高野山ネタが続きます
高野山に着て最初に見たかったのが「生身供」です。
6時30分と10時30分の2回、御廟で「入定」後いまだに修行を続けていると言われている弘法大師へ毎日かかさず食事を届ける法要です。今回の高野山ツアーも10時30分のこの法要を見たいがために朝早く姫路を出発しました。
10時30分、まず食事が運び出されて、お堂の傍の「嘗試地蔵(あじみじぞう)」で食事を毒見をします。
もう1,000年以上も毎日毒見をされているお地蔵さん、大変ですね
その後弘法大師のいる御廟へ向かいます
御廟に続く橋の手前で一礼
この生身供で先導として歩くのは「維那(ゆいな)」と呼ばれる空海の世話役を代々務める僧侶です。
現在の御廟の中にいる空海の模様は代々維那で他言した人はおらず、そのために現在でも生前と同じ姿で座っているのか、代わりに木像があるのか、何もない神聖な空間に食事を届けたり、引いたりしているのかこの維那以外誰一人知らないといわれています。毎年御廟内にいる空海の衣替えをするのもこの維那の役目です。
で、空海は本当に生きているのだろうか?
弘法大師信仰を信ずる者なら生きて今もなお奥の院の御廟の中で修行を続けていると信じたいし、現実的には「そんなことない」と思うのも一理。
「空海の風景」のあとがきで、作者の司馬遼太郎が、
「‥‥本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。」と語っています。
私が思うのはやはり空海はゼロであり、しかも無限なのかもしれません。
つまり「枠外し」。この一言で表現していいものなのか解りませんがそれ以外思いつきません。
だから現在の空海が(実態として)生きているのか、ミイラになっているのか、無くなってしまっているのかなど考えること自体、「野暮」なのかもしれません。
高野山の言う「入定」。その言葉の意味がほんのちょっと解った気がします‥。
- 2017/07/15(土) 22:39:12|
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高野山の壇上伽藍にて
大鐘の「高野四郎」
鐘が造られたときは日本で四番目に大きかったため、名付けられたとききます
今回の高野山ツアーでは、是非この鐘を撞いているシーンを見たくて、鐘を撞く時間を調べて壇上伽藍に来た次第。
鎖で逆方向から引っ張って撞くとは…なるほど
このお坊さん、鐘を撞くたびに振り向いて何かしている
急いで対角線上にある金堂に上がって同じ高さから200㎜の望遠レンズで狙うと…
小石(?)あるいは囲碁の石らしきものを動かして、鐘を撞いた回数を数えていたのか
鐘を撞く回数を忘れたらエライことになりますもんね
「六角経堂」
最下部の「取っ手」がいくつかあります
この取っ手を掴んで、経堂を廻すと経典を一回読んだ事と同じ功徳があるという
滋賀県の三井寺(園城寺)にも同じようなお堂がたしかあったぞ…
時計回りに一周廻しました
それを後ろで見ていた外国人家族の子供が、私のように嬉しそうに廻していました
その後「三鈷の松」の下で「三本の松葉」を探す
三鈷の松とは、空海が中国から投げた三鈷(密教の法具)が引っ掛かった松で、その松葉は三本あるという。それを見つけて懐に入れておけばお守りになるという。私は必死で10分ほど探しましたが結局1本も見つからず。傍で同じように探していたオバサンの集団が「私これで3本目や、財布に入れておこう」なんて嬉しそうにはしゃいでいました、まだまだ私には功徳が足りないのか…
壇上伽藍は空海が、伽藍における塔やお堂の配置で、曼荼羅の世界を地上の空間に再現したと言われている。
この地で滞在していると何か空海の掌の中で包まれているような安心感を感じる…
壇上伽藍、イイネ~
- 2017/07/15(土) 09:30:33|
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平日休みを利用して観戦して来た
私の母校はブロック分けの関係で、姫路から遠く離れた球場で試合が組まれているので、全く関係ない高校同士の試合ですが近所の姫路球場へ見に行きました。
試合前グランド整備、白線を慎重に引く人、それを見守る師匠。といった感じか
ベンチ前の掛け声も笑顔で
炎天下の中で頑張っています
天気予報では一日中曇だったが、球場へ行ってみると晴れ。梅雨がまだ明けていないのにね…
写真を撮る時だけ陽の当たるバックネットまで降りてきて。それ以外は殆ど屋根のある客席の最上段で観戦していました。
最上段は風が吹き抜けて心地いい、主催の朝日新聞社の旗がたなびいておりました。
長期休みを利用して、もう一回くらいは観にこようかな
- 2017/07/14(金) 08:55:14|
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高野山の宿坊は「密厳院」という寺院でした
到着した時は陽が暮れかかっていました
高野山の宿坊は噂に聞いていた通り、エアコン無し・冷蔵庫も無し、部屋ごとのトイレや浴室ももちろん無しなど、装備はシンプルです、まさに「激シブ」。
カレー界には「激辛」があるように宿泊界にも「激シブ」があるなら宿坊はまさにそれに当てはまると思う。TVも一応ありましたが、私は付けませんでした。こういうところでは一人静かに過ごそうと思い、一冊の本を持ってきたのでした。
それは日本文学、夏目漱石の「こころ」
小説の好きな友人から「あの小説は難しい」と言っていたのを思い出し、それを読んで過ごそうかと思い、中古の文庫本を買ってきて、わざとカバーを外してリュックの中に放り込んでいたのでした。シブい部屋でシブい小説を読んで、いかにも「旅先の宿で静かに過ごす」なんて昭和の雰囲気を出そうとフェチな私は考えていたのでした
しかしその時私はミスを犯していた
「あっ、老眼鏡持って来るの忘れた!」車の中には車内でナビを操作する緊急用に一個ありますが、度が今の私の視力に合っていない…仕方なしに裸眼で読み始めましたが、やはり見難く数ページ読んだだけで頭痛がしてきた…
シブい部屋でシブく過ごそうとする計画は早くも終わって、やっぱりTVのスイッチを入れることに…
朝のお勤めは勿論参加しました。参加したのは私と若い女性の合わせて二人だけ。宿泊者は私以外に外国の家族やオッサン達のグループなどたくさんいましたが結局2名だけ。御住職が20分ほど読経したあと、簡単な法話で終わり。しかし読経したお経が分からない。普通は般若心経や観音経が一般的ですが、今回のお経は私は聞いたことが無い。
宿坊をチェックアウトする時、ご住職が居られたので訊いてみると
「理趣経です」と…
空海の時代、内容が性的な境地も清浄であるという誤解を招きやすい内容なので「門外不出の経典」まで言われた理趣経が朝のお勤めで聴けるとは…貴重な体験でした
お勤めが終わって部屋に帰ってきたら朝食が運ばれてきました、勿論「精進料理」です。
食事が終わって箸袋の裏を見る。
精進料理やお寺で出される箸袋の裏には結構「為になるお言葉」が書かれていたりする
1.一滴の水にも大地の恵みがこもっております
2.一粒のコメにも万人のちからが加はっております
ありがたくいただきましょう
いい言葉だこの箸袋を「ゲットだぜ」しました
チェックアウト時にご住職に「時々この言葉を読み返そうかと思って箸袋を頂きました」と告げると、ニッコリ笑ってくれました
初めての宿坊、シブく過ごしたかったけど貴重な体験ができて良かった!
- 2017/07/13(木) 15:36:45|
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昨日から高野山へ行って来て先ほど帰ってきました
とりあえず奥の院での写真を幾つかアップします
やはり石仏中心に撮っていました(石仏フェチだから仕方ないか…)
優しい観音さんの手
石仏中心に撮っていると遠くからテレビクルー達がやってくるのが見えた
よく見ると見覚えのあるメンツが…
なんと「ブラ〇モリ」ではないか!
「ブラ〇モリ」って高野山やってなかった?一度見た覚えが…
とすると2回目の訪問か?
慌ててシャッターを押したのでブレまくり
私が好きな近〇アナは写っていましたが、肝心の〇モリさんはスタッフの陰で映ってなかった…
すれ違う時にちらっと見たがやはり〇モリさんは小さいけど(失礼)存在感は凄かった…
さあ今から撮ってきた写真の整理です
500枚以上は余裕であるから、大変だ…
- 2017/07/12(水) 19:39:02|
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私の長期休みがは始まりました。
勤続35年のご褒美で会社から8日間の特別有休を頂きました
会社のボスからは「休みに入るまでに溜まった案件は済ませてね」との指示でここ数日は帰りが遅くなり、家に帰ってからブログどころかパソコンに中々向かい合うことが出来ませんでした…
長期休みに入って早速出掛けてきました
姫路市の東隣、加西市北条町こにある「五百羅漢」
慶長年間から江戸時代にかけて、一体だれが何の目的で約450体もの石仏を置いたのか詳しくは分かっていません。
素朴な表情の石仏が並んでおり、昔から「死んだ親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢に御座れ」と言われてきたそうです
羅漢さん以外にもグッとくる石仏もたくさん
このお地蔵さん、イイ!
怖い表情で頭に竜を乗っけておられれる…「火天」さんかな?
慶長年間の宝篋印塔
守る狛犬(?)をよく見ると、虎のように見える
虎ように見えるではなく、彩色(背中の紋様)を見ると完全な虎ですね
蒼いモミジ
今度は紅葉の時期に訪れてみよう
こんな感じで始まった私の長期連休
明日はいよいよ一泊で高野山の宿坊に泊まりに行きます
その後は高校野球の地方大会も観に行きたい…
カメラ片手にアッチコッチ行きまくります
- 2017/07/10(月) 12:16:52|
- 写真散歩(兵庫県)
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梅雨らしくなってきました
雨が降ったら涼しくなって、止んで晴れたらめっちゃ暑くなる
この繰り返しで体が滅入ってしまいそうです
こういう時は涼しい写真を見て気分だけでも清々しくなりたい
幕末の京都、大政奉還を発案し土佐藩を通じて将軍徳川慶喜に内説し歴史を動かした坂本竜馬。
その竜馬が大政奉還直後に暗殺される。誰が暗殺したのか?現在の有力な説は、佐々木唯三郎が率いる「見回り組」という説。私もそれを支持します。
大政奉還直後、京都の二条城にいた徳川慶喜は、誰から聞いたか坂本竜馬の名を知った。そして反幕側で唯一非戦論者で、大政奉還の立案者であることも知った。慶喜にすれば敵見方を越えて唯一「同志」を見出した思いがあっただろう
「土州の坂本竜馬には手をつけぬよう、新選組・見回り組の管掌者にはよく注意しておくように」と幕臣の永井尚志に指示する。永井にとって竜馬は、敵である「反幕の志士」ながら日本の将来について同じ思いの者同士。竜馬は暗殺される寸前まで永井の屋敷に出入りしていたのであった。翌日永井が出仕したところ机の上に紙切れがあって「昨夜、坂本竜馬を暗殺した」と踊るような書体で書かれてあった
「遅かったか…」
永井は落胆したことだろう
実は永井の京都屋敷と竜馬の潜伏先(近江屋)の道中に見回り組の宿舎があったのだった。永井の屋敷に足蹴に通う竜馬の姿を佐々木は見たことであろう…これは竜馬の不覚としか言いようがない
非戦論者である竜馬が暗殺されなければ、幕府を倒す鳥羽伏見の戦いはおこらなかっただろう。おきても遅くなったか別の形になったはず…
竜馬は旧幕府勢力も新政府に参加させるプランを練っていて、雄藩連合と朝廷のみで新政府を目指していた西郷・大久保の薩摩には悩みの種だった。だから一時は薩摩藩も暗殺の黒幕かと疑われた時期もあった。
ではその後、竜馬暗殺集団を率いた佐々木唯三郎はどうなったのか…
かれはその鳥羽伏見の戦いに参加して、銃弾を喰らい退却。その傷がもとで紀州の三井寺で死去する。銃弾は腰骨に刺さったままだったそうな…当初は従者を200人引き連れていたが、やがて散り始め、死ぬ間際は20人程度しか残らなかったそうな。
「あの時竜馬を殺らなければ…」なんて唯三郎は思わなかっただろう
大政奉還の立役者で、幕府側の生き残りを考えていたプランナーなんて知る由もない
しかし竜馬を暗殺したことによって自身の死期が早まったことだけは事実だった
雨が降るから、晴れると余計暑く感じる
竜馬を暗殺するから見回り組を管掌する幕府の壊滅時期が早まる…
これも巡りあわせか…
う~ん、今日の日記は無理やり「こじつけた感」が満載だなァ
今日も雨が止んだら暑かった…
- 2017/07/01(土) 21:58:21|
- 歴史
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