アメリカの陪審制度と日本の裁判員制度―陪審制の発展と意義 /大蔵 昌枝 (著)
アメリカでJDをとって南部ジョージア州で弁護士をされている、日本人の方による本。図書館で借りてみた。
冒頭では英米法下での陪審制の歴史について説明がある。陪審による法の無視(jury nullification)が正義を実現するうえで積極的な役割を果たしていたという点については、不勉強で知らなかったので、ちょっと驚いた。
続いて、陪審制における人種差別が問題となったいくつかのケースについて紹介。有名なOJシンプソンのケース(刑事・民事)も紹介される。それぞれのケースにおいて手続き論的な「ゲーム」があって、そのうえで結論に至っているところなんかは、訴訟がある種のゲームになっているということを実感するし、その中でも陪審の人種等の構成がかなりの重要性を占めてくるということも理解できる。
最後にアメリカの陪審制度との比較で、今の裁判員制度についてのコメントがある。素人の裁判員の守秘義務の負担軽減および審理過程の公正さ確保の観点から、裁判員の秘密保持義務を軽減すべきという指摘は確かにそうだと思う。
最後の部分は別にして、やはりアメリカでは、陪審訴訟というのはひとつのリスクポイントなんだと改めて実感するし、以前米国系弁護士事務所のセミナーで、日系企業は陪審裁判は避けるべき、と言っていたのもなるほどという感じがする。ここで紹介されていた事案は個人の刑事事案だけど、バイアスはどのみち一緒だと思うので。もっとも、バイアスにしても、幸いなことに、ある程度は可視的なようなので、仮に運悪く陪審裁判に巻き込まれたとしても、陪審コンサルタントとかを適切に起用すれば、有利に作用する可能性も、一応は、あるということなんだろう(それでもリスクが高すぎることには間違いがないが)。
もちろん、有利に闘うためには、手続法的なところでも、きっちりとやれることはやっておく(移送をかけるとか、証拠の範囲とか、陪審の選定で拒否権を適切に使うとか)のが重要になるのだと思う。どう考えても言うほど簡単ではないと思われるとしても…。
もちろん、有利に闘うためには、手続法的なところでも、きっちりとやれることはやっておく(移送をかけるとか、証拠の範囲とか、陪審の選定で拒否権を適切に使うとか)のが重要になるのだと思う。どう考えても言うほど簡単ではないと思われるとしても…。