原爆投下後「空白の10年」 苦難乗り越え、日本被団協結成へ
2人の「先生」
「あの2人がいなければ今の日本被団協はなかっただろう。彼らも表彰されるべきだと思っています」。
12月10日にノルウェー・オスロで開催されるノーベル平和賞の授賞式。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の一員として参加する代表理事の田中聡司さん(80)=広島市=は、上着のポケットに2人の遺影を忍ばせ、受賞の喜びを分かち合いたいと考えている。
その1人は1956年に結成された日本被団協で、初代代表委員を務めた哲学者の森滝市郎さん(01~94年)。もう1人は活動の土台をつくった初代事務局長、藤居平一さん(15~96年)だ。
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かつて中国新聞の記者として2人を取材し、藤居さんの葬儀では弔辞を読んだ田中さんは「森滝さんは誠実な人柄で被爆者運動を先導し、日本被団協の先人中の先人だ。藤居さんは情愛豊かな人で、(原爆の被害者に)生きる励みを与えた。2人とも周りから尊敬の念を込めて『先生』と呼ばれていた」と思いをはせる。
広島で被爆し、右目の光を失いながら原爆孤児の支援に尽力した森滝さんは、後に「核と人類は共存できない」との言葉を残した。核実験があるたびに平和記念公園(広島市)の原爆慰霊碑前で抗議の座り込みをするなど、日本被団協の象徴的な存在だった。
原爆で父と妹を失い、戦後は広島で民生委員を務めていた藤居さんは、「まどうてくれ(広島弁で『元通りにしてくれ』の意味)」と訴え、国家補償としての旧原爆医療法の制定に執念を燃やした。
日本被団協の黎明(れいめい)期を支えた2人。その結成に至るまでには、壊滅的な被害を受けた被爆地で立ち上がった人々の苦難があった。
被爆者への施策なく
戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)はプレスコードを発令し、広島と長崎の原爆被害の報道を厳しく規制した。国による被爆者の医療施策は全くなかっ…
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