に走ることを止めるという意味が込められている。企業の利益第一主義と環境破壊とが裏腹の関係にあるとすれば、企業は環境保全型を目指す以上、なによりも利益第一主義への反省が先決である。
それ以上に消費者一人ひとりのライフスタイルの転換こそ重視したい。なぜなら消費者の意識改革のないところに企業行動の変革もあまり期待できないからである。過剰消費がもはや許容されないとすれば、わたしたち一人ひとりが今様利休の気分になって暮らしてみるのも風流というものではないか。
たとえば美しい自然、清浄な空気、静寂な空間を取り戻すには、できるだけ自動車から降りて歩いてみる努力を重ねたい。このことは便利さを追求することだけが真のゆたかさなのか、また車に乗ることに慣れすぎて、足腰を弱くし、寝たきりの予備軍になることが幸せなのかを問いかけずにはおかない。
たとえば自然の美しさ、四季折々の変化の素晴らしさ、つまり季節感に鈍感になって、夏の季節の品であるトマトやキュウリを一年中、食卓に飾ることが豊かなのか、大量生産ー過剰消費の当然の結果であるゴミの山に埋もれて暮らすことが本当にゆたかなのかを問うてみることにほかならない。
いまどき「千利休の精神に返れ」という主張は、近代以前の貧しい暗黒の世界へ逆戻りせよといいたいのか、という反論が出てくるかもしれない。それに対しては「侘びは貧乏趣味ではない。王者の楽園にも等しい。真の富者、心の富者に到達しうる」(桑田忠親著『千利休』)という言葉を紹介しておく。
むろん大量生産―過剰消費の構造転換を図ることは、GNP(国民総生産)信仰つまり成長第一主義からの脱却を求める。それはモノやサービスの量的増加ではなく、質的充実こそ真のゆたかさとみる発想への転換を意味する。
日本文化の原点ともいえる侘びの精神を工業文明の見直しと環境保全の新しい視点として外へ向かって打ち出してみてはどうだろうか。侘び茶への関心は最近、欧米でも高まってきている。利休の精神を一つの今日的思想として提起すれば、国際的にも受け入れられる素地はあるのではないか。
▽「日本文化の華・簡素」の旗を― 洞爺湖サミットを機に
以上のような10数年も昔の拙文を持ち出したのはほかでもない。「茶の湯」を論じるからには、侘び茶の創始者、千利休に触れないわけにはいかないからである。仮に今、千利休が健在であれば、昨今のグローバル化の潮流にどういう対応をみせるだろうか。これは想像力をかき立てるに十分なテーマというべきである。1991年の拙論以降の世界や日本の激動を考慮に入れれば、拙文の含意をもう少し発展させる必要があると考える。
結論からいえば、日本文化の華(はな)としての簡素の価値を重視することである。今(08)年7月北海道を舞台に洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が開かれ、主要国の政治リーダー、官僚さらにジャーナリストたちが集結する。この好機を逃さず、「簡素」の旗を高く掲げ、内外に向けて発信する時である。
上記の拙文で侘び茶の理想的境地として風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードを挙げた。これらはいずれも市場価値(=貨幣価値)には換算しにくい価値である。つまり市場でお金と交換して入手できるモノやサービスとは異質の非市場価値(=非貨幣価値)である。
グローバル化を推進する新自由主義路線はいうまでもなく市場、カネを極度に重視する。しかも地球環境の保全、資源・エネルギーの節約が至上命題であるにもかかわらず、それとは両立しにくい成長主義の旗を依然として降ろそうとはしない。「環境保全」は建前であり、本音(ほんね)で目指すものは市場拡大、マネーゲームによるカネの増殖、さらに大企業を中心とする企業利潤の最大化である。
こういう悪しきグローバル化に対抗するアンチテーゼになり得るのは、侘び茶の理想的境地を示す上述のキーワードであり、特に簡素はその中の華である。華としての簡素にまつわるエピソードを『茶の本』から紹介する。
朝顔がまだわが国では珍しかった16世紀、利休は庭中に朝顔を植えて丹精こめて育てた。その朝顔の評判が太閤秀吉の耳に入ると、ぜひそれをみたいというので、利休は太閤を自宅の朝の茶に招くことになった。約束の日、太閤は庭中を歩いたが、どこにも朝顔のあとかたすらみえない。地面は平らに均(なら)されて、美しい小石と砂が撒かれていた。 むっとして専制君主は茶室へ入ってきたが、そこに待ち受けていた光景は秀吉の意表をつくものであった。床の間の珍しい青銅の器に一輪の朝顔 ― それが庭中の女王であるかのように秀吉と向きあって迫ってきた!
これは利休を主役として描く映画などではお馴染みのシーンだが、ここまで徹すると、簡素の美・風流そのものというほかないだろう。それがかえって力強さを感じさせる。秀吉は成り上がりの権力者らしく、奢侈・虚飾志向であり、ここに利休との対立の構図がみえてくる。この対立は解きほぐせないまま、後に利休が切腹し果てたのは周知のことで、命をかけてまで貫いた簡素のありようを21世紀に生かすべく現代人のわれわれはもっと心を砕いてもいいのではないか。
▽無駄が多すぎる日本社会 ―これで文化ゆたかな国か?
断っておくが、簡素は貧窮を意味しない。むしろ21世紀の地球環境時代にふさわしいゆたかさにつながる。さらに簡素は、便利さへの執着、成長主義、大量生産と資源・エネルギー浪費と大量消費、その産物としての巨大なゴミの山―の対極にあるゆたかさであることを指摘しておきたい。
それにしても日本社会は隅々にまで簡素に反する無駄が多すぎないか。
「みどりのテーブル」(平和、環境、公正重視の政党をめざす組織で、07年の参院選挙で当選した川田龍平氏を支援した)のメール(08年1月8日付)から無駄の一部の具体例を紹介する。ドイツ在住の環境ジャーナリスト、今泉みね子さんは一時帰国し、熊本で開かれた会合で「日本に来てびっくりすること」として以下の4つを指摘した。
*なんでこんなに自動販売機が多いの?!
*商品の包装が厳重すぎて、まるでゴミを買ってるみたい!?
*歩行者や自転車をのけ者にした自動車中心の道路・交通システムにびっくり!
*外は明るいのに室内の照明が明々とついているのはどういうこと?
もっともな疑問である。多くの日本人はこういう光景に慣れすぎて、むしろ便利で、ゆたかな証拠だと思い込んでいるが、錯覚というべきである。これでは一人ひとりが地球環境の汚染・破壊推進の一翼を担っているのである。
米軍主導の攻撃・占領、さらにテロによって毎日のように死者を出し、電力もモノも不足し、貧窮状態にあるイラクの人々が、この日本の無神経かつ有害な数々の無駄を見たら何と想うだろうか。文明国? それとも野蛮国? 一体そのどちらなのか。文化ゆたかな国ニッポンとはとても信じないだろう。
多くのマス・メディアは相も変わらず「便利さ」と「経済成長」と「地球環境保全」 ― の3本柱をどう矛盾なく成り立たせるかが課題、などと書きたてているが、こういう視点は第1回地球サミット(1992年)以前のそれで、今日の時代感覚から大きくずれている。地球温暖化防止策が中心テーマとなる洞爺湖サミットで追求すべきは「簡素と地球環境保全」の重視であるべきだろう。
便利さと経済成長に執着するあまり、地球温暖化の具体的な防止策で各国の足並みがそろわず、地球環境保全に失敗すれば、人類の生存、いのち、運命にかかわる破局を迎える。いのちを犠牲にして、何のための便利さ、経済成長なのか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
安原和雄
昨今のグローバル(世界)化の流れの推進者の一翼を担うのか、それとは異質の新しい流れをつくっていくのか、大きな分岐点に立たされている。前者は国境を越えた世界的な市場原理を進める米国主導の新自由主義路線を意味する。この貪欲な路線に抗して、もうひとつの道として日本文化のシンボルともいうべき茶の湯の創始者、千利休の「簡素の精神」を据え直してみてはどうだろうか。
新自由主義路線は軍事力重視主義と抱き合わせで世界に戦乱、貧富の格差拡大、環境破壊など殺戮、混乱、破壊をもたらしている。しかも多様な文化までも壊しつつある。これが新自由主義的なグローバル化の実態である。もはやそこに未来への希望を託すことはできない。これとは異質の日本文化のキーワード、「簡素」をどう生かしていくかを模索するときではないか。(08年2月9日掲載、同日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽問題提起、「地球(グローバル)時代の茶の湯」について
最近読んで刺激を受けた著作として、樫崎櫻舟(注1)著『利休ゆかりの茶室 獨楽庵物語』(講談社、07年刊)を挙げたい。著者は最終章で「地球時代(グローバル)の茶の湯」というテーマで問題提起をしている点に注目したい。
(注1)著者は、著作に登場する「獨楽庵」にも深くかかわっている。泉三郎のペンネームで著述活動を行っており、『堂々たる日本人』(詳伝社)、『岩倉使節団という冒険』(文藝春秋社)、DVD『岩倉使節団の米欧回覧』(慶応義塾大学出版会)の制作などがある。
著者は岡倉天心(注2)の『茶の本』(1906年)を踏まえて、「茶の湯の精神は近代西欧文明のアンチテーゼ」として高く評価している。これは茶の湯の精神を「新自由主義的なグローバル化」とは異質の「もう一つのグローバル化」の核にできないかという問題提起と私(安原)は受け止めたい。
(注2)岡倉天心(おかくらてんしん・1862~1913年)
1890年東京美術学校(東京芸大の前身)校長になり、狩野芳崖、橋本雅邦らを民間から引き抜いて教授にした。98年反岡倉運動が起こって職を辞し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を創設した。1904年米国に渡り、05年ボストン美術館東洋部長となった。その頃、英文で書いた『東洋の理想』、『日本の覚醒』、『茶の本』は欧米人の東洋への眼を開かせるのに貢献した。明治特有のスケールの大きい豪快な人物、という評価がある。
なお進藤榮一・筑波大名誉教授(国際アジア共同学会代表)は朝日新聞(08年1月21日付「私の視点」)で「東アジア共同体 岡倉天心てがかりに考察」と題して岡倉天心を論じている。
著者の問題提起の骨子を以下に述べる。
『茶の本』は日本文化を知らない米国人に説明するために書かれたものだけに、100年後すっかり米国人のようになってしまった戦後世代の日本人にとっては非常に分かりやすく、皮肉なことにいまや日本の文化や美学を知る上で貴重な教材になっている。
近代の西洋文明が「もっと豊かに、もっと便利に」を合い言葉に、地球全体に拡散し経済の成長や技術の進歩に明け暮れて、生きることも忘れている今日の状況にあって、天心の『茶の本』はそのアンチテーゼとしてむしろその意義を再評価されている。
新訳を出した東京女子大の大久保喬樹氏は、はしがきで、こう述べている。
「天心ははるかに広い視野 ― さまざまな文明から成り立つ世界全体および数千年に及ぶ歴史の流れの全体を見据えた視野から大局的な物の見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西洋化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋思想に還ることが不可欠だとみなした」
近代文明は、その鬼子ともいうべき核兵器やクローン動物を産む事態にまで達した。そして進歩信仰と経済信仰は拝金主義、精神の空洞化、モラルの退廃、また過剰消費と過剰生産を生み、資源浪費と環境破壊を地球規模で起こしている。
茶の湯は、過不足なき生活、ほどほどの暮らし、足るを知る、ゆったりと生活をエンジョイする哲学を秘めている。量より質を、物より心、生き方を、形より美を大事にする思想である。つまりそれは最適循環文明を目指すものであるともいえる。
現代の文明は、それに反して貪欲収奪文明であり、競争至上文明、拝金主義文明であり、人々は物と情報の洪水のなかで溺れ、本来の面目、生きることを見失ってしまっている。
こう見てくれば、茶の湯には現代文明の毒素を中和できる薬効があるように思う。人間の本当の幸福とは何か、生き甲斐とは何か、人生にとって一番大事なものは何かを気づかせてくれる何ものかがここにある。
それは天心が説くように、日本古来の自然信仰、そして中国やインドから道教、仏教、儒教を取り入れて融合したイザヤ・ベンダサンいうところの「日本教」の思想にある。それは自然を克服し征服する西洋の哲学でなく、自然の摂理にしたがう謙虚な思想であり、日々の生活を大事にする哲学である。
▽成長主義から脱却し、「侘びの精神」発信を
1992年6月ブラジルで開かれた第一回国連環境開発会議(地球サミット)を控えて、私(安原)は「千利休の精神に返れ―エコノミーとエコロジー」(朝日新聞1991年11月9日付夕刊「ウイークエンド経済ぜみなーる」に掲載)と題する一文を寄稿した。その趣旨を以下に紹介する。
文明を見直す一つの視点として日本文化を据えてみてはどうか。そのシンボルとして侘(わ)び茶の創始者、千利休(1522~1591年)の精神に返って、真のゆたかさとは何かを考え直してみるのはどうか。利休が目指した侘び茶の理想的境地を風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードで表現することに異論はあるまい。いずれも今日の文明的暮らしから久しく遠ざかっているイメージであり、境地である。
岡倉天心は『茶の本』で「(人は)高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲する」と指摘している。明治の末期にすでに今日的状況をみごとに言い当てているその先見性には教えられるところが多い。
キーワードとしてあげた利休の精神を今日生かすとは具体的に何を指しているのか。
まず「利休」という号には利益に走ることを止めるという意味が込められている。企業の利益第一主義と環境破壊とが裏腹の関係にあるとすれば、企業は環境保全型を目指す以上、なによりも利益第一主義への反省が先決である。
それ以上に消費者一人ひとりのライフスタイルの転換こそ重視したい。なぜなら消費者の意識改革のないところに企業行動の変革もあまり期待できないからである。過剰消費がもはや許容されないとすれば、わたしたち一人ひとりが今様利休の気分になって暮らしてみるのも風流というものではないか。
たとえば美しい自然、清浄な空気、静寂な空間を取り戻すには、できるだけ自動車から降りて歩いてみる努力を重ねたい。このことは便利さを追求することだけが真のゆたかさなのか、また車に乗ることに慣れすぎて、足腰を弱くし、寝たきりの予備軍になることが幸せなのかを問いかけずにはおかない。
たとえば自然の美しさ、四季折々の変化の素晴らしさ、つまり季節感に鈍感になって、夏の季節の品であるトマトやキュウリを一年中、食卓に飾ることが豊かなのか、大量生産ー過剰消費の当然の結果であるゴミの山に埋もれて暮らすことが本当にゆたかなのかを問うてみることにほかならない。
いまどき「千利休の精神に返れ」という主張は、近代以前の貧しい暗黒の世界へ逆戻りせよといいたいのか、という反論が出てくるかもしれない。それに対しては「侘びは貧乏趣味ではない。王者の楽園にも等しい。真の富者、心の富者に到達しうる」(桑田忠親著『千利休』)という言葉を紹介しておく。
むろん大量生産―過剰消費の構造転換を図ることは、GNP(国民総生産)信仰つまり成長第一主義からの脱却を求める。それはモノやサービスの量的増加ではなく、質的充実こそ真のゆたかさとみる発想への転換を意味する。
日本文化の原点ともいえる侘びの精神を工業文明の見直しと環境保全の新しい視点として外へ向かって打ち出してみてはどうだろうか。侘び茶への関心は最近、欧米でも高まってきている。利休の精神を一つの今日的思想として提起すれば、国際的にも受け入れられる素地はあるのではないか。
▽「日本文化の華・簡素」の旗を― 洞爺湖サミットを機に
以上のような10数年も昔の拙文を持ち出したのはほかでもない。「茶の湯」を論じるからには、侘び茶の創始者、千利休に触れないわけにはいかないからである。仮に今、千利休が健在であれば、昨今のグローバル化の潮流にどういう対応をみせるだろうか。これは想像力をかき立てるに十分なテーマというべきである。1991年の拙論以降の世界や日本の激動を考慮に入れれば、拙文の含意をもう少し発展させる必要があると考える。
結論からいえば、日本文化の華(はな)としての簡素の価値を重視することである。今(08)年7月北海道を舞台に洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が開かれ、主要国の政治リーダー、官僚さらにジャーナリストたちが集結する。この好機を逃さず、「簡素」の旗を高く掲げ、内外に向けて発信する時である。
上記の拙文で侘び茶の理想的境地として風流、簡素、静寂、清浄、高雅、自然、美などのキーワードを挙げた。これらはいずれも市場価値(=貨幣価値)には換算しにくい価値である。つまり市場でお金と交換して入手できるモノやサービスとは異質の非市場価値(=非貨幣価値)である。
グローバル化を推進する新自由主義路線はいうまでもなく市場、カネを極度に重視する。しかも地球環境の保全、資源・エネルギーの節約が至上命題であるにもかかわらず、それとは両立しにくい成長主義の旗を依然として降ろそうとはしない。「環境保全」は建前であり、本音(ほんね)で目指すものは市場拡大、マネーゲームによるカネの増殖、さらに大企業を中心とする企業利潤の最大化である。
こういう悪しきグローバル化に対抗するアンチテーゼになり得るのは、侘び茶の理想的境地を示す上述のキーワードであり、特に簡素はその中の華である。華としての簡素にまつわるエピソードを『茶の本』から紹介する。
朝顔がまだわが国では珍しかった16世紀、利休は庭中に朝顔を植えて丹精こめて育てた。その朝顔の評判が太閤秀吉の耳に入ると、ぜひそれをみたいというので、利休は太閤を自宅の朝の茶に招くことになった。約束の日、太閤は庭中を歩いたが、どこにも朝顔のあとかたすらみえない。地面は平らに均(なら)されて、美しい小石と砂が撒かれていた。 むっとして専制君主は茶室へ入ってきたが、そこに待ち受けていた光景は秀吉の意表をつくものであった。床の間の珍しい青銅の器に一輪の朝顔 ― それが庭中の女王であるかのように秀吉と向きあって迫ってきた!
これは利休を主役として描く映画などではお馴染みのシーンだが、ここまで徹すると、簡素の美・風流そのものというほかないだろう。それがかえって力強さを感じさせる。秀吉は成り上がりの権力者らしく、奢侈・虚飾志向であり、ここに利休との対立の構図がみえてくる。この対立は解きほぐせないまま、後に利休が切腹し果てたのは周知のことで、命をかけてまで貫いた簡素のありようを21世紀に生かすべく現代人のわれわれはもっと心を砕いてもいいのではないか。
▽無駄が多すぎる日本社会 ―これで文化ゆたかな国か?
断っておくが、簡素は貧窮を意味しない。むしろ21世紀の地球環境時代にふさわしいゆたかさにつながる。さらに簡素は、便利さへの執着、成長主義、大量生産と資源・エネルギー浪費と大量消費、その産物としての巨大なゴミの山―の対極にあるゆたかさであることを指摘しておきたい。
それにしても日本社会は隅々にまで簡素に反する無駄が多すぎないか。
「みどりのテーブル」(平和、環境、公正重視の政党をめざす組織で、07年の参院選挙で当選した川田龍平氏を支援した)のメール(08年1月8日付)から無駄の一部の具体例を紹介する。ドイツ在住の環境ジャーナリスト、今泉みね子さんは一時帰国し、熊本で開かれた会合で「日本に来てびっくりすること」として以下の4つを指摘した。
*なんでこんなに自動販売機が多いの?!
*商品の包装が厳重すぎて、まるでゴミを買ってるみたい!?
*歩行者や自転車をのけ者にした自動車中心の道路・交通システムにびっくり!
*外は明るいのに室内の照明が明々とついているのはどういうこと?
もっともな疑問である。多くの日本人はこういう光景に慣れすぎて、むしろ便利で、ゆたかな証拠だと思い込んでいるが、錯覚というべきである。これでは一人ひとりが地球環境の汚染・破壊推進の一翼を担っているのである。
米軍主導の攻撃・占領、さらにテロによって毎日のように死者を出し、電力もモノも不足し、貧窮状態にあるイラクの人々が、この日本の無神経かつ有害な数々の無駄を見たら何と想うだろうか。文明国? それとも野蛮国? 一体そのどちらなのか。文化ゆたかな国ニッポンとはとても信じないだろう。
多くのマス・メディアは相も変わらず「便利さ」と「経済成長」と「地球環境保全」 ― の3本柱をどう矛盾なく成り立たせるかが課題、などと書きたてているが、こういう視点は第1回地球サミット(1992年)以前のそれで、今日の時代感覚から大きくずれている。地球温暖化防止策が中心テーマとなる洞爺湖サミットで追求すべきは「簡素と地球環境保全」の重視であるべきだろう。
便利さと経済成長に執着するあまり、地球温暖化の具体的な防止策で各国の足並みがそろわず、地球環境保全に失敗すれば、人類の生存、いのち、運命にかかわる破局を迎える。いのちを犠牲にして、何のための便利さ、経済成長なのか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です)
健康のすすめとニッポン改革
安原和雄
詩的感覚のゆたかな人は春の訪れが間近いと感じているとしても、日常の生活実感としては厳冬の最中である。風邪でお困りの方々も多いと思うので、この機会に冷水摩擦という私の体験的健康法を披露し、風邪を退治しようと呼びかけたい。同時に一人ひとりが健康で過ごすにはどうしたらよいか、それにはどういう医療・社会改革が必要なのかを考え、提案したい。(08年2月2日掲載、同月4日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽「毎日のタオルこすりで50年間カゼ知らず」・・・
健康雑誌『夢21』(08年2月号・わかさ出版刊)に特集「カゼ知らずになる・・・すぐできる強化法は〈タオルこすり〉」のひとつとして「72歳の今も・・・毎日のタオルこすりで50年間カゼ知らず」という見出しの記事が載っている。いささか自己PRめくが、この記事は実は私(安原)自身の体験談を編集記者がまとめたものである。以下にその要旨を紹介しよう。
安原さんは高校時代から今まで大きな病気にかかったことはほとんどない。カゼで寝込んだことも一度もないという。カゼぎみでのどが痛くなったり、熱っぽくなったりしたことはあるが、卵酒を飲んで寝れば、翌朝には治ってしまうとのこと。
そんな安原さんの元気の秘訣(ひけつ)が、高校生のときから50年以上続けている「タオルこすり」である。
「私は子供のころ、とても病弱だった。小学生のときにはリウマチにも悩まされた。そんな私を心配したのか、高校に入学した春、父からタオルこすりをすすめられた。やり方は外の井戸端で上半身裸になり、水でぬらしてから絞ったタオルで肌をこする。真冬でも一日も欠かさず続けた。そのおかげか、高校3年間、病気で休んだことは一度もなかった」
それ以来、タオルこすりが洗顔や歯磨きと同じように日課になった。今では毎朝浴室で裸になり、全身をこすっている。タオルこすりとともに毎朝、約15分間の座禅、100回の竹踏み、20回の腕立て伏せ(こぶしを床について行う)も。食事は腹六分を心がけ、野菜や魚中心にしているとのこと。
「私は、自動車やエスカレーターはなるべく使わず、自分の足で歩くようにしてる。食べすぎや運動不足で、不健康な人が増えてしまった。自分の健康は自分で守るようにしなければならない。(中略)その意味でも健康に役立つうえに、お金がかからず、誰でもできるタオルこすりは、もっと見直されていい」
▽これから始めたいと思う人への助言
戦後すぐの小、中学生時代、私は病弱で、リウマチのため寝たきりになって、1か月以上、学校を休むことも度々あった。その私が、高校時代に始めた冷水摩擦(タオルこすり)によって「体質の構造改革」ができたように思っている。始めた頃、つらいと感じたのは、肌を刺す真冬の寒風が吹く中での冷水摩擦である。当時は、特に田舎では水道がなく、戸外の井戸に依存していたからである。
今日では田舎でも水道がほぼ行き渡っており、屋内でできるのだから、必要なのは「継続する意志」だけである。継続できないのは意志薄弱というほかないだろう。
始めてみたいと思っている人のために、参考までに注意点をいくつか挙げてみる。
*今カゼを引いている人、また引いていない人も、無理に今の厳冬下で、始めるのは身体に毒である。
*4月の水はまだ冷たいので、5月の連休明けくらいから始めてはいかがか。
*使うタオルは新品ではなく、多少使ってざらざらした感触のが望ましい。それを水にぬらして、よく絞ること。冬には乾布摩擦を併用するのもよい。夏場は冷水摩擦の方が気持ちよい。
*最初の2週間くらいは首と両腕くらいの摩擦にとどめるのがよい。あまり強く摩擦しない方が望ましい。慣らし運転である。
*冬まで毎日持続することが肝心である。体調がよくないときは、ぬらして絞ったタオルを胸に当てるだけでもよいから、ともかく毎日持続すること。一日でも休むと、持続できなくなる。
*さて冬になってこれまで通りカゼを引くようでは、日頃の暮らし方に無理がないかどうかを考えてみること。食事、睡眠を含めて不規則で放縦な生活態度では冷水摩擦も効果はないと自覚すること。
以上は私(安原)の体験から得たことで、その人の体質によっては効果も異なるはずだから、各自工夫するのが最上の策である。
「冷水摩擦で長生きできるか」とよく聞かれるが、「寿命は授かりものだからわからない。ただ、いのちある限り一日、一日をさわやかに生きたいと念じている」と答えることにしている。
▽健康のすすめと社会・医療改革(1)
仏教には「病と共存」という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。ただ私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った体験から、できることなら多くの人たちが健康であることを願っている。健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。 健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育、食料生産、働き方などの改革)、つまりニッポン改革を伴うプランでなければならない。
以下、まず医療改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。努力すれば、それなりのよき報いをもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。
*自己責任原則を考えるとき
健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任原則を適用する。
ただし自己責任原則の導入は2~3年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。
病気になれば病院に駆け込めばいいという安易な考え方が意外に多い。もちろん医療施設の役割は大きいが、昨今の病院の実情を考えれば、これは自らのいのちを粗末に扱うことにもなりかねない。
▽健康のすすめと社会・医療改革(2)
以下では健康のすすめに必要な日常の暮らしや社会の改革案を考える。
*「いのち・食・健康」教育の重視
「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらにつぎの日常用語を家庭や学校で理解する機会をつくる。その教育担当者として定年退職者、大病体験者などを活用する。
・「いただきます」(食事の前に動植物の「いのち」をいただくことに感謝する言葉)
・「もったいない」(モノを無駄に使わないで、大切に扱うこと)
・「お陰様で」(他人様のお陰で生かされていることを自覚し、感謝すること)
*食料自給率引き上げと「地産地消」のすすめ
中国製冷凍ギョウザによる中毒事件に伴う不安が1月末から日本列島に広がっている。中毒の原因である農薬がどの段階で混入したのか、その詳細は2月初めの時点では不明らしいが、根本的な対策は4割を切っている食料自給率の向上を図ることである。いのちの源(みなもと)である食料の6割強を海外からの輸入に依存している現状ではいのちの安全は保証できないだろう。
このような先進国では異常な「いのちの他国依存型」をどう打開していくかが問われなければならない。食料の「地産地消」(国内の地域で生産し、その地域で消費すること)をどう拡大していくか、知恵をめぐらすときである。
*働き方・労働条件の改革
最低賃金の保障、労働時間の短縮、就業機会の保障(職種にもよるが、例えばワークシェアリング=仕事の分かち合い=の導入)があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。
現実には小泉政権以来顕著になった新自由主義(市場原理主義)に立ついわゆる構造改革路線(=弱肉強食のごり押し)の中で企業の人減らし、賃金削減、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に自殺、病気、過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。
以上の改革は長期的にみれば、健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、また病人が減って、一部の病院が倒産の憂き目にあうとしても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことでないか。
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安原和雄
詩的感覚のゆたかな人は春の訪れが間近いと感じているとしても、日常の生活実感としては厳冬の最中である。風邪でお困りの方々も多いと思うので、この機会に冷水摩擦という私の体験的健康法を披露し、風邪を退治しようと呼びかけたい。同時に一人ひとりが健康で過ごすにはどうしたらよいか、それにはどういう医療・社会改革が必要なのかを考え、提案したい。(08年2月2日掲載、同月4日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽「毎日のタオルこすりで50年間カゼ知らず」・・・
健康雑誌『夢21』(08年2月号・わかさ出版刊)に特集「カゼ知らずになる・・・すぐできる強化法は〈タオルこすり〉」のひとつとして「72歳の今も・・・毎日のタオルこすりで50年間カゼ知らず」という見出しの記事が載っている。いささか自己PRめくが、この記事は実は私(安原)自身の体験談を編集記者がまとめたものである。以下にその要旨を紹介しよう。
安原さんは高校時代から今まで大きな病気にかかったことはほとんどない。カゼで寝込んだことも一度もないという。カゼぎみでのどが痛くなったり、熱っぽくなったりしたことはあるが、卵酒を飲んで寝れば、翌朝には治ってしまうとのこと。
そんな安原さんの元気の秘訣(ひけつ)が、高校生のときから50年以上続けている「タオルこすり」である。
「私は子供のころ、とても病弱だった。小学生のときにはリウマチにも悩まされた。そんな私を心配したのか、高校に入学した春、父からタオルこすりをすすめられた。やり方は外の井戸端で上半身裸になり、水でぬらしてから絞ったタオルで肌をこする。真冬でも一日も欠かさず続けた。そのおかげか、高校3年間、病気で休んだことは一度もなかった」
それ以来、タオルこすりが洗顔や歯磨きと同じように日課になった。今では毎朝浴室で裸になり、全身をこすっている。タオルこすりとともに毎朝、約15分間の座禅、100回の竹踏み、20回の腕立て伏せ(こぶしを床について行う)も。食事は腹六分を心がけ、野菜や魚中心にしているとのこと。
「私は、自動車やエスカレーターはなるべく使わず、自分の足で歩くようにしてる。食べすぎや運動不足で、不健康な人が増えてしまった。自分の健康は自分で守るようにしなければならない。(中略)その意味でも健康に役立つうえに、お金がかからず、誰でもできるタオルこすりは、もっと見直されていい」
▽これから始めたいと思う人への助言
戦後すぐの小、中学生時代、私は病弱で、リウマチのため寝たきりになって、1か月以上、学校を休むことも度々あった。その私が、高校時代に始めた冷水摩擦(タオルこすり)によって「体質の構造改革」ができたように思っている。始めた頃、つらいと感じたのは、肌を刺す真冬の寒風が吹く中での冷水摩擦である。当時は、特に田舎では水道がなく、戸外の井戸に依存していたからである。
今日では田舎でも水道がほぼ行き渡っており、屋内でできるのだから、必要なのは「継続する意志」だけである。継続できないのは意志薄弱というほかないだろう。
始めてみたいと思っている人のために、参考までに注意点をいくつか挙げてみる。
*今カゼを引いている人、また引いていない人も、無理に今の厳冬下で、始めるのは身体に毒である。
*4月の水はまだ冷たいので、5月の連休明けくらいから始めてはいかがか。
*使うタオルは新品ではなく、多少使ってざらざらした感触のが望ましい。それを水にぬらして、よく絞ること。冬には乾布摩擦を併用するのもよい。夏場は冷水摩擦の方が気持ちよい。
*最初の2週間くらいは首と両腕くらいの摩擦にとどめるのがよい。あまり強く摩擦しない方が望ましい。慣らし運転である。
*冬まで毎日持続することが肝心である。体調がよくないときは、ぬらして絞ったタオルを胸に当てるだけでもよいから、ともかく毎日持続すること。一日でも休むと、持続できなくなる。
*さて冬になってこれまで通りカゼを引くようでは、日頃の暮らし方に無理がないかどうかを考えてみること。食事、睡眠を含めて不規則で放縦な生活態度では冷水摩擦も効果はないと自覚すること。
以上は私(安原)の体験から得たことで、その人の体質によっては効果も異なるはずだから、各自工夫するのが最上の策である。
「冷水摩擦で長生きできるか」とよく聞かれるが、「寿命は授かりものだからわからない。ただ、いのちある限り一日、一日をさわやかに生きたいと念じている」と答えることにしている。
▽健康のすすめと社会・医療改革(1)
仏教には「病と共存」という考え方もある。現世では心ならずも病とともに生きざるを得ない人々も少なくない。ただ私自身、少年時代にイヤというほど大病を患った体験から、できることなら多くの人たちが健康であることを願っている。健康人を増やすこと、これが望ましい医療改革の道である。 健康人を増やすためには医療改革は同時に社会改革(教育、食料生産、働き方などの改革)、つまりニッポン改革を伴うプランでなければならない。
以下、まず医療改革案を提唱したい。
*高齢者は原則無料
70歳以上の高齢者の医療費窓口負担は、高額所得者は別にして原則無料とする。高齢者が病気勝ちになるのは自己責任とはいえない。無料は老後の安心のための配慮である。
*健康奨励策の導入
1年間に1度も医者にかからなかった者は、健康奨励策として例えば医療保険料の一部返還請求の権利を持つ。努力すれば、それなりのよき報いをもたらすという仏教の善因善果(因果応報のひとつ)の適用でもある。
*自己責任原則を考えるとき
健保本人の自己負担は2割(03年4月から3割に引き上げられた)に戻す一方、糖尿病など生活習慣病は、自己負担を5割に引き上げる。生活習慣病は仏教でいう精進を忘れて、生活習慣の改善を怠ったことも一因であり、自己責任原則を適用する。
ただし自己責任原則の導入は2~3年の猶予期間(自己負担が増える生活習慣病などを精進=自助努力、治療などで克復する期間)の後、実施する。
病気になれば病院に駆け込めばいいという安易な考え方が意外に多い。もちろん医療施設の役割は大きいが、昨今の病院の実情を考えれば、これは自らのいのちを粗末に扱うことにもなりかねない。
▽健康のすすめと社会・医療改革(2)
以下では健康のすすめに必要な日常の暮らしや社会の改革案を考える。
*「いのち・食・健康」教育の重視
「いのちと食と健康」の密接な相互関連について家庭や学校で小学生から教育する。さらにつぎの日常用語を家庭や学校で理解する機会をつくる。その教育担当者として定年退職者、大病体験者などを活用する。
・「いただきます」(食事の前に動植物の「いのち」をいただくことに感謝する言葉)
・「もったいない」(モノを無駄に使わないで、大切に扱うこと)
・「お陰様で」(他人様のお陰で生かされていることを自覚し、感謝すること)
*食料自給率引き上げと「地産地消」のすすめ
中国製冷凍ギョウザによる中毒事件に伴う不安が1月末から日本列島に広がっている。中毒の原因である農薬がどの段階で混入したのか、その詳細は2月初めの時点では不明らしいが、根本的な対策は4割を切っている食料自給率の向上を図ることである。いのちの源(みなもと)である食料の6割強を海外からの輸入に依存している現状ではいのちの安全は保証できないだろう。
このような先進国では異常な「いのちの他国依存型」をどう打開していくかが問われなければならない。食料の「地産地消」(国内の地域で生産し、その地域で消費すること)をどう拡大していくか、知恵をめぐらすときである。
*働き方・労働条件の改革
最低賃金の保障、労働時間の短縮、就業機会の保障(職種にもよるが、例えばワークシェアリング=仕事の分かち合い=の導入)があって初めて暮らしに安心とゆとりを確保できる。
現実には小泉政権以来顕著になった新自由主義(市場原理主義)に立ついわゆる構造改革路線(=弱肉強食のごり押し)の中で企業の人減らし、賃金削減、残業増大、労働強化を背景にサラリーマンの間に自殺、病気、過労死が増えている。労働者の約6割が「仕事で強いストレスを感じている」というデータ(厚生労働省調べ)もある。
以上の改革は長期的にみれば、健康人を増やす効果を持つだろう。その結果、医療費が削減され、また病人が減って、一部の病院が倒産の憂き目にあうとしても、それは健康な社会のあかしとしてむしろ歓迎すべきことでないか。
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