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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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原爆投下後「空白の10年」 苦難乗り越え、日本被団協結成へ

森滝市郎さんや藤居平一さんの写真を手に思い出を語る田中聡司さん=広島市西区で2024年11月23日午前11時31分、安徳祐撮影
森滝市郎さんや藤居平一さんの写真を手に思い出を語る田中聡司さん=広島市西区で2024年11月23日午前11時31分、安徳祐撮影

2人の「先生」

 「あの2人がいなければ今の日本被団協はなかっただろう。彼らも表彰されるべきだと思っています」。

 12月10日にノルウェー・オスロで開催されるノーベル平和賞の授賞式。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の一員として参加する代表理事の田中聡司さん(80)=広島市=は、上着のポケットに2人の遺影を忍ばせ、受賞の喜びを分かち合いたいと考えている。

 その1人は1956年に結成された日本被団協で、初代代表委員を務めた哲学者の森滝市郎さん(01~94年)。もう1人は活動の土台をつくった初代事務局長、藤居平一さん(15~96年)だ。

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 かつて中国新聞の記者として2人を取材し、藤居さんの葬儀では弔辞を読んだ田中さんは「森滝さんは誠実な人柄で被爆者運動を先導し、日本被団協の先人中の先人だ。藤居さんは情愛豊かな人で、(原爆の被害者に)生きる励みを与えた。2人とも周りから尊敬の念を込めて『先生』と呼ばれていた」と思いをはせる。

 広島で被爆し、右目の光を失いながら原爆孤児の支援に尽力した森滝さんは、後に「核と人類は共存できない」との言葉を残した。核実験があるたびに平和記念公園(広島市)の原爆慰霊碑前で抗議の座り込みをするなど、日本被団協の象徴的な存在だった。

 原爆で父と妹を失い、戦後は広島で民生委員を務めていた藤居さんは、「まどうてくれ(広島弁で『元通りにしてくれ』の意味)」と訴え、国家補償としての旧原爆医療法の制定に執念を燃やした。

 日本被団協の黎明(れいめい)期を支えた2人。その結成に至るまでには、壊滅的な被害を受けた被爆地で立ち上がった人々の苦難があった。

被爆者への施策なく

 戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)はプレスコードを発令し、広島と長崎の原爆被害の報道を厳しく規制した。国による被爆者の医療施策は全くなかっ…

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