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「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
「原発ゼロ」をめざす新エネルギー戦略
賛否に分かれる大手紙社説が論じたこと

安原和雄
 政府は「原発ゼロ」を目標とする新エネルギー戦略を決めた。その目標は「2030年代に原発ゼロ」である。一方ドイツは日本の原発惨事から教訓を得て、10年後の2022年に完全「脱原発」をめざしている。この決断に比べれば、日本は今から20年以上も後というのんびりした足取りである。
新エネルギー戦略を大手紙社説はどう論じたか。その視点は賛否両論に分かれている。東京、朝日、毎日の3紙社説は賛成派であり、一方、読売、日経の社説は「原発ゼロ」に異議を唱えている。脱原発への道は平坦ではない。(2012年9月16日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 政府は2012年9月14日、関係閣僚らによるエネルギー・環境会議を開き、2030年代の「原発ゼロ」をめざす新エネルギー戦略を決めた。この新エネルギー戦略をめぐって大手紙社説(9月15日付)はどう論じたか。大別すれば、賛成派(東京、朝日、毎日)と反対派(読売、日経)に分かれている。各紙社説の見出しは以下の通り。
<賛成派>
*東京新聞社説=もっと早く原発ゼロへ ― 政府のエネルギー方針
*朝日新聞社説=原発ゼロを確かなものに ― 新エネルギー戦略
*毎日新聞社説=実現への覚悟を持とう ― 原発ゼロ政策
<反対派>
*読売新聞社説=「原発ゼロ」は戦略に値しない 経済・雇用への打撃軽視するな ― エネルギー選択
*日本経済新聞社説=国益を損なう「原発ゼロ」には異議がある

 以下、各紙社説の要点を紹介し、<安原のコメント>をつける。

(1)東京新聞社説の要点=電力に依存し過ぎた暮らし方を変える
 世界三位の経済大国が原発ゼロを掲げたことは、国際的にも驚きだろう。持続可能な社会をともに目指そう。二〇三〇年代にと言わず、もっと早く。
 「ゼロ」というゴールは、曲がりなりにも示された。意見聴取会やパブリックコメントなどを通じて、国民の過半が選んだ道である。もちろん、平たんではない。消費者も、電力に依存し過ぎた暮らし方を変える必要に迫られている。だが、私たちには受け入れる用意がある。
 全国に五十基ある原発のうち、今動いているのは、関西電力大飯原発3、4号機の二基だけだ。それでも、暑かったことしの夏を乗り切った。私たちは、自信をつけた。二〇三〇年までに原発はゼロにできると。

<安原の感想> 持続可能な社会のために
 東京社説は、新戦略を具体化するには、市民参加が何より大切であり、さらに原発ゼロ達成は、社会と暮らしを変えるということ、すなわち持続可能で豊かな社会をともに築くということと指摘している。当然の指摘である。しかしゼロ達成が「二〇三〇年までに」ではいかにも遅すぎるのではないか。国民の多くは「直ちにゼロ」を求めている。そうでなければ持続可能な社会を築くことは無理であろう。

(2)朝日新聞社説の要点=「原発ゼロは現実的でない」という批判を排す
 野田政権は当初、全廃には慎重だったが、最終的に「原発稼働ゼロを可能とする」社会の実現をうたった。原発が抱える問題の大きさを多くの人が深刻に受け止めていることを踏まえての決断を評価したい。
 どのような枠組みを設ければ、脱原発への長期の取り組みが可能になるだろうか。一つの案は、法制化だ。原子力基本法の見直しだけでなく、脱原発の理念を明確にした法律があれば、一定の拘束力が生じる。見直しには国会審議が必要となり、透明性も担保される。
 「原発ゼロは現実的でない」という批判がある。しかし、放射性廃棄物の処分先が見つからないこと、原発が巨大なリスクを抱えていること、電力会社が国民の信頼を完全に失ったこと、それこそが現実である。
 簡単ではないが、努力と工夫を重ね、脱原発の道筋を確かなものにしよう。

<安原の感想> 「懲りない面々」を封じ込めるとき
 「原発ゼロは現実的でない」という批判がある ― という指摘は軽視できない。前向きの改革の脚を引っ張ろうとするグループはつねに見え隠れしている。この曲者たちの正体は何か。原発推進に利益を見いだしているグループ、すなわち原発推進複合体(電力会社を中心とする経済界のほか、政、官、学、メディアなどからなる複合体)を担う「懲りない面々」である。これを封じ込めなければ、「原発ゼロ」は夢物語に終わるだろう。

(3)毎日新聞社説の要点=原発拡大路線を180度転換
 政府が2030年代に「原発ゼロ」を目指すことを明記した新しいエネルギー・環境戦略をまとめた。従来の原発拡大路線を180度転換させる意義は大きい。
 新戦略は、「原発に依存しない社会の一日も早い実現」を目標に掲げた。40年運転制限の厳格適用、安全確認を得た原発の再稼働、新設・増設を行わない、という3原則を示したうえで、「30年代に原発稼働ゼロが可能となるよう、あらゆる政策資源を投入する」とした。
 「脱原発」か「維持・推進」か。国論を二分した議論に、政府が決着をつけたものとして評価したい。国民的議論を踏まえた決定だ。安易な後戻りを許さず、将来への責任を果たすため、国民全体が実現への覚悟を持つ必要があるだろう。
 脱原発には、再生可能エネルギーの普及拡大や節電・省エネの促進が欠かせない。そのための規制改革や技術開発への支援策づくりを急ぐよう求めたい。

<安原の感想> 「2030年代にゼロ」は雲散霧消の危うさも
 「国論を二分した議論に、政府が決着をつけたものとして評価したい」という採点は甘すぎるのではないか。ドイツは日本の原発惨事を見て、10年後の2022年の完全「脱原発」を決めた。この素早い決断に比べれば、日本は「2030年代に原発ゼロ」というのだから、間延びしているだけではない。「2030年代にゼロ」という20年以上も先の方針自体、どこで雲散霧消となるか分からないという危うさもある。

(4)読売新聞社説の要点=日米同盟にも悪影響避けられぬ
 電力を安定的に確保するための具体策も描かずに、「原子力発電ゼロ」を掲げたのは、極めて無責任である。
 原発の代替電源を確保する方策の中身も詰めずに、約20年先の「原発ゼロ」だけを決めるのは乱暴だ。
 経団連の米倉弘昌会長は、「原発ゼロ」方針について、「雇用の維持に必死に頑張っている産業界としては、とても了承できない。まさに成長戦略に逆行している」などと、厳しく批判した。
 米国が、アジアにおける核安全保障政策のパートナーと位置づける日本の地位低下も心配だ。日本が原発を完全に放棄すれば、引き続き原発増設を図る中国や韓国の存在感が東アジアで高まる。日米の同盟関係にも悪影響は避けられまい。

<安原の感想> 経団連会長や日米同盟は神聖な存在なのか
 原発ゼロという選択に対し「無責任」、「乱暴」という感情に囚われた言葉を投げつける。これではまるで不良少年の乱闘騒ぎのような雰囲気である。しかも経済界代表の経団連会長の肩を持ち、同時に「日米同盟に悪影響も」と一種の脅迫めいた言辞も辞さない。経団連会長や日米同盟(=日米安保体制)を侵すことのできない神聖な存在と考えているらしいが、いまやこれをも批判の対象にすべき存在とはいえないのか。

(5)日本経済新聞社説の要点=原子力の放棄は賢明ではない
 政府は「2030年代に原子力発電所の稼働をゼロ」とするエネルギー・環境戦略を決めた。「原発ゼロ」には改めて異議を唱えたい。
 間際になってぶつけられた異論や懸念を踏まえて調整した結果、エネルギー戦略はつぎはぎだらけで一貫性を欠く。選挙を控え「原発ゼロ」を打ち出したい打算が政策判断をゆがめている。
 福島第1原発事故を経て原子力への依存は減る。しかし原子力の放棄は賢明ではない。資源小国の日本は積極的に原発を導入し、石油危機以降は、原子力と天然ガス火力などを組み合わせ脱石油依存の道を歩んだ。
 今は自然エネルギーをもうひとつの柱として伸ばし、電力の安定供給と温暖化ガスの排出削減をともに実現すべき時だ。原子力の維持は国民生活や産業の安定をかなえる有用な選択肢だ。かつての化石燃料依存に戻るのはいけない。

<安原の感想> 時代錯誤もはなはだしい国益論
日経社説の見出しは<国益を損なう「原発ゼロ」には異議がある>となっている。ここで使われている「国益」とは何を意味するのか。辞書によれば「国家の利益」である。市民、民衆、大衆の意志、希望である脱原発に背を向けるのが目下の「国益」という認識らしい。しかしこういう国益論を今振りかざすのは、いささか古すぎないか。国益論で脱原発の動きを封じ込めようとするのはしょせん時代錯誤の所業にすぎない。


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いよいよ日本版「緑の党」が旗揚げへ
脱原子力発電、脱経済成長をめざして

安原和雄
 日本にもようやく「緑の党」が7月に誕生することになった。2013年参議院選挙に立候補し、初の国会議員を登場させることをめざしている。具体的な政策として脱原子力発電(即時全面停止)を正面に掲げるほか、脱経済成長など、民主・自民党のような既成大政党とは一線を画す姿勢を打ち出している。
 「緑の党」は今では多くの国や地域で活動しており、ドイツ、フランスなどでは連立政権に参加し、環境政策の転換などで実績を挙げている。日本版「緑の党」は出遅れ感が否めないが、やがて存在感のある政党に成長していくことを期待したい。(2012年2月24日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 全国の地方議員や自治体首長ら有志の政治組織「みどりの未来」は、2012年2月第4回総会を東京で開き、7月に「緑の党」を結成することを決めた。同時に2013年7月の参院選挙に挑戦し、「緑の党」として初の議員を国会に送り込もうという基本方針を確認した。
 なお共同代表に八木 聡(長野県大町市議)、中山 均(新潟市議)、須黒奈緒(東京杉並区議)、松本なみほ(兵庫県神戸市)― の4氏を再任した。

 「緑の党」の理念や具体的政策は何か。「日本にも緑の党をつくろう!」と呼びかける「みどりの未来ガイドブック」(2011年11月「みどりの未来」発行)を参考にしながら、その概要を紹介しよう。

(1)どういう世界や日本をめざしているのか
 世界や日本の現状をどう認識し、何を実現しようとしているのか。次のように述べている。
・現代社会は、もう何十年も危機的な状態が続いている。
・地球は有限であるのに、人間が無限の経済成長を求めた結果、自然を破壊し、資源を収奪し、モノを作り続けることを繰り返してきた。
・物質的な豊かさが増す一方、格差が広がり、人と人との結びつきや社会のあり方は冷たく貧しいものになり、多くの人々が将来への底知れない不安を抱えながら、時間に追われて暮らしている。
・今こそ本当の「豊かさ」を見直す時にきている。
・経済成長に依存しなくとも、環境と調和したゆったりとした生活を享受することで、地球にも人間にもできるだけ負荷をかけない社会のしくみを創りたい。
・一人ひとりが尊重され、人々の生活が、競争ではなく、自治と協力によって営まれる、あらたな経済社会のかたちを実現したい。
・世界の不公平と貧困、紛争を解決するために、日本が先頭に立ち、公正な国際社会へ転換していく。
・さあ大胆に進路を変えよう。ともに新しい未来の1ページを刻もう。

(2)理念は何か
 次のような「6つの理念」を掲げている。
1.エコロジカルな知恵=世界のすべてはつながり影響し合っている・・・知恵のあるライフスタイルとスローな日本へ!
2.社会的公正/正義=「一人勝ち」では幸せになれない・・・弱肉強食から脱却する思いやりの政策を!
3.参加民主主義=納得できる政治参加・・・利権・腐敗をなくし、一人ひとりの元気と幸せのためのプロセスを!
4.非暴力/平和=誰にも殺されたくない、殺したくない・・・戦争に至らない仕組みを提案し実現する!
5.持続可能性=脱石油、脱原発、脱ダム・・・子どもたちの未来と自然環境を食いつぶすシステムから脱却を!
6.多様性の尊重=私の知らない苦しみや悩みがある・・・「誰もが幸せになる権利」を尊重する、生きやすく楽しい社会を!

(3)理念実現のための具体策は
 「6つの理念」を実現するために以下のような12の具体策を打ち出している。その骨子を紹介する。
1.脱原発(即時全面停止)と再生可能エネルギーへの全面的な転換
 すべての原発を廃炉へ、2020年までに再生可能エネルギーを30%に増やし、温室効果ガスを30%削減
2.地域の人々が担う共生経済(地産地消)のすすめ
 農林水産業(第1次産業)、加工業(第2次産業)、消費(第3次産業)を、すべての地域で循環させる第6次産業(注)の育成
 (注・安原)2011年3月、略称「6次産業化法」(正式名称は「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出および地域の農林水産物の利用促進に関する法律」)が施行された。農林漁業者(1次)が地域資源を活用し、生産・加工(2次)、販売(3次)を一体として手掛け、所得増をめざすのが6次産業の基本的な考えである。農林漁業者が同法の認定を受けると、資金、ノウハウなどで支援を受ける。政府は6次産業化事業の年間売上高を10年後に10兆円にする目標を掲げている。

3.食は自給率向上で安心確保
 食糧自給率(現在40%)を80%に倍増させ、フードマイレージ(食糧輸入に必要な「重さ×距離」)を3分の1に削減。遺伝子組み換え食糧は輸入・生産禁止
4.すべての人に生存権の保障
 月10万円のベーシック・インカム(すべての個人に給付される最低所得保障)の導入。医療、介護、子育て、教育、住まいなどの公共サービスを思い切って拡充
5.雇用の分かち合いでスローライフ
 現状では2000時間(サービス残業を含む)を超える年間労働時間を1300時間に短縮し、雇用を分かち合い、自由時間を増やす。男女の均等待遇と最低賃金の引き上げ
6.公正な税負担で社会保障の充実
 社会保障充実のために所得税の最高税率を70%に戻し、金融・資産課税の強化と環境税の導入。租税特別措置の全廃。消費税は逆進性をなくして引き上げ

7.シングル社会と多様な家族(説明は略)
8.他文化共生のフェアな社会
 移住労働者に日本人と同等の労働条件、定住外国人の地方参政権、アイヌ民族に議席を―などの発想で社会制度を設計し直す
9.誰でも立候補できる選挙制度と小選挙区制の廃止(説明は略)
10.住民自治の徹底と「市民自治法」の制定(同上)
11.共に生きる北東アジア
 「軍事同盟」としての日米安保の見直し。アメリカと対等・友好な関係を築き、米軍基地の撤去と防衛予算の大幅な削減へ。北東アジア非核地帯を実現
12.公正と連帯のグローバル社会
 国際連帯税・通貨取引税を創設。国際連帯税は環境対策や途上国支援、感染症などのグローバルな課題に取り組む資金を調達。通貨取引税は投機マネーのコントロールが狙い。

(4)既存の政党との違いは? 二大政党による政権交代は?
 これまでの政党のビジョンは富の再分配の考え方に違いはあっても、富を生み出す経済成長を前提としている。私たちは、分配の公正とともに持続可能性を重視し、エネルギー政策、環境政策を中心に先駆的、抜本的な政策を推進する。
 組織体制は中央集権ではなく、地域や具体的な課題によって集う自立的なグループによる連合を志向する。採決が必要な場合は多数決で決めるが、、メンバーは決定に従わない権利をもち、少数意見は留保され、尊重される。

 政権交代は、これまで政官財の癒着を断ち切るなど、一定の効果を挙げる可能性があり、そのことは歓迎すべきことである。しかし現在の二大政党はともに経済成長を追い求め、原発や憲法9条改定への容認論が根強いなど、私たちのめざす社会ビジョンとは異なるところが多い。
 既存の政治勢力とも、政策的に共通する部分については連携を図っていく。経済成長至上主義からの脱却を基本にすえて、右か左かではなく未来へ向けて前へ進むべく「新しい政治」をめざす。

<安原の感想> 脱原発と脱経済成長の姿勢堅持を
 「緑の党」の発足に期待したいことは多いが、なかでも脱原発(即時全面停止)と脱経済成長の姿勢は堅持して欲しい。この二つを抱き合わせの政策として世に問いかけている政党は日本ではやがて誕生する「緑の党」のほかにはない。日本版「緑の党」のいわば専売特許ともいえる。
 ただ問題は脱経済成長が世論にどこまで受け容れられるかである。脱原発は今なお「原子力村」(原発推進複合体)の執拗な抵抗が陰に陽に続いているが、すでに広範な世論は脱原発で足並みを揃えつつある。しかし脱経済成長については楽観できない。なぜなら多くのメディアをはじめ、経済成長期待派が今なお勢力を誇っているからである。
 私自身は、どうかといえば、1990年代半ばに脱経済成長派に転じた。「成長至上主義から脱成長主義へ」という見出しで次のように書いている。

 貪欲の経済学のキーワードは、経済成長至上主義である。これに対し、地球環境時代の知足の経済学のキーワードは脱成長主義である。
 成長至上主義とは、GDP(国内総生産)、GNP(国民総生産)が増えることによってのみ豊かさを保証できるという考え方である。一方、脱成長主義とは、GNPが増えなくても、つまりゼロ成長(経済規模が横ばいに推移)あるいはマイナス成長でも、そこに真の豊かさを見出すことができるという発想である。言い換えれば、環境や生活の質の低下を招きかねない量的成長よりも質の向上をめざす質的発展を重視する発想である。
 例えば病人が増えると、GNPも増える。なぜなら病院通いをする人が多くなって、医者や病院の所得収入が増えて、それがGNPを押し上げる要因となるからだ。成長率が高くなったとしても、病人の多い社会が豊かな社会といえるだろうか。(安原和雄著『知足の経済学』・ごま書房・1995年4月刊から)

 以上のような脱経済成長のすすめにかかわる拙文を書いてから、すでに20年近い歳月が流れ去った。脱経済成長派も増えつつあるが、多数派の地位を獲得するのはいつの日か。「緑の党」の活躍に期待したい。


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憲法9条伝えるのは老人の役割
日野原翁と対談:福島社民党首

安原和雄
 とにかくお元気な翁である。ご老体と呼ぶには精神的に若すぎる。その日野原重明(ひのはら・しげあき)さん(聖路加国際病院名誉院長・同理事長)は、今年(08年)10月4日の誕生日に満97歳を迎える。著書も数え切れないほど多い。日野原翁と福島みずほさん(社民党党首)との対談が目に留まった。日野原さんは現役の平和運動家でもあり、対談では「憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割」― などと強調している。(08年6月9日掲載、同月14日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 日野原さんと福島さんの対談が掲載されているのは、「みずほと一緒に国会へ行こう会ニュース」(08年6月1日発行 NO.38)で、「月刊社民」08年5月号より部分転載、となっている。ぜひ多くの人に読んでもらいたいという思いに駆られて、その大要を以下に紹介する。文中の(注)は安原が記した。

▽ジョン万次郎の家を日米友好記念館に

 福島:ジョン万次郎(中浜万次郎・注1)がアメリカで最初に過ごしたマサチューセッツ州の住宅を修復して、日米友好記念館にする計画を進めていらっしゃる。・・・
 日野原:万次郎は14歳でアメリカに行って立派に成長し、ペリーの来る前に帰国してアメリカの実情を幕府に伝え、「早く門戸を開けなさい」と言って、勝海舟や福沢諭吉をサンフランシスコまで連れて行ったりした。こういう日本人はちょっといないですよ。
 万次郎の写真を1000円札に採用してほしいという運動も起こそうと思っている。1000円札なら子どもも使うでしょう。14歳の少年がアメリカ人に可愛がられて、その恩返しをしたという話は、子どもたちに希望を持たせると思います。

 福島:私が感動するのは、万次郎自身が特別な身分ではなく、普通の漁師の子どもだということなのです。
 日野原:そうですよ。万次郎が教育を受けた町にルーズベルト元大統領(世界大恐慌後の1933年から第二次大戦中までのアメリカ大統領、1882~1945年)のお祖父さんがいたのです。お祖父さんはルーズベルトに「あんな少年になれ」と言ったらしい。それでルーズベルトは大統領就任の時に万次郎のお孫さんを招待したのです。
 福島:当時の日本の寺子屋という教育システムが良かったのかどうか・・・、普通の人が本当に徳を持って頑張っていたということですね。
 日野原:そういう素質があったところに、万次郎を自分の子どものように育てようというアメリカ人がいたからでしょうね。それが素晴らしいですよ。

 (注1)中浜万次郎(本名・1827~1898年)は江戸末期、明治前期の英語学者。土佐(高知県)中ノ浜の漁民で、1841年出漁中に遭難し、アメリカの捕鯨船に救われる。以来10年間ハワイ、アメリカ本土で過ごし、英語・航海・測量などを学んだ。1851年に帰国し、江戸幕府などに海外の新知識を伝えた。1853年ペリー(アメリカ海軍軍人)の浦賀来航、開国要求を経て、万次郎は1860年咸臨(かんりん)丸(艦長・勝海舟)で遣米使節団の通訳として渡米した。

▽日本は武装をしない裸の国へ

 福島:会長を務められている「新老人の会」にも入りました。
 日野原:僕の「新老人の会」は究極的には平和運動です。憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割です。今後、改憲を問う国民投票が行われたとしても、自衛隊を自衛軍にする案には絶対に反対しなければいけない。やはり年をとった人が立ち上がりなさい、そういう運動です。
 福島:絶対に長生きしてもらわないと困りますね。万が一、国民投票になれば反対を投票してもらわないといけないし。
 日野原:そのために長生きの術を心得なければなりません。「新老人の会」は今、会員が6063人(2008年4月4日現在)、来年中に1万人にしたいのです。「夫婦で会員になって下さい」と呼びかけています。20歳以上はサポート会員です。やがて会員が5万人になると、日本を動かせるのです。
 福島:それが平和の思いになるといいですね。
 日野原:僕は、もっともっとはっきり「日本は武器を捨てる」というべきです。現状はアメリカの核兵器に守られているのだから、日本が核を持っているのと同じですよ。とんでもない国です。

 福島:国会では戦争を知らない2世、3世議員が勇ましいことを言うけれども・・・。
 日野原:近年、新聞(全国紙)は、12月8日の太平洋戦争開戦日について何も書いていません。真珠湾攻撃を受けたハワイでは、きちんと行事があるというのに。今、日本人のほとんどが満州事変(注2)も盧溝橋(ろこうきょう)事件(注3)も知らないし、旧日本軍が南京(なんきん)で何万という市民を殺したことも知りません。
 僕は京大医学部4年生の時に、先輩の石井四郎中将(731部隊・注4)から南京で妊婦を銃剣で突いているフィルムを見せられました。旧満州(現中国東北部)のハルピンで10人ほどの捕虜を独房に入れて伝染病の菌を食べさせたりして、菌が入って何日目に熱が出て、何日目に脳症を起こし、何日目に死んだという記録も見せられました。

 福島:実際に授業を受けられたというのも、すごい話ですね。
 日野原:みんな自分が殺しているような感覚になって、気持ちが悪くなって貧血を起こして倒れるのです。そうしたら彼は「誰だ貧血で倒れるのは。そんなことでは日本の軍医になれない」と言って脅すのです。でも彼は戦犯になっていません。
 福島:そうですね。731部隊は罪を問われていません。
 日野原:米軍が石井さんから、いろいろな細菌戦情報をもらうために戦犯を免責にしたのです。今の日本人は、そういう歴史を知らないのではないでしょうか。それを思ったら自衛軍をつくるなんてとんでもない。日本は武装しない裸の国になって、もういいことしかしないということを世界に宣言すれば意味がありますよ。

 (注2)旧日本軍の関東軍参謀らが1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖の満鉄線路を爆破し、それをきっかけに満州事変が始まった。 
 (注3)中国・北京市南郊の盧溝橋付近で、1937年(昭和12年)7月7日夜日中両軍が衝突し、日中戦争のきっかけとなった。
 (注4)「731部隊」は旧日本軍が細菌戦の研究・実施のために1933年(昭和8年)に創設、ハルピンに置いた特殊部隊の略称。秘匿名は「満州第七三一部隊」、正式名は「関東軍防疫給水部本部」。中国で細菌戦を実施するとともに、生体実験や生体解剖を行い、多くの捕虜がその犠牲になった。部隊長は石井四郎(1892~1959年)。

 福島:日本がどうやって平和な国であり続けられるのか、もっと前進できるのか、もっと考えてみます。
 日野原:もう、裸になるのが一番。裸になってどうして占領されますか。占領されるような気配があったら、国連は黙っていませんよ。犠牲はあっても仕方がない。インドのガンディーが殺されたように、アメリカのキング牧師がピストルで撃たれたように。インドはその犠牲によって無抵抗で独立しました。

▽いま伝えたい大切なこと ― いのち・時・平和

 福島:先生の『いま伝えたい大切なこと―いのち・時・平和』(NHK出版)などを読ませて頂いています。特に印象深かったのは、「命というのは時間である」と書いてある部分です。
 日野原:寿命というのは時間です。時間を自分がどう使うか。それが私たちのミッションなのです。『10歳のきみへ~95歳のわたしから』(冨山房)という本は読みましたか。
 僕が「日本人は寿命が長い」と言ったら、10歳の子どもが「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間、瞬間をどう入れるのかが私の仕事だ。とても難しい仕事だ」という感想文を書いた。それを慶応義塾大学の学生に読んだら「僕たちは今まで名門の大学に入ろうということしか考えなかった。いのちのことを考えたことは1回もなかった。10歳の子どもがそう言うのを聞いて涙が出た」という学生が2人いました。
 福島:先生は子どもたちに命をどう教えるか、一方では高齢者の皆さんに立ち上がって平和のことを言ってもらうこと。この2つをとても大切にされていますね。
 日野原:それが一番大切なメッセージです。そのために長生きして下さいと言っています。

▽新老人の生き方―3つの選択

 福島:もう一つ心に残っているのは、『生きかたの選択』(河出書房新社)で「新老人の生き方」として3つ提案されています。1つが人を愛し愛されること、2つ目がやったことのない創造的なことをすること。
 日野原:その思想は、僕が60歳の時にマルチン・ブーバー(注5)の「やったことのないことを始める老人は老いない」という哲学を読んでハッと思ったのです。

 (注5)マルチン・ブーバー(1878~1965年)はオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者。フランクフルト大学教授などを歴任、主著は『我と汝』(1923年)。

 福島:3つ目が粘り強く耐えることですね。
 日野原:耐えることによって、本当に不幸な人の気持ちが分かる。自分が失敗したり病気にならないと、分からないのです。僕が病気を分かっているのは1年間、結核でトイレに行けないほど苦しんだから。病人のそばに行くと、僕の態度や言葉が患者さんの心に通じるの。
 福島:先生の行動力、発言力はすごいと思います。
 日野原:年を取ると勇気が出るのです。若いときよりも、今のほうが勇気があるのです。
 福島:積み重ねてこられた人生があるし、先生がおっしゃることだったら、「そうか」と耳を傾ける人が多いと思います。

 日野原:自分のためにやるのではない。みんなの命のためにいいことを、やろうとしているから。
 私は(1970年に)ハイジャックされた「よど号」に乗り合わせましたが、帰ってくることができました。皆さんが同情していろいろな見舞いを下さったのですが、それに対するお返しは、別の人に返していくことで社会が良くなるのだと思いました。学校の社会科の時間は、そういうことを教えるべきです。
 福島:たしかにそう思いますね。私も育ててくれたたくさんの人がいるけれど、別の形で社会に返したいと思います。これからもますますお元気で、多彩なご活躍を楽しみにさせて頂きます。今日はありがとうございました。

〈安原のコメント〉― 日野原翁の若さの秘密は ?

 日野原さんが若さを持続させている秘密は何だろうか。
 その第一は100歳近い高齢で、高い理想を捨てていないこと。
平和運動に関与していることが、その具体例である。対談でのつぎのセリフは年齢を感じさせない。
*憲法9条を子どもに伝えるのは、戦争を知っている老人の役割です。今後、改憲を問う国民投票が行われたとしても、自衛隊を自衛軍にする案には絶対に反対しなければいけない。
*はっきり「日本は武器を捨てる」というべきです。現状はアメリカの核兵器に守られているのだから、日本が核を持っているのと同じですよ。とんでもない国です。

 しかも学生時代にあの「731部隊」の石井中将から直接授業を受けたという体験談は、生々しい歴史の証言となっている。

 第二は挑戦意欲が盛んであること。
 マルチン・ブーバーの「やったことのないことを始める老人は老いない」という哲学を読んでハッと思った、と語っているところなど、チャレンジ精神の原点というべきである。見習いたい。

 第三に利他主義の実践者であること。
 「自分のためにやるのではない。みんなの命のためにいいことを、やろうとしている」という発言は並みではない。本来なら若者たちが、「世のため人のために役立つ」という利他主義に立つこういうセリフをもっと口にし、実践すべきだが、翁の覇気に後れをとっている。


 なお日野原さんのことは以前にも、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」(08年2月15日付)に「山坂多い人の世と〈平和論〉」と題して掲載してある。

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演奏会、みんなで作る収穫祭へ

安原和雄
 「足利知足塾」主宰の柿澤さな江さんから最新の《野の花通信》(同塾会報第20号)が届きました。「横笛と琴の演奏会」、「みんなで作る収穫祭」など紅葉の秋にふさわしい催し物へのお誘いが載っています。柿澤さんは自宅の山林脇で農園も経営しています。その自然に囲まれた自宅での催しです。晩秋の足利の自然を堪能してみてはいかがですか。
 以下に《野の花通信》の内容(要旨)を紹介します。(07年11月3日掲載)


《野の花通信》
2007年10月30日
足利知足塾会報第20号
足利市大岩町428 柿澤さな江
090-1610-2134


□横笛と琴の演奏会へのお誘い!― 紅葉と夕日の美しい秋!

11月17日(土)午後3時開演 
参加費=500円(抹茶と和菓子)
なお駐車上の関係がありますので、できるだけ相乗りでお願いいたします。

 あっという間に、寒くなってきましたね。そのせいか夕日が少しずついい色になってきています。犬といっしょに見ていますが、だんだんと色を増していくようです。赤く染まり始める時刻も、少しずつ早くなっていきます。真冬に比べると、濃さはいまひとつですが、美しさは言葉では言い表せないほどです。
今回はお茶を習っている知足塾会員の皆さんや演奏者の皆さんが、着物でもてなしてくださることになりました。着物姿を見せていただくのも楽しみの一つになりました。参加してくださる方も、せっかくの機会です。眠っている着物さんを起こして、袖を通されるのもよろしいのではないでしょうか?
皆様のお越しを楽しみにしています。


◇みんなで作る収穫祭

11月23日(祝)
午前9時半から準備開始
会費=1500円 飲み物は、ビール・酒・コーヒーほか飲み放題

 今年はいつもと趣を変えて行います。参加者の皆さんに、いっしょに準備から参加してもらいます。
1.手打ちそば と 天ぷら  
2.トン汁作り  
3.五平餅作り
4.燻製作り、とりをつぶして中に詰め物をする。などなど。

 燻製作りの達人さんがアドバイスをしてくださり、当日は鳥の詰め物の料理をするなべを貸してくださることになりました。そして作り方も指南していただきます。鶏は、家で愛情をかけて育てた鶏を使います。
 日ごろはお忙しい皆さんと、ゆっくりと飲み・語り合いたいと思います。
 参加を希望される方は、材料の準備がありますので、事前に申し込みいただきますようお願いいたします。


●そばは今年も残念

 せっかく種をまいたのに、今年は完全に成長不足でした。昨年と同じ時期に蒔いたのに、ちっとも大きくならず小さいままで花を付けました。10月になっても背は伸びずじまいでした。雑草をとってみても効果はなく、今年も残念ながらあきらめることにしました。 ですので、家の畑でとれたそばというわけには行かなくなりましたが、新そば粉を手に入れて、そば打ちを11月23日には行いたいと思います。


◎柿がとれました! 50個くらいです!!

 久しぶりに柿が実をつけました。剪定をしっかりやって2年目のことです。早速さらし柿を作りました。収穫時期が少し遅かったせいか、焼酎に漬けて2週間で半分くらいはやわらかくなってしまいました。
お店に来た新聞の集金のおじさんは、元柿栽培の専門家でした。2年もかかってやっとそのことがわかりました。
柿畑には、石灰をまくこと。肥料は骨粉や油粕をやること。柿の実1個に葉は25枚まで。虫退治の方法など。
今度は、実地に畑でいろいろアドバイスをしていただけることになりました。
うれし~い!!
来年はもっとたくさん実がつくような気がしてきました。


▽予告=来年新年会

 ちょっと早すぎますが、来年も新年会を開催します。2月中旬を予定しています。手作りのお弁当、お雑煮、おとそ、そして、語り合い。
 今回は、ゲストをお迎えします。
 山川町にある長林寺住職の矢島道彦さんです。ご専門は、インド哲学です。
 五木宏之さんが書いた「林住期」(古代のインド哲学にある考え方からタイトルがついています。)を取り上げます。人間の人生で言えば、50歳から75歳くらいまでの時期を「林住期」というそうです。この時期をどう生きていけばよいか、本の読後感想なども交えて交流していきたいと思います。
 11月24日には、打ち合わせに長林寺を訪問します。秋の紅葉が楽しめるかもしれません。

▽「柿の実ブログ」開設しました。
http://kakinomiblogzine.jp/blog/


(寸評、提案歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなく、仮名でも結構です)
Buddhism and World Peace(Ⅱ)
The 2nd Nepal‐Japan International Buddhist Symposium on “Buddhism's Contribution for World Peace” was held from the viewpoint of the Buddhist Economics in Nepal, December, 2006. The main panelists of the symposium are members of Society for Buddhist Studies, Nepal and Buddhist Economy Forum, Japan.
The paper presentation by K.Yasuhara and the Nepal Declaration are reported in “Buddhism and World Peace(Ⅰ)”. The Paper presentaions by other three panelists in “Buddhism and World Peace(Ⅱ)” are as follows:


<1>The paper of Dr. Naresh Man Bajracharya, who is a member of Society for Buddhist Studies of Nepal, is as follows(full text):

Understanding the Law of Dependent Origination
for World Peace


Dr. Naresh Man Bajracharya (Ph.D.)
Head
Central Department of Buddhist Studies, Tribhuvan Unjversity, Nepal

Peace:
Peace is a state of mind. When mind experiences pleasure then peace prevails. Tranquility, Calm, Silence, Stillness, Serenity and Harmony are the synonyms of Peace Pleasure arises from the satisfaction.

Peace is the ultimate goal of every Human being, Nation and World alike. Peace can be judged at three different levels. They are Personal Peace, National Peace and International Peace or World Peace.

i. Personal Peace:
Personal peace is concerned with the peace, attained by a person through certain means. The means may or may not be favorable to others but it does not matter. The peace would be limited within the very personal level and this could be momentary or of longer duration. In other words, it can be said that an individual feels satisfaction with the fulfillment of his individual wish. This satisfaction leads him/her to the state of peace.

ii. National Peace:
Good economic position, sound health, high literacy rate, satisfactory social security and national security, prevalence of human rights, gender equality, job opportunity, harmony among the all castes, ethnic groups, religions etc. lead a nation to the state of peace at national level. National peace can prevail with the development of a nation in all respects. National peace is concerned with the welfare of a nation in totality. Peace in society is a part of national peace.

iii. International Peace or World Peace:
In general, International peace means prevalence of harmony between countries and guarantee of no attack from neighboring countries. The main cause for the disruption of this world peace has been thought to be the WAR but war is neither the cause nor war can be the solution for peace, to my mind.

The development of a nation in all respects brings peace in a nation. Likewise development of all nations in all respects introduces actual peace in the world. The development of a nation or world in all respects depends on the politics of the nation or the world. Politics is the science of policy making and serving people in term of ruling a nation. Vision of the politicians is the main cause for the development or destruction of a nation or world. It is not universal that all the politicians possess right vision. Some politician may possess wrong vision intentionally or through ignorance.

The right vision of the politicians lead the nation or world to the state of development of a nation or world in all respects, while the wrong vision of politicians lead in the state to destruction of the nation or world. It is therefore; I assume that "right political vision" is the root cause for the world peace.

Buddhism:
Buddhism is a man-made religion that is why it deals with human behaviors; human needs, wants, problem and finally the solution. Beyond doubt, Buddhism deals also with the welfare of all kinds of creatures. Identification of problems, finding out the cause behind the problem, thinking of possibility of solution to eradicate the problem and pointing out the way to solution of problem are the steps of thinking process of Buddhist philosophy. To be engaged in welfare for other is another important part of Buddhism.

It is well known fact that Buddhism is the rationalism vs. superstition and emotional response. Buddhist thinking process and thoughts are found to be more scientific by modern scholars. It is also accepted universally that Buddhism is a peace loving religion.

In Buddhism there are a lot of philosophical principles and practices that could be instrumental for bringing world peace. Among those I would like to highlight only one philosophical principle i.e. "the Law of Dependent Origination"*1 for world peace. This law is the main foundation for basic to higher Buddhist philosophies. Buddha said "who understands the law of dependent origination, he visualizes the Buddha in reality".


The Law of Dependent Origination:
According to Buddhist view every entity-both living and non-living being- come into existence depending on other. Similarly, extinction of each takes place in the absent of other. In other words, existence of one entity causes for the existence of other entity. Similarly, extinction one entity causes for the extinction of other entity.

The law of dependent origination testified the following facts:
No body/no thing is perfect in itself/own self.
No body/ no thing is supreme power holder.
Everybody/everything possesses its value and importance.
Co-existence is the ultimate truth of the existence of world.
Therefore, One should/can not ignore or underestimate other.
One must respects others' existence.
Mutual respect is the long life of the world.

Based on the above-mentioned points it can be stated "mutual respect brings peace, while mutual underestimate brings conflict". For instance, in the past history of Nepalese politics one party accepts the existence of other parties only dramatically but not actually. Parties were busy in leg pulling policy for personal benefit rather than national benefit. This practice could be found within the party, which brought disintegration in the party. The policy of ignoring oppositions or neglecting others in terms of politics was widely practiced. As a result, political settlement could not take place in Nepal, thus people are suffered and sought after the peace.

In context to the present political situation on one hand each party seems to have actually accepted the existence of other parties, and then they became ready for table talk and were finally united. Even South Pole and North Pole met at the same platform and held "scholarly talk" They came to the summit-point of agreement for political settlement and which finally resulted in the signing of the "National Peace Agreement" on Nov. 21, 2006 at 8:29p.m. It would be a noteworthy to quote here a piece of interview of Prime Minister G.P. Koirala. He says " ...though Nepal is poor and backward, people of the land of Buddha had once again proved that they still had capacity to give message to the world about the ways of finding peace."
After the signing of the National peace treaty neighboring countries also started to take peace-breath. It is because the peace in Nepal has bearing for the peace in their country too.

On other hand the One, who ignored or underestimated others' existence, is now facing the uncertainty of its existence.

In the context of world whenever whichever countries tried to show its supremacy and acted against the existence of other countries then world faced turmoil. At present world too some countries have been trying to show their supremacy through war, nuclear test etc. This has brought dissatisfaction and turmoil among the countries, which are seeking peace.

Conclusive remarks:
The "Law Dependent of Origination", discovered by Sakyamuni Buddha is a scientific fact rather than a religious philosophy or belief. The law teaches us the fact that each depends on other and cause brings effect. It is therefore; can be assumed mutual respect brings peace, while mutual underestimation brings conflict. Here it can be pointed out that politicians must be aware of this scientific fact-the law of dependent origination-for world peace.


<2>The paper of Mr. Seigo Tsujii, who is a member of Buddhist Economy Forum of Japan, is as follows(summary):

Peace and Buddhism- From the historical viewpoint-

Seigo Tsujii
Lecturer, Obirin University

 Every religion hopes peace, based on desiring the spiritual and the practical peace in every adherent, besides the Buddhist. However, as you can appreciate well, historically and even today, religions have been often inclined to feel more concerned in violent behaviors including wars, than in devoting peace through expanding own mission by taught. The spiritual peace and identity for protecting each adherent, conversely speaking, may be risen friction among the adherents belong to other religious associations and sects, moreover, concerned with political and social elements, we may often observe, in reality, the confusion of peace.

Buddhism may be often called relatively wider peaceful religion in taught than other internationally wide religions. Surely, in the view of its missionary works to Asian areas, Buddhism has been pursuing to be familiar in associated with the native worships, traditional manners and customs, as a result, often induced to each native intents and interests, the defense of the country, the governance by different ethics, comparatively, without carrying the violence. However, this may not always follow that Buddhism may not be related with violence at all.

In our history, we had met radical movement between Buddhists group and administration., for example, in Edo period, Tokugawa adminisration had decided to set up special legal system, the Law to control Shrines and Temples. By establishing this legal system, the administration could indirectly turned to prohibit the faith of Christianity as well as firmly could protect Buddhists about 3 centuries to keep them in the control of the administration and support the policy. In World War Ⅱalso, under serious religious control by the government, some Buddhist sects group and leaders supported for the War .

In these historical situations, Buddhism has shown its reaffirmation for the historical importance toward violent movements. Thus, we need gaze carefully at present situation not only as society, but also as a individual, from the view point what and how we should contribute Peace towards future world. We can see vividly some significant and specific feature that Buddhism has continued to maintain the tolerance and the patience against violence for a long time.

First, Buddhism has been developed own taught and practice under the hard non-violence and also mainly by its composite shapes.
Secondly, we may deeply examine that Buddhism has been expanding its teaching in Asia regions, receiving deeply by its nature and mission without showing any vivid violent movement, by its universality in both its teaching and its practice towards all persons of understanding..
As you know, Buddha clearly taught us thought which still being alive in our life, such as Transienty , Fatanity,Buddha-store, Vanity(Sunya), Buddhist nature , Relief and the building of the land of Buddha by Buddha and Bodhi-sattva, through Enlightment (Nirvana) and spiritual control by everyone’s hard practice in each field. These teachings mentioned have been expanded beyond nations and deeply made people awakened sympathy. Besides these taught, the concept of Transmigration (Samsara) has been interested in deeply Japanese mind, in particular, being mutually impressive and fresh harmonized with our thought of our traditional Shinto , such as ancestor worship and requiem mass for our fore-fathers.
Thirdly, it is Sentient beings (Sattva) that Buddhism creates and stands for all to be characteristic for Peace. Sattva is called a general term of Human beings, Animals, and Gods. And, it is also our cycles of life, and, it is called the original elements of Five commandments(against murder, lust, theft, lying, and intemperance) ,and Affection in the teachings.

Everyday and everywhere, we see uncertain situation and issues against security and peace in many areas, and cannot but feel sense of threat, being caused by political, economical and social situations. As you may consider deeply, compared with past, it has expanded and increased more and harder than last decade. Under these trends, we are certainly so inquired what and how to do for pursuing peace as a simple worshipper, that it is important how we ourselves carefully see present, and think, and behave to solve present and promote Peace.
Whenever I remind of the above, often I recall myself some Buddha’s taught, to think of present world is in a hard chaotic states. Buddha taught in it as follows. ”There are 6 points you take precautions against the time you bring good friends, have honor, contribute the society, escape conflict, and finally enlighten peace.”
1.To think issues for affection.
2. To express words for affection.
3.To perform deeds for affection.
4.To share anything with your friends together whenever you could get.
5.To keep always carefully the moral and discipline is honored by the prudence.
6.To think and live always with the thoughts make your heart pure, happy, and in peace.

And, we, Japanese, still remember the word expressed by Late President of Sri Lanka ( Ceylon ) at the time of ceremony of signing of San Francisco Peace Treaty, 1951, quoting from “Dhammapada”, “Truly in this world, if we return a grudge with a grudge to compensate a grudge, a grudge never cease forever. A grudge ceased by giving up a grudge. This is eternal Truth.”
By expressing this clearly, President decided to give up requiring the fund for Ceylon’s compensation to Japan. Concluding my paper, I would ask your understanding, how we use our knowledge, what we can do, and what we should and must behave to meet and solve the theft against Peace as a Buddhist as well as a Worshipper of religion, harder than before toward tomorrow.


<3>The paper of Mr. Tri Ratna Manandhar, who is a member of Society for Buddhist Studies of Nepal, is as follows(summary):

Peace through Buddhist Ideal of Economic Development

Mr.Tri Ratna Manandhar
Lecturer, Tribhuvan University

Introduction
The discourses given by Buddha to different classes of people, to the people of different occupation, at different places if are studied, the stock of knowledge on different field could be gained. The main objective of delivering the discourse by Buddha was to make more people happy and welfare. So, Buddha had highlighted different aspect of the social life of human being, to make their life easy and happy.

Buddha’s inspiration for involving in economic activities
Buddha, in his 45 years of discourses, had given several teachings on economic development in micro and macro level. People generally tend to consider the Buddha’s teaching as an escape or withdrawal from active life, retiring into temple, cave or forest leading a lonely life off totally from the society. However it is clearly a misunderstanding to the teachings of Buddha. In fact one can find in the teachings of Buddha an inspiration to working hard for the economic development.

State’s responsibility for economic Development (macro level)
Buddha also had given several discourses on the responsibility of state to make economic development.
It is important duties of state to provide the opportunity of jobs, because people need job to earn money. It makes their life easier. Lack of job opportunity increases the unemployment problem which compels the unemployed to involve in evil works hampering both the society and the state. So, it is duty of the state to create sufficient job opportunity to overcome the evil deeds. So, Buddha stressed on providing more job opportunities to the people. According to him it is the responsibility of the state to manage job opportunities for the peoples according to their ability. It makes the people happy and brings peace in the society.
The capital given to entrepreneurs will promote the production and generate income making the country prosperous.
In this way Buddha has emphasized the obligation of state to give job opportunity for the people. The sufficient job opportunities only can make the people engaged in business.

Ethical practice in economic activities for making world peace
Nowadays in the name of economic development the people are also producing different types of liquor, drugs and selling these with handsome price and raising their standard of living.
The productions of different types of weapons are being increased by the developed countries for their economic development. Similarly there are so many product items available in the society that instead of giving advantage harm the consumer as cigarette, tobacco etc.
In this way economic activities performed in the certain corner of the world could produce several problems all over the world. Life of several people is being threatened in the name of economic development in certain part of the world. The health and wealth of the several people are being damaged by the so called economic activities by producing weapons, liquors, drugs, cigarette etc.

The economic activities which are pronounced with pride are lacking the ethical value. So, to prevent the world from further damage in the name of economic activities the ethical values are being compulsory to blend on it. Only then the people can live prosperously as well as peacefully. The prosperity without peace is meaningless.
In this context Buddha had said that economic security should go on arm in arm with spiritual values. Man should not deviate from the path of duty, rectitude and righteousness but should try to seek a balance between material and spiritual values

Previously the economists were not interested to include the normative aspect in economics. Even some economist as Robbins thought that the economics is a pure science and as such it is not concerned with right or wrong but many economists nowadays think that economic aspect cannot be disassociated with ethics and moral activities. Ethics is taking as the hand maid of economics. So, the section of welfare economics has been added to the modern economic theory which is trying to establish norms of behavioral activity. The term “Social rationally” of economic activity is to be interpreted as that activity which ensures optimum allocation of resources and therefore guarantees maximum social welfare.

In this regard Buddha from very beginning had alerted that the economic activities should not be done at the cost of the life & security. It should not exploit the right to live peacefully of the living beings. Buddha in the discourse on eight fold Nobel paths had delivered the teachings on right livelihood, prohibiting five types of economic activities in the society which eventually increase different types of problem and damage the peace and prosperity.

Those five prohibited economic activities are as follows:
1.Sattha vanija- Business of arms and lethal weapons
2.Mamsa vanija- Business of meat of animals
3.Satta vanija- Business of animals
4Majja vanija- Business of intoxicant i.e drugs etc. which damages thinking power of human
5.Visa vanija- Business of poison

It can be said that Buddha had identified the social problems arising in the society and its increment day by day due to the development of the wrong economic activity. The increment of such activities will increase the problems of world and vice versa. So, Buddha’s teachings should be heartedly taken by the modern economists in other to make the world economically sound, prosperous, safe and peaceful.

The social, national and international problems are increasing day by day due to the business of weapons. Easy availability of the weapons is adding to violence and murder in the society.
Now-a-days the developed countries are producing the modern sophisticated weapons in other to establish their supremacy over the world. The economies of such country are getting prosperous due to the export of weapons to the developing country. The weapon based economy is getting popular among such countries. Such countries import almost all daily necessary items from other countries while they focus their production and export in lethal weapons. The weapon based economy is making the world very fearful. Even some developing countries are making the nuclear weapons curtailing their budget to other necessary products. So, the fearful situation is arising day by day due to the increment of such destructive materials that could damage the world for several times.

The word “World Peace” is pronounced every time in the meeting of UNO(United Nations Organization) but participant countries could be found producing and exporting harmful weapons simultaneously as their whole economy is based on such harmful products. Until such double standard policy (hypocrisy) is exercised by the developed countries the world peace would be far away from the human society.
Similarly the economy of certain countries is based on the production of intoxicants. They produce liquors, drugs to export to other countries which can damage the health, wealth and morality of people.
In this way the economic development of the certain countries, without ethics and morality, is going up at the cost of high death rate of young people, at the cost of social evil and at the cost of destruction of society and whole world. This type of economic activities can not be accepted and admired in any way and should be timely checked. This is only possible if people are aware of the teachings of Buddha.

Saving-investing and Buddha’s teachings Economic development of an individual is also the outcome of saving done by him. Saving of earning enables the individual to invest that multiplies his income. So, multiplication of income is possible when the people are habitual of saving and investment. But human wants are unlimited and the resources are limited that cause difficulty for people to save the earning. Rather they think their income is inadequate even to fulfill their basic needs. But if we scrutinize the consumption pattern of each individual we can conclude that every person more or less expends their income for the unnecessary and harmful products, because of the habit, social pressure, tradition etc. The consumption of liquor, cigarette etc increases their expenses in worthless products, in one hand and in long run they exploit their health that again makes them to afford significant amount for medicine, doctor, nursing home etc.

In this respect Buddha also had given the teachings of 15 Charana (behaviors) that make the people happy. Among the 15 behavior (Charana), Bhojane Mattanyutta the meaning of which is to know the adequacy of consumption is one of them. Bhojane Mattanyutta gives the message of being alert in consumption of food. It tells people should consume only such amount of food for which they can afford and which makes them healthy. It suggests giving up the excess amount of food that causes them unhealthy and not using such food which is not concerned with the nutrition of the body. The people should eat to live but not live to eat.
If those teachings of Buddha are followed, the significant amount of income can be saved. People would be able to make investment that multiplies their income.

How much importance, the Buddha had given to saving and investment can be known by the following verse:
Evam Bhoge Samagamma, alamatto kule gihi
Catudha Vibhaja bhoge, save mitte bandhati
Ekena bhogan bunjettha, dvihi, kamman payojati
Chatuttha hidhapepya, apadasu vavissatitti

This means:
“Earning should be divided into four parts; one part should be used for consumption, two parts to retain for business and one part to keep as contingency.”
This verse gives the message of proper management of earning. Buddha by this verse had conveyed the people to retain and invest the significant portion of income. It also proves the Buddha was very much alert in saving the income for investment and eventually in the growth of economy of individual.

Conclusion
The economic development without moral and ethics does not confirm stability of the peace and prosperity. The development measured only by economic yard-stick can not guarantee the welfare of society. Instead, if economic activities are done without ethics and moral value, it creates problem in the world making more people unhappy, fearful, unsatisfied etc. The so called economic development without ethical values may be burden for the majority of the people. The ethical values can be induced in the economic activities by blending the Buddhist idea into economics theory. (The End)

Buddhism and World Peace(Ⅰ)

The 2nd Nepal‐Japan International Buddhist Symposium on “Buddhism's Contribution for World Peace” was held from the viewpoint of the Buddhist Economics in Nepal, December, 2006. The main panelists of the symposium are members of Society for Buddhist Studies, Nepal and Buddhist Economy Forum, Japan.

<1>Nepal Declaration was adopted at the symposium .The full text of the declaration is as follows:

NEPAL DECLARATION

The symposium on “Buddhism´s Contribution for World Peace” was successfully held on the occasion of 50th anniversary of Nepal Japan Diplomatic relation at Hotel Shanker, Kathmandu on 4th December, 2006 and at Hotel Nirvana, Bhairahawa on December 6, 2006 by the joint effort of Society for Buddhist Studies, Nepal and Buddhist Economy Forum, Japan. After listening and discussion on the Symposium paper, the participants hereby announce the following declaration.

1. War is neither the cause nor it can be the solution for peace. Mutual respect brings peace ,while mutual underestimation brings conflict. Buddha says the truth “Hatred does not cease by hating. Only loving kindness abolishes hatred.”

2. Co-existence of animate and inanimate beings, which is the ultimate truth for the existence of world in totality, is the central idea of Buddhism. Feelings of co-existence on the ground of the law of dependent origination, the foundation ofBuddhist philosophy, should be developed for world peace.

3. Human being cannot live without economic activities but various unfair economic activities are also being carried out which resulted many problems. Understanding economic activities, guided by teachings of Buddha.(Buddhist economics)would stop the prevailing unfair economic activities

4. Business of lethal weapons, liquors and drugs, which cause the damage of health, wealth, and morality of whole mankind, has declared as the wrong business in terms of wrong livelihood. Such wrong economic activities should be discouraged at the international level to promote global peace.

5. One of the main objectives of every religion is to make peace in the world. But ironically, its adherents are exercising friction among themselves and with other religions. In this way they are unknowingly assisting violence. Only the right understanding of the philosophy of religion can abolish violence.

6. The prevalence of racism and system of castes is also creating conflict in the world. In this context, Buhhda'steachings about "wise people" (Brahmins)"i.e." Man would be wise by wisedom, not by caste(and power)"would be helpful to stop the sectarian conflicts and conflict between the religions.

7. Basic Buddhist teachings would be helpful to the leaders of the world so that they can rightly design policies in order to administer the country and world peacefully. It is because peace is mandatory for actual development of all nations in the world. The development of a nation or world in all respects depends on the politics of the nation or the world. "Right political vision "is the root cause for the world peace while "wrong political vision"is root cause for turmoil.

It is hoped that these declarations will certainly be helpful in prevalence of World Peace .


<2>The speech of K.Yasuhara, who is a member of Buddhist Economy Forum of Japan, is as follows(full text).

Buddhism's Contribution for World Peace

Kazuo Yasuhara Professor emeritus
Ashikaga Institute of Technology

 It is my great honor to have an opportunity to speak at the 2nd Nepal‐Japan International Buddhist Symposium, Dec. 4(6).2006, Kathmandu(Lumbini, the birthplace of Buddha), Nepal.
First, I would emphasize that the 8th World Assembly of the World Conference of Religions for Peace was convened in Kyoto, Japan last August, gathering more than 800 religious leaders from over 100 countries and addressing the theme,“Confronting Violence and Advancing Shared Security.”
The key points of the Kyoto Declaration on Confronting Violence and Advancing Shared Security are as follows :
・We uphold the value of life manifest in human community and in all creation.
・Meeting in Japan, the nation that experienced the horrors of nuclear attacks, we commit ourselves to continue to struggle toward comprehensive nuclear disarmament and against the proliferation of arms.
・Today, we live in a world in the grip of many forms of violence . Violent conflicts take lives and destroy communities. Religious communities in particular must play a central role confronting violence in all its forms .
・We are determined to mobilize our religious communities to work together and with all sectors of society to stop war , struggle to build more just communities , foster education for justice and peace , eliminate poverty and advance sustainable development for future generations .

The Kyoto Declaration states that the threats of violence have become diverse and daily in the present world . The concrete examples are as follows :
・Today, genocide , state-sponsored repression , terrorism , and other forms of human rights abuse violate international law , target innocent civilians , and threaten the safety of many communities .
・Conflict-related disease , famine , displacement and environmental catastrophes constitute serious threats to life .
・Economic injustices leading to extreme poverty and hunger kill 50,000 people each day .
・Many corporations , especially at the multinational level , set their business interests without concern for values that foster sustainable development .
・Enviromental degradation and dwindling resources threaten our planet' s ability to sustain life .

Another important point of the Kyoto Declaration concerns with existing notions of security as follows : 
・National security does not necessarily ensure peace ; in fact , it often promotes violence and foments insecurity .

 Well , what should we do to confront diverse and usual violence , to protect our life , and to make peace on this earth ? From the viewpoint of Buddhist economics , I want to make some proposals as follows :

(1) About applications of the fundamental thoughts of Buddhist economics . Those are as follows :
・to shift from greed to self-sufficiency , called “Chisoku” or “Taruwoshiru”in Japanese , in  order to bring non-violence by self-sufficiency .
・to fulfill the primary injunction of Buddhist teaching : cease to kill or to steal , in order to build world peace .
・to construct simple economy without waste in order to lead to peace - oriented socio-economic  system .

Well, not only Buddha , but also ancient Chinese philosopher Lao -tse denied greed and said“To know when you have enough is to be rich.” We need to notice the report of“State of the World 2004”edited by the WorldWatch Institute of the U.S.says that it is necessary for consumers to learn this ancient wisdom . Now we know that such a way of thinking and living as restraint and moderation appeals to persons also in the U.S.
Furthermore, Lao-tse said that evils of wars were brought about by rulers' greed . I expect that Mr.George W. Bush , President of the United States of America, should learn a lot from this wisdom, because his thought of greed itself leads to military attack and occupation in Iraq .

What does it imply now to cease to kill lives or to steal others' property ? The implications of no killing are as follows :
・to have compassion for all lives including both human and non-human which co-exist in equal and mutual interdependence system .
・to cherish and preserve the natural environment .
・to refuse use of diverse violence including military forces .
The implications of no stealing are as follows :
・to stop greedy economic growth , which causes waste of material resources including energy.
・to stop holding military forces , which bring a huge waste of human, material , financial and natural value .
・to stop injuring human nature due to unemployment , which violates the human dignity and deprives people of their rights and opportunities to work .

Simple economy implies restraint and moderation to be substantially different from greedy economy. It also means a new type of economy to fulfill the rules of no killing or no stealing . In other words , it means neither to desire violence of war nor to waste much more oil .
Dr. E. F. Schumacher, German thinker who advocated Buddhist economics in 1973 , pointed out on the theme, “Simplicity and Non-violence ”in his writing : “Small is Beautiful”. It is as follows :
“Simplicity and non-violence are obviouely closely related. As physical resources are everywhere limited, people satisfying their needs by means of a modest use of resources are obviously less likely to be at each other's throats than people depending upon a high rate of use. Equally, people who live in highly self-sufficient local communities are less likely to get involved in large-scale violence than people whose existence depends on world-wide systems of trade.”

(2) About the global practices of thoughts of Buddhist economics . These are as follows :
・to abolish nuclear weapons completely, to reduce armament and to scrap military alliances in the world .
・to take the initiative in transforming the existing Japanese military forces into a global and unarmed Rescue- Party called “Chikyu-Kyuentai”in Japanese .
・to aim at shifting from the existing waste of oil - driven economy such as the U. S. and Japan to a new type of and saving of oil - oriented economy .

Well , Article 9 of the Constitution of Japan provides renunciation of war and demilitarization . Many Japanese people are proud of this Article 9 as a most valuable asset of human beings .
Buddha , if he were alive today , undoubtedly would preach :“Now you must devote yourselves to the globalization of the ideal of Article 9. If you neglect to do it, you can not practice compassion or give benefits to others , namely altruism . ”
Today , there are about thirty thousands nuclear bombs which are mainly under the control of five big powers : the U.S., U. K., France , Russia and China . We can not secure world peace without abandoning all these nuclear bombs .
Military forces cause increase of financial debts , deterioration of national life and vast waste of natural resources . Military alliances are likely to maneuver military actions under the pretext of world peace . What is worse , military forces are of course useless to the enormous threats and violence which all human beings get involved in nowadays : for examples, huge natural disasters and extreme weather events following global warming , destruction of natural environment , disease , poverty , famine on a global scale .
Nowadays, military forces produce all evil and no good . Therefore, I strongly hope the Rescue -Party of Japan to cope with such global and non-military threats as mentiond above .

Self-sufficiency , “Taruwoshiru”in Japanese , namely simplicity secures non-violence , but greed runs for violence . The typical example of greed and violence is the U. S. military actions in Iraq . The U.S.intends to manage the oil of Iraq , of which oil reserves rank second in the world . Japan also aims at ensuring stable supply of oil from the Middle Eastern countries by dispatching military forces to help Iraq to recover the political and social stability .
Both the U.S. and Japan give a top priority to maintain the existing waste of oil - driven economy. We can not shift from war and violence to peace and non-violence without transforming the waste of oil-driven economy into simple economy .

I believe in the teaching of Buddha that it is the best way to make peace and non-violence in the world by not greed but self-sufficiency . Thank You
(Other speeches are continued)
広がってきた「もったいない」
足利知足塾ともったいない学会

 安原和雄
 足利知足塾(塾長・柿澤さな江さん、顧問・安原和雄)の会報「野の花通信」(2006年10月24日付)が届いた。この知足塾は05年7月、栃木県足利市、柿の実農園内のそば屋さん「大海戸・だいかいど」(店主・柿澤一雄さん)にて「食と農」に関心を抱く地元の人々が集まり、発足したもので、それ以降、知足(=足るを知ること)にまつわる多様な活動を繰り広げている。
 今回は足利知足塾における「もったいない」をテーマとする美術展開催のほか、もったいない学会の発足など広がる「もったいない」の近況を報告する。(06年11月7日掲載、同月9日インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「もったいない」を合い言葉に美術展を開催中! 

以下は会報「野の花通信」による便り(趣旨)の紹介である。

 柿の実農園での今年の「小さな美術展」テーマは「もったいない」としました。ケニアのマータイさんの考えと実践に共感して取り組むものです。
 一番大事にしたいのは、「リユース」(再使用)。一度使ったものでも、まだ役に立つものであれば、心をこめて大事に使いたいですね。「リユース」作品として、羽織から作った着物や着物地で作った壁掛け、帯で作ったバッグ、七五三の着物をベストにしたものなどが出品されました。

 「リデュース」(ごみ減量)は、毎日の心がけとしたいものです。必要以上に買わない、使わない。私もこの頃は、簡素な生活で満足できるようになりました。知足の考えもここにあると思います。
 「リサイクル」(再生利用)は、よく考えながら実行したいと思います。今回は、佐野にある「アークス」という通所施設で作っている廃油から作ったせっけんとアロマキャンドルを展示します。
 そのほかに、自然の蔓を利用して籠を編んだものや、藁草履(わらぞうり・自作ではなくお土産屋さんで買ってきました)もあります。
 絵手紙は、今回も昨年出品してくださった皆さんにお願いしました。
 いのちと物を大切に思う人たちの作品展です。

*展示期間=11月4日から12月31日まで。
 ただし、そば店「大海戸」(柿の実農園=足利市大岩町428、電話090-1610-2134)の営業時間中で、土、日曜日の午前11時半から午後3時まで。
 食事をしないで作品を見るだけでも結構です。「もったいない」をみんなの合言葉にしていきましょう!

 なお柿の実農園での秋の収穫祭を次の日程で実施します。 
*11月23日(祝日)午前10時より
 そば打ち体験(一人1000円 持ち帰りもできます)、3名募集。
*同日12時より収穫祭食事開始、参加費=1人1000円 
メニューは、自家栽培の新そば、煮物、天ぷら、サラダ、おしんこ、飲み物、デザート。アルコールは別料金。定員は30名を予定。
*参加者は、事前のご連絡をお願いします。

▽石油依存の生活から脱却しよう!

 毎日新聞(11月5日付)は、以下のような見出しの記事を報じた。興味深い記事なので紹介したい。
 見出し=もったいない学会が発足―石油依存の生活から脱却しよう
 記事(一部)=今後10年以内に世界の石油産出量がピークを迎えるという「石油ピーク」説を背景に、石油依存からの脱却と生活スタイルの変革を唱える人たちが、「もったいない学会」(会長・石井吉徳東京大名誉教授)を発足させた。「もったいない」を100万人の国民運動にすることを目標にしており、年明けにNPO法人を設立する予定だ。

 同学会の「設立声明文」(要旨)は以下の通り。
*地球は有限である。人間の「飽くなき欲望」をそのままに、持続型社会などありえない。
*対策としてはまず「脱浪費」で、「もったいない」はその行動原理である。
*具体策は、車の多用を止め燃費の良い車に乗る、鉄道などの大量輸送機関を利用する、地方を大切にする、石油依存型農業を見直す、ポリ袋を止める、商品の梱包を見直す―など「脱無駄」を工夫する。

▽「もったいない」を重視する仏教経済学

 以上の設立声明文の大筋には賛成したい。私は数年来、「もったいない」精神の再生とその普及が必要であることを説いてきた。多くの大学経済学部で教えている現代経済学は破産状態にあるととらえており、それに替わる新しい21世紀型経済思想として、釈尊の教えを経済や暮らしに生かす仏教経済学の構築が重要であると考える。

 仏教経済学の八つの柱として、いのちの尊重、知足、簡素、非暴力(=平和)、多様性、共生、利他、持続性―を挙げることができる。いずれも現代経済学には欠落している柱である。このように知足(=足るを知ること)、さらに簡素、持続性を重視する仏教経済学の観点からいえば、「もったいない」は大いに強調しなければならない。

 この「もったいない」にかかわるキャンペーンは、毎日新聞がケニアの環境保護運動家、ワンガリ・マータイ女史(04年ノーベル平和賞受賞)と連携して進めている。05年2月に初来日したマータイさんは仏教精神に基づく「もったいない」という言葉に出会って感動し、それ以来「MOTTAINAI」を環境保護の世界共通語にすることを念じて、国連をはじめ世界各地を行脚している。

 先日夕刻、東京・銀座を歩いていたら、背後から「もったいない」を連呼する声が聞こえてきた。振り返ってみると、銀座ど真ん中のビル壁面のビデオに映し出される女の子数人が踊りながら連呼している。一瞬「もったいない、もここまで広がってきたか」という感慨を抱いた。

なおこの仏教経済塾に掲載している「仏教経済学ともったいない」の関連記事は次の通り。
*なぜ〈仏教〉経済学なのか?―仏教経済学とみどりの思想(つづき)=06年7月26日掲載
*仏教経済学と八つのキーワード―新たに多様性を加える=06年7月19日更新
*足利知足塾が発足―21世紀は知足の時代=05年8月15日掲載


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財界総本山でコスタリカが話題に
 長期的視野で発展するモデル国

 安原和雄
 (財)経済広報センター(経団連による設立)主催の企業倫理シンポジウムが2006年5月15日、財界総本山・日本経団連(会長・奥田碩トヨタ自動車会長)の経団連会館(東京・千代田区大手町)で200人を超える経済人を集めて開かれた。
 日本経営倫理学会会員でもある私(安原)も参加したが、席上、中米の小国コスタリカが一つの模範的な国として話題になった。私は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人の一人として、多数の経済人が集まる場でコスタリカが話題になり、しかも高い評価を得るのは珍しいと思うので、その内容を紹介したい。(06年5月18日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」に同月20日転載)

 企業倫理シンポジウムにスピーカーとして出席したのは、企業倫理の分野では米国でも定評のあるブリガム・ヤング大学マリオット・スクール・オブ・マネジメント学部長、ネッド・C・ヒル博士(テーマは「何故、高い企業倫理が必要なのか」)と副学部長、W・スティーブ・アルブレヒト博士(テーマは「株主、企業価値の毀損をいかにして防ぐか」)である。

 このシンポジウムでは企業倫理上、企業経営の短期的視点と長期的視点のどちらが望ましいかが中心テーマでもあった。その内容は次のようである。
*目先の利益や株価を重視する短期的視点に立つ企業経営は、業績や利益しか視野におかないため、労働者を人間として考えず、簡単に解雇するなど、搾取の対象とする。従って「企業市民」としての社会的責任を軽視し、地域住民や市当局からも相手にされなくなる。利益も株価も低下していき、やがて企業そのものが破綻に追い込まれる。
*一方、目先の利益や株価よりも雇用重視、地域・環境貢献など長期的視点から社会的責任を積極的に果たしていく企業は「企業市民」として評価される。結局、利益、株価も上がり、長期的には発展する。

 2人のスピーカーはともども以上のように発言したが、その文脈の中で学部長のヒル博士は「長期的視点に立つ国」としてコスタリカを挙げ、次のような趣旨を指摘した。
 「コスタリカは美しい国である。なぜか。国土の多くを国立公園など(注1)にして、自然環境保護に取り組んでいるからである。いまではエコツーリズム(注2)の国としても有名で、世界から多数の人々が集まってくる。そのお陰で経済がしっかりしてきている。周辺の他の国と比べれば、その良さがよく分かる。目先の利害にとらわれないで、環境保護などの長期的視点に立つ経済の運営がいかに大事であるかをこの国は示している」と。

(注1・安原)コスタリカは、国土面積全体の約25%の地域を国立公園、生物保護区、森林保護区などに指定し、そこには原生生態系の95%が含まれており、自然環境保全の先進国としての地位を確立している。もともと自然が美しく、国土は日本の約7分の1という小国であるにもかかわらず、日本に比べ生物種の豊かさを誇っている。例えば哺(ほ)乳類は266種(日本は136種)、鳥類は約850種(日本は約500種)など。
(注2・同)豊かな自然の保全を背景にコスタリカはエコツーリズム(生物多様性を資源として活用する新しい観光)の発祥の地であり、その先進国としても世界的に注目されている。エコツーリズムによる外貨獲得高は、1993年にそれまでトップだったバナナ輸出を上回り、最大となっている。

 コスタリカは小国ながら、次の3本柱の国是を持っており、独自の路線を堅持している。
①軍隊廃止と非武装中立
②平和・人権教育
③自然環境保全
(安原和雄「軍隊を捨てた小国の智慧―コスタリカ・モデルを訪ねて」駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第33号所収、2004年5月刊・参照)

 企業倫理シンポジウムの席上では、コスタリカの3本柱のうち、自然環境保全の柱が「国の倫理」の望ましいあり方として評価の対象となったわけで、これは「国の品格」としても高い採点が与えられることを意味している。


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広島県からの宅配便
 地産池消と食育のススメ 

 安原和雄
 広島県広報室発行のグラフ誌『すこぶる広島』(2006年 春号)が特集「食育のススメ」を組んでいる。郷里が広島県であるためであろう、東京暮らしの私に毎号が届けられる。地産地消(輸入食品に依存しないで、その地域で育てた食材を大切に使い切る「農」と「食」の生活)や食育にはかねてから関心を抱いてきたので、今回の特集は興味深く読んだ。(06年4月26日掲載)

 特集は冒頭、「食育のススメ」について「食べることは生きること。正しく食べることは、子どもたちの健康な心と体をつくることにつながる。<食>の大切さを、食生活の乱れが指摘される今こそ見直してみたい」と指摘している。同感である。
以下に具体例を紹介したい。

▽地産地消の給食で元気な体をつくります!(豊平南小学校発)

 県北西部のソバの里として知られる北広島町の豊平地区にある豊平南小学校のランチルームで学校栄養職員の有馬久美子先生が話した。
 「今日のレンコンは都志見(つしみ)の林さんが冷たい水につかりながら皆さんのために収穫してくださいました。感謝して食べましょう」と。一斉に「いただきます!」という声がこだました。
 ご飯は町内産のコシヒカリ、旬の野菜は無農薬栽培である。地域の安全な食材を使おうと、歴代の学校栄養職員が地域の農家に掛け合ってネットワークを広げ、調達してきた。また献立は、健康につながる「噛む力」をつけさせるため和食が中心となっている。

 3、4年生の総合学習時間では地元特産のソバを種まきから打つまでを体験する。指導するのは地元の「豊平手打ちそば保存会」の人たちである。

 沖政節子校長はこう語っている。
 「昔から五里四方のものを食べるのが体に良いとされています。子どもたちには地産地消の給食を通して健康な体をつくるのはもちろんのこと、ふるさとの食の豊かさを知ってほしい。飽食の時代だからこそ、感謝と誇りを持ってほしい」と。

 ここには食育のススメとして大切な言葉(キーワード)が沢山出てくる。
感謝、いただきます、無農薬栽培、噛む力、地産地消、誇り―など。飽食の中で忘れていたか、または軽視してきた心、感覚、姿勢である。

▽学校と家庭がスクラムを組んで基礎体力を上げます!(東城小学校発)

 県東北部の庄原市東城町にある東条小学校で今年も恒例の「給食まつり」が行われた。テーマは「子どもたちの体は手作りごはんから」。
給食まつりは、保護者から、わが家の人気料理、スピード料理、ひと工夫料理を事前に出品してもらい、その作品から人気の高かった料理を学校でつくって子どもたちと一緒に食べるという試みである。好評だった料理は「具だくさんそぼろどんぶり」、「揚げ餅サラダ」、「ミートボールの白菜スープ煮」、「ホカホカ白菜ベーコン」、「冷めた方がおいしいとりの唐揚げ」など。

 給食まつりは16年も前からはじまった。ねらいの一つは子どもたちの運動能力の向上につなげることである。全国的に小学生の基礎的な運動能力が低下しているからである。
 栃木孝一校長は次のように語っている。
 「こんなに食の豊かな時代なのになぜと、すごく衝撃を受けましたし、危機感も持ちました。そのためには、きちんとした生活習慣を身に付けさせるために、学校と家庭が一つになって取り組まなければと思ったのです。幸い、この地区は保護者も地域も熱心に協力していただけますから、取り組みも効果的に進んでいると思います」と。

キーワードは、学校と家庭のスクラム、手作りごはん、運動能力の向上―など。

▽料理教室から「食」の自立をめざします!(大竹小学校発)

 西の山口県に隣接する大竹市の大竹小学校では昨年(05年)から「チャレンジ! キッズクッキングスクール」をはじめた。学校栄養士でもあった泉谷昌子教頭がその仕掛け人である。
 スクールがめざすものは、第一に子どもたちに「食」の興味をもたせること。まず野菜を洗ったり、ちぎったりして素材に触れさせる。次に包丁を使って野菜を切らせてみる。さらに子どもたちの成長に合わせて、郷土料理の「もぶりご飯」という混ぜご飯などさまざまな料理を体験させる。
 第二にめざすものは、子どもたちが「自分で考えて作って食べる」という「食」の自立である。これをきちんと身に付ければ、大人になってからも規則正しい食生活が送れるだろうという期待がある。

 泉谷昌子教頭はこう語っている。
 「最近ではだいぶ<食>に興味がわいてきているようですし、作ったものは必ずきれいに食べています。食べ物に感謝する心が芽生えているのもうれしい。これまではいかに学力をつけるかが中心の教育でした。でも学力を身に付けるには、まずそのためのエネルギー、つまり食べて体力をつけることが必要です。食べることは生きること。その根源的な部分が大切にされていけば、学校がめざすさまざまな目標もスムーズに進むのではないでしょうか」と。

キーワードは、「食」の自立、食べ残しをしないこと、食べ物に感謝、食べることは生きること―など。

▽農業体験を通してふるさとに誇りをもってほしい!(西志和小学校発)

 広島市街地から自動車で40分ほどの距離にあって、のどかな田園風景が広がる東広島市志和町の西志和小学校では5年生の総合学習時間に農業体験を取り入れている。春にはもち米作り、秋にはネギ作りに取り組んでいる。
 その目的としているところは、農業離れが進んでいる中で自分たちの町にはどういう特産物があって、それはどんな風に育てられるのかを学び、体験することで、地域やふるさとを愛する心を育てようということである。
 同小学校では、地域の人たちから地域のことを学ぼうと、ネギ作りなどいろんな分野のプロを「マイタウンティーチャー」として招いているのも新しい試みといえる。

 郷土愛や愛国心は教科書によって上から押しつけ、教え込むものではないことを示す具体例とはいえないか。

 担任の竹内史雄先生は語っている。
 「農業体験の時間、子どもたちは実に生き生きとして、すごく楽しそうなんです。そして不思議なことに、野菜が嫌いな子どもでも、自分で育てたものならちゃんと食べるのです。この冬の農業体験で印象に残ったことがありました。去年10月に植えたネギが早く育つようにと年末にビニールをかけました。ところが大雪の重みでビニールがネギを押しつぶしそうになったんです。すごく寒い日だったのですが、みんな外へ出て雪かきをしてくれたのです。食べ物を大切にしようという心も芽生えているのかなと思いました」と。

キーワードは、特産物の手作り、食べ物を大切にする心、地域・ふるさとを愛する心―など。

 さて、わが国の食料自給率はわずかに40%(カロリーベース)で、先進国では最低であり、一方、食料輸入率は60%で、この高い海外依存度は異常である。参考までにいえば、先進国では日本以外の食料輸入国は英国(自給率74%)、ドイツ(自給率91%)で、一方、米国、フランスは自給率100%を超えており、食料輸出国である。
 折しも近未来に地球規模の食料不足に見舞われる恐れが広がりつつある。異常気象、発展途上国での人口急増、地球規模での食料生産力の伸び悩み―などが背景にある。日本としての対策はなにか。自給率を高める以外に妙策はないだろう。
 そこに浮かび上がってくるのが「地産地消のススメ」である。紹介した広島県のような事例は、日本列島のあちこちで多様な試みとして実践されているはずである。このような「農」、「食」、「育」の輪がもっともっと広がっていくことを願っている。


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足利知足塾の近況報告(1)
 いのち交流の輪と和

 安原和雄
 足利知足塾(塾長・柿澤さな江さん)が発足(2005年7月、栃木県足利市大岩町428の蕎麦(そば)屋さん「だいかいど大海戸」=店主・柿澤一雄さん=にて発足会を開催)してから10か月ほど経った06年4月上旬、交流会が開かれた。
 集まったのは「食と農」に大いなる関心を抱き、ゆったりと充実した時間を楽しむスローライフを実践している人たちを含めて約20名である。同塾顧問の私(安原)も久し振りに足利を訪ねて参加、「大海戸」店主の手打ちそばのほか、タンポポなど野草の天ぷらに舌鼓を打ちながら賑やかなひとときを共有した。この機会に塾の近況を報告したい。

▽足るを知る生活の実践
 塾長の柿澤さな江さんは挨拶で「会員は24名ほどにのぼっている。勉強会も大事だが、それだけではなく、知足、すなわち足るを知る生活を実践してゆきたい。足るを知る生活とは、自然から与えられるもので十分、と受け止め、感謝することではないかと思う」と語った。
 私流に翻訳すれば、「自然からの恵みは豊かであり、それ以上のものを貪欲に求めないこと―それが足るを知る生活の実践」と理解したい。

 柿澤さんは、そば屋と並んで、自宅周辺の自然を生かした農園・「柿の実農園」を経営しており、鶏などいのちを育てることに取り組んでいる。こうして農園が知足を暮らしの中で実践し、生かす舞台にもなっている。塾の会報、「野の花通信」最新号に「びっくりしました!」と題して次のような面白いニュースが載っている。

 ほぼ1か月行方不明だった鶏が突然もどってきました。お彼岸でお昼を食べにきてくださったお客様にその話をすると、「ねえ、いままでどこへいっていたの?」と真剣にニワトリさんに聞いていました。鶏は心の中で『わたしゃ、3歩歩けば忘れちゃうのよ。ごめんなすって』といっていたのでしょうか? ただひたすら残り物のそばのかすを食べておりました。すると、お客様は、「わかった! そばが食べたくて戻ってきたのよ」とご自分の質問に答えをみつけ納得したご様子でした。それにしてもめでたいことでした。

▽<いただきます>を復活・普及させよう!
 以上のような話題はほんの1例にすぎない。この足利知足塾の周辺には「いのちといのちの交流の輪と和」ともいえる心ぬくもる話題が尽きない。食事懇談会の席では「最近、子どもたちから日常の挨拶がなくなった」、「食事前の<いただきます>もいわなくなった。どうしたのか」―など人間と自然、人間同士のいのちの交流が薄れていく現状をどうしたらよいかに関心が集まった。

 食事前の<いただきます>をぜひ復活・普及させたい。<いただきます>には2つの意味が含まれている。まず何をいたただくのかといえば、それは動植物のいのちをいただくのである。お米、魚、そば、さらに野菜にも野草にもいのちが宿っている。そのいのちをいただいて、人間は自分のいのちをつないでいる。だから感謝とともに食事をいただく必要があるのではないか。
 もうひとつは、いただいたいのちをどう生かすかである。無駄にしてはならない。まず食べ残しをしないこと。食べ残しは食に含まれているいのちを生かし切っていないことを意味する。さらに少しでもいいから「世のため、人のため」にお役に立つこと。これがいただいたいのちを生かすことにつながる。そうしなければ折角のいのちに申し訳ないし、「もったいない」所業といえる。
 こういう感覚が共有されれば、生きとし生けるもののいのちを大切にしようという共感の輪が広がり、そこに和が生まれ、その結果、最近多発している、無造作に人のいのちを奪うような凶悪犯罪も少なくなるのではないか。
―以上は私(安原)の考えるところであり、発言でもある。

▽21世紀は「いのちの安全保障」の時代
 もうひとつ、席上、私は最新論文「<いのちの安全保障>を提唱する―軍事力神話の時代は終わった」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、06年1月刊に掲載)を皆さんに配った。ここでも「いのちをどう生かすか」がテーマである。論文の骨子は目次風に並べると、次のようである。

*世界が直面する多様な脅威―気候変動は核戦争に次ぐ脅威、危機にさらされる食料安全保障
*有害な軍事中心の安全保障―日米安保体制と平和憲法との矛盾、軍事同盟は敵と脅威を求める
*重要な「人間の安全保障」観―国家ではなく人々を中心とした安全保障、セン博士(ノーベル経済学賞受賞者)の唱える「人間の安全保障」
*「守る平和」から「創る平和」へ―平和的共存権への道、平和をつくるための構造変革
*21世紀は「いのちの安全保障」の時代―「人間の安全保障」を超えて
*いのちの安全保障と仏教思想―いのちの尊重と非暴力=平和、知足・共生・中道の実践
*いのちを生かす「地球救援隊」構想―なぜ非武装なのか、日米安保体制の解体を

▽いのちを生かす手作りの活動計画
 この日の交流会では次のような塾の今後の活動計画が提案され、実行していくことになった。ここでも自然を含めた多様ないのちを生かす手作りが中心テーマとなっている。
+農業=ソバ、夏野菜(スイカなど)、イモ類(サトイモなど)などの栽培
+加工品=どくだみ採り(お茶用)、シソジュースや干し柿つくり、手作りこんにゃく
+文化=手作り人形講座(ピエロの人形)、野の花の生け花、スケッチ会(野菜、野の花の絵)、ローソク作り(蛍見物用)
+交流=読書会など

 昨年(05年)の足利知足塾発足会の席では安原が「21世紀は知足の時代」と題して講話を行った(講話の要旨は同じ題名で「安原和雄の仏教経済塾」に掲載)が、今回の交流会では塾生たちの創意工夫と手作りによる活動が広がりつつあることを印象づけられた。
 今後、このような知足塾が全国のあちこちに誕生し、発展してゆくことを願っている。


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高木元大蔵事務次官を偲んで
高木文雄・元大蔵次官の思い出

 安原和雄
 06年2月14日急性心不全で亡くなった元大蔵事務次官(元国鉄総裁)の高木文雄さん(86歳)の告別式(06年2月21日、東京・港区の増上寺大殿にて)に駆けつけたときには、ちょうど宮沢喜一元首相(元大蔵大臣)の弔電が披露されているところであった。高木さんが主税局長だった頃、私は毎日新聞経済部の大蔵省(現財務省)担当記者で、高木さんには格別の思い出がある。以下にそれを紹介し、記録に留めておきたい。
 それは大蔵事務次官(在任は1974~75年)就任にまつわる、いまだから話せるエピソード、その裏話である。

 いまから30年もさかのぼるが、当時は円切り上げ(71年)後、ほどなくフロート(為替変動相場制)へ移行し、おまけに第一次石油危機(73年)も加わって騒然としていた。いまのような首相官邸主導と違って官僚支配(特に予算編成権を握っていた大蔵官僚が突出)が濃厚で、大蔵省事務レベルのトップ、事務次官に誰が座るかは大きな関心事であった。
 同期入省の橋口収主計局長と高木主税局長が次官レースを争うという官僚人事としては異例の展開となった。

 各紙はほとんどが橋口説に立っており、それが多数説であった。主計局長が次官に就任するのが慣例の人事でもあったからである。もう1つ当時、田中角栄首相主導で列島改造のための国土庁(現国土交通省に統合)を新設し、その初代次官に誰を据えるかが、話題となっていた。田中首相に近い高木さんが請われて国土庁次官に座るだろうという説が流布されていた。
 しかし私はこの多数説に「違うな」と感じていた。チーム取材の結果、高木大蔵次官の線が濃厚という感触を得た。

▽高木さん本人から取材
 ある夜、ぼつぼつ書き時だと思い、私は高木邸へ電話を入れ、「高木大蔵次官誕生へ、という記事を書く準備を進めている」と話した。これに対し、高木さんは上機嫌な口調で次のように答えた。
 「そうか。安っさん、ついに書くか。ただ念のため、澄田さんに話しておく方がよい」と。澄田さんとは、澄田智日銀副総裁(大蔵次官を経て、副総裁に在任中で、後に日銀総裁に就任)のことで、私は直ちに澄田邸へ電話を入れた。電話口に出てきた澄田氏は明言は避けたが、「まあそんなところだろう」というニュアンスで語った。
 折り返し高木邸へ再度電話をして「澄田さんに話した。書きますよ」と伝えた。高木さんはひと言「そうか」であった。翌日の朝刊で「高木氏、大蔵次官へ」と報じたのは毎日新聞のみであった。

 後で耳にした話だが、私が高木邸に電話したとき、各社の担当記者が取材のため詰めかけており、高木さんを囲んで盃を重ねていたらしい。だから上機嫌だったのだろう、その席に取材記者がいなかったのはわが毎日新聞だけだったらしい。

 さてこれからがむしろ勝負どころであった。依然として他紙の多くは「橋口大蔵次官」、「高木国土庁次官」にこだわっていた。そう報道したりした。このため格好の週刊誌ダネにもなった。いったい毎日新聞と他紙とのどちらの報道が正しいのか、というわけである。

 1か月近くも経った頃だったろうか、ある夜のこと、本社の経済部デスク(副部長)からわが家へ電話があった。「政治部情報だが、田中首相派の建設大臣が『初代国土庁次官は高木だ』としゃべった。この情報は確度が高いと言っている。どうするか。判断を任せる」という内容である。私は「再取材してみましょう。その結果を電話するまで、政治部情報は絶対に記事にしないように」と念を押して受話器を置いた。

 私はしばらく考えた。政治部情報を記事にしたら、先の経済部ニュースを自ら否定するわけだから、「大蔵次官人事で迷走する毎日新聞」と週刊誌あたりに冷やかされることは目に見えている。かといって政治部のいう「建設大臣情報」を否定するためには、新しい情報をつかむ以外にない。そうでなければ、政治部も納得しないだろう、と。局面は社内対立にまで発展しかねない雲行きであった。

▽「ベストの人間が大蔵次官に」
 私は竹内道雄大蔵省官房長(後に大蔵次官を経て東京証券取引所理事長などに就任)宅のダイヤルを回した。運良く在宅であった。次のように問いかけた。
 「実をいうと、『田中派の建設大臣が国土庁次官は高木さんだと言っている』という政治部情報がある。毎日新聞は高木大蔵次官説をすでに報じている。高木さんが国土庁に出て行く可能性はあるのか」と。

 これに対し官房長は次のように答えた。
 「建設大臣が何を言っているのか知らないが、大蔵省人事のあり方として大事なことは、わが省にとってベストの人間が次官になるということだ。ベストの人間を他の省庁に出して、お余りが大蔵次官になるということはありえない」と。
 ここで2人のうちどちらがベストなのかとわざわざ聞き返すようでは取材能力を疑われる。前後の事情が分かっていないと、このやりとりも意味のはっきりしない禅問答のように聞こえるだろうが、私は次のように理解した。
 冒頭の「建設大臣が何を言っているのか知らないが、・・・」は大蔵人事について建設大臣の言うことなど意味はない。気にするな、と。
 次に「ベストの人間・・・」は、私の「高木さんが出て行く可能性はあるのか」という質問への答えだから、その意味するところは明白である。

 私は直ちに経済部デスクへ電話を入れ、「官房長に確認した。すでに報じた高木大蔵次官の線を修正する必要はない。政治部情報はボツにするように」と強調した。建設大臣情報に振り回されないで、私の言を信じてくれたデスクには感謝している。

 なぜこの局面で官房長を選んで、確認の電話を入れたのか。「人事は官房長」というのは常識だが、それ以外に実は裏話がある。
 以前、官房長に人事一般について質問をしたことがある。「局長にまで残るのは同期の中でも少数だ。それまでに何人も辞めて貰うわけだが、引導を渡すときに何というのか。有能な君には残念だが、分かってくれ、とでもいうのか」と。
 官房長の返答は「それは違う。君はこれ以上残っていても局長になる可能性はない。いま転出するのは君のためだ、と明言しないとダメだ。君は有能だ、などといったら、有能な俺の首をなぜ切るのだ、と抵抗して辞めようとしない。皆さんプライドがあるからねー」であった。
 私は「ははあ」と思わず笑ってしまったが、なるほどリストラにからむ人事とはそういうものか、とも思った。このやりとりの記憶はいまなお鮮明に残っている。

▽多数説必ずしも真ならず
 そういうタイプの官房長だから、私の確認の電話に逃げを打つような態度はとらないだろうという確信があった。結果は期待通りであった。当時の福田赳夫大蔵大臣(後に首相に就任)が「高木大蔵次官」の人事を正式に発表したのは、それからさらに1か月近くも後のことであった。

 この人事の取材で得た教訓は「多数説必ずしも真ならず」で、これはいまも私の思考原理のひとつになっている。

 次官レースを争った橋口、高木両氏はお互いによき競争相手であったと思う。こういうよきライバルが存在してこそ、官僚組織も活性化するのではないか。競争のない組織は停滞する。
 高木さんとは高木研究会でごく最近までお付き合いをいただいたが、すでに他界した橋口さん(国土庁次官の後、公正取引委員会委員長、広島銀行頭取などを歴任)とも晩年まで時折盃を重ねた。私が会長役を務めている「モラル会」の名誉会長が橋口さんという関係でもあった。両先輩とのひとかたならぬご縁には感謝するほかない。
合掌
ケータイ意識調査
 学園内ではケータイを捨てよう

 安原和雄
 私は今春(05年3月)まで経済学を講じていた足利工業大学(栃木県)で聴講生を対象にケータイ意識調査(04年7月)を実施した。ケータイは、あっという間に普及したが、マイナス面も目立ってきている。この調査はケータイ社会がかかえる問題点をそれなりに浮き彫りにしている。
 以下は「学生たちへの呼びかけ文」と「学生の意識調査結果」で、インターネット新聞「日刊ベリタ」に「9割の学生が私はケータイの奴隷。でも手放せないが4割」という見出しで掲載(05年7月30日付)された。これを「仏教経済塾」に収録する。(05年12月29日記)

◇「学園内ではケータイを捨てよう」と学生たちに呼びかけた文章

 ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!― 未来を創る若者たちへ

 「娘さん、よく聞~けよ、山男にゃ惚(ほ)~れ~るなよ、・・・」という歌の文句にあやかって、こういう問いかけになった。
 私は経済学の講義(前期)で「技術と自然・人・社会」と題して技術進歩のプラスとマイナスについて話すことにしている。その講義で携帯電話(以下、ケータイと略す)に言及し、「君たち若者も含めて多くの人はケータイの奴隷になってはいないか」と指摘し、感想を書いて貰った。その中に次の一文があった。「現代人はケータイの奴隷だという考えには共感できる。私自身もケータイに振り回されている」と。この学生の素直な感性は評価したい。

 なぜあえて「奴隷」というのか。アルコール・たばこ依存症と同じようにケータイを手放せない一種の中毒症状にかかっていると思えるからだ。いいかえれば、ケータイを僕として使いこなすというよりも、むしろ無自覚のまま自らケータイの僕として振り回されているからだ。主人公は機器としての電話であり、携帯者は実は僕になり下がっている。

 講義中に「今、電源を切っているか」と聞いたら、「切っている」と答えた者は皆無である。なぜか。「外から何か連絡が入ってくるかもしれない。それに音の出ないマナーモードにしているから」というのが答えである。そこで私は言った。「連絡が取れないために君たちの一生が狂うような一大事が毎日、時間刻みであるわけはないだろう」と。

▽ケータイ依存症のマイナス

 ケータイ依存症のマイナスをいくつか挙げてみたい。
★日本語力が身につかないこと。
英語や漢字の辞書機能がついており、さらに小説も読めるケータイが増えているが、手軽すぎないか。小説にしても感動とは無縁の小さな画面世界でしかない。友達同士でメールをやりとりするだけでは文章力も上達しない。要するに読み書き、話すという日本語力の原点が確立しにくい。これでは面接など就職試験にパスし、一人前として実社会へ巣立ってゆくことは容易ではないだろう。

★命にかかわること。
ケータイで話しながら、自動車を運転することによる事故は年間3000件近くもある。一寸先には地獄が口を開けて待っているのだ。

★約束を事前に決めてそれを守る、という観念が希薄(きはく)になっていること。
友人同士ではケータイで話しながら時間や場所をその都度決めていくことが習い性となっているからだろう。

★努力し、自らを鍛えるという感覚が疎(おろそ)かになっていること。
勤勉(きんべん)、怠惰(たいだ)という漢字を読めない学生が少なくない。思うに勤勉、怠惰という感覚が欠如しているためではないか。「文明の進歩は便利さをもたらしたが、同時に努力することを忘れさせた」という最近の新聞投書(大学教授)には同感である。

▽学園内ではケータイを捨てよう!

 たしかに便利な機器ではある。生活の必需品だと思い込んでいる者も少なくない。しかしここでよ~く聞いて欲しい。ケータイの虜(とりこ)から自らを解放する志(こころざし)はないか、という問いかけを。そして提案したい。せめて学園内ではケータイを捨ててみよ、と。

 その手で代わりに新聞を掴み、書物を小脇に抱えてみよう。新聞で現実社会の動静(どうせい)を知り、書物を案内役に未知の世界の魅力を探し求める旅へと出発しよう。あるいは分厚い辞書のページを自分の手でめくってみる楽しさを味わってはどうか。友人同士で面と向かって対話を重ねる。
こうした日常的な努力によって日本語力を磨こうではないか。日本語力の基礎が身につかなければ、残念ながらコミュニケーション能力や学力の向上も期待できない。

 もう一つ、ケータイから自由になることによって、いいかえればケータイに拉致(らち)された心を取り戻して、自己を見つめ直そう。自分の立ち居振る舞いを、もう一人の自分が一定の距離をおいて観察するのだ。
 何のために? 自己観察によって自分の足りないところに気づくためとでも言ったらいいだろうか。こうして人間力を高めることに努めよう。

▽人間力とは、人生を生きる知恵

 人間力とは人生を生きる知恵であり、次のようなものが含まれる。
☆動植物も含めて、地球上の生きとし生けるものの命を大切にすること。
☆約束の実行など社会のルールを守ること。
☆手抜き、怠け心を捨てて、汗をかき、自らを鍛えること。
☆自分の職業そして人生をどう選択するか、その選択眼を眠らせないこと。

 こういう知恵が身についていれば、今日のような変化の激しい困難な状況下で人生をいきいきと生きることも、それほどむずかしいことではないだろう。
 今すぐに投げ捨てなかったら、折角の大学生活を活かすことはできないかもしれない。ケータイを再び手にするのは、実社会へ乗り込んでからでも遅くはない。
そのとき君たちはケータイを自主的に使える主人公になっているはずである。もはや奴隷でも、僕(しもべ)でもない。その便利な僕を家庭、地域、組織、日本そして地球の再生と未来の設計のために駆使して貰いたい。
未来を創る機会に恵まれているのは、君たち若者だけである。だからこそ今、ケータイと戯(じゃ)れているヒマはないのだ。このことに気づいて欲しい。


◇ケータイに関する学生の意識調査結果
                              
 上記の「ケータイの僕(しもべ)さん、よ~く聞けよ!」の文章を読んだうえで次の質問に答えて貰った。その調査結果は以下の通り。
 調査に回答(記名入り)した学生数は208名(履修学生総数は372名)。

<問い1>「若者たちを含めて多くの人は、ケータイの奴隷、僕になっている」という考え方についてどう思うか。次のイ)、ロ)のどちらかに○印をつけ、その理由あるいは意見を書いて下さい。      
 イ)そう思う=180名(回答総数の87%) ロ)そうは思わない=28名 (13%)

★「そう思う」理由など:
・一度持ち始めると、本当に中毒症状といえる状態になって、もう手放せない。
・電車の中などでケータイをいじっている人が沢山いる。そういう人たちはケータイがないと、生きていけない「ケータイの僕」になっている。
・ケータイでゲームをしている者も多く、こちらはゲーム依存症と呼ぶべきだろう。
・電話以外の機能が大幅に増え、その目新しさに振り回されている。
・自分がケータイを家に置き忘れたとき、うろたえたのも、一種の奴隷化のように思えた。
・ケータイを持っていないと、不安でしようがない。
・くやしいけど、そう思う。ケータイが手許にないと心配になる。
・ケータイに振り回され、ケータイに自分の人生を使われているように思える。
・テレビで若者達に命の次に大切なものは?と聞くと、ほとんどがケータイと答えた。

☆「そうは思わない」理由など:
・ケータイは持っているが、約束の連絡などにしか使わないので奴隷にはなっていない。
・ケータイがなくても別に困らない。
・ケータイはあまり好きではないので、それほど使わない。

<問い2>ケータイ依存症のマイナスとして「日本語力が身につかないこと」などを挙げているが、これらマイナス点についてどう思うか。自由に意見を述べて下さい。

・小学生にもケータイを持たせる親が増えている。ちゃんと面と向かって話ができないと、佐世保市のような小学生殺害事件を起こしてしまう。
・分からない漢字があると、すぐにケータイに頼って怠け心がついたりする。
・自分の回りにも新聞を読まない人がいるし、日本語力は落ちている。
・ケータイ依存症の共通点は「まわりがみえていない」こと。そこに「迷惑に思う人がいる」ということすらみえていない。
・友人とメールをやりとりするとき、文法を無視する。だから日本語力が伸びなかった。(中国人の留学生)
・その通りだ。日本語力、文章力が全くといっていいほど身につかないと思う。
・難しい漢字の読み書きができなくなっているため、社会に出てから情けない思いをするだろう。
・メールを打てば、勝手に変換してくれて、辞書を引く習慣がなくなった自分が情けない。
・最近は絵文字を使って文章を打っている人が多い。それが日本語力の低下を招いている。
・ケータイの代わりにもっと新聞や書物を読んで、日本語力を身につけた方がいいと思う。

<問い3>学園内ではケータイを捨てよう、いいかえれば使用を止めようという提案をどう思うか。 イ)、ロ)、ハ)のどれかに○印をつけ、その理由を書いて下さい。
 イ)捨てる気になった=22名(11%) (ケータイ不保持者 1名)
 ロ)捨てるかどうか考えてみたい=96名(46%)
 ハ)やはり捨てられない=89名(43%)

☆「捨てる気になった」理由:
・ケータイを使わないようにしないと、頭がおかしくなってしまう。
・ケータイを持ってはいるが、毎日学校に持ってくる必要はない。学校には公衆電話があり、緊急時にはそれを使えばいいからだ。
・昼間からメールや電話はあまり来ない。学校にいる間は使っていない。

◎「捨てるかどうか考えてみたい」理由:
・たしかに緊急の連絡がつねにあるわけではない。
・よく考えてみれば、ケータイはそんなに大切なものではないし、ケータイがないから死ぬというわけでもない。
・ケータイのマナーのこともあるし、依存症のマイナス点もよくわかる。

★「やはり捨てられない」理由:
・自分の都合だけ考えれば、便利だからである。
・授業中とかに使用せず、最低限のマナーがあれば、持っていてもいいと思う。

<問い4>人間力を高めよう、という呼びかけについて感想を述べて下さい 。

・当たり前のことだが、誰もできていない。自分も少しずつ高めたい。
・社会のルールなどを守らない若者が多いので、この呼びかけは今の時代に合っている。
・本学内で非常識な行いが目立つ。他人と比べなければ自己確認ができない若者が多いので、他大学との交流をもつのはどうか。
・「ケータイの僕」になることが新しいルールだということにもなりかねないので、その便利さの誤用を避けるためにも、この呼びかけには賛成したい。
・呼びかけを読んで本当にケータイとじゃれているヒマはないと思った。今自分を鍛えないと、このままで終わってしまう気がした。
・技術が進歩してついつい手抜き、怠け心がついているから、人間力を高めることはいいことと思う。
・私は人生はどれくらい人間力を高めるかで価値づけられると思うから、賛成である。

<問い5>以上のほかに感想や意見があれば、自由に記して下さい。

・友達と一緒にいるのに、話をしないで、ケータイをいじっている。これこそ「ケータイの僕」になっている。
・ケータイについて深く考えたことがなかったので、これからは考えてみたい。
・「便利さ」を追求して、手抜き心が育っている。私は楽をせずに生きたい。
・私は少数派の人間になりたい。
・「一寸先には地獄が口を開けて待っている」。この言葉を噛みしめてケータイの使い方に注意したい。
・ケータイにマナーモードをつけるよりも、人間にマナーモードをつけた方がいい。
・ケータイは人間にとって必要がないかもしれないことが分かった。
以上