ネタが尽きたので久々の歴史ネタです
テキトーに流してくださいね
重衡桜(しげひらざくら)…少し散りかけてはいましたが…
奈良の般若寺で見かけた重衡桜
源平合戦の頃、当時「南都(なんと)」と呼ばれた奈良を焼く尽くした男、平重衡(たいらのしげひら)
平清盛の五男で、文武とも優れた人物であったそうな
「火をいたせ!」と彼の号令で、平家に盾突く東大寺をはじめ興福寺など多くのお寺を焼き尽くす…
いわゆる1181年の「南都焼き討ち」
東大寺は焼き尽くされ、大仏様は焼けて溶け落ちて、斬った僧の首はなんと500首
この首たちをこの般若寺の楼門に掛けさせ並べたという、仏教徒に言わせれば「恐るべき所業」
なんで人間ってこれほど戦時下では残酷になれるんでしょうかね
やがて彼は「一ノ谷の合戦」で捕らえられ、鎌倉へ一旦送られましたが、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、南都へ引き渡されることになりました
そしてすぐさま斬首となって、その首を祀った「首塚」に自生していた桜をこの般若寺に移植して代々伝わっているそうだ
奈良の人にとって極悪人だった平重衡
首を切られる直前、見物人のなかから重衡に長く仕えた知時という従者が、かつての主の最期を見送ろうと人垣をかき分け重衡の前に進み出た
重衡は昔馴染みの訪いに喜び、「出来る事なら最期に仏を拝みたい」と頼んだ所、知時は懐中から小さい仏像(阿弥陀如来)を取り出し重衡の手にかけて念仏を唱えたそうな
まあこれは能の演目である有名な『重衡』のくだりなので事実かはわかりませんが…
しかし「仏敵」に堕ちた身でありながら最後に「仏の救い」を求める重衡
そんな仏敵である重衡を後世は供養塔などを建ててお祀りしている奈良
亡くなって「仏」になればすべてお祀りする…心の広さというかやはり仏教らしい
今はヨーロッパでは戦争が行われ、毎日のように凄惨なシーンが流れており、最近はネットニュースを開くことさえ少なくなりました…
今は平和な奈良
この地で900年前は凄惨な地獄絵図が展開されていたとは誰が思いつくだろうか…
平和には本当に感謝しかありません
- 2022/04/14(木) 19:03:30|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
今日はいつも以上のマニアックな独り言なのでテキトーに流してください
先日の会社帰り
バイパス側道の細い道での信号待ちで、助手席側の窓から外をふと見ると、工事の案内が目に入った
なんと遺跡の発掘調査らしいではないか!
運転席から助手席の窓に向かってスマホでパチリ
姫路市の文化財課のHPを覗くと、
川岸低地部でトレンチをいくつか設定し確認調査を行ったら、古代から中世にかけての柱穴、立柱建物跡などが確認されたそうな…
※トレンチとは…遺構の有無や遺構分布を調べるために地面に彫られる溝のことです
何気なく通っている道沿いにもこんな古代からの営みがあったとは驚きですね
私は歴史好きで近所での発掘調査があったら、市の文化財のHPなどを覗いて発掘調査の現地発表会がないか心待ちにしています
学生の時に歴史の授業に興味のない人にとっては「こんな今の私たちとは関係がなさそうな過去の出来事の羅列を学んで、何の意味があるんだろう?」という思いを抱いてしまう人も多いはず
でも歴史上の人々の「生き様」なんかを見ていると、大変勉強になることも多いのも事実です
話を発掘調査に戻すと、今の自分が住んでいる足元にも古代から現代に至るまでの長い時間の間に色々な人々が生きてきたことを思うと、地元の歴史も気になってしょうがない
姫路市の文化財を一覧したパンフレットが手元にあります
市役所文化財課で購入しました(5,000円くらいしました、結構お高かった)
スマホで撮影姫路市内各地区の自治会がまとめた文化財一覧をバインダーで留めています
スマホで撮影以前、行きたい地区の一覧をバインダーから外してワンショルダーに入れ、自転車でアッチコッチの石仏をはじめ、文化財を訪ねて行ったことがありました
再び始めようかな?地元の文化財巡り
「コロナ禍」のこの時期だからこそ、地元の歴史を再認識するのもイイんじゃない?と目論んでいます
今、アルコールが入っているのでチョイ支離滅裂です…
今日は早く寝よう
- 2020/08/04(火) 19:39:34|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
yahooで今日、面白いコラムがあった
みなさんご存じの「黒ひげ危機一髪」
なんと45年周年を迎える長寿ゲームだ
「飛び出させた人が負け」というルールは今や誰もが知る常識ですね
タカラトミーのHPから画像を頂きましたところが開発当初はまったく逆のストーリーが設定されていたそうです…
発売当初は「飛び出させた人が勝ち」というルールがパッケージに書かれていた
メーカーのタカラトミーによると、捕まった黒ひげ(海賊の親分)を「助けてあげる」のがストーリー設定だったようだ
ところが76年から始まった人気のクイズ番組「クイズ・ドレミファドン」の企画コーナーにも採用、同番組でのルールはなんと「飛び出した剣を刺した解答者の得点を没収」、つまり「飛び出させた人=負け」という、本来のルールとはまったく逆の意味合いで使われていた
それが全国で広まり、メーカーのタカラトミーでもそれに従うようにルールも徐々に変更
79年には「飛び出したら勝ちまたは負け(遊ぶ前にどちらにするか決めてください)」とパッケージに記載
そして95年にはついに「飛び出させたら負け」と正式にルール変更が行われたのでした
いわば"民意"によってルールが真逆になった、珍しいケースだぁ
やはり民意は強いです…
江戸時代、一般的には封建社会として「士農工商」と呼ばれていた
武士が一番偉くて農民が弱い立場と思われがちですが、本当は意外と「民意の強い」時代でもありました
幕府や藩といった領主層は、意外なほどに「民意=世論の帰趨」に神経を使い、対立する世論を合意に導くことに腐心していました
特に農民たちを怒らせたら怖いってことを充分理解していたようです
農地(土地)は実は領主の持ち物ではなく、農民たちの物で、納税をさせる代わりに農民を守り、きちんと国を安定して治める役割を武士は担っていました
もし農民たちが一揆を起こして城を囲んでも、大名たちは農民たちへ向かって火縄銃の水平発射が出来ない
幕府の老中にいちいち伺いを立てて許可を得た場合しか、領民たちの殺傷はできなかったといわれています
もしそんなことが起こったら「統治能力がない」と幕府からみなされ、良くても「国替え」や「改易」、最悪の場合「領地没収」や藩主の「打ち首」などのお咎めが避けられない
そんな領主と領民の間に「持ちつ持たれつ」状態が続いたので260年以上に渡る江戸幕府時代が続いたんでしょうね
ならまちにて…やはり民意は怖いですね
- 2020/06/04(木) 19:44:18|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:6
独り言が多くなります
今日は久々の歴史ネタ、少し長くなりますが…
最近「自粛警察」なんて言葉をよく聞きます
ステイホームや自粛モードを守らない人たちへ非難を浴びせる行為がよく聞かれます
営業自粛要請のパチンコ店で並ぶ人たちに罵声を浴びせたり、コロナに感染したまま出歩いたりしていた人の実名をネットで晒したりと…気持ちは分かるんですが
暗いニュースがよく目につきます
この「自粛警察」なる人も一部の人々・考え方なんですが、これが国全体の「民衆すべて」がそうだったら凄まじく怖いことになります
明治時代、あの日露戦争でギリギリのところで辛うじてロシアに勝った日本
そしてアメリカのポーツマスで、アメリカのルーズベルト大統領の仲介でロシアとの間に講和条約が結ばれる
実は負けたロシアは、開通したばかりの「シベリア鉄道」を使いモスクワ経由で大量の生きのイイ兵士や物資を極東に送り込もうとしていた計画も終戦後にあったようだ
逆に日本はロシア以上に戦費を使い、兵隊も少なく国力がもう持たず戦争も続けられない状態でした
ロシアはそれを知っていて、「あと1年半以上戦争が続けば日本に勝てる」と確信していそうな…
だからロシアも交渉では強気でした
結局条約では、樺太(サハリン島)の南部と満州の利権を日本に譲る程度で、賠償金も日本に払わずに済んだようです
それに日本の民衆が怒りました
「大国のロシアから一円も取れなかったのか!なんて政府の弱気の交渉役だ!」と…
実は政府も報道関係も、日本が有利で戦争が終わったとしか伝えておらず、民衆もそれを信じていたわけだから暴動が各地で起こって当然か
特に東京の「日比谷焼き討ち事件」では、交番や電車に放火、首相官邸、仲介したアメリカの公使館まで民衆に襲撃されました
ポーツマスで交渉にあたった外交官の小村寿太郎が、横浜港に帰国した際に息子が出迎えに来て驚いた
「生きていたのか!」とっくに息子は暴動で殺されたいたものと思っていたという
その後、新聞記者のインタビューで記者の「日比谷の焼き討ち事件の時は困ったでしょう」の問いに
小村「いやいや、国民にあの意気があってくれたのだから外交ができました」と、民衆を恐れて苦しい答えにならざるを得なかったというエピソード
「自粛警察」のような考えが国民全体に行き渡ると国家全体が取り返しの使いない方向へ行ってしまうという事例かな…?
やはり民衆が極端に「一つの方向にのみ向かう」という怖さは、世界の歴史上にたびたび出てきますね
話は一気に変わりますが、今や国民的アニメとなった「サザエさん」
もう放送が50年なろうかと思われる長寿アニメです
時代が変わっても変わらないものがあるとネットでは有名です
テレビはいまだに「ブラウン管」です、これは製作スタッフも一時期液晶タイプに換えようと考えて、セル画に実験的に挿入したそうですが「茶の間が一気に冷たくなった」という理由で却下されたそうな…
そして浪平の職場にはまだ登場しないパソコン
これも「浪平らしく自然に描くためにパソコンは採用しません」と…
しかしたまにあるドライブに出かけるシーンでは、カツオやワカメが後部座席ではしっかりシートベルトをしています
「時代遅れな部分も多いけど”磯野家らしら”や法令・決まり事はしっかり守ります」という製作スタッフの心意気さえ感じます
でもコロナ禍のご時世、製作スタッフが集まることが出来ないので現在製作がストップしているそうだ
もしかしたら夏前あたりで放送中断の危機もささやかれている「サザエさん」
一ファンとしては寂しい限りです…
しかしGW期間の放送で、磯野家一家が家族でお出かけするシーンで『ステイホームを破っているぞ』なんて声がネットで盛大に上がったそうだ
そんな細かいことまで…
悲しいなあ
- 2020/05/09(土) 11:38:27|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
今日は久々の歴史ネタ…
チョイ長くなりますが…
チョット前にブームになった「陰陽師(おんみょうじ)」
そのなかでヒーロー的に祭り上げられた「安倍晴明(あべのせいめい)」さん
自ら法力(超能力)や呪文、そして「式神(しきがみ)」と呼ばれる配下の鬼神を使役し、朝廷を守るというカッコイイお方だと巷で有名です。
しかし実際はどうだったんだろう…
まず「陰陽道(おんみょうどう」と言われる思想とは何か…
簡単に説明すると…
中国の古代の農民が日当たりの悪い場所(陰)にできる作物と、日当たりの良い場所(陽)にできる作物との違いに驚き、農村にいた天才がそれを形而上化(けいじじょうか)したものが元となり、その現象と季節・天候・天体の動きなどを結び付け『人も天も陰と陽の二元から成り立っている』なんて思想から導き出されたんだと思う(あくまでも私の考え)
その思想が七世紀の後半あたりに当時の日本に伝わり、陰陽師を養成する学校(陰陽寮)も造られ、当時としては立派な「科学」といして成り立っていました。都を遷都するたびに、陰陽師たちに占ってもらった結果を元に都市計画を立てていたのは事実です
と同時に畿内の各地に天体の動きをみるために天文観測所が造られ始めた
私の住む播磨地域にも廣峯山辺りに天体観測所があったと言われており、安倍晴明のライバルであり陰陽道対決を行った「蘆屋道満(あしやどうまん)」さんの伝説も色濃く残っています
その安倍晴明さん、色々な伝説が残っていますが実際には時の権力者の手先となってライバルを呪ったり、権力闘争の片腕となって活躍した伝説が多く残っています
そのなかで一番有名なのが「花山天皇の出家退位事件」
わずか17歳で即位した花山天皇
時の権力者だった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、外孫の懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)を即位させるために陰謀を企てた。
藤原忯子(ふじわらのしし)という女性を溺愛した花山天皇、その藤原忯子が妊娠中に死亡したことに呆然となる…
兼家の三男である藤原道兼(ふじわらのみちかね)は、悲しみに暮れる天皇に近付き「一緒に自身と共に出家し、忯子の魂を鎮めましょう」とそそのかして元慶寺に密かに連れ出す
そして天皇が元慶寺にて剃髪し終わった時に道兼は「私が出家することを父(兼家)に報告に行かねば」といって寺を抜け出たまま帰ってこなかった…その間に天皇の印(しるし)である、「三種の神器」が勝手に宮中から持ち出された
花山は『だまされた』と思っても後の祭り…在位僅か2年の短命天皇となった
実は花山天皇が宮中の内裏を出て元慶寺へ向かう途中、安倍晴明の屋敷の前を通った時、屋敷内から清明が『帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ』という宣託(せんたく)を叫ぶ声を聞いた
この宣託を聞いた花山はガッカリしただろう…
宣託は神のお告げ、これには従わねばならない
実はこれはわざと花山天皇に聞かれることを意図した巧妙な演出だったらしい…
この時期、安倍晴明は藤原兼平のお抱え陰陽師であり、すべては藤原兼家の仕組んだ罠だったのだ
今と比較してはいけませんが、当時の天皇家は凄まじく「権力の渦」に巻き込まれていたんですね…
実は上記の事件は「大鏡」という紀伝体の歴史物語に記されているお話なので本当かどうかは分かりませんがね
でも実際は当時の陰陽道のスペシャリスト達は、「権力者たちのお抱え」となった記録がアチコチに遺されている
各権力者は「マイ陰陽師」を抱えていて、自身の屋敷を建てる際の方角などを占ってもらったり、ライバルを倒す吉日などを占ってもらったりはしていたそうだ
史実上の安倍晴明さんは、最終的に「主計権助」という役職についている、これは徴税にまつわる仕事らしい
映画や小説とは全く違う感じですね
映画を観て、小説とか読んで「安倍晴明ファン」となった女性たち、スイマセン…
- 2019/12/03(火) 18:45:06|
- 歴史
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
次のページ