はてなキーワード: 水戸黄門とは
まぁ本人が楽しく物語を鑑賞できたらいいのですが、私はこう判断しているという基準です。
文芸サークルの部員で友人が書いてきた小説の批評とかもしてました。
例えば「暴力は憎しみしか生まない」というテーマの場合、最後に悪を刀で切ったら解決にならないですよね。
たいていの物語は序盤や中盤で何をテーマにしていて、何を理想としているのかが示されるはずです。
その物語全体の課題について適切な回答が示されているかを見ています。
例えば「金しか価値がない」というキャラが何の理由もなく乞食に恵んでいたら変ですよね。
でも物語の都合上そうしないと動かない話もあります。つまりキャラが物語に操られている状態です。
原作がある作品が映画化して炎上する理由としてキャラが物語の都合で変に動かされてることがありがちです。
物語の中盤から終盤にかけて、広げた風呂敷を畳んだり、どんでん返しがあったりします。
そのどんでん返しや伏線改修が想像を超えるようなものだと高評価です。
逆に後出しだったり、どんでん返しのヒントがなかったり、転がなかったり、結できれいに終わってなかったりすると減点です。
物語は序盤にストレスを与え、後半でカタルシスを与えることで快楽を得ます。
水戸黄門も悪代官が町娘をいじめていてイラつくのを、黄門様が解決してすっきりします。
このストレスが適切か、カタルシスが適切かというのを評価します。
ただ、バッドエンド作品は読者をモヤモヤさせたいのが目的なので、
それができていれば見終わったあとにモヤモヤしてても管理がうまくいっていることとします。
あとはキャラクターの魅力だったり、引用している作品のセンスだったり、ギミックのセンスだったり細かいことを評価したりもしますが、これは物語構造じゃないので割愛。
上記を満たしている作品がいい作品だと思いますが、必ずしも良い作品と好きな作品が同じとは限らないです。
いや、ほぼ全部なんだけどさ。
だって味わって10年ぐらいで記憶って半分ぐらい消えるじゃん?
でもなんか中途半端っていうか、穴の空き方がマチマチだから結局最初からじゃないとイマイチ良くわかんないじゃん?
「あれ?このキャラってここでもう加入してるんだっけ?いや、裏切る前か?いや、裏切りイベントを終わらせて完全に仲間に?流石にもっとあとか?」みたいなこと考えちゃうからね最初からじゃないとさ。
まあそれなりに面白いんだけど結末既に知ってるからどこかで「ここが伏線か~~~」みたいなどこか余裕のある味わい方になっちゃう。
んでそっからまた10年経ったら忘れるのよ。
でもさ、俺としても「あの名作の内容を半分しか覚えてないのはやっぱ駄目だよ!」みたいな変な拘りがあるわけよね。
そんで気づいたら
半分忘れる
↓
味わう
↓
半分忘れる
このままだともう同じ作品を延々楽しんでるだけのジジババになっちゃう。
水戸黄門全シリーズ追いかけてるような老人の群れに飲み込まれる。
嫌なんだよね。
もう忘れたくないよ。
とかいいつつ「GIANT KILINGどこまで読んだか覚えてないから最初から読むか~~~あ~~~戦国妖狐の全話無料やってるからこっちも最初から読むか~~~」ってお前こんなんやってたら本当に「一度味わったものをまた味わうことだけで人生が消費し尽くされる」の状態になるよ!つうかもうなってる!
わ”す”れ”た”く”な”い””!”!”
厚みがないというのは主にキャラクターの描かれ方や、鑑賞者による解釈の幅の少なさといった構造的な問題のことを指す。
・すべてが機能的に配置され
・観客に感動を与える目的(お涙頂戴)に向けて整然と組み立てられすぎている。
完成されたパズルのようなもおので
パズルはピースが完璧に組み合わさって一つの絵となり、そこに別の解釈の余地はない。
一方、火垂るの墓など「厚みがある」作品は、パズルのピースが組み合わさっても
その裏側や隙間に、見る人それぞれが考えるべき無限の空間が残されているといえる。
『おおかみこども』は泣ける映画でありながら、登場するキャラクターにブレが全くない。
たとえば、オオカミ男である父親は、善良で、社会に交われず、子どものこと、妻のことを思い、最後に悲しい結末を迎える
なんというか・・・「その人が求められている機能しか」持っていない。
設定のみなので見る者にとって解釈の余地が全くなく、「良いものは良い、悪いものは悪い」という明確な構造がある。
その結果見ている人間が「安心し泣ける」作品だと評していたのが印象的だった。
作中のすべての伏線が、テトリスで組み合わせたようにサッと消えるほどきれいに組み合わさってできており、解釈の幅を許さない。
「あ、ここで泣いて良いんだな」ってわかりやすく配置されてる作品、面白いか?
悪を懲らしめる『水戸黄門』のような大衆芸能の一種としてとらえたほうがよい。
一応 『時をかける少女』や『サマーウォーズ』の時には多少は含みは残っていた。
未だにばあちゃんや家出息子の解釈とかは賛否両論分かれる。それはつまり解釈の余地があるってこと。
育児経験者から見ても、エピソードや表現があまりにありきたりすぎる。
赤ちゃん返りや、下の子供が生まれると上の子供が赤ちゃんぽくなるなどのエピソードは
水戸黄門にそう言い返して欲しい
(↓編集した)
朝ドラの。
フィクションなんだけど、フィクションすぎて、「それはちょっとあり得なくないか」ってなってる。
(父上なんで祝言の日まで落ち武者ヘアなんだよーとか)
脳の変換が間に合ってないんよ。
当時の風習込みで見てる時代劇モードと、アニメの時代・歴史物を見るときのファンタジー寄りのフィクションモードの間をあっちこっちしてる感じ。
(追記:時代劇っていうと大河とか水戸黄門ぽいね。時代物とかコスチュームドラマとかヒストリカルフィクションとか広義の意味よ、って長ぇわ)
ほら明治ってまだ封建的で旧武家家族なんかは結構厳しかったりするじゃない。
杉本鉞子の『武士の娘』でさ、アメリカ育ちの娘を連れて日本に帰国したら母(祖母)がまー厳しくて娘さんたちがたちまち萎縮しちゃったっていう。
去年の虎に翼でも、当時の民法では財産にせよ相続にせよ女は家の付属物扱いだったみたいなさ。
アニメだったら楽だったのに。
ヘブンさんが出るまでは粘るか~。
職場で「国宝」が3時間もあるくせに詰まらん、と話題になった。
自分は多額のお金をかけて作られた「国宝」はたとえストーリーがつまらないのだとしても、かけられたお金の分の見応えはあるだろうと考えて見に行った。
感想としては「最高に面白い」では無いが、「つまらない」では無く、「興味深い」になる。
ビジュアルに関してはもちろん演出、舞台、衣装、メイクと全てにお金がかかっており大変素晴らしかった。
ストーリーはfunではなくintrestingだ。文学的な小説を読んだ時の感覚だ。共感は出来なかったが、いくつかのシーンは深く心に突き刺さった。
では何が面白く、何がつまらないと感じる要因か切り分けて推論したいと思う。
①絵の切り取り方
それは何故か?
1.目が悪い
3.引きの絵が多い
この3点が理由と考える。
3について考える。
この作品においては劇中に表情がアップになる場面が少ないと感じた。
理由として、これは歌舞伎の話であり歌舞伎を見せるべきである。故に歌舞伎という全身の演技、その舞台を見せるためだと考える。
また、表情のアップというものはある種漫画的でコミカルもしくはヒロイックな印象を与えるのではないだろうか?
今作ではあくまでもひたむきに、ひたすらに歌舞伎とそれに取り組む姿を映すため、顔に寄るカメラは最低限になっていたと感じた。
寄りの絵が無い、というのは漫画的に言うと決めゴマが無いと言える。例えるなら印籠を出さない水戸黄門のようなものだ。分かりやすく見映えのする面白い箇所が無いと冗長的でつまらないと感じる可能性がある。
故に国宝においては何を面白いと感じれば良いよのか分からず、つまらない映画だと感じる人もいるかもしれない。
②ストーリーが合わない
最初に述べたが本作はfunでは無くintrestingだ。主人公達が才覚を表し歌舞伎界のヒーローになる様を観たかった人にとっては残酷な物語となる。
そしてこれは文学的な方向性の小説と考える。良く冷えたビールのような喉越しの良さでは無く、後に残るほろ苦さの深みを味わうのが良いだろう。
③ストーリーの間が合わない
本作においてはテンポ感のある掛け合いというのは少ない。先の項で述べた通り小説的な映画であるため、明確に発言されるのでは無く、表情、声色、無言の間、から音声では無い秘めたセリフが現れる。故に言葉だけを追うと謎の間がつまらない上、ストーリーにもついて行けない可能性がある。
総括すると、小説慣れした人にとっては非常に面白い作品だろう。しかし小説を読まない人にとっては非常につまらない作品だろう。
なんか気持ち悪いんだよね。
ロリコンの人が女児と成人男性の裸を並べて「ムフ❤」としてる感じで。
あれを「昭和の原風景だ。美しいんだ」と主張してる人って、単に「昔は未成年のスケベ写真集ぐらい本屋で普通に売ってたのに」みたいなノリなんじゃないの?
気持ち悪いんだよね。
外国でトトロが語られるときも「あそこだけは気持ち悪いよね」と言われてるらしいじゃん?
あれぞまさに「ノイズ」だよ。
薄気味悪いロリコン向けのスケベシーン。
ああいうの要らないよね。
水戸黄門とかでいちいちヒロインが風呂に入るシーンも「ノイズ」だと思う。