はてなキーワード: 内心の自由とは
なぜ前者は礼儀で後者は同調圧力(強要するな)という反応が出てくるのか
興味深い
「挨拶もする必要はない(挨拶しろと強要するな)」というラディカルな考えもありうる(むしろそれで「黙祷も不要」という考えだったら一貫しているとも言えるか)
| 黙祷必要 | 黙祷不要 | |
|---|---|---|
| 挨拶必要 | ①儀礼の価値を認める | ②日常儀礼のみ認める |
| 挨拶不要 | ③追悼儀礼のみ認める | ④儀礼の価値を認めない |
今日の帰路はこれについて考えるか
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「儀礼」というレイヤーで対比させるのは不適当、という話が即座に出てきそうではある
挨拶は功利的、実利的というか「このような効能があるので価値を認める」という意見というか
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すなわち「儀礼の実利的価値を認めるのであればポーズだけでも行うのは合理的なのでそのようにする」という発想
ポーズだけは失礼という発想もある 失礼……誰にとって?
「本当に祈らなきゃ無意味」という発想もありうる
儀礼という意味では無意味なことはない、ここでいう「無意味」とは?
調べるジャンルが横断的か?社会学とか内心の自由の話とか、あとは儀礼について取り扱うジャンル……人類学?か
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黙祷を行わなかった際の「うしろめたさ」「罪悪感」による防衛反応は考慮に値する?
これについて考えると「私はなぜ黙祷を強要されるのが嫌なのか」という質問に対する回答を鵜呑みにできないことになる?
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「祈るというのはどのような行為か」については先日調べた
そういう意味だと本来的な祈る、宗教的なそれをここでは考える対象としていない
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黙祷という行為が党派性、イデオロギー的性質を帯びることがある可能性?それを忌避するパターンもありえる?
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マトリックスの③のような私の素朴な直感に反しそうな例について考えることで見えるものがあるかも
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問い直し
「黙祷の主機能は共同体内部での価値観の確認、共有とするのであれば、内心の自由により黙祷の強要を嫌悪するというのは変な話で、その共同体実利……“あなたが大事にしているものを私も大事にします”というシグナルを示すことを優先するスタンスとして何か問題が起きるのだろうか」
みたいな感じか
「ストレスが発生する」それはそうかもね
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「そんなこと言い出したら全ての日は誰かの悲劇であり毎日黙祷することになる」はどうか
「どの共同体に属しているか」で選ぶ、としたときどのような問題が発生するか検討
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【調べる】
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「単にめんどくさい」という可能性
ただし
・後付け合理化
すなわち「なぜめんどいのか」を掘らないと
「合理的だとしてもそれを行わない」はよくある話
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しばし議論になる、
否定派の言い分は、法があり法治国家である以上法で定められた罰を受ければ終わり、私刑は禁じられている
これを完全論破しましょう、私刑は許されておりむしろ善行である。
ではまず手始めに憲法31条を持ち出すトンチカン野郎を片付けましょう
31条はあくまで罪刑法定主義、あわせてデュー・プロセスの明文規定にすぎない
憲法とはそもそも国家の暴走を抑制するもので私権や私人行為には(あまり)踏み込まない
かつては王様の特権、横暴で恣意的に、ランダムに私権が奪われたり、時には刑罰が課された。
私刑禁止なんてどこに書いてます?書いてないよね、あなたの感想。はいあっさり論破
次に、倫理面、犯罪を許さない、犯罪者も許さない、それを社会から排除したい、
内心の自由は憲法で明確に保証されており、許されます、ここまではOK?
で、具体的な行動を取ることは犯罪か?
例えば相手が犯罪者であっても棍棒で殴れば犯罪である、そりゃ俺も認める、イカン事だ。だが後述する。
次、犯罪者の社会復帰を社会がスクラム組んで排除することは犯罪か?
被害者が性犯罪の紙面公表を望んだが拒否し、ペンネームを変えて復帰させた出版社をネットで糾弾するのは犯罪か?
いえ、別に?なんの犯罪にもなりませんよ、憲法31条なんでしょ?罪刑法定主義でしょ?なんの犯罪になるんですか?
罪名は?ないよね?倫理的な問題にすぎない。個人の価値観、内心の自由。
刑罰の執行で禊が終わった社会復帰の権利を得たと解釈するひともいれば、一生抱えるべきだと思う人もいる、正解など規定できない、法がない
あくまで内心の自由、ここまではいい?いいよね?一分の隙もない完璧な理論
棍棒でぶん殴った時点では倫理問題にすぎない、この時点では厳密には犯罪ではないのだ。
ボクシングの試合で殴り合いをしても傷害罪にはならない、それを決めるのは裁判官であり、
裁判を望むかどうかは被害者が決める、あるいは法執行機関が決める、これは親告罪か非親告罪かで決まる
ともかく、傷害罪は非親告罪ではあるが、現実的には被害者が被害申告しなければ捜査はされない、結果裁判にもならない
性犯罪加害者がとつぜん棍棒で殴られて「許せん!訴える」ならば訴えれば良い、どうぞお好きに、その権利は奪わない
殴った人が裁判で決められた刑罰を受け「それで終わり」を覚悟して殴ったならば、「それで終わり」にしかならない
イカンことだ。だが覚悟持ってやったなら、刑を受け罪を償えたら「終わり」なんだよね?
ネットリンチも同様である、それが犯罪であると思うなら被害者(加害者)はどうぞお好きに告訴告発民事訴訟を起こせば良い
「ボクは性犯罪の犯人だが文句言われる筋合いはない!実名で堂々と戦ってやる!裁判だ!ボクをネットリンチする奴らを許さん!」
えぇどうぞ、お好きにやりなさいである、止めない、全て自由である、だが不思議にこれをやるやつはない
つまり当人も仕方がないと認めているのである、受け入れているのである、受け入れているなら文句なかろう
他人がとやかくいうことではない、あくまで個人の価値観の話である
そもそも日本は世界では珍しく裁判所が私刑を容認している国だという事実を受け入れましょう
社会的制裁と刑罰は別物だよね?なんで裁判でごっちゃにしてるの?
裁判所が社会的制裁の存在を認め、かつそれによって罰を加減するのである。つまり機能として組み込んでいる証拠。
仮に社会的制裁を認めないのであれば、裁判所は刑罰と分離するはずである
被告人がななんらか社会的制裁をうけ、不合理な損失を被ったのであれば、かつそれが犯罪行為であるならば
それはそれで別個の刑事裁判、民事裁判をやればいい、元の裁判とは関係ない、という姿勢を貫くはずである
逆に言えば、私刑、社会的制裁は許されている、容認されていると言うてもいい。
極論言えば私刑しても裁判所はどうせその分減じるのだからいいじゃない
ここまで反論ある?ないよね?無理だよね?
裁判所が間違ってる!とか?
そうかもね、どうぞ頑張って憲法変えて下さいw
現状、会社が社員に「反省文を書け」と命じることすら内心の自由を侵害するという理由で違法とされている
そういう状況で「謝罪がないから〇〇する」がどこまで許されるのだろうか
→まあこれは一理あると思うし、謝罪を要求する側がそう思うのは自由だろう
→民事で示談としてやるなら自由と思う反面、金額によっては強要の要素が入ってくるのでは?
「謝罪がないなら警察に通報します」は立派な強要罪・脅迫罪だよなぁ
・裁判官「謝罪がないなら刑罰上乗せします」・「謝罪がないから多額の賠償金を命じます」
反省の色がうかがえるので刑罰をどうこうしますってそれもう裁判官の感想でしょ
法治主義はどこいった?
みなさんはどう思いますか?
Isaiah Berlinの「二つの自由概念」(1958年)は、今もなお、自由という言葉の危うさを教えてくれる。Berlinは自由を二つに分けた。消極的自由と積極的自由だ。
消極的自由とは、他者からの干渉や強制がない状態のこと。「何をさせてもらえないか」という自由で、古典的な自由主義の根幹をなす。J.S.ミルの「害の原則」が守るべき領域である。
一方、積極的自由とは、自分が「あるべき自分」になるための能力や条件を意味する。「何をすべきか」という自由だ。ここには「真の自己」(理性に基づく理想の自分)と「現実の自分」(今生きている自分)の分裂が前提にある。そして「真の自己」を知っていると信じる人――エリートや指導者、党――が、現実の自分を「導く」ために強制を正当化する危険をはらんでいる。
Berlinは特に、積極的自由が全体主義や専制に転化しやすいと警告した。ルソーやカントの「真の自由は理性による自己統治」という考えは、「真の理性を知っているのは私たちだけ」という代弁者を生み、「あなたはまだ本当の自由をわかっていない。だから強制してでも導く」という論理に落ちやすい。「自由のために強制する」という逆説が、ナチズムやスターリニズムのような「正しさの専制」を支えた歴史的事例は、誰もが知るところだ。
このパターンは、時代が変わっても繰り返される。代弁者の顔ぶれが変わるだけで、論理は同じである。
中世の宗教国家では、神の意志を知る教会や神学者が「魂の救済のため」に異端を迫った。 啓蒙期から近代国家では、理性と普遍的人権を知る哲学者や国家が、ルソーの「一般意志」を盾に「あなたはまだわかっていない」と人民を強制し、フランス革命の恐怖政治を生んだ。 そして現代では、進歩的な学者や活動家が、抑圧された声やマイノリティの経験を知る「弱者の代弁者」として、「構造的抑圧を理解していないあなたは無意識の加害者だ」と「正しさの回復」を迫る。
「真の自由・正義・解放」を知る代弁者が変わっただけで、「あなたの本当の利益は私が知っている。だから従いなさい」という積極的自由の論理は、変わらずそこにある。
アカデミアは「知の権威」として正しさを語る場であり、規範的思想は自分の専門性を社会を変える道具にできる強い魅力を持つ。マルクス主義が衰えた後、階級中心からアイデンティティ中心へ移ったことで、「弱者の代弁」が新しい権威となった。学者は「抑圧構造を暴く」という英雄的な役割に酔いやすく、異論を「構造的抑圧の擁護」とみなして排除する内輪の純粋性競争に陥りがちだ。こうして「正しさの専制」が学界の中で再生産され、内心の自由や非合理的な信念の共存が軽んじられる。
Berlinの価値多元主義は、「正しい価値は一つではない」という前提で、こうした専制を防ごうとした。しかし今、「正義の価値は一つしかない」という新しい一元論が、再び多くの人を虜にしているように見える。
理想はいつも高潔な姿で現れる。あるべき社会、あるべき権利、あるべき自己実現を掲げ、人々の幸福を約束する。だがその理想が「真の自分」を代弁する権威を生み、代弁者が正しさを独占した瞬間、自由は静かに息をひそめる。積極的自由の名の下に強制された「解放」は、結局、本来の自由を圧殺し、価値観の強制アップデートを迫るようになる。
一体全体どうしちまったんだよ
一生を棒に振れとでも?
いつかは理解のある彼くんに仕立てられるとしても
その日が来るまではカエルと一緒の布団で寝るのよ
ゲボすぎる
誤解ないように言っとく
鈴木は客観的には清潔感がマァマァな、キモくない相手なんでしょうよ
だがそんな事はどうでもいい
「自分にとって」生理的にキモくて無理そうなら、その気持ちに嘘ついちゃダメ
"生理的に無理"という 内心の自由 を否定するロジックは、リベラルだろうとエリートだろうとポリコレ界隈だろうとどんな人達も持ってない
正解のアドバイスはただひとこと「次行け次」
「ドキドキしないから断っちゃう」はドキドキしないのが問題じゃない
読解力ないのはそこよ
実際に書かれてる内容は
ストレートに言い切るとカドが立つから「キモい」を「ドキドキしない」に言い換えてる
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追記・