城跡めぐり【環濠集落ムアンファイ(Muang Phai)】
タイ王国サケーオ県平成28年6月11日登城。サケーオ県に残るクメール時代の遺跡見学に行った際、かつての環濠集落ムアンファイ(Muang Phai)にも寄ってみた。ドヴァーラヴァティー時代の環濠集落。今でも環濠の跡が確認できる。集落を囲んでいた土塁は道路になってしまったが、一段高くなっており往時を偲べる。集落の真ん中辺りにプラサートムアンファイという遺跡がある。仏塔の跡らしいが、いつの時代のものか不明。信仰の対象...
城跡めぐり【城塞都市ウィアン・クムカーム(Wiang Kum Kam)】
タイ王国チェンマイ県平成28年5月22日登城。1288年から1296年にかけての8年間、マンラーイ王が都をおいたウィアン・クムカーム。チェンマイの南東約5kmにある。しかし、ピン川の度重なる洪水に悩まされ、都はチェンマイに移された。 (ウィアン・クムカームの西の境界線と推定される場所。土塁や濠の遺構が見られる)その後、ウィアン・クムカームは土砂に埋まり、その存在すらも忘れ去られてしまったが、1984年偶然発見された遺跡...
城跡めぐり【城塞都市チェンマイ(Chiang Mai)】
タイ王国チェンマイ県平成28年5月22日登城。ラーンナー王国の都として栄華を誇ったチェンマイ。タイ赴任中に一度は行ってみたいと思っていた場所。今回、帰任の内示を受けようやく訪問することになった。一辺1.2kmほどのほぼ正方形の旧市街。 かつての城壁(修復されたものも)と濠が遺されている。 これらの城壁が完全な形だった頃はさぞ立派だったんだろうな。 チェンマイには北タイを代表する古寺名刹も多い。ワット・チ...
城跡めぐり【城塞都市チェンラーイ(Chiang Rai)】
タイ王国チェンラーイ県平成28年5月21日登城。マンラーイ王がチェンセーンから遷都したチェンラーイ。ピン川流域へさらに王都が移ってからは歴史の舞台からは消えてしまう。(市内に建つマンラーイ王の銅像)19世紀後半になり当時の為政者が城壁を整備し1874年に完成。しかし20世紀に入り、それらの城壁や濠は道路などに変わってしまい跡形なく消えてしまった。1987年、マンラーイ王の偉業とラーマ9世の生誕60年を記念して、往年の...
城跡めぐり【城塞都市チェンセーン(Chiang Saen)】
タイ王国チェンラーイ県平成28年5月21日登城。かつて北タイに栄えていたラーンナー王国に興味を持ち、その都の跡を巡った。ラーンナー王国の都の変遷・・・ 現在のチェンセーンにあったと伝わるムアン、グンヤーン王国。1259年に王位に就いたマンラーイは稀代のカリスマ性を有し、周辺のムアン(都市国家)を併合してゆく。 (チェンセーンの城壁跡)1262年には都をチェンセーンからチェンラーイに遷都。チェンラーイとは、マンラ...
城跡めぐり【城塞都市パヤオ(Phayao)】
タイ王国パヤオ県平成28年5月1日登城。タイ王国北部で水を満々と湛えるパヤオ湖。この湖畔の地に11世紀ころタイ人の小王国が起こった。やがてその王国は12~13世紀ガムムアン王の時代に、近隣のカーオ王国を併呑するなど最盛期を迎える。当時の町はパヤオ湖とイン川の接点近くから北に拡がっており、その町の周囲にあった濠と城壁の跡は今でも残っている。城壁の南側の濠には水が溜まっているが、それ以外の場所は空堀状態。(南側...
城跡めぐり【城塞都市ウィアン・ロー(Wiang Lo)】
タイ王国パヤオ県平成28年5月1日登城。ナーンからパヤオに向かう途中、パヤオ県チュン郡の辺りでトムさんが城壁のモニュメントを発見。チェンライ県との県境近くイン川流域にウィアン・ロー(Wiang Lo)という遺跡が近くにあるらしい。幹道から外れさっそく行ってみる。まず到着したのが、チェディーのあるワット・プラサート・シーピンムアン。400年~500年近く前に建てられたチェディが残っている。チェディを見学するとともに敷...
城跡めぐり【城塞都市ムアン・ワラナコーン(Wora Nakhon)】
タイ王国ナーン県平成28年5月1日登城。秦王朝の時代より漢民族に居住地を浸食され続けたタイ族。 雲南省のタイ族の一部(カーオナーン)がその圧迫を逃れるためメコン川流域を南下。その一派が13世紀頃に都市国家カーオ王国を造ったと言われている。 『ナーン年代記』という史書によれば、ムアン・ヤーンという都市国家のプーカー王が二人の息子を使い領地の拡大を進める。長兄のクンヌン王子にはメコン川沿いの東方へ行かせヴィエ...
城跡めぐり【城塞都市ウィアン・プーピアン(Wiang Phu Phiang)】
タイ王国ナーン県平成28年5月1日登城。4月30日~5月2日の3連休を利用して北タイの城塞都市を観光。ナーン市街の東南2km程のところにあるウィアン・プーピアンへ。14世紀半ば、当時ワラナコーンに王都を構えていたカーオ国王カーンムアンは南部への領土拡大を行う。現在のナーン地区やプーピアンなどを制圧した後、友好関係にあったスコータイ朝から仏僧を招き、この地に寺院(ワット・プラサートチェーヘン)と町(ウィアン・プー...
城跡めぐり【城塞都市ナーン(Nan)】
タイ王国ナーン県平成28年5月1日登城。4月30日~5月2日の3連休を利用して北タイの城塞都市を観光。最初に訪れたのがナーン。かつてのカーオ王国、ナーン王国の王都。市街地の北西部には城壁が整備されており、かつての面影を醸し出している。城壁だけでなく、お濠ももう少しきれいにすればいいのに・・・これではドブ川だ。煉瓦積みの城壁はきれいに再現されている。再建された櫓も美しい。 こういった櫓が要所要所に設置されてい...
城跡めぐり【城塞都市サ・コシナライ(SA Ko Si Narai)】
タイ王国ラーチャブリー県平成28年3月5日登城。クメール帝国時代の13世紀に造られたとみられている古代都市サ・コシナライ(SA Ko Si Narai)。西方にあるムアンシンとタイ中原地域を結ぶルート上、メークローン川の北岸にある。サ・コシナライという池は当時の名残り。いまも満々と水を湛え近隣住民の憩いの場に。池の南側、製紙工場に面したところにはサ・コシナライ博物館が。最近オープンしたのか、とてもきれい。かつての都城...
城跡めぐり【環濠都市ファーデートソンヤン(Fa Daet Song Yang)】
タイ王国カーラシン県平成28年2月21日登城。結界石の形をした環濠集落ムアン・ファーデートソンヤン。航空写真を観るとよくわかる。ここにもドヴァーラヴァティー時代の遺跡プラサートヤクー(Phra That Yakhu)というチェディーがあると知り行ってみることに。カーラシン方面からやって来ると、町の入口で結界石のモニュメントが出迎えてくれる。この辺りは環濠がきれいに残っている。 環濠内の北東部に建つプラサートヤクー。 こ...
城跡めぐり【環濠集落カンタラウィチャイ(Kantharawichai)】
タイ王国マハサラカーム県平成28年2月21日登城。マハサラカーム県の北部、カーラシン県の近くに位置する環濠集落跡。航空写真で観ると、集落は二地域からなっており、玉子型の集落とその北西部に隣接する三角形の集落とで形成されている。玉子型集落の方の濠。 北西部の集落の濠。 一部は埋め立てられて道路となっていた。今回、カンタラウィチャイに来た目的は、1,000年以上前に造られたと伝わるドヴァーラヴァティー時代の2体の...
城跡めぐり【城塞都市ブリラム(Buriram)】
タイ王国ブリラム県平成28年2月20日登城。ブリラム県の中心、ムアンブリラム。市街地の中心にある環濠は直径約800mほど。これはお隣のスリンと同規模で、周辺に点在する環濠集落に比べれば倍近くの大きさ。 但し、ナコーンラーチャシーマーやローイエットなどイサン地方の有力ムアンは1,000~1,500m四方の濠と城壁を有しており、これらと比べると見劣りする。この面積の大小比率がそのままムアンの上下関係になっていたと思われる...
城跡めぐり【環濠集落ムアンファン(Muang Fang)】
タイ王国ブリラム県平成28年2月20日登城。サレントンから北西へ約8km、長閑な田園の中にある環濠集落ムアンファン(Muang Fang)。二重になっていた当時の環濠がきれいに残っている。内側の濠、水が干上がっていた。壕の傍らに建つ寺院。ここも時間の流れとは無縁のような長閑な田舎町。<所在地>...
城跡めぐり【環濠集落サレントン(Salaeng Thon)】
タイ王国ブリラム県平成28年2月20日登城。ブリラム県の幹道219号線が貫通する環濠集落跡サレントン(Salaeng Thon)。環濠がきれいに残っている。 ここには環濠だけでなく集落を取り巻いていた土塁の一部も見ることが出来る。 町の入口には古の砦をイメージしたモニュメント。環濠の内部は、ごく普通の田舎町。<所在地>...
城跡めぐり【環濠集落バンタルンカオ(Ban Talungkhao)】
タイ王国ブリラム県平成28年2月20日登城。3連休を利用してイサン地方へ旅行。今回の主目的のひとつは、ブリラム県にある環濠集落跡の見学。Googleマップの縮尺を500m~1lmほどに設定し、この地域の衛星写真を観ると、環濠(二重が多い)に囲まれた直径500m前後の集落をかなり見付けることが出来る。このような環濠集落は1,000~2,000年前にかけて形成され、ブリラム県だけで何と148ヶ所!も確認されている由。そのうちのひとつであ...
城跡めぐり【チャンタラカセーム(Chantrakasem)宮殿】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。いまは博物館になっているチャンタラカセーム宮殿。もともとは、1577年にサンペット1世が息子である副王のナレースワンのために建てた宮殿。ナレースワンが王位に就いた後は、アユタヤ朝の時代を通して皇太子が住まうようになるが、1767年のビルマによるアユタヤ朝崩壊により、この宮殿も破壊されてしまう。時代は下り、ラーマ4世は、廃墟となっていた宮殿跡にピマ...
城跡めぐり【マハチャイ(Maha Chai)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。アユタヤ都城の北東、ロッブリー川がアユタヤ島にぶつかる地点に構えられた要塞。「Maha Chai」は「偉大なる勝利」の意味。現在はフアロー(Hua Ro)市場となっており、地下を掘ると要塞の礎が出土するという。要塞跡と思しき市場の奥を進むと中華寺院。ちょうど春節なので綺麗に飾り付けられているみたい。ロッブリー川に架かる橋、左がアユタヤ島。タイの河川は大...
城跡めぐり【カオプラーク(Khao Pluak)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。 この日見学した中で唯一遺構が残っているカオプラーク(Khao Pluak)要塞。ロッブリー川とチャオプラヤー川を結び、都城を南北に貫く Khlong(= 運河)Pratu(= 門)Khao(= 米)Pluak(= 籾)を跨ぐように築かれている。要塞名の「Khao Pluak」はこの運河に由来。(運河東側の遺構) 都城の北面中央に位置し、全部で16基あった要塞群の中でも最も重要な要塞のひと...
城跡めぐり【サプラット(Sup Rat)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。サトコップ要塞から北へ200m程のところにあったというサプラット(Sup Rat)要塞。濠の役割も負っていたロッブリー川に面しており、ビルマとの戦争の際には激しい攻防戦が繰り広げられたのだろう。この要塞跡も家屋が建ち並び何も残っていない。<所在地>...
城跡めぐり【サトコップ(Sat Kop)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。アユタヤ都城の北西、チャオプラヤー川とロッブリー川が合流する地点に築かれたサトコップ要塞。その名の由来は”サット(背後)コップ(蛙)”と言う意味らしい。1549年、最初のビルマの侵攻により降伏したアユタヤ朝。時の国王チャクラパット王は、火力の増大により戦争のスタイルが大きく変わったことを痛感し、アユタヤ都城の防御力強化に着手。サトコップ要塞も...
城跡めぐり【ワンチャイ(Wang Chai)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。プラトゥチャクラノイ要塞跡からウートーン通りを西へ。ワット・ワンチャイのある辺りにあったのがワンチャイ(Wang Chai)要塞。ここも痕跡は残っていないらしい。クルマを降りて周辺を散策。島の外周を走るウートーン通りが周囲に比べて一段高くなっているのに気付く。もしかしたら、この通りが外壁の跡なのか?チャオプラヤー川の方へ行ってみた。川に面して『At...
城跡めぐり【プラトゥチャクラノイ(Pratu Chakra Noi)要塞】
タイ王国プラ・ナコーン・シー・アユタヤ県平成28年2月13日登城。アユタヤの都城は四周を城壁で囲い要所要所に16基の要塞を配置していた。そのうちの一つであるペット要塞(Pom Phet)は当時の痕跡が残っているので見学したことがあったが、その他の要塞がどこにあったのかはわからずじまい。ところが、つい最近、何気なくインターネットで調べものをしていたら、最適のサイトを発見。今回はこのサイトを頼りにして要塞跡のいくつ...
城跡めぐり【城塞都市シンブリー(Sing buri)】
タイ王国シンブリー県平成28年1月23日登城 アユタヤ朝の時代には王都の北を護る重要な軍事拠点であった。 当時の防衛拠点だったころのシンブリーは、現市街地の南へ約4kmほどの地点、ワット・ナープラタート(Wat Na Phrathat)のある辺りがその中心地だったとみられている。クメール帝国時代に建てられたと伝わるワットナープラタートの塔。 アユタヤ朝の時代に補修され今の姿に。さながらアユタヤの荒廃した寺院のような光景。 ...
城跡めぐり【バンラチャン(Bang Rachan)砦】
タイ王国シンブリー県平成28年1月23日登城。「シンブリー」とは「獅子の町」という意味。ここにタイ人の愛国心を漲らせる旧跡がある。 1766年、コンバウン朝ビルマがアユタヤへ侵攻し、バンラチャン村にもその軍勢が押し寄せ激しい戦となる。村民は11名(9名説あり)のリーダーに率いられて砦に立て籠もり、圧倒的多数のビルマ軍を相手に勇敢に防戦。 しかし、多勢に無勢、約5ヶ月間の興亡の末、8回目の総攻撃で陥落したと伝わる。...
城跡めぐり【環濠集落バンクームアン(Ban Koo Muang)】
タイ王国シンブリー県平成28年1月23日登城。 インブリー地区にあるドヴァーラヴァティー時代の環濠集落の跡。 広さはほぼ600m×600m四方、各コーナーは丸みを帯びた形状をしている。 西のノイ川、東のチャオプラヤー川とは運河で結ばれており、環濠内にも魚の骨の如く水路が築かれており、水の便には優れていたと思われる。 現況は、集落を囲んでいた濠はきれいに残っているが、土塁の形跡はほんの僅かに確認できるのみ。 この集落...
城跡めぐり【ビルマ軍砦(Khu Khai Burma)】
タイ王国シンブリー県平成28年1月23日登城。 アユタヤに侵攻したビルマ軍がこの地に駐屯していたという。 ナレースワン大王を祀る廟。その際に構築された濠と土塁の跡がいまに残る。 アユタヤ軍の逆襲に備えての構築物か? まさか水攻めを考えての堤防ではあるまい。 <所在地>...
城跡めぐり【城塞都市ペッブリー(Phetburi)】
タイ王国ペッブリー(ペッチャブリー)県平成28年1月9日登城。「宝石の町」を意味するペッブリー(ペッチャブリー)。昔この地を流れる川の底から宝石が見つかったことに由来すると言われている。一昨年この地を観光したが、前回は見逃した古寺に残る壁画を観るべく再度訪問。タイ国内でも有数の歴史のある町で、8世紀のドヴァーラヴァティー王国の時代には大きな集落が形成されていた。その後、9世紀から12世紀にかけてはナコーン...
城跡めぐり【城塞都市ナコーンシータンマラート(Nakhon Si Thammarat)】
タイ王国ナコーンシータンマラート県 平成27年12月6日登城。 バンコクから南に約800kmに位置するナコンシータマラート。タイランド湾に面し、3世紀頃から交易拠点が形成されたとみられている。 シュリーヴィジャヤ(室利仏逝)王国やドヴァーラヴァティ王国の勢力下におかれ、その影響で大乗仏教が信仰されていた。 12世紀頃、シータンマソッカラート王の下、ナコーンシータンマラート王国(タンブラリンガ王国)として独立王国...
城跡めぐり【城塞都市スリン(Surin)】
タイ王国スリン県 平成27年11月28日登城。 イサン地方の南部、カンボジアと国境を接するスリン県。 もともとのこの地の住民構成はクメール系とラオス系が多く、さらに少数民族スアイ族もおり、小タイ族はマイナーな存在。 それが小タイ族の覇権(スコータイ朝から現在に続くタイ王国)下に入ったのはアユタヤ王朝末期の頃。 当時この地を治めていたチアンプムという領主がアユタヤ朝から「プラヤー・スリンパックディー」という欽...
城跡めぐり【城塞都市ローイエット(Roi-Et)】
タイ王国ローイエット県 平成27年10月11日登城。 イサン地方のほぼ中央に位置するローイエット。 かつてサケートナコーンという都市には、11のムアン(衛星都市)とそれに続く11の門があったという。当時は「11」を「101」と記していたため、これがいつしか「ローイエット(101)」と呼ばれるようになり、今日の名前になった由。 ただ、古代から栄えていた都市はいったん廃れてしまう。 1713年、チャムサーパック(現在のラオス)...
城跡めぐり【環濠都市ナコーン・チャンパシー(Nakhon Jampa Sri)】
タイ王国マハサラカーム県 平成27年10月10日登城。 バーン・プラサートを見学後、途中フォンの辺りで昼食を済ませ、次の訪問地ナコーン・チャンパシーへ向かう。 古代都市ナコーン・チャンパシーのあったナダン(Na Dun)地区で 1979年土中より小さな仏塔が発見された。これを記念し、また仏教の教えを広める目的で、1985年 この地に仏塔(チェディ)を建てることに。 その大仏塔。 いまはマハサラカーム県を代表する観光地になっ...
城跡めぐり【環濠集落バンプラサート(Ban Prasat)】
タイ王国ナコーン・ラーチャシーマー県 平成27年10月10日登城。 土日の連休を利用してイサン地方へ1泊2日の旅へ。 途中、トムさんが寄ってみたらと提案してくれたのがバーン・プラサート。 発掘された遺物から、かつてドヴァーラヴァティー時代に集落があったところと思われる。 もっとも、この遺跡が有名なのは『地球の歩き方』にも出ている 2,000~3,000年前の人骨が発見されたことによる。 発掘場所は3ヶ所。 No.1発掘地点。 ...
城跡めぐり【ピスア(Phi Sua)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 今回のツアーの最後はピスア要塞。マハルーク要塞とはクームアンドゥーム運河を挟んで対岸に位置していた。 現在は花市場として有名なパーククローン花市場の辺り。 この花市場に隣接するチャオプラヤー川沿いには新た観光スポットが出来つつある。「YODPIMAN RIVER WALK」 スタバやマンゴツリー、雑貨屋などが入居するモール。 川風が気持ちいい。 「YODPIMAN RIVER WALK」から望むサ...
城跡めぐり【マハルーク(Maha Roek)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 タイ王国の名門女子校、ラーチニー(皇后)女学校。 1904年ワチラーウット王子(後のラーマ6世)が近代女子教育の必要性を感じて創立させた学校。初代校長には日本人女性の安井てつが就任、またその助手として河野清子と中島富子も渡タイし王族や貴族の女子に教育を施した。 いまも幼稚園から高校までの良家の女子が学んでいる。 マハルーク要塞はそのラーチニー女学校の場所にあった。...
城跡めぐり【マハヤック(Maha Yak)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 王宮とワットポーのある一角、ターティアン地区。マハヤック要塞があったと思われる地。 ビルマの脅威が薄れ始めた直後に廃棄されたのか、この地区は要塞というよりも王族の住む高級住宅街として有名だった由。 チャオプラヤー川に面して広々とした公園があり、要塞跡の雰囲気としてはそこそこ。 説明板のひとつもあって欲しいところ。 ただ、隣接するフェリー乗り場から市場にかけての...
城跡めぐり【プラチャン(Phra Chan)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 タイ王国の二大難関大学と言えばチュラロンコン大学とタマサート大学。日本の東大と京大か。 このタマサート大学のキャンパスがプラチャン要塞跡と思われる。 難関大学と聞き興味が沸いたので、タマサート大学についてちょっと調べてみた。 1934年、首相や元老などを務めた法学者プリーディー・パノムヨンによって創立された。 このプリーディーという御仁、20世紀のタイの歴史におい...
城跡めぐり【プラアシット(Phra Athit)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 ラーマ1世が最初に築いた新都バンコクは、チャオプラヤー川とクームアンドゥーム運河に囲まれた地域(ラッタナコーシン島)であった。 しかし、周辺からの人口流入が急速に進み、この初期ラッタナコーシン島はすぐに手狭になってしまい、徐々に東に膨張してゆく。その結果、掘削されたのがバンラムプー運河やオンアン運河であり、ここまではラッタナコーシン島と称していた。 プラアシッ...
城跡めぐり【イシントン(I-Sin Thon)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 チャオプラヤー川に面したインシントン要塞。 バンコクを取り巻いた14の要塞はいつ頃その役割を終えてしまったのだろうか。隣国ビルマを意識して造られた要塞は、その仮想敵国が衰えてしまえば無用の長物になってしまう。 王宮よりもチャオプラヤー川上流に位置するインシントン要塞は早い時期にそういう運命になったのかも。 この付近はいつの頃からか王族や高級官僚の邸宅街となった由...
城跡めぐり【マハプラップ(Maha Prap)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 マハカーン要塞の北西、ラッタナコーシン島の北面に位置していたマハラップ要塞。この辺りになると要塞が面する運河の名前はオンアン運河からバンランプー運河に変わる。 要塞はプラスメン通りが微かにくの字に曲がる付近にあったと思われる。 この工場がそうかな? 細い路地に入り、バンランプー運河に向かう。 運河の名前が変わったせいではあるまいが、悪臭はほとんど感じない。 要塞...
城跡めぐり【マハチャイ(Maha Chai)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 スワタヤン要塞の南 300~400m、マハチャイ通りとヤオワラット通りが交わる辺りにあったのでは類推。 この場所だとチャイナタウンに対峙するかのように築かれたとも思える。潮州系中国人のタクシン王を滅ぼして自らの王朝を開いたチャックリー家にとっては、華僑の動向にも気を許すことが出来なかったのか。 オフィスや商業ビルが立ち並ぶ。 周辺の変わり様はラッタナコーシン島内でも抜...
城跡めぐり【スアタヤン(Sua Thayan)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 今回のバンコク要塞巡りが可能となったのは、国立博物館に展示されていた1枚の地図。そこには王都バンコクを取り巻く14ヶ所の要塞が、かなり大雑把だが記載されていた。 この地図を参考に、現在に残る水路や道路の曲り方などから各要塞の跡地を類推、今日のツアーとなる。 続いてはオンアン運河沿いにマハチャイ通りを北上。 ロード運河とオンアン運河を東西に結ぶ水路がる。その東端にあ...
城跡めぐり【チャクペッ(Chak Phet)要塞】
タイ王国バンコク都平成27年9月27日登城。 かつてバンコクは濠と城壁に囲まれており、その城壁の要所には14の要塞が設置されていた。 現在これらの要塞で残っているのはわずかに2ヶ所、プラスメーン要塞とマハカーン要塞のみ。 その他は再開発されており、往時を見る影もないほど変わっているらしい。さはさりながら、多少なりとも失われた要塞の痕跡なり面影が感じられぬかと思い、そのうちの10ヶ所を訪問。 まず最初に訪れたのは...
城跡めぐり【城塞都市カンペーンペッ(Kamphaeng Phet)】
タイ王国カンペーンペッ県平成27年8月2日登城。 スコータイの南に位置するカンペーンペッは、スコータイ朝の重要な要塞都市として発展した。 「カンペーン(城壁)ペッ(金剛)」と称されるようになったのは、アユタヤ朝の頃と言う。スコータイ時代は「チャーカンラーオ」と呼ばれていたらしい。 ピン川東岸に拡がる町の規模は、南北2,200m、東500m、西250mメートル。今でも周囲を城壁と濠で囲まれている。 まずは、いまも大通りが...
城跡めぐり【スンセッティ(Thung Setthi)要塞】
タイ王国カンペーンペッ県平成27年8月1日登城。 スコータイからカンペーンペッまではクルマで1時間ほど。 車中でウトウトしていると運転席のトムさんが「ポム、ポム(タイ語で”要塞”のこと)」と。パッと目が覚め右側を観てみると、煉瓦積みの立派な要塞跡!! 事前に調べた限りではこんなところに要塞跡があるなんて把握できなかった・・・ 突然の、それもほぼ完全に原型を留める要塞の出現に驚きながら内部を見学。 縄張りは四角...
城跡めぐり【城塞都市スコータイ(Sukhothai)】
タイ王国スコータイ県平成27年8月1日登城。 13世紀に入りクメール帝国の勢力にも衰えが見え始めると、その支配下にあったタイ族は独立。タイ族による最初の王朝、スコータイ朝を開いた。 「スコータイ」とは「幸福の夜明け」という意味があるらしい。 現在、スコータイ歴史公園として整備されている王都は、東西1,800m、南北1,300mの四角形。周囲には三重に張り巡らされた城壁と濠の跡が残っている。 城壁内部の様々な寺院も興味が...
城跡めぐり【城塞都市チャリエン(Charien)】
タイ王国スコータイ県平成27年7月31日登城。 シーサッチャナライの東2kmほどの地にあるチャリエン地区。ヨム川が180度蛇行しており、川に囲まれたような土地。 スコータイ朝成立以前、この地にクメール帝国の拠点があったとみられている。 ヨム側沿いに残る城壁の跡。 クメール支配下の12世紀頃に築かれたものなのか、以降の時代のものなのかは不詳。 チャリエン地区の中心にあるワット・プラシーラッタナマハータート。 聳え立...
城跡めぐり【城塞都市シー・サッチャナライ(Sri Satchanalai)】
タイ王国スコータイ県平成27年7月31日登城。 スコータイの北方約60kmの地、ヨム川沿いにある旧軍事都市、シーサッチャナライ。 スコータイ朝時代、王都の周囲にあった4つ(他にピサヌローク、ピチット、カンペーンペット)の軍事都市の一つであり、スコータイの副王が統治する都市としてあった。 ラームカムヘーン王治世下には、中国から陶磁器の製法を導入し、シーサッチャナライ周辺で陶磁器産業(サワンカローク焼き)も勃興。 ...
城跡めぐり【城塞都市ピチット(Phichit)】
タイ王国ピチット県平成27年7月12日登城。 久し振りの休日ドライブ。 今回はスコタイ時代に栄えた軍事都市ピチットへ。 早朝6時にシラチャを出発し10時半に到着。トムさんかなりぶっ飛ばす。 そのピチットの歴史は・・・ 1058年、プラヤー・コータボンテーラワラート(Kotara Bong)によって建設された。この時は独立したムアンだったと思われるが、その後、タイ族による最初の巨大王国スコタイが勃興しその属国となる。 スコタイ...