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はてなキーワード: 内心の自由とは

2026-05-06

anond:20260506005638

からそう言ってるじゃん。

お前も含めて分離したと思い込む自由があるってことを言ってる。

それが内心の自由だ。

しかし誰かに強制することは不可能だという話だ。

2026-04-22

anond:20260422081104

何言ってるかわからん

もしかして清潔感のないお前らを罵倒することを許さないなんて女性内心の自由の抑圧!」とか思ってる?

2026-03-27

anond:20260327013523

清潔感ねぇ。

仲良くする人を選ぶ内心の自由ルール制限するのは反対だよ。

でも社会全体の同調圧力を下火にしていくというのなら賛成。バンザイして大賛成。

2026-03-17

anond:20260317040006

嫌いなことと、行動に移すことには大きな違いがある

内心の自由すら奪おうとしてくるお前らが嫌い

2026-03-13

挨拶黙祷はどちらも儀礼なのに

なぜ前者は礼儀後者同調圧力強要するな)という反応が出てくるのか

興味深い

挨拶もする必要はない(挨拶しろ強要するな)」というラディカルな考えもありうる(むしろそれで「黙祷不要」という考えだったら一貫しているとも言えるか)

マトリックス作って考えた方がいいか

黙祷必要黙祷不要
挨拶必要儀礼価値を認める 日常儀礼のみ認める
挨拶不要 ③追悼儀礼のみ認める 儀礼価値を認めない

今日の帰路はこれについて考えるか

メモ

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儀礼」というレイヤーで対比させるのは不適当、という話が即座に出てきそうではある

挨拶功利的、実利的というか「このような効能があるので価値を認める」という意見というか

しかしこの反論は本当に有効か?考えてみるか……

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黙祷とは内心の表明である」という性質に対する反発か

しかポーズだけすればいいのでは

すなわち「儀礼の実利的価値を認めるのであればポーズだけでも行うのは合理的なのでそのようにする」という発想

ポーズだけは失礼という発想もある 失礼……誰にとって?

「本当に祈らなきゃ無意味」という発想もありうる

儀礼という意味では無意味なことはない、ここでいう「無意味」とは?

調べるジャンルが横断的か?社会学とか内心の自由の話とか、あとは儀礼について取り扱うジャンル……人類学?か

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黙祷を行わなかった際の「うしろめたさ」「罪悪感」による防衛反応考慮に値する?

これについて考えると「私はなぜ黙祷強要されるのが嫌なのか」という質問に対する回答を鵜呑みにできないことになる?

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「祈るというのはどのような行為か」については先日調べた

過去自分日記を再読して今回の話に接続させてよいか検討

そういう意味だと本来的な祈る、宗教的なそれをここでは考える対象としていない

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黙祷という行為党派性イデオロギー性質を帯びることがある可能性?それを忌避するパターンもありえる?

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マトリックスの③のような私の素朴な直感に反しそうな例について考えることで見えるものがあるかも

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問い直し

黙祷の主機能共同体内部での価値観の確認、共有とするのであれば、内心の自由により黙祷強要嫌悪するというのは変な話で、その共同体実利……“あなた大事にしているものを私も大事します”というシグナルを示すことを優先するスタンスとして何か問題が起きるのだろうか」

みたいな感じか

ストレスが発生する」それはそうかもね

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「そんなこと言い出したら全ての日は誰かの悲劇であり毎日黙祷することになる」はどうか

「どの共同体に属しているか」で選ぶ、としたときどのような問題が発生するか検討

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【調べる】

市民宗教

記憶政治

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「単にめんどくさい」という可能

ただし

コスト回避

・後付け合理化

曖昧違和感言語化

のどれかは検討必要

すなわち「なぜめんどいのか」を掘らないと

合理的だとしてもそれを行わない」はよくある話

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人類学……文化人類学はこれまで触れてなかったが、これまた面白そうなジャンルだ!嬉しいね

2026-03-12

anond:20260312182126

表現の自由ならまだしも内心の自由すら認めないってやべーな。

日本私刑禁止からレイプした加害者ボコボコにしてやりたいって思うだけでアウトになるな。

anond:20260309014050

シスジェンダーだっていろんな性的指向の人がいるんだから公衆浴場性的欲望ゼロしろなんて現実的じゃないし、内心の自由にも反するし、トランスジェンダーにだけゼロを求めるのは差別しか言いようがない。

もちろん性的欲望があっても自制はすべきであり、言動によっては(差別的ではない範囲個人が)批判されたり罰せられたりしても妥当である

2026-03-09

私刑は許されるか?

しばし議論になる、

否定派の言い分は、法があり法治国家である以上法で定められた罰を受ければ終わり、私刑は禁じられている

 

これを完全論破しましょう、私刑は許されておりむしろ善行である

ではまず手始めに憲法31条を持ち出すトンチカン野郎を片付けましょう

31条はあくま罪刑法定主義、あわせてデュー・プロセスの明文規定にすぎない

私刑禁止規定ではない、勝手拡大解釈すな

憲法とはそもそも国家暴走抑制するもの私権私人行為には(あまり)踏み込まない

かつては王様特権、横暴で恣意的に、ランダム私権が奪われたり、時には刑罰が課された。

そーゆーのは許さんからね、と宣言しているだけ

私刑禁止なんてどこに書いてます?書いてないよね、あなた感想はいあっさり論破

 

次に、倫理面、犯罪を許さない、犯罪者も許さない、それを社会から排除したい、

という個人お気持ちは許されるか?許されないか

内心の自由憲法で明確に保証されており、許されます、ここまではOK?

で、具体的な行動を取ることは犯罪か?

例えば相手犯罪者であっても棍棒で殴れば犯罪である、そりゃ俺も認める、イカン事だ。だが後述する。

 

次、犯罪者の社会復帰を社会スクラム組んで排除することは犯罪か?

たんなる集団意識にすぎない。犯罪ではない

受刑履歴のある履歴書もってきた応募者を断る、何ら問題ない

履歴書不記載が後からバレた従業員をクビにする、何ら問題ない

被害者性犯罪の紙面公表を望んだが拒否し、ペンネームを変えて復帰させた出版社ネット糾弾するのは犯罪か?

いえ、別に?なんの犯罪にもなりませんよ、憲法31条なんでしょ?罪刑法定主義でしょ?なんの犯罪になるんですか?

罪名は?ないよね?倫理的な問題にすぎない。個人価値観内心の自由

刑罰執行で禊が終わった社会復帰の権利を得たと解釈するひともいれば、一生抱えるべきだと思う人もいる、正解など規定できない、法がない

あくま内心の自由、ここまではいい?いいよね?一分の隙もない完璧理論

 

棍棒でぶん殴る話に戻しましょう

そもそも犯罪とは?刑罰とは?

棍棒でぶん殴った時点では倫理問題にすぎない、この時点では厳密には犯罪ではないのだ。

それが犯罪であると確定するのは裁判所

ボクシング試合で殴り合いをしても傷害罪にはならない、それを決めるのは裁判官であり、

裁判を望むかどうかは被害者が決める、あるいは法執行機関が決める、これは親告罪非親告罪かで決まる

ともかく、傷害罪非親告罪ではあるが、現実的には被害者被害申告しなければ捜査はされない、結果裁判にもならない

性犯罪加害者がとつぜん棍棒で殴られて「許せん!訴える」ならば訴えれば良い、どうぞお好きに、その権利は奪わない

殴った人が裁判で決められた刑罰を受け「それで終わり」を覚悟して殴ったならば、「それで終わり」にしかならない

イカンことだ。だが覚悟持ってやったなら、刑を受け罪を償えたら「終わり」なんだよね?

それでいいんだよね?憲法31条なんでしょ?はい論破

 

ネットリンチも同様である、それが犯罪であると思うなら被害者加害者)はどうぞお好きに告訴告発民事訴訟を起こせば良い

「ボクは性犯罪犯人だが文句言われる筋合いはない!実名で堂々と戦ってやる!裁判だ!ボクをネットリンチする奴らを許さん!」

えぇどうぞ、お好きにやりなさいである、止めない、全て自由である、だが不思議にこれをやるやつはない

まり当人も仕方がないと認めているのである、受け入れているのである、受け入れているなら文句なかろう

他人がとやかくいうことではない、あくま個人価値観の話である

 

そもそも日本世界では珍しく裁判所私刑容認している国だという事実を受け入れましょう

こういうの聞いたことがないかな?

被告人はすでに社会的制裁を受けており、罪を減じます

ん?ん?よく考えてみ、おかしくない?理屈合ってないよね?

 

社会的制裁と刑罰は別物だよね?なんで裁判でごっちゃにしてるの?

裁判所社会的制裁の存在を認め、かつそれによって罰を加減するのである。つまり機能として組み込んでいる証拠

仮に社会的制裁を認めないのであれば、裁判所刑罰と分離するはずである

被告人がななんらか社会的制裁をうけ、不合理な損失を被ったのであれば、かつそれが犯罪行為であるならば

それはそれで別個の刑事裁判民事裁判をやればいい、元の裁判とは関係ない、という姿勢を貫くはずである

実際に諸外国はそうしている、日本だけ社会的制裁を加味する。

逆に言えば、私刑社会的制裁は許されている、容認されていると言うてもいい。

極論言えば私刑しても裁判所はどうせその分減じるのだからいいじゃない

 

まり私刑裁判所も認める社会機能なのである

ここまで反論ある?ないよね?無理だよね?

裁判所が間違ってる!とか?

そうかもね、どうぞ頑張って憲法変えて下さいw

はい論破完了

 

結論出ました。私刑ネットリンチ、村八分、これら全て社会活動ボランティア善行です

謝罪」の価値

現状、会社社員に「反省文を書け」と命じることすら内心の自由侵害するという理由違法とされている

そういう状況で「謝罪がないから〇〇する」がどこまで許されるのだろうか

 

・「謝罪がないから許さない」

・「謝罪がないということは反省していないということだ」

→まあこれは一理あると思うし、謝罪要求する側がそう思うのは自由だろう

 

原告謝罪がないなら賠償金□□円上乗せ請求します」

民事示談としてやるなら自由と思う反面、金額によっては強要の要素が入ってくるのでは?

 「謝罪がないなら警察通報します」は立派な強要罪・脅迫罪だよなぁ

 

裁判官謝罪がないなら刑罰上乗せします」・「謝罪がないから多額の賠償金を命じます

→これもあんまり納得できないんだよな

 反省の色がうかがえるので刑罰をどうこうしますってそれもう裁判官感想でしょ

 法治主義はどこいった?

 

みなさんはどう思いますか?

意見があればコメント欄で教えてください。

2026-03-03

anond:20260303201039

それは要するに魔女裁判原理です。

内心の自由憲法で認められているのは「内心はわかりようがないから」というシンプル根拠があり、内心を理由弾圧してよいならいくらでも難癖をつけられます

社会における「正義」とは「正しい手続きを取っていること」のみで測られなければなりません。

差別禁止する法律犯罪歴に対するものも含めてのものであると認められており、それに照らして正義ではないのはあなたです。

2026-02-24

[] 自由という名の専制

1.混同される二つの自由

Isaiah Berlinの「二つの自由概念」(1958年)は、今もなお、自由という言葉の危うさを教えてくれる。Berlinは自由を二つに分けた。消極的自由積極的自由だ。

消極的自由とは、他者から干渉強制がない状態のこと。「何をさせてもらえないか」という自由で、古典的自由主義の根幹をなす。J.S.ミルの「害の原則」が守るべき領域である

一方、積極的自由とは、自分が「あるべき自分」になるための能力や条件を意味する。「何をすべきか」という自由だ。ここには「真の自己」(理性に基づく理想自分)と「現実自分」(今生きている自分)の分裂が前提にある。そして「真の自己」を知っていると信じる人――エリート指導者、党――が、現実自分を「導く」ために強制正当化する危険はらんでいる。

2.繰り返される正しきもの独裁

Berlinは特に積極的自由全体主義専制に転化しやすいと警告した。ルソーカントの「真の自由は理性による自己統治」という考えは、「真の理性を知っているのは私たちだけ」という代弁者を生み、「あなたはまだ本当の自由をわかっていない。だから強制してでも導く」という論理に落ちやすい。「自由のために強制する」という逆説が、ナチズムスターリニズムのような「正しさの専制」を支えた歴史的事例は、誰もが知るところだ。

このパターンは、時代が変わっても繰り返される。代弁者の顔ぶれが変わるだけで、論理は同じである

中世宗教国家では、神の意志を知る教会神学者が「魂の救済のため」に異端を迫った。
啓蒙から近代国家では、理性と普遍的人権を知る哲学者国家が、ルソーの「一般意志」を盾に「あなたはまだわかっていない」と人民強制し、フランス革命恐怖政治を生んだ。
そして現代では、進歩的学者活動家が、抑圧された声やマイノリティ経験を知る「弱者代弁者」として、「構造的抑圧を理解していないあなた無意識加害者だ」と「正しさの回復」を迫る。

「真の自由正義解放」を知る代弁者が変わっただけで、「あなたの本当の利益は私が知っている。だから従いなさい」という積極的自由論理は、変わらずそこにある。

3.なぜ「正しさ」がアカデミズムを虜にするのか

アカデミアは「知の権威」として正しさを語る場であり、規範思想自分専門性社会を変える道具にできる強い魅力を持つ。マルクス主義が衰えた後、階級中心からアイデンティティ中心へ移ったことで、「弱者の代弁」が新しい権威となった。学者は「抑圧構造を暴く」という英雄的な役割に酔いやすく、異論を「構造的抑圧の擁護」とみなして排除する内輪の純粋競争に陥りがちだ。こうして「正しさの専制」が学界の中で再生産され、内心の自由や非合理的な信念の共存が軽んじられる。

Berlinの価値多元主義は、「正しい価値は一つではない」という前提で、こうした専制を防ごうとした。しかし今、「正義価値は一つしかない」という新しい一元論が、再び多くの人を虜にしているように見える。

理想はいつも高潔な姿で現れる。あるべき社会、あるべき権利、あるべき自己実現を掲げ、人々の幸福約束する。だがその理想が「真の自分」を代弁する権威を生み、代弁者が正しさを独占した瞬間、自由は静かに息をひそめる。積極的自由の名の下に強制された「解放」は、結局、本来自由を圧殺し、価値観の強制アップデートを迫るようになる。

2026-02-06

anond:20260204181436

バランサー気取りの中二病政治クラスタって感じ

この増田もWelcome to undergroundのコピペと内容に大差ない

だいたいいい歳した男がパートナー内心の自由脅かしたいみたいな事わざわざインターネットに書いて全世界に公開するとか性根が腐りきってるだろ

そもそも平和主義とか信条あるくせに妻の平穏は守ってやれないあたりその主義主張も怪しい

2025-12-31

anond:20251231201650

極論 清潔感禁止 を閣議決定してほしい

え、清潔感って内心の自由でしょ。どうして、こころの中の感想を抑圧されなくちゃならないんだろう・・・

anond:20251231191640

内心の自由って、ヒミツにする自由でしょ。

表明した時点で、文句言われるし、みんな言論の自由行使するので、行使しないようにするなんて無理でしょ。

から義務問題になるって話。

anond:20251231191237

内心の自由保障されてるんだから他人の内心に文句言う権利はないのでは?

表現の自由行使他人の考えに対して自分意見を述べてるだけで

似てるようで別レイヤーでは?

2025-12-29

anond:20251229110711

>本人にとってバカみたいかどうかは本人が決められるけど、他人にとってバカみたいかどうかは本人には決められない。直接言われるのは阻止できても、密かに内心で思われるのは止められない。

 

そうだね。内心の自由だね。

 

>幼い自分尊厳ある自己決定とやらの名付けに対して、未来自分という名の他人が、自分はこんな言葉表現されるような人間じゃないと思うことは十分ありうる。名前を付けた過去自分とそれを使い続ける周囲の他人自分を拘束する。

 

え、別に嫌になったら変えればよくない?自己決定なんだから

2025-12-28

anond:20251228070152

大体同じ考えで特に内心の自由については首肯するが、しかルッキズムについては悩んでる

キモい相手結婚するわけないだろ

一体全体どうしちまったんだよ

忘年会で酔いすぎて思考力消し飛んだのか?

生理的嫌悪感がある相手結婚なんてするわけないだろ

一生を棒に振れとでも?

結婚後に長い時間かけて自分好みの性格に改造できるとしてもさ

いつかは理解のある彼くんに仕立てられるとしても

その日が来るまではカエルと一緒の布団で寝るのよ

ゲボすぎる

誤解ないように言っとく

鈴木客観的には清潔感がマァマァな、キモくない相手なんでしょうよ

だがそんな事はどうでもいい

自分にとって」生理的キモくて無理そうなら、その気持ちに嘘ついちゃダメ

生理的に無理"という 内心の自由否定するロジックは、リベラルだろうとエリートだろうとポリコレ界隈だろうとどんな人達も持ってない

正解のアドバイスはただひとこと「次行け次」

「ドキドキしないから断っちゃう」はドキドキしないのが問題じゃない

読解力ないのはそこよ

実際に書かれてる内容は

キモさが鼻に付くから断らざるを得ない」

ストレートに言い切るとカドが立つからキモい」を「ドキドキしない」に言い換えてる

こういう置き換えって処世術として大事

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追記

もしあなたが本気で、どうしても人生賭けたパートナー人格改造にチャレンジするつもりなら

「今は好きじゃないけど、これから性格を変えていきましょう」

最初宣言しないと相手に失礼

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