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2024年12月11日 (水)

女は己をよろこぶもののために顔づくりす

大石静さん

 大河ドラマ「光る君へ」が最終盤を迎えています。基本的には、女性の人生がテーマになっています。決められたレールの上を走るだけでは、本当の自分を生きられません。それゆえ、自由に生きなさいというのが脚本家からのメッセージです。主人公は、道長からの依頼を受けて、中宮のサロンに天皇を引き入れるために、中宮の家庭教師的な女御になり、源氏物語という歴史に残る文学を完成させます。教養豊かなキャリアウーマンとして、申し分のない立派な実績です。しかし、ドラマの終盤では、主人公は、自分が選んだ人生に悔いを感じています。別の選択、別の人生があったのではないかと悩みます。だから、一人娘には、やりたいことをやりたいようにやりなさいと強く助言するのです。日本という国では、まだまだ女性の社会的な活躍の場が限られています。男女共同参画という面では、本当に遅れた国なのです。心の中の障害が越えられない日本人が多いということです。キャリアの成功と引き換えに結婚・家庭生活や別のキャリアの可能性を犠牲にした紫式部に、現代のキャリアウーマンの苦悩を重ねている作品なのです。また、もう一つ、望月の歌を詠むほどの権力者となった道長の成功と挫折も、大きなテーマになっています。彼が目指した民衆のための政治は、「刀伊の入寇」を巡っての上級貴族たちの退廃ぶりが示すように、道半ばで頓挫しました。彼自身の限界もあります。朝廷は武力を持つべきではないという日本国憲法のような考えにとらわれていた道長は、国外からの侵略には、ほとんど無力でした。民衆の身体財産の安全さえ守れないなら、朝廷の存在価値は無に等しいものになります。大宰府を中心とする武士の集団が、外敵を押し返して一件落着しますが、貴族から武士へと政治権力が移行する兆しが描かれていました。このエピソードは、平和ボケした日本の在り方と重なって見えます。以上、二つの大きなテーマを私たちに提起した大石さんの企みは、この作品の成功を導きました。売り物の戦闘シーンがないため、宮廷の権力闘争だけでは見せ場が難しいと感じていましたが、当初の期待以上の大河ドラマになったと高く評価します。

 

教師失格

 練馬区立中学校の元校長に対して、過去の女子生徒への性的暴行傷害の罪により、懲役9年の判決が東京地裁でありました。別の生徒のわいせつ画像も保存していたとのことです。教師と生徒の関係を利用して、卑劣な行為を繰り返していたようです。時効を主張したり、相手側の同意があったなどと、見苦しい言い訳をしていたのは、教師というよりも、人間として失格だとも言えます。国民として信じられないのは、なぜ、こういう人間が教師の仮面をかぶり続けて、校長にまでなったのかということです。教育委員会という教員主体の組織への不信感が募ります。教え子を毒牙にかけるような教師の存在を撲滅しない限り、公立の学校への信頼は戻ってこないでしょう。教育委員会の内部では庇い合いの力学が働きかねないので、独立した監査体制を首長部局に作って、都道府県内の公立学校の教員に対して、保護者や生徒からの「告発」を受理して、調査し処分する権限を持たせるべきだと思います。要は、長年にわたり、性的暴行を繰り返すことができた土壌を一掃しなければ、この事件のような被害者が、これからも出てしまうということです。

 

GIGAスクールの現在地

 文科省等が推進している構想ですが、実施状況や成果に関する正式な報告がないために、投資した公的資金が、現場でどのような効果を生んでいるのか、解決すべき課題と対策は何かというような点については、よく分かりません。早く、こうした情報を国民にフィードバックする必要があると思います。古壕典洋、牛島純編著「ICT教育の現実と未来」(彩流社)は、現場の教員からの報告を取りまとめて、私のような問題意識に応えようとしている著作です。興味深い点を幾つか紹介します。小学校では、第1に、効果の二面性がある⇒主体性を引き出す反面、学習への集中力を削ぐという問題があります。教員は、教室内の格差が増幅することを懸念しています。端末を巡るトラブルについて学校の責任がどこまでなのか曖昧である⇒不適切な使用についてすべてを管理できないというのです。加えて、学びのための余白の不在⇒教員の負担が一層増えていると重荷に感じているのです。第2に、理想を現実のズレがあるとも指摘しています。教育格差への付き合い方、学校の役割の見直しについて、教員には戸惑いがあるようです。また、自分たちが得意としてきた旧来のやり方を崩してまでやるべきなのかという教育内容の優先順位付けにも疑問を持っていることが分かります。中学校では、解決すべき課題として、教員が多忙で研修機会が十分に作れない、生徒の自分で考える力が低下してしまう、生徒がルールやマナーを守れないという点を挙げています。また、未来への展望として、一斉授業から個別学習へと学校教育のスタイルが変化していくのではないかとしています。当然、教員の役割の変化も起きるので、新しい教師像への順応という点にも不安があるようです。政策を推進している側が意図したものではないでしょうが、GIGAスクール構想の実施によって、教育格差が助長されるとともに、働き方改革の一環で学校の機能が民間教育機関などに取って代わられることで、公教育の変質が促進されることへの懸念が、現場には強くあると感じます。

 

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