久々の歴史ネタ
幕末の緊急時、紀州藩から徳川家茂が、なりたくもなかった第14代将軍となって江戸城に入る
その「後見役」となった一橋慶喜が、幕閣相手に激しく政論を戦わせるのを見て家茂が「あの人が将軍となればいいのに」と本当に泣いたらしい…
家茂さんって大人しい優しい人だったのかな…
その家茂も将軍職に就いてからすぐに僅か21歳で死んでしまう…
そして「最後の将軍」として一橋慶喜が第15代将軍として将軍職に就く
やがて大政奉還として、いきなり政権を丸投げしてしまう…
幕府を徹底的に倒したい薩長は、大政奉還だけではもちろん満足せず戦争を仕掛けて戊辰戦争に発展
やがて幕府は完全に消滅し、慶喜は謹慎し表舞台からは消えてしまう…
その後、薩長閥が新政権の中心となるとそれまで幕府寄りだった会津や奥羽連合だった東北の諸藩を徹底的に痛めつける
特に会津は可哀そうで、戊辰戦争に巻き込まれなかったら廃藩置県で福島県(県庁:福島市)ではなく「会津県」として残っていたんだろうな…
旧幕臣で唯一、新政権の中心に入った勝海舟及び榎本武明らに旧幕臣たちから批判の声が浴びせられる
特に福沢諭吉はこの二人に「何をやっているんだ、徳川家に忠義を尽くした者なら徹底抗戦すべきではないか?」と二人に「痩せ我慢の説」という文章を送り付けて返事(反論)を待つことにした…
しかし二人は表立って反論はせず自らの意志で新政府で世の為に尽くし通したのでした
特に勝海舟は、謹慎中の慶喜の罪を免じてもらおうと政府内の要人に何度も働きかけたそうだ
そのためにあえて中央政府の中に居て働きかけたんだと、回想録で書かれていたようです
謹慎中の慶喜は、旧幕臣との面会は殆ど断り続けたといわれています
旧幕臣と頻繁に会うことで明治政府から疑惑を抱かされないようにとの思いと「いつかは日の目を見る」という思いがあって耐えてきたことと思います
結局、その甲斐もあって明治30年に罪は許され、もとの江戸城である皇居に呼ばれ明治天皇に謁見した。そのとき明治天皇夫妻からワインを進められ談笑したとの記録が
皇居参内の翌日、勝海舟の元へ慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため勝は「生きていた甲斐があった」とうれし涙を流したと言われている
結局、幕府を倒した西郷隆盛(西南の役で自刃)・桂小五郎(病死)・大久保利通(暗殺)らのほうが先に亡くなり、慶喜は明治天皇崩御も見とどけ、新しい時代(大正)の幕開けを確認したように大正2年に亡くなった
そしてその5年後の大正7年には、最後の長州閥の寺内内閣が、奥羽連合だった南部藩出身の原敬により倒され、長州閥が政治から一掃されている
そう思えば最後に勝ったのは徳川慶喜だったのかな?と思ってしまいます
やはり歴史は繋がっていると思う
ある歴史学者が言う
「歴史は『敗者側』から見ないと本質がよく分からない事ってよくあります」まさにその通り
入れる写真が無かったので「踏まれても頑張る」野に咲くタンポポを入れてみた
(この写真、後でみたら何度も使っていた)
- 2018/08/22(水) 22:57:09|
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今年の大河ドラマに出てくる一橋慶喜も曲者ですね~^^
頭脳はピカ一かもね???
- 2018/08/23(木) 16:16:17 |
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>Vodkaさん
鳥羽伏見の戦いの際、大阪城に多くの幕府兵を残したまま黙って「敵前逃亡」したり…
慶喜って訳のわからないことばかりやっているようですが、大きい目で見ると平和に明治維新を迎えることが出来たのも慶喜のおかげだと思ったりして…だってこのまま抗戦を続けたら日本中で争いが起こり、もっと死者が出たと思う。ならば慶喜はマクロ的に見るのではなく、広い視野で見たら、明治維新の一番の功労者だったのかもしれない…
- 2018/08/23(木) 17:25:22 |
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