漁港の町、室津。
兵庫県たつの市、播磨灘に面する漁港の町で、歴史は古く神武天皇が東征の際、先導役が港を建設したのがはじまりだといわれています。
播磨灘の室津湾のさらに奥にあり、「室の如く静かな津」と言われていたのが室津の名の由来と聞きます。これにより船を停泊するのに都合がよく、西国の大名たちの多くは参勤交代の際にこの場所から上陸したそうです。現在は冬場の牡蠣が有名で、私も冬にチョクチョクく買いに来ています。。。
先日の休みの日、長男の住む岡山から車で姫路に向かって帰る途中にチョイ寄り道、鞄には「超古デジ」のFinepix6800zを忍ばせていました。
国道250号線(地元では浜国という愛称)から室津を全体を見渡せるポイントがあり、そこから見ると入江の奥にある漁港ということがよくわかります。
国道から漁港に降りる橋から撮る
Finepix6800z曇りがちで、夕暮れの始まる時間帯、このfinepix6800zには苦手の環境。
漁港にて
Finepix6800z防波堤を臨む 向うに見えるのが小豆島
Finepix6800zしかも電池の消耗が激しく、10枚程度しか撮れませんでした。
フル充電にして2週間何も使わずにしていても、自然放電して半分くらい無くっています…
設計が古いんでしょうかね?
船出する漁船
finepix6800z今回はあまり時間がなかったので、散策は防波堤の辺りしか出来なかったので、今度は梅雨が明けて明るい日差しの中で、夏の室津漁港をバッテリーフル充電のこの6800Zで撮りまくりたい。
しかしバッテリーがフル充電でも、スマートメディア最大規格の128MBで50枚程度しか撮れないもんな…(悲)
- 2016/06/30(木) 22:37:00|
- 写真散歩(兵庫県)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
補陀落渡海(ふだらくとかい)…
遠い海の果てにある観音浄土へ向う捨身行である。
紀伊の那智勝浦にある補陀落山寺、代々の住職はある時期になると「補陀落渡海船」といわれる船に乗り
遠くへ旅立つ、つまり「死出への旅」。
補陀落渡海船は、四方に鳥居が備え付けられ中央には小部屋があり、その中に補陀浄土へ向かう行者が乗り、
釘で周りを固められ、一度入ると船が壊れない限り二度と外に出られない。
やがて別の船で沖へ曳航され縄を切り離され、波に任され漂流が始まる。
船底には穴に栓が施されており、行者自ら栓を抜き船とともに生きたまま入水。。。。
中の行者は沈むまで経典を唱え続けなくてはならない。
まさに「生きたままの水葬」。
沖縄に残る古文書には、生きたまま琉球の地に流れ着いた者が数名、現地で熊野信仰を広めたり、真言宗の寺を創建した行者もいたそうです。
でもそれは本当に稀な例で、殆どの行者たちが海の底の沈んだことでしょう。
あるものは波で引き返され、瀕死の状態で浜に打ち上げられ、村の人々に叩き殺され
再び船に入れられ沖に流された例もあったという。
村人たちにとっても、本当に観音浄土へ旅立ってもらわないと仏罰が落ちると恐れられた為か。
現代の私たちにとっては、とても理解できない信仰…
釈迦は自ら命を絶つことに対しては否定も肯定もしていないといわれている。
しかし、飢えた虎の親子の為に自らの命を捧げた「捨身飼虎」という説話も有名だし、
少なくとも世の多くの人を救うための手段としてならば、自らの命を捨てるのも慈悲の道だということなのか…
私はこの捨身行を題材にした、井上靖の短編小説「補陀落渡海記」でこの信仰を知り、興味が湧いて
今から10年ほど前に和歌山の補陀落山寺を訪れたことがあります。
補陀落山寺本堂補陀落山寺の境内には、復元された「補陀落渡海船」が展示されています。
覗いてみると、その船室(といっても行者が閉じ込められる部屋ですが)の狭さに驚く。
こんな狭い場所に閉じ込められて浄土へ旅立った行者はどんな思いだったのか。
復元された補陀落渡海船その裏山には補陀落浄土へ旅立った歴代住職の墓があります。
墓といっても土の中にはその人たちの骨はないのですが、その墓標から得体の知れないような
気が湧き出ているかのように感じます。
写真を撮った後、背中に「ゾク」っとした感じが…
すぐにその「墓標」たちの前で般若心経を唱えて気持ちを落ち着かせ、逃げ帰ったことがありました。
やはりこういう場所には、軽い気持ちや興味本位では近づかないほうが良さそうですね。
補陀落渡海した者たちの「墓標」寺を出ての帰り道、和歌山の海を車窓越しに見る。
那智勝浦の海(車からの撮影)この穏やかな海を見ていると、遥か彼方には観音浄土が本当にあるんじゃないかなと考えた
人たちの思いがわかるような気がした。
「補陀落渡海」
そして自らの肉体をミイラにして土中に残す「即身仏」
衆生たちを救うためとはいえ、現代の私たちには到底思いつかないような凄まじい捨身行。
我が国の信仰の深淵に驚きを隠せません。
- 2016/06/28(火) 23:04:23|
- 仏教
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
奈良般若寺。
東大寺の北に位置し、国宝の「楼門」、重要文化財の「文殊菩薩像」で有名な寺院。
寺伝では舒明天皇元年(629年)創建とされ、天平7年(735年)聖武天皇が伽藍を整えたと
いわれています。
現在は「花の寺」として特に女性に人気なお寺になっています。
般若寺 境内の不動明王
FinepixS3Pro TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VC1180年12月 南都焼き討ち。
平重衡、平道盛率いる平家の軍勢。東大寺の北、般若寺に陣を構える。
「火をいたせっ!」の号令で焚いた篝火が強風のあおりを受け、
興福寺・東大寺に火が燃え移り大火となる。
当時東大寺大仏殿の2階に避難していた1700人の僧を焼き殺し、大仏殿は全焼。
大仏も焼け落ちる。
平家の陣があった般若寺の楼門に1000人の僧の首が切ってかけられた。
般若寺 国宝「楼門」
FinepixS3Pro TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VCまさに阿鼻叫喚の地獄絵…
そして般若寺も大火のあおりを受け全焼。
伽藍は全て灰燼に帰し、礎石のみが残るという悲運に見舞われる。
やがて平家が滅び、源頼朝が幕府を上げて東大寺復興に尽力を示す。
しかし般若寺まで復興の波が押し寄せることはなかった。
重要文化財の十三重石塔。
般若寺 重要文化財「十三重石塔」
FinepixS3Pro TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VC『文殊縁起』という古文書によると、廃墟の中から復興をこころざした「大善巧の人」
(だいぜんぎょうのひと )が基台と初重の大石を積んで命絶えたそうな。
「大善巧の人」という般若寺復興に全てを注ぎ込んだ名もなき人たちの思い。。。
やがてその思いを引き継いだ、西大寺の僧・叡尊(えいそん)たちの尽力により現在の
般若寺の姿に取り戻した。
現在般若寺境内は、コスモスをはじめ四季それぞれに美しい花で彩られている。
実はご住職のご家族が全ての花の手入れを受け持っているそうです。
般若寺 雨上がりのコスモス
FinepixS3Pro TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VC十三重石塔や伽藍を彩る美しい花たち。。
般若寺 雨上がりのコスモス
FinepixS3Pro TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VC南都焼き討ちで亡くなった人、復興を夢見て半ばで倒れた名もなき人たちの思いがこの十三重石塔から
天に繋がっているかのように感じます。
- 2016/06/26(日) 22:28:55|
- 寺巡り
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
酒見寺。
姫路市のお隣の加西市にある古刹で、播磨三宮酒見社(現、住吉神社)の神宮寺として745年(天平17年)創建されました。
開祖は行基、勅願は聖武天皇という由緒正しい古刹です。
私は以前からこの酒見寺の多宝塔が気になっていました。重要文化財で昭和51年からの解体修理で当時の彩色が再現されており、その極彩色の艶やかさに魅せられていつかは訪れてみたいと思っていました。
宝珠と多宝塔。
FinepixS3Pro NIKON:AF55-200mmVR彩色され直して40年以上経っているので少しずつ色もくすみ始めていますが、それでもまじかに見ると艶やか。
FinepixS3Pro NIKON:AF55-200mmVR鬼瓦。
FinepixS3Pro NIKON:AF55-200mmVR尾垂木や肘木も艶やか。
FinepixS3Pro NIKON:AF55-200mmVR鐘楼(県指定文化財)も復元されており、当時の色使いも再現されています。
FinepixS3Pro NIKON::18-55mmVR梅雨の鬱陶しい天気が続いていますが、艶やかな多宝塔の色使いを写真で見でいると、梅雨が明け夏が本格的になったら晴れた日にまた行ってこようと思う。
- 2016/06/25(土) 14:56:22|
- 寺巡り
-
| トラックバック:1
-
| コメント:0
みなさんは自分の撮った写真を部屋に飾っているのでしょうか。
写真教本などで上達法として、写真を飾ることが良いとよく書かれていますね。
自分が撮った写真を見ることで眼が肥えるとか、あるいは多くの眼に触れさせた方が、
上達の速度は増すなどと……
でも私の場合は一人で飾って一人でニヤニヤ楽しんでいるだけです、向上心もなく…
家族はあんまり写真に興味ないし、部屋に招いても写真を見て
「絞りはいくらで撮ったの?シャッタースピードは?もっとこうしたらイイのにね」
なんて言ってくれる友人もいないしね。
まあ自己満足の世界です。。。
ネットでは私のようなまさに「表彰状を入れるような額縁」ではなく
紐に洗濯ばさみで写真を直接吊るしたり、乱雑に壁にラフに押しピンで貼り付けたり、
モノクロ写真を色々組み合わせてオシャレに飾ったりしていますね。
我が家はそんなおしゃれな飾り方が似合う家でないしね。
スマホで撮影今自分の飾っている写真を久々にシゲシゲと見て、桜があったり紅葉があったり…
季節感がバラバラ…
しかも半年以上は替えていないわ。
恥ずかしい限り、そろそろ入れ替えしなきゃ。。。
- 2016/06/23(木) 22:08:10|
- 写真
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
我が姫路市にも「キリシタン地蔵」があるという話を聞いて見てきたのは8年前。
姫路市のお隣の加西市あたりなら数体発見されていますが、姫路市では私の知る限りではこの一体のみ。
今では廃寺となっている観音寺に居られるそうで行ってきた。
現在は廃寺の観音寺(2009年撮影)
FinepixS9100姫路市の文化財資料を手に入れて調べると享保8年(1723年)造立らしく、背中には十文字の紋章が確かに彫られていました。
隠れキリシタン地蔵(2009年撮影)
FinepixS9100姫路にも隠れキリシタンが居たとは…
確かに黒田官兵衛は洗礼を受けていたし、姫路城下には多くのキリシタンが居たはずですが江戸時代前期、姫路城主が池田輝政の時代に城下で厳しい弾圧があったとききます。
その後隠れキリシタンは絶えてしまったのではなかったのか…
1637年に勃発した島原の乱。
キリシタン天草四郎 VS 幕府側の「知恵伊豆」と言われた切れ者、松平信綱の戦い。
乱は約5か月後に平定されたが、その後の処分も苛烈を極めた。
乱の発端の一つ、厳しい年貢を強要したとして城主の松倉勝家も斬首となり、お家断絶。
江戸時代の大名で、切腹ならまだしも斬首となった例はこれ一つであった。
島原の地は幕府直轄になり、乱で荒廃した地の復興にかなり幕府も苦心したらしい(当たり前な話ですわ)。
当の天草四郎は乱で死んだが、実はこの乱の勝者は幕府ではなく天草四郎だったのでは?という説が最近聞かれます。
島原地方の古文書(こもんじょ)によると、乱後のこの地域にはまだ多くの隠れキリシタンが居て、江戸時代中期にある庄屋が「隠れキリシタンではないか!?」と疑いをかけた百姓が居て、調べるとなんと千人単位の隠れキリシタンが居ることが判った。
もちろんこの通報は幕府まで届くわけですが、結局誰も御咎めなしとなる。
隠れキリシタンと認定されれば即刻処刑されるのが国法ですが、島原の乱での恐怖、根絶やしにした後の復興の苦心、通常なら統治能力がないとして領主の処分で済むが島原は幕府直轄地、幕府の権威に関わる一大事。
ここで幕府は一つの言葉を思いつく。
「宗門心得違いの者(しゅうもんこころえちがいのもの)」。。。
うまい「官僚造語」ですね
「あなたたちは異教徒ではない、『宗門』を心得違いしているだけですよ。だから御咎めは無しよ」
と幕府直轄地の島原で黙って共存させたという事実がある。
戦には負けたが、その後幕府に恐怖を植え続け、隠れキリシタンが居ることを判って黙認し続けさせた事実を考えると、最終的な勝者は天草四郎だったのか…
やはりそうなんでしょうかね?
物思いにふけるような表情の「隠れキリシタン地蔵」に聞いてみたくなった。
隠れキリシタン地蔵(2009年撮影)
FinepixS9100
- 2016/06/21(火) 19:29:05|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
綺麗な花には棘がある…
昭和を生きた親父たちなら、どっかで聞いたことがあるフレーズですね。
まあ美人なお方(女性)全員に棘があったら世の殿方たちは大変だろうに(昭和なセリフだこと)…
なんて話は置いといて。
昨日の雨で予定が崩れて家に居ました。
でもゴロゴロしていても仕方ないので、近所の温室植物園へ行ってきました。
今回はFinepixS3Proにオールド単焦点レンズ(NIKON AF 50mm f1.8)の組み合わせ。
最近はジージー唸ってピントが合いにくいことが増えたレンズですが、薄くて軽いので最近出番が多い。
そして安っぽいけど距離計が付いているところがニクイですね。
今回は先日の尾道で買った「尾道帆布ストラップ」も装着しております。
この温室植物園は時々出かける場所ですが、今回はサボテンの花がアッチコッチで咲いていました。
サボテンの花って他の植物に比べて華やかな色なんですね。
やっぱりトゲトゲしいイメージがあり、そのギャップで美しく感じるからだろうか…
因みにサボテンの花の花言葉は「偉大」だとか。
厳しい環境下で耐えて美しい花を咲かせるサボテン。
サボテンは偉大だ(自分で言ってて支離滅裂)…
- 2016/06/20(月) 21:22:44|
- 写真散歩(姫路市内)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「スカイライン」と聞いて思い浮かべるのって、やはり日産の車名でしょうね。
「スカイライン」でネット検索しても車のことばかり。
でも本来の意味は、山並みの稜線などの地形や建物群がつくる輪郭と空を背景とした境界線のことを言います。
日産「スカイライン」を造った日産の開発チームがある山の登山中、尾根の姿に感動した時、山小屋の主人から「あれがスカイラインと言うんだよ」と聞かされて車に命名したという有名なエピソードがあります。
今から10年ほど前の晩秋、夜明けの雲海写真が撮りたくて、兵庫県佐用町で雲海がよく出ると言われる山を夜明け前から登り、日の出と雲海を待っていましたが、その時は気温が例年より高くしかも曇りで雲海どころか太陽も見えない。
残念な気持ちで下山しようかと思ったときに、一瞬雲の切れ間から日が差し始めてその美しさに感動したことがりました。
その時は三脚は畳んだ後だったので、必死に手持ちで写しました。
ブレ防止のカメラ・レンズではなかったので、すこしボケてますが自分にとっては思い出に残る写真です。
「スカイラインに薄明光線」。
finepix S3Pro NIKON:28-70mm F3.5-4.5
スカイライン…
美しい良い響きの言葉だ…
- 2016/06/18(土) 21:12:24|
- 写真
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
今回はSONY Cybershot DSC-P150、 2004年モデル。
PLAY・PORTABLE・POCKETの頭文字から取った「Pシリーズ」。
当時はCybershotイコールこの形とまで言われたように大ヒットしました。
レンズを右にオフセットしてホールドが難しそうな形ですが、意外と扱いやすい。
Cybershot最大のヒットシリーズとして長く続くことで、ユーザーの要望をしっかり
受け止めて進化しています。
このP150は最終型(P200)の一つ前のモデルで、デザイン・操作性を含め完成度の
高いモデルと思っています。
そしてこの形。
ポケットに入れるにも取り出すにも「引っかかり」が無いためスムーズに出し入れ出来る。
私は出かける時にいつもワンショルダーに忍ばせています。
晴れた日の描写は今でも通用するかなと思います。
ただ一つ残念だと思うのが液晶モニターサイズ。
レンズを端にオフセットした構造上仕方ないかもしれないが、やはり1.8型は辛い。
去年の沖縄旅行に、一眼のFinepixS3ProとこのP150を持っていきましたが、S3Proの
バッテリ(単三電池エネループ)を充電するのを忘れて、電池を買うのもコンビニが
周りになかった為、殆どP150で済ませました。
沖縄の青い空の下、重い一眼はホテルに置いて、カールツァイスレンズは中々の描写を
見せてくれました。。
沖縄ニナイカナイ橋
SONY Cybershot DSC-P150すっと取り出して、すっと撮る。
こんな感じで私にとって最適なスナップシューター。
まだまだ現役です。
- 2016/06/16(木) 23:04:11|
- カメラ
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
先日の尾道散策で出会った風景。
坂道の途中、沢山の地蔵をはじめ石仏たちが一カ所に寄せ集められて祀られていて、
何か異様な雰囲気が漂っていた。
中には首のないお地蔵さんもあり、歴史の波に翻弄されてきたかのような石仏たち…
尾道の坂道途中の石仏たちこの写真を家に帰って見て、ふと思い出したのが何故か戦国時代の九州豊後を治めていた、
キリシタン大名の大友宗麟だった。
キリスト教に傾倒した彼は、豊後領地内の神社仏閣を徹底的に破壊尽くした。
洗礼を受け、九州全土に「キリシタン王国」建設を目指したが強国の薩摩島津に敗れ衰退する。
耳川の合戦、別名「高城川の戦い」と言われた、現在の宮城県の中央を流れる高城川近辺で
行われた合戦。
宗麟は耳川へ向かう行軍中、道の悪いところやぬかるんでいる場所になんと仏像を放り込んで
穴埋めにして踏みつけて進んだそうな。
かれはいつも陣中に南蛮キリシタンを従えており、彼らが本国ローマへ送る報告書には、
「宗麟は征服した土地の神社仏閣を潰して進み、つねづね自分はキリスト教をもって
九州を統治したいと語っている」と書かれていた。
対する島津軍。
陣頭に山伏を立て、敵を調伏する修法をさせたり呪法をさせながら行軍した。
島津では山伏や行者たちを「兵道(ひょうどう)」といい、武将たちと同じ扱いで陣中に必ず
彼らを伴っていた。
これによってこの耳川の合戦は日本初、あるいは唯一の「宗教戦争」と呼んでいいのかも…
結果は島津氏の圧勝。
「神仏VSゴット」で神仏の勝利!
ではなく、組織力・各武将の器量・配下からの信頼の篤さで優る、島津の当然の勝利となった訳です。
尾道浄土寺今は穏やかな尾道だが、良港の覇権をめぐり、かつては山名是豊、木梨杉原氏、そして戦国の世に
この地の覇権を握った毛利氏など、目まぐるしく覇者が代わったところを考えると、大小の色々な戦が
あったのかと考えさせられます。
尾道の坂道途中の石仏たちこの名もない石仏たちが目撃者なのかもしれない。。
- 2016/06/15(水) 21:44:59|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
次のページ