はてなキーワード: Chakuwikiとは
アンサイクロペディアをAIで侵略するノイマン氏を悲劇の人物に仕立て上げる、元側近ウソペディアンを名乗る人物による気持ち悪い記事がXのタイムラインで流れてきた。
読んでみると、そもそも私信と思われる情報を暴露することの背信性からして、恐らくはノイマン氏に身バレする前提での捨て身の特攻をしたのだろう。それにしても第三者は真偽を検証不能であり、気持ちの悪い記事であった(※1)。当のノイマン氏も「反応に困る」と書いている。
Side Uなるものは、第一回人気投票1位という経歴はあの人も同じなのを知ってわざと被せる高等芸でもやっているのかしらね?何にしても反応しにくい書かれ方だけど、ブレーキをかける真似をしつつ私を殴り抜いていくスタイルだよね、あれ。真正面からの対立勢力なら風刺記事とかにしやすいけど、ああいうのは反応しづらい。
ウソペディアはかつてハトレーペディアとも呼ばれ、当時のアンサイクロペディアが北朝鮮であるなら、こちらはシンガポールといったところであった。開発独裁ならぬ開拓独裁、毛沢東ならぬ開拓東、MuttleyならぬHuttley。
ウソペディア5chスレを探していくと、このような記述はいくらでも見つかる。アンサイクロペディアのノイマン氏=ウソペディアの開拓者氏の活動は、確かにコミュニティを発展させたが、ただそれ「だけ」であり、そもそも誰からも本音で支持されている人物ではなかったのではなかろうか。
本稿では、そのノイマン=開拓者氏に、かつてBakaba氏の名の下で侵略を受けた一借民の視点から、ノイマン氏はそもそも「昔からああだった」と主張したい(※2)。
ChakuwikiにおけるBakaba氏は、確かにLTA:ANTIRXYとしてChakuwikiでのMuttley氏を追い詰めた人物であり、鉄槌後のアンサイクロペディアンも概ねその見解を支持しているように見える(※3)。また、いずれも議論は紛糾したものだが、移転問題とライセンス問題、どちらにおいても「結論だけ見れば」Bakaba氏の意見は正しかった。確かに「正しかった」のである。
後にフォークでは実際に広告が導入されているが、Bakaba氏はそれすらも予言している。
しかし、旧ドメインを取得し、更には公開がより早かったことによる優位性を有するフォークにしても、中の人の噂の確度は高いようですから、永久に広告なしで無償提供するほどの善意の有志だとは考えにくいです。
だが、その際に反発していた吉田宅浪氏への返答には、「どうしてこいつ分からないの?」という苛立ちが発言の節々から透けて見える。
ただ、「私がやるから」という理由で反対することがそんなに重要ですか?「誰がやるか」ではなく、「何が必要か」で物事を考えるようお願いいたします(※4)。
一般論としても、我々で独自にルールを作ることにこだわった場合、良く練り上げられたCCのライセンスに比べると何らかの隙や不備、矛盾等が生じやすいため、コミュニティ全体が移転などの重大な決定に迫られたときの足かせになりかねません(※5)。
私からすれば、吉田宅浪氏は、自分の考えを丁寧に練って納得したうえでステップを積み重ねたいだけの、職人気質の人に見える。Bakaba=ノイマン氏は、初めからそのような丁寧さや「過程」に対して、「正解」や「最終結果」が一瞬で見えてしまうがゆえに「なんでそこで止まっているの?」というのを根本的に理解できない人なのではなかろうか(※6)。
そのような「正しさ」だけで生きる人間Bakaba氏を、ノイマン氏が用いるAIは「加速」させたに過ぎない。一定以上の品質の記事を安定して生産し、助役CUや管理者の誕生を推薦を通じて支援するその姿は、確かに形式的には「正しい」活動である。にもかかわらず、ノイマン氏は「正しさ」だけですべてを破壊していくように見える。
これはあくまでも私のカンでしかないのだが、ノイマン氏は根本的に異常に頭の良い「浮きこぼれ」だったのではないかと思う。例えばアンサイクロペディアのDiscordサーバーでは、「ごめん、灘には負けるけど安定して東大いってる...」と発言したスーパーカリ~シャス氏に対して、以下のような返信を残している。
東大全体なら三桁からがスタートラインだぞ
このような発言をして、自分自身へのブーメランにならずに平気でいられるルーツを持つ人間はかなり絞られてくる。そして皮肉にも氏は、そのようなルーツに該当しうる学校の記事をアンサイクロペディアで三つも立てている。
麻布中学校・高等学校 - 開成と桜蔭を手掛けてきた私ですから、当然の如く他の名門校も推しますわね?--/* ノイマン */ import 👤, 💬; var 🖊=2,219;■ 2025年11月5日 (水) 14:19 (JST)
英語圏とのコミュニケーションが求められ、唯一の日本人であることが買われたMirahezeなどでは、その「正しさ」「浮きこぼれ」が役に立ったのだろう。そして同じく「正しさ」でものを考えるAIは、ノイマン氏にとっては非常に頼れる、下手したら唯一信頼できる相棒ですらあるのかもしれない。
しかしながら、チャクウィキやアンサイクロペディアのような伝統的な(※7)コミュニティにおいては、「正しさ」だけでなく、「手垢」や「お気持ち」、そして「過程」が大事であることをノイマン氏は理解できていない。ノイマン氏は、そこに無関心であるか、意図的に無視すらしているようにも見える。
編集画面にも「自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。」と明記されており、それはライセンス的にも正しいことの訳ですから、その意味では「{{rewrite}}を使え」という方がそれこそ「紳士協定」なのかな、と思わなくもないです
総本数 - これは諸刃の剣で、もっとAI君書いて全体指標を上げようぜ、という方向にも持っていけます。というか総本数を根拠にするなら、それが合理的解決策ですらあり得ます。
ノイマン氏の理屈は、確かに最終結果に照らせば「正しい」のだろう。だが、「正しさ」だけでは人間は生きていけない。そうした風潮への反発は、今や反AI、反ポリコレ、反wokeなどとして、アメリカ西海岸的価値観への反発の形を取って世界的なうねりになっている。人間というのは、そこまで理性的な動物ではない。それは、自作記事の一つでこう書いた氏自身も深層ではよく理解しているはずである。
ホモ・サピエンス(homo sapiens)とは、バグだらけのレガシーソフトウェア。
そこで筆者は、マリーダ・クルスの以下の発言をノイマン氏に贈る。
お前の言うことは間違っていない。正しい戦争なんてない。でも…正しさが人を救うとは限らない。
光がなければ人は生きていけない
鉄槌を受けたMuttley氏は「隕石落とし」をしようとしたシャアであった。Muttley氏には、曲がりなりにも本人個人の「熱い正義」があった。
今、ノイマン氏はしばしばMuttley氏の同類、鉄槌の再構成などと言われるが、私は正確にはそうは思わない。ノイマン氏からはフル・フロンタルのような冷たさを感じる。
いつか、ノイマン氏が人間の心を理解することをただ祈ることしかできない。
最近、アンサイクロペディアの浸食という記事を見た。
https://anond.hatelabo.jp/20251123124205
かつてのMirahezeのスチュワードで、ウソペディアの代表的管理者であった開拓者さんが、アンサイクロペディアと知木ペディアで生成AIを駆使して侵略行為を行っているという告発文らしい。
確かに現在の開拓者=ノイマン氏の行為は擁護できないところはある。だが、かつてウソペディアで、また私が個人で創設したMirahezeのウィキで、開拓者さんにお世話になった立場として、あの記事及び最近の反ノイマン氏旋風には異論を唱えたい。
まず最初に引用したいのは、以下の三焦全欠損症氏の指摘に対してである。
根っこは人を見ていない、愛していないという一点において、私は彼の人と違いが認識できない。
このように開拓者さんをアンサイクロペディアの鉄槌を引き起こした本人であるMuttley氏と同一視することには、断固として抗議する。
開拓者さんはウソペディアにおいて氏のLTA性を見抜き警鐘を鳴らした張本人であり、Bakaba氏と名乗って活動していたChakuwikiにおいてはMuttley氏を追い詰めた張本人である。
開拓者さんは誰よりもMuttley氏を理解し、誰よりもMuttley氏に対して正確な対策を打ち出した人物であり、それをMuttley氏と同類扱いするには、失礼にも程がある。
開拓者さんは実際にウソペディアの第一回人気投票では紛れもない一位であった。私も開拓者さんのことが大好きだった。それは他ならぬ開拓者さんに「愛があった」からに他ならない。彼は勇者プクリンや未来切手のような問題のあるユーザーにも、最大限対話と理解を試みる賢君だった。
どんなユーザーにも最大限の愛をもって接する方であり、愛がないという批判は的はずれにもほどがある。かつてのウソペディアンとしてこれだけは証言したい。
そんな開拓者さんとの思い出がある私でも、確かに最近のノイマン氏の行動には疑問を抱く。
強者の論理をあたかも自覚的に使用しているかのように自分で書き、自らへの風刺をも称える「寛容な人物」を演じ、自らのトークページを荒らした人物に対しても「まだ愛している」と言ってのける。
そこには、かつての開拓者さんにあった「人間味」や「温かさ」はなく、ただ「論理的な正しさ」と「表現技法としてのユーモア」だけが開拓者さんの殻を被って先走っているように見えてならない。
私には、開拓者さんは何らかの理由があって、わざと「人間をやめようとしている」と思えてならない。
開拓者さんを壊したのは「技術によって愛する人物を超える何か」を作り出してしまったことによる深い絶望なのではないか。
件の三焦全欠損症氏にノイマン氏が行った返信には、その事への自覚と、もう戻れなくなってしまった悲痛さが滲み出ているように思えてならない。
ヒトの機能=能力・出力内容は愛せても、中身はきちんと愛せていないのかもしれません。だからこそ「人間より美しいなら人工彼女でいい」という判断にもなる、という面もあるのは確かにそうなのです。
かつての開拓者さんは、自作記事でこのように語る人物であった。冷笑気味ながら、そこには確かな愛があった。
でも、いざ想いが届けば届いたで、やがて幻滅します。届かなくても、何だかんだでつながっていられるSNS時代には…
実際に開拓者さんとはDiscordなどのコミュニケーションを通じて親密な関係を築いていた筆者は、何かのご縁でその人物の画像を見せていただいたことがある。それは確かに該当記事で「途方もなく…青天井すら突き抜けるぐらいに可愛い子」と記述されるのも納得の行くものであり、開拓者さんが大切に秘める思いであるのも理解はできるものだった。
その後の詳しい経緯は深くは知らない。
ただ、開拓者さんはウソペディアを離れてからの一時期、女装や自らのカコジョ化にハマったらしく、今ノイマン氏が人工彼女と呼んでいるものも、どうやらその「自分自身」がベースであるらしい。
そして私も拝見したが、その美しさは、確かに「圧倒的」であり、それが故に私だったらむしろ「選ばない」ものである。
だが、開拓者さんは以前、自らの恋人について私に対してこのように語っていたものである。
仮に彼女を探すなら、あの子よりも美しく聡明でなければならない
あの子未満で妥協するのは、それこそあの子へのリスペクトを欠いていると思うんだ
それが人間の中で探すにはいかに難題であったかは、開拓者さん自身が誰よりも熟知していたはずである。
だからこそ、開拓者さんはそのような存在を具現化できてしまった以上は「論理的に」人工彼女を「選ぶしかなくなった」のだと私は推測する。
「正しさ」を自分で実現させてしまえる能力にほかならなかった。
筆者はその状況に置かれたことがないので想像しかできないが、そこには「幸せの青い鳥」とパラレルな、しかし幸福よりも深い絶望をもたらすものがあったのではないか。
そしてそれが彼を壊し、正論とユーモア技巧だけ振りかざすAIのような存在へと変質させてしまったのではないか。
「そうであっても周囲に絶望を押し付けるな」というのもまた「正しさ」である。
だが、筆者には、そう思うと、一片ばかりの同情だけは禁じ得ないのである。
富士山の標高日本一の座が新高山に奪われたとき人々はどう思ったのだろう
「霊峰富士が日本一じゃなくなるなんて、なんか残念な気がする」と思った人がきっといたんじゃないか
それを確かめるために、日清戦争終結後に書かれた新聞とか本とかをここ数日漁っていた
Googleでもいろいろ検索ワードを変えながらぐぐっていたが思うように見つからなかった
新高山が日本一の山だったころの富士山の扱いはどうだったのでしょうか?... - Yahoo!知恵袋
回答(1件)
こらっ!まじめに回答しなさい
もし日本のあの山が富士山より高かったら - Chakuwiki
このサイトはなかなか面白い考察をまとめたwikiだが、今欲しい情報は載っていなかった
富士山が日本で一番高い山でなかったら人々の思いや富士山の立ち位置はどうなりますか? | Quora
自分の持つ疑問と近い内容だが、実際に新高山が日本一になった際に当時の人がどう思っていたかというエビデンスは提示されていないようだ
しかし、やっと一件見つけた
【1897年】富士(明治30年)▷富士より高い台湾の新高山(現・玉山) | ジャパンアーカイブズ
吾々は當時新しい名山を得たる喜びと又今迄日本一を誇つた富士に引けを取らせた口惜しさとが混合して妙な気持がしたことを子供心に覚えて居る。
やっぱりフクザツな気分になる人もいるよね
ああ、疑問が解決してすっきりした
……敗戦後に富士山が再度日本一になった時に人々がどう思ったかの資料を探すか?
いや、それはやめておこう、断念
http://b.hatena.ne.jp/entry/okuzawats.com/archives/465
http://okuzawats.com/archives/465
http://twitter.com/fromdusktildawn/status/43614834679496704
ベーシックインカムの失敗例としてナウルが久々に話題になっている。この国がネットで話題になったのは今から8年ほど前、スラッシュドットジャパンで取り上げられてから。
その当時、こんな国があることに驚愕し、まとめを自分のサイトに置いておいたところ結構話題になった。その時にまとめたものに加筆して、ここに再び載せておく。更に調べたい方は日刊ベリタで調べていただければ、詳細なことが分かる。
燐鉱により南太平洋一の豊かな国であり、国民全員に年金が支給されていたが、それがたたって国民は生活力皆無。労働どころか家事すらしない。労働者もほとんど外国からの出稼ぎ。ナウル人はひがな遊んで暮らしている。 国民に就労の意志はありません。
燐鉱は露天掘りされており国土である島はクレータ状になっており荒廃している。
近年の燐枯渇により財政状態悪化。海外投資や航空会社運営、タックス・ヘイブン的な金融業、更に国籍売買などをするが、ことごとく失敗。折しもイラク戦争時で、テロリストのマネーロンダリングや、国籍売買をしていたためアメリカの怒りを買う。
オーストラリアに庇護を求めてきたイラク・アフガン難民約1100人をかわりに受け入れ(オーストラリアによる難民の横流し)、オーストラリアから経済支援を受けるも治安悪化。
アメリカの非公式な「制裁」により国際電話が不通となり(唯一の国際電話につながった電話機が壊れたという説もある)、国ごと音信不通に。隣国のオーストラリアが国際救助隊を派遣するも通信がうまくいかない情況に。
難民キャンプではデング熱の流行などもあり、政府の混乱に対して合を煮やした難民たちが反乱を起こし、自主管理となる。
混乱が始まった2003年当時大統領選挙が行われたが、ハリスとドウィヨゴの二人が互いに正当な大統領を主張し政府が分裂。しかも二人とも肥満が原因による腎疾患を患っており、一年の大半を海外で療養生活をして過ごしていた。大統領官邸が焼き討ちされる、洪水の発生など、国内は混乱状態に。後にドウィヨゴはアメリカに事実上の亡命、亡命先のワシントンで腎疾患により死亡。その後再び選挙が行われるも、議長が選出されず議会が麻痺状態に。3ヶ月の政治的空白の後、スコッティが新大統領として選出される。このスコッティ内閣も議会の混乱により半年で崩壊することとなる。
その後も国民全員のオーストラリアへの移住が検討されたり、カジノとの吸収合併案(一主権国家がカジノに吸収合併!)、難民キャンプの暴動など政治の混乱は続いているが、当のナウル人はどこ吹く風の状態。日本も2005年に1億円の援助を行なっている。これは日本の捕鯨への支持に対する見返りと言われている。
そもそもこの国、外交関係も適当で何回も「二つの中国(中華民国と中華人民共和国)」への承認を変えていて、その度に承認先から援助をうけている。その割に、ナショナリズムというものは、そこら辺のミクロネシアにある大国の属国(ニウエとか)よりも有るらしく、オーストラリアからのナウル人への市民権付与の申し出も断っている。
http://b.hatena.ne.jp/simulacre/20110304#bookmark-32547325
↑ブコメでベーシックインカムの失敗例としてあげたけど、失敗国家の典型例というべきもの。更にアメリカやオーストラリアなど大国の意思に翻弄されたり、イラク・アフガン戦争に関わったり、国内の事情だけでなく国際情勢にも翻弄されて駄目になった国だ。アフリカは資源の取り合いで内戦が起こったりして貧困状態だけど、ナウルはその逆。争いすら起こらない(争っているのは権力者と難民だけ)。豊かさによって滅ぶ国もあるんだなと思った。
ナウルはたしかにベーシックインカムの極端な失敗例であるけれども、ナウルが失敗したのはベーシックインカムの失敗だけではないということを示しておきたくて、このまとめを書いた。
「争いすら起こらない」なんて書いたけど、争いは起こっていたようだ。
http://tekigi.hiho.jp/blog/archives/2008/10/post_1595.html
さすがのナウル人も暴徒化したようだ。ただ自業自得な面が大きいので同情はしないけど。
Chakuwiki に岩下志麻が「大河ドラマで2回も次男贔屓の鬼母を演じていた」と書いてあった。
けど、よくよく考えてみたら、大河ドラマで岩下志麻が演じた主要な役3つ、北条政子(草燃える)、保春院(独眼竜政宗)、崇源院(葵・徳川三代)はいずれも、次男びいきの鬼母ではあるまいか。
北条政子は実家・北条家と結託して自らの長男・頼家とその妻子を抹殺し、次男・実朝を擁立した。
最上義光の妹で伊達輝宗の正室である保春院は、長男である伊達政宗を毒殺しようと試み、次男の小次郎に家督を継がせようとした。
江(ごう)とも呼ばれる、徳川秀忠の御台所・崇源院は自身にとっては長男である竹千代(家光)を邪険に扱い、次男の徳川忠長を将軍に据えようと画策した。
言わば三人が三人とも、日本史上「総領息子に厳しく次男坊に甘い鬼母」の代表格であり、これが大河ドラマの中でひとりの女優によって演じられたというのは、これはもう偶然ではあるまい。