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2015年7月

2015年7月26日 (日)

なぜ我が国は世界の高等教育の変革を傍観しているのか?(4)

3に、そもそも高等教育に関して戦略らしい戦略がも部科学省にないことが明らかになってしまう不安である。未来の高等教育はどうあるべきなのか、主張できるものがあるのだろうか?自信があれば、人文社会科学を、国立大学から消滅させる政策の意義を国際会議で堂々と主張してはどうか?国費を削減しておいて、大学を機能強化する「秘策」も披露したらよい。世界の動向に関心を持てば、どうしても自らの施策が成り立たないことを自覚することになる。それを避けるには、関心を持たなければよいのである。我が国は海外から何も学ぶことはないと、心理的な鎖国を正当化していれば済むのである。我が国の大学が自力で海外に進出して成功する条件はまったく整っていないので、グローバル化に関する施策は常にやっているふりになる。世界のトップレベル大学は、外国人留学生について、高額な授業料を負担してくれる客、収入を稼ぐ道具と位置付けている。我が国の国立大学にが、英国や豪州のように3倍の授業料を取ったら、私費留学生は来てくれるだろうか?円安の力も借りて、コストパフォーマンスで選んでも貰っているうちは、本当の実力だと思わない方が良い。確か、文部科学省は、10年以内に、世界のトップ100大学に10校をランクインさせる政策目標を掲げていたはずである。どのランキングで測定するつもりか明らかではないが、予算削減の中で、どのように成績アップを図るのか、そろそろ具体的な作戦を明らかにしてみたらどうなのか?あるいは、U-Multirankの登場によって、そのような目標自体が時代遅れに見え始めているのではないか?確たる戦略がないために、その時々の流行の言説に右往左往する姿は、実に頼りない。目を閉じていれば、世界から取り残されるだけである。既に世界からお呼びもかからない、相手にされていないとさえ感じる。

 

今、文部科学省は歴史的なピンチに立っている。東京オリンピック・パラリンピックという世界的イベントを獲得したのは幸運だったが、新国立競技場の建設を巡って、組織の力量不足を露呈し、業を煮やした官邸から当事者の地位をはく奪されてしまった。これまで協力してくれた人たちを傷つけて、彼らの社会的信用さえ損なった責任は大きい。また、文化庁も、明治産業遺産のユネスコ世界遺産委員会での登録をめぐって、実質的に主導権を官邸や外務省に奪われてしまった。さらに、上記のように高等教育に関して、世界の動向に照らした政策らしい政策を展開することもなく、28年度概算要求のプロセスは全く先の見えないものになっている。体たらくを指摘するのは簡単だが、これ以上の地盤沈下は、我が国の将来に禍根を残す。今こそ叫ぼう、文部科学省、ガンバレ!!

 

 

なぜ我が国は世界の高等教育の変革を傍観しているのか?(3)

2に、サービス産業としての大学セクターの人材育成に関する生産性の低さが、明らかになってしまう不安である。特に、我が国は、博士課程の社会的評価を上げられず、苦労して博士を取得することに十分な魅力がない、世界でも珍しい国になっている。米国では、学費が高騰した結果、社会的な格差・不平等を次世代に維持・拡大する要因になっているとの批判が強くなっている。米国の授業料に比べて、我が国の国立大学の授業料は非常に安い。それでも、博士課程に進学すると、人生の選択として損だと考える学生が多くなっている。世界の大半の国とは真逆である。これを高等教育の失敗といわずして何と言えようか?それでも、価格の割には、教育研究の質は高いと自負している大学人もいるだろう。しかし、文部科学省は、そう判断していないのではないか?我が国の有力大学は、例えば、マレーシアのように海外から分校を積極的に誘致している国に出て行って、世界の大学と競い合った経験もない。真剣勝負をしていないので、同じ条件下で、互角の勝負ができるのかは予断を許さないどころか、経験の差で不利ではなかろうか?文部科学省には、海外大学の分校誘致には消極に終始した歴史があるので、日本企業では当然に行われている、海外に大学サービス拠点を輸出して現地で稼ぐという活動に、イメージが沸かないのだろう。しかも、自らの方針に海外での成長戦略がないので、海外の動向は、全くの他人事で、自分の身に降りかかってくるものとは認識されないのである。高等教育セクターの競争力のなさは、市場というよりも、政策の失敗と批判されることになる。文部科学省にとっては、極めて都合が悪い。

 

 

なぜ我が国は世界の高等教育の変革を傍観しているのか?(2)

端的な答えは、文部科学省が動かないからである。私も長い間、文部科学省が国内中心の官庁だから、外国の動向に対しては重きを置かないからだろうと判断してきたが、最近になって、もっと根の深い理由があるのではないかと思うようになってきた。単に、公務怠慢だとか、人口減少で守りに回っているとか、そうした面もあるとは思うが、ここまでグローバル化が進んだ世界で、不作為を決め込むのは、情報格差をなくすと都合が悪いことがあるからだと考えたのである。では、どういう不安があるのだろうか?

 

1に考えられるのは、私学を中心に、国からの資源投入を節約した高等教育機関が大きな役割を果たしているものの、その教育研究の質に関しては、かなり多数の大学が大学としての世界標準を満たしていない事実を突きつけられるという不安である。パンドラの箱を開けてしまえば、海外に対しては質保証が甘いとして恥をかくことになり、国内からはこれを放置してきた国への責任追及になる。OECD諸国の中で対GDP比で最低の国費投入比率が続いているために、安かろう、悪かろうの高等教育になっている事実が明らかになると、真っ先に文部科学省と財務省が困るのである。世界標準を満たさない大学を今さら排除することもできず、ただでさえ、大学が多すぎると政治家からも批判がある中で、現状を養護してきた文部科学省の立場は最も危うくなるのである。レベルの高い大学は少数で、私学の多数は、標準以下の大学だという印象を裏書きすることになってしまうと、我が国の大学全体への評価・評判が大きく損なわれるだろう。そうなれば、財務省は、その名に値しない大学を徹底的に縮小・淘汰させてしまう道を選択するかもしれない。

なぜ我が国は世界の高等教育の変革を傍観しているのか?(1)

2015年春、欧州高等教育圏の47カ国・地域は、アルメニアで関係大臣会合を開催して、ボローニャ・プロセスの進捗状況を専門家の目を通して確認し、各国の財政事情が必ずしも好転しない中で、経済を始めとする格差によって高等教育機会に恵まれないグループに対する措置の充実などに関して、政治的なコミュニケを発表した。これらの成果は、ウクライナでは加盟国同士の戦闘状態が続き、イスラム過激派に参加する若者の流れが止まらない状況の中で、高等教育の価値を再認識させるために、一致点を見出そうという努力の賜物だと評価したい。比較可能なデータが共有され、専門家のネットワークが形成され、国別の進度差は大きいものの、欧州の高等教育は標準化や質保証の面で着実に前進している。また、ユネスコ欧州高等教育センターを中心に、大学ランキングに関する原則・基準作りの試みが、2002年以降、専門家の手により継続的に行われている。アジアでも、2007年上海、2012年台北で、会合が行われている。こうした試みを背景に、U-Multirankという多元的な観点からの大学ランキング・データベースが、2014年から公開されている。参加機関の3分の1以上が欧州以外の機関であり、多様なステークホルダーに有用なデータを提供するものとして、今後、実務的な価値を増していくものと考えられる。以上について、既に知識を持っている方は、相当な勉強家だろう。我が国では、これらの動向に関して、自ら参画し、内部からの情報として、解説することができる専門家は居るのだろうか?国会図書館の蔵書検索を使っても、驚くほど学術的な意味のある情報は乏しい。この情報格差はどうして起こっているのだろうか?

2015年7月 3日 (金)

国立大学法人の第3期中期目標・計画は実行できるのか?(5)

最後に、研究力に関して触れておきたい。大学ランキングの中で最も大きな比重を占めているので、これで成績が下がると非常に痛いことになるが、まったく明るい見通しを立てられない。理由は、第3期末までには、人件費総額の更なる抑制を余儀なくされるために、悪くすると15から20%近くの常勤教員ポストを削減することになる。この数字は、定年退職者の後を補充できないに等しい。大学の研究力が個々の研究者による活動成果の集積である以上、人的資源の減少は成績の相対的低下に繋がる恐れが強い。事務職員に関しても同等以上の削減を検討せざるを得ないために、教員一人あたりの研究時間の確保もままならない。人数×時間の総和が減少すれば、成果も減少することは容易に予測が付く。さらに、競争的資金等の改革によって、運営費交付金の削減を補填する制度改革が行われたとしても、研究に直接充当する直接経費が目減りする恐れがあり、学術研究の国際的な地位を向上させるような条件が整いそうもない。国立大学法人としては、資源の制約によるレベルダウンを如何に食い止めるかということがテーマになるだろう。中期目標・計画にも、そうした現実が反映されていなければ、地に足が着いた国との契約にならない。最近出された総合科学技術イノベーション会議による第5期科学技術基本計画の中間取りまとめを読んでも、国際的地位の向上に結びつくインパクトのある施策が出てくる兆しはない。どうにも八方塞がりで、未来は何かを諦める、切ることから始めるしかないだろう。そういう意味では、中期目標・計画のゼロ次案は、まだ甘すぎ、他力本願過ぎるということになるのではないか?どうしても国に支えられた国立の意識が抜けないのである。国と大学とがもたれ合いの共同幻想の中で迷うのは、もう止めにしたい。実行されない目標・計画など、国民にとって全く意味がない。

 

 

国立大学法人の第3期中期目標・計画は実行できるのか?(4)

教育改革に関しては、特に盛り沢山になり、6年間という限られた年月の中で、実行し、成果を得るのは、至難の業であろう。それ以上に、リーダー的な教員が疲弊し、研究時間を失うのではないかと懸念する。プロジェクトを同時並行で走らせる問題点が、顕著になるだろう。組織・業務の変革には手順があり、実行までに時間がかかる。学部から大学院博士課程までの組織変革、学部入試から教養教育までの教科改革、海外大学との共同学位から国内の私学との教育課程連携までの業務改革など、6年間に全部やったら、担当させられた教職員は死屍累々になるはずである。盛り沢山な課題があるのは理解できるが、人的・物的・財務的な資源が潤沢にない中で、これらから取捨選択をして、一つ一つ着実な成果にしていくために、持てる資源を集中するべきなのである。予算削減の中で、経営トップの学長は、手をつけないことを決めなければ、手をつけたが成果が上がっていない残骸ばかりを引き継ぐことになる。もはや成長期ではない。新しい取り組みを進めるならば、撤退する事業、廃止縮小する組織を、明確に決めてかからなければならない。それを可能にする経営企画の体制を整えることが、大学法人にとって喫緊の課題である。

国立大学法人の第3期中期目標・計画は実行できるのか?(3)

グローバル化への対応は、国立大学の大きな課題だが、国際水準の教育研究を実現することについては、大学人が最も不得意とするところではないかと考える。例えば、多数の学生に海外武者修行をさせる予算はどうするのか?具体的に受益者負担と大学からの支援をどう組み合わせるのか?海外大学との共同学位課程は、何人の学生のために行い、収支はどう見込むのか?当然赤字になりそうだが、自力で維持できるのか?外国人教員の割合を例えば10%とするための人件費はどう確保するのか?日本人程度の待遇で、レベルの高い研究力を持った人材が雇用可能なのか?外国人が増えれば、運営に種々の支障が出る上に、大学ランキングが必ず上がるわけでもないのではないか?海外事務所・教育研究拠点の機能強化には、どれほどの予算を振り向けられるだろうか?法人全体の人件費総額を抑制せざるを得ない状況になれば、維持するのも苦しいのではないか?学内文書の英語化にも相当の予算がかかるが、どう確保するのか?さらに、英語の公用語化については、事務体制を転換する必要があるが、どんな将来構想の下に進めるのか?最終的なゴールはどこにあるのか?グローバル化への対応については、局面や部分で考えるのではなく、10年後にどういう姿にしたいのか、具体的なイメージを作ってから、工程をきちんと検討する必要がある。グローバル化を進める手段として、海外分校を開校するくらいのことを計画しないと、小手先のごまかしでその場を凌ごうと画策するだけで、構成員が本気にならないのではないか?結果的に教職員の過半数が入れ替わるくらいの変革を実行しなければ、国立大学法人がグローバル化することはないだろう。こうした構造改革は、学内からボトムアップで起こるはずはなく、張り切って作成した第3期のゼロ次案にも、恐らく明記されることはないだろう。大学人としては、とてもやり遂げられるとは思っていないからである。

 

 

国立大学法人の第3期中期目標・計画は実行できるのか?(2)

客観情勢を念頭において、大局的に見れば、第3期は、成長・拡大の路線を離れて、定常・縮小の路線に転換しなければならないのではないか?国大協は、国立大学の存在意義を明らかにしようと、背伸びした行動計画と政府への提案を策定しているので、盛り沢山の改革実行を並べて、流石だと言わせたい気持ちは分かるが、私には、味方戦力の評価を誤って、多正面作戦を同時に展開しようと欲張って、将兵がますます疲弊し、結果として戦果が得られず、自滅する部隊を見ているような気がする。ちなみに、文部科学省からは、運営費交付金及び競争的資金等の一体改革を踏まえた、第3期の予算総額に関する方針は示されていない。単に重点支援の枠組みが示され、3つから1つを選択することになっただけである。それぞれの重点支援の規模感すら明らかにされていない。資源に関して何の保証もない以上、期待感を抱いて、あれもこれもと計画に盛り込むのは、危ういことである。恐らく、文部科学省は、自ら評価の在り方を抜本的に見直さない限り、最後は適当にブレーキをかけるだろうが、資源の制約を無視した中期目標・計画が成案になってしまったら、国家的な恥である。日本人の自滅パターンが70年の時を越えて再現されていることに、驚かれるかもしれない。日本人には、大学組織のマネジメントはできないということになる。

 

 

 

国立大学法人の第3期中期目標・計画は実行できるのか?(1)

国立大学法人は、平成28年度から新たな中期計画期間に入るので、各法人から文部科学省に対して、目標・計画に関するゼロ次案のようなものが、630日までに提出された。これから、内容を精査して詰めていくことになるが、現時点で感じている懸念を述べてみたい。

 

1期・2期において、国立大学法人は、中期目標・計画に関して、かなり慎重な態度で原案作成を行ってきた。中期目標・計画の内容は、国と法人との契約であり、たとえ1事項でも未達成であれば、その事項を含む領域の評価が確実に低くなるため、結果として総合成績に影響し、それが次期の運営費交付金の配分額に影響するからである。想定を遙かに超えた抜群の成果を認められることは稀であるために、失敗をなくすることを優先する作戦になる。従って、大胆な目標、難度の高い計画は、できる限り回避してきた。第3期の準備にあたり、それが大きく転換したとは思えないが、中期計画期間において新たな取り組みで予算獲得を狙う場合は、中期目標・計画に根拠を書き込むことが求められるとともに、文部科学省を始め国からの大学改革への圧力も高まっているために、2期までの抑制基調を忘れて、国立大学の存在意義を明らかにしようと、欲張った内容に成りすぎる傾向にあるのではないかと感じる。もちろん、全ての大学法人のゼロ次案を見たわけではないので、一部の大学の傾向かもしれない。財源措置の責任を負う立場の文部科学省との協議の中で、獲得しうる資源の限界を認識し、冷静さを取り戻して内容を大幅に絞ることも予想される。社会の要請に必死に応えようとして、真面目さのあまり、あれもこれもと盛り沢山になったことは、一概に責められない。しかし、財務省のみならず、文部科学省からもしばしば財政難のサインが出ている中で、資源の制約を忘れたかのような計画は、旧日本軍の「失敗の本質」と同様の、無謀な作戦に陥っているのではないかとの印象を持つ。あるいは、作戦の裏付けすらない単なるスローガンになっているのかもしれない。それではまずい。機能強化という用語が文部科学省の通知でも頻繁に使用されているために、追加の資源なくして、国際水準向上に至る機能強化が可能であるかのような錯覚に陥ってしまったのだろうか?運営費交付金を削減してきた結果、論文指標に見る学術研究、大学院博士課程学生の質・量、大学発のイノベーション創出において、国際的地位が低下・停滞しているのは明らかである。国としてその課題を解決する政策を大胆に打つでもなく、個々の法人が持ち場で頑張れば、状況が好転するのだろうか?そんな阿呆な話を信じる人はいない。

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